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戦国時代FAQ
<戦史FAQ目次
猫耳武将
目次
◆総記
◆国力
◆城砦
◆人物
◆◆織田家
◆◆武田家
◆◆徳川家
◆◆豊臣家
◆◆山内家
◆戦史
◆◆本能寺の変以降
◆◆文禄・慶長の役以降
◆◆関ヶ原以降
◆◆鎖国令以後
◆装備
◆◆火縄銃関連
◆身分
【質問】 歴群の戦国戦史って,評価はどんなもんなんでしょう?
【質問】 日本の戦国時代の軍事制度について,詳しく述べられている本ってありますか?
【質問】 戦国時代後期の日本が世界最強国だったのは本当ですか?
【質問】 日本の戦国時代で裏切りが多いのは,どうしてなんでしょうか?
【質問】 戦国時代ではどういう裏切りが良くて,どういう場合が駄目なのか,基準があるんでしょうか?
【質問】 戦国時代の戦闘描写が史実に忠実な映画って,何かありますか?
【質問】 戦国時代の戦術について勉強してみようと思うんだけど,何から始めるといいの?
【質問】 「鶴翼の陣」って唯の横に並べてみただけでできているのですか?
【質問】 たとえば100万石の国には,200万人も300万人も住んでいたということでしょうか?
【質問】 戦国時代の動員力は,当時の世界では多いほうですか? 少ないほうですか?
【質問】 戦国時代に金銀はどのような使われ方をしていたのか?
【珍説】 「合戦の多くが,領民を飢餓から救うために行われた」???
【質問】 戦国時代,アルコールの消毒作用は知られていたのでしょうか?
【質問】 戦国時代,東北地方はなかなか有力大名が出現せず,地域統合へ進んでいかなかったように思えるのですが,この原因としてはどういったことが考えられるでしょうか?
【質問】 戦国時代,なんで蛎崎氏などは蝦夷地と一緒に樺太やウラジオストックの上辺りを領地にしなかったんでしょうか?
【質問】 よく戦国武将が仏門に入っていますが,入る意味って何でしょうか?
【質問】 戦国時代,宗派対立で信者同士が殺し合いを大規模にやってたなんてことはあったの?
【質問】 三浦按針とカトリックとの確執について教えてください.
【質問】 戦国時代の城の特徴は? 跳ね橋みたいなものは,日本の城にもあったのですか?
【質問】 鯱(しゃちほこ)は何のために天守閣にとりつけられているの?
【質問】 戦国期の場合,城主は城から遠いとこに住んでる事が多いの?
【質問】 なぜ日本の城下町は城壁で守られていなかったのでしょうか?
【質問】 日本では城攻めの時は,どの様な方法で城門を破壊したんですか?
【質問】 中世日本の城攻めは,火矢を打ち込みまくれば簡単に勝利できないんでしょうか?
【質問】 山頂にあった安土城では,飲み水などはどうしたんでしょうか?
【質問】 江戸時代まで生き残った戦国武将の家系について教えられたし.
【質問】 浅香庄次郎は普通,「木村伊勢守の小姓」とされていますけれど,京極高次に仕えたこともあったのでしょうか?
【質問】 海道一の弓取りって異名は,今川義元にも付いてたんでしょうか?
【質問】 上杉謙信家臣団は,「義」の戦にはちゃんとついてきたのでしょうか?
【質問】 黒田如水の,生きていた当時の評価を教えてください.
【質問】 秀吉の九州出陣で討ち死した長曾我部信親に嫡男はいたんでしょうか?
【質問】 山中鹿之助は本当に,主君のために忠誠を尽くして働くという武士道の体現者だったのでしょうか?
◆◆織田家
【質問】 信長の宗教観,宗教政策って,どういうものだったのでしょうか?
【質問】 織田が勢力を伸ばしているとき,なんで毛利や長宗我部は織田を早めに潰そうと思わなかったんですか?
【質問】 織田信長は伊勢・長島や越前では降伏を許さず,一向宗の信徒を皆殺しにしましたが,一向宗の本拠地である石山本願寺は降伏を許しました.この違いは何故でしょうか?
【質問】 織田信長はなぜ平氏を名乗ったのか? 征夷大将軍を諦めたということか?
【質問】 「信長公記」執筆者,太田牛一はどのような人物だったのか?
◆◆武田家
【質問】 武田信玄とされてきた長谷川等伯筆の肖像画は,実は信玄のものではないというのは本当か?
【質問】 武田信玄は『人は石垣,人は城』の言葉通り,城塞を活用しなかったのか?
◆◆徳川家
【質問】 石川数正にしても,対秀吉政策の対立で居られなくなったってところでは?
【質問】 『家康に過ぎたるものが二つあり.唐の頭に本多平八』の「唐の頭」とは何のことですか?
【質問】 徳川家臣団に旧武田家臣が多いそうですが,信憑性は高いのですか?
◆◆豊臣家
【質問】 最近の山川の教科書には,秀吉を「尾張の地侍の出身」と書いてあったが,これはちょっと勇み足じゃないのかな?
【質問】 信長の草履を懐に入れて温めた秀吉の行動は,美談と言っていいのですか?
【質問】 秀吉が源氏の名家の養子になろうとしたが,断られた,という話は本当ですか?
【質問】 秀吉の子供は,早死にしたのも含めると,全部で何人いたのでしょう?
【質問】 加藤清正の虎退治は有名だけど,当時の朝鮮半島に虎っていたの?
【質問】 利休七哲のうち,芝山監物の石高や役職を教えてください.
【質問】 利休七哲の一人,瀬田掃部の石高や役職を教えてください.
◆◆山内一豊
【珍説】 「山内一豊は,土佐長宗我部の一領具足たちをだまし討ちして虐殺した悪人だ!」???
【質問】 一豊の妻,千代の出生地ってはっきり分かってたっけ?
【質問】 山内一豊の土佐転封は,実は体のいい左遷じゃないか?
【質問】 桶狭間の戦いの確定情報は,どのあたりまでなんでしょうか?
【質問】 川中島はなぜ最終的には武田信玄の領土になったのか?
【質問】 長篠の戦では,不利な環境で戦うことを,どうして武田は強いられた訳?
【質問】 織田信長の火縄銃3段撃ちのような作戦は,ヨーロッパでも採られたのですか?
【質問】 三木城は本当に,何千人もが二年も籠城可能だったのですか?
【質問】 秀吉の三木城攻めと,ソロバンとの関わりについて教えられたし.
【質問】 なぜ秀吉は鳥取城を無血開城させることに成功したのか?
【質問】 高松城が粘っている間に,毛利軍が秀吉軍に対して大規模な攻撃をしなかったのはなぜでしょうか?
◆◆本能寺の変以降
【質問】 明智光秀が本能寺の変を起こした理由として考えられるものは?
【質問】 本能寺の変の反乱兵は,自分らが攻撃している相手が信長だと知っていたの?
【質問】 本能寺の変のとき,秀吉以外の信長配下の将は何をしてたの?
【質問】 戸次川(へつぎがわ)の戦いについて教えてください.
【質問】 太閤検地の際,石田三成はどうやって島津義久を助けたの?
【質問】 「キリスト教徒迫害理由は,宣教師が日本を植民地化しようとしていたから」は本当ですか?
【質問】 結局,日本でキリスト教が普及しなかったのは,キリシタン弾圧のせい?
【質問】 もし家康が東北転封だったら,どうなってたでしょうか?
【質問】 秀吉が家康を関東でなく,東北に飛ばしてたら,今の東京は存在してる? 東北は発展してる?
【質問】 秀吉によって転封された徳川家康は,関東運営をどのように着手していったのか?
【珍説】 「兵農分離以後も農民は,"農民の武装を"していました!」???
【反論】 戦国合戦の軍勢には,農民が85〜90%もいた.
【質問】 なぜ秀吉は関白職引退後,大坂城を居城にしなかったのでしょう?
◆◆文禄・慶長の役以降
【質問】 秀吉の朝鮮侵攻について,イデオロギーとかセンセーショナルな記述抜きで解説した良書って,何がありますか?
【質問】 文禄・慶長の役は,朝鮮を征服も属国化もできなかったんだから,日本の負けだろ?
【質問】 文禄・慶長の役が実質,日明戦争だったにしては,明海軍の活動は聞かないが?
【質問】 秀吉に端を発する,フグ食禁止令について教えられたし.
【質問】 韓国に古い書物や建物がないのは,豊臣秀吉の侵攻のせいなのか?
【質問】 韓船とは?
【質問】 亀船の戦法は?
【質問】 亀船の兵装は?
【質問】 朝鮮出兵当時,信長が作っていた鉄船やその発展型は投入されなかったんですか?
【質問】 壬辰倭乱で李舜臣将軍が何万人の倭人を殺したか教えてほしい.
【質問】 亀甲船は日本艦隊に大損害を与えてはいないのか?
【質問】 秀吉の朝鮮出兵当時の日本水軍は,李舜臣水軍には太刀打ちできないものだったんですか?
【質問】 文禄・慶長の役において,なぜ日本の水軍は,制海権を確保できなかったのか?
【質問】 秀吉が死んで朝鮮から撤兵という流れになった訳ですが,戦い続けていても泥沼で敗色濃厚という状況だったのですか?
【質問】 織田秀信が成人してしかも秀吉が死んだ時期,清洲会議の約定に基づく豊臣→織田の政権返還は,名目上でも成り立たない論理となっていたのですか?
◆◆関ヶ原以降
【質問】 関ヶ原の合戦の戦端を開いたのは福島正則? 井伊直政?
【質問】 関が原の戦いでは,実際に陣を出て戦った西軍の兵士は半分にも満たなかったとのことですが, 当時はこのような日和見作戦は普通に行われていたんですか?
【質問】 関ヶ原の戦いにおいて,西軍諸大名を寝返らせたのは誰か?
【質問】 関が原での島津の敵中突破は,そうする必要が本当にあったの?
【質問】 島津勢の敵中突破は作り話なの?
【質問】 関ヶ原の戦い後,石田三成を捕えた田中吉政ってどんな人?
【質問】 米沢転封後の上杉家の領国経営は,どんなものだったのか?
【質問】 徳川幕府開幕までの江戸の歴史について教えられたし.
【質問】 薩摩藩が琉球を制圧・支配したとき,明や清がスルーしたのは何故?
◆◆大坂の陣以降
【質問】 豊臣秀頼家による寺社造営や修築工事は,本当に豊臣家の財産を浪費させるためのものだったのか?
【質問】 真田幸村が内応を疑われたのは,信幸が徳川方にいたため?
【質問】 大坂の陣において,伊達家騎馬鉄炮隊は実在したのか?
【質問】 大坂の陣において長宗我部盛親,毛利勝永はどの程度活躍したのか?
【質問】 関ヶ原に比べて大阪の陣で,大阪方についた人間に対する処罰が厳しいのはなぜですか?
◆◆鎖国令以後
【質問】 鎖国に怒ったスペイン,ポルトガルが報復に武力行使とかしなかったの?
【質問】 オランダは,マラッカやらカリカットやらをどんどん占領してたのに,なぜ平戸は占領せずに商館置いただけだったの?
【質問】 日本の鎖国体制を国際安全保障上,担保していたものは何か?
【質問】 戦国時代の農民兵は,刀とか槍とかは自分で持って行ったんですか?
【質問】 戦国時代のお侍さんは,メイン・ウェポンは何だったのですか?
【質問】 戦国時代,刀はメイン・ウェポンではなかったにも関わらず,実際の戦場では相変わらず多くの兵が刀を携帯していたのは,「倒した武士の首を切断するために必要だった」から?
【質問】 戦国時代の合戦中,人を斬って使い物にならなくなった刀は,捨てるのでしょうか? そして,死体から刀を奪って戦い続けるのでしょうか?
【珍説】 「日本の在来種の馬は,西洋の馬に比べ,著しく劣っていました」???
【質問】 戦国時代の馬って,獣道のような山道を通れるんですか?
【質問】 戦国時代の馬は,大砲に驚いて戦闘不能になったりはしなかったのですか?
【質問】 クロスボウが戦国時代に全く使われなかったのが意外なんですが.
【質問】 日本で,石投げが実戦でも使われたというのは本当か?
【質問】 投石は,射程距離は弓に劣るって書いてたが,それで戦場で役に立ったの?
【質問】 戦国時代の弓の有効射程はどのくらいで,鉄砲に比較して有用なものだったんでしょうか?
【質問】 戦国時代に槍が発達してからは,薙刀を持つ者は居なくなったのですか?
【質問】 機動力の低い鉄甲船で大船団を食い止めるのは,至難の業では?
◆◆火縄銃
【質問】 なぜ日本では種子島以降まで火器が広まらなかったのでしょうか?
【質問】 火縄銃は弓矢に比べてそんなに強かったんでしょうか?
【質問】 日本の火縄銃は同時期のヨーロッパの火縄銃より何が優れていたんですか?
【質問】 日本で使われていた火縄銃は軍用銃ではなく猟銃って本当ですか?
【質問】 火縄銃が作れる技術があれば,フリントロックのマスケット銃を作るのは可能でしょうか?
【質問】 戦国時代に弾丸・弾薬カートリッジ式の元込め式の銃は,考案されなかったんでしょうか?
【質問】 日本の火縄銃は,ストックが「ソードオフショットガン」みたいにばっさり切り落としたような形をしていますが,何故でしょうか?
【質問】 火縄銃はどうやって銃身になっすぐな穴を開けていたのでしょうか?
【質問】 戦国時代後半でも鉄砲が主力武器でしょ? 戦国時代の鎧は銃弾に対する防御重視で進化したの?
【質問】 『センゴク』という漫画で,竹束で火縄銃を防いだシーンがありましたが,竹を束にしたぐらいで防げるのでしょうか?
【質問】 戦国時代の火縄銃は,なんで銃剣が付いてないのですか?
【質問】 『鉄砲を捨てた日本人』って本はどうなのでしょうか?
【質問】 ちょんまげで,頭を剃ってる場合と,剃らずにまげを結んでる場合との違いって何なんでしょうか?
【質問】 大名の家臣で〜守とかなってた武将は,誰から任命されたんですか?
【質問】 官位を勝手に名乗ってるんだったら,何で信長は最初「上総介」なんて名乗ったの? 「上総守」でいいじゃん?
【質問】 兵農分離が確立されてる国以外は有事の際,農民が召集されて戦ったんじゃないの?
【質問】 戦国時代の戦って武士以外の農民たちも,簡単に殺されてるのが当たり前だったの?
【質問】 戦国時代,農民を守る治安維持は領主の役割ですよね?
【質問】 戦国時代,戦に巻き込まれた農村がガンガンに略奪に遭い,女は輪姦されるということが,本当に横行していたんですか?
【質問】 戦国時代,浪人が勝手に戦に参加することはよくあったのでしょうか?
◆城砦
『戦国の城 軍事分析 歴史群像シリーズ』(歴史群像編集部編,学研パブリッシング,2011.4)
発売されてたので確保.
これは戦国の堅城の後継艦ですね.
また,各城の火力配備やら機動経路の分析に加え,樋口氏が作戦術の観点から,戦国城砦を軍事システムとして捉えて解説し始めたのが面白いです.
もっと…軍事視点からの城郭研究って,普及しても言いように思えるんですが…
どうしても人が限られてしまうようですね…
城砦って,そもそも軍事的施設ですから,歴史面だけでなく,軍事面からこそ見るべき部分も多いと思うんですけどね.
でも,軍事面から研究する人は,すさまじく少数派だって愚痴ってました…orz
――――――Lans ◆xHvvunznRc :軍事板,2011/04/24(日)
面白いな.
戦略,戦術レベルからのアプローチだけでなく,作戦レベルで築城について書いているのがいいね.
『軍事の事典』で復習しながら読んでるわ.
――――――軍事板,2011/04/27(水)
「戦争の日本史」の中で,最新の研究動向を分かりやすく(研究者名や出典は,あえて本文中では紹介しない)つたえて,シリーズ全体への読者の導入を図る位置づけにある本.
従来,戦国ファンや時代小説が好きな人の間で広まっている通説について,最新の研究成果ではこのように見られているというのを教えてくれ,かつ,著者がこれまでいろいろな本で説いてきた,信長家中の家臣団の編成,あるいは戦争の事績などについても,通史という体裁をとりつつみせてくれる,大変お得な本に仕上がっている.
学者の書いた本だと,どうしてこれらの史料から,このように判断するに至ったのか,踏まえている前提の知識を読者が共有していないために,不明確で曖昧模糊とした記述が続いたりするのだが,この著者ならば読者を迷わせることがない.
シリーズ構成としては,戦国時代を描いた,他の巻と重複する内容は多いはずなのだが,そこはうまく秀吉を扱った巻をはじめ,あちらこちらとうまく分担しているところも評価すべきだろう.
憶測や著者の史観などが随所に盛り込まれ,筆先が走ることも多い時代小説から離れて,今はだいたいこのようなことを専門家は追っている,こういうふうに見ているという感覚を伝えてくれる好著といえる.
ぜひ,手にとって,このシリーズに親しんで欲しいという願いが伝わってくる.
――――――軍事板,2011/08/17(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の城の特徴は? 跳ね橋みたいなものは,日本の城にもあったのですか?
【回答】
今残っている日本の城の遺構のほとんどは,戦国末期から江戸時代にかけてのものです.
一応,戦国日本にも落とし戸はありましたし,跳ね橋もありました.
落とし戸は姫路城に遺構があったかもです.
ただし,ほとんどは小さなもので,文献上でしか確認できず,戦国時代の跳ね橋で現存しているのはないかとおもいます.
いわゆる西洋の城にあるような大きな仕掛けの物は,戦国時代の日本の工業水準からいって製作困難です.大きくて十分な荷重に耐えられる丈夫な歯車を作る技術が無かったからです.
そのような技術が熟成してきたのは平和な江戸時代になってからであり,明治になるまで,日本の歯車技術はからくりや軽工業どまりでした.
日本の城は小銃戦への対応を目指して創られたもので,大砲の集中運用に対しては正直,強くありませんが,日本の攻城戦で大砲の集中運用を行った例は,きわめて少数であり,ある意味では合理的に考えた結果です.
当時日本の城を見ることができた,宣教師なんかは美しさや豪華さ,大きさや見た目から,日本の城をそれなりに評価していますが,当時の西洋軍人ではないので,純軍事的な西洋人の評価は探し出すしかないかと思います.
軍事板
▼ 余談だが,以下のコメントは,「城」に対するイメージの男女差が分かって面白い.
――――――
「女の子にとってのお城は,ドレスを着ているお姫様のイメージなのですが,男にとってのお城は,敵の侵入を防ぐ要塞という意味のものじゃないですか.
そこの意識も違いますよね」
――――――野口美佳(ピージ・ジョン社長) in 『カンブリア宮殿』(村上龍著,日本経済新聞出版社,2007.5.25),p.203
▲
【質問】
戦国期の場合,城主は城から遠いとこに住んでる事が多いの?
【回答】
城と住まいが遠くに離れているというか,城は不便だけど防御力が高い山頂などに築いて,普段の住まいは麓の平地に近いところに館(防御力はあまり高くない)を建てていたってこと.
山頂だと,スペースが狭いのであまり大きな館は建てられないし,城勤めの武士がいちいち登城するにも不便なので.
城は非常時に立てこもるもので,普段住むわけではなかった.(無論例外はあります)
こういう山城を詰城と言った.
典型的なのが甲斐武田氏の要害城.
有事の際に立て籠もって戦うためのもので,平時の居館はご存知の躑躅ヶ崎館.
でもこれは本拠地の地勢や周辺事情の必要あって,こういう組み合わせにしただけに過ぎない.
航路が開かれたら泊地に移ったほうがいいんじゃないとか,領地内でも主敵から守るポイントに山城(砦)をおくのはいいけど,そこからだと総領としての勤めはやりにくい…とかね,
信長の岐阜時代は,山上と麓の両方を使い分けて住んでいたみたい.
京都から公家が来たとき,信長は山上の館にいて,
「登って来るのは大変でしょう.
数日後に麓の館に移る予定なので,そのとき会いましょう」
ということになった話がある.
取次役の家臣は,麓に屋敷があったようなので,家臣はいちいち山上まで登っていたようだ.
山城は鉄砲が普及すると,相対的に防御力が落ちたので,平地や低い丘に石垣造りの大きな城を築くことが多くなった.
そのほうが多数の兵士を収容したり,交通や経済的に重要な地点に築城できるというメリットがある.
ただし,城主が城内に住まないで,城外に屋敷を作って居住しているってのは,後に築かれた城でも見られる.
熊本城とか.
一応,本丸にも御殿があって生活可能だったはずなんだが.
日本史板,2007/12/02(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の城下町は,どのように作られたのか?
【回答】
政治家と建築に関する本て言うのも此処で取り上げられそうなネタなのですが,城下町はどの様にして造られたかと言うのが結構面白くて,今回はこのネタを取り上げてみる.
日本の大工道具の中に,「曲尺」と言うものがあります.
鋼又は真鍮製で,直角に折れ曲がった長手16寸,短手8寸程度の物差しの事ですが,現在のメートル法の時代のものなら兎も角,戦前より前の古い曲尺の場合は,表側と裏側とで目盛の寸法が違います.
規(ぶんまわし=コンパス)と矩(まがりかね=定規)と準縄(みずはかり=準が水盛りで縄は墨縄を表す)の3種は,大工にとって非常に重要な道具であり,「規矩準縄を正す」と言うのは,基準を作ると言う意味に通じます.
これらの道具は,中国で後漢時代147年の武氏祠石室の像には,人身蛇尾の男女のうち,男が矩を,女が規を手にしているものがあるので,その頃には既にあったものと考えられます.
日本には,白鳳時代に入ってきたのではないか,と言われています.
余談は扨措き,長手を左手に持ち,右側に短手が折れている状態が曲尺の表目となり,逆に左側におれている状態が曲尺の裏目となります.
現在とは違い,これは寸と分で書かれて居ますが,長手に表目の√2倍の目盛りが切込まれていました.
従って,短手5寸と長手5寸(裏目5寸=表目7.07寸)に線引きし,斜辺を結べば5寸:7.07寸:8.66寸,即ち,1:√2:√3の三角形を書くことが出来ます.
また,表目の長手には特殊目盛として5寸,10寸,15寸に大きく目盛ってあるのと,裏尺の5寸,即ち表目の7.07寸と裏尺10寸,即ち表目の14.14寸に目盛が振られており,裏尺も同様に,表目5寸に対応する裏目3.54寸と表目10寸に対応する裏目7.07寸,表目15寸に体操する裏目10.6寸に目盛が付されています.
こうした裏目の登場は,文献上は1712年の『和漢三才図会』に「裏尺即ち曲尺の裏尺なり,其一尺は表の一尺四寸一分四厘余に当る」とあり,規矩術の指南書としては,江戸幕府の大工棟梁であった平内延臣が,1846年に著わした『矩術新書』が初登場となりますが,実際にはこうした規矩術は大工の口伝として長らく受け継がれてきたので,平安時代又は鎌倉初期まで遡ることが出来る様です.
この曲尺の表目1を直角三角形の短辺に,裏目1(=√2)を長辺に取ると,斜辺√3の直角三角形を描くことが出来ますが,この直角三角形の鋭角部分は計算すると,大体35度26分となり,この角度は,実は日本の中央部緯度,つまり,出雲,松江,鳥取,長浜,岐阜,犬山,甲府,江戸に於ける北極星の高度に当ります.
従来より,北極星は唯一不動の星として神聖化され,北斗七星と合わさって北辰北斗信仰となり,更にこれが仏教と習合して妙見信仰となっています.
でもって,北辰北斗の形態は,この1:√2:√3の三角形に通じるものとなると言う偶然…とは言えないかも知れませんが,そうしたものがこの曲尺の根底にあると考えられています.
日本の古建築に於ても,この1:√2の構図は幾たびも用いられており,正方形の一辺を短辺とし,その正方形の対角線を一辺とする,短長辺の比1:√2の長方形は「日本の黄金比」と呼ばれています.
現在でも家の間取り,畳,建具,床,天井,家具,調度類には長方形でしかも短長辺の比1:2の長方形が最も多く,次いで多いのは,正方形の一辺を短辺とし,其の正方形の対角線を長辺とする,短長辺の比1:√2の長方形だそうです.
これは特に和紙の寸法に多く用いられており,美濃紙は0.9尺×1.3尺,半紙0.8尺×1.1尺,奉書紙1.1尺×1.55尺となっています.
この長方形に対角線を引くと,短辺:長辺:対角線の比は1:√2:√3です.
また,法隆寺創設当時の伽藍配置に於ける回廊や四天王寺の主要伽藍を囲む回廊の外側線,出雲大社の立面構成に短長辺1:√2の比が使われていた事が知られています.
創建時の法隆寺の回廊は,単純な矩形で,回廊外周の短辺が180高麗尺で,その長辺は短辺の√2倍であったとされ,四天王寺の回廊外側線も短辺が200高麗尺で,長辺は√2倍であり,これら短辺は,付近の条里の単位と符合すると指摘されています.
更に,出雲大社も1:√2比が用いられており,大社造は,正六面体即ち立方体を主体とし,その上に直角三角形のプリズム屋根を載せた形が基本形です.
基本形としては屋根の線を上に延ばして千木とし,下に延ばして軒としています.
その立面の正方形を左右に二等分する中心に棟持柱屹立し,二等分されて生じる2つの長方形は更に廻縁を巡らせて上下に分断されるとしています.
これは中国の古代数学の考えで用いられた,「方五斜七」「方七斜十」と言うものを応用したとされています.
方五は正方形の一辺が五,斜七は対角線が七に成ることを示しており,「方五斜七」「方七斜十」は1.4と1.4286で,√2は1.4142…なので,少し小さい近似値と大きい近似値を実用として使っています.
とすれば,これが日本にも取入れられた可能性が高いと言う事になります.
しかし,昔の人も,√の概念を持っていた例,ユークリッドの究極の命題を考えていたとは目から鱗ですわな.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/16 18:56
江戸初期に主流となった甲州流軍学を集大成した,『甲陽軍鑑』の編纂者で,甲州流軍学の祖と言われているのが小幡景憲ですが,彼の門下に,旗本で大目付を勤めた北条氏長と言う人がいます.
北条と言う名字でもお分りのように,彼は後北条一門の出で,小幡景憲には1621年に13歳で入門し,北条流軍学を創始した軍学者としても大成しました.
氏長は景憲の講義を綿密に筆記し,覚書として景憲に『兵法私鑑』として提出し批正を乞いましたが,その出来映えが余りにも見事だったので,1635年,景憲は氏長にこの書を『兵法師艦』と書き改めさせました.
その後,徳川三代将軍家光の要請によって,1645年に『兵法雄鑑』を著述して献上しますが,元の『兵法師鑑』は,その『兵法雄鑑』に対比して,『兵法雌鑑』と改称して伝わりました.
この『兵法師鑑』抄地利の巻十に,「えづ・木図・土図にて,城取遠路をするは,寸,町,分間の図を以,可仕なり.口伝」と書かれて居ます.
つまり,敵地侵攻や敵城攻略の際の絵図として,「寸町分間図」と言う代物があることを示しています.
分間図と言うのは,1分が1間として表現した1/600(1間=6尺)又は1/650(1間=6尺5寸)の縮尺図の事であり,寸町図と言うのは,1寸で1町を表現した,1/3,600(1間=6尺)又は1/3,900(1間=6尺5寸)の縮尺図の事です.
逆に言えば,攻略側だけでなく,防御側もその防御陣検討や,軍備配置にこうした寸町分間図を用いた事が考えられ,それは,城造り,町割りにも応用された可能性は否定出来ません.
更に時代が下って,1636年に小幡景憲や北条氏長に入門したのが山鹿素行です.
彼は1642年に景憲から甲州流軍学の兵法講授の師証を得,その後,1656年に有名な『武教全書』を著わしていますが,その前の1651年に『兵法奥義』と言う著作を書いています.
この『兵法奥義』にある奥秘本伝の二星相伝と言う章で,「二星とは大星と北斗星の二星なり…昼は大星夜は七星を専とす」と言うくだりがあり,大星と北斗星の陰陽二星を大事と説いています.
では,大星とは…
――――――
大星とは日輪なり.日輪を大星と名付るが伝なり.…日輪よりそふて事を為さば,不レ勝と云事なきなり
――――――
とあります.
つまり,昼間は日輪を背にして戦えば,勝たないと言う事は無いと書いている訳です.
一方の北辰北斗とは,
――――――
前に云,二星の一つなり.北辰の北斗と云は,北辰は天のくるゝなり.それに根ざして運転して,事の行はるゝものなれば,故に北辰の北斗と云.是は専ら夜の用なり.…夜はあらはれたる処の北斗を用るがよし.
則この北斗を我が後にをびて,剣先を敵へ向けて打時は,不レ勝を云事なし.尤北斗は大星に対するなり
――――――
とあります.
つまり,夜は北斗を我が後にし,剣先を敵に向けて戦うことを説いており,更に北斗については,破軍尾返の条に,
――――――
破軍とは北斗の一名なり.尾返とは破軍のまはりめの事を云.…破軍の尾のめぐるをさして尾返と云.破軍を打返し用る心に見ばあやまりなし.唯そのめぐりを考,七星ををびて,尾先を彼に向はしめて戦事伝なり
――――――
とあります.
即ち,北斗つまり七星は別名破軍と言い,北斗の第七星を破軍星とも呼び,剣先を敵に向け戦うことを用いるのは道理であると説いている訳です.
北辰北斗はそれらを結ぶことで大三角形を造る事が出来ます.
昨日に書いた,1:√2:√3の三角形の鋭角部分は,北極星の見える角度になっていると書きましたが,この辺りが遠因ではないかとされています.
その破軍尾返,北辰と北斗の位置関係が重要視されたのは,何も山鹿素行が最初ではなく,小幡景憲も北条氏長もその奥義に概略同様の事が記されています.
これの大元を辿っていくと,伊勢神宮の三節祭に辿り着きます.
伊勢神宮内宮の皇祖天照大神には太一(北辰)が,外宮の豊受大神には北斗七星が秘神として習合しているとされています.
伊勢神宮の主要な祭として,神嘗祭と2季の月次祭が挙げられ,これを合せて三節祭と言います.
神嘗祭では,旧暦9月17日子刻を中心として,「宵暁由貴大御食」と言う供食が,午刻には「太玉串奉立と奉幣の儀」が執り行われます.
この2刻の北斗の剣先は,子の刻は子の方位(北)を指し,午の刻は午の方位(南)を指します.
同様に,2つの月次祭のうち,旧暦6月17日子刻には,宵暁由貴大御食供進を行い,午刻に奉幣を行いますが,この時に北斗の剣先は,子の刻には酉の方位(西)を指し,午の刻には卯の方位(東)を指します.
もう1回は,旧暦12月17日子の刻と午の刻ですが,この時は子の刻が卯の方位(東)であり,午の刻は酉の方位(西)を指します.
こうした,北極星−七星第二星−破軍星を結ぶ構図は,北極星を中心として曲尺の様な形であり,空全体に,斜めの卍形(と言うかもろにスワスチカ)の形を描くことになります.
で,これを山鹿流兵法の『兵法奥義』巻四秘伝目録にはこの様に書いています.
――――――
縦横曲尺の相交わりて是を万字に譬ふ.
陰受け陽受け,開闔相合ふ.
是を卍と謂ふ.
独陽独陰なるときは,則ち成らず.地天泰き時は則ち四方を成し,四維を兼ね,方にて円なり.
或は縄張りに用ひ,或は虎口升形に用ふ.
――――――
此処では縦横に曲尺の表裏尺を用いて相交わらせた卍字の構成を,「万字の曲尺」と言っており,この構成には北条流の極意である「方円神心」の天円地方の宇宙観と神心則ち天照大神信仰に習合した北辰北斗信仰を意味していたと考えられています.
こうした北辰北斗信仰は,元々は大陸から伝わったものですが,日本に於ては密教の妙見信仰と習合していったと考えられます.
真言宗では妙見菩薩となり,天台宗では尊星王大士とも言い,日本人の中に広まり,江戸期に最盛期を迎えます.
また,妙見信仰は庶民の間では虚空蔵菩薩(明星天子)として発展していきます.
尤も,北極星と明星(=金星)は全然別の星ですが,庶民レベルでは全く同じ星とされていました.
武将にも大内氏を始めとして下総の千葉氏一族,細川忠興なども妙見信仰に帰依した人々が居ます.
彼等は妙見菩薩を軍神とした訳で,城地を決めたり,町割を施す際にも,こうした北辰北斗の考え方が深く根付くことになりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/17 23:10
さて,ここ暫く,1:√2:√3の三角形だとか,北辰北斗の話とかをしていた訳ですが,今度は城下町の形成です.
例を小倉に持ってきた訳ですが,高橋鑑種が1570年に小倉城主として入城後,1587〜1600年まで毛利勝信の時代までは小規模ながら紫川河口に位置する城を中心とした町場が形成されていました.
1600年,関ヶ原の合戦の論功行賞に伴い,細川忠興が豊前国,豊後国の国東,速見の両郡合計40万石を得て,12月に中津城に入りました.
暫くは中津城で生活していたのですが,忠興は1602年に新城を小倉に定め,1月に鍬入れ,11月に普請成就,そして入城となりますが,城下町の方は,その後細川氏30年の治世でも終に完成しませんでした.
忠興の築いた小倉城は,紫川河口に臨む左岸の洪積台地,標高10mの地点に本丸,松の丸,北の丸の第1郭を,その北側の第2郭には5軒の家老屋敷を置く二の丸を置き,その南西一帯の第3郭に重臣達の三の丸を構え,内郭を形成します.
その外側には外郭を形成し,三の丸南側一帯に中級・下級武家屋敷を配し,この武家屋敷は長方形街区で町割されていました.
一方,二の丸北側及び三の丸西側には町人地が設定され,紫川の西側にあるこの部分は西曲輪と称していました.
対岸の紫川右岸に広がる沖積平野の低湿地には,新開の東曲輪が構築され,主に町人町を配置し,こちらは碁盤状に町割されています.
更に西曲輪の西側海岸線には,帯状の帯曲輪があり,3つの曲輪による総構えの構成となっていました.
こうした総郭形の城下町は比較的小さな規模の大名家に見られるものであり,大藩では他に鳥取と高知くらいしかありません.
鳥取や高知の城下町は,洪水に対する備えでしたが,小倉城のこれは何に対しての備えだったのかがよく判っていません.
もしかしたら,偏執狂的な忠興の性格がこの城下町形成に投影されたのかも知れません.
この城下町ですが,本丸大手門から反時計回りの渦巻状に家格や身分が下がる構成になっていました.
これは,江戸城が時計回りに同様に家格や身分が下がるという構成になっていたのとほぼ同じ構成で,大手に近い程家格が高いと言う,渦郭式の構成でした.
地形と身分の関係で見ると,本丸,特に天守は当然最も高く,本丸,二の丸,三の丸と続き,高台の上級武士,新開地の下級武士,谷間・低湿地の町人と言う配置で,江戸とこれ又類似の構成です.
忠興は,商業振興には水運を重視し,紫川の河口を利用して110間にも及ぶ波戸を設けて港を築きました.
常盤橋(大橋)を中心とした河口一帯は港の機能が充実しており,関門海峡の要衝の地であると共に,大陸との交易も見据えた配置だったことが伺えます.
また,常盤橋一帯は,長崎街道,中津街道,香春街道,福岡街道,門司往還の5街道の起点となっており,宿駅の機能も併せ持つようになって,人と物の集散地として機能するように形成されています.
各街道に沿って商家が立ち並び,町人町が形成されていった他,中津街道や香春街道に沿っては魚町,長崎街道に沿っては室町や立町,門司往還に沿っては京町がそれぞれ形成され,商業地として賑わいを見せていました.
小倉城下町の東曲輪の町割は京都をモデルにしたと言われていて,碁盤形の街路を現在も目にすることが出来ます.
この碁盤型街区の内法寸法を算出してみると,30〜33間未満に約8割が分布し,その平均は各方向とも31.2〜31.5間でした.
平安京や江戸など多くの城下町で碁盤型街区を採用している場合は,内法寸法が約60間なので,近世城下町の中では,小倉城下町がその最小構成と言えるとされています.
そして,この碁盤型街路は天守を中心として,35間の整数倍の同心円上に重なる事が確認出来ます.
では何故,35間の同心円なのに,31間平均の街区内法寸法になっているか.
東西方向の街路を見てみると,碁盤型に見える街路は,実は鳥町筋で折り曲げられています.
旧街道であった京町筋から見ると,微妙に視点がずれる,則ち,遠見遮断の防御的意図が見て取れる訳です.
京町筋から南の各町筋は京町筋に並行に通っており,京町筋は東西方向の街路線引きの基軸でもあったと推定出来ます.
南北方向の各街路は京町筋に直交させていますが,魚町から東側の各筋は,大坂門から見通し直線に直交させ,魚町から西側の各筋は,若干下半角を付けて,桜町口門から見通し直線に直交させるようにしてあります.
この各街区基線間の寸法平均は,東西方向35.1間,南北方向35間となり,街区の芯々寸法35間で町割したことになります.
そして,街区内法寸法31間と言う数字は,35間で町割の基線を引き,街路を3〜4間で配した結果と言えることになる訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/18 22:45
▼ 戦国末期から,所謂平城が発展してきたのですが,城を造るのは防備の目的だけではなく,城下に町を作って,経済的な領国の発展を企図する様に成っていきます.
その為には,新都市建設の基盤となる主要施設配置や土地利用計画,街区計画や宅地割と言った都市計画を実行しなければなりません.
戦国武将と雖も,単なる戦馬鹿では通用しません.
福島正則なんかはその代表格と思われがちですが,彼でも,秀吉の影響を受けて城下の整備を熱心に行っています.
こうした都市計画を町割と呼んでいますが,人口が自然増で緩やかに増加した場合は,都市計画が余り重要ではなく,配置も端正なものでなくとも構いません.
しかし,人口が一時に増える場合,例えば,首都移転や転封や山城から平城へと城下を移す等の作業を行った場合は,その配置は計画的に設計し,建設されています.
その例としては,古くは飛鳥京,藤原京,平城京,平安京と言った都の造営に於ける条坊制であり,近世城下町建設に伴う町割を指します.
近世初期に於ては,国都として建設された平安京が唯一の実在の計画都市であり,理想論から言えば京都の町割が治世者の目指す所となっていました.
『平安通志』には京の町割について次のように記しております.
――――――
坊ハ町ヨリ成ル 凡ソ坊ヲ立ツル方四十丈ヲ町トシ 四町ヲ保トシ 四保十六町ヲ坊トシ 四坊十六保六十四町ヲ條トシ 毎條ニ四坊ヲ置ク 坊ノ間ニ必ズ大路アリ 縦横之ヲ畫ス 二條以北ハ各三坊ヲ管シ三條以南ハ制ノ如シ 其中央ノ通街ヲ坊門ト称ス一町ニ四行トス 行ニ八門アリ 之ヲ一戸トス 凡ソ町内小徑ヲ開ク 大路ノ邊町ニハ二広サ各一丈五尺 市人ノ町ニハ三 広サ 各一丈 自餘ノ町ニハ一 広サ一丈五尺トス
――――――
様々な戦国武将が,この様な端整な碁盤の目状のきちんとした町を建設する事で,覇者としての威厳を世に知らしめようとした訳です.
1519年,武田信虎が築いた躑躅ヶ崎の城下は,甲州流の縄張であり,『甲府略志』には「街路が其初京都の條路に倣ひ 南北に四條の大道を開く」と書かれて居ますし,1590年に江戸の地に転封された徳川家康も,最初の江戸の町は平安京に影響を受けて作られた町割となっています.
また江戸に入っても,1614年に計画された松平忠輝の高田城下町でも,京都の町に倣った整然とした区画が整備されていました.
しかし,必ずしも理想通り行かないのが世の常.
決して暗愚な当主ではないのに,町割については散々叩かれたのが蒲生氏郷です.
1534年,氏郷は近江日野に城を築き,町割をします.
氏郷の治世,日野の城下は非常に繁栄をし,町数は79を数えましたが,地形に従って道路は弦状を為しており,碁盤割りに出来ませんでした.
その後,1588年に氏郷は伊勢に転封し,松坂の城下町を拓きますが,街路は屈折して雑然としていました.
これをして,松坂権輿雑集と言う書物には,「伊勢の松坂毎着て見てもひだの取様でまち悪し」と揶揄されました.
つまり,「ひだ」は蒲生氏郷が飛弾守を名乗った事から,衣服の襞(ひだ)に引っかけて,飛騨守造営の町割が乱脈を極めた事を例えたのです.
その松坂は2年だけいて,1590年には秀吉によって,東北と関東に対する抑えとして,会津に転封となります.
この会津でも,「黒かはを袴にたちてきてみれば まちのつまるは ひだの狭さに」と言う落書が出回りました.
勿論,会津の町割の雑然とした様を揶揄したものです.
其処で氏郷は意を決して,曽根内匠等に命じ,甲州流縄張を以て築城し,郭内には将士の邸宅を列ね,郭外には商舗職工軒を並べ,方1里有半の間,市井を改画して端整なものとしたりしています.
最終的には甲州流を用いて町割を行う辺り,これが氏郷の弱点だったのかな,と思ってみたり.
決して,戦の指揮だけで天下を取れないと言うのがよく判る話です.
こうした町割が得意だったのが,秀吉でした.
1574年,初めて城を造る事になった長浜の地は,琵琶湖に臨む場所に城郭を建設し,外堀によって武家地や町人地が明確に区分されていました.
その視軸は,前述の様に城に向かう本町を基軸として矩形街区の町割を施し,地元の今浜と小谷城下から移した町人町を統合して城下町を築いています.
この街区の芯々寸法は概ね東西42.4間,南北60間の矩形をしており,屋敷割は町筋が交差する地点の屋敷は東西の町筋に間口を開いており,東西の町筋を表通りにしていました.
こうした型の町割は,織豊系の城下町に広く普及していました.
それを秀吉がもっと洗練させ,完成させた形が,秀次を城主とした近江八幡城の城下町です.
この城下町は,1585年に秀吉の意向に沿って建設が開始され,整然とした長方形街区の町割が施されて完成しました.
これも長浜城と同じく,琵琶湖から導かれた八幡堀によって,八幡山山頂の本丸,山麓の武家地と町人地が明確に分離され,町人地には安土から町が移され,地元の町場も八幡に移されて繁栄しました.
また,視軸は八幡山の本丸を基点にして本町が線引きされており,街区長辺が縦型に変化した点を除けば,全く長浜と同じ手法での町割となっています.
更に,街区長辺の方位,則ち町立ての軸は,長浜と同じく巽乾に振れており,街区芯々寸法も長辺60間,短辺42.4間となっていました.
家臣の屋敷割においても屋敷奥行を同じくする均質な長方形街区の整然とした町並みを整備していました.
一方,1583年から経始を開始し始めた大坂城は,1598年に至って,船場島之内全域を芯々寸法42.4間に町割して碁盤型の街区を成立させました.
これは京より小振りでしたが,街路は東西南北に正方形の碁盤型の配置であり,全く京都を模したものとなっています.
正に天下人の城というべきものでした.
ただ,熊本や江戸,小倉,名古屋,駿府など後に造られた城の町割の芯々寸法は小倉の35間を除けば全て方60間だったのに対し,秀吉が何故42.4間と言う中途半端な数値を採用したのか,その辺は謎に包まれています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/30 21:23
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【質問】
戦国時代の築城技術は?
【回答】
一般的に城を築く場合,地選,地取,経始,普請,作事の5つの工程で以て進められます.
地選は,城郭の位置を選定すること,地取は地選とセットで城郭内の区画決め,経始は縄張りの事で,絵図,砂図,木図を用いてプランを決め,土木工事である普請,建築工事である作事へと進んでいく訳です.
このうち,設計段階である地選,地取,経始には呪術が深く関わり,例えば,高松城の地選には,安倍晴明の子孫である安倍有政に吉凶を占わせ,地祭をして城名を吉祥のある名に変更していますし,経始にも陰陽師,軍配者,軍師が関与し,地鎮祭を執り行っていました.
経始は,先に北条流軍学の項でも取り上げたように,絵図,木図,土図の3種の図を作成して,城取,城郭と城下町の設計を思慮し,其処から寸町分間図と言う縮尺図を作成していきました.
北条流軍学では,城郭と城下町の設計に使った寸町分間図は,1分が1間,6寸(60分)が1町の縮尺でした.
甲州流軍学での縄張は,荻生徂徠の言に依れば,この様な感じでした.
第一に縄張の大綱を決める.…甲州流では砂で模型を作り,案を練ったりして,徒に月日を過ごすのは無駄な事だとする.
なぜなら,城取の地形は複雑で,その地形を考慮に入れない限り,そうしたものは到底適用出来ないからである.
何れにせよ,この縄張に基づいて絵図を作成する.
次に,その絵図に基づいてこれを土図に移す.
つまり,現地にあたって縄が張られ,実際の寸法と形が割出される.
かくて,本丸の坪矩(現場寸法)がまず決定される.
不具合があれば,普請奉行に申しつけて絵図の手直しをする.
この絵図を元にして砂で模型(砂型)を造る.
此処で本丸,二の丸,三の丸内の建物の配置計画は勿論の事,城下の町屋,寺社の町割の大要を踏まえて算者に見積もらせる.
かくて決定された最終的な縄張を寸町分間図に仕立てる.
大体,北条流で書かれていたことと大差がなかったりします(まぁ,北条流も元が甲州流だし).
また,1589年,毛利輝元が安芸吉田城から広島の地に移る時の手順は,概略以下の通りと伝えられています.
先ず,候補地を捜します.
この候補地は二ノ宮信濃守なる普請方と思しき人物が,「己斐の五箇ノ荘」を提案してきました.
その提案に従って,秀吉に相談した所,黒田官兵衛孝高に見て貰えと言う事になり,官兵衛がこの地に出張ってきます.
官兵衛は宅を相して,この地を「究竟無上ノ地」と見立て,かくて1588年11月初旬より,二ノ宮信濃守を奉行に,官兵衛の指揮を受けて,城の方位を決めました.
この方位決めには,土圭と言う道具を使います.
土圭は鉤形で地面に対して垂直に立てる8尺の表竿で,地面に平行にする土圭が1尺5寸,『周礼』の大司徒に土圭法として取り上げられています.
土圭を用いて日の出と日の入りの日陰を観測し,北極星の位置を参考にして,東西南北を決めた訳です.
方位が決まると,天守の位置決めです.
中国の古式である「右社後市」と言う手法に従って,神社を基に天守の位置を正していきます.
こうして,草を刈り繁った蘆を刈る刈込を行って,城予定地に空間を作り上げ,匠人(工人)が鈎(鉤形に曲がった用具,則ち曲尺)と縄(測量用の縄,則ち間縄)を用いて,方角の勢覆(良し悪し)を明らかにして,高低遠近を計り頃合(位置)を決めました.
方位が重要視されるのは,鬼門の鎮護を行う寺社の設置位置を決めなければなりませんし,天守から敵が攻めてくるのを確認出来る見通しがある(逆光状態で攻められると不可也)様にしなければならないからです.
因みに,「右社後市」と言うのは,周代の『周礼』の「考工記」に「左祖右社面朝後市」とあり,王宮の左が宗廟,右は社稷で,前方に朝廷,後方に市場を配置計画する都城プランの理想型とされています.
毛利輝元が広島城を築くにあたって,その天守位置決めには,輝元が崇敬していた安芸宮島厳島神社の御神体山である弥山を見立山(新山)から視軸に見通す位置に天守を決めました.
この構成は,天守位置に南面して立てば,「右社」の方位に当り,最も尊崇する厳島神社の弥山を基準にして城郭や城下町設計の中心天守の位置を決めたと考えられます.
その黒田官兵衛孝高は,1587年に秀吉から豊前6郡を与えられて入封後,山国川に面する丸山の地を求菩提山の僧玄海法印をして適地と見て縄張して,1588年正月に玄海法印が地鎮祭を執行し,築城工事を開始しました.
後の中津城ですが,官兵衛は,自分の城であること,又秀吉の軍師としての矜恃からも,雄大な城郭を構築したいと考えていた様ですが,1600年に筑前に転封されてしまったので,城は「嵩上げばかりにて土手に松など植えられていた」と言う状態でした.
この地は黒田家の後,細川家に与えられ,1602年の小倉城築城後は,嫡子忠利が中津に残りました.
1604年,忠興は剃髪して三齋と号し,6万石の隠居所として忠利と入れ替わりに中津に入り,以後,中津の整備に燃えて1607年9月に中津城を再構築しました.
彼は,官兵衛が構築した本丸と二の丸の間の堀を埋めて一体化して本丸とし,天守台をも総地形ほどに取壊し,土塁を改め石垣とし,更に櫓楼を要所に起こし,三の丸を新設して町割を制定し,城下町を包囲する外郭を築造しました.
この中津城,黒田氏の時代も,細川氏の時代も,天守はありませんでしたが,両方の絵図には二重櫓や主櫓が描かれていました.
この場所には現在,奥平家の模擬天守が建てられていますが,この場所から冬至の旭日の上る方向には宇佐神宮があります.
宇佐神宮と言えば,武神である八幡神の総本山です.
冬至崇拝と八幡信仰が重なって,この冬至の旭日を拝しうる位置に主櫓を置いたと考えられます.
また,冬至の旭日の方位は,古くから辰巳信仰として,生産霊が坐すと信じられていました.
さて,その逆方向と言うか,この宇佐神宮から主櫓方向に延びる直線を其の儘延長させると,それは菅原道真が九州に上陸した地とされる古社,綱敷天満宮に突き当たります.
この位置は夏至の落日の方位に当り,この方位は穀霊神信仰,又,祖霊・地霊が坐すとして戌亥信仰が盛んであった事から,宇佐八幡宮−主櫓−綱敷天満宮は,一直線で視軸を構成しており,それは祥瑞思想に基づく巽乾軸と言えます.
一方,冬至の落日方向には何があったかと言えば,これまた北部九州の修験の山,英彦山があり,英彦山神宮があります.
この方位には藩主の祈祷所で修験の山,求菩提山があり,細川氏の後に中津に入った奥平氏の菩提寺,自性寺を後世に置く事になった方向でもあります.
冬至の落日は裏鬼門基軸と考えられています.
則ち,官兵衛も忠興も,冬至・夏至の旭日と落日の祥瑞ラインと,鬼門・裏鬼門ラインのクロスする位置に主櫓を設置した訳です.
天守の位置関係はこうした大きなランドマークから見て取れたりするのですが,城郭の方は,それより少し小さめのランドマークでのクロス軸から展開されます.
主櫓から見て,南東方向にある古社である薦八幡宮は直線で結ぶ事が出来ます.
主櫓からその線を北西方向に延長すると,これまた古事記伝に出て来るような古社である古表八幡宮に行き当たります.
此処で真方位を11度ほど時計回りに回転した見立方位で見ると,薦八幡宮−古表八幡宮は見立の南北方向とは45度の関係にあり,巽乾軸となります.
それと直交した方位が鬼門・裏鬼門軸になるわけですが,忠興はこの鬼門除けに日霊神社本殿を主櫓に向けて創建し,更にその先には官兵衛が中津に入る以前からある古社,闇無濱神社本殿が設置されており,この2つの神社が鬼門を守る守護神としていました.
逆に裏鬼門方向には,奥平氏が,その菩提寺である自性寺本堂を転封時に設置し,更にそれを延長していくと,修験の霊山である求菩提山犬ヶ岳に向かい,意図的な山当ての構図を見て取れます.
他の櫓も同じ様に古社古刹と視軸との関係で形作られたと考えられます.
街路については,中津川の河岸地形を利用して,それを斜辺とした曲尺を参考にした様な60間モジュールの1:√2:√3の三角形を等倍していった形で構成されており,官兵衛の町割は主櫓を中心として造られ,忠興の方はそれとは別の視座から同じ様な三角形で構成していっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/19 22:14
織田信長の安土城建設に先駆けて建設された羽柴秀吉の長浜城の都市政策と設計・建設は,その後の織豊政権,また初期の徳川幕府の城下町建設に強い影響を与えています.
長浜は,近世城下町の典型的な空間構成理念を実現しており,建設に際しては元八幡町(現在の朝日町)に鎮座した八幡宮を城下外に移転して,琵琶湖に臨む城郭と武家地を二重の堀割で画然と隔て,移転した八幡宮から大手門に向かう大手町並びに天守からの「お見通し」になっていた本町を基軸にして長方形街区を以て整然と町割が行われています.
また,長浜城天守は,夏至の旭日に近い修験の山,伊吹山と,冬至の落日に近いこれまた修験の山,大悲山の見通しの軸上にあったりします.
更に長浜城天守から見て,夏至の落日の方位には,竹生島の宝厳寺がありますが,宝厳寺は水神の浅井姫命が鎮座し,浅井氏が手厚く保護したのですが,秀吉は長浜城建設の1574年1月にはその準備の為,宝厳寺に浅井長政が預けていた材木の引渡の書状を発しています.
則ち,長浜城天守の設定は,夏至の落日方位に宝厳寺があり,逆方向の冬至の旭日方位にはずっと延長して熱田神宮に届く線と,修験者の霊峰である伊吹山と大悲山を結ぶ線とのクロス位置にあり,尚かつ,長浜城と大悲山を結ぶ線を底辺とした1:√2:√3の三角形を展開すると,建部大社に行き当たり,建部大社からずっと延長して長浜城を通り,更に北東へ線を延長すると,長浜城と伊吹山を結ぶ線を底辺とした三角形の一方の頂点に達すると言う複雑な手法で創り出されています.
こうした複雑な手法での天守位置の設定は,黒田官兵衛の中津や堀尾吉晴の松江城を含め,織豊系の城下町にも幾つか見られるもので,1576年に織田信長の築いた安土城,1578年に津田信澄の築いた大溝城,1585年に豊臣秀次が築いた近江八幡城,1586年に浅野長吉が築いた大津城などにも影響が見られます.
藤堂高虎と言えば,二股膏薬の代名詞みたいに言われる戦国大名ですが,一方で趣味,城造りと呼ばれる様な感じの人でもありました.
1594年に宇和島に封ぜられてから,今治や大洲,伊賀上野,津など転封された先々で城を築き,更に徳川家康の要請で,篠山城の縄張も行っています.
高虎は1594年に伊予国内宇和8万石に封ぜられますが,その領内を彼方此方歩き回り,20カ所の城跡を検分した結果,1596年に板島に城を築く事にし,1601年頃まで堀や石垣を築いて,天守や櫓,門を建設しました.
この地は西側に海が開け,水軍の基地にするには都合が良く,加えて北,東,南に城下町を建設するのに十分な広さがあったからです.
城下町は,東部に辰野川,南部に神田川を外堀として整備され,1604年に竣工しました.
城自体は高さ73mの城山に築かれた平山城ですが,外郭平面形態は不等辺五角形であり,これを「空角の経始(あきかくのなわ)」と称して,一大特徴となっています.
因みに,後に幕府の隠密が潜入して,この地を探り,報告書を提出したのですが,その時,隠密は四角形と誤認している程の巧妙な形だったそうです.
天守の選定では,秀吉と同じく,権現山山高神社と天満神社を結ぶ直線と,天神と坂下津三島神社を結ぶ直線との交点に配しています.
また不等辺五角形の採用は,軍略上の要点として天守と主要な門との間は全て視軸上に置くと言う観点で,仮想敵の進軍を陸側から(海側は圧倒的な水軍により制海権は握れると判断した)設定し,陸方向への視軸が重視され,海側の辺には視軸が少なくなっています.
一方で,この不等辺五角形は陰陽五行に基づくものと考えられます.
五角形の5つの隅の内,北より19度東に振った線上には黒門・黒門櫓があり,この黒門の「黒」は陰陽五行に当て嵌めると「水」(黒・北)です.
その延長線上には藤堂高虎他歴代当主が崇敬する伊吹八幡神社があり,それを更に延長すると大三島大山祇神社に至ります.
この軸と直交するのが,「木」(青・東)であり,その延長線上に藤堂家の後に宇和島に入った伊達秀宗の代になって,宇和島伊達家菩提寺等覚寺が建立されました.
次の角は「火」(赤・南)で,この線上に一宮と呼ばれた宇和津彦神社があったとされています.
次の角が「土」(黄・中)で,その延長上に歴代当主敬神の三島神社があり,最後は「金」(白・西)で,延長上に住吉社があったと言われています.
この様に,城地の形成については,陰陽五行説の五行相剋図を当て嵌めた構図が成立するとされ,万一籠城する羽目に陥った場合でも,城兵を精神的に鼓舞する策を講じていた訳です.
1600年になると,高虎は関ヶ原の戦で福島正則と共に,東軍の先頭に陣取り,その戦功で宇和8万石から一挙に加増されて,伊予半国20万石に封ぜられます.
高虎は宇和島城を出て,河野氏の国分城に入城しますが,これを即座に撤収して,新たに海沿いに約39町北方の蒼社川左岸の「今張」と呼ばれていた遠浅の海岸を城地に決めて城普請を始めました.
高虎の狙いとしては,瀬戸内海交通の要衝である来島海峡を挟んで対岸の大島に睨みを効かせ,芸予諸島近海の制海権を握る事にありました.
1602年6月に,「今張」を「今治」と改め,大山祇神社の本殿と拝殿を補修し,無事完成を祈願して新城建設工事を開始しました.
この城の縄張は増田長盛の旧臣で新規召し抱えの渡辺官兵衛了が,普請奉行は木山六之丞が努めました.
1604年9月に城は完成します.
この今治城は平城で,高さ8間の天守台の上に5層5重の天守が築かれ,本丸東方には城主の居館を持つ二の丸を置き,幅30間の内堀で囲み,その外には上級武家屋敷が構えられ,更に幅20間の中堀で囲み,外側に下級武家屋敷を置いて幅8間の辰ノ口堀・外堀で囲い込んでいます.
何れの堀にも海水を引入れ,中堀の海側には広い船溜りを置きました.
本丸には天守を含めて櫓数4,二の丸・三の丸は櫓数3で東門を大手とし,その外には海に面して12の櫓が設けられて北門を搦手とし,城門を9カ所に配しています.
総櫓数19のうち,海に面しているのが12箇所,城門の内,本丸より海側に配置されているのは西門以外の8カ所となっているのは来島海峡を睨んでの事で,宇和島とは仮想敵の進軍方向が全く違います.
これは,万一,徳川家討伐を叫んで西から東上する軍勢が来た場合,対岸の来島城と今治城で挟み込み,制海権を握ろうとする高虎と家康の戦略がありました.
で,この今治城の天守の位置は,真北に産土神で伊予国の総社,一ノ宮である三島大山祇神社があり,真南には須賀神社があり,両社で北辰軸を構成する配置でした.
一方,大濱八幡神社と最初にこの地に封ぜられた高虎が入った時の居城国分山城とを結ぶ視軸があり,更に大濱八幡神社を延長すると来島城に達する海峡軸となります.
この海峡軸には,天守の他,三の丸北門,辰ノ口,衣干八幡神社など城下町の主要な施設を通る視軸でもありました.
縄張については主流だった円形の縄張をせず,又,宇和島とも違って,今治の場合は方形の「方郭の経始(かくのなわ)」で設計しています.
この方形の郭は,死角が出来る欠点を見抜き,「歪」つまり軍学上の「邪」「斜」「横矢」の工夫を入れていました.
「歪」とは,石垣の一部を張り出し,屈曲を付けて横矢などの側防効果を狙ったものです.
方形であれば,石垣や城壁を一直線上にして,火砲を幾重にも配置して一斉射撃の反復による敵の撃滅を狙う事が出来る訳で,取分け,火砲による敵との戦闘を重視した縄張だった事が言えます.
更に今治には「御船手」と言う水軍基地が設けられており,今治城は徹底した対水上戦の城だった事が判ります.
で,紙数が尽きたので,篠山と伊賀上野城は又明日.
しかし,高虎と言う人,楽しんで城の縄張をしていたような気がしますね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/23 21:34
家康が江戸に幕府を開き,秀忠に跡を継がせると,徳川家の支配は盤石のものとなり,大坂の豊臣家は既に存在意義を失っていました.
そして,家康が死ぬ前に後顧の憂いを取っておこうと,動いたのが大坂冬の陣であり夏の陣です.
幾ら兵力量に勝っているとは言え,豊臣恩顧の大名や伊達家や上杉家,毛利家,島津家,鍋島家,前田家,佐竹家と言った外様の有力大名の寄せ集めでは,万一の事もあり,又,大坂に集まった浪人達の動向も予断を許さないので,家康は各地に大坂包囲用の城を築かせました.
西には女婿の池田輝政により姫路城を修築し,南は浅野幸長の和歌山城を修築し(これも元はと言えば羽柴秀長の為に高虎が縄張をしたものと言われている),京都防備用には伏見城(余談ながら,昔あった桃山城遊園地の初代営業部長だった人の奥さんが木下勝俊家の出だそうで)と,それぞれ防備を固めて,大坂方の侵攻に備えていましたが,北部と東部には防備用の城が無く,ポッカリと空白が空いていました.
其処で,東部には今治から伊賀に転封してきた藤堂高虎により伊賀上野城の建設が行われ,北部は豊臣系と目されていた丹波八上5万石の前田茂勝(前田玄以の息子)が1608年に発狂して,多数の家臣を斬殺して改易されると言う事件が起き,その後に常陸笠間から家康の実子である松平康重が5万60石で転封して来て,これで北部の抑えが出来ました.
しかし,八上城は近世の城に適さないとして,新たに城を建設する事になり,地選を行います.
候補地は,八上城西北の王地山,篠山,飛ノ山の3カ所で,地形の高低を示した模型絵図を作成し,清洲城に居た家康に説明した所,篠山に即決しました.
この篠山の地は,「指針相応の規則に叶い陰陽の原理」に則していたからとされています.
これは後で理由を述べるとして….
家康は普請奉行として女婿の池田三左衛門輝政を,縄張奉行に藤堂高虎を,普請奉行に幕府から石川左衛門重次,内藤金左衛門忠清を命じ,目付役に家康側近の松平大隅守重勝を命じ,15カ国20大名家による天下普請で1609年3月に着工(鋤初め)を行い,10月初旬に奉行衆と諸国大名が帰国,12月26日に松平康重の新城入城が行われると言う突貫工事が行われ,その普請は縄張奉行高虎の家臣渡辺官兵衛了の指揮の下に総勢8万人に及ぶ労力と財力を投じた工事でした.
篠山城は比高15mの平山城で,縄張は今治で高虎が行った方形を基調としたものであり,天守台,本丸,二の丸が梯郭式,三の丸はそれを囲んで輪郭式となっています.
三の丸の大手(北),東,南の3門は土橋で外堀を渡り,それぞれに角馬出が付くのが特色で,二の丸の高石垣の裾に広い犬走があったのも特徴的でした.
城下町は1610年正月から家老岡田内匠重綱を地割奉行として,最初に八上城下にあった尊宝寺,来迎寺,誓願寺,真福寺,観音寺,妙福寺を鬼門などの重要な地点に移築し,町人町を立町,呉服町,二階町,魚屋町を形成して,その後,西町,河原町へと続けて八上城下から移したものです.
天守台は内堀より10間の石垣を積み,南北10間2尺,東西9間2尺で5層の天守を築くに見合う土台が築かれましたが,本多佐渡守正信の意見により天守は築かれず,単層隅櫓と塀だけが造られたに過ぎませんでした.
その天守の位置は,清洲城にて1609年1月25日から2月4日に名古屋城城地を相したのと同時に行われたもので,その地選は,伊賀上野城と軌を一にしており,三輪山から日吉大社を基軸にした南北軸(北辰軸)を境に,日吉大社を頂点として底辺を西に延ばし,南北軸途中の若草山を頂点とした斜辺として大三角形を築いた頂点に篠山城の地が選ばれ,南北軸途中の山城国分寺をから水平に延ばした頂点に底辺を延ばし,日吉大社を頂点にした斜辺との交点に伊賀上野城が設置されています.
その南北軸の始点と終点,則ち三輪山から東に線を水平に延ばすと共に,日吉大社から斜辺を南東に延ばすとその交点の位置には伊勢神宮にぶち当たり,これまた大三角形が形成されるという寸法です.
因みに,篠山城の緯度は北緯35度04分12秒,日吉神社の緯度も北緯35度04分12秒と全く同じであるのに驚かされます.
日吉大社は,天台宗比叡山延暦寺の守護神山王権現を祀り,この山王権現は『延暦寺護国縁起』によれば667年に天智天皇が大津京に遷都した翌年に王権の象徴として「三輪山の神を移して」山王権現として勧請したとあり,このことから,南北軸は北辰軸として考えられた事が判り,伊勢神宮の天照大神は,大神神社の『三輪大明神縁起』によれば,三輪山の神を移したものとされ,三輪山と結ぶ事で,東西軸(太陽軸)を構成したと考えられていたようです.
因みに,家康薨去後の久能山への葬送,その後の家康の遺言と称した日光への遷座を目論んだのは天海僧正であり,その実現に奔走したのが高虎と考えると,こうした考えにも天海の影がちらつく訳で….
序でにこの時期,家康は天海に比叡山東塔南光坊への在位を命じています.
それだけに,久能山と日光東照宮の話も結構呪術的だったりする訳で.
で,その伊賀上野城ですが,家康は筒井定次を改易して1608年に伊予今治から高虎を伊賀に移し,伊勢と合せて22万石を領しました.
伊賀上野の地は,筒井定次が平楽寺,薬師寺の旧地を削平して大規模な城郭を築いていましたが,高虎は1611年1月から上野と津城の大改修を開始します.
上野では,古城の西尾根を削平して本丸を広げ,天主をこれに移して堀を掘り,重厚な高石垣を築きまました.
一切の縄張は高虎自身で行い,高石垣の普請は服部左京,渡辺掃部などの石垣造り巧者を,天主の作事は粉川以来の次郎三郎,伊予より随従の助五郎,九十郎に加えて伊賀の棟梁小町田仁助,荒木村兵衛を起用すると言う自身の築城の集大成とも言えるものでしたが,天守は1612年9月に台風で倒壊してしまいました.
天守はその後再建されることなく,大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると,豊臣討滅作戦基地としての機能も消滅し,元和偃武の下に武家諸法度を敷いて城郭の普請を禁止した手前,要塞としての機能は無くなり,又,高虎自身も32万石に加増されて津城に移ったので,伊賀上野は城代家老の治める土地となります.
この伊賀上野城は不思議な事に,軍学者が説く「天守の十徳」を満たす条件の1つ,天守が展望の良い本丸の最高所に置かれていません.
本丸の東側には一段と高い筒井の旧本丸があって,東方への視界を遮り,十徳の条件から外れてしまっています.
この原因には諸説在りますが,天守完成後,東大手の作事小屋へ引平一面に多聞櫓を立地する計画があり,その計画が未完成の侭,大坂城が落城してしまい,元和偃武により普請が中止されたと言う説が妥当とされています.
天守台の位置は,大所から見れば,日吉と山城旧国分寺から引いた直角三角形の交点にあるのですが,一方では冬至の旭日位置に国分寺金堂跡があり,夏至の旭日位置には伊賀国の一ノ宮である敢国神社が,冬至の落日位置には城代家老となった藤堂采女家の歴代墓所となった天台宗の名刹西蓮寺があります.
つまり,夏至旭日〜冬至落日の鬼門・裏鬼門ラインと,冬至旭日〜夏至落日の巽乾軸ラインの交点に天守台が設置されている訳です.
う〜みゅ,両者の防備についてもう少し突っ込んで書こうと思ったが,時間がねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/24 21:57
さて,昨日も触れた篠山城ですが,高虎にとって宇和島城,今治城に続く,今度は陸の平城とも言うべき作品です.
篠山城の特徴をお復習いすると,縄張は輪郭式で本丸と二の丸が今治城に用いた方形の「方郭の経始」を基本的に踏襲し,方形の本丸の南東隅に長方形の天守郭を配し,本丸の周囲に大きな二の丸を配置して,二の丸の北と北東,南西の3つの虎口に内側に入り枡形,外側前面に長方形の角馬出を備えるシンプルな形態でした.
とは言え,単純な方形の本丸と二の丸の東北隅が鬼門である為,欠き込みを造って単調な縄張に変化を与え,本丸の大手側(北側)には鬼門の欠き込みに加えて「歪」に富んでおり,火網を此処へ集中する意図を読み取れます.
本丸と二の丸の周囲には広大な堀があり,堀を渡る橋は本丸へは廊下橋になっており,二の丸へ入る橋には全て胸垣と言うべき土塀が付いており,側防と共に秘匿の意図が見え隠れしています.
二の丸の単調に見える土居の上には胸垣状練塀が4周に作られ,その各辺に5つの「屏風折り」が設えてありました.
また,南馬出にも2つの「屏風折り」があります.
これらの「屏風折り」は,石垣がない土居の上の練塀に特定して使われ,攻撃側が土塀に取付く兵士を鉄炮で撃退するのを目的としたものでした.
この城の弱点を挙げるとすれば,本丸周囲の犬走りが帯曲輪のような広さになっていることです.
本丸の石垣の下に広い犬走りがあるのは本来余り好ましい事ではないのですが,石垣を軟弱な地盤に築く際の基礎としては止むを得ない仕儀だったと考えられています.
この様に,高虎の縄張した篠山城は,守り手側が鉄炮を縦横に駆使した火砲戦を行い,攻城側を射竦めるのを目的とした城だったと言え,これまでの守勢防御の城の常識を超越したものと言えます.
歴史に「もし」はありませんが,もし,大坂の七手将が攻めてきたとしても容易に攻略出来る城ではありません.
また,天守台からの視軸としては,城郭の主要な城門,3つの出丸門,主要な櫓は全部天守から見通せるようになっており,天守を司令部として,全体の統制が取れる様に成っていると共に,城下町の主要な街道である京都との出入口である京口,大坂との街道の出入口である石山口を始め,これらを防備する番所や木戸門も天守台からの視軸で構成されていました.
勿論,籠城兵の士気に対する配慮として,天守の真北にある宮山に,地域の氏神として鎮座していた春日大明神を置き,堀割や街路線引きの基軸として活用したほか,鬼門除けとして来迎寺,尊宝寺を八上城下から移転して設置し,その延長に若宮八幡宮を鎮座させ,裏鬼門除けとしては,光専寺を置いて万全を期しています.
一方,伊賀上野城は井伊家の彦根城と共に,大坂城に対する境目の城としての役割を持つべく築城されたものです.
こうした境目の城は,「陰陽和合之縄」と言う方式で,攻勢防御(陽の縄張)と守勢防御(陰の縄張)に良穂に対応出来る縄張で造られるものであり,本丸と二の丸は小さく堅固に造り,三の丸は大きく構築する様に成っていました.
つまり,防御の際には小さな本丸と二の丸に籠城して守り抜き,守兵が大勢の場合は三の丸を中心に守り,気を見て攻勢に転じると言うものです.
伊賀上野城は,二の丸と言われている所が実は三の丸で,この三の丸は極端に大きくできています.
そして,大手門は西大手と東大手の2つがあり,守勢から攻勢に転じる際に,城兵の突撃を容易にする為に設けられたもので,更に筒井氏が造った縄張の時代には大手であった北の虎口を搦め手として,南の搦め手を大手に逆さまに変更して軍事本意の城郭として縄張されています.
実際には大坂の落城が早かった為に,伊賀上野城は未完成で終わってしまい,筒井氏が築いた本丸御殿や城門を除き,本丸には櫓も城門も造られる事はありませんでした.
又,本丸の西部高石垣を除けば,城門・石垣の構えは非常に簡素で,正に戦闘専用の城でした.
一方で,二の丸の土居の上には,2層櫓が2棟,単層櫓が8棟建ち,枡形を持った東西両大手が建てられるなど,本丸に比べると可成り重厚な設備が備えられています.
本来,天守台には5層の天守が建てられていましたが,1612年9月の台風で倒壊し,以後は天守の建設はありませんでした.
伊賀上野城は,広大な三の丸の周囲に土居と塀を巡らせ,東西の大手門に10の櫓をその土居の上に建設しており,正に先述の「陰陽和合之縄」を忠実に守った城である訳です.
勿論,視軸は天守を基点にして設計されており,櫓や城門の配置状況や城下町の要所を見通す事で,効果的な指揮命令が出来ると言う目的に徹した城と言えるでしょう.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/25 22:10
1615年,豊臣家が滅亡し,日本から漸く戦火は絶えます.
そうなると,城は攻撃又は防御の要塞としての機能を減じていきます.
とは言え,外様大名に対する要地防御としての機能を持つ城は未だ必要とされました.
例えば,1617年,明石に転封した小笠原忠真は,当初,明石西方にあった船上城に入城しました.
しかし,一国一城令により船上城は破却され,陣屋に近いものになっていました.
1618年3月,将軍秀忠は,忠真に対し,譜代大名で且つ小笠原10万石の格式に相応しい居城を建設するように,築城命令を下しました.
城郭の資材は,伏見城,三木城,船上城の遺財を使って構築され,坤櫓は伏見城,巽櫓は船上城のもの流用しています.
普請は1619年正月から,作事は1620年4月から始められ,10月に完成すると忠真は明石城に入りました.
しかし,1632年忠真は豊前小倉に転封し,譜代大名の居城として,本多,松平,大久保,松平,本多の5家が相次いで入城し,1682年2月,本多政利が陸奥岩瀬に転封して,5月に松平直明が6万石で入城し,漸く定着しましたが,城は1739年に早くも大修築が行われました.
と言うのも,安く上げる為か,流用材を多く用いていたのが裏目に出,彼方此方が老朽化したからと言われています.
明石城の建設は,将軍秀忠の肝煎りで行われました.
地選は,本多忠政を派遣し,領内を巡視させて戦略上の拠点を幾つか選択させ,築城の縄張案の報告を求めました.
候補地は塩屋,和坂,人丸山(赤松山)の3カ所でした.
この中から選ばれたのが,六甲山系の台地の西端に位置し,台地の南側には絶壁が形成され,西側には明石川,北側には伊川が流れており,台地の崖下から狭いながらも平地が広がり,明石海峡を前面に臨む堅固な自然の要害となっていた人丸山でした.
1618年10月,将軍秀忠は都筑為政,村上吉正,建部長政等を築城奉行とし,縄張は軍学者志多羅将監に,工事全体を本多忠政に命じ,作事奉行には小堀遠州を任用しました.
因みに,町割にはあの剣豪宮本武蔵を起用したと言われています.
明石城は連郭梯郭混合式の平山城で,本丸を中心に配し,東側に二の丸,その東に東の丸が配され,南側に三の丸,西側には稲荷郭が設けられました.
これだけ壮大な規模だったのですが,本丸に天守台が築かれたものの,天守は築かれず,四隅に巽櫓,坤櫓,乾櫓,艮櫓が建設されたに止まりました.
この城の役割としては,西国の外様大名が反旗を翻した場合,防御の第一線には姫路城を充て,第二線と姫路城に対する兵站補給基地としての役割を果たす城となるべき位置にあります.
この為,堅固な城にする必要があり,更に補給と封鎖に便利なよう,西国街道を付け直して城下町の中に引き込み,戦闘が勃発すれば,直ぐに封鎖出来るようになっています.
当時は,武家諸法度の制定や一国一城令の制定など,江戸幕府の安定化の為にも,城郭管理政策の仕上げが行われた時期でした.
その中で,例外的に外様大名の旧地に譜代大名が配属された明石,福山,尼崎は例外的な措置になっています.
それだけ,これらの地を要地と見ていた訳で,これらの城を築く為に,幕府の関与も積極的に行われ,資金の融通,奉行の派遣,資材の転用などの優遇措置が採られました.
この時期の新城建設は,「公儀の為の城普請」であり,大名家当主と雖も,その城は,自ら統治する為の城ではなく,公儀が建設した城を預かる性格が強くなっていきます.
当然,その建設には公儀の意志が強く働いている訳で,天守の代役としては天守台の側にある坤櫓を設定しています.
その視軸は天守台から見ると,本丸,二の丸,東の丸,西の丸の櫓や門に限定,則ち,公儀からの預かりの空間に限定した形で構成されており,城下町全体を見渡す様な城ではありません.
坤櫓からの視軸は土と堀から侍町への入口及び三の丸への城門,本丸,二の丸の主要門・櫓との視軸関係が生まれ,こちらは軍事的機能を果たしているように見えますが,西方に偏った視軸構成であり,東方の軍事施設を補っているのが巽櫓であり,双方の櫓でやっと天守の役割を果たしているものになっています.
どちらかと言えば,平時への転換にシフトしてきていると言えます.
もう一つの例として,赤穂城を挙げてみます.
赤穂と言えば忠臣蔵の話で有名ですが,城明渡しの場面で,籠城か開門かを巡り大議論をするところがあります.
この地には,1600年池田輝政が姫路に入封後,末弟長政を配しました.
1603年,長政が備前下津井に転封すると,赤穂郡代垂水半左衛門が治めますが,輝政の死後,1631年に輝興が赤穂池田家を再立藩し,再び当主を頭に頂く地になりました.
しかし,輝興は発狂し改易,1645年に常陸笠間から家康の妹の孫で名君の誉れ高い浅野長直が転封してきました.
1646年,長直は甲州流軍学を修めた軍学師範の近藤正純を総奉行に命じて縄張を行わせるなど築城の準備を進めました.
設計図が出来上がると1648年6月11日に絵図を添えて幕府に伺いを立て,17日に早くも許可が下り,11月15日に地鎮祭を執り行い,縄張工事を2ヶ月掛けて行った後,1649年正月2日に吉日を卜して根石置きとして本丸東北隅櫓の石垣を築き始め,1661年に完成します.
その間,長直は1650年に,小幡景憲と北条氏長の斡旋推挙で養子長澄と共に山鹿素行の門人となる誓詞を提出し,兵法を学び始めました.
山鹿素行は,1636年に小幡門四哲の1人だった北条氏長の弟子となり,1642年に奥義を伝授された軍学者です.
因みに,当時,幕府の命令で二本松城を築いていた丹羽光重も山鹿素行の門下に入っており,幕府としても新進気鋭の軍学者の理論を実際の城造りに役立てようとしていたと考えられます.
そして素行は,1652年,長直に招聘されて1,000石を与えられ,赤穂に赴き,1653年10月15日から1654年5月上旬まで赤穂に滞在し,二の丸周辺(虎口)と三の丸の縄張の一部を変更しました.
北条流や山鹿流には「方円の縄」と言う考えがあり,本丸は四角で構成されていますが,二の丸は円形に近い形をしている事からも,二の丸は山鹿流を取入れた事が判ります.
当然,天守台は築かれたものの,天守は築かれず,かと言って,天守台からの視軸も肝心の大手門や二の丸門,塩屋門と言った主要門への目配りが出来ていません.
その代わり,本丸南隅にある南隅櫓台がその天守の代わりを為し,実は天守台よりも重要な機能を持つ建築物だったのです.
この南隅櫓台からは城と城下町を結ぶ主要な大手門,二の丸門,本丸門,清水門や天守台を見通し,城下町と街道を結ぶ姫路・龍野からの東惣門枡形,備前岡山からの西惣門を見通す視軸もありました.
天守台の高さは4間半,南隅櫓堀水際まで高さ4間半であり,全く天守台と同じ高さであることが判ります.
因みに,東北隅二階櫓の石垣の高さは3間4尺でそのほかもこれと同じ高さなので,当初から天守を建てる気はさらさらなく,南櫓を天守代用とするのが明白だったのですが,何故か南隅櫓は建てられませんでした.
浅野時代の赤穂城下町は池田時代の城下町を拡張整備し,池田時代の侍屋敷を北,西,南に拡張して東惣門の南には浅野家舟入,清水門の東には御蔵屋敷が設けられ,町の北部の要所には花岳寺を始め10ヵ寺ほどが置かれ,城の出丸的意味を持っていました.
この寺の内,随鴎寺,遠林寺は水軍の屯所,常清寺は東惣門の為の屯所,普門寺,妙慶寺は姫路街道の守り,高光寺,長安寺,福泉寺は北の抑えで,花岳寺は浅野家の菩提寺としての機能の他,横町の屈曲部の守りとして配置されています.
城下町の北東,北西の惣門は枡形として城の外構えとし,姫路街道から天守に向かう街路を一部西に移動させ,城へ向かう道をT字形,鉤形の交差に造り,城郭への直進進入を阻むと共に,遠見が出来ない造りとし,侍屋敷の区画は南北に長く町屋が東西に長くなっていて,城下町の町割自体を防御の手段として使用するプランで,これは甲州流軍学に忠実に造られた城でした.
因みに,山鹿素行の『武教全書』に書かれた城の地選条件に赤穂を当て嵌めると,南一面は海に開け,三方は山に囲まれ,南北に長く千種川が延びており,東に千種川,南は瀬戸内海,西が備前街道,北は山崎山から雄鷹台,黒鉄山などの山々が連なる四神相応の土地となっており,素行の地選条件に忠実に造られた城地だったりします.
もし,南隅櫓が建てられていれば,もしかしたら,吉良邸討入りはなく,華々しく一合戦して大石内蔵助以下の家臣は散ったかも知れません…それは凄惨な事になったかも知れませんが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/27 22:48
【質問】
鯱(しゃちほこ)は何のために天守閣にとりつけられているの?
【回答】
火事よけのおまじないの意味を含ませた装飾として.
その大きな口から「水を吐く」という言い伝えがあり,戦難火災から護ることを祈願して天守閣に飾られるようになったらしい.
寺院堂塔内にある厨子等を飾っていた鴟尾(しび)がルーツで,織田信長が安土城天守閣の装飾に取り入れたことで普及したといわれている.
【参考ページ】
http://homepage3.nifty.com/~bbf/31tour.html
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/9156/REKISI/shatihoko.html
http://www.museum.or.jp/nagoyajo/menu02.html
http://www.fujimura-art.com/wp/?p=1075
http://blog.sensya.com/manyu/index.php?ID=111
>http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/9156/REKISI/shatihoko.html
>元々の弘前城天守閣は5層の大きなものであったが,
>火事を鎮めるはずの鯱に落雷して焼失した.
(;´д`)エェェェェェェェェ
フナムシ 2009年04月09日 02:26
イタリアでしたっけ.
教会に火薬を備蓄しといたら,天辺の十字架に落雷して大爆発ってのは.
ゆきかぜまる 2009年04月10日 00:38
付けるようになったのは,安土城を作った岡部又右衛門がもともと宮大工だったからかも.
味噌グラム in mixi,2009年04月12日 10:26
実は取り外しが出来る大砲だったりします.
割れ煎 in mixi,2009年04月11日 16:06
しゃちほこ
(画像掲示板より引用)
【質問】
なぜ日本の城下町は城壁で守られていなかったのでしょうか?
ヨーロッパや中国では町全体が城壁で守られ,その中に都市があり,中心部に城の本丸と言いますか,王様や領主がいる城がある型が多いように見られます.
日本では,城の周りに城下町はあっても,町全体は壁で囲まれることもなく,外部に対してむき出しの感がします.
平安京や平城京には壁があったらしいですが,それでも外国の城壁に比べるとささやかな,無いよりましかもしれない程度のものだと思います.
戦国大名は城下町の防御をどのように考えていたのでしょうか?
【回答】
外曲輪に城下町を収容したのが小田原城(こちらから引用)で,東西50町(約5.45km),南北70町(約7.63km),周囲5里(約20km)の範囲に堀を巡らしています.
基本的に日本に於ける城は防御施設ではありません.
どちらかというと,人質と守備兵を入れておく為の施設となります.
城の管理規定である,「城掟」では,城番衆の行動規程,脱走の禁止など応戦に関する条項はありません.
家臣が出陣する際の質(嫡男とか妻),職人・商人も領国内で営業する為に質を置き,農民は夫役の為に駆り出され,妻子は城内に収容されて質となり,夫役は惣構の城の外周に配置されていました.
これらは全て,城からの逃亡防止の為の措置です.
また惣構とか宿城というもので,城下町や家臣団の住地をすっぽり覆うことも行なわれています.
これも,欠落者防止,人質確保の為に作られています.
ちなみに,平城になったのは,戦国末期であり,戦国盛期は山城が主流でした.
この山城が出来たのは,悪党が不法に入手した物資を隠匿する場所として作られた所から発生しており,居住の為のものではありませんでした.
ヨーロッパの城塞は,成立過程の観点から言えば,市街を城壁で囲ったというよりも,城の中に街を入れたと言えます.
中国の場合は主たる仮想敵が遊牧民のステップ系騎兵だったためで,ヨーロッパと中国もその成り立ちには大きな違いがあります.
日本でも小田原城や大坂城等のようなスタイルの城塞が出現していましたが,普及する前に江戸幕府が成立して城塞の進化が途絶してしまったのです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
(画像引用元:「歴史研究所」)
【質問】
戦国時代の篭城戦をテーマにしたゲームを作ろうと考えてるのですが,
・篭城するに当たって,どんな準備をしておけばいいですか? 準備すべき優先順位とかありますか?
・篭城戦で相手に出来る敵の数は自軍の何倍くらいが限界ですか?
・篭城の準備期間はどのくらいに設定したら妥当でしょうか?
・羽柴秀吉が中国攻め以降多用したような兵糧攻めをされたら勝ち目はないと考えていいのですか?
・篭城戦の戦い方ってどんなのですか?
本とか読んでも「城兵がよく守り持ちこたえた」とか「なかなか落ちない」とか書き方がアバウト過ぎて,どうやって守ってるのかぜんぜん分かりません.
【回答】
戦国時代の籠城戦といっても実例は1000を下るまいが・・・
ごくごく一般化した,わかりやすさ優先の回答として聞いてくれ.
質問1:
まずは城の強化.具体的には「塀を高くし堀を深くし」などといわれる土木作業.
飲み水の確保,人員・兵糧収容のための建築も重要.
物資としては何をさておき食料.米味噌,塩や干物などの保存が利く物が多い.
戦国時代後半ならば,弾丸や火薬も重要.
質問2:
城の規模や構造にもよるが,おおよそ3倍程度の相手ならば籠城が効く,といわれる.
また,敵が戦闘を仕掛けることができる場所が狭いなら,どんなに大人数であろうと一度に合理的に投じられる規模は限られるので.守備側は交代要員が確保できるならばもちこたえやすくなる.
質問3:
敵対勢力との緊張度合いによる.なんの準備もせずに攻められることもあるし,小田原北条氏のように数十年かけて城を強化していった例もある.
攻める側としては不意打ちしたいし,守る側としては時間を稼ぎたいところ.
質問4:
兵糧攻めがいつも効果的とは限らない.秀吉の場合は準備周到さにおいて比類無く,相手に兵糧を蓄えさせなかった上に籠城人数を増やす,という手を打った.
逆に籠城側が十分に兵糧を蓄積し,人心収攬にたけており,条件が整っていれば数年にわたる籠城戦も可能.
質問5:
こればっかりはケースバイケース.
籠城側がもちこたえる第一条件として,援軍が来てくれる望みが大きい,ということがある.
希望を失った兵は持ちこたえることができない.飢えにもたえられない.
秀吉の小田原城攻めにおいて,(当時において)世界最大の城郭だった小田原城に,5万人も籠城しておきながらまったく持たなかったのは,援軍の望みがゼロ,という点が大きい.
具体例を知る必要が大きいから,「歴史群像」シリーズがわかりやすくておすすめ.
軍事板
ちなみに大阪冬の陣の軍議の席で,真田幸村は以下のような言葉を残している.
戦の利というものは,機先を制するということが根本です.
篭城は,しっかりした後詰(援軍)がなければ敵に気を呑まれてしまい,士卒は退屈し,おのずから気力は衰えてしまい,降参したり裏切り者も出てくるものです.
この節,日本全国の大軍勢を引き受けて,わずか二里にも足らぬこの城に命をかけてたてこもろうとしても,誰がはせ参じてきましょうや.
それにまた,一戦もせずにはじめからむざむざと篭城することは,まことに腑甲斐なきことと存じます.
【質問】
日本には欧州や中東の様な破城槌は無かったんですよね?
城攻めの時は,どの様な方法で城門を破壊したんですか?
【回答】
急峻な坂,階段,郭などを配した山城では,破城槌が威力を発揮できないため,利用されることはありませんでした.
20〜30度もある不揃いな階段を数十メートル登り,90度コーナーを2つ通り抜け,後背を敵の櫓に晒す狭い空間が正門前,といった感じです.
破城槌が使えない理由が想像できるでしょうか.
城門を破壊するには,丸太・大砲を用いたほか,火矢・焼き玉(熱した砲弾)などで火災を狙うなどされました.
ちなみに朝鮮出兵の際には,現地で「亀甲車」という破城槌が考案されています.
余談ながら,戦国時代期の日本型城塞は,古代〜中世にかけて作られた西洋の都市型城塞に比べて,数世代後のものに当たります.
よい縄張りと防御施設を備えた山城は,街や居館を石壁で囲っただけの城塞とは比較にならないほど堅固です.
平城でも大阪城規模のものになると,この時代の大砲を用いても容易には落城させられませんでした.
(家康が大砲の利用を控えさせたとはいえ)
もちろん,この時期の欧州でも城塞は進歩を遂げていて,さらに17世紀中盤には城塞設計の革新者ヴォーバンが登場し,要塞は飛躍的な進歩を遂げてゆきます.
中東の特に十字軍王国の城などは,岩山の尾根先を大きな溝を掘って区切り,先端に極めて堅固な要塞を築いている例があります.
城壁は尾根の崖線上およびこうした人工崖線と一体化し,城壁真下に取り付いた敵兵を側射できる塔も備わるなど,かなり発達した造りでした.
従って攻める側は巨大な投石機を幾つも作り城壁を崩して攻めます.
http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Saone.jpg
上で述べた十字軍の城の一例です.
大きな切り石を石灰かモルタルで繋いで城壁と塔を作っています.
城壁の構造は表面と裏面は切石で,中には小さい丸石が詰められているものです.
中央右の塔の高さ半ばに細長い黒い線がありますが,これが矢狭間です.
城壁下に取り付いた相手を横合いから撃つため,この位置に開けられています.
日本の城でいう,横矢掛かり です.
日本の山城の場合は地山を巧みに堀で削り,区切り,柵を巡らして守りますから,西洋流の城とは異なります.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
中世日本の城攻めは,火矢を打ち込みまくれば簡単に勝利できないんでしょうか?
【回答】
▼まず無理です.
当時の城は,山城クラスでも弓の射程(15間くらい)を計算して郭や堀切を配置し,場外からや陥落した郭からの攻撃に,城内部の郭の人員や建物が直接晒されないようにしていました.
で,郭の外郭にある塀やその屋根には,土や漆喰などを厚く塗り,防火していました.
また,質問者のイメージの火矢は,おそらく映画などに出てくる,先端に布などを巻きつけ,火をつけたものであると思われますが,考証家の名和弓雄氏によると,当時に火矢は,鏑矢(先端に内部をくりぬいた丸い笛のようなものがついた矢)に熾き火や炭火をつめ,茅葺屋根などに放ったものだそうで,板塀や土塀には放火しにくいものだったと思われます.
閻魔さくや in FAQ BBS,2009年10月7日(水)
18時55分
青文字:加筆改修部分
▲
▼火攻めを使った事例はある.
ただし,火攻めを使った事例もなくはない.▲
火矢ではないが,夜間に城に接近し,矢狭間や窓から室内に,火の付いた物を投げ込んで火事を起こさせ,混乱した隙に城に攻め込んだというもの.
このように,城の警備の不意をつけばごく少人数で取れたというのは,日本の戦国時代でいえば竹中半兵衛が稲葉山城を制してみせた挿話などもある.
外国でいえば夜間に,縄梯子や鉤縄で城壁を登って制圧した話がある.
なので火矢ではなく,もうちょっと少人数で仕掛けやすい形ならば,簡単に勝利できた事例があるってことになる.
火矢は弓手が沢山必要で,矢も大量に用意する必要がある.
イングランドがフランスに攻め入った例でも,数千名の弓手がおり,この弓手の中には騎馬で移動する連中も多かった.
矢にしても薔薇戦争ともなると,50万発近くを発射したりする.
これだけ規模が大きくなると,相手もそれなりに備えることになるし,攻め取ろうとする城もそれなりに大きくなるだろうから,色々と難しくなると思える.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の山城が廃れた理由は何ですか?
篭城に徹するのなら平城よりも守り易く,攻め難く,それに山菜とかの食料も調達し易いと思うのですが?
【回答】
山城は攻めにくいのであって,「篭城」はちょっと微妙だ.
山菜なんて食べつくすし,土壁の藁も食べるまでいく・・・
それでも包囲され続けたら・・・.
おまけに「水」を集めるのが大変だった.
でもって山深い城ほど,「防御」はいいけれど.統治としては不便極まりない.
鉄砲が登場してからは,平山城でも十分防衛可能になっちまった.
山深くなくても平野の丘を使えるし平野があれば町も整備できる.
まぁ,山城は最後まで使われてはいたよ.
「本拠地」みたいな使われ方として「廃れた」が正しいかな.
江戸になって役目を完全に終わらされた.
軍事板,2009/06/12(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
山頂ぽい城の井戸って,そんなに水が出るのかね?
【回答】
山登ったことないのか?
山頂付近に井戸のある山なんていくらでもある.
特に,近くに高山があれば大抵は湧出する.
たとえば海ノ口城は,八ヶ岳の麓.
学研歴史群像シリーズの「戦国の堅城」によると,山頂部で井戸の水脈を探すスポットとして
・谷のでき始めの窪み
・屋根上の鞍部(二つの峰を結んだ稜線上の凹所)
などは水がでる可能性があるそうです.
しかし,堀を掘った時などに地下水の水脈が切断される事もあり,雨水を溜める溜め井を作ったり,下った所に水の手を見つけて通路などを確保するなどの工夫が為されたそうです.
(131頁)
山城の一つ,尾道城
(うそ)
撮影:ベタ藤原
【質問】
安土城は,山の頂上に天守閣や屋敷があったようだけど,飲み水などは麓から誰かが担いで運んだんでしょうか?
森蘭丸の屋敷なども,側に水が湧くようには見えなかった.
【回答】
山上でも,尾根と尾根の間のくぼ地など水の出やすい地点に井戸を設けるか,深い井戸を掘るのが普通かと.
安土城の井戸の記述↓を見つけました.
このページの書いてある場所から見ると,廟所近くみたいですが,城跡の詳しい地図が見つからず,場所が分かりません.
http://suzurin.net/shiro/19990521/index.html
飛騨ではないけど,郡上八幡のお城の井戸は天守の一段下でしたね.
>麓から誰かがかついで運んだんでしょうか?
水が切れるのが,落城の大きな原因の一つだから大名の居城などの城ではそういうことはないでしょう.
国境などを見張るための小さな城で,敵が来たら城を捨てることが前提ならそういうこともあるでしょうが.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
祇園城とは?
【回答】
祇園城(小山城)は,鎌倉以来下野守護を長く務め,強大な勢力を誇った小山氏の居城であった.
南北朝後期,小山義政とその子若犬丸が鎌倉公方足利氏満に対して反乱を起こし,たびたび攻撃を受けて落城した.
鎌倉府の歴史において小山氏の存在は非常に大きく,この小山氏についてもいずれもう少し詳しく紹介する予定である.
後年,徳川家康は,会津の上杉景勝を討つために出陣したが,石田三成がその隙を突いて挙兵するに及んでこの祇園城で諸将を集めて会議を開いた.
これがあの「小山評定」であるが,この結果家康軍は西に戻り,関ヶ原で西軍を撃破して天下を獲り,江戸幕府を開くのである.
祇園城は,日本の未来を決定づけた重要な場所なのである.
その後,祇園城は徳川家康の謀臣,本多正純の居城となったが,正純が宇都宮に加増転封となって廃城となった.
そしてあの有名な宇都宮城釣り天井事件が起こって,正純は失脚するわけであるが,そういうわけで今でも城の遺構はかなり残っている.
「はむはむの煩悩」,2008年6月27日 (金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
坂戸城について教えられたし.
【回答】
この地は,南朝の新田一族が築いた城で,室町初期に守護の上杉憲顕に従って越後に入った守護代・長尾氏の一族が,この地を本拠地にしました.
1548年に長尾春景に代わって長尾景虎が春日山城主となると,1549年に景虎の姉の夫となっていた長尾政景は景虎に背きますが,孤立無援となり,結局1550年に詫びを入れて無条件降伏しました.
以後,政景は景虎を支えて活躍しますが,宇佐見定満と船遊び中に酒に酔って池で溺れ,溺死する事件が発生します.
一説には,政景を闇討ちしたのではないか,と言われていますが….
そうして,政景の息子であった景勝は上杉謙信の養子となり,後に御楯の乱で,北条氏から来た養子である景虎を討って,謙信の跡目を継ぐことになります.
後に豊臣秀吉によって,上杉家が会津に移封されると,この地は堀秀治が治めることになり,この要害に,秀治は家老直政の息子直竒に2万石と共に封ぜられます.
関ヶ原の合戦に際しては,上杉遺臣の一揆に攻め込まれるも,直竒はこれを良く防ぎました.
堀家はこれで安泰だったのですが,蔵王堂に入った支藩の親良が隠居によって越後を去った後,直竒はその幼主鶴千代を補佐して政務を執っていました.
しかし,鶴千代が幼くして逝去して領地を収公された前後に,本藩の政務を執っていた天下陪臣の三傑とされた堀直政も死去し,嫡子忠俊を補佐する家老職に息子である直清と直竒とが争い,結局,争論の結果主君である忠俊は改易.
直竒も減封の上,飯山に転封を言い渡されています.
これも,息子の忠輝を越後という要地に封じたい家康が,直竒を説き伏せた結果と言う話もあったりします….
その坂戸城,確かに要害の地です.
山城で,山頂からは周辺地域が一望の下に見渡せます.
湧き水は豊富で,水の手を枯らすことは出来ません.
山麓には幅40mほどの帯状の水田があり,此処は埋田と呼ばれ,沼田堀になっています.
奥には城主の館があり,東西80m,南北120mの長方形で周囲に低い土塁を張り巡らし,正面に高さ2m,長さ50mの石垣を有しています.
この城を攻めようとしても,水の手は豊富ですし,突撃も沼田堀で遮られ,進撃スピードが鈍ったところで,土塁や石垣から狙い撃ちされます.
一度も,落城したことのない城と言われていますが,なるほどその通りですね.
因みに,今は強者共が夢の跡と言う事で,片栗の花が咲き乱れていました.
六日町は去年の大河ドラマ戦国ホームドラマで取り上げられた『天地人』の主役を張った,上杉景勝と樋口与六(直江兼続)が生まれ育った地でもあります.
従って,駅前には戦国Expo等と言うイベントが開催されていました.
ちょっ,おま,頭痛が….
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/05/03 22:09
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