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◆◆日本
<◆総記
WW1 FAQ 目次


 【質問】
 第3次日英同盟は,何故結ばれたのか?

 【回答】
 黒野耐によれば英国にとっては,東亜におけるイギリス権益を維持し,日本を対ドイツ包囲網の一環に組み込み続けるために必要なものであり,日本にとっても国際的孤立を避けるために必要だったという.
 なぜならイギリスでは日米対立が激しくなるに従い,日米戦争に巻き込まれることへの警戒感が高まっており,英国としてはアメリカとの経済関係や,海外自治領,特にカナダ防衛を考えた場合,日英関係に先だってアメリカとの緊密化が求められるようになっていたという.
 明治42(1909)年12月には,アメリカのノックス国務長官が満州鉄道中立化案を提案し,中国は満州における日本の利権を回収する動きを見せており,このような米中の動きに対応して,日本はロシアとの提携を強化し,共同してアメリカに対抗する処置をとっていた.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.48-49
を参照されたし.


 【質問】
 第3次日英同盟において,なぜ日英軍事当局者間で軍事協商が行われなかったのか?

 【回答】
 黒野耐によれば,日本陸海軍にとっては第3次日英同盟の存在意義が希薄だったからだという.
 日露関係が緊密化し,東亜におけるドイツの軍事力が寡少である状況下において,日本と衝突する可能性が高いのはアメリカだったが,そのアメリカが同盟の対象外となったからだという.
 すなわち日本にとって最大の脅威であるアメリカが対象から外された同盟は,日本陸海軍にとっては,英国を想定敵国に加えないで済むというだけの意味しか持たなかったからだという.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.49
を参照されたし.


 【質問】
 4ヶ国同盟構想とは?

 【回答】
 1914年8月,東アジアにおける自国の権益を日本に保障させたいフランス・ロシアが,日英同盟への加入を申し入れてきたことから起きた,日英同盟を4ヶ国同盟に拡大するかどうかの問題.
 黒野耐によれば,井上馨や山縣有朋は,アメリカの中国進出に対して,日英露仏の提携によって対抗できるとしてこれに賛成したが,加藤外相は日英同盟堅持だけを考えており,これに反対したという.
 それは加藤には日英同盟への思い入れが強く,自分が推進しようとする対中政策がアメリカを筆頭とした列強の反発に遭遇し,日英同盟が有効に機能しないという判断に欠けるきらいがあったからだという.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.52-53
を参照されたし.


 【質問】
 なぜ日本は第1次世界大戦に参戦したのか?

 【回答】
 直接的には英国が日本に対し,中国近海におけるドイツ仮装巡洋艦の捜索・撃破を要請してきたからだが,黒野耐によれば,政・軍それぞれの思惑もそこに絡んだという.
 加藤高明外相は,ドイツが占領する山東を奪回して中国に返還することにより,満蒙における日中間の係争を一括解決しようと考え,
井上馨は,英仏露との提携を固めて,共同して行動することにより,極東における日本の利権を確立しようと考え,
山縣有朋も基本的には井上と同じ考えだったが,中国との提携を重視しており,
陸軍の明石元二郎参謀次長,田中義一少将らは,膠州湾占領を足がかりとして満州権益の画期的強化を図り,中国の軍事・外交に対する一定の監督権を獲得し,中国本土の利権獲得を考え,
海軍は陸軍の中国本土への進出を警戒して当初,中立を主張していたものの,元々ドイツ領南洋諸島へ進出する機を窺っていたため,これを占領せよとの意見が高まった
という.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.49-50
を参照されたし.


 【質問】
 第1次世界大戦のとき,英国は同盟国である日本に,どれほどの援軍を(実行可能かはともかく)期待していたのでしょうか?

 【回答】
 西部戦線に一個師団でもいいから派兵してくれ,それがダメならメソポタミア戦線でもおkっていう打診があった.

▼ 以下,引用.

――――――
 大正3年8月末,ロシア外相と英仏大使との間で,日本軍の欧州への派遣が話し合われ,ロシア外相は日本の3個軍団の派遣を要請するようにイギリス政府に依頼した.
 11月4日に駐日イギリス大使は加藤外相に対し,日本軍の来援がイギリス軍にとって大変な利益となり,戦後の列国間の商議に日本は有力な発言権を持つことになる旨を述べ,費用はイギリス政府が配慮するとして,日本軍の派兵を要請した.
 〔略〕

 大戦が長期戦となるにともなって日本陸軍派遣の要請は続き,大正6年にはロシア方面,またはメソポタミヤ戦線への出兵が打診されたが,日本は拒否した.

――――――『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.53-54

 日本の方は輸送力に不安があるとか,うちの兵隊には米の飯食わせなきゃならんから難しいとか理由をつけて断った.

 当時の陸兵は機械化がなされてなかったからな.
 輜重に馬匹を使うから,それも一緒に輸送しなきゃならなかったのよ.
 派遣先に馬匹の余りなんて無いんだから.

 で,こいつらが人間以上に船舶輸送に向かない代物なんだよね.
 環境変化に敏感で,揺れるのや詰め込まれるのをひどく嫌うから,ストレスで輸送中に死んだりするし.

 その辺も陸兵派遣を渋った理由だったり.
 兵隊だけ送って砲も兵站も向こう任せって訳にはいかんから.

▼ また,海軍力の援軍も要請されている.

――――――
 一方,海軍に対しても大正3年9月2日に,グレー英国外相より井上大使に海軍艦艇の派遣要請があった.
 〔略〕

 イギリス政府は大正6年1月11日付の覚書で,商船保護,敵潜水艇破壊のため,水雷戦隊1隊を地中海に派遣すると共に,シンガポールにある第6戦隊の巡洋艦2隻を喜望峰に派遣し,インド洋,南大西洋の貿易破壊船の掃討に従事することを要請した.

――――――同,p.54-55

 これについても,外征能力が日本海軍艦艇にはないだとか,新式艦艇へ改造する途上にあるからだとか言って渋っていたが,山東や南洋諸島に対する日本の要求を,イギリスが支持することを交換条件にして,地中海への水雷戦隊派遣にようやく応じた.
 他に巡洋戦艦伊吹などがインド洋で通商保護活動に当たっている.▲


 【質問】
 何故,日本帝国は第一次大戦で,欧州に大兵力を派遣しなかったのでしょうか?

 【回答】
 まず,ドイツと日本との関係.日独関係はその当時もかなり友好的な関係にありました.このため,出来る限りドイツと事を構えたくないと言う考えが働いています.

 また,欧州に兵力を送るとなると非常に費用がかかること,食体系が欧州のそれとはまるで違うので,その補給が問題となること,それに日本としては,欧州列強のいない間に中国大陸に出て,米国の利益とぶつからないように,揚子江に至る華北の諸権益を確保しようとしていたので,欧州に兵力を回す余裕が無かったこと.

 ロシアとの間で1916年に日露秘密条約を締結し,中国防衛に関して日本とロシアは共同で防衛の義務を負ったこと.

 また,幼児期とはいえ産業界でも,欧州の戦争で活況を呈していましたので,欧州に向けるような兵力調達状況(産業界でも労働力を必要とする)に無かったこともあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 詳しくは,
「第一次世界大戦と日本海軍 外交と軍事との連接」
平間洋一 慶應義塾大学出版会
をおすすめします.タイトルには「海軍」とありますが,政府首脳や陸軍の動きにも触れているし.

unknown

▼ 一方,黒野耐によれば,日本が派兵を拒否する本音は,大島健一陸軍次官が,自国利権を全うして東亜永遠の平和を維持するために兵備を厳重にする旨を述べていたように,東亜利権獲得にしか関心がなかったからだという.
 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.54を参照されたし.▲

▼ ただし日本が欧米列強間で孤立しないためには,欧州戦線への本格参戦が必要と認識した陸軍参謀本部は,大正6年10月に「欧州出兵に対する研究」を行い,
「シベリア鉄道経由で,日本陸軍の全力に近い40個師団を派遣する.
 ただしこのためには英仏露が各種条件を呑む必要があり,その交渉をすれば,日本の派遣が困難なことが理解されるだろうし,結局は派遣要請を取り下げると考えられる」
との結論を政府に提出した.

 しかし黒野耐によれば,日本陸軍のほぼ全力を派遣することは,日本の運命を決める重大な決断事項であり,日本の国家戦略が明確に定まっていて,そのための政戦略が確立されていなければ,実行できる問題ではなかったという.
 そして政府は実際,大兵力派遣をする考えはなく,そのための外交交渉も行われなかったという.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.56-57を参照されたし.▲


 【質問】
 日本の派兵拒否に対する連合国側の反応は?

 【回答】
 黒野耐によれば,欧州は日英同盟の対象外の地域であり,日本軍派遣は同盟上の義務ではなかったが,英仏などの友好国が危急存亡の淵に立たされているときに,日本が極東で着々と権益を拡大していたことは,欧米列強の対日不信を買い,連合国の中で日本が実質的に孤立することになったという.
 しかもこのとき,英国と同盟関係にはなかったアメリカが,陸軍約200万を欧州戦場に派遣して,英仏側の勝利に大きな貢献をし,戦後の東亞における日米対立に際して英国に対するポイントを稼いだという.
 さらに,第1次大戦後の日本は,孤立というよりも欧米列強の敵意の重囲の中で国防を考えねばならなくなったという.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.56を参照されたし.

 まあ,常識的に見て当たり前の結果といえよう.
 どうしてそのような当たり前の結果を,日本政府や軍部が予想して回避しようとしなかったのかは,編者には分からない.


 【質問】
 第一次世界大戦中に日本が山東半島を占領した,というのは,あくまでも膠州湾と言う「租借地」とその周辺を占領したということ?
 それとも,
「ドイツの勢力範囲である山東半島」を支配下に置いたということ?

 【回答】
 つか,清は原則として外国人の自由行動を認めていなかったのを,列強が力づくで租借地をつくり,鉄道を引き,その周辺を勢力圏として認めさせていった完成の型が,歴史地図に出てくる中国分割図.
 1900年の北清事変以降は,清が列強の進出に対抗する手段はなくなってしまったわけで,アメリカが提唱して,中国の領土は侵食しないかわりに自由貿易を認めさせたってことで,独占的な勢力圏は否定されても,鉄道利権や鉱山開発利権など,その地域でそれまで活動してきた国は事実として優勢なのは変わらない.

 日本は対華21ヵ条要求の中で,膠州湾の租借権とともに,ドイツが持っていた山東半島での利権を要求して認めさせているから,事実上の勢力圏を引き継いだ形で,結果的には,中国自身とアメリカやイギリスの反発もあり,返還することになる.

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 以下のような記述があったのですが,日本が露に武器を輸出するなどは事実でしょうか?
 日露戦争で仲のよろしくない印象しかないのですが.

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第1次大戦のロシア軍で(1916年)

 とくに日本経由での補給が功を奏し,ライフルは少なくとも全兵士に行き渡るようになった.
 ブルシロフの軍は38式歩兵銃で戦うことになった.
 砲弾も入ったが,日本の迫撃砲は好評だったが野砲は規格が会わなかったらしい.
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 【回答】
 ロシアは第一次世界大戦では連合国に所属しており,日本もまた連合軍として参戦しました.
 つまり,共にドイツとは敵対する関係にあったため,山県有朋らを中心に日露の同盟を主張する勢力がありました.
 それらに応える形で,陸軍は小銃97万丁・小銃弾2億8,000万発・火砲823門などを供給しました.
 また,海軍でもロシア海軍の要請に基づいて,日露戦争の戦利艦である宗谷・相模・丹後の3隻を,修理費を含めて1,550万円で売却しています.
 ただし,これらの売却代金はロシアの公債でまかなわれており,ロシア革命により回収が出来なくなってしまいました.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2006/01/03(火)
青文字:加筆改修部分

 日露戦争後から二月革命まで,日本とロシアは満州利権を北満,南満と住み分け,英米の満州進出に対抗する為,1907年の日露秘密協定を結び,仲良くパイを分け合うほどの仲です.
 この協定は数々の追加事項を増やし,1916年までに4回,結ばれています.

 梅本弘著「雪中の奇跡」(大日本絵画)の中で,フィンランドで売られている三八式歩兵銃が紹介されていますが,それも対露輸出の名残です.
 そういえば,三八式歩兵銃用の銃弾を使用するフェデロフ自動小銃なんてのもありましたね.

軍事板,2006/01/03(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 シベリア出兵は日本にとって失敗に終わりましたが,このシベリア出兵の日本側勝利条件といいますか,日本側が目標としていた戦の終わり方とはどのようなものだったのでしょうか?

 【回答】
 まずは白衛軍の勝利です.
 次いで,白衛軍の残党が打ち立てた,極東共和国と沿海州共和国の独立維持と,駐兵権,各種利権の維持(一種の満州化).
 それが叶わなくなると,ポーツマス条約のソ連の承認による,日本側勢力圏の認定と,北部サハリン油田からの石油安定供給になっていきます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/06/18(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
90年前の絵葉書・写真うpする

 詳しい人がいたら解説頼む.

 【回答】
 no.17の碇泊中の各国軍艦は,
(1)の米国艦はニューオーリンズ級防護巡洋艦(「ニューオーリンズ」?)
(2)の英国艦はおそらくモンマス級装甲巡洋艦(「サフォーク」?),
(3)の日本艦は敷島級戦艦だが自分には識別不能,
(4)の中華民国艦は海容級防護巡洋艦,
(5)のチェコ艦は砕氷艦のようですが,ちとわからねえ.

 no.13,24の「装甲車」は,装甲列車だね.
 no.29はオースチン装甲車.後輪がダブルタイヤなので,イギリスで製造された1918年型.
 日本陸軍が数両を正規購入しているので,そのうちの1両かと.

 no.39の鹵獲飛行機は,ファルマンF40偵察機ですな.

軍事板,2011/02/26(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 シベリア出兵に際しての,日本赤十字の活動について教えられたし.

 【回答】
 1918年8月,ロシア革命により帝政ロシアは崩壊して内戦状態となっていました.
 シベリアの奥深くには,チェコ軍が取り残され,赤軍と戦争を続けながら,救援を待っています.
 この軍を救出し,兵力が不足している西部戦線に持って行って,ドイツ軍と対峙させれば,連合国が大分楽になる,と考えた日英米仏の連合国は,このチェコ軍を救出する為に,シベリアに出兵する事になりました.

 それに先立つ7月13日,陸軍省は日赤社長を呼び出して,ロシア沿海州への日赤救護班の派遣を要請します.
 これを審議した理事会は,沿海州への救護班派遣を決定し,患者300名を収容出来る病院の設立を可能とする救護班変成が作成され,大島健一陸相及び加藤友三郎海相に対し,派遣承認の申請が行われました.

 この救護班編制は,救護医長1名,救護医員6名,救護調剤員3名,救護理事1名,救護書記6名,救護看護人長6名,救護看護人61名,通訳3名,厨夫10名,雑役夫9名の合計106名と言う大規模なものでした.
 既に日赤では,7月15日に全国の各支部に対して,救護班派遣の趣旨,実施の場合の召集人員と注意事項を内示し,召集準備に取りかかっていました.
 この召集は,陸軍から前倒しで完了させる様に依頼があり,早くも7月19日に救護課長参事の田中彌太郎と用土主任主事の縫谷元治の両名を先行して,ウラジオストクに急派すると共に,22日に陸軍当局から救護班派遣認可と派遣地到着後の指揮者として,陸軍三等軍医正外垣秀重から受ける様に指令が為され,直ちに救護員召集が行われて,編制を完結させました.

 こうして早くも7月26日,救護医長1名,救護医員2名,救護調剤員1名,救護理事1名,救護員5名が先ず先発し,8月2日には後続の救護員も派遣されて,第1次派遣臨時救護班として活動を始める事になりました.

 因みに,この赤十字の上陸というのは,シベリア出兵に先立つ約10日ほど前の事であり,陸軍よりも先に救護班が来たと言うので,ウラジオストク市民を驚かせ,同時に好感を以て迎えられました.
 9月には,日本赤十字社浦潮特別委員部が新設されています.

 7月29日に到着した先発隊は,先ず日本海軍救護班が収容したチェコ軍の患者54名を引継ぎ,ウラジオストク西方4kmにあったエーゲリシエートの旧ロシア陸軍病院を利用して,日本赤十字社救護班病院を開設して診療を開始しました.
 その後,8月5日には,後発隊も到着しています.
 その前の8月2日には,ウラジオストク市より,この建物全体を借り入れ,荒れ果てた建物を修理する事にし,ドイツ人捕虜を使役してその作業を完了させました.
 因みに,この旧ロシア陸軍病院にはX線装置も置かれていましたが故障しており,これもドイツ人捕虜に修理を行わせ,後にこの装置は各国救護班の中でも唯一のものとして大活躍しています.

 8月15日になると,チェコ軍は西方に移動し,ロシア人避難民が集中する哈爾浜と海拉爾に救護班の一部を分派し,哈爾浜には9月22日に更に増派が為されました.
 しかし,派遣範囲の拡大を危惧した日赤本社では,救護班活動の地域を制限する事にとし,9月24日,日赤社長から救護班救護医長に対し,救護班はウラジオストクを根拠地とする事,沿海州と哈爾浜以東の地域にのみ行動範囲を限定する事,根拠地を離れる場合は給養の準備や材料補給について官憲の確実な保障を受ける事,また,範囲外での救護実施に関しては社長の指示を仰ぐ事,哈爾浜以西に配備した救護員は当面の任務を終えた後,哈爾浜以東に撤退する事を通達すると共に,この通達を陸軍大臣にも伝えました.

 これを受けて,救護班医長は哈爾浜派遣救護員に引揚げを命じますが,チェコ軍患者の治療を引き続き行う必要もある為,11月12日に,セミョーノフ軍所属の日本人義勇兵患者を日本赤十字社奉天病院に引き渡し,チェコ軍患者は11月25日に哈爾浜を撤退し,27日に日赤救護班病院に収容されました.
 一方,海拉爾に派遣された救護員は,8月27日に現地に到着すると,現地のロシア鉄道病院の一部を借り受けて救護所を開設し,セミョーノフ軍所属の日本人義勇兵患者27名を収容しましたが,即日引揚げ命令が下され,哈爾浜まで引揚げる事になります.
 9月4日,大部分の救護員はウラジオストクへの帰還が命じられましたが,一部の救護員は再度海拉爾での救護活動が命じられ,9月13日,日本人義勇兵患者12名を収容しました.
 此の内,1名の銃創患者以外は全て伝染病患者であり,11月13日までに全員が治癒して退院した為,再度救護所は閉鎖され,16日に救護員はウラジオストクに引揚げました.

 因みに,ウラジオストクでは8月7日にロシア人が来診に訪れたのを皮切りに,日本人,外国人を問わず外来患者が殺到します.
 しかし,救護員が分派された事から8月20日で外来診療を中止しました.
 その後,救護活動の立ち上げの完了と,運用の安定,また診療内容の整理などが行われると,余裕が出て来て,9月1日から外来診療は再開され,1921年10月の病院閉鎖までに,シベリア在住の各国住民の診察に当りました.
 その信頼は篤く,患者は毎月1,500名を数えると共に,最盛期には2,000〜4,000名の診療に当る事もあったと言います.

 9月になると,日赤は当局の意見もあり,更に看護婦組織の救護班を2個増派することになります.
 その編制は救護医員1名,救護看護婦長2名,救護看護婦20名よりなり,「第1看護婦組織臨時救護班」として9月27日に出発,更に10月25日には同じ編制の「第2看護婦組織臨時救護班」として出発させています.
 彼女たちは敦賀から荒波の日本海を越え,ウラジオストクに入ると,慣れない酷寒の地で,言葉の通じない患者を相手に不眠不休で看護に当りましたが,当初は意思疎通が大変だったものの,後に意思疎通が上手くいく様になると,病室の色々な労務を厭がることなく而も快活に従事する姿に大きな賞賛の声を贈ったと言います.

 ところで,ウラジオストクの日赤救護班病院に収容される患者の多くは,シベリア奥地から運行時間が定かでない鉄道の長旅を強いられており,患者への大きな影響が懸念される事態になっていました.
 また,看護人も患者を運送すると,その往復に多大の日時を費やし,病院業務にも支障を来す可能性が出て来ました.
 こうした対策として,設備の整った病院列車を運行する必要性が増してきましたが,日本陸軍はこうした病院列車を保有していませんでした.

 そんな中,偶々哈爾浜を視察中の志賀救護医長等が,ロシアの東支鉄道長官であるホルワットが保管するロシア赤十字社編成の第2哈爾浜病院列車を見つけ,浦潮派遣軍司令官である大谷喜久蔵に申請して,野戦交通部の斡旋を受けてそれを借り受け,患者輸送任務を幇助する事を計画しました.
 その結果,1918年10月9日,ホルワット長官は列車を浦潮派遣軍司令部に提供することに同意した為,早速派遣軍司令部は連合国交通委員会議に対して,当該列車を日本赤十字社救護班に受領保管させ,連合軍傷病者の輸送に当らせることを提案して,了解を得ることが出来ました.
 また,元の持ち主であるロシア赤十字社哈爾浜支部主事と石川千尋日赤救護理事との間に,協約が交わされて,この病院列車と付属物の授受が終了することになります.

 日赤救護班はこうした経緯で病院列車を手に入れましたが,機関車は保有していませんでした.
 また,運行中の赤軍パルチザンによる襲撃も懸念して,軍用列車に連結して運行することとし,10月23日より救護医員,救護調剤員,救護書記,救護看護人,救護看護婦,通訳,厨夫,給仕など27名が病院列車に乗り込みました.
 ウラジオストクとシベリア各地を結んだ病院列車は,1919年11月11日までに都合14回運行されましたが,その後は,浦潮派遣軍軍医部長の意見に基づき,第1陸軍病院に移管され,そちらで運行される事になりました.
 なお,これとは別に,哈爾浜の第6陸軍病院の患者を第1陸軍病院に輸送する為,1919年3月17日から10月10日までの間に6回,陸軍衛生部員と共に第3看護婦組織臨時救護班と第2次派遣臨時救護班の中から,救護医員2名,救護看護婦長5名,救護看護婦43名(何れも延べ人数)等が合わせて616名の患者輸送に携わっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/06 23:03

 さて,シベリアでの赤十字の救護は,1922年7月28日に全軍撤去の報を受けて8月23日より引揚げを開始し,10月21日の宇品上陸にて終わりましたが,1920年にはニコラエフスク事件が発生してサガレン州の要地を保障する事になり,北樺太に赤十字の救護班が派遣され,1925年まで活動しています.

 シベリアでの活動は,その活動内容をチェコ軍団長に絶賛され,1922年1月24日には,独立後間もないチェコスロヴァキア共和国政府から,同国患者救護に関係した本社職員と救護員中の若干名に対し勲章が授与されています.

 もう1つ,シベリアでの日赤の活動で忘れてはならないのは,ポーランド孤児の救済活動です.
 ポーランド人は,1795年の第3次分割で国が消滅し,ロシア,プロシア,オーストリア3カ国の軛の下に於かれました.
 ロシア占領地に残されたポーランド人は,ことある毎にロシアに反逆し,少なからぬ政治犯が,シベリアに流刑されていった事から,シベリアには多くのポーランド人が生活していました.
 しかし,ロシア革命後の内戦状態によって住む家を追われ,避難民と化した人々が,寒冷と飢餓,伝染病の流行と交通機関の不足などの状態の中で,独立を取り戻した母国に帰ることもままならず,多くの死者を出しながら取り残されていました.

 そこで,少なくとも次世代のポーランドを担う子供たちだけでも救出し,母国に帰還させようと,ウラジオストク在住のポーランド人達が1919年10月,「波蘭国避難民児童救護会」と言う組織を設立しましたが,ルーブルの暴落による手持ち資金の逼迫と,期待していた米国からの援助が拒否されるなど,活動が困窮を告げることになり,思い余って日本政府に救出を願い出ようとします.

 1920年6月,児童救護会会長のアンナ・ビェルキェヴィチ夫人が,ウラジオストク駐在ポーランド領事と極東ポーランド赤十字社代表の紹介状を持ち,外務省を訪れ,
「児童ヲ愛シ,可憐ナル花ノ如ク児童ヲ撫育スル美シキ国タル日本国ガ,大戦ノタメ斯ク不慮ノ災ヲ受クルニ至リタル吾ガ孤児院ノ罪ナキ児童等ニ対シ,其ノ援助ト救護ヲ与ヘラルベキコトヲ信ジテ疑ハザルモノナリ」
と嘆願しました.

 外務省としては,人道問題であり,2国間関係の重要性を鑑みて,出来るだけ応諾すると言う考えを持っていたのですが,費用面から引き受けることが出来ず,陸軍省と協議の上,白羽の矢を立てたのが赤十字でした.
 6月20日,夫人の嘆願に応じて,外務次官から要請を受けた日本赤十字社は直ちにポーランド孤児の救済事業が開始することになります.

 第1次救済事業は,ウラジオストクに集合していたポーランド孤児を5回に渡って受け入れました.

 1回目は,1920年7月20日に56名の児童と付添人5名が陸軍交通船の筑前丸に便乗し,22日に敦賀に上陸,23日の朝に東京に到着し,渋谷にあった孤児育養を事業とする慈善団体である福田会の孤児舎寮3棟に収容されました.
 この施設には娯楽室,食堂,病室,運動場,庭園なども完備している上,日赤本社病院に隣接していたので,衛生上の措置に利便性があったことから選ばれたものです.
 敦賀上陸と汽車輸送には,日赤の他,敦賀町役場,警察署,陸軍運輸部出張所,敦賀税関支所などが連携して作業し,沿線各地でも様々な人々や団体の慰問や金品の寄贈がありました.
 こうした児童に対する直接的な監督保護は,ビェルキェヴィチ夫人と付添人が当りましたが,日赤本社からも庶務課長,後に救護課長を中心とする事務主幹,通訳,書記などを配し,児童の風紀,衛生,日常生活による意思疎通に万全を期し,慰問の金品や訪問者の取扱も担当していますし,勿論,日赤病院の医員や看護婦が施設を巡視し,健康診断を行って,彼らの健康状態維持に万全の体制を取っていました.

 2回目は9月17日に児童112名と付添人11名,
3回目は10月21日に児童73名と付添人5名,
4回目が1921年3月1日に児童126名と付添人11名,
第5回が7月6日に児童8名と付添人1名が収容され,児童の数は男子205名,女子170名の総数375名,付添人は男15名,女18名の33名であり,年齢は2歳から16歳に渡っています.
 なお,この間伝染病には十分注意していましたが,3回目の児童の中から腸チフスが発生し,22名に感染しました.
 幸い,彼らには死者は出ませんでしたが,看護婦1名が感染し,帰らぬ人となりました.

 この間,日赤は広く民間から浄財を募ることになりました.
 この為,13,000枚のポスターを製作し,日赤関係者や新聞社に配布しています.
 この結果もあって,1年間に寄付金総額10,848円,物品は197件(評価額5,884円)に達し,全て児童救護会に引き渡されました.
 また,毛利公爵家は,孤児達を自邸の庭園に招待しましたし,慶應義塾は音楽会,その他日光見物など様々な慰安会も実施して,疲弊しきっていた孤児達の心身を回復するのに大いに貢献しました.
 更に,皇室も関心を寄せ,中でも貞明皇后は児童達の境遇を深く憐れみ,皇后宮大夫や皇后官職主事を度々施設に差し向けたり,4回に渡り,1,550円に達する御菓子料を下賜したりしています.
 1921年4月6日には日赤本社病院に行啓され,4歳の子供の頭を何度も撫でて,
「大事ニシテ健ヤカニ生ヒ立ツヤウニ」
と声を掛けられ,ビェルキェヴィチ夫人にも労いの言葉を掛けられました.
 この模様はポーランド本国にも伝わったほか,皇后の「慈愛の手」と題して描写され,流布することになります.

 第1次救済事業は,在米ポーランド人の救助団体の援護を経て,横浜から米国に向けて8回に渡って出国していきました.

 因みに,ビェルキェヴィチ夫人はこう話しています.

――――――
 米国は経に正義人道の独占権を有するが如く自認し,これを高唱すと雖もその実情や果たして如何,過日浦塩に於いて米国赤十字社代表者に対し,吾が孤児救済の件に付き便宜の供与を懇請したるに,彼らはその標榜する正義人道を度外視して拒絶せり.
 依って我らは日本赤十字社代表にこれを嘆願せしに,多大の同情を示して応諾せられたり.
 これが為に,米国代表者は又急遽その方針を変更して,前提議に対して承諾を与えるに至れり.
 かくして,孤児等は前後数回に渡って救済移送するを得たるも,日米両国の孤児待遇は非常に懸隔有る.
 米国の如きは,何処に於て正義人道を認め得べき.
 これに反し,日本の接遇の至善にして甚だ親なる実に感謝に堪えざるなり.
――――――

 さて,1922年,再び児童救護会会長ビェルキェヴィチ夫人が,日本赤十字社に対してポーランド孤児の救済を求めてきました.
 3月22日付の嘆願書に依れば,孤児2,000名が,なおシベリアに取り残されているが,他国人に一切の給養を認めないと言うソ連政府の方針の為,ポーランド本国への汽車輸送が飢餓と疾病による多数の孤児の斃死と言う事態を招き,今後は汽船輸送に頼らざるを得ないこと,また,米国系ポーランド人の救助団体が解散してしまい,米国経由の本国送還も出来ず,児童救護会は全く無援の地位にあり,日本以外に頼れるものが無く,日本赤十字社に本国までの汽船輸送の「高義任侠」をお願いしたいと言うものでした.
 日本赤十字が直ちに調査したところ,予想以上の惨状を確認し,人道上黙視するのに忍びず,かと言って,全員の救済には費用が掛かりすぎ,孤児400名,付き添い40名に絞って,ウラジオストクから一旦大阪に収容して神戸からダンチヒに輸送救済することとして,陸海軍大臣の認可を得て,7月21日に内田外務大臣に通報しました.

 こうして,第2次輸送が開始されました.

 孤児達は8月7日から29日にかけ,3回に渡って来日しました.
 1回目は8月5日にウラジオストクを出発し,7日に敦賀上陸,8日朝に大阪に到着し,天王寺の大阪府立公民病院看護婦宿舎に収容されました.
 この建物は未使用の新築2階建の洋館で眺望も良く,広い庭園や遊技場を備えた場所でした.
 こうして,1歳から15歳までの児童389名,付添人は39名が来日しましたが,第1次同様の救護や国民の同情,皇后陛下の恩眷を受けて児童の心身も回復しました.
 そして,8月25日に香取丸,9月6日に熱田丸に乗船して,10月にロンドンに到着し,船を乗り換えて11月初旬にダンチヒに到着し,輸送任務は完了しています.

 こうした動きに対して,ポーランドでは官民を挙げて大いなる感謝の念を以て迎えられました.
 1922年12月3日付でポーランド大統領は大正天皇に親書を送り,謝意を表わしています.
 また,ポーランド衛生長官も日本公使に対し,感謝状を贈呈しました.

 なお,在米ポーランド人救助団体の副会長は,「我らは日本の恩を忘れない」と題して次の様に書き残しています.

――――――
 憐れむべき不運なる児童に対する日本人の態度は筆紙に尽されない.
 日本赤十字社は衣食と寝所を与え,優しき保護にて此等の児童を取り囲んだ.
 恰も母が自分の子供を愛護する様に,此等の児童を擁護愛撫し,幾多の慈善団体は限りなき奉仕と金品を送ることに吝かではなかった.
 日本人は我らとは全く縁故の遠い異人種である.
 日本は吾がポーランドとは全く異なりたる,地球の反面に存する邦である.
 何れも此等児童がシベリアに於いて受けた,耐え難き苦痛を一刻も早く忘れる様に,色々と務めてくれた.
 斯くの如く我等の児童は,同情の空気と優しき愛護の下に,美味しき食物を与えられ殆ど生まれ変わった様な心持ちと身体とになったことは,誰も認める所である.
 均しく日本人の此等の美しき崇高なる行為に対する我等の謝恩心は,我等の脳底に深く印象せられるのである.
 ポーランド国民も又高尚なる人種である.
 故に我等は何時までも恩を忘れない国民であると言う事を,日本人に告げてみたい.
 日本人が日本に於いてポーランド児童の為に尽してくれたことは,ポーランド国及び米国の何処にいても既に知れ渡っていると言う事を告げてみたい.
 最後に日本人に言ってみたい.
 記憶せよ,我等は何時までも日本の恩を忘れない.
 而して我等のこの最も大なる喜悦の心の言葉でなく行為を以て,何れの日か日本に酬いることあるべしと.
――――――

 因みに,最後のこの言葉ですが,それから約10数年後に実を結ぶことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/09 23:04


 【質問】
 対華21ヵ条条約について
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6515/Taisyou-naikaku/17-Ohkuma-vol2.htm

「そして中国におけるドイツの権益が日本によって一掃された後,有名な「二十一カ条要求」が中国政府に対して発せられる.
 中国は全五号二十一カ条からなるこの提案を強硬に拒否,妥協と譲歩が繰り返される間に,この動きに気づいたのはアメリカである.
 アメリカは日本が火事場泥棒をしているように受け取って態度を硬化し,イギリスも日本を猜疑の目で見るようになった.
 それに慌てた外務省は要求妥結の方向に動き始め,結局ほとんど骨抜きになった形で締結された.日本にとって利の薄い外交で,しかも英米は日本を危険視するようになり,中国はこの日を国恥記念日とした.百害あって一利もなかったのである」

 後の災いの元になったのは分かるんですが,最初から骨抜きの形で締結されたというのは本当ですか?

 【回答】
 5号が留保されただけで,骨抜きとはやや異なるかと.

◇      ◇      ◇

 '15年1月,加藤高明外相は,日置益駐華公使を通じて袁世凱大総統に直接この要求書を手渡し,秘密保持と一括交渉を要求した.
 イギリスやアメリカの干渉に期待した袁は,内容をアメリカ駐華公使に漏らし,また,中国の新聞にも報道された.
 日本政府はイギリス,アメリカ,フランス,ロシア各国に要求内容を内示したが,第五号については曖昧な表現にとどめた.
 中国政府は,国際社会に対して殊更にこの第五号を強調し,日本は中国を属国にしようとしていると宣伝した.
 しかしヨーロッパ戦況の重大化で,イギリス・フランス・ロシア諸国は干渉の余裕がなく,アメリカだけは日本政府に抗議したが,極めて妥協的なものに過ぎなかった.
 中国民衆は,この日本の要求に対し,日貨排斥・救国院金などの形で抗議運動を展開.

 中国との交渉は,2月2日より二十数回に及んだが進展はみられず,日本は満州,山東,漢口の各駐屯軍を増強し中国を追詰めた.
 一方,国際的な非難と列強の干渉を期待していた中国は,アメリカ等の一部を除いて支持を得られず,逆に欧州戦局に忙殺されていたイギリス,フランス,ロシアの公使からは,
「この時点では日本との武力抗争を避けるのが賢明である」
との忠告をされた.
 日本政府はイギリスの意見も取り入れ,アメリカを牽制し,第五号を削除(留保)して最後通牒を出すことになった.
 5号についても将来を見据えて,いったん保留にしたもの.

 5月7日,日置公使は陸徴祥外交総長を訪ね,9日午後6時を期限とする最後通牒を手渡した.
 中国政府はこれを受諾せざるを得ず25日,正式な条約,交換公文とが調印された.

 具体的には:
 第1号は中国山東省の旧ドイツ利権の継承に鉄道新線要求など4ヵ条
 第2号は旅順・大連の租借期限,満鉄安奉線の租借期限の99ヵ年延長と満蒙における日本人商租権など7ヵ条
 第3号は漢冶萍煤鉄公司の日中合弁要求
 第4号は中国沿岸港湾および島嶼の不割譲(以上の1〜4が絶対必要条項とした)
 第5号は中国政府の政治・財政・軍事顧問に日本人を招くこと,日中兵器の統一等7ヵ条で,中国主権侵害の政治的要求であり,これを希望条件であるとした.

これに対する中国国民の怒りは大きなもので,5月9日を国恥記念日として激しい抗議運動を展開,各地で大規模な排日運動が起こり,袁世凱も民衆の支持を失っている.
 アメリカも,中国の条約上の諸権利と門戸開放主義に反する場合はこれを認めないとの〈不承認主義〉を通告してきた.
 21ヵ条要求の結果は,中国の民族運動(五・四運動)およびアメリカの利害との対立をいっそう深めたばかりか,1921・22年のワシントン会議により,21ヵ条要求の内,満蒙利権を除く,殆どの要求は無効におわった.

日本史板,2003/10/30
青文字:加筆改修部分
なお,元のレスは,どこかから転載された文章であるようにも思われるが,
google検索では確認できず.
そのため,著作権が発生しないと考えられる範囲で,元レスから抜粋した.



 【珍説】
 大総統の袁世凱は日本政府に対して,
「国内で理解が得られないから最後通牒を出してくれ」
と要請したらしい.
 最初から日本政府は手玉に取られていた模様.

 ソース:『シナ大陸の真相』カール・K・カワカミ
 【事実】
 1937年にロンドンで出版された.欧米における,日本の中国侵攻の正当化の宣伝本ですね.日本は共産主義者の陰謀と戦うために戦争しているという,おなじみの論調です.
 割り引いて読んだ方が良いのではないかと思われます.
http://www.jiyuu-shikan.org/store/book/shohyou/shohyou0109.html

 袁世凱は20数回の交渉で受託を拒否しつづけ,頼みとした欧米が,今は日本と戦わないほうがよい,との助言でやむをえなく受託したものです.
 最後通牒形式を袁世凱から望んだと言う公式記録は,ちょっと知りませんが,どっちにせよ,21ヶ条要求を袁世凱が受託するメリットは何もありません.
 あるとしたら,最後通牒だから,戦争できないから仕方なく受託したとの国民むけ言い訳ぐらいです.しかし,結果は,国民の信頼を著しく低下させています.
 なぜ,それが日本が手玉に取られていたことになるのか理解できません.

日本史板,2003/10/31
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本統治下の南洋群島について,統治内容等を知りたいのですが,ご存知の方がいらっしゃいましたらご教授ください.

 【回答】
 南洋群島は,Versailles条約で日本の国際連盟C式委任統治区域となりました.
 これは,土着人民の利益の為に一定の保証を与えることが要件となりますが,受任国領土の構成部分として,その国法の下に施政を行なうものです.
 但し,地域の詳細情報,施政諸般の措置は国際連盟理事会に報告する義務があります(これは,日本の連盟脱退後も継続されています.)

 1922年の勅令第107号南洋庁官制により,パラオ諸島コロール島に南洋庁を設置,南洋庁長官は,一般行政は拓務大臣の指揮監督を受け,他に一部の行政に関しては逓信,大蔵,商工の各大臣の監督を受けます.
 1942年,拓務省廃止の後は,大東亜省所管となります.

 南洋庁の組織としては,最初は課制でしたが,後に内務部,経済部,交通部,そして各島に支庁を設置,大きな島には法院を置いています.
 支庁は警察を兼ね,法院の無い島であれば,民事裁判を行うほか,軽微な刑事事件も即決裁判を開催します.
 法院は1922年の勅令第133号南洋群島裁判令によって設置され,高等法院,地方法院の二審制となっています.

 教育は内地人については,内地と同様とし,島民に対しては,初等教育機関として本科三年,補習科二年の公学校を設置します.
 授業の半分は日本語の習得に充てられましたが,五年でも平仮名が書ける程度でした.

 自治体は1931年に,南洋庁令第七号南洋群島部落規定により,部落と言う自治体が置かれ,総代を長官が任命し,総代の諮問機関として,協議会を置きます.
 協議会員は,独立の生計を営む25歳以上の男子からの完全普通公選制です(但し,選挙民は内地人のみ).
 島民に対しては,1922年の南洋庁令第三四号南洋群島島民村吏規程により,島民を村吏に任命,カナカ族は総村長,村長,チャロモ族は区長,助役を設置しています.

 1938年には勅令第224号南洋群島地方費令が公布,南洋群島は一つの自治体となりますが,諮問機関,議決権は設けられていません.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 日本陸海軍による第1次大戦の調査からは,どのような国防政策上の提言が出されたのか?

 【回答】
 黒野耐によれば,各種の意見はそれぞれの部署に報告されたが,中でも
「全国動員計画必要の議」(大正6年9月),
「帝国国防資源」(同年8月)
「我国軍備と支那との関係」(同年5月)
が注目されるという.

 「全国――」は,大規模な国防計画と全国動員計画の立案を提言しているが,短期決戦思想と総力戦思想を対等の位置,もしくは平時の準備としては総力戦に力点を置いていたという.

 「帝国国防資源」は,主に経済・工業動員を提言し,経済工業能力を充実することに提言の力点が置かれており,戦時自足経済を経営できる計画を立案し,原料の不足を中国の資源で補い,このため大陸との交通連絡を確保することを提言していたという.
 この思想も,国防方針_総力戦思想を導入する点で,大きな影響を与えていたという.

 「我国軍備――」は,日支自給自足体制を確立して,長期戦,総力戦を戦おうという思想であり,国家総動員体制を基礎とする戦備の必要性を指摘していたという.

 これらに見られる日支自給自足体制の確立という,陸海軍共通の目標の出現は,陸海軍戦略を構築する上での共通基盤をもたらし,軍の描く国家戦略の対象地域が,東亜全体に拡大することになったという.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.60-64
を参照されたし.


 【質問】
 大正7年国防方針とは?

 【回答】
 約1年間の改定作業中断期間を経て,大正7(1918)年6月29日に天皇によって裁可された新国防方針.
 成案は残されていないが,黒野耐によれば,極東に日本と欧米列強の利害が錯綜していた情況から大戦終了後を想定して,想定敵国をこれまでの単一国から,米露中3ヶ国とするものに改めたという.
 また,それらとの戦争を基準として,開戦初頭に決戦を追求する短期戦の思想と,長期間の総力戦を戦い抜く思想が並存していたという.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.67-72
を参照されたし.


 【質問】
 大正7年国防方針の問題点は?

 【回答】
 黒野耐によれば,総力戦体制構築を巡り,陸軍内に思想的・政策的対立を生じさせたことだったという.

 そしてもう一つの問題は,資源が少なく,工業生産能力が欧米列強に比較して劣るという根本的な脆弱性が浮き彫りになったことだという.
 この弱点を補うため,日本は日支自給自足体制の確立を政略上の目標とし,国家戦略の対象を,中国本土を含む東亜全域に拡大することとなった結果,「対華21ヶ条要求」にがそうだったように,欧米列強を全て敵としかねない国際的孤立の中に陥っていくことになったという.
 このときの選択としては,英仏がアメリカの支援によって長期間の総力戦を戦いぬいたように,日本も英米両国との提携により,新たな戦争に対応する道もあったにも関わらず.

 詳しくは『日本を滅ぼした国防方針』(黒野耐著,文春新書,2002.5.20),p.76-77
を参照されたし.


 【質問】
 なぜ第1次大戦が,日本において理研を創設する契機となったのか?

 【回答】
 日本の産業構造が脆弱であることを思い知らされ,また第1次大戦が科学戦となった結果,日本でも科学力の増進が意識されたため.

 以下引用.

この大戦勃発こそが,高峰,桜井らの宿願を果たす決め手となるのだから,世の中は分からない.

 生活,産業の必需品である医薬品や工業原料のヨーロッパからの輸入が,極めてシビアに制限されてしまったのである.
 とくに,当時世界最強の工業国だったドイツからは全く途絶した.
 この衝撃は大きく,今となって日本の産業構造がいかに脆弱であるかを思い知らされたのだ.

 それに大戦は,毒ガスや潜水艦,航空機などの新種兵器を続々と出現させ,今後の戦争が軍事力のみならず,産業,経済,技術を一丸とした総力戦であることも知らしめたのである.

 この年10月,この状況を憂えた高松豊吉を会長とする工業化学会は,政府に「化学工業の発達奨励に関する意見書」を提出し,農商務省もこれに応えて,高松,桜井〔錠二〕,池田〔菊苗〕らをメンバーに含めた「化学工業調査会」を設置した.
 その第1回の会合で早くも,従前の高峰譲吉案とは別個に「化学研究所」の設立案が持ち上がり,直ちに農商務大臣に建議したのである.
 こえて4年3月,第2会の調査会会合では,「化学研究所」だけではカテゴリーが小さ過ぎるから,物理も加えて「理化学研究所」とすべきだという意見が,調査会委員の中から出てきた.

宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.43-44

 ところが大戦が終わってみたら,日本の脆弱な産業界でもそこから一儲けできた国内外の新規急造マーケットは,たちまち巻き返してきた欧米からの優秀な製品によって駆逐され,裏返しの不景気が襲ってきた.
 寄付金はつきあい程度に終わって,寄付申し込みをしながら未払いの者も残したまま,財界の財布は堅く閉じられた.
 一方で,インフレの昂進もある.

宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.51

 その後,なんとか理研は発足するが,「理研ビタミン」発売によって一財産をこしらえるまでは,予算に苦しむこととなったという.

 ひるがえって第2次大戦後の文部省予算の推移は,……見なかったことにしよう.


 【質問】
 第1次世界大戦時の日本赤十字の活動について教えられたし.

 【回答】
 日露戦争を経て,次に日本が戦争をしたのは第一次世界大戦で,1914年8月23日,ドイツに宣戦布告をしてからのことです.
 とは言え,日本赤十字社は,それ以前から病院船の準備を計画し,陸軍省からも内々に計画の必要性を伝えられていました.
 しかし,博愛丸と弘済丸の徴用は機密事項であり,日赤は郵船との交渉も出来ず,計画に止めていました.

 それでも,宣戦布告前の8月18日,陸軍大臣岡一之助より,9月上旬までに2隻の病院船を使用に供する様命令があり,日赤は直ちに日本郵船と交渉し,郵船から引揚げて所用の改装を施し,博愛丸は9月5日,弘済丸は9月12日に宇品に入り,陸軍の指揮下に入ると共に,「ジュネーヴ条約ノ原則ヲ海戦ニ応用スル条約」に基づいて,白色に塗装され,幅1mの赤線を描き,これをドイツ政府に病院船として通告して,病院船としての条約上の要件を満たす事になります.

 病院船に乗船した救護員は総計102名,内60名が看護婦でした.
 博愛丸と弘済丸は共に8回の航海を行い,1914年12月21日の弘済丸の航海により,任務を完了しました.
 両船は,中国の龍口,労山湾,沙子口にて患者を収容し,門司,下関,宇品,呉に患者を後送しました.
 患者総数は2,084名でしたが,戦傷者でも重傷者は少なく,寧ろ平病者数が戦傷者数を上回っていたほどでした.
 重傷者が少ないため,治療は比較的容易でしたが,季節的に船が大きく揺れた航海が多く,救護員も含め船酔いをする者が続出しています.

 因みに,この時の平病者の多くは脚気であり,病院船内の死亡者2名も脚気によるものでした.
 後送患者の殆どは日本兵でしたが,ドイツ人捕虜も31名含まれていました.
 捕虜の取扱については,日赤社長を務めていた花房義質が病院船配属の救護員に対し,特に注意する様訓示の中で強調し,例えば,食事でも日本人は和食中心だったのに,捕虜には洋食が供されていたりします.

 1914年10月20日には,海軍大臣八代六郎が,日赤に対し,主に看護婦で構成される救護班1個班を佐世保海軍病院に派遣する様命じ,更に1個班を追加する命令を下しています.
 これに対し,日赤は長崎支部の第17班と広島支部の第70班の総計52名を佐世保海軍病院に派遣しました.
 この病院での業務は,1914年10月28日から1915年1月20日までで,延べ11,553名を治療看護しました.
 外科患者と言っても戦傷者は9名と少なく,赤痢,腸チフス,パラチフスと言った伝染病患者が他に75名いました.
 伝染病患者も,赤痢患者は重症者が多かったのですが,チフスについては軽症でした.

 佐世保に於ける患者のほぼ全員は日本人だったのですが,英国軍艦Triumphの乗組員2名が収容されています.
 英国人乗組員には,特別に看護婦長と看護婦1名を専属に手当てし,看護に当らせました.
 当初は,言葉の壁があって中々看護が出来なかったのですが,段々とコミュニケーションが取れる様になり,満足な看護が出来る様になったそうです.

 戦場にも日赤の救護班が派遣されました.
 青島要塞戦での患者救護だったのですが,戦闘自体は極めて短期間で終了しています.
 特筆すべきは,今まで戦場での患者救護は看護人,つまり,男性の仕事でしたが,今回は看護婦が派遣された点です.
 1914年10月12日に,陸軍次官津野一輔より,青島開城時に於ける捕虜患者収容のために救護班の派遣を要請する内示があり,11月10日に陸相より救護班2個班を青島に派遣する命令が下りました.
 これに対し,日赤は福岡支部と佐賀支部から救護班が編成され,11月22日に現地に到着しました.

 派遣救護班は当初徳華高等学校病院に,その後元ドイツ総督府病院であった青島守備軍病院に派遣される事になりました.
 徳華高等学校病院の患者数は,外科患者111名,内科患者73名,内伝染病患者53名でしたが,外科患者の傷は化膿し,繃帯,衣服,寝具が汚染されている状態で,酸鼻に堪えざる状態でしたし,内科患者の内,赤痢患者は重症ではなかったが慢性化しており,腸チフスは1名を除いて回復期にありました.
 ただ,衛生状態は悪く,排泄物は病室や廊下に放置され,ベッドや衣服は垢と膿にまみれており,清掃用の水も水道が破壊されていたため,井戸から汲む必要がありました.
 とは言え,流石にドイツの病院であり,設備は完璧で,大手術も戦闘中に行えるほどであったと言います.

 その後,青島守備軍病院が整備されるに従って,徳華高等学校病院の患者は随時こちらに収容する事になり,青島の世情も落着いていきます.

 先述の様に,この救護班には初めて看護婦の派遣が為されたものです.
 日赤内部では,当初この派遣をするに当り,日本国内の病院勤務と比べて看護婦が,精神的並びに肉体的困難に耐えられるかと言う懸念があり,特に外国人患者に対する場合へのプレッシャーが予想されていました.
 ところが,この予想は全く杞憂に過ぎず,捕虜は欧州での婦人への礼儀を尽すのと同じ様に看護婦に対応し,看護婦以外の職員の命令にも服しました.

 因みに,この年のクリスマスは,青島守備軍病院でドイツ人捕虜達により盛大に祝われました.
 この時,日赤からもプレゼントが配られましたが,当初,ドイツ人捕虜は日本の厳格な軍紀に従うべきであり,
「彼らにこんなお祭り騒ぎをさせる必要は毛頭無い」
と言う空気もありましたが,人情から国のために戦って負傷したものを厚遇すべきであり,赤十字の博愛主義からも軍紀の範囲内でクリスマスの式典を行い,慰労すべきであると言う意見の方が通ったそうです.

 青島派遣救護班の活動は1914年11月23日から1915年1月22日までであり,派遣された救護員の総数は67名(うち,看護婦は40名)で,取扱患者総数は延べ5,339名であり,その内捕虜患者は延べ106名でした.

 日赤は,青島への患者派遣を一応成功と見ていました.
 しかし,別の報告では,最初は外国人を看護する際に恐れ戦いていたのが,慣れるに従って,親しみを込める様な感情を持つに至るのは,看護婦の面目を傷つけるとか,日本婦人の評価を下落させるとか色々書いていたりもします.

 当時はこんな事を書いているのですが,今の世の中を見たら,この報告を書いた人は卒倒するに違い有りませんが.

 こうして,第一次世界大戦に於ける日本周辺での活動は幕を閉じたのですが,世界大戦は,これから益々炎を噴上げる事になり,その炎はやがて日赤も巻き込む事になるのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/04 23:08

 さて,昨日は青島への派遣を取り上げたのですが,大正時代,宇宙よりも遠かった場所の話.

 欧州は日本から誠に遠い場所でした.
 そこに派遣されたのが,日赤の救護班です.
 これは,政府の閣議決定を受け,1914年9月11日に日赤常議会が派遣を決定しました.
 救護班は主に看護婦よりなっていましたが,先進国である欧州に派遣する事から,人選には細心の注意が払われ,外国語の知識,技倆,心身の健康面で秀でた順に選考されました.

 先ず派遣されたのは,隣国のロシアです.
 救護班は総勢20名,その内13名が看護婦でした.
 救護班は1914年10月23日に東京を出発し,シベリア鉄道でペトログラードに11月16日に到着し,同地の「上流紳士」倶楽部を改装した上で,「日本赤十字社救護班病院」を開設します.

 12月20日から患者を収容し始め,23日には患者が定員の100名に達しました.
 この時の患者は,銃創48名,砲創43名,白兵創1名,打撲4名,凍傷・火傷・捻挫・轢傷各1名で,階級は准士官と下士卒でした.

 その後,ペトログラードの病院は伯爵夫人クライミツヘルの申し出で,1915年6月に同市の近くの避暑地エラーギンにある同夫人の別荘に移転し,夏期の間はこちらで患者の面倒を見る事になりました.
 10月には再びペトログラードに戻りましたが,戦局はロシアに不利で,患者数が増加したため,200床増加して,合計300床となり,日赤はそれに対応するため,7名の看護婦を増派しました.
 しかし,皮肉にも医療体制が整備されてきた事から,日赤の収容人員は50余名まで落込み,閑散状態が継続する事になります.
 1916年3月末に一旦215名に回復しますが,その後も患者数が減り続けました.

 この為,派遣期間は2度延長されたものの,遂に日赤は撤退を判断し,1916年4月25日にペトログラードを出発し,5月15日付で救護班は正式に解散しました.
 ペトログラードでは,1914年12月19日から1916年4月8日まで活動し,治療患者総数496名,収容患者延べ人数43,531に達しています.
 重症者は銃創と砲創の順で,死亡者は6名でした.

 フランスへは,救護員29名が派遣され,その内看護婦が22名でした.
 看護婦22名の内,約3分の1は,北清事変と日露戦争に於ける救護の経験者であり,外国人の看護にもある程度慣れた人たちであることが伺えます.
 救護班は,1914年12月16日に東京を出発し,スエズ運河経由で1915年2月4日にマルセイユに到着しました.
 その翌日にはパリに入り,パリ到着3日後の2月7日にはフランス陸軍省の下に置かれた「オテル・アストリア」に「日本赤十字社病院」が開院しました.

 当時は,1915年3月〜5月にかけてのアラスからダンケルクにかけての戦い,9月のシャンパーニュ会戦,1916年4月から6月に渡るヴェルダンの戦いで入退院者が続出し,病院は多忙でした.
 こうした塹壕戦により,負傷者が続出しましたが,彼らは野戦病院で長く過ごし,治療の手が尽きた状態で,やっと後方の病院に後送される有様で,その全てが酷い化膿を起していたと言います.

 東洋の果てから来たこの赤十字の救護班ですが,その評価は欧州の中でも頗る高く,傷病兵達は何とか日赤病院に入院できるように種々画策したと言います.
 また,ル・フィガロでも,多分に外交辞令が混じっているとは言え,その看護婦の働きを賞賛しています.

 しかし,言葉の不自由さは看護婦に非常な負担を強いており,看護婦22名の内,3名は健康が勝れず,その内2名はリウマチ性関節炎と脛骨性骨膜炎を患って,短期的な治療は難しい状態でした.
 また,現地の貴婦人が行う篤志看護婦との関係も,当初は篤志看護婦が注射など実質的な看護活動を行っていたのですが,場合によっては,篤志看護婦が日赤の看護婦を使役しかねない状態に陥る可能性もある事から,その活動を止める様に説得し,食事の運搬などの作業に従事して貰う事に腐心しています.

 このフランス派遣救護班は,当初5ヶ月間の活動予定でしたが,フランス政府の強い要請で,滞在が1915年6月,そして12月と2度延長されました.
 フランス政府も,ロシア政府と同じく更なる延長を望んだのですが,日赤は救護員一同の拾うなどを理由に,12月で救護班の撤収を決定し,その後の日赤の病院は,英国赤十字社が引き継ぎました.
 日赤救護班は,1916年7月10日にパリを出発し,ケープタウン経由で帰国して9月16日に解散しています.

 フランス派遣救護班は,1915年2月14日から1916年7月1日にかけて,入院患者総数910名,延べ治療者数54,831名を数え,その内23名が死亡しています.
 入院患者の内訳は,創傷858名,外科的疾患40名,内科的疾患が12名でした.

 英国へも救護班が26名派遣されましたが,仏露では病院を開設したのに対し,英国では英国の病院に於ける傷病兵の看護が求められ,看護婦は22名を占めていました.
 救護班は1914年12月19日に日本を出発し,米国大陸を横断して,英国に向かい,1ヶ月後の1915年1月22日に英国に到着しました.
 因みに,この救護班は,米国で歓待を受け,高峰譲吉や野口英世も励ましの言葉を贈ったそうです.

 英国到着後は,ロンドン郊外のネトリー赤十字病院に配され,そこで救護活動を行いました.
 他国と違い英国では,英国人看護婦と2名一組で,彼女から英語や生活習慣を学ぶ事になりました.
 これによって,日本人看護婦の語学力は向上しましたし,患者も日赤看護婦の熟練した看護に大いに満足する事になりました.
 これは,英国陸軍軍人で救護班に随従した軍医も賞賛の言葉を救護医長の鈴木次郎に贈っています.

 1915年9月下旬になると,受け持ち患者数が177名の多数を数える様になりましたが,これはダーダネルス作戦とフランスの塹壕戦から後送されてきた患者が英国に到着したからです.
 因みにダーダネルス作戦に於いては,伝染病患者と戦傷後伝染病に罹患した患者が殆どを占めました.

 英国の病院はバラック建てで1棟に20名収容し,10名ずつ英国と日本の救護班員が担当しました.
 勤務は午前8時から17時までで,その中で3時間の休憩がありました.
 英国でも日赤の看護は好評でしたが,特にマッサージが好評を博し,他の病室からもマッサージを頼みに来る患者がいたほどです.

 英国派遣救護班は,派遣期間の延長が無く,予定通り1915年12月31日に任務を完了しました.
 終了直前には,救護医長と救護医員並びに救護看護婦長2名が,国王ジョージ5世に謁見する栄誉を与えられた他,救護班はロンドンに3週間滞在して,救護班への謝意を示すあらゆる会合に出席しました.
 1916年1月2日に英国派遣救護班は英国を離れ,3月24日に東京で解散しました.

 英国に於ける活動は1915年2月1日から12月31日までで,医員が担当した患者は662名,治療患者数は延べ23,405名でしたが,死者の数は僅かに4名で最上の成績と称えられました.
 また,英国人医員が担当した病棟で日赤看護婦が看護を担当した患者は1,930名,治療患者数は延べ78,809名に達しています.

 正に知られざる活躍だった訳で,武器を持つだけが国際貢献では無いと言う事ですね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/05 23:02


 【質問】
 呉海軍病院設立について教えられたし.

 【回答】
 陸軍は軍最大の予備病院を広島に設置し,その施設を順次拡大させていきましたが,海軍の方も各鎮守府に設置した病院の内,最大のものを呉に設置しました.

 呉海軍病院は,日露戦争の近付いた1903年12月,戦時期の収容患者最多予定数を520名と設定し,250名を既存の4病室,30名を仮設伝染病室,100名は海兵団兵舎,50名を海兵団水雷装填庫,90名を予備艦倉庫に収容する計画を立て,直ちに海兵団兵舎階上に海兵団第1仮病室を整備し,軽症患者をそこに移す事にしました.

 その後,1904年4月に仮設伝染病室を竣工し,患者の増加に備えました.
 しかし開戦後,佐世保海軍病院から送られてきた患者はそれほど多くなく,日清戦争時にもある程度の経験値を有していた事から,業務はスムーズに運営されていました.

 それが一変したのが,1905年6月1日,即ち,日本海海戦の数日後の事で,海戦による負傷兵など200余名を乗せた病院船「神戸丸」が6月3日に呉に入港する情報が届けられてからです.
 これに対応するため,呉海軍病院では,新たに海兵団艇体倉庫に海兵団第2仮病室を整備し,職員が一丸となって,煉瓦造りの第1,第2病室の患者を仮設伝染病室や海兵団第1,第2仮病室に移動させて,神戸丸の入港に備える事になりました.

 ところが,その翌日である6月2日,「近来未曾有の強震」と呼ばれた芸予地震が発生し,呉市内だけで死者6名,重症者7名,軽傷者29名,微傷者50名,家屋全壊5戸,半壊25戸という大被害を受けました.
 海軍の施設でも,煉瓦造りの呉鎮守府庁舎,木造の呉鎮守府司令官官舎,そして煉瓦造りの当の呉海軍病院は大被害を被りました.
 特に煉瓦造りの第1,第2病室は被害が大きく,新たな患者の収容が出来なくなりました.

 この為,在院患者260名と神戸丸の負傷者200余名の収容を迫られた呉海軍病院は,当初計画通り予備艦倉庫3棟を仮病室に転換すると共に,4日には軍法会議仮病室を開設しました.
 更に,日本海軍に拿捕され,佐世保鎮守府にて保管中のロシア海軍の病院船「アリヨール」を「楠保丸」と改名して呉軍港に移動させ,7月29日から同船に患者を収容する事で,呉海軍病院の病室不足は解消されました.

 日露戦争期,呉海軍病院へは2,902名が入院し,治癒患者が2,043名(70.4%),転送163名(5.6%),死亡46名(1.6%),その他650名(22.4%)となっています.
 意外に治癒患者が多いのは,佐世保海軍病院から,呉へ症状の安定した患者を受け入れて,比較的長期間治療出来た事にあります.

 一方,病名別では花柳病…要は性病…が最も多く934名,次が外傷578名,肺結核を含む呼吸器病372名,栄養器病183名,全身病147名で,戦闘負傷は少なく136名,つまり5%弱しかいません.
 因みに,外傷患者の内,非海軍軍人が324名と過半数を占めていますが,彼らの大部分は呉海軍工廠の職工達が職場で怪我をした公傷患者だったりします.

 海軍としては最初に日赤を受け入れたのは,北清事変期の佐世保海軍病院への派遣でしたが,これは実質活動することなく帰京しており,海軍での実質活動は,日露戦争から始まりました.
 呉海軍病院は2つの救護班を受け入れましたが,1つは第24臨時救護班で,東京慈恵医院看護婦教育所卒業の看護婦等により構成され,
1904年11月16日に編成して
20日に呉に到着,
21日から1905年10月20日まで活動し,
もう1つの第37救護班は,日赤静岡支部から派遣された看護婦中心で,
1905年4月27日に編成,
5月2日に呉に着き,
5月3日から12月15日まで勤務しています.
 人数は両班合わせて52名で,1班の構成は,医員2名,調剤員1名,書記1名,看護婦長2名,看護婦20名となっており,1,979名の患者を救護しています.

 第24臨時救護班は第3病室で勤務の後,
1905年3月15日からは半数に分かれて第1,第2病室を担当,
5月4日からは両病室は第37救護班と共同で実施され,
5月12日から6月1日までは第1病室を第24臨時救護班,第2病室は第37救護班の受け持ちとなりました.
5月21日には両班の親睦を図るため,茶話会が開催され,以後月1回の開催が予定されていました.

 しかし,6月2日の芸予地震により比較的余裕のあった状況は一変し,夜には停電が続き,救護活動は提灯の光の下で行われました.
 更に2日から9日まで,地震の被災者や「神戸丸」受入の為に,連続夜間勤務が続きました.
 芸予地震以降,日赤救護班は第3病室や仮病室で勤務していますが,その中には第37救護班による病院船「楠保丸」での勤務もありました.
 この元ロシア船については,日赤の一同も高い評価を下しています.

 余談ながら,1905年3月の医務報告において,第24臨時救護班の勝俣英吉郎医師が,次の様な報告をしています.

――――――
当病院ニ在リテ注意スヘキハ,脚気患者僅カニ2名ニ過ギサルコト是ナリ…
而カモ何レモ軽症ナルハ,該病ノ兵食ト何等カ関係アルヲ暗示スルモノゝ如シ,然レトモ這ハ学術上ノ大問題ナレバ,浅薄ナル経験ヲ以テ之カ判断ヲ為スコト能ハサルハ論ヲ俟タス
――――――

 つまり,陸軍には脚気患者が多いのに,海軍にはさほど患者がいない,これには食事が何等か関係あるのではないかと遠慮がちに指摘しているのです.
 これに対し,日本赤十字社本部は,次の様に返答しています.

――――――
 特ニ記スヘキハ海軍部内ニ脚気病ノ稀有ナルニ在リ,即チ本班勤務全期間ニ於テ僅々2人ノ患者ヲ見タルニ過キス…
 蓋シ食餌ノ選択ニ原因スルモノナラン
――――――

 日赤本社でもより断定的に,脚気の原因が食事にある事を受け入れたのです.

 元々,その成り立ちからも日赤は海軍の軍医よりも陸軍の軍医が多かったのですが,脚気病原説が幅を効かせていた当時の医学界に於いて,赤十字がその原因を食事にあると喝破したのは小さい事ですが,見逃せない事象で,こうした変化は海軍に救護班を派遣した事によって生じたと言えるでしょう.

 因みに,当時の呉海軍病院1号食の献立は,朝食は麦飯とスープ,昼食は麦飯と魚類,夕食はパン,牛肉,野菜と和洋食混合で,和食には必ず麦飯が付いており,広島予備病院の献立の和食主体,麦飯無しと言うのと対照的だったりします.

 広島陸軍予備病院の献立は病状によって,並食,七分食,五分食,全粥食,五分粥食,稀汁に分けられています.
 1週間の献立は,和食を基本としながら昼食には魚,夕食に牛肉が付くなど,当時の日本人の食事からすれば栄養価の高いものとなっています.
 しかし,北清事変当時の外国人患者には,ドイツ衛戍病院の規定を参考にしながら,下士卒は1日1人1円,佐尉官は2円,将官は3円とし,予め献立表は作成せず,季節と嗜好に応じて調理が行われましたが,肉類や野菜類は同一の種類を使用しない様に心がけたとか,並食の患者には1日1人1瓶以内の葡萄酒を与えたとか言うのに比べれば,嗜好品や滋養品に差が出ています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/03 22:12


 【質問】
 第1次大戦における,日本での捕虜の扱いは?

 【回答】
 日赤は,日清戦争,日露戦争でも捕虜の救護を行いましたが,あくまでもその取扱責任は抑留国にあり,日赤はジュネーヴ条約に基づいて傷病捕虜の取扱いのみを定め,捕虜取扱は埒外に置いていました.
 しかし,1912年5月にワシントンで開催された第9回赤十字国際会議では,捕虜に対する赤十字の活動について,以下の様に決議しました.

――――――
 各国赤十字社ハ平時ヨリ特別委員会ヲ組織シ,同委員会カ戦時俘虜軍人ノ為,受クル所ノ寄贈金品ヲ収集シテ,之ヲ在ジュネーヴ国際委員ノ善良ナル注意ニ委スルコトヲ要ス.
――――――

 赤十字国際委員会はこの決議に基づき,捕虜に関する中央事務局をジュネーヴ市内に設置し,各国赤十字社にも特別委員を設置する事を,1914年8月に要請してきました.
 日赤はこれに基づき,10月に「日本赤十字社俘虜救恤委員規程」を定め,俘虜救恤委員を設置します.

 丁度それが,第1次大戦と重なり,俘虜救恤委員は,ドイツ人俘虜に対する通信及び捕虜のために寄贈された金品の伝達を行い,また,ドイツに捕虜として捕えられていた日本人の人命が赤十字国際委員会から通知された場合は,その捕虜の家族に知らせて,日本人捕虜の家族や友人から捕虜に宛てた手紙や救恤品を発送する作業も行いました.
 但し,こうした俘虜救恤委員の活動は,捕虜に掛かる通信と寄贈品の受付と発送に限られていました.

 ところで,第1次大戦に於いて日本は青島や南洋群島に派兵し,その地で任務に就いていた軍人などを捕虜としました.
 赤十字国際委員会では,1917年1月に,捕虜の状況視察を行う事への許可を,日赤を通して陸軍省に依頼し,陸軍省もこれに同意しました.

 視察を行ったのは,横浜在住のスイス人医師フリッツ・パラヴィチーニ氏で,パラヴィチーニ氏は,1918年6月28日から7月15日まで,ドイツと二重帝国軍兵士が収容されていた久留米,大分,似島,青野原,板東,静岡,習志野の各捕虜収容所を視察しています.

 赤十字国際委員会が編纂したパラヴィチーニ医師の視察報告によると,パラヴィチーニ氏は捕虜の代表に視察の中で会い,代表は捕虜の取扱についての不満や希望を申し立てる事が出来ました.

 視察報告では捕虜の衣食住について,詳細に伝えています.
 例えば,収容所では被服及び日用品の購入のために毎月兵士1名当り50銭,下士官1名に付き1円,准士官1名当り5円が支給されています.
 似島では,7月1〜6日の間,捕虜1人当りパン2,962グラム,馬鈴薯2,062グラム,牛肉281グラム,豚肉675グラム等の食料が支給され,1日1人当りのエネルギー摂取量は2,520カロリーであった事が計算されています.
 こうした待遇に対し,パラヴィチーニ医師は,捕虜の健康は申し分ない様に思われると記しています.

 捕虜の最大の欲求は「自由」でした.
 勿論,遠足などで名所旧跡を訪問したり,板東や静岡の様に町の中で就業している人もいたりするのですが,それは完全な自由ではありませんでした.
 これに対し,パラヴィチーニ医師は,こうした自由の欲求を捕虜に忘れさせるために効果的なのは,身体や頭脳を使った何等かの労働であると提言しつつ,究極的には収容所から解放して捕虜を帰国させる必要性があると提言しています.

 因みに,捕虜収容所として,陸軍が施設を手当した他に日赤の各支部が,1914年から18年にかけて陸軍省に貸与されています.
 日赤福岡支部が1914年8月から1918年12月,大分と静岡支部が1914年12月から1918年8月でした.

 静岡支部は3階建ての赤十字施設2棟で,約4,000平方メートルの敷地中700平方メートルが建物敷地に使用され,ここにドイツ人捕虜99名と二重帝国人捕虜7名を収容していますが,極めて居住空間が狭く,これを改善するために隣接する公会堂を利用する方向で話が進められていると報告されています.

 大分支部については,215名のドイツ人捕虜を収容していましたが,20名の将校達が支部の建物に収容された他は,残りの捕虜は学校校舎の一部に収容されており,内部は鮨詰め状態となっていました.

 福岡支部は,青島守備軍司令官のワルデック海軍大佐が収容しましたが,このワルデック総督の収容には福岡の他,東京,大阪,久留米などの捕虜収容所が彼を収容せんものと運動を展開したそうです.
 総督の居室は,皇族接遇用の特別室で,楼上に於いて最も眺望に富み博多湾の風向を一望に収められる場所でした.
 また,下士官以下543名を11月15日に収容する為,13日夜から14日にかけて,博多旧柳町の借家人は全て立ち退かされ,戦場の如き阿鼻叫喚で,収容所のバラックが建てられました.
 因みに,ワルデック総督は,日本軍の大佐と同じく月額280円の生活費を支給されました.
 下士官以下は1日1人食費30銭を支給されていますが,これは日本兵の1日の食費18銭よりも高額であるとして,とある陸軍将校が皮肉っているのが報道されています.

 これについては余談ながら『福岡日日新聞』紙上で以下の論争がありました.

 先ず,陸軍中佐手島半次郎が,
「ワルデックを福岡赤十字楼上に奉り上げるのが大いなる間違いで,こんな建物を敗軍の将に提供する必要はない」
と述べて,ワルデック等の待遇に反対を唱えました.
 これに対し,九州帝国大学総長の眞野文二は,
「九州の大都市と誇っているのにも拘わらず,西洋式ホテルがないのは実に遺憾であり,収容所として赤十字社を利用したのは,別に優遇でもなんでもない」
と反論しています.
 この頃から,既に陸軍の一部部内に,捕虜を軽視する風潮が出て来たのが興味深い事です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/06 21:39


 【質問】
 日本でのホットドッグの始まりは?

 【回答】
 ベーブ・ルースらが来日した1934(昭和9)年11月の日米親善野球大会の際,当時神戸在住のドイツ人ヘルマン・ウォルシュケ Hermann Friedrich Wolschke(1893-1963)が,甲子園球場でホットドッグを販売したのが最初.
 しかしこのときは残念ながら,ホットドックを買って食べたのは,野球を観戦していた外国人がほとんどで,日本人は食べ慣れていなかったせいかあまり売れず,中身を捨ててパンだけ食べる客もいたという.

 ドイツの食肉マイスターだった彼は,ブランデンブルクのラウノ(Rauno)出身.
(ベルリンの南のゼンフテンベルク郊外の小村ナウン出身とするサイトも有り)
 第1次世界大戦時に帝政ドイツ海軍膠州砲兵隊第二中隊の二等砲兵として出征し,青島(チンタオ)にて日本軍の捕虜となった.

 大正5(1916)年に広島県の似島収容所に送られたが,屠畜職人だったケルン,シュトルの三人で,広島のハム製造会社で技術指導をした.
 広島県物産陳列館−−後の原爆ドームである−−で開催された俘虜作品展示即売会では,バウムクーヘンを出品するようユーハイムを励まし,自身はソーセージを出品した.

 大戦終結後も日本に残留し,当時の広島市広瀬町上水入町のハム製造会社・酒井商会で技術指導をした.
 大正11(1922)年には明治屋に雇用され,銀座に新規開店した明治屋経営の「カフェー・ユーロップ」のソーセージ製造主任になって,ソーセージやハムの製造指導に当たった.
 後にドイツの風景に似ているからというので,軽井沢に移り,同地に自分の店「ヘルマン」を創業.
 独立してからは,あちこちのメーカーにも協力した.
 1938年には.ソーセージの普及をねらって銀座街頭での試食会を企画,このホットドッグ屋台は銀座名物になったという.
 第2次大戦中は営業活動を停止され,他の全ての異邦人同様,軟禁生活を送った(長野県野尻湖)
(異邦人が軟禁された経緯については,別項参照)

 さて,昭和初期には農村不況対策として畜産振興が叫ばれ,狛江にも東京府連(後に都農業会)の施設が旧野川と六郷用水合流点辺りにでき,仔豚の斡旋や近隣から出荷される牛や豚の解体・加工を始めていた.
 敗戦後,この施設は民間に払い下げられたが,ヘルマンは敷地の一角を借り受けて,自営の工場を造り,ハム,ソーセージの本格的製造に乗り出した.
 後に現在高野の工場のあるところに移り,事業を拡張.
 のちの東京ヘルマンウォルシュケ食品株式会社である.
 同社は現在ではニッポンハムのグループ会社の1つとなっている.

 しかし彼は経営者というより,コツコツと働くことの好きな,根っからの職人であった.
 1959年10月には,「大山ハム」にてドイツ式加工技術を指導.
 また,教会でドイツ人牧師ハロルド・エーラから群馬県の養護施設小持山学園の話を聞いたことが機縁となり,学園と深い交流を持つようになる.
 毎月届けたハム,ソーセージは,学園の子どもたちの栄養向上にたいへん役立ったという.
 また,学園出身者を何人も狛江の工場に迎えている.

 そんな彼のもとに1957年,1通の手紙が届く.
 消印を見ると,1925年.
 32年もの年月を経て,故郷の友人から届いた手紙だった.
「故郷を捨てた自分をまだ誰かが待っているかもしれない…」
 彼は帰国を決意,入国が極めて困難になっていた冷戦下の東ドイツへ旅するために奔走した.
 1963年,ようやく許可が下りる.
 しかし,あと数日で出発という日,彼は上野駅にて心臓発作で倒れ,69歳の生涯を閉じた.

 東京狛江の泉龍寺に墓がある.
 墓碑には,こう記されている.
「祖国ドイツを誇り,第二の祖国日本を愛したヘルマン・ウォルシュケ.ここに眠る」

 【参考ページ】
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000886439.shtml
http://www.mypress.jp/v2_writers/zaki/story/?story_id=1314291
http://plaza.rakuten.co.jp/toshinosuke/70022
http://kriegsgefangene.hp.infoseek.co.jp/furyo_gunzo.htm
http://www.city.komae.tokyo.jp/index.cfm/28,808,138,52,html
http://www.hermans-web.co.jp/top.html
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2005/05-414.html
http://jibusyo.air-nifty.com/hiccyu/cat3750040/index.html
http://www.daisenham.com/?page=annai
http://blog.yawaragi-c.jp/200803/article_2.html
http://www.dog-lover.jp/page214.html
http://www.bekkoame.ne.jp/~gensei/zuisou/isibasi.html
http://www.seifun.or.jp/topics/huukei/index.html
http://www.touhokuham.co.jp/konjaku/index.html
http://kixsfo.fc2web.com/europe/GE.html
http://plaza.rakuten.co.jp/owlclinic/diary/200704210000/
http://homepage3.nifty.com/akagaki/5-photo.html

【ぐんじさんぎょう】,2009/5/10 22:01
に加筆・修正

「似島獨逸俘虜収容所技術工藝品展覧會目録」中の,
ヘルマン・ウォルシュケの出店広告と思われるもの

http://homepage3.nifty.com/akagaki/5-photo.htmlより引用

銀座の明治屋ビル

撮影:ギシュクラ・ヤーノシュ


 【質問】
 内田信也は第1次大戦の際,どのようにして成金になっていったのか?

 【回答】
 第一次大戦で急成長した会社に,内田汽船という会社がありました.
 この経営者の内田信也氏は,東京高商(現一橋大学)を卒業し,三井物産に入社,神戸の船舶部に配属されたのが船との関わり合いの始まりです.
 元々,三井の船舶部と言うのは,三井鉱山で産出した石炭を輸送する目的であったもので,後年の商船三井とは似ても似つかぬものだったそうです.
 此処で粉骨砕身働いたのを認められ,船舶部長から傭船係長に任命されました.
 係長と言えど,部長以下10名程度の小所帯で,部長はまぁ謂わばお飾りですから,実質的な営業部長の役職にあったも同然.

 これで,其の儘過ごしていれば,別の目も有ったかも知れませんが,10年働いた後,突如,この安定した地位を捨てることになります.
 一説には,自分の意向を経ずに決められたシンガポール行きが気に入らないと言う話もあり,北海道炭砿汽船の営業部長就任に物産が反対して板挟みになりと言う話もあり,真相は藪の中ですが,とにかく,1914年に家賃250円の2階建築家屋を1軒借りる資力のない状態で,2階だけを100円で借りて独立し,予てから趣味にしていた柔道の道場から,仲間を2名引き抜いて社員とし,内田信也事務所を設立しました.
 資本金は僅かに自身の退職金と兄からの借金合わせて2万円と言う状態からのスタートでした.

 ところが,程なくして大戦が勃発.
 海運業界は一種パニックに陥り,船賃が大暴落しました.
 彼はその動きを一過性のものと見,八馬汽船の第八多聞丸を月4,200円で1年間傭船する事になりました.
 この賭けは大当たりで,程なく運賃が高騰の気配を示し,他のブローカーがこの船を1ヶ月8,000円で1年間借用することを申し入れてきた為,これに又貸し,これで彼は月に3,800円の利を得,年間で5万円近い転貸料が濡れ手に粟で転がり込んできました.

 これを皮切りに,彼は次々に船舶の傭船をしてはそれを転貸しすると,利が利を呼び込み,遂には1915年4月,自社の持ち船として,勝田銀次郎から4,500トンの大正丸を16万円で買い受けることに成功しました.
 これを機にブローカーから足を洗い,内田汽船を設立して社長に納まりました.

 さて,この大戦,長引くか短期終結するか,その見通しは不明.
 彼も流石に判断しかね,斎戒沐浴,神棚に対して静坐し,無我の状態に陥った時に齎された神託が,
「戦争は長引く」
と言うもので,それを信じて,資金を東京海上から融通し,汽船は辰馬などから買い入れ,次々に転売して利益を得て行きます.

 こうして資金を潤沢に得た後は,買船とチャーターの二本立てで,安定した収益を生み出し,1916年の配当は,実に60割配当と言う恐るべきものでした.

 基盤を確立した後は組織固めで,内田信也事務所は発展的に解消し,内田商事として船を中心に世界中の商品を扱う商社に衣替えします.
 本店は神戸,支店は東京,大阪,上海,New York,出張所が青島,大連,Calcutta,San Francisco,Seattle,南米の各地に設けました.

 其の後,実業に進出し,1917年に横浜で内田造船所を経営,佐賀県有田町で帝国窯業を設立,
 このほか,明治海運,東京毛布,国際汽船などの重役も兼任し,僅か40歳で所有船舶だけで1億円,借金を差し引き,7,000万円の資産を作り上げました.
 大体,いまのお金に換算すると,3,000億程度ですかねぇ.
 途方もない金額です.

 さて,実業の分野に進出した第一号の内田造船所は,元々英国人が経営していたYokohama Engine Iron Worksと言う,横浜では中堅どころの鉄工所が前身で,それを1916年12月,石川島造船所の技師長が買い取って,横浜鉄工所と改名していたもので,内田はこれに資本参加し,更に造船所を設けて船舶建造に進出した際,完全に経営権を掌握して,内田造船所となったものです.

 この内田造船所は,急ピッチで船台を整備すると共に,三菱から技師や工員を始め,目ぼしい人を引き抜いた上,技師に渡りを付けて,仕込船の設計図も盗みだし,その設計図を用いて,自社の船舶建造を始めた訳です.
これが,後に満州丸問題として,政友会と憲政会の間での政争に利用されました.

 兎も角,船台を整備するや,1,200総トン級仕込み船2隻,2,200総トン級同型船4隻の建造に着手し,造船ブームの末期に間にあいました.
 英国時代の職工数は300名,それが内田造船所では3,000人以上と10倍以上に膨らみ,如何にこの会社が急成長したかが判ります.
 更に工場を拡大すべく,隣接地の埋立を行いました.
 ところが戦後不況の深刻化から,結局この土地は利用されませんでした.

 彼に1億という未曾有のあぶく銭を齎した第一次大戦は,1918年11月に終結します.
 以後も欧州の復興までには時間が掛り,まだ戦時経済の余波が残っていましたが,1920年から恐慌が起き,バブルは崩壊します.

 彼はこの予兆を掴んでいました.
 1920年2月に興銀総裁と会談した際,財界の変調を注意されたのと,原敬を訪ねた際,経済界の様子が可笑しくなり,選挙資金が容易に集まらないと言う打明け話を聞いていたからです.
 この話を聞くや否や,彼は思い切りよく,海外各支店宛に,営業活動を中止して,手じまいの連絡をすると共に,持ち船も借金を返済する為に,ロンドンで5隻ほど当時の相場以下の値段で思い切りよく売り払ってしまいました.
 直後に恐慌が訪れ,山下汽船などはその手じまいが遅れた為に大打撃を被ってしまいます.

 また,実業についても整理して1923年までに,内田汽船と内田商事のみを残して,全部売り払ったり閉鎖したりしました.
 先の内田造船所も大阪鉄工所に売却されますが,大阪鉄工所は造船を切り捨て,船舶修繕に特化すると共に,元の陸上工事に進出しますが,経営陣の先頭を切っていた専務が事故死し,関東大震災で工場が被災したので,撤退の止むなきに至りました.

 こうして内田信也氏が作った実業は殆ど消滅した訳ですが,この時思い切りよく事業の縮小を団交したお陰で,豊富な資金を其の儘保持し得た訳です.
 因みに其の後,彼は政界に進出し,政友会の重鎮として海軍政務次官,逓信政務次官から,1934年の岡田内閣で鉄道大臣,1944年の東条内閣では農林大臣を歴任し,戦後も1953年5月に第5次吉田内閣では農林大臣に就任し,一方で明治海運社長として辣腕を振るい,戦後も91歳まで寿命を全うします.

 好況の時は良いのですが,不況に切り替わる際に如何にその変調を上手く読み取り,転換をなし得るかが結構難しい,それが経営者の腕の見せ所なのですけどね.
 今の経営者はどうなんでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/03/17 22:56


 【質問】
 第1次大戦時に,レールを引っぺがして売却して大もうけしたという私鉄について,詳細希望.
 沿線住民には迷惑でしょうが,そういう話は大好きな性分で.
 まさか「強盗慶太」?(時代がちがーう)

 【回答】
 千葉の銚子と外川との間,今は銚子電気鉄道と言う会社(澪つくしの鐘で有名…かな)が走っていますが,そもそもこの会社の前に,鉄道開業ブームに乗り遅れまいと,銚子の実業家有志が集まって,1913年に銚子遊覧鉄道と言うのを,銚子と犬吠の間を開業させました.
 1916年には一応,蒸気機関車2両,客車4両,貨車4両で営業していたのですが,余り儲からない.
 でもって,折からの第1次世界大戦で,船腹の大増産があって鉄が高騰している.
 儲からない鉄道より,このレール売って大儲けして,負債とはおさらばすべぇ,と言うことで,1917年にレールを引っぺがして――実際に廃止届は,その後監督官庁に見つかって大目玉食らった後だったり――,屑鉄業者にたたき売ったそうな.

 一応,その跡地は,旅館のバス専用道路として利用されていたのですが,
「やっぱり,荷物運ぶにゃ鉄道が必要だべぇ」
となって,1923年にその跡地を利用して,再度レールを敷き直して開業したのが,今の銚子電気鉄道.

 ちなみに,こういった話は多分,全国に転がっていると思います.
 静岡の御殿場から篭原トンネル辺りまで路線を延ばしていた,御殿場馬車鉄道も経営難で,路線を切り売りして寿命を延ばしたと言う話もあったりしますね.
 ま,こっちは銚子ほど,露骨に売払いはしませんでしたけど.

眠い人◆gQikaJHtf2 by mail,2006年07月09日11:07
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「漫画「サザエさん」の波平さんには従軍経験があり,負傷した波平さんを看護したのが看護婦だったフネさんだった・・・というエピソードがある」というのは本当ですか?

軍事板

 【回答】
 出典は『磯野家の謎』(飛鳥新社)のようですが,「看護した」といった説は掲載されておりません.
 同書によれば,従軍/従軍看護婦経験の根拠となっているエピソードは,
「戦友と出会った」という,ホントかウソか判らない話をして飲んでくる波平と同じ手段を使って,フネが町でばったり出会った友人と遊びに行くという話です.
 同書はこのエピソードから肯定的に,
「戦友がいるのだから,従軍経験があるに違いない」
「婦長に対して敬礼しているのだから,従軍看護婦経験があるに違いない」
と解釈しています.

 ただし,これとは真逆の物でこういう解釈もあります.
http://160.29.86.21/miyamoto/sazaesan.htm
 これを見る限り,フネが本当に従軍看護婦だったのかはかなり怪しい所でしょう.

 もちろん,これ以外のエピソードで,本当にそういう話があったのかも知れませんが,おそらく作者もそんな細かい話まで覚えてなかったから,こうした設定の矛盾が起きたんでしょうな.

 ちなみに『磯野家の謎』では,連載スタート時点(昭和21年)において
波平:54歳
フネ:48歳
と推定していますので,波平に従軍経験があるとすると,1912年頃に徴兵された計算になります.
 1927年の兵役法制定以前は,徴兵令(1873年施行,1889年大改正)により,満20歳の男子から抽選で3年の兵役となっているからです.
(または,旧制中学卒業後に志願したとするならば,1908年に入営,翌年除隊した計算になります)
 そうしますと,従軍したのが事実なら,それは第1次大戦だったということになります.
 陸軍ならば青島攻略戦,海軍ならば船団護衛ということになりますね.

 一方,従軍看護婦は日赤では,第1次大戦において初めて外地勤務が行われていますから,一応,辻褄は合いますが……

 話は横道にそれますが,長谷川町子さんは戦時中,サザエさんの前身とも言える,『翼賛一家大和さん』と言う漫画を描いておられました.
 詳しい説明はこちら様に譲りますが,死ぬ前に一度は読んでみたい物です.
 東雲ストライク!
http://armstrong13.seesaa.net/category/4469289-1.html

満州楓 in FAQ BBS,2011/9/20(火) 9:31
青文字:加筆改修部分


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