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第1次世界大戦およびその前後FAQ

◆Sites
「DBE32」:第1次世界大戦の最後の元ドイツ兵が死去 107歳
Encyclopaedia of the First World War(英語)
The Aerodrome(英語)
The Western Front Association(西部戦線)
The World War I Document Archive(英語)
「第1次大戦」(総合,相互リンク)
「ワレYouTube発見セリ」:World War 1 British Tank Footage
「ワレYouTube発見セリ」:WW1 - Hell in the Trenches
「小独裁者たち 両大戦間期の東欧における民主主義体制の崩壊」(A.ポロンスキ著,法政大学出版局,1993.2)
「大戦間期の東欧」(Joseph Rothschild著,刀水書房,1994.10)
◆◆俘虜収容所関連
『青野原俘虜収容所の世界』(大津留厚他著,山川出版社,2007.10)
第一次大戦中,松山,習志野と並びドイツ人俘虜が収容された兵庫県の青野原収容所の実情について触れた本.
この収容所で特徴的なのは,その収容俘虜が,帝政ドイツではなく,二重帝国軍兵士だった事で,複雑な立場に置かれた事.
本書では,俘虜生活の他,二重帝国の相剋についても触れている.
―――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月24日20:27
『鉄条網の中の四年半 坂東俘虜収容所詩画集』(林啓介訳・編,潮出版社発売,2006.4)
『ドイツ兵士の見たニッポン 習志野俘虜収容所1915〜1920』(習志野市教育委員会編,丸善,2001.12)
『坂東俘虜収容所』(冨田弘著,法政大学出版局,2006.5)
『坂東俘虜収容所物語』(棟田博著,光人社文庫,2006.7)
『松江豊寿 坂東俘虜収容所長 維新の群像』(横田新著,歴史春秋出版,2005.11)
『松江豊寿と会津武士道 坂東俘虜収容所物語』(星亮一著,ベストセラーズ,2006.6)
目次(並びは,ほぼ年代順)
◆総記
◆◆オスマン帝国/トルコ
◆◆オーストリア=ハンガリー
◆◆日本
◆陸軍
◆◆化学戦関連
◆◆戦車関連
◆海軍
◆◆Link
◆◆オーストリア=ハンガリー海軍
◆◆ドイツ海軍
◆◆日本海軍
◆空軍
【質問】 WWU発生以前もWWTは「第一次」と呼ばれていたのでしょうか?
【質問】 第1次大戦は,軍拡競争が原因で戦争になった例だと言えるのでは?
【質問】 オーストリア皇太子が暗殺されなければ,第一次世界大戦は起きなかったのか?
【質問】 「オーストリアとセルビア」の戦争が,第一次世界大戦に発展しない可能性はあったのか?
【質問】 オーストリア皇太子暗殺が起きなくても,何らかのテロがあり,それに対する紛争がおきた可能性は低いでしょうか?
【質問】 第一次大戦は,列強の植民地の奪い合いで起きた抗争じゃないのですか?
【質問】 WW1は,いわゆる「帝国主義戦争」なんでしょうか?
【質問】 開戦当初、「数週間で戦争は終わる」と思われていたのは何故なのでしょう?
【質問】 第一次世界大戦においてドイツやフランスは,トンデモな戦争計画を持っていましたが,他の国はどうだったのでしょうか?
【質問】 第一次世界大戦であれほど戦線が膠着したのに、なぜ双方とも講和や和平をしようと思わなかったのでしょうか?
【質問】 第一次世界大戦時のスイスの中立政策は,真っ当な中立だったのでしょうか?
【質問】 WW1では,毒ガス・戦車・飛行機等の新兵器は,戦争の勝敗を左右するものだったのですか?
【質問】 スペイン風邪は大戦にどれくらい影響を与えたのでしょうか?
【質問】 もしロシア革命がなかったら,ロシア軍はドイツを破ることができただろうか?
【質問】 ポーランドにおけるボルシェヴィキ兵の士気は高かったのか?
【質問】 第一次世界大戦では何が決め手となって勝敗が決まったのでしょうか?
【質問】 アメリカは国際連盟提唱しといて,上院の反対で参加しませんでしたが,原因は?
【珍説】 パリ講和条約において,日本の提案した人種平等案を力ずくで潰したのが,有色人種を蔑視する米英だった(小林よしのり)」???
【質問】 第1次大戦後,ドイツの天文学的賠償金の支払いは,どのような形で行われていたのでしょうか?
【質問】 第1次世界大戦後,ドイツではどのような少数民族問題が起こったか?
◆◆オスマン帝国/トルコ
【質問】 ケマル・アタチュルクのトルコ革命をソ連が支援したのは何故ですか?
【質問】 「緑軍」は軍隊なのですか?
【質問】 第1次大戦後の国難において,トルコが一致団結できたのは何故か?
◆◆オーストリア=ハンガリー
【質問】 なぜオーストリア=ハンガリー軍は絶えず予算不足だったのか?
【質問】 オーストリア二重帝国国内のスラヴ人は分離主義者だったのか?
【質問】 第一次大戦後,ハンガリーがオーストリアから分離したのは何故か?
【質問】 ベラ・クーンの共産政府ってあっさり崩壊したけど、よほど軍隊が弱かったのかね?
◆◆ドイツ
【質問】 第1次大戦に至るまで,なぜドイツはもっとましな戦略をとれなかったのか?
【質問】 ドイツのヴィルヘルム二世の失敗の中で,一番問題なのは何か?
【質問】 第1次大戦の頃の帝政ドイツでは,初めから軍部の力が強かったのか?
◆◆日本
【質問】 何故、日本帝国は第一次大戦で、欧州に大兵力を派遣しなかったのでしょうか?
【質問】 第1次大戦中,日本が露に武器を輸出したというのは事実でしょうか?
【質問】 シベリア出兵において,日本の目標はどのようなものだったのでしょうか?
【質問】 対華21ヵ条条約について,最初から骨抜きの形で締結されたというのは本当ですか?
【珍説】 「袁世凱は日本政府に,最後通牒を出してくれと要請した」???
【質問】 なぜ第1次大戦が日本において理研を創設する契機となったのか?
【質問】 内田信也は第1次大戦の際,どのようにして成金になっていったのか?
【質問】 中立国ベルギーへの侵犯が、イギリスの反発を招くことを,ドイツは考慮しなかったのだろうか?
【質問】 「海軍に借りを作るくらいなら,西部戦線に英軍数個軍を迎えるも意とするに足らず」という見解も,ドイツ陸軍にはあったそうだが?
【質問】 アメリカにも列車砲があったと聞いたのですが,どのような物だったのでしょう?
【質問】 イギリス軍の深皿型ヘルメットは,何を考えてあんな形にしたのでしょうか?
【質問】 旅順攻略戦で機関銃の威力と効果は証明済みだったにも関わらず,なぜ第一次大戦でも機関銃に向かって突撃する戦術がとられたのですか?
【質問】 第一次大戦での欧州派遣米軍の機銃、何がどうだから使えないと言われたのですか?
【質問】 「戦線の突破」と,言葉どおり塹壕一本を通過することとは,どう違うんですか?
【質問】 塹壕戦での膠着状態を打開するため,どういうアイディアが考え出されたの?
【質問】 第一次世界大戦中,欧羅巴戦線でイギリス軍がドイツ軍の陣地の下までトンネルを掘り,そこに大量の爆薬を仕掛けて木っ端微塵にする作戦って,実際に行われたんでしょうか?
【質問】 第一次大戦の西部戦線で,連合軍がドイツ軍の後方に上陸して,補給線を遮断することは出来なかったのでしょうか?
【質問】 ヒンデンブルクをドイツの英雄とした「タンネンベルクの戦い」って,どんな戦いだったのですか?
◆◆化学戦関連
【質問】 WW1において,化学兵器が実戦で初めて使用されたのは?
【質問】 塩素ガスを兵器として利用することを提案したのは誰か?
◆◆戦車関連
【質問】 歴史上、初めて行われた戦車戦は、いつ何処でどのように発生したのでしょうか?
【質問】 ルノーFT戦車は先進的.なのに,その後の戦車開発史の混迷は何故?
【質問】 この,「やわらか戦車」ふうの戦車は,どこの,何て名前のものですか?
【質問】 ユトランド海戦で英巡洋戦艦が3隻も轟沈したのは何故か?
【質問】 第一次,第二大戦時のブルガリア海軍の勢力と活動はどうだったのですか?
【質問】 ポルトガルの海防戦艦「ヴァスコ・ダ・ガマ」はどういうスペックだったのか教えてください.
【質問】 第1次大戦までの建艦競争に英国が勝てたのは何故か?
【質問】 フューリアスから撤去された18インチ砲は,シンガポールの要塞砲になったってホント?
◆◆オーストリア=ハンガリー海軍
【質問】 ハンガリー摂政ホルティはなぜ海軍提督なのですか? ハンガリーに海はあったんですか?
【質問】 ホルティには,カール1世の復位を拒否する権限があったのですか?
【質問】 オーストリア・ハンガリーでは,海軍は墺・洪の共同管理だったのでしょうか?
【質問】 開戦前夜時のオーストリア=ハンガリー海軍艦艇配備状況は?
【質問】 中華民国向けに建造されていた艦艇を,なぜオーストリア=ハンガリー海軍は接収しようとしたの?
【質問】 二重帝国海軍の戦艦は,どのように評価されているのか?
【質問】 開戦直後,アドリア海の外にいたオーストリア=ハンガリー艦船はどうなったの?
【質問】 オーストリア=ハンガリー海軍によるイタリア沿岸部砲撃作戦について教えてください.
【質問】 奥軽巡「ノヴァラ」の独潜曳航作戦について教えてください.
【質問】 オーストリア=ハンガリー海軍は,オスマン帝国への支援はしなかったの?
【質問】 戦艦「ツェント・イストヴァーン」の沈没までの経緯は?
【質問】 「サウンド・オブ・ミュージック」のトラップ少佐は,オーストリア人なのに,なぜ海軍軍人なのですか?
【質問】 トラップ少佐と同じように潜水艦で活躍したレルヒは、戦後はどうなったんで?
【質問】 終戦時のオーストリア=ハンガリー海軍艦艇配備状況は?
【質問】 オーストリア=ハンガリーの残存艦艇は,その後どうなったのか?
◆◆ドイツ海軍
【質問】 ドイツ帝国の「艦隊法」は,どんな内容だったのでしょう?
【質問】 第1次大戦におけるUボート作戦は,賢明な選択だったのか?
【質問】 第一次世界大戦のドイツの戦艦とかは敗戦でどうなったのでしょうか?
◆◆日本海軍
【質問】 「第1次大戦時,日本海軍の駆逐艦隊は皆無に等しかった」ってどういうこと?
【質問】 第一次世界大戦のとき,日本はヨーロッパに戦艦などの主力部隊を派遣したのですか?
【質問】 日本海軍地中海派遣艦隊の,輸送船護衛以外の任務について教えてください.
【質問】 アメリカの第1次大戦参戦は,日本の造船業にどんな影響をもたらしたのか?
【珍説】 「機銃同調装置を最初に開発したのはオランダ(林信吾)」???
【質問】 第1次大戦で活躍した戦闘飛行艇について教えてください.
【質問】 第一次世界大戦後に生まれた空中戦艦思想って何ですか?
【質問】 第一次世界大戦中にオーストリア=ハンガリーが試作したステキヘリコプターについて教えてください.
◆◆ドイツ関連
【質問】 爆撃に使われたツェッペリン飛行船は民間用を転用したのでしょうか?
【質問】 第一次大戦で飛行船が空襲に使われたそうですが,飛行船なんて戦闘機にとってはでかい標的に過ぎないのでは?
◆陸海空軍
◆◆陸軍
【質問】
中立ベルギーを侵攻する作戦が,ドイツにとって唯一無ニなのが恐ろしい。
中立国への侵犯が、イギリスの反発を招くことをさえ考慮しなかったのだろうか...?
【回答】
毛頭しなかった。作戦優先だった。
当時のドイツ軍人にとって、軍事的成功が全ての政治的な問題を解決すると思い込んでた傾向がありましたから.
実際、帝国宰相ベートマン=ホルヴェークはベルギー侵攻を止めさせようとしたが、
「そういう作戦だから無理」
の一言であっさり却下。
ベートマン=ホルヴェークは開戦にあたり,帝国議会で
「ベルギーすまん。後で埋め合わせすッから許してくれろ」
と異常な演説をする羽目になった。
しかも,ルーデンドルフなんかは占領したベルギーを最後まで手放そうとせず、それが戦争中英仏との講和に至らなかった主原因とか.
それでいながら,自らの最終攻勢が失敗し,連合軍の最終攻勢を受けると,捨ててもいいやとあっさり考え直す。
ココまで作戦しか目に入ってないのは,ある意味清清しささえ覚える位の本末転倒ぶり(苦笑)。
作戦結果であっさりベルギー捨てるなら,もっと早く条件闘争できたのに。
因みにモルトケは中立国ベルギー侵入を考慮していた。相手が侵攻しても,ベルギー自身の抵抗と英国がフランスに敵対するので,進入するだけ損とわかっていた。
むしろ,フランスにベルギーに侵入して欲しいと思ったくらい。
【質問】
「クリーグスマリーネに借りを作るくらいなら,敢えて西部戦線に英軍数個軍を迎えるも意とするに足らず」
という見解も,ドイツ陸軍にはあったそうだが?
【回答】
海軍力を考慮しなかったのはシュリーフェンだけでなく、モルトケも同様。プロイセンは陸軍国家なのでやむ負えないといえばやむ負えない。
西部戦線の英軍を意に介しない表現を『8月の砲声』では「右翼最右端は、袖で海峡をかすって通れ」と表現していた。最右翼の兵力を高めていれば英軍なぞ恐れるに足らんということ。
『補給戦』を読むとシュリーフェンプランはインパール作戦と変わらないように見えるから不思議だ。
それでいながら,国策というカイザー直下の最高意思決定レベルでは
「独逸の未来は海上にあり」
として,ジョンブルの神経を逆撫でしまくるというちぐはぐさ(苦笑)。
現にBEFをモンスからマルヌの彼方まで追い散らしたから,あながち大自信に根拠が無い訳でもなかったんでしょうが、海軍を頼みにしない姿勢や,敵の抵抗に遭って攻勢が頓挫する事に対する対処が想定外で,「快進撃」が能天気に想定されてるあたり,後の日本陸軍そっくりですねえ。
第1次大戦のドイツ陸軍

【質問】
アメリカにも列車砲があったと聞いたのですが,どのような物だったのでしょう?
【回答】
実物は下のをご覧下さい.
http://www.aopt91.dsl.pipex.com/railgun/Content/Railwayguns/USA/Dahlgren.html
http://www.aopt91.dsl.pipex.com/railgun/images/Railguns/USA/WW1GUN4.JPG
1917年の米国参戦後に米国海軍が開発に着手し,1918年4月25日に120日という短期間で,米国最大の鉄道車輌メーカーであるBaldwinが製造したもので,海軍用14in50口径砲を搭載していました.
海路輸送され,欧州で組み立てられた後,1918年9月2日にフランスの戦線に投入され,終戦までドイツを射撃していました(ちなみに,全部で782発発射した).
その車輌編成は,
Consolidation機関車+炭水車+列車砲+弾薬車+弾薬車+兵員車+兵員車+兵員車+司令車+給食車+燃料車+修繕車+砂/丸太運搬車+資材車+資材車(クレーン付)
と言う構成でした.
ちなみに,兵員は全て海軍の管轄だったりします.
実物は,Washington Navy Yardにあるそうです.
なお,米国の列車砲の歴史は,1865年のPetersburgの攻囲戦で33cmの攻城臼砲を無蓋貨車に搭載して使用したのが始まりです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
イギリス軍の深皿型ヘルメットは,何を考えてあんな形にしたのでしょうか?
【回答】
榴霰弾防護のため.
WW1当時は,塹壕に篭っている兵士の頭上から弾片が降ってくるから,あのデザインが合理的だった.
戦争の様式が全く変わったWW2になっても,アレを使い続けたのは,どうかと思うが.

【質問】
日露戦争に観戦武官を送り込んでいたにも関わらず、なぜ第一次大戦でも機関銃に向かって突撃するという戦術がとられたのですか?
旅順攻略戦の一件で、機関銃の威力と効果は十分理解できそうなものですが……。
【回答】
そこらへんの話は「機関銃の社会史」という本が非常に詳しいのですが、要するに保守的な貴族将校たちが機関銃の有効性を全く理解しようとしなかったという事のようです。
旅順攻略戦の機関銃の活躍を聞いてなお、それらは局地的な現象に過ぎないと思い込み、突撃こそ戦場の勝敗を分けるとそう信じていたわけです。
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
第一次大戦で、欧州派遣米軍が使えない機関銃を押し付けられたと聞きました。
その機銃、何がどうだから使えないと言われたのですか?
【回答】
アメリカ軍が採用したフランスのショーシャMle1915軽機関銃の事だな。
何故か知らんがおフランス製をありがたがる傾向のあったアメリカは、この軽機関銃を採用、大量に輸入して配備した。
ところがこのショーシャ・マシンガン、作動不良の頻発、発射速度が早過ぎて反動が大き過ぎ弾道が定まらない上にすぐ弾が切れる、人間工学的デザインが悪過ぎて発砲中の保持ができない・・・と欠点のオンパレードで、アメリカ軍を悩ませた。
結局多数が現地で勝手に「廃棄処分」されることになり、遣欧米軍は主にルイス軽機関銃やドイツから捕獲した機関銃を使っていた。
もっともこのショーシャマシンガン、話によっては作動も快調で命中精度も高かった・・・とも伝えられている。
どうもロットによって出来不出来の差が激しく、使う兵士の体格に性能が左右された模様。
ついでにいうとこれ、スペック上の発射速度は800発/分だったが,実際には200発/分がせいぜいだったとか(それでも作動不良が起きる)。
ロング・リコイル方式の作動方式と複雑な弾倉形状に根本的な問題があったのと、当時ではプレス加工――この機関銃部品にプレス加工を多用している。そういうとこだけは先進的――で出せる精度に限界があった事、戦時急造で品質管理がめちゃくちゃだったところに問題があったみたい。
【質問】
「戦線の突破」と,言葉どおり塹壕一本をよっこいせと通過することとは,どう違うんですか?
【回答】
「戦線」とは,塹壕だけではない.機関銃座とか鉄条網とか敵兵そのものとか、とにかくそっちからこっちまで通さないぞ、とがんばってるあらゆる構造物をまとめて(防衛における)戦線と考るべき。
これを突破すれば、敵の裏側にぐるりと回り込んで最終的には包囲殲滅できるわけ。
塹壕は地面に溝を一本掘るだけというものではなく、二重三重の構造になっている。
ここに塹壕の構造図あり。
歩兵に第一線の塹壕を突破された場合、守備側は一旦後方の塹壕に退避し、態勢を立て直し奪還を図る。
しかし,これでは攻める側の被害が甚大なものになる.
そこで,敵の攻撃に耐える装甲を有し、塹壕を乗り越えられる大きさを持ち、敵の火力を制圧できる火力を持った、いわば移動式のトーチカとして戦車が開発された。
戦車によって戦線に開けられた穴に歩兵が殺到して突破口を広げ、さらに進出して敵の後方指揮所や補給基地を制圧する。
そうすれば敵は後退を余儀なくされる,というわけ。
【質問】
塹壕戦での膠着状態を打開するため,どういうアイディアが考え出されたの?
【回答】
両軍とも塹壕にこもった敵を突破して,ナポレオン的な決戦を志向したんだけど,歩兵大隊の衝力は塹壕と機関銃の組み合わせを突破できず,果てしなく死体を量産することになった.
このような状況に対するアプローチとして,イギリス人はトラクターを装甲化し,機関銃や砲を乗せた「海上軍艦」を提案した.
これが戦車の始まり.
塹壕を突破できる機動力と,小銃弾に耐える装甲を持ち,塹壕線に穴を開ける.
これに対しドイツ人は戦術の転換によるアプローチを行った.
小部隊による分散突破と敵後方に迅速に機動することによる敵指揮系統の破壊.
これが伏流水となり,WW2の電撃戦がある.
【質問】
ヒンデンブルクをドイツの英雄とした「タンネンベルクの戦い」って,どんな戦いだったのですか?
【回答】
1914年8月の開戦劈頭,東プロイセンに侵入したロシア帝国の第1軍と第2軍をヒンデンブルクが指揮したドイツ第8軍が迎え撃ち,これを撃滅した戦い.
この戦いでロシア軍は10万近い捕虜を出して壊滅し,以後東部戦線では終始ドイツ軍が優勢の内に戦いが進んだ.
ちなみに,上記の戦いでロシア第1軍を指揮したレンネンカンプ大将と第2軍のサムソノフ大将は,日露戦争中に奉天駅で掴み合いの喧嘩をして以来の不仲だった.
そのため両軍は,共同作戦を採るべきなのにほとんど連絡をとらず,それゆえに数的に劣勢なドイツ軍に各個撃破される醜態を演じた.
この戦いで包囲されたサムソノフは自決している.
【質問】
ガリポリ戦線で戦死した物理学者モーズリーとは?
【回答】
ノーベル物理学賞受賞の可能性も高かった物理学者.彼は,各金属の特定の系列に属する固有X線は,周期律表を進むにつれて波長が小さくなり(したがってエネルギーが増し),しかもそれが極めて規則的であることを発見し,それに基く「原子番号」を提案.
しかし愛国心から,第1次大戦に志願して出征,ガリポリ半島で戦死した.
以下,抜粋要約.
ヘンリー・グウィン・ジェフリーズ・モーズリーは,卓抜した才能の持ち主だった.
彼はイートンとオックスフォードの両方の奨学金を獲得し,1910年,23歳のときには,マンチェスターのヴィクトリア大学にいた,ニュージーランド生まれのアーネスト・ラザフォードの下で研究していた青年達のグループに参加し,彼のところに2年間いた.
モーズリーは,各種金属の様々な固有X線を,やや大まかな透過性という基準によって区分する代わりに,それを結晶に当てて,その波長を正確に測定した.
彼は,各金属の特定の系列に属する固有X線は,周期律表を進むにつれて波長が小さくなり(したがってエネルギーが増し),しかもそれが極めて規則的であることを発見した.
事実,波長の平方根をとれば,この関係は直線になるのだった.
これは途方もなく重要な発見だった.というのは,これまで周期律表の中で元素の順序を判断する主たる方法だった原子量は,これほどまでの規則性を示さなかったからである.
モーズリーが必然的に達した結論は,元素の原子量は基本的な特性ではなく,また,特製の元素がなぜ特定の元素であるかを,それだけで自然に説明できるものではないということだった.
これに対し,X線の波長は,元素の基本的特性である何かを表現するものだった.
モーズリーには,その何かが何であるかを指摘さえできた.
特定の原子から何個かの電子を取ったり加えたりして,その原子にそれぞれ正または負の帯電をさせる事は可能である.
つまり電子の数は,原子の性質にとって,本当に本質的に決定的なものではないということになる.
しかし,原子の中心深く潜む原子核は,普通の科学的な手法でいじくる事はできなかった.それは一定不変の要素として残り,したがって,これこそ元素の固有の性質だった.
モーズリーは「原子番号」を提案した.それは,各元素を,2つの別々のこと,すなわち,
(1) その原子の核にある単位正電荷の数
(2)周期律表の位置
を示す数字によって代表させるという提案だった.そしてこの提案は採用された.
モーズリーの,1913年のこの発見は,たちまち物凄い反響を引き起こした.
明らかにモーズリーは,物理学あるいは化学のどちらででもノーベル賞に値したし,彼がそれを獲得する事は,この世にこれ以上,確実な事はないほどだった.
残念なことに,それは不可避のなりゆきではなかった.
1914年,第1次大戦勃発.
モーズリーは直ちに英国軍工兵隊の中尉として入隊した.それは自発的意思によるものであり,彼の愛国心には敬意を表さざるを得ない.
しかし,単に一人の個人が愛国者であり,自分だけで粗末に扱ってはならない生命を危険に晒したいと願ったからといって,政府の政策決定者がそれに従わなければならないわけではないのだ.
ラザフォードはモーズリーを科学的な作業に任命させようと努力した.彼は戦場よりも研究室にいたほうが,国家や戦争の努力にとって遥かに貴重な存在である事は明白だった.
第2次大戦の頃ならば,このことが理解されており,モーズリーは数少ない貴重な戦争資源として保護されていただろう.
第1次世界大戦と呼ばれる途方もない愚挙の中では,そんなことは期待すべくもなかった.
1915年春,英軍はガリポリ上陸を決行した.ここを強硬突破すれば,瓦解寸前のロシア軍に補給路を開くことができる.戦略的にはこの考えは立派なものだった.
だが戦術的には,この作戦は信じ難い愚劣さで行われた.
1916年1月には,全ては終わっていた.イギリスは兵員50万を投入したが,どうにもならなかった.その半数が死傷したのである.
1915/6/13,モーズリーはガリポリに向かって出航した.
1915/8/10,彼が電話で命令しているとき,オスマン帝国軍の弾丸が命中した.彼は頭を撃ち抜かれて即死した.まだ28回目の誕生日にもなっていなかった.
そして1916年のノーベル物理学賞の時期がやってきた.
受賞は行われなかった.
(Isaac Asimov 「わが惑星,そは汝のもの」,早川文庫,
1979/1/31,p.228-235)
【質問】
第一次世界大戦中,欧羅巴戦線でイギリス軍がドイツ軍の陣地の下までトンネルを掘り,そこに大量の爆薬を仕掛けて木っ端微塵にするという無茶苦茶な作戦を実行したという話を聞きました.
これって実際に行われたんでしょうか?
行われたとして,ドイツ軍が被った被害は?
この作戦に関する日本語の書籍ってあるんでしょうか?
また,関連サイト等がありましたら教えて下さい.
【回答】
敵陣地や城塞までトンネルを掘ってゆくのは,中世からある古典的な戦術.専門の坑道掘削部隊もある.
滅茶苦茶でも何でも無いし,塹壕戦が膠着に陥りやすいことを考えれば当然の作戦.
日露戦争の旅順攻防戦でも坑道爆破は行われている.
以下,「第一次大戦」より引用
6月4日,メシヌ−ウィシャッテリッジで大爆発が起きた.これはイギリス軍工兵部隊が2年半をかけて準備したもので,ドイツ兵が第1次イープル戦で占領したリッジ郡の真下を坑道で掘り進んだものだった.
爆発物は19基,全500トンに及んだ.地下30メートル以下を掘り,距離は一番長いもので4kmに達した.
爆発音は遠くロンドンの首相官邸で聞こえたという.
ドイツ兵の死者は1万人以上に及び,その後の砲火もあって,7千人を越える捕虜も得た.
リッジ郡も簡単に占領できた.
しかしこれは別の疑問も生じさせた.
2年半の準備と4kmの坑道ということはベルリンまで達するには,一体どの程度の努力が必要か,と.
【質問】
第一次大戦に関して質問します.
西部戦線はずっと戦線が膠着してましたが,朝鮮戦争の仁川上陸作戦みたいに連合軍がドイツ軍の後方に上陸して,補給線を遮断することは出来なかったのでしょうか?
【回答】
実際そういう作戦が構想された.
バルト海に艦隊を送り込んでドイツの背後を突く作戦.
このために専用の軍艦が多数建造されたほど.
・・・でも,作戦の提唱者が作戦発動前に,ガリポリ上陸作戦の失敗から更迭されてしまい,結局実行されなかった.
後に空母に改造された”ハッシュハッシュクルーザー”は本来は,この作戦のために建造された.
【質問】
第1次世界大戦は日本陸軍にどう影響したか?
【回答】
山田太郎によれば,2つの大きな衝撃を,日本陸軍に与えたという.
以下引用.
(1) 欧米諸国との軍需工業力の格差が,絶望的なまでに大きくなった.
例えば,1917年4月における各国の日産砲弾製造量は,
ロシア 11万発
オーストリア 16万発
イギリス 29万発
フランス 31万発
ドイツ 44万発
だったが,当時の日本では月産(日産ではなく)10万発が可能だろうと推定されているに過ぎなかった(戦史叢書9「陸軍軍需動員(1)」,p.24).
より正確に言えば,日本にとって,欧米諸国との生産力格差が改めて明らかになったということである.
(2) 「皇軍」の「精神的優位性」に疑問が持たれ始めたこと.
例えば,大戦の調査・研究に当たった陸軍の臨時軍事調査委員会の報告書は,次のように述べる.
「物質的文明の発達と戦争力要素たる精神力は相背馳(あいはいち)し相容れざるものにして又戦争における物質力の利用増加は精神力に対する要求を軽減し得るものなりとは従来往々世人の口にする所なり 然るに這次(しゃじ)戦争の経過は其の大に然らざるものあるを立証し世人に反省を促す所あるが如し (中略) 這次戦争に現はれたる幾多の事実は帝国をして独り其(その)大和魂に心酔安心するを許さざるものある」(臨時軍事調査委員会「参戦諸国の陸軍に就て≪第5版≫」〔1919年12月〕 p.41-44)
すなわち,物質的な劣勢を精神力の優越で補うという日露戦争方式の考え方は,ヨーロッパで展開された物量戦争の前では全く通用しないのではないか,との憂慮を抱く日本陸軍軍人が現れたのである.
欧米陸軍の物量の圧倒的優位が,日本陸軍が唯一の頼みとする「帝国民の精神力」の優位性をも脅かすに至り,陸軍の一部には,大戦直後の時期には深刻な焦燥感が漂い始めたのである.
しかし,その焦燥感・危機感は必ずしも陸軍の装備・編成・組織近代化にストレートに結び付いたわけではない.
また,日本陸軍の歩兵中心主義・白兵主義という軍事思想の転換を招いたわけでもなかった.
陸軍は,日本には欧米のような物量に頼る「贅沢な戦い」はできない,欧米流の戦闘に対して欧米流で対抗するのではなく,「日本式」で対抗しようという考えを基本にしていた.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,
1997/6/1,p.52-55,抜粋要約)
◆◆◆化学戦関連
【質問】
WW1において,化学兵器が実戦で初めて使用されたのは?
【回答】
1914年8〜11月にかけて、散発的に臭化酢酸エチル(現在の分類では催涙ガスに分類されるが、実際には塩素ガスより致死性が高い)がフランス軍によって使用されております。
26mm榴弾に充填されたそれは、内容量が19ccと少なく、ドイツ軍に与えた打撃はほとんどありませんでしたが、臭気から使用は直ぐに発覚しました。
第一次大戦における化学兵器使用は、これが最初かと思います。
ドイツはその報復として、同年10月、ヌボーシャペルの戦場にて、Ni剤(Niesen=くしゃみ)と呼ばれるジアニシジンクロル硫酸を使用しますが、こちらもフランス軍のそれと同様の理由で効果が限定的なので、再使用はなされませんでした。
ドイツはさらにT剤(臭化ベンジル)を1〜3月に、フランスもクロロアセトンを3月末に投入しますが、やはり効果がパッとせずに終わったようです。
詳しくは,常石敬一著「化学兵器犯罪」,講談社現代新書,2003/12/20,
p55〜p60を参照してください.
このような競争がエスカレートした結果,1915年4月にドイツ軍は塩素ガス大量使用に踏み切った,と思われる.以下の記事に,その詳細がある.
第1次大戦中の1915/4/22.ドイツ軍は,フランス・カナダ軍との前線,イーペルで120tのクロロケン(塩素ガス)を使用した.
毒ガスの影響を受けて死亡した兵士は,この日だけでも5千人に達した.
イーペルは交通の要所というだけでなく,中世から繊維産業で栄えてきた町だった.
繊維産業と言えば,第1次大戦当時,最も栄えていた産業の一つ.
戦争になれば軍服なども必要になるので,軍の需要も高い.
こうした理由から,ドイツ軍は,イーペルを徹底破壊することで連合軍に打撃を与えようと考え,クロロケンを使用したのだった.
クロロケンは漂白剤としても使われる,塩素ベースのガスで,致死性は低い.
その上,このときの攻撃方法は,弾頭に毒ガスを装着して相手陣営に撃ち込むのではなく,大型ガス・ボンベに入れた毒ガスを風上から風下に噴霧するだけの原始的なものだった.
致死性が高い毒ガスは,1899年と1907年の2回,ハーグで開かれた国際平和会議により禁止されている.
しかしクロロケンは,言ってみれば日常的に使われる漂白剤であり,よほどのことがない限り,ひとは死なない.
そこでドイツ軍は,
「クロロケンは,使用が禁止された毒ガスではない」
と強弁,使用した.
致死性の低いガスにもかかわらず,何故1日で5千人もの兵士が死亡したのか?
第1次大戦は塹壕戦だった.
塹壕の中にはいつも雨水が大量に溜まっていたが,死亡した5千人の大半は,クロロケンを吸って気絶した後,塹壕内に溜まっていた雨水に顔を突っ込み,溺死したのだった.
ドイツが毒ガスを本格的に使い始めたことで,連合軍もその後,毒ガス使用に躊躇がなくなり,双方が使う毒ガスは,より致死性が高いものへとエスカレート.
この大戦中に開発された化学兵器は,3千種あまりに達した.
当時のとあるイギリス海軍将校の,こんな言葉が残っている.
「毒ガスを吸い込んで死ぬより,撃沈された艦艇の中で,海水を吸い込んで死ぬほうが,よほど苦しくて残酷だ」
当時,化学兵器に対しては,この程度の認識しかなく,そのために開発も使用もエスカレートしていったのだった.
(桃井和馬 from "SAPIO" 2003/6/11, p.53-54,抜粋要約)
ドイツが15年4月22日に放出した塩素ガスの総量は、「化学兵器犯罪」によれば、約150tと記載され、その内訳は,
重量85kgの、液体塩素40kgが入る大型ボンベ1600台(40kg×1600台=64t)
重量が半分で、20kg入りの小型ボンベ4130台(20kg×4130台=82.6t)
64t+82.6t=148.6tで、約150t
とされている.
ただし、"常石敬一"をキーワードにGoogleで検索すると、一番最初にちょっと大変なサイトが引っかかります。
それと、この著作の参考文献中に、慰安婦問題で有名な吉見教授の著作が二つありました。
常石教授の著作も、全てをソースにする事は難しそうです。
+
イーブルのガス攻撃では,全体でガス中毒者一万四千人、死者五千人、捕虜二四六八人と発表された。
しかし、この数字は連合国の発表によるモノで、ドイツ軍の試算ではもっとずっと少なかったと言われている。
双方の発表、どちらにもプロパガンダ用に数字を増減させているので、正確な数値は現在となっては知るよしもない。
(井上尚英「生物兵器と化学兵器」,中公新書,要約)
毒ガス弾の使用については、Ardennesでフランス軍が使用したのが最初です。
これに対抗して、1914年10月、敵の殺傷ではなく、敵を通常兵器の火力の届く範囲に追い出すことを目的として、27日にヌーヴ・シャペル近郊で3000発の刺激性粉末弾を使用しています。
次いで1915年1月31日、東部戦線のボリムフで、ドイツ第9軍団が15cmTガス発射榴弾1万発を使用しました。
当時の毒ガスは、国際法学者の批判をかわす為、塩素ガスであることは表に出さず、使用が禁じられていない刺激性のガスであることが言明されています。
イープル戦では、約150tの塩素ガスが幅6km、奥行600〜900mの雲を形成し、協商側では15000名がガス中毒となり、5000名が毒ガスで死んだとしています。
連合軍は、1915年6月4日にランコーンのマンチェスター運河畔で最初の塩素放出実験が行なわれ、6月25日には最大兵力6000名のガス特殊部隊が編成されました。
連合軍最初のクロルガス攻撃は、5500本のボンベを用いて1915年9月25日に英国軍によって行なわれています。
(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)
イーブル戦

【質問】
塩素ガスを兵器として利用することを提案したのは誰か?
【回答】
当時、ドイツは世界最大の重化学工業国で、特に有機合成化学工業の分野では、他国の追従を許さないまでに発展していました。
有機化学合成は副産物として、さまざまな毒ガスを大量に生み出します。
ドイツは,有機化学合成の材料としてよく使う「苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)」を大量に生産していました。
一方で、その副産物として塩素ガスが大量にできてしまうという難題を抱えていて、この塩素の処分に大いに苦慮していました。
この塩素を兵器として利用できないか? と考えたのがフリッツ・ハーバーだった。
この人物は高校の化学の教科書に名を連ねているくらい有名な人物であり、画期的なアンモニア合成法を発見した人物である。
彼は研究の結果、塩素をボンベに詰めて放射するのが最も効率のよう方法と結論づけ、ドイツ軍参謀本部に打診します。
戦線は長い間膠着状態に陥っており、戦局の打開を狙っていた参謀本部はすぐにこの提案を受け入れ、早速準備が進められました。
こうして、イープルの北東から東側に掛けて7kmにわたってガスボンベが敷設されました。
(井上尚英「生物兵器と化学兵器」,中公新書,要約)
【質問】
最初の毒ガスの大規模使用は?
【回答】
5月31日、東部戦線のWarsaw郊外、ボリムフ郊外のブズラ河畔で第36ガス工兵連隊が12000本のガスボンベを投じて行なったもので、これによってロシア側で3100名がガス中毒となり、1200名が死亡したとされています。
(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)
【質問】
塩素・フォスゲン混合ガスによる最初の攻撃は?
【回答】
1915年12月19日、ヴィールチェで英軍に向けて行なわれ、1000人がガス中毒となり、うち116名が死亡、塩素・クロルピン混合ガスは1917年1月31日にシャンパーニュで実施されており、この攻撃では2000人以上がガス中毒になりました。
こうした攻撃はドイツ軍だけで少なくとも50回実施されています。
(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)
【質問】
ドイツ軍最大の毒ガス攻撃は?
【回答】
500tの塩素ガスを用いた1915年10月19〜20日にかけてルビン近郊で実施したものです。
(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)
【質問】
最大の損害を出した毒ガス攻撃は?
【回答】
二重帝国軍がイタリア軍に対してベルド高地で行なったもので、5000〜8000名がガス中毒となりました。
(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)
【質問】
各国の化学兵器使用状況は?
【回答】
1916年6月〜11月のソンム会戦では、英国軍は、塩素・フォスゲン混合ガスで50回の放出攻撃を行ない、全部で38000本のボンベを用いています。
英国軍のガス散布量は、大戦最後の2年間で1kmª当り250tに上っており、大戦全期間では、300回以上の攻撃で88000本のガスボンベを消費しました。
また、1918年には全弾丸の3分の1が化学戦物質弾頭になっていました。
フランスは、1915年7月〜1918年11月に1700万発の毒ガス弾が作られ、1915年12月に毒ガス戦部隊「Z中隊」の最初の部隊が編成されました。Z中隊は、最終的に9個が編成されています。
平均して毎月50回の毒ガス攻撃が行なわれ、12000tのガスが消費されています。
ロシアは1916年9月5〜6日にクニロヴォ近郊で最初の大規模な塩素ガス攻撃を行ない、末期にはフォスゲンに切り替わっていきます。
米国も1917年3月以降、最大で2000名が化学兵器研究に従事し、月間毒ガス生産能力は砲弾で600万発に上りました。
1918年には6社が毒ガスを生産し、1919年には18社で3個化学戦部隊を維持する予定でした。
これら毒ガスの使用法ですが、ドイツは大規模投入による防御措置の崩壊を目論み、連合国側は長期間、継続的に少量集中攻撃を行なうことで、前線兵士の士気阻喪を目論んでいました。
戦争終結時、フランスは18社が塩素ガス、フォスゲンを製造し、英国では10社がそれらを製造していました。
ドイツはBASF、Hoechst、Bayerの各社で、フォスゲン18000t、ビフォスゲン11600tが生産されています。
ジフェリルクロルアルシン、ジフェリニルシアンアルシン、即ち、嘔吐剤の使用は、1917年半ばに初めてドイツが実戦に投入し、イペリットガスは1917年7月13日に同じくドイツが使用しました。
イペリットガス中毒の患者は、英国では15万人に達し、戦死者の6人に1人は毒ガスによるものとなっています。
ただ、各国とも、毒ガスはHague陸戦規則第23条イに相当する「毒又ハ毒ヲ施シタル兵器」との認識でしたが、第23条ホに相当する「不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器、投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト」の「不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器」ではない、つまり、ガスマスク導入後はガスによる発病者の死亡率は3〜4%でしたので、「最も効果的な兵器にして、『最も人道的な』兵器とさえ見なされていました。
第一次大戦では45種類の化学物質が使われ、そのうち18種は致死性が強く、27種は刺激性が強かったものです。
全体では11万3000tの化学戦物質が投入され、ドイツが52000t、フランスが26000t、英国が14000t、二重帝国が7900t、イタリアが6300t、ロシアが4700t、米国が1000tでした。
(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)
【質問】
WW1におけるガス中毒者数は?
【回答】
種々の説があってはっきりと分からないですが、ドイツが20万(死者9000)、フランスが19万(死者8000)、英国18万8000(死者8100)、米国72800(死者1462)、二重帝国10万(死者3000)、イタリア6万(死者4600)、ロシア47万5000(死者5600)となっています。
(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)
◆◆◆戦車関連
【質問】
世界初の戦車は,どのように開発されたか?
【回答】
時のイギリス海軍大臣“ウィンストン・チャーチル”は気になっていた。
何が気になるのかは、本人にもわかっていなかった。
1914年イギリス海軍航空隊がベルギーに配属された。
このとき海軍兵により、飛行場防衛のため自動車部隊が編成された。
チャーチルは部隊の大砲牽引車へ装甲を施し、壕を乗り越えられるように改造できるか考えた。
これが気になっていたことだった。
最初の公開実験の結果は誉められた出来でなかった、後悔実験だった。
しかし,頑固者は開発を続行するよう指示した。
「私は陸軍省にも、報告しなかった、また兵器局もこのような構想には乗り気でなかったも判っていた。
私は大蔵省にも知らせなかった」
大した自信である。
開発は前途多難であった。設計はイギリス海軍航空隊の大尉W・ウィルソンが行っていたが、なかなか改良が出来なかった。
そこで、フォスター社のW・トリトンと協力し研究を続けた。
初代は気に入らないようで、2代目がよく知られているあの形であった。
ゴルフ・コースの実験では、なかなかよい成績であったので,軍は100輌を発注した。
その際に機密保持のため“ウォーター・タンク”と称することになった。
この名前のセイダロウカ、お偉方意見はサーパリだった。とどめはイギリス軍総司令官の
「面白い仕掛けのおもちゃに過ぎない」
であった。
【質問】
世界初の戦車は,どのように戦線に投入されたか?
【回答】
イギリス軍は軍令部も軍政部も,この厄介なタンクをうるさ型の将校に任せた。
彼ら戦車推進論者は大体まとまりつつあった。
それでも、戦車部隊は1916年4月にイギリスから西部戦線へ送られた。
T型・雄型6ポンド砲2門、オチキス銃4挺装備が75輌.
U型・雌型機関銃4挺装備が75輌。
各重量28トン。
乗員は将校1名。兵6名であった。
8月中旬イギリス軍は戦車を重機関銃部隊の編成内「重部門」へ配属された。
そして、運命の1916年9月16日がきた。
イギリス軍は9月15日の夜に49輌の戦車は移動をはじめた。
9月16日陣地へ突入した“タンク”は39輌を切っていた。
だが、結果として300名のドイツ兵を捕虜としていた。
しかし、この成功は事実だが真実で有ったのだろうか。
イギリス軍はこれまで戦車部隊を育てた指揮官を更迭していた。
また、戦車は集団使用されず,歩兵直協として使われていた.
この戦勝は硬直した戦線には、ちょうど良い新聞ネタだった。
イギリス本国では、参謀本部と陸軍省が戦車軍団の増強を押さえにかかった。
Mk.4 Tank


【質問】
歴史上、初めて行われた戦車戦は、いつ何処でどのように発生したのでしょうか?
【回答】
戦車で戦車に対抗することを意図した史上初の戦車戦は、1918年4月24日のヴィレル・ブレトニューの戦いであったといわれています。
1918年4月のドイツ軍のアミアン方面への侵攻に際して、ドイツ軍では14両のA7Vを準備し、これを3つのグループに分けて投入しました。
このうちの第3グループの3両がカシィ方面に進出した際,英軍のフランク・ミッチェル少尉の指揮するMkW菱形戦車に迎撃され、1両が撃破されました。
しかし、その後進出した英軍のホイペット戦車は残りの2両のA7Vに逆襲され,7両中4両が撃破されてしまいました。
ミッチェル少尉は更に別のドイツ軍戦車に襲い掛かりますが、迫撃砲弾で履帯を破壊されて戦車を放棄します。
この後ミッチェル少尉は戦功十字勲章を授与されたとのことです。
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
遭遇戦ならば,ドイツが戦車を投入後、さっそく
マーク4雄1台、雌2台
vs
A7V1台
の遭遇戦が発生している。
A7V1台が、仲間とはぐれたところに、マーク4雌2台と遭遇。
雌2台の機銃攻撃を跳ね返したA7Vは、至近距離から、2台とも撃破。
そこに雄1台が駆けつけ、A7Vを破壊、A7Vの乗員は走って逃げた,という。
当時の対戦車戦術

【質問】
ルノーFT戦車は大変先進的.なのに,その後の多砲塔戦車や,米国の戦車と戦車駆逐車の分離の様な混迷は何故?
【回答】
理由は2つ.
1.ルノーFTは,確信的にあの形態をとったのでは無く,偶然の産物だったから.あれは,当時のフランスの他の突撃戦車の指揮車輌として開発されています.指揮に必要な視界の良い展望塔,軽快な機動性を得るために無駄の無い武装配置を行った結果,砲塔が用いられたのです.
2.それでも当時既に,ルノーFTには指揮戦車以上の価値があることが判明し,大増産されています. (後からでは無く,登場後,すぐに革新性が理解されています.)
しかしながら,第一次世界大戦後,列強国の軍縮や恐慌のため,戦車の運用に関する研究がストップします(有識者の知識の継承が無くなる). 予算に合わせて運用思想を捻じ曲げてしまうと言った珍妙な現象も起こります.
また,塹壕戦の様相も大分様変わりして,戦車を用いた機動防御,対戦車砲や軽機関銃の性能向上などを経て,各国の用兵家は,効率の良い戦車像を見失います.
要するに,価値は充分に判ってる人たちが居たけど,金欠でそれどころじゃ無くなり,使われる環境も大きく変化したので,それに合うものを作ろうとした.
しかし,重量の面で,単一砲塔の戦車への回帰がされる訳です.
ただし,その後しばらく,懐具合や国情が作用し続けています.
恐慌で予算もなく,孤立主義のために他国の研究もしなかったアメリカは,第二次世界大戦が激化するまで,的外れな(戦車は塹壕戦に特化し,その他のことは戦車駆逐車にやらせる)発想を継承しました.
他方,ドイツは主に経済面の理由で,主力戦車と隊長者の武装を分けたり,歩兵支援を安価な突撃砲を持つ砲兵科の受け持ちにしております.
Renault FT-17


【質問】
この,「やわらか戦車」ふうの戦車は,どこの,何て名前のものですか?

【回答】
Peugeot軽戦車です.
1918〜19年に掛けてFranceのPeugeotが試作したもので,Renault
FTに対抗する ために製作されました.
Peugeot水冷4気筒エンジンを車体前面に置き,上部車体は固定戦闘室を設けて
いました.
当然試作のみです.
http://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/france/France-Other.html
眠い人 ◆gQikaJHtf2
◆◆空軍
【珍説】
(第一次大戦中に)やがて,オランダを皮切りに各国の兵器メーカーが,機関銃の発射装置と歯車を組み合わせ,回転しているプロペラの,羽根と羽根の間から弾丸が飛び出して行く装置を開発した.
林信吾著『反戦軍事学』,p.109
【事実】
機銃同調装置(回転するプロペラの間から機銃を発砲する装置)を開発したのはドイツです.
1915年,ドイツのフォッカー社の技師アンソニー・フォッカーが機銃同調装置を開発,それを自社のフォッカーEシリーズ戦闘機に搭載しました.
フォッカー戦闘機の威力はすさまじく,当時連合軍から「フォッカーの懲罰」と恐れられました.
これって結構有名なエピソードなんですけどね.
元々,フォッカー社は1910年にドイツのベルリンで設立されましたが,第一次世界大戦直後の1919年に設立者で技師のオランダ人,アンソニー・フォッカーはドイツで軍用機の製造が禁止され,航空機の製造が困難になったため商売が成り立たないと判断し,オランダに新しいフォッカー社を設立.
ホホイ先生は単純な勘違いをしたのでは?
【質問】
史上初の戦略爆撃部隊は?
【回答】
ドイツ軍が編成したもので,レイモンド・H.
フレデット中佐が率い,占領下のベルギー各地から出撃,英本土の主要地を爆撃した.
この部隊は数種類の飛行機があったが,中に巨大爆撃機が含まれていた.それはB29より翼長が90cm短いだけだった.
1915/1/19-20に敢行された,ドイツ空軍の最初の対英爆撃には,ツェッペリン飛行船とゴータその他の爆撃機が参加,合計270tの爆弾をロンドンその他の都市に投下.死者,1400人以上.
これに対し,英軍は空軍省および英空軍総司令部(RAF)を設置.
また,1918/6には,ヒュー・トレンチャード少将を司令官とする,在フランス独立英空軍部隊を創設した.
この部隊はデハビランドとハンドレーページ両爆撃機隊でドイツの工業中心地マンハイム,カールスルーエ,フランクフルト,コブレンツ,シュツットガルトなどを攻撃.計540tの爆弾を投下し,約700人を殺害した.
終戦時には,トレンチャード司令官はベルリン空襲準備をしていた.
(Carl Berger 「B29」,サンケイ新聞社出版局,1971/3/5, P.6-7,抜粋要約)
【質問】
第1次大戦で活躍した戦闘飛行艇について教えてください.
【回答】
Hanza-Brandenburg CCを配備した戦闘飛行艇部隊が、第一次大戦中期にアドリア海でイタリア軍が装備したNieuport
11と戦闘を行なっています。
Hanza-Brandenburg CCは,後に自分の航空会社を興したErnest
Heinkelが設計したもので,運動性はNiuportに劣っていたものの、速度性能が優れ、機首中央に機関銃を配したため、照準が、翼上に機関銃を装備したNieuport11よりも付けやすく、可成り有利な戦いを展開してますね。
もう一つが、複座ながら戦闘飛行艇として用いられたLohner
L.Iがあります。
Lohner社自体はViennaにあったりしますが、アドリア海で沿岸哨戒、偵察、更に艦船攻撃に用いて潜水艦を撃沈したり、夜間爆撃機を迎撃し、これを撃墜したり、と多方面で活躍しました。
この機体はポーラの海軍工廠でも製造され、機体を鹵獲したイタリア軍は、この機体をそのままコピー生産していたりします。
イタリアの方は1917年にMacchiがM.5を開発し、こいつは1年で240機が生産され、海軍の5個飛行中隊に装備されました。
この中には700回出撃した部隊もあったとか。
イタリアの戦闘飛行艇は戦後も発展を続け、Savoia
S.12/13、Macchi M.7が海軍に配備されて戦艦などにも配備され、また、M.C.72に連なる競争機へと発展していきました。
結局,水上飛行機になりますが、最終形がMeridionari
R.o.43ですね。
また、これらの影響を受けたのがフランスで、PotezやLoireなどが戦闘飛行艇、水上戦闘機を製作しています。
いずれも、地中海で戦艦から発進して、敵戦闘機を追い払うのが任務でした。
二重帝国海軍が航空機を運用し始めたのは、1910年代初期の話。
この航空機に対し、海軍は、偵察のみならず、貧弱な水雷戦隊の補強として非常な期待を示していました。
けれども、第一世代の飛行艇は非常に脆弱で、アドリア海の好天状態でやっと運用できるものでした。
しかしながら、海軍の機体は、陸軍のそれと並行して技術的な発展を遂げていきました。
海軍の飛行艇が発展した理由の一つは、陸上機が技術的な故障を起こしたり、空戦で損傷したりすると着陸場所が無ければそのまま放棄せざるを得ないのですが、飛行艇なら、同じ損傷状態や故障発生でも
広大な海に着水可能ですし、可能なら、最寄りの港まで曳航し、修理することが出来たからです。
もう一つは、他国の様に海軍航空が偵察だけに止まらず、敵地奥深くまで侵攻して爆撃したり、迎撃戦闘を行うなど、戦線維持に可成りの責任を負っていたということが挙げられます。
とはいえ、1917年からイタリア航空隊を始め、英国、フランスの航空隊が戦線に参加すると数で圧倒され、1:3の比率まで来たとき、破綻が起こりました。
大戦を通じて、二重帝国海軍は570機の飛行艇を投入し、56機が撃墜され、151機が事故で失われ、80機が、
状態悪化で除籍されています。
余談ながら、二重帝国海軍航空隊は世界で最初に、潜水艦を航空機で撃沈したという記録を持っています。
1916年9月15日、飛行艇L132とL135が、フランス海軍の潜水艦Foucaultを撃沈したのです。
撃沈後、両機は海面に着水し、味方の魚雷艇が到着するまで、乗組員を救助していたそうです。
【質問】
第一次世界大戦後に生まれたと言う空中戦艦思想って何ですか? まさか実際に戦艦が空を飛ぶ訳じゃ…
【回答】
一言で言えば、長距離戦略爆撃機のこと.
当時、戦略兵器と言えば,大艦巨砲主義に基づいて建造された戦艦と,それによって構成される艦隊のことだった。
それを超えるものとして構想された、長距離を飛行し敵国の中枢部を直接叩ける爆撃機部隊の事を指す.
【質問】
第一次世界大戦中にオーストリア=ハンガリー二重帝国陸軍が試作したステキヘリコプターについて教えてください.
【回答】
「山猫文庫第二壕」:2007/11/7付によれば,Petroczy-Karman-Zurovec PKZ-2と言って,1918年に試作された弾着観測用の係留式ヘリコプター.観測気球と似たようなもの.
星型エンジン3基に,木製の二重反転ローター装着.
試作機は50mまで飛翔し,飛行時間30分を記録.
しかし事故で壊れて,開発中止に.
>米国陸軍が第二次世界大戦後1955年に試作した個人用ヘリDH-4に,
>印象がかなり似てると思うのですが,いかがでしょう.
と,同ブログは述べている.
詳しくは,
Petroczy-Karman-Zurovec PKZ 2 helicopter
- development history, photos, technical
data
を参照されたし.
また,『DBE遊撃隊』,2007-11-14-01:57:45付によると,模型が売り出されていたり,切手になっていたりするとか.
そういえば,ヘリコプターを発明したこともハンガリー人の自慢の一つだそうだが,……もしかしてこれのこと?
◆◆◆ドイツ関連
【質問】
レッド・バロンって何ですか?
【回答】
【質問】
プール・ル・メーリット勲章の受勲基準は?
【回答】
坂田沿齟「独逸航空人傳」(十一組出版(東京市京橋区銀座西8−4小澤ビル:当時),昭和十七年一月十五日発行)によれば,独逸の受勲基準はベルケやインメルマンは8機の時で,その後上げられて12機になり,リヒトフォーフェンの時は16機となっていたという.
リヒトフォーフェンはベルケ中隊から第11駆逐機中隊の中隊長に転出の時期に受勲が決まったが,その時点で既に16機以上落としていた.
ただ,条件に係留気球1コを含むというのがあり,受勲を目指さず,表向き(?)は
「気球なんぞ可愛くて落とせるか」
と言って無視していたところ,上がしびれを切らして(あきらめて?)贈ったようなことを書いてあります.
余談ですが,人伝に気球を落とすように進めてもらちがあかなかったため,大本営(ママ)が
「敵の係留気球は何処にあり 大本営」
という電文を直接リヒトホーフェンに送ったところ,彼の電文に曰く,
「敵の係留気球は空にあり リヒトフォーフェン」
【質問】
ファルツDVの実力はどうだったのだろうか?
評判悪いのに大量生産されてるし、量産向きにも見えないが。
企業と軍の癒着だけで作るかな?
【回答】
そんなに不評でもなかったらしいよ。
整備士はともかく,パイロット連には頑丈さと急降下性能の高さが好まれたらしい。
フォッカーDr.I出現までの短命な機体だけどね。
【質問】
爆撃に使われたツェッペリン飛行船はそのまま民間用を使ったのでしょうか?
それとも別に機体設計された物だったのでしょうか?
【回答】
ツェッペリン飛行船は戦前からドイツ(プロイセン)軍が使用していたが,当初は主に偵察用.
弾倉などを取り付けて爆撃にも使われるようになったのは大戦中盤から.
軍用も含めてツェッペリン社が建造した飛行船のリストは以下にあり
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Zeppelins
軍用の飛行船には固有の船名はなく,記号と数字を使用.
ツェッペリン社での製造番号はLZ-XXで,陸軍が保有したものにはZ-XX,海軍が保有したものにはL-XXという番号がつけられた.
また,ツェッペリン社の他にシュッテ・ランツ社が建造した飛行船もあり,こちらはSL-XXという番号がついていた.
http://en.wikipedia.org/wiki/Sch%C3%BCtte-Lanz
【質問】
第一次大戦で飛行船が空襲に使われたそうですが,飛行船なんて戦闘機にとってはでかい標的に過ぎないような気がするんですが,機銃で撃たれてもヒンデンブルク号みたいに爆発しなかったんですか?
【回答】
そうとも言えない.
飛行船も頑張って高い高度を飛ぶようになっていったし,速度だって早い.
昔の航法能力だと(第2次世界大戦でも結構そうなんだけど)爆弾を落とす目的地を探せなかったりするんで,戦闘機側も飛行船を見つけられなかったりする.
一方,飛行機に機銃が積まれたのは,大戦が始まってある程度経過してから.
最初はパイロット同士が拳銃で撃ち合いしてたくらい.
こいつで飛行船を落とすのは難しかろう.
対抗手段が無い頃の飛行船は脅威であった.
だけど,やがては機銃を積むようになり,さらには焼夷弾が弾種に加わって,戦闘機の攻撃力が増すと飛行船は単なる的に過ぎなくなった.
飛行船は損害が多く出るようになり,欧州の飛行船格納庫に空襲を受けたりもするようになった.
なお,ヒンデンブルク号の爆発の原因は塗料だ.
