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◆◆オスマン帝国/トルコ
<◆総記
<WW1 FAQ 目次
Ottoman Coat of Arms
(引用元:『Men-at-Arms Series The Ottoman
Army 1914-18』)
【質問】
なぜオスマン帝国は第1次大戦に参戦したのですか?
【回答】
まず,従来の説では,「政治指導者が夢想的な親独派だったから」とされています.
以下引用.
当時,政権の座にあったのは,1913年1月にクーデターで政権を奪還したばかりの「統一と進歩委員会」でした.
これは事実上エンヴェル・タラート・ジェマールの3頭独裁体制となっていましたが,大宰相は郵便局員出身の政治家タラート=パシャであったものの,実権は陸軍大臣エンヴェル・パシャにありました.
エンヴェルは,かつてベルリン駐在武官を勤めた頃からドイツ人将校との接触を深め,熱烈な親独派となっており,かつ,パン=イスラム主義,パン=トルコ主義,トゥラン主義の夢にとりつかれた理想主義者でした.
トゥラン主義とは,トルコ系諸民族を中心に,フィン人・モンゴル人・マジャール人などを含めたウラル=アルタイ系諸民族の故地として,中央アジアもしくは北アジアの草原地帯トゥランを想定し,これら諸民族の大同団結によってヨーロッパ人の圧迫,特にパン=スラブ主義に対抗しようとする超現実的な思想です.
これがエンヴェル達によって政策化されていました.
そのため,第1次大戦が始まると,エンヴェルの強い主張により,オスマン帝国はドイツ側に加わって参戦したのです.
その結果,1916年には南東アナトリアでアルメニア人とトルコ人の戦いが起こって,百数十万人規模の「アルメニア人虐殺」が発生するわ,アラブ地域からはトルコ軍は一掃されるわ,前線(一説には戦病死者数,32万5000)のみならずアナトリア各地で飢饉や伝染病が発生して,前線以上の死者を出すわ,国力はボロボロ
(1913年には640haだった全播種面積が,1918年には300haに,
1913年には4460万頭だった全家畜数が,1918年には1900万頭に,
タバコ生産は2分の1に
綿生産は7分の1に
繭生産は3分の1に)
になるわ,戦後に連合軍10万7000に主要都市,港湾などを占領される――ムドロス休戦協定違反だったのですが――わと,悲惨なことに.
(永田雄三 from 「世界現代史11 中東現代史1」山川出版社,
'82,P.104-116,抜粋要約)
しかし,「平和を破滅させた和平」(ディヴィッド・フロムキン著 紀伊国屋書店出版部刊)によると,事実は少しこれと異なるようです.
まず,CUP(統一と進歩委員会…欧州では青年トルコ党として知られる)の実態ですが,殆どの場合,このCUPはエンヴェル,タラート,ジェマルの専制政治の三頭政治の支配下にあることになっていますが,ドイツの公文書館に残る文書記録では,この組織はメンバー40名から成る中央委員会,特に約12人から成る最高幹部会によって意志決定が為されています.
即ち,CUPに属する各閣僚,下院議員の立場を拘束していたのは中央委員会の下した決定でした.
つまり,CUPの意志決定機関は,旧ソ連の政治局の様な存在で,中では多くの分派が対立し,権謀術数が渦巻く状態で,誰かが統御する状態ではありません.
ついでに,当時の英国大使は一等通訳官の印象(彼はCUPを毛嫌いしていた)を鵜呑みにしており,陸軍憲兵隊長だった英国軍人の報告を全く取り上げていません.
ちなみに,この英国大使館の分析は,CUPを「イタリア(又はラテン系)Freemasonの影響下にあるユダヤ人の国際的な陰謀組織」で,CUPとは,「ユダヤ人の統一と進歩委員会」であり,オスマン・トルコ帝国は今や彼らユダヤ人に操られている,としています.
その中心人物の一人は,米国の駐土大使オスカー・ストラウスで,その兄弟は,ニューヨークの百貨店メーシーズとエイブラハム&ストラウスのオーナーだからだそうです(笑.
更に,CUPの指導部は「ユダヤ人とジプシーの集まり」,エンヴェル・パシャは「ポーランドの山師」と呼んでいました.
エンヴェル・パシャを「ポーランドの山師」としたのは,エンヴェルのことを名前の似通った別人のトルコ当局者と混同し,その人物の父親がユダヤ人ではなく,ポーランド人だったことに由来します.
実際には,1908年の選挙で選ばれたオスマン議会議員288人のうち,ユダヤ人は4名,CUPが中央委員会を組織した際に,ユダヤ人のカラッソは中央委員に選ばれていなかったり.
また,その4名はCUPのシオニストのパレスチナ入植に反対しています.
さて,20世紀初頭,アフリカを分割し尽くした列強にとって,分割可能な地域としては,中国と中東地域しかありませんでした.
フランスはシリアを狙い,イタリアは地中海・エーゲ海沿岸地域,ロシアはシリアの北方,即ち,アナトリア地域を視野に入れ,ギリシャ,ブルガリア,二重帝国は,その欧州地域に食指を延ばしていたと言った具合.
CUPの大目標としては,オスマン・トルコ帝国に於いて,トルコ語を話す人々の優越と国内改革を目指して国が豊かになり,結果的にトルコを半植民地から脱却させることにあり,エンヴェルの妄想にある,汎トルコ主義ではありませんでした.
しかし,この様な構想を抱いたとしても,何処かの国がそれに反対して(特にキリストの守護者を謳う国々から)の介入が入り,結果的にはオスマン・トルコ帝国の解体に繋がるのではないか,とCUPの指導部は恐れました.
このため,一国が敵対しても,それに対抗することが出来る列強を保護者,あるいは同盟者として結ぶことが,CUP指導部にとっての緊急の過大でした.
その候補となったのは,英国,フランス,ドイツの三国です.
先述のように,ロシアが介入するにしても,この三国のいずれかが障壁となれば,介入を思いとどまります.
また,それ以外でオスマン・トルコ帝国を浸食しそうな,イタリア,二重帝国,ブルガリアはこれらの大国とトルコが同盟を結べば,それにちょっかいを掛けることを断念するだろうと考えたのです.
こうして,まず,親英派の大蔵大臣ジャヴィトが,1911年に英国への働きかけを行います.
これに応えたのがかのチャーチルで,彼は外務大臣に書簡を送り,その恒久的な同盟を考慮するよう訴えています.
しかし,前述の如く,駐土英国大使館からの誤った報告を鵜呑みにしていた外務省は,これを拒否.
1914年4〜5月に掛けて,親仏派の海軍大臣ジェマル・パシャがフランスと予備交渉をしましたがはねつけられ,捨て鉢になったタラートは,何とロシアと同盟交渉を行いますが,これも拒絶され,CUP指導部は,最終的に陸軍大臣エンヴェル・パシャにドイツとの交渉を進める権限を与えました.
1914年7月22日,駐土ドイツ大使に対し,エンヴェル・パシャは同盟を申し入れたが,これも即座に拒否されました.
これらの提案は,列強にとっては旨味がないと判断したのです.
CUPにとってみれば,進退窮まった状態となりました.
ところが,欧州情勢の複雑怪奇さが,その同盟政策を復活させることになります.
7月24日,オスマン・トルコ帝国がドイツと同盟を求めていることを知ったヴィルヘルム2世は,自ら,その同盟を再考するよう,政府に指示したのです.
ヴィルヘルム2世は,「現時点において」のドイツと同盟を結びたいと言うトルコの関心を「便宜上の理由で」利用すべきだと考えたのでした.
秘密交渉はIstanbulで行われ,その交渉は,CUP内部にも秘密にされ,大宰相メフメト・サイード・ハリム,内相タラート・ベイ,陸相エンヴェル・パシャの三名だけがドイツ側と交渉に当たりました.
7月28日,同盟の草案をトルコ側はドイツ側に示したが,ドイツ帝国政府側は,その提案に乗り気ではなく,ドイツの戦争目的に寄与しない限り,同盟を拒否するよう命じています.
しかし,トルコ側は英国で艤装中だった2隻の弩級艦(実は7月31日に英国政府に「強奪」されていた)をドイツに引き渡すという破格の条件(トルコ側にとってみれば見事な空手形と言えるものですが)ウルトラCを行い,8月2日に同盟締結に至ったのです.
この同盟は,8条で秘密同盟と規定され,4条ではドイツのトルコ防衛計画発動を規定しています.
これは,オスマン帝国領土が他国の浸食を受けた場合に発動すると言うもので,この防衛義務は条約の有効期限である1918年12月31日まで継続しています.
一方で,二重帝国とセルビアとの紛争にはトルコは完全中立を保ち,ドイツが二重帝国との同盟条約の規定に従って三線を求められた場合にのみ,参戦の義務を負うとしていました.
8月3日,オスマン帝国政府は総動員令を発動しますが,あくまでも欧州紛争に中立であることを表明し,あまつさえ,エンヴェル・パシャは,連合国側の陣営に参加する可能性すら仄めかしています.
他の列強と同じく,この戦争が4年も続くとは考えておらず,2〜3ヶ月で終わると考え,2〜3ヶ月かかる動員を行っていた訳で,オスマン帝国政府の大勢は,大戦への参加を躊躇するものでした.
8月4日,8月1日にエンヴェル・パシャ,ドイツ大使,ドイツ軍事顧問団長との三者会談で,ドイツ地中海艦隊の巡洋戦艦ゲーベン,軽巡洋艦ブレスラウをトルコ艦隊に編入し,ロシア,ブルガリアの海軍力に勝る状況を作り上げようとして,地中海艦隊司令官にIstanbulへの回航を命令します.
ところが,その回航はCUP内部にも秘密とされていたことから,トルコ政府に動揺を引き起こし,8月5日に,メッシナに入港していた艦隊に,ドイツ政府を通じて命令撤回の電文を発信します.
しかし,地中海艦隊司令官,ゾーホン少将はそれを命令というより,警告と解釈し,トルコに向けて航海を続けます.
英国地中海艦隊は,彼らを迎撃すべくメッシナ海峡の西側海域を哨戒していました.
しかし,案に相違して,彼らはトルコ方面に遁走しました.
メンツを潰された英国地中海艦隊は,艦隊を挙げて彼らを撃滅しようとします.
さて,この2艦,まんまとダーダネルス海峡の入り口まで到達したわけですが,トルコ政府との協議が失敗に終わると,海峡の砲台から攻撃を受け,更に追跡してくる英国艦隊から逃れられなくなると言う状況に陥ります.
8月6日午前1時,大宰相サイード・ハリムとドイツ大使との協議が開始され,大宰相は条件付でダーダネルス海峡への進入を許すことになると言明しますが,その条件とは,第1項でトルコ国内に於ける外国人の通商特権(治外法権みたいなもの)の放棄,第2項以下でドイツ勝利の際の戦果の分け前を要求していました.
結果的にこの要求は認められ,ドイツ地中海艦隊はダーダネルス海峡進入を認められることになります.
更に8月9日,トルコは,ギリシャ,ルーマニアと共に欧州紛争に対する中立協定に参加すると大宰相を通じてドイツ大使に表明します.
そうなると,ドイツ地中海艦隊に対する扱いが焦点となりますが,この解決のために,トルコはこの2隻の艦の所有権を取得するために,架空の購入申し入れを行うと言う提案を行います.
8月10日,ベートマン=ホルヴェーク帝国宰相は,その提案を拒否すると共に,駐土大使に対し,即時参戦を迫るよう指示します.
しかし,大宰相は,前日の要求を再び持ち出し,話し合いは物別れとなりました.
すると,一方的にトルコ政府は,この2艦を8000万マルクで購入したと虚偽の発表を行い,国内世論の喚起に成功.
駐土大使側としては,これを否定すれば,反独感情の醸成に繋がると,8月14日に本国に報告,かくして,8月16日に2隻はトルコ海軍に引き渡されることになりました.
こういう事態に英国政府,特に海相Churchillは激怒.
9月2日に,トルコの艦艇が「旧ドイツ海軍の2艦と共に」ダーダネルス海峡を抜けてエーゲ海に出てきた場合,それを撃沈する権限を内閣から与えられます.
但し,現地の英国海軍ダーダネルス派遣艦隊司令官に対し,トルコの艦艇が「単独で」海峡から出ようとした場合の対応は,司令官の状況判断に任す旨,通告しました.
9月27日,英国艦隊は,海峡から出てきたトルコ海軍の水雷艇を停止させ,海峡に帰還させました.理由は,中立を侵してドイツ水兵を乗せていたと言うもの.
しかし,これに激怒したエンヴェル・パシャは,海峡防衛隊の指揮を執るドイツ将校に対し,海峡封鎖,機雷敷設の権限を与えた訳で.
こうなると,海峡の通行は止まり,連合国の船舶が移動できなくなり,ロシアは此処を通じての農産物輸出が出来なくなると言う大打撃を受けました.
しかし,此処でも独英の思惑通り,トルコ政府が宣戦を布告するに至りません.
トルコ政府としては,ドイツ側に立って参戦するのは,ブルガリアのドイツ側に立っての参戦が前提となっていました.
前後しますが,8月19日,まず内相タラート・ベイがブルガリアと相互防衛協定を締結します.
これは,両国のいずれかが第三国から攻撃された場合,一定の状況の下で相互に援助し合うこととしていましたが,その条項にはトルコがドイツと手を組んでロシア相手の戦争を行う事態には適用できませんでした.
面白いことに,Churchillがトルコが参戦すると言い張っているのとは逆に,駐土ドイツ軍事顧問団のフォン・ザンデルス将軍は,トルコが参戦することはないから軍事顧問団を引き揚げさせて欲しい,あまつさえ,彼は,陸相エンヴェル・パシャ,海相ジェマル・パシャに決闘を申し入れたいとまで口走っていました.
しかし,マルヌ会戦に敗れて長期戦が確定となったドイツは,トルコを是非とも参戦させようとしていました.
更にトルコ政府は自信を深め,9月8日,ドイツを含めた各国に対し,通商特権の一方的な廃止を宣言します.
これには協商側,同盟側も一時は呉越同舟で,合同抗議文をトルコ政府に提出しますが,その廃止は行われ,10月初めには全国各地の外国の郵便局が廃止,在留外国人の係争は全てトルコ政府の管轄となり,関税もトルコ政府が引継ぎ,税率を引き上げたと言う,不平等撤廃に成功したのです.
此処で,CUPの一つの目標は達成されました.
しかし,それが見えたことで,今度は少数の野心家が,次なる行動を起こします.
その一人,ドイツとの同盟締結に功のあったエンヴェル・パシャは,8月末から9月にかけてのロシア軍の戦闘状況,就中,タンネンベルク回戦,マズーリ湖湖沼地帯でのドイツ軍大勝利を確認し,ロシア国内の社会的混乱を見て,ドイツ帝国が単独で勝利を収める前に,ロシア戦線での分け前に与ろうとしたわけで,彼は,CUPの別の有力一派を率いていたタラート・ベイを説き伏せ,自陣営に引き入れます.
次いで下院議長のハリル・ベイの支持を取り付け,10月10日には海相ジェマル・パシャを自陣営に引き込むことに成功します.
ドイツはそれに応えるように,200万トルコ・ポンド相当の金塊をトルコに引き渡し,その軍資金を得て(その後,タラートとハリルの心変わりなどすったもんだした挙げ句),オスマン・トルコ帝国黒海艦隊司令官ゾーホン提督(前ドイツ帝国海軍地中海艦隊司令官)に,ロシア艦船の撃沈をエンヴェル,ジェマル共同で命令します.
(つまり,「ロシアが先に手を出したから我が軍の艦船がこれを撃沈した.従って,トルコは悪くない」という筋書きだった.)
しかし,ゾーホン提督はロシア艦船ではなく,ロシア沿岸への砲撃を実施.
これにより,先の筋書きは使えなくなり,これに動揺した政府内部で,大宰相,内閣対エンヴェル一派との対決が発生し,それに伴う政治危機は2日に及んだのです.
結果的に妥協の産物として,ロシアに対する謝罪文を起草しますが,既に英国はドイツ軍事顧問団の退去とトルコ軍艦からのドイツ人士官,水兵の退去を求める最後通牒を突きつけ,これをトルコ政府が拒否すると,10月31日にトルコに対する即座の敵対行動を命令します.
しかし,地中海艦隊司令はこの命令を実行せず,結局,11月2日にロシアが宣戦を布告し,11月3日にダーダネルズ海峡外郭要塞に英国が砲撃を加え(但し,この段階で英国は宣戦を布告していない!),11月5日に漸く英国政府は宣戦布告する状況でした.
つまり,トルコ政府から宣戦を布告したわけではなく,連合国が宣戦を布告した….
確かに数名の野心家が絡んだのは事実ですが,トルコは第一次大戦に巻き込まれたのが事実であろうと思います.
【質問】
オスマン帝国末期の軍隊の民族構成は?
【回答】
殆どトルコ人だったという.
以下引用.
オスマンにとっては常に,民族的基準よりも宗教的基準のほうが大事であったため,ムスリムのアラブ人も税を払わずに済んだ.
さらに帝国末期になると,トルコ人とは異なり,多くのアラブ人は兵役の義務も回避できた.
オスマンの軍事顧問を務めたドイツ人のコルマー・フォン・デア・ゴルツ<1843〜1916.トルコ陸軍の近代化を指導>は19世紀末に,帝国の軍事力に実質的な貢献をしている唯一の民族グループはトルコ人だとコメントした.
「ヒジャーズ<サウジアラビアの北西部.メッカ,メディナの2大聖地がある>も各聖地も,帝国の他の地域の犠牲の下で存続している.
残りのアラブやアフリカの地方は,殆ど何も貢献していない」
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.253
〔18世紀末には,〕かつて効果的だった財政・行政の両システムも崩壊していた.
例えば,16世紀半ばには,エジプトはオスマンのパワーに大きく貢献していたが,18世紀末には,中央の国庫に対し実質的に何ら歳入を納めず,せいぜい小規模な軍団を送っただけだった.
しかも,その規律は堕落していたため,軍に好意的な民間人にとっても,どんな敵より始末が悪い有り様だったのである.
同,p.266
【質問】
「カリフ擁護軍」とは何ですか?
【回答】
オスマン帝国のダマト=フェリト Damat Mehmet
Ferit Pas¸a内閣(イスタンブール政府)が,ケマル
Kemal らのトルコ祖国解放運動潰しを目的として,イギリスの武器援助を得て,1920年4/18に組織した反革命軍です.
これはイスタンブールの下層市民やオスマン帝国軍の歩兵師団から成り,スレイマン=シェフィク=パシャ
Süleyman Sefik Pas¸a がその司令官に任命されました.
同時に列強とイスタンブール政府は,かねてからケマル派に敵対していたチェルケス人のアンザヴール・アフメト
Ahmet Anzavur に,パシャ(将軍)の称号を与えて協力を要請,イズミトを本拠地として,アンカラに向けて進撃させました.
さらにイスランブール政府の煽動や,革命派や反連合軍パルチザンによる兵員徴集・食糧・軍需品の調達とその方法に対する不満から,カリフ擁護軍設立に呼応するかのように,アナトリア各地に反革命反乱が勃発.
その結果,カリフ擁護軍は北西アナトリアを制圧します.
しかし6月には,西アナトリアのパルチザン,特にコミタジ〔バルカン戦争や大戦中,前線後方でゲリラ活動に従事した人々の呼称〕出身のチェルケス人エトヘム Çerkes Ethem やデミルジ=メフメト=エフェ Demirci Mehmet
Efe らの活躍によって敗れたのでした.
以上,ソースは「世界現代史11 中東現代史1」(永田雄三他著,山川出版社,'82)からの抜粋要約です.
【質問】
トルコ=ギリシャ戦争について教えてください.
【回答】
当時のトルコは,ケマルの「トルコ大国民議会」軍が,イスランブール政府派の「カリフ擁護軍」を破り,ヨズガトのチャパンオウル家の反乱などの反革命勢力を平定し,内乱を克服しつつありました.
この趨勢を見た連合軍,特にイギリスはギリシャ軍を内陸へ向けて侵攻せしめ,それに呼応するかのようにフランス軍は,エレーリ・ゾングルダクなどの黒海西南岸都市を,イギリス軍インド兵部隊はムダニヤ・イズミトなど西北アナトリアの若干の都市を占領.
'20年6〜7月,ギリシャ軍は進撃開始,アクヒサル・アラシェヒル・バルケスィル・ナズィリ・ブルサ・イズニクなどの西アナトリア主要都市を占拠.
ギリシャ政府は東トラキア併合を決定,7月25日にギリシャ軍がエディルネを占領したのに続き,ギリシャ国王アレクサンドル自らこの町を訪れ,東トラキア地方のギリシャによる併合を規制事実として「国際世論」に訴えようとする.
また,同年8月12日,イズミルにギリシャ人による文民政府が成立した事を宣言.
8月10日,ギリシャ軍の一時的成功と革命政権の陥った苦境を絶好の機会と捉えた連合軍は,イスタンブール政府との間にセーブル Sevres 条約を締結.
この条約は,全トルコ国土をアナトリアの3分の1,旧トラキアの10分の1以下に縮小させるまでに分割し尽くし,中東は英仏が分割して統治下に置くなど,歴史上希に見る過酷なものであり,トルコ国民を革命派のほうへ一層引き寄せることとなります.
アンカラ政府(大国民議会)は,まず各地で自発的に編成されているパルチザン諸部隊を統一し,これをアンカラ政府の掌握している旧オスマン帝国軍と合体させ,正規軍を組織することに着手.
最大の障害は,イスラーム共産主義秘密結社「緑軍」と,チェルケス人エトヘムのパルチザン部隊との合体した勢力だったが,20年12月以降,アンカラ政府は共産主義運動弾圧に乗りだし,緑軍とエトヘム部隊の解体に着手.
一方,ギリシャでは20年11月末の総選挙で,長い間この国を代表してきた老練な政治家ヴェニゼロスが敗れて失脚,国王コンスタンティノス1世が直接政権を掌握すると,彼は国際的孤立と王制かにおける矛盾をそらすため,西アナトリアで軍事攻勢をかける.
アンカラ政府はイスメト西部戦線総司令官の指揮の下,これに反撃し,21年1月10日にイノニュにおいてギリシャ軍を破ることに成功.
ギリシャ軍の再進撃も,同じくイノニュで3月30日,撃退されます.
この2度の敗北で,ギリシャ国民にもようやく反戦気運が濃厚となってきたが,一方,「大ギリシャ主義」の夢を追い続ける人々も少なくありませんでした.
そうした人々を宥めるため,コンスタンティノス1世は,自らを総司令官として西アナトリアへ乗り込むと共に,今や唯一の味方となったイギリスの物質援助を受け,猛攻開始.
今度はトルコ軍は後退に後退を重ね,ブルサ・エスキシェヒル・キュタヒヤなど,西アナトリア主要都市が瞬く間に奪われ,ギリシャ軍はアンカラ東方僅か50kmまで迫ります.
窮地に立たされたアンカラ政府内部では,反ケマル派の人々による,西部戦線司令官イスメトの戦略的誤りを指摘する声が高まります.
これに対するケマル派は,3ヵ月に時期を限ってケマルを総司令官とし,彼に全権を委ねる法案を大国民議会に上程,承認させることに成功します.反ケマル派は,もし再びトルコ軍が敗れるようなことがあれば,今度こそケマルを失脚させることができると考えたのでした.
21年8月9日,ケマル派機関紙「国民主権」は,トルコが今や非常事態にあることを知らせ,「国民税」法が設置された事を告示します.
これによれば,各家庭から穀物・被服・寝具・靴下などの供出が求められると共に,商人や民衆の手にある「商品」の40%が代金後払いで買い上げられ,職人達は全て軍需品生産要員として登録されました.
また,こうして調達された食糧や軍需品は,民衆が自ら所有する輸送手段を使い,前線まで無料で運搬することなどが決められ,これらの義務を怠るものは,「独立法廷」によって裁かれ,厳罰に処せられることが定められたのです.
このようにして,トルコ国民が文字通りその総力を結集し,兵力・装備共に優るギリシャ軍に対して戦ったのが,21年8月23日から22日間に渡ったサカリヤ川 Sakarya River の戦いでした.この戦いでトルコ軍はギリシャ軍に対し,決定的勝利を収めます.
この勝利は,アンカラ政府とケマル派に多くをもたらしました.
第1に,ギリシャ軍のアナトリアからの放逐が,もはや時間の問題とされるに至っただけでなく,ムドロス休戦協定以来,トルコに対するイギリスの独断的態度に不満を抱いていたイタリアとフランスが占領から手を引き,とること友好条約を結ぶことになりました.
イタリアの南アナトリア占領は本来,形式的であり,むしろギリシャを牽制するためのものでしたから,最初からトルコとの武力衝突をイタリアは避けていました.サカリヤ川の勝利の直前には,イタリア軍はアナトリアから撤退していました.〔イタリア軍はやっぱりイタリア軍〕
フランスも,ロンドン会議以後,トルコ=ギリシャ戦争に対して中立的態度を表明していましたが,21年10月20日にトルコとアンカラ条約を結ぶと,自軍の装備をトルコ側に売り渡し,南東アナトリアから撤退します.
第2に,ケマル派の勢力を確固たるものにし,独裁化の傾向を示します.特にエンヴェル派は壊滅的打撃を受け,エンヴェルは中央アジアのブハラに去り,そこで,トルコ系ムスリムの反ソヴィエト運動であるバスマチ運動に身を投じますが,銃弾に倒れることになりました.
ケマルは,サカリヤ川の勝利にも関わらず,トルコ軍兵士の不足と食糧・装備の不充分さを熟知しており,21年秋から22年夏にかけては,「国民税法」に基づいて,その補給に全力を費やした後,1922年8月26日,準備を整えたトルコ軍は,ケマルの総指揮の下に大攻勢を開始,30日のドゥムルプナルの会戦で決定的勝利を収め,瞬く間にギリシャ軍をエーゲ海の淵に追い詰めます.
9月9日,トルコ軍はイズミルを奪回.
16日にはギリシャ軍がチェシメ港から撤退.
だが,ギリシャ軍は西アナトリアからの撤退の際,マニサ,アラシェヒル,アイドゥンなどの都市を焼き払い,また9月13日は,イズミルも原因不明の火災により,その大部分を焼失してしまいます.
22年10月11日,トルコ・イギリス・フランス・イタリアの間で,ムダニヤ休戦協定が調印され,3日後にはギリシャもこれに調印します.
その結果,ギリシャは軍隊・憲兵・行政機関を東トラキアから引き上げることになり,ボスフォラス・ダーダネルス量海峡沿岸地帯とゲリボル〔ガリポリ〕半島とには,改めて講和条約が締結されるまで,連合軍が駐屯することになりました.
トルコ人をアジアのステップに放逐しべきことを豪語して憚らず,ギリシャ軍を最後まで執拗に支援し続けたイギリス首相ロイド=ジョージは,イギリス国内においても批判され,22年の選挙に敗れて失脚します.
ローザンヌ講和会議(日本も参加)では,外相となったイスメトの巧みな外交戦術により,領土保全,国家的・民族的独立の承認を得たばかりでなく,カピチュレーション〔1535年にフランス商人に与えた広汎な商業特権.後,他の欧州商人にも拡大〕と「オスマン債務管理局」というトルコの植民地体制を支えていた2つの橋頭堡を廃止させることに成功します.
イスメトはトルコ共和国が誕生すると,大統領になったケマルによって首相に任命されます.
1934年,議会は姓氏制を採用すると共に,ケマルに対して「父なるトルコ人」を意味する「アタチュルク」の姓を,イスメトに対しては,イノニュの戦勝を記念して,「イノニュ」の姓を贈りました.
しかしその後,イスメト=イノニュ時代の共和人民党は万年野党の座に甘んじ,同党がその汚名を返上した時にはイノニュの姿はありませんでした.72年5月14日に,彼からジャーナリスト出身の若手政治家ビュレント=エジェヴィトに代わってようやく,国民は同党に期待を寄せるようになったのでした.
ケマルは「宗教としてのイスラームを政治の道具にさせないことによって,かえってイスラームの信仰を高め,純粋化することができる」との主張の下,大国民議会をしてカリフ制を廃止し,オスマン王家全員を国外追放とします.
ケマルと共和人民党は,シェイヒ=サイト率いるクルド人反乱鎮圧を目的として治安維持法を制定,反乱鎮圧後もこの法律の期限を延長し,反対党を閉鎖し,共産主義や各種イスラーム神秘主義教団の活動を禁止します.
さらに,25年6月に発覚したケマル暗殺計画により,ケマルの有力な対抗者達を失脚させ,ケマル独裁が完成します.
30年代にはケマルは「エタティスム経済政策」などの各種国内産業育成に力を注ぎ,貿易収支を黒字にするまでにさせますが,農民層や都市小商工民は基本的に阻害されており,にも関わらず,彼らの精神的・社会的生活にとって極めて大きな意味を持つイスラム諸制度,とりわけ神秘主義教団の活動が禁止されたことは,彼らに大きな不満と危機感をもたらし,局地的暴動が度々起こります.
1938年,ケマルは肝硬変のため,57歳で死去します.ケマルの死後,30年代末に入ると,トルコ革命が抱えてきた矛盾が表面化してくるのでした.
以上,ソースは「世界現代史11 中東現代史1」(永田雄三他著,山川出版社,'82)からの抜粋要約です.
アタチュルクの一番古い写真 1901年に撮影されたもの
(Hurriyet紙)
【質問】
ケマル・アタチュルクのトルコ革命をソ連が支援したのは何故ですか?
【回答】
当時ソ連は各地で独立運動を抱えていた.特に,ザカフカスのアルメニアは革命後,一早く独立を果たした.
そのアルメニアは白軍として連合国に認められた上,トルコのアナトリア半島東部の黒海沿岸地域を自国の支配地として認められたために,トルコにとっても,ソ連にとっても敵となった.
そして,「敵の敵は味方」の論理と,孤立していたもの同士が手を結び,両国はアルメニアを滅ぼすことで利害の一致を見た訳.(世界史板)
しかし結局,ケマル派が多数を占める革命政府は,共産運動が反ケマル派の諸潮流と結び付き,革命運動をケマル派の意図したものとは異なる方向へ動かす力を持ったとき,これを弾圧して革命の軌道修正を行い,革命政権内部におけるケマル派の権力強化を図ることにするのでした.
以上,ソースは「世界現代史11 中東現代史1」(永田雄三他著,山川出版社,'82)からの抜粋要約です.
【質問】
「緑軍」は軍隊なのですか?
【回答】
「緑軍」 Yes¸il Ordu は官製秘密結社です.
1920年夏から秋にかけ,ソ連との外交交渉が進展すると,これを背後から支える目的で,アンカラ政府は蔵相ハック=ベヒチ Hakki Behiç に,イスラーム共産主義的性格を持つ秘密結社を組織させました.これが「緑軍」です.
緑はムスリムにとって神聖な色とされており,ロシア領内ムスリムによって民族解放のシンボルとされていました.
しかし1920年12月以降,アンカラ政府は労働組合幹部逮捕など,共産主義運動弾圧に乗り出す一方,緑軍解体に踏み切ります.緑軍にエトヘムが加入したことにより,これによって当時盛んだった共産主義運動と,パルチザン部隊を擁するエトヘムの武力とが合体したことになり,それは革命政権内部のケマル派にとって大きな脅威となったからです.
エトヘムはチェルケス人の名門に生まれ,トリポリ戦争やバルカン戦争に参加した典型的なコミタジ〔バルカン戦争や大戦中,前線後方でゲリラ活動に従事した人々の呼称〕で,しかもその兄がトルコ大国民議会議員であったことから,アンカラ政府にも大きな影響力を持っていました.
彼は「カリフ擁護軍」や反革命反乱鎮圧の最大功労者を自認し,次第にケマルの対向者としての姿勢を明らかにしていました.
1921年1月末,「正規軍」がエトヘム部隊を破り,エトヘム兄弟がギリシャ軍に亡命すると,アンカラ政府はベヒチに「公式の」共産党を作らせ,緑軍をこれに吸収した後,この共産党を骨抜きにして有名無実化したのでした.
以上,ソースは「世界現代史11 中東現代史1」(永田雄三他著,山川出版社,'82)からの抜粋要約です.
【質問】
第1次大戦後の国難において,トルコが一致団結できたのは何故か?
【回答】
外国軍侵略が要因となったという.
以下引用.
トルコ人ナショナリズムの再生を可能にした一つの要因は,1919年から21年に行われた連合軍のアナトリア侵略とアナトリア分割計画である.
その計画では,東アナトリアはアルメニア人の保護領になり,西はギリシャが獲得するはずだった.
アルメニア人とギリシャ人はキリスト教徒,したがってイスラムの敵だったばかりか,一世代前にアナトリアで発生した多くの地域紛争でトルコ人やクルド人の隣人達と反目した間柄でもあった.
農民のナショナリズムを高めるのに,その村落を占領する外国軍隊以上に適当な役者はいないものである.
第1次大戦中,ロシア軍は東アナトリアの殆どを占領したが,激しい戦闘のさなか,案の定,民間人に対する略奪や虐殺が横行した.
例えば,東部のワン州では,ムスリム住民の60%が戦中・戦後に死亡したと推定されている.15
1919年5月にはギリシャ軍がスミルナ(イズミル)に上陸し,地域の大規模なギリシャ人社会から「解放者」として歓迎された.その状況で,現地のトルコ人住民に対する殺人や略奪,あるいは少なくとも弾圧が発生するのも避けられなかった.
こうした中,自分達の故郷を併合・分割しようとしている先祖代代の敵に対して,アナトリアに住むトルコ人エリートを動員するのも難しくは無かった.
農民の動員には,現地の有力者が力を貸した.16
トルコ人とクルド人の大衆にとって,宣戦布告は,野蛮で神を汚そうとする侵略者に対して,イスラムと村落を守るためであった.
共和制の出る幕はなく,それどころか,オスマン君主は連合国側に捕らわれている状態から救出されることになった.
15 H.Poulton, Top Hat, Grey wolf and Crescent. Turkish Nationalism and the Turkish Republic, Hurst, London, 1997, p.89.
16 外国軍による侵略を受けていなかったアナトリア中部の農民階級は,ケマルの軍隊への徴兵には全く熱意を示さなかった.例えば,A.Kazancigil and E.Ozbudun (eds), Atatürk. Founder of a Modern State, Hurst, London, 1997所収のAhmad, 'The Political Economy of Kemalism', p.155を参照.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)下巻,p.250-251
【質問】
前から思ってたんだけど,第一次世界大戦が起きているときに,イラクはどんな戦争をしたんですかね?
【回答】
メソポタミア戦線
http://ww1.m78.com/topix-2/mesopotamia.html
参照.
当時のイラクはオスマン領.
英軍,オスマン帝国軍,共に補給状態は最悪で,重要な補給ラインであるチグリス河沿いで2〜3個師団が睨み合ったまま.一回進撃すると蓄積物資を使い切って半年ぐらいは動けない,という戦いぶりだった.
メソポタミア原住民部族は,組織戦闘は特にやっていない.
アラブ人ゲリラが英軍に協力して活躍したのはパレスチナ戦線.
そもそも,当時「イラク」という地域概念があったと思ってるのか?
あんなのサイクス=ピコ協定で戦後に作られたもんだ.
世界史板
青文字:加筆改修部分