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戦国時代FAQ
猫耳武将

目次
◆ Link
◆総記
◆城砦
◆戦史
◆◆本能寺の変以降
◆◆文禄・慶長の役以降
◆◆関ヶ原以降
◆◆鎖国令以後
◆武将
◆◆武田信玄
◆◆徳川関連
◆◆山内一豊関連
◆兵器
◆◆火縄銃関連
戦国群像(リンク・フリー)
戦国武鑑 - 戦国武将の家紋 -(相互リンク)
成実三昧(伊達成実)
夢の跡(伊達氏;リンク許可願い申請中)
◆◆書籍
『鉄炮伝来』(宇田川武久著,中公新書,1990年2月)
他多数
【質問】 ちょんまげで,頭を剃ってる場合と,剃らずにまげを結んでる場合との違いって何なんでしょうか?
【質問】 戦国時代,農民を守る治安維持は領主の役割ですよね?
【質問】 戦国時代の戦って武士以外の農民たちも簡単に殺されてるのが当たり前だったの?
【質問】 戦国時代後期の日本が世界最強国だったのは本当ですか?
【質問】 大名の家臣で〜守とかなってた武将は,誰から任命されたんですか?
【質問】 官位を勝手に名乗ってるんだったら,何で信長は最初「上総介」なんて名乗ったの? 「上総守」でいいじゃん?
【質問】 戦国時代の戦闘描写が史実に忠実な映画って,何かありますか?
【質問】 「鶴翼の陣」って唯の横に並べてみただけでできているのですか?
【質問】 戦国時代,アルコールの消毒作用は知られていたのでしょうか?
【質問】 たとえば100万石の国には,200万人も300万人も住んでいたということでしょうか?
【質問】 戦国時代の城の特徴は? 跳ね橋みたいなものは,日本の城にもあったのですか?
【質問】 なぜ日本の城下町は城壁で守られていなかったのでしょうか?
【質問】 川中島はなぜ最終的には武田信玄の領土になったのか?
【質問】 長篠の戦では,不利な環境で戦うことを,どうして武田は強いられた訳?
【質問】 織田信長の火縄銃3段撃ちのような作戦は,ヨーロッパでも採られたのですか?
【質問】 三木城は本当に,何千人もが二年も籠城可能だったのですか?
【質問】 なぜ秀吉は鳥取城を無血開城させることに成功したのか?
【質問】 高松城が粘っている間に,毛利軍が秀吉軍に対して大規模な攻撃をしなかったのはなぜでしょうか?
◆◆本能寺の変以降
【質問】 明智光秀が本能寺の変を起こした理由として考えられるものは?
【質問】 本能寺の変の反乱兵は,自分らが攻撃している相手が信長だと知っていたの?
【質問】 本能寺の変のとき,秀吉以外の信長配下の将は何をしてたの?
【質問】 「キリスト教徒迫害理由は,宣教師が日本を植民地化しようとしていたから」は本当ですか?
【質問】 結局,日本でキリスト教が普及しなかったのは,キリシタン弾圧のせい?
【質問】 秀吉によって転封された徳川家康は,関東運営をどのように着手していったのか?
◆◆文禄・慶長の役以降
【質問】 文禄・慶長の役は,朝鮮を征服も属国化もできなかったんだから,日本の負けだろ?
【質問】 文禄・慶長の役が実質,日明戦争だったにしては,明海軍の活動は聞かないが?
【質問】 韓国に古い書物や建物がないのは,豊臣秀吉の侵攻のせいなのか?
【質問】 韓船とは?
【質問】 亀船の戦法は?
【質問】 亀船の兵装は?
【質問】 朝鮮出兵当時,信長が作っていた鉄船やその発展型は投入されなかったんですか?
【質問】 壬辰倭乱で李舜臣将軍が何万人の倭人を殺したか教えてほしい.
【質問】 亀甲船は日本艦隊に大損害を与えてはいないのか?
【質問】 文禄・慶長の役において,なぜ日本の水軍は,制海権を確保できなかったのか?
◆◆関ヶ原以降
【質問】 関ヶ原の合戦の戦端を開いたのは福島正則? 井伊直政?
【質問】 関ヶ原の戦いにおいて,西軍諸大名を寝返らせたのは誰か?
【質問】 関が原での島津の敵中突破は,そうする必要が本当にあったの?
【質問】 島津勢の敵中突破は作り話なの?
【質問】 関ヶ原の戦い後,石田三成を捕えた田中吉政ってどんな人?
◆◆鎖国令以後
【質問】 鎖国に怒ったスペイン,ポルトガルが報復に武力行使とかしなかったの?
【質問】 オランダは,マラッカやらカリカットやらをどんどん占領してたのに,なぜ平戸は占領せずに商館置いただけだったの?
【質問】 日本の鎖国体制を国際安全保障上,担保していたものは何か?
【質問】 信長の宗教観、宗教政策って、どういうものだったのでしょうか?
【質問】 織田信長はなぜ平氏を名乗ったのか? 征夷大将軍を諦めたということか?
【質問】 秀吉の九州出陣で討ち死した長曾我部信親に嫡男はいたんでしょうか?
◆◆武田信玄
【質問】 これまで武田信玄とされてきた長谷川等伯筆の肖像画は,実は信玄のものではないというのは本当か?
◆◆徳川家康関連
【質問】 石川数正にしても,対秀吉政策の対立で居られなくなったってところでは?
【質問】 『家康に過ぎたるものが二つあり.唐の頭に本多平八』の「唐の頭」とは何のことですか?
◆◆山内一豊関連
【珍説】 「山内一豊は,土佐長宗我部の一領具足たちをだまし討ちして虐殺した悪人だ!」???
【質問】 一豊の妻,千代の出生地ってはっきり分かってたっけ?
【質問】 山内一豊の土佐転封は,実は体のいい左遷じゃないか?
【質問】 戦国時代のお侍さんは、メインウエポンは何だったのですか?
【質問】 戦国時代の合戦中、人を斬って使い物にならなくなった刀は、捨てるのでしょうか? そして、死体から刀を奪って戦い続けるのでしょうか?
【質問】 戦国時代の馬は,大砲に驚いて戦闘不能になったりはしなかったのですか?
【質問】 日本で,石投げが実戦でも使われたというのは本当か?
【質問】 投石は,射程距離は弓に劣るって書いてたが,それで戦場で役に立ったの?
【質問】 戦国時代に槍が発達してからは,薙刀を持つ者は居なくなったのですか?
◆◆火縄銃関連
【質問】 火縄銃は弓矢に比べてそんなに強かったんでしょうか?
【質問】 日本の火縄銃は同時期のヨーロッパの火縄銃より何が優れていたんですか?
【質問】 日本で使われていた火縄銃は軍用銃ではなく猟銃って本当ですか?
【質問】 日本の火縄銃は,ストックが「ソードオフショットガン」みたいにばっさり切り落としたような形をしていますが,何故でしょうか?
【質問】 火縄銃はどうやって銃身になっすぐな穴を開けていたのでしょうか?
◆総記
【質問】
ちょんまげって,頭を剃ってる場合と,剃ってなくて直接まげを結んでる場合がありますが,
あれの違いって何なんでしょうか?
どういうときに剃って,てどういうときに剃らないのでしょうか?
信長などの映画やドラマなども,映画によって剃ってたり剃らなかったりされていますが,武士や一般的な住人にとってどっちがメインなんでしょうか?
【回答】
あの頭の前側を剃った形を月代(さかやき)と呼ぶが,まずはこれを読んでくれ.
http://www.cosmo.ne.jp/~barber/sakayaki.html(リンク許可申請中)
兜を被ったら頭が蒸れるから剃ったというのが始まりで,つまるところ,これは元々武士専用の髪型だったんだ.
だから天皇や公家は江戸時代になっても剃らないし,古代から独自のステータスであった医者も剃らない.
僧侶は剃るが神主は剃らないようにね.
庶人が剃るようになったのは,公家風の古典的な服飾が廃れ武士的な服飾が広まる室町後期から.
所詮はファッションだから,服飾の変遷と流れは同じなんだね.具体的にはここでは言わない.
この頃以降,庶民を描いた絵がたくさん残っているから,それを見て認識を固めて欲しい.
それから,どういう時に剃ってどういう時に剃らないかだが,あなたは会社や取引や行事に出るとき,髭を剃らないかい?
休日のときやプライベートなときには,髭を剃るかい? 几帳面なら毎日剃るかもしれないが,不精だったら剃らないだろう.
でも恥をかきそうだったら,不精でも流石に髭を剃るだろう.
武士でも僧侶でも同じことなんだよ.
映画やドラマで剃っていたり,剃っていなかったりだけれど,アレはあくまで演出の内.
篭城戦で疲れ果てている将兵や,何とも汚らしい貧民だと,綺麗に剃っている姿は不自然だろうし,武士が儀典や城内にいるときに剃っていなかったとしたら,無作法すぎて不自然だろう.
要はマナーとしてどうかということだけ考えればいいのであって,あれらをもって一般的に剃っていた剃っていない,と見解を考えるべきではないとおもうよ.
【質問】
切腹って即死できない気がするんですが,普通もがきのた打ち回るんじゃないでしょうか?
【回答】
刺しどころ(?)がよくてすぐ死んだ例もありますが,確かに一度きりならのた打ち回る様な失敗をしてもおかしくなかった訳で,戦後行われた切腹の中にも,複数人で腹を切ったがうまく死に切れず,他人の介錯を受けた例がありました.
握りは逆手の方が力を入れやすいとか,内臓を刺すと痛みにのたうちまわり,介錯人をわずらわせることになるとか,コツがあったものです.
介錯人の無かった例では,最後に火中に身を投じたり,刀身を加えて頭を刺して死んだりしています.
死ぬだけなら腹を切るのは不適当で,心臓を刺すなどのとどめがいります.
耳目を驚かせるための象徴的行為と見るべきでしょう.
(山野野衾 ◆a/lHDs2vKA)
象徴だから当然儀式化して,平和な時代になると,腹を切る振りすらしなくなった.
介錯がないなら,腹を斬った後,頸動脈を斬れば問題ない.
戦国時代の切腹の作法では一応,
「腹を十字に切り裂いた上で,心臓めがけて懐剣を突き立てる」
というのもあった.
だが現実には,家康の長男信康も介錯を受けてるし,普通は腹を切った時点で苦痛にのた打ち回る.8時間死ねなかった例もあるそうな.
最初の切腹 988年,盗賊の袴垂保輔も,腹を切って死にきれず,獄中死.
鎌倉幕府滅亡の時,家臣団が自害・自刃とされているが,「太平記」によれば,それは切腹は259人,刺し違えが332人,自害が147人,刀を口に貫いたのが2人
この数を見ても,切腹だけが鎌倉時代の自殺法じゃないのがわかる.
楠木兄弟も最後は刺し違え.
三島由紀夫も介錯してもらった.
三島の介錯人は,まずは森田必勝.しかし二度やったが,腕が未熟だったのと緊張のために失敗している.
三度目に達人の古賀浩晴に交代してようやく切り落とした.
森田の介錯も古賀がやった.
介錯されずに死ねたら誉められるというものだろう.
ちなみに介錯無しで切腹だけで絶命した人といえば,終戦時の阿南陸軍大臣や大西軍令部次長がいる.
大西中将は20時間だっけ・・・?滅茶苦茶長かったらしいけど
:たれ in mixi支隊
切腹と言えば堺事件ですかね.
基本的に介錯までがワンセットと考えるのがよいかと.
とら in mixi支隊
【余談】
ドイツの哲学者であるニーチェは「近代化とは,すなわち人の痛みを軽減しようとする過程に他ならない」みたいなことを書いていたと記憶しますが,これは国際関係を考えるときもけっこう役に立つ考えです.
最近の日本人は文明国としての格が上がってきたが,それに対して韓国や中国はまだまだ,という意見は,今回の竹島騒動や去年のアジアカップなどでもけっこう日本人から発せられた意見でした.
たしかに文明国,近代国であるためにはある程度の上品さ,品格というのものは必要かも知れませんが,同時に人間としてのガッツをどう残すかというバランス感覚も求められるのは確かなところです.なぜかというと,ある程度の野蛮さを残しておかないと,国が滅びるからです.
こんな簡単な事実は,世界史をちょっとひもとけば火を見るよりも明らかなほど.
しかし何よりも問題なのは,最近の日本人自身が,「日本人が野蛮だった」という歴史的事実をすっかり忘れていることです.これはある意味でユーラシア大陸を横断する中国人よりもすごいんですが・・・・.
たとえば私がいま思いつくところでは二つあります.
一つ目が「堺事件」.これはすごい.
明治維新当時の慶応4年(1868)に起こった事件なんですが,内容は堺に上陸してきたフランスの水兵が市中で乱暴を働いたものを警備中の土佐藩士が押さえ,その過程で銃撃戦になって11名を殺したというもの.
これに怒ったフランス政府が明治政府に対して土佐藩士たちの斬罪と超高額の損害賠償を求めたのですが,妙国寺で当時のフランス公使レオン・ロッシュの目の前で藩士たちが次々と腹を切ることに.
このときの六番隊の隊長,箕浦猪之吉(みのうら いのきち)がものすごい切腹をしたために,気迫で負けたフランス側は賠償金額を下げることを決定したほど.
どういうものだったかというと,この箕浦隊長が腹を切ってもなかなか「ご介錯」といわなかったために,介錯人は首を落とせず,しかたなく待っていると,なんと自分の腹の中から内臓をぐっと取りだし,しかもそれをきれいに並べて整理して,なおかつその血で辞世の詩をしたため,残った内臓をロッシュに思いっきり投げつけたんですな(笑
こんな野蛮なことをされたロッシュは一発で気絶してしまったため,切腹は中止になって賠償額も低くされることに決定したのですが,なんとその次の日に,残った隊員が申し訳ないといって,大阪の大江橋の上で全員切腹したという,なんとも壮絶な事件であります.
もうひとつは江戸時代の侍の話.
このころにはなかなか風流な水野十郎左衛門という人がおりまして,自分の仲のよい大名の床の間に飾ってあった鋭い短刀をえらく気に入っていて,いざ切腹を命じられたときにこの短刀を貸してもらい切腹しております.
その切腹し終わったあとのセリフが傑作で,
「さすが鋭い切れ味でござる」
などといって非常に感激しながら息を引き取ったということ.
切腹をすると,実は痛いのは腹の皮を切る最初の部分だけで,あとは痛みはないために,内臓を取り出したりするのは比較的簡単らしいのです.
とはいっても大量の失血をしますから,早い人で15分,長いと30分くらいは意識があるそうなんですな.
で,その間に内臓をならべたり辞世の詩をしたため,最後に介錯人に首を落としてもらう,という手順になります.
西洋人から見ればこんなのは野蛮以外の何ものでもないですが,こういう「気合」というのは最近の「文明・近代化」した日本人にはありませんねぇ(苦笑
これじゃ幕末のフランスもイギリスも,日本を直接統治しようという気にはならなかったわけですが,現在の日本人は・・・・?
少なくともイギリスまで歩いて行くくらいの気合はほしいところですな(笑
【質問】
映画や漫画,小説等ではかなり誇張されていますが,忍者って実際の戦場で活躍したりしてるんですか?
実際に戦場に出て戦ったり,手柄を立てたりした例ってないのでしょうか?
【回答】
乱波(らっぱ)は読んで字の如く敵地の内情探るのが第一.
次に民衆に恐怖感を吹聴する,戦場での陽動の為の支援活動,等が任務.
任務中にやむを得ず戦うこともあるが,基本的には戦闘はしない.
「忍者」という言葉は,17世紀以降の言葉――17C後半万川集海が初出――で,それ以前の地侍の集団,大名家お抱えの特殊技能者とごっちゃになっている.
それ以前は乱波,透波,ちゅう盗,間者,遊士,忍,etcと呼ばれていた.
しかも,この「万川集海」自体,偽書じゃないかとも言われていたり(笑).
伊賀とか甲賀とかも地侍や傭兵の出自.
いわゆる諜報系の集団となると,上杉家の軒猿,武田家の三つ者など.
忍者を戦力として有効活用した例としては,天文10年(1541年)の川越の夜戦が挙げられる.
北条家の川越城を上杉家が包囲したが,夜戦により撃退されたもの.
長い間,夜間の攻撃を仕掛けたのが,北条家正規軍であったのか,忍者衆による不正規戦であったのか論争があったが,正規戦であったとしては資料が極端に少なく,さらに川越城の発掘調査により,少なくとも上杉軍が忍者と見られる不正規戦術により強襲を受けたことが分かっている.
北条家に仕えた風魔忍軍は諜報活動のほか,戦場でのかく乱,強襲を行うことが特徴で,スパイのみならずコマンド部隊としての性格を併せ持っていたと考えられている.
服部半蔵は忍者でなく,石見守正成っていう三河生まれの槍術の人.三河服部党(地侍の集団)を率いていた.
彼は本能寺の変のときに家康が伊賀越えで三河に帰ったときの地元工作などが評価されて家康の信任を勝ち取った.
他に甲斐,信州方面の偵察でも功績があった.
もっとも,半蔵門は伊賀同心が警護していたことからその名がついた,という説もある.
ちなみに,ご本人は1596年に亡くなっており,半蔵門の名が付いたのは息子の時代.
で,現代では「ニンジャ」と言えばなんでもありの状態になったとさ…….

【質問】
女忍者というのは実在したのでしょうか?
調べた感じでは
・くノ一というのは 元々 忍者の女性をさす隠語で,くのいちの術と呼ばれる女を用いた術の事であって,女忍者の事ではない.実在はしなかった.
という意見や
・くノ一と言われる女忍者の役目は体で敵を籠絡し,情報を引き出したり相手を言うがままに操ったり味方の手引きをするというものでした
とか.実在に関して両極端な見解があるようなのですが,一体どっちなんでしょう?
【回答】
「くノ一」という言葉は近年の造語で,中世に存在していませんでした.
小説家山田風太郎が作ったという説があります.しかも「女忍者」という意味ではなく,「女装術」の呼称,あるいは「女装した忍者」の呼称であるとも.
詳しくは山田らの小説研究本を参照してください.
では女忍者は実在したのかというと,実在しました.
幕府の忍者『御庭番』にも女性がいまして,主たる任務は大奥での要人警護でした.シークレットポリスですね.
戦国時代には女中勤めをして敵城主の情報を探ったり,あるいは味方忍者の手引きをするという任務もあったかもしれません.
【質問】
NHK大河ドラマで武士がヒロインの母を殺すシーンがあったんだけど,戦国時代の戦って武士以外の農民たちも簡単に殺されてるのが当たり前だったの?
【回答】
あのシーンでは,女とはいえ短刀で相手に切りかかってるから,時代とか関係なく,殺されても仕方ないと思われ.
それはともかく,当時の戦場になった農村は,略奪の対象.抵抗すればそりゃぁ殺されたでしょうな.
とはいえ,どっちかというと,女はつかまって売り飛ばされるほうが多かったはず.
逆に「落ち武者狩り」という習慣もあって,
「戦で負けた武士に対して,農民(武士との区別も微妙だが)が略奪・暴行・殺人を働いてもよい」
というルールも存在したわけで.
例えば足利義昭もその対象になってる.
彼が落ち武者狩りにあった,というのは当時評判になったわけだから,彼を「狩った」連中は当然「公方さま」ということを認識したうえで,略奪を行ったわけで.将軍さまでもそのルールは厳密に適用されたわけですな.
ちょっとした余談です.
ウチの実家の話ですが,我が家は落ち武者狩りで財を成して庄屋になった,由緒正しい山賊だそうで(苦笑
家紋も,逃げてる兵の持ち物から奪ったモノについていたのだとか……
平家落人なんかより,変に生々しくて困ったもんです(苦笑
寄星蟲 in mixi支隊
三谷喜喜演じる足利義昭
大河ドラマ「功名が辻」にて

【質問】
戦国時代後期の日本が世界最強国だったのは本当ですか?
論拠はマッチロック式銃の保有数と世界有数の動員兵力なんですが。
【回答】
ふぉ。この手の質問は何度も出るようじゃから、少し背景を説明しておこうかの。
戦国末期の日本が世界でも有数の大量の鉄砲保有国で、かつ戦場における鉄砲の集中利用の戦術面でも突出しておったという事実を,一般人向けの書籍で実証的に指摘したのはノエル・ペリンじゃったな。20年ほど前に、改めて指摘された日本人のほうが驚いたものじゃった。
この話は、日本の自虐的な歴史教育を見直そうという連中にもてはやされたもので、かなり一般に誇張して伝わった面があるようじゃの。
じゃがな、ペリンが驚愕すべき事実であり、今日の世界が学ぶべき歴史であると世界に紹介したのは、日本が短期間に世界一の鉄砲保有国となったことではなく、その後に一転して軍縮を徹底して行い、事実上、当時の最新兵器であった鉄砲を放棄したことのほうなのじゃよ。
16世紀末に世界最大の鉄砲保有国、おそらくは世界有数の軍事力を持っていたことを名誉と考えるか、知られている限りでは世界の歴史で唯一、自主的に最新兵器を廃棄し、徹底的な軍縮に成功した国が日本じゃったということをのほうを誇りとすべきなのかは、ま、自分で判断することじゃな。
さて,そのペリンの本じゃが、かなり事実誤認の多い代物らしい。
銃砲史研究者の宇田川武久は著書『鉄炮伝来』(中公新書,1990年2月)のあとがきで,いくつかの問題点を指摘している。
それにじゃな,軍事的に見れば,装備のレベルと動員兵力の大小が、戦闘の勝敗を決めるわけではないのじゃよ.
兵士たちの士気、指揮体系の確かさ、訓練・実践の経験の多さ、資金と食料の調達。
そういうバックグランドがあってこそ、強いかどうか判断されるべきものじゃよ.
数比べで「最強」を判断するのは、いささか短絡的じゃな.
また,海軍が弱いので外征に向いてはおらんしの。
防衛戦力としては世界でも当時トップ・レベルじゃが、外征軍隊としては三流というところじゃろうの。
【質問】
たとえば,武田信玄は信濃守だったですよね.これは朝廷が任命してる訳ですよね?
それなのになぜ,家臣の秋山信友が伯耆守とか馬場信春が美濃守とかを名乗ってるんでしょう?
他にも大名の家臣で〜守とかなってた武将はいると思うけど,誰が任命しているんですか?
【回答】
戦国時代の武士の官職名は,朝廷(正式な手続きだと幕府経由ですけど)から貰うものと,勝手に名乗っているものがあります.
幕府の力が強かったころは,,自称はともかく正式な官職に任じられるのは幕府とのコネとか家の格式によって(○○家の当主はXX守とか)ランクが決まってましたが,戦国時代になると官位の暴落も進み,大名に限らず国人クラスでも朝廷や幕府に献金すれば結構もらえました.
例えば,まだ安芸の小領主で大内氏の配下だった毛利元就なんかも正式に官位貰っています.
【質問】
勝手に名乗ってるんだったら,何で信長は最初「上総介」なんて名乗ったの? 「上総守」でいいじゃん?
【回答】
上総・常陸・上野の三国は親王任国と言って,守は親王と決まっていました.
そのため,平家の祖・平高望(元々は桓武天皇の皇子)なんかでも,臣籍に下ったので,やはり上総守ではなく,上総介として任官しています.
もし守を名乗っていれば,田舎侍丸出しと笑われたことでしょう.
更に上総は延喜式で大国と定められており,大国の「介」は上・中国の守と位としては同等の従六位クラスでした.
格としてはぼちぼちの名前を名乗ったわけです.上総介は実務上の国司でもありますし.
さらに上述のとおり坂東平氏の祖・平高望が就任した官で,その後も坂東平家は上総介として関東に根を張っていますから,平家を自称する信長にとってはなかなか「ハッタリ」も効いている名前だったのではないでしょうか.
どの時代のどの社会でもそうですが,官位って言うのは名目上の地位・実際の権限・更にその官の歴史的経緯等が絡み合って価値が決まっていますので,単純な上下はなかなか難しいものです.
上記の資料は特にありません,さすがに官の自称の理由まで検証している本が無くって(苦笑).
強いて言えば,上総介に任官した武士を片っ端から調べてみたのと,官位のランクについては日本史の教科書です.
ただし,官位を戦略的に用いた例もごく少数ながら存在しています.
それが上述文中の,武田信玄の信濃守の例です.
信玄のライバルとなった越後の上杉謙信がおりますね.
彼の場合は,もともと越後守護代の長尾家が出自で,後に越後守護,さらに関東管領家の養子となり,上杉姓を名乗り,越後統一後,関東一円および川中島周辺の北信濃の経略に乗りだします.
これに敵対する信玄の場合,由緒正しく,武田家が代々の甲斐の守護職にあったわけですが,当然,信濃は管轄外.
彼の信濃経略は侵略行為以外の何ものでもないわけです.
しかも,謙信の信濃への出兵は,信玄に追われた村上義清などの信濃諸将の要請によるもの.
一連の謙信との戦いで大義名分に大いにもとるもとるものだったわけです.
そこで信玄は,これに対抗するために,朝廷へ運動を繰り広げ,信濃守護職を手に入れ,自身の信濃経略,さらには謙信との戦いにおいて,政治的な正当性を主張するに至っているわけです.
【質問】
『七人の侍』についてなんですが,そもそも農民を守るのは領主の役割ですよね?
その割りには作中では,そういった庇護者もなく,農民自身が武装する事もない設定になっているのが不思議なんですが.
【回答】
別に今の警察みたいに犯罪者を取り締まるのが侍の仕事というわけじゃないよ.
領主の責任も,あくまで地主とか土地の権利者に対してであって,土地に住んでいる住人一人一人に対するものじゃないし.
でもって本来は野武士って山賊みたいなのじゃなく,地元に拠点と支配地域持ってるものなのね.地方豪族という奴.
領主も場合によってはそいつらの機嫌とらないと,言うこと聞かせられない場合もあったり.
例えば領内で殺しまくりの略奪しまくりな野盗団が暴れ回ってれば,討伐の兵が出る事もあるだろうけど,『七人の侍』の野武士は,殺さないようにして毎年搾り取るというかなりしたたかな奴らだからね.
軍事板
【質問】
「落武者」ってなんですか? また「落武者狩り」ってなんですか?
【回答】
落武者とは,戦争に負けて戦場から逃亡した武士のこと.
落武者狩りとは,逃げた武士を追跡して殺害もしくは捕縛すること.
有力武将を討ち取れば多額の恩賞がもらえるので,勝った側の兵士だけでなく,近隣の農民なども参加することが多い.
有名なケースでは,山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀が,逃げる途中で農民の落武者狩りにあい,竹槍で突き殺されたり,関ヶ原の戦いで負けた石田三成が伊吹山中を逃げ回ったあげく,敵方の田中吉政に捕らえられたなどのエピソードがある.
軍事板
狩られた落武者

(うそ.引用元:「戦国自衛隊」)
【質問】
戦国時代の戦闘描写が史実に忠実な映画って,何かありますか?
【回答】
「クレヨンしんちゃん・嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」
騙されたと思って見て見ろ,戦闘描写ならあれほど史実に即した物は他に無い.
少なくとも「なんちゃって戦国」物の大河なんぞよりはよほど優れている.
あの頃はまだ剣術も普及して無かったし,武将クラスは太刀を佩用,腰に差す打刀は雑兵の武器.
劇中でも又兵衛や太郎左衛門らは太刀,それ以下の雑兵らは打刀だったよ.
ここらへんも時代考証がしっかりしてると言われてる所以だと思われる.
また,篭城戦で,鉄砲隊の第一射撃の後の弾込めで
「防ぎ矢!」
奇襲戦では,遭遇→槍合わせ→相手が背を向けた機を逃さず
「馬上,前へ!」
そのほか,「早駆け!」→鳴り物が,ドンドンドン!! とか,めちゃ燃えたよ(笑).
戦場でも腰の刀を誰も抜いていない,というのも凄い.
井尻のおっさんも,槍が使えなくなるまで刀は抜いていない.
そこらへんのドラマや映画だとすぐに刀を抜いて突撃かましてたからなぁ〜
音響効果.
鍔迫り合いも,すばらしく良い.
鎬を削って,ガチャガチャ言わせてる辺りほれぼれする.
刃と刃で切り結ぶ様な馬鹿なチャンバラをやってる全ての人間に見習って欲しい.
矢を放ったときの「カン!」という弦音(つるね)も,リアルでなかなかよい.
だだし,又兵衛が矢を放ったときのみ,「ポン」という気の抜けた弦音になっていたのは少々残念(by
弓道部OB)
【質問】
「鶴翼の陣」って唯の横に並べてみただけでできているのですか?
【回答】
「鶴翼の陣」は,両翼の部隊を中央の部隊より前方に配置した防戦重視の陣形.
敵が我が陣の本営目指して中央突破を図れば,両翼の部隊を中央に向かって前進させ,包囲攻撃または側面攻撃を図る.
ただし,この陣形に適した地形(谷や盆地の辺縁部など)でないと,側面を迂回されて,両翼の部隊が各個撃破されかねないのと,彼我の兵力差が我に有利か,またはある程度の範囲内の劣勢でないと,包囲や側面攻撃をしても,我が中央部への敵の攻撃力を削ぐことができず,かえって兵力分散の愚を犯して我が主力をいち早く,撃破される危険がある.
軍事板
【質問】
戦国時代や江戸時代初期には米を常食している人間の割合は極端に低かったんですよね.
するとたとえば100万石の国には,200万人も300万人も住んでいたということでしょうか?
【回答】
一石とは一人の人間が一年間に消費される量と定義されている.
しかし,その一石の決め方だけど,国の偉いさんが勝手に,一人の人間が一年間に消費する量は150sだ!と決めたわけ.
つまり「勝手に決められた値なので」実際は違う.現実に人ひとりが一年間に生活できる量と考えるのは間違い.
その後,江戸時代も安定してくると大名の格付けに使われるようになり,米が取れなくても○万石とかいうようになった.(例:松前藩)
で,格付け競争が起こって,毛利藩は50万石にしてくれいと土井利勝に頼んだら,軍役令とか大名行列とか物入りになるんで7掛けにしとけとか言われたと言う話もある.
実高と表高が異なり,ますます経済の原単位から乖離して行った.
次に石高の意味合いだけど,江戸時代では米を売った金と思って欲しい.
つまりは税収.江戸時代初期では一石あたり一両と言われているので,100万石の国とは100万両分の収穫がある国と思って欲しい.
(だから実際の税収はそれより下.たとえば5公5民なら,税率50%で50万石.
しかも,家臣に知行地(領地)を与えていたらその分は減るから,実際に大名家の税収はもっと低くなる)
なので石高から人口を割り出すのは単純には無理だって事です.
もっとも,石高が大きい国(税収が多い国)ってのは大きな国なので人口は多いですが.
(人口が多いから税収も多い,とも言える.)
参考までに,100年ほど前の歴史家の吉田東伍(だったけな?うろ覚え.ゴメン)が,石高と人口は一致するという説をおったてたが,それは偶然であって実際は違う.
なので石高から人口を導くのはやっぱり無理です.
鬼頭宏著「人口から読む日本の歴史」講談社学術文庫,2000/05/10)という本があるので,読んでみるといいかも.
【質問】
戦国時代の兵力動員能力はどのくらい?
【回答】
戦国大名の最大動員数は,1万石あたり約1500人.
これは領民から,健康な青壮年の男を全部引き抜いた数.
戦国中期までは農民が戦闘員を兼ねていた.農閑期で戦場が近距離なら動員可能.
信長以降,農民と戦闘員の分離が進むと200〜400人/1万石になった.
北条氏は所領8貫(レート無視で約40石)に軍役1人.
ただしこれは派兵分かもしれん(小田原征伐時の下総の小領主は,軍役の内9割を小田原に動員されたが,これは段階的で,先遣は3割が召集された).
結城氏は所領5貫(レート無視で約25石)で具足1領,10貫で馬1匹・具足1領,15貫以上から従者同伴.
上杉氏は所領16石に軍役1人,馬上は雑役も含めた全体の1割強
天正末期の甲斐一国で5800人〜14500人の兵が動員可能.
ただし総動員すると国元がすっからかんになるので,派兵の場合はこの半分以下だろう.
文禄慶長の役だと1万石当たり250人,
小田原の役,関ヶ原だと1万石あたり300人,
江戸元禄期の書類上の編成だと1万石当たり350人ぐらいがおおよその平均値.
江戸期に人数が増えてるのは,騎馬武者の数が減って鉄砲足軽の割合が増えてることの影響が大きいようだ.
【質問】
傷の治療で思い浮かぶのですが,よく日本の時代劇とかで,傷口に焼酎を吹きかけるシーンを見ますよね.
細菌の観念が無い時代でも,日本ではアルコールの消毒作用を知っていたのでしょうか?
【回答】
現在使用している消毒用アルコールは濃度70%のモノです.
焼酎での消毒効果は,多分ないよりまし,くらいだと思います.
しかし防腐作用があることは知られていましたから,消毒に使用するのは自然な発想でしょう.
ただ焼酎は蒸溜と言う工程を経ていますから,細菌が混じっている可能性はごく低い.
滅菌水なんて気の効いたものがなかった時代ですから,それの代わりとして考えれば,むしろ焼酎で洗い流し,洗浄する様に使ったと考えた方が良いかも知れません.
16世記半ばにイエズス会士のルイス・ド・アルメイダが日本初の西洋式外科病院を建てて化膿創の治療にあたったのだが,その処置の1つに焼酎に浸した布で創を洗うというのがあります.
それ以後広まったのでしょう.
ある知識が学問として体系付られる遥か前から,体験的に知られていたというのはよくある話.
尚,現在の傷の手当ての基本は,傷口はきれいな水(可能なら滅菌水)で洗い流せ,です.
消毒液は傷の治りを悪くする場合があるから,なるべく使わない様になっています.
また手術等で皮膚を消毒する場合,アルコールは殺菌力がイマイチですので,
もっと強力な消毒液を使います.
幕末の頃日本に来た欧米の医師達は,日本の医師達が直ぐ傷を縫合して閉鎖してしまう,と書き残しています.
これは何を意味しているかと言うと,特に汚染された傷を閉鎖されてしまい空気に触れなくなると,
破傷風やガス壊疽等の嫌気性菌が増殖し易くなり,その結果死亡率が高くなります.
これが元で亡くなった人も大分いたもよう.
現在でも汚染されていると考えられる傷は縫合して閉鎖してはならず,解放状態を維持し,細菌感染がない事を確認してから縫合する様にされています.
抗生物質のなかった時代は,細菌感染を起こすと命取りでしたし,戦場なんて不潔極まりない環境ですので,
どこから細菌が入り込むかわかりません.
◆城砦
【質問】
戦国時代の城の特徴は? 跳ね橋みたいなものは,日本の城にもあったのですか?
【回答】
今残っている日本の城の遺構のほとんどは,戦国末期から江戸時代にかけてのものです.
一応,戦国日本にも落とし戸はありましたし,跳ね橋もありました.
落とし戸は姫路城に遺構があったかもです.
ただし,ほとんどは小さなもので,文献上でしか確認できず,戦国時代の跳ね橋で現存しているのはないかとおもいます.
いわゆる西洋の城にあるような大きな仕掛けの物は,戦国時代の日本の工業水準からいって製作困難です.大きくて十分な荷重に耐えられる丈夫な歯車を作る技術が無かったからです.
そのような技術が熟成してきたのは平和な江戸時代になってからであり,明治になるまで,日本の歯車技術はからくりや軽工業どまりでした.
日本の城は小銃戦への対応を目指して創られたもので,大砲の集中運用に対しては正直,強くありませんが,日本の攻城戦で大砲の集中運用を行った例は,きわめて少数であり,ある意味では合理的に考えた結果です.
当時日本の城を見ることができた,宣教師なんかは美しさや豪華さ,大きさや見た目から,日本の城をそれなりに評価していますが,当時の西洋軍人ではないので,純軍事的な西洋人の評価は探し出すしかないかと思います.
軍事板

【質問】
なぜ日本の城下町は城壁で守られていなかったのでしょうか?
ヨーロッパや中国では町全体が城壁で守られ,その中に都市があり、中心部に城の本丸と言いますか、王様や領主がいる城がある型が多いように見られます。
日本では,城の周りに城下町はあっても,町全体は壁で囲まれることもなく,外部に対してむき出しの感がします。
平安京や平城京には壁があったらしいですが、それでも外国の城壁に比べるとささやかな、無いよりましかもしれない程度のものだと思います。
戦国大名は城下町の防御をどのように考えていたのでしょうか?
【回答】
外曲輪に城下町を収容したのが小田原城(画像右)で、東西50町(約5.45km)、南北70町(約7.63km)、周囲5里(約20km)の範囲に堀を巡らしています。
基本的に日本に於ける城は防御施設ではありません。
どちらかというと、人質と守備兵を入れておく為の施設となります。
城の管理規定である、「城掟」では、城番衆の行動規程、脱走の禁止など応戦に関する条項はありません。
家臣が出陣する際の質(嫡男とか妻)、職人・商人も領国内で営業する為に質を置き、農民は夫役の為に駆り出され、妻子は城内に収容されて質となり、夫役は惣構の城の外周に配置されていました。
これらは全て、城からの逃亡防止の為の措置です。
また惣構とか宿城というもので、城下町や家臣団の住地をすっぽり覆うことも行なわれています。
これも、欠落者防止、人質確保の為に作られています。
ちなみに、平城になったのは、戦国末期であり、戦国盛期は山城が主流でした。
この山城が出来たのは、悪党が不法に入手した物資を隠匿する場所として作られた所から発生しており、居住の為のものではありませんでした。
ヨーロッパの城塞は,成立過程の観点から言えば、市街を城壁で囲ったというよりも,城の中に街を入れたと言えます.
中国の場合は主たる仮想敵が遊牧民のステップ系騎兵だったためで、ヨーロッパと中国もその成り立ちには大きな違いがあります.
日本でも小田原城や大坂城等のようなスタイルの城塞が出現していましたが、普及する前に江戸幕府が成立して城塞の進化が途絶してしまったのです.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
(画像引用元:「歴史研究所」)
【質問】
戦国時代の篭城戦をテーマにしたゲームを作ろうと考えてるのですが,
・篭城するに当たって,どんな準備をしておけばいいですか? 準備すべき優先順位とかありますか?
・篭城戦で相手に出来る敵の数は自軍の何倍くらいが限界ですか?
・篭城の準備期間はどのくらいに設定したら妥当でしょうか?
・羽柴秀吉が中国攻め以降多用したような兵糧攻めをされたら勝ち目はないと考えていいのですか?
・篭城戦の戦い方ってどんなのですか?
本とか読んでも「城兵がよく守り持ちこたえた」とか「なかなか落ちない」とか書き方がアバウト過ぎて,どうやって守ってるのかぜんぜん分かりません.
【回答】
戦国時代の籠城戦といっても実例は1000を下るまいが・・・
ごくごく一般化した,わかりやすさ優先の回答として聞いてくれ.
質問1:
まずは城の強化.具体的には「塀を高くし堀を深くし」などといわれる土木作業.
飲み水の確保,人員・兵糧収容のための建築も重要.
物資としては何をさておき食料.米味噌,塩や干物などの保存が利く物が多い.
戦国時代後半ならば,弾丸や火薬も重要.
質問2:
城の規模や構造にもよるが,おおよそ3倍程度の相手ならば籠城が効く,といわれる.
また,敵が戦闘を仕掛けることができる場所が狭いなら,どんなに大人数であろうと一度に合理的に投じられる規模は限られるので.守備側は交代要員が確保できるならばもちこたえやすくなる.
質問3:
敵対勢力との緊張度合いによる.なんの準備もせずに攻められることもあるし,小田原北条氏のように数十年かけて城を強化していった例もある.
攻める側としては不意打ちしたいし,守る側としては時間を稼ぎたいところ.
質問4:
兵糧攻めがいつも効果的とは限らない.秀吉の場合は準備周到さにおいて比類無く,相手に兵糧を蓄えさせなかった上に籠城人数を増やす,という手を打った.
逆に籠城側が十分に兵糧を蓄積し,人心収攬にたけており,条件が整っていれば数年にわたる籠城戦も可能.
質問5:
こればっかりはケースバイケース.
籠城側がもちこたえる第一条件として,援軍が来てくれる望みが大きい,ということがある.
希望を失った兵は持ちこたえることができない.飢えにもたえられない.
秀吉の小田原城攻めにおいて,(当時において)世界最大の城郭だった小田原城に,5万人も籠城しておきながらまったく持たなかったのは,援軍の望みがゼロ,という点が大きい.
具体例を知る必要が大きいから,「歴史群像」シリーズがわかりやすくておすすめ.
軍事板
ちなみに大阪冬の陣の軍議の席で,真田幸村は以下のような言葉を残している.
戦の利というものは,機先を制するということが根本です.
篭城は,しっかりした後詰(援軍)がなければ敵に気を呑まれてしまい,士卒は退屈し,おのずから気力は衰えてしまい,降参したり裏切り者も出てくるものです.
この節,日本全国の大軍勢を引き受けて,わずか二里にも足らぬこの城に命をかけてたてこもろうとしても,誰がはせ参じてきましょうや.
それにまた,一戦もせずにはじめからむざむざと篭城することは,まことに腑甲斐なきことと存じます.
【質問】
山頂ぽい城の井戸って,そんなに水が出るのかね?
【回答】
山登ったことないのか?
山頂付近に井戸のある山なんていくらでもある.
特に,近くに高山があれば大抵は湧出する.
たとえば海ノ口城は,八ヶ岳の麓.
学研歴史群像シリーズの「戦国の堅城」によると,山頂部で井戸の水脈を探すスポットとして
・谷のでき始めの窪み
・屋根上の鞍部(二つの峰を結んだ稜線上の凹所)
などは水がでる可能性があるそうです.
しかし,堀を掘った時などに地下水の水脈が切断される事もあり,雨水を溜める溜め井を作ったり,下った所に水の手を見つけて通路などを確保するなどの工夫が為されたそうです.
(131頁)
◆武将
【質問】
信長の宗教観、宗教政策って、どういうものだったのでしょうか?
イメージだと、信長は神の存在を信じなかったとか、反仏教とか、キリスト教の日本での布教を認めたとか,そんな感じがしますが.
【回答】
無神論者としたのはルイス・フロイスぐらいでしょう。
信長は,起請文に八幡しか書かなかったりと個性も感じられますが、基本的には一人の信者であったようです。
自己の神格化は他の戦国大名も行っており、特別な事ではありません。
そもそも、自分を神として崇めさせたとか、第六天魔王と称したというのも、
宣教師側の記録にしか無かった様ですが。
寺社勢力と戦ってはいますが、それはあくまでも敵対する勢力の一つとしてであり、先祖縁の織田剣神社を保護している他、八幡宮なども修復させています。
無神論者云々は、小説のイメージが強い気がしますね。
「無神論者」を持ち上げて神格化しているのですから、傍から見ると滑稽な気もします。

【質問】
織田信長はなぜ平氏を名乗ったのか? 征夷大将軍になるのを諦めたということか?
【回答】
織田信長が平氏を名乗ったのは、当時「源平交代説」があったので、
それを踏まえての事。
清盛政権(平氏)
↓
鎌倉幕府将軍家(源氏)
↓
鎌倉幕府執権北条氏(平氏)
↓
室町幕府将軍足利氏(源氏)
・・・と政権交代してきたので、それを踏まえての事。
織田信長が征夷大将軍の宣下を受ける可能性は、十分にあった。

【質問】
織田信雄の子孫はどうなったのか?
【回答】
上州甘楽郡小幡は,家康の関東入城に際して,奥平信昌が三万石で封ぜられ,信昌の美濃加納転封後,水野忠清が一万石で入封します.
水野家は大阪の陣後,三河刈谷に転封し,永井直勝が一万七千石で入封し,直ぐに常陸笠間に転封.
代わって,織田信長の次男信雄の所領となり,その四男信良が,信雄の領地のうち,上野甘楽,多胡,碓氷の三郡,二万石を分与されて入封します.
信雄は家康と同じように,尾張清洲から奥州への転封を拒み,除封されてしまいます.
その後,関ヶ原では西軍に加わりますが,西軍の情報を家康に知らせた功を以て,大和と上野などに五万石で国主格を家康から与えられることになった訳.
国主格ならば,官位は四位まで上がることが出来ますし,席次は大広間詰めで島津,細川,浅野並み.
この時,信良は陸奥福島に仮陣屋を置きますが,直ぐに卒去.
その子信昌は1歳で封土を継ぎ,この地に陣屋を移し,叔父高長を後見に藩政の基礎を築きます.
しかし四年後に信雄が没して,その五男高長が信雄のもう一つの領地である大和宇陀郡松山三万石を領すことになって,話はややこしくなります.
長幼の序を守るならば,信雄の本家は四男信良の系統,つまり,上野の方になります.
ところが,既に信良は此の世に亡く,ならば,と言う訳で,五男高長の方が,信雄の本家と言い立てたのです.
何か,本能寺の変での親父の行動そっくりと言うか,血は争えないと言うか….
結局,一年の争いの末,幕府の裁定によって高長の方に凱歌が上がり,織田信雄流本家は大和松山の方になりました.
その後,若くして信昌が死去し,跡目は「本家」高長の四男信久が養子となって,彼によって藩政改革と農業生産方法の改善が進みます.
信久の後は四男信就が継ぎ,彼は館林城番などを行い,上野織田家の最盛期を築き,四男信右が18歳で跡目を継いだのですが,彼の代は病弱だったので,信就の子供が信富として跡を襲います.
しかし,それも束の間,信富は直ぐに死去したため,高家の織田信栄(高長の系統で,高長の次男で大和松山二代長頼から三千石を分与された長政に端を発する)の四男信邦が襲封します.
ところがこの頃,収入の二倍の支出と言う財政難状態で,藩政改革のため,山県大弐門下の吉田玄蕃を登用しますが,この山県大弐が,当時の反政府思想である尊皇攘夷を吹聴したので,吉田玄蕃の立場が家中で危うくなり,玄蕃は山県大弐との高誼を絶ちますが,讒訴する者がいて,信邦は吉田玄蕃に処分を申し渡します.
しかし,この処分が重大事件にも関わらず,幕府への届け出を行っていなかったとして問題となり,遂には信邦に蟄居の沙汰が下り,急遽,信栄の五男信浮が跡を継ぎますが,幕府の怒りは解けず,結局,出羽高畠に転封を命じられ,出羽屋代郷の一部四千六百石,村山郡に一万二千石,陸奥信夫郡内に三千四百石と領地は飛び飛び,しかも,家格も国持大名格から諸大夫格への格下げとなってしまい,実家である高家の織田氏も普通の旗本に格下げされてしまいました.
その跡を継いだのがその子供の信美ですが,彼は飛び飛びになっている領地を交換で一纏めにし,陸奥信夫郡の領地を村山郡内一万五千石とすることに成功します.
また,陣屋も交通至便な出羽村山郡天童に置いて代官支配としますが,後に居所も天童に移すことを願い出て認められ,以後,織田家は天童に陣屋を設けて,明治を迎えます.
此の間,その子信学の代には出羽置賜郡内に有していた領地を上知され,二万石を天童周辺に集約することになりますが,財政難は益々深刻化し,紅花の専売制や将棋の駒の製造などを行ったりしています.
その他に効果があったのが,豪商からの献金ですが,これの引き替えに渡されたのが,狂歌の著名な作者だった家老吉田専左衛門の交際相手で,浮世絵で有名な安藤広重に描いて貰った肉筆画だったそうです.
献金をした相手に対し,安藤広重に依頼して額に応じた肉筆画を渡したと言うものですが,安藤広重と言えば浮世絵版画の大家ですから,その肉筆画と言うことで,当時でも大変珍重され,30年に渡って天童織田家の屋台骨を結構支えてくれたそうな.
明治維新の際には,信学は病気で隠居し,息子信敏の時代ですが,戊申の役では奥州鎮撫使先導となり,官軍方として出羽庄内酒井家を攻めたものの,反撃を受けて敢えなく陥落.
その後,庄内酒井家に与して奥羽列藩同盟に加入して,官軍と戦うも再び敗北し,藩主蟄居と二千石の減封と言う処分が下りました.
結局,先祖の功で子爵にはなりましたけどね.
その後,信敏の跡には相馬事件で有名な奥州相馬家から養子を迎え,斎藤実内閣の時には農林政務次官を勤めたり,NHKの理事にもなったりしています.
てことで,四男の方はこんな感じですが,五男の高長の系統も波乱の生涯を迎えることになります.
やっぱり,血ですかねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月07日22:41
一方,信雄の五男の系譜ですが,四男系統の信昌と争って織田信雄本家となった高長が,継いだのが大和宇陀郡松山三万石.
此処は元々福島正則の弟,高晴が伊勢長島から入封したのが最初でしたが,横暴な振る舞いも多く,度々家臣から訴えが出ていました.
幕府はそれを或程度放置していましたが,1615年に駿府に於てその地の奉行に断り無く,こうした訴人を捕えたことを咎められ,本人は伊勢山田に蟄居,領地没収となりました.
その後に入ったのが,織田信雄です.
彼には大和と上野に五万石が与えられましたが,本人は京都に住んでおり,この領地には重臣の生駒範親が入りました.
その後,上野小幡二万石は四男に与えられることになりますが,分家,本家争いをしたのは上述のとおり.
さて,この高長と言う人.
信雄が所領を没収された後は,加賀前田家に寄宿し,大坂冬の陣では利常の陣で活躍します.
そして,この時期に抱えたのが加賀衆でした.
高長が没すると次男の長頼が跡を継ぎますが,弟長政に三千石を分与したため,所領は二万七千石となりました.
ちなみに長政は幕府旗本となり,高家に列せられますが,明和事件で小幡織田家の迸りを受けて,落っことされたのは既述の通り.
長頼が没すると,その子信武が跡を継ぎます.
ところがこの頃になると,信雄の家臣として代々地位を保ってきた譜代重臣の生駒,田中家と,高長に従ってきた加賀衆との対立が表面化します.
信武はその収拾に苦しんだ挙げ句,遂に1694年,彼は重臣の生駒三左衞門,田中五郎兵衛等,家老2名とその一門を成敗して,自らも自刃すると言う凄惨な死を遂げます.
これが「宇陀崩れ」と呼ばれた事件で,翌年,家督を継いだ息子の信休には,幕閣から沙汰が下り,信休の領地は大和から遠く丹波氷上の柏原に移され,所領も二万石に減封されてしまいました.
柏原は,元々織田信長の弟で四男の信包が伊勢安濃津から秀吉によって三万六千石を拝領し,幕府に安堵された土地でしたが,三代で嫡嗣無く,収公されていた土地でした.
入封の後,信休は直ぐに藩校を設けて文教政策に力を入れ,人の育成に力を注ぎます.
信休が没すると,その子信朝が二代となります.
この頃から柏原織田家は窮乏し始め,藩札を濫発することで,一息入れる様になります.
若くして信朝が卒去すると,今度は信休の三男信旧が兄の養子となって跡を継ぎます.
彼は,吉宗の倹約政策を真似したり,町火消などの整備に力を入れました.
そして,跡を継いだのが,高家の織田家から養子に入った信憑です.
経済は困窮し,しかし,改革は上手く行かず,遂には農民暴動が頻発する様になります.
そんな時,跡を継いだのが信憑の息子,信守です.
先々代の信旧は,信憑を養子にしますが,その後に実子の信応が生まれます.
当然,跡目は信応の方にすべきだったのですが,直前で信応が卒去したので,彼に跡目の座が転がり込んで来た訳です.
彼は,政治に見向きもせず,公費を濫用したり,愛妾を政務に就かせるなと遣りたい放題.
また,信応の子信古がいるにも関わらず,その信古を廃嫡して自分の子を跡目にしようと画策するなど,暗君と言われる典型の様な人で,結果的に家臣が幕閣に訴え,強制的な隠居となりました.
そんなこんなで,跡を継いだ信古ですが,隠居した信守は,隠居で気楽だから江戸で生活したいと言い出します.
しかし,彼を江戸で生活させたりしたら,家の費えが幾らあっても足りない,此処は側室の保野を江戸から呼び寄せるから,それで我慢してくれ,と言う話になって,一端纏まり掛けました.
ところが保野の下女がこれを誤解し,信守と保野が柏原に幽閉されようとしている,と,幕閣に訴え出たからさあ大変.
誤解を解こうと,あちこち走り回り,最終的に誤解は解けた訳ですが,幕閣の裁決は,信守に遠慮,信古は逼塞を命じ,結局,信古も巻き添えを食って隠居となりました.
その跡目は,信守の思惑通り?彼の長男信貞が養子となって跡を継ぎますが,子宝に恵まれず,肥後宇土細川家から養子を迎え,信敬としますが,彼は藩校を作っただけで,若くして卒去し,今度は筑前秋月黒田家から養子を迎えて,信民としますが,彼も教育制度を整えただけで,これまた卒去してしまいます.
最後の藩主は,備中成羽山崎家から次男を養子に迎えた信親で,彼は維新の激動の時代,藩論を勤皇に統一し,官軍に出兵,鳥羽伏見の戦では,官軍方として参戦し,戦死者120名を出しました.
二万石の家としては,結構な損害.
戦後は子爵となり,宮内庁に出仕しています.
ちなみに彼が死んだのは,1927年で78歳まで生きました.
こっちも結構,激動の系譜ですねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月08日21:35
【質問】
秀吉の九州出陣で討ち死した長曾我部信親に嫡男はいたんでしょうか?
【回答】
信親は二十二で戦死したが,娘が一人いただけ.
その娘は信親の弟盛親に嫁ぐ.叔父姪の結婚だ.
五人の男子に恵まれたが,大阪夏の陣後,盛親と共に全員処刑された.
ちなみに,信親の妻は,明智光秀の家臣だった石谷頼辰の娘.
頼辰の義理妹(養父石谷光政の実娘,斉藤利三の義妹でもある)は元親の妻で信親の母だから,義理の従兄弟結婚になる.
日本史板
【質問】
柳生十兵衛の出身地が奈良って本当?
山田風太郎のイメージで,てっきり兵庫出身だって思ってたけど・・・
【回答】
柳生家の本拠地は,もともと大和国柳生荘だぞ.
爺さんのとき取り上げられていたが,親父の宗矩が関が原の戦いの戦功で再び貰い受けた.
十兵衛はそれから7年後の生まれ.
大和国(奈良県)生まれだといっても,全くおかしくない.
日本史板
兵庫出身と勘違いされたのは,柳生兵庫助と混同されたせいかも.
この柳生兵庫助の兵庫は,兵庫県とは何の関係もないです.
確か漫画の『バガボンド』にも兵庫助が出てたはず.
◆◆武田信玄関連
【質問】
これまで武田信玄とされてきた長谷川等伯筆の肖像画(下画像)は,実は信玄のものではないというのは本当か?

【回答】
河合敦によれば,賛否あって決着を見ていないという.
例えば藤本正行は,
・この肖像画が信玄を描いたものだという確かな史料はないこと
・太刀の目釘や笄(こうがい)の家紋が「二つ引両(ひきりょう)」であること
・長谷川等伯は戦国時代には能登で活躍していたこと
から,能登畠山一族のものではないかとしている.
しかし,信玄説を唱える人々も少なくないという.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.60-62を参照されたし.
【質問】
武田信虎追放は信玄主導だったのか?
【回答】
河合敦によれば,板垣信方・飯富虎昌ら武田家重臣主導の反乱だったという見方が強くなっているという.
甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強く,信虎が集権化を推進すると共に,周辺諸国との大きな合戦を繰り返したため,国人層の反発を受けたのだという.
事実,後を継いだ信玄は,投書奨励によって家中の不満を和らげようとすると共に,多数の間諜を領内に放ち,重臣反乱を察知できるようにしていた.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.63-65を参照されたし.
【質問】
山本勘助は実在した人物なの?
【回答】
昭和44年に発見された市川文書によって,山本勘助(山本管助)の実在は確認された,と考える人は多い。
・信玄の名代として出向いてるので,それなりの地位にいた武将だったという説、
・後世の甲陽軍鑑によって過大に喧伝されただけで,並みの武将だったという説、
・いや,諜報謀略が主任務だったので,表立っての記録が残されにくい立場だったという説、
・いやいや,当時の武田家は譜代の合議制だったので,余所者の山本勘助には発言権はなかったという説、
・いやいやいや,当時の軍師は吉凶を占う陰陽師的な側面があり,アドバイザー的な立場で影響力があったという説、
いろいろあるようだが。
架空人物説を説く奥野高広を除けば、管見では、「市河文書」の「山本管助」=「山本勘助」にはっきりと疑義をはさんでいるのは、笹本正治だけ。
あとは殆どが,「市河文書」で山本勘助実在!と大して検証もせずに決めつけてしまっている。
たぶん、「市河文書」に出てくる山本管助は軍師山本勘助のモデルだろう。それはいい。
甲斐武田家臣に山本一族がいたこともほぼ確実だ。
だが現在のところ、実在が確認されているのは山本管助であって、山本勘助ではない。※
ここははっきりすべきであろう。
当の山本管助は,弘治年間と推定される「市河文書」の中に登場したきり、その消息は知れない。
実在したと言われる勘助は軍師ではなく,足軽大将だったんだと考えられている.
「勘助=名軍師」という俗説ができたのは江戸期.
家康は,武田遺臣を召抱えたり信玄の真似をしたりと信玄贔屓だったからそういう武田マンセー土壌が出来ていたんだな.
が,明治になったら「甲州流兵法はウソっぱち」となり勘助は否定され,そのあおりで勘助の存在自体も否定視されるようになった.
【参考サイト】
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x105.html
※
ただ,当時は通称は当て字が当たり前だったため,大方の研究者は「管助」「勘助」の文字の違いには問題を感じていません.
現代の日本では発音が同一でも文字が異なれば別人と考えてよいのですが,明治以前にはそうではありませんでした.
ことに字(あざな)=通称の場合発音さえあっていれば,あとはどの字を当ててもオーケーでした.(諱(いみな)の場合はどの文字を使うか重視されますが)
おそらく私が長々と書くより「武士の名前」でgoogle検索してみていただくのが早いと思います)
それを承知した上で市川文書の「山本管助」との記述に疑念を呈しているのが本項目の
「だが現在のところ,実在が確認されているのは山本管助であって,山本勘助ではない」
との記載のあるリンク先であり,それに対して大方の研究者は,それはおかしいことでも何でもないと考えています.
【質問】
武田騎馬軍団は史実では存在しなかったって本当?
【回答】
当時の戦国大名の兵力動員の形態から考えて,なかったか,あったとしても小規模と考えたほうが自然だという.
以下引用.
戦国時代のテレビや映画では,無敵の武田騎馬軍団等と言っているのがあります.
しかし本当は戦国の武田家には,騎馬軍団がいませんでした.
「戦国合戦本当はこうだった」(藤本正行著 洋泉社)では,戦国大名の兵士は家臣がその知行地から,騎馬武者1人,長柄鑓持ち,持ち鑓5人,弓何人,鉄砲1人,旗持ち・手明何人などと各村から農民を集めて兵士にします.
この場合騎馬武者は,多くは指揮者などの上級兵士が多かった.
当然騎馬武者だけを集めて,集団生活や訓練などは出来ません.
訓練などは知行地ごとの,いわば各村ごとにしか出来ないはずです.
当然のことながら,騎馬軍団を造れなかったわけです.
おおよそ騎馬武者一人に付き,7人〜10人の歩兵が一つの基本単位となって,行動しています.
その騎馬武者の割合も,上杉家等他家と比較しても,武田家が特別高い割合でもなかったことを考えると,やはり武田騎馬軍団は存在していなかったことになります.
http://homepage3.nifty.com/k-haruaki/koborehanasi.htm
したがって,あったとしてもそれほどたいした規模ではなかったと考えられる.
騎馬を大量に養うには,非常にコストがかかるし.
特に戦国日本式の騎馬養成は大変.
「武田騎馬軍団」は宣伝戦の威力もありだよ.
んで,騎馬の突撃衝力というのは,多分にイメージに支えられるところが大きい.
「あんな大きな動物が大挙してこっちに突撃してくる!」という威圧力だね.
武田家では,宣伝戦で敵方に培われた「騎馬軍団」のイメージを有効に活かすため,突撃の際には馬から下りる,ということまでやっている.
【質問】
信玄死後,武田が滅亡してしまったのは何故か?
【回答】
河合敦によれば,勝頼の領国経営の失敗だという.
甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強いにも関わらず,勝頼は集権化を推進して重臣の離反を招いた.
また,勝頼は強引な力攻めを好み,そのために長篠の戦いで大敗を喫した.
さらに,武田家中の情報収集も怠ったため,重臣反乱も察知できなかったのだという.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.67-68を参照されたし.
◆◆徳川家康関連
【質問】
なぜ松平家康は「徳川」と名字を改めたのでしょう? 必然性,改めた経緯など教えてください.
【回答】
栄禄7年,松平家康は目出度く三河統一を果たします.
足利幕府によって承認はされましたが,周囲はご存知の通り名門だらけ.そこで彼らに対抗し正統な支配者であることを内外に知らしめる為に,三河守護職に任じて欲しい,と朝廷に申請しました.
しかし,断られました.氏素性がはっきりしなかったためです.
そこで家康は,吉田兼右に献金し奔走してもらいました.
吉田は萬里小路家の古い記録から,
「元は源氏で途中で藤氏を名乗った」
などの論を構築して纏め,近衛前久を経て朝廷に提出,永禄9年,従五位下三河守に任じられました.
このように,
・徳川の名字を名乗るときに,惣領家として松平一門内での差別化(松平全体からすると,実は嫡流ではない),
・源氏として武門の家を正式に自称すること,
・三河一国の正式な支配者であること,
・それを周辺諸国へアピールする
などを同時に行うという,非常に重要な意味があったのです.
【質問】
徳川家臣団は,家康への忠誠心は強かったのか?
【回答】
河合敦によれば,むしろ平然と主君を見限る傾向が強かったという.
・1563年の三河一向一揆では,徳川家の重臣の多くが一揆勢に加担し,家康を窮地に立たせていること
・1572年の三方原での敗戦後,大久保忠世(ただよ)は「殿が糞を漏らして逃げてきたぞ」と家康を嘲笑したこと
・1579年,家康の妻子が武田に内通していると信長から疑われた際,信長に問いただされた酒井忠次はこれを肯定し,家康は妻子を死に追いやらなければならなくなったこと
・1585年には石川数正始め,数名の重臣が,家康を見捨てて秀吉のもとに走っていること
を,彼はその根拠に上げている.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.184-185を参照されたし.
ただしこれについては,ちょっとばっかし因果関係に飛躍がある上,原因についても疑問がありますので,ちょっと思うところを.
>・1563年の三河一向一揆では,徳川家の重臣の
>多くが一揆勢に加担し,家康を窮地に立たせていること
事実一向宗側についた武士が多いのは事実ですが,家康の姿を見た武士たちが恥ずかしがって逃げ出したという美談も伝わっている上,乱の後,かなりの数の家臣団が帰参しています.
“平然と”見捨てたというのはどうかと(家康が危なかったのは事実ですが).
本気で彼らが家康を見限っていれば,後の家康の腹心である本多正信のように,各地に渡って奉公先を探しても良かったわけですし.
>・1572年の三方原での敗戦後,大久保忠世(ただよ)は
>「殿が糞を漏らして逃げてきたぞ」と家康を嘲笑したこと
だから何?ってレベルなんですよね…
戦国時代はまだ江戸時代みたいな窮屈な身分制・儀礼至上主義社会だったわけじゃなし,これをもって忠誠心が低かったといわれても.
このあと大久保忠世が家康の寝首を掻いたとか言うなら,まさに表題のとおりなのですが,むしろ彼は武田方に夜襲を仕掛けて面目を施したというくらいですし.
付け加えれば,このとき数人の武士(そのうち一人は一向一揆で裏切った武士)が家康を逃がすために身代わりになって討ち死にしていますし,三方ケ原はむしろ「精忠家康家臣団ここにあり」という戦です.
>・1579年,家康の妻子が武田に内通していると
>信長から疑われた際,信長に問いただされた
>酒井忠次はこれを肯定し,家康は妻子を死に
>追いやらなければならなくなったこと
信康・築山殿については家康との不仲説や謀反説もあり,信康の死については古今さまざまにいわれています.
積極的に家康が信康を殺したという異説も存在していますし,これをもって忠誠心云々するのは(今の段階では)不適切のように思います.
小説家・池波正太郎なんかは
「あのころの家康は,三方原を見れば分るように,むしろ血気盛んな男だ,
信長がスジの通ってないことを言えば,信長と同盟を破約してでも断っただろう」
といってました.私もそんな気がします.
>・1585年には石川数正始め,数名の重臣が,家康を見捨てて秀吉のもとに走っていること
これのみ当を得ているかとおもいます.
当時の家康は反秀吉勢力を糾合し,北条とも手を組んでがっちり闘う構えだったわけですから.
でも「あっさり」か…? 私としてはむしろ秀吉の調略の手腕を誉めたいところ.
……とこんな具合です.
家康は信長型の絶対的な尊敬と畏怖を持って使えられる君臨者でもありませんでしたし,家康の家臣団は一枚板ではありませんでした.
裏切り者もありました,
家中不和もありました.
武功派と文治派は幾度となく争っています.
ですが,それをもって家康の家臣団は主君をあっさり見捨てるような集団なんだ,と言う結論は針小棒大といわざるをえないのではないでしょうか.
そんなん言ったら信長家臣団のほうがやばいです(笑).
裏切るわ(荒木村重,松永久秀),命令に逆らうわ(秀吉の越前からの勝手な撤兵),跡目はあっさり無視されるわ,家老筋の大将は陰口叩くわ――佐久間信盛が叱責を受けた時に,「そんなこと言ったってわしらがおらねば何ともならないでしょう」,とゆーよーなことを言ってさらに怒りを買ってる――,大体若いころなんて柴田勝家は信長を殺そうとしてますよ!
世に伝わる話の逆接を考えるのは面白いのですが,事実としては戦国時代の家臣団の中では,徳川家はまとまりが良かったほうじゃないんでしょうかねえ.
【質問】
石川数正にしても,対秀吉政策の対立で居られなくなったってところでは?
主戦論が幅を利かせている(引っ込みがつかなくなっているともいう)状況で,融和を唱えるのも苦しくなったのでは.
数正が出奔したおかげで「数正のせいで軍事機密が漏れた,これでは戦えない」と鉾を収める理由付けになったという説もあります.
徳川の天下になって以降も特に報復はされてませんし.
(息子たちが大久保長安事件に連座して改易されているので,それが報復かもしれませんが)
【回答】
>主戦論が幅を利かせている
この時もある種,武功派vs文治派ですね(笑).
そう言う隙間につけ込んで口説き落とすのが,秀吉の人たらしの名手たる所以かなあと.
しかしそう考えると,間接的に秀吉を“勝たせた”本多忠勝・榊原康政なんてのは,とんでもない奸臣ですな(苦笑)
>数正のせいで軍事機密が漏れた
この話では,武田流(甲州流)に慌てて軍制を改めたことが有名ですね.
>徳川の天下になって以降も特に報復はされてませんし
一度よそに行ったからしょうがないんですが,真田信之でも準譜代なのに外様格にされたのは,遠まわしな報復かなあと思ってます.
あの執念深いタヌキジジイがそうそう恨みを忘れるとも思えませんし.
【質問】
『家康に過ぎたるものが二つあり.
唐の頭に本多平八』
の「唐の頭」とは何のことですか?
【回答】
これ
http://www.kozando.co.jp/catarog/sekigahara/heihachi.htm
幕末期に官軍が付けたのでも有名な,ヤクの毛でできた兜飾り.
染めた色別に黒熊(こぐま),赭熊(赤熊,しゃぐま),白熊(はぐま)と言う.
当然舶来品.中国四川省やチベット産.
戦国時代に流行りだし,家康は難破した南蛮船から相当数かっぱらったという話もあり(あとで賠償している). だからこそ「家康に過ぎたるもの」と呼ばれたりした.
で,これは幕府内でストックされていたのだが,明治維新のさい,それを官軍は鹵獲(かっぱらい)して上野戦争以降で使い出した.
上記の色別にそれぞれ薩摩,土佐,長州軍が使い分けしている.
尤も,南蛮船がくる少し前の享禄三(1530)年に龍造寺家兼が大内との合戦でピンチになったとき,突如,鍋島清久親子率いる赤装束の赤熊武者百騎が現れ,大内勢をコテンパンにしたという話あり.
南蛮船渡来以前から流行だしたということかな.
余談だが,家兼いたく感激して孫娘を清久の次男清房に娶らせ,龍造寺と鍋島の姻戚関係成立.
のちに龍造寺の家督をゲットする鍋島直茂は,この夫婦の子.
【質問】
家康の死因について質問です。
・天ぷらで胃もたれを起こして死んだ
・天ぷらを胃もたれを起こしたので、自分で調合した薬を飲んだら死んでしまった
・海老天ぷらの海老の尻尾が喉に刺さって死んだ
と色々聞いた事があるんですが、本当の死因は何ですか?
【回答】
鯛の天麩羅以前に、すでに胃がんだった。
残された記録から見て、胃ガンだったのは確かで,食あたりが死因ではない。
無理して大坂の陣を起こして豊臣家を滅亡に追い込んだのも、自分の死期を予感してたからだろうな。
豊臣家を滅ぼして気が緩んだのか、1616年に死んじゃってるわけだし。
当時は亀腹と呼ばれる胃ガンがかなり多かったようで、伊達政宗も胃ガン。
ちなみに、江戸時代の人間が朝鮮人参を異常に珍重したのは、家康が珍重したせい。
家康の場合、関ヶ原後に3人も子供を成したため、また,当時としては長命だったため、回春剤としての効能も含め,庶民に朝鮮人参幻想が生まれたようだね。
家康が自分で調剤してたのは有名だけど、この時はちゃんと医者が薬を投与している。
それよりも、吉田梵舜が家康倒れるの報を受けてから、家康呪殺の堂籠りをしてることの方が、興味をそそられるね。豊国廟を破壊された怨みなんだろうが、実際には家康にも吉田神道の教えを授けてるわけだから、面従腹背ってやつか。
◆◆山内一豊関連
【質問】
大河ドラマ「功名が辻」で武田鉄矢とかやってる,山内家の最初の家来の二人は,実在した人物?
幕末まで子孫は残ってる?
【回答】
実在の人物だよん.
「山内家史料休夢覚書」によると
・弘治3年7月12日,山内氏の住む黒田城は、敵の夜襲に遭い兄十郎は討死,父盛豊も負傷した
・13歳の一豊は,家臣の祖父江道印の案内で屋敷の隠窓を破って外に出て土居の藪の竹を切って堀に橋を掛け城を脱出して岩倉城の織田信安のもとにのがれた.
とあるよん.
つまり,祖父江道印は実在の人物ってことだね.
また,山内入国後の宿毛領の領主として祖父江志摩次郎兵衛がいるよん.
・柏島1000石を与えられ柏島守護となったこと
・祖父江志摩は,山内一豊が幼少の頃尾州黒田城でその危難を助けた祖父江道印の子であること
・祖父江志摩は柏島で22年間生活し,元和9年に68歳で没したこと
・島民はその徳を慕って,毎年旧盆に祖父江志摩の墓前で「志摩さん踊り」を奉納していること
は「宿毛市史」にも残ってるよん.
木曽川町史では,
・祖父江家は,現在の中島郡祖父江町の出身で,盛豊の妻の縁者で黒田城の井戸番蔵番を勤めた盛豊が左腕と頼む有力家臣
・現在も木曽川町の電話帳には「祖父江」は約50軒程度,掲載されている
でもって,幕末土佐藩の司令官の1人,祖父江鷹衛は祖父江の子孫.他にもう1人,祖父江がいるけど,彼もそうだよん.
五島は,五藤主計が幕末に家老をしているよん.
木曽川町史では,
・一豊の父盛豊が尾張へ来た時のこと,長良川郷戸の渡しの渡船の船中で,五藤三郎左衛門浄基が盛豊の人柄にほれ込み臣従し仕えた
・「功名が辻」のは五藤吉兵衛で浄基の子ども
・五藤家は当時黒田近辺の豪族で,岩倉織田家に仕えた有力者
・「五藤」も電話帳で約200軒程度確認可能
愛知県一宮市(旧・木曽川町)の山内家菩提寺・法蓮寺に行けば,
山内家の墓と並んで五藤家や祖父江家の墓もあるよん.
山内家の譜代中の譜代だぁね.
【質問】
一豊の妻,千代の出生地ってはっきり分かってたっけ?
【回答】
千代の出生地は,郡上市の八幡城城主・遠藤盛数の娘という説のほか,近江
(滋賀県)浅井氏の家臣である若宮友興氏の娘とする説などいろいろある.
いずれも系図や寺の過去帳の記載などを根拠にしており,一定の信頼性はあるといわれているが,出生地を確定するまでには至ってないのが現状.
ちなみに司馬遼太郎の「功名が辻」は,若宮氏説をベースにしている.
【質問】
山内一豊譚は戦国の出世物語扱いされているが,オレなら僻地の土佐24万石より東海道沿いの掛川5万石の方がいいな.
土佐転封は,実は体のいい左遷じゃないか?
【回答】
単に東海道は譜代,外様は遠方の地のルールが適用されただけで,「左遷」ではない.
ただ,一豊入封時の土佐藩は,超ド級の貧乏でありますた.
さらに,慶長十一年に一豊が死去した後,それに追い討ちを掛けるように幕府から度重なる課役負担を強いられ,藩財政は困窮を極めておりますた.
当初,それに必要な資金を大阪の商人から調達しつつ自転車操業しておりますたが,その後間もなく元和七年頃,藩財政は破綻寸前まで逝っちゃいますた.
土佐藩が物産として本格的に自藩領の木材に着目し始めたのは,一豊死後約二〇年.
それによって藩財政が潤うのは,一豊死後三〇年近く経ってからでありまつ.
元和八年,こんな財政状態ではいかん,と大慌てで山から檜を切り出し,大阪民間市場へ廻送し続けた結果,一豊入封以来ここで初めて藩財政の建て直しに成功したのでつ.
しかし,民間需要分の伐採に加え,寛永始めの大阪城と二条城普請時に膨大な数の土佐檜を乱伐し献上し続けたから土佐の檜山は禿山となり,急遽民間に対し木材伐採の規制を設け,藩をあげて造林に励み出すのでありまつ.
【珍説】
山内一豊は土佐長宗我部の一領具足たちをだまし討ちして虐殺した悪人だ!
【事実】
原作の司馬氏は,長宗我部氏や郷士階級の出身である坂本龍馬を題材にした小説も書いていることから,土佐入国後の一豊に関しては批判的です.
ただし,一豊と同様に統治が難しい領地を与えられた結果,その統治に失敗して改易された外様大名がいたことを考えると,やむを得ない部分もある,としています.
また,半農半兵という一領具足の特色が,兵農分離という時代の流れと衝突したことも,こうした悲劇の一因といえます.
当時(1600〜1601年)はまだ混乱しており,そうしたことは日常茶飯事なんですけどね(^^;
どちらの立場に立つかによって,ものの見方は変わってしまいます.
こうした歴史的事実の,一点のみをとらえてどちらかを一方的に非難することは,無益であるばかりでなく,正直言ってうざいです.
◆兵器
【質問】
戦国時代のお侍さんは、メインウエポンは何だったのですか?
火縄銃や弓矢ですか? やっぱり槍なのでしょうか? それとも日本刀がメインの武器?
【回答】
日本の戦国時代には白兵戦はあまり行われていない。
とにかく突撃というイメージは,どっちかというと旧軍に作られたものだ。
戦闘による死傷の数を見ると弓、石、鉄砲などの飛び道具で7割近くに達する。
で、侍のメインウェポンは大弓。(ちっこい馬に乗ってる)
白兵戦に備えて槍か長巻を家来に持たせておく。
日本刀は主に護身用で、現代の軍であればピストルに相当。
刀がメインウェポンだったのはむしろ,鎧を着なくなった平時の江戸時代だな。
そのあたりも拳銃と似てるかな。
軍事板
我が国における戦闘の歴史では、既に鎌倉時代には、
「刀は使い物にならない」
とされています。
主力武器は専ら「槍」と「弓」でした。槍は雑兵が、弓は高級武士、または専門訓練を積んだ弓兵が用いました。
「刀と首取り―戦国合戦異説」 平凡社新書・鈴木
真哉によると,長距離戦(鉄砲・弓矢)と中距離戦(槍)で,ほとんど勝負が決まり,白兵戦や馬上戦は,平和な江戸時代につくられた作り話だそうです.
日本刀は,儀式・宗教・象徴の意味合いで持っているのであり,武器としての認識はほとんどなかったそうです.
首を切るときに使ったり,恩賞などに使いました.
安土桃山時代にはこれに加えて鉄砲が登場します。
大砲も出てきますが、これは城郭の破壊用が主でした。
しかしながら、実際の戦場では相変わらず多くの兵が刀を携帯していました。
これはなぜかというと、「倒した武士の首を切断するため」に必要だったからです。槍や弓で首は切断できません。
そのため、当時の日本刀はほとんど首切断用に使われたのが真相です。
刀を振り回して一対一で決闘するなどという場面は存在しませんでした。
実際、日本刀というものは大変重くて、接近しないと使えない上、きれいに振り切らないと柄から刃が簡単に抜けてしまう代物です。
武器としては絶望的に劣っています。
江戸時代以降は武士の象徴となりました。
日本刀が殺傷の実用武器となったのは幕末ですが,これは,江戸時代はよほどのことがないと槍や弓まして鉄砲を携行して歩くのは不可能(そんなことしたら即しょっぴかれる)だったからです.
ゆえに幕末の志士たちの武器は日本刀となりました。
幕末〜西南戦争においても日本刀は威力を発揮し,それが陸軍の日本刀携行につながるのです。
ちなみに軍刀は一発焼入れの量産品ゆえ,美しさの点では劣りますが,実用性は十分ありました。
日本刀

【質問】
戦国時代の合戦中、人を斬って使い物にならなくなった刀は、捨てるのでしょうか?
そして、死体から刀を奪って戦い続けるのでしょうか?
【回答】
刀の出番自体,あまりなかった.
残された屏風絵などをみると、鎌倉や室町の頃は二本以上の刀を携帯している武士の姿が描かれている。
槍の出現には諸説あるが、九州の菊池氏による菊池槍が原型ともいわれている。
武器としての殺傷力が高いので、戦国時代は主武器になった。
刀はあくまでも補助的な武器であり、槍がダメになったら刀、刀がダメになったら脇差しと、基本的には武器は消耗品だった。
大将や位の高い者は、象徴的な意味で銘刀を持っていたが、ほとんどの兵にとってはあくまでも消耗品。
甲冑組み討ちの武芸が発達したのも、相手を組み伏せたり、武器がなくなった時の最終手段。
吉川英治の宮本武蔵の中で、戦場の鎧とかをはぐシーンがあるでしょ。
合戦が終わった後で、近隣の農民などが残った具足や武器など、使えそうな物ははぎ取って転売したし、折れた刀や槍、鏃などは村の小鍛治が打ち直して再利用した。
【質問】
さっき「子連れ狼」見てて思ったんですが,槍と刀ではどっちが強いんですか?
テレビでは槍の方が強かったけど、最後には木の部分が切られてしまい、あとは刀に持ち替えてましたが.
【回答】
槍は強い.圧倒的に.
1mの長さは10年の修行に匹敵するとする説さえある.
剣道3倍段と同じような言葉で,薙刀九倍段なんて言葉さえある.
剣術家が同程度の腕前の槍術家に挑むのは無謀.
詳しくはスポーツチャンバラや一刀両断(まだやってるのか?)を取材されたし.
また剣道と薙刀の異種試合の勝率も,薙刀が有利であることをお忘れなく.
槍侍

(うそ)
(引用元:「朝目新聞」)
【質問】
何かの本で,
「槍は斬るもの,刀は突くもの」
という解説を読んだのですが,本当なのですか?
(日本の話です)
なんか逆に思えるのですが・・・.
【回答】
自分も詳しいわけではないが,それは戦場での話だろうな.
刀で人を切り大きな怪我をさせるのは実はめちゃくちゃ難しいらしい.
有名な忠臣蔵の松の廊下「突かずに」「切りかかった」ことを,武芸に不得手と揶揄されたなんて話もあるらしい.
鎧を着ていればなおさらに.切りつけにくいから,
飛びついて鎧の隙をつくように突き刺すのが効果的.
逆に戦場で用いられる足軽の槍は,槍衾を作るためのものでめちゃくちゃ長い.時には十メートル近かったとか・・・.
そんな長いもので相手を突いても,そうそう当たるもんじゃない.
これで戦う時には,垂直に立てた状態から,皆でいっせいに渾身の力で振り下ろす!!
で相手を叩き潰すように使うそうな・・・.
「槍は切るもの」は一部の流派で言われてる.
突いた後,しゃくりあげるようにして切ったりする.
そういう使い方もあり,有効だ,ってこと.
刀も,初太刀は突けと教える流派も多いよう.
太刀と刀は刃を向ける方向が逆.
銘は普通,腰に差したときに外側になる方(表側)に切るので,太刀と刀は銘も逆になる.
軍事板
なお,
「槍は斬るもの,刀は突くもの」
というのは確か佐分利流槍術の教え.
これは,「槍は突くもの,刀は切るもの,という先入観を捨て,自由自在に使え」
という意味だったやうな.
> これで戦う時には,垂直に立てた状態から,皆でいっせいに渾身の力で振り下ろす!!
> で相手を叩き潰すように使うそうな・・・.
デーブ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫,2004.5)には,こう記されています.
[quote]
『 距離関係に付随するもうひとつの要因は,刃物を突き出すのはむずかしいということだ.
払ったり振りおろしたりするほうがはるかに簡単なのである.
突き出すのは相手を刺し貫くためであるが,振りまわすのは敵の急所を刺し貫くのを回避する,あるいはそのような意図を否認することなのだ.
(中略)
ローマ人は,兵士が刺突攻撃を嫌うという深刻な問題に頭を悩ませていたようだ.
古代ローマの戦術家で歴史家のウェゲティウスが,
「切るなかれ,突くべし」
と題する章で,この点を長々と力説している.
同様に,切るなかれ,突くべしと兵士たちは教わっていた.
ローマ人は剣の刃で戦うものを笑い者にしていただけでなく,つねにやすやすと負かしてきたからである.
どんなに力を込めたとしても,刃を振り下ろしたのではなかなか殺すことはできない.
人体の重要な器官は骨や武具で守られているからである.
ところが突きを入れたときは,たった2インチしか刺さらなくても致命傷を与えられるのがふつうなのだ』
(p212〜213)
[/quote]
ここで挙げられているローマ兵の「払い・切り」と「突き」は,ローマ剣(いわゆるグラディウス)のことでは?
剣の用法であれば,該当文中に
>鎧を着ていればなおさらに.切りつけにくいから,飛びついて鎧の隙をつくように突き刺すのが効果的.
とありますから,なんら矛盾することはないと思います.
槍を突くのではなく,叩き潰すように使うということに矛盾を感じていらっしゃるのかなと思いますが,例えば4mの垂直に立てた物干竿が,人に向かって倒れ込んできてぶつかったら,特にその先端付近がぶつかったらどういうことになるかを想像していただければ,その打撃力はある程度想像いただけると思います.
ここでは例に物干竿をあげましたが,槍は金属の塊である穂先が先端についている上に,槍の柄は昨今の金属パイプ製物干竿より遥かに重いので,「振り下ろす」というのもあんまり現実的じゃありません.
というか振り下ろそうとしなくても,垂直に保持して,前に(敵に)向かって倒せば,自重で物凄い勢いで勝手に倒れこみますので….
倒れこんで敵に穂先が当たった際,穂先で切れたり,切れなくても打撃でダメージがいくわけです.
なお,ローマ軍団兵は通常,投槍以外に槍を持たず,クロスレンジで盾による打撃と比較的軽く短いローマ剣を用いて戦いました.
一方,方陣を組むような長槍はミドルレンジの武器で,こういう戦術を取っている軍隊では概ねクロスレンジ武器である剣は護身用のようなものですから,剣を使用した訓練も組織だった戦術もあまり行われていないでしょう.
ご引用の書籍は読んでいないのですが,ご紹介いただいた文章を拝見するに,ローマ軍団兵は相手のミドルレンジ武器を無効にするような位置で戦う戦術を取っていたので,クロスレンジ戦闘での戦術と武器の錬度で上回ったという意味合いの文章かと思います.
私もたいして詳しくありませんので,もっと詳しい方がいらしたら,ぜひともツッコミをお願いしたくあります.
▼
槍で刺すのではなく振り回すのはグロスマンがいうように生得的な傾向で,足軽に限ったことではないようです.
鈴木眞哉『戦国時代の大誤解』(PHP,2007.3),
第五章 不思議な合戦シーン
3 槍は振りまわすもの,刀は片手で扱うもの
より引用.
『 戦国時代には,足軽などは長柄槍という大量生産の長めの槍をもち,士分の者たちは,各自が持槍といって短めの槍を用意した.この長柄槍は,戦闘になると,いわゆる「槍ぶすま」をつくって敵の突入を阻止したり,振りまわして敵を打ち倒すために用いられた.槍本来の機能であるはずの刺突などということは,あまり顧慮されることがなかった.
士分の連中にしても同じようなもので,いざとなれば突き合いというより,叩き合いになることが多かった.大坂夏の陣のとき,加賀前田家の者たちが城兵と槍を合わせたが,最初の一槍,二槍は,双方たしかに突き合ったものの,あとはひたすら打ち合い,叩き合うばかりだったという話が残っている.
江戸初期の風伝流の槍術者として知られた国枝重隆の父親も,大坂の陣を体験した人だったが,戦場での槍はただ打ち伏せるだけで勝負が決まるものだと息子に教えたという.だから槍は頑丈につくっておくべきだというのが,その人の主張であるが,これは別に大坂の陣に限った話ではなかったことは,もちろんであろう.
そういう記憶が鮮明に残っていたあいだは,槍術者もそのような教え方をしていたらしい.加賀藩の関谷新兵衛という槍術師範は,大坂夏の陣のころ生まれた人だが弟子たちが相当の腕前になるまで絶対に突き技を教えず,槍を振り上げて敵と敵の槍を叩くことだけを稽古させた.関谷に言わせれば,突き技などというのは,敵を叩き伏せるか,敵の槍を打ち折ったり打ち落としたりしてから,初めて用いるものだというのだ.
太平が続くうちに,こうした戦場の実態はしだいに忘れられ,槍は突くものという考え方が当たり前のようになっていった.疑問を持つ人もいたかもしれないが,なにしろ実戦の機会がないのだから確かめようがない.
そのうち幕末の動乱が始まって,戦場に槍を担ぎ出すような場面がまた現れた.そのころ水戸の尊皇攘夷派に加わって何十回か戦闘を体験した人の遺談によると,もっぱら叩きたてていたようで,槍で敵を突き伏せた話なんて聞いたこともないとある.突く稽古などしていたのは,太平時のことだったともあるから,いざとなると,教えられなくても戦国時代の常識がよみがえってきたらしい.(P182〜183)
【質問】
戦国時代の馬って小さかったの?
【回答】
「戦国時代の馬はポニーと同等以下の大きさ」というのは,それを言った歴史研究家が日本の在来種である木曽馬が「ポニー」に分類される大きさというだけで小さいと早とちりして広めた話.
実際には木曽馬はポニーに相当すると大型の部類ということになるサイズだし,一般にポニーとしてイメージが定着している種類は,ポニーの中でもかなり小型の部類の特定の一種の事.
でもって,発掘された戦国時代の馬の骨の復元からすると,当時の馬は木曽馬よりも大型だという(つまり,違う種類というわけで…)
【質問】
日本で,石投げが実戦でも使われたというのは本当か?
【回答】
本当.戦闘序盤に敵を混乱させるのが目的です。
後白河院が対木曾義仲戦に駆り出した「市民軍」が投石を行っていたほか、戦国時代では特に有名なのが甲斐の武田家です。
また,印字打ちと呼ばれる石合戦は庶民の間に結構流行って、死人も多数出たので,しばしば禁止令がでたほど。
京都の庶民がしばしば投石を行ったことが、『中右記』や『日本紀略』に見えています。『年中行事絵巻』の例といい、祭の時にはよく出ました。
白河院政期の権大納言藤原経実は武芸を好んだ人で、始終隣近所に投石を行っては喧嘩を売るという、かなり面倒な人物でした。
ただ、弓箭を扱うことに比べると、下賤の業とされた様です。
吉凶を占う年中行事としては古代から昭和までありましたが、怪我人とは縁の切れないものでした。
聖性があると考えられており、「禁止にしたから天災が起きた」といわれた北条泰時が,禁止令を取り消した,というエピソードが残っています.
【質問】
投石は,射程距離は弓に劣るって書いてたが,それで戦場で役に立ったの?
【回答】
スリングは350〜400mほど射程があり,熟練者になると200m先の1m大の目標に当てられるそうだ,
まあこれらはローマでの話なので,そのまま日本に当てはめられるわけではないけど.
日本では投弾帯(まんまスリング)や,瓢石(ふりずんばい,スタッフスリング)といった種類がある.
投弾帯は100m,瓢石は200mほど射程があるといわれて,弓や鉄砲と同等の飛距離はある.
ただ,殺傷能力が弓・鉄砲に比べて低いこと,投げるだけならともかく熟練の技術が要求されること,なによりも格好悪いことが原因で,武士でこれを得物にする物はまずいなかった.
軍事板
【質問】
戦国時代に槍が発達してからは,薙刀を持つ者は居なくなったのですか?
【回答】
槍の利点は安価かつ「叩く」という簡単な動作で扱えること.
上に向けて,合図で倒す.重力とモーメントの助けを借りて敵の頭上から一気に薙ぐのが基本.
戦国時代の合戦は足軽が密集隊形で突撃する形態だったから,槍の方が便利であった.
薙刀は槍というより刀に近い.
振り回すのにそれなりの修練がいるから雑兵に持たすには向かない.
また,「突く」のにあまり向いていないから馬上武器としても向かない.
それと振り回して使う武器は集団戦に向かない.
僧兵なんかは好んで薙刀を使っていたし,自分で武器を調達できる人なら使っていてもなんらおかしくは無いと思うよ.
また,大太刀や野太刀に刀身の長さと同じかそれ以上の長さの柄をつけた
「長巻」という武器があって,これは結構広く使われている.
軍事板
【質問】
戦国時代の軍船には,どんなものがあったのか?
【回答】
日本水軍の代表的な軍船としては,安宅船,関船,小早船の3種類があります.
安宅船は日本の水軍に於ける主力艦で,小さくとも500石積,普通は1000石積以上の大型船で,一人で漕ぐ小櫓なら50〜160挺(二人がかりで漕ぐ大櫓ならこの6割程度)を装備していました.
その船型は,幅が広く安定性の良い伊勢船または二形船の上部を,高い櫓で囲い,厚い楯板(胴壁作りの総矢倉と言う)で装甲して,その上に2〜3層の櫓を上げています.
この上回りに薄い鉄板を張る事もあり,大安宅船になると,城郭と同様の櫓を舳艫に上げる事も珍しくありません.
因みに韓船の板屋船も,荷物を積載するのであれば,1000石は搭載出来るくらいなので,大きさ的には似たような感じではありますが,櫓の数が全く違うので,一概には言えない訳です.
関船は,細長い船型を有する快速の補助艦で,巡洋艦的なものです.
櫓の数は30〜40挺櫓で,大きさは500石積と安宅船よりも小さいものとなります.
上回りについては,安宅船と大して変わり有りませんが,上構部は軽量化のため楯板の厚さが薄かったり,板の代りに竹で代用したりしています.
更に小早船は斥候用もしくは連絡艇であって,韓船の伺候船と同様のものです.
上回りは関船より更に軽装で,舷側に半垣造りという低い垣立を張り巡らせただけで,戦闘員もそんなに乗っているものではありません.
戦国から文禄・慶長に掛けての水軍は,安宅船を中心に,関船や小早船を配する艦隊を編成して戦闘に臨んだ訳です.
これらの軍用船は,実際には内航用商船とほぼ同じ構造で,内航大型商船である伊勢船,二形船に重装甲,重武装を施せば安宅船となり,弁才船の幅を5割縮め,武装と装甲を付加すると,それは関船となります.
また,文禄・慶長の役で使用されたこれら荷船の大半は,200石積以下の船であり,500石を越えるような船は極めて少数であったと考えられています.
つまり,韓船の猛船と同じ考え方で,韓船は軍民兼用と言う考えを捨て,軍用専用船として板屋船を開発したのに対し,日本はその方向に進まず,更に小型船が多かった事もあり,文禄・慶長の役では大敗を喫してしまう訳です.
これら在来形の軍船,商船は棚板構造の船体に横帆を揚げる漕帆兼用船でしたが,海外貿易用の商船は,所謂ジャンク形航洋船,即ち,肋材で補強した隔壁構造の船体に縦帆を揚げる帆走専用船で,これも韓船と同様に,帆走専用船は軍用船には用いられていません.
大きさは480〜3200石積の船で,国内航路の商船よりは遙かに大きかったりするのですが….
文禄・慶長の役後,板屋船の威力に注目したのか,大船の輸送力に注目した為か,諸大名は一斉に大型軍船である安宅船の建造に邁進します.
これが板屋船を其の儘模したわけでなく,安宅船に行く所が実は不可解だったりするのですが,日本の水軍研究は余りまだ進んでいないみたいなので,この辺りの解明は未だ進むのを待つしか無さそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月12日22:03
◆◆火縄銃関連
【質問】
火縄銃は弓矢に比べてそんなに強かったんでしょうか?
弓矢で長篠の戦いみたいなことできないんですか?
【回答】
戦国時代の小火器は,弓矢に比べて殺傷能力だけなら対して変わらない。
コストパフォーマンスは弓のほうがいい。
強さとしては弓と火縄の混成部隊>弓のみ>火縄のみ という感じ。
弓のみより火縄のみの方が弱いのはコストの問題で数をそろえられないから。
火縄銃の利点は音と、銃兵育成が楽、という二点。
昔の弓の修練は,今の弓道とは次元が違うのではないかというくらい強烈。
弓矢は依然強力だったが、弓兵の育成には時間がかかるので、大量に兵力を動員できる火縄銃兵にとって代わられた。
しかし鎖国が解かれた頃には,さすがに弓では火器に対抗する事は出来なくなっていた。
それでもアホな兵隊よりは,良く訓練された弓の方が強かったのは事実。
もちろん良く訓練された銃には弓で勝てるはずも無いが.
長篠の戦いでは,武田の中央突破を狙った突撃を織田が陣地防御で防ぎ,その過程で、火縄銃の弾幕射撃が使われた,という状況だったので,勿論弓矢も使われたであろうことは想像に難くない。
ただし,長篠の戦いについては創作に創作が重ねられてしまっていて,正しい事の方が少ないので火縄銃について語るには不適切。
軍事板
【質問】
日本の火縄銃は同時期のヨーロッパの火縄銃より優れていたそうですが,何が優れていたんですか?
【回答】
日本のマッチロック式(火縄銃)は欧州のそれと違い,長期間改良を重ねられ,使用され続けて来ました.
その為,弾道性能・威力共にマッチロックとしては最高の性能を保持していました.
また,雨天でも種火が消えにくい火縄や,夜間の照準用に線香を立てるなど,運用上の工夫も優れていた,と言う事です.
三等自営業◆LiXVy0DO8s in 軍事板
しかし一方で,日本の小銃は戦国が終わったことで,それ以上の発展が止まってしまいました.
欧州では発火方法がマッチロック(火縄)式からフリントロック(火打石),更にパーカッション(雷管)へと進化しました.
マッチロックは点火用のバネが弱くても確実に発火するので,銃のブレが少なく,命中精度が高いそうです.
フリントロックは強力なバネを使って火打石を擦り発火させるから,ブレが大きいのです.
ただしフリントロックにも,比較的雨に強い,火種を保持し続ける手間が要らない,隣の射手の発砲による火の粉が飛んで来て暴発する危険が無い(つまり,一斉に何百丁も密集隊形でぶっ放せる),などの利点がありまして,軍用としてどちらが優れているかは一概には言えないようです.
端的にいうと,個人の狙撃や射的には日本の火縄銃が優れ,弾幕射撃をするには欧州のマスケット銃が勝っている,というところでしょうか.
軍事板
【質問】
日本で使われていた火縄銃は軍用銃ではなく猟銃って本当ですか?
【回答】
種子島に流れ着いたポルトガル人が持っていたのが、ストック無しの猟銃タイプの銃で、手と頬の2点で支える火縄銃だった。
その後の火縄銃は、そのポルトガル人の持って来た銃をコピーする事から始まり,発展して行った所から、猟銃を始祖に持つと言うのはウソでは無いと言える。
その後の使われ方は軍用銃そのものだが。
そのポルトガル人が、何故その当時すでに登場していた、肩頬腕の三点で支えるストック付き軍用銃を持って来なかったは不明。
一説によれば、日本にくる途中のインドかマニラあたりで購入した物だったという.
軍事板
【質問】
日本の火縄銃は,ストックがいわゆる「ソードオフショットガン」みたいにばっさりと切り落としたような形をしていますが,あれは何故なんでしょうか?
肩付けで構えられないので,激しく構え辛そうなのですが・・・.
【回答】
「日本の」と言うか,漂着したオリジナルがそうなってたから.
日本の火縄銃は通称マラッカ式といって着火方式が西欧で主流のものとは違うので,東南アジアで製造されていたものが原型とされている.
マラッカ式(瞬発式)→引き金を引くと掛け金が外れてバネの力で火縄が火皿に落ちる.
西欧のもの(緩発式)→ばねの力で押し上げられている火縄を引き金を引く力で火皿に押し付ける.
ただ単にストック部分が破損していたのではないかとも言われているが,その辺は諸説入り乱れていて,よく分かっていない.
構える時は,肩に付けずに,銃を握った右こぶしを右肩に思い切り引き付けるから,右ひじを極端に張った形になる.
以外に反動が少なく,命中率も割合高かったから,そのまま続いた.
肩付けできなくても頬付けして狙えばとりあえず安定はする.
火縄銃保存会なんかの画像があればそうしているのが判るだろう.
頬付けには反動を受け流せる,という利点もある.
ただし抱え筒なんかだと,前の方で支える人が居ます.
軍事板
【質問】
戦国時代の火縄銃は、狙撃ができたのでしょうか?
もしできた場合、弓矢で狙撃することができる距離よりも遠くを狙うことはできたのでしょうか?
【回答】
堺筒こと火縄銃の威力は、おおよそ現代の拳銃と同等です。
具体的には数百メートルの殺傷距離を持っており、百メートル以内ならば狙撃も可能です、
一般的な火縄銃は殺傷可能距離200メートル、50メートル以内では鎧の貫通も可能で、良い銃と射手ならある程度の狙撃も可能でした。
また,これとは別に,長距離狙撃用の火縄銃も存在し、信玄を狙撃したと伝えられる信玄鉄砲
(但しこれは伝説と目されています)は弾頭径20_(普通のは12_),殺傷距離500mで名手なら200m程度の狙撃が可能だったようです。
一説には,武田信玄の死因は,狙撃された事による外傷か鉛中毒とも言われています。
軍事板
【質問】
石火矢って鉄砲のこと?
【回答】
煙草のことも指しましたが、普通はヨーロッパ起源の大砲の事です。
1580年代後半には、九州で大友氏や九州に移された小西・加藤氏などが使用していました。
関が原の合戦の前後にも東・西両軍が使用しています。
ヤン・ヨーステンは、航海士であるとともに、砲手の経験がありました。
そのため、彼らが漂着した半年後にあった関ヶ原の戦いでは、同僚ら数名とともに家康の要請で参戦しました。
修理されて江戸湾に回航されていたリーフデ号から、大砲をはずして関ヶ原まで運び、戦いの最中に数発発砲しています。
この戦功でヨーステンは、江戸城和田倉門南の堀端に屋敷をもらいました。
この結果、その付近は、彼の名に因んで、「八代洲」といわれるようになりました。
その後、これがなまって、「八重洲」という地名になったのです。
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/7234/study/quiz/n05-1.htm
北村甚太郎覺書
四.七月廿二日敵兵嶺ヨリ下リシヲ北村甚太郎大筒ニテ撃チシコト
http://www.shinshindoh.com/jintarou-oboegaki.htm
効果があったのは城攻めの際です。
一応主戦場にも持ち込まれてはいましたが、某作家が描写している程の効果はありませんでした。
【質問】
現在ライフルを作るさい,銃身の穴を開けるにはガンドリルを使うそうですが,昔の火縄銃はどうやって銃身になっすぐな穴を開けていたのでしょうか?
【回答】
火縄銃であれば,銃身は元は鉄板.
真っ直ぐな鉄の棒に赤熱した細い鉄板を巻き付け,鍛造した.
その後は鋳造法(形に鉄を流し込んで成形の後,過熱して焼入れする)が発明されて大量生産ができるようになった.
大砲は逆に最初は鋳造法で作られ,その後鋳造中刳法(鋳造した無垢の砲身にドリルで穴をあける)から鍛造法へと移り変わっている.
http://www.geocities.jp/nosuka02/SUNPOU_L.html
http://lets.kumanichi.com/kumamoto_rena/simen/02_040526/
軍事板
【質問】
火縄銃の威力は現代の銃に比べてどの程度なの?
【回答】
火縄銃の具体的な威力については
日本の武器兵器
で詳しい実験をしているので参照してください.
長銃身で撃った.44マグナムって雰囲気かな?
火縄銃の弾丸重量と,前記サイトの弾速(340m/s程度)から計算すると,火縄銃の銃口エネルギーは標準的な六匁玉で約1500ジュール.
単純計算では,.44マグナムどころか,AK-74の5.45×39mmを超えます.
しかし,弾道は回転している尖頭弾ほど安定しないし,空気抵抗も大きいから有効射程は短く,威力も落ちます.
また,現代の銃弾は高速で体内に侵入し,衝撃波を体組織に伝播するので,口径以上の範囲に傷つけますが,砲口から飛び出した瞬間速度のがた落ちする丸玉では,これは不可能です.
さらに,現代の銃弾は体内で縦方向に回転するなど,人体にダメージを与えるよう設計されています.
丸玉で撃たれた傷は,奥に行くほど狭くなりますが,現代の銃弾は逆の形になります.
どちらが深い傷かは言うまでもありません.
ただ,鉛剥き出しの玉が体にめり込むと,変形による組織破壊が起こります.
もっとも,これの威力は「思われたほどでもない」ってのが,ヨーロッパの研究者の結論です(日本のものについては,寡聞にして知らない).
「馬を止めた」の「人間を貫いた」だのは全て伝説にすぎません.
軍事板
【質問】
鎧着てれば火縄銃の弾なら防げたんでしょうか?
【回答】
日本のペラい鎧なら,多分酷い怪我になるだろう.
南蛮鎧,あるいは西洋の甲冑なら,はじきかえすケースも多かったらしい.
ヨーロッパでは火縄銃が普及して「から」,歩兵部隊に一枚板で出来た鎧が普及してるし,効果はあったんだろ.
そのうち
銃の威力>鎧の防御力
になって,結局鎧は廃れるけれど.
軍事板
鎧

【質問】
元寇のときに「てつはう」に驚いた馬が暴れだして落馬する武士が続出した,と小学校の時習ったんですけど,「ラスト・サムライ」では大砲に驚かずに馬が突撃してます.
どっちが本当なんですか?
【回答】
鉄砲や大砲が戦争で普通に使われるようになってからは,馬には音で驚かないように訓練したし,驚いてパニックにならない素質のある馬を特に選んだりした.
「ラスト・サムライ」の時代設定(幕末〜明治)なら,日本の馬でも武士が乗るような馬は,火砲の音でパニックになったりはしなかっただろう.
軍事板