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D.B.E. ミニ型」:もしも,関ヶ原で東軍が勝っていたら/情報源Ak

「関ヶ原ブログ」◆(2010/07/07)7月7日は豊臣秀頼が徳川家康に七夕の祝いを述べた日


 【質問】
 秀吉の朝鮮侵攻について,イデオロギーとかセンセーショナルな記述抜きで解説した良書って,何がありますか?

 【回答】
 分かりやすいのは
学研の歴史群像赤本の『文禄・慶長の役』
戦争の日本史シリーズの『文禄・慶長の役』 中野等

 専門的
『秀吉の軍令と大陸侵攻』 中野等

 また,
諸星秀俊『明治六年「征韓論」における軍事構想』軍事史学45-1
は,明治初期の陸軍が秀吉の朝鮮出兵を反面教師にして出兵計画たててたという見方をしていて,ついでの参考になるとおもうよ
(征韓論,西郷殺されて出兵したとして,本気で清と戦争するつもりだったのかしら)

 さらに,雑誌になるけど,中西豪とかイイと思う.
 歴史群像のバックナンバーを漁れば,朝鮮の役関係の記事が出てくる.
 最新の歴史群像でも,海上補給の点から朝鮮出兵を書いた記事が掲載されている.

 ただし残念ながら,朝鮮の役関係の記事は,「アーカイブ」にはまとめられていない.
 各記事に,朝鮮戦役に関わる記述はあるけど.
 文禄慶長の役関係の記事は,個別にバックナンバーを漁るしかない.

軍事板,2010/03/23(火)〜03/24(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 秀吉は明の征服を目的としていたようですが,明相手に勝てる見込みはあったんですか?
 明はそろそろ落ち目とはいえ,この時代だとまだまだ強大というイメージなのですが.

 当然見込みがあると踏んだから仕掛けたのだと思うんですが,その際の明の戦力の見積もりや戦争計画と言ったものは,どの程度のものだったんでしょう?
 日本は統一したから次は明,程度の認識だった訳じゃ無いですよね?

 【回答】
 出兵動機についてはまさに,「日本統一をしたから次は明」ってだけ.
 何でそう考えたのか?ってのはいろんな説があるけど,最近は誇大妄想など精神疾患に求めるのが流行してる.
 他に最近の研究では,統一後に分配する土地が無くなった為という説や,(出兵を喜んだ大名も居たから)秀吉一人の発想ではなく,信長から引き継いだものであるという説が有る.
 だから勝つ戦略も何もあったもんじゃない.
 徳間から戦前の日本陸軍の朝鮮出兵の分析が文庫で出ているので読むといい.

 明に勝てる見込みは,日本側が主観的に持っていただけ.
 日本側が得ていた情報としては,明・万暦帝治下での政治の混乱でしょうね.
 実際,モンゴル人や貴州の反乱が,日本の朝鮮侵攻と同じ年に発生している.
 財政もかなり悪化していた.

 日本側の事情としては,各大名を外征させ征服地を恩賞として与え,不満を削ぎつつ強大な戦力を外に向けさせる事が,豊臣政権の安定に必要と考えられた.
 戦国の間に戦力を蓄えた大名達による反乱は恐ろしい.
 また,明を征服する事によって,明に対する朝貢以外は公式にはできなかった,日本と中国の間の交易を完全に掌握して,莫大な利を得る事も大きな目的であっただろう.

「日本を統一したから次は明」
というのは,豊臣政権としては相手が弱っていると判断すれば,飛びつきたいチャンスではあったのだ.
 見通しは甘いけれど.
 日本の戦争計画は,極めて主観的だったとは言えると思う.
 朝鮮を軍事力で威圧し服属させ,補給路を安全にした後に直隷をめざして侵攻するといった所.
 ただ朝鮮は服属せず,王室は逃亡し,民衆もまた日本に服さなかった.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 文禄の役、慶長の役は,最終的に朝鮮を征服、あるいは属国化できなかったんだから,日本の負けだろ?

 【回答】
 間違い。
 文禄の役、慶長の役の戦略目標は、明への攻撃であって、朝鮮の征服、属国化では無い。
 朝鮮はただ通り道にされただけだったのだが、明の属国としては,日本軍を何もせずに通す訳にもいかず攻撃した.
 戦力の過半は明からの援軍であり、実態は戦闘が朝鮮半島で行われた日明戦争だった訳。

軍事板

 【質問】
 それにしては,当時の明海軍の活動は聞かないが?
 海上補給路を絶つなんて,ちょっと気の利いた将軍なら誰でも思いつきそうなもんだが.

 【回答】
 陸続きの半島が戦場だから海軍は出なくてもいいじゃないか.
 戦闘の惨禍にあうのはしょせん植民地で,本国じゃないしさ.
 それに、朝鮮での略奪暴行のほとんどは実は明兵の仕業だったりするから、略奪品を海軍とわけあいたくはなかったろう.

 そしてまた,現地での略奪調達方式しか頭になかった明軍には,日本軍が食糧のほとんどを日本から海路運んでいるなんて信じられなかったのさ(笑).
 って、おれも旧日本陸軍の「朝鮮戦役」で初めて知ったんだけどな

 だいたい,基地が無い罠。
 当時の軍船は手漕ぎか帆走だって忘れていない?
 中国本土から出撃して対馬海峡で戦闘するのは大変で効率が悪い。
 李瞬臣がやったゲリラ戦が出来る訳も無いだろう。

軍事板


 【質問】
 秀吉に端を発する,フグ食禁止令について教えられたし.

 【回答】
 河豚を食べるのは,全世界でも日本国民だけだそうです.
 当然,それにまつわる言葉も多く,
「その美味さ一死に値するなり」
とか
「河豚は食いたし命は惜しし」,
「命の洗濯」,
「鉄炮」
などと呼ばれていますが,意外にも,日本でも明治期までは河豚食は禁じられていました.
 日本近海の約50種生息する河豚の内,その内の30種が食用可能ですが,最高級はトラフグとされています.
 それでも,最も美味いのは彼岸の頃に産卵の為に接岸する「彼岸河豚」だそうです.
 三陸沿岸を除いて,筋肉だけが食用を許可されています.

 下関はトラフグの産地であり,河豚の肝を味噌汁の具に用いるという食習慣がありました.
 と言うのも,味噌汁の具に使うものの中で,麩は味噌汁が普及する室町期には,高くて庶民が手を出せなかったからです.
 麩は,主成分が小麦中のグルテンでグルタミン酸が持つ仄かな甘さを特徴としますが,庶民は甘さを求めて,グリコーゲンやトリメチルグリシンを含む河豚肝を用いた訳です.
 当然,その河豚肝には猛毒であるテトロドトキシンも多く含まれていますので,味噌汁食って命を落とすこともあったりする訳です.

 そうした食文化のある土地に,大量に軍が集結したのが秀吉の唐入りでした.
 彼らはその土地で,河豚肝の入った味噌汁を食して,多くが命を落とします.
 これに激怒した秀吉が,直ちに河豚食禁止令を発しました.
 秀吉政権を継いだ徳川幕府も,この河豚食には手を焼き,禁令を継続します.
 特に,武士がその命に反した場合は,家禄の没収と言うきつい御仕置が待っていました.
 更に,明治政府が誕生すると,大分県や石川県が強く反対したのにも関わらず,河豚食禁止令は継続されました.
 山口や福岡がその令を受け入れたのは,明治政府の屋台骨を担っていたから,無碍に断れなかったと言われています.

 しかし,政府側の重要人物である伊藤博文自らが,帰郷の時に食べた河豚の美味しさに気づき,時の県知事に河豚食禁止令の解除を進言したことから,風向きが変わり始めます.
 当時の総理の発言は重く(今は殆ど鴻毛のごとしですが),その結果,多くの府県で禁止令が解除され,トラフグやマフグの刺身や鍋料理も復活しました.
 とは言え,政府側にも面子があり,河豚の販売取締法並びに調理法の指定を発しなさいと,政府のお膝元である東京府に強く命じました.
 お陰で現在に至るも,河豚を含めたあらゆる食品に対する条例が,最も厳しいのが東京都だそうです.

 大分県や石川県が反対したのは,両県が猛毒と言われる河豚の肝や卵巣を古くから食べていたからです.
 大分の場合は,トラフグの肝料理が食文化としてあり,県外への移出は認められていませんが,県内での消費は認められています.
 石川県では某テレビ番組でも紹介された様に,1年寝かせた卵巣の糠漬が有名です.
 石川県衛生試験場の研究では,糠床に繁殖する細菌が河豚毒を無毒化すると言うことだそうで,1997年からは県外流通も可能となりました.

 河豚の美味さの秘密は,イノシン酸とグリコーゲンが作り出すもので,てっさなどを盛りつける際に,伊万里焼の大皿に透き通りそうな身を並べるのは,河豚の細い筋肉繊維が歯に挟まることを防ぐ為の板前さんの心遣いだそうです.

 因みに,蘇東坡なんかも,肝を好んで食していたり,吉益東堂と言う学者など,万病一毒説を唱えて毒をもって毒を制すとの信念に基づき,劇薬を好んで用いたそうですが,ここは犯罪を教唆するところではないのでこの辺りにしておきます(苦笑.

 河豚と言えば,時に毒で死ぬこともありますが,山口県衛生研究所によれば,河豚の食中毒症状は4段階に分けられ,
1度は数時間以内に唇や舌が軽く痺れる程度,
2度になると激しく嘔吐し座っておられない他に,言語障害や呼吸困難を来す,
3度では運動機能の麻痺とチアノーゼ症状を示し,
4度になると意識が激しく混乱し,呼吸と心臓が停止すると言う風に分かれています.
「河豚毒の名医は山中にいる」
と言う言葉は,其処に辿り着く事が出来れば,後は自然治癒するからと言う事を意味しています.
 先の吉益東堂が用いた河豚毒は,1〜2度までの間で止めたからであり,坂東三津五郎の様に,出された数人分の肝を勿体ないと食べてしまうと死に至る訳で,さじ加減が非常に難しい食物です.

 もっとも,坂東三津五郎の死後,東京では更に河豚料理に対する規制が厳しくなり,調理には許可証が必要なだけでなく,記録を徹底して,肝臓や卵巣は鍵が付いた容器に入れて管理し,これは焼却場に運ばれるまで開封出来ない仕組みを取り入れていますので,幾ら馴染みの客だからと言って,簡単に河豚肝を出せる店はありません.

 そう言えば,長いことてっさとか食べていませんねぇ.
 まぁ,埼玉は山国ですからしょうがないですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/01/23 22:18


 【質問】
 韓国に古い書物や建物がないのは,豊臣秀吉の侵攻のせいなのか?

 【回答】
 井沢元彦によれば,それは「秀吉がいわゆる朝鮮出兵において,多くの建物や文化財を焼き払ったことは事実だが,全て秀吉のせいではない」という.

 疑り深い人のために,直接韓国側の資料を引いておこう.
「いっぽう,朝鮮国王が都落ちした後,漢城府は極度の混乱に陥った.
 再び『李朝実録』に目を向けよう.
 都城の宮省火(焼)く.車駕将(まさ)に都中を出(い)でんとするに,姦民の先ず内帑庫(ないどこ)(内帑は国王の費用)に入り,争いて宝物を取る者有り.已に駕出ず.乱民大いに起こり,先ず掌隷院・刑曹を焚く.二局の公私奴婢の文籍在る所を以ってなり.(「宣祖修正実録」宣祖25年4月晦日)」
(「朝鮮日々記・高麗日記 秀吉の朝鮮侵略とその歴史的告発」北島万次著 そしえて行)

 この本に書かれている通り,朝鮮の宣祖王は国民を見捨てて王宮を放り出して逃亡したのである.
 そこでかねてから王の暴政に悩まされていた朝鮮民衆は,その無責任さに激怒し,王宮に乱入し,略奪した後に放火したのだ.
 「掌隷院・刑曹」というのは文中にもある通り,朝鮮の非人道的な身分差別を管理する戸籍の保管所だ.
 いわば悪政の象徴であり,だからこそ真っ先に狙われたのだ.

( from SAPIO 2003/10/22号,小学館,p.90-91)


 【質問】
 亀甲船とは?

 【回答】
 亀甲船と言うのは,戦国シミュレーション小説にも良く出て来る訳ですが,大抵は,スマートなボート型の船体に,上面は蓋をして,其処に鉄の槍の穂先が多数刺さっているような図が描かれています.
 世界中の博物館に,韓国人や朝鮮人が寄贈したと言われる亀甲船が展示されていますが,それはどれも想像の域を超えない代物です.

 中には,亀甲船は,
「世界最初の装甲船である」
とか,
「世界最初の潜水艦だ」
などと言う与太話の類まであったりします.
 亀甲船潜水艦説は第一次大戦直後に出回った話みたいですが,潜水艦という奇襲兵器が,当時植民地支配下にあった朝鮮人民の願望として,英雄李舜臣と結びついたものと考えられます.

 実際の亀船はどうだったのか,と言えば,韓船の正統発達型とも言うべきものです.

 日本の水軍は接近戦闘を主として用います.
 倭寇の時分は,海上で迎撃した場合でも接舷して,敵船に移乗し,相手の船上で刀を振るって戦った訳です.
 流石に戦国期になると銃撃も行いますが,砲撃はなかなか発達しませんでした.

 一方,迎え撃つ朝鮮は,弓術が主でした.
 つまり,距離を取った間接戦闘を多用した訳です.
 其の後,火器が中国から伝わると,火器を用いた戦闘方法を開発し,更に砲の発達を促す事になります.

 高麗時代に倭寇が朝鮮半島を繰り返し侵攻しますが,この迎撃に高麗が失敗したのは,敵の得意な接近戦闘に乗ってしまったためです.
 即ち,陸上での迎撃を行おうとして,かえって彼らの得意技に誘い込まれ,そして壊滅した訳.
 20年程そうした敗北を繰り返した末,高麗の軍人達は,倭寇との直接戦闘を徹底的に避けて,海戦で水際にて迎撃,即ち,弓術や火器の間接戦闘で敵船を沈める方法で,勝利を収めています.

 この戦いの中から,高麗時代には,「剣船」と言う特殊軍船が造られました.
 これは直接戦闘が行えないように,船の舷側に錐刀を隙間無く植え込み,倭寇が刀を引き抜いて舷側を攀じ上ってこられないようにした武装船です.
 この船は,倭寇の侵攻時に防御用に用いられ,彼らの侵攻を防ぐ為に,浦口に配置して示威行動をさせたり,鴨緑江を渡って襲撃する盗賊撃退の為に,平安監司が剣船を要地に配備すべしと建議した記録も残っています.
 この剣船があった為に,亀船の蓋板に剣先が植え込まれていたと言う話が生まれた可能性があります.

 ところで朝鮮初期の水軍は,大船,中大船,中船,兵船,快船,孟船,中猛船,別船,無軍船,船,倭別船,追倭別船,追倭別猛船と言う区分に大別されました.
 このうち,大船,中大船,中船は,主力軍艦です.

 倭寇は10名程度の小さな船で襲来するのが常で,その迎撃には大きな船は余り必要有りません.
 とは言え,人数で上回らないといけませんから,30名程度が乗る船が水軍の主力船となりました.
 これが中船です.

 大船は,司令官が坐乗して艦隊を指揮する為の船で,乗員は80名程度,大きさも一番大きなものになっていますが,地域によっては余り大きな船は取り回しが悪く,中船よりは大きく,とは言え,大船よりは小さな船が必要でした.
 結果,生まれたのが中大船です.
 中大船は,乗員50〜60名程度です.

 快船は中船より小さく,しかし速力の大きな快速船で,10名位が乗り組んでいます.
 これは主に,首都近辺の防衛用に配備されていました.
 整備単価も安いので,倭寇が落ち着いた時期には,これを中船の代りに主力にする動きもありましたが,小さすぎて,波の荒い場所では機動性が悪い為,転換は行われませんでした.

 無軍船は予備兵力で,一種のモスボール艦船と言えます.
 倭寇がなりを潜めた後は,一気に其の数を増しています.

 別船は,中船と同じくらいの大きさの艦船ですが,中船は火器を搭載しているのに対し,別船は弓を主力とした船で,乗員は25名程度.
 よって,中船に比べると若干戦力が落ちる船です.

 その他の孟船,中猛船,別船,船,倭別船,追倭別船,追倭別猛船などは特殊軍船と言えます.
 船は,民間船を徴用した特設艦船です.
 中猛船は,中大船に櫓を増設し,速力を出せるようにした指揮船で,孟船は,中猛船に準じる軍船を指します.
 倭別船は,鹵獲したか,購入したかした日本船で,見本用か演習用とされています.
 最後の二種類,追倭別船,追倭別猛船は,倭寇追撃用の快速船とされていますが,普通の快速船でないことは確かで,剣船は別にある事から,それでも無い事は確かです.
 では,この二種類の船は何なのか,と言う事ですが,追倭別船は数が少なく,追倭別孟船の方が数が多い事から,前者が亀船の原型ではないか,と考えられています.

 因みに,朝鮮初期と言うのは大体壬辰倭乱より180年程前に当たります.

 これらの複雑な特殊船群は,倭寇が完全に鎮圧された15世紀中頃には整理され,1470年代には大猛船,中猛船,小孟船が記録されるだけになっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月03日22:42

 李氏朝鮮後期,幾ら軍が蔑ろにされたとは言え,未だに日本などの脅威に備え,軍船は全国に776隻存在していました.
 これらは各道に配置されていましたが,戦船,防船,兵船,伺候船の4種類は全体の86%,672隻を占め,全国に満遍なく配置しています.

 戦船は,先日の日記でも触れた板屋船を改名したもので,実質上の戦列艦に当たります.
 これが京畿道に4隻,忠清道に9隻,慶尚道に55隻,全羅道に47隻,黄海道に2隻,平安道に0隻の合計117隻.

 防船は,板屋船の様な2層の上部構造物は作らず,普通の甲板上の両舷端に防牌板を立て,兵士が体を隠せるようにした中型軍船で,干満の差が大きく,水深の浅い西海岸地方で戦船の代りに使われ,戦船と共に巡洋艦的な役割を果たしました.
 これが京畿道に10隻,忠清道に21隻,慶尚道に2隻,全羅道に11隻,黄海道に26隻,平安道に6隻の合計76隻.

 兵船は大型軍船に1隻ずつ付添う従船で,軽武装した軍船であり,駆逐艦とか哨戒艇的存在です.
 平時には哨戒巡察に使われています.
 これが京畿道に10隻,忠清道に20隻,慶尚道に66隻,全羅道に51隻,黄海道に9隻,平安道に5隻の合計161隻.

 伺候船は,戦船,亀船,防船,兵船などに1隻ずつ付属する非武装小型船で,偵察とか連絡などの雑用に使用されました.
 これが京畿道に16隻,忠清道に41隻,慶尚道に143隻,全羅道に101隻,黄海道に5隻,平安道に12隻の合計318隻.

 水軍の体制は,各道には水営が置かれ,更に其の下に各邑鎮が置かれています.
 各邑鎮には,戦船1隻,兵船1隻,伺候船2隻の4隻体制が最も多く,戦船の代りに防船を置く場合や,少し規模の大きい邑鎮では,戦船1隻,防船1隻,兵船2隻,伺候船3〜4隻と言う場合もありました.

 朝鮮水軍と言えば,秀吉の唐入りの時に出現した亀甲船が有名ですが,壬申倭乱の際には,活用された亀船(亀甲船)は3隻だけで,艦隊の先鋒に立って,敵船団の真っ只中に突入し,敵を混乱させ,戦船の攻撃を容易にする戦法が採られています.

 従って,1600年代を通じても,慶尚左道,右道,全羅左道,右道,忠清道に各1隻の4隻しかありませんでした.
 要は艦隊毎に整備された訳です.
 しかし,1740年代になると其の数は増やされ,慶尚左道6隻,右道3隻,全羅左道2隻,右道1隻,忠清道1隻,京畿道1隻の計14隻となります.
 更に1780年代には更に増え,慶尚左道14隻,右道3隻,全羅左道10隻,右道7隻,忠清道5隻,京畿道1隻の計40隻となり,これがピークでした.

 これは当時の海防体制が変化した為です.
 朝鮮後期の海防体制は,三道水軍統制使を頂点に,全羅左水営を前営,慶尚左水営を左営,慶尚右水営を中営,全羅右水営を右営,忠清水営を後営とする五営体制となり,各水営は,前司,左司,中司,右司,後司の五司に,各司は前哨,左哨,中哨,右哨,後哨に組織されていました.
 各営の営将は,各道の水使であり,各司では僉使,或は虞候が把ハとなり,各哨では萬戸,各邑の守令が哨官となっていました.

 従来は各営が使用してするだけだった亀船が,各司でも前哨基地に置いて,これを突入艦として使用する事になった為,最低30隻は必要となり,重点海域では2隻配備となった為,40隻としました.
 但し,戦船と亀船を並行して配備するのではなく,戦船が配備されれば亀船は配備されず,亀船が配備されれば戦船は配備されないと言う関係になっています.
 つまり,亀船は戦船と同じ主力艦と見做された訳です.

 一方,これには政治的な動きもあります.
 亀船を配備させることで,朝鮮水軍の壬申倭乱に於ける栄光の歴史を想起させ,亀船を実際に運用させる事で,水軍の士気の高揚を図ろうとしたのが軍人向けの動き,また,亀船を配備する地区の住民に向けての宣伝と言う面もありました.
 更に,日本人町や日本人が出入りする浦口に亀船を係留しておく事で,彼らに対する無言の圧力を掛けるという面も無視できません.
 特に慶尚道に重点配備したのは,そう言う意味もあったりします.

 しかし,朝鮮通信使の来航などで日朝関係が改善され出すと,朝鮮の日本に対する警戒感は若干薄れてきます.
 こうなってくると,わざわざ各地に亀船を配置して,臨戦態勢を維持する必要はなくなります.
 また,各道の水軍は,毎年1回ずつ春操或は合操と呼ばれる連合艦隊を組んで,統制使指揮の下で大演習を行わないといけませんでしたが,次第に秋操または分操と呼ばれる各道水営の演習が重要視され,春操は余り行われなくなります.
 なお,流石に春操でも,三道各水営の戦船が1カ所に集結して行う,三道船師都分軍と呼ばれるものは数十年に1度あるかないかと言うものでした.

 こうして各道の水軍が,全国防衛から地域防衛に軸足を置くようになると,1800年代初頭には亀船の数は30隻に減り,1810年代後期には自然減に伴う補充が為されず,18隻にまで減ってしまいました.

 まぁ,それでも19世紀になっても亀船はしぶとく生き続けていた訳ですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月28日21:46

 亀船の全長は110尺になります.
 この全長は,底板の長さ64尺8寸を含み,これに,船首材投影長10尺,船尾材投影長15尺2寸を含めると,合計で上粧長は90尺になり,残り20尺が尾部長になります.
 亀船の底板は10枚の厚い板で構成されています.

 船幅は,船体の幅と上粧の幅があります.
 上粧と船体幅の差は片側で3尺,両側で6尺ありますが,最低でも2尺7寸の幅があれば,櫓役するのに十分なスペースを得られるので,船体幅は26尺,それに6尺加えて上粧幅は32尺になります.
 と言っても,自然木の利用ですから,幅には若干の誤差があるでしょうから,船体幅は24〜28尺,上粧幅は30〜34尺くらいはあるかもしれません.
 平底船では復元性能に問題がありますが,そもそも東アジアの船は沿岸航法ですから,少々の復元性能の低下はさほど問題になりません.

 高さは外板を7枚貼り合わせて構成する訳ですが,その高さは固着時7尺5寸,防牌板の高さが4尺3寸になり,櫓を出す上粧と船体の隙間を1尺として,船体の高さを8尺5寸,上粧の高さが11〜13尺になりますから,全体の高さは19尺5寸〜21尺5寸.
 上粧内部に部分甲板を設置したら,更に5〜7尺ほど高くなります.

 因みに1尺と言っても,周尺(曲尺の4分の3で,人間の身長を8尺とした),営造尺,布帛尺(布を国庫に収める場合に用いた尺)と様々にあるのですが,船舶の場合は営造尺になります.
 1営造尺は,30.65cmで,日本などで用いられている曲尺30.3cmよりも若干大きかったりします.
 他にも船税を徴収する為の量船尺としては把があり,1把は営造尺の5尺になります.

 重さの単位は,積載できる穀食の体積で表わし,その単位は石か斛です.
 これは朝鮮で最も使われていた斗よりも大きな単位ですが,斗は7寸×7寸×4寸(196立方寸)で,15斗が1小石または小斛,20となら1大石または大斛としていました.
 漕運船では,大石が重さの単位で,これを石と称していました.

 話が逸れましたが,先ほどの寸法をメートル法換算してみると,底板は19.9m,船体長27.6m,全長33.7m,船体幅は7.4〜8.6m,上粧幅は9.2〜10.4m,船体高さは2.3m,全高6〜6.6mとなり,船体長と船体幅(L/B比)は3.75〜3.22,船体幅と船体高さ(B/D比)は3.2〜3.73となります.
 でもって,総トン数を無理矢理計算すると,船体約105t,上粧部約180tの合計285総トンになります.
 これが板屋船(戦船)の場合では,船体は105t,上粧部122tの合計227総トンになり,亀船の方が若干大きい(と言っても,上粧分の容積が大きいだけですが)訳です.

 この大きさは安宅船よりは小さいですが,関船や小早舟よりは大きく,日本の水軍には十分に脅威だったのではないでしょうか.

 朝鮮時代の各種軍船の定員は,猛船では,大猛船が80名,中猛船で60名,小猛船で30名でしたが,板屋船は大型化して火砲を装備するようになり,定員は急増します.
 一般戦船だと164名,隊指令である各道水使搭乗船は178名,艦隊指揮艦である統営乗船だと30名追加で194名が乗り組んでいました.
 一方,亀船は148名ですが,これも隊司令船と艦隊指揮艦の亀船は定員が増えていました.
 また,偵探船は79名,兵船17名,伺候船が5名でした.

 内訳は,朝鮮後期では,艦長である船将の他,船の運航責任者である船直,帆柱操作要員である舞上,舵を取る舵工,操帆手である繚手,碇を扱う碇手が,戦船と亀船はそれぞれ2名,偵探船は1名.
 兵船と伺候船は,舵工が1名ずつ.
 弓の射手である射夫が,戦船は18名,亀船は14名,偵探船10名,一方,火薬を扱う火砲匠は,戦船は10名,亀船は8名,偵探船にはいません.
 そして,火砲を操作する砲手が戦船と亀船は24名ずつ,偵探船は16名,兵船は2名.
 100名を越える戦船と亀船には,船内治安対策と秩序維持の為に,左右捕盗将が2名ずつ配備されました.

 残りの定員が櫓を漕ぐ櫓軍で,戦船では100名が配備され,左右舷にあった各8本の櫓に配備されます.
 櫓1本には実際に櫓を漕ぐ格軍4名と指揮する長1名が割り当てられ,彼らは2名ずつ2組で普段は交代で漕ぎ,戦闘時は4名全員がその櫓を漕いで全力を出しました.
 勿論,倒れたり,死んだりするのがいるでしょうから,予備戦力として20名を保持して,欠員の出た櫓に配置する事になります.
 亀船の場合は,櫓軍は90名配備されています.
 同じく5名1組の体制ですが,各舷の櫓は9本,合計18本ですから,予備戦力無しで90名がフルに操櫓していた様です.

 なお,戦船でも亀船でも指揮船に当たる船は若干定員が増えています.
 艦隊指揮艦である統営上船は,射夫4名,火砲匠4名,砲手2名,櫓軍20名の30名で,統営上船は,他の戦船と違い,櫓の数が2組増えて機動性を増しています.
 また,戦隊指揮艦である各道水使船は,射夫2名,火砲匠2名,櫓軍10名の14名で,一般の戦船よりも,これも機動性を増す為に,櫓を1組増やしています.
 同様に,亀船も統営亀船と各道亀船は櫓が増えて,機動性を増しています.

 英国の駆逐艦の建造法に,第二次大戦前まで,指揮用の駆逐艦は他の同型駆逐艦よりも若干を大きく作る嚮導駆逐艦と言うものがあったのですが,正に朝鮮の軍船にも同じ様な思想が取入れられ,指揮の為に機動性を増していたのです.

 考えてみると,シャア専用のザク,ズゴック,ゲルググやムサイなども同じ思想だな,うん.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月07日21:49

「復原」された亀甲船
上述の文章によれば,この「復原」もただの空想の産物でしかないようだが

 【質問】
 韓船とは?

 【回答】
 西洋の木造船と違って,東洋の木造船には方形龍骨が無く,船の底は龍骨を底に置いている関係上,西洋の木造船はV字型を為す尖底型なのに対し,底の広い平底船です.
 また西洋の木造船は,船首部が尖った方形船首であるのに対し,船首部は平面的になっている.
 更に西洋の木造船には,肋骨を一定間隔に配置し,底に外板を固着しているのに,それが東洋船にはありません.

 東洋船はこの為,外板は上下の板を互いに固着する必要があります.
 中国のジャンクは,必要以上に隔壁を多くし,日本船では船梁を置いて船が横から押潰されるのを防ぎ,船体の仕切りとして利用しました.
 朝鮮半島の韓船でもこれは同じで,加龍木と言うものを置いています.

 韓船は平底船で,底板は平坦で船首材と船尾材も平坦な平面を形作り,肋骨の代りに加龍木あるいは長サ(ちゃんすぇ)と言う添え木が外板毎に設置された基本構造を持っています.

 船底には,角材を使って組立てた,厚くて平たい底板があります.
 その両側には,板を上に向けて順番に貼り付ける外板があり,外板の上端部には丈夫な頚木(梁)が載せてあり,其の下に両舷の外板材を一つ一つ互いに連結する梁・加龍木(長サ)が設置されています.
 船底の構造は韓船独特のもので,ジャンクの場合,底板の厚さは外板と同じであり,和船の場合は樹木一本から作った単材で分厚くないし,幅もそれほど広くないとか.

 また外板の張付け方も韓船独特のもので,下から上に相互に貼り合わせますが,ジャンクや和船は表面が平らで滑らかになる様に外板を貼り合わせるのが普通でした.

 頚木は,最上層外板である棟頭通し板を深く彫って堅固に羽目合わせ,其の両側の先端部分は船縁の外に飛び出す様にし,柱を建てて欄干を作るか,櫓杭を固定して櫓の支点にしていました.
 また頚木の上には,必要に応じて甲板(階屋)や木足を被せています.

 底板は66尺の角材11条を,38個の長槊(非常に長い四角断面の木釘)で組立て,外板は両舷に各々7個ずつ張付けており,船首部には耳杉(部分出来に貼った外板材)も用いていました.
 外板の厚さは一番下が5寸2分,以降徐々に薄くなり:,5番目の5杉の厚さは3寸4分になりますが,そこから上は再び厚みを増し,一番上の7杉は3寸7分になっています.
 なお,外板は杉とか杉板と呼ばれていますが,木の種類ではなく単なる呼称で,杉材が船材として用いられる様になったのは近代以降の事だそうです.

 船首材は,1個の曲木と6個の比牙の7材で作られていますが,他に柏の木15本で作られた事もあり,結構まちまちでした.
 軍船や政府船では,板を縦に貼って船首材にするのですが,民間船や輸送船では板を横に張付けるのが普通でした.

 船尾材は例外なく後に傾斜した平面で,角形船尾を構成しています.
 但し,その形や傾斜については各船毎に変化しています.
 船尾材は横に広い平面を造り,底板と外板に木釘で固定されています.

 これら底板,外板,船首材,船尾材を横から潰れない様に支える横部材には二種類のものがあり,梁の役を果たす駕木と隔壁の役割を果たす加龍木がその役割を担っています.

 駕木(頚木)は,最上層外板である棟頭通しを貫いて外舷に突き出すのが普通です.
 これは,甲板を船の幅から更に拡げるとか,板屋船や亀船と言った大型軍船の上部構造物をその上に造る為で,一般の船でも舷側に櫓を取付ける為に頚木を長くする事が多かったりします.
 上部構造物がなかったり簡略化された船であれば,頚木の数は非常に少ないです.
 中央付近の駕木については,駕木の下に外板材毎に加龍木を挿入しているものがありますが,外からは見えない様にしてあります.

 上部構造物は,舷欄(下桁),柱木(支柱),牌欄(上桁),牌板,上駕木,上下甲板と女檣,梁柱などで構成されており,これらは一般建築物の二階屋の様な空間を生み出し,板で屋を作っている事から,これらの船は板屋船と呼ばれていました.

 その建築方法は,下体の駕木両端に前後に長く舷欄を配置することから始まりますが,その際舷欄を下の船体より外側に張り出す様にします.
 次に舷欄に適当な間隔を置いて長さ5尺内外の柱木(支柱)を一様に建て,その上端に舷欄と並行に牌欄という長材を載せて固着します.
 舷欄を下桁,牌欄を上桁と為す訳です.
 そして,左右の牌欄に掛けて駕木を渡します.
 要は建築物で言う天井梁です.
 これで骨格を作った後,上下の駕木に甲板を敷き,四面の支柱に牌板を張付けます.
 これまた建築物に例えるなら,上下甲板が天井と床,牌板は壁ですな.

 上下甲板の敷き方には2通り有り,1つは板を横に敷くやりかた,もう1つは韓国式家屋の様に床板を貼るように敷く方法です.

 舷欄と牌欄の間には四面に柏の板壁が張付けてありますが,これは防牌の役割,つまり,装甲板みたいな役割を果たすものです.

 塗装としては,軍船なら龍とか鬼頭が描かれたりしています.

 最後の仕上げとして,上粧甲板を縁取るように女檣と言う欄干を立て,甲板上に司令塔となる高殿即ち将台を作ります.

 これで,韓船は完成です.

 韓船の大きな特徴は,船体全面に船体幅よりも広い上部構造物を持つ事で,これは櫓を漕ぐ人間達を上下甲板の間にある安全な場所に格納する為であり,これにより彼らは,恐怖心に打ち勝ち,櫓を漕ぐのに専念する事が出来た訳です.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月25日22:13

 【質問】
 亀船の戦法は?

 【回答】
 亀船の戦法は,撞破か焚滅の何れかでした.
 前者は体当たり,後者は火箭か火砲で焼き払う事でした.

 体当たりをするには,外板が分厚くなければ,逆に外板に穴を開けられる可能性があります.
 亀船の外板の厚さは4尺(12.26cm)ありました.
 これは大体,現代木船の2倍位の厚さとなります.

 一般に伝統的な韓船は外板の厚さが厚く,中には現代木船の3倍以上になる場合もあります.
 船の長さ方向の曲げに対して支える縦強度は,外板や甲板など船の皮殻を為す部材が受け持ち,船を横から押潰す作用に対して支える横強度は肋骨,隔壁が受け持つ訳ですが,韓船の場合は…と言うか,東洋船は一般的に,横強力部材が不充分で有る為,外板寸法を大きく採らねば成りません.
 また,東洋船は外板の長さ方向での継ぎ目,即ち上下の板が上手く合わず,隙間が出来て水が漏れる事が問題でした.
 外板の寸法を増せば,こうした水漏れを或程度防ぐ事が出来ます.

 更に,木製構造の船では,長く使用する為にそれなりのメンテナンスが必要となります.
 韓船の場合は,改槊と呼ばれる作業を行い,腐った板材や古くなった木釘を新しいものに全面的に交換する大修理を実施します.
 これは一定期間を於いて1隻の船に実施し,その度毎に補充する大木釘を打ち込むので,板材の厚さが厚い程,改槊を実施するのに便利になる訳です.

 ところが,東洋船としては例外的に,亀船や板屋船は上部に巨大な上粧を作る為に,駕木や加龍木が多く,13〜14本を用いています.
 また駕木の下には加龍木があるので,其の間隔は6尺程度です.
 つまり,横強度にしても,この駕木や加龍木で十分に保つ事が出来ていた訳です.
 韓船のこのクラスの船では,西洋船に比しても十分な強度を保っています.

 一方,対戦相手たる日本水軍の軍船の構造は,帆走より櫓で漕ぐ方に重点を置き,櫓で漕ぐ限りは韓船よりも速度を出せ,軽快に造られていました.

 和船の一般的な構造では,底に敷と言われる厚い底板を敷き,根棚(加敷),中棚,上棚の3枚の外板を張付け,上船梁,下船梁を左右舷外板に連結・固着し,船首部に方形船首材を取付け,船尾はトランサム桁で造った戸立造りになっています.
 底板は,少し分厚い広板1枚のみで,数枚の分厚い角材を敷き詰めて構成している韓船よりも狭く,外板は韓船が7枚の板を貼り合わせているのに対し,和船は3枚の幅広の板を組み合わせているだけ,船首材は,韓船が組立式平面か僅かに曲面となっているのに対し,和船は単材の方形船首材で造られています.
 横部材についても,韓船は外板の各層に連結固着した加龍木ですが,和船は左右を連結する数個の船梁だけです.

 でもって,帆走設備も,韓船は充実しているのに対し,和船は四角帆1枚のみで極めて初歩的な設備しかありません.

 よって,日本の船団に,韓船が飛び込んで,撞破するのも強ち愚策とは言えません.
 横方向に韓船の船首を打ち込んでしまえば,関船くらいの船なら簡単に穴が空いて,其処から浸水して撃沈されるか,無力化されてしまう可能性は高かったりします.

 板厚の問題は,材質の問題に起因しています.

 韓船は凡て松材で造られています.
 亀船も主要部分は松材で,偶に船首材に柏が使われた他,防牌板と舵の軸に柏が使われた程度です.
 朝鮮半島は,赤松,陸松が産出されていましたし,当局も木が良く生育している場所は,封山,松田に指定して,各道水使に厳格に管理させました.
 封山は,軍船用以外の伐採を一切禁止した養松林で,松田はそれに準じる場所です.
 朝鮮後期には,こうした封山は忠清道に73カ所,全羅道に142カ所,慶尚道に65カ所,黄海道に2カ所など282カ所に上り,松田は慶尚道に263カ所,咸鏡道に29カ所など292カ所あり,防牌板などに用いる松柏木の養松林である黄腸木封山も,全羅道に3カ所,慶尚道14カ所,江原道に43カ所など60カ所有りました.
 中国船ならば,杉や松,樟が使われ,和船は松の他,杉や檜と言った良質の船材が多数産出しましたが,朝鮮はそれしかなかったと言っても過言ではありません.

 しかし,機械的性質を見てみると,日本杉の比重は0.33〜0.41,屈曲強度300〜750kg/cm,日本檜の比重は0.34〜0.47,屈曲強度510〜850kg/cm,米松の比重は0.47,屈曲強度950kg/cmですが,朝鮮赤松は比重0.55〜0.73,屈曲強度526〜977kg/cmです.
 即ち,日本材や米国材に比べ,朝鮮赤松は硬度が最も高く,最も加工しにくい材料です.
 一方で,強度は米松よりも劣りますが,日本材よりは遙かに強いです.
 更に,節が多くて品質が一定ではないなどの欠点があるので,その欠点を補う為には,角材とか厚板で大まかな寸法を出して分厚く加工するしか有りません.

 日本材では,この点,硬度が低く,強度はありませんが,節なども少なく,材として品質の一定なものが得られる為,薄く製材して,曲げ加工などを施す事が出来た訳で.

 更に,亀船と戦船(板屋船)は,上粧が違うだけで,船体部分は全く同じ構造でした.
 即ち,上部構造物を覆ってしまえば亀船,二層の甲板を設ければ板屋船(戦船)になった訳で,建造の際には,このファミリー化で建造で線図を引き直す手間は省けますし,部材の加工を共通化する事でコストを下げる事も可能,また,艦艇の性能も或程度揃える事が可能です.

 この辺り,もしかしたら元寇で用意した軍船建造のKnow-howが蓄積されているのかも知れませんね.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月08日22:34

 【質問】
 亀船の兵装は?

 【回答】
 朝鮮の船の戦法は,体当たりの他に焼き討ちがありました.
 火薬が齎されるまでは,弓矢が主でしたが,火薬が高麗末期に齎されると,船には火砲が搭載されるようになります.
 その戦法は,倭寇との戦闘で発達していきます.

 政府は火薬の維持管理に神経を注ぎ,使用期限が来たような火薬は,真っ先に消費する様になっていました.
 王宮内では,火戯と言う火薬遊びが行われました.
 これは花火ではなく,所謂爆竹みたいなもので,様々な形の紙袋に火薬を入れて騒々しく爆発させると言うものです.
 これは古くなった火薬を消費すると共に,北方の国境を接する胡人や倭寇で屡々海岸線を犯す倭人に対する威嚇の意味もありました.

 高麗朝が倒れて朝鮮王朝になった際に,こうした火器への関心は一時的に薄れます.
 李氏朝鮮の太祖は易姓革命を成し遂げた人間として,火器を政敵に利用させたくなかったのもありますし,世祖も前の端祖を追い出して自らが王位に就いた事から,火器の使用には制限を加えていました.
 しかし,太宗,世宗,文宗と時代を下るに従って,火器は再び重要視されるようになりますが,倭寇の跳梁が下火になっていった事から,主に北方民族の侵入に備えた陸戦用火器としての開発が為され,これらの火器が,国境各地の城に配備されました.

 ただ,こうした陸戦用火器は,海戦に用いる様な砲ではなく,主に手持ちの小火器であるところが違います.

 ところが,16世紀に入ると再び倭寇が活発化し出します.
 これに対応する為に,再び陸戦用小火器から海戦用の砲が再製作され,韓船に搭載されるようになりました.

 そして鋳造されたのが,亀船にも搭載された天字砲,地字砲,玄字砲,黄字砲,勝字砲の5種類の砲です.

 一番口径の大きいのが天字砲で,口径13cm,外径28cm,全長130cmで重量は300kgもあります.
 次いで,全長88cm,口径10.3cm,外径15cm,重量200kgの地字砲で,柄は天字砲より小さいのですが,弾丸はさほど変わらない大きさのものを発射できました.
 玄字砲は,全長80.5cmと地字砲と同じ位の大きさですが,口径は5.7cm,外径12.6cmで重量59kgしかない軽砲です.
 黄字砲は更に口径が小さくなり,全長52cm,口径4.3cm,重量51kg.
 これらの砲は艦載時には童車と呼ばれる砲車に搭載されています.

 勝字砲は全長こそ56cmと黄字砲より大きいのですが,口径は2.2cmで,重量は10kg程度しかありません.
 要は手持ちで撃てる火砲で,勝字砲には砲弾ではなく,大将軍箭,将軍箭と言った矢を放つ為の銃筒でした.
 陸戦用の火器として,矢を発射する銃筒と言うものがあり,1本,4本,8本の矢を火薬で撃ち出すものでしたが,その転用ではないか,とされています.
 亀船の乗員の中に射夫と言うのがありますが,弓を射るのではなく,勝字砲を発射する射手というのが正しいのかも知れません.

 また,発射するものは,大口径砲である天字砲,地字砲では鉄や石の弾丸を発射し,玄字砲では弾丸と大将軍箭,黄字砲は大将軍箭のみ発射するものでした.
 勝字砲は大将軍箭もしくは将軍箭ですから,弾丸を発射する砲は意外に少なかったりします.
 壬申倭乱当時の亀船には,砲門が左右舷6個で合計12個,船首船尾に4個で合計は16個ですが,全羅左水営亀船には36個,統制営亀船に至っては72個に達しています.
 其の殆どは勝字砲が主だったから,この様な数字になっているだけで,本当にこれだけの数の弾丸を発射できる砲を有していた訳ではありません.

 なお,亀船の船首部には龍頭があります.
 このほかに上に龍頭,下に鬼頭が載せられたものもありますが,この龍頭は時々亀船なので,亀頭と間違われる事があります.
 この龍頭,初期の亀船では砲門として用いられていましたが,後代には砲門としての役割は消滅し,威嚇の為に,硫黄煙硝を燃やして口から火を出しているかのように装う為に用いられるようになりました.
 更に鬼頭は,厄除けの単なるシンボル的なものだったようです.
 昔の西洋船にあった船首像みたいなものではないでしょうか.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月10日21:30


 【質問】
 秀吉の朝鮮出兵の際,日本軍の水軍は,李舜臣将軍の水軍と比較して,とても太刀打ちできないものだったんですか?

 【回答】
 日本側は海を渡って来た都合上,船の大半は補給部隊の輸送船団.
 これを考慮しないで「朝鮮のほうが強い!」とか言っても無意味だし,逆に補給線への攻撃が有効な事を無視して「朝鮮はヘタレ」とか主張しても無意味.
 一応,単純な強さ比べでは,朝鮮の戦闘船vs日本の輸送船では,もちろん前者が強かった.
 朝鮮の戦闘船vs日本の戦闘船では,日本が互角以上に,つーかかなり優勢に戦った記録もあるが,平均して日本船のほうが小型であり,不利だった.

 ただし,そもそも輸送船への攻撃作戦がメインで動いてた部隊が,ガチ戦闘を避けたがるのは当然だけど.
 つうか,そもそも軍事的には単純な強さ比べなんて,限り無く無意味に近い程度の意味しかない.
 つうか,登場の船で戦闘艦と輸送艦を分けるのも無理があるだろ.
 むしろ朝鮮の亀甲船が,沿岸でしか行動出来ない低速船だった事を,引き合いに出す方が有意義だ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき,制海権を取れなかったそうですけど,信長が作っていた鉄船とかはその発展型とかは,そのころはなかったんですか?

 【回答】
 朝鮮との戦いに九鬼水軍は投入されてないし,村上水軍の本家筋は織田信長との戦いで消耗し,ロクに再建されてなかったので,小さな水軍衆の寄せ集めしか投入されてなかった.

 というか,ありゃ所詮瀬戸内海のような内海用の軍船.
 外洋でまともに使えるものじゃない.
 九鬼水軍や村上水軍には,瀬戸内海や沿岸航行の為の戦舟しかなく,日本丸も既存の安宅船を大きくした物に過ぎない.
 地元で戦う李氏朝鮮に利が有るのは当然なんだ.

軍事板

信長の軍船の復元図
たしかにこれで日本海を渡ろうとすると,荒天で簡単に転覆しそう
(出典はおそらくNHK『そのとき歴史は動いた』)


 【質問】
 壬辰倭乱で李舜臣将軍が何万人の倭人を殺したか教えてほしい.

 【回答】
 七年間の朝鮮役の間,李舜臣指揮を含めた朝鮮水軍と明水軍の攻撃による日本軍の戦闘死傷者総数は数百人から数千人の規模(最大でも五千人前後)と考えられます.
 また,李舜臣の攻撃で日本軍の補給や連絡が恒常的に遮断されたことはなく,極短期間の攻撃時間以外で補給連絡線の制海権を維持できたことはありません.
 二次的な船腹不足に影響が無いとは言えませんが,海象による事故や寿命の自然減耗に比べるほど戦闘消耗は激しくありません.

 さらに,日本軍には廻船補給計画は元々存在せず,例え朝鮮水軍が存在していなくとも,陸上作戦的な海岸支配と技術的な海路開拓の問題により,漢城方面への海路補給が成立することは非常に困難です.

 李舜臣に対する評価は戦争指導指揮を行なっていたのが明であり,朝鮮独自の勝利ソースの少なさと李舜臣の属した派閥の評価から朝鮮内部で珍重されたこと,それの日本での江戸時代の受け売りと豊臣失政というレッテル貼りが罷り通ったこと.そして,明治以降のマハンの海上権力論を奉戴して海軍権益を拡充した帝国海軍の宣伝が原因となっています.
 これが権威となり,詳細研究や先行研究批判が充実しないまま戦中に頂点を迎え,戦後の史観へ退凋します.

 つまり李舜臣への幻想は朝鮮役という戦争全体の研究不足が原因となっています.

軍事板

 【質問】
 亀甲船は日本艦隊に大損害を与えてはいないのか?

 【回答】
 与えたとは考えにくいでしょう.

 朝鮮水軍が海戦で使う基本戦術は,敵船を焚滅あるいは撞破する事でした.
 焚滅は,文字通り火を掛ける事で,一定の距離を保ちながら火箭を射て火を付けて沈没させる事を言います.
 一方の撞破は,体当たりの事で,敵船と正面衝突したり脇腹で接触して沈める方法になります.

 日本の水軍の場合,接近しての船戦には強かった為,板屋船は,撞破よりも焚滅の方に重点が置かれています.
 一方の亀船は,敵船団に突っ込んで引っかき回すのが戦法だった為,撞破を多用しました.

 火力的には同じ様なものですが,構造の違いからこの様な戦法の違いが出て来てた訳です.

 但し,火力は同じと言っても,亀船は接近戦が主なので,敵船に近づいて発砲出来る長所がありました.
 一方で,発射する場所は天井が低く,砲の取り回しは狭苦しく,接近しなければ命中は期待できません.

 板屋船は,敵船に容易に近寄れませんが,上甲板に占めた火器の発射位置は高くて命中率が良く,砲の取り回しも広い場所で行えた訳です.

 この様に接近戦に特化した亀船ですから,敵軍が不用意に攻め懸ってくれば,接近戦に持ち込めるので,大いに活躍する事が出来ます.
 壬申倭乱初期の海戦での活躍は,正にこの奇襲戦法の為に大きな戦果を挙げうる事が出来ました.
 しかし一旦,この戦法が敵に周知されてしまうと,朝鮮水軍が発見されるや,敵軍は迂回戦法を採る様になり,戦果は激減する事になります.

 結局,壬申倭乱を通じて亀船は3隻しか作られなかったと言うのは,この点に有るのかも知れません.

 19世紀に入って亀船が激減したのは,陳腐化したのもさることながら,壬申倭乱当時の亀船の大きさから見ると一回り大型化して,戦船と大して変わらない大きさに成った事が挙げられます.
 壬申倭乱当時の亀船は,船体長さ21.5m,底板長さ15.3m,船体幅7.36m,上粧の幅9.2m,櫓の数14本でしたが,18世紀後期の亀船は,船体長さ27.6m,底板長さ19.9m,船体幅7.4〜8.6m,上粧の幅9.2〜10.4mになっていました.

 しかし,この大きさの船体内部に,櫓を漕ぐ人間と戦闘員とを同一平面上に置くというレイアウトを採っており,内部の居住性は極めて悪く,果たしてこれで上手く戦闘や機動が出来たのかと言う疑問はあります.
 戦船の方は,構造物を2層に分け,上部が戦闘甲板で戦闘員が戦闘する場所であり,砲などはこちらに置かれています.
 下部には櫓を漕ぐ人間が収納されており,彼らは戦闘員に邪魔されることなく,櫓を漕ぐ事だけに専念できました.
 考えてみても,こちらの配置の方が合理的です.

 しかも,この大きさの船に120〜150名程度の乗組員が乗る訳です.
 これで上手く戦闘出来るのでしょうか….
 こう考えると,壬申倭乱の際に,12隻の船が300隻の日本艦隊を撃破するのは至難に思えてくる訳ですが….

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年11月29日21:50


 【質問】
 文禄・慶長の役において,なぜ日本の水軍は,制海権を確保できなかったのか?

 【回答】
 韓船と言うのは一般的に大型艦船で,小艇中心の編制を組んでいた日本船を圧倒した訳ですが(亀船が圧倒したと言う訳ではなく,あくまでも艦隊全体で圧倒したという意味で),どうして大型艦船を装備したのかと言えば,紆余曲折があったからです.

 元々,李氏朝鮮初期の軍船は高麗から引き継いだ猛船でした.
 これもそこそこ大きかったのですが,猛船そのものの基本構造は,倭寇が下火になった頃に構想されたもので,軍民両用に使用出来る漕運船から発展し,民間用にも使用出来ると言う事は,戦闘に特化した訳ではなく,どちらかと言えば物資輸送をメインに考えていたものでした.
 よって,倉庫を設ける為に,物資輸送に邪魔になる横方向に張る加龍木などの横木はそんなに多くなく,元々が帆走が主体だったものに,風の無い時でも航行出来るように櫓役用設備を取付け,更に戦闘用の足場を追加したものです.
 卑近な例で言えば,ガンダムに出て来たチベ級重巡洋艦みたいなものですわな.

 この猛船が規格化,量産されて朝鮮水軍初期の主力船になっていたのですが,1510年に発生した三浦倭乱では,この民間船に毛が生えた程度の猛船では,全く役に立たない状況でした.
 そして,1540年頃には再び倭寇の侵攻が活発化し,この頃には倭寇は中国の寇徒から齎された火砲や火薬兵器で武装し始めます.
 また,船の構造も堅固になり,銃筒の使い方も巧みで,朝鮮軍は太刀打ち出来ませんでした.

 こうした朝鮮にとっての戦乱の時代になると,平和な時代に建造された輸送兼用の猛船に対する批判が高まり,水軍は仕方なく猛船を諦め,10名程度の軽快船で戦闘をしようと試みました.
 最初はこの計画は上手く行くかに見えましたが,倭寇は1520年代には大猛船と同程度の大きさの船に火砲を乗せ,更に1555年の乙卯倭変では,それよりも大きな船を用いて侵攻し,小型軽快船は全く役に立たなくなってしまいます.

 その乙卯倭変の発生を切っ掛けに,再び大型船への回帰を行い,接戦をせずに敵を見下ろして間接武器で制圧すると言うコンセプトの板屋船が建造された訳です.

 この板屋船は朝鮮水軍に於て初めて戦闘専用に建造された軍船で,それから後の亀船,戦船など各種軍船のタイプシップになったものなのですが,この特徴は,従来の猛船が甲板一つの平船で,精々が甲板上に楼閣を建造していた程度に過ぎなかったのが,上粧を作って甲板を二層にしたことでした.
 二層にする事で,上層甲板は戦闘甲板として戦闘員が出入りし,もう下層甲板は航海甲板として櫓軍を収納する事が出来ます.
 下層甲板に櫓軍を収納すると言う事は,敵に露出することなく櫓役だけに専念出来るのですが,これは平船に比べると,櫓軍が戦闘への恐怖心を余り持つ事が無いと言う事と,戦士が恐怖に駆られた櫓軍に邪魔されずに戦闘に専念出来ると言う利点があります.

 また,上層甲板に戦士を配置する事で,敵を高い位置から見下ろして戦える様になった事と,壁が高くなったので,敵の接近戦戦術を控える事が出来るようになりました.
 これは日本の得意戦術である接舷戦闘を妨げる効果があり,高い場所に作られた砲台からは,命中率の向上が期待出来ました.
 これが,壬申倭乱で朝鮮水軍が数的に劣勢ながらも,日本の水軍に屡々勝ちを得る事が出来た要因でした.

 例えば,壬申倭乱で行われた海戦の内,玉浦海戦では板屋船28隻,挟船17隻,鮑作船46隻に対し,日本水軍は各種68隻でしたが,朝鮮水軍で戦力になるのは板屋船28隻だけです.
 挟船は伺候船の事で,連絡とか偵察をする小型艦艇.
 鮑作船は近隣漁村から徴発した漁船で,戦闘能力はありません.

 一方,唐浦海戦は,板屋船51隻に対し,日本水軍は各種軍船71隻で,日本水軍は関船が主力だとするならば,「圧倒的じゃないか,我が軍は」(by ギレン)な状態です.

 閑山海戦でも板屋船54隻に対し,日本水軍は大船36隻,中船24隻,小船13隻となっており,これまた隻数では勝るものの,実質的な戦力では日本を凌駕しています.

 最後の釜山海戦でも,亀船3隻,板屋船74隻,挟船92隻に対し,日本水軍は400隻に達しています.
 とは言え,この400隻の大部分は多分物資補給用の兵船であり,戦闘用艦艇の多くが小早や関船であろうと推定出来ます.
 兵船そのものは,それこそ,朝鮮水軍初期の猛船みたいなものでしょうから,実際に戦闘をした場合は,朝鮮水軍の方が圧倒的な強さを誇る可能性が否定出来ませんね.

 閑山海戦を戦った脇坂水軍の記紀には,
「朝鮮水軍の艦船は大きく,対する日本船は小さすぎて対抗するのが難しかった」
とありますし,豊後臼杵太田家の家来である大河内秀元の従軍記録である「朝鮮記」では,板屋船に対して,
「出撃した我々が各々板屋船の下に取り付いても戦隊が大きいので,二間柄の槍でも届かず,船に飛び込む事が出来ない.
 小銃を雨霰と撃ちかけて櫓役出来ない様にし,火箭を船内に撃ち込んで混乱を起こさせ,漸く勝利を収めた」
とあります.
 …にしても,昔から日本人のDNAには肉薄攻撃しかなかったのね….

 此処からIFになりますが,日本水軍の根拠地は,船の材料の多い巨済島を抑えていました.
 もし本格的に日本が制海権を握ろうと考えたのならば,この場所で板屋船的な船を多く建造し,砲を装備すれば,兵の士気や戦闘能力は遙かに上を行っていたのでしたから,あるいは朝鮮半島の制圧は容易に行ってしまえたかも知れませんね.

 【参考文献】
『亀船』(金在瑾著,桜井健郎訳,文芸社,2001.5)

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月11日22:06


 【質問】
 秀吉が死んで朝鮮から撤兵という流れになった訳ですが,戦い続けていても泥沼で敗色濃厚という状況だったのですか?
 撤兵という選択がなされたということは,無理が出てきていたのだとは思うのですが.

 【回答】
 朝鮮から撤兵せずに戦い続ければ,ただでさえ破綻が見えていた補給は断絶し,弱りきった日本軍に明・朝鮮軍と現地住民が襲いかかってせん滅する可能性すら考えられる.
 豊臣秀吉が死んだ後に,補給に携わっていた商人や大名が協力するとは限らない.
 対価を取り損ねる可能性があるので.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 織田秀信が成人してしかも秀吉が死んだあの時期には,清洲会議の約定(秀信が成長するまで秀吉が後見を〜)に基づく豊臣→織田の政権返還は,実情的には勿論,名目上でも成り立たない論理となってしまっていたですか?

 【回答】
 小牧・長久手の戦いで徳川家康と組んだ織田信雄を懐柔するために,秀吉は織田家の家督相続者を信雄とすることを了承.
 信雄は織田家宗家となることを条件に,秀吉との和睦の道を選んだ.
 これにより織田家の家督は,秀信からその叔父信雄へと移り,秀信は秀吉の養子としてその保護を受けた.

 秀吉が柴田勝家を破ったあたりから,織田政権そのものが瓦解してたからね.
 秀吉自身,関白太政大臣にまで登って,信長の生前の最高位である右大臣を越えてしまっていたし.

日本史板
青文字:加筆改修部分


◆◆関ヶ原以降


 【質問】
 なぜ東西決戦の場が関ヶ原となったのか?

 【回答】
 河合敦によれば,功名に焦る味方大名の勢いを徳川家康が押えられず,押しきられる形で関ヶ原に雪崩れ込んだ結果だという.
 石田三成は第1の防衛線として,尾張・三河の境の矢作川で東軍を迎撃することを考えていた.
 だが,豊臣系大名が三成の挙兵を知り,猛スピードで会津征伐から戻ってきたため,防衛ライン完成前に矢作川を通過され,第2の防衛線だった関ヶ原が戦場となった.

 小早川秀秋が布陣することになった,関ヶ原の松尾山には,大規模な砦が構築されていたことが,近年判明している.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.185-188を参照されたし.


撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関ヶ原の合戦の戦端を開いたのは福島正則? 井伊直政?

 【回答】
 福島正則.

 福島隊が弓・鉄砲で宇喜多秀家勢に攻撃を開始したのが慶長5年/9/15(西暦1600/10/21),午前8時.
 ただ,これは本格的な戦いとは見なされなかったようで,家康は井伊直政へ伝令を出して,松平忠吉を補佐して戦いを始めるよう命じている.
 忠吉隊は福島隊の前に出る――ここで福島隊の可児才蔵との間に一悶着起こる――と,宇喜多勢へ発砲.
 驚いた正則は全隊攻撃を命じ,本格的な戦いが開始された,という経緯.

 ちなみにこのあと,忠吉隊は向きを変え,島津義弘勢へ攻撃を掛けている.

written by 北政所(うそ)



撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関が原の戦いのとき,東軍側についた加藤清正や福島正則など,いわゆる豊臣恩顧の武将は,この戦いが 天下が豊臣から徳川に移るかどうかの天下分け目の決戦,という認識はあったのでしょうか?
 それとも,この戦いはあくまで豊臣家臣団の内紛で,東軍側が勝っても豊臣政権は続くという認識だったのでしょうか?

 【回答】
●前者を支持する見解

 前田利家の生前,徳川家と他の大名家の婚姻(秀吉の法度への違反)が原因となって,利家と家康が対立したときには,関が原で家康についた細川とか加藤清正・嘉明などは,利家の方を支持している.
 このときは家康を抑えることが出来れば,豊臣氏を中心の政権が続けられると考えたかもしれないけど ,関が原時点では,家康が勝ったときに対抗できる大名が残っていない.
(五大老で唯一東軍の前田家は,既に人質を江戸に出している)

 それに秀吉自身が,有能な当主が死んで,跡継ぎが器量がないと判断したら領地を減らし,重要拠点から外している(蒲生とか丹羽).
 同様に,秀頼に天下人としての実力がないと,豊臣政権の継続は無理と考えていたのでは.

 そもそも,将来の政権構想にまで考えが及んだのだろうか?
 仮に石田三成派が豊臣政権で権力を握り,徳川が追い落とされでもしたら,まず第一に自家の存続に危険を感じてたってことじゃないのかな.
 過去にどれだけ恩を受けたかではなく,この先自分の家と領地を守ってくれそうな人こそが戦国武士にとって良い領主.
 だから徳川についたというだけの話だろう.
(福島正則は最終的に改易されたけど)

●後者を支持する見解

 加藤や福島は明らかに「天下人は秀頼様」という意識を持っていた.
 そして,君側の奸=石田を始めとする五奉行を殲滅すれば,五大老と加藤・福島ら豊臣恩顧の大名による豊臣政権が成立する,と思っていた.
 それが裏切られたのが,宇喜多の改易と毛利・上杉処分以後の徳川政権成立の流れであった.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 関が原の戦いでは,実際に陣を出て戦った西軍の兵士は半分にも満たなかったとのことですが, 当時はこのような日和見作戦は普通に行われていたんですか?
 素人考えでは,そんなことをして味方がもし勝ったら,フルボッコだと思うんですが?

 【回答】
 洞ヶ峠って知らんか?
 当時はそんなもんだ.
 勝てそうにない奴のために本気で戦うバカはいないし,”勝ち馬”に乗るのは普通のことだった.

 勿論,「勝った側についていたけど実質何も働いてない」だと,戦が終わったあとの恩賞とかが貰えなくなるか,大幅に目減りするだろうし,不利な扱いを受ける可能性は飛躍的に高まる.

 でも,関が原の西軍で言うなら,石田三成にとっては「徳川方につかれないだけマシ」って状況であったから,あの状況で仮に西軍側が勝っていても,強気の立場が取れる面があった.

 実際,西軍は大将に人望がないわ,軍内の和が取れていないわで,
「付き合いとしがらみでこっちについたけど,これでよかったんだろうか・・・?」
という人ばっかりで,真面目に戦う気のあった人は少なかった.
 地理的要因から渋々西軍に入った連中とかもいるし,半分は調略済み.
 それなら勘定は合ってるだろ.

 あれで,豊臣秀頼が出陣して,馬印を東軍に見せ付けてたら,また違っただろうといわれてる.
(秀頼ちゃんは関ヶ原でも大阪城の陣でも,一番必要とされてる時に,ことごとく戦場に出てこないからな・・・.
 まぁそれは,必死で止めてた淀殿のせいでもあるんだろうけど)

 そう言うの抜きにしても,兵だけ出して睨み合いして終わりとか,国境犯して焼き働きして終わりって戦の方が,よっぽど多い.
 川中島の戦いだって,ガチンコの戦いは5回の内1回だけだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 関ヶ原の戦いにおいて,西軍諸大名を寝返らせたのは誰か?

 【回答】
 河合敦によれば,黒田長政.
 彼は武功派の代表として,石田三成と激しく反目し,家康の養女を娶(めと)るなどして家康派に属していた.
 彼の工作により,小早川秀秋以外にも,吉川広家に「西軍から離反する」旨の誓約書を家康に提出させることに成功している.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.189-190を参照されたし.


 【質問】
 関が原での島津の敵中突破は有名だが,あれははたして本当にそうする必要があったのだろうか?
 いくら戦場で孤立していたとはいえ,各隊同士の間がそれほど密集していたわけではない.
 実際に関が原の各大名の陣屋跡に行ってみれば分かるが,他の大名の陣が見えそうにはないほど離れている.
 敵中突破せずとも, 陣と陣との間をすり抜けて退却すればよかったのではないか?

 【回答】
 ええと,鹿児島にいたことがあって,そのテーマは昔先生と一緒に研究した事があります.

 あの時点では,既に東軍が西軍を追撃・掃討する局面に入っていて,西軍の陣地は東西入り乱れた状況になっていたと考えられます.
 島津の陣からすれば,背後は乱戦,はるか前方は徳川の本陣(家康はもう桃配山から降りていた).敢えていうなら,島津−徳川の間が最も戦闘が少ないところなんです.
(ない訳ではないが)
 かと言って,徳川の陣の間を抜けて行く訳には行かない.
 ご存知のように徳川主力(秀忠率いる)はこのとき関ヶ原にもいないのですが,それでも数は3万近くいて,島津はわずか1600です.
 従って島津の選択した方法は,徳川方面に突撃体形で進み,攻撃もあり得る風を装って,撤退を模索するという事でした.
 松平忠吉・井伊直政の隊とは実際に接触したようです.
 敵中突破ではなく,敵を掠めて奈良方面から堺を目指す進路を取ったのでしょう.
 威力偵察という言葉がありますが,これは威力撤退?
 1600ですから,全軍=殿(しんがり)軍と考えれば良いのではないでしょうか.

日本史板,2006/12/05
青文字:加筆改修部分

▼ 【余談】
 関が原の撤退行で,どうにか関が原を抜けて伊勢街道に入った頃,道脇で小休止して,「目立つ幟や飾りは外そうか」って話し合ってたら,思いがけず東軍の大勢が,街道を埋めながらやってきた.
 これはいかん,もうダメかもと家臣が言うと,
「もうこうなったら突き崩すか,さもなくば切腹しか無いぞ」
と義弘が言ったので,皆そっと,街道脇から東軍に合流するように何気なく近づいてから,いきなり大声をあげて邪魔するものを撃ち切り叩きながら,大軍の中を突っ切った.
「よほど驚いたんだろうな.打ち倒され逃げ惑うのは敵ばかりで,こっちには小勢なのに損害なしだったよ」
(家老伊勢貞成談)

 ↑プロの通り魔の犯行

漫画板,2013/05/05(日)
青文字:加筆改修部分

 【質問】
 島津勢の敵中突破は作り話なの?

 【回答】
 というか,徳川に突っ込む前からもう「敵中」なんだよ.
 ただ,島津は合戦の最中終始どことも戦っていないから,両軍とも何を考えてるんだか分からなくて,東軍としても攻めようがないというか.
 吉川みたいに動かなかった軍勢は他にもいる.
 小早川やその他大勢で,動かなかったけど,途中で裏切ったものいる.
 相手が襲って来ない限り,東軍としては,自分から攻めないという考えだろう.
 福島正則みたいなのは,目前の宇喜多・石田と乱戦で,島津を気にしている余裕はない.

日本史板,2006/12/06
青文字:加筆改修部分



撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関ヶ原の戦い後,石田三成を捕えた田中吉政ってどんな人?

 【回答】
「それでは,ヒーロー・インタビューです.
 今日は,配下の者が石田三成を捕えた田中吉政選手にきていただきました.
 まずは東軍の勝利,おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
「今回の戦いでは,先鋒を務めたり,三成を捕らえたりと,大活躍でしたね」
「はい,武士の誇りのため,一所懸命がんばりました」
「(お前の親父,百姓だったじゃん.いきなり経歴詐称かよ)」
「何だって?」
「ところで,名目だけとは言え,豊臣秀頼お墨付きの軍勢に対して,よく戦闘する気になれましたね?」
「……まあ,私の見るところ,これはしょせん豊臣家中の派閥争いに過ぎませんから」
「ということは,秀次事件のようなものですか? あのときは,大勢の家臣が連座したにも関わらず,田中選手は逆に加増されていますよねえ?」
「……何が言いたい?」
「ところで田中選手,佐和山城攻めでも勇猛果敢でしたね!」
「はい,ありがとうございます!」
「城の搦め手からの突入,見事でした!」
「そうですね,あそこが弱点と思ったんで,思いきってやってみたらジャスト・ミートしました」
「関ヶ原で大勢は決しているのに,あそこで力攻めしたことが意外でしたが? 戦死者も余計に出たようですし」
「……まあ,任務第一でしたから」
「そうですよね! あそこには三成の親族がいたわけですからね!」
「そう,その通りですよ!」
「秀次事件のときにも田中選手をかばってくれた,あの三成の親族ですからね!」
「……おい」
「そもそも田中選手が百姓から大出世できたのも,三成から田中選手が目をかけられていたおかげですし,その三成の親族ですからね!」
「おい!」
「やっぱり,忠義とか義理とか人情とかより,戦国武将にとってはなりふり構わない出世が一番ですよね?」
「……」
「あれ,どうしました? 肩なんか小刻みに震わせて?
 では田中選手,最後に一言!」
「てめえ,ブッ殺す!」

撮影:HN「割れた草加煎餅」 by mail


 【質問】
 関が原の合戦以降の,四国の状況は?

 【回答】
 さて,1600年9月15日,世に言う関ヶ原合戦が起こります.
 この時の四国大名の動向は,東軍に阿波の蜂須賀至鎮,讃岐の生駒一正,伊予の加藤嘉明と藤堂高虎が,西軍には,讃岐の生駒親正,伊予の安国寺恵瓊,小川祐忠,池田高祐,来島康親,土佐の長宗我部盛親,阿波の赤松則房が与しました.
 結果は,ご存じの通り東軍の勝利に終わりました.

 そして,合戦後の論功行賞では,伊予の西軍は総て領知を没収され,加藤嘉明と藤堂高虎に二分されます.
 土佐の長宗我部盛親は除封され,その代わりに山内一豊が土佐一国支配を認められました.
 阿波の蜂須賀家政は,領国と家臣を豊臣秀頼に返上して高野山に隠居します.
 この為に徳島城は西軍の支配下に入りましたが,一方で,至鎮を僅かな手勢で東軍に参戦させた事から,戦後は領知召上げは行われず,旧領に復する事が出来ました.
 生駒も然りです.

 この様に,特に蜂須賀と生駒に生温い措置となったのは,関ヶ原の合戦で東軍が勝利したのは良いのですが,徳川勢の主力を率いていた秀忠が遅参した為,東軍を豊臣恩顧大名中心に編成せざるを得ず,この為に,徳川家康の圧倒的な支配が達成出来ずに,その後も徳川家と豊臣家の二重公儀体制,東西分知体制を行わざるを得なくなった為です.

 こうして,四国は丸ごと,外様大名領となりました.

 また,土佐浦戸城の受取りには井伊直政が派遣されましたが,長宗我部軍の一領具足達の抵抗を受け,阿波,讃岐,伊予の軍勢を動員して12月に漸く城が明け渡され,1601年1月にやっと山内一豊が入城し,浦戸に代って新しい城地,高知城を築城して,1603年に本丸の完成を見ました.
 この間,前任の長宗我部家は土佐一国の拝領高が98,000石だったのに,山内家は202,600石を打ち出し,以後,この石高が,山内家の格式になると共に,応分の軍役を負担する事になり,土佐の人々を苦しめる事になります.

 さらに,伊予では松前城の加藤嘉明が,石手川を改修して城下町を整備し,1603年に松山城に入りました.
 それに対抗するかの様に,板島城から国府城に入った藤堂高虎は,今治に新たな城と城下町を建設し,1608年に入城しましたが,領国が錯綜する加藤家と藤堂家は相変わらず不仲で,紛争が絶える事がありませんでした.

 その後,家康の対豊臣包囲網に参加する為,高虎は8月に伊勢国の津に加増転封となり,伊予を離れる事になります.
 高虎の旧領大津には,淡路洲本から高虎に近しい脇坂安治が53,500石で入り,また津から板島へは高虎と交換で,富田信高が入りますが,1613年に信高は改易され,一時期幕領となって高虎の預り支配とはなります.

 なお,高虎は,大坂城包囲網として,家康の意を汲み,洲本城を大津に移し,板島城を改築して,伊賀城と共に包囲網を完成させました.
 1614年,富田信高の跡を継いで,伊達秀宗がこの地に100,000石で入国し,板島を宇和島と改称しました.
 その後,秀宗の隠居時に幕府に願い出て,5男宗純に吉田30,000石を分知した為,宇和島伊達家の石高は72,000石に減ってしまい,後に高直しを行って100,000石に復帰します.

 大坂の陣では,四国勢も各々出兵します.
 この戦の四国勢では,蜂須賀至鎮がもっとも活躍し,その武功により淡路1国7万石が加増されました.
 こうして,徳川,豊臣の二重公儀体制は終焉を迎え,パックストクガワーナが実現しますが,西国を豊臣恩顧の大名が占めると言う問題はまだ解消されませんでした.

 これが変わるのが,家光が将軍の座に就いた寛永期です.
 禁教令や貿易制限令,ポルトガル船来航禁止令や,島原の乱など,この時代は西日本に対外的,軍事的緊張が高まっている時でした.
 当時,瀬戸内の中国・四国地域に御家門は無く,唯一,備後福山に譜代の水野家があるばかりで,西国の万一の叛乱に際しては,幕府軍は大坂からの兵力派遣,後,あっても姫路や備前の池田家からの兵力派遣しか手が無く,紀州を除くと水軍の掌握が全く出来ていません.

 この対策として行われたのが,1635年の久松松平家の転封で,久松松平家には松山150,000石,今治30,000石が与えられ,それぞれ大名家として立藩しました.
 これが早速役立ったのは,1647年の長崎へのポルトガル船の来航で,幕閣より長崎警固を命じられて,九州筋の外様大名達を統御する指揮官を期待されています.

 また,所謂生駒騒動により,生駒家が領知を没収されて出羽に減封しての転封に処せられると,1642年にはその高松に水戸徳川家連枝の松平家が入りました.
 高松に入った松平頼重は,徳川政権下で瀬戸内海掌握を期待されており,城の海側への拡張工事が行われ,軍事機能を充実させていきました.
 因みに,頼重の高松就封に当たっては,家光から「西国,中国の目附たらんことを欲す命」があったと言われています.
 そして,朝鮮出兵も経験した歴戦の生駒家水軍42艘をそのまま引き継ぐと共に,更に紀伊徳川家からも軍船が武器を携えて贈呈された上,自らも入国と同時期に2艘の大船を建造して,瀬戸内海の巡視も行っています.
 この瀬戸内海の巡視は,領内の諸島のみならず,阿波沖から豊前小倉まで行われており,計画では長崎に行く予定もありました.

 更に,1670年には伊予西条に,紀伊徳川家から松平頼純が30,000石で入封し,讃岐と伊予の瀬戸内海沿岸の殆どの地は,家門大名が占める事になりました.

 なお,加藤嘉明は松山200,000石から1627年に会津400,000石へと加増転封となり,跡には蒲生忠知が240,000石で入りました.
 しかし,1630年に蒲生騒動が起き,1634年に忠知が没すると継嗣無く断絶となり,翌年,久松松平家の松平定行に松山150,000石が与えられる訳です.
 また,高虎の跡,今治城には養子の藤堂高吉が入りましたが,1635年に伊賀名張に転封となり,その跡に久松松平家の松平定房が30,000石で入ります.
 大津の脇坂安元は,1617年に信州飯田に55,000石で加増転封となり,代って伯耆米子から加藤定泰が入って,喜多,浮穴,伊予,風早4郡の内60,000石を領し,大津を大洲に改めました.
 1623年には2代泰興が弟の直泰に喜多郡13ヶ村,浮穴郡7ヶ村,伊予郡4ヶ村の10,000石を分封して新谷加藤家を立藩させ,本家は50,000石となりました.

 この他,伊予西条には河野家の末裔を称する外様の一柳直盛が大坂の陣後に68,000石で入りますが,就封の途次に病死し,領知は幕命により3つに分け,各々子供に分知します.
 この内,長子の直重家の30,000石は次代の直興が25,000石,弟の直照に5,000石が与えられますが,1665年に直興の不行届により所領没収となりました.
 次男直家家は加東郡5,000石と伊予周敷,宇摩両郡のうち23,600石が与えられますが,1642年に無嫡断絶の為,領知没収となる所,直家の女婿に末期養子を認める代わりに伊予の所領を手放し,直家家は加東郡30ヶ村10,000石で相続を許される事になります.
 結局,一柳家で伊予に領知が残ったのは,三男直頼に与えた小松10,000石のみでした.

 讃岐では,生駒騒動の後,高松に水戸家の連枝が120,000石で入りましたが,丸亀には肥後富岡から山崎家治が50,000石で入りました.
 しかし,山崎家も治頼の代に無嫡断絶となり,一時幕領となりましたが,1658年に播磨龍野から京極高和が西讃に50,000余石,播磨揖保郡に30ヶ村10,000石で入ります.
 その後,近江蒲生郡内で1,400石を加増され,揖保郡の領知の内2ヶ村を近江坂田郡の京極家代々の墓所の地と交換して石高を維持していましたが,1694年,3代高或の就封時に庶長子の高通に多度津10,000石を割き,丸亀京極家は51,400石で推移します.

 こうした複雑な大名鉢植えを経て,1700年までに阿波と土佐が1国1藩,讃岐3藩,伊予8藩体制で固まり,幕末まで以後それが変わる事は無かったのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/10/01 22:59
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 米沢転封後の上杉家の領国経営は,どんなものだったのか?

 【回答】
 関ヶ原で西軍が敗れると,上杉家は敗北者の側に立ちました.
 とは言え,兼続は家康の知恵袋である本多正信とも親交があり(1604年,後に兼続は本多正信の次男政重を息女の婿に迎え入れていたりする.),正信や友人である前田慶次達の奔走もあって,改易は免れ,会津120万石から米沢30万石への大減封で決着しました.

 その米沢へ上杉家が越してきたのですが,兼続が先ずしたのは治水事業でした.
 領国経営の基として,安定した農産物収入が必要であり,その為には治水が絶対だった訳です.
 米沢の地は盆地であり,この地の東側には羽黒川,西端に鬼面川,中央東寄りに松川の3つの川が流れています.
 この地での治水上最大の問題は,松川の氾濫による水害で,この為,盆地南部に当る上流部が平野部であるにも関わらず農地が得られず,その北側で西岸に位置する城下町は,被害極限の為,最大1kmもの空間を空ける必要がありました.
 また,松川が東に寄っているので,その西側に広がる広い平地の部分に水を得る事が出来ず,荒れ地になっているのも問題でした.

 こうした地に上杉家が移封されたのですが,30万石で養える家臣団の数は,普通精々1,000〜1,500名程度と言われます.
 元々,上杉家は120万石ですから,その規模からすると家臣団の数は,4,000〜6,000名に達しました.
 即ち,大減封されたのですから,家臣団を大リストラする必要があります.
 ところが,上杉家は移封されても家臣団をリストラする事はせず,殆どの家臣(約5,000名と言われています)が米沢に付いてきました.

 後に,上杉家の経営はこの家臣団の数によって逼迫し,幕府との外交上の失点を重ねた事で,更に石高を半減され,家臣団を維持する為に借金を重ねて,「上杉と書いて新しい鍋の底に貼っておけば,鍋の金気が取れる」とまで江戸雀達に言わしめたくらいの状態に陥り,上杉鷹山が出て来るまで四苦八苦するのですが,それは置いておいて.

 兼続は先ず松川の氾濫を抑える為,大規模な堤防を築造しました.
 これは現在でも一部が「直江堤」として残っているのですが,大きな丸石を使って積み上げられたもので,これにより,松川の氾濫が抑えられて,南部の平地では松川西岸部の農地利用が可能となりました.
 更に兼続は,西側の方の荒れ地を開墾すべく,城下町への水道や荒れ地への農業用水を3本掘削します.

 そのうちで最大のものは堀立川で,この川は米沢盆地南端部の東寄りを流れる松川に取水口(猿尾堰)を築いて取水し,北西方向に斜めに流してから北方向に向きを変え,平地西寄りを城下町にまで流したものです.
 これにより,城下町の南側に広がる荒れ地に水が引かれる事となり,兼続はその荒れ地に,城下町に収まりきらない下級家臣を住まわせ,開拓地として農地化させていきます.
 彼等は「原方衆」と呼ばれましたが,これは,米の増産に繋がり,下級家臣の生活の糧を与える事が出来,更に農地拡大に伴う農民不足解消と言った多くの利点を得る施策となっていました.

 一方で堀立川は,城下町に入ると防衛施設の役割を果たします.
 この川は城下町に入ると水勢を抑える為に細かく蛇行しながら,城下町の西側に沿う様に流れていきます.
 両岸はわざと低地にされていて,有事の際には三の丸北端(周防殿橋北側)など数カ所で堰き止めて水を溢れさせ,幅20mの堀と化す様に造られており,更に堰き止めた場所では,堀になった堀立川がそれ以上溢れない様な水量調節機構も備えていました.
 この堰のある地区の住民に対しては,毎年1回,実際に堰き止める訓練をさせていたそうです.

 こうして,米沢の城下町は,東は松川,西は堀立川に守られる事になり,堀立川は城下町を出て再び松川に合流しています.

 第2の水路は御入水と言う生活用水路です.
 城下町南東部から町に入り,3本に分かれて主に上級家臣団の屋敷地を巡っていました(後に増設されて,城下町全域に張り巡らされていきます).
 その内,中央部の1本は,三の丸に入り,二の丸の堀の上を越えて二の丸内にまで達していますが,これも防衛上の工夫がありました.
 もし,米沢城が包囲された場合,城門は全て閉じられますが,下級家臣は南側の平地を中心に配置されており,場合によっては城門の閉鎖に間に合わない場合があります.
 その場合の抜け道として,この御入水を使う訳です.
 彼等は,三の丸の外から御入水の中をジャブジャブと歩き,堀を越え,水門を潜り,道路や城門を一切通らずに二の丸内に入り込める仕組みでした.

 最後の水路は木場川で,盆地西端を流れる鬼面川に帯刀堰を築いて取水し,三の丸西外の木場町まで流し込む水路で,こちらは御入水が上級家臣団用の水路であるのに対し,北西部の三の丸外に位置する中級下級家臣団の生活用水となっていましたが,最大の目的は,上流山間部からの木流しで,此処から供給される木材が城下町建設に用いられたほか,冬の暖房用の薪を確保するのに必要な水路でした.

 こうした努力もあって,最終的に米沢は表高30万石に対し,内高52万石を打ち出していました.

 その米沢の城下町は,視座によるものかどうかは判りませんが,兼続が秀吉の話を聞いていれば,もしかしたらその考えを取入れたかも知れません.
 とは言え,高い石垣に広い堀,そして天守閣のセットは元々西国方面の考え方でした.
 東日本で,この構成の城は,大抵が秀吉関係の武将(蒲生氏郷とか),徳川家もしくはその要請で造られたもので,本来の東日本の城は,館・櫓と土居(土塁)・堀と言う構成です.

 これでどの様に敵の攻撃から守るかと言えば,城下町に防衛機能を持たせた訳です.
 これは町割や道路,水壕,土居を組み合わせて造り上げていくもので,小田原城が典型的です.

 米沢城は,本丸・二の丸・三の丸を土居と堀で囲みました.

 また,上級・中級家臣団の屋敷地である三の丸内は,本丸・二の丸の東に上級家臣団の大屋敷が建ち並び,北東・南東隅には兼続の腹心である平林氏・志駄氏の屋敷,北端には兼続が信頼を寄せる色部氏の屋敷,鬼門である西北には禅林寺,西には景勝の旗本である五十騎組,西南には直江家旗本の与板衆,南には謙信の旗本であった馬廻組と強力な家臣団を隙間無く配置しています.
 更に,その外側は東に大規模な東寺町,堀として機能する松川があり,北には北寺町,西には同じく堀として機能する堀立川と兼続生家の樋口家家臣団である直峯衆,南には先述の原方衆が置かれました.
 その上,その周りには,東に前田慶次と堂森善光寺,北に色部氏の家臣団と千眼寺,西には伊達家が造り上げた防御施設を流用し,南には開墾地からはみ出た原方衆と普門院…以降,十重二十重に家臣団が置かれています.

 一方,米沢の商業地は,三の丸東側(三の丸外縁の堀と東寺町の間)に整備して6つの商人町を置き,その中に北は最上街道,南は会津街道と福島街道に繋がるメインストリートを整備しました.
 結果として,米沢を通過する旅人は,ほぼ全ての商人町を歩く事になり,それは同時に南北に長い三の丸の東縁に沿って歩く事でもあります.
 この三の丸東側には,大身の家臣が軒を連ねていますので,来訪者は視覚的に上杉家の威厳と繁栄をアピールさせられる訳です.
 また,西側の住民の檀那寺は東寺町へ,南側の住人の檀那寺を北寺町へと置き,住民と檀那寺を城下町のそれぞれ反対方向に配置する事で,城下町の人の往来を活発にする効果を狙っていました.

 交通の動脈は,街道と水路ですが,兼続はこれを直接管理下に置く事にも意を配っています.
 北の最上街道の入口には色部氏,平林氏の屋敷を,南の会津・福島両街道の入口には志駄氏の屋敷を,西の越後街道沿いには兼続の下屋敷(直江田屋)と重臣である千坂氏の屋敷を置きましたし,堀立川は城下町に直接入ってきますので,南の入口に与板衆,北の出口には禅林寺を配置,城下町外側を流れる河川には,盆地東側の羽黒川近くには前田慶次を置き,鬼面川から続く木場川は兼続の下屋敷を通る様になっていました.

 1664年に家政の混乱から半知召し上げとなった上杉家は,信夫地方,猪苗代,高畠から家臣団が流入してきて,城下町の周辺に新たな屋敷地が造成されましたが,兼続が縄張した町割は全く変わってはおらず,現在も連綿と続いていたりします.

 これまで何度も前田慶次が出て来ましたが,彼は決して武芸馬鹿ではありません.
 特に米沢に兼続を訪ねて落ち着いた後は,現実社会を離れ隠遁生活に入りますが,現実社会に縛られることなく,寧ろ現実の諸問題から超越するくらいの知的能力を持っている人で,その思考や想像の世界に心を遊ばせる人でなければ,慶次と話が出来ません.
 また,遊び心もあり,優れた,かつ,美しいセンスが必要です.
 そうすると,慶次を受容れ,且つ,慶次と共に過ごせる兼続と言う人物も,実は大いに傾き者の性質を持っていたと言える訳で.

 ついでに,兼続の傾きの心の極致と言うべき行為は,1人の息子,2人の娘が早世し,養子政重も本多家に戻ったのに,決して後継を求めず,直江家の給与・財産を主家に没収する道を選んだと言う点にあるでしょう.
 元はと言えば,兼続自身,上杉家の財務を切り盛りする為の直江家入りな訳です.
 その代わり,禅林寺に兼続は膨大な蔵書,自分で出版した出版物を集めた禅林文庫を造って,後の時代に継承しています.

 実は,慶次以上に傾き者だったのが,直江兼続という人物だったのではありますまいか.

 来年の大河ドラマは,此処までの描写は無理だろうねぇ.
 それにしても,現在の日本の政治には今ほど兼続が必要とされている時代はないと思うのですが.

 …ああ,来年はどうなるんでしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/12/31 20:29


 【質問】
 徳川幕府開幕までの江戸の歴史について教えられたし.

 【回答】
 「江戸」と言う地名はそんなに古くなく,古今要覧稿や南向茶話では,その語源について「江戸は江所の義なるべし」などと書かれており,中世に日比谷入江が現在の皇居側に入り込んでいたので,地形的に入「江」の入り口(門「戸」)に当たっていたところであると言う解釈がなされています.

 「江戸」の地名初見は,1261年10月に書かれた江戸長重書状では,「豊嶋郡江戸郷之内前嶋村」とあり,少し下って1281年4月の江戸重政譲状に,「江戸郷柴崎村」と書かれていたのが最も古いものだそうです.

 その武蔵江戸氏は,桓武平氏秩父氏一族で,重継が江戸に住んで江戸氏を称し,子の重長が源頼朝に仕えました.
 畠山氏滅亡後は武蔵国を代表する武士となり,荏原郡を中心に一族を分出,鎌倉末期に足利氏に仕えますが,室町初期に没落します.
 庶流は木田見(多摩郡喜多見)に移って木田見氏となり,吉良氏に仕えました.
 このほかの庶流としては,承久の乱以後,重持が出雲国安田荘地頭となって以降定住した出雲江戸氏がいます.

 も一つ,戦国時代に勃興した常陸江戸氏がいますが,こちらは江戸は江戸でも,常陸国那珂郡江戸郷の出身で,藤原北家秀郷流の流れですから,東京の江戸氏とはちと違う.

 それは扨措き,江戸氏が没落した後は,1457年に太田道灌が城を築いて勢を張りますが,1524年に後北条氏の支配地となり,北条氏滅亡後は,徳川家が入ることになります.

 江戸の別称としては,「東都」「江都」「江府」「武江」などがありますが,最も有名なのは「大江戸」と言う言葉.
 この言葉は,古くからあった訳ではなく,18世紀後半に使われ出しているもので,1789年の山東京伝の洒落本『通気粋語伝』にある
「夫諸白の名に流れたる隅田川の景色は,大江戸の隅におかれず」
と言う記述が比較的早いものとされています.
 19世紀に入ると,十返舎一九の『東海道中膝栗毛』やら大田南畝の『江戸買物独案内』やらに頻出し,小林一茶の俳句にも取り上げられていきます.
 丁度この頃は,江戸の人口が増して世界的な大都市となったこと,江戸の経済力が増し,上方の経済力と拮抗し始めたこと,更に江戸の町人文化の発達で,従来の文化中心地域だった上方を凌ぎ出した事が挙げられ,江戸住民のアイデンティティが確立した時期と重なるわけです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/14 23:46


 【質問】
 薩摩藩が琉球を制圧・支配した(1609年)とき,明や清スルーしたのは何故

 【回答】
 明がスルーしたのは仕方ない.
 万暦三大征や,2度の紫禁城再建や皇族の贅沢等で,財政が悲惨な状態になってたし,しかも万暦帝が後宮に引きこもって一歩も出てこないものだから,国が麻痺状態になってたから.
 その後はもう駄目.

 清の場合は既成事実ができあがってたのと,水軍なんかあんまり持ってなかったせい.
 薩摩の背後には幕府もいるしな.

軍事板,2010/04/18(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 豊臣政権五奉行の長束正家は関ヶ原の戦いで西軍に加担し後自刃したが,財政を担当していた彼の死で,徳川は豊臣の財産力を計れなくなり,結果,豊臣を財政破綻させようとした(寺社の修復などをさせたことです)が ,長年経っても成果が出ず,大阪の陣の武力行使に走らざるを得なくなった,という見方は一般的なのでしょうか?

 【回答】
 私見ですが,あまり一般的とは思えません.

 確かに長束を手中にすれば豊家の蓄財を計れたかもしれませんが,関が原以前の家康の戦略をみるに,豊家の散財に重きを置いていたとは思えないからです.

 当時は石高だけならほぼ互角.
 単独での単純な動員数はこれで推し量れることです.
 もし重きを置いていたのなら,長束はもっと厚遇されていたであろうし,長束とて家康の暗殺に走ることもなく,関が原戦の後,首を晒されることもなかったでしょう.
 家康の立場からしても,あの頃は協力者即ち豊家恩顧の切り崩しのほうが重要だと考えるのが自然かと.

 また,関が原戦後も,幕府を開き将軍(家)として台頭し,豊家の石高を削り千姫を嫁がせ対面を強要する一方で,築城普請を大々的に行ったなどを鑑みますと,
「最後の手段として武力討伐」
を視野に入れていたのは確実で,散財はあくまでプライオリティの低い一対策だったかと.
 それに豊家の石高を削りまくっているのですから,散財させるだけなら長束がいてもいなくても同じ…というよりもむしろ,長束がいないほうがいいだろうと家康は考えたのではないでしょうか.

 どのみち,長束が対豊家戦略のキーパーソンとして扱われることはなかったでしょう.
 長束を取り込んでおけば豊家滅亡が早まったとも思えません.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 豊臣秀頼家による寺社造営や修築工事は,本当に豊臣家の財産を浪費させるためのものだったのか?

 【回答】
 『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.13によれば,よく言われる,豊臣家の財産を浪費させる為,というのは徳川方にのみに,それも経済的側面に偏った解説かもしれない,としています.

 そして豊臣家側の意図として,大祭(秀吉の七回忌など)や寺社造営を催す事で僧侶や公家衆,町衆等からの支持獲得があったかも知れないが,徳川による築城ラッシュ
(関ヶ原合戦後,全国で築城ブームが起こり(新しい領地の防衛などの為),また豊臣家包囲網として伏見城や二条城,名古屋城等が築城された)
に対して,豊臣方は純粋に宗教的・呪術的な力を信じており,呪術的に解放される事を志したのではないか,としている.

 また,江戸幕府成立後は政治的な実権は徳川家に握られており,豊臣家代表を必要とするのは祭礼関係に限定されつつあった,として,豊臣側が幕府と軋轢を起こさずに取れる手段は呪術的反抗しかなかったとしている.
 当時は生活全般(戦勝祈願から地震予知まで)に神仏が深く関わっており,その上に家康の政治的意図が加わるので,
「淀殿が占いに凝り,とかく霊の力を信じる質となってもおかしくない」
としている.
(家康も魔術的な事にかけては負けておらず,慶長十七(1612)年の正月には三河大樹寺に詣でて先祖の廟所を巡視.
 同年五〜十二月にかけて日課のように「南無阿弥陀仏」の名号を書き綴っている)

グンジ in mixi,2008年11月29日00:13


 【質問】
 大坂冬の陣における豊臣方の防衛方針は?

 【回答】
 『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.34によれば,豊臣方の事実上の総大将である大野治長は,
「大坂城の西側の海沿いにある川縁の遠隔地(博労淵や福島なと)に砦を築き,西手の水路を確保.治長の領国である泉佐野を要として,大坂城−堺−岸和田−紀州の線を確保し,大和郡山を前線基地にして近江まで延びている徳川勢と対峙する」
という構想を企図していたのではないか,としている.
(この時点では豊臣方は大船を所有していたし,治長は紀州で一揆を起こさせている)
 また淀川,大和川の堤を切断して京街道を水浸しにした事から,大和口を通過するしかなく,とすれば大坂と大和・紀州を押さえるのは幕府勢の進行路を前後から脅かす事となり,その上で敵を大坂城に誘い込んで一叩き.その成果を持って豊臣家恩顧の大名を寝返らせてから,有利な条件で講和を結ぼうとしていたのだろうとしている.

グンジ in mixi,2008年11月29日 01:33


 【質問】
 真田幸村が内応を疑われたのは,信幸が徳川方にいたため?

 【回答】
 通説では,幸村の兄・信幸が幕府方にいるから,幕府方に内応するかもしれない,と治長など上層部から疑念を持たれていた,としているが,『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.112によれば,兄弟・親族が幕府方にいるのは牢人衆の大半に当てはまっており,なにより治長自身の弟(壱岐守治純)が幕臣として活躍している事から,兄弟が幕府方いるという理由だけで疑う事は,特に治長には出来ない,としている.

 確かに大坂方の牢人将である仙石秀範(仙石久秀の長男)や長岡興秋(細川忠興の二男)等もそうだし(それぞれ弟や父が幕府方として参戦),普代の織田有楽(信長の弟)・長頼親子も親族の信雄(信長の二男で出家し,常真と名のる)も徳川家の保護下に居るし.

グンジ in mixi,2008年11月29日 01:47


 【質問】
 冬の陣の講和時の大坂城内の状況は?

 【回答】
 『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.139によれば,場内では決定的に物資が不足.
 10月1日(この日,片桐且元が一族,将兵を引き連れて大坂城を退去)以降,街道は封鎖され,淀川往来の船舶も止められ,京中の米・豆の商売も禁じていた.
 その結果,城内では米一石が百三十匁まで高騰(世間では一石あたり十七,八匁),所謂「うどん一杯,三百万円」がシャレにならない状況だった.
 惣構内の町民が飢え,また武士には餅などが支給されていたが,やはり食が細くならざるを得なかった
(町民が暴動を起こすような事態になれば,城内に敵を抱える事になる).
 この頃,治長が扇動した一揆が紀州で頻発しており,布石がようやく生きようとしていたが,既に講和を急いでおり,また真田幸村や後藤又兵衛も評定で講和を容認していた.

グンジ in mixi,2008年11月29日 01:47
〜2008年11月29日 17:50


 【質問】
 大坂の陣において,伊達家騎馬鉄炮隊は実在したのか?

 【回答】
 道明寺の戦いでの「伊達家の騎馬鉄炮」と真田隊との激闘は「武徳編年集成」に描かれており,日本戦国史上名高いが,『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1),p.193によれば,

・「武徳編年集成」は大坂の陣から百年以上後(寛保元(1741)年頃)に完成している

・大坂の陣の当時,西洋では騎馬鉄炮隊は存在しているが,日本に直輸入するのは軍制上不可能
(当時の西欧では騎兵は,重い甲冑を頭から膝下まで覆った胸甲騎兵と,それの突撃を援護射撃する火縄銃騎兵に分類されており,三十年戦争(1618〜48)ではカトリック側は騎兵部隊を,ほぼ全面的にこの二種類で編成していた.
 故に親交のあった旧教の宣教師が伊達政宗に,火縄銃騎兵の存在を伝える事は可能ではあった.
 しかし「援護騎兵」たる火縄銃騎兵は,「攻撃騎兵」たる胸甲騎兵がいなくては意味がなく,ここからも「伊達の騎馬鉄炮衆」は虚構である想像がつく,としている)

・真田隊と交戦した片倉重綱が残した記録には「騎馬鉄炮衆」に関する記載がない

・そもそも馬体が小さい日本の馬で,騎乗から火縄銃を撃つのは困難
(大坂城内で馬上で鉄炮を撃とうという試みがあり,実験してみたら発炮音に馬が驚いて駆け出してしまった)

などの理由から,騎馬鉄炮隊は実在しなかったのではないか,としている.

 稲富流炮術に馬上筒の技が伝わっているが,これは特殊な個人芸であり,集団戦闘には使えたものではない,ともしている.

グンジ in mixi,2008年11月29日 17:50
〜2008年11月29日 18:21


 【質問】
 大坂の陣において長宗我部盛親,毛利勝永はどの程度活躍したのか?

 【回答】
 大坂の陣では 真田幸村が有名だが,『真説 大坂の陣』(吉本健二著,学研M文庫,2005.1)によれば,この両者も奮闘しており,盛親は真田丸の戦いでは真田丸の西半分を受け持っており,また夏の陣の八尾合戦でも藤堂高虎の軍勢に大打撃を与えています.
 また勝永は天王寺決戦で真田幸村と同等以上に戦っており,真田隊崩壊後の状況下での撤退を成し遂げています.
 またこれ以外にも,同書ではキリシタン武将である明石全登の活躍についても言及されています.

 なのに知名度の点でも,現在プレイ中の『信長の野望DS1』での能力値も,圧倒的に幸村の方が上…

グンジ in mixi,2008年11月29日 18:21


 【質問】
 関ヶ原に比べて大阪の陣で,大阪方についた人間に対する処罰が厳しいのはなぜですか?
 関ヶ原の時の島津・上杉・毛利,石田三成や小西行長なんかの妻子らも助命されてますよね.
 それに対して大阪の陣のときはお菊が処刑されたほか,毛利勝永の戦いに参加していない息子も処刑されているのですが,どうしてこれだけ対応に差があるのですか?
 大名と浪人の差でしょうか?

 【回答】
 単純な理由としては,関ヶ原の時は処分を厳しくしすぎると,
「こんな処分受けるくらいなら,一か八かもう1戦して挽回してやろう」
と思わせることになりかねなかった.
 まだ徳川氏の優位は決定的ではなかったので,争いの火種に火をつけるようなことはしたくなかったのだろう.

 関ヶ原の戦いに関しては,一日で決着がついたこと自体が想定外だったような側面もあり,下手をすれば決着がつかないまま,全国が東軍支持派と西軍支持派に二分された状態が,長期間に渡って継続した可能性だって否定できない.

 まあそうなったところで,最終的には徳川氏の優位に落ち着くとは思うが,結局あの段階での徳川家康は,東軍を支持する大名達の盟主として担がれ,祭り上げられていることによってその地位を保っているという側面も大きく,彼らの支持を失う要因になり得ること(不安感・不信感を抱かせること)は,極力避けなければならなかっただろう.

 もしも戦乱が長期間に渡って完全に終結しなければ,初期の室町幕府のような状況に陥ることだってあり得なくはなかったわけだし.

 また,関ヶ原段階で,島津・毛利・上杉なんかを完全に武力討伐で滅亡まで持っていくのは,かなり難しいと思うぞ.
 それに島津なんかは,情状酌量の余地もある.

 あと,関が原は徳川家の功績より,味方になった大名達の功績のほうが大きかった(戦での功績も,裏切りの仲介とかも)ので,そういう連中から口利きされたら,顔を立てないとだめだったということもあるかも.

 大坂の陣の時は,(少なくとも表面上は)全国の大名レベルは徳川氏に従ったわけで,徳川氏の圧倒的優位は明らかだった.
 だから後のことは気にせず,厳しい処分が出来た.

日本史板,2007/10/03(水)
青文字:加筆改修部分


◆◆鎖国令以降


 【質問】
 鎖国は国家戦略上,誤りだったの?

 【回答】
 そうとは言えない.

 欧州は自国の発展を海外領土の拡張と貿易によって成そうとした.
 対して日本は,鎖国と国内開発によってそれを成そうとした.
 戦国の動乱から朝鮮戦役で国内が大分荒れていたから,海外進出より優先するのは理にかなっている.
 江戸初期から100年ほどで人口が倍になっているから,そこまでは正しかったと言える.

 ただし,人口が飽和状態になった後も鎖国を続けていたのはどうかと思うが.

 鎖国ってのは別に日本オリジナルな発想ではないんだけど(朝鮮だって似たようなもの),日本はそれをかなり徹底してしかも実効性が上がったところに特殊性がある(薩摩藩の抜け荷とか穴はあったけど).
 ベトナムなんかは,やろうとして失敗してる.

 鎖国の一番のポイントは貿易制限ではなくて,日本人の海外渡航禁止による安全保障(キリシタン禁制もこの側面から出てくる).日本人が外に出ていろいろ問題を起こし(巻き込まれる場合も含めて),その責任をとるとかとらないとか,こういう国外でのコントロール不可能なリスクを回避するために日本人を外に出さず,海外での揉め事(ex.オランダ・イギリスとスペイン・ポルトガルの紛争,明・台湾鄭氏と清などの諍い)から距離を置こうとした.
 冊封体制に入れば,漢字文化圏内部ではある程度安定を得られるけど,国内対策的にそれは不可能だった.

世界史板


 【質問】
 家康は貿易に消極的だったの?

 【回答】
 家康は貿易にかなり積極的で,鎖国というか,交易を制限しても,危ないキリスト教や,戦国の夢を忘れられずに海外に出て行った日本人たちを遠ざけて,国内の安定を優先する方向に走ったのは,むしろ秀忠以降.
 家康は金なども掘りまくったし――ゴールドラッシュが,戦国を忘れられない不安分子を吸収したところもある――,多少の危険を冒してでも幕府の運営資金を稼ぐ方向性で,よく言われる重農主義者では全然無い.

 実際,国内の安定を優先したことで,国内が50年で大きく様変わりしたのは事実だけど,家康が死んだ後は,財政に強い家臣をガンガン首切ったりして,鉱山収入もどんどん目減り.
 当然,貿易も儲けにならなくて,国内の交易・商業・流通は大発展したのに,それに税金をかけるシステムも全然構築できず,実は4代将軍のあたりからすでに,幕府全体が赤字経営になってたりする.

 それ考えると,家康ってバランスいいよなあ.

漫画板,2013/05/18(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 鎖国に怒ったスペイン,ポルトガルが報復に武力行使とかしなかったの?

 【回答】
 色々理由があるが,全体的に「それだけの余力がなかったから」に尽きる.

 元々,当時のスペインは,艦隊を組めるだけの大兵力を地球の反対側に派遣できる状況にはなかった.
 価格革命と新大陸からの放埓な金銀の流入による物価上昇に加え,頼みの新大陸やアジアは商人や貴族の利権が錯綜し,王の威令など守られもしなかった.
 その上,当時のスペインはカスティリア,アラゴン,ポルトガル,セビージャらの寄り合い所帯であり,それぞれが独自に目的を持ち,しかもその目的がばらばらだった.
 フェリペ2世の時代にポルトガルと同君連合を結んだものの,海外のポルトガル植民地はほとんど従わなかった.

 その上,キリスト教の擁護者,及び地中海の交易ルートを守るためにオスマン帝国と戦い,加えてイギリス,フランス,ネーデルラントの独立勢力などとも戦わなければならなかった.
 結果,再三にわたりスペインが自己破産してしまったのは有名な話.

 要するに,東方の国が自分たちを締め出したからと言って,即座に報復の艦隊を送れるほどの資金も兵力も当時のスペインにはなかった.
 スペインが金を使って戦うべき相手は近場に山ほどいたというだけのこと.

 その上,アジアとヨーロッパの行き来に数年はかかる当時,忠誠心を持たせたまま大兵力を遠国に貼り付けるのはほとんど無理だった.
 艦隊内で内乱が起きかねないし,最悪,反乱を起こされる可能性もあった.

世界史板


 【質問】
 オランダは,マラッカやらカリカットやらをどんどん占領してたのに,なぜ平戸は占領せずに商館置いただけだったの?

 【回答】
 オランダは,苦労して手に入れたマラッカやバタヴィアでの儲けは赤字.
 その一方で,日本商館(平戸,後に長崎出島)の儲けは第二位の台湾,第三位のイランの商館の儲けを足した程度という,圧倒的に収益率の良いものだった.
 アンボイナ事件で負かした英国は日本から撤退したし,幕府に讒言して,スペインやポルトガルを締め出してもらったし,幕府の鎖国政策で朱印船の海外渡航も中止となれば,中国船を除けば競争相手は皆無.
 濡れ手に粟じゃねーか.

世界史板


 【質問】
 日本の鎖国体制を国際安全保障上,担保していたものは何か?

 【回答】
 16世紀前半の日本は,鎖国状態を完成させつつありましたが,これは東アジア地域に於けるオランダの派遣を背景にしたオランダによる日本の海防という背景があって初めて成立し得たものでした.
 それは持ちつ持たれつの関係であって,日本もオランダに対し,新たなライバルとなる国の交易受け入れを拒むという互恵関係にありました.
 よって,例え他国の船が日本に来港したとしても,それが受容れられる素地は余りなかったかも知れません.

 オランダの力が19世紀に入ると衰えてきた為に,諸外国は日本に開国を迫る艦船を派遣した訳で,日本も自主海防をしなければならなかったりすると言うのは穿ちすぎな見方でしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月25日22:02


 【質問】
 大船建造禁止令とは?

 【回答】
 1635年に林羅山が読み上げた武家諸法度の第十七条には,「五百石以上之船停止之事」と書かれていました.
 この条文が,所謂「大船建造禁止令」と呼ばれるものです.

 ところが,この条文を巡って,大名家の人々は頭を悩ます事になります.
 と言うのも,この条文に限らず,武家諸法度の条文は,簡潔な漢文でさらっと書かれているだけであり,解釈が如何様にも取れてしまいます.
 とは言え,勝手な解釈は鳳凰丸一件とか飛龍丸建造の話の様に,一歩間違えば御家の危機に成りかねません.

 そこで,大名各家は幕府年寄に解釈を質す事になりました.
 今まで大船没収を受けてきた西国大名家でも解釈に迷う条文なのに,まして,それを経験していない大名家では,想像も付かなかったに違いありません.

 1638年5月2日,島原の乱鎮圧後に,前田利常,藤堂高次,京極高広など就封の暇を賜った諸大名家当主達に対し,幕府年寄の土井利勝,酒井忠勝,阿部忠秋は,武家諸法度第四条の解釈の変更を説明しました.
 第四条は,制定当初,
「領国内にて起きた争乱は,その地を領する各家にて対処する事」
として,他国からの出兵を厳に諫めていたのですが,これを厳格に運用したが故に,島原の乱の初期消火に失敗し,鎮圧に梃摺ってしまいました.

 そこで,
「私闘の場合は近隣からの出兵は不要で,国内で処理すべし.
 但し,国法に背く事態が出来した場合は,隣国からも速やかに出兵してこれを鎮圧する事を命じる」
と解釈を変更した訳です.
 同時に,第十七条の解釈も,「五百石以上之船」から商売船は除くと申し渡しています.

 こうした解釈変更は,5月15日に登城した大名にも伝えられ,在国の大名には翌日,土井利勝の屋敷に留守居を呼んで,その旨が伝えられました.
 幕府の右筆所日記,所謂『江戸幕府日記』には,五月二日条と十五日条に同じ文言があります.
 それによると,
「五百石以上之船停止と此以前被仰出候,
 今以其通候,然共商売船は御ゆるし被成候,其段心得可申事」
となっていますが,ここで言う「商売船」とは,従来の年寄連署奉書から読み解けば,「内航商船」と解釈出来ます.

 で,何故に第十七条が改訂されたのか,と言えば,これを大名家に申し渡した幕府年寄の説明が御三家を始め,加賀前田家,小浜酒井(忠勝)家,長州毛利家,阿波蜂須賀家,土佐山内家,佐賀鍋島家,肥後細川家に残されています.
 その記録には先ず改訂の切っ掛けとして,この条文では軍船のみならず商船が対象になっており,商人の迷惑が上聞に達した事としています.
 そして,引き続き建造が禁止される船は,「武者船,あたけ其外之大舟」であると述べました.
 この部分の記述は,各大名家の文書で様々に書かれているのですが,
『「武者船」及び「あたけ其外之大舟」』
と言う読み方ではなく,
『「武者船」,即ち「あたけ其外之大舟」』
と解釈するとしっくり行きます.

 すなわち,幕府の海上交通用の大型船の定義とは,軍船と内航商船,そして,航用船の三種類に分け,第十七条では,前二者に網を掛ける事になっていた訳です.
 これは1609年の西国大名家に対する大船没収と同じ解釈であり,今まで領域的な法として存在していたものを,法的不均衡の是正から法制整備されたものと考えられます.

 其の迷惑を被った商人の居た領国とは何処か?と言うと,意外な家が浮かび上がってきたりします.
 正に,策士策に溺れると言うか,灯台もと暗しと言うか,事実は小説よりも奇なりと言うか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月20日22:54

 1636年7月22日,とある大名が以下の様な書を国許の年寄に使わします.

-------------------------
 去年御法度書指遣候処ニ,何とうつけ候や,去八日之次飛脚の状ニ申越候ハ,五百石つミの舟小浜ニも有之間,つるかニもたくさんニ可有之候,其上北国より参り候舟之内二も可有之候由申越候,中々是飛之可申様も無之候,あほう共ニ身たいおはたされ可申候義無念千万成事ニ候
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 のっけから,国許の人間を「うつけ」,「あほう」と罵倒し,しかも,「あほう共によって身代が果てる」とまで書いていたのは,誰あろう,家光の側近中の側近であった幕府年寄酒井忠勝その人です.

 彼は1634年に武州川越から日本海の小浜に転封したのですが,転封間もない1635年11月4日に,彼は諸士法度の公布が近い事を国許に知らせ,武家諸法度が公布されると,その写しを作成して国許に持たせましたが,いざ国許に帰る段になって,自分の足元で,武家諸法度第十七条が徹底されていなかった事を知り,愕然としたのです.

 国許の重臣達は,その法度を受け取ったものの,解釈を忠勝に問い質す事もせず,第十七条の適用範囲を軍船だけと思い込んでしまいます.
 本来は,この条文は,内航商船にも適用されますから,廻船問屋にもそこの処を徹底させねば成りません.
 それをやっていなかった訳ですから,忠勝が驚愕するのも無理はない訳です.
 自分が作った法度に自分が抵触する可能性があるとは,正に自分で自分の首を絞める行為….

 そもそも,この大船建造禁止令は,波の穏やかな瀬戸内海方面を航行する船舶に対して行われた規制が出発点でした.
 日本海はそれとは違い,船舶の建造方法も独自の発達を見せ,伊勢船や二形船とは別系統の面木造りの廻船が主力でした.
 日本海の海は瀬戸内海に比べると相当荒く,畿内に商品を運ぶには距離が長いので,運送費が掛かりますから,航洋性を高め,大容量の船艙を持つ大型船の建造は早くから進んで,1592年の段階で既に小浜でも7〜800石積の船を建造していましたし,1602年の越前新保では,1000石積以上の北国船120艘,1000石積以下の羽ヶ瀬船72艘を数えていました.
 また,こうした大船を擁した豪商の数は極めて多かった訳です.

 忠勝の領国である小浜,敦賀,高浜でも,組屋・道川・高島屋・打它と言った豪商が軒を連ねていました.
 大船建造禁止,保有禁止となると,これらの豪商にも大打撃になる他,その実入りから運上金を取っている大名家にも悪影響が出てしまう訳です.

 兎に角,この事態を何とか切り抜けなければならない.
 忠勝は早速,国許の年寄に対し,
「浦改めは大々的にすると目立つから止めろ」,
「敦賀では年寄の一人を検見に出させるが,他国民や領民に極力目立たない様にしろ」,
またこの浦改めで大きさが該当する船については,
「浜に揚げて囲わせ,船を解体して小さく作り替えさせる様に手回ししろ」
と指示しています.
 また,他国船についても,敦賀や小浜への来航を禁じ,もし来たら,船を抑留して幕府に献上すると言って追い返せ…つまり,ひたすら目立たない様に取り計らえとした訳で.

 1636年8月末,忠勝は江戸を発って領国小浜に向かいます.
 彼は,この地に2ヶ月滞在した訳ですが,船を解いて小さく改造する事は,豪商達にも多額の出費を必要とした上,輸送量が少なくなりますから,運賃収入は結構減ってしまいます.
 こうして,日本海側の豪商達が,挙って忠勝を始めとする領主達に窮状を訴え,圧力を掛けた事は想像に難くありません.
 結果として,3年を経ずして解釈の変更が行われたと言う事になる訳です.

 う〜ん,こうした朝令暮改な話は,つい最近も何処かの国で聞いた事があるなぁ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月21日23:12

▼ さて,一昨日の続きで,幕府は何故西日本諸大名家の大船没収を行ったか,と言えば,当時の時代情勢ですわな.
 この当時は未だ豊臣家は健在でした.

 つまり,豊臣家と将軍家の決戦となった際に,もし,加藤清正や福島正則を中心とする西国諸大名家が豊臣家に味方したとしたら,その安宅船,そしてその民間船バージョンである伊勢船を用いて幕府水軍を滅して制海権を手に入れる事が出来ます.
 特に文禄・慶長の役以降,諸大名家は安宅船の利用価値に気づき,競って安宅船の大型化に相務め,その大きさは文禄・慶長の役で最大の九鬼水軍が保有していた日本丸を凌駕する程でした.
 これら西国大名家の安宅船は,領主の御座船や米回漕船として,領内を母港にしていたわけですが,大抵の場合は,瀬戸内海を航行し,大坂を定置港にしていました.
 彼らの間にも競争意識があり,例えば,鍋島勝茂は,黒田長政が建造した大船を目にして,自分の大船が見劣りするのに我慢出来ず,それを凌駕する船を造れ,と国許に命じていますし,加藤清正の新造船は蜂須賀至鎮の持ち船を上回る大船であると言う記録があります.

 一方,幕府水軍は,諸大名家に比べると弱体でした.
 制海権が有れば,大坂城は相当長期間持ち堪える事が出来ますし,もし,大坂城を退去したとしても,将軍家が中国,四国,九州の各地方を平定するには相当な期間が掛かります.
 それを恐れたが故に,西国諸大名家の大型安宅船を接収したのですし,軍用船に転換出来る伊勢船,二形船も領内にあると接収されて軍船に組み込まれかねない為,合わせて没収した訳です.

 但し,安宅船が,池田家以外の西国大名家から完全に姿を消した訳ではなく,500石積より小さいのであれば安宅船の建造は可能でした.
 1613年に来日した英国人セーリスは,長州の三田尻の船渠で安宅船を確認しています.
 因みに彼は,その安宅船を「ノアの方舟」と称していますね.
 また,1622年4月,鍋島勝茂の室高源院の江戸出府の際,伊万里から「アタケ丸」に乗船したと言う記録もありますし,1624年の広島浅野家の調査記録に安宅船4隻が見えています.

 とは言え,安宅船は以後,記録からは消滅してしまいますが,1624年の段階で,広島浅野家は御座船として,20端帆82挺立の関船が用いられていました.
 つまり,時代は大型で鈍重な安宅船よりも,快速に航走出来る関船へと移り変わっていった訳です.

 大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し,元和偃武により,国内から戦火が絶えると,幕府から西国外様大名家への締め付けは一層強まります.
 1619年7月には大坂を領してきた松平忠明を大和郡山に転封し,天領として支配します.
 翌年からは,「西国之船かしら」として小浜光隆を大坂船手に任じ,大坂以西の大名家が保有する船舶の監察を命じます.

 以後,西国諸大名家は船の事で疑義が生じると,先ずは小浜光隆に相談し,その指示を仰ぐ事になりました.

 しかし,1625年に彼は福岡黒田家を告発し,以後,大船建造に関する騒動が頻発するのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月16日21:10


 【質問】
 鳳凰丸をめぐるすったもんだについて教えられたし.

 【回答】
 1620年,江戸では九州の諸大名家に対する大船進上の噂が巷を流れます.
 小倉細川家の世嗣細川忠利は,国許にその風評を知らせ,自領内にそんな大船が存在しないのか,当主である父忠興に確認しています.
 忠興は,今までは500石積以上だったが,今度の規制はどうなるのか,400石積が大将になるのか,それらを含め,しかと確認せよ,と忠利に命じ,忠利は石橋を叩くが如く,幕閣の重要人物たる年寄本多正純へ確認に走って居ます.
 事程左様に,幕府の威令と言うか,逆らったら取りつぶされると言う恐怖は大きかった訳です.

 1625年,九州の諸大名家を更に震撼させる事件が起きます.
 大坂船手の小浜光隆は,福岡黒田家当主の黒田忠之を,大船建造の禁令抵触の疑いで,江戸表に告発しました.
 彼の御座船として大坂に回航された60挺櫓の鳳凰丸が嫌疑を受けたのです.

 鳳凰丸は1625年に建造された新造の関船ですが,普通500石積以上の関船になると,1人で漕ぐ小櫓なら約80挺立,2人が必要な大櫓なら約50挺立になります.
 もし大櫓なら確実に規制を越えるのですが,そうなると小浜光隆が見るまでもなく,沿岸の諸大名家から小浜光隆にご注進が来る事になるでしょうから,恐らく小櫓だったと思われます.

 ただ,艫に命名の由来となった鳳凰を彫り込み,非常に華美だった為に目立ちすぎ,これが大坂や江戸表に噂として流布して,黒田家謀反の風聞が強まった為に,小浜光隆もその噂を沈静化させる為にも,江戸への告発をせざるを得なかった….
 結局,江戸から検使が派遣され,最終的に鳳凰丸は「不過五百石」として事なきを得ました.

 ところが忠之への嫌疑はこれに留まりませんでした.
 今度は,領内の荒戸山の下に,鳳凰丸用の舟入を掘らせたのが,「大船一艘を繋ぐ程」と江戸表に聞こえ,再び検察の上使が派遣されたのです.
 「大船」と言うのは,当時としては「安宅船」の代名詞ですから事は重大でした.
 これも,結局,噂程大きくない事が判明し,黒田忠之の嫌疑は再び晴れました.

 こうした一件があった為か,細川忠興が1634年に八代城内の屋敷廻りの防水用石垣普請を計画しますが,石垣普請は工費が掛かる為に土留めで瓦築地様に築く事に変更しました.
 この時,忠興は年寄土井利勝に内諾を得て,工事に取りかかりますが,工事は中々捗りません.
 その理由として,忠興は忠利に斯う書き送っています.
「舟入近くの土を取ってしまえば,成る程楽に工事が進められるが,そんな事をして黒田の様に舟入を深くして大船を建造する準備だと取られかねない.そんな訳で,遠くから土を運んでいる為,工期が延びている」

 因みに,従来は黒田,鍋島両家の関係が良好だったのに,この黒田の舟入騒動を,国許にいた鍋島勝茂が,江戸へ向かった黒田忠之に知らせたのが黒田忠之の江戸到着直前だったと言う事で,両家の関係が冷却したと言う話はあります.
 ホントか嘘かは知りませんが.

 後に1632年,再び鳳凰丸一件が蒸し返されました.
 所謂黒田騒動と言うものがそれで,幕府年寄土井利勝の屋敷にて黒田家家老黒田美作と黒田監物等と対決した筆頭家老栗山大膳が,鳳凰丸が詮議される際に,
「これを商船だと言い張る為に,咄嗟に色んなものを積込んで喫水を深くしたのだ,
 鳳凰丸は実は幕府ご禁制の大船だったのだ!
 黒田忠之は謀反を企てていたのだ!!」
と喚き立てますが,既に見ている様に,大船は民間商船,軍船を含めた500石積以上の船が対象である訳で,これは与太話であるとあっさり一蹴されて終わってしまいました.

 しかし,黒田家がscapegoatになった為に,西国の各大名家はより慎重な対応を迫られる事になり,幕府の狙いは取り敢ず成功した訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月17日22:08


 【質問】
 海部騒動とは?

 【回答】
 鳳凰丸の一件と黒田騒動は,特に西国の外様大名にとっては,傍観すべきものではなく,家を保つ為にも,こうした大型船建造は慎重に進めるべきであると言う事を,改めて肝に銘じた出来事でした.

 阿波蜂須賀家も例外ではなく,蜂須賀至鎮の代に建造した御座船(関船)が老朽化した為,1631年3月に在府中の蜂須賀忠英の為に御座船を建造する事になります.
 途中,将軍秀忠の病と死によって工事が中断し,完成は1632年11月になりました.

 この関船は80挺櫓立で,他国の船よりも全長が長く造られています.
 これは大坂往還の海上と鳴門の横潮を渡る為,他国並みに櫓間が長いと難風の際に困り,それより拡げる事が習わしでした.
 ところが,完成した船を見て,船頭達が船奉行に,
「最近,湾口に砂が溜まっているので,喫水が深いと操船に支障を来す事が判明しました」
と報告します.
これを修正するとなると,一度建造したこの船を解体して,再度組み直す事になります.

 その船を建造していた場所は,往還脇の目に付く所であり,これを解体していたというのであれば,「大船」建造と黒田家の様にあらぬ噂を立てられかねません.
 場合によっては,幕府から咎め立てされる可能性があります.
 さりとて,此の儘運航させて万一,忠英帰国の際に,湾口で座礁などしたら,船奉行や船頭にどんなお咎めがあるか….

 困り果てた船奉行は,出府した当主に代わって,留守を守っていた当主の祖父で,当時隠居していた蜂須賀蓬庵(蜂須賀家政のこと)に報告します.
 蓬庵はこの報告に驚きましたが,先ずは繋留状態にして,船の指図(絵図)を作らせ,使者に持たせてその年の12月に大坂の小浜光隆の元に届けさせました.
 この指図を見て,小浜光隆は「問題なし」と判断し,使者にそう返答します.

 しかし,江戸にその知らせが届いた時,忠英は更に江戸の幕府船手頭の向井将監に理を入れ,「少も不苦」と言う返答を経た上で,1633年7月に小浜光隆に対し,
「一端この船は解体して建造し直したい,
 ついてはこの解体と建造が,人々が蜂須賀家は安宅船を建造しているのではあるまいかと言う噂を招きかねないので,家来の内誰か1名を検使として,当家に派遣して頂き,建造中に不審な動きをしていないかを,監視しておいて頂きたい」
とまで申し入れています.

 種々検討の結果,8月に小浜光隆は忠英に返書して,
「家来の徳島派遣は,それこそ噂になるであろうから,人目に立たない様にする方が良いし,その辺の事情は当方きちんと理解しているから,安心しなさい」
と諭し,9月から忠英は安心して一端建造した船を解体させ,暮れになってやっと74挺櫓立の御座船飛龍丸が完成しました.

 起工から3年以上掛かったのは,将軍の代替わりがあった他,蓬庵の従兄弟だった江戸仕置家老益田豊後が,知行地である海部郡内の百姓に対する苛政などが発覚した為,忠英は幕府年寄を通じて将軍の内意を質し,その言質を取った上で,1633年9月に豊後を罷免,大栗山に幽閉すると言う政変があった為でした.
 船の建造よりも,そっちの処理の方が大事だった訳ですな.

 さて,月日は流れ1645年6月,阿波の大栗山に幽閉されていた益田豊後は,妻の弟の安彦左馬允を通じて,家老長谷川越前の悪業と自身の身の潔白を訴える書状を京都所司代に提出しました.
 これが蜂須賀家の御家騒動の一つで,世に海部騒動と言われているものです.

 その訴状を受けた幕府は,豊後と越前を江戸に召還して評定所で取り調べます.
 豊後は越前の罪状として,第一に大関船建造,つまり,先述の飛龍丸一件,第二に領内の切支丹である下田一郎左衛門とその舅に対する処置で穿鑿を停止するなどの温情を与えた事,第三に幕府年寄土井利勝に越前自らが誓詞を差出した事が挙げられていました.
 そして,幽閉の原因となった苛政は,越前と郡奉行が結託して捏造し,蓬庵が豊後を憎む余りに一方的に断罪した冤罪であると訴えました.
 もし,この罪状が事実なら,最初の「大船」建造と次の切支丹禁制の扱いだけで,蜂須賀家はお取りつぶしに成りかねません.

 越前は,最初の罪状に関しては,先述の小浜光隆の書状などを証拠として差出し,豊後の告発に悉く反論し,遂に1646年正月に両者が評定所で対決した結果,次々に反証を挙げる越前に豊後は追求の言葉を失い,結局,豊後の措置は,蜂須賀家に任せると言う裁決を下し,事件は終息しました.

 時は将軍家光の時代でしたから,もし,こうした公的文書を残していなければ,蜂須賀家が幕末まで阿波で一国を領する事など無かったかも知れません.

 紆余曲折がありましたが,1635年には5月28日には,鎖国政策の最初の段階である日本人の海外渡航の禁止,そして6月21日,幕府年寄の井伊直孝,松平忠明,酒井忠清,土井利勝,酒井忠勝列席の下,江戸城大広間で諸侯に向けて,林羅山が武家諸法度を読み上げ,更に大船建造禁止に一歩を踏み込んだのでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月19日22:37


 【質問】
 大船禁止令以後,大船建造は皆無だったのか?

 【回答】
 大船禁止令ですが,最終的に1663年に漸く今までの武家諸法度は文書化されることになりました.
 以後,大名による大船の建造は無くなったのかと言えば然に非ず.

 1669年には長崎代官末次平蔵が幕命で33人乗組で500石積(とは言え,城米450石,石火矢・大筒,鉄炮400挺,具足100領など優に千石を超える搭載量があった)の唐船を建造していますし,1679年には南部家の領地だった宮古に仙台伊達家が建造した唐船が嵐を避けて入港しています.
 この仙台伊達家の唐船は29人乗組と幕府船より若干小さめでしたが,旧来の伝統船とは造りが違うので,この船が就役する際には,近隣諸家に対し,「この度これこれこんな船が就役したので,万一御家に着到の際は驚かない様に」という書状を送っています.

 この船が何故建造されたかと言えば,多分太平洋を南下して江戸や大坂に藩米を運ぶのに,操船性の高い唐船様式のものが好まれたのかも知れません.
 但し大型化したとは言え,一般的な千石船の場合,乗員は14〜20名程度.
 その1.5倍の乗員を抱えたこうした大型船は,操船性は良かったものの,稼働率が低ければ経済性は低く,例えば末次平蔵の船は,1675年に小笠原諸島を探検するなどの実績を上げますが,建造後僅か11年で,腐朽を理由に解体され,後継船は建造されませんでした.

 17世紀〜18世紀に掛けて,欧米各国が勢力拡大に鎬を削っている中で,日本に外国船はHollandと清帝国の船だけなのかと言えばそうではなく,1673年には英国船が貿易を求めて長崎にやって来ていますし,1685年にはポルトガル船が伊勢の漂流民送還の為に長崎に来ていました.
 以後,西欧船はHolland以外姿を見せなくなりましたが,北方ではRussiaの船が出没しています.

 1739年にはRussiaの探検隊の船が,奥州・安房・伊豆の沖合に出没する所謂「元文の黒船」事件が発生し,1771年にはRussiaと戦闘して捕虜となったマジャール人が流刑地Kamchatkaを脱出して,阿波の日和佐と奄美に漂着し,Russiaの脅威を説いた文書を長崎のHolland商館長宛に送っています.
 そして1778年にはRussiaの船が霧多布に寄港して,蝦夷松前家に通商を求め,1789年の国後・目梨のアイヌ蜂起の影にはRussiaの荷担が噂されました.
 更に1792年にはAdam Kirilovich Laksmanが根室に渡来して,幕府との通商を求める事態になっています.

 当時の田沼意次政権は,蝦夷地直轄・開発政策を推進しますが,後継の松平定信政権は,逆に松前藩委任・非開発政策に転じ,更に1799年には蝦夷地直轄に転ずると,まぁ二転三転する訳で.

 でもって,田沼時代の積極策に打って出るには,船が必要になりました.
 先述の様に,長崎代官末次平蔵の唐船は1681年に長崎で解体され,和洋折衷の巨艦安宅丸は1682年に江戸で解体された訳で,以後,幕府が洋式船を導入する計画は,1718年に吉宗がHollandに船を発注出来るかどうか打診したのを除けば,全く動きがありませんでした.

 田沼意次はこうした沈滞状況に風穴を開け,Russiaに対抗する為にも洋式船の導入を図るべきだと考え,長崎奉行とHolland商館長との間で,造船技師の派遣や技術者の渡航,操船法の伝授,Holland船の端艇の雛形の製作など,種々の方策を練ってきています.
 しかし,この動き自体は,若年寄田沼意知が暗殺され,田沼意次の失脚で頓挫しました.

 しかし,北国筋と長崎を結ぶ1500石積の俵物廻船三国丸と言う船は,その洋式思想を具現化した最初の船として,1783年頃に建造されました.
 当時,北国からの廻船航路は,海象に左右され,時には破船が結構あった為,弁財船に代わるものとして,西洋式の構造を取入れた和船を建造した訳です.
 従って,本格的な洋式船やジャンクではなく,あくまでも和船の延長線上にあった訳.

 元来,日本の外国貿易の輸出品としては銅が主力産品だったのですが,銅の産出量は年々低下し,幕府はそれに代わる新たな貿易産品を探していました.
 其処で目を付けたのが,昆布,鶏冠海苔,鯣,鰹節,干鰯などの諸色海産物,取分け蝦夷地の豊富な海産物である乾鮑,鱶鰭,煎海鼠などを俵に詰めた,所謂俵物です.
 但し,この俵物は遠く蝦夷地を始めとする北国筋から運ばれてきます.

 俵物の長崎廻漕は年に2回行われ,2度目の二番立ではその年に獲れた新昆布が主になります.
 ところが,この新昆布は廻漕中の欠損もありますし,何よりその収穫は旧暦で言う6月土用の頃になり,製品化して出発する時は秋の末から冬の渡海となります.
 今でもそうですが,冬の日本海は兎角荒れ,廻船の往来は殆ど不可能となるので,一攫千金を目指すのでない限り,船主は余りやりたがりません.
 其処で目を付けたのが異国船の構造で,これにより耐候性に優れた構造を採用し,大型化を図って,大量の産品を運ぶ事を考えたのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月05日21:14


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