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「D.B.E. 三二型」(2012/05/23)◆戦国武将のオモロ系な兜・甲冑 まとめ
「朝目新聞」(2013/03/12)●足軽 vs. 騎馬隊
「リアリズムと防衛を学ぶ」◆(2010/08/07)サムライの武器はどう変わったか? 「騎兵と歩兵の中世史」近藤良和著
『図説 戦国の実戦兜』(竹村雅夫編著,学研,2009.3)
『鉄炮伝来』(宇田川武久著,中公新書,1990年2月)
【質問】
戦国時代の農民兵は,刀とか槍とかは自分で持って行ったんですか?
もしそうなら,高価な刀とか槍をどうやって調達していたんですか?
【回答】
当時は兵農分離や刀狩りが行われる前ですから,豊農はが武器・防具を備えていました.
戦の為だけでなく,自衛や治安維持のためにも役に立つものです.
アメリカの銃に近いかもしれません.
今だと日本刀は高価な美術品ですが,当時は数打ちと言われるような,質が低い代わりに安価な量産品が供給されてました.
鎧も現代に残ってるような立派な物だけではなく,もっと簡素で実用本位な物が広く使われていました
雑兵用の安物は,胴の前半分しか無いようなものからあります.
もちろん武器も買えないような貧農,小作人が食べ物と略奪目当てに参戦する光景は,ありふれたものです.
竹槍で戦うわけにも行きませんから,その場合,雇い主が武具を支給します(当然安物です).
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
戦国大名の類は,お貸刀と呼ばれる,雑兵に貸し出すための刀を武器庫に保管していた.
当然お粗末な刀身に簡素な拵えだがな.
お貸し具足と呼ばれる簡素な甲冑も貸し与えていた.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ 補足.
戦国時代の軍勢の主力は村々の土豪や名主層で(一領具足などの中農などもいますが),彼らが村の余剰人員を率いて参陣したわけです.
で,後北条氏の例ですが,参陣のときの人員数や武装などは事前に定められていました.
ですから大名が武器などを支給するのではなく,参陣する側の自己負担であったと思われます.
参陣は本領を安堵されている側の義務のひとつですし.
甲斐の武田氏の例ですが,参陣中に兵糧が不足した領主に,高利で兵糧を貸した例もありますので,武装に関してもおそらくシビアであったかと...
ちなみに参陣や城への勤番の義務は,領主らにはかなり負担であったようで,後北条氏の配下で勤番をサボってひどく叱責された挙句,さらに加番を申し付けられたり,配下にヒノキの棒ならぬ(笑)ただの棒を持たせた領主が,「今度は絶対に駄目だぞ!」と注意された例などもあります.
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【質問】
戦国時代のお侍さんは,メインウエポンは何だったのですか?
火縄銃や弓矢ですか? やっぱり槍なのでしょうか? それとも日本刀がメインの武器?
【回答】
日本の戦国時代には白兵戦はあまり行われていない.
とにかく突撃というイメージは,どっちかというと旧軍に作られたものだ.
戦闘による死傷の数を見ると弓,石,鉄砲などの飛び道具で7割近くに達する.
で,侍のメインウェポンは大弓.(ちっこい馬に乗ってる)
白兵戦に備えて槍か長巻を家来に持たせておく.
日本刀は主に護身用で,現代の軍であればピストルに相当.
刀がメインウェポンだったのはむしろ,鎧を着なくなった平時の江戸時代だな.
そのあたりも拳銃と似てるかな.
軍事板
我が国における戦闘の歴史では,既に鎌倉時代には,
「刀は使い物にならない」
とされています.
主力武器は専ら「槍」と「弓」でした.槍は雑兵が,弓は高級武士,または専門訓練を積んだ弓兵が用いました.
「刀と首取り―戦国合戦異説」 平凡社新書・鈴木
真哉によると,長距離戦(鉄砲・弓矢)と中距離戦(槍)で,ほとんど勝負が決まり,白兵戦や馬上戦は,平和な江戸時代につくられた作り話だそうです.
▼日本刀は,儀式・宗教・象徴の意味合いで持っているのであり,武器としての認識はほとんどなかったそうです.▲
首を切るときに使ったり,恩賞などに使いました.
安土桃山時代には,これに加えて鉄砲が登場します.
大砲も出てきますが,これは城郭の破壊用が主でした.
▼ しかしながら,実際の戦場では相変わらず多くの兵が刀を携帯していました.▲
これはなぜかというと,「倒した武士の首を切断するため」に必要だったからです.槍や弓で首は切断できません.
そのため,当時の日本刀はほとんど首切断用に使われたのが真相です.
刀を振り回して一対一で決闘するなどという場面は存在しませんでした.
実際,日本刀というものは大変重くて,接近しないと使えない上,きれいに振り切らないと柄から刃が簡単に抜けてしまう代物です.
武器としては絶望的に劣っています.
江戸時代以降は武士の象徴となりました.
日本刀が殺傷の実用武器となったのは幕末ですが,これは,江戸時代はよほどのことがないと槍や弓まして鉄砲を携行して歩くのは不可能(そんなことしたら即しょっぴかれる)だったからです.
ゆえに幕末の志士たちの武器は日本刀となりました.
幕末〜西南戦争においても日本刀は威力を発揮し,それが陸軍の日本刀携行につながるのです.
ちなみに軍刀は一発焼入れの量産品ゆえ,美しさの点では劣りますが,実用性は十分ありました.
▼ ちなみに,大阪夏と冬の陣と島原の乱を実体験した宮本武蔵曰く,
「槍は戦場で威力を発揮する武器だが,それ以外(一対一や捕り物)では使いづらい.
薙刀も戦場での武器だが後手に回るため槍に少し劣る.
刀はどこでも相応に使える武器.
小刀は狭い場所や接近戦で頼りになる武器」
軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
▼【反論】
鈴木真哉史観による偏見です.
以下,同時代の証言.
>邸館または田野において戦があると市民はそれを見物している.
>戦争では双方まず矢を放ち,更に近づいて槍を用い,最後に刀剣を交えて戦う.
>パードレ・ガスパル・ビレラ 1557年
また,騎乗による戦闘も頻繁に行われていました.
たとえば信長公記にも,馬上の戦闘がかなり記録されています.
当然,突撃や日本刀による白兵戦も盛んであったと思われます.
「家康,滝川陣取りの前に馬防ぎの為め,柵を付けさせられ」
====
「三番に,西上野の小幡一党,赤武者にて,入れ替へ懸かり来たる.関東衆,
馬上の功老にて,是れ又,馬入るべき行にて,推し太鼓を打ちて,懸かり来たる」
*長篠の合戦
====
西は賀鳥口,佐久間右衛門,柴田修理亮,稲葉伊予守,同右京助,蜂屋兵庫頭.松の木の渡り,一揆相支へ候を,どつと川を乗り渡し,馬上より数多切り捨て候なり.
(『信長公記』伊勢長嶋一揆成敗の記述)
====
『信長公記』荒木摂津守逆心を企て並びに伴天連の事
武藤宗右衛門,手の者ども懸け入り,馬上にて組み討ちして,頸四つ
討ち取り,あまへ持参いたし候て,御目に懸くる.
9 日本@名無史さん[sage] 投稿日:2009/11/17(火) 20:39:20
『信長公記』信長太良より御帰陣の事
森三左衛門,千石又一に渡し合ひ,馬上にて切り合ひ,
三左衛門臂の口きられ,引退く.
『信長公記』浮野合戦の事
信長の御小姓衆佐脇藤八走り懸かり,林が頸をうたんとするところを
居ながら大刀を抜き持ち,佐脇藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す.
かかり向かって,終に頸を取る.林弥七郎,弓と太刀との働き
比類なき仕立てなり.
====
きりがないので,これくらいに...
>我が国における戦闘の歴史では,既に鎌倉時代には,「刀は使い物にならない」とされています.〜〜
信長公記は同時代の資料ですから,回答の見解は成り立ちませんね.
また,鈴木史観の遠戦志向についてですが,鈴木史観はあくまで軍忠状に記載された負傷原因を元にしているので,死因とは別です.
緒戦の遠戦では面を確実に制圧できず,どうしても白兵戦で決着をつける必要があります.
ですから近接戦闘/白兵戦は必須なわけで,その場合,騎乗の斬撃や日本刀で切り結ぶ局面も多くなるわけですね.
あと,日本の在来馬は決して小さすぎることはありません.
充分斬撃や槍を使うのに耐えました.
日本在来馬と系統が同じモンゴルのポニーです.
http://www.youtube.com/watch?v=KPXG8pt0lr8&feature=fvw
閻魔さくや in FAQ BBS,2010年1月3日(日) 23時22分
青文字:加筆改修部分
▲
▼>日本刀は,儀式・宗教・象徴の意味合いで持っているのであり,
>武器としての認識はほとんどなかった
戦国時代には戦闘用の野太刀という,刃が大きい刀がありました.
それに武士や足軽でも太刀を所持していました.
(大名とかによっては,足軽は棍棒だけを所持)
戦国時代の戦闘の流れは,
(1)鉄砲や弓矢の撃ち合い
(2)槍合戦
(3)騎馬武者や徒歩武者,足軽の突撃
であり,(3)の段階になって刀を使う武士もいるでしょう.
槍が無い,もしくは槍を失った武士もいるだろうし.
90式改 in FAQ BBS,2010/1/30(土) 23:35
青文字:加筆改修部分
【再反論】
>馬上戦のケース
当時の日本の鎧は,矢に対する防御力が高かったし,遠距離戦だけで決着がつかないこともあるという点は同意です.
騎乗した兵同士の近接戦闘はあったと思います.
ですが,騎乗した兵同士の戦いでも,槍を装備していた方が有利でしょう.
単純に考えてください.
刀だとリーチが短くて,真正面にいる敵兵に切りつけることすら容易ではありません.
自分の右側オンリーしか攻撃できないのでは,不便すぎます.
槍でも馬の頭部が邪魔にはなりますが,刀よりは攻撃範囲が広がるでしょう.
歩兵同士の近接戦闘であっても,リーチの長い武器の方が有利という点はかわりありません.
日本刀が使いにくい兵器であったという点は事実なのでは?
季節労働者@mixi in FAQ BBS,2010/1/30(土)
11:30
青文字:加筆改修部分
▲
▼>季節労働者@mixiさま
基本的に賛成ですが ただ 騎乗での槍の運用は熟練が必要で 戦国時代が終焉するとかなり早い時期にその技術が衰えてしまった.
当時の逸話に,戦国生き残りの老人に若い武士たちが,戦国時代の騎乗の槍使いを見せてくれるように頼み,その巧みさに感嘆したというものがあります
私が読んだのは日本武術神妙記でしたが,つまりその時期にはもう廃れてしまっていたわけで,また雑兵物語でも自分の鎌槍でウマの片目を潰してしまった例があげられています.
以上のことなどから,騎乗の槍は有利で効果的ですが,容易なことではなく,太刀を振るうほうが多かったと思います.
また,モンゴルなどの騎兵にしても,騎乗戦において騎兵や歩兵相手に,湾曲した剣で戦うことが多かったようですね.
いかがでしょうか?
閻魔さくや in FAQ BBS,2010/2/16(火) 11:9
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 【反論】
馬上槍は訓練が必要で,下手をすると自分の馬を怪我をさせてしまうわけですね.
その点については同意です.
欧州のランスチャージも相当に熟練が必要で,かつ歩兵の槍衾より長い槍を持たざるを得なかった.
そのため,乱戦用に短槍や長刀も用意していたようです.
ただ,長槍を自在に使える練達の騎兵を相手にした場合,刀で勝つことはやはり難しいでしょう.
戦闘機同士の戦闘で,新兵がバタバタ落ちて,熟練者だけが生き残り続けるという話があります.
それと同様,馬上で刀しか使えない新兵はバタバタと倒れ,馬上槍を自在に使える精鋭だけが生き残り,結果として
「刀は役に立たない」
という結論になったのではないでしょうか.
季節労働者@mixi in FAQ BBS,2010/3/1(月)
22:2
青文字:加筆改修部分
▲
▼ 【関連リンク】
現代アフリカの部族間抗争ではみんな洋服を着て弓矢やナイフで戦う
- GIGAZINE
>「意外なことに接近戦はほとんど行われないそうですが」
と,やはり遠争志向.
仮 in FAQ BBS,2010/3/3(水) 1:29
青文字:加筆改修部分
▲
日本刀
【質問】
戦国時代,刀はメイン・ウェポンではなかったにも関わらず,実際の戦場では相変わらず多くの兵が刀を携帯していたのは,「倒した武士の首を切断するために必要だった」から?
【回答】
首を取るのは馬手差しなどの短刀であって いわゆる日本刀=打ち刀$太刀ではありません.
屏風画などで描かれているのはそういった短刀です.
いちおう2chですが...
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1169129287/
http://hobby11.2ch.net/test/read.cgi/sengoku/1169131109/
日本刀に関して
http://serious-rabbit.sakura.ne.jp/html/nihontou.html
戦国期に関しても,遠戦志向だとは思いましたが,〔略〕遠戦志向にしても戦いの帰趨を決したかどうか...
雑兵物語でも繰り返し矢玉を惜しめ無駄打ちするなととかれてるくらいですので,実際コスト面からかなり制限あったかも.
基本的には同じ文化圏に属する人間同士の戦争ですから,最終決戦まで持ち込む事は希という話も聞きますし,どのラインで戦闘が終結するかの問題でもあるのかしら.
ただ,大鎧の時代から対弓矢性能を考えていることを見れば,それなりのウェイトはあったと見るべきなんでしょうか.
やはり,史料の少ない時代の手順を探るのは難しい.
▼ それに,初めからサブウエポンではなく,用途に応じてサブに回る方が多いというだけの話.
たとえば,現代の戦場で小銃弾による死傷は数%だからといって,アサルトライフルがサブウェポンだというとおかしくなる.
それと同じ話.
日本刀の出発点は騎馬武者の近接戦闘用武器であるし,打刀は刺突攻撃を可能とした万能刀.
初めからサブウェポンだったという件の説は,相当に無理がある.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
戦国時代の合戦中,人を斬って使い物にならなくなった刀は,捨てるのでしょうか?
そして,死体から刀を奪って戦い続けるのでしょうか?
【回答】
刀の出番自体,あまりなかった.
残された屏風絵などをみると,鎌倉や室町の頃は二本以上の刀を携帯している武士の姿が描かれている.
槍の出現には諸説あるが,九州の菊池氏による菊池槍が原型ともいわれている.
武器としての殺傷力が高いので,戦国時代は主武器になった.
刀はあくまでも補助的な武器であり,槍がダメになったら刀,刀がダメになったら脇差しと,基本的には武器は消耗品だった.
大将や位の高い者は,象徴的な意味で銘刀を持っていたが,ほとんどの兵にとってはあくまでも消耗品.
甲冑組み討ちの武芸が発達したのも,相手を組み伏せたり,武器がなくなった時の最終手段.
吉川英治の宮本武蔵の中で,戦場の鎧とかをはぐシーンがあるでしょ.
合戦が終わった後で,近隣の農民などが残った具足や武器など,使えそうな物ははぎ取って転売したし,折れた刀や槍,鏃などは村の小鍛治が打ち直して再利用した.
【質問】
さっき「子連れ狼」見てて思ったんですが,槍と刀ではどっちが強いんですか?
テレビでは槍の方が強かったけど,最後には木の部分が切られてしまい,あとは刀に持ち替えてましたが.
【回答】
槍は強い.圧倒的に.
1mの長さは10年の修行に匹敵するとする説さえある.
剣道3倍段と同じような言葉で,薙刀九倍段なんて言葉さえある.
剣術家が同程度の腕前の槍術家に挑むのは無謀.
詳しくはスポーツチャンバラや一刀両断(まだやってるのか?)を取材されたし.
また剣道と薙刀の異種試合の勝率も,薙刀が有利であることをお忘れなく.
槍侍
(うそ)
(引用元:「朝目新聞」)
【質問】
何かの本で,
「槍は斬るもの,刀は突くもの」
という解説を読んだのですが,本当なのですか?
(日本の話です)
なんか逆に思えるのですが・・・.
【回答】
自分も詳しいわけではないが,それは戦場での話だろうな.
刀で人を切り大きな怪我をさせるのは実はめちゃくちゃ難しいらしい.
有名な忠臣蔵の松の廊下「突かずに」「切りかかった」ことを,武芸に不得手と揶揄されたなんて話もあるらしい.
鎧を着ていればなおさらに.切りつけにくいから,
飛びついて鎧の隙をつくように突き刺すのが効果的.
逆に戦場で用いられる足軽の槍は,槍衾を作るためのものでめちゃくちゃ長い.時には十メートル近かったとか・・・.
そんな長いもので相手を突いても,そうそう当たるもんじゃない.
これで戦う時には,垂直に立てた状態から,皆でいっせいに渾身の力で振り下ろす!!
で相手を叩き潰すように使うそうな・・・.
「槍は切るもの」は一部の流派で言われてる.
突いた後,しゃくりあげるようにして切ったりする.
そういう使い方もあり,有効だ,ってこと.
刀も,初太刀は突けと教える流派も多いよう.
太刀と刀は刃を向ける方向が逆.
銘は普通,腰に差したときに外側になる方(表側)に切るので,太刀と刀は銘も逆になる.
軍事板
なお,
「槍は斬るもの,刀は突くもの」
というのは確か佐分利流槍術の教え.
これは,「槍は突くもの,刀は切るもの,という先入観を捨て,自由自在に使え」
という意味だったやうな.
> これで戦う時には,垂直に立てた状態から,皆でいっせいに渾身の力で振り下ろす!!
> で相手を叩き潰すように使うそうな・・・.
デーブ・グロスマンの『戦争における「人殺し」の心理学』(ちくま学芸文庫,2004.5)には,こう記されています.
[quote]
『 距離関係に付随するもうひとつの要因は,刃物を突き出すのはむずかしいということだ.
払ったり振りおろしたりするほうがはるかに簡単なのである.
突き出すのは相手を刺し貫くためであるが,振りまわすのは敵の急所を刺し貫くのを回避する,あるいはそのような意図を否認することなのだ.
(中略)
ローマ人は,兵士が刺突攻撃を嫌うという深刻な問題に頭を悩ませていたようだ.
古代ローマの戦術家で歴史家のウェゲティウスが,
「切るなかれ,突くべし」
と題する章で,この点を長々と力説している.
同様に,切るなかれ,突くべしと兵士たちは教わっていた.
ローマ人は剣の刃で戦うものを笑い者にしていただけでなく,つねにやすやすと負かしてきたからである.
どんなに力を込めたとしても,刃を振り下ろしたのではなかなか殺すことはできない.
人体の重要な器官は骨や武具で守られているからである.
ところが突きを入れたときは,たった2インチしか刺さらなくても致命傷を与えられるのがふつうなのだ』
(p212〜213)
[/quote]
ここで挙げられているローマ兵の「払い・切り」と「突き」は,ローマ剣(いわゆるグラディウス)のことでは?
剣の用法であれば,該当文中に
>鎧を着ていればなおさらに.切りつけにくいから,飛びついて鎧の隙をつくように突き刺すのが効果的.
とありますから,なんら矛盾することはないと思います.
槍を突くのではなく,叩き潰すように使うということに矛盾を感じていらっしゃるのかなと思いますが,例えば4mの垂直に立てた物干竿が,人に向かって倒れ込んできてぶつかったら,特にその先端付近がぶつかったらどういうことになるかを想像していただければ,その打撃力はある程度想像いただけると思います.
ここでは例に物干竿をあげましたが,槍は金属の塊である穂先が先端についている上に,槍の柄は昨今の金属パイプ製物干竿より遥かに重いので,「振り下ろす」というのもあんまり現実的じゃありません.
というか振り下ろそうとしなくても,垂直に保持して,前に(敵に)向かって倒せば,自重で物凄い勢いで勝手に倒れこみますので….
倒れこんで敵に穂先が当たった際,穂先で切れたり,切れなくても打撃でダメージがいくわけです.
なお,ローマ軍団兵は通常,投槍以外に槍を持たず,クロスレンジで盾による打撃と比較的軽く短いローマ剣を用いて戦いました.
一方,方陣を組むような長槍はミドルレンジの武器で,こういう戦術を取っている軍隊では概ねクロスレンジ武器である剣は護身用のようなものですから,剣を使用した訓練も組織だった戦術もあまり行われていないでしょう.
ご引用の書籍は読んでいないのですが,ご紹介いただいた文章を拝見するに,ローマ軍団兵は相手のミドルレンジ武器を無効にするような位置で戦う戦術を取っていたので,クロスレンジ戦闘での戦術と武器の錬度で上回ったという意味合いの文章かと思います.
私もたいして詳しくありませんので,もっと詳しい方がいらしたら,ぜひともツッコミをお願いしたくあります.
▼ 槍で刺すのではなく振り回すのはグロスマンがいうように生得的な傾向で,足軽に限ったことではないようです.
鈴木眞哉『戦国時代の大誤解』(PHP,2007.3),
第五章 不思議な合戦シーン
3 槍は振りまわすもの,刀は片手で扱うもの
より引用.
『 戦国時代には,足軽などは長柄槍という大量生産の長めの槍をもち,士分の者たちは,各自が持槍といって短めの槍を用意した.この長柄槍は,戦闘になると,いわゆる「槍ぶすま」をつくって敵の突入を阻止したり,振りまわして敵を打ち倒すために用いられた.槍本来の機能であるはずの刺突などということは,あまり顧慮されることがなかった.
士分の連中にしても同じようなもので,いざとなれば突き合いというより,叩き合いになることが多かった.大坂夏の陣のとき,加賀前田家の者たちが城兵と槍を合わせたが,最初の一槍,二槍は,双方たしかに突き合ったものの,あとはひたすら打ち合い,叩き合うばかりだったという話が残っている.
江戸初期の風伝流の槍術者として知られた国枝重隆の父親も,大坂の陣を体験した人だったが,戦場での槍はただ打ち伏せるだけで勝負が決まるものだと息子に教えたという.だから槍は頑丈につくっておくべきだというのが,その人の主張であるが,これは別に大坂の陣に限った話ではなかったことは,もちろんであろう.
そういう記憶が鮮明に残っていたあいだは,槍術者もそのような教え方をしていたらしい.加賀藩の関谷新兵衛という槍術師範は,大坂夏の陣のころ生まれた人だが弟子たちが相当の腕前になるまで絶対に突き技を教えず,槍を振り上げて敵と敵の槍を叩くことだけを稽古させた.関谷に言わせれば,突き技などというのは,敵を叩き伏せるか,敵の槍を打ち折ったり打ち落としたりしてから,初めて用いるものだというのだ.
太平が続くうちに,こうした戦場の実態はしだいに忘れられ,槍は突くものという考え方が当たり前のようになっていった.疑問を持つ人もいたかもしれないが,なにしろ実戦の機会がないのだから確かめようがない.
そのうち幕末の動乱が始まって,戦場に槍を担ぎ出すような場面がまた現れた.そのころ水戸の尊皇攘夷派に加わって何十回か戦闘を体験した人の遺談によると,もっぱら叩きたてていたようで,槍で敵を突き伏せた話なんて聞いたこともないとある.突く稽古などしていたのは,太平時のことだったともあるから,いざとなると,教えられなくても戦国時代の常識がよみがえってきたらしい.(P182〜183)
▲
【質問】
最近読んだ小説で,竹刀で剣道を練習してきた女子高校生が,異世界に転移して,その世界で最強クラスの評価を受けるというのを読みました.
それを読んで,昔,戦国時代を舞台にした架空戦記小説の訓練のシーンを知人が,真剣で行っているように書いていて,私が
「けが人が続出して訓練にならないのでは?」
と指摘したら,
「真剣で訓練するから,実戦で間合い等が分かるんだよ,竹刀じゃだめだよ,
射撃訓練でも実弾射撃でないと役に立たないよ」
と言っていたのを思い出しました.
本当のところ,戦国時代の対人戦闘を想定した訓練と言うか試合では,真剣で行うように描写するのが正しいのでしょうか?
確かに竹刀剣法は,実戦だと役に立たないとも聞くのですが.
【回答】
武道板が妥当だけど,少しだけ.
現在のスポーツ化した剣道と,戦国時代の甲冑を着用した状態を前提とした介者剣術と,江戸時代以降の甲冑を着用しない状態に適した素肌剣術は,それぞれ全然違うものであり,スポーツ剣道で幾ら鍛えても,真剣を使う想定の技術ではないので,あまり意味がありません.
まあ,全く剣を持った事が無い素人よりはマシだろうけど.
実用性を求めるなら槍術を習っている方が強いし,長物の槍の方が素人相手でも,1ヶ月程度の訓練でモノにはなるね.
「やる夫」スレッドの話で悪いが,本当に中世の戦闘を考慮しているなら,まだ通称”ヘヴィファイト”と呼ばれる,重/軽量甲冑を着込んでボコスカやるスポーツの方が,実戦経験は積めそうだけれどな.
真剣でなくても,これくらいの模擬戦闘なら緊迫感もあるだろう.
フル/ハーフプレートアーマーとかサーコートメイル,チェインメイルなどなどだ.
こういった規模のスポーツやっていて,異世界に行ってどうこうてのなら,信憑性は多少は出てくるが,そうでないのなら,その小説の作者の中で考えられている「武術に関する知識」というのは,まあ,残念な代物なんだろう.
やる夫は甲冑を着て戦う競技を始めるようです
ヘヴィファイト参考URL
http://www.youtube.com/watch?v=zJA1-RpHWkE
http://www.youtube.com/watch?v=1zGjex6qDtM
http://www.youtube.com/watch?v=CLreqv5DeGA
http://www.youtube.com/watch?v=rvGGw15nx7k
なお,ヘヴィファイトはちゃんとしたスポーツなので,正面からしか攻撃しては駄目って事になってる.
攻撃側も防御側も,実際に中/近世で使われていた鎧よりも,強度のしっかりした鎧で人体の急所を防護しているうえ,武器も柔らかい籐製の物という,怪我しにくい工夫がなされている.
それと,真剣で訓練するのは常に行う訳じゃない.
そういうのも必要ってだけで,基本的には木刀を使う.
(そもそも木刀だって怪我はするし,一歩間違うと死人も出る)
また,射撃訓練で実弾を使わないのは,ちゃんと意味はある.
射撃姿勢や,射撃時の動作などを反復し体に覚えさせるのに,実弾撃つ所までやる必要は無い.
実弾は「的に当てる感覚」を鍛えるのに必要だが,銃の保持や肩付け,脇を締めるなどとは別個.
銃の反動や,発砲にビクつかないように慣れるための訓練も,空砲でもいい.
そもそも訓練って色んな基礎段階を習得して,「いざ,実物を」ってやるもんであって,実物使ってれば効率的とか言う話ではない.
真剣振り回そうと実弾撃とうと,「型」や「姿勢」を忘れてると当たらない.
それを忘れないように毎日反復させるために,射撃予習や木刀がある.
自動車だって教習所内のコースでなく,公道に出て走らせたらすぐ上手くなるかって言うと違うしな.
運転の仕方が身についてないのに公道に出ても,「あれ? 次何するんだっけ」とパニクるだけだし.
軍事板,2011/11/20(日)〜11/21(月)
青文字:加筆改修部分
▼ 【反論】
例によって戦国時代の戦いでは槍のほうが...というニュアンスですが^^
それに関しては日本史板などで,きっぱりと否定されています.
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/history/1340599136/
日本刀も立派な主戦用の武器です.
サブウェポンですらないです.
それと,剣術の稽古に関しては,日本刀の刃を鈍らせた刃引きの太刀があり,それを用いて実践用に稽古していたと思われます.
ここらへんは武道板の古武術スレで質問したほうがいいかも.
真剣においては 刃筋を立てる つまり人体に正しい角度で刃を当てることが重要で 偶然でも刃筋が立っていれば素人でも腕や手首を切断できます.
着衣を無視してです.
相手が綿入れなど,分厚い防寒着を着てても切れます.
(試斬用巻き藁にも,厚く綿布などをくくりつけたりもします)
ですから古流では,刃筋を立てて攻撃する型の習得が,熱心に稽古されます.
たとえ竹刀剣道でも その型の習得に励むのなら,実践用の剣術に熟達するのも,それほど時間はかからないと思います.
太平洋戦争中にも,竹刀剣道の有段者でも,そういった古流を心得ている人たちは,軍刀をふるって活躍されたそうですので.
閻魔さくや in FAQ BBS,2012/7/27(金) 14:8
一考察として.
戦国時代に限らず,自動車の普及以前は,軍隊はその荷物を良くて馬車,悪ければ人力で運んでいました.
であれば,少しでも荷物を軽くしたいと思うのが人情でしょう.
役に立たない装備であれば,すぐに廃れたでしょうし,使用頻度の低い装備は装備率も下がるでしょう.
実戦で役立つかどうかは,装備率から判断できると思います.
そういう視点で戦国時代の絵画などを見ると,ほとんどの兵士が腰から日本刀をぶら下げています.
槍や弓矢を構えている兵も,とりあえずは刀も装備しています.
そういった意味で,刀も,全兵士が装備したいと思うほどには,役に立ったのでしょう.
日雇い労働者 in FAQ BBS,2012/8/6(月) 23:40
刀の用途ですが.
槍よりも刀が有用になってくるのは,森林や塹壕,胸壁,定置型の盾などの障害物のある場所での接近戦です.
古代欧州でも,アケメネス朝ペルシャ,ギリシャ,マケドニアと槍が長くなった後,一転して,共和制ローマ後期あたりからは剣も装備するようになりました.
共和政ローマの軍が,剣を装備するようになった理由としては,山岳地や森林で,槍衾を組めない場所でのゲリラ対策ということです.
欧州よりも山林の多い日本でも,同様の傾向があったのではないかと思います.
日雇い労働者 in FAQ BBS,2012/8/6(月) 23:47
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▼>戦国時代に限らず,自動車の普及以前は,軍隊はその荷物を良くて馬車,悪ければ人力で運んでいました.
戦国時代には馬車が無く,馬と人力で補給物資を運んでいました.
また,小荷駄隊という補給部隊を,各地の戦国大名は編成していました.
>山岳地や森林で,槍衾を組めない場所でのゲリラ対策ということです.
戦国時代,槍合戦は足軽が横一列に広がり,足軽大将とかの掛け声で,一斉に穂先を打ち下ろしていました.
そのため,あるていど開けた場所が必要でした.
しかも長柄槍は長く,織田信長の採用した3間半(約6.4メートル)が一番長く,逆に短いのが後北条氏が2間半(約6メートル)で大抵の大名が中間の3間の槍を使っていました.
鉄砲(戦国初期は弓矢)での攻撃→槍合戦→白兵戦
というのが,戦国時代の合戦でしたが,薩摩の島津のように
囮で敵をおびき寄せる→伏兵の鉄砲での攻撃→白兵戦
のような例外もあります.
白兵戦では当然,刀や短い槍が多く使われます.
刀による白兵戦を重視した所もあり,また,槍は替えを持たないため,折れた場合,刀に頼らざるを得ない.
90式改 in FAQ BBS,2012/9/9(日) 22:33
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【質問】
戦国時代の馬って小さかったの?
【回答】
「戦国時代の馬はポニーと同等以下の大きさ」というのは,それを言った歴史研究家が日本の在来種である木曽馬が「ポニー」に分類される大きさというだけで小さいと早とちりして広めた話.
実際には木曽馬はポニーに相当すると大型の部類ということになるサイズだし,一般にポニーとしてイメージが定着している種類は,ポニーの中でもかなり小型の部類の特定の一種の事.
でもって,発掘された戦国時代の馬の骨の復元からすると,当時の馬は木曽馬よりも大型だという(つまり,違う種類というわけで…)
▼ 『歴史群像アーカイブ 戦国合戦入門』って本がちょうど今,発売中だけど,その中に書いてあったのは
・江戸末期の書物によると,当時の分類では肩甲骨までの高さが4尺(121cm)が基本(小馬と呼ぶ)で,4尺5寸を中馬,5尺を大馬と呼ぶ
・軍記ものに出てくる鎌倉-戦国期の名馬といわれるものは,概ね140cm以上
・鎌倉材木座で出土した馬の骨の平均は129,5cmで上記の名馬よりかなり小さい(蒙古馬は140cmくらい)
・西洋の分類でいえば,148cm以下をポニーと呼ぶので,当時の日本の馬はそれよりも小さい
・中世ヨーロッパで騎兵用だったノリーカー種の平均は147cm
・当時の日本人の平均身長は150cm(現代は約170cm)で,馬と人の対比でいくと,西洋人とサラブレッド(160-165cm)と同じ割合い
などなど.
その他いろいろな点から,戦国時代は騎馬隊は存在せず下馬戦闘が主だったという説に対する反論のような内容だった.
つーか,
・車輪が存在し,牛車や荷車(大八車とか)という使用例もある
・馬を用いた輸送業(馬借)も存在しているし,農耕馬も存在しているので,馬が牛よりはるかに高価ってわけではなさそう
なのに,
「この2つを何で組み合わせなかったのか?」
ってことを議論することが大事なんじゃねーの?
日本史板,2009/01/10(土)
青文字:加筆改修部分
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▼ 中世・近世で輜重輸送に車が使われなかったのは日本の高低差が激しい,地勢に由来すると思われます.
リヤカーに荷を載せて坂道を昇り降りすれば判りますが,物凄く辛く,危険です.
明治期に鉄道が敷かれる際に,街道沿いでは傾斜があるので,迂回したのも同根と言えるでしょう.
(鉄道の迂回については 青木栄一『鉄道忌避伝説の謎』を参照)
HI in FAQ BBS,2010/3/1(月) 13:14
青文字:加筆改修部分
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【質問】
日本における馬の系譜は?
【回答】
馬の資料というのは競走馬のものはいくらでもあるのですが,農耕馬や近世以前の馬の資料と言うのは殆どありません.
兎に角,今回は書き散らしてみた状態ですので,ご寛恕の程を.
日本の馬と言うのは,2006年現在で8.6万頭だそうです.
その内,半分以上の4.7万頭が競走馬として有名なサラブレッドであり,乗用馬と呼ばれる種類の馬は訳1.5万頭,輓系馬と呼ばれる農用馬は減少の一途を辿り,1.0万頭程度だそうです.
輓系馬の殆ども,国産の馬では無く,外国産馬の交雑によって生まれた半血馬であり,しかも役畜としての利用は少なく,輓曳競馬と肉用馬としての用途が殆どだったりします.
その他に食用に用いられる肥育馬が1.0万頭,統計上は0.14万頭に過ぎませんが,ポニーやミニチュア・ホースの様な小型馬はもう少しいるのではないかと推定されています.
いずれにしても,僅か2年前の2004年の統計で10万頭居たのに,結構な落ち込み様です.
日本に馬が持ち込まれたのは,古墳時代に馬の埴輪が多く出土している事から,5世紀頃に導入されたと考えられており,百済など朝鮮半島経由が主な輸入ルートだったと推定されています.
現在の家畜馬の祖先は,タルバンと呼ばれる野生馬で,1879年に自然界にいたものは絶滅し,動物園にて飼われていたものも1887年に死亡し,種としては途絶えました.
因みに,タルバンは,1930年代にポーランドとドイツの動物園で復元が試みられ,ポーランドでは森林タルバンに似たコニック種を基に復元が行われ,ドイツではベルリン動物園とミュンヘンのヘラブルン動物園の園長を務めていたヘック兄弟が改良が進んでいない品種を交配して,復元タルバンを作っています.
この辺DNA的にどうなのかは,資料がないので何とも言えないのですが,まぁ,それに原種に近い生き物と言えそうです.
ついでながら,ヘック兄弟,他にも牛の原種とされているオーロックの復元にも力を入れていて,ミュンヘンには復元オーロックの子孫も飼われています.
1930年代と言えば,ヒトラー政権の時代ですが,この辺りの作業はナチス的にはどうだったのでしょうか.
タルバンから別れ,西に流れたものは人間が食い尽くして絶滅に追いやったのですが,東に流れていった系統がモンゴルに辛うじて棲息している蒙古野馬(モウコノウマ)です.
元々はキルギスタンから東にも広く棲息していたのですが,これも1967年にゴビ砂漠にて目撃されたのを最後に自然界から姿を消します.
こちらは,未だ動物園に数頭の棲息頭数がおり,そこから繁殖させたものを1992年にホスタイ国立公園に運んで,自然に近い状態で暮らさせ,2008年には229頭まで回復して,ほぼ野生復帰が成功しつつあるそうです.
話を戻して,近代までに日本に入ってきた馬は,タルバンから分れ,蒙古を経て朝鮮に渡り,島伝いに北九州に渡り日本各地に広がっていったのが主な系統ですが,蒙古野馬を東北地方に直接輸入した系統,更に,タルバンをどんどん小型化して,動く脚立として中国で用いられた果下馬の系統を南の島伝いに導入した系統の3つに大きく分けられます.
遺伝学的に見れば,これらの祖先全ては,北ルートに行き着くそうで,南から来た馬でも一度北方を迂回していると言う事が言えます.
元々,日本の在来種の馬は,それぞれの地域で飼育されていて独自の系統を持っていました.
その数は大体50ほどあり,特に小島には,各大名家が藩牧を構え,馬を放牧する形で,軍用に育てていたりします.
それが急速に数を減らしたのは実は明治維新の頃であり,軍の近代化に寄与する為,特に輜重用の馬車馬とか,砲兵用の輓馬を多数必要とした為,力が強く大きな馬を多数取り揃える必要があり,在来種を海外から輸入した馬と掛け合わせて積極的に半血種を作りだしていき,雑種化を行っていきます.
また,性質を大人しくさせる為,雄については去勢を行っていった結果,純血種は淘汰されていき,結果的には大日本帝国は150万頭を保有する馬産大国となったのですが,在来種の馬は特殊な環境下でないと生き延びられない結果になってしまい,現在では全国で8カ所ほどしか残っていません.
大きさについては,南の果下馬から入ってきた系統は概ね小型で,体高は約1.1〜1.2mであり,乗用よりも輓馬などに利用されています.
宮古馬やトカラ馬,与那国馬がこの系統です.
一方,朝鮮馬から来た系統は中型馬で,体高が1.2mより大きく〜1.3mを越えるものがあります.
大体,このクラスの馬が,戦国期には乗馬として利用されたようです.
それが主に御崎馬や対州馬,野間馬に木曽馬の系統になります.
とは言え,今治の野間馬はその中でも小さいのですが,これは藩牧が農民に馬を貸し付けて養わせ,体格の良い馬は買い上げ,小さい馬は農民にそのまま払い下げたものが元になっています.
良く馬の話で出て来るのが南部馬ですが,この系統の馬は実は南部地方では既に絶滅しています.
体高は大体中型馬よりも大きな1.32〜1.4mです.
義経が騎乗した太夫黒もその内の1頭で,三戸産の駒である青毛馬は,体高実に139cmと群を抜いた大きさです.
南部馬が何故,こうした並外れた馬体を誇っていたかと言えば,海外からの馬体輸入による品種改良の結果です.
当時は,沿海州との交易で馬体の大きな蒙古野馬を輸入し,既存の南部馬と掛け合わせて馬体改良を行った訳です.
また,江戸期には幕府からアラブ種の馬を下賜されて,更に大型化に相務めます.
明治になると,更に海外種との交配が進み,雄は馬匹去勢により根絶やしとなって,姿を消してしまいました.
因みに,下北半島の田名部にいる田名部馬,通称「寒立馬」も純粋の南部馬の系統ではなく,小型の南部馬を基に西洋のブルトンと言う品種と交配させた結果大型化した半血馬であるので,これも南部馬の血は引くものの,純粋なものではありません.
余談ついでに,何故これが「寒立馬」となったかと言えば,1970年に詠まれた短歌がこの馬を詠んで「寒立馬」と呼ばわったのが人口に膾炙した為だったりします.
純粋南部種の直接後継になるのは,北海道和種,所謂「道産子」です.
既に北海道には鎌倉期に馬が持ち込まれていましたが,道産子は江戸期に松前家が鰊の運搬の為に渡島半島に導入した南部馬が祖先になっています.
この南部馬は,夏期の漁が終わると,解き放して人々だけは本州に引揚げ,馬は取り残され,繁殖し,越冬をします.
そして,春が再びやってくると,また捕らえて使役する訳です.
これを繰り返しているうちに,耐寒性が増し,持久力の強い道産子が成立しました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/23 23:39
【質問】
日本における馬のサイズは?
【回答】
古墳時代から江戸時代に至るまで,馬の体高と言うのは概ね120〜140cmの間で動いてきました.
ところが,古墳時代は小さくて,江戸に至るまでに大型化したと言うのではなく,時代時代によってばらつきがあったりします.
雄略天皇の時代には,既に甲府が馬産地として有名になっており,黒駒とか赤駒と言うような名称が出て来ています.
そして,この頃の馬は立派な体格をしていたことが出土した馬の骨格から推定出来ます.
大体,この頃で体高が120〜130cmの間の現在で言う中型馬に当ります.
これが中世になると更に大きくなっています.
その体高は,昨日の義経の愛馬でも触れましたが139cmと,ほぼ140cmくらいに達しています.
佐々木高綱の愛馬が145cm,源範頼の愛馬が143cm,和田義盛の愛馬は144cmといずれも140cmオーバー.
つまり,十分乗用に耐えられる位の馬だったりする訳です.
尤も,現在のサラブレッドの体高は150〜160cmになるので,それよりは一回り小さい訳ですが.
この頃の名馬の価値は,見た目の大きさが唯一の指標だったと考えられています.
従って,鎌倉期や室町期の武将の愛馬と言うのは,大体が中型馬の限界に近い140cm強の体高を誇っていました.
後に,戦乱が続くに従って,足の速さや耐久力も重要になっていったようです.
ところが,近世になるとこれがどんと下がると言う形になります.
ただ,中世と近世に言えるのは,下限と上限の幅が非常に大きいと言うことです.
先日も触れたように,中世に南部馬を造出する為に,北の蒙古野馬を導入してみたり,貿易品として中国から馬を輸入したりして,各産地では改良に努めています.
また,享保期には幕府が各地の馬産地に,オランダを通じて海外産馬27頭を買い付けて下総佐倉,下総小金原,安房嶺岡,甲斐甲府,陸奥三戸の牧に下賜し,それを使って各家は,乗馬用の馬の改良に相務めましたし,明和期にも毎年ペルシャ馬1〜2頭を輸入し馬匹改良に努めています.
一方,農民が用いる馬はそうした改良の恩恵を受けなかったことから,結果として,武士階級が乗用に用いる馬は馬体が大きいモノが揃い,農民階級が用いる駄載馬は,馬体の小さなモノが用いられた訳で,それだけのばらつきが生じてきた訳です.
因みに,こうした馬の骨と言うのが一頭丸々出て来ることは非常に稀です.
大抵は10cm程度に切り刻まれた骨になってしまっています.
と言うのも,中世以降,こうした骨は簪,櫛,櫛払い,歯ブラシなどの材料として用いられ,肉は食物となっていましたし,皮も骨も余すところ無く用いられていたからです.
江戸期には最も安いサイコロが馬の骨でした.
戦国期に入ると,馬体の大きさや見た目も重要ですが,耐久力や足の速さよりも,気性の激しさが重要視されたみたいで,安土桃山時代の厩図屏風には,大名屋敷の厩とそこに繋がれている気性の激しい馬の様子が描かれています.
山内一豊の妻が大枚を叩いて購入した馬と言うのは,こうした馬だったのかも知れません.
とすると,乗りこなすのにも一定の技量が求められた訳で,一豊もそうですし,下級武士から出て来た秀吉も,どうやってこうした気性の荒い馬を乗りこなしたのでしょうかね.
こうした騎馬に気性の荒さを求める気風は,家光の頃まで残存し,一旦,吉宗の頃に復活しかけますが,世の中は段々と風俗浮華へと流れていき,乗馬も数だけを求められて質を顧みなかった為,軍用に耐えないものとなってしまいました.
江戸期後半には,献上馬の体高は127〜139cmとなり,中世よりも小型化してしまいました.
また,馬匹の体形についても,その乗馬法が馬体を収縮させて前?の動作に重きを置いた事から,自然,後?は等閑にされて推進力の乏しい体形となっていき,前?本位の馬が普及し,臀部に幅が無く,傾斜甚だしくて後?の弱いものになってしまいました.
つまり,後方に地面を蹴る力がより大きな運歩の推進力と速力をもたらし,後脚の踏ん張る力が輓曳力を生み出すのですが,これらが全く無い馬なので,まるで役に立たないものだった訳です.
となると,昨今,動物虐待かどうかで話題になっている上げ馬神事と言う代物は,急勾配の坂を駆け上がるには,こうした前?本位の馬の方が有利で,今のサラブレッドに代表される後?本位の馬は存外苦手なのかも知れないなぁ,と思ってみたり.
どうしても,後脚に体重を掛けようとするから落ち込んで行くのであって,前脚を踏ん張れる在来馬であればこうした落ち込みは無いのではないかと推定する訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/24 23:18
【珍説】
日本の在来種の馬は,西洋の馬に比べて,著しく劣っていました.
「乗用系の和種はソレに比べて著しく馬格が劣ってるって訳でもな」いのであれば,それをそのまま,日清戦争や日露戦争や日中戦争で使えば良かったのです.
残念ながら,とても太刀打ちできませんでした.
そのため大金をはたいて,西洋の馬を購入して日本で繁殖させたのです.
ちなみにナポレオン3世から,徳川幕府に馬が多数献上されています.
参考図書.
富国強馬―ウマからみた近代日本 (単行本(ソフトカバー))
武市 銀治郎 (著)
【事実】
アングロアラブが騎兵用として普及し始めるのがその頃なんだよ.
競馬用のサラブレッド(フランス人に言わせればアングロ種)に,さらにアラブを掛け合わせて耐久性を増したタイプ.
当然,サラが出来てからの話.
で,江戸時代には日本の馬は「駄馬用」と「平時の乗用」に特化して行ってたの.
日本の地形じゃ挽馬より駄馬が有利だし,荷台が高ければ人が乗るにも荷物を載せるにも不便でしょ.
ナポレオン戦争(何でナポレオン3世が出てくるかな)当時,イギリス人は体高147cm以下の馬は品種に係わらず「ポニー」と呼んでたので,フランス軽騎兵(ハンガリー式だけじゃないよ)の馬はポニーだった訳さ.
カスミンの好きなウィキに,軽騎兵の馬に関する記述を見つけた.
コレで有る程度は信用してもらえるだろう.
[quote]
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB
ユサールは軽騎兵の代表として各国の部隊に残り続けた.
この頃のユサールは,以前のような派手な装飾はせず,むしろ偵察用に地味な服装をしていたという.
また使用する馬も安価で,訓練もさほど必要なく,安上がりな騎兵であった.
[/quote]
【質問】
クロスボウが戦国時代に全く使われなかったのは,ちょっと意外だな.
九州の入寇の記録とか見てると,平安時代には結構使ってたみたいなのに.
火縄銃が模造できて,クロスボウが模造できないってことがあるんだろうか?
【回答】
一言で言うと費用対効果だね.
日本で全く金属部品を調達できないってわけじゃないが,そこまでして作る価値もなかった.
それよりも弓馬の道で弓の鍛錬する方が良かったわけで・・・.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
もともと当時の中国からの輸入品だったしな.
材料の関係で,日本国内では調達や製造が難しかったのと,製造や整備を含めた運用技術を持ってた弩使いの集団が,中央支配体制が崩れて戦国期に入るにつれて,材料が無い=新規製作や修理不能,維持できない
ということで技術ごと廃れていったという説はある
しかしアイヌやマタギの狩猟法に弩・クロスボウのような狩猟具はある.
全く材料をそろえることはできないなんてことはなかったらしい.
つまり「部隊」として運用可能な水準を満たすほどは材料をそろえることが出来なかったってことかも.
火縄銃だって当時の金属加工技術が模倣できうるレベルに到達してなかったり.
もし史実より100年ばかり伝来が早かったりすれば,模造できず完全輸入に頼ってただろうね.
それに,火薬の材料は後期までほぼ輸入に頼ってたし,輸入交易ルートが史実よりもっと狭かったりしたら,普及もできなかっただろうね.
(どうにか硝石を作る方法は考案され実用化はしてたけど)
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本で,石投げが実戦でも使われたというのは本当か?
【回答】
本当.戦闘序盤に敵を混乱させるのが目的です.
後白河院が対木曾義仲戦に駆り出した「市民軍」が投石を行っていたほか,戦国時代では特に有名なのが甲斐の武田家です.
また,印字打ちと呼ばれる石合戦は庶民の間に結構流行って,死人も多数出たので,しばしば禁止令がでたほど.
京都の庶民がしばしば投石を行ったことが,『中右記』や『日本紀略』に見えています.『年中行事絵巻』の例といい,祭の時にはよく出ました.
白河院政期の権大納言藤原経実は武芸を好んだ人で,始終隣近所に投石を行っては喧嘩を売るという,かなり面倒な人物でした.
ただ,弓箭を扱うことに比べると,下賤の業とされた様です.
吉凶を占う年中行事としては古代から昭和までありましたが,怪我人とは縁の切れないものでした.
聖性があると考えられており,「禁止にしたから天災が起きた」といわれた北条泰時が,禁止令を取り消した,というエピソードが残っています.
【質問】
投石は,射程距離は弓に劣るって書いてたが,それで戦場で役に立ったの?
【回答】
スリングは350〜400mほど射程があり,熟練者になると200m先の1m大の目標に当てられるそうだ,
まあこれらはローマでの話なので,そのまま日本に当てはめられるわけではないけど.
日本では投弾帯(まんまスリング)や,瓢石(ふりずんばい,スタッフスリング)といった種類がある.
投弾帯は100m,瓢石は200mほど射程があるといわれて,弓や鉄砲と同等の飛距離はある.
ただ,殺傷能力が弓・鉄砲に比べて低いこと,投げるだけならともかく熟練の技術が要求されること,なによりも格好悪いことが原因で,武士でこれを得物にする物はまずいなかった.
軍事板
【質問】
日本の戦国時代に投石器が活躍しなかったのは何で?
【回答】
大型投石器が日本で活躍しなかった理由は幾つかあり,
・技術不足(西洋のカタパルトみたいな,かなり高度な物を求めなければ
技術自体は既に中国から入ってきているので作成不能というわけではないのだが)
・組み立てと輸送が煩雑,負担になる,現地で材料調達が困難な場合もある
(これも,高度すぎるものを求めなければ作れないというわけではないのだが…)
・そもそも日本式の城郭には投石器タイプの攻城兵器は効果が薄い
日本には,平地に長大な石壁を建てた,欧州のような城塞都市が無かった.
戦国時代期の日本の城は,大砲登場以降の欧州の城塞に近い構造.
地形をそのまま利用し,土塁や郭,また石垣補強部分などが本体で,上部構造物は居住区とか見張り櫓であり,防御に直接関係ない建物である事も多い.
つまり西洋城郭のように,防壁を破壊すれば攻略が容易になるってのとは性質が違う.
・大規模な平城が作られるようになったころには,火薬が伝来してて大砲が攻城兵器の席にすわっていた.
など,幾つかの理由が複合したものとなっている.
まあ,一言で纏めると,大陸式戦争の投石器は日本という島国には不向き.
モッティ ◆uSDglizB3o(黄文字部分)他 in
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
「投石器」は,なんで日本では発達しなかったんですか?
【回答】
平地が少なく山城が多かったから.
カタパルトは平地に築いた石壁を破壊するには適しているが,天然の盛土を利用した土塁には無力なので.
_____
/
/ 土
______/
/
/ 土
/
みたいなのが,日本の戦国期とか,ヴォーバンが出てくるような時代の城砦の防壁.
こういうのにはカタパルトとか大砲とか通用しづらいわけ.
(図がズレてたらすまん.適当に想像してくれ)
________
| |
| 石 |
| |
| |
| |
みたいなのは,カタパルトや砲撃に著しく弱い.
これが複数あっても事情は一緒.
だからこそカタパルト類が威力を発揮でき,発展する意味があった.
壁一枚で街を守ろうという中世西欧・中国などの城砦にくらべて,日本的の戦国後記の城砦は非常に堅固.
蛇足ながら.
家康による天下統一の後,日本の軍事技術は停滞期に入る.
以降は世界的なレベルから,遅れをとる一方だったのは語るまでもなく.
軍事板
青文字:加筆改修部分
カタパルト
【質問】
戦国時代に槍が発達してからは,薙刀を持つ者は居なくなったのですか?
【回答】
槍の利点は安価かつ「叩く」という簡単な動作で扱えること.
上に向けて,合図で倒す.重力とモーメントの助けを借りて敵の頭上から一気に薙ぐのが基本.
戦国時代の合戦は足軽が密集隊形で突撃する形態だったから,槍の方が便利であった.
薙刀は槍というより刀に近い.
振り回すのにそれなりの修練がいるから雑兵に持たすには向かない.
また,「突く」のにあまり向いていないから馬上武器としても向かない.
それと振り回して使う武器は集団戦に向かない.
僧兵なんかは好んで薙刀を使っていたし,自分で武器を調達できる人なら使っていてもなんらおかしくは無いと思うよ.
また,大太刀や野太刀に刀身の長さと同じかそれ以上の長さの柄をつけた
「長巻」という武器があって,これは結構広く使われている.
軍事板
【質問】
弓道をしている者ですが質問があります.
昔の武士はどうやって弓を引いていたのでしょうか?
素手では引けないと思うのですが,現代と同じようにカケを使っていたのでしょうか?
それとも篭手の親指がカケのように,弦がひっかかるように出来ていたのでしょうか?
【回答】
まず日本の武士と西洋の騎士では弓の扱いが全く違います.
日本の武士はそもそもが騎馬武者,つまり弓騎兵であり弓馬の道を修めることが武士の本懐でした.
一方,西洋の騎士は弓を扱えず,もっぱら歩兵に任せていました.
むしろ弓は下賤な身分の者が使うもとされ,士は重装で突撃することを本懐としていたのです.
このあたりは騎馬民族の軽騎兵を重用した,アジアの民と違うところです.
さて質問に戻ります.
弓を修める武士はユカケの機能を持つ手袋(小手)を使っていましたが,騎馬や刀を使った近接戦闘を同時にこなす必要がありますので,親指の弦が当たる部分を若干厚くした程度の物です.
現在の弓道で使用されるようなユカケになったのは江戸時代の話です.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代にも鉄砲は運用されていますが,飛び道具としては弓がメインですよね.
三十三間堂で弓を射る場合,標的は66間=119mですが,戦国時代の弓は100m以上飛ぶしろものですか?
また,有効射程はどのくらいで,鉄砲に比較して有用なものだったんでしょうか?
【回答】
強弓に分類される弓が必要になるが,飛距離としては割と余裕.
ただ,たとえ強弓といえどわずかながら曲射的に射る必要があり,屋根があるため飛ばしすぎや射角をとりすぎるほうが問題だった.
特に後半疲れてくると手元が狂ってくるので,三十三間堂の梁には矢が刺さったあとがいっぱい残ってる.
飛距離については,射流し大会という飛距離そのものを競う大会が全国各所であって,昭和13年に曽我正康という人物が琵琶湖の大会で385mの記録を打ち立てている.
これが記録に残ってる確実な範囲内では最高記録.
また一般的に実力者級の成年男性は200m〜250mほど,女性の場合は150m〜200mほど飛ばすという.
ただしこれらは18gという特製の軽い矢を使ったもので,記録や遺物から推定される,戦国時代に実際に使用された矢の50g〜70gと比べて非常に軽い.
これは軽い矢尻では,甲冑に守られた人体に食い込ませる事が難しいため.
また弓の方も,戦国時代の一般的な実戦用は約20kg〜30kg程度と推測される.
これは現代弓道の男性用14kg〜20kgと比べると重いが,三十三間堂で記録を出すような強弓の30kg〜40kgと比べると遥かに軽い.
これらの条件の元に当時の状況を再現すると,最大射程距離はおよそ100mから150mほど.
狙いを付けて狙撃する場合の有効射程距離は,その1/5から1/4程度と推定される.
ただし戦場に強弓を持ち込む達人も存在しただろうから,その様な場合はこの限りではない.
戦場における鉄砲に対する弓のメリットを,宮本武蔵は五輪書で次の用に述べている.
・速射が可能で別の武器にすぐに持ち替えられる事(近距離戦にも対応)
・撃った矢が目に見える事(着弾観測が容易)
・戦場でのかけひきにつかえる事
以上の理由より,野戦での使用に適した武器だとしている.
攻城戦においてはメリットが少なく,拠点防衛においては鉄砲の方が遥かに勝るとも.
なお,宮本武蔵は戦場における弓の有効射程距離を20間,およそ36mとしている.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の軍船には,どんなものがあったのか?
【回答】
日本水軍の代表的な軍船としては,安宅船,関船,小早船の3種類があります.
安宅船は日本の水軍に於ける主力艦で,小さくとも500石積,普通は1000石積以上の大型船で,一人で漕ぐ小櫓なら50〜160挺(二人がかりで漕ぐ大櫓ならこの6割程度)を装備していました.
その船型は,幅が広く安定性の良い伊勢船または二形船の上部を,高い櫓で囲い,厚い楯板(胴壁作りの総矢倉と言う)で装甲して,その上に2〜3層の櫓を上げています.
この上回りに薄い鉄板を張る事もあり,大安宅船になると,城郭と同様の櫓を舳艫に上げる事も珍しくありません.
因みに韓船の板屋船も,荷物を積載するのであれば,1000石は搭載出来るくらいなので,大きさ的には似たような感じではありますが,櫓の数が全く違うので,一概には言えない訳です.
関船は,細長い船型を有する快速の補助艦で,巡洋艦的なものです.
櫓の数は30〜40挺櫓で,大きさは500石積と安宅船よりも小さいものとなります.
上回りについては,安宅船と大して変わり有りませんが,上構部は軽量化のため楯板の厚さが薄かったり,板の代りに竹で代用したりしています.
更に小早船は斥候用もしくは連絡艇であって,韓船の伺候船と同様のものです.
上回りは関船より更に軽装で,舷側に半垣造りという低い垣立を張り巡らせただけで,戦闘員もそんなに乗っているものではありません.
戦国から文禄・慶長に掛けての水軍は,安宅船を中心に,関船や小早船を配する艦隊を編成して戦闘に臨んだ訳です.
これらの軍用船は,実際には内航用商船とほぼ同じ構造で,内航大型商船である伊勢船,二形船に重装甲,重武装を施せば安宅船となり,弁才船の幅を5割縮め,武装と装甲を付加すると,それは関船となります.
また,文禄・慶長の役で使用されたこれら荷船の大半は,200石積以下の船であり,500石を越えるような船は極めて少数であったと考えられています.
つまり,韓船の猛船と同じ考え方で,韓船は軍民兼用と言う考えを捨て,軍用専用船として板屋船を開発したのに対し,日本はその方向に進まず,更に小型船が多かった事もあり,文禄・慶長の役では大敗を喫してしまう訳です.
これら在来形の軍船,商船は棚板構造の船体に横帆を揚げる漕帆兼用船でしたが,海外貿易用の商船は,所謂ジャンク形航洋船,即ち,肋材で補強した隔壁構造の船体に縦帆を揚げる帆走専用船で,これも韓船と同様に,帆走専用船は軍用船には用いられていません.
大きさは480〜3200石積の船で,国内航路の商船よりは遙かに大きかったりするのですが….
文禄・慶長の役後,板屋船の威力に注目したのか,大船の輸送力に注目した為か,諸大名は一斉に大型軍船である安宅船の建造に邁進します.
これが板屋船を其の儘模したわけでなく,安宅船に行く所が実は不可解だったりするのですが,日本の水軍研究は余りまだ進んでいないみたいなので,この辺りの解明は未だ進むのを待つしか無さそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年12月12日22:03
【質問】
織田信長の鉄甲船ってどういう戦法で戦ったんでしょうか?
機動力の低い数隻の船で大船団を食い止めるのは,至難の業だと思うのですが.
【回答】
鉄甲船が使われたのは第二次木津川河口戦のことだが,このときの織田側の作戦目的は
「本願寺への補給船団の阻止」
であって,
「敵船団の撃滅」
ではない.
そして鉄甲船は,河口近くという狭い水域に集中し,とにかく大砲と鉄砲を多数装備して,なおかつ毛利水軍の指揮船を撃沈することで混乱させ,退却させている.
また6隻の鉄甲船に加え,多数の小舟を展開することで動きを封じているので,いくら大船団といえども容易には近付けなかったのですよ.
日本史板
青文字:加筆改修部分
◆◆火縄銃
【質問】
一般に伝えられる,日本への鉄砲技術導入の経緯は?
【回答】
1543年8月25日,寧波に向かう中国船が嵐に遭って種子島南方の西村の小浦,門倉岬に漂着しました.
村の宰領である西村織部丞は,杖で砂の上に文字を書き,「何処から来たのか」「何の為に来たのか」と問うたところ,中国人の五峯は,貿易目的で寧波に行こうとしていたことを答えました.
その船には,これまでとは見たことのない容姿の連中が乗っていたので,織部丞は,彼らについて問うたところ,五峯は同乗の外国人はポルトガル人であることを答えました.
彼らに害意がないことが分かり,又,貿易を希望していたので,27日,彼らは織部丞の指示により,船を北に向け,宗主の居る赤尾木港に入れ,宗主種子島時尭に謁見させました.
その時,ポルトガル人3名は,それぞれ3尺程度の銃を持っていて,これを試射して人々を驚かせました.
当時16歳の時尭は金3.3kgを出して2丁の銃を購い,小姓の篠川小四郎に火薬の製法と調合法,それに射撃術も学ばせました.
因みに,当初ポルトガル人は,「譲るまでもなくお礼」にと好意的な返事でしたが,2,000匹の永楽通宝と引き替えにしたところ,喜んでもう1丁を譲りました.
この3丁,1丁は島津家を通じて足利将軍家に献上し,1丁は島津家が保管していましたが,将軍家の鉄炮は早くに行方不明に,島津家の鉄炮は西南戦争で行方不明となり,現在種子島の博物館に存在するのは,時尭とは別に織部丞が譲り受けた1丁だとの事です.
この時,時尭はこの新兵器を模作すべく色々工夫をしていますが,満足なものが出来ませんでした.
1544年には今度はポルトガル船が種子島の熊野一の浦(赤尾木より9里南東)にやって来ました.
その時,ポルトガル船は鉄匠を1人連れてきており,鉄匠の指導の下,刀鍛冶に銃を製造させました.
その中で最も熱心だったのが惣鍛冶組合長の八板金兵衛でした.
当時,種子島には砂鉄が多く,精錬術も進んでいたと言います.
第2次大戦後,金属会社が砂鉄を買い占め,その資源は枯渇してしまいましたが,戦前には西之表市には鍛冶町があり,40軒の鍛冶屋があるほどでした.
そして,金兵衛は鉄炮を造るべく奮闘しましたが,どうしても銃身の底を塞ぐ方法が判らず,ポルトガル人に教えを請うても教えてくれなかった為,娘の若狭が身を犠牲にしてポルトガル人からその方法を聞き出したと言う伝説があったりしますが,本職が鉄匠であって,鉄炮技術者ではなかったので,本当に知らなかったみたいです.
その為,当面は「張り塞ぎ」と言って,銃底を貼り付ける方法を採っていました.
この「張り塞ぎ」が無くなったのは,1545年8月に入ってきたポルトガル船に乗船していた技術者から,銃底の塞ぎ方を習ってからで,その方法は,螺旋状の鉄線でネジを切るというやり方でした.
さて,こうした新兵器が足利将軍家に献上されると,それを手に入れようと人々が種子島にやって来ます.
紀州根来の杉坊明算もその1人で,鉄炮を求めて種子島に渡りました.
時尭は,後日,明算の兄で,河内交野郡の津田城主,津田周防守正信の長男で,紀州小倉荘を領有していた津田堅物を遣わし,杉坊に鉄炮を贈らせました.
また,金兵衛の元には堺商人の橘屋又三郎が現われ,彼によって鉄炮は堺へ,そして近畿一円に伝えられることになります.
更に,1545年に遣明船の1隻が暴風に遭って伊豆に漂着しますが,その船中に,種子島の住人で鉄炮技術に習熟していた松下五郎三郎と言う者が居て,五郎三郎を通じて関東方面へと鉄炮が伝わったとされています.
鉄炮を最初に実戦で使用したのは,1549年の島津貴久でした.
当時の銃の形は明らかになっていませんが,種子島とか薩摩で製造された型と同型と考えられています.
堺での鉄炮生産は,根来の砲術家,津田監物算長が堺の刀工,柴辻清右衛門に鉄炮を造らせたのが始まりとされています.
当初は,根来の門前町に居を構えていた柴辻家は,後に堺に移住し,堺鉄砲の祖となりました.
その後,根来は秀吉によって滅ぼされましたが,堺の鉄炮鍛冶は柴辻家,榎並家,その分家合計5名の年寄衆にて統率され,大坂の陣では,鉄炮鍛冶として従軍すると共に,柴辻家の柴辻理右衛門は1,000丁の鉄炮を徳川方の為に急造して,家康から激賞されています.
ちょっと先走りましたが,島津貴久は,種子島時尭から献上された2丁の鉄炮の内1丁を,足利将軍家に献上しました.
以後,島津家や大友家がポルトガル人から南蛮貿易を通じて入手した鉄炮を献上しましたが,時の将軍義晴は,余り興味を示しませんでした.
しかし,後に剣豪将軍と呼ばれた子の義輝は非常に興味を持ちました.
そして,義輝は細川晴元を通じて,国友の鉄匠,善兵衛,藤九左衛門を知り,手元の鉄炮を貸し与えて製造を命じました.
当時,国友は京極氏の支配下にあり,京極氏は細川党であった関係から,国友鍛冶が晴元に見出された訳です.
国友は,近世までは交通の要地であり,国友近辺では渡来人系統の人々の子孫によって,優れた鋳鍛造技術が受け継がれていました.
踏鞴製鉄の中心と言えば,前にも述べた出雲ですが,日本海交易路により出雲から敦賀に持ち込まれたヒ塊は,湖北に運ばれて,鋼に加工されていました.
また,永正年間には美濃関の刀工,志津三郎兼氏の後裔で加州に住んでいた刀工が,戦乱を嫌って国友に移住したとも伝えられ,国友には鍛冶職の中心地として発展していったと言われています.
こうしたバックボーンから,国友は鉄炮を生産出来る技術と能力があった訳ですし,鉄炮に重要な黒色火薬についても近くで生産出来ていました.
因みに,黒色火薬に関しては,硝石7,硫黄1.5,炭1.5を原料としていて,同時期に伝えられたようですが,その伝わり方も,義輝が明から渡ってきた長子孔と言う人物を介して伝えたとか,甲賀衆のネットワークが根来と繋がっており,火薬製造に精通した根来衆から密かに伝えられていたとの2つの説があります.
傍証としては,1つは米原町では現在でも黒色火薬が製造され,また流星が打ち上げられている事,近江八幡市でも,35軒の旧家が御用火薬を命じられ,その製造に当っていたこと,そして,この地を支配していたのは観音寺城主の佐々木氏の旗頭であったことなどが上がっています.
時に,種子島の金兵衛と同様に,国友の鉄匠も銃尾のネジを作れませんでした.
ネジの製法は,種子島から堺経由で伝えられはしましたが,国友では独自に尾栓ネジの作り方を会得したと言う説もあります.
国友の鉄工である次郎介が,小型の刃先の欠けたもので大根を刳り抜き,その穴に道が付くのを見てネジを作り上げ,命じられた鉄炮2丁を完成して,1545年8月12日に将軍に献上したと言う記録があります.
雄ネジの作り方は,素材の表面に糸などを巻いて巻線を描き,鑢の角で削り,鑢である程度深いネジ筋を加工した後,轆轤と櫛形バイトでネジ山を切削し加工してから,バニシングダイスで加工し,ネジ山の不整を正したと考えられています.
使用工具は,雄ネジ造りには櫛形バイト(仕上用工具)とバニシングダイス(板ダイス〜仕上用具),雌ネジ造りには,ネジ型(溝無しタップ状工具).
他に,ノギスや鑢等を用いており,ネジタップが出来たのは後世のことと考えられています.
種子島では,「巻いて之を蔵玉る」とあり,雄ネジは丸い棒に細い屑(鉄帯)を巻き付けて炉で鍛錬し(ワカシ付け),この屑の継ぎ目に沿って鑢で溝を切って造りました.
中筒以上であれば,ネジ型は銃身より堅い材料で同様に造り,雌ネジはネジ型を銃尾下穴に一部挿入し,銃身外周部より鍛圧して造りました.
因みに,尾栓ネジを使用する理由は,日本ねじ工業協会では以下の様に説明しています.
1. 鍛錬の不確実さによって生じる発射の際の事故防止
2. 火薬の燃え滓の掃除が簡単で機械的に確実な閉栓が可能
3. 銃身の反りを直す為.銃尾を鍛錬で塞いだ場合,銃身に狂いが生じると修正不可能となる.
銃身の修正は銃尾から銃口を見て,筒中に生じる影の形状によって狂いや凸凹を知り,外からハンマーで
叩いて修正する.
ところで,長子孔と言う怪しげな人物のことについて触れておきます.
彼は,1553年4月に琉球に赴いて,彼の地の人間達に砲術を教え,種子島を経て,1556年に京都に入り,義輝にまみえますが,彼について細工を学び得るものはなかったので,義輝は晴元を通じて,近江観音寺城主の佐々木義秀に鉄炮と射術を伝え,その製造を命じました.
義秀は,配下のの国友の打物鍛冶である次郎助,善兵衛と言った名工に1丁の銃を下し,更に長子孔には200貫の土地を与えて国友に住まわせ,鉄匠に製作,砲術,火薬の製法を学ばせました.
ところが,この鉄炮は台も金具もなく,まともに撃てそうになかったので,国友の鍛冶職が工夫して台や金具を取り付けて完成し,6匁玉筒2丁を義秀の取り次ぎで将軍に献上し,義輝はこれを激賞して,藤内一族に「能当」,他の鍛冶には「重当」の2字を賜ったと言います.
因みに,「能当」と言うのは「能く当る」,「重当」と言うのは「重ねて当る」と言う意味で,彼ら鉄炮鍛冶が,一方で,辣腕の射撃手でもあった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/11 21:40
【質問】
戦国時代の鉄砲製造方法を教えられたし.
【回答】
鉄炮の材料となる鉄は,安芸,出雲,伯耆,石見,播磨などで産出される良質のものを使用しました.
堺の場合は,専ら伯耆の鉄を用いましたが,国友の場合は出雲の鉄を多く用いています.
時代は下りますが,『一貫斉手記』には鉄についてこう書き記しています.
――――――
諸国鉄山ノ事
備中後播州,作州,石州,芸州,但州,雲州,因州,薩州,奥州,右之他諸国少シ宛出申候,此内上品,下品アリ
鉄,雲,播磨ヨリ出ルヲ上トス,備中備後次,奥州仙台,安芸ノ広島又次,伯耆美作石見又次,日向産又次,但馬鉄最下品
釼,播磨ノ宍粟郡(千種町)ヨリ出ルモノヲ最上トス,千種村ニテ出ル故千種鉄トモユウ,出雲ノ鉄最上品,伯耆,美作ヨリ出物次也,石見,出羽又次…
――――――
国友までの輸送経路は,元々は出雲から宇龍港(後,安来港に変更)で船積みされ,日本海沿いに北国船で敦賀に陸揚げされて,国友に送られていましたが,1672年から西廻り廻船が開業して敦賀が衰退し,出雲から安来港で船積みされ,廻船で大坂まで運ばれて,川船に載せ替えて淀川を遡り六地蔵へと運び,六地蔵から大津までは馬で運び,大津で船に移して,長浜で陸揚げして,再び馬で国友まで運ぶと言うルートを取っています.
釼と言うのは,前にも出て来ましたが,鋼のことです.
千種鋼は,粘土作りの炉を熱し,木炭を入れて砂鉄を搬入することを繰り返して作り上げます.
木炭の原木は,松が最良で,楢,櫟,槇などの雑木を用いました.
これらの木炭を使うと,多少質が劣る砂鉄からでも良い鉄が出来ます.
千種鋼の作り方は,『山崎町平瀬氏文書』によるとこう書いてあります.
――――――
炉を炎の色を見つつ70時間ほど熱すると,砂鉄は過熱された炭火の中を,下に降りながら炭化し,炉底に溶解して溜まる.
溶解物の上部は木炭滓(鉄滓)が多いので,炉から流して捨てる.
底の方には,炭素の含有量が多く,銑鉄(鋳物鉄)として用いる為,これも炉の外に流す.
残ったヒが固まるのを待ち,炉を壊してヒ塊を出す.
ヒ塊の大きさは,縦約2cm,横約1m,厚さ30cm,重量約2トン.
2トンのヒ塊を得るには砂鉄約15トンと,木炭約15トンが必要であり,木炭15トンを得るには,35年生の雑木が約1ha分必要である.
砂鉄の価格は,1駄(約60kg=米1石)に付き,上鉄が銀52匁8分,中鉄が50匁8分,下鉄が32匁,平均44〜45匁である.
――――――
原料の鋼と鉄が出来上がると,銃身の鍛錬,巻き張りを行いますが,これは鍛冶師(親方)と槌打ちによって行われ,鍛冶師は銃身の製作と目当ての取付け巣直しを主な仕事としていました.
鍛冶師は,炉の中から熱した鉄板をハレ(ヤットコ)で挟んで取り出し,銃床の上に置いて真金を当て,小口から槌で打ち始めます.
そして,ハレの柄を持って左右に回しながら,筒の形を整えていきます.
槌打ちは,大槌を持って,「ヤーフーヤーフー」と声を掛けながら打ち下ろし,鍛冶師が小槌で銃床の縁をチーンと叩くのを合図に打ち方を止めます.
巻き張りも,同じ要領で鍛冶師が小口から鋼を巻き,ハレを回しながら槌で打って巻き締めをしていきます.
張り立てられた筒は,横に穴を開けたモミ台(杭)に差し込んで楔を打って固定し,「モミシノ」と呼ばれる錐を使って銃口を仕上げていきます.
此の作業は「錐入れ」乃至「錐モミ」と呼ばれていました.
最初はソラツケと言って,シノを入れずに槌打ちし,荒当と言って太さ3分6厘のシノを入れて槌打ち,中当と言って,太さ3分3厘のシノを入れて槌打ち,留ワカシと言って,太さ2分9厘のシノを入れて焼き入れ,槌打ちを行い,ナラシアカメと言って,一旦赤めた後に,空冷します.
錐入れの終わった鉄炮は,銃口から玉を入れて音を聞いてみます.
銃腔内の狂いは,銃尾から覗いて影の出来る箇所を小槌で叩いて修正していきます.
この銃身を研磨して仕上げていきますが,この研磨には日雇いの農民が当りました.
鍛冶師は最後に目当てを取付け,台師に渡します.
台師は銃床を造り,更に金具師の手を経て,鉄炮が完成するのです.
因みに,国友では灼熱した銃身を真綿で擦って色付けをしたと言います.
これは国友だけに見られた特徴でした.
こうした鉄炮を造る作業場は,住居に接した小屋で,僅か20坪ほどの小さな工房でした.
大筒を造るのには手狭で,もし,大筒の注文があった場合は,数軒しかない大規模工房のある場所に鍛冶師が集まって作業をしていました.
江戸期には,上納に当たり,「打椽し」と呼ばれる試射の工程が幕府鉄炮方によって行われ,合格したもののみが納品されました.
こうした鉄炮の最大射程は,10〜100匁は口径の1万倍,200匁〜1貫目は口径の9,000倍で,3.5匁だと130m,10匁では11町1間(200m),100匁で22町(400m),500匁で29町30間,800匁で40町99間,1貫目で44町6間となっていました.
装薬は100匁に付き火薬40匁が定薬となっていて,それ以上だと破裂する危険性がありました.
又,玉目と口径の関係を玉割りと呼び,
1分玉では鉛弾径が3.944mm,対して銃口径が4.031mm,
1匁だと鉛弾径が8.517mmに対し銃口径が8.687mm,
3.5匁で鉛弾径が12.284mmに対し銃口径が12.529mm,
10匁は鉛弾径18.353mmに対し銃口径が18.719mm,
100匁は鉛弾径39.542mmに対し銃口径40.339mm,
500匁は鉛弾径67.599mmに対し銃口径が68.933mm,
1貫目は鉛弾径84.173mmに対し銃口径86.870mm
となっています.
こうして見ると貫目筒は,結構大きな大砲になるのですよね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/12 23:45
【質問】
戦国時代の国友の情勢を教えられたし.
【回答】
さて,国友と言う場所は,江南と江北とを結ぶ主要街道上の要地にあります.
室町時代の末期,南近江は六角氏が,北近江は京極氏がそれぞれ支配し,浅井氏は江北の京極氏の被官でしか有りません.
その京極氏は応仁・文明の乱以後,骨肉の争いを繰り返しますが,京極高清が流寓先の海津から江北に復帰して一先ず平穏を取り戻します.
しかし,1487年,高清は反乱を起して中野の多賀宗直の陣を破り,神照寺に出陣して宗直方の部将が陣取る国友館を牽制し,国友河原の戦で,宗直を下し,江北を平定することに成功しました.
それも束の間,1521年には京極氏の重臣で特に勢力を得ていた上坂治部丞家信が死亡すると,上坂氏の専横を快く思っていなかった浅井亮政等が,京極家の後継問題を巡って蜂起し,1523年に高清とその次男高慶を尾張に追い出し,長男の高延を奉じて彼を江北の主に据えました.
更に1524年には亮政は,越前の朝倉氏と手を結び,周辺の土豪を平定して,小谷山に城を築き,上坂氏に代わる勢力となっています.
1528年,大原城主となっていた京極高慶は,重臣の上坂城主上坂信光と共に姉川を渡って浅井に侵入しますが,京極高延と浅井亮政に内保河原で防がれ,敗走しました.
その後,1534年になると亮政は清水谷の居館で,前に敗走させた高清と高延を供応し,京極に代わる勢力としての地位を更に高めることに成功しました.
1538年,伊吹山麓の上平寺城で高清が死去すると,高慶が再び蠢動します.
今度,高慶は六角定頼の支援を得て,目加田氏等を従え,高延と亮政を攻めました.
彼らは,佐和山城を攻略して坂田南部に侵入し,国友河原で一進一退を繰り返します.
しかし,兵力が乏しい亮政が小谷に退いたので,高慶は城下を焼き働きして気勢を上げました.
とは言え,城下に攻め込まれたと言っても,江北の情勢には変わりが無く,姉川を挟んで北は亮政の支持する高延,南は六角氏の支持する高慶の支配が続きました.
ところが,1541年,流石に浅井氏の傀儡を長く続けてきた高延は,その傀儡に飽きて,自ら独立せんと亮政に対し兵を挙げました.
この戦いは,浅井氏の勝利に終わりましたが,その戦いは老いた亮政には負担となり,1542年に亮政は波乱の生涯を閉じました.
亮政が死ぬや否や,1544年に高延改め京極高広は股肱の臣である上坂信光の息子,上坂定信と語らって兵を挙げ,浅井の後継者である浅井久政を攻めます.
高広は大原口より上坂に出て国友城に攻め入り,浅井の臣であった国友伯耆守与一右衛門を敗北させました.
因みに,与一右衛門の子,与左衛門は宮部継潤に仕えますが,その後,田中吉政に仕えています.
この与左衛門の姉が吉政の母,慶福門院だったからで,娘は一政の妻になりました.
その後,吉政が岡崎を得ると与左衛門一家も移り,以後,関ヶ原の合戦で東軍が勝利し,吉政が石田三成を捕縛する軍功を上げて,筑後柳川を得ると与左衛門も柳川に赴いています.
それはさておき,久政は戦下手でした.
1549年に久政と高広は突然和議を結び,これにより,高広はこれまで支援を続けてきた六角氏と敵対する羽目に陥ります.
1550年に高広は高慶を攻めるべく南進して,六角義賢と戦火を交えることになりました.
しかし六角義賢の方が,京極・浅井連合軍より遙かに戦上手であり,1554年には浅井久政が六角氏に膝を屈することで和議が成立しました.
これにより京極氏のみならず,浅井氏も六角氏に臣従する形となり,浅井氏の威信は地に落ちました.
ところが,久政が隠居した後の跡継ぎである浅井長政は着々と地盤を固め,1560年になると彦根野良田で六角氏と合戦に及び,16歳にして六角氏を降して再び江北の雄になりました.
この頃,浅井氏と対立していた六角氏は,美濃の斉藤氏と手を結び,浅井氏を挟撃しようとしたので,浅井氏はその頃斉藤氏と対立していた織田信長と手を結びました.
1568年になると,長政は信長の妹であるお市の方と結婚して,更に絆を深めることになります.
これが江北における戦国前期の様相ですが,鉄炮が出て来た頃は久政の時代です.
久政は零落れたりと雖も,湖北3郡を有しており,石山本願寺とも関係が深かったりします.
この頃,北郡坊主衆と呼ばれた湖北真宗教団が湖北10ヵ寺を中心に組織されており,石山寺を本山としていました.
であるならば,浅井氏も鉄炮を入手出来るルートは開かれていたはずですが,当時の鉄炮は未だ脅す為の兵器であり,命中精度と連射の面で,矢に劣る代物とされていて,評価は必ずしも高くありませんでした.
長政の代になり,信長との蜜月も長くは続かず,1570年に朝倉攻めを行おうとした信長が,若狭から敦賀に入るや否や,浅井氏は反旗を翻した為,信長は慌てて取って返し,浅井氏を攻めることになりました.
これが姉川の合戦であり,この織田と浅井の争いは,1573年の小谷城落城まで3年も続きました.
その間,辻村藤内と言う部将が,浅井氏の臣である多賀備中守に6匁玉筒を献上したところ,能く当ったので,備中守はそれを長政に献上しました.
そして,長政はそれに対し丁寧な挨拶状を返した事から,備中守は藤内に礼状を出していると言う記録が残されています.
また,1572年には宮部継潤が国友城主,野村兵庫守高範を攻めた際には,兵庫守の臣,富岡藤太郎が宮部継潤を狙って撃ったとされています.
因みに,藤岡藤太郎はその功により兵庫守の娘と結婚し,翌年には多田幸治山付近で秀吉を狙い撃ちました.
彼の兄弟は4人ですが,その1人である覚右衛門だけが田中吉政に仕え,娘を嫁に貰い受けました.
更に吉政に付いて柳川に同伴し,後,久留米に移り,更にその後,関東に移りました.
その主であった野村兵庫守高範は国友落城後,家名再興を図って,九州豊後の大友氏に仕え,子孫は真玉村の大庄屋となりました.
一族には野村肥後守勘右衛門がおり,彼は秀吉に仕えて朝鮮の役にも出陣しましたし,野村吉政吉兵衛尉は,田中吉政に仕えています.
この他,国友の郷士は,国友,野村,富岡氏の他,四居氏がいましたが,四居氏は,徳川系統の酒井,水野,松平,福島氏などに仕えています.
この江北の動乱の際には,国友から出て行った者たちの代わりに,国友に来た人々もいました.
彼らは江南の六角氏の重臣,目加田二郎左衛門貞政で,後に旗本となった国友藤九郎徳左衛門,脇坂の郷士,国友助太夫,伊井信濃守の臣で三州の鳳来寺にいた国友兵四郎等がいます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/02/13 23:22
▼ さて,浅井が滅ぶと,その地域に進出してきたのが織田信長です.
伝説に依れば,信長は1554年に,尾張中島郡富田正徳寺での斎藤道三と会見する際,鉄炮500丁を伴ったと言われています.
未だ浅井と同盟を結んでいない1549年の段階で,国友鍛冶に6匁玉筒500丁を製造させており,これは1550年までに完成し,国友兵庫守を通じて納品されたと言われています.
浅井と同盟を結ぶと,この新兵器に格別の注意を払い,他の大名が国友の鉄炮鍛冶を抱えるのを牽制する為,惣鍛冶に対し,鉄炮鍛冶の他家への奉公や,諸国からの鉄炮の注文,新製品の取り扱い,製法の伝授を規制する掟を出していたりもします.
但し,1549年の鉄炮注文の話や掟の話は未だ信長の国友支配が完全に固まっていなかった段階での話なので,本当に実施されたかは疑問符が付いています.
とは言え,土一揆に備える為に鉄炮を重視したのは間違いない様で,その製造には1568年以来堺が,その後国友が関わったと言われていますし,1560年に起きた桶狭間の合戦でも鉄炮を使用しています.
また,姉川の合戦で浅井氏を小谷城に封じ込め,その監視の為に横山城に木下藤吉郎を入れた後,1571年には,藤吉郎を通じて国友鍛冶に200匁玉筒の大筒を2丁製造させたと言う由緒書も国友に残されています.
その前に1570年から,信長の浅井攻撃と比叡山攻撃が開始されましたが,これらに対し,先ず浅井氏が反抗し,次いで浅井氏援護の為,石山本願寺の顕如の命により,江北3郡の真宗寺院が信長軍を攻撃する状況になりました.
これを湖北10ヵ寺騒動と呼んでいます.
1571年には,浅井長政が顕如と連絡を取りつつ,国友の城塞に,昨日取り上げた野村肥後守,野村兵庫守を配し,一方,宮部には宮部継潤を配して信長に対抗しました.
顕如は,子の教如を伴い,密かに長沢福田寺に立ち寄って浅井父子に面談し,福田寺の覚芸連枝の計らいで,密会場所を虎姫五村の大村刑部邸と定めました.
この会合により,江北3郡の寺檀は我も我もと進み出ました.
こうして軍奉行として浅井七郎,野村兵庫守,中島日向守が勤め,末寺の門徒衆が城攻めを行いましたが,藤吉郎の工作に悩まされ,身の危険を感じた顕如父子は小谷城から一旦,甲津原行徳寺に身を隠しました.
湖北10ヵ寺騒動の鎮圧に当ったのは,木下藤吉郎でした.
1571年の木下軍は,長沢や下板浜で力戦し,敵を敗走させるのに成功します.
この攻撃の際,国友藤太郎なる者が多田幸治山付近で藤吉郎を狙撃したのですが,狙撃は不首尾に終わり,後に藤吉郎は狙撃した者を調べて召し抱えようとしたそうです.
藤太郎も最初は固辞しましたが,1573年に浅井氏が滅亡すると,主家との義理を果たしたと考えたのか,長浜城主となった木下藤吉郎に仕え,藤吉郎は国友藤太郎に100石の知行を与えた上に,国友の代官職を命じ,鉄炮管理の為に統制を厳にして,国友鍛冶を完全に支配下に納めることになりました.
その後,木下軍は1貫目筒を用いて,三木城の攻撃を行ったりもしていますし,この戦いには高橋藤一と言う国友の郷士が参加して手柄を立て,秀吉の臣,中村孫兵治より200石の知行を賜り,長浜時代に於ける秀吉の有力家臣となっています.
羽柴秀吉となった藤吉郎が,信長の横死後,山崎の合戦で明智軍に勝利し,更に柴田勝家を葬り,徳川家康を臣下に納めると,最後に残った関東と奥州の併合に乗り出しますが,此処でも鉄炮は重要な兵器となりました.
1590年の小田原攻めでは,秀吉は諸陣に対して鉄炮を斉射し,小田原勢を威嚇しています.
この頃,羽柴方が持っていた鉄炮は6万丁に上り,以後,総兵力の30%が鉄炮を装備していました.
1592年の文禄の役では,秀吉自らが肥前名護屋に出陣しますが,この時,国友の野村肥後守は鉄炮組頭として250名を率いて出陣しています.
その中には,国友平左衛門の子,六兵衛もいました.
因みに,この頃の日本の鉄炮について,朝鮮の『李朝実録』では,ヌルハチの臣である馬臣と言う人物と,朝鮮側の使者申忠一との間の会話で次の様に紹介しています.
ヌルハチが朝鮮に攻め入りそうな状況なので,朝鮮側は鴨緑江地方には多数の日本人投降兵を配備していました.
この中で,次の様なやりとりがあります.
――――――
馬 臣「小さいものでも(鳥銃)は命中するか?」
申忠一「倭銃は飛ぶ鳥も当てることが出来る」
馬 臣「能く兜を通し得るか?」
申忠一「鳥銃を放つと,二重に造り固めた木牌も打ち抜くことが出来る.故に薄鉄で造ったものは造作もない」
――――――
敵側にも日本の鉄炮は賞賛されていた訳です.
戦国末期の天正時代になると,天下統一も近づき,戦いも終焉を迎えつつあり,統制も緩んで国友鍛冶の中には諸大名に抱えられて国友を出る者も居ました.
国友与四郎は亀山の羽柴秀勝に召し抱えられ,時代は異なりますが,国友与作は1596年に100石で石田三成にに召し抱えられています.
その湖北地方は1590年に豊臣秀吉から,石田三成に与えられました.
1595年には更に秀吉の命令で,佐和山に封ぜられます.
これにより,国友一帯は石田三成の支配下に置かれました.
一応,秀吉と同じく,三成も国友鍛冶を保護していますが,秀吉が薨去し,徳川家康と石田三成の対立が続く様になった1600年4月,家康は国友に密かに手を伸ばし,脇坂助太夫等を召して,鉄炮の急造を依頼するなど,三成の挑発に相務める様になります.
三成は切歯扼腕しましたが,助太夫等の方は,何れ天下は家康のものになるであろうと察して,家康の注文に応えました.
これには,1593年頃,秀吉に隠居を命ぜられた本願寺の教如が絡んでいます.
と言うのも,教如は秀吉を憎み,その対立軸にあった家康に好意を寄せていた為です.
教如は,江北にある本願寺系の寺院の力を借りて,色々石田三成の邪魔をして,家康の為に尽力しました.
三成は教如を廃そうとしますが,寺檀は一致団結して教如を守ります.
1600年7月には,教如は家康に会う為,関東に下向しますが,この時,国友の鉄炮鍛冶達は,美濃北山筋から糟川谷まで鉄炮を携え,輿に付いて,一命を捨てる覚悟でお伴しています.
三成は,その動きを追求する為に,島左近を派していますが,これは後の祭りで,三成の地団駄に過ぎません.
1600年9月にはその三成も関ヶ原の合戦で敗れ,天下は家康のものとなりました.
三成の領地は除封され,国友は新たに家康の直轄領となりました.
しかし,家康は鉄炮に対する統制を緩めたことから,国友から鍛冶職人が相次いで去り,急速に国友鍛冶は寂れていきました.
1601年,国友与作は石川康通に100石で召し抱えられ,国友藤介も堀尾吉晴に300石で,1604年になると国友兵四郎が井伊直継に100石で召し抱えられて井伊家お抱え鍛冶師となっています.
1605年は,国友藤九郎が京極忠高に150石で抱えられ,国友作助は越前府中の松平忠直に100石で召し抱えられたのを始め,森家,松平家,池田家,本田家など,多数の大名家に国友鍛冶が召し抱えられることになりました.
この他にも,前にも述べた様に,田中吉政も関ヶ原の合戦で功を上げ,筑前柳川33万石に封ぜられると,家臣となっていた国友与左衛門は3,260石,国友式右衛門は250石,国友勘左衛門は460石,国友左内は1,240石,国友半右衛門が600石を貰って,国友を去っていきました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2010/02/14 22:34
1603年,徳川家康は江戸に幕府を開きます.
とは言え,大坂に豊臣秀頼が残るなど,社会的に未だ安定した政権ではなかった為,国友に鉄炮を発注して,その備蓄を図っています.
但し,信長や秀吉の時代と違い,国友を去る者を追うことはなく,国友鍛冶はある者は大名のお抱え鍛冶になったり,ある者は鉄炮方になったり,ある者は家臣として大名に仕えたりなど様々に身を処して行きました.
その最初の発注は1604年で,家康は国友の鍛冶惣代を江戸に呼び出し,細川忠興の砲術師範だった稲富一夢直家を通じて800匁玉筒,50匁玉筒を発注しました.
因みに,稲富一夢直家は関ヶ原の合戦の際,大坂の細川ガラシャの下にありながら,夫人に殉じることなく逃亡したとして忠興の怒りを買い,細川家を退転して井伊直政の庇護を受けていました.
その頃,井伊家の御抱え鍛冶となっていた国友兵四郎と接し,後に直家が徳川家に仕えた時に,家康と国友鍛冶との橋渡し役を果たしています.
更に,1604年6月には,伏見に赴いた家康は重ねて国友鍛冶惣代を呼び出し,60匁玉筒,200匁玉筒16丁を発注しました.
そして,1605年3月から国友は天領となり,初代代官に窪嶋孫兵衛を命じて以降,国友は幕府の直接支配を受けることとなりました.
1606年になると,家康は隠居して大御所となり,秀忠が2代将軍に就任します.
そして,1607年,家康は江戸から駿府に引退することになりました.
この年,国友鍛冶惣代が駿府に呼び出され,御目見を許され,更に彼らは武士に殉じる待遇を与えられると共に,名字帯刀を許され,加えて服一重,紋付,提灯が与えられるという殊遇を受けます.
反面,成瀬隼人が鉄炮代官に任ぜられて,彼らはその支配下に入りました.
因みに,御目見は慶長以来幕末まで,将軍の代替り等に4名の年寄が許されました.
寛永以降は,年寄脇の国友丹波が加わり,全員若しくは交代で御目見を許され,その都度各人に銀子が与えられました.
こうした御目見は60回以上に及んだと言います.
こうして国友鍛冶惣代を掌握した幕府により,早速この年から,100匁玉筒5丁,50匁玉筒8丁,6匁玉筒100丁など,大量発注が行われ,国友鍛冶は正式に幕府御用鍛冶となりました.
一方で,これまで比較的自由に造られていた鉄炮の製造に掣肘が加えられ,信長,秀吉と同様に,幕府の仕事を優先させることや,諸国から鉄炮注文が有った場合は必ず届け出ること,鉄炮鍛冶の他国への移住禁止,鉄炮製造のノウハウや火薬,玉の生産についても他人に漏らさない様に義務づけられました.
とは言え,この頃に国友鍛冶の中で大御所から生活保障を受けたのは,惣代数名のみであり,大部分の鉄炮鍛冶達には生活保障はありませんでした.
ですから,生活の為には幾ら上意御定書が出されていようが,他の大名家に仕官したり,張り立てに行く者も後を絶ちません.
そうしたことが上聞に達し,1608年,家康は成瀬隼人正を通じて,国友鍛冶全員に生活保障を約束すると共に,国友を出て行った鍛冶達を呼び返すことと,掟書を遵守することを求めています.
この年の発注は,300匁玉筒1丁,100匁玉筒15丁,30匁玉筒20丁,20匁玉筒15丁に加え,5匁玉筒を多数発注しており,1609年には更に,長さ8尺5寸の1貫目玉筒を1丁,50匁玉筒7丁,30匁玉筒6丁,20匁玉筒6丁,3匁玉筒多数を発注し,1610年には鍛冶総代を駿府に呼び出して,稲富流の50匁玉筒86丁の発注などが為されました.
こうした発注により,国友は空前の鉄炮バブルに沸き,在村の鍛冶では生産が追いつかず,「末々渡世渇命の無い様に取り計らう」と書かれた成瀬隼人正の折紙を持って,惣代ら2名が,諸国に散って行った国友鍛冶を呼び返しに走り回ります.
この働きかけで1611年にかけて東国,北国,西国から過半数の鍛冶が帰国しました.
更に新たに入ってきた鍛冶も加えて,製造に取りかかります.
また,1611年には更に100匁玉筒の発注がありました.
この年,国友鍛冶達41名は,「国友惣鍛冶御定の事」(慶長の連判状)を作り,御定に違反した場合は鍛冶の家禄を没収することや,国友以外での土地の補修をした場合は,道具を没収するなどの罰則を定めています.
1610年発注分は,1612年11月に試射を命ぜられ,国友代官窪嶋孫兵衛,鉄炮奉行大岡伝左衛門,井伊兵部家臣の宇津木次郎右衛門,鉄炮吟味衆内山治右衛門の立ち会いで試射を行いました.
これらの鉄炮や大筒は全部国友に預けられ,その番に2〜3名の役人が付けられました.
1612年にも,8尺5寸の50匁玉筒85丁,30匁玉筒,100匁玉筒の大量発注がありました.
年間生産規模ですが,大体に於いて,鍛冶職50人余に対し,各鍛冶職当て1〜3丁の大筒を造っています.
その内,他国から帰ってきた鍛冶には褒美として1丁多く割り当てたりされました.
1613年には1貫目玉筒,150匁玉筒,120匁玉筒の製造などが命じられると共に,更に追加注文で30匁玉筒51丁,50匁玉筒58丁,100匁玉筒から6匁玉筒に至るまで,多数の鉄炮製造が命じられます
これらの鉄炮の内,1貫目玉筒,150匁玉筒,120匁玉筒は1614年に完成し,本多上野介,成瀬隼人正により惣代に吟味の上,厳重保管が命じられました.
その年の10月になると,惣代達は井伊掃部頭から,保管してある鉄炮を携えて大坂に来る様命じられ,惣代50名の鍛冶を百姓人足の姿に変えさせて,大坂城攻略中の徳川の陣所に向かいました.
国友からは長浜に出て,長浜からは舟渡奉行芦浦観音寺が付添って大津まで船で運び,大津からは,道中奉行小野惣左衛門が付添って,陸路で伏見を経て運びました.
50匁玉筒58丁については,仕上げまで可成り時間が掛かり,仕上げの磨きが間に合わず,張り落しのまま巣中錐入りの黒皮の筒にネジ目当てを造り,陣中に追々運び入れました.
鍛冶達が銃を運び込むと,家康は大層喜び,坪内玄蕃の取次ぎで惣代に目見え,胴乱を与えて労り,従軍を命じると共に,100匁玉筒と6匁玉筒の急造を命じました.
藤九郎,甚兵衛など,掃除や整備の為に残された数人以外は急いで引き返して国友に戻り,昼夜を問わず製造に掛かって,6匁玉筒50丁と100匁玉筒数丁を仕上げて,陣中に運び込みました.
冬の陣では,大筒は威力を発揮し,怖じ気づいた淀の方達の主張で,講和が結ばれることになりました.
何しろ,家康の本陣から大坂城まで27〜28町,3km程度なので,200匁玉筒以上なら十分届く距離です.
講和によって,国友の鍛冶衆は帰国しますが,直ぐに30匁玉筒61丁の発注を受けました.
次いで,夏の陣に従軍する為,惣鍛冶が彦根まで赴くと,,100匁玉筒,10匁玉筒,6匁玉筒の急造を命じられ,惣代以外の鍛冶は国友で再び製作に明け暮れ,それを納品すると再び6匁玉筒の急造を命じられて大急ぎで帰還すると言う状態でした.
家康の戦術としては,冬の陣で外堀を埋立てた為,城までの距離が近くなり,夏の陣では細筒を多用したようです.
戦いが終わり,豊臣家が滅亡すると,家康は陣中に総代を呼んで,水野監物,松平右衛門正久を通じて白綾紋付袷一重を与えて,賞しました.
この紋付袷は,鍛冶一同から,先祖代々総代を勤めてきた国友徳左衛門に保管を頼みますが,徳左衛門はこれを拒み,話し合いの結果,片袖は徳左衛門が保管し,残りは江戸鉄砲会所で保管することとなりました.
更に,1615年8月,家康は駿府への帰途に近江永原の別邸に泊まり,土井大炊守の取次ぎで永原まで挨拶に来た鍛冶総代に引見し,褒美として国友村高900石8斗7升の内,鍛冶師,台師,金具師の扶持として,174石9斗2升3合の分(玄米及び大豆)を亜立て,惣代は帰途の行列に加わることを許されました.
永原から駿府まで,坪内玄蕃頭,水野監物の取次で共をし,お暇の折には,野村彦太夫に功を賞され,水野監物の取次で白銀10枚宛が与えられました.
以後,惣代が江戸に伺候した際には,帝鑑の間(10万石以上の譜代大名が詰めた)で御目見に預かり,お暇の時に白銀10枚宛与えられる習いとなりました.
因みに鍛冶惣代には,1633年まで鍛冶が順番に勤めました.
大坂の陣前後の鍛冶総代には,国友藤九郎,国友勘左衛門,国友彦市,国友彦助(助太夫),国友藤兵衛,国友藤十郎,国友又十郎,国友善兵衛,国友市右衛門がなっています.
しかし,国友鉄炮鍛冶の絶頂期は此処までで,次第にその将来には暗雲が立ちこめる様になります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2010/02/15 22:33
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【質問】
『蒙古襲来絵詞』に「てつはう」が描かれていますが,なぜ日本では種子島以降まで火器が広まらなかったのでしょうか?
同時期の支那大陸では火器はどの程度普及していたのですか?
【回答】
技術が伝わらなかったというか,当の大陸でも普及し始めた程度.
また,友好的な国交があったわけでもなかったので,技術を伝えなかった.
さらに,日本国内では火薬の原料の一部,特に硝石がろくに取れないので,自作は無理.
仮に伝来しても自力では製造が出来ず,輸入に頼ることになる.
ついでに,当時の中国で使われていた火薬兵器も精度も威力もあんまり無く,威嚇兵器としての意味合いが大きかったので,主力兵器にはなってない.
(部分的には,工夫や改良を凝らして使われていた物があったようだが,詳細が不明で実像が未だにわからず,予想や憶測,想像図を含んでいるものも多い)
実用的な火薬兵器の登場は,ヨーロッパに伝来してそちらで改良されてアジアに伝来する時代まで経たなくてはならなかった.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
火縄銃は弓矢に比べてそんなに強かったんでしょうか?
弓矢で長篠の戦いみたいなことできないんですか?
【回答】
戦国時代の小火器は,弓矢に比べて殺傷能力だけなら対して変わらない.
コストパフォーマンスは弓のほうがいい.
強さとしては弓と火縄の混成部隊>弓のみ>火縄のみ という感じ.
弓のみより火縄のみの方が弱いのはコストの問題で数をそろえられないから.
火縄銃の利点は音と,銃兵育成が楽,という二点.
昔の弓の修練は,今の弓道とは次元が違うのではないかというくらい強烈.
弓矢は依然強力だったが,弓兵の育成には時間がかかるので,大量に兵力を動員できる火縄銃兵にとって代わられた.
しかし鎖国が解かれた頃には,さすがに弓では火器に対抗する事は出来なくなっていた.
それでもアホな兵隊よりは,良く訓練された弓の方が強かったのは事実.
もちろん良く訓練された銃には弓で勝てるはずも無いが.
長篠の戦いでは,武田の中央突破を狙った突撃を織田が陣地防御で防ぎ,その過程で,火縄銃の弾幕射撃が使われた,という状況だったので,勿論弓矢も使われたであろうことは想像に難くない.
ただし,長篠の戦いについては創作に創作が重ねられてしまっていて,正しい事の方が少ないので火縄銃について語るには不適切.
軍事板
▼ もちろん1対1の武器性能的には,有効射程でも威力でも種子島の時代には弓を圧倒している.
ただ,膨大な焔硝と弾の費用と,銃本体が高価なのがネックだった.
訓練自体は弓より簡便で済んだけど.
単位時間当たりの投射量も,早合や多段撃ち(銃を受け渡す)で改善している.
そもそも弓にしても鉄砲にしても,瞬間的な速射を求められるのは僅かな時間.
末期になっても弓は鉄砲とが併用されているのは事実だが,編制からは大幅削減されていることが多い.
軍事板,2008/09/24(水)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
日本の火縄銃は同時期のヨーロッパの火縄銃より優れていたそうですが,何が優れていたんですか?
【回答】
日本のマッチロック式(火縄銃)は欧州のそれと違い,長期間改良を重ねられ,使用され続けて来ました.
その為,弾道性能・威力共にマッチロックとしては最高の性能を保持していました.
また,雨天でも種火が消えにくい火縄や,夜間の照準用に線香を立てるなど,運用上の工夫も優れていた,と言う事です.
三等自営業◆LiXVy0DO8s in 軍事板
しかし一方で,日本の小銃は戦国が終わったことで,それ以上の発展が止まってしまいました.
欧州では発火方法がマッチロック(火縄)式からフリントロック(火打石),更にパーカッション(雷管)へと進化しました.
マッチロックは点火用のバネが弱くても確実に発火するので,銃のブレが少なく,命中精度が高いそうです.
フリントロックは強力なバネを使って火打石を擦り発火させるから,ブレが大きいのです.
ただしフリントロックにも,比較的雨に強い,火種を保持し続ける手間が要らない,隣の射手の発砲による火の粉が飛んで来て暴発する危険が無い(つまり,一斉に何百丁も密集隊形でぶっ放せる),などの利点がありまして,軍用としてどちらが優れているかは一概には言えないようです.
端的にいうと,個人の狙撃や射的には日本の火縄銃が優れ,弾幕射撃をするには欧州のマスケット銃が勝っている,というところでしょうか.
軍事板
【質問】
日本で使われていた火縄銃は軍用銃ではなく猟銃って本当ですか?
【回答】
種子島に流れ着いたポルトガル人が持っていたのが,ストック無しの猟銃タイプの銃で,手と頬の2点で支える火縄銃だった.
その後の火縄銃は,そのポルトガル人の持って来た銃をコピーする事から始まり,発展して行った所から,猟銃を始祖に持つと言うのはウソでは無いと言える.
その後の使われ方は軍用銃そのものだが.
そのポルトガル人が,何故その当時すでに登場していた,肩頬腕の三点で支えるストック付き軍用銃を持って来なかったは不明.
一説によれば,日本にくる途中のインドかマニラあたりで購入した物だったという.
軍事板
【質問】
火縄銃が作れる技術があれば,フリントロックのマスケット銃を作るのは可能なのでしょうか?
【回答】
マスケット(前装式)銃の中ではマッチロックは単純な部類に成りますので,それより複雑な構造であるフリントロック式の製造は困難です.
また日本では良質なフリントが入手困難であった事もあり,フリントロック式は殆ど普及しませんでした.
しかしながら,ごく少数ながらホイールロックまで製造が可能だった事から,不可能では無かったようです.
ですから,例えば技術水準が日本の江戸時代中期以降であれば,製作は可能であった,と言えるでしょう.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代に「もののけ姫」に出てきていたような,弾丸・弾薬カートリッジ式の元込め式の銃は,考案されなかったんでしょうか?
【回答】
フランキ砲というのがあった.
「もののけ姫」で描写されている,砲後部の薬室に弾と火薬を詰めてカートリッジ式にくさびではめこみ,撃つもの.
実用性については知らないが,一応あることはあった.
軍事板
青文字:加筆改修部分
元込め式火縄銃もあるにはあったんだが,実用性がな・・・
ちなみに先込め式のカートリッジなら,紙薬莢の早合(はやごう)があった.
まあ所詮,前装填銃なんで,後年の金属薬莢とは雲泥の差だが.
モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分
後装銃自体は1500年頃に欧州ですでに作られているが,実用性が低すぎたため普及はしなかった.
実現不可能と言うよりは実用性のあるものが作れなかった.
後装式のシャスポーは戊辰戦争でも使われたし,エンフィールドを元込に改造した銃もあった.
南北戦争でも後装銃は少数ながら使われている.
ただ,塹壕では前装銃の装填が面倒という理由だけで,全体的な性能では当時の後装銃はまだ前装銃に劣っていた.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の火縄銃は,ストックがいわゆる「ソードオフショットガン」みたいにばっさりと切り落としたような形をしていますが,あれは何故なんでしょうか?
肩付けで構えられないので,激しく構え辛そうなのですが・・・.
【回答】
「日本の」と言うか,漂着したオリジナルがそうなってたから.
日本の火縄銃は通称マラッカ式といって着火方式が西欧で主流のものとは違うので,東南アジアで製造されていたものが原型とされている.
マラッカ式(瞬発式)→引き金を引くと掛け金が外れてバネの力で火縄が火皿に落ちる.
西欧のもの(緩発式)→ばねの力で押し上げられている火縄を引き金を引く力で火皿に押し付ける.
ただ単にストック部分が破損していたのではないかとも言われているが,その辺は諸説入り乱れていて,よく分かっていない.
構える時は,肩に付けずに,銃を握った右こぶしを右肩に思い切り引き付けるから,右ひじを極端に張った形になる.
以外に反動が少なく,命中率も割合高かったから,そのまま続いた.
肩付けできなくても頬付けして狙えばとりあえず安定はする.
火縄銃保存会なんかの画像があればそうしているのが判るだろう.
頬付けには反動を受け流せる,という利点もある.
ただし抱え筒なんかだと,前の方で支える人が居ます.
軍事板
【質問】
戦国時代の火縄銃は,狙撃ができたのでしょうか?
もしできた場合,弓矢で狙撃することができる距離よりも遠くを狙うことはできたのでしょうか?
【回答】
堺筒こと火縄銃の威力は,おおよそ現代の拳銃と同等です.
具体的には数百メートルの殺傷距離を持っており,百メートル以内ならば狙撃も可能です,
一般的な火縄銃は殺傷可能距離200メートル,50メートル以内では鎧の貫通も可能で,良い銃と射手ならある程度の狙撃も可能でした.
また,これとは別に,長距離狙撃用の火縄銃も存在し,信玄を狙撃したと伝えられる信玄鉄砲
(但しこれは伝説と目されています)は弾頭径20_(普通のは12_),殺傷距離500mで名手なら200m程度の狙撃が可能だったようです.
一説には,武田信玄の死因は,狙撃された事による外傷か鉛中毒とも言われています.
軍事板
【質問】
石火矢って鉄砲のこと?
【回答】
煙草のことも指しましたが,普通はヨーロッパ起源の大砲の事です.
1580年代後半には,九州で大友氏や九州に移された小西・加藤氏などが使用していました.
関が原の合戦の前後にも東・西両軍が使用しています.
ヤン・ヨーステンは,航海士であるとともに,砲手の経験がありました.
そのため,彼らが漂着した半年後にあった関ヶ原の戦いでは,同僚ら数名とともに家康の要請で参戦しました.
修理されて江戸湾に回航されていたリーフデ号から,大砲をはずして関ヶ原まで運び,戦いの最中に数発発砲しています.
この戦功でヨーステンは,江戸城和田倉門南の堀端に屋敷をもらいました.
この結果,その付近は,彼の名に因んで,「八代洲」といわれるようになりました.
その後,これがなまって,「八重洲」という地名になったのです.
http://www.geocities.co.jp/NeverLand/7234/study/quiz/n05-1.htm
北村甚太郎覺書
四.七月廿二日敵兵嶺ヨリ下リシヲ北村甚太郎大筒ニテ撃チシコト
http://www.shinshindoh.com/jintarou-oboegaki.htm
効果があったのは城攻めの際です.
一応主戦場にも持ち込まれてはいましたが,某作家が描写している程の効果はありませんでした.
【質問】
現在ライフルを作るさい,銃身の穴を開けるにはガンドリルを使うそうですが,昔の火縄銃はどうやって銃身になっすぐな穴を開けていたのでしょうか?
【回答】
火縄銃であれば,銃身は元は鉄板.
真っ直ぐな鉄の棒に赤熱した細い鉄板を巻き付け,鍛造した.
その後は鋳造法(形に鉄を流し込んで成形の後,過熱して焼入れする)が発明されて大量生産ができるようになった.
大砲は逆に最初は鋳造法で作られ,その後鋳造中刳法(鋳造した無垢の砲身にドリルで穴をあける)から鍛造法へと移り変わっている.
http://www.geocities.jp/nosuka02/SUNPOU_L.html
http://lets.kumanichi.com/kumamoto_rena/simen/02_040526/
軍事板
【質問】
火縄銃の威力は現代の銃に比べてどの程度なの?
【回答】
火縄銃の具体的な威力については
日本の武器兵器
で詳しい実験をしているので参照してください.
長銃身で撃った.44マグナムって雰囲気かな?
火縄銃の弾丸重量と,前記サイトの弾速(340m/s程度)から計算すると,火縄銃の銃口エネルギーは標準的な六匁玉で約1500ジュール.
単純計算では,.44マグナムどころか,AK-74の5.45×39mmを超えます.
しかし,弾道は回転している尖頭弾ほど安定しないし,空気抵抗も大きいから有効射程は短く,威力も落ちます.
また,現代の銃弾は高速で体内に侵入し,衝撃波を体組織に伝播するので,口径以上の範囲に傷つけますが,砲口から飛び出した瞬間速度のがた落ちする丸玉では,これは不可能です.
さらに,現代の銃弾は体内で縦方向に回転するなど,人体にダメージを与えるよう設計されています.
丸玉で撃たれた傷は,奥に行くほど狭くなりますが,現代の銃弾は逆の形になります.
どちらが深い傷かは言うまでもありません.
ただ,鉛剥き出しの玉が体にめり込むと,変形による組織破壊が起こります.
もっとも,これの威力は「思われたほどでもない」ってのが,ヨーロッパの研究者の結論です(日本のものについては,寡聞にして知らない).
「馬を止めた」の「人間を貫いた」だのは全て伝説にすぎません.
軍事板
【質問】
鎧着てれば火縄銃の弾なら防げたんでしょうか?
【回答】
日本のペラい鎧なら,多分酷い怪我になるだろう.
南蛮鎧,あるいは西洋の甲冑なら,はじきかえすケースも多かったらしい.
ヨーロッパでは火縄銃が普及して「から」,歩兵部隊に一枚板で出来た鎧が普及してるし,効果はあったんだろ.
そのうち
銃の威力>鎧の防御力
になって,結局鎧は廃れるけれど.
軍事板
鎧
【質問】
戦国時代後半でも鉄砲が主力武器でしょ?
戦国時代の鎧は銃弾に対する防御重視で進化したの?
【回答】
日本の戦争の流れとしては,俵藤太の頃の騎乗弓兵から,戦国時代の槍兵にうつり,確かに安土桃山の頃には火縄銃に可也の比重が移っていた.
ただね,銃の比重がでんでん違うのよね.
江戸までの合戦って,銃の撃ち合いも重要ではあるが,最終的には兵の突撃による敵陣の粉砕で決着がついた.
その流れを受けて太平な江戸時代は,槍を主力に行列とかで「魅せる」軍隊でしかなかった.
それが幕末に,兵の銃手化っつう流れになる.
つまり,本当に銃が主力になる.
また舶来モノの銃で,銃の火力が上がったってのもある.
幕末の合戦も,初期にはヨロイつけて・・・って武士も多かったんだけど,先祖伝来・・・つまり下手したら数百年前?の装備一式をつけて出て銃に撃たれ,ホコリだらけな装備から細菌感染で重体になるってのが多発した.
で,上からの命令で「ヨロイを付けるな」ってのが出されている.
あと,戦国期の火縄銃にも負けない鎧っていう伝承も多いが,(おそらく,だが)これは硬いヨロイ・・品質優良っつうシールみてーなもんで,弱装弾でヨロイを撃って,弾をハジイタあとをつけていると思われている.
いわんや,舶来洋式銃の火力相手には・・・^^;
へち ◆kK77XB6/ug in 軍事板
青文字:加筆改修部分
西洋の中世後期〜近世初期と混同してるのかしらんが,金属加工技術の発達と共に銃の技術も発達しただけで,――というか,高度な鎧が作れるから銃の製造に応用される――,銃を防ぐために鎧が発達したと言うのはよく流布される勘違いだぞ
日本に渡った西洋甲冑を基にした南蛮胴具足とかも,銃弾に対する高い防御力は持ってるが,中世期の銃というのは別に厚い金属鎧でないと銃を防げ無いなんてことは全然なく,有効射程(威力が減殺せず命中精度も期待できる一定の距離)も短いので,少し離れれば旧式甲冑でも十分防げたりもしている.
むしろ,銃なんかよりクロスボウの威力の方が脅威と見なされてたこともあったくらいだ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
『センゴク』という漫画で,竹束で火縄銃を防いだシーンがありました.
当時の火縄銃は具足を簡単に貫通したらしいのですが,竹を束にしたぐらいで防げるのでしょうか?
・実際に当時の鎧を用いての実験↓
――――――
威力の実験 −はたして鎧は鉄砲に対抗できたか−
1550フィート秒から1590フィート秒で安定しているのと,意外に早い.
これは約480メーター秒 になり,現代の拳銃のそれよりも早い.
使用した火縄銃は19世紀初頭の国友筒で,二重ゼンマイからくりという上等な機関部を備えたもので,全長130センチ,銃身長100センチ の日本の火縄銃としては一番一般的な大きさのもので,銃腔内の状態も最高のものであったことは言うまでもない.
この実験の結果,50メーターで二枚の鉄板をかるく打ち抜いているので,貫通力は約3ミリ以上であろう.
しかし火薬の量を増やせばもっと威力は増大するので,あなどれぬ武器である.
――――――
【回答】
一応,防げたらしいよ.
17世紀と19世紀では火縄銃の威力も違うしね.
出土した竹束
▼ 距離と命中角度の関係で,防げるときも防げないときもあった.
防げないときは,竹束の中に砂利袋を巻きつけたとか.
一応,竹は銃弾を跳弾させやすいものの一つで,猟銃などの講習会では,竹林では撃つなと教えられる.
あと,そのリンク先.
「鎧では火縄銃に抗しえない」と結論してるけど,それは違うだろう.
粗製乱造の兵卒用の具足が撃ちぬけたから,丁寧に作られた鎧が撃ちぬけるとは限らない.
この銃は,初速と弾丸重量から初活力は300J程度.
さらに球形弾丸は空気抵抗が大きいので減速が早い.
当時でもこの程度は防げる鎧は作れるだろう.
南蛮胴とかあるしな.
▲
【関連リンク】
「続・東龍庵雑事記」:戦国時代,竹製の盾は存在していた
【質問】
伊達政宗は,会津攻略の際に,米沢から檜原を超えて猪苗代に殺到しました.
まあこれは陽動だったんですが.
現在の檜原は磐梯山噴火の影響で当時の地形とは若干違いますが,非常に険しい山です.
千人単位の兵が,40Km以上も山を越えるのは,道があったとしても,当時は困難だったと思います.
(1)
補給は人力もしくは馬だと思いますが,馬って獣道のような山道を通れるんですか?
足が折れそうですが?
競馬場にいる馬が,山道を走るのは想像できません.
(2)
当時の行軍は1日に20Kmがせいぜいと聞きましたが,水の確保も困難な山道を2日もかけて通過できたんですか?
【回答】
当時の馬は,現代の競走馬であるサラブレッドとは違う種類.
戦国時代の日本の馬は,蒙古系の日本在来馬.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%A8%E6%9D%A5%E9%A6%AC
日本在来馬は「側対歩」,すなわち,前後の肢を片側ずつ左右交互に動かす変則速歩で歩く.
この歩様は上下動が少ないため駄載に適し,特に険しい山道での運搬には向いている.
体格のわりに力強く,特に後ろ脚が発達していることもあり,日本在来馬は傾斜地の歩行をあまり苦としない.
競馬場の馬は,明治以降に日本に持ち込まれたサラブレッドやアラブ系.
完全に競走馬として作られた品種.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%A9%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89
また,険しい道ならば,馬を降りて曳くことで対応可能.
基本的に行軍では走らない.
その質問で参考になる本は,佐々木春隆の一連の日中作戦物.
山中を駄馬を引いて行軍する戦争をやっていた連隊の話だから,大変参考になる.
ちなみに水がどうしてもなければ,馬に積む,或いは強行軍をやり日程を縮める手もあることはある.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
元寇のときに「てつはう」に驚いた馬が暴れだして落馬する武士が続出した,と小学校の時習ったんですけど,「ラスト・サムライ」では大砲に驚かずに馬が突撃してます.
どっちが本当なんですか?
【回答】
鉄砲や大砲が戦争で普通に使われるようになってからは,馬には音で驚かないように訓練したし,驚いてパニックにならない素質のある馬を特に選んだりした.
「ラスト・サムライ」の時代設定(幕末〜明治)なら,日本の馬でも武士が乗るような馬は,火砲の音でパニックになったりはしなかっただろう.
軍事板
【質問】
戦国時代,火縄銃に使われる硝石は輸入?
【回答】
当初は専ら,東アジア・東南アジアからの輸入に頼っていました.
しかし,1580年代には塩硝の国産が盛んになってきます.
戦国時代末期には、蚕のフンやヨモギから作った火薬が使われていたようです.
【参考ページ】
http://tig.seesaa.net/article/78885653.html
http://proto.harisen.jp/mono/mono/enshou-yunyu.html
http://tokyo.atso-net.jp/index.php?UID=1127487849
http://niyon.com/words/trade/archives/2006/03/_php.html
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/tettupou.htm
【質問】
戦国時代の火縄銃はなんで銃剣が付いてないのですか?
【回答】
西洋で「銃剣」ができたのは,銃の砲身が長く(命中率,弾道安定性と射程距離延伸の理由)なったため,先端に刃物を取り付けて槍の代わりにできたという側面も大きい.
それから,西洋(13〜14世紀)でも日本でも,銃剣発明前は長柄武器と銃とで隊列が混交していた.
銃の連射速度の関係上,銃隊は接近されると弱かったんで,守るために槍などの部隊が一緒につく.
しかし接近戦になると,槍隊にとっては隊列に銃隊が混じってると,自分たちの邪魔になる.
また,槍隊は遠距離戦やってる時は,槍しかもって無いので参加できない&反撃できない&守るという立場上,逃げるわけにも行かず,難儀する.
これが銃に銃剣を取り付けて,銃を槍として使う必要性を生じさせた.
しかし,ここで西洋と日本とで,僅かな,それでいて大きな違いが生まれる.
日本では西洋ほど騎兵突撃が行なわれなかった関係から,銃に対して接近突撃する戦力(騎兵)が少なく,自然,銃も常に槍などで守らなきゃならない必然性が,西洋より少なかった.
(騎兵突撃があまり行なわれなかった理由は,主に日本の地形制約上,騎兵突撃に向く戦場および状況が少ないことと,さらに,日本は牧畜に適した土地が少なく,騎兵を一定の数をそろえて単独兵科として部隊編成する馬の数が調達しにくかった,
他にも当時の軍編成上の理由,などが言われている)
つまり,日本では銃隊が接近戦に晒される状況が少なく,
「銃に刃物取り付ければ,槍隊同行させなくても便利じゃね?」
という必要に迫られることも少なかった.
それで日本で銃に銃剣が取り付けられるようになったのは,西洋戦術も入ってきて,歩兵は全員銃で戦うようになった近代以降になってからになった.
もし戦国時代がもっと続いていても,銃剣は日本では生まれた可能性は低いかもしれない.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
『鉄砲を捨てた日本人』って本はどうなのでしょうか?
アマゾンのレビューはあまり信じられないのですが.
>>スペイン人は一度だけ日本の征服を考えたかに思われるが,その思惑はたちまち一蹴された経緯がある.
>>1609年,太平洋方面総督に対して勅令が送られ,日本軍を前にして
>>「我が軍隊と国家の名誉を損なうような危険を冒さないように」
>>との厳命が下っているのである
>>(フィリピン当局者であったスペイン人,Antonio
de Morgaの記録にある).
>>ただ一度だけ,日本の不正規軍…
>>…浪人と呼ばれる近寄るべきでないサムライが主体…とスペイン人との間で会戦が行われたことがある.
>>1620年代,シャムにおいてだ.
>>どちらが負けたか?敗れたのはスペイン人である.
なる本書の抜粋が書き込んであったのですが,実際載っているのでしょうか?
また,購入するほどのものか,購読した人がいらっしゃいますか?
感想をよろしくお願いします.
【回答】
図書館で借りて読んだだけなんで,その記述があったか記憶が無いんだが,ちゃんとした研究書というよりは,歴史をネタにしたエッセイだったよ.
史実を突き詰めるというよりは,日本が武器を捨てたというのを前提にして,軍縮を語る感じ.
「鉄砲と日本人」の鈴木真哉あたりと同じく,鵜呑みにはできない感じ.
色々読むうちの一冊として参考にするんならいいんでない?
軍事板,2009/12/18(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
民話などでよく猟師が出てきて鉄砲で撃った,というのを見かけますが,安土〜江戸時代の一般人の銃所持に関して,許可・法令というものはあったのでしょうか?
また,容易に銃は入手可能だったのでしょうか?
【回答】
以下によれば,害獣駆除や護身用に限り,「お上より拝借」という形で所持が許されたという.
それらの銃は「猟師鉄砲本帳」に所有者や種類,来歴まで記録され,また,毎年「鉄砲改役人」の検閲を受けた.
この鉄砲改めは浪人,切支丹には特に厳しく管理・取締りにあたったという.
以下引用.
――――――
兵農の分離が確立した江戸時代,幕府,諸藩は猟師の鉄砲,農耕に有害な鳥獣に使う威鉄砲,盗賊等に備える用心鉄砲だけをお上より拝借という形で所持を許し,毎年支配の役所に預り証文を差し出し,乱用しないことを誓約させました.
江刺でも,各村に「猟師鉄砲本帳」があり,大肝入からは「御預かり鉄砲証文」が提出されました.
本張は持主の氏名,鉄砲の種類(何匁銃),鉄砲の来歴を詳細に書き,毎年「鉄砲改役人」の検閲を受けて村肝入に交付されました.
明和6年(1769年)の「村鉄砲持主名元書上」では・・・(中略)・・・で合計295丁の鉄砲を民間で保有,特に山手に数が多く猟師が多かったことがわかります.
山立猟師には板判(鑑札)が支給され,御役金を上は100文,中60文,下20文が取り立てられました.
譲渡の際は,本人と組頭,肝入,大肝入の連名で鉄砲改役人の許可が必要でした.
この鉄砲改めは浪人,切支丹には特に厳しく,村に浪人が来た際は肝入は鉄砲所持の有無を調べ,鉄砲持ちの場合は指南する者でも必ず届け出させました(文政9年の布令).
切支丹については,鉄砲の持ち主には類族の者もあろうから「切支丹方役人」と協調し,間違いのないよう取り計らえ,ことに猟師の代替りの節は一層手落ちのないように−と命じています.
(元禄6年の布令)
――――――vol.100 近世の江刺37 仙台藩の政治(31)(広報えさし昭和63年11月号より)
日本史板
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