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◆◆オーストリア=ハンガリー Osztrák-Magyar Monarchia
<◆総記
<WW1 FAQ 目次
AZ ELSŐ VILÁGHÁBORÚ MAGYAR HŐSEI
「ストパン」■(2009/08/20) ハプスブルク帝国の国民統合と軍隊――極東に囚われた俘虜たちを通して
【質問】
なぜオーストリア=ハンガリー軍は絶えず予算不足だったのか?
【回答】
ハプスブルク帝国軍は民族よりも王朝や帝国のために存在したため,ハンガリー人は,軍が自分達に向けられるのではないかと恐れを抱き,そのためにハンガリーの議会・政府は一貫して,少なくとも1912年まで軍事支出を故意に抑えたからだという.
以下引用.
ハンガリー人が犯した最大の罪は,帝国の対外政策や国際的立場を弱めていったのと同時に,帝国の軍事力の土台までも劇的なまでに突き崩していったことである.
ハプスブルク帝国軍は民族よりも王朝や帝国のために存在したため,ハンガリー人は軍を嫌い,自分達に向けられるのではないかと恐れを抱き(この懸念は,全く非現実的というわけではなかった),フランツ・ヨゼフから譲歩を引き出そうとして,絶えず軍を資金不足に陥らせた.
「1850年代から1914年まで,オーストリア・ハンガリーの軍事予算は,ヨーロッパ全ての列強諸国の中で最少だったが,帝国経済の財政能力から言っても極端に少なかった.
……ハンガリーの議会・政府は一貫して,少なくとも1912年まで軍事支出を故意に抑えたのであり,それをやめたときには,もはや遅すぎたのだった」34
軍が弱かったために,帝国の支配者はますます悲観し,逆に敵国はますます希望を募らせていった.
国家が生命力を維持していくための「国家のエゴイズム」の力強さが称賛されていた時代において,軍の弱さは,民族紛争が引き起こす危機感や不安感をいっそう強めた.
帝国の支配者達は,旧来の社会的エリートの出身者として,近代性は自分達の敵であるとか,未来に希望はないかもしれないと疑ってかかるきらいがあった.
こうした要素全てから,再び権力を主張しなければならない,あるいは,長期的な災難を避けるためには,内外の敵の集団を威圧しなければならない,といった感覚が強まり,これら全ての感情が,1914年のセルビアへの攻撃の引き金になったのである.
34 G.Lundestad (ed.), the Fall of Great Powers. Peace, Stability and Legitimacy, Scandinavian University Press, Oslo, 1994所収のI.Deak, 'The Fall of Austria-Hungary. Peace, Stability and Legitimacy', ch.4, p.89.
Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.352-353
イタリア「Uniformi & Armi」誌表紙
兵士は,第一次大戦のオーストリア軍ヘルメットの特集記事のもので,
おそらくモデルもその辺の設定を意識したキャスティングだと思います.
バックの写真が南チロルのアルプス戦線ですね
よしぞうmaro' in mixi,2007年12月09日 15:00
【質問】
WW1における多民族国家の軍って,どうやって部隊間の意思疎通を図ったのでしょうか?
【回答】
二重帝国の共通軍やOttoman-Turkeyの特に海軍の場合,士官は兵士の言語を習得することが奨励されていました.
後者の場合は,海軍兵士の多くがギリシャ人だったので,主にギリシャ語の習得をするようにして,意思の疎通を図っています.
前者の場合は,ドイツ人が25%,マジャール人が23%で,両方合わせても半分になりません.
残りは,
チェック人が12.5%,
スロヴァキア人が3.5%,
ポーランド人7.7%,
ウクライナ人7.6%,
スロヴェニア人が2.5%,
セルビア・クロアチア人が9.7%,
ルーマニア人6.8%,
イタリア人1.7%,
ブルガリア人
と言う構成です.
こうした民族構成であることから,軍隊での使用言語を三種類に分けています.
先ず,指揮に用いる語彙,「前へ進め」「撃て」など基本的なもの,これを指揮語と呼んでいましたが,これにはドイツ語を充当しています.
次いで,軍務に必要な専門用語である服務語も,ドイツ語です.
最後は,連隊内の会話や教練に使われる連隊語で,これは連隊を構成する兵士の母語が使われました.
なお,連隊構成は徴兵区を規準にしており,その徴兵区の民族構成が其の儘,連隊の民族構成になっています.
1897年の調査では,共通陸軍歩兵102個連隊のうち,連隊語が1つなのは55個連隊,2言語が44個連隊あり,
3つに上る連隊も3個連隊ありました.
例えば,Transylvania地区の連隊では,マジャール人47%,ルーマニア人46%なので,この2民族の言語が連隊語に採用されました.
従って,教練にはその言語に対応しなければなりませんでした.
将校は,数カ国語に精通しなければ成らず,1904年時点の調査では,将校1名当り平均2.55言語を話せると言う統計が出ています.
なお,将校の構成は,ドイツ系が圧倒的に多く,78.7%を占めており,次いでマジャール系9.3%,チェック系4.8%で,ドイツ語以外の言語が話せる割合は,チェコ語が47.0%,マジャール語が33.6%,ポーランド語19.3%,セルビア・クロアチア語15.3%,以下,ルーマニア語,イタリア語,ウクライナ語,スロヴェニア語,スロヴァキア語となっています.
二重帝国共通陸軍では,使用するドイツ語は指揮語,服務語を合わせても80の単語しか無かったので,例え,全く他国の言葉を知らない人間でも,これらの言葉を覚えれば,兵士として働かせる事は可能だと考えられていました.
ただ,チェック人連隊の様に,指揮語や服務語がドイツ語なのに,それに反して,チェック語を使い続ける運動
が展開されたケースはあったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/09/16(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
オーストリア二重帝国国内のスラヴ人は分離主義者だったのか?
【回答】
(・ω・)<オーストリア二重帝国にとって,国内の『スラヴのクソ野郎ども』は,帝国を崩壊させる分離主義者たちだったのですか?
(ーー)<そうやって悪いイメージを先行させるから,必要もない対セルビア宣戦布告をする羽目になるのですよ.
オーストリア帝国からの分離を唱えていたのはイタリア系住民であり,スラヴ系住民は少なくとも上層部が危機感を抱くほどに,過激な分離主義者ではありませんでした.
実際,WW1になったら最後までハプスブルグ家のために戦ってくれましたからね.
彼らの要求は,「俺たちスラヴ系少数民族にも,ハンガリー人みたいな“自治”をキボンヌ!」でした.
(・ω・)<独立したいとか思わなかったんですか?
(ーー)<隣にロシア帝国やドイツ帝国があるのに??
帝国主義な列強のそばで少数民族が独立して,今までどおり暮らしていけると思うほどには,彼らは脳内お花畑の住民ではありませんよ.
それに経済的にも,それなりに食っていけるレベルでしたので.
念願(?)かなってWW1後に独立しましたが,後でヒトラーやスターリンに征服されてしまったのは皮肉ですね.
以下,アラン・スケッド著「ハプスブルグ帝国衰亡史」(原書房,1996.5)より引用――
他ならぬマサリク自身が,一九〇九年に次のように述べた.
「我々が欲するのは連邦制のオーストリアであります.我々はオーストリアから独立できません.強大なドイツの隣に位置し,我々の領土にもドイツ人がいるのですから.」
ついに一九一四年にフランツ・フェルディナントが暗殺された後,クラマージは
「……われわれが帝国に敵対するのはスラヴ主義を信じ込んでいるせいだ,と考える輩には,われわれは断固抗議します――,帝国の外のものはまったく頼りにしていないのです」
と語った.
こういうわけで,アメリカ人歴史学者ヴィクター・S・ママティはこう結論づける.
「第一次世界大戦前夜,ハプスブルグ帝国でのチェコ人は失意の底にあったが,帝国外で生きようなどとは考えられなかった」
――p247より
※筆者補足
「マサリク」…WW1後にオーストリア帝国から独立したチェコスロヴァキアの初代大統領
なおチェコ人はスラブ系です.
帝国の他の諸民族と,彼らが王家に示した忠誠にかんしていえば,政治や文化の面で不満を持っていたにもかかわらず,ほとんどの場合,帝国をつぶそうとか,王家と絶縁しようとかいう欲求はなかった.
(中略)
ハンガリー人歴史家のディオセギ・イシュトヴァーンはこう書いている.
「民族主義が帝国の崩壊を招いたのではない.
ハプスブルグ帝国内で,無条件の離脱を求めていた民族はイタリア人だけである.
それ以外は,経済・政治・外交政策の思惑から,彼ら民族の目的を実現する場としては帝国がふさわしい,と前向きに考えるようになった」
――p257より
(・ω・)<でも南部のスラヴ系住民は,とかく過激なスラヴ主義で破竹の勢いなセルビアに隣接しいてたし,彼らに影響されて,オーストリアが崩壊して独立することを望む人も多かったのでは?
それにセルビアはオーストリア領内のスラヴ系住民を自分の同胞とみなし,そこを統合することも考えていたんでしょ?
(ーー)<それにはロシア帝国の助けがないと無理ですし,んなことを本気で期待するほどには,セルビアも馬鹿ではありません.
以下引用――
「本当に急進的なのは,青年党『プレポロド』だけで,彼らは,帝国が解体し,スロヴェニア,クロアティア,セルビアが合併してユーゴスラヴィア人の国家をつくる,という考えに賛成していた.
しかし,この党が代表するのは少数派の保守派カトリック農民にすぎない.
一九一四年以前には,スロヴェニア人がハプスブルグ帝国の滅亡とユーゴスラヴィア国家の創設を支持して大きな運動を起こしたことはない」
――p235より
セルビアは民族全体の統合を目的にかかげ,オーストリアの南スラヴ人も,力を増した民族国家に引きつけられていた.
しかしこの魅力も,オーストリアのドイツ人が新興ドイツ民族国家に抱く関心ほど強くはなく,全帝国にとっての意味で比べればはるかに小さかった.
セルビアは,南スラヴ人の民族的統合という思想を持ちつづけていたが,外国の援助なしにこの計画が実現できるとは思えなかった.
大国によって希望がもたらされること,つまりセルビアの利益を増すためにロシアがオーストリアに対して戦争をすることは,合理的に考えればありそうにもない.
――p286より
(ーー)<「『敵』はこちらが最悪のケースと考える事を実現するかもしれない.」
「そうなったら俺たちはおしまいだ!」
「だったらその前にヤっちまえ!」
ナイ教授が言うところの「囚人のジレンマ」ですね.
真面目に帝国の保全を考えれば考えるほど,それとはかけ離れた結論になってしまいました…
【質問】
第一次世界大戦でオーストリアの死傷者,捕虜,行方不明者が人口の割りに多いのはなぜでしょうか?
【回答】
多民族国家であるオーストリアは兵に命令を下す際に多数の言語が必要だったそうです.
その為,徴兵した兵に行なう訓練の効率が,他国と比較して非常に悪いものでした.
これは兵器,弾薬,人員の補充能力が大きなウェイトを占めていた第一世界大戦において,致命的な欠点でした.
更に大戦初期にガリシアの戦いで,ロシア軍に惨敗して40万人程の人的損害を受けてしまいました.
この際に軍隊の背骨となる訓練された兵や下士官,下級将校が根こそぎ,しかも一度に失われてしまいました.
その為,前述の訓練効率の悪さも祟り以後,前線に練度の低い部隊を送らざるを得ず,また大きな損害を受けると言った悪循環を繰り返す事になり,大戦が終わるまでそこから抜け出す事は叶いませんでした.
また,他の列強と違い,国民が国家に対して明確なナショナリズムを見出す事が出来なかったのも,捕虜の多さの要因となっています.
ue◆WomMV0C2P.
【質問】
第一次大戦末期にオーストリアが連合側に単独講和を持ちかけたのに,スルーされたのはなんで?
【回答】
時勢が悪過ぎる.
ロシア革命でロシアは脱落し,東部戦線は崩壊,アメリカ参戦が決まり,ドイツのカイザー攻勢は失敗.
このような状況ではオーストリアが連合に加わった所で今更,戦略的価値は全くない.
ロシアが健在の頃なら,まだ意味はあったかもしれないが.
後,戦争責任を問うなら,オーストリアは間違いなくトップ・クラス.
それを許すほど当時の国際社会は甘くない.
二重帝国の解体は規定路線だったしね.
第二次大戦で言ったらフィリピン落ちた後くらいに,日本が単独講和を持ちかけるようなもの.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
サン・ジェルマン条約って何?
3行で教えて!
【回答 válasz】
サン・ジェルマン条約は第一次大戦後の1919年,オーストリアと連合国との間で結ばれた講和条約.
これによりオーストリア=ハンガリー帝国の旧領土の4分の3が失われ,多民族国家は解消されてオーストリア共和国は基本的にはドイツ人の国家となったが,旧オーストリア=ハンガリー帝国帝国内のチェコなどにも多数のドイツ人住民が残り,後に国際問題となった.
また,オーストリア軍は陸軍兵力3万人に限定され,航空隊保有も禁止された.
【ぐんじさんぎょう】,2017/11/1 20:00
を加筆改修
【質問 kérdés】
トリアノン和平条約って何?
Mi az Trianoni békeszerződés?
【回答 válasz】
第一次大戦の敗戦国となったハンガリーと連合国が,1920年に結んだ講和条約.
領土は周辺諸国に割譲されてハンガリーは領土の3分の2を失った上,軍備制限,賠償金支払い,石炭や家畜などの連合国側への無償提供など,過酷な条件を課せられた.
ハンガリーにとってメリットと言えば,オーストリア=ハンガリーからの独立が改めて国際社会に認知されたことくらいで,この条約への怨嗟は,やがてハンガリーをしてナチス=ドイツへ傾斜させていくことになった.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.y-history.net/appendix/wh1502-018.html
https://kotobank.jp/word/トリアノン条約
https://reki.hatenablog.com/entry/160526-WW2-Hungary-Position
http://www.irodalmilap.net/?q=cikk/1920-junius-4-trianoni-bekeszerzodes-ratifikalasanak-napja-0
領土分割状況
faq190105tr
(こちらより引用)
twitter, 2019.1.5
を加筆改修
【質問】
第一次大戦後,ハンガリーがオーストリアから分離したのは何故か?
【回答】
ハプスブルク帝国の存在理由が,ハンガリー人にとってはなくなったためだという.
以下引用.
------------
ハンガリー人にとって,帝国の主な存在理由はロシアへの敵意だった.
ハンガリーの指導的政治家で,後に帝国の外相を務めるアンドラーシ伯爵<1823~90.67年にハンガリー首相.71年にオーストリア・ハンガリーの外相>は1870年,このように述べた.
「全てのハンガリー人の意見と同様,私もオーストリア・ハンガリーとロシアの衝突は避けがたいと考えている」18
ハンガリー人達は,1849年にロシアの介入で革命が潰された事を許していなかった.
それより遥かに重要だったのは,マジャール人はハンガリー王国の約半数しかいなかったのに対し,東・中央ヨーロッパ全体ではスラブ人のほうがずっと多かったことだ.
これらのスラブ人の背後にはロシアが立ちはだかり,スラブの大国として,その人口と資源はハンガリーより遥かに大きかった事を,ハンガリー人はしっかり認識していた.
多くのハンガリー人にとって,ハプスブルク帝国は好ましくなく,悩みの種であったが,それでも指導者達は,マジャール人が敵意に満ちた世界で生きていくためには,帝国が地政学的に不可欠だと信じていた.
それゆえ,1917年の革命で,大国としてのロシアが消滅したかに見えた際,ハンガリー人エリートがハプスブルク帝国に忠誠を誓う大きな理由も力を失ってしまった.
〔略〕
1848年に遡るが,チェコの指導者は,帝国の主たる目的は,ドイツあるいはロシアの支配から東・中央ヨーロッパを守ることにあると協調した.
少数民族であるチェコ人は,ヨーロッパの支配者になる可能性を秘めたドイツ,ロシアの両民族に対抗して,自分達だけでは独立を維持できないと心得ていた.
だからこそ,自分達を守ってくれるハプスブルクが必要だったのだ.
しかし,その保護の真の価値は,チェコ人が文化を維持し,帝国に住む他の民族と平等に暮らすことが許される場合だけに限られた.
そのため,帝国内部でドイツ人と衝突するようになると,チェコ人はロシアに共鳴するようになった.
同じ事が,ハンガリーに支配されていた南スラブ人の多くにも当て嵌まった.
帝国末期の数十年間にハンガリーの支配が抑圧的になり,したがって汎スラブ主義の共鳴が高まっていくにつれて,事態はますます悪循環となり,逆にロシアに対するハンガリー人の敵意も高まったのだった.
------------Dominic Lieven著「帝国の興亡」(日本経済新聞社,2002/12/16)上巻,p.321-322
一方,Joseph Rothschild著「大戦間期の東欧」(刀水書房,1994.10)PP.136~137では,マジャール人貴族と言う存在がそもそもの原因だったとしています.
(以下引用)
------------
「戦争が明らかに敗北と判ったときでさえ,支配層はまだ,その領土の歴史的国境と,其処での自分たちとの支配的地位を保持し続けようと望んでいた.重要な改革や一連の妥協を行うことに依ってではなく,唯単にドイツとの戦時同盟や帝国との立憲的連合を放棄し,マジャールは,これまでずっとチュートン・ドイツ人の奴隷的犠牲者であると西欧に触れ込むことによって.」
マジャール人貴族は,王権や,非マジャール系諸民族や,土地を奪われ実質的には何の権利も持たないマジャール人農民を含む他の社会階層に対して,その支配的地位を主張し,維持するために戦ってきた.
マジャール貴族は,土地と政府行政機構を支配することによって,その地位を絶えず守るための力と回復力を引き出していた.
貴族は,一言で言えば,マジャール王国の「政治的民族」であった.
彼等は,20世紀初頭までに人口の半数を占めるようになった他の少数民族の代表者の要求を認めなかったばかりか,自分と,「自分の所有物である」農民との間に介入しようとする如何なる中産階級をも容認しなかった.
アウグスライヒの時期に於ける「重商主義的」な商業や工業の拡大でさえ,貴族出身の官僚層が担うことによって,貴族の政治権力の社会的基盤を掘り崩す方向ではなく,それを補完し,強化する形で実行された.
しかし,歴史的な特権や行動様式を体現し守り続けるマジャール貴族のこうした忍耐力と先見性こそが,第一次大戦前の2,30年間に,二重帝国の中で長い間続いた些細な憲法上の抗争にマジャール貴族を巻き込み,目先だけの内政的小細工や抑圧に政治力を消耗させる現況であった.
マジャール貴族は,政治参加の拡大はマジャール人の覇権を危険にするという排外主義的な考えに立って,民族的にはマジャール人である大部分の人々さえ,公民権から排除した.
「民族を存続させる」という表現が,貴族の社会的・政治的特権を守るイチジクの葉として使われたのである.
同時に,都市の経済と知的分野の主導権の大部分は,主にユダヤ人からなるブルジョア層に譲り渡された.
マジャールは,歴史や,地理や水運や経済において,驚くほどの一体性を有していたが,一千年にわたる政治機構は次第に孤立し,偏狭となり,崩れやすくなっていた.
------------
でもって,1918年10月31日の民衆革命とカーロイ・ミハーイ政権の登場に続くわけです….
可成りはしょりますが….
敗戦時政権を担当していたティサ・イシュトバーン伯は,自国が敗北していると言うのにすっごく頑迷だったのですが,無血クーデターによって新しく政権の座についたカーロイ・ミハーイは,ドイツとマジャールとの提携関係を,フランスとの協調関係に変化させ,オーストリアに対するマジャールの自治を主張した上,結果的にマジャールの内政と社会生活を民主化することで,各地に点在する少数民族との融和を図り,ベルリンとウィーンに対抗しようとします.
こうすれば,ウィルソンの民族自決の理念に則るものになった筈で,最終的にはマジャール王国部の緩やかな連邦形成を目指していたのですが,前政権が余りに酷い仕打ちをやりすぎたために(何事もやり過ぎはいかん),周辺諸国や連合国の受け容れられるところになりませんでした.
【質問】
ベラ・クーンの共産政府はなぜ誕生したか?
【回答】
1918年11月16日,クン・ベーラはソヴェトの命令でマジャールに帰国し,扇動家として少なからぬ才能を発揮し,ソヴェト・ロシアの援助を受けて,革命を「発展」させる任務に当たった.
11月20日,露西亜からの帰還者,国内左派社会主義者,革命的社会主義者によって,マジャール共産党が結成され,12月7日にはカーロイ派と社民党穏健派に対する挑発的論文を掲載した,党機関紙「赤色新聞」が発行された.
こうした挑発に対し,戦前からの社民党員や労組幹部はこういった共産党の宣伝をかわす免疫を持っていたが,政治に無関心な層から社民党に入党した,戦時組の党員,失業兵,知識人は影響を受けた.
12月12日,共産党は,武装解除に不満を持っていたブタペシュト駐屯部隊を利用して圧力を掛け,カーロイ政権の国防大臣を辞任に追い込み,兵士評議会に浸透した.
しかし,社民党員が勢力を扶植していた労働者評議会に対しては大した影響を与えられなかった.
そこで,翌年2月までに幾度と無く騒動を起こし,それを宣伝して1919年2月までにブダペシュトで1万5000人,地方で2万5000人の党員を獲得し,ドイツに復員する途次,フォン・マッケンゼン元帥の部隊がマジャールに遺棄した3500挺のライフル銃を手に入れ,2月3日と6日の赤色新聞紙上で,武装蜂起を呼びかけた.
是に対抗して,社民党は2月9日に臨時党大会を開いて,「共産党分裂主義者」を党と労組から排除することを決議,2月20日には,社民党機関紙「人民の声」編集局前で,失業者のデモと警官隊が衝突,多くの死傷者が警官に出た.
また,ベラ・クーンには政府から公秩序侵害と叛乱教唆の容疑で逮捕状が出されたが,社民党指導部が徹底的な弾圧を行うのには,戦前のノスケ主義を想起させ,躊躇いがあった.
また,二重帝国崩壊後のマジャールに於いて,首相のカーロイ・ミハーイ伯は軍隊の解体を行い,次ぎに農地改革に手を付けた.
最初に範を示すべく,彼の領地に住む農民に自分の土地を分配したが,これは,政治的に無益な行動だった.
農地改革は彼の内閣の農務大臣によって準備され,土地所有上限を500ヨーク(1ヨークは0.575ha)とし,これを越えた土地は没収して農民に分配することとなり,没収された土地は1913年の価格を基準に旧地主に保証金が規定されたが,これも,政権与党の社会民主党によって反動的であることと反対された.
貴族達は賢明にも表だった反発は控え,これにより,社会民主党への国民の反発は強まり,これに依拠していた,カーロイ・ミハーイ内閣は崩壊した.
その後,マジャール社会は急激にプロレタリアートの力が増大し,それを抑えるべき暴力装置たる軍隊が消滅していた為,容易に赤色革命が達成される余地が生まれた訳であり,そこをベラ・クーンは突き,大衆の支持を得たのである.
協商国側もベラ・クーンに味方した.
第一に,戦勝国は,1000年に渡るマジャール王国の領土諸地域を要求して,
軍だけでなく,行政機関も送り込んでいる,チェコ,ルーマニア,ユーゴの行為を正当と認めた.
第二に,近隣諸国の利益に沿う形で休戦協定の境界線を何度も改訂した.
第三に,その領土問題に関して譲歩を引き出す為に,経済封鎖を継続したのである.
こういった面を利用して,クーンは第一に,カーロイや社民党の様にフランスの寛大さに期待することはオーストリアやドイツと結んだかつての「妥協」(1867年の二重帝国発足のこと)と同じ位虚しいモノであって,マジャール民族なら,そう言ったくびきを脱して,今こそ,ボルシェビキ・ロシアとの革命的同盟を基礎とすべきである.
また,第二に,ロシアの様に,干渉戦争や国内の反動から自らを守るには,民族的な革命のエネルギーを重視すべきである,としたのである.
愛国主義と,革命,この2つの訴えは,イデオロギーに無知な兵士,大衆は言うに及ばず,社会民主党の下部活動家,一般党員,果ては一部の社会民主党幹部にまで影響を与え,新共和国の軍兵士は,クーンの急進的命令を直ちに受入れ,マジャール駐留戦勝国代表のフランス陸軍中佐,ヴィクスがルーマニアの要請に応じて,その領土割譲を通知した時,かくて,国民の堪忍袋の緒は切れ,カーロイ政権は崩壊,3月21日,共産党と社会民主党の即時合同が為され,マジャール・ソヴェト政権が樹立されたのである.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
(出展:Joseph Rothschild "East Central
Europe"
(刀水書房から「大戦間期の東欧」という邦題で出ています.)
これの第四章の抜粋….)
【質問】
ベラ・クンの共産政府ってあっさり崩壊したけど,よほど軍隊が弱かったのかね?
【回答】
↓を見る限り国民に愛想をつかされたのだと思われ.
http://www.vanguardnewsnetwork.com/temp/TerrorTimeline/1919_BelaKunThe133Days.htm
しかも肝心の国土防衛は放棄してトンズラかよ.
ナジもこのとき政権に参加していたらしいが.
また,羽場先生の「ハンガリー革命史研究」によると旧ハンガリー王国国防軍(ホンヴェード)の軍隊6万人を引き継いだとあり,これが共産軍の母体ですが,この人達は決して皆が皆,共産政府に賛意を表していたわけではなく,隣国の軍隊にハンガリーが分割されるという危機感から参加したと書かれてますね.
あとは工場労働者・農民を赤軍として組織化してますが,この人々も旧軍の軍人達同様,チェコ軍・ルーマニア軍の侵攻に危機感を抱いた人達だったようです.
元々,共産主義に賛意を表していない人達と共産主義者の混合体ですから,うまく機能しなかったのではないでしょうか・・.
しかも,クンはクレマンソーの通告を受けて,赤軍を国境線から後退させる決定をしてしまいましたから,彼らの心は共産政権から離反していったのだと思います.
しかし,後にホルティ提督の下で首相を務めるストーヤイみたいな人物が赤軍に参加していたとは驚きました・・.
(ギシュクラ・ヤーノシュ ◆5i6wQS3C8w in 世界史板)
【質問 kérdés】
ハンガリーの代用勲章について教えてください.
【回答 válasz】
オーストリア=ハンガリーが崩壊すると共に,第一次大戦までの勲章は過去のものとなったが,まだ叙勲されていない兵士がいた.
そうした兵士を称えるため,ハンガリー政府では,戦後,ホルティ時代に制定されたハンガリー王冠勲章を,旧勲章の代わりに着用できると定めた.
この場合,本来授与されるはずだった勲章のミニチュア・コピーが,リボンや略綬に装着された.
(写真1)
ただし第二次大戦後は,ハンガリー王冠勲章の着用は禁止されているという.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/442575/en/ ※写真1引用元
2017.8.6
【質問 kérdés】
戦争記念章って何?
Mi az Háborús Emlékérem?
【回答 válasz】
戦争記念章はハンガリーにおいて,摂政ホルティ・ミクローシュの名の下に授与されたもので,第一次大戦に従軍し,倒れた戦争体験者に対して贈られた.
1929.5.26制定.
地位や階級に関わりなく,最前線にいた兵士や非戦闘員,負傷退役した軍人,医療関係者や赤十字勲章受章者,元捕虜,戦死者の遺族,後方勤務従事者,そして1919年夏の,ハンガリー・ソヴィエト共和国打倒に加わった人々に授与された.
ただし,大戦参加を証明する書類を軍事当局に提出されなければならず,書類が無い場合には,2人の信頼できる証人を用意せねばならなかった.
ハンガリー人と一緒に戦った中央同盟側の軍人は,勲章を申請せねばならなかった.
外国人には勲章は郵送されたが,封筒には証明書とミニチュアが入っていた.
勲章の実物は,証明書提出の上,認可された店で購入せねばならなかった.
交付手数料は,受章者の状況により違いがあった.
将校は6ペンゲー,将校以外は3ペンゲー,遺族は2ペンゲーだった.
ただし,例外的に国防相決済によって,その徴収が免除されることもあった.
戦争記念勲章には2つの等級があった.
最前線に立った兵士と,非戦闘員の戦争参加者とである.
2つの違いはリボンの色とデザインだった.
申請者が両方の等級で有資格だった場合には,最前線兵士用のデザインの勲章を受け取った.
着用時は,三等交戦章の後ろにつけることとされた.
今日,この勲章を着用することはできない.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444089/en/
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/horthy-korszak/magyar-haborus-emlekerem/
http://eremtar.hupont.hu/6/kituntetesek
2017.8.19
【質問 kérdés】
剣・ヘルメット付き戦争記念章とは?
Mi az Háborús Emlékérem kardokkal és sisakkal?
【回答 válasz】
戦争記念章のうち,第一次大戦において前線や後方勤務地に出征した兵士に与えられたもの.
直径37mmで,銀メッキ.
勲章表面には,月桂樹とローレルで飾られた,交差された剣を背景にした,王冠を戴いたハンガリーの紋章が描かれている.
(写真1 - wikipediaより)
裏面には,ドイツ製M16スチール・ヘルメットのイメージ画と,"1914-1918"の数字が描かれていた.
(写真2右側)
裏面上部にある語句はラテン語で,「Pro Deo Et Patria (神と祖国のため)」と書かれている.
リボンは白地に横に緑色の縞模様,両端に近いところに縦に赤のストライプが入っていた.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444089/en/
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/horthy-korszak/magyar-haborus-emlekerem/ ※写真2引用元
http://eremtar.hupont.hu/6/kituntetesek
2017.8.22
【質問 kérdés】
剣・ヘルメット無し戦争記念章とは?
Mi az Háborús Emlékérem kardok és sisak nélkül ?
【回答 válasz】
戦争記念章の一種で,非戦闘員,負傷退役軍人,医療十字者や赤十字勲章を授与された者,元捕虜,戦死者の遺族,後方勤務の軍属,1919年夏と秋にハンガリー・ソヴィエt共和国との戦いに加わった者に授与されたもの.
勲章表には月桂樹とオークの花輪に囲まれたハンガリーの紋章があるが,交差された剣はない.
(写真1 - wikipediaより)
裏面には中央に1914~1918年の文字があり,上方にはラテン語で「Pro Deo Et Patria」(「神と祖国のため」)という文字が入り,下部には2枚の月桂樹の葉がリボン・ネクタイで結ばれていたが,ヘルメットの絵は入っていない.
(写真2右側)
リボンは白地に,両縁に近い側に,それぞれ幅の広い縦の赤の縞が,2つの赤の縞の間に,幅の広い緑の縞が入っていた.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444089/en/
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/horthy-korszak/magyar-haborus-emlekerem/
http://eremtar.hupont.hu/6/kituntetesek
2017.8.24
【質問 kérdés】
戦傷兵士章とは?
Mi az Hadirokkant jelvény?
【回答 válasz】
戦傷兵士章(写真1)は,第一次大戦において負傷章を授与されていない兵士にのみ授与されたもので,後遺症が残っているか,その負傷によって収入が25%以上低下した者が対象となった.
直径22mmで,金メッキ製.
中央に「HR」という文字があり,その周りを月桂樹の葉が囲っており,その上に聖イシュトバーンの王冠が載っているというデザイン.
この勲章は,戦争記念章のリボン,または略綬につけることができた.
(写真2)は着用の一例.
【参考ページ Referencia Oldal】
http://live.warthunder.com/post/444089/en/
http://kituntetes.webnode.hu/kituntetesek/horthy-korszak/magyar-haborus-emlekerem/
http://eremtar.hupont.hu/6/kituntetesek
http://kituntetes.webnode.hu/jelvenyek/hadirokkant-jelveny/ ※写真1~2引用元
2017.8.25
【質問 kérdés】
第一次大戦までのハンガリー車輌&機械工場株式会社について教えてください.
Kérem, mondja meg az első világháború végéig a Magyar Vagon- és Gepgyár
Rt.-ról.
【回答 válasz】
ジェール Győrのラーバ Rábaは,ハンガリーの商用車業界の主要会社の1つ.
元はハンガリー車輌&機械工場株式会社と呼ばれたこの会社の歴史は,19世紀末に遡る.
1896年12月28日午前10時,ジェール市の郡貯蓄銀行の一室における,エミル・レデラーが議長を務める総会において,9人の株主が資本金50万HUFでジェール・ハンガリー車輌及び機械工場株式会社を設立.
オーストリアの提案によってジェールの蒸留所の管理を引き継いでいた,ウィーンの起業家であるエミールとリヒャルトのレデラー兄弟は,蒸留所の敷地で鉄道車輌の生産を開始.
有限責任社員は9名.
50万HUFの株式資本の88%は,オーストラリア・ハンガリー二重君主国の製造企業で主導的な役割を果たしていたレデラー家の一族が管理した.
工場の最初の生産は,1897年のガリチア=カルパチア石油株式会社向けの15t,2軸の鉄道油槽車30輌だった.
工場設立から数年間は,よりシンプルな鉄道貨物貨車,タンク車,長物車,輸送車のみが生産されていた.
しかし短期間で,車輌工場の2つの主要な生産遍歴となる,鉄道関連品と道路車両生産が立ち上がった.
この2つの基本的な生産遍歴は、工場設立から貨車生産停止まで,同じペースではなかったが並行して進展していった.
ハンガリー車輌&機械工場は絶えず拡大していき,1898年には1000輌目の鉄道車両を完成.
当時,工場には1,200人の従業員がおり,1日当たり貨車8~10輌を生産することができた.
1899年までには輸出向けの車輌も受注していた.
鉄道車両はエジプト,東インド,南アフリカに,都市交通用路面電車はアムステルダムやアントワープに輸出された.
ロンドン地下鉄の列車もジェールで製作された.
ロンドン地下鉄は,気動車30輌,トレーラーや台車66輌を発注.
これはまた同社の国際間商取引の初の成功例となった.
1900年には鉄道乗用車,すなわち市街地トラム(路面電車)が導入された.
同年,工場はまた,パリ万国博覧会に向けた鐡道車両とトラックを製作した.
1902年からは車輌工場は軍需生産も引き受け,「砲牽引車,弾薬運搬車,および火砲基部部品」を共通軍に供給した.
一方,合資会社設立から僅か3年後,取締役会で自動車生産案が提起され,その後の1900年代初頭,オーストリアの自動車メーカー「シュピッツ」用の最初の小型車シリーズ――基本的にカスタムメイド――のシャーシが完成.
1904年,トゥラスカール Vk.代表取締役とコロクナイ技師の計画に基づき,世界初のガソリンエンジン,全輪駆動、全輪操舵の車輌がジェールにおいて完成した.
フェルディナンド・ポルシェも専門家として貢献した.
1904年から1905年にかけ,ウィーンの[スポーツカー・メーカー,]アルノルト・シュピッツの依頼により,自動車10台分ののシャーシを生産.
そのボディワークはウィーンで行われた.
アルノルト・シュピッツはグラーフ兄弟の工場で車輌を生産していたが,しかし彼は,現地産の自動車でハンガリー市場を席巻したがっていた.
だが,その試みは失敗し,Gräf兄弟もシュピッツのやり方を容認した.
そして協力契約は終了し,結果スピッツはすぐに破産した.
シュピッツの車体と同時に,耐荷重2t,4輪駆動,トラクター・タイプのトラックのサンプルを工場は得ていた.
この車両はルードヴィヒ・フォン・トゥラシュカル副工場長が特許を取得していた.
トゥラシュカル Tlaskalは,パウル・ダイムラー――自動車の発明者のうちの一人の息子であり,オーストリア・ダイムラー工場の工場長――と共同で自動車を設計した.
軍首脳部は当初,軍用列車製造をオーストリア・ダイムラーに発注したいと考えていた.
オーストリア・ダイムラーはこれを引き受けなかったため,この発注がジェール Győrのほうに「転がり込んできた」.
車両は40馬力のダイムラー・エンジンを搭載し,貨車5輌を牽引できた.
貨車の車輪は牽引車の車輪の軌道を完全に追従するようになっていた.
(当時,同じようなレール・カーは数種類作られていた.
例えばドイツのミラー,フランスのレナール,それに第一次世界大戦中のフェルディナント・ポルシェとオーストロ・ダイムラーの計画等)
この型破りな車輌は1905年,第5回ウィーン国際モーターショーで発表された.
しかしこの型の車輌は,ジェール Győrやヴァイナーシュタット WienerNeustadtのオーストリア・ダイムラーの工場では量産されていなかった.
ジェールで実際に自動車の生産が開始されたのは1907年で,これはツォンカ・ヤーノシュ Csonka Jánosの郵便車の特許を使用.
バーンキ・ドナートとツォンカ・ヤーノシュの作業により,車輌工場製郵便車,最初の4輌が完成した.
ツォンカは個人的にジェールでの生産管理に携わっていた人物.
ツォンカ・エンジンの16馬力を搭載し,オーストロ・ダイムラー Austro-Daimlerのライセンスの下,車とバンとが生産された.
車輌の生産は3つの型で,1910年まで続いた.
この期間中,ツォンカ・エンジンを備えた91台分の郵便車の車体が工場から出荷された.
さらに1910年頃,オーストリア・ダイムラーのライセンスの下,トラックと貨車が幾つか製作された.
車輌工場の製造した自家用車が初めて販売されたのも1910年である.
病院の主治医であるペッツ・ラヨシュ博士が購入した5.5馬力の自動車がそれであり,これは当時,非常に目立った.
その間,車輌以外の分野にも同社は進出.
1906年,エッフェル塔計画において,最も近代的な設計をされた鉄工所として製造を担った.
1908年にはラブカの橋の架橋工事を担当.
車輌工場に在籍する専門家は,川床を迂回させることにより,元の場所から約2 km離れたところで,長さ50 m,100トンの橋を,2つのはしけを使って1つに再結合した.
1910年より鋳鋼を開始.
1911年にはより生産的・より経済的・より高品質の鉄鋼を生産できるマーティン炉での操業を開始した.
1913年,同社はチェコのErste Böhmisch-Mährische MaschinenfabrikからプラガPragaブランドの自動車製造権を取得.
ライセンスはプラハの主任設計技師フランチセク・ケッツによって開発された3種,小型車カテゴリーの「アルファ」,より大型の乗用車「グランド」,および「V」3tトラックのものだった.
後者はまた,陸軍トラック助成金プログラムの要件を満たしていた.
間もなく第一次世界大戦が勃発したため,「アルファ」生産には実際には至らなかった.
この5~15馬力の小型車は,民間での使用にのみ適していたためだった.
しかし他の2車種は1913年6月1日,ラーバ Rába という商標でGyőr商工会議所に登録され,1928年までに「V」トラック約500輌,ラーバ「グランド」250輌がジェールにて生産された.
このような,新型車導入の際には製造工程自体のライセンスを購入するというのが,以後もハンガリー車輌・機械工場株式会社の長い伝統となった.
第一次世界大戦が勃発すると,同社はは主要な軍需工場となったため,民需生産については放棄を余儀なくされ,すでに生産された車は軍事目的で使用され,それ以降,工場は軍需生産に追われた.
35~46 hpのエンジンを搭載した4気筒の「グランド」のシャーシは,何台かの豪華仕様の車輌を除き,負傷兵用・指揮官用その他の軍用仕様とされた.
3tまたは5tのトレーラーを備えたトラックは戦争中,そのおおよそ全てが軍用として生産された.
1915年にはプラハ仕様のバイクの生産を開始.
また,農業分野にも取り組み,脱穀機,粉砕機,製粉機の駆動を可能にする「グランド」トラクターを開発した.
これもプラハのライセンスを得てのものだった.
上述のプラハの会社の,その製品をベースにして,KI型とKII型が作られたが,それぞれ38馬力と42馬力のエンジンを搭載していた.
20世紀初め、その特徴的な形状――厚い本のようなフレーム,固定シャフト,プラウ(耕起具)搭載のエンジン車輌は,ヨーロッパ中で大人気だった.
当時の耕作手順を勘案すれば,それははるかに単純で経済的だった.
車輌工場で生産された機械は,10時間で7~8.5ユゲルム※を15~35cmの深さに耕すことができた.
(※ユゲルム:長さ240ローマ・フィート、幅120フィート(約¹⁄₄ヘクタール)に相当する面積のローマ単位.
くびきでつながれた牛が1日の間に耕すことのできる耕地面積に相当する)
1915年から生産を開始したK II型耕運機は,プラウ(耕起具)を低速の「グランド」エンジンで駆動させる他,プーリー[動力源からベルトを経由して動力を伝達する際に利用する滑車]を介して他の農業機械
(脱穀機,粉砕機,飼料収穫機,ポンプ) を操作することを可能にし,プラウのフレームを持ち上げて牽引車として利用することにも適していた.
1916年には500台目のエンジンが完成.
生産停止となる1927年までに,ルーマニア・ブルガリア・スペイン・モロッコへの輸出向けのものも260台が生産されている.
軍用車両に加え,1918年にカーロイ4世の私用として豪華車仕様の「グランド」を製作した.
(同様にRábaの他にも,帝国の他の自動車工場――オーストロ・フィアットやグラフ&シティフト――が同種の車両を製作して届けるよう依頼された)
1918年には大規模工場設立.
300,000㎡の車輌工場の敷地には,独自の徹甲鋳造所,材料試験所,保守や工具のための工房,独自の2800馬力の発電所及び蒸気供給センターといった,最新設備が存在した.
そして以下のような製造部門を有した:
・鉄道車輌
・橋梁と鉄製構築物
・自動車
・軍用車輌
・バイクやエレベーター
・鉄道構造物
【参考ページ Referencia Oldal】
https://t.co/Ys2W9p2xZv
https://t.co/qliGgmc65h
https://t.co/MAOCgnv6qz
https://t.co/nwjMWTKnmx
https://t.co/tgKgFnqXO5
※上記資料の仮訳
https://togetter.com/li/1629937
RÁBA Grand
(図No. faq210321gr,こちらより引用)
mixi, 2021.11.6
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