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戦史FAQ目次

Mark.V Tank

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 WW1英国における,徴兵制までの歩みを教えられたし.

 【回答】
 1899年より,1902年まで,遠くアフリカの南部に於て,英国とオレンジ自由国やトランスヴァール共和国がその地の金を巡って争奪戦を繰り広げます.
 世に言う,ボーア戦争と言うものです.
 ところが,当初優勢と見られていた英国の正規軍は,オレンジ自由国やトランスヴァール共和国の非正規部隊に苦戦を強いられ,兵力の大量投入を余儀なくされました.

 この様に,辺境の地に兵力をドンドンと投入していけばどうなるか.
 遂には本土を守る兵士がいなくなります.
 折しも,英国の後を追って,産業革命に成功したフランスやドイツと言った国々が,海外への進出を望んで,様々な地に派兵を繰り広げていました.
 そして,それは欧州の地に広がりかねない懸念がありました.
 なのに,英国はと言えば,志願兵からなる乏しい兵力を,遠い場所で戦争をする為に使っている…
 この為,兵力が枯渇しない様に,志願兵に頼るだけでなく,兵役の強制を求める声が強くなっていきます.

 この頃出版されて,社会に影響を与えた本が,1901に出版されたジョージ・F・シーの書いた『イギリス人の第一の責務』と言うタイトルの本でした.
 彼の論旨は,大英帝国が膨張を続ける中,列強が急速に軍備を増強するのに対し,本土の防衛体制は脆弱であり,慢心していたら侵攻に遭う可能性が高い.
 その防衛の為には,自他共に認める世界一の海軍の背後に,「武装せる国民」による強力な陸軍を持つ事である.
 この実現には,現在の志願入隊制は有効ではなく,陸軍で兵役に従事する事を総ての国民の義務とすべきであると言うもので,確かにその強制は英国の自由とは相容れない面もあるが,実はそれは往古からの伝統に適っているばかりでなく,民主主義とも親和的であると言うものでした.

 この本に触発されて出来た団体が,National Service League(NSL)と言う団体でした.
 NSLは,1902年2月26日,ウェリントン公爵の招請で開かれた会合の場で結成されました.
 その目的は,「総ての学校に於て軍事教練が必修科目とされる事」,そして,「国土防衛の為の陸軍ないし海軍に於ける服務が法的に義務化される事」でした.
 会長にはウェリントン公爵自らが就任し,書記には『イギリス人の第一の責務』を書いたシーの他,ニュートン卿,後にアスキス政権の陸軍相を務めることになるJ.F.B.シーリ保守党庶民院議員,『ナショナル・レヴュー』の編集長レオポルド・マクセ,銀行家クリントン・ドーキンズなどが就任していました.

 ウェリントンに依れば,NSLの設立は,「我が国の陸海軍の防衛体制に関する大きくなるばかりの懸念」から生じたものであり,「国土防衛という責務に男らしく向き合う」為,「我が国の総ての若者は武器を扱う教練を受けねばならない」と言う目的で行われたものでした.
 つまり,教練を受けた若者達は全て危急の際には国防の為に兵力として動員される対象となる事を意味しています.
 1903年1月以降,NSLの機関紙として,『National Service Journal』が刊行されましたが,それ以前からその立場に全面的に支持をする姿勢を取っていたのは,『タイムズ』でした.

 また,ウェリントンは,強制的教練を導入することの意味をして,以下の4点を挙げています.

(1) 教練や犠牲的行為を通じてCitizenshipの責務と責任の意識を一人一人の国民に認識させること.
(2) 混雑した都市の産業生活に伴う肉体的・道徳的な退化に歯止めを掛けること.
(3) 武器使用の教練を受けた国民が陸軍や海軍をサポートし,イギリス諸島の安全を保証する為の大きな予備軍を構成する様準備すること.
(4) 空爆や侵攻の可能性を封じ込めること.
 特に前2点については,経済的な国際競争にとって有益であることが強調されています.
 これは,従来からの「イギリスの自由の伝統」と言う錦の御旗に対し,強制的教練への世論の支持を拡げる為の方便でもありました.

 教練の義務化が「イギリスの自由の伝統」から逸脱しない事は,第1に強制的教練は,かつて何度も編成された民兵軍の延長線であり,その意味で「伝統」と親和的であると言う事を強調し,第2に,この教練は「大陸型」の模倣ではなく,英国の条件に即した,即ち,民主的な性格の教練が想定されている事を強調するものでした.
此処で,NSLが参考にしているのは,ドイツやフランスと言った大国ではなく,スイスのものです.

 国民皆兵の国で,なおかつ民主主義が最も発展していると考えられた国であるスイスを引き合いに出すことで,強制的教練と民主主義との両立を印象づけ,伝統を盾に取った批判に応戦するのと共に,「スイス」と言う言葉から連想される「自然」「健康」「牧歌的」と言うものと捉えるのなら,それは強制的教練の肉体的・精神的効用を伝える媒体でもあり得た訳です.

 しかし,NSLが絶対に口にしなかった言葉は,「徴兵制」と言う単語でした.
 いかに世論を誘導しようとも,英国に於て,「徴兵制」と言う言葉を発しただけで,世論の支持を失いかねないものだったりします.
 それに代わって多用されたのが,NSLの中に含まれている,"National Service"あるいは"Universal Service"と言う言葉でした.
 NSLの人々曰く,「徴兵制」と言うのはフランスやドイツなどの「大陸型」の強制兵役の事であり,「イギリスの自由の伝統」と相反しない,民主的な「イギリス型」ないし「スイス型」のそれには,別の名称が与えられるべきであると述べています.

 1906年9月29日のTimesの論説では,
「"Universal Service"は,あらゆるCitizenを平等な立場に置く.
 実際の所,それは世界で最も民主的な制度なのである…
 (中略)
 …国土防衛の為の総てのシステムの内でも,それは自由や平等と最も両立しやすい」
と書いています.

 が,平和を謳歌していた20世紀初頭の英国で,そうした考えは完全に異端視されるものでした.
 幾ら「教育的効用」を強調してみせても,教練の強制と言う提案の内容自体が冷淡な反応しか呼び起こしませんでした.
 特に労働者達は,その伝統である「民兵軍」に対する嫌悪が相当あったりします.
 と言うのも,「民兵軍」は正規軍を補完するべき軍事力が必要である時期に限って,王権が各州に割当人数の兵士を提供を命じ,各州は建前上抽選による選抜を原則としていましたが,実際には,富裕者には抜け道が用意されていた為,実際に兵役に引っ張られたのは,貧民や犯罪者ばかりだったからです.

 また,バルフォア保守党政権の1904年5月,NSLの支持者だったノーフォーク公爵をトップに,「民兵軍と義勇軍に関する王立委員会」の多数派報告書が,「身体謙譲な男性国民の出来る限り全員」を対象とする強制的教練の実施を提言したにも関わらず,政府は勧告を顧慮せず,それどころか,英国本土への侵攻など「あり得ない」と一蹴したのもNSLの運動には打撃を与えていました.

 こうした運動の停滞を打開したのが,1905年12月にNSL会長に就任したフレデリック・ロバーツ元陸軍元帥でした.
 彼は根っからの戦争屋で,1851年にベンガル軍に入隊し,セポイの反乱鎮圧に大きく貢献したのを始め,1878~80年のAfghanistan戦争,ボーア戦争では苦戦が続いていた南アフリカ遠征軍司令官として1900年にプレトリアの奪回に成功するなど輝かしい戦歴を修めていた軍人でした.
 そして,こうしたことが相まって,英国では最も人気のある軍人だった訳です.

 彼は会長に就任した後,NSLの活動に全力を注ぎ,1903年に僅か500名,1905年に約2,000名しかいなかったNSLの会員数を拡大させ,1911年には約9万名,1914年には3倍の約27万名に達しました.
 そうなると,結構な圧力団体となります.
 とは言え,エキセントリックに自らの主張を繰り広げるだけでなく,その時々の状況に応じて現実的な方針を採択する柔軟な動きも見せ,それにより,1909年2月には,NSLは当面の目的を18~21歳の若者を対象とする教練の義務化へと縮減し,学校での教練義務化提案を外しています.

 これだけ会員数が増えると,賛同する政治家達の数も飛躍的に増えていきました.
 1902年には3名しかいなかった庶民院の賛同議員も,1906年には43名,1911年には177名と増えていきます.
 その殆どは与党自由党を突き崩し,与野党伯仲の議会を作り上げた1910年の総選挙で議席を得た保守党議員でした.

 また,与党自由党の側でも,ボーア戦争を激しく非難したアスキス政権の財務相ロイド・ジョージが,1910年8月に発表したメモランダムでは,「スイス型」をモデルにした強制的教練の実施を提唱しています.
 これには財務相として,効率的な軍事力整備を模索した結果でもありますが,ドイツによる侵攻の脅威を明らかに過剰に煽ったNSLの精力的なプロパガンダの成果でもありました.

 ただ,保守党に多くのシンパが出来ていたにも関わらず,党としては内部対立を抱え込みたくないと言う考えから,こうしたNSLの働きかけには消極的な形を採っていました.
 1909年5月,貴族院に強制的教練を求める法案が提出された時,時の保守党党首バルフォアは,ロバーツの協力要請を拒否し,結局,法案は否決されています.
 いくら組織的な躍進をしても,党の指導部から支持を得られない状態では,NSLはその隘路を突破出来なかった訳です.

 それでも,こうした事を提唱する人々は,大抵の場合,当事者の若者ではなく,それとは遠く離れた老人達が中心になる訳ですね.
 それは洋の東西を問わないのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/21 23:47

 NSLと言う団体が,ロバーツ元陸軍元帥の下,活発な活動を繰り広げ,「英国式」の徴兵制につながる教練義務化を提案していたのですが,取り敢ず,自由党政権でも一連の陸軍改革を実施し,1907年にはホルディン陸相の肝煎りで正規軍を補助する国土防衛軍が創設されました.

 これは18~24歳までの若者に,4年間に亘って国土防衛軍で教練を受けることが奨励されたもので,志願制であり,強制的教練で無い所がNSLには不満でしたが,それでも,1910年には28万人が教練を受けています.
 しかし,強制的教練に踏み込まなかったのは,これが「大陸型」の「徴兵制」導入に繋がると言った根強い反対が,政権内部からも挙がっていた為です.

 1914年2月27日には,NSL代表団とアスキス首相との会談が実現され,その席にはNSLの創設メンバーであった時の陸相シーリも同席しましたが,アスキスは国土防衛軍が現状では十分な戦力であることを強調し,強制的教練の提案を受入れるつもりはないと明言しています.
 また,1913年1月から1914年5月にかけて侵攻の可能性を調査・検討した帝国防衛委員会の結論も,フル・スケールの侵攻を受ける危険性はないと言うものでした.
 ところが,1914年夏にはサライェボ事件により,欧州各国に戦火が飛び火していきます.

 一方で,NSLは8月7日の時点で活動の停止を決定していました.
 自分たちの活動が,戦争遂行という課題を背負った政府の足を引っ張ることを危惧しての決定ですが,11月にロバーツ元陸軍元帥が死去するのと軌を一にしています.

 その世界大戦が勃発した時点で,英国陸軍はフランスやドイツと言った徴兵制を施行していた大陸諸国に比べると著しく弱体でした.
 元々,英国の防衛体系は海軍が担うもので,地上での戦闘にはごく補助的に加わればよいと言う見方でしたが,陸軍大臣に新しく就いたキッチナー将軍は,「クリスマスまでに戦争は終わる」と言う楽観論に与せず,この戦争が数年に亘って展開されるであろう事,そして,戦争の帰趨を決するのは西部戦線に於ける陸軍の対決であろう事を見越して,職業軍人からなる正規軍とは別個に,志願兵を担い手とする「新陸軍」の編制に着手しました.

 「新陸軍」への入隊呼びかけは熱狂的な反響を呼び起こし,9月には46万人以上の国民が入隊手続きの長蛇の列に加わりましたが,その熱気が冷めるのも早く,1915年に入ると志願入隊の数は停滞し,7月以降には激減していきます.
 そうなると,陸軍は慢性的な兵力不足に苦しめられることになり,1915年末の段階で募兵の成果は陸軍省の目標値を30万人も下回っていました.
 一方で,フランス軍は疲弊し,英国軍が益々戦場にコミットしなければならない事態が生まれてきます.

 兵力不足の顕在化は,それまでは戦時故に自粛されてきたアスキス政権の批判となって返ってきます.
 兵力が不足すれば,下手をすれば,西部戦線での勝利も覚束無い,そして,フランスが崩壊すれば,英国の大陸へのヘゲモニーが維持出来ないとする声が,野党保守党から噴出してきました.
 この保守党は,先日のNSLの項でも書いた様に,内部に徴兵制推進論者を多く抱えていました.

 勿論,自由党は徴兵制に慎重な意見が多く,政権内で公然と徴兵制を唱えていたのはチャーチル海相のみでしたが,ガリポリ上陸作戦の大失敗と,1915年5月14日の"Times"に西部戦線の苦戦の原因は軍事作戦の誤りではなく,軍需品,特に砲弾の不足が原因であるとして,アスキス政権を批判すると共に,陸軍省首脳部の免罪を意図した記事が掲載された,所謂「砲弾スキャンダル」によって,アスキス内閣は一旦退陣し,5月25日にはアスキスが首班であるものの,自由党単独政権ではなく,保守党,労働党が加わった挙国一致内閣が成立しました.
 この中には,保守党の有力な徴兵制推進論者が多数入閣し,徴兵制はぐっと現実的な政策的選択肢となって行きました.

 変人のチャーチルは別として,自由党の有力者の内,最初に徴兵制推進論者に変節したのが,1915年6月に新設された軍需省の大臣に就任したロイド・ジョージです.
 軍需省では,マンパワーの効率的活用の為,軍需品生産工場の直轄管理を進め,終戦までに300万人以上の労働者を差配することになりますが,これは徴兵制の理念と変わることがない事でした.

 英国の徴兵制に向けての動き第1弾としては,1915年7月に15~65歳の国民の職業等の登録を義務化するとして制定された国民登録法であり,これは来るべき徴兵制実施に向けた基礎資料としての位置づけを持っていました.
 そして,国民登録が実現に移された8月15日以降,保守党の徴兵制推進派が一層の圧力を強める一方,TimesやDaily Mailと言った推進派ジャーナリズムの論調も激しさを増し,9月14日には従軍中の30人の庶民院議員と22人の貴族院議員が,連名で徴兵制導入を求めるアピールが掲載されています.

 NSLはこの時以降,再び息を吹き返します.
 ロバーツの後任には,南アフリカ高等弁務官やケープ植民地の総督を務め,ボーア戦争のキーパーソンだったアルフレッド・ミルナーが就任し,今までソフト路線でやってきた活動を転回して,隠すことの無くなった「徴兵制導入」を堂々と掲げるようになりました.
 とは言え,戦時中でもまだ「英国の自由」への信頼は篤く,ミルナーは演説の中で,
「総ての法,総ての秩序,総ての規律には,結局の所,強制が含まれています…
 (中略)
 …子供を学校に通わせるからと言って,玄関先のゴミを片付けるからと言って,税金を払うからと言って,私たちは奴隷なのでしょうか」
と,強制は日常の中に存在しているのだから,徴兵ばかり目くじら立てる事はないだろうなどと,些か詭弁に満ちた発言をしていたりします.

 1915年夏,ロイド・ジョージは徴兵制導入に傾いていましたが,ジョン・サイモン内相,レジナルド・マッケナ財務相,ウォルター・ランシマン商務院総裁など,主立った閣僚に徴兵制反対派が残っていました.
 彼らの言い分は,ドイツの軍国主義に抗する趣旨で参戦した英国が,軍事主義の具体化に他ならない徴兵制を自ら導入したら,参戦目的そのものが掘り崩され,また,徴兵制は経済活動を停滞させ,これは英国が財政的主柱となっている他の連合国の動揺を齎し,国民の結束を損ねて,最終的には敗戦を導くと言う論旨で,根底にあったのは,国民の生死を左右する権限を国家が握るのは,望ましくないと言うリベラリズムの発想でした.

 また,大戦を支持する一方で,「如何なるタイプの徴兵制」にも反対する旨の決議を1915年9月の年次大会で,満場一致で採択した"Trade Union Congress"(TUC)の存在も重きを為していました.
 TUCは労働党の支持基盤であり,その姿勢は労働党の政治姿勢に重要な影響を与えるものでした.

 アスキスは徴兵制はリベラリズムに反すると言うのが本音でしたが,既に深く大陸の戦況にコミットしてしまった自国の状況から,秋までに徴兵制導入の肚を固めていました.
 但し,それは最後の手段として取っておくと言うことで,10月にアリバイ作りとしてのプロジェクト=ダービーをスタートさせます.
 これは,募兵運動の活動でも知られ,NSLの副会長であったダービー伯をトップに据え,まだ入隊していない19~41歳の男性に対し,即座に入隊するか,そうでない場合は入隊要請があった際に,それに応える意志がある事を,attest(誓言)するよう求める所にあり,それをした者には,その事を示すarmbandを支給すると言うものでした.

 この計画では,徴募されるのは先ず独身者からであり,既婚者は独身者の動員が完了した後に行うと説明していたのですが,結果的に,12月まで実施されたダービー計画は,入隊逃れの結婚ラッシュを引き起こしただけで,十分な数の志願兵を確保する見通しが皆無であることが判明します.

 こうして,アスキスは徴兵制の為の法案準備に着手しました.
 尤もこのダービー計画は,志願制の限界を世に広く知らしめる為のパフォーマンスであって,その失敗は織り込み済だった訳ですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/23 22:03

 さて,1916年1月5日の庶民院は異様な雰囲気に包まれていました.
 大戦も3年目に入り,総議席数670のうち,何らかの形で軍に所属していた議員はこの時点で165名に上っていました.
 そして,西部戦線から戻った者達も含め,約50名の軍服姿の議員が議場に詰めかけました.

 この時,初めてMilitary Service Bill,即ち「兵役法案」が議会に提出されました.

 その趣旨説明で,アスキス首相は,法案を1つの目的に限定したものであると述べました.
 その目的とは,ダービー計画で行われた「誓言」を促す為,志願兵では入隊しようとする独身者が少なからずいる以上,彼らを強制によって兵役に就かせなければ,折角「誓言」した既婚者の意欲に応えられない,と言う理由で,兵役法案を正当化します.
 一方で首相は,この法案が英国社会の大転換を齎すものではなく,あくまでも「約束」を履行する為だけのものであり,大騒ぎするほどの性質のものではない,と述べています.
 首相は,こう述べています.

――――――
 今まさに提出の許可を求めようとしているこの法案は,私が思うに,原則に於てそれを支持する人たちにも,そして,私の場合がそうである様に,緊急時だからと言う理由でそれを支持する人たちにも,誠心誠意サポートして頂きうる法案であり,一般に言う徴兵制とは異なります.
 即ち,此の期に及んでも,政府は「徴兵制」と言う言葉が拒否反応を引き起こす事態を避け,出来るだけ粛々と採決に持って行きたいと言う思いから,また,リベラリズムを信条とする自分が,英国史上初の徴兵制の導入に責任を負う事への違和感から,「徴兵制とは異なる」と述べたのではないか,と考えられます.
――――――

 実際,この時の兵役法案は,総人口の徴兵ではなく,18~41歳の独身男性だけを対象とするもので,それ故に,「一般に言う徴兵制」とは異なると強弁出来る余地がありました.

 また,この法案が画期的だったのは,法案提出直前に追加された「戦闘業務の遂行を拒む良心」に基づく兵役免除の可能性を認めた所謂良心条項を含んでいた点です.
 此処で言う良心とは,宗教的なそれに留まらず,思想・信条も含まれていること,戦闘業務だけの免除のみならず,全面的な免除の可能性も留保されていた事でした.
 保守党や陸軍からこの条項は激しい批判に晒されましたが,この条項を入れることはアスキス自身のリベラリズムとしての矜恃を保つことと同義であると言えます.

 アスキスの趣旨説明は淡々と進みましたが,良心条項への説明の下りが始まると,議場はにわかに騒然とし,一時中断を余儀なくされました.
 趣旨説明を再開したアスキスは,以下の様に良心条項を擁護して見せました.

――――――
 議員諸兄の一部から異議の声,嘲りの声さえも聞かれたことを,私は些か遺憾に思います.
 恐らく,こうした問題に関わる立法の歴史について,御存知ない諸兄も居られるのでしょう.
 偉大なる対フランス戦争に際して,政権の座にあったピット氏(小ピットのこと)及びその後継者が,強制的な民兵法を実施した時,彼らは政府が課す兵役を良心に基づいて拒否した当時では唯一の人々,即ち,クエイカーと呼ばれる人々をはっきりと免除しました.
 私たちの時代について言えば,南アフリカとオーストラリアの同じ臣民達が多用な形で強制的兵役を採用していますが,何れの場合も,まさに同様の例外規定が法に含まれ,最良の結果を齎しています.
――――――

 結局,この兵役法案で危惧された反発は殆ど無く,内閣ではサイモン内相が抗議の辞任を行っただけでした.
 志願制擁護派の象徴的な存在だったホルデインは,1月25日の貴族院で,「この戦争を成功裏に決着させるのに不可欠な数の人員を供給すると言う,たった一つの目的」に向けた,「一時的で適用も限定的な戦時措置」という理由で,法案支持を明言しました.

 一方,TUCが法案反対の意向を示していた為,当初は,閣外に去り,反対に回ると見られていた労働党は,1月12日にこの方針を撤回しました.
 労働組合が最も恐れていたのは,徴兵が徴用に連動し,労働組合の権利が有名無実と化することでしたが,アスキスはこうした連動はあり得ないと明言し,その懐柔に成功した為でした.

 労働党を代表して入閣していたヘンダスン教育相に依れば,「純然たる軍事的必要性の見地からして何らかの強制的兵役の措置は必要だ,と言う確信」故に,法案に賛成する事にしたとして,「政府が提案している法案が提出され成立しなければ,私たちは勝利の内に,そして迅速に集結させるとの見通しを持ってこの戦争を戦い続けられない,と言う結論に抗うのは不可能であることを理解したから」と述べています.

 結局,議員の間にも「止むなし」と言う空気が流れ,1月27日,さしたる混乱も為しに,383対36の圧倒的多数で法案は採決され,3月2日より徴兵制の運用が開始されました.
 実は,この採決こそが,従来リベラリズムを党是としてきた自由党の根幹を根底から覆すことになり,1916年の政変での自由党分裂状態,更に大戦後に起きた自由党の凋落の一因とも言われています.

 とは言え,議決に反対した36名の議員には,労働党ではマクドナルド(大戦後の1924年から首相)や,反戦・反徴兵制の論客として知られていたスノーデン等大物議員も多数いましたし,クエイカーのラウントリー,ハーヴィ,更に自由党でもトレヴィアン,ポンスンビ,モレルと言った議員達が反対に回りました.
 尤も彼らは,the Timesに,「ドイツの盟友」とまで叩かれた訳ですが.

 こうした人々は,強制的兵役の原則が認められると,それが際限なく拡大するのではないかと言う懸念を抱いていましたが,社会の空気(それには新聞も一定の役割を果たしていた)が,それに抗う雰囲気ではないと言う状態になっていきます.

 しかし,1月の徴兵制はすぐに見直しが図られることになります.

 ソンムの戦いとして後に具体化される西部戦線での大規模な攻勢計画で,陸軍が膨大な兵力を要求すると,ほどなくして徴兵制の拡張を求める声が顕在化したのです.
 今度は労働党は反対しましたが,1916年5月になると,18~41歳の全男性が対象となる総徴兵制を内容とする新たな兵役法が制定されました.
 最早,「一般的な徴兵制」とは違うと言う強弁は出来ず,しかも,この戦いで戦争の決着は付きませんでした.

 僅か12キロメートルの戦線の前進と引換えに,英国軍の死傷者は42万人,フランス軍も約20万人,敵のドイツ軍も40万人を上回る死傷者が出て,以降も陸軍による兵力増強要請は引きも切らず,免除条件の厳格化による徴兵制の拡大が進んでいきます.
 そして,最終的に1918年4月制定の兵役法では,兵役対象年齢の上限が50歳にまで引き上げられ,植民地のアイルランドに徴兵制を施行することになりました.
 このため,アイルランドではそれに反対する大争乱が引き起こされる訳ですが….

 一旦,官が何か規制や規則を決めると,どんどんどんどんその対象が拡大され,遂には国民自身の首を絞めると言う例が此処にあります.
 今回の「東京都青少年の健全な育成に関する条例」もこれと同じもので,気がつくと,都民自身が雁字搦めになってしまうのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/24 23:35


 【質問】
 WW1英国で,徴兵制はどのように施行されたのか?

 【回答】
 さて,英国の兵役法が成立した訳ですが,画期的だったのは,良心的兵役拒否(Conscientious Objectors,略してCOs)が認められたことでした.

 兵役法の規定では,免除申請には4つの要件の何れかを満たした場合が挙げられていました.
 1つめは,戦闘以上に「国にとって重要」と思われる仕事に従事している場合,2つめは唯一の稼ぎ手として扶養すべき者がいる場合,3つめは兵役遂行が無理なほど健康を害していること,最後が「戦闘業務の遂行を拒む良心」を有する場合でした.
 最後の用件は,宗教的信条に限定せず,戦闘業務のみならず全面的な兵役免除の可能性をも認めています.

 しかし,この条項はどうとでも解釈出来る曖昧な条件であり,「寛容」な規定が実践的にどのような意味を持つのかは,兵役免除審査局の裁量に委ねられることになりました.

 兵役免除審査局は,地方審査局,不服なら上級審査局,更に不服なら中央審査局と言う三層構造で,免除申請者には上訴の権利が認められていました,少なくとも表向きは….
 しかし,実際には地方審査局での裁定が覆ることは稀で,地方審査局の第一審こそが申請者の命運を左右した訳です.

 元々,地方審査局,中央審査局は兵役法の際に設けられたものではなく,ダービー計画実施の際に設けられた,入隊意志を「誓言」した者が召集の先送りを申請する場合の審査機関が其の儘横滑りしたものでした.
 依って,審査局を構成していたのは,中立の立場ではなく,募兵運動を熱心に推進してきた者が多数派を占め,これがこの機関の中立性を損ね,公平性に問題のある状況になっており,幾ら免除を申し立ててもそれをなるべく認めたくないと言うムードが支配的となっていました.
 このため,審査が「甘い」とされたメンバーが馘首された事例もありました.

 各々の審査局は定足数は3名ですが,実際には5~25名で構成され,市町長,地方議会議員が殆どを占め,それに法の専門家が加わると言ったものでした.
 その上,地方審査局には必ず退役士官を始めとする陸軍代表が同席することになっていました.
 当然,彼ら陸軍代表は,陸軍の意を体して動くことであり,それには兵役拒否の数を極小化すると言う理念を持っていました.
 ですから,幾ら同席しているだけとは言え,その影響力は絶大でした.

 こうした陸軍省の動きを形作っていたのは,人事管理責任者である総務幕僚のネヴィル・マクレディ,その部下の募兵局長オークランド・ゲティス,人事局長で軍規担当ののウィンダム・チャイルズで,彼らの間では良心条項に基づく兵役拒否を不当視する姿勢は一貫していました.
 マクレディ曰く,「宗教的であれなんであれ,如何なる理由があるにせよ,祖国の防衛の為に役割を果たすことを拒否する者達の心のあり様に私は全く共感出来なかった」訳で,良心的兵役拒否者は,「危機にある祖国を見捨てる行為」であると見做していました.
 尤も,徴兵制を導入したからと言って,兵力不足の問題が解決した訳ではありません.
 徴兵制が施行されてから1年の間,何らかの兵役免除を認められた者の数は,徴兵による入隊者の2倍以上に達しています.

 この中で,良心条項に基づく兵役免除を申請した者は,入隊者数の0.33%に当たる約1.65万人でした.

 その中でまず予想されたのは,あらゆる戦争をキリスト教精神に反するものと見做す平和主義で知られたクエイカーでした.
 マクレディも,「彼らの信条は以前から確立されたもので一貫しており,大戦によって影響を受けてもいなかった」と述べており,彼らを特別の存在と見る発想は広く浸透していました.
 とは言え,クエイカーでも,良心的兵役拒否を選んだのは兵役対象年齢の45%に過ぎず,入隊した者も34%に達しています.
 他に平和主義を標榜していた宗教集団としては,至福千年信仰派,エホバの証人,プリマス同胞教会等がありましたが何れもクエイカーほど知られては居らず,審査局メンバーにも周知されていた訳ではなく,裁定はクエイカーよりも厳しいものでした.

 宗教的な理由以外での免除申請者は「政治的拒否者」とされ,屡々非難の対象となっています.
 数的には,宗教的拒否者を凌いで尤も多くの「政治的拒否者」を輩出したのは,明確に反徴兵制の立場を打ち出す殆ど唯一の政党であるIndipendent Labour Party(独立労働党:ILP)でした.
 この政党は,共産主義政党ではなく,1893年にそれまで労働者の受け皿とされてきた自由党から自立し,労働者階級出身の議員を輩出しようとする意図で出来た政党で,1900年に労働党の前身である労働代表委員会設立に当たっても重要な役割を果たし,労働党の中でも急進派・反戦派の位置を占めていました.
 ILPは,軍事主義と民主主義は両立し得ないし,労働者には相互に殺し合う理由など無いとの明快なスタンスを執っていました.

 但し,ILPは1915年11月の決議の中で,明確に良心的兵役拒否を支援しているものの,党員全員にそれを強制する事はしないと謳っています.
 兵役に対する態度を決めるのはあくまでも個々の人間の持つ良心であって,良心の命ずるままに行動する権利は絶対的である,徴兵制が否定されねばならないのは,正にこの権利を侵犯するからだと言うもので,言い換えれば,個々の人間の良心と無関係に国家が兵役を強制する事,自分のみならず他者の生死にまで関わる決断を島外の個人ではなく国家が下す事態こそが徴兵制に内包される悪の本質であると喝破した訳です.

 このILPの主張にある様に,必ずしも良心的兵役拒否者は一枚岩ではありませんでした.
 片や絶対的平和主義者で,あらゆる戦争を非道徳的であるとして否定する人々,もう片方は彼らの大義に関わる戦争(例えば,労働者階級が権力を握る事が出来る戦争)なら厭うつもりのない人々です.

 意図から見れば,良心的兵役拒否には3つのタイプがありました.
 1つは戦闘業務に就くことは拒むものの,陸軍に入隊して教練を施され,非戦闘的な軍事業務を遂行することを受入れる人々であり,1916年3月には彼らを受入れる為に陸軍に"Non-Combatant Corps(NCC)"が設置されています.
 NCCは,戦闘をしない代わりに,物資の搬送,軍用道路の造成,宿営地の設営と言った業務が想定されていたのですが,戦場は屡々動いているので,戦闘業務と非戦闘業務との線引きは明確ではなく,戦闘業務的な任務を命令された場合もありますし,また武器の運搬を拒んで軍法会議にかけられた者もいました.
 この様に,NCCが戦闘業務を遂行せざるを得ない様にする圧力が陸軍部内にあったことは,マクレディも認めているところです.

 2つめは入隊はせず,政府の管理の下で「国にとって重要な」非軍事的代替業務を遂行することは良しとする人々です.
 兵士にならなくとも良いと言う意味で,これは良心的兵役拒否者に受入れられやすいものでしたが,その代替任務が問題であり,軍需品生産の様な戦争との繋がりが明瞭な業務を忌避する人々は多かったですし,名目だけの代替業務に就いて実際には反戦・反徴兵制の運動に専念した人々もいました.

 最後が,あらゆる業務の遂行を拒否する「絶対拒否者」と呼ばれる人々です.
 彼らの認識では,NCCでの非戦闘業務などは論外,陸軍の外で行われる代替業務であっても,結局は戦争への協力という点では変わらない訳で,受け入れ可能だったのは全面免除のみですが,それは稀にしか認められず,そうなると,政府や陸軍と真正面から戦うことだけでした.

 しかしそれは本人にとって茨の道を意味することになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/25 23:12

 さて,先日見た様に,英国の徴兵制度には一応,良心的兵役拒否と言う項目がありましたが,実態はそれを認める方向にはありませんでした.
 特に兵役免除審査局の審査は,国にとって重要な仕事に従事している,唯一の稼ぎ手として扶養する人がいる,兵役に就けないほど健康を害していると言う条件で申請する人々が多く,良心的兵役拒否は僅か2%以下でしかありません.
 この様な状態では,審査局は処理しきれない状態が常で,結果的にその審査は精々数十分,極端な場合は数分で済まされてしまうケースが多発しました.

 しかも,当初は審査マニュアルが無く,恣意的な質問,例えば,「ドイツ兵が貴方の母親をレイプしようとしていたら,貴方はどうするつもりか?」等という語句が常套的に用いられたことからも,出来る限り兵役忌避者を出さない様にしていた事が伺えます.
 それが整備されたのは,やっと1916年6月になってのことです.

 因みに,審査プロセスの中で最も重要な申請からの聴取は,原則として公開され,傍聴や報道も可能で,申請者は助言者を伴うことが出来,多くの場合,事前に受け答えの「練習」を行っていました.
 また,証人の招請や書面による証言も求められることがありました.
 更に,陪席する陸軍代表は,単なるオブザーバーではなく,申請者に質問する権利を有し,その介入が裁定に強い影響を与えたケースも少なくありませんでしたし,陸軍代表の陪席により,より多くの兵士を獲得したいとする陸軍の意志が診査に持ち込まれ,審査局メンバーの多くが募兵運動の延長にあったつもりで審査に当たっていたので,「良心的兵役拒否」を主張する者にとっては,厳しい条件を形作っていました.

 審査のやりとりでは,例え話でも現実に起こった場合,例えば地元にドイツ軍が侵攻してきて,それに反撃するかしないか,とか,更にそこに数百人の女子供がいるとして,そこで戦闘をすれば,彼らを助けることが出来る場合でも,敵を攻撃することはしないのか,しかしそれでも返答が否ならば,今度は,直接戦闘ではない,海軍の掃海艇に乗り組んでの機雷除去を例示して,その任務に就くかどうかを確認したりしています.

 このやりとりなんかはまだマシな方で(でも,この受け答えをしたメソジスト教徒の青年は,NCCに配属されることになった訳ですが,陸軍からの召集に応じなかったので,警察に逮捕され,陸軍に送られることになりました.

 極端な例ではこんなものもあります.

――――――
貴方は何時に起きますか?
 朝7時から8時の間です.

寝るのは何時ですか?
 大抵はやや遅くなってからです.

どんな運動をしますか?
 仕事には歩いて行きますし,機会があれば散歩する様にしています.

殆ど運動はしない訳ですね.散歩もしないし,自転車にも乗らない.日曜には何をしていますか?
 仕事をしたり教会に行ったり,時間があれば散歩をします.

風呂に何時は入りますか?
 非常に良く入ります.

貴方の外観からして,良く風呂に入っているとは思えませんが….
――――――

 こんな無意味なやりとりが為されて,審査の結果,申請者は良心的兵役拒否を認めないとの決定を下します.

 全体の傾向を見れば,宗教的な根拠を持ちだした者はそうでない者よりも好意的な裁定を得るのが通例で,特にクエイカーの場合はそれが顕著でした.
 全面免除の件数350件(全体からすればいかに少ないかが判るでしょう)の内,殆どはクエイカーでした.
 逆に,「政治的拒否者」はほぼ100%が全面免除を勝ち取ることが出来ませんでした.
 兵役法に規定された条文では,全面免除は曖昧で,どうとでも取れるものでした.
 政府は,全面免除は可能であると言う見解を出していますが,多くの審査局では全面免除は許可出来ないと言う解釈が為されていました.
 これは,1916年3月23日に政府が再度通達を出して徹底を図り,5月の改訂兵役法ではこの点が明記されましたが,審査局がそのままそれを受入れることはありませんでした.

 因みに,「国にとって重要な仕事」とは何か,についても,実は何ら具体的に示されて居らず,1916年3月28日になって商務院内に「国にとって重要な仕事に関する委員会」(通称ペラム委員会)が召集され,それが「国にとって重要な仕事」のリストを出したのは,4月14日の事.
 既に,兵役法施行からかなりの年月が経っていたりします.
 従って,「国にとって重要な仕事」を掲げて兵役拒否を申請したとしても,それは画餅にしかなってなかったりするのです.
 このペラム委員会で示されたリスト以後,非軍事的代替任務に就く兵役免除の認定数は増えていきますが,それでも,これはNCC入隊を本旨とすると言う認識は根強く残りました.

 但し,幾ら免除が認められないと言っても,全面免除が僅か2%程度だったと言う事で,何らかの形で非戦闘任務に就く事の出来る免除が申請者の80%に認められたと言うのもまた事実です.
 しかし,それを受入れる人々もまた少なく,拒否者は40%に達しました.

 こうして拒否を行った場合,ある時点で陸軍から召集令状が来ます.
 召集に応じなければ,脱走兵として警察に逮捕され,罰金を科せられた上で,身柄は警察から陸軍に引き渡され,以後,兵士として文民には適用されない軍法の支配下に置かれます.
 それでも,軍服を着ない,書類にサインをしないなどの命令不服従を繰返せば,軍法に基づいて営倉入りになり,果ては軍法会議に掛けられる事になりました.
 こうした人々は,実に6,000名に達しています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/26 23:31

 さて,望まざる軍隊に入れられた人々は,様々な手段で抵抗を試みます.
 それは殆どが,陸軍という大きな組織の前には蟷螂の斧に終わったのですが,頭数が欲しいとは言え,こうしたミスマッチな人材を受入れた陸軍も,大きな問題に直面しました.

 マクレディはこう述べています.

――――――
 …ある男が審査局の裁定によって兵士として陸軍当局に引き渡されたら,この男が自らの任務の遂行を拒む理由は何だろうか,等と陸軍当局は忖度する必要はない.
 有らゆる指揮官の明らかな務めは,自らが行使出来る正当な手段を用いて,引き渡されてきた総ての男を有能な兵士にすべく全力を尽すことである!
――――――

 当然,こうした務めを遂行する為には,命令に従わない者達に体しては懲罰を与える必要があります.
 あくまでも軍法の枠内であったとは言え,その懲罰については現場に裁量される程度が大きく,中には「虐待」との批判を受けるケースもありました.
 しかし,あくまでも,良心的兵役拒否者を一人前の兵士にすることが自分の任務だ,と言う理屈を介在させることで,「虐待」を正当化するケースも多く見られました.

 ただ,こうした厳罰は一時的な効果はあったものの,それも持続するものではなく,命令不服従は後を絶ちませんでした.
 このため,次に考えられたのが,良心的兵役拒否者をフランスに移送すると言うもので,1916年5月以降数十名が送致されました.
 この措置の裏の意味は,「フランス」と言う地にあります.
 フランスと言えば,ドイツと対峙して,その最前線で戦闘を行っている,つまり「戦場」である訳です.
 こうした場所で,彼らが命令不服従をすればどうなるか,「戦闘中」のステータスにある彼らが命令不服従を起こせば,「教練中」のそれよりも遙かに重い刑罰,場合によっては「銃殺刑」の執行と言う所まで行き着きます.

 戦場では,銃殺刑に至らずとも,厳しい懲罰を科すことが可能でした.
 屡々用いられた「非公式」な刑罰は,「はりつけ」と言うものでした.
 これは,毎日数時間ずつ鉄条網や大砲の台車に括り付ける懲罰です.
 つまり,その間この「兵士」は,敵の砲火に晒されることになります.
 場合によっては,その砲火が命中して,敵の砲火によって自らの手を汚さずに,命令不服従者に「名誉の戦死」を遂げさせることが出来る,と言う悪名高いものでした.

 こうした良心的兵役拒否者の命令不服従に対する銃殺刑の可能性に関しては,1916年3月22日の時点で,既に庶民院の労働党議員フィリップ・スノーデンによって提起されていました.
 しかし,当初は地方行政院総裁のウォルター・ロングは否定的な答弁をしたのに対し,陸軍次官のハロルド・テナントは,「他のあらゆる兵士達と全く同じように軍法の適用をするのは当然」と答弁するなど,政府部内でも立場によって見解が異なっていました.

 フランス移送は,当初政府にも秘密で行われていました.
 しかし,それが政府に知られると,アスキスは政府が許可しない限り銃殺刑を執行してはならない,と命令し,問題の収拾を図ろうとしました.
 ところが,1916年6月2日には移送されたフランスで命令不服従を務めていた良心的兵役拒否者の軍法会議が始まり,34名に銃殺刑が言い渡されることになりました.
 この34名についても,アスキスの介入で罪一等を減じられ,10年間の懲役刑へと減刑することになり,フランスに送られた彼らは再び刑に服する為に英国に戻ってくることになります.

 因みに,これ以後も良心的兵役拒否者のフランス移送は幾度となく繰返されることになりましたが,多分に脅しの意味を込めたものに変わりました.
 陸軍の暴走と片付けるのは非常に簡単なのですが,元々,行政の不備でこうした人々を受入れざるを得なかった陸軍内部に,「良心的兵役拒否」と言う新たな流れに沿う人々が理解出来ず,このため,それに対応して軍法がついて行けなかったのが原因と言えるのでしょう.
 そう言った意味で,陸軍部隊の方も,陸軍官衙が考えていた単純な人員増の浅はかな考えの被害者になったと言えるのかも知れません.

 良心的兵役拒否者を強制的に軍に入れたは良いが,彼らは次々に問題を起こし,その為に,軍全体にかなりの負担を強いているとして,陸軍は好い加減にうんざりしていました.
 そこで考え出されたのが,「前線と同じくらい厳しい条件で」良心的兵役拒否者を労働させる為に,陸軍省ではなく内務省管轄のプロジェクトを発足させることでした.
 そして,陸軍は軍令Xと呼ばれるものを出して,軍規に反する行為を繰返す良心的兵役拒否者を陸軍の営倉ではなく,文民用刑務所に収容する事にし,内務省は文民用刑務所に収容した良心的兵役拒否者を釈放の上,「国にとって重要」な業務をやらせる方針に転換しました.

 内務省でこれを管轄したのがブレイス委員会です.

 内務省の考えたスキームでは,まず,文民用刑務所に移された良心的兵役拒否者を中央審査局が再審査を行い,その再審査の結果,兵役を拒否する「真正な」良心を持つと認定された良心的兵役拒否者は刑務所から釈放されて,ブレイス委員会の元で就労すると共に,「真正」と認定されなかった人々は刑務所に残されると言うものでした.
 この結果,文民用刑務所に移送された良心的兵役拒否者のうち,約80%が再審査の結果スキームに適格とされ,1916年だけでは実に90%が適格とされました.

 こうして,夥しい数の良心的兵役拒否者は軍隊から合法的に追い出され,このスキームに送り込まれた訳です.

 当然,これにも抵抗して,あくまでも獄中で刑期を全うするケースもありました.
 しかし,営倉や刑務所を経験した多くの人は出獄を可能としたスキームの誘いは魅力的であり,多くの良心的兵役拒否者と認定された人々は,スキームで就労しました.
 その数は,1916年8月以降1919年4月までの間に延べ4,126名に達します.

 こうした人々の殆どはインテリ階級に属していたのですが,実態としてスキームの仕事は,殆どが彼らの素養や能力を生かすことの出来ない単純肉体労働であり,私企業の最低賃金水準の3分の2程度の給与,更に居住条件も悪いと言う労働意欲を減退させる条件がそろっていました.
 これは,国民の多くが,こうした人々が前線の兵士よりも恵まれた条件にあると言うのは許容出来ないと考えていた為であり,更に,世論は彼らに「塹壕での戦闘と同じくらいの苦難が与えられて然るべき」と言う意見だった事も挙げられます.
 また,こうした人々を積極的に受入れようとする雇用者が殆どいなかったので,ブレイス委員会は自前のワーク・センターを設置して,彼らを送り込むしか無く,彼らの希望職種や能力に対応することは極めて困難でした.

 例えば,1916年8月に開設されたアバディーン近郊ダイスのワーク・センターでは,約250名の良心的兵役拒否者が道路建設・補修に当たるとされた施設として設置されたのですが,実際の業務は採石作業のみでした.
 食事も不足しがち,秋になって雨が降り始めると,支給されたテントで生活するのは殆ど不可能となりました.
 この様な条件下で連日10時間もの採石作業を行うのは苦痛以外の何者でもなく,この作業で健康を害した人々も多数いました.
 「国にとって重要な仕事」が,これでは全く懲役と変わらないものです.
 9月には病死者さえ出た為,このワーク・センターは10月末に閉鎖されました.
 しかも,各人にはこの採石が一般道に使用されると聞かされていたのに,実は軍事目的で使われるものと知った人々は,脱走を企てたりもしてます.

 こうした問題は,他の地域でも発生し,個別の労働拒否,組織的なストライキ,逃亡,地域住民との暴力沙汰等が頻発しました.
 合計で27名の死者を出しながら,1919年4月まで存続したとは言え,スキームの失敗は早々と明らかになってしまった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/27 23:46

 さて,釈放された良心的兵役拒否者については触れましたが,あくまでも抵抗を選んで刑務所に収容された人々の運命はどうなったか.
 彼らは,「絶対拒否者」と呼ばれました.

 彼らの考えでは,戦争に関係のない仕事をするとしても,それを遂行することでそれ以外の人々の労働の機会を奪い,結果的に彼らが兵役に就くことになると言うのであれば,戦争の協力に他ならないとして,全面免除以外は受入れられない,と言うものでした.
 「国にとって重要」と言うのは,即ち,「戦争遂行にとって有用」と言う意味であるとの認識だったのです.
 こうした絶対拒否者の総数は,良心的兵役拒否者の1割にも満たない約1,300名程度でしたが,世論に最も強いインパクトを与えたのは彼ら絶対拒否者でした.

 形式上,彼らは強制的に警察から陸軍に連行されて入隊させられた訳ですから,陸軍の兵士となっています.
 ですから上官の命令に従わなければ,軍法会議に掛けられて処罰されます.
 軍令Xと呼ばれた内務省スキームの発動以降,こうした不服従者の懲罰は,営倉ではなく文民刑務所への収容となりました.
 そして,刑期を全うすると,再び陸軍の所属部隊に送り返されますが,此処で懲りずに命令不服従を繰返し,再び軍法会議に掛けられ,そこを経由して文民刑務所に舞い戻ります.
 絶対拒否者にはこういうサイクルが待っていました.
 こうしたサイクルを経験した人には,最も多い人で6回部隊と文民刑務所を往復した強者もいました.

 絶対拒否者に対する刑務所の処遇は過酷で,刑期の最初の2週間は満足な寝具を与えられず,最初の1ヶ月は1日40分間の運動以外は独房で完全分離の状態に置かれます.
 他の囚人と接することが出来るのは,1ヶ月が経過してから,刑務所の外と手紙を遣り取りしたり,上限3人までに限定された面会人に会うことが出来る様になるのは,収容後2ヶ月経過後でした.
 それ以降は,6週間に1回,1ヶ月に1回と言った調子で間隔は短くなっていきますが,手紙は厳しく検閲され,刑務所内のニュースや公的な出来事には言及出来ません.

 労働は1日10時間,入浴は週に1回,食事は1日2~3回で主たる食べ物はパンとオートミールのみ,それが懲罰房に収容された場合は,毎日ではないにせよパンと水のみとなってしまいます.

 こうした規則を称して,絶対拒否者として2回投獄された人の言に依れば,「言葉の真の意味においてプロイセン的である」と言うものだそうです.

 獄中生活で特に嫌忌されたものは「沈黙の規則」と呼ばれるものでした.
 これは,受刑者同士の会話は全く許されず,看守と受刑者との間の許可されるのも必要最小限の実務的な会話だけと言う規則でしたが,裁縫作業(郵袋製作作業)の様な労働に携わりながら,一向沈黙を強いられ,一日の内,23時間50分を沈黙の内に過ごさねばならないと言う規則は非常に過酷なもので,受刑者にとってかなりのストレスになっています.

 勿論,1日でも沈黙の規則を完璧に守った受刑者など殆どいない訳で,「沈黙の規則」には抜け道もありました.
 看守から距離を取りやすい運動や礼拝の時間は受刑者同士が話す最大のチャンスでしたし,看守も規則に厳格だった訳ではありません.
 そこは,人間ですもの.

 受刑者達の間では,1~2ヤードしか届かない特別の囁き声で感づかれない様に話す技術や,メモ書きその他の何と言うこともない品を隣の者に渡す技術が,芸術の域に達していました.
 筆記用具も与えられない条件下に於て,隠匿した鉛筆や鳥の羽,トイレットペーパーを用いて,刑務所内で密かに良心的兵役拒否者達が雑誌を作成し,それを流通させたりもして,受刑者間にコミュニケーションが成立していたことが伺えます.
 こうした雑誌は少なくとも8カ所の刑務所で出回り,中には100号以上も続いたものもあります.

 2年以上の獄中生活を強いられた絶対拒否者は900名近く,獄死した者は10名に及びます.
 ただ,獄中の処遇が原因で死亡した者は約60名に達し,精神に異常を来した者を加えると100名を超えました.
 出獄しても社会復帰出来ず,意志の力が衰え,何事も決定・決断出来なくなり,道路を渡るのさえ困難を覚える人も多数出ています.

 政府としては,折角抜け道を用意しているのに,それを拒否して刑務所生活を選んだのだから,その選択肢に何ら介入する必要はないと言うのが公式的な姿勢でした.
 例えば,ロイド・ジョージは1916年7月26日の庶民院での演説でこう述べています.

――――――
 この種の人間達に関しては,私は個人的に一切の共感を覚えることが出来ません.
 彼らは一片の配慮にも値しないと考えます.
 血を流すことを拒否する人々であれば,その見解を尊重することは我が国の伝統的な政策であり,そこから離れようと提案するつもりはありません.
 しかし,そうではない者達については,私は只,この種の者達に対処する為の最善の方法は極めて強硬なそれであると考えます.
――――――

 とは言え,1917年6月の時点で,2回目,3回目の刑期を務めている絶対的拒否者が約600名に達し,世論の厭戦気分とも相まって,何らかの寛大な措置を求める声が大きくなってきます.

 その最初が,1917年6月12日付Guardian紙に掲載されたバーナード・ショーの手紙でした.
 ショー自身は大戦を支持する立場にありましたが,実質的に兵役拒否と言う単一の罪状で複数回の懲罰を受けることの不当性を訴え,何度も懲役刑を更新される様なやり方は実質的な死刑判決に等しいと指摘し,獄中の絶対的拒否者を殺して良いのか,と訴えかけました.
 同日掲載された同紙の論説でも,審査局の杜撰な審査や最低が主原因で,兵役法の良心的兵役拒否者条項が空文化し,「真正」な良心的兵役拒否者程厳しい処罰を受ける結果となったこと,反復的な懲罰が不当であることを指摘し,ショーの言い分に同調しました.

 1917年10月25日には,こうした良心的兵役拒否者に辛辣だったはずのthe Timesが方針を転換し,良心的兵役拒否者の懲罰を続けるのが正当化出来るかと言う論説を掲げました.
 Daily Newsなどその他有力紙達も同一歩調を取り,高位聖職者も請願でその処遇の再検討を求めるようになり,絶対拒否者の問題はいよいよ注目を集めることになります.

 その絶対的拒否者の中で最も注目を集めたのが,スティーブン・ホブハウスと言う人物でした.
 ホブハウスは1917年4月から2度目の刑期を務めていましたが,自由党の庶民院議員の長男にも関わらず,その地位を捨ててロンドンのスラムに居住し,ソーシャルワーカーとしての活動をしていた為に,世評の高い人物で,且つ,心臓に持病を抱えていた人としても知られていました.

 ホブハウスの母親であるマーガレットは,社会運動家,著述家として有名なビアトリアス・ウェッブの姉ですが,彼女は政権に隠然たる影響力を行使していたミルナー,そしてバーナード・ショー,オクスフォード主教のチャールズ・ゴアなどの有力者の支援も得て,絶対的拒否者の釈放運動を展開しました.
 バートランド・ラッセルが執筆し,彼女の名義で発行された『シーザーへの嘆願』は,4ヶ月で18,000部を売り,ミルナー経由で国王ジョージ5世にも届けられました.

 こうした世論の盛り上がりの結果を受け,政府部内で激論の末,ホブハウス等約300名の絶対的拒否者…と言っても政府にもメンツがあるので,表向きは「健康状態に不安がある者達」…が釈放されました.
 とは言え,ホブハウス本人はそんなに健康状態に不安があった訳ではありませんでしたが.
 その後,ホブハウスは1922年には同じく絶対拒否者として獄中にあったフェナ・ブロックウェイと共同で『イングランドの刑務所の現在』を出版し,刑務所改革を巡る議論に大きな一石を投じています.

 ところが,1918年3月以来のドイツ軍の大攻勢で残りの絶対拒否者は世論から忘れ去られてしまい,焦燥感を覚えた絶対拒否者は,獄中労働の拒否,ハンスト,刑務所規則への不服従と言った形で抵抗する様になっていきました.
 因みに,戦間期に英国で反戦・平和運動が盛んになっていった頃,中心となった人物達は,この頃に刑務所に収監され,獄中闘争をしていた人々だったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/28 22:31

 さて,1918年11月にやっと大戦は終結します.

 そうなると,直ちに良心的兵役拒否者は解放されると信じていましたが,兵士達の引揚げが終わらなければ,こうした者達への釈放はしない,と言うのが政府の基本方針でした.
 何故ならば,良心的兵役拒否者が早々に解放され,社会復帰して先手を取って雇用を確保してしまえば,命をかけて戦闘をして帰ってきた兵士達は職にあぶれます.
 当然,そうなると,兵士達の不満は増大し,次に戦争が起きた時に誰も戦場に行きたがらないであろうと考えた為です.
 従って,1919年4月から絶対拒否者の釈放が始まるものの,総ての良心的兵役拒否者の釈放を陸相に就任していたチャーチルが表明するのは,7月になってからのことで,最後の良心的兵役拒否者が釈放されたのは,1920年2月,NCCが動員解除されるのも同時期の1920年1月になっていました.

 徴兵制については,1918年12月の総選挙の争点であり,労働党のマニフェストでは,その廃止を明確に掲げましたが,自由党と保守党の連立政権を率いてきたロイド・ジョージも,選挙期間中にその廃止を仄めかし,ポスターには「徴兵制廃止の為に首相に投票せよ」との文字が躍りました.
 しかし,総選挙で圧勝した後の施政方針演説では,「戦勝が齎した果実の総て」を収穫し,世界の平和を守るとして,また.チャーチルもドイツの報復戦を不可能とする為に徴兵制は延長され,1919年3月6日の庶民院に,1920年4月30日まで徴兵制の運用を継続する旨の海軍・陸軍・空軍兵役法案が提出され,4月16日に成立しました.

 一方,休戦を得ても,良心的兵役拒否を行った人々,また,それを支援した組織の人々は,意外なことですが非常に無力感に捕われました.
 自分たちがその休戦に貢献した訳ではなく,休戦を祝う国民と共に一緒になって祝うことが出来なかったのです.
 謂わば,彼らは世間から浮いた存在でした.

 獄中闘争を経て自らの思想・信条への忠実さは実践的に証明されたかも知れませんが,結局それは国を動かすこともなく,戦争を左右することもなく,休戦に関与した訳でもなく,単なる自己満足以上の何者でも無かったと悟ったのです.
 しかも,屡々組織的に過激になって,狂信的で紋切り型になり,社会の多数派から不興を買って,自らの考えに賛同する人々を増やせなかった訳です.
 つまり,独善から孤立,そして無力と言う悪循環に陥ってしまったと言えます.

 大戦の熱狂的な支持者であったH.G.ウェルズは,彼ら良心的兵役拒否者の会合にこの様なメッセージを送っています.

――――――
 貴方たちの会合に贈りうる唯一のメッセージはこうです.
 自分たちの生命を捨てずに済んだ良心的兵役拒否者達は,ヒロイックな態度を慎まなければなりません.
 そして,侵略的なドイツの軍事主義が打倒されたことで可能になった,世界の和解を実現すべく出来る限り熱心に務めることによって,死者に対して礼儀に適った感謝の意を表すのです.
――――――

 確かにウェルズは,大戦の熱狂的な支持者でしたが,大戦争は「戦争をなくす為の戦争」に他ならないと言うスローガンを考えた人でもあります.
 1914年刊の"The War That Will End War"では,大戦をして,「世界の狂気を追い払い,一つの時代を終結させる戦争」「平和に向けた戦争」と規定し,「この戦争が目指すのはこの様な事態を永久に無くす様な決着である.現在ドイツと戦っている総ての兵士は,戦争に対する十字軍の戦士なのだ.あらゆる戦争の内でも最大のこの戦争は単なる一戦争ではない,それは最後の戦争なのである.」と訴えていますし,1926年には世界中の徴兵制廃止を提案する様,国際連盟に呼びかけるマニフェストに署名を寄せている平和主義者の一人でもありましたが,良心的兵役拒否に対しては,辛辣な見解を寄せた訳です.

 世論の大勢は,良心的兵役拒否者の事を"conchie"と呼んで蔑み,激しい敵意を見せています.
 ご立派な綺麗事を並べているものの,無責任な臆病者に過ぎない,と言う訳です.
 フランスへの送致が図られたり,部隊内で全裸にして放置するなどの虐待が行われたのも,或いは良心的兵役拒否者の国外追放や教職からの排除を求める決議案が貴族院に提出されたのも,こうした世論の動向に支えられたことが大きかったりします.
 とは言え,大戦が終了すると,戦争を忌避する言説が世間に浸透していき,彼らの抵抗に対する評価が為されて行く様になりました.
 1931年,バーナード・ショーは,「勇気だけを問題にするならば,"conchie"は大戦の英雄だ」と述べ,否定的評価は覆されて,反戦・平和の灯を守った英雄として称揚の対象になったりもします.

 但し,英国で主流になった反戦・平和の主張というのは,決して絶対平和主義ではありません.
 世論を最も強く引きつけたのは,国際連盟を通じた集団的安全保障による平和維持・戦争回避を目指す平和論であって,何らかの制裁…場合によっては軍事的制裁も含む制裁…も是認すると言う意味を持っていました.
 取分け,1920年代の場合は,国際連盟が平和の担い手として総じて高い水準にあり,その平和維持構想には一定の説得力があって,絶対平和主義は,本質的に個々人の内面に関わる信条で,政治的な実践からは切り離されていると言うイメージがどうしても付き纏いがちでした.

 また,大戦争時の絶対拒否者の多く,その殆どは筋金入りの平和主義者ですが,彼らの多くも,戦間期には一切の武力行使を否定しては現実に対処出来ないと言う考え方に傾き,絶対平和主義の無香性を認識する様になります.
 事実,第2次大戦が勃発すると,第1次大戦では絶対平和主義を叫んで絶対拒否を貫いてきた人々の多くが,第2次大戦を支持することになりました.
 即ち,彼らは自らが追求した原則から逸脱したのです.

 その転換に重要な役割を果たしたのはスペイン内戦でしたが,ファシズムを前にして絶対的平和主義を貫くことが出来ないと悟った訳です.
 但し,それは反ファシズムの戦争を必要悪として支持する一方で,軍事的な協力をしないと言う,妥協的な姿勢を取ることになります.

 第2次大戦でも,良心的兵役拒否者は一定数存在しました.
 1939年5月26日に軍事教練法が成立し,後に平時の教練は戦時の兵役へと切り替えられます.
 但し,運用に関しては第1次大戦の様に混乱はせず,絶対拒否者に貢献を強いることは避けられましたし,良心的兵役拒否者は約62,000名,そのうち,全面免除を認められたのは第1次大戦を上回る約3,000名に達しています.
 兵役免除審査のプロセスからは陸軍省の影響力は最初から排除され,審査局議長には判事が据えられました.

 ネヴィル・チェンバレン首相は,1939年5月4日の庶民院の演説でこう述べています.

――――――
 軍事作戦に従事している人々を助け,元気づける為にも何もしないことこそ自分の責務だと感じる人の様な,極めて極端なケースも存在します.
 私たちは,先の大戦の際にこうしたケースについて少々学びました.
 そして,この様な人々を自分の原則とは正反対のやり方で行動させようと試みても無駄であり,時間と努力の馬鹿馬鹿しいほどの浪費であることを理解した,とと私は考えています.
――――――

 こうして,1939年に再導入された徴兵制は戦後も長きに亘って維持され,徴兵が停止されたのは1960年,徴兵による兵士の動員が解除されたのはその3年後です.
 その理由は,核抑止力による防衛に戦略の主眼が移り,総力戦の時代が去った事を意味しています.

 時に,第1次大戦に於ける徴兵制導入が必須となったのは,何も志願兵の減少が一因となった訳ではありません.
 志願入隊に任せていると,軍務に就くより,国内で活動した方が有益な人々が,少なからず戦場に出てしまいます.
 その頃の入隊率は圧倒的にホワイトカラーが占め,ブルーカラーでも不熟練労働者よりは熟練労働者の志願率が高くなっていました.
 更に,入隊率は社会的地位が上がるほど高く,士官の死傷率は兵卒のそれをも上回っていた為に,人口比で言えば,階級が上であればあるほど犠牲者が多かったのです.
 オクスブリッジの学生達の多くは志願して,少尉や中尉に任官していましたが,彼らは不熟練労働者の凡そ5倍の確率で戦死していました.
 つまり,社会を指導すべきエリートほど戦場に赴き,死傷しがちだった訳です.

 総力戦を戦い抜こうと考えると,そして戦後を考えると,指導層がすっぽり抜け落ちるのは何としても避けたい,それにはこれらの人々を保護する必要がありました.
 そこで,エリートよりは労働者を,ホワイトカラーよりもブルーカラーを,戦闘の駒として用いるのが最善とされ,特に幾らでも代替の効く,不熟練労働者から先に戦場に送り出そうと言う狙いが徴兵制の真の目的として存在していました.

 徴兵制とは,政府の意図に沿ったマンパワー配置を可能にする制度であり,此の場合の意図にはエリートの保護というそれも含まれていました.
 これこそが,徴兵制と民主主義の間の本質的な矛盾が最も鮮明に露呈していた点です.

 ついでに,21歳以上の男性の普通選挙権と30歳以上の年価値5ポンド以上の不動産保有者(ないし保有者の妻)である女性の選挙権を認めた1918年2月成立の国民代表法には,法的な意味の終戦日である1921年8月31日より5年間に亘って,全面免除者及び絶対拒否者から選挙権を剥奪する規定が盛り込まれています.
 つまりこれも,戦時の為に武器を取らなかった者は国民としての権利に値しないと言う権力側のメッセージです.

 英国は民主国家とか民主主義のお手本とか言われている訳ですが,中々どうして,あくまでもその民主主義は血で購われた民主主義なのであって,血を流していない人々をも包含して考慮すると言う事は全くありません.
 そう言えば,今,何処かの国の首相は,「英国をお手本にする」と盛んに言っていたかと思いますが,つまり,彼の根本思想には,「血を流していない者は国民ではない」というものが流れているのかも知れません.
 案外,そう考えるとストンと腑に落ちるものがあるのではないでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/12/29 22:49


 【質問】
 第一次大戦における,カナダ軍日系義勇兵について教えられたし.

 【回答】

 さて,1914年7月と言えば第一次世界大戦の始まった月です.
 カナダは宗主国の英国と共に行動し,ドイツと戦争をする事になり,日本も又,日英同盟をお題目に,アジア地域に於けるドイツ勢力を一掃する為,ドイツに対して宣戦することになります.

 こうして,英国を介して,日本とカナダは同盟国として戦う事になります.
 この為,一時期は悪化したカナダの人々の対日感情は,一気に好転し,日系人に対しても親愛の情を示す様になりました.

 11月には,日本は青島を占領します.
 その時,ドイツ極東艦隊に所属していた小型巡洋艦Leipzigは青島を脱出し,カナダの太平洋岸を攻撃しようとしていました.
 この為,ヴァンクーヴァー港は閉鎖されて,緊張が高まっていました.
 そこへ,日本海軍の装甲巡洋艦出雲がメキシコ方面から,急ぎカナダ防衛の為に回航され,ドイツ側の意図を挫きました.
 結局,Leipzigは極東艦隊の他の軍艦と共に欧州方面に回航され,途中フォークランド沖で英国艦隊の攻撃を受けて沈む事になりましたが,この1件を於いても,日本への好感度は更に上がり,今まで散々日本を叩いていた排日主義のある新聞でさえも,日本を「東洋の英国だ」などと持ち上げています.

 ところで,カナダの地を終の棲家と定めた当時の日系人達は,カナダの永住権を取得する事が出来ました.
 ただ,永住権には選挙権がありません.
 一方,カナダに住んでいる日本人から生まれた子供は,生まれながらにしてカナダの国籍を持ち,成人すれば選挙権を持ちます.
 カナダに限らず,先進国の大部分では属地主義が採られています.
 それとは異なる考え方が属人主義で,どの国に生まれても親の国籍がついて回ります.
 これを採用している代表的な国が日本です.

 この為,カナダで生まれた日本人の子供は,自動的にカナダと日本の2つの国籍が与えられる事になりました.
 米国の場合は,この二重国籍が徒となりました.
 日米両国が戦端を開いた時,在米の日系人達は日本人なのか,米国人なのかと言うアイデンティティ問題を突きつけられる事になり,抑留などの対応が為された訳です.

 カナダの場合,20世紀初頭の日本人移民の多くは,カナダに帰化,つまり,永住権を取得する事が出来ました.
 しかし,選挙権は与えられませんでした.
 従って,公職にも就けず,主立った専門職にも就けませんでした.
 当時,カナダ人の多くは,英国臣民である事を自負していました.
 多くは,と言うのは,フランス系のケベック州民やそれ以外の非英国系カナダ人は,英国臣民である事を喜んだ訳ではありません.
 そう言う意味では,カナダ自体が英国とカナダの二重国籍を持つ国家となっていた訳です.

 但し,その二重国籍と言うのは,英国とカナダであって,日本とカナダの問題ではありません.
 当時のカナダに限らず,多くの列強では人種差別政策が厳然として存在していました.
 日系人も差別の対象でした.
 その真因は,働き過ぎと有能さに行き着きますが,同時に隠れた理由の1つとして,日本人移民の親世代の子供に対する教育熱心さと,子供の高学歴に根ざすものがあったと考えられます.

 同様に,戦後白豪主義を改めてアジア人を受入れる様になったオーストラリアの場合も,アジア人移民を受容れる事は受容れたのですが,日本人だけは様々な制約を付けて実質移民が不可能としています.
 その理由も,オーストラリアでは底辺労働を担う労働者が求められているのにも関わらず,日本人は底辺労働者出来ても,子供の教育に熱心で,子供達は成長すると,その国のエリートとなってしまい,底辺労働者の維持につながらないと言うものでした.

 カナダも同様な理由であったと思われ,例え大学を優秀な成績で卒業した日系人でも,肉体労働者として一生を終えたケースもありましたし,カナダでは能力が発揮できないとして,米国に新天地を求めた人々も多くいました.

 ともあれ,戦争が起きた今,日系人達がこの大戦争に協力する事で自分たちの忠誠心を示し,それによって悲願だった選挙権を得ようと言う狙いがありました.

 時に,英国と同様に徴兵制の無いカナダでは,志願制を維持してきました.
 この為,開戦と同時に設置された募兵事務所に,日系人も応募しましたが,その時は受容れられませんでした.
 これは人種差別と言うよりも,当時の軍首脳部が戦争は短期で終わると言う考えを持っていた為だと考えられています.
 第二次世界大戦でもそうでしたが,カナダは戦争の準備というものを全くしてきませんでした.
 弾薬の補充すら侭ならない状態だった訳です.
 そもそもが,国境を接しているのが米国だけであり,カナダの仮想敵国は米国だけでした.
 従って,その米国とさえ争う状態に無ければ,平和は保たれると考えていました.
 そして,専守防衛に務め,こちらから出なければ攻撃される事は無いと思っていたのです.
 ところが第一次世界大戦では,海の向こうにも国境線がある事を知らしめました.

 もう1つ,軍部が日系人の応募に応じなかったのは言語の問題です.
 軍隊では命令によって一斉に動かなければ,各個撃破の対象となったり,逐次攻撃と言う状態に陥ってしまいます.
 カナダ軍内で最も頭の痛い問題は,ケベック州に住むフランス系カナダ人の存在でした.
 カナダ軍が戦闘する際には,英国軍と共同戦線を張る事になると考えられていましたので,当然指揮言語は英語になります.
 ところが,フランス系カナダ人に対しては,英語で表現する微妙なニュアンスが伝わらないと言う問題が生じます.

 指揮言語を英語と統一した考えを軍首脳部が持っていた事で,カナダ軍内にフランス系部隊は作られませんでした.
 その事も原因だったのか,フランス系カナダ人の志願兵は極めて少ない事になりました.
 更に,その上に日本語部隊まで作りたくなかったのでしょう.

 兎も角,カナダ政府は始めに約31,200名の部隊を欧州戦線に送り出しました.
 これらの兵の大部分は,1915年4月にイープルに張り付いており,ドイツ軍が繰り出した毒ガスの犠牲となります.
 これを皮切りに,日増しにカナダ軍将兵の損害が増え,そんな悠長な事を言っておれなくなりました.

 ところで,日系人の親睦会として,加奈陀日本人会が1909年に結成されており,1914年8月15日に早くも現地邦字紙である『大陸新報』に特別広告を出します.
 その内容は,日本人でカナダ陸海軍義勇兵として従軍する志願者の数を把握したいので申し出る様に,と言うものでした.

 その後,1915年11月,カナダ軍からの依頼で,日本人会は日系人各位に趣意書を配布して,再び義勇兵を募る事になりました.
 応募者は多く,徴兵検査に合格したのは202名に達しました.

 1916年6月,196名の日系義勇兵が欧州戦線に送られました.
 残った人々は,カナダ義勇兵後援会を組織して,出征兵士の慰問やその家族の救護に当り,戦争が終わったなら記念碑を建立する事を決めました.
 とは言え,この出征には最後まで妨害に遭います.
 ブリティッシュ・コロンビア州から出征すると,彼らが帰国後に彼らに選挙権を与えなければならないので,狂信的な排日運動家が活動して,それを妨害したのです.
 この為,日系義勇兵は一端解散し,隣の州のアルバータ州から出征した人々も多かったと言います.

 兎に角,この196名は勇敢に戦いました.
 戦死者は4分の1以上の54名,負傷者は94名(一説には130名)と言う損害の多さです.
 軍部隊としては殆ど壊滅状態になっています.
 しかし,ブリティッシュ・コロンビア州議会は冷淡でした.
 帰還した義勇兵に直ぐに選挙権を与えず,それが与えられたのは1931年の事.
 この為,募兵した加奈陀日本人会の責任者は,姿を消してしまったと言います.
 皮肉な事に,戦死した兵士達は,英国に有るカナダ兵墓地に眠っています.
 死んでやっと差別から逃れられた訳です.

 戦後,カナダと日本の友好の為に,出征義勇兵の記念塔を建てようという動きが出て来ますが,この時は排日運動家は表だって反対せず,市当局もヴァンクーヴァー市内のスタンレー公園内に敷地を提供しました.
 加奈陀日本人会は義勇兵後援会が発展解消した後に,記念塔建設の為の募金活動を開始します.
 そして,日系人達は,苦しい生活の中から15,500ドル余を献金しました.
 その石塔の胸高の所には,日系義勇兵全員の名を刻み,石塔の脚の部分には戦った地名と年月が刻まれました.
 記念塔の除幕式は,1920年4月のことでしたが,第二次世界大戦の困難な時期にも壊される事無く,現在もしっかりと建っています.

 因みに,カナダでは,米国で言うVeterans Day,即ち「復員軍人の日」に当たるのが,Rememberance Day,つまり「英霊を偲ぶ日」です.
 ヴァンクーヴァーではこれを祝う式典が,Victory Squareで行われますが,日系人達はこちらの石碑でその日を過ごすと言います.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/03/19 23:14
青文字:加筆改修部分


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