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◆◆◆航空
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<◆第一次大戦 目次
<戦史FAQ目次
The Aerodrome(英語)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 1(ライト兄弟の誤算)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 2 (航空先進国の航空軍備停滞)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 3 (砲兵の発想)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 4 (1914年8月に何が起きたか)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 5 (「マルヌの奇跡」)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 6 (マルヌ戦後の回復と改革)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 7 (戦略爆撃の夏)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 8 (「フォッカー伝説」の実態は?)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 9 (ベルダン上空の完全制空権)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 10 (「戦闘機隊」の誕生)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 11 (1916年航空戦のまとめ)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 12 (前線と後方の対立)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 13 (フランス軍の血塗れ4月)
「いろいろクドい話」:アルメデレール以前 14 (ようやく生まれた一つの変化)
「いろいろクドい話」◆アルメデレール以前 15 (やっと実現した改革)
「いろいろクドい話」◆アルメデレール以前 16 (歯切れの悪いドクトリン)
「いろいろクドい話」◆アルメデレール以前 19 (近接航空支援の対価)
「いろいろクドい話」◆アルメデレール以前 20 (機種構成比率と意味)
「いろいろクドい話」◆アルメデレール以前 番外編3 (ブリストルの従姉妹)
【珍説】
(第一次大戦中に)やがて,オランダを皮切りに各国の兵器メーカーが,機関銃の発射装置と歯車を組み合わせ,回転しているプロペラの,羽根と羽根の間から弾丸が飛び出して行く装置を開発した.
林信吾著『反戦軍事学』,p.109
【事実】
機銃同調装置(回転するプロペラの間から機銃を発砲する装置)を開発したのはドイツです.
1915年,ドイツのフォッカー社の技師アンソニー・フォッカーが機銃同調装置を開発,それを自社のフォッカーEシリーズ戦闘機に搭載しました.
フォッカー戦闘機の威力はすさまじく,当時連合軍から「フォッカーの懲罰」と恐れられました.
これって結構有名なエピソードなんですけどね.
元々,フォッカー社は1910年にドイツのベルリンで設立されましたが,第一次世界大戦直後の1919年に設立者で技師のオランダ人,アンソニー・フォッカーはドイツで軍用機の製造が禁止され,航空機の製造が困難になったため商売が成り立たないと判断し,オランダに新しいフォッカー社を設立.
ホホイ先生は単純な勘違いをしたのでは?
【質問】
WW1の頃の航空機じゃ,対地攻撃やっても手榴弾が精一杯じゃね?
【回答】
おいおい,WW1にも爆撃機はあるよ.
200kg爆弾積むDH.4中爆から,2t搭載出来るツェッペリンシュターケンまで色々有るよ.
ゴーダG.Ⅳは500kgの爆弾積載量がある.
離陸重量 3975kg
空虚重量 2740kg
最大搭載 500kg
搭乗員三名
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
史上初の戦略爆撃部隊は?
【回答】
ドイツ軍が編成したもので,レイモンド・H.
フレデット中佐が率い,占領下のベルギー各地から出撃,英本土の主要地を爆撃した.
この部隊は数種類の飛行機があったが,中に巨大爆撃機が含まれていた.それはB29より翼長が90cm短いだけだった.
1915/1/19-20に敢行された,ドイツ空軍の最初の対英爆撃には,ツェッペリン飛行船とゴータその他の爆撃機が参加,合計270tの爆弾をロンドンその他の都市に投下.死者,1400人以上.
これに対し,英軍は空軍省および英空軍総司令部(RAF)を設置.
また,1918/6には,ヒュー・トレンチャード少将を司令官とする,在フランス独立英空軍部隊を創設した.
この部隊はデハビランドとハンドレーページ両爆撃機隊でドイツの工業中心地マンハイム,カールスルーエ,フランクフルト,コブレンツ,シュツットガルトなどを攻撃.計540tの爆弾を投下し,約700人を殺害した.
終戦時には,トレンチャード司令官はベルリン空襲準備をしていた.
(Carl Berger 「B29」,サンケイ新聞社出版局,1971/3/5, P.6-7,抜粋要約)
【質問】
第1次大戦で活躍した戦闘飛行艇について教えてください.
【回答】
Hanza-Brandenburg CCを配備した戦闘飛行艇部隊が,第一次大戦中期にアドリア海でイタリア軍が装備したNieuport
11と戦闘を行なっています.
Hanza-Brandenburg CCは,後に自分の航空会社を興したErnest
Heinkelが設計したもので,運動性はNiuportに劣っていたものの,速度性能が優れ,機首中央に機関銃を配したため,照準が,翼上に機関銃を装備したNieuport11よりも付けやすく,可成り有利な戦いを展開してますね.
もう一つが,複座ながら戦闘飛行艇として用いられたLohner
L.Iがあります.
Lohner社自体はViennaにあったりしますが,アドリア海で沿岸哨戒,偵察,更に艦船攻撃に用いて潜水艦を撃沈したり,夜間爆撃機を迎撃し,これを撃墜したり,と多方面で活躍しました.
この機体はポーラの海軍工廠でも製造され,機体を鹵獲したイタリア軍は,この機体をそのままコピー生産していたりします.
イタリアの方は1917年にMacchiがM.5を開発し,こいつは1年で240機が生産され,海軍の5個飛行中隊に装備されました.
この中には700回出撃した部隊もあったとか.
イタリアの戦闘飛行艇は戦後も発展を続け,Savoia
S.12/13,Macchi M.7が海軍に配備されて戦艦などにも配備され,また,M.C.72に連なる競争機へと発展していきました.
結局,水上飛行機になりますが,最終形がMeridionari
R.o.43ですね.
また,これらの影響を受けたのがフランスで,PotezやLoireなどが戦闘飛行艇,水上戦闘機を製作しています.
いずれも,地中海で戦艦から発進して,敵戦闘機を追い払うのが任務でした.
二重帝国海軍が航空機を運用し始めたのは,1910年代初期の話.
この航空機に対し,海軍は,偵察のみならず,貧弱な水雷戦隊の補強として非常な期待を示していました.
けれども,第一世代の飛行艇は非常に脆弱で,アドリア海の好天状態でやっと運用できるものでした.
しかしながら,海軍の機体は,陸軍のそれと並行して技術的な発展を遂げていきました.
海軍の飛行艇が発展した理由の一つは,陸上機が技術的な故障を起こしたり,空戦で損傷したりすると着陸場所が無ければそのまま放棄せざるを得ないのですが,飛行艇なら,同じ損傷状態や故障発生でも
広大な海に着水可能ですし,可能なら,最寄りの港まで曳航し,修理することが出来たからです.
もう一つは,他国の様に海軍航空が偵察だけに止まらず,敵地奥深くまで侵攻して爆撃したり,迎撃戦闘を行うなど,戦線維持に可成りの責任を負っていたということが挙げられます.
とはいえ,1917年からイタリア航空隊を始め,英国,フランスの航空隊が戦線に参加すると数で圧倒され,1:3の比率まで来たとき,破綻が起こりました.
大戦を通じて,二重帝国海軍は570機の飛行艇を投入し,56機が撃墜され,151機が事故で失われ,80機が,
状態悪化で除籍されています.
余談ながら,二重帝国海軍航空隊は世界で最初に,潜水艦を航空機で撃沈したという記録を持っています.
1916年9月15日,飛行艇L132とL135が,フランス海軍の潜水艦Foucaultを撃沈したのです.
撃沈後,両機は海面に着水し,味方の魚雷艇が到着するまで,乗組員を救助していたそうです.
【質問】
第一次世界大戦後に生まれたと言う空中戦艦思想って何ですか? まさか実際に戦艦が空を飛ぶ訳じゃ…
【回答】
一言で言えば,長距離戦略爆撃機のこと.
当時,戦略兵器と言えば,大艦巨砲主義に基づいて建造された戦艦と,それによって構成される艦隊のことだった.
それを超えるものとして構想された,長距離を飛行し敵国の中枢部を直接叩ける爆撃機部隊の事を指す.
【質問】
第一次世界大戦中にオーストリア=ハンガリー二重帝国陸軍が試作したステキヘリコプターについて教えてください.
【回答】
「山猫文庫第二壕」:2007/11/7付によれば,Petroczy-Karman-Zurovec PKZ-2と言って,1918年に試作された弾着観測用の係留式ヘリコプター.観測気球と似たようなもの.
星型エンジン3基に,木製の二重反転ローター装着.
試作機は50mまで飛翔し,飛行時間30分を記録.
しかし事故で壊れて,開発中止に.
>米国陸軍が第二次世界大戦後1955年に試作した個人用ヘリDH-4に,
>印象がかなり似てると思うのですが,いかがでしょう.
と,同ブログは述べている.
詳しくは,
Petroczy-Karman-Zurovec PKZ 2 helicopter
- development history, photos, technical
data
を参照されたし.
また,『DBE遊撃隊』,2007-11-14-01:57:45付によると,模型が売り出されていたり,切手になっていたりするとか.
そういえば,ヘリコプターを発明したこともハンガリー人の自慢の一つだそうだが,……もしかしてこれのこと?
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01as05p.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01as05p02.jpg
(こちらより引用)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01as05p03.jpg
(こちらより引用)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01as05p04.jpg
(こちらより引用)
【質問 kérdés】
ヴライク式飛行機について教えてください.
Mi az Vlaicu repülőgépei?
【回答 válasz】
アウレル・ヴライク Aurel Vlaicu(1882~1913年)が発明した,ルーマニア初の飛行機.
ヴライクは当時オーストリア=ハンガリー領だったトランシルヴァニアのオラシュティエ近郊,ビンツィンツィ Binţinţi で生まれ,ブダペシュト工学・経済学大学,ミュンヘン工科大学で学び,1909年に学位を得た人物.
彼はドイツ・リュッセルスハイムのオペルの工場で働いた後,故郷に戻り,グライダーを組み立てて,1909年夏に飛行.
同年末にブカレストに移り,最初の航空機,ヴライク Iを組立てて,1910年6月17日に初飛行した.
初飛行は距離50m,高度3~4m.
この組み立てを彼はブカレストの陸軍工廠で行い, ルーマニア国防省からは助成金2000レイ, 公教育大臣からはは毎月300レイの奨学金を得ていた.
ヴライクIは,機首にカウルで覆われた27馬力のエンジンがあり,そこからチェーンで同軸に配置された2基のプロペラを駆動.
降着装置は緩衝機構のついた3車輪式だった.
要目は以下の通り.
乗員: 1
全長: 12 m
翼幅: 10 m
全高: 4.2 m
翼面積: 25 ㎡
総重量: 300 kg
エンジン: Gnome Omega空冷式星型ピストンエンジン1基 ,37 kW(50 hp)
プロペラ: (2同軸,逆回転)2ブレード,直径3 m
1910年7月23日,二度目の飛行を行い,高さ4 mで400 mの飛行距離を記録.
飛行中,振動などは発生しなかったという.
1910年8月13日の3回目の飛行では,飛行高度数十m,飛行距離約4km.
これをみた陸軍相はヴライクIを軍事演習に参加させることを提案.
実際に1910年9月27日,秋の軍事演習の一環として,ヴライクIはスラティナからピアトラオルトまで40kmの距離を飛行し,伝令を伝えた.
これによりルーマニアは,実用軍用航空機保有国としてはフランスに次いで歴史の早い国となり,軍事省は10万レイの予算を計上した.
12月後半にヴライク IIを製作開始.
2号機はエンジンは同じで重量200kg.
最高速度: 110 km / h.
この飛行機は1912年にウィーン近くで開かれたAspern Air Showに参加(参加者42名)
正確な着陸を競う競技などで賞金7,500クローネを獲得した.
だが1913年,同機で山脈を越える飛行に挑戦中,アウレル・ヴライクはクンピナ近くで墜死してしまう.
この飛行はヴライクIIIで行う予定だったが,予定までに完成しなかったため,ヴライクIIでの飛行となったものだった.
そのときまでにヴライクIIは多くの航空ショーで飛行していたため,強度が劣化していたと見られる.
製作途中だったヴライク IIIは,アウレル・ヴライクの友人たちの手によって1914年に完成.
同機はマルコーニ無線会社が無線の実験のために注文した複座の単葉機で,時速144km.
エンジンはGnomeの星型80馬力.
単葉複座で,乗員席はアルミ板で覆われていた.
その年に何度か実験が行なわれたが,特異な操縦機構のため実験は進まなかったという.
英国の工場で100機生産する契約を結んでいたが,完成したのは2機のみ.
そのうちの1機は,1916年にブカレストがドイツ軍に占領されると同時に接収されてドイツに運ばれ,1942年にはベルリンの航空展覧会に展示されている.
現在,生地ビンツィンツィは「アウレル・ヴライク」に改称.
また,ブカレストの国際空港も「アウレル・ヴライク国際空港」と命名された他,ルーマニアで発行されている50レイ紙幣に彼の肖像が使用されているという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://live.warthunder.com/post/445382/en/
http://www.earlyaviators.com/evlaicu1.htm
http://www.capodopere2019.ro/aurel-vlaicus-pilot-brevet.html
https://european-war-4.boards.net/thread/9526/first-years-romanian-aviation
http://www.earlyaviators.com/evlaicu2.htm
http://www.earlyaviators.com/evlaicu3.htm
1枚目:「ヴライクI」(彩色写真)
初飛行後の一場面
(図No. faq200329vl, こちらより引用)
2枚目:映画撮影のために復元された「ヴライクI」
(図No. faq200329vl2, こちらより引用)
3枚目:飛行中の「ヴライクII」, 1912年
(図No. faq200329vl3, こちらより引用)
4枚目:「ヴライクIII」
(図No. faq200329vl4, こちらより引用)
mixi, 2020.4.13
◆◆◆ドイツ
【質問】
プール・ル・メーリット勲章の受勲基準は?
【回答】
坂田精一著「独逸航空人傳」(十一組出版(東京市京橋区銀座西8-4小澤ビル:当時),昭和十七年一月十五日発行)によれば,独逸の受勲基準はベルケやインメルマンは8機の時で,その後上げられて12機になり,リヒトフォーフェンの時は16機となっていたという.
リヒトフォーフェンはベルケ中隊から第11駆逐機中隊の中隊長に転出の時期に受勲が決まったが,その時点で既に16機以上落としていた.
ただ,条件に係留気球1コを含むというのがあり,受勲を目指さず,表向き(?)は
「気球なんぞ可愛くて落とせるか」
と言って無視していたところ,上がしびれを切らして(あきらめて?)贈ったようなことを書いてあります.
余談ですが,人伝に気球を落とすように進めてもらちがあかなかったため,大本営(ママ)が
「敵の係留気球は何処にあり 大本営」
という電文を直接リヒトホーフェンに送ったところ,彼の電文に曰く,
「敵の係留気球は空にあり リヒトフォーフェン」
【質問】
レッド・バロンって何ですか?
【回答】
【質問】
ウーデットって誰?
3行で教えて!
Ki az Ernst Udet?
Kérem, mondja meg a három sorban.
【回答】
エルンスト・ウーデット(1896.4.26~1941.11.17)は,ドイツ帝国で二番目に優秀なパイロットで,62機を撃墜した.
Ernst Udet (1896. április 26. – 1941. november 17.) a Német Birodalom második legeredményesebb pilótája volt, 62 igazolt légi győzelmével.
フランス軍のトップエース,ジョルジョ・ギンヌメールとの一騎打ちは,空中戦に騎士道精神が有った頃の逸話として世に名高い.
戦後,ウーデットは1934年にドイツ航空省へ入省し,航空機総監などの要職を歴任したが,ヒトラーとの意見の相違から,1941年に自殺した.
【参考ページ】
http://www006.upp.so-net.ne.jp/ken1ed/sub5.htm
http://mmsdf.sakura.ne.jp/public/glossary/pukiwiki.php?%A5%A8%A5%EB%A5%F3%A5%B9%A5%C8%A1%A6%A5%A6%A1%BC%A5%C7%A5%C3%A5%C8
http://www.historynet.com/ernst-udet-the-rise-and-fall-of-a-german-world-war-i-ace.htm
http://acepilots.com/wwi/ger_udet.html
ウーデットの乗機の一つ,フォッカーD.VII
(画像掲示板より引用)
https://www.youtube.com/watch?v=M2CBx7x5GCI
【ぐんじさんぎょう】,2016/12/18 20:00
を加筆改修
【質問】
この飛行機の名前が分かりません.
名前だけでも教えてください.
【回答】
DFW T28フロー
DFW T.28 "Floh"("蚤"の意味)は,第一次大戦中の1915年に試作された航空機.
複葉の支柱やワイヤを減らす構想で作られた.
Special emphasis was placed on streamlining
that led to the aircraft's bizzare silhouette.
全幅6.2m,全長4.5mという超小型の機体にメルセデス
Mercedes DI 100馬力エンジンを搭載,190km/hの快速を発揮したが,視界の悪さと着陸操縦の困難から不採用となった.
全備重量650kg
武装は シュパンダウ L08/15 7.9mm機関銃×1
【参考ページ】
http://www.flightsim.com/vbfs/showthread.php?187108-DFW-T.28-quot-Floh-quot
http://www.warbirds.jp/kiyochan/by-sinn/110old.html
http://www.neko-net.com/aircrafts/ww1/ww1_194.html
http://www.youtube.com/watch?v=dn6tUz_d3jo
http://www.wwiaviation.com/experimentals_german1915.html
【ぐんじさんぎょう】,2011/09/23 20:30
を加筆改修
【第7回MMD杯本選】欧州大戦のマンボウ
MMDすげー.
Shaul in mixi,2011年09月19日 15:45
【質問】
ファルツDⅢの実力はどうだったのだろうか?
評判悪いのに大量生産されてるし,量産向きにも見えないが.
企業と軍の癒着だけで作るかな?
【回答】
そんなに不評でもなかったらしいよ.
整備士はともかく,パイロット連には頑丈さと急降下性能の高さが好まれたらしい.
フォッカーDr.I出現までの短命な機体だけどね.
【質問】
フォッカー D.VIIについて3行で教えてください.
【回答】
第一次世界大戦中の1917年から,フォッカー社によって開発が始められた,同盟国軍の複葉戦闘機.
1918年1月には試作機が完成し,4月から部隊配備開始されたが,協商国軍機に対して速度性能でやや劣ったものの,上昇性能,運動性能,高高度性能で上回り,航空戦において優位に立つことが出来た.
主力戦闘機として終戦までに700機が生産された他,大戦後もヨーロッパ諸国で空軍機として採用され,1928年までの生産機数を含めると,総計,約3200機が製造された.
【参考ページ】
http://ocoze.net/pulamo/01fukuyou/fuku32/fokkerD7-otto/fokkerD7-otto.html
http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/IRS/double9.htm
http://scalesquadron-japan.que.jp/archive/D-7/index.html
https://www.youtube.com/watch?v=oNkD7ANwRg4
【ぐんじさんぎょう】,2016/12/17 20:00
を加筆改修
【質問】
『ファイブデイズウォー』という第一次大戦の映画で,通信手段として伝書鳩が使われていたんですが,当時は既にモールス信号による通信機があったはずなのに,どうして利用されなかったんでしょう?
【回答】
無線を使う場合でも,前線に於いて目立つ無線アンテナは,敵の格好の目標となり,無線は傍受される可能性があるので,簡単な記号の交換にしか使えませんでした.
無線機は重いですから,航空機に乗せることが出来ないと言うのもあります.
また,有線通信は,その砲撃によってケーブルが損傷して用を為さなくなりました.
光を用いた通信の場合は,戦場に於ける砂塵と硝煙で用を為しません.
結果的に伝書鳩だけが通信の用を為しました.
特にVerdunの戦いでの,鳩の活躍が有名です.
このため,伝書鳩の有用性が再度認められ,1919年には日本陸軍は廃止していた伝書鳩を,フランスから1000羽輸入し,教官をフランスから招聘して研究を行っています.
この鳩は,満州事変や上海事変でも活躍しており,その鳩のための功労賞なんかも制定していたりします.
ついでに,要塞などが重囲に陥った場合,戦車や装甲列車から戦況を報告する場合,敵の要塞地帯や陣地を知りたい場合に,鳩に写真機を取り付けて空中撮影させる,ということまでやっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2006/10/24(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
第一次世界大戦における,ドイツ軍飛行船の活動について教えられたし.
【回答】
時を遡る事約90年前の1914年,第一次大戦が勃発します.
Ferdinand von Zeppelinが期待し,理想とした硬式飛行船が戦争に使用されました.
ただ,海軍飛行船の初期の任務は,北海,バルト海,ドーバー海峡などのドイツ海軍の生存海面に於ける機雷監視とか,敵船の行動を偵察する事が任務でした.
1915年1月20日,硬式飛行船による英本土爆撃が開始されます.
この際,皇帝WilhelmII世自身は,自分の親戚に当たる英国王室や文化財に被害が及ぶのを嫌い,爆撃については限定爆撃とする事と命令しましたが,Ferdinand
von Zeppelinの主張は,今の戦略爆撃の思想と同じく,戦争に関連する産業施設を破壊して英国民の戦意を挫くと言う点を強調していました.
この日,海軍のL6号(LZ31)が深夜,テームズ河畔に200kgの爆弾を投下し,散発的に工場を破壊します.
4月15日,陸軍のL9号(LZ36)が英本土を空爆,5月11日には海上の英国潜水艦4隻を爆撃,6月6日には再び英本土に1tの爆弾を投下しました.
5月31日,陸軍のLZ58号はブリュッセルから発進し,3,000mの上空から1,360kgの爆弾を投下しました.
L10号(LZ40)は,最新の大型機で,全長163.5m,容積30,000m^3の大型の図体を210馬力4発で動かし,6月4日に1,000kg爆弾2発,50kg爆弾20発,焼夷弾90発を投下,6月16日には工場地帯や係留艦船に2,500kgの爆弾を投下しました.
このほか,L14号(LZ46)が8月17~18日にかけて,L13号(LZ45)が9月8~9日に掛けてそれぞれ爆撃に投入され,1915年中には,更にLZ47/48/50の3隻が就役しました.
Zeppelin飛行船製造会社は,戦時中に8,000名の従業員を抱え,フリードリヒスハーフェンの他にポツダム,シュパンダウに工場を設置し,他にも飛行機工場,気球製造工場,エンジン製造工場を持つ一大コンツェルンに成長していました.
1916年9月2~3日には16隻の飛行船による英本土爆撃が行われます.
流石に英国も無手と言う訳にはいかず,航空機による迎撃で,陸軍のSL11号が撃墜されました.
9月23~24日に掛けては12隻の飛行船が,同じく英本土爆撃を行いますが,L23号とL33号が失われました.
この頃には機体は更に大型化し,全長198m,容積56,000m^3の機体を240馬力のエンジン6基で動かし,その作戦高度は7,000mに達していました.
此処まで上がると,人間がついて行けませんが,彼らは粗末な酸素マスクで高度障害を防ぎ,何とか爆撃を熟していきます.
ただ,気温はマイナス20度,視力は減退し,知覚,注意力,反射神経に障害が発生,更に運動失調,記憶喪失,妄想,呼吸困難,頭痛,嘔吐などの症状を併発するなど,正に命がけの飛行でした.
また,後には探照灯や哨戒機から身を隠す為,一人乗りの偵察用バスケットを尖端にとりつけた150mのワイヤーを飛行船から垂らし,雲の下にまで降ろして,本船は雲の中を飛行し,進路や爆撃目標などは偵察用バスケットから電話で誘導すると言う方法も採られました.
10月1~2日の爆撃では,FE2bの迎撃で参加11隻中,L31号を失いました.
11月27~28日の爆撃でもL21号,翌年3月の爆撃ではL39号を失い,飛行船の爆撃兵器としての有効性が失われつつありました.
これに対抗する為に,L42号(LZ91)では,全長196m,240馬力のエンジン5基と大体同規模ですが,構造の見直しで資材を更に軽量化し,プロペラの推進効率を高めて,高度5,000mで110km/hの高速を記録し,L42号はL44号,L45号とともに,1917年6月16~17日に英国南部を空襲して,可成りの成果を上げました.
一方,爆撃用途以外にも,海外植民地との連絡用として,輸送用飛行船が建造され,1917年11月21日に全長211mのL59号(LZ104)がEckenerの指揮の下,同盟国ブルガリアのヤンボイから飛び立ち,クレタ島を経由してエジプトに向い,途中,英国の攪乱情報で一旦引揚げかけますが,誤報が判明して,ナイル河畔の渓谷地帯を1,000mの高度,70km/hで飛行し,実に6,757kmを95時間で,ドイツ領東アフリカ植民地に到達.
無事に現地軍に医薬品,銃などの兵器,弾薬,無線機などを補充する事に成功しています.
爆撃用途の価値が低下したとは言え,ドイツはその製造を続け,L70号(LZ112)は130km/hを誇る260馬力エンジン7基の大型船になっています.
しかし,1918年8月5日に同型5隻による空襲は,英国が投入したSE.5a戦闘機によって,高度5,200mでL70号が撃墜され,終焉を迎えました.
最終的に,硬式飛行船は64隻が海軍向けに建造されて17隻が事故や撃墜で失われ,50隻が陸軍向けに建造されて17隻が撃墜,9隻が事故で破壊されてしまいました.
これらの硬式飛行船群を生み出したFerdinand
von Zeppelinは,1917年3月8日,腸の手術後に肝炎を併発して,ベルリンのカイザーホフで死去してしまいます.
葬場はシャルロッテンブルクで行われ,皇帝を始め,20,000人の市民が参列したそうです.
ドイツの敗戦を知らずに亡くなったのは良かったのか悪かったのか….
因みに,硬式飛行船が作られた戦前には,ドイツ国内でのアルミニウム生産は,スイスのNeuhausen系のRheinfelden製錬所が生産する年産800tのみで,国内需要14,000tの殆どが輸入でした.
しかし,大戦の勃発とともに政府は3つの精錬所を立ち上げ,1917年には国営のVereinigte
Aluminium werke(VAW)を設立して,先の3精錬工場と新たに建設した3つの工場を国営または半国営で運用することになります.
1918年の地金生産は,25,000tを越え,戦時需要を十分に賄う事が出来ました.
一方で,アルミニウム製品の価格は3倍を超え,Berg親子は,アルミニウム加工と飛行船製造で莫大な利益を享受しました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月21日21:19
【質問】
爆撃に使われたツェッペリン飛行船はそのまま民間用を使ったのでしょうか?
それとも別に機体設計された物だったのでしょうか?
【回答】
ツェッペリン飛行船は戦前からドイツ(プロイセン)軍が使用していたが,当初は主に偵察用.
弾倉などを取り付けて爆撃にも使われるようになったのは大戦中盤から.
軍用も含めてツェッペリン社が建造した飛行船のリストは以下にあり
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Zeppelins
軍用の飛行船には固有の船名はなく,記号と数字を使用.
ツェッペリン社での製造番号はLZ-XXで,陸軍が保有したものにはZ-XX,海軍が保有したものにはL-XXという番号がつけられた.
また,ツェッペリン社の他にシュッテ・ランツ社が建造した飛行船もあり,こちらはSL-XXという番号がついていた.
http://en.wikipedia.org/wiki/Sch%C3%BCtte-Lanz
【質問】
第一次大戦で飛行船が空襲に使われたそうですが,飛行船なんて戦闘機にとってはでかい標的に過ぎないような気がするんですが,機銃で撃たれてもヒンデンブルク号みたいに爆発しなかったんですか?
【回答】
そうとも言えない.
飛行船も頑張って高い高度を飛ぶようになっていったし,速度だって早い.
昔の航法能力だと(第2次世界大戦でも結構そうなんだけど)爆弾を落とす目的地を探せなかったりするんで,戦闘機側も飛行船を見つけられなかったりする.
一方,飛行機に機銃が積まれたのは,大戦が始まってある程度経過してから.
最初はパイロット同士が拳銃で撃ち合いしてたくらい.
こいつで飛行船を落とすのは難しかろう.
対抗手段が無い頃の飛行船は脅威であった.
だけど,やがては機銃を積むようになり,さらには焼夷弾が弾種に加わって,戦闘機の攻撃力が増すと飛行船は単なる的に過ぎなくなった.
飛行船は損害が多く出るようになり,欧州の飛行船格納庫に空襲を受けたりもするようになった.
なお,ヒンデンブルク号の爆発の原因は塗料だ.
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