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(下へさがっていった途中に各話タイトル付き一覧があります)
「VIPワイドガイド」:徳川政権って今思ったらそんなに昔の話じゃないんだな
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 三河編 【1〜3話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 中央編 【4〜5話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 中央編 【4〜5話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 中央編 【6話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 覇王編 【第7話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 覇王編 【第8話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 愛憎編 【第9話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 愛憎編 【第10話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 落日編 【第11話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 夢幻編 【第12話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 日輪編 【第13話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 争奪編 【第14話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 争奪編 【第15話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 対決編 【第16話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 艱難編 【第18話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 統一編 【第19話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 衰退編 【第22話】
「あんそく」>やる夫が徳川家康になるようです 行軍編 【第24話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 関が原編 【第25話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 始末編 【第26話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 開府編 【第27話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 日蝕編 【第28話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 琉球編
【第29話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 老若編 【第30話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 分裂編 【第31話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです 忠臣編 【第33話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第1話〜第5話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第6話〜第10話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第11話〜第15話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第21話〜第23話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第24話〜第26話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第27話〜第29話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第30話〜第32話】
「あんそく」:やる夫が徳川家康になるようです ダイジェスト 【第33話〜最終話】
『家康が毒殺した10人の武将』(西村誠著,双葉社,2013/08/07)
『家康公伝 5 逸話編 現代語訳徳川実紀』(大石学著,吉川弘文館,2012.2)
【質問】
なぜ松平家康は「徳川」と名字を改めたのでしょう? 必然性,改めた経緯など教えてください.
【回答】
栄禄7年,松平家康は目出度く三河統一を果たします.
足利幕府によって承認はされましたが,周囲はご存知の通り名門だらけ.そこで彼らに対抗し正統な支配者であることを内外に知らしめる為に,三河守護職に任じて欲しい,と朝廷に申請しました.
しかし,断られました.氏素性がはっきりしなかったためです.
そこで家康は,吉田兼右に献金し奔走してもらいました.
吉田は萬里小路家の古い記録から,
「元は源氏で途中で藤氏を名乗った」
などの論を構築して纏め,近衛前久を経て朝廷に提出,永禄9年,従五位下三河守に任じられました.
このように,
・徳川の名字を名乗るときに,惣領家として松平一門内での差別化(松平全体からすると,実は嫡流ではない),
・源氏として武門の家を正式に自称すること,
・三河一国の正式な支配者であること,
・それを周辺諸国へアピールする
などを同時に行うという,非常に重要な意味があったのです.
【質問】
徳川家臣団は,家康への忠誠心は強かったのか?
【回答】
河合敦によれば,むしろ平然と主君を見限る傾向が強かったという.
・1563年の三河一向一揆では,徳川家の重臣の多くが一揆勢に加担し,家康を窮地に立たせていること
・1572年の三方原での敗戦後,大久保忠世(ただよ)は「殿が糞を漏らして逃げてきたぞ」と家康を嘲笑したこと
・1579年,家康の妻子が武田に内通していると信長から疑われた際,信長に問いただされた酒井忠次はこれを肯定し,家康は妻子を死に追いやらなければならなくなったこと
・1585年には石川数正始め,数名の重臣が,家康を見捨てて秀吉のもとに走っていること
を,彼はその根拠に上げている.
詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.184-185を参照されたし.
ただしこれについては,ちょっとばっかし因果関係に飛躍がある上,原因についても疑問がありますので,ちょっと思うところを.
>・1563年の三河一向一揆では,徳川家の重臣の
>多くが一揆勢に加担し,家康を窮地に立たせていること
事実一向宗側についた武士が多いのは事実ですが,家康の姿を見た武士たちが恥ずかしがって逃げ出したという美談も伝わっている上,乱の後,かなりの数の家臣団が帰参しています.
“平然と”見捨てたというのはどうかと(家康が危なかったのは事実ですが).
本気で彼らが家康を見限っていれば,後の家康の腹心である本多正信のように,各地に渡って奉公先を探しても良かったわけですし.
>・1572年の三方原での敗戦後,大久保忠世(ただよ)は
>「殿が糞を漏らして逃げてきたぞ」と家康を嘲笑したこと
だから何?ってレベルなんですよね…
戦国時代はまだ江戸時代みたいな窮屈な身分制・儀礼至上主義社会だったわけじゃなし,これをもって忠誠心が低かったといわれても.
このあと大久保忠世が家康の寝首を掻いたとか言うなら,まさに表題のとおりなのですが,むしろ彼は武田方に夜襲を仕掛けて面目を施したというくらいですし.
付け加えれば,このとき数人の武士(そのうち一人は一向一揆で裏切った武士)が家康を逃がすために身代わりになって討ち死にしていますし,三方ケ原はむしろ「精忠家康家臣団ここにあり」という戦です.
>・1579年,家康の妻子が武田に内通していると
>信長から疑われた際,信長に問いただされた
>酒井忠次はこれを肯定し,家康は妻子を死に
>追いやらなければならなくなったこと
信康・築山殿については家康との不仲説や謀反説もあり,信康の死については古今さまざまにいわれています.
積極的に家康が信康を殺したという異説も存在していますし,これをもって忠誠心云々するのは(今の段階では)不適切のように思います.
小説家・池波正太郎なんかは
「あのころの家康は,三方原を見れば分るように,むしろ血気盛んな男だ,
信長がスジの通ってないことを言えば,信長と同盟を破約してでも断っただろう」
といってました.私もそんな気がします.
>・1585年には石川数正始め,数名の重臣が,家康を見捨てて秀吉のもとに走っていること
これのみ当を得ているかとおもいます.
当時の家康は反秀吉勢力を糾合し,北条とも手を組んでがっちり闘う構えだったわけですから.
でも「あっさり」か…? 私としてはむしろ秀吉の調略の手腕を誉めたいところ.
……とこんな具合です.
家康は信長型の絶対的な尊敬と畏怖を持って使えられる君臨者でもありませんでしたし,家康の家臣団は一枚板ではありませんでした.
裏切り者もありました,
家中不和もありました.
武功派と文治派は幾度となく争っています.
ですが,それをもって家康の家臣団は主君をあっさり見捨てるような集団なんだ,と言う結論は針小棒大といわざるをえないのではないでしょうか.
そんなん言ったら信長家臣団のほうがやばいです(笑).
裏切るわ(荒木村重,松永久秀),命令に逆らうわ(秀吉の越前からの勝手な撤兵),跡目はあっさり無視されるわ,家老筋の大将は陰口叩くわ――佐久間信盛が叱責を受けた時に,「そんなこと言ったってわしらがおらねば何ともならないでしょう」,とゆーよーなことを言ってさらに怒りを買ってる――,大体若いころなんて柴田勝家は信長を殺そうとしてますよ!
世に伝わる話の逆接を考えるのは面白いのですが,事実としては戦国時代の家臣団の中では,徳川家はまとまりが良かったほうじゃないんでしょうかねえ.
▼ 秀吉が1国にも値する茶器を,家康公に見せびらかした時に,
「私にはそのような高価なものは持ち合わせておりませんが,私を大事に思って火中へも飛び込む,五百騎ばかりの家臣が居るので,その者達を大切にしております」
ってやり込めた逸話が泣ける.
現代日本の経営者達に聞かせたい.
日本史板
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
石川数正にしても,対秀吉政策の対立で居られなくなったってところでは?
主戦論が幅を利かせている(引っ込みがつかなくなっているともいう)状況で,融和を唱えるのも苦しくなったのでは.
数正が出奔したおかげで「数正のせいで軍事機密が漏れた,これでは戦えない」と鉾を収める理由付けになったという説もあります.
徳川の天下になって以降も特に報復はされてませんし.
(息子たちが大久保長安事件に連座して改易されているので,それが報復かもしれませんが)
【回答】
>主戦論が幅を利かせている
この時もある種,武功派vs文治派ですね(笑).
そう言う隙間につけ込んで口説き落とすのが,秀吉の人たらしの名手たる所以かなあと.
しかしそう考えると,間接的に秀吉を“勝たせた”本多忠勝・榊原康政なんてのは,とんでもない奸臣ですな(苦笑)
>数正のせいで軍事機密が漏れた
この話では,武田流(甲州流)に慌てて軍制を改めたことが有名ですね.
>徳川の天下になって以降も特に報復はされてませんし
一度よそに行ったからしょうがないんですが,真田信之でも準譜代なのに外様格にされたのは,遠まわしな報復かなあと思ってます.
あの執念深いタヌキジジイがそうそう恨みを忘れるとも思えませんし.
【質問】
『家康に過ぎたるものが二つあり.
唐の頭に本多平八』
の「唐の頭」とは何のことですか?
【回答】
これ
http://www.kozando.co.jp/catarog/sekigahara/heihachi.htm
幕末期に官軍が付けたのでも有名な,ヤクの毛でできた兜飾り.
染めた色別に黒熊(こぐま),赭熊(赤熊,しゃぐま),白熊(はぐま)と言う.
当然舶来品.中国四川省やチベット産.
戦国時代に流行りだし,家康は難破した南蛮船から相当数かっぱらったという話もあり(あとで賠償している). だからこそ「家康に過ぎたるもの」と呼ばれたりした.
で,これは幕府内でストックされていたのだが,明治維新のさい,それを官軍は鹵獲(かっぱらい)して上野戦争以降で使い出した.
上記の色別にそれぞれ薩摩,土佐,長州軍が使い分けしている.
尤も,南蛮船がくる少し前の享禄三(1530)年に龍造寺家兼が大内との合戦でピンチになったとき,突如,鍋島清久親子率いる赤装束の赤熊武者百騎が現れ,大内勢をコテンパンにしたという話あり.
南蛮船渡来以前から流行だしたということかな.
余談だが,家兼いたく感激して孫娘を清久の次男清房に娶らせ,龍造寺と鍋島の姻戚関係成立.
のちに龍造寺の家督をゲットする鍋島直茂は,この夫婦の子.
【質問】
旧武田家臣についてですが,徳川家臣団に多いそうですが信憑性は高いのですか?
東北諸藩にも多いそうですが,こちらの信憑性は?
武田家臣団って言うと農のイメージが大きくて,山梨や長野の庄屋あたりなら,旧武田家臣っと名乗っても納得できるのですが,兵農分離された純粋の士であろうあちこちの諸藩で散見されるものについての信憑性はいかに?
【回答】
武田が滅んだあと,その領地は徳川家が大部分を支配した.
(織田氏の部将たちは本能寺の後,殺されたり逃げたので)
のちに羽柴氏と徳川氏が争ったときに,家康の重臣だった石川数正が羽柴氏に出奔,軍事機密が流出したということで,徳川氏の軍法を武田氏の方式に変更した.
ってことは経験者は仕官に有利.
家康が,自分が負けたことで武田氏のことを評価していて,遺臣を積極的に登用した.
それにまた,徳川氏が甲斐・信濃に進出するに当たって,その地域の旧来からの慣習などを熟知している武田氏の遺臣は,徳川氏側としても是非スカウトしたい人材だったということだな.
元々その土地にいた者を採用するということは,現地の民衆の人心を動揺させないという点でも効果的.
それに徳川氏は駿河を勢力下に収めた時点で,岡部正綱などいったん武田氏に下っていた,元今川氏の遺臣層の多くを吸収しているから,こうした者達を通じて,甲斐や信濃にいた武田氏の遺臣達に対しても徳川氏への仕官を呼びかけていた側面もある.
これらのことが重なって,徳川氏には武田氏から流れた武士が多いのではないかと.
東北は良く知らないが,越後の上杉氏(江戸時代は米沢)は武田が滅亡する直前,同盟関係(信玄の娘が上杉景勝の正室)になっていたことや,織田氏と敵対していたので,こっちに逃げた人も結構いる.
そのことを指しているのかな?
また,米沢以外の東北だと,戦国期の甲斐武田氏とは直接的に関係はないけれど,南部氏や松前氏のように,祖先が甲斐源氏だというような家系伝承を持つ大名家があるので,そうしたところにいる人達が武田氏との縁を主張しているような面もあるんじゃないかな.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
三河一向一揆について教えてください.
【回答】
戦国時代……
…… ''';;';';;'';;;,.,
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ある種,異様な戦を体験した男がいた.
南無阿弥陀仏 ''';;';';;'';;;,.,
南無阿弥陀仏
''';;';'';';''';;'';;;,., 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 ;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
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男の名は,
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松平家康.
桶狭間の戦いのドサクサに紛れて今川氏から分離独立し,尾張の織田信長と同盟を結び,西三河を平定しかけた男の前に立ち塞がった敵の名は,
南無阿弥陀仏 ''';;';';;'';;;,.,
南無阿弥陀仏
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南無阿弥陀仏 ;;''';;';'';';';;;'';;'';;;
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南無阿弥陀仏γ⌒ヽ γ⌒ヽ γ⌒ヽ γ⌒ヽ γ⌒ヽ
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三河一向宗.
この争いの切っ掛けは,諸説あり良くわかっていない.
どれが決定的な原因だとは云えない,ほんの小さな出来事の積み重ねだったのかもしれない.
理由はどうあれ,争いは起こった……
この争いは,ただの一向宗門徒との争いではなかった.
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\ / く l ヽ._.ノ ',
ゝ \ < バーカ! >
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家康の近習であった者や,父の代から松平家に仕えていた重臣が一向宗側につき,家康と争う事となったのである.
結果として,家康はこの争いに勝ち西三河を平定し,彼から離反した者も許した.
しかし,家康は知ることとなる.
恩顧,主従の繋がり寄りもよりも強い,宗教の力を……
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家康にとって,この争いは暗い影を落とすコトとなったのである…
ベタ藤原 in mixi,2010年02月28日06:27
【質問】
家康の死因について質問です.
・天ぷらで胃もたれを起こして死んだ
・天ぷらを胃もたれを起こしたので,自分で調合した薬を飲んだら死んでしまった
・海老天ぷらの海老の尻尾が喉に刺さって死んだ
と色々聞いた事があるんですが,本当の死因は何ですか?
【回答】
鯛の天麩羅以前に,すでに胃がんだった.
残された記録から見て,胃ガンだったのは確かで,食あたりが死因ではない.
無理して大坂の陣を起こして豊臣家を滅亡に追い込んだのも,自分の死期を予感してたからだろうな.
豊臣家を滅ぼして気が緩んだのか,1616年に死んじゃってるわけだし.
当時は亀腹と呼ばれる胃ガンがかなり多かったようで,伊達政宗も胃ガン.
ちなみに,江戸時代の人間が朝鮮人参を異常に珍重したのは,家康が珍重したせい.
家康の場合,関ヶ原後に3人も子供を成したため,また,当時としては長命だったため,回春剤としての効能も含め,庶民に朝鮮人参幻想が生まれたようだね.
家康が自分で調剤してたのは有名だけど,この時はちゃんと医者が薬を投与している.
それよりも,吉田梵舜が家康倒れるの報を受けてから,家康呪殺の堂籠りをしてることの方が,興味をそそられるね.豊国廟を破壊された怨みなんだろうが,実際には家康にも吉田神道の教えを授けてるわけだから,面従腹背ってやつか.
【質問】
家康は日光東照宮に,どのように葬られたのか?
【回答】
今,神社辞典と言う本を読み始めたのですが,神様の名前はそれこそ八百万あって中々頭に入りません.
しかし,古代の神々は兎も角,近世でも神として祀られた人についても結構居たりします.
その筆頭と言えば,徳川家康ではないでしょうか.
久能山東照宮とか日光東照宮とかを建てて,自分自身で神になった訳です.
そう言う意味では,織田信長にでも影響されたのでしょうかね.
で,その日光東照宮で,家康の神像の両脇に祀られているのが,天海と藤堂高虎だったりします.
天海は,家康の神格化に全身全霊を傾けた人であり,藤堂高虎は外様大名ながら家康の信頼を得て,建築に辣腕を振い,この東照宮建築にも全力を尽くした人だったりします.
そう言えば,『影武者徳川家康』と言う小説がありましたねぇ.
さて,豊臣家を滅ぼした翌年の1616年,1月21日に駿府の田中に鷹狩りに出かけた家康は,その夜俄に発病し,4日後に帰城.
自らの死期を悟った家康は,4月2日頃,本多正純,南光坊天海,金地院崇伝を呼んで,死後の措置について遺命を発しました.
金地院崇伝の『本光国師日記』にはこう書かれています.
――――――
遺体は駿河国久能山に葬り,江戸増上寺で葬儀を行い,三河国大樹寺に位牌を収め,一周忌が過ぎてから,下野の日光山に小堂を建てて勧請せよ.(神に祀られる事によって我は)関八州の鎮守になろう
――――――
その他詳細の指示をして,4月17日巳の刻,駿府城に於て家康は75年の生涯を閉じました.
その夜の内に遺骸は久能山に移されます.
霊柩には本多正純他3名の供奉,将軍秀忠の名代として土井利勝が派遣され,徳川義直,頼宣,頼房それぞれの名代として,成瀬正成他2名が従い,葬送を執行する為に崇伝,天海,梵舜が供奉した他は一切山に登る事を禁じました.
とは言え,何も無い場所に遺骸を放置する訳に行きません.
これに先立ち,駿府町奉行彦坂光正,黒柳壽学,幕府の大工頭中井大和守正清が久能山に登り,3間四方の仮殿を突貫工事で建設し,19日に竣工しました.
夜に早速,御遷座の儀式が行われ,これには秀忠他老臣数百人が葬送の行列を整え,家康の棺を仮殿に移しました.
4月22日,秀忠は再び久能山に登り,中井正清に久能山東照宮の社殿を急いで建立するように命じ,1617年12月には本社,唐門,東門,玉垣,廟門,廟所宝塔などの主要社殿が竣工しましたが,造営は引き続き行われ,1627年に本地堂,宝蔵,楼門,1638年は五重塔が完成しています.
社殿そのものは,旧来此処にあった久能城を廃し,その地に造営されました.
1640年には本殿の真浦にあった木造の御宝塔(神廟)が石造に改められました.
楼門を入って1段目は東に山王社,西に厩舎,2段目は東に鐘楼,西に家光寄進の五重塔があり,その間に鳥居があります.
3段目には神楽殿,奥に宝殿,向い側に御膳所が造営され,最上段が本社の1郭で権現造の本社を玉垣で囲み,正面中央には唐門,東の東門,廟所の入口の廟門を配し,本社石の間の西側は廊下で御膳所に連絡していました.
更に,本殿の東側には本地堂が建てられています.
現在は,神仏混淆の禁止により,五重塔や本地堂などの仏式に関する建物一切が廃棄され,本地堂跡地には山王社が移りましたが,現在でも主要構造物はそのまま残っています.
時は遡って,家康が死ぬ前日の4月16日,幼い頃からの近侍である榊原照久に
「東国は譜代の者が沢山いるが,西国は違う.
西国を鎮める為に,我が神像を西に向けて安置せよ」
と命じ,町奉行彦坂九兵衛光正に,家康と共に幾度も合戦を乗り越えてきた『三池の刀』を手渡し,これで罪人の試し斬りをせよと命じます.
彦坂が
「心地よく土壇まで斬込みました」
と報告すると,家康は2度3度と打ち振ってから,久能山に納めるように指示し,更に薨去の日には
「神像と三池の刀の鋒を西に向けて安置せよ」
を命じ,更に遺骸,神像,血塗られた愛刀,これら呪物を西方鎮護とするよう命じて彼は死に臨んだ訳です.
と言う訳で,その遺骸・神像・三池の刀を埋葬した廟所(奥社・神廟)は,本殿真奥の高台に西に向けて神廟・石塔が現存しています.
尤も,西方鎮護説に対する異説があり(埋蔵金説じゃないよ!),久能山から真西に向かうと,家康の生母於大の方が子授け祈願をしたとされる鳳来寺,そして家康の生誕地である岡崎の大樹寺を通過し,日吉大社に達します.
しかも,鳳来寺には1651年に東照宮が建設され,大樹寺にも同様に東照宮が造られ,日吉大社にも1633年に天海自らが日光東照宮の雛形を移建しています.
つまり,埋葬地,出生祈願地,埋葬地全てが東西一直線に並び,更にこれらに東照宮が建立されていると言うのは,とある学者をして,「死と再生を繰り返す太陽が東に昇るように,家康が神として再生する為には,神の世界である東に葬らねばならなかった」として,これを『太陽の道』と命名しています.
廟所は『太陽の道』を軸線とした配置ですが,本社本殿と奥社を結ぶ南北線は,富士山を通り日光東照宮へと続きます.
久能山東照宮の配置は,楼門−唐門−拝殿−本殿−神廟と一直線に並び,その線を延長すると日本平を越えて富士山に行き当たります.
この線を更に延長すると,徳川家遠祖の地とされる,上州世良田を通って日光に至ります.
この線は富士を通る事から,『不死の道』とも取れますが,これは更に北辰の道でもあります.
正直,眉唾かも知れませんが,こうした考え方も出来ると言う事です.
で,その日光ですが,この社殿配置は,神霊を祀る本殿,墓所である神廟も此処では南面しています.
日光という地は,若干(6度)の偏角はありますが江戸のほぼ真北で,真北の位置には北極星があります.
この北極星は,不動の星である事から古代中国では宇宙の中心として考えられ,天帝の宮殿とも目されていました.
これが日本に伝わり,都城建築の他広範に影響を与え,南北軸こそ宇宙の中心軸と考えられていました.
日光が江戸のほぼ真北にあると言う事は,東照宮が宇宙の中心軸線上に祀られた事になり,その神格は宇宙を主宰する神と一体化された事を意味し,久能山で日本の神に再生した家康を更にグレードアップさせて宇宙全体の神に位置づけ,更に久能山に神として再生された家康が,富士(不死)の山を越えて永遠の存在となり,宇宙の中心軸に鎮まった事になる.
則ち,太陽の道と北辰の道が不死の道によって連結された事になると言う訳….
冗談抜きで,久能山を中心とする太陽の道(東西軸)と江戸から日光への北辰の道(南北軸),それに不死の道(久能山〜富士山〜日光ライン)が連結されると,三角形が出来上がります.
久能山日光東照宮楼門−本殿−神廟軸を延長すると,富士山頂の少し西を通り,世良田東照宮を通過して日光東照宮に至ります.
また,日光東照宮−寛永寺東照宮線を南下する線上に点を置くと,それは呪術的な三角形になります.
その点にの近くには,関東最古の勅願所である日本寺が,その場所は修験道,羅漢霊場として有名な鋸山の麓です.
この鋸山と久能山東照宮,更に日光東照宮の御神体山である男体山で作られる三角形も呪術的な三角形を構成する事になり,こうした正確な測量,設計の影には藤堂高虎が居たのではないかと言う仮説が導き出されます.
何しろ,天海と組んだ,篠山城と伊賀上野城の地選は彼無しでは出来なかった事でしょうから….
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/26 20:53
【質問】
松平忠輝の配流後についていろいろ検索してみたんですが,今一つはっきり分かりません.
そもそも配流,幽閉というのはその場所から一歩も出られない監禁のような状態なのでしょうか?
【回答】
配流は死罪に次ぐ重い刑罰.
流人は島において牢名主に類した流人頭,および村役人の統制に服し,島民の漁業・農業の手伝いをして苦しい生活を送ったが,技能をもつ者や,本土から金品が送られてくる者は比較的余裕があり,事実上妻帯して家庭をもつこともできた.
武士の子や家来は願えば親や主君と同船,島で同居できる例もあった.
島に定着し赦免されても帰島を願う者さえあり,その願いも許可されている.
松平氏は,伊勢朝熊(あさま)へ配流.
不自由はあっただろうが,それなりの生活はできたのではないだろうか.
幽閉のほうが,狭い敷地に蟄居と言う感じ.
日本史板,2003/07/11
青文字:加筆改修部分
【質問】
三浦按針(みうら・あんじん)って誰?
【回答】
三浦按針 (1564〜1620)は本名をウィリアム・アダムスと言う英国人です.
12歳のときから造船所の弟子となって, 航海術,砲術,天文学,幾何学,数学などを修学し,航海士兼船長の資格を取って英国海軍入り.
その後,1598年にオランダの貿易会社に移って,,オランダ東洋艦隊の「リーフデ」の航海長となりましたが,日本に向かう途中,暴風に遭い,1600年4月18日,臼杵湾に到着.
家康の外交顧問にむかえられ,横須賀市に250石の領地を与えられた.
彼は洋式船建造,対英貿易などに従事した後,1620/5/16,平戸で病没した.
享年57歳.
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