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◆◆◆◆装備 Hadseregnek Felszerelése
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<◆第1次世界大戦 目次
戦史FAQ目次


(画像掲示板より引用)


 【link】

Cute Tanks in World War 1

D.B.E. ミニ型」:ロシアの昔の戦車いろいろ / 情報源HK-DMZ PLUS.COM

朝目新聞」●第1次世界大戦期の各国のヘルメットやヨロイ  (of エルエル)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 1 (重視されなかった野戦砲兵)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 2 (理論のみがあった間接射撃)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 3 (砲弾大量消費時代)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 4 (最終防護射撃とは?)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 5 (弾幕射撃の改良)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 6 (多すぎる仕事)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 7 (縦深制圧に向かう野砲兵)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 8 (「機動戦への復帰」ならず)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 9 (戦車のいない突破作戦)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 10 (対砲兵戦の成果)

「いろいろクドい話」◆砲兵の仕事 11 (砲兵の衰退)

「ワレYouTube発見セリ」:World War 1 British Tank Footage

●Book

『Machine Guns of World War I: Live Firing Classic Military Weapons in Colour Photographs』

 フィールドストリッピングどころか,可動保存されている実銃を射撃している.
 全篇カラーの良本.
 内訳は
MAXIM MG08
MG08/15
MP18/I
VICKERS Mk.I
LEWIS Mk.I
HOTCHKISS Mle 1914
CHAUCHAT Mle 1915

――――――軍事板,2010/05/08(土)

『Schneider CA, St.CHamond』(Witold J. Lawrynowicz著,AJ-Press,ISBN 978-83-7237-196-6)

 おそらくシュナイダーとサンシャモンについて,世界で一番詳しい本.
 戦歴も地図も図面も明細も完備.
 買い.
 誰も望んでいないのが難点.
 ポーランド語だが,英語併記なので大丈夫.

 ちなみに同出版社は,えらく詳しいタンネンベルグの本も出しているが,こちらは英語レジュメ付きと銘打っている.
 安心して買うと,まじで概要程度の2Pぐらいがあるだけなので気をつけろ.
 いつの間にかポーランド語ググッているハメになるぞ.

――――――軍事板,2010/05/30(日)

『Track Prints』

 イギリス旅行に行ったついでに,ボービントン戦車博物館で購入.
 第1次大戦時のイギリス戦車の写真集.
 写真集なので英語でも見てて楽しいし.
 普通の菱形戦車が野砲をけん引していたり,戦後にホイペット戦車がレースしてる写真とかが載ってる.

――――――軍事板,2010/03/29(月)

『第一次世界大戦小火器図鑑 1914~1918』(白石光著,イカロス出版,2017)

 文字通り,第1次世界大戦の参戦各国で用いられた小火器の紹介という体の本です.
 とは言っても,これらの小火器は19世紀末から20世紀初頭に掛けて開発されたので,その辺の小火器もきちんとカバーしています.

 最初に全体的な小火器の発達史について軽く触れ,第1次世界大戦での小火器運用,各国が用いた弾丸についての紹介をして,代表的な銃器の各部名称を付してくれているので,記述で判らなくなったら,その図を見れば理解できるようになっていて,とても親切です.

 取り上げられている小火器は,現在でも使われているコルトやブローニングの自動拳銃から,第2次世界大戦でも使われたドイツのGew.98,英国のリー・エンフィールド,米国のスプリングフィールドM1903,日本の三八式,ロシアのモシン・ナガンM1891小銃,機関銃では第2次世界大戦を通じて使われたドイツのMG08,英国のルイス・ガン,ロシアのマキシムM1910に米国のブローニングM1918BAR,M1917,日本の三年式機関銃と言ったメジャーどころから,デンマークのマドセン・マシンガン,カナダのロス・ライフル,フランスのショーシャ機関銃や,イタリアのフィアット・レベリM1914機関銃と言ったマイナーどころまで数多く揃えての紹介を行っています.

 主要なもの以外でも,それぞれの小火器の設計思想や運用状況なんかをコンパクトに凡そ見開き2ページで紹介すると言う体裁なのでとても見やすいし,それぞれ各部から見た写真が掲載されているので,イメージも掴みやすいです.
 写真があると,どんな思想で作られたのかと言う記述がすんなり腑に落ちますし,故障が少なく,戦場での酷使に耐えて兵士からの評判が良い銃器と言うのはかなりシンプルに作られているのだなぁと言う感じを受けました.

 また,戦史としてはマイナーどころの域を出ない第1次世界大戦ですが,既に現在に至る小火器運用の雛形が出現して居ると言うのはすごく興味の湧くところですし,その雛形から現在の小火器の運用と言うのが大きく逸脱していないと言うのが面白いなぁ,と.

 もう少しページ数があれば,第1次世界大戦に参戦した各国の小火器事情を見てみたいと言う気もしましたが,流石にそれは無理な注文なのかも知れません.
 今回は主要参戦国と周辺の中立国だけが取り上げられていただけだったので,例えばスイスとかスペイン,連合国だとルーマニアやセルビアの事情も分かるともっと資料的価値が上がったのかも知れないです.

 とは言え,これだけの資料を揃えるだけでもかなりの努力が必要だったのだろうと思いますので,そこは素直に敬意を表したいと思います.

------------眠い人 ◇gQikaJHtf2, 2017.9.14

 【質問】
 アメリカにも列車砲があったと聞いたのですが,どのような物だったのでしょう?

 【回答】
 実物は下のをご覧下さい.
http://www.aopt91.dsl.pipex.com/railgun/Content/Railwayguns/USA/Dahlgren.html
http://www.aopt91.dsl.pipex.com/railgun/images/Railguns/USA/WW1GUN4.JPG

 1917年の米国参戦後に米国海軍が開発に着手し,1918年4月25日に120日という短期間で,米国最大の鉄道車輌メーカーであるBaldwinが製造したもので,海軍用14in50口径砲を搭載していました.
 海路輸送され,欧州で組み立てられた後,1918年9月2日にフランスの戦線に投入され,終戦までドイツを射撃していました(ちなみに,全部で782発発射した).

その車輌編成は,
 Consolidation機関車+炭水車+列車砲+弾薬車+弾薬車+兵員車+兵員車+兵員車+司令車+給食車+燃料車+修繕車+砂/丸太運搬車+資材車+資材車(クレーン付)
と言う構成でした.

 ちなみに,兵員は全て海軍の管轄だったりします.
 実物は,Washington Navy Yardにあるそうです.

 なお,米国の列車砲の歴史は,1865年のPetersburgの攻囲戦で33cmの攻城臼砲を無蓋貨車に搭載して使用したのが始まりです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/03/16(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 この写真の兵士が持ってるのは槍ですか?,もしかして.

 【回答】
 槍だよ.
 第1次世界大戦の頃までは,騎兵は普通に槍を装備していた.

 ちなみに,
「こんなのもう使わねぇっつうの」
言われて前線から引き揚げられたあとは,重しを付けて飛行機から地上にバラ撒く「対人兵器」としても槍は使われた.

軍事板
青文字:加筆部分


 【質問】
 第1次世界大戦の時のドイツ軍のヘルメットってツノが生えてますよね?
 あれって意味があるんですか?
 なんかの役に立つんですか?

 【回答】
 「ピッケルハウベ」な.
 もともと,騎兵の攻撃から歩兵の頭を守るための作られたらしい.
http://www.kaiser-collection.com/phkaisetu.html

 階級によって長さが違ったが,邪魔なんでだんだん短くなり,1916年頃にピッケルハウベから鉄兜(シュタールヘルム)に変更され,とうとうツノはなくなった.
 第二次大戦時の物はこれとわずかに形が違う.
 ちなみに最初に鉄兜を採用したのはフランス軍(アドリアン型)で,それに英軍が続き,さらにドイツ軍も採用している.

 ヘルマンヘッセの小説で,「塹壕の中でカードゲームをするとき,ローソクを立てるのに便利」って書いてあったような.

WW1各国歩兵
各国のヘルメット・帽子の違いが分かる
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 イギリス軍の深皿型ヘルメットは,何を考えてあんな形にしたのでしょうか?

 【回答】
 榴霰弾防護のため.
 WW1当時は,塹壕に篭っている兵士の頭上から弾片が降ってくるから,あのデザインが合理的だった.

 戦争の様式が全く変わったWW2になっても,アレを使い続けたのは,どうかと思うが.

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 日露戦争に観戦武官を送り込んでいたにも関わらず,なぜ第1次大戦でも機関銃に向かって突撃するという戦術がとられたのですか?
 旅順攻略戦の一件で,機関銃の威力と効果は十分理解できそうなものですが…….

 【回答】
 そこらへんの話は「機関銃の社会史」という本が非常に詳しいのですが,要するに保守的な貴族将校たちが機関銃の有効性を全く理解しようとしなかったという事のようです.
 旅順攻略戦の機関銃の活躍を聞いてなお,それらは局地的な現象に過ぎないと思い込み,突撃こそ戦場の勝敗を分けるとそう信じていたわけです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE


 【質問】
 第1次大戦で,欧州派遣米軍が使えない機関銃を押し付けられたと聞きました.
 その機銃,何がどうだから使えないと言われたのですか?

 【回答】
 アメリカ軍が採用したフランスのショーシャMle1915軽機関銃の事だな.

 何故か知らんがおフランス製をありがたがる傾向のあったアメリカは,この軽機関銃を採用,大量に輸入して配備した.
 ところがこのショーシャ・マシンガン,作動不良の頻発,発射速度が早過ぎて反動が大き過ぎ弾道が定まらない上にすぐ弾が切れる,人間工学的デザインが悪過ぎて発砲中の保持ができない・・・と欠点のオンパレードで,アメリカ軍を悩ませた.
 結局多数が現地で勝手に「廃棄処分」されることになり,遣欧米軍は主にルイス軽機関銃やドイツから捕獲した機関銃を使っていた.

 もっともこのショーシャマシンガン,話によっては作動も快調で命中精度も高かった・・・とも伝えられている.
 どうもロットによって出来不出来の差が激しく,使う兵士の体格に性能が左右された模様.

 ちなみに形はこんなんね>ショーシャMle1915
http://yamsta.hp.infoseek.co.jp/doll/komono/lmg01.jpg
 グリップの前の半月形の部分が弾倉.
 なんか見ただけで「・・・ダメぽ」な感がありあり(失笑)

 ついでにいうとこれ,スペック上の発射速度は800発/分だったが,実際には200発/分がせいぜいだったとか(それでも作動不良が起きる).
 ロング・リコイル方式の作動方式と複雑な弾倉形状に根本的な問題があったのと,当時ではプレス加工――この機関銃部品にプレス加工を多用している.そういうとこだけは先進的――で出せる精度に限界があった事,戦時急造で品質管理がめちゃくちゃだったところに問題があったみたい.

軍事板,2004/12/12
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第1次大戦で使用された砲弾の数は第二次の時より多かったそうですが,本当なのでしょうか?
 だとしたら,なんでそんなに生産したのでしょうか?
 それだけ需要があったということなのでしょうか?

 【回答】
 丁度,速射砲が野戦で使用されたのが第1次大戦だったから.
 有名どころでフランスの75mm.
 これで時間単位の投射量が7~8倍になった上に,網の目のような鉄道網による潤沢な補給により,文字通り砲弾の雨が戦場に降り注ぐ事になった.

 しかしこれが原因で,塹壕戦に移行した為に,効果が落ちてしまった.
 塹壕を攻略するため,やたら大量の砲弾を双方ボカスカ撃ちまくったが,でも,それだけ撃っても塹壕はなかなか攻略できなかった.
 ま,一言で言えばまだ非効率な火力戦闘やってた時代.

 それと,塹壕に攻勢を掛ける前に大量に砲弾をぶっ放すんだけど,大抵は失敗する.
 すると,責任者は口を揃えて「砲弾と攻撃精神の不足」をその原因としたがる.
 効果の薄い砲撃をしまくるから,砲弾が不足する.
 それを補充せざるを得ない,と言う悪循環が大量の砲弾製造へと繋がっていった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 エンフィールドとリー・エンフィールドは,どう違うんですか?

 【回答】
 基本的に同じものです.
 ただ,「.33口径エンフィールド1914年式」,あるいはP14,米での制式名M1917は,オリジナルのLee Enfieldの機構ではなく,モーゼルを模倣したものであり,名称としても「リー」が付いていないことから,敢えてこのライフルを「エンフィールド」とのみ呼んで,他の「リー・エンフィールド」モデルと区別するマニアもいるようです.
 通常は,どれも「リー・エンフィールド」と呼ばれたり,単に短く「エンフィールド」と呼ばれたりしています.

軍事板
青文字:加筆改修部分


▼ 【質問】
 パリ砲で使われた砲弾の重さは330lbですかね?
 パリ砲で使われた砲弾の運動エネルギー量は?

 【回答】
 21センチ列車砲(パリ砲)198,046,875j
 15cm高圧ポンプ砲(V3)88,946,784j
 80cm重列車砲ドーラ(榴弾)1,613,760,000j
 80cm重列車砲ドーラ(徹甲弾)1,739,500,000j
 戦艦大和の主砲・徹甲弾(一門辺り)30,451,769,400j

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ランチア装甲車について教えられたし.

 【回答】
 「Tanks!」によれば,Autoblinda Lancia I.Z.は,Ansaldo社によってランチアI.Z.軽トラック車台を改造して作られました.
 初期型は1915年に20台完成.
 6.5mmマキシム Maxim 機銃を3丁搭載していましたが,後に8mm St. Etienne 機銃に変更されました.
 車体前部に装備されているレールは,ワイヤを切るためのものです.

 この車輛は第2次大戦勃発時にも,イタリア領の東アフリカとリビアではまだ現役でした.

乗員定数  6
重量 8140ポンド
全長 17フィート8.66インチ
6フィート
全高 7フィート10インチ(初期型)
航続距離 186マイル
装甲 6-13mm
武装 8mm St. Etienne MG
エンジン 4気筒 Lancia ガソリン・エンジン 25-35hp

消印所沢

 この装甲車って1944年の南チロルでも,ドイツ治安警察で使われてますねー.http://www.panzerbook.com/italia/it21.htm(リンク切れ)

 二線級部隊に廻されたとしても,随分長く使われたものだと思います.

faq25i03l.jpg

よしぞう(maro') in mixi,2006年12月01日03:36
~2006年12月02日 02:39

南チロルの治安警察部隊ボーツェンが使用するランチア1ZM装甲車
(画像掲示板より引用)


 【質問 kérdés】
 Obice da 305/17って何?
Mi Obice da 305/17?

 【回答 válasz】
 1914~1917年に英アームストロング社のイタリア・ポッツオーリ工場にて,約30~44門製造された榴弾砲.
 17は17口径を意味するが,実際には砲身から砲尾まで19口径分の長さがあった.

 初期生産型のObice da 305/17 Modello 15 は固定式沿岸防衛砲だったが,軽量・簡素化が行われて分解・組立式の移動式攻城砲としても使用可能なObice da 305/17 G Modello 1916やModello 1917も後に登場.
 さらに Modello 17には,「デ・ステファノ式砲架」と呼ばれる牽引用砲架に搭載された Modello 17 DSも登場した.

 第1次大戦ではカポレットの戦い等に投入され――うち,1問をオーストリア=ハンガリー軍が鹵獲している――た他,スペイン内戦ではナショナリスト側に5門供与.
 第2次大戦でもフランス戦役,ナポリの防衛,シチリア海岸の防衛に投入.
 最後の305/17の退役は戦後の1959年だった.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://blog.livedoor.jp/janome_gotyou/archives/1910995.html
http://www.historicalab.it/Obice_da_305_17_G__mod__17.htm
https://www.museodiegodehenriquez.it/al-cospetto-di-un-gigante/

1枚目:側面図,デ・ステファノ式砲架上の305/17
(図No. faq221123ob,こちらより引用)

2~3枚目:北部イタリア,Sandrigo, Veneto の路上の305/17 DS
1918.6.2撮影
(図No. faq221123ob2~3,こちらより引用)

4枚目:オーストリア=ハンガリー軍が鹵獲した305/17 DS(デジタル着色写真)
1917年11月
(図No. faq221123ob3,こちらより引用)

mixi, 2022.11.24

トラックによって牽引されている305/17 DS(動画)


◆◆◆◆化学戦


 【質問】
 WW1において,化学兵器が実戦で初めて使用されたのは?

 【回答】
 1914年8~11月にかけて,散発的に臭化酢酸エチル(現在の分類では催涙ガスに分類されるが,実際には塩素ガスより致死性が高い)がフランス軍によって使用されております.
 26mm榴弾に充填されたそれは,内容量が19ccと少なく,ドイツ軍に与えた打撃はほとんどありませんでしたが,臭気から使用は直ぐに発覚しました.
 第1次大戦における化学兵器使用は,これが最初かと思います.

 ドイツはその報復として,同年10月,ヌボーシャペルの戦場にて,Ni剤(Niesen=くしゃみ)と呼ばれるジアニシジンクロル硫酸を使用しますが,こちらもフランス軍のそれと同様の理由で効果が限定的なので,再使用はなされませんでした.
 ドイツはさらにT剤(臭化ベンジル)を1~3月に,フランスもクロロアセトンを3月末に投入しますが,やはり効果がパッとせずに終わったようです.

 詳しくは,常石敬一著「化学兵器犯罪」,講談社現代新書,2003/12/20, p55~p60を参照してください.

 このような競争がエスカレートした結果,1915年4月にドイツ軍は塩素ガス大量使用に踏み切った,と思われる.以下の記事に,その詳細がある.

 第1次大戦中の1915/4/22.ドイツ軍は,フランス・カナダ軍との前線,イーペルで120tのクロロケン(塩素ガス)を使用した.
 毒ガスの影響を受けて死亡した兵士は,この日だけでも5千人に達した.

 イーペルは交通の要所というだけでなく,中世から繊維産業で栄えてきた町だった.
 繊維産業と言えば,第1次大戦当時,最も栄えていた産業の一つ.
 戦争になれば軍服なども必要になるので,軍の需要も高い.
 こうした理由から,ドイツ軍は,イーペルを徹底破壊することで連合軍に打撃を与えようと考え,クロロケンを使用したのだった.

 クロロケンは漂白剤としても使われる,塩素ベースのガスで,致死性は低い.
 その上,このときの攻撃方法は,弾頭に毒ガスを装着して相手陣営に撃ち込むのではなく,大型ガス・ボンベに入れた毒ガスを風上から風下に噴霧するだけの原始的なものだった.

 致死性が高い毒ガスは,1899年と1907年の2回,ハーグで開かれた国際平和会議により禁止されている.
 しかしクロロケンは,言ってみれば日常的に使われる漂白剤であり,よほどのことがない限り,ひとは死なない.
 そこでドイツ軍は,
「クロロケンは,使用が禁止された毒ガスではない」
と強弁,使用した.

 致死性の低いガスにもかかわらず,何故1日で5千人もの兵士が死亡したのか?
 第1次大戦は塹壕戦だった.
 塹壕の中にはいつも雨水が大量に溜まっていたが,死亡した5千人の大半は,クロロケンを吸って気絶した後,塹壕内に溜まっていた雨水に顔を突っ込み,溺死したのだった.

 ドイツが毒ガスを本格的に使い始めたことで,連合軍もその後,毒ガス使用に躊躇がなくなり,双方が使う毒ガスは,より致死性が高いものへとエスカレート.
 この大戦中に開発された化学兵器は,3千種あまりに達した.

 当時のとあるイギリス海軍将校の,こんな言葉が残っている.
「毒ガスを吸い込んで死ぬより,撃沈された艦艇の中で,海水を吸い込んで死ぬほうが,よほど苦しくて残酷だ」
 当時,化学兵器に対しては,この程度の認識しかなく,そのために開発も使用もエスカレートしていったのだった.

(桃井和馬 from "SAPIO" 2003/6/11, p.53-54,抜粋要約)

 ドイツが15年4月22日に放出した塩素ガスの総量は,「化学兵器犯罪」によれば,約150tと記載され,その内訳は,

 重量85kgの,液体塩素40kgが入る大型ボンベ1600台(40kg×1600台=64t)
 重量が半分で,20kg入りの小型ボンベ4130台(20kg×4130台=82.6t)
64t+82.6t=148.6tで,約150t
とされている.

 ただし,"常石敬一"をキーワードにGoogleで検索すると,一番最初にちょっと大変なサイトが引っかかります.
 それと,この著作の参考文献中に,慰安婦問題で有名な吉見教授の著作が二つありました.
 常石教授の著作も,全てをソースにする事は難しそうです.

(名無し三等兵 from FAQ BBS)

+

 イーブルのガス攻撃では,全体でガス中毒者一万四千人,死者五千人,捕虜二四六八人と発表された.
 しかし,この数字は連合国の発表によるモノで,ドイツ軍の試算ではもっとずっと少なかったと言われている.
 双方の発表,どちらにもプロパガンダ用に数字を増減させているので,正確な数値は現在となっては知るよしもない.

(井上尚英「生物兵器と化学兵器」,中公新書,要約)

 毒ガス弾の使用については,Ardennesでフランス軍が使用したのが最初です.
 これに対抗して,1914年10月,敵の殺傷ではなく,敵を通常兵器の火力の届く範囲に追い出すことを目的として,27日にヌーヴ・シャペル近郊で3000発の刺激性粉末弾を使用しています.
 次いで1915年1月31日,東部戦線のボリムフで,ドイツ第9軍団が15cmTガス発射榴弾1万発を使用しました.
 当時の毒ガスは,国際法学者の批判をかわす為,塩素ガスであることは表に出さず,使用が禁じられていない刺激性のガスであることが言明されています.

 イープル戦では,約150tの塩素ガスが幅6km,奥行600~900mの雲を形成し,協商側では15000名がガス中毒となり,5000名が毒ガスで死んだとしています.

 連合軍は,1915年6月4日にランコーンのマンチェスター運河畔で最初の塩素放出実験が行なわれ,6月25日には最大兵力6000名のガス特殊部隊が編成されました.
 連合軍最初のクロルガス攻撃は,5500本のボンベを用いて1915年9月25日に英国軍によって行なわれています.

(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)

イーブル戦
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 塩素ガスを兵器として利用することを提案したのは誰か?

 【回答】
 当時,ドイツは世界最大の重化学工業国で,特に有機合成化学工業の分野では,他国の追従を許さないまでに発展していました.
 有機化学合成は副産物として,さまざまな毒ガスを大量に生み出します.
 ドイツは,有機化学合成の材料としてよく使う「苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)」を大量に生産していました.
 一方で,その副産物として塩素ガスが大量にできてしまうという難題を抱えていて,この塩素の処分に大いに苦慮していました.

 この塩素を兵器として利用できないか? と考えたのがフリッツ・ハーバーだった.
 この人物は高校の化学の教科書に名を連ねているくらい有名な人物であり,画期的なアンモニア合成法を発見した人物である.
 彼は研究の結果,塩素をボンベに詰めて放射するのが最も効率のよう方法と結論づけ,ドイツ軍参謀本部に打診します.
 戦線は長い間膠着状態に陥っており,戦局の打開を狙っていた参謀本部はすぐにこの提案を受け入れ,早速準備が進められました.

 こうして,イープルの北東から東側に掛けて7kmにわたってガスボンベが敷設されました.

(井上尚英「生物兵器と化学兵器」,中公新書,要約)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 最初の毒ガスの大規模使用は?

 【回答】
 5月31日,東部戦線のWarsaw郊外,ボリムフ郊外のブズラ河畔で第36ガス工兵連隊が12000本のガスボンベを投じて行なったもので,これによってロシア側で3100名がガス中毒となり,1200名が死亡したとされています.

(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)

▼ 毒ガスは最初のうちは,ガスボンベに詰めて前線近くまで持っていき,風向きをみて放出して風に乗せ,敵の塹壕へと向かわせるというものだった.
 従って,風向きによっては逆に自軍の塹壕線へと押し戻されることがあったし,またこの点では西風が卓越している欧州西部戦線においては,東から攻めているドイツ軍にとって不利でした.
 その後,砲弾に詰めて撃つようになります.

軍事板
青文字:加筆改修部分

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 塩素・フォスゲン混合ガスによる最初の攻撃は?

 【回答】
 1915年12月19日,ヴィールチェで英軍に向けて行なわれ,1000人がガス中毒となり,うち116名が死亡,塩素・クロルピン混合ガスは1917年1月31日にシャンパーニュで実施されており,この攻撃では2000人以上がガス中毒になりました.

 こうした攻撃はドイツ軍だけで少なくとも50回実施されています.

(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)

ガスマスクを着けたイギリス兵
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 ドイツ軍最大の毒ガス攻撃は?

 【回答】
 500tの塩素ガスを用いた1915年10月19~20日にかけてルビン近郊で実施したものです.

(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)


 【質問】
 最大の損害を出した毒ガス攻撃は?

 【回答】
 二重帝国軍がイタリア軍に対してベルド高地で行なったもので,5000~8000名がガス中毒となりました.

(Franz W. Seidler,ドイツ連邦国防大学教授,「毒ガス戦の登場」
from 「世界戦争犯罪事典」)

▼ 一方,毒ガスは砲撃や大規模な攻勢の一環として用いられるので,毒ガス単体での戦死者数〔中毒者数ではなく〕というのは見積もりにくいんじゃないでしょうか.
 毒ガスは低いところに滞留しますから,掩蓋陣地や塹壕に篭る敵を地上にあぶりだしたところに.榴弾を降らせるというようなやり方がありますし.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 各国の化学兵器使用状況は?

 【回答】
 1916年6月~11月のソンム会戦では,英国軍は,塩素・フォスゲン混合ガスで50回の放出攻撃を行ない,全部で38000本のボンベを用いています.
 英国軍のガス散布量は,大戦最後の2年間で1kmª当り250tに上っており,大戦全期間では,300回以上の攻撃で88000本のガスボンベを消費しました.
 また,1918年には全弾丸の3分の1が化学戦物質弾頭になっていました.

 フランスは,1915年7月~1918年11月に1700万発の毒ガス弾が作られ,1915年12月に毒ガス戦部隊「Z中隊」の最初の部隊が編成されました.Z中隊は,最終的に9個が編成されています.
 平均して毎月50回の毒ガス攻撃が行なわれ,12000tのガスが消費されています.

 ロシアは1916年9月5~6日にクニロヴォ近郊で最初の大規模な塩素ガス攻撃を行ない,末期にはフォスゲンに切り替わっていきます.

 米国も1917年3月以降,最大で2000名が化学兵器研究に従事し,月間毒ガス生産能力は砲弾で600万発に上りました.
 1918年には6社が毒ガスを生産し,1919年には18社で3個化学戦部隊を維持する予定でした.

 これら毒ガスの使用法ですが,ドイツは大規模投入による防御措置の崩壊を目論み,連合国側は長期間,継続的に少量集中攻撃を行なうことで,前線兵士の士気阻喪を目論んでいました.

 戦争終結時,フランスは18社が塩素ガス,フォスゲンを製造し,英国では10社がそれらを製造していました.
 ドイツはBASF,Hoechst,Bayerの各社で,フォスゲン18000t,ビフォスゲン11600tが生産されています.

 ジフェリルクロルアルシン,ジフェリニルシアンアルシン,即ち,嘔吐剤の使用は,1917年半ばに初めてドイツが実戦に投入し,イペリットガスは1917年7月13日に同じくドイツが使用しました.
 イペリットガス中毒の患者は,英国では15万人に達し,戦死者の6人に1人は毒ガスによるものとなっています.

 ただ,各国とも,毒ガスはHague陸戦規則第23条イに相当する「毒又ハ毒ヲ施シタル兵器」との認識でしたが,第23条ホに相当する「不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器,投射物其ノ他ノ物質ヲ使用スルコト」の「不必要ノ苦痛ヲ与フヘキ兵器」ではない,つまり,ガスマスク導入後はガスによる発病者の死亡率は3~4%でしたので,「最も効果的な兵器にして,『最も人道的な』兵器とさえ見なされていました.

 第1次大戦では45種類の化学物質が使われ,そのうち18種は致死性が強く,27種は刺激性が強かったものです.
 全体では11万3000tの化学戦物質が投入され,ドイツが52000t,フランスが26000t,英国が14000t,二重帝国が7900t,イタリアが6300t,ロシアが4700t,米国が1000tでした.

 【参考ページ】
Franz W. Seidler(ドイツ連邦国防大学教授)「毒ガス戦の登場」, 『世界戦争犯罪事典』

各国のガスマスク
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 WW1におけるガス中毒者数は?

 【回答】
 種々の説があってはっきりと分からないですが,ドイツが20万(死者9000),フランスが19万(死者8000),英国18万8000(死者8100),米国72800(死者1462),二重帝国10万(死者3000),イタリア6万(死者4600),ロシア47万5000(死者5600)となっています.

 【参考ページ】
Franz W. Seidler(ドイツ連邦国防大学教授)「毒ガス戦の登場」, 『世界戦争犯罪事典』


 【質問】
 第1次世界大戦の毒ガス攻撃は,双方ともに決定打にならなかったのはなぜなんでしょうか?
 先に大量に毒ガスをぶち込んで皆殺しにした方が,圧倒的に有利だと思うんですが.

 【回答】
 毒ガスは開けた屋外の戦場で使うには,天候と風向きをよく読んで使わないと,大量に必要になる割には殺傷効果が低かった(ただしあくまで相対的な話).
 当時の毒ガスの主流は窒息剤と糜爛剤.
 危険な代物ではあるが,極少量で死に至る神経剤に比べれば威力は弱い.
 密室じゃなくって野外の戦場だったから効果にムラが出るし,濃度にも限界がある.
 だからこそ,大量にぶち込んでも皆殺しに出来るほどの効果がなかった.

 また,例え皆殺しにしたとしても,攻撃側は敵を掃討したその土地を確保する必要がある.
 毒ガス攻撃と同時に侵攻と言うのも難しく,ガスが晴れないと土地の確保が出来ない.
 結局,その待ち時間が敵に反撃の時間を与えてしまう.

 ガスマスクという防護手段がすぐに発展したためもあり,そういう意味では恐ろしいが実効破壊力は低い兵器に.

 そして,毒ガス以前に第1次大戦の戦場は攻撃側は徒歩,防御側は鉄道,車両と機動力に圧倒的差がある.
 ごく一部の例外を除き,攻撃側は直に構成限界点を向かえ,最終的に逆襲される.
 この構図は数々の新兵器,新戦術を用いても4年間,繰り返されてきた.
 ドイツの継戦能力が限界を迎えるまで.

 ただ,それでも「恐怖の兵器」である事には変わりなく,より強力なものは続々と開発されたが,
「もし相手もこれと同じように強力な,いや,こちら以上に強力なものを開発していて,それで反撃されたら・・・?」
という恐怖感が,より強力な新型の投入をためらわせた.

 相手の都市に航空機なり飛行船なりで大々的に投下して,銃後の一般市民を・・・という戦略使用も,
「一回でもそれをやったらすぐに相手も同じことをしてくるだろう.
 そうなったら,それこそお互いの国民を皆殺しにするまで報復合戦になるのでは・・・?」
という恐怖感から結局行われなかった.

 要はWW2後の冷戦の核兵器のように,「強力過ぎる」事が毒ガス兵器の全面大規模使用を思いとどまらせたということ.
 大量破壊(殺傷)兵器は,自分だけが持っていて相手に一方的に使用出来るものでないなら,結局同じ手段で反撃される.
 相手を皆殺しに出来たがこっちも皆殺しにされました,では一体なんのために戦争してるのか分からないので,「同一手段による反撃」が確実に行われると予想されたら使えない.

「・・・どうせうちの国は滅ぼされるんだ.だったら相手も道連れにしてやる.みんなみんな死んでしまえ」
とか考えるなら別だが.

軍事板
青文字:加筆改修部分


◆◆◆◆戦車


 【質問】
 世界初の戦車は,どのように開発されたか?

 【回答】
 時のイギリス海軍大臣“ウィンストン・チャーチル”は気になっていた.
 何が気になるのかは,本人にもわかっていなかった.

 1914年イギリス海軍航空隊がベルギーに配属された.
 このとき海軍兵により,飛行場防衛のため自動車部隊が編成された.
 チャーチルは部隊の大砲牽引車へ装甲を施し,壕を乗り越えられるように改造できるか考えた.
 これが気になっていたことだった.

 最初の公開実験の結果は誉められた出来でなかった,後悔実験だった.
 しかし,頑固者は開発を続行するよう指示した.
「私は陸軍省にも,報告しなかった,また兵器局もこのような構想には乗り気でなかったも判っていた.
 私は大蔵省にも知らせなかった」
 大した自信である.

 開発は前途多難であった.設計はイギリス海軍航空隊の大尉W・ウィルソンが行っていたが,なかなか改良が出来なかった.
 そこで,フォスター社のW・トリトンと協力し研究を続けた.
 初代は気に入らないようで,2代目がよく知られているあの形であった.
 ゴルフ・コースの実験では,なかなかよい成績であったので,軍は100輌を発注した.
 その際に機密保持のため“ウォーター・タンク”と称することになった.

 この名前のセイダロウカ,お偉方意見はサーパリだった.とどめはイギリス軍総司令官の
「面白い仕掛けのおもちゃに過ぎない」
であった.

軍事板

Mk.4 Tank
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 第1次世界大戦当時の戦車の特徴は?

 【回答】
 初期のものは塹壕を乗り越えるため,側面全体に及ぶ巨大な履帯を持っていた(菱形戦車).
 このスタイルから本格的に脱し始めるのは1920年代に入ってから.
 対戦車戦闘は歩兵の担当であり,戦車は対歩兵,対陣地攻撃が主な仕事だった.
(その為,短砲身で榴弾装備のものが多かった)
 装甲が十分なものでなく,また戦術が確立されていなかったため,歩兵の近接攻撃には非常に弱かった.
 登場したばかりの兵器なので,各国で研究される中で,様々な戦車のタイプが生まれることになる.

A.T.I.C.(2009.9.25アクセス)

英マークIV戦車雌型の絵葉書

 取り囲んだ日本陸海軍の軍人達が写っているので,輸入された直後の試験運転の頃の撮影でしょうか.

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月27日01:10


 【質問】
 世界初の戦車は,どのように戦線に投入されたか?

 【回答】
 イギリス軍は軍令部も軍政部も,この厄介なタンクをうるさ型の将校に任せた.
 彼ら戦車推進論者は大体まとまりつつあった.

 それでも,戦車部隊は1916年4月にイギリスから西部戦線へ送られた.
 Ⅰ型・雄型6ポンド砲2門,オチキス銃4挺装備が75輌.
 Ⅱ型・雌型機関銃4挺装備が75輌.
 各重量28トン.
 乗員は将校1名.兵6名であった.

 8月中旬イギリス軍は戦車を重機関銃部隊の編成内「重部門」へ配属された.
 そして,運命の1916年9月16日がきた.

 イギリス軍は9月15日の夜に49輌の戦車は移動をはじめた.
 9月16日陣地へ突入した“タンク”は39輌を切っていた.
 だが,結果として300名のドイツ兵を捕虜としていた.

 しかし,この成功は事実だが真実で有ったのだろうか.
 イギリス軍はこれまで戦車部隊を育てた指揮官を更迭していた.
 また,戦車は集団使用されず,歩兵直協として使われていた.
 この戦勝は硬直した戦線には,ちょうど良い新聞ネタだった.
 イギリス本国では,参謀本部と陸軍省が戦車軍団の増強を押さえにかかった.

軍事板

当時の対戦車戦術
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 歴史上,初めて行われた戦車戦は,いつ何処でどのように発生したのでしょうか?

 【回答】
 戦車で戦車に対抗することを意図した史上初の戦車戦は,1918年4月24日のヴィレル・ブレトニューの戦いであったといわれています.
 1918年4月のドイツ軍のアミアン方面への侵攻に際して,ドイツ軍では14両のA7Vを準備し,これを3つのグループに分けて投入しました.
 このうちの第3グループの3両がカシィ方面に進出した際,英軍のフランク・ミッチェル少尉の指揮するMkⅣ菱形戦車に迎撃され,1両が撃破されました.
 しかし,その後進出した英軍のホイペット戦車は残りの2両のA7Vに逆襲され,7両中4両が撃破されてしまいました.

 ミッチェル少尉は更に別のドイツ軍戦車に襲い掛かりますが,迫撃砲弾で履帯を破壊されて戦車を放棄します.
 この後ミッチェル少尉は戦功十字勲章を授与されたとのことです.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE

 遭遇戦ならば,ドイツが戦車を投入後,さっそく
マーク4雄1台,雌2台
vs
A7V1台
の遭遇戦が発生している.
 A7V1台が,仲間とはぐれたところに,マーク4雌2台と遭遇.
 雌2台の機銃攻撃を跳ね返したA7Vは,至近距離から,2台とも撃破.
 そこに雄1台が駆けつけ,A7Vを破壊,A7Vの乗員は走って逃げた,という.

某S in 軍事板

A7V
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 「タンクフランセーズ」って何?

 【回答】
 ルイ・カルティエがデザインした女性向けの腕時計で,1919年から発売.
 1917年,カルティエが見た戦車のキャタピラに着想を得たという.
 ちなみにカルティエの腕時計は1904年,友人の飛行士のためにレザーストラップのものを製作したのが始まりで,元は1874年
宝石職人のルイ・フランソワ・カルティエがパリに開いたアトリエが,カルティエのルーツだとか.

 【参考ページ】
http://shop.genesis-ec.com/search/item.asp?shopcd=17113&item=CA-LW103-W51028Q3-PK#


 【質問】
 ホイペット戦車について教えてください.

 【回答】
 Mk.A「ホイペット」は,菱形戦車の速度があまりに遅いので,トリットン卿という人の提言により作られた戦車です.
 ひし形戦車が時速4kmに対し,時速13kmと当時の戦車としては高速を出すことができました.
 その代わり,武装は機銃4挺のみです.

 「ホイペット」の言葉の意味については以下参照.
http://www004.upp.so-net.ne.jp/kazna/aboutwhippet2.html
 模型の写真
http://www.mokei-wadachi.com/reikai2006/200605/hoipet.htm

【ぐんじさんぎょう】, 2008/9/1 21:52
に加筆.

新発田の第16歩兵連隊将校のアルバムから,イギリス製ホイペットA型戦車の写真(左上,右下)

 ネットでも拝見出来る写真
http://www3.plala.or.jp/takihome/newfolder/022.jpg
と良く似ているものの,微妙にアングルが違うので連続写真の一枚だと思われます.

 また左上の擬装ネットを掛けた写真は,初めて見るもの.
 一枚に4輛以上のホイペット戦車が写っているので,千葉の教導隊戦車隊ではなく,久留米の第一戦車隊かも知れません.

 また,このアルバムには満州事変でサクラヘルメットを被った兵隊写真も幾つかあり,戦死した将兵を野原で荼毘に附している写真は珍しいと思われました.

よしぞう(maro') in mixi,2006年12月19日02:51

演習中のホイペット戦車のプロパガンダ写真@日本軍

 かなり修正がキツくて,上述の写真とは随分異なった印象.

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月03日02:29
青文字:加筆改修部分

ホイペット戦車.塗装から見るとまだ日本に届いたばかりの頃でしょうか

よしぞうmaro' in mixi,2007年10月05日18:46


 【質問】
 ホイペット中戦車の性能を教えてください.

 【回答】
重量 14 t
全長 6.10 m
全幅 2.62 m
全高 2.75 m
乗員 3 名

装甲 14 mm
兵装 Hotchkiss 0.303インチ機関銃×2 or 4
 ※日本では,後に6.5mm改造3年式重機関銃に換装された
エンジン タイラーTylor ツイン4気筒サイドバルブ式JB4ガソリンエンジン 45 hp x2
馬力/重量 6.4 hp/t
緩衝装置なし
速度 13.4 km/h(8.3 mph)
航続距離 40 miles

 【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Medium_Mark_A_Whippet
http://ru.wikipedia.org/wiki/Mark_A
http://it.wikipedia.org/wiki/Mk_A_Whippet
http://muwsan.hp.infoseek.co.jp/yunyu.htm
http://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/GreatBritain/BritishMediumTanks.html

【ぐんじさんぎょう】,2010/05/03 21:00
を加筆改修

 この10日余り,出るわ出るわで,相当な数の初期戦車/装甲車の絵葉書関係があちこちから出品.
 『これも天の配剤』と考え,投網をかける様にm取り合えず全標的を撃ちまくって,そのほとんどをゲット.

faq25f01tt01b.jpg

 中々面白いものものも在りました.
 まずは福岡練兵場にて試運転中の「最新兵器メスタンク」.

faq25b01h01j03.jpg

 菱形戦車のマークIV型では,23口径6ポンド戦車砲装備の雄型と,8mm機関銃装備の雌型がある事は知られていますが,この機関銃装備のホイペットA型戦車も,“メス”呼ばわりしていたとは新発見でした.

 下は同じく福岡練兵場にて撮影.
 後の久留米の第1戦車隊でしょうか.

faq25b01h01j04.jpg

よしぞうmaro' in mixi,2007年09月15日21:50

 チハたんより強そうで凹んだ_| ̄|○

バルセロニスタの一人 in mixi,2010年04月29日 20:14


 【質問】
 ルノー FT-17って何?

 【回答】
 ルノー Renault FT-17 軽戦車は、1917年にフランスのルノー社で開発された軽戦車.
 前方に操縦席、中間に全周旋回砲塔と戦闘室、後方に隔壁で仕切られたエンジン室という、現代戦車に通じるスタイルを確立させ,その後の戦車の歴史に大きな影響を与えた.
 1918年5月31日のレッツの森での戦いにおいて初めて実戦投入.
 世界各国に売れ,第2次大戦でも後方警備車輌などとして使われ続けた.

 【参考ページ】
http://military.sakura.ne.jp/army/fr_ft.htm
「通信用語の基礎知識」:ルノーFT軽戦車 (フランス)
「通信用語の基礎知識」:ルノーFT軽戦車 (日本)
http://schafe.s246.xrea.com/combat/data/FT17.htm
http://www4.plala.or.jp/Panzer/htmls/FRA%20FT/FT.html

【ぐんじさんぎょう】,2009/8/10 21:00
に加筆

 第二次世界大戦東南アジアでのルノー FT-17(露語)
http://www.otvaga2004.narod.ru/publ_w5/024_ft.htm

CRS@空挺軍 in mixi,2009年08月10日 06:51

   /⌒ヽ
  / ´_ゝ`) ちょっと気になったので手持ち画像を貼っておきますよ…
  |    /
  | /| |
  // | |
 U  .U
http://mixi.jp/view_album_photo.pl?album_id=35199931&owner_id=3584373&number=3077865534
http://mixi.jp/view_album_photo.pl?album_id=35199931&owner_id=3584373&number=4116866712
http://mixi.jp/view_album_photo.pl?album_id=35199931&owner_id=3584373&number=2239345935

 日本では国産戦車が出来るまで,これが主力戦車でした(^^;

よしぞうmaro' in mixi,2009年08月10日 11:16

戦前の戦車絵葉書『歩兵の精鋭 戦車の威力(第一集)』
千葉市稲毛区天台にあった陸軍歩兵学校内の,教導団戦車隊ルノーFT軽戦車

 砲塔に8ミリ・ホチキス機銃装備(左と右)の車輛と,37ミリ砲装備(真ん中2輛)の車輛が,混在しているのが判ります.

よしぞうmaro' in mixi,2007年07月03日02:29
青文字:加筆改修部分

faq25fr01f17j02.jpg

 水色のグラフィック処理が結構新鮮です.
 また右はおそらくアメリカのどこかで写された同戦車の絵葉書ですが,真後ろ姿が珍しい.
 しかも戦車を「タンキ」と書いているのも面白い.

よしぞうmaro' in mixi,2007年08月01日03:15


 【質問】
 FT-17の性能は?

 【回答】
開発国 フランス
登場時期 1918年
主な兵装 21口径37mm戦車砲または8mm重機関銃(M1914)1門
重量 6.5t
速力 7.6km/h
装甲 最大16~22mm(型により異なる)
乗員 2名
機関 直列4気筒液冷ガソリン39hp
備考 その後の戦車の雛形.旋回砲塔や優れた機動性など非常に革新的だった

A.T.I.C.(2009.10.1アクセス)

人着カラーのルノー戦車絵葉書

 これは輸入された大正時代の物でしょうか.
 時速12kmとは,カタログ・スペックを超えています.

フロントハッチを開いた別の絵葉書

  37ミリ砲が微妙に消されているのが気になります.

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月16日01:37


 【珍説】
35 人中,0人の方が,「このレビューが参考になった」と投票しています.
「むしろ戦後史の勉強に」, 2008/9/30
By tokyo1123 (東京都) - レビューをすべて見る

 〔略〕
また,了見の分からない兵器オタクがケチをつけているようだが……
FTとは,単にフランス語で軽戦車の頭文字.モデル名称ではない.

防衛黒書のamazon書評より

 【事実】
 ソースはwikipediaだが,
>FTは,フランス語で「軽量」を表す「Faible Tonnage」の略であるとされることも多いが,
>実際にはそれ自体に意味はない,ルノー社内の識別記号であったらしい.

 フランス語で軽戦車はChar leger(シャール・レジェ)と言います.

 英wikiでも

――――――
http://en.wikipedia.org/wiki/Renault_FT-17
There is a most persistent myth about the name of the tank: "FT" is often supposed to have meant Faible Tonnage, or, even more fanciful:
Franchisseur des Tranchees (trenchcrosser). In reality every Renault prototype was given a combination code; it just so happened it was the turn of "FT". Another mythical name is "FT-18" for the guntank:
this designation has never been found in any contemporary source.
Also in "FT 75 BS", the "BS" does not mean Batterie de Support (see below).
――――――

……と,「ルノーFT-17のFTが軽戦車っていうのは,間違った俗説・神話」扱いされてる.

 それ以前に林信吾の著作での表現,「ルノーT5戦車」というモノ自体が存在しない.
 T-5戦車って何?
 この時点でおかしい.

社会学板
青文字:加筆改修部分

高田の歩兵第30連隊の絵葉書シリーズ
faq110410ft2.jpg
faq110410ft3.jpg
faq110410ft4.jpg

 大正12年の連隊設立25周年スタンプが押されている所を見ると,千葉の歩兵学校で試験運用していた頃,4輛の内の1輛が演習時に参加したものでしょうか.
 37ミリ砲の代わりにホチキス系の38式機関銃を砲塔に搭載しているのが,演習仕様っぽいですね.

よしぞうmaro' in mixi,2007年11月16日01:37


 【質問】
 ルノーFT戦車は大変先進的.なのに,その後の多砲塔戦車や,米国の戦車と戦車駆逐車の分離の様な混迷は何故?

 【回答】
 理由は2つ.

1.ルノーFTは,確信的にあの形態をとったのでは無く,偶然の産物だったから.あれは,当時のフランスの他の突撃戦車の指揮車輌として開発されています.指揮に必要な視界の良い展望塔,軽快な機動性を得るために無駄の無い武装配置を行った結果,砲塔が用いられたのです.

2.それでも当時既に,ルノーFTには指揮戦車以上の価値があることが判明し,大増産されています. (後からでは無く,登場後,すぐに革新性が理解されています.)
 しかしながら,第1次世界大戦後,列強国の軍縮や恐慌のため,戦車の運用に関する研究がストップします(有識者の知識の継承が無くなる). 予算に合わせて運用思想を捻じ曲げてしまうと言った珍妙な現象も起こります.

 また,塹壕戦の様相も大分様変わりして,戦車を用いた機動防御,対戦車砲や軽機関銃の性能向上などを経て,各国の用兵家は,効率の良い戦車像を見失います.

 要するに,価値は充分に判ってる人たちが居たけど,金欠でそれどころじゃ無くなり,使われる環境も大きく変化したので,それに合うものを作ろうとした.
 しかし,重量の面で,単一砲塔の戦車への回帰がされる訳です.

 ただし,その後しばらく,懐具合や国情が作用し続けています.

 恐慌で予算もなく,孤立主義のために他国の研究もしなかったアメリカは,第二次世界大戦が激化するまで,的外れな(戦車は塹壕戦に特化し,その他のことは戦車駆逐車にやらせる)発想を継承しました.

 他方,ドイツは主に経済面の理由で,主力戦車と隊長者の武装を分けたり,歩兵支援を安価な突撃砲を持つ砲兵科の受け持ちにしております.

Renault FT-17
faq25d03.jpg
faq25d03b.jpg
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 この「やわらか戦車」ふうの戦車は,どこの,何て名前のものですか?

 【回答】
 Peugeot軽戦車です.
 1918~19年に掛けてFranceのPeugeotが試作したもので,Renault FTに対抗する ために製作されました.
 Peugeot水冷4気筒エンジンを車体前面に置き,上部車体は固定戦闘室を設けて いました.
 当然試作のみです.

http://mailer.fsu.edu/~akirk/tanks/france/France-Other.html

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/05/15(月)
Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/05/15 (hétfő)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész


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