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◆人物
戦国時代FAQ目次


 【link】

「D.B.E.ミニ型」:DQNネーム戦国時代編

D.B.E. ミニ型」:「直江状」 最古の写し公開 長浜城歴史博

D.B.E. ミニ型」:武将・片倉小十郎にちなんだブックカバーを販売

「MRI」: 大河ドラマ化されてもとても1年も話がもたない武将

朝目新聞」●上杉謙信女性説ってのがあるけどさ・・・.  (of イフカルト)

朝目新聞」●出川信長

朝目新聞」●どの武将の辞世の句が好きですか?  (of 肉汁が溢れ出ています)

「あんそく」:やる夫が真田家に生まれたようです

「あんそく」:やる夫が真田家に生まれたようです 【4】

『越前朝倉一族 新装版』(松原信之著,新人物往来社,2006.12)

 「朝倉宗滴話記」は79歳の老年にいたるまで武者奉行一筋に徹し,加賀出陣中に没した朝倉教景(宗滴)の語録集で,生涯を通じて体験・見聞した中から会得したもの,父母・叔父の景冬などから受け取った様々な教訓などを収録した物.
 条目については長文・短文もあり,配列も一定せず,前後に脈絡もなく,折に触れ,時に感じて語ったことを家臣である萩原八郎右兵衛尉宗俊が書きとめた物で,宗滴の生き様・独特の哲学がにじみ出ている,としている.
 写本については群書類従本(81ヶ条)を含めて五点しか見いだせず,欠落部分を含む写本もあり,各本の条数は一致しないが,条文の半数近くは軍略・大将の心得などで,残りが人生訓となっている.

●軍略について(カッコ内の数字は群書類従本の番数としている)
 「勝ち戦には大体,危険な作戦が伴うものだと昔から伝えられているが,英林様はまず敵を知ることこそが戦いを勝利に導く秘訣だと云われた」(38)
(英林様:朝倉孝景(1428〜81).越前守護代であった甲斐氏を追放し,越前を平定.この事跡から朝倉氏初代とされている)
「無理な城攻めをすると,かえって味方の兵を無益に損ずることになる」(1)
「敵を攻める時,敵方は持ちこたえられないだろうなどと,安易な予測をしてはいけない」(4)
「敵方の者を買収してでも敵の作戦を知ることが,名大将の基本である」(79)
「戦場での伝令は口頭となるので正確に」(7)
「陣取り,或は陣替えの時は,雨天の用意をして晴天の時に決行せよ」(42)
 この他,敵の夜襲を受けた時の対処(73)や大川に船橋を架ける時の方法(80),野戦の際の馬糧(5)などについて.

●戦時の際の大将の心得
「合戦の場で一切,不可能などとは云わぬこと,対象の心中が見すかされてしまうから」(3)
「大軍が近づいたとの情報を耳にして退却するのも軍略の一つといえるが,一旦,敵軍に遭遇して逃げるのは,かえって危険で全滅の恐れがある.
 耳は臆病でも,目は勇敢でなければならない」(75)
「大事の合戦や大儀な退却の時は,部下が対象の心持ちをいろいろと試そうとするものだから,決して弱々しい言動を見せてはいけない」(9)
「大将となるべき人物は,平素より武芸に心掛けることが肝要である.
 一旦,不器用の汚名を取ってしまうと,戦場で見事な働きをしても,まぐれだと笑われて家臣が大将の命令に従わぬからである」(61)など

 また,
「老巧の名将とは,一度は重大な敗軍の経験があるものである.
 しかし,自分はこの年まで勝ち戦ばかりで敗軍の経験がない.
 従って,自分は老巧の名将とはいえない」(4)
というのは宗滴の逆説的な自負であろうか,としている.

●平時における合戦に対する備え
「国内の道筋については,間道・順道・ふけをよく見極め,馬の足が立つかどうかも調べておけ」(36)
「隣国の場合はもちろんのこと,諸国の道のりや海山川の難所もよく知っておくことも対象として大切である」(37)
「諸国の国取りの次第や合戦の勝負の戦法などについては,近年知らない者が多い.
 もし知っている者がおれば,尋ね探してでも,よく聞いておかねばならない.
 後学のため役に立つからである」(66)
 特に加賀の一向一揆については
「毎年,鷹狩りと称して北川(坂井郡)へ出向くのは,北の道筋をよく見極めるためである.
 一旦,加賀から侵入した時に,あわてて絵画などで作戦を立てるなどは手遅れである.
 平素からよく心掛けておくことが第一である」(35)
として,越前の全ての侍は身分の上下に関係なく,加賀の事を気にかけないのは先祖に対して不孝者であり,利敵行為である(76)と強い敵愾心も忘れていない.

●人心掌握
 戦国時代にあっても国を治め,保つ為に一国の主たる者は軍略・兵法にのみ秀でているのでは十分ではなく,家臣をいかに心服させて統率できるかは主君たる人物の器のいかんによる,とするのが宗滴自身のもつ倫理観であり,帝王学であった,としている.
 これには儒学の影響もあったと考えられるが,古今東西,普遍的な教訓,強いて言えば現代にも相通ずる「人の道」を「武将としての心構え」に置き換えてる,としている.
 また
「家臣から軽蔑されたと思うようでは,我心が狂乱したると悟るべし」(17),
「家来から恐れられるようになってはいけない,慕われる主君になれ」
と戒めるいっぽう,名将・名君としての資格の一つとして家臣に対する温かい心遣い,人使いを教えている.
「平素からうそをつくと,大事な時に用に立たず,敵味方ともに信用を失ってしまう」(6)
「家臣に対し特別扱いはするな」(15)
「家臣の得手・不得手を見分けて適材適所に使え」(28)
「家臣も主人に対する不満を辛抱しているのだから,主人も家来の行き届かぬ所を辛抱してやらねばならない.
 そうすれば,子飼いの家臣が多くできるものだ.」(14)
「家臣の所持する馬・鷹,其外太刀・長刀・絵讃・唐物などを無理に欲しがってはいけない.
 どうしても必要とするならば,時価で求めよ.
 そうしなければ,結局は宝物が他国へ流れてしまう」(13)
「家臣の亡きあと,その子供は大切に取り立てよ.
 もし実子がなければ養子の世話もせよ.
 そうすれば,家臣は命懸けで奉公するものだ」(11)

●愚将の通弊
「愚かな大名とは天下共通なもので,見るからに威張り散らして無礼であり,猜疑心に強く,家来からも愛想をつかされる.
 少しでも主人の意に反すると,うるさく干渉する.
 また,家来たちが自分の無能さをささやいていないか立ち聞きさせたり,家来を非道に落とし入れて領地や家屋敷まで押収してしまい,自分の蔵には米や金銀財宝を積み上げて喜んでいるのだが,一旦,不慮のことが起こればすべては空となり家も滅びさるものだ.
 古今ともによく聞くことだが,透谷では右衛門大夫景高がこの例である」(19)
(右衛門大夫景高:朝倉宗淳孝景(1493〜1548 朝倉氏四代目で朝倉義景の父)の弟.
 大野郡司の職にあったが,兄の宗淳孝景と不仲になり,郡司職を罷免され,最後には西国へ没落)

 諸大名にも厳しい目を向けており,人使いの下手な大名として土岐・大内・細川勝元を挙げており(44),人使いの上手な大名としては今川義元・武田信晴(信玄)・三好修理大夫(長慶)・長尾・安芸の毛利など(45)といった総合的な人物評価を下している.

●蓄財について
 在家において代物黄金の充満した富有の商人である冑屋善定,上木覚勝が滅亡したのもおごりの結果だと戒め(20),宗滴は物欲・金欲には冷淡だったとしている.
 その一方で,
「人間として蓄えはなくてはならないが,余りにも富商の如く過分な代物黄金を集め置くようでは武者とはいえない.
 ただし,伊豆の北条早雲は,連歌師宗長が語ったところによると,針ほどの物さえも蔵に積んで置くほどのケチであるが,合戦の用に立つ場合には,玉を砕くほどの思い切った使い方をしているそうだ」(26)
としている.

●宗滴の自己反省
 宗滴が幼少の頃,諸侍に対して無礼であった事を,父の孝景が心配していた事(22)や,食事の作法(29)などで母親から注意を受けて来た事などに対して自己反省している.
 さらに父孝景以来の書状の宛て名の書き方が,近年乱れてきた事を嘆き,戒めてもいる(23・24).

 朝倉義景が若年(16歳)で国主の座に就いた時,老巧な宗滴は最も頼るべき家臣であり,宿老的な存在にまで成長していたが,宗滴は領国支配の政務にはほとんど関与せず,生涯現役の武者奉行であることを表明している(56).
 しかも義景を,大将とは御屋形様の事である,と立てる事も忘れていない(60).
 また,
「普通の老人は夜も寝られず暇でしかたがないと聞くが,自分にはあてはまらない.
 その理由は,北の加賀はもちろん,東からも西からも南からも攻め込む敵を迎え討つ用意,または義景様とただ二人となって,諸国を敵に回して戦う合戦に勝利を得る秘策や,加賀を始め他の隣国を切り取る方策,さらに天下を取って義景様を上洛させ申す策略など,さまざまに思案を重ねているうちに夜が明けてしまうので,少しも退屈なことはない」(65)
と述懐している,としている.
 宿老的な地位にありながらも名誉・権力・富を求めなかった為,人々からは無欲者と噂されていたが,
「決して自分は無欲者ではない.
 なぜならば,加賀でも美濃でも賜わるということで,出陣を命ぜられれば,決して辞退するものではないからで,自分ほど欲深者はいない.
 ただし,道にはずれた欲望を起こしたり,家来に無道な要求をして財宝を奪い取るといった欲心はないから,自分の代になって扶持を与えないのに,陣衆や被官人は多くなったのだ」(68)
とも述べている,としている.

 この語録は家訓ともいうべきものであるが,宗滴の子孫・家臣に対する為のものだけではなく,宗滴の死後も朝倉家がさらに強大となり,永く存続する事を願っていた,としており,特に秘かに心配していたのは,若年で国主の座に就いた朝倉義景の行く末であったと考えられる,としている.

 もし,姉川や刀禰坂の合戦で宗滴がいれば,とは思うが,さすがに無理だよなぁ….
(姉川の時だと94歳,刀禰坂だと97歳になるのか)

 MCあくしずで秋山教官が
「辻(辻政信)の野郎〜」
と罵っていたが,朝倉宗滴よりも旧日本軍の将官のほうが劣って見えるのは何でだろう…?

――――――グンジ in mixi,2009年04月12日14:11

戦国群像(リンク・フリー)

戦国武鑑 - 戦国武将の家紋 -(相互リンク)

『戦国武将からの手紙』(吉本健二著,学研,2008.5)

成実三昧(伊達成実)

「メシウマ速報m9(^Д^) 」:なぜ信長が戦国大名で一番人気なのか?

「猛将妄想録」:片倉景綱

やらない夫で学ぶ豊臣秀長〜太閤を支えた男

やらない夫で学ぶ豊臣秀長〜太閤を支えた男(金ヶ崎撤退戦)

やる夫で学ぶ戦国の女性武将

やる夫で学ぶ戦国の女性武将 その2

夢の跡(伊達氏)

「ワラノート」:信玄@塩不足中 の発言:

「ワラノート」:信玄@身体ダリィ・・・ の発言


 【質問】
 江戸時代まで生き残った戦国武将の家系について教えられたし.

 【回答】
 さて,先日から読んでいた『家紋・旗本八万騎』をやっと読み終えました.
 旗本に関する類書は非常に少なく…まぁ,それだけ家が多いのですから当然ですが…,真面に揃えようとしたら,例えば,『寛政重修諸家譜』なんてのは,国主大名から御目見得以上の旗本までなのに,1799年から編纂を開始して14年後の1812年に完成する遠大なもので,現代語訳でも本文22巻,索引4巻に及びます.
これに微禄の旗本や御家人を加えるととてつもない冊数になるのは目に見えている訳で.

 それでも,こうした本を読んでいると,徳川の世の中になって没落していった戦国武将や戦国大名が微禄ながら何とか生き延びているのを目にします.

 大名家としては,例えば織田家,豊臣家一族の木下家とか中世の大名だった京極家なんてのもいますし,足利家こそ消滅していますが,傍系の喜連川家なんてのが大名扱いで生き延びています.

 大名でしくじったり,絶家取潰しとなった家でも,旗本として後に取り立てられている家が結構あったりします.
 前に高家や交代寄合となった家を紹介しましたが,それ以外にも意外に色んな所に,この武将の裔が生き延びていた…なんてのがあったりして.

 『太閤記』で貂の皮の指物を脇坂安治に引き渡す事で知られる,赤井悪右衛門こと直正も,後に当主の兄の遺児が旗本として江戸期に復活していますし,室町時代に四職家の一つとして君臨した赤松家も,嫡流が旗本となって生き延びています.
 織田信長に滅ぼされ,京極家の食客となった浅井長政の家系も,叔父高政の系統が織田家の後,徳川に仕えて旗本として後世まで繋がっていたり.
 それに連座して滅んだ朝倉義景の一党も,一部が生き延びて遠州掛川城主となりますが,忠長事件までは何とか家を保ち,宗家が絶家取潰しになっても,分家が生き延びました.

 織田関連ではこのほか,追放された佐久間信盛の息子正勝が関ヶ原で東軍にはせ参じ,当初三千石を家康から給い,最終的に千石余を保っており,滝川一益の系統も九百石として直系が旗本に取り立てられました.
 滝川一益の系統の他,もと木造氏の滝川雄利系統もありますが,こちらは西軍に荷担して一旦絶家となった後,許されて大名家になったものの,嫡子無く廃され,後に其の内から二千石だけ子孫に与えられ,旗本になってみたり.
 西軍に加わって没落したのは,筑紫家も同じで広門で没落しますが,息子の代に三千石で復活.
 秀吉に抵抗した別所家は,甥の系統が秀吉によって大名家となりますが,関ヶ原を西軍ながら生き延びたのも束の間,病気と称して参勤を怠り,実は鷹狩りをしていたのがばれて改易となり,その長男が建てていた別家も改易されます.
 これまた,家光の代に再生されて復活します.
 金森長近に攻められて領地を失った姉小路(三木)家は,各地を流浪した後,大阪の陣で三木近綱が水野忠清隊に属して奮戦し,七百石の旗本として復活しました.

 秀吉に仕えた越中守護代神保家も,関ヶ原に功があり,一国を賜るまで行かないまでも,七千石を伝えていて大名一歩手前でした.
 小田原落城で秀吉に切腹を命じられた大道寺政重の嫡子直次が,千石の旗本として復活しています.
 因みに,直次は,黒田孝高,豊臣秀次,福島正則と主家を変え,武名が非常に高い遠山長左衛門と当初名乗っていました.
 竹中半兵衛重治の子孫は,叔父の系統が豊後で大名となりますが,意外に直系の方は出世せず,その子重門は小西行長を捕えたのに六千石しか与えられていません.

 一度取潰しされた大名家でも,下野佐野にあった佐野家の様に,家光の裁定で復活した例もありますし,筒井順慶の筒井家も絶家しますが,支流が旗本として生き延び,特に家康の妹市橋姫が筒井順齋に嫁して,禄高を順調に上げています.
 徳永家も寿昌の後に絶家し,曾孫の代で二千二百石を賜りました.
 日根野家も絶家しますが,こちらは男系に恵まれ,男子4人のうち,3人が生き延びて,旗本家として生きていきます.

 最も意外なのが福島正則で,安芸広島五十万石弱から信州川中島四万石に減封され,更に二万石に落とされ,彼の地で卒去します.
 嫡嗣忠勝もこの地で卒去し,弟で養子となっていた正利に残されていた川中島の一部三千石も,無嫡断絶で召上げとなりました.
 更に正則の弟高晴も,以前書いた様に,正胤の代で罪を得て遠流となり絶家.

 加藤清正の加藤家と共に,此の儘福島家も日本史の表舞台から消え去った筈ですが,忠勝の子正長が生き延びており,正利によって育てられ,更にその子正勝の代に至ると,綱吉によって二千石の知行を持つ旗本として復活していたりします.

 宗家より分家の方が大きくなったり,分家のみ生き延びたり,徳川三百年は非常に長いので,浮き沈みが激しい世界でしたが,それなりに再チャレンジの方法は整えられていた訳ですね.

 但し,浮上するには可成りの大金と運が掛かったのでしょうが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年10月13日22:11


 【質問】
 戦国三美少年と云えば,名古屋山三郎,不破万作に浅香庄次郎ですが,或る本(小説・フィクションの類ではありませぬ)に,浅香は「京極高次の小姓」と書かれていました.
 ふつう,この浅香は「木村伊勢守の小姓」とされていますけれど,京極高次に仕えたこともあったのでしょうか?

 【回答】
 京極氏の家臣団リストに,水野庄次郎(浅香左馬)の名があります.
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/kyougoku.html

 いつの時代のものなのかはよくわかりませんが,浅香は石田三成の家臣にされているようで.元々三成の父は京極氏の被官でした.
 元亀から天正にかけての京極氏は,同族争いや外戚の浅井氏の下克上,更には信長らの介入,主替えなどがあってワケワカランポですが,形式的には,京極高次の陪臣(家臣の家臣)ということになっていたのでしょう.

 木村家に仕えたのは,もっと後のこと.
http://www5e.biglobe.ne.jp/~nikke/ishidakasindanm.html

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 海道一の弓取りって異名は,今川義元に付いてたんでしょうか?
 それとも徳川家康にも付いてたんでしょうか?
 それとも,東海道のあの辺(駿河・三河・遠江)で勢力を振るうと,自動的にそういう風に呼ばれる様になるんでしょうか?

 【回答】
 通説じゃ,2人共呼ばれてたという事になってる.

 が,海道=東海道ってことで律令に従うと,伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸と関東まで含んで相当広範囲になるが,家康なら経緯的に充分そう呼ばれる資格はある.

 個人的には三河駿河遠江を押さえてたとはいえ,北条に駿河をさんざ荒らし回されてたり,甲斐一国を平定するのに苦労してた武田に,ちょっかい出して逆にフルボッコにされたり,それで
「米も取れない駿河は,もういらねーや」
って飽きた北条に,ゴキブリみたいに湧いて出てくる今川にウンザリしてた武田が呼応して,土下座に近い形でやっと同盟結んで貰った今川の,義元が海道一の弓取り=あの辺りで一番戦がうめぇというのは,かなり無理がある気もするがね.

 桶狭間の話にしても,正直今川って織田から見たら脅威だったかも知れんが,その今川の更に後ろ,武田や上杉や北条からしたら,今川自体がいつでも滅ぼせる様な中小大名でしかなかったんだぜ.

日本史板,2009/05/25(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 今川氏真の晩年は?

 【回答】
 今日も御座さんの日記を転載させていただく.いつもありがとうございます.

〜〜〜引用開始〜〜〜

 慶長17年(1612),75歳の老人が,天下人となった徳川家康を駿府城に訪れた.
 老人は昔,今川氏真と呼ばれた人物であり,かつては駿府城の主であった.
 東海地方に覇を唱える今川氏の御曹司としてこの世に生を受けた氏真であったが,桶狭間の戦いでの父・義元の敗死を受けて当主の座についたものの,今川氏の衰退に歯止めをかけることができず,結局,武田氏と徳川氏に国を奪われた.
 はじめ氏真は姻戚の北条氏を頼り駿河の奪回を目指したが,第2次甲相同盟の成立に伴い,徳川家康の庇護下に入った.

 さて氏真の訪問を受けた家康,元々は主筋の相手だけに疎略にはできず,対面することになった.
 いつしか話題が和歌に及んだ.
 氏真は大名だった頃から,冷泉為和を師匠として熱心に和歌を学んでおり,家康の庇護下に入った後は上京して,冷泉家に出入りして京都歌壇で名声を博していた.
 そこで氏真は滔々と歌道論をぶったのである.

 これに対して家康は,
「和歌などは公家のやること」
と一蹴し,有名な平忠度の逸話
(平家都落ちに際し,自らの死と一門の滅亡を覚悟した忠度は,立ち帰って歌の師匠である藤原俊成に自らの秀歌を託す.
 後世に自らの歌を残すことが唯一の願いと語る忠度の言葉に,感動した俊成は決して疎かにはしないと約束し,実際に忠度の歌を『千載集』に収録している)
も,ちっとも美談ではない,歌なんかを勉強する暇があれば兵法を学ぶべきであったのだ,そうすれば平家は滅ぼされずにすんだだろう,と言ってのけた.
 氏真は赤面して退出したという.

 言うまでもなく家康の発言は,和歌に熱中しすぎて国を失った氏真を皮肉ったものである.
 もし,この会談が史実だったとしたら,家康は相当イヤミなヤツだったことになるが……(笑)

参考:小川剛生『武士はなぜ歌を詠むか』(角川学芸出版)

〜〜〜引用終了〜〜〜

 まあ武将は,むしろ和歌をたしなむのが普通なんですけどね.
 全体的に見れば,徳川家康の方がむしろめずらしいのではないかと・・・.

 足利尊氏も,陣中でたくさんの和歌を詠んでいます.

 〔略〕
 司馬遼太郎も,家康を筆頭とする徳川の武士団は,織豊文化には一切参加していないみたいなことを指摘していますね.

「はむはむの煩悩」,2008年8月30日 (土)
〜2008年9月 1日 (月) 16:53

青文字:加筆改修部分


 【質問】
 上杉謙信家臣団は,「義」の戦にはちゃんとついてきたのでしょうか?

 【回答】
 微妙だな,北条高広とか大熊朝秀とか本庄繁長とか.

 家臣が義で戦ってたかというとやはりそうでもなく,実利じゃないかな.
 なんだかんだ言って,戦に勝てば金とか褒美であげてたし,下級兵士にとっては戦は略奪の場だし.強い大将についていけば「うほほー!」だったんだよね.

 義戦とはいっても,領土も増えているし.

 また,冬季に兵士を連れて関東に出陣することが,雪で閉ざされた越後の人減らしになっていたという説もある.

日本史板

▼ そもそも,上杉謙信義将だとされているのは,どんな根拠からかいなあ?とふと思う.
 多分に“野心家で自分のために戦う信玄(や信長)”と対比させるための,小説的虚像ではないかと思ったりします.
(無神論者の信長と同じように)

 大抵の場合,彼を義の人とする理由は,
・朝廷の権威や将軍家への忠誠を誓った,
・戦に破れて頼ってきた旧領主を助けてやった
などの理由であるように思います.

 ただ,足利義輝と面会したり朝廷に献納したりして自分を権威付けるのは,信長でも信玄でも,目端の利く大名なら当時誰でもやっているわけですし,敵領に侵攻するときに,地元から追っ払われた旧勢力を旗印にするもの常套手段ですよね.
 家康も駿河を巡って武田・北条とにらみ合う中で,今川氏真を保護したり,信長は毛利との戦の中で山中鹿介(=尼子)を援助したりしてます.

 まあ,上杉謙信はちょこっと欲が薄く,立ち回りの不器用な人だったかもしれませんが,別段普通の戦国大名だったんじゃないかと,最近思うわけです.
 小説的虚像としての,無視無欲な戦の天才・上杉謙信は好きですけどねー.

黒木竜 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 上杉謙信の「辞任カード」とは?

 【回答】
 小沢一郎民主党代表が,辞意を示し,それに対して民主党議員が必死で慰留に努め,結局代表の座にとどまり続けることとなった.

 この騒動に対する評価はいろいろあろうが,それはさておいて,何らかの地位に就いている有力政治家が,どこまで計算しているかは別として,辞意を漏らして周囲が説得して引き留め,結果的に求心力を強化することは,日本の政治史では比較的普遍的に見られる現象である.

 例えば,室町幕府の細川・斯波・畠山といった三管領は,しばしば辞意を表明して,そのたびに将軍が慰留したものである.
 特に6代将軍足利義教期の管領斯波義淳は,領国に下向までしようとした.

 そもそも,初代将軍足利尊氏からして,朝敵認定を受けて新田義貞の大軍が尊氏が滞在する鎌倉までひしひしと迫っている状況下で,突然出家引退を表明して寺に籠もってしまい,弟直義や高師直を大いにあわてさせている.

 おそらく尊氏は,計算などまるでしておらず,本当に引退するつもりであったのだろうが,ともかく尊氏が説得に応じてようやく出陣したときは,足利軍の士気が大いに上がり,この勢いが結局室町幕府創設へとつながったのも事実である.

 このような所謂『辞任カード』は,日本においては権力者がしばしば用いる政治戦術であり,求心力の維持や回復に一定の効果があるようである.

 しかし,今回の民主党の騒動に見るように,それは反面権力が不安定で脆弱なことも暗示しており,「諸刃の剣」のような危険性も併せ持っていることもまた事実である.

 室町幕府の管領が『辞任カード』を使用する頻度も,幕府権力の衰えとともに頻繁になっていき,遂には管領という役職自体が,応仁・文明の乱を契機として消滅してしまうのである.

 こういう話をmixiの日記でしていたら,『辞任カード』が結果的に最も有効に機能したのは,上杉謙信ではないかという話になった.

 謙信は,越後を統一していよいよこれからというときに,突然引退を宣言したのである.

 以前も述べたことがあるが,越後は国人の自立性が非常に高く,内部抗争が激しく,謙信に対してもしばしば反乱を起こしている.謙信はそれに嫌気がさして引退したくなったのである.

 何だか,個々の議員の政策の相違が大きく,旧各党派の寄り合い所帯と言われる民主党に似ていないか?

 しかし,謙信以外に越後の国政をまかせられる武将はほかにいないので,家臣たちは必死で彼を慰留し続け,ようやく2ヶ月後に謙信は辞意を撤回する.

 このとき,家臣たちは謙信に起請文を提出し,人質も差し出したそうである.

 結果的に謙信の政治力は大いに強化され,戦国時代を代表する戦国大名が誕生したのである.

 ほかの面でも,謙信と小沢氏はけっこう似ているなあという気がしてきた.

 謙信は,足利将軍家や関東管領といった,当時落ち目になっていた権威を非常に尊重し,現実的には必ずしも必要でない軍事行動を繰り返し,関東や北陸に何度も出陣している.

 この点,国連という現時点では必ずしも絶対的ではない組織の理想を尊重し,しばしば国連至上主義と言われる理念優先の政策を主張する小沢氏と,私の目には何だか重なって見える.

 『辞任カード』の使用によって求心力を強化したとは言え,謙信はその後もしばしば北越後の国人の反乱に悩まされ,死後は相続をめぐって国内を二分する内乱を起こし(御館の乱),結局上杉氏の勢力は大きく衰退する.こういうところも何だか民主党っぽい.

 それはともかく,小沢民主党は今後,混乱の痛手を回復して,上杉謙信のように強大な勢力になれるのであろうか?それともなれないのか?今後の展開をこれからも注視していきたい.

「はむはむの煩悩」,2007年11月 9日 (金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 直江兼続の兜の「愛」の意味は?

 【回答】
 直江兼続と言えば,多分オープニングに出て来るであろうと想像出来るのが,「愛」の1字を前立に掲げた兜でしょうか.
 この「愛」と言う言葉,元々は恋愛の方ではなくて,「親兄弟のいつくしみ合う心.広く,人間や生物への思いやり.」の方を指しています.
 現代人は恋愛を指していると考え,「兼続萌え〜」になっているのかも知れませんが….

 米沢城三の丸の東南,堀の直ぐ外側には皇大神宮と並んで「金剛愛染明王」の社があります.
 これは米沢城建設の過程で造られたものとされており,兼続が愛染明王を信仰したから兜の前立にも「愛」の1文字を取ったと言うのが定説です.

 愛染明王と言うのは俗には,男女の恋愛を成就させる仏様ですが,本来は大日如来の教えを伝える仏様であり,その導きは,大きな愛と至極の上を以て人々の息災(健康で元気である事)を叶え,敬愛・得徳を導くと言うものです.
 即ちこれを信仰する事は,御加護と開運を願う戦国武将の守護に相応しい仏である訳で,従って,「愛」の前立を用いるのは,兼続の愛染明王信仰を裏付けるものとなります.

 しかし,実は上杉家の存亡に関わる最上との長谷堂城の合戦に於て,「愛」の前立を用いた兜を着用していません.
 元々,兼続の意としては,西で石田三成が挙兵すると,徳川家康はそれを迎撃する為に踵を返すであろうから,その機に乗じて,反転攻勢を掛けるつもりでした.

 ところが,これをしてしまえば,なるほど勝利は得られはしますが,上杉家としては謙信が打ち立て,景勝が継承する事で保たれていた「義」による家臣の結束が解けてしまう虞がありました.
 其処で,景勝はその反転攻勢を容認することは無かった訳です.

 余談ですが,上杉謙信の「義」は,儒学の中心的概念が外面的な「礼」から,仏教の影響を受けて内面的なものに移り,これが「仁義」として形成されていった頃のものであり,この「仁義」と言う思想は,戦国武将の精神にも多大な影響を与えています.
 これにより,戦国初期の「血気の勇」から「仁義の勇」を理想とする風潮が生まれました.
 特に,戦国時代,下克上の風潮で何時寝首を掻かれるかも知れない武将達にとって,「君臣の義」を重視することは,当時各地に割拠する国人達を家臣として統制していくのに有利な教義だった訳で,越後でも国人の力が強く,謙信もその勢力削減に腐心したのですから,この考えに謙信が共鳴したのも頷けます.

 脱線序でに,上杉謙信が毘沙門天を掲げているのはよく知られていますが,毘沙門天と言うのは,仏教世界を守護する四天王の1人で,北方を守る多聞天の事であり,その姿は甲冑で全身を包み,憤怒の形相をして,右手に宝叉,左手に宝塔を持って立って居ます.
 そして,此の世に仏国土を築く,即ち,この宇宙を司る仏法に則った,宇宙に存在する生命体としての真のあるべき姿,生き方を自覚した全ての生き物が,今世の生きる目的に向かって自らの魂を磨いていく,絶対平和・絶対幸福の実現を目指しています.

 元々,戦国の武将達は,戦場から生きて還る為,神仏に武運を祈り御加護を願うのが一般的で,神仏の名を出す事で自らに箔を付け,美化する気持ちがあったのですが,謙信にはそんな考えではなく,自らを毘沙門天に同化する気持ちがあったと言われています.
 謙信にとっての武神というのは,寧ろ,狐神を駆使する神,武運を齎す守り神である,飯綱権現であろうと言われています.
 これは,飯綱権現を前立にした兜が残されている事でも明らかです.
 良く小説などで,戦場で謙信の本陣に「毘」の旗が立てられる描写がありますが,これは毘沙門天の加護を祈っているのではなく,毘沙門天として生きる謙信が其処に居ることを指しています.

 因みに,毘沙門天の持つ武器である宝叉は,上端に3本の尖端(三叉)があり,下端に2本の尖端(二叉)がある武器です.
 これを以て毘沙門天が仏国土を乱す仏敵と戦うのならば,三叉を相手に向けて突く訳ですが,突くには一旦武器を引かねば成らず,その際,二叉は自分自身を突く事になります.
 つまり,第一の仏敵は己の内に在り,それを克服して初めて相手の内なる仏敵を導くことが出来る訳です.

 それは扨措き,景勝に西遷を拒否された兼続は,結局,最初に攻撃を仕掛けてきた最上家に向けて進撃します.
 此処で長谷堂城を攻撃していた所で,関ヶ原の敗報を聞き,反転して本国に帰還する所で,嵩に掛かって攻撃を行い始めた最上家を散々に撃ちのめしたのですが,この攻撃は最上義光打倒が目的ではなく,上杉家の人々や領民の安寧を願う為の自衛戦としての性格を持っていました.
 この時に彼が用いた甲冑の兜の前立は,お馴染みの「愛」ではなく,梵字の「種子」と呼ばれる単語です.

 その表わす仏は「普賢菩薩」.

 普賢菩薩は禅定を司る仏で,智恵を司る文殊菩薩を兄に持ち,共に釈迦の側に奉仕したと言われています.
 そして,釈迦が入滅する3ヶ月前に自らの死を預言した折,人々の守護を普賢菩薩に任せました.
 普賢菩薩の「普賢」の意味は,インドのサンスクリット語で,「遍く賢を広める」と言う名の直訳で,その御利益とは,増益と延命であり,人々は「普賢延命」の真言を唱えれば,災いを避け,福徳を得て,延命の御利益が授けられるとされています.

 以後の兼続の生き方からすれば,謙信が自らを毘沙門天に投影した様に,兼続もまた,この時に自らを普賢菩薩に擬えようとしたのではないかとされています.
 そう考えると,家康に膝を屈した後の兼続の景勝を支えての八面六臂の活躍は説明出来るのではないか,と思います.

 例え,ホームドラマでも,この辺の部分はしっかり描写して欲しいと思いますけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/01/01 15:01


 【質問】
 流刑後の宇喜多秀家の暮らしについて教えられたし.

 【回答】
 さて,八丈島への流人第一号として記録に残っているのは,かの宇喜多秀家一行13名で,1606年の事です.

 宇喜多秀家は関ヶ原の合戦で敗れ,島津家を頼って落ち延びたのですが,島津氏に累の及ぶことを考えて,1603年から1605年まで駿府の久能山に蟄居していました.
 意外にも,家康の直ぐ側に住んでいた訳で,秀家は徳川家による処罰を待っていました.
 本来は,石田三成やら長束正家,安国寺恵瓊などと共に西軍の首魁として死刑に処せられる筈でしたが,彼の妻が外様でも大きな勢力を持つ前田利家の娘豪姫であったばかりでなく,これまた強国の一つでもあった島津家の助命嘆願もあった為,死一等を免ぜられて,1606年4月に八丈島流罪を命じたのでした.

 従三位,参議,権中納言の官位を奪われ,俗名である八郎を名乗らされ,長男である宇喜多孫九郎秀高,次男である浮田小平治秀継と下男であった浮田次兵衛,倅の乳人などの他,前田家から侍医として遣わされた村田道珍齋助六など一行13名が島に渡りました.
 因みに,島に渡った秀家の家系は,嫡流が宇喜多,庶家は浮田,末家は喜多若しくは喜田と称する様になったと言う説がありますが,文献ではこの区別は極めて曖昧であり,秀家ですら浮田と書いているものもあって,本当にこの区分が為されていたのかはよく判っていなかったりします.

 秀家以後,1871年に至る迄合計1,900名余りが流罪人として八丈に送られていますが,この秀家一族だけは,「浮田流人」と称して,他の流人とは別格に扱われました.
 例えば,長男である宇喜多孫九郎(渡島後,秀高は捨てさせられた)は,代官奥山縫殿助の娘と娶せたりしていて,それなりの待遇を受けていた訳です.

 八丈島での宇喜多八郎の住居は,大賀郷村東里銀木犀下にあって,前田家からは1869年に浮田家が赦免されるまで,毎年白米70俵に金子35両,衣類雑具,薬品など多数の物資が送られていますが,当初浮田家は7家に分れ,後には20家にまで分家が出来た為,一般の流人よりは生活がマシだったでしょうが,楽な暮らしではなかったと思われます.
 八郎自身も,江戸から渡島した代官谷庄兵衛が,八郎を代官陣屋に呼んで御馳走した際,握り飯を1つだけ食べて,残り2つは紙に包んで持ち帰り,家族に与えたのを見ていたく同情し,白米1俵を送ったと言う逸話があるくらいですし,「御菩提の種や植えけん此の寺にみのりの秋ぞひさしかるべき」と詠んだ歌は,八郎が宗福寺で終日御馳走に与った際のお礼の意味で詠んだものだったりします.

 そうして俗世間から全く離れ,磯辺に釣り糸を垂れ,偶さかに詩歌を詠み,全くの凡俗に,しかし島では水汲女(俗に言う現地妻)は持たず,34歳から84歳で死を迎える半世紀余り後まで静かに時を過ごした訳です.

 尤も,流罪後何年かして,前田家からそれとなく八丈島に使者を立て,その気があれば徳川家と談合して,小さいながらも一国の主として取り計らっても良いか訪ねたことがあります.
 その時,食事中だった八郎はぴたりと食事を止め,居住まいを正してこう言ったとか.

「私は,曾ては豊家五大老の一人.
 今更徳川家の禄を食む気持ちはないから,折角のご厚意ではあるが,此の儀だけはお断りしたい.」

 こんな愚直な面があったりするのですが,一方で化け猫が出ると言われる寂しい場所は一人で通れなかったとか言う人間臭い一面もあったりします.

 八丈島へは,本土からの便船の他,偶に嵐に遭った船が漂着する事もありました.

 ある時,備前岡山の船が嵐に遭って八丈島大賀郷に漂着した際,生き残りの船頭が辛うじて岸に辿り着き,偶々その近くで釣りをしている老翁を見つけて問いかけました.
 船頭の問いに何かと受け答えをしていた老翁ですが,船頭が岡山であることを聞き咎めて,次の様な問答を交わしたとか.

「今,備前の領主は誰じゃ?」
「松平備前守様でございます」
「松平?松平は関東の総称じゃ.松平では誰とも分からんわい.定紋は何じゃ?」
「鎧蝶でございます」
「ははあー,三左か.運の良い奴じゃ.」
 船頭は変わった爺さんだと思ったそうですが,後からそれが備前の前領主宇喜多秀家その人と知って大いに恐縮したそうです.

 辞世の句は,「み菩提の種や植えけんこの寺へみどりの松のあらん限りは」

 墓は八丈島大賀郷村字外稲葉墓地にあり,当初は卒塔婆型の3尺ばかりの細長い石に,南無阿弥陀仏の6文字を刻んだだけの簡素なものでしたが,元禄年間,4代秀親の時に尊光院殿秀月久福大居士と諡号し,1841年,9代秀邑の時には高さ6尺の五輪塔型の墓石に改めました.

 その八郎の木像が一族の家にありました.

 これは1698年,流罪人の仏師民部が刻んだもので,羽織を着し,帽子を被った座像でした.
 最初は菩提寺である宗福寺にありましたが,時代と共にそれが八郎の木像であることを誰も知らなくなり,文政年間に流人の畳屋源次なる者が,不受不施僧の像であろうと言う事で,寺僧から与えられました.
 源次はそれを真に受けて尊信していましたが,1841年,彼は赦免となったので,これを流僧である日蓮宗の舜教に譲り,1857年に舜教が病死した後は,日蓮大菩薩の像として,同じく日蓮宗の流僧である日寿に渡りました.
 1867年,日寿は木像の胎内に不思議な音がするのに気づき,座下の埋木を取り除いたところ,胎内に秀家の真筆と三社託宣,1681年に3代目浮田秀正が書いた秀家,秀高,秀正の和歌と三代死去年月と法名を書いた紙が出て来ました.
 日寿は驚き,さっそくこれを浮田本家に返そうとしましたが,本家では疑って受け取らなかったので,秀家次男小平次秀継の後裔である9代倉三郎秀種に贈ったそうです.

 この像を受け取った秀種がその像を守護した御陰で,浮田一族は明治維新の大赦に遇ったと言われています.
 信じるか信じないかはあなた次第…ですが.

 因みに,赦免を受けた後,1870年8月11日,浮田一類7戸,村田家(侍医の系譜)1戸とが八丈島を出帆し,14日に相模浦賀着,16日に品川入港,鉄砲洲に着岸上陸しました.
 その後は,旅館に数日投宿した後,本郷6丁目の法真寺に50数日宿泊することになります.
 そうして,板橋平尾にある加賀前田侯の外邸に1棟7戸の長屋を設えて彼等を入居させ,炊飯一般全ては前田家で面倒をみました.

 更に1873年,明治天皇が浮田一族に対し,板橋に19,900坪の宅地を賜った事から,浮田7家と村田1家はこれを分配し,正規に在住することになりました.
 この時も,前田家からは居宅安全,経済要用の為に金1,000両を贈っています.

 それにしても,260年余もこうして面倒を見るとは…豪姫の遺言が相当きつかったのかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/06/01 22:54


 【質問】
 黒田如水の生きていた当時の評価を教えてください.
 豊臣秀吉は彼の才覚を見抜いていてさらに野心があることも見抜いていたようですが,他の武将はどう評価していたのでしょうか?
 野心家とみていたのか,誠実な人間と見ていたのか.

 【回答】
 とうの昔に隠居していたはずの如水が,九州を物凄い勢いで切り取り,しかもその領地をそっくり家康に献上し,恩賞とか別にいりませんと嘯いているのを見て,多分彼の真意を理解していない秀忠は,「今世の張良」という評語を残した.

 もうひとつ,全然別のとき,こちらは小早川隆景の評だが,
「黒田殿は頭が切れるし,ものを考えるのが早いが,その分拙速ゆえの失敗をすることがある」
 そこへもってくると,俺様は慎重居士だから失敗しませんよ,という話.

 さらに前の話.
 官兵衛(まだ如水じゃない,官兵衛)が,有岡城で反乱を起こした荒木村重の説得に向かい,そのまま行方不明になったとき,信長は
「あいつ裏切ったっぽいから人質(のちの長政)殺せ」
と秀吉に命じた.
 それを知った竹中半兵衛が,秀吉に言った.
「私が始末しますから人質をお預けください」
 秀吉はそうした.
 が,半兵衛は「黒田殿は絶対に裏切るような人ではない」と信じていたので,こっそりと長政を匿って助けた.

 如水はまあ実際,野心家でもあったかもしれないが,全体としては「こいつ,お人よしなんじゃないか?」ってくらい誠実で義理堅い.
 有岡城で親切にしてくれた牢番にまで義理を立て,その子供を養子にして黒田家の重臣に取り立てたほど,

 もっとも,人の上に立つ者はその位でないと.
 中国の故事で,将軍が兵卒の労をねぎらったかなんかした際に,その兵の母親が泣いたという話が有る.
「この子の父も昔,将軍にねぎらってもらって感激して,死にものぐるいで戦って死んだ.
 この子もきっと戦って死ぬだろう」
と.
 果たしてその通りになった.

日本史板,2009/12/14(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 佐竹氏の秋田経営について教えられたし.

 【回答】
 佐竹氏と言えば,八幡太郎義家の弟である新羅三郎義光の後裔です.
 義光の孫に当る昌義が常陸国久慈郡佐竹郷に土着して佐竹氏を名乗るようになりました.
 佐竹郷は,元々,義光が義家から与えられて別業(別荘)としたもので,佐竹郷を含む奥七郡は義光の長子義業が馬飼料の地として義家から与えられた土地でした.

 因みに秋田佐竹家の『佐竹家譜』では,新羅三郎義光を初代としていますが,常陸にいた頃は,昌義が初代となっていました.
 本来は佐竹氏になったのが昌義ですから,当然と言えば当然でしょうが,義光流清和源氏の方が当時は有名でしょうから,幕藩体制期には少しでも箔を付けるべく,この様な形になったのではないでしょうか.

 その昌義の子の忠義,驪`兄弟の時に太田に移り,嫡長子の驪`が太田城に入ることになります.
 しかし,驪`が平氏方になったことから1180年に源頼朝の攻撃を受けて忠義は金砂山で戦死してしまいました.
 驪`の方は,平家の配下として京都に存し,1183年に66歳で死去しています.

 そんな波乱もありましたが,兎に角,佐竹氏は太田城を根城に,20代当主の義宣が府城を水戸に移すまで,府城として機能していました.

 戦国時代,各地に土豪が盤踞しましたが,名門の佐竹氏も一時期は衰微したりしています.
 ただ,佐竹氏には鬼義重と呼ばれた,佐竹義重と言う一大英傑が登場して,常陸一国を統一していくと共に,陸奥の南郷や会津に勢力を伸ばし,佐竹の存在は中央に注目されるようになります.
 中央では織田家,豊臣家と大きな勢力が力を得,遂には北条を攻めるまでになってきます.
 当然,バランス感覚に優れていた鬼義重は中央政権と良好な関係を築いていきますが,1586年,鬼義重は引退して,義宣が家督を継ぎ,義宣は豊臣家に臣下の礼を執ることで常陸一国を安堵され,『慶長三年大名帳』では全国第8位の領地を誇ることになりました.

 また,豊臣家との取次として有能な官僚である石田三成と良好な関係を築いていますが,それが,秀吉が没し,家康が天下を窺う様になると,徒となってしまいます.
 其の上,義重の代から上杉家とは良好な関係を築いており,これも徳川家康の疑いを招いてしまいました.
 この為,徳川家康は上杉征伐に際しては,佐竹家に人質を要求し,三成挙兵の報が伝わると佐竹への戦備を整えて踵を返します.
 そうしておいて,関ヶ原の合戦で,家康は大勝利を収めた訳です.

 関ヶ原の合戦後の処分は即座に行われましたが,薩摩島津家と,常陸佐竹家,それに会津上杉家への沙汰は最後まで行われませんでした.
 1602年5月8日,伏見に上った義宣の下へ家康の上使が訪れ,突然に国替えの命令を受けました.

 7月27日付で義宣は正式に国替えの判物を受けましたが,その文面はこうでした.

――――――
出羽国内の秋田仙北両所進め置き候,すべて御知行ある可く候也
慶長七年七月廿七日 御居判
佐竹侍従殿
――――――

 有名な話ですが,此処で言う「秋田」とは秋田,桧山(山本),豊島(河辺)三郡を指し,「仙北」とは山本(仙北),平鹿,雄勝の三郡を指す,所謂秋田六郡なのに,石高は書かれて居ません.
 佐竹氏の石高が正式に決まったのは,60年後の1664年4月5日,次代の佐竹義隆の御代です.
 この時,秋田6郡20万石と下野国河内,都賀両郡の内5,818石,合計20万5,818石で,常陸一国54万石から半分以下の減封となった訳です.

 さて,7月27日に判物を受けた義宣は,29日に直ちに伏見を発って秋田に向かい,江戸を経て安東秋田氏が常陸宍戸に国替えになった後に,空き城となった土崎湊城に先ず入りました.
 湊城は,秋田県土崎駅の駅前にある神明社境内を本丸とする海に近い狭小の小城でした.
 これは,安東氏が日本海交易で利を得ていた事から水軍を重視した為に生まれたものであって,太田や水戸の様な地形ではない為,また,佐竹は然程海を重視していた訳ではなかったので,使える場所ではありません.

 其所で,直ちに新しい城地を探し,久保田の神明山(千秋公園台地)を適地として決定,1603年5月から築城を開始して,1604年8月28日に湊城を破却した後,新城に移ることになりました.
 以後,1867年まで久保田城が佐竹の居城となった訳です.

 神明山は,元々手形山に連続する段丘の末端でしたが,古い時代に手形の辺りで旭川の浸食を受けて切断し,三段段丘からなる独立の台地となりました.
 これらの地は三森山,三岳山,矢留山,保戸野村山等の名称で呼ばれていましたが,これは本丸南西隅の御出し,北西隅の御隅櫓,八幡山の三箇所がそれではないかと言われています.

 旭川は,仁別川とも呼ばれ,所によって添川,泉川,保戸野川と呼ばれたりしています.
 この川は,太平山を源流として仁別,添川を流れ,転封当時は手形から北の丸下の中島の底地を流れ,神明山の西裾すれすれに南流し,穴門の堀から上長町,中長町,下長町の辺りを経て,穀堀の辺りから現在の旭川の河道になっていたと考えられています.
 そして,築城時には,手形から中島土手の外側を廻り,通町橋から五丁目橋附近までへと付け替えられています.

 神明山東部には長沼,手潟,赤沼と言った連続する広大な低湿地が広がっていました.
 これは,旭川の古川が堰き止められて水を湛えたものです.
 また,古い旭川は手形の辺りを浸食して手取山と神明山とを切断し,其の儘神明山の東を流れ,長沼を作って神明山南部の平野を斜めに流れて,現在の旭川の下流に達していました.
 内町の中にある大堀,上堀,下堀はそれを整備したものと考えられています.

 手潟は後に手形となり,旧練兵場の北部3分の2と秋田大学の構内にかけてが独立した沼地であり,南部は泥炭湿地で長沼と分離しており,これが手潟であろうと考えられています.

 更に長沼の東北部には赤沼があり,太平や下北手から手形への通行を遮断する形になっていました.
 現在の秋田大学医学部付近がその一部であり,赤沼から太平方面に抜ける道路は,藩政期後半にこの沼に水を貯える為に造った堤防と思われ,赤沼は,長沼に近い遙か南方まで広がっていたのではないかと考えられています.

 神明山の南西部には広い平原が拓けていました.
 一部に台地がありましたが,大体が低地で湿地も多かったと言います.

 即ち,神明山を中心として川とその一部を利用した堀,更に湿地により防御に適した地としてこの場所を選んだであろう事は十分に考えられる訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/21 22:18

 さて,秋田に転封された佐竹氏は新たに居城として,神明山に城を築くことにしました.
 転封前のこの地区は,安東秋田氏の所領であり,川尻村,楢山村,保戸野村,手形村の村落が存在しています.
 川尻村は神明山周辺にある旭川両岸の大部分を占め,安東秋田氏所領中,秋田郡内で最大規模の1,737石6斗2合ある村であり,楢山村は,牛島村と合せても276石9升6合,一番小さな村が保戸野村の129石2斗8升8合で,川尻村のとてつもない大きさが分かります.

 とは言っても,現在の様な人口密集地ではなかったので,城地の選定はそれに関係なく行われています.
 先ず,川尻村の集落は,太平川河畔に移す事にして,その跡の無人の荒野に思う存分縄張と町割を実施しています.

 東部は,先述のように完璧な大沼沢地であり,特に長沼は城地に隣接した防衛の要地となっており,万一敵が攻め寄せても機動が損なわれます.
 その為,この方面には手形に侍町を置いただけに留まっています.

 南部は奥深く続く平原であり,これは城正面として侍屋敷を配し,土手と堀で囲んだ中通の郭,その外側には亀ノ町郭,更に外側には楢山の足軽町などを配して,厳重な守備を行っています.
 城内の上中城から広小路へ出る追手門(大手門),中通の郭から亀ノ町郭に移る追手二ノ門,亀ノ町郭から楢山足軽町に出る追手三ノ虎ノ口と連続して門が続きますが,これは正面の方向を示しています.

 中通の郭,亀ノ町郭は,土手と堀で囲んだ防禦陣地で,大堀,上堀,下堀は古い旭川の古川を利用した堀であり,侍町を本城と一体的な防衛上の見地から考えられており,城の正面と郭の出入口には重臣を置いて,警備を厳にするようになっています.
 更に神明山の麓を流れていた仁別川の流れを西方に掘り変え,これを堀川と称しています.
 この工事はこれは築城と同時に開始されました.
 この堀川を境に,西部は町人町の外町とし,侍と町人の住居を画然と分離しました.

 侍町の内町は防禦陣地として機能する為のものであるのに対し,外町は碁盤目状の町割をして商工業の便を図りました.
 同時に,他国へ通じる羽州街道は外町を通し,旅人は内町を通過することを禁じています.
 外町を開放的にする反面,内町は閉鎖的にする事で更に防禦を高めようと言うものです.

 また,旭川対岸にある保戸野地区は城地に接近していることもあって侍町とし,外町の西縁には寺町を配して防御網の一環を担わせています.

 城地は,標高約40mの神明山という台地です.
 これは先に述べたように,三箇所の高地のある起伏した台地で構成されており,この最高所を均して南北120間(約215m),東西65間(約117m)の長方形の高地とし,本丸用地としています.
 此処には,当主の住居である本丸御殿と,政庁である政務所を設置し,周辺に表門(一ノ門),裏門,帯曲輪門,埋門の4つの門と切戸口の5つの出入口を設置しました.
 また,西南隅には御出し書院,西北隅には御隅櫓,その他隅櫓があって,これらの間の土手に多門長屋を廻し,東側の正面には板塀を建てています.

 二の丸は本丸の一段低い細長い地区で,南北240間(約432m),東西39間(約70m)の長方形で,本丸に次ぐ要所であり,勘定所,境目方役所,祈祷所安楽院,時鐘,金蔵,厩を置いています.
 中には二の丸広場があり,城外からの道は全て二の丸に集まるようになっています.

 本丸と二の丸が城の中枢部で,内堀で囲みます.
 此処から外部へ通じる出入口は松下門下の唐金橋,黒門下の唐金橋,不浄門である二の丸厩門下の土橋,土門からの長橋の4箇所です.

 二の丸の北,東,南の三方を取巻き,外堀で囲まれた地区が三の丸で,重臣の屋敷が置かれます.
 東部は上中城,南部を下中城,東北部を山ノ手と良い,山ノ手の西に続く八幡山も三の丸に含まれています.
 但し,この八幡山は重臣屋敷とは異なる為,別郭と呼ばれています.
 その八幡山には当初,佐竹氏の氏神である小八幡と稲荷社,別当寺金乗院を置いていましたが,1767年に外町の大火で大八幡と一乗院が類焼すると,金乗院は北の丸に下ろして,その代わりに両寺社をこの場所に持ってきています.

 北方の北の丸は,大小屋と籾蔵を置き,西方には半月状の捨曲輪を掘りで囲んで設置し,其所には兵具蔵を置いて,細い土橋で通行させました.

 こうして,本丸,二の丸,三の丸,北の丸,兵具蔵の周りを外堀と土手で囲い,外堀を渡って城外へ通じる道は,まず1つが穴門から穴門橋を通って通町方面へ出る出口,2つ目は搦手門(中土橋門)から中土橋を渡って広小路へと出る搦手口,3つ目は追手門(上土橋門)から上土橋を渡って広小路へと出る追手口,4つ目は追手北門から手形堀反町方面へ出る手形東口,5つ目は山ノ手から手形休下町へ出る手形北口,この他に,北の丸から台所町へと降りる八幡坂があります.
 これらの内,穴門橋のみ木橋で,他は土で造った土手状の橋,所謂土橋となっています.

 なお,土手の内側下部2段3段の石垣がある所謂鉢巻土手はありますが,本格的な石垣はなく,また天守閣の構想もありませんでした.

 そう言う意味では典型的な近世城郭の形ではあった訳です.
 但し,これら城の築城年代は実はよく判っていなくて,1603年5月の着工と,1604年8月28日に湊城を破却して新城に移っていますが,取り敢ず当主の居館と土手や堀と言った防禦陣地の最低限の施設が出来たのであろうと思われます.
 それ以後も普請は続けられ,1630年頃も未だ三の丸の普請の届出が出ていたりしているので,完成までには相当長期間が費やされたのではないか,と考えられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/22 22:28

 さて,久保田城の城下町は,旭川を外堀の役目とすると共に,東岸を侍町,西岸を町人町と画然と分ける狙いもありました.
 侍町は,侍,足軽,中間が居住する町で,足軽町は楢山南部と保戸野鉄砲町,川口町の3つに,中間町は保戸野表諏訪町,保戸野愛宕町通以西と,上中島土手町の3つにあります.
 侍町の中心は,中通の郭と,亀ノ町曲輪にあり,此処には中上級の高禄家臣が居住する屋敷がありました.
 但し,東岸には例外として楢山米沢町と十軒町の2つのみ,町人町が残されています.
 これは元々川尻村に属する百姓町ですが,米専売の家督権を持ち,外町の米町庄屋扱いとなっています.
 もう1つ,向馬口労町は対岸にある馬口労町の続きとなっています.

 内町の町割は3期に亘って整備されました.
 第1期は,1607年から実施されました.
 当初は仮住まい的なものだったので,計画的な町割はしませんでしたが,1606年,義宣が家老向右近宣政に書状を送り,領内から高100石につき2名ずつの人夫を出させ,1607年2月から窪田の普請を進めるよう,大膳屋敷の山(後の八幡山)から先ず手を付けて縄を引かせる様,指示を出しています.

 大膳屋敷とは,石塚大膳義辰の住んでいた屋敷のことで,義辰の屋敷を広小路の東根小屋町西角に移し,その跡地に佐竹氏の氏神である小八幡と稲荷社を祀りました.
 その他,城内上中城,下中城,山ノ手と中通の郭の屋敷割がこの時に行われています.

 1619年,幕府の一国一城令に基づき支城破却が行われていましたが,秋田佐竹家は幕府の異例の措置で,横手,大館を残して破却しました.
 これにより破却されたのは,角館,十二所,桧山,湯沢の4城で,院内は屋敷構えだった為に破却対象とはなっていません.
 そうして,破却対象となった秋田,仙北の各地方に散在していた上中級家臣の城下集住が実施された訳です.
 この為,中通の郭を割直しし,亀ノ町郭の新設が行われ,根小屋町の曲りを直して,長野の下から堀川土手際まで5町の割直しを実施しています.
 1619年には保戸野中町に六郷衆,1620年には手形堀反町に刈和野衆が割り付けられています.
 こうして,先ずは侍町の中心部が構成されました.

 第3期は1629年から8年に亘って行われたもので,これは転封以後に抱えた家臣が増加して,現行の侍町では収容しきれなくなったことと,1614年の検地による知行割付けの結果,家臣団の再編成が行われた事に因ります.
 この時には,中通の郭,亀ノ町曲輪の外郭に当る楢山,保戸野,手形,川口の各地区に対して行われました.
 街道の入口には足軽町を設置して,防備を整えた為,楢山足軽町と保戸野鉄砲町の足軽町,川口の足軽町がこうして出来上がりました.

 こうして,ほぼ現在の久保田城の侍町は整い,後は1671年に楢山愛宕下に愛宕下新屋敷,1673年に築地と長野下,1699年に手形東新町,手形西新町が整えられて以後は明治維新まで変わることなく続いています.

 一方の外町,寺町の町割もほぼ同じ頃に実施されたものと考えられています.
 最初は,1607年頃,川尻村の本村であった場所が町人町として最初に整備され始めた場所と思われ,この場所は大町となりました.
 1612年頃になって,大町の整備が落ち着いた頃に,茶町三町が整備され始めます.
 1613年に穀丁の米小売の者を移して米町四町を整備し,また肴町が通町の川岸に整備されましたが,川が汚れるとされて,1619年に茶町筋の上肴町が町割されて移転しました.
 以後,1631年までに外町は整備されていったのではないかと考えられています.

 外町の町割の全体構想は,湊から城内に向かう通町筋と,それに並行して南端を東北に走る馬口労町の間に,これを結ぶ数本の道路を通します.
 これが,大町筋,茶町筋の2本の街道と,東の川反筋,西の亀ノ町筋,その西側に途中で合流する米町筋で,更にこれと直角する様に,9本の横小路によって町は碁盤目状になります.

 当初茶町筋は湊から馬口労町への往還として町割されていましたが,1631年に鍛治町と馬口労町を直通させ,大町筋を街道,即ち羽州街道としました.
 それに先立つ1629年には,通町と大町三町の二階造を命じて大通りの体裁を整えるようにしています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/23 21:54

 安東秋田氏時代は,陸上交通よりも海上交通の方がよく利用されています.
 従って,街道の整備は余り行われておらず,土崎湊から戸島へ行き,戸島から何処かで岩見川を渡り,黒沼を経て畑の部落から下北手の宝川を越え,松崎で太平川を渡って平野に出,赤沼村の東は沼沢地だったのでこれを避けて北に周り,五平山(現在の秋田大医学部の辺り)後方の鞍部を越えて推古の沢に下り,手形山の頂上を越えて旭川の沢に入り,泉山の南端を周り,水口,神田,八柳を経て湊に赴くのが唯一の街道らしい街道でした.
 これだけ大回りすると言うのも,戸島,四ツ小屋,牛島一帯の雄物川の氾濫原が通行を阻んだ為です.

 しかし,佐竹氏は海上交通より陸上交通を重視します.
 久保田に城を築いたのもその現れでもありますが….
 先述の様に,その為に築かれたのが羽州街道で,城下町から牛島を経て戸島へ通じる街道となっています.
 これが開通されたのは不明ですが,1627年に久保田の百姓町から峯吉川までの道普請の奉行任命の記録があるのと,刈和野〜大曲間,川ノ目〜沼館間,沼館〜岩崎間の道奉行も任命されていることから,この頃に工事が行われてたのではないか,と考えられています.

 百姓町とは楢山南部の川尻村で,入川橋附近か下浜辺りから峯吉川までの道とすれば,牛島から御所野を通したものと推定出来ます.
 当初は,茶町筋から馬口労町に通っていましたが,1631年に大町筋の鍛治町から馬口労町への通路を割り直して直通させ,大町を通す様にしました.
 御所野を通る街道普請が1628年開始とすれば,開通時に付け替えた事が考えられますが,馬口労町から牛島へ抜ける街道の突き当たりには,後に架橋される牛島橋がありません.
 一方,楢山入川橋通町を直進した下浜に太平川の橋があり,これが最上街道に直結していました.
 これはその後の洪水などで流されたかして,現在ではその痕跡すら残っていません.
 記録からは,余りに太平川の移動が激しかった為,2代義隆の頃に楢山橋は諦められ,比較的安定した牛島に架橋したものと考えられています.

 ところで,当時の街道の道筋には,きちんと目的が決められていました.
 当主の参勤交代用,幕府から将軍の代替わり毎に派遣される巡見使用,当主の葬送用などです.

 佐竹氏の参勤交代の道筋としては,二の丸から上中城へ出,追手門(上土橋門)から広小路,東根小屋町を進み,追手二の門(虎ノ口門)から中亀ノ丁へ出,追手三の虎の口から楢山登町,入川橋通登町,牛島橋通町,牛島を通り,御茶橋で茶を喫する古例だったそうです.
 このうち,追手門,追手二の門,追手三の虎の口は,正門であり,その順番に沿って進む形です.

 城下町を通過した他の大名家としては,弘前津軽家があります.
 彼等も羽州街道を通過するのが慣例となっていましたが,1683年,1693年,1736年は,入川橋が洪水や普請で利用出来なかった為,五丁目橋から亀ノ町本町,信太小右衛前虎ノ口,御歩行町,金照寺脇新橋(後の百石橋)を通って牛島に出るルートを通りました.
 しかし,別家の大名筋でもきちんとルートを変更した記録が残っているのは凄いですね.

 巡見使は先述の通り,幕府が三代将軍家光以降,将軍の代替わり毎に各大名家に派遣する政情,民情の視察使で,通常は3名で構成され,多くの供回りを従えていました.
 その数は,実に100名を超えたと言われています.
 巡見使と言っても,時代小説の隠密みたく,密かに城下に入って,大名家の非違を正すと言うものではなく,幕府側が視察の内容を明らかにし,各大名家に対し,巡見使の為の道路や橋の修理,巡見使に対する贈与,宿舎の造営等を禁じています…あくまでも名目的ではありますが.

 巡見使は,家光以降,家綱,綱吉,家宣,吉宗,家重,家治,家斉,家慶の各将軍の代替わりの合計9回派遣されています.
 巡見使の通る経路は常に一定しており,酒田,象潟,本庄,亀田から現在の大内町の新沢に入り,老方を経て雄勝郡の大沢村から秋田佐竹氏領に入ります.
 そうして,西馬音内,湯沢,横手,刈和野,戸島を経て久保田城下を訪れ,その後,一日市,能代,大館を経て碇ヶ関から弘前津軽氏領へと抜けていくルートです.
 更に,久保田城下の経路も一定しており,牛島村から馬口労町に入り,鍛治町,本町6丁目から下肴町に曲り,茶町筋を通って中通町,大工町を経て湊へと向かいました.
 城下には1泊し,内町や城内に入ることは有りません.
 茶町を通るのは宿舎の為で,例えば家宣の代替わりの際に来た巡見使3名の内,北条新左衛門は茶町梅ノ丁,新見七右衛門は茶町扇ノ丁,細井左次右衛門は大町一丁目に宿泊し,大町の宿舎には最短の小路を往復し,行列は茶町を通る様になっていました.

 最後の葬送ですが,城内から当主菩提寺の天徳寺までの葬送行列が行われる道筋も決まっていました.
 城内の死者は,基本的に不浄門から送り出されます.
 久保田城の不浄門は,現在の弥高神社前にあった二の丸廓門です.
 但し,当主の遺骸を不浄門から出すのは憚りがあります.
 とは言え,表門を使う訳には行かないので,裏門から二の丸に下ろし,搦手門(中土橋門)から広小路に出しています.
 初代義宣の葬送の道筋は不明ですが,2代義隆は裏門から二の丸へ下ろし,長橋を通って三の丸山ノ手へ降り,北の丸を通って保戸野新橋を渡ったと推定されています.
 4代義格の場合は,御寝の間御庭から御入門を出て,裏門から降りて二の丸安楽院前,松下門,中土橋を通って広小路に出,小野崎権太夫前から土手長町を北へ曲がり,通町橋を渡り,鈴木平蔵前,梅津大蔵前,御中間町,諏訪之前,八丁を通って天徳寺に至っています.

 御殿の裏口は御入門,そして裏門,二の丸を経て搦手である中土橋を通って城外広小路と,何所までも正道を避けているのが興味深い所です.
 広小路からは旭川に突き当たり,北に折れて通町橋を渡り,保戸野川反から通町かげの程の本町を真っ直ぐに西へ行き,表諏訪町,愛宕町,八丁と,城外でも外町を避けています.
 この4代の葬送ルートが以後の慣例となったらしく,3代義処夫人宝明院の遺骨が江戸表から久保田に到着した際も,城内に入らず,東根小屋町からこのコースを通っています.

 勿論,道の両側には家臣や一般町人達もその葬送の行列を見送った事でしょうね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/24 22:10


 【質問】
 秋田藩時代の佐竹氏の重臣について教えられたし.

 【回答】
 さて,久保田城城内には本城と二の丸が当主や家族のいる場所であり,中城,山ノ手,八幡山(場合によっては八幡山は別曲輪とも呼ばれる)で二の丸を三方で囲んだ部分を三の丸と言います.
 更に中城とは城内の意味で,東部の高地を上中城,南部の低地を下中城と区分しました.
 追手北門外側の八幡山に曲がる鉤形の地区は山ノ手,後に手形上町と呼ばれましたが,追手北門に連続する東の部分には重臣より劣る身分の者を置いたらしく,その部分は絵図に「侍町」と書かれ,他の部分は「侍屋敷」として区分しています.

 この三の丸,特に追手門から黒門を通って二の丸に入る通路には,正式な登城のコースなので,重臣の屋敷が置かれました.
 道路に面して,南から順に,小鷹狩氏,今宮氏,松野氏,小田野氏,真崎氏,真壁氏,その東後に小野崎氏,梅津氏と8家の屋敷が置かれました.
 この構成は,年月によって変動しています.

 追手門脇の小鷹狩氏は,初め向氏と称し,向右近宣政は,義宣から4,204坪の敷地を与えられました.
 この敷地は,下は転封前にあった川尻村肝煎三浦伝五郎の屋敷跡です.
 小鷹狩氏は天正年間まで飛騨の城主を勤めていましたが,没落し,宣政は小鷹狩飛騨守と名乗る浪人となり,常陸に流れて佐竹氏に仕え,重臣となりました.
 1827年8月に向氏から旧姓の小鷹狩氏に復しています.
 横手組下支配,回座で2,486石,家老として宣政以降,重政,政美,政芳,政申,政尹,政幹の7人を出しています.

 今宮氏は佐竹16代の義舜の長子永義を祖とする血族で,修験道に入り領内山伏を掌握すると共に,転封後も領内の修験を支配していました.
 摂津守道義の時に角館田町の組下支配を命じられ,後に久保田に移ってきました.
 引渡で426石です.
 謂わば,当主の目となり耳となる立場の人だった訳ですね.

 松野氏は下野宇都宮氏の子孫で,没落後松野に住んだ為,これを姓としました.
 転封後は綱高桧山組下支配を命じられ,後に久保田に移って代々組下を支配しました.
 回座で420石を得ており,後に家老として綱武が出ています.

 小田野氏は佐竹9代貞義七男山入師義の次男自義を祖とし,山入の小田野に住んで姓としました.
 回座で607石を得ており,家老として正純と正武の2名を出しています.

 真崎氏は,佐竹5代義重の三子義澄の子義連から出た家系で,真崎に住んで姓としました.
 回座で1,296を得ており,家老宣宗,隆紀,処純,睦貴の4名を出しています.

 真壁氏は平国香の末裔で,常陸の真壁を領して姓としました.
 戦国期,佐竹を支えた強将真壁氏幹を輩出した家系です.
 転封後は角館に赴き,一時院内組下を支配しましたが,1672年以降久保田に留め置かれ上中城に居住することになりました.
 引渡で,1,044石,康幹,登幹,貞幹の3名を家老として出しています.
 但し,この屋敷は1857〜63年の間,11代当主義睦が死去の後,夫人の諒鏡院の仮御殿として使用されました.

 小野崎氏は,藤原秀郷の後裔とされ,初代昌義が初めて都より下った時に臣下の礼をとり,常陸の山能に居城して山能小野崎と呼ばれている佐竹家臣中最古参の家系です.
 回座で300石を得ています.

 梅津氏は他の人々とはちょっと格が落ちて,下中城の梅津宗家四子忠定の分知で興った家系で,回座で1,068石を得ていました.

 この場所は明治期には急変し,1870年に小鷹狩,今宮,松野三家を引上げて佐竹氏の私邸中城御殿が新築されて,藩知事佐竹義堯が此処に移り,1871年5月に東京に移住させられました.
 1873年には全国城郭廃存の命が発せられ,城内に居住の旧家臣の移転が行われ,三の丸は荒廃しました.
1885年調べでは戸数僅かに1戸となっています.
 1896年,歩兵第16旅団司令部が設置され,1898年に小鷹狩氏屋敷跡に旅団司令部,その北部全体に聯隊区司令部,衛戍病院などが置かれて敗戦まで続くことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/26 23:00
青文字:加筆改修部分

 余談は此処までにして,昨日は上中城の界隈をちょっと覗いてみました.
 続いては,二の丸南部の低地,中土橋を渡り,広小路へ,穴門橋を渡ると通町通りに出ます.
 土手の下に沿って内記坂を上ると上中城.
 この地区は城の搦手に当り,中土橋門の事を搦手門と呼んでいました.

 この地域が下中城と呼ばれる地域で,この道路の西側には現在県立図書館,県民会館となっている渋江氏屋敷,その後の堀端が渋江氏下屋敷の穴門屋敷で現在は和洋高校,道路東側の大部分は梅津氏屋敷で,その東隅は梅津氏分家宮門,宮門屋敷には以前岡谷内記が住んでいました.

 渋江内膳政光,梅津半右衛門憲忠は共に義宣子飼いの功臣であり,分家も多く,子孫に家老を多く出して栄えたので,特に大渋江,大梅津と呼ばれています.

 渋江氏は,元々荒川氏を名乗っており,下野の小山氏の家臣でしたが,その没落と共に常陸に流れて義宣の近習となり,乞われて渋江氏の後嗣となりました.
 秋田移封後は家老として家政を掌握し,減封された佐竹家の立直し策として,田法を完成して農業秋田の基礎を築きました.
 しかし,惜しくも1614年の大坂冬の陣で戦死してしまいますが,その活躍を認めた義宣がその子孫を永代家老の家格として扱う事とし,以後,政光,光久,隆光,処光,格光,峯光,明光,厚光と各重臣家の中で家老の輩出数が最も多い家となっています.

 1633年9月26日,本丸が火災で全焼すると,渋江家は2代義隆の仮殿となりましたし,1778年閏7月10日に再び本丸が全焼した際にも,8代義敦の仮殿となって,三の丸仮御殿と呼ばれる様になっていました.

 渋江氏は刈和野組下支配,回座,2,919石を給されています.

 一方の梅津氏も,下野宇都宮の浪人道金の子憲忠が,佐竹義宣に見出されて出仕したのが最初です.
 渋江氏が冬の陣で戦死したのとは逆に,梅津憲忠はこの大坂の陣で勲功を挙げ,将軍秀忠の感状を受けています.
 そして,渋江氏戦死後は家老となって,渋江氏が農業を振興したのに対し,梅津氏は税法を大成して佐竹家の家政の基礎を築きました.

 角間川組下支配で,回座,3,263石を給され,家老憲忠以降,忠国,忠宴,忠昭,忠告,忠爲を出しました.
 中でも憲忠の兄,政景は詳細な日記を付けて,移封初期の佐竹家の状況を克明に残しておりますし,忠昭は其角に師事し,其雫(きてき)と言う俳号で秋田に初めて江戸の蕉風を移入し,その名は与謝蕪村の『新花つみ』にも描かれています.

 因みに,維新後は概ね上中城と同じ運命を辿りましたが,渋江氏邸は1870年1月7日に秋田藩庁として利用されたのを皮切りに,1872年5月に医院病院,1873年伝習学校,8月からは明徳館の県庁全焼により仮庁舎となり,1895年には明徳小学校,1902年には記念公会堂という変遷を遂げています.

 更に三の丸には山ノ手と言う地区が有りました.
 此処は色々と変遷を経て,山ノ手,三ノ丸山ノ手,手形山ノ手,手形上町などと呼ばれ,明治維新の頃には手形上町と呼ばれています.
 これは追手北門から出て,手形休下町へ通じる虎ノ口までの地域と,それより八幡山に上る坂道に沿う地域で,この高台の東縁に土手を築き,下の低地に掘りを廻し,手形堀反へ降りる渋坂の手形東口と,手形休下町へ降りる手形北口の二箇所の虎ノ口によって外部に通じていました.

 追手北門前には岡本氏が住んでいました.
 この場所は元々大越氏が住んでいたのですが,大越氏は手形堀反町に移転しました.
 岡本氏は下野小山氏の一族で,山入氏の乱で勲功を挙げて松山の城主となりました.
 引渡で1,132石を給され,家老として元朝,元貴,元亮,元長,元賢を輩出しています.
 このうち,又太郎元朝は1697年に文書改奉行となり,『佐竹家譜』の編纂に当った文化人でもありました.

 八幡山下には戸村氏がいました.
 戸村氏は,佐竹13代義人の三子義倭を祖とし,戸村に住んで姓としました.
 転封後は,佐竹2代当主義隆の後見となり,秋田佐竹家に於ける一門家老の始めとなりました.
 代々十太夫を称し,義国,義覚,義孚,義敬,義效の5名の家老を輩出しています.
 また,義連の代の1672年以降は,須田盛次に代わって横手所預として,代々横手に住むこととなっていますので,この住居は戸村氏が登城する際の宿舎としてしか使われていません.
 ですから,11代当主義睦の生母松操院が1868年に死去するまでこの屋敷を借りて住んでいました.
 引渡で,5,463石と可成りの高禄取りです.

 因みに,幕末に家老となった義效は,白石会議で奥羽列藩同盟に調印したとして生涯蟄居を命じられていますが,実際にはこの調印は,佐竹家の意向であったことが,1958年に漸く明らかとなりました…遅すぎた名誉回復ですが….

 箭田野氏は奥州須賀川二階堂氏の一族です.
 伊達政宗による須賀川城落城後,佐竹氏に仕え,転封後院内の所預となりましたが,大山氏に代わって久保田に移りました.
 その時は上中城に住んでいましたが,後に山ノ手の大沢氏の後に移りました.
 引渡で,石高は低く166石です.

 酒出氏は佐竹4代秀義の三子北酒出季義を祖とします.
 回座で,363石,家老として季恒を輩出しただけです.

 山ノ手には他に5名の屋敷があります.
 岡,梁,牛麿,岡の4つの屋敷については,寛政期中頃に植えた桜で花の名所とされ,1815年に訪ねた菅江真澄は,「春ごとにふかき花の林とはなりぬ」と『花のしぬしめ』に書いています.
 中でも,梁家の林泉は,搦田御休の庭を造った江戸の作庭師の作品と言われ,7代義明以後10代義厚まで,春の花を訪ねる慣例となっていました.
 この地のうち,箭田野,酒出,益田氏屋敷は11代当主義睦死後,1863年から夫人諒鏡院の山ノ手御殿となり,翌年三ノ丸御殿と呼ばれる様に成りました.

 また,佐竹氏の東京移住後は,有志の首唱で,佐竹侯爵別邸の建設計画が提議され,1900年建築に着手し,1901年9月に竣工して長く別邸として使用されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/05/27 21:44

▼ さて,重臣達が住まっていた三ノ丸から離れ,旭川を境にして内側を内町と呼んでいました.
 元々は廓内の上中級家臣町を指す用語でしたが,後に町人町の外町に対して,侍町全体を指す様になります.
 内町は6地区に分れており,中心は中通の廓と亀ノ丁廓です.
 廓は当然,防備陣地ですので,出入口には枡形の虎ノ口を設けて防備を厳にしていましたし,廓の内外を問わず道路は狭く造り,直線は避けて丁字路や鉤形を多くして,外町の橋に通じる小路は全て斜交いにするなど,外町が商業の便を図って碁盤目状にしたのとは対照的な形をしています.

 家臣の配置も,城正面にある中通の廓には最も重要な上中級家臣の屋敷を置き,亀ノ丁廓がそれに続き,周辺になるにつれて身分の低い者を配置しました.
 但し,廓の出入口と言った防衛上の要所には,距離と関係なく重要な家臣を置いて守りを固めていました.

 具体的には,中通の廓と亀ノ丁廓の他,手形堀反町,保戸野本町,保戸野中町には上中級の高禄家臣を置き,扶持方と言った小禄の家臣は混在していません.
 ただ,引渡や回座の地位にある大身の家臣は,家来が多い為,屋敷内に長屋を建て,三間×四間くらいに仕切って住まわせています.
 上記以外の廓の外側は,小禄の者を混在させています.
 しかし,楢山・川口・保戸野鉄砲町の足軽町,楢山本町・楢山本新町の徒士町の様に,家格を揃えた町もあります.
 これらの町に家格を揃えた者を配置したのは,街道の入口に配置して防衛線を築いた為です.

 それ以外,戦略的に然程重要ではない保戸野諏訪町,保戸野愛宕町西丁,保戸野八丁新町上丁,保戸野金砂町等には小人等の下級の者が置かれました.

 屋敷の広さは,どの城下町でもそうですが,概ね家格に応じて定められました.
 1791年の「当用式」に定められていたのは以下の通りです.

300石以上 無定
200〜299石 表間18間半 裏行25間
150〜190石 表間15間半 裏行25間
70〜149石 表間12間半 裏行25間
40〜60石 表間9間半 裏行25間
30〜39石 表間7間半 裏行25間
29石以下の扶持方(含 鷹匠・膳奉・歩行・掃除坊主) 表間6間半 裏行25間
29石以下の足軽・小人・廐・中屋(諸細工人) 表間5軒半,裏行15間
と,まるで公団住宅の様な感じです.

 と言うか官舎ですな.

 屋敷は全て佐竹家からの宛行ですから,家中の都合や役職,家督,事故などの関係で屡々交換が行われました.
 これは,別に小身の者だけでなく,大身の家臣でも発生しており,例えば,回座の大身黒沢家は,中通の廓内で3回も引っ越ししています.

 また,家格により門や塀の決まりもあり,大身は長屋門,150石以上の騎馬武士は笠門,70石以上の駄輩は大貫門,30石以上の不肖は袖門,徒士以下は丸柱,卒以下は門を許さずと言うものでした.
 塀は70石以上でなければ板塀を立てる事が出来ず,それ以下は五加,木槿,雪柳の生垣しか認められませんでした.
 更に参勤交代の道筋である東根小屋町や中亀ノ町等では板塀に限るとされ,小身者は此処に屋敷を拝領することが出来ませんでした.

 彼等侍の数については,何所までを侍というかなど定義によって様々に分れますが,1629年3月の「御鷹之菱喰朝御振舞」に招かれたのが,給人(給地を貰った者)623名,御走,鷹匠,茶屋衆などが293名,合計916名で,足軽以下は含まれていません.
 1759年の「御城下絵図」には侍家1,322軒,侍並以下1,563軒とあります.
 1849年の時点で幕府に提出した資料では,侍屋敷1,248軒,侍並以下1,356軒とあり,約3,000軒前後で推移したものと考えられています.

 さて,中通の廓は,大身と中級上位の高禄家臣を集め,侍町の中心と成っています.
 この廓は1607年から町割が開始されましたが,1619年の一国一城令により,支城が破却されて各地に散在していた家臣を城下に集める必要が生じた為,大々的に割直しが行われました.

 この中心は広小路と呼ばれる地域で,元々は通りの名であり,城の正門である追手門と搦手の中土橋門に面しています.
 此の通りに面して,東から桧山所預の多賀谷氏,佐竹一門の角館北家,同じく一門の大館西家,同じく一門の湯沢南家,大館派遣の古内氏,十二所所預の茂木氏,石塚氏宗家,西家分家の小場氏,梅津氏分家,小貫氏宗家,石神小野崎氏…と佐竹の一門三家を始め,由緒ある蒼々たる名家を配置して城正面を固めました.

 多賀谷氏は,元々常陸下妻6万石の城主で,義宣の弟宣家が1598年に多賀谷重経の養子に入って一門となりました.
 しかし,会津征伐の際,養父重経が家康襲撃を計画してそれが漏れた為失踪,関ヶ原の合戦後多賀谷家は改易となり,宣家は兄に同行して家臣として秋田に下ることになります.
 始めは白岩にいましたが,1610年以降桧山所預となり,代々その職に就きました.
 引渡で3,376石,家老として隆家,峯経を出しています.

 北家は佐竹15代義治の三男義信から出,太田の北側に住んだので北家と呼ばれ,秋田時代は5,731石を領しています.
 始め中城に住みましたが,後に広小路に住まいを移しました.
 北家の本宅は角館にあり,久保田に出た時だけの在府屋敷で,別名角館屋敷と呼ばれています.
 因みに,元々は角館所預は名門蘆名氏でしたが,3代千鶴が早世して断絶,1656年以降義隣所預となって,常住する様になりました.

 南家は佐竹16代義舜の三男義里から出,太田の南に住んで南家と呼ばれ,秋田転封後は湯沢所預となり,5,720石を領して,代々その地に常住していました.
 従って,久保田城内の住居はこれまた別宅の扱いです.

 西家は,佐竹11代義宣の従弟義躬が小場に住んで小場を名乗り,この地が太田の西にあったので「お西様」と呼ばれていました.
 秋田転封後は,六郷から桧山に移り,1608年以後は大館城代となりました.
 1658年に佐竹姓を賜って一門に格上げされ,代々所領大館に常住して5,801石を領しています.

 古内家宗家は,佐竹16代義舜の庶子一渓齋から出,一渓齋が還俗して古内氏を名乗りました.
 秋田転封後は西家と共に大館に配置されましたが,西家の配下ではなく,本家直属であったようです.
 その為か引渡で石高も低く351石となっています.
 こちらも代々大館に居住し,久保田城内の住居は在府屋敷となっています.
 因みに,古内家の在府屋敷は元々戸村十太夫の屋敷で,十太夫が横手に移った後,戸村分家の一学が住み,一学が横手に移った後,古内氏の在府屋敷となったものです.

 茂木家は,代々常陸茂木城主であった茂木治房を祖とし,転封後六郷から久保田に移り,1683年の知恒の時,十二所所預となって,以降代々その職を世襲しました.
 引渡,2,244石で,家老和達を出しています.

 石塚家宗家は,佐竹10代義篤二子宗義が常陸石塚に住んで姓としたもので,城内八幡山から1607年に移ってきました.
 引渡,1,255石ですが,この家は結構家老を輩出した家系で,義拠,義陳,義保,義貞,義致を出しています.

 小場氏は大館城代西家義宗の養子宣忠から出ていますが,宣忠は本来渋江政光の弟荒川秀景の二男で,分知されて小場を名乗る様になったものです.
 回座,1,653石で,大渋江の家系ですから,家老として宣忠,峯昌を輩出しています.

 梅津氏分家は他と違って回座ながらちょっと小さく660石.
 下中城の梅津宗家忠国の四男敬忠が分知されたもので,これも大梅津の家系だけあって家老として金忠,忠恒,忠致を出していました.

 小貫氏宗家は,藤原秀郷の孫,岩瀬太夫公通の後裔で,佐竹初代昌義が京より下った時に臣下となり,常陸小貫を所領として姓と為したものです.
 移封時には小貫頼久が家老として水戸開城の処理を行いました.
 回座で346石ですが,頼久と宇右衛門が家老に抜擢されています.

 最後の小野崎家は,上中城にあった山能小野崎氏の分家で,常陸石神に住んで石神小野崎氏を称し,本家と並び称される家系でした.
 回座,1,180石を給され,家老として通貞,通恒の2名を輩出しています.

 それにしても,長く続いた名家だけあって,一門衆や譜代衆の数が半端無く多く,佐竹宗家もさぞかし舵取りが大変だったのだろうなあと思わずにはいられません.
 名門衆はこれだけでなく,未だ未だ続く訳ですし….

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2009/05/28 22:06

 さて,内町は大身の屋敷が多く,しかも佐竹家は源平以来の名家ですから,何処を向いても名家にぶち当たります.
 内町の中心部から少し言った中通の東部,長沼に接する台地である長野町にも広小路や古川堀反町と同じく大身を配置しています.
 1896年にこの地は下の土手谷地町と,中谷地町道路東側の低地を含め,歩兵第17聯隊敷地となり,整地の為,町並が消滅し,敗戦後は高所を削り取って地形まで変えてしまった為,現在は面影が全く残っていません.

 この辺りは南北に走る大通りの真ん中に,切れ切れの土手を築き,東側を馬場としました.
 土手には松を植えたのですが,昔は桜でしたから,「桜の馬場」と呼ばれ,屡々当主への上覧が行われていました.
 町の東は長沼で,沼側に高さ3間の土手を築いていました.
 その位置は現在は秋田駅前金座街東縁の境界線附近で,それ以東は長沼の水底と言う事になります.
 西側屋敷の後にも土手を築き,これが土手谷地町の土手となります.
 この地には,東側北側より,多賀谷氏在府屋敷,小瀬,中山,茂木氏分家,須田氏分家,福原,小野寺の7家と寺社方役所,西側北より北家在府屋敷,須田氏宗家,梅津・宇都宮の4家が並んでいました.

 小瀬氏は,佐竹9代貞義の三男義春が祖で,常陸の小瀬に住んだ為,これを姓にしました.
 回座,234石ですが,家老としては伊信,伊通,伊章,伊紀4人を出しました.
 後に小瀬氏は上長町に移り,渋江内膳屋敷にいた伊達家を此処に移しています.

 伊達氏は,1823年8月に会所から分離して寺社方役所を持ってきた時に,一旦渋江内膳屋敷に同居していたのが,再び小瀬氏の場所に移されてきたものです.
 で,その伊達氏は,伊達政宗の叔父に当り,佐竹義宣の母の弟に当ります.
 元々は伊達家中にいましたが,秋田転封の際に義宣の客人となり,秋田の地に下ってきました.
 引渡で527石を領し,家老峯宗を出しています.

 中山氏は学者の家系で,学館初代祭酒中山菁莪盛履の時にこの地に移ってきました.

 福原氏は那須十二党の中の一人で,下野佐久山城主でしたが,秀吉の北条攻めの際に没落し,佐竹を頼ってきました.
 回座で422石を得ています.

 小野寺氏は,徳川幕府から流れてきた家系で,将軍秀忠の二男駿河大納言忠長の近侍を勤めていました.
 しかし,家光の代に忠長が生害した為,兄と共に佐竹氏の預人となり,2代義隆に仕える様になりました.
 回座,203石を得ており,家老道行と,道維の2名を出しています.
 因みに,道維は兵学者としても知られ,塙守約の『長野先生夜話集』は道維の聞き書きです.

 須田氏宗家は,言わずと知れた須賀川城主二階堂氏の家臣で,主家滅亡後は佐竹氏に仕え,転封後は横手城代を勤め,1672年には戸村氏に代わって久保田に移っています.
 回座で1,642石を得ており,家老として盛久,盛勝,盛命,盛胤,盛貞と5名を出しています.

 梅津氏は下中城の梅津憲忠の弟で,『梅津政景日記』を書いた政景の家系です.
 政景は藩政初期の諸制度の整備と,財政の充実に功労があり,兄と共に藩政の基礎を築いた功臣です.
 当主義宣の信任が厚く,遺言によりただ一人で最後に義宣の通夜を執り行っています.
 回座で1,698石を得ており,家老として政景の他,忠雄,忠真,忠経,教忠,忠喬,忠融の7名を出しています.

 宇都宮氏は,宇都宮城主宇都宮国綱の弟朝勝の家系で,その母は佐竹義宣の叔母でした.
 元々,朝勝は結城氏の養子となっていましたが,故在って去り,生家没落の為,佐竹家に寄食します.
 家康の会津征伐の際には,佐竹上杉密約の仲介を行い,その為,転封の際には客人として秋田へ下りました.
 引渡740石で,家老として光綱,典綱,孫綱,重綱,孟綱を輩出しています.

 1871年以後は,北家は初代県令島義勇の官舎となり,明徳館にあった県庁が焼失した後は北家跡に洋風の県庁を建設し,1873年11月27日に開庁しています.
 この県庁は1880年に土手長町中丁移転まで続き,向いの多賀谷家屋敷には1879年に測候所が開設されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2009/05/29 23:56


 【質問】
 島津豊久って誰?

 【回答】
 島津豊久は島津家久の嫡男として,薩摩串木野城で誕生.
 島原の沖田畷の戦いに初陣で参加して以来,父,家久と伴に,そして家久亡き後は,伯父の義弘とともに常に戦場にあり,島津家でも有数の猛将として知られていていました.
 関ヶ原の戦いにおける島津の敵中突破の退却行)は非常に有名だが,それが出来たのはこの豊久の奮戦があったからこそであり,豊久自身は殿軍(しんがり)をつとめて戦死しました.

 【参考ページ】
http://www.mmjp.or.jp/askanet/ending_shimadzu_toyohisa.htm
http://pozyu.hp.infoseek.co.jp/toyohisa.htm
http://www.kanko-sekigahara.jp/kankou/kr1-21.htm
http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/51280244.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1493.html

 ちなみに死後,「ドリフターズ」に出演していることは,ヒラコーのファンにしか知られていない.

何か所も傷痕が残る,島津豊久の鎧

【ぐんじさんぎょう】,2009/5/8 21:00
に加筆


 【質問】
 伊達の騎馬鉄砲隊は創作ですか?

 【回答】
 常設部隊では無いが,ちゃんと馬上で鉄砲を使う装備が,記録に残っている.
 ただし,これの実態がどんなものだったかは不明.
下馬射撃も,「騎乗射撃は無理だろう」って言われてるので,そっち(下馬射撃)が比較的有力なだけで,実際どんな形だったのか不明
 装備類は残ってるが,運用形態が判らないという例.

軍事板,2008/09/24(水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 今更ながら田母神って珍しい苗字ですね.
 横溝正史の小説に出てきそうな名前だなあ.

島の人

 【回答】
 田母神と言う姓は,陸奥国田村郡田村荘田母神(現在の福島県郡山市田村町田母神)の発祥で,田村氏支流とありますね.
 江戸時代は仙台藩士で,陸奥国宮城郡蒲生(仙台市)で300石を領したとか.
 現在も郡山市に集中しているそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 田村家中の結束を誓った田母神家に残る血判状.
http://www.town.miharu.fukushima.jp/rekishi/digital/tomizawa.htm

 伊達政宗の正室・愛姫の実家である田村家の家臣に,この姓がみられます.
 おそらくは,この一族でしょう.

 「田母神氏旧記」という古文書も残しておるようです.

しまだ

 あ,同級生に田母神姓がいました.
 やはり伊達藩ゆかりの由緒のある姓でした.

ITAL

 おお,出身大学のそばだった…>郡山市田村町田母神
 田んぼしか無いぞ,今は.

bernoulli

 その田村氏は・・・

>平安時代,桓武天皇より征夷大将軍に任命されて
>蝦夷討伐で活躍した坂上田村麻呂を祖とし,
>以下連綿と田村郡を領してきたとされる.

 幕府を開ける家系らしい・・・

しまだ

 ということは,田母神幕府という歴史のifも……

消印所沢・改

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より


 【質問】
 宮本武蔵と戦った吉田一門のその後は?

 【回答】
 日本の染色の世界で,近代になって大きく変わった色が「黒色」です.

 明治以降に黒紋付や黒留袖に使用されたものは,ログウッドという西インド諸島原産の植物でした.
 この植物を用いて染めた黒は,正に漆黒という言葉が相応しいもので,江戸期までの黒とは全く異なるものです.
 更に,ログウッドの媒染剤となったのが,二クロム酸カリウムです.
 この技術導入により,それまでは茶系染料の鉄発色と言う染法に変わって,黒染めの主流となっていきます.
 現在では,クロム公害が発生することから,何所でも染めが出来ると言う訳ではなく,この黒染めだけは,専門業者の手に委ねられているのが現状です.

 そうした意味から言えば,平安時代から江戸時代に掛けて,人々が喪に服す時の色と言うのは,黒と言うよりも墨色の系統が用いられました.
 墨色を染める場合は,布を鶴喰や矢車と言った樹の実を煎じた汁で染め,その色を定着させる媒染剤として,鉄分のある液に浸けて発色させます.
 これを何回か繰り返せば,濃淡を出す事が出来ます.

 この色は源氏物語や古今和歌集にも,「墨染の衣」とか「鈍色」として取上げられていますが,平安期,妻の場合は3ヶ月,夫の時は1年間濃い色の喪服を着ることになっていました.
 因みに,この色は真っ黒というわけではなく,どちらかと言えば茶鼠系の色で,死んだ人の縁が深いほど濃い色を着ることになっていました.

 室町時代末期の『胡曹抄』に
「移し花ニテ染也.又云花田染也.又云青花ニスミヲ入也」
という風に,移し花,つまり月草の花で染めたり,それに墨を加えるとありますが,これは間違い.
 青花は水に遭えば流れてしまいますし,万一定着したとしてもどちらかと言えば,青緑色になるからです.

 この黒系統の色は,身分の低い人の衣服の色としても用いられていました.
 鶴喰で染めるものは,鈍色の一つですが,鶴喰を煎じて椿の木灰とか明礬などアルミ分を含む媒染剤で発色させると黄味のある土色になります.
 更に,矢車と呼ばれる榛の木,夜叉五倍子も併用されました.

 南北朝期以降江戸期に成ると,檳榔樹の実を煎じた液で染めて,鉄気水で発色させた檳榔樹黒が出て来ます.
 檳榔樹は,インドから東南アジアの熱帯・亜熱帯に産する椰子で,その果実を檳榔子と称し,それを乾燥させたものが染料となります.
 古くは奈良時代に輸入され,薬物や香木として正倉院に伝えられていますが,染色に使ったのが判断されるのが『太平記』の記述からです.
 江戸時代には,大量輸入され,紅や藍で下染めをして,鉄発色で黒く染められたものが,紅下檳榔樹,藍下檳榔樹と呼ばれて黒紋付に用いられました.

 この檳榔樹は輸入品であって高価な為,代わって用いられたのが,五倍子と言う白膠木の樹に出来る虫の瘤で染めた黒色で,これを空五倍子色と言います.
 五倍子は,白膠木の木の枝に寄生するヌルデミミフシと言う虫の幼虫が孵化して樹液を吸うため,虫に傷つけられた部分に細菌が入り込まないよう,タンニン酸を集めて防禦する為に出来た瘤です.
 その幼虫が成虫になって穴を開け,其所から飛び出す前に収穫し,これを煎じて鉄漿などの鉄分を加えて発色させて,墨色系の色にしたものですが,檳榔樹を染める場合にも,五倍子を加えたり,檳榔樹を使わず五倍子で染め,恰も檳榔樹色でございと偽装した布も多く出回ったようです.

 墨染の衣という表現がありますが,既述の様に,鶴喰や五倍子,檳榔樹などの茶系の色を鉄分で発色したものでした.
 墨自体は,古くから有りましたが,これを染め物に使うのは滅多になかったようです.

 ところで,宮本武蔵と戦った吉田一門のその後を御存知でしょうか?

 吉田一門は兵法の流派である吉田流を名乗り,室町幕府足利将軍家の兵法師範を務めて名声を博していました.
 宮本武蔵と戦ったのは,この当主の三兄弟だと言われています.
 彼等は,足利将軍家が滅亡した後は,関ヶ原の合戦まで豊臣家に仕えて録を食んでいました.
 そして徳川方勝利の後,大坂冬の陣が勃発するに及んで,家康が直々に努々豊臣方に味方しないように,と通告していたのにも関わらず,一門は豊臣方に付いてしまいます.

 結果は豊臣方の滅亡に終わり,最終的に武器を捨てた吉田一門は兵法を捨て,京都堀川の流れに近い四条西洞院に於て,門人であった李三官から伝えられた黒染法を専らとする,染色業を興しました.

 この黒染は憲法黒若しくは憲法茶と呼ばれ,始めの頃は檳榔子を鉄分の液で発色する方法で染め,一説には,文様は型染による鮫小紋が得意だったと言います.
 型染とは,薄い和紙を柿渋で何枚か貼り合わせた,渋型紙に小刀で文様を彫って布の上に置き,糯米で作った糊を置いて防染して染めるもので,技法自体は室町期からありましたが,黒染や茶染で流行させたものです.
 吉岡染はその後も中々に興隆し,吉岡から分家して染色業を営んだ家は,京都ではかなりの数に上り,「吉岡」は京都では染屋の代名詞になっているほどでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/10/03 23:57


 【質問】
 信長の宗教観,宗教政策って,どういうものだったのでしょうか?
 イメージだと,信長は神の存在を信じなかったとか,反仏教とか,キリスト教の日本での布教を認めたとか,そんな感じがしますが.

 【回答】
 無神論者としたのはルイス・フロイスぐらいでしょう。
 信長は,起請文に八幡しか書かなかったりと個性も感じられますが,基本的には一人の信者であったようです。
 自己の神格化は他の戦国大名も行っており,特別な事ではありません。

 そもそも,自分を神として崇めさせたとか,第六天魔王と称したというのも, 宣教師側の記録にしか無かった様ですが。
 寺社勢力と戦ってはいますが,それはあくまでも敵対する勢力の一つとしてであり,先祖縁の織田剣神社を保護している他,八幡宮なども修復させています。

 無神論者云々は,小説のイメージが強い気がしますね。
 「無神論者」を持ち上げて神格化しているのですから,傍から見ると滑稽な気もします。

(山野野衾 ◆a/lHDs2vKA in 日本史板)


 【質問】
 織田信長は伊勢・長島や越前では降伏を許さず,一向宗の信徒を皆殺しにしましたが,一向宗の本拠地である石山本願寺は降伏を許しました.
 この違いは何故でしょうか?

 【回答】
 まず,一向宗=殲滅されるべき対象,という構図にこだわるべきでない,という神田千里氏の指摘は重要と思います.

 伊勢長島や越前の一揆は,信長の統治に武力で反抗した者たちで,彼らの掃討には他の宗徒への見せしめの意味も強かったと思います.
 一方で石山本願寺・顕如光佐に関しては,武力による掃討よりも,交渉による決着を信長が選択した,という政治的な意味合いが強いように思います.
 全一向宗を掃討するのは絶大な困難が伴いますので,教団を利用した統制を狙ったのではないでしょうか.

 後,本拠地である要害石山に籠もっていられてこそ,各地で信徒を煽れたわけで,石山を失う以上,下手な動きは出来なくなります.
そうすると,殲滅する必要も無くなります.

 顕如光佐にしても,秀吉には服従を貫いて宗教統制に協力しています.
 また,広大な寺内町も付随していたので,石山本願寺を丸ごと接収することも狙ったものと思われます.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 織田信長はなぜ平氏を名乗ったのか? 征夷大将軍になるのを諦めたということか?

 【回答】
 織田信長が平氏を名乗ったのは,当時「源平交代説」があったので, それを踏まえての事。

清盛政権(平氏)

鎌倉幕府将軍家(源氏)

鎌倉幕府執権北条氏(平氏)

室町幕府将軍足利氏(源氏)

・・・と政権交代してきたので,それを踏まえての事。
 織田信長が征夷大将軍の宣下を受ける可能性は,十分にあった。

(日本史板)


 【質問】
 織田信雄の子孫はどうなったのか?

 【回答】
 上州甘楽郡小幡は,家康の関東入城に際して,奥平信昌が三万石で封ぜられ,信昌の美濃加納転封後,水野忠清が一万石で入封します.
 水野家は大阪の陣後,三河刈谷に転封し,永井直勝が一万七千石で入封し,直ぐに常陸笠間に転封.

 代わって,織田信長の次男信雄の所領となり,その四男信良が,信雄の領地のうち,上野甘楽,多胡,碓氷の三郡,二万石を分与されて入封します.

 信雄は家康と同じように,尾張清洲から奥州への転封を拒み,除封されてしまいます.
 その後,関ヶ原では西軍に加わりますが,西軍の情報を家康に知らせた功を以て,大和と上野などに五万石で国主格を家康から与えられることになった訳.
 国主格ならば,官位は四位まで上がることが出来ますし,席次は大広間詰めで島津,細川,浅野並み.

 この時,信良は陸奥福島に仮陣屋を置きますが,直ぐに卒去.
 その子信昌は1歳で封土を継ぎ,この地に陣屋を移し,叔父高長を後見に藩政の基礎を築きます.

 しかし四年後に信雄が没して,その五男高長が信雄のもう一つの領地である大和宇陀郡松山三万石を領すことになって,話はややこしくなります.
 長幼の序を守るならば,信雄の本家は四男信良の系統,つまり,上野の方になります.
 ところが,既に信良は此の世に亡く,ならば,と言う訳で,五男高長の方が,信雄の本家と言い立てたのです.
 何か,本能寺の変での親父の行動そっくりと言うか,血は争えないと言うか….
 結局,一年の争いの末,幕府の裁定によって高長の方に凱歌が上がり,織田信雄流本家は大和松山の方になりました.

 その後,若くして信昌が死去し,跡目は「本家」高長の四男信久が養子となって,彼によって藩政改革と農業生産方法の改善が進みます.

 信久の後は四男信就が継ぎ,彼は館林城番などを行い,上野織田家の最盛期を築き,四男信右が18歳で跡目を継いだのですが,彼の代は病弱だったので,信就の子供が信富として跡を襲います.
 しかし,それも束の間,信富は直ぐに死去したため,高家の織田信栄(高長の系統で,高長の次男で大和松山二代長頼から三千石を分与された長政に端を発する)の四男信邦が襲封します.

 ところがこの頃,収入の二倍の支出と言う財政難状態で,藩政改革のため,山県大弐門下の吉田玄蕃を登用しますが,この山県大弐が,当時の反政府思想である尊皇攘夷を吹聴したので,吉田玄蕃の立場が家中で危うくなり,玄蕃は山県大弐との高誼を絶ちますが,讒訴する者がいて,信邦は吉田玄蕃に処分を申し渡します.
 しかし,この処分が重大事件にも関わらず,幕府への届け出を行っていなかったとして問題となり,遂には信邦に蟄居の沙汰が下り,急遽,信栄の五男信浮が跡を継ぎますが,幕府の怒りは解けず,結局,出羽高畠に転封を命じられ,出羽屋代郷の一部四千六百石,村山郡に一万二千石,陸奥信夫郡内に三千四百石と領地は飛び飛び,しかも,家格も国持大名格から諸大夫格への格下げとなってしまい,実家である高家の織田氏も普通の旗本に格下げされてしまいました.

 その跡を継いだのがその子供の信美ですが,彼は飛び飛びになっている領地を交換で一纏めにし,陸奥信夫郡の領地を村山郡内一万五千石とすることに成功します.
 また,陣屋も交通至便な出羽村山郡天童に置いて代官支配としますが,後に居所も天童に移すことを願い出て認められ,以後,織田家は天童に陣屋を設けて,明治を迎えます.

 此の間,その子信学の代には出羽置賜郡内に有していた領地を上知され,二万石を天童周辺に集約することになりますが,財政難は益々深刻化し,紅花の専売制や将棋の駒の製造などを行ったりしています.

 その他に効果があったのが,豪商からの献金ですが,これの引き替えに渡されたのが,狂歌の著名な作者だった家老吉田専左衛門の交際相手で,浮世絵で有名な安藤広重に描いて貰った肉筆画だったそうです.
 献金をした相手に対し,安藤広重に依頼して額に応じた肉筆画を渡したと言うものですが,安藤広重と言えば浮世絵版画の大家ですから,その肉筆画と言うことで,当時でも大変珍重され,30年に渡って天童織田家の屋台骨を結構支えてくれたそうな.

 明治維新の際には,信学は病気で隠居し,息子信敏の時代ですが,戊申の役では奥州鎮撫使先導となり,官軍方として出羽庄内酒井家を攻めたものの,反撃を受けて敢えなく陥落.
 その後,庄内酒井家に与して奥羽列藩同盟に加入して,官軍と戦うも再び敗北し,藩主蟄居と二千石の減封と言う処分が下りました.
 結局,先祖の功で子爵にはなりましたけどね.

 その後,信敏の跡には相馬事件で有名な奥州相馬家から養子を迎え,斎藤実内閣の時には農林政務次官を勤めたり,NHKの理事にもなったりしています.

 てことで,四男の方はこんな感じですが,五男の高長の系統も波乱の生涯を迎えることになります.
 やっぱり,血ですかねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月07日22:41

 一方,信雄の五男の系譜ですが,四男系統の信昌と争って織田信雄本家となった高長が,継いだのが大和宇陀郡松山三万石.
 此処は元々福島正則の弟,高晴が伊勢長島から入封したのが最初でしたが,横暴な振る舞いも多く,度々家臣から訴えが出ていました.
 幕府はそれを或程度放置していましたが,1615年に駿府に於てその地の奉行に断り無く,こうした訴人を捕えたことを咎められ,本人は伊勢山田に蟄居,領地没収となりました.

 その後に入ったのが,織田信雄です.
 彼には大和と上野に五万石が与えられましたが,本人は京都に住んでおり,この領地には重臣の生駒範親が入りました.
 その後,上野小幡二万石は四男に与えられることになりますが,分家,本家争いをしたのは上述のとおり.

 さて,この高長と言う人.
 信雄が所領を没収された後は,加賀前田家に寄宿し,大坂冬の陣では利常の陣で活躍します.
 そして,この時期に抱えたのが加賀衆でした.

 高長が没すると次男の長頼が跡を継ぎますが,弟長政に三千石を分与したため,所領は二万七千石となりました.
 ちなみに長政は幕府旗本となり,高家に列せられますが,明和事件で小幡織田家の迸りを受けて,落っことされたのは既述の通り.

 長頼が没すると,その子信武が跡を継ぎます.
 ところがこの頃になると,信雄の家臣として代々地位を保ってきた譜代重臣の生駒,田中家と,高長に従ってきた加賀衆との対立が表面化します.
 信武はその収拾に苦しんだ挙げ句,遂に1694年,彼は重臣の生駒三左衞門,田中五郎兵衛等,家老2名とその一門を成敗して,自らも自刃すると言う凄惨な死を遂げます.
 これが「宇陀崩れ」と呼ばれた事件で,翌年,家督を継いだ息子の信休には,幕閣から沙汰が下り,信休の領地は大和から遠く丹波氷上の柏原に移され,所領も二万石に減封されてしまいました.

 柏原は,元々織田信長の弟で四男の信包が伊勢安濃津から秀吉によって三万六千石を拝領し,幕府に安堵された土地でしたが,三代で嫡嗣無く,収公されていた土地でした.
 入封の後,信休は直ぐに藩校を設けて文教政策に力を入れ,人の育成に力を注ぎます.
 信休が没すると,その子信朝が二代となります.
 この頃から柏原織田家は窮乏し始め,藩札を濫発することで,一息入れる様になります.

 若くして信朝が卒去すると,今度は信休の三男信旧が兄の養子となって跡を継ぎます.
 彼は,吉宗の倹約政策を真似したり,町火消などの整備に力を入れました.

 そして,跡を継いだのが,高家の織田家から養子に入った信憑です.
 経済は困窮し,しかし,改革は上手く行かず,遂には農民暴動が頻発する様になります.

 そんな時,跡を継いだのが信憑の息子,信守です.
 先々代の信旧は,信憑を養子にしますが,その後に実子の信応が生まれます.
 当然,跡目は信応の方にすべきだったのですが,直前で信応が卒去したので,彼に跡目の座が転がり込んで来た訳です.
 彼は,政治に見向きもせず,公費を濫用したり,愛妾を政務に就かせるなと遣りたい放題.
 また,信応の子信古がいるにも関わらず,その信古を廃嫡して自分の子を跡目にしようと画策するなど,暗君と言われる典型の様な人で,結果的に家臣が幕閣に訴え,強制的な隠居となりました.

 そんなこんなで,跡を継いだ信古ですが,隠居した信守は,隠居で気楽だから江戸で生活したいと言い出します.
 しかし,彼を江戸で生活させたりしたら,家の費えが幾らあっても足りない,此処は側室の保野を江戸から呼び寄せるから,それで我慢してくれ,と言う話になって,一端纏まり掛けました.
 ところが保野の下女がこれを誤解し,信守と保野が柏原に幽閉されようとしている,と,幕閣に訴え出たからさあ大変.
 誤解を解こうと,あちこち走り回り,最終的に誤解は解けた訳ですが,幕閣の裁決は,信守に遠慮,信古は逼塞を命じ,結局,信古も巻き添えを食って隠居となりました.

 その跡目は,信守の思惑通り?彼の長男信貞が養子となって跡を継ぎますが,子宝に恵まれず,肥後宇土細川家から養子を迎え,信敬としますが,彼は藩校を作っただけで,若くして卒去し,今度は筑前秋月黒田家から養子を迎えて,信民としますが,彼も教育制度を整えただけで,これまた卒去してしまいます.

 最後の藩主は,備中成羽山崎家から次男を養子に迎えた信親で,彼は維新の激動の時代,藩論を勤皇に統一し,官軍に出兵,鳥羽伏見の戦では,官軍方として参戦し,戦死者120名を出しました.
 二万石の家としては,結構な損害.
 戦後は子爵となり,宮内庁に出仕しています.
 ちなみに彼が死んだのは,1927年で78歳まで生きました.

 こっちも結構,激動の系譜ですねぇ.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月08日21:35


 【質問】
 「信長公記」執筆者,太田牛一はどのような人物だったのか?

 【回答】
 ものすごいメモ魔だったそうです.
 で,そのメモをカードのように保存して,それを元に『信長公記』を書いたそうなんですね.
 この記録の詳しい制作過程は,藤本氏の著書『信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学―』(講談社学術文庫,2003.1)で論じられていますが,そういうわけでして,桶狭間の信憑性が疑われる要素は特にないそうです.

 もともと,貴族が日記をまめに書いておりまして,それがその家のかけがえのない財産になったりして,朝廷や幕府に罰せられるときに,所領や官職とともに,日記も没収されている例もございます.
 それがこの時代くらいから,武士もまめに日記や記録を残し始めるんですね.
 牛一以外では,徳川家康の家臣松平家忠が書いた『家忠日記』というのもあります(最古の将棋の指図が記されている日記).

 なお,太田牛一は,特に信長を美化していません.
 信長の判断ミスや,伊勢長島一向一揆の鎮圧に際して,一揆製をだまし,裏切って皆殺しにしたこともすべて正直に記しています.

 牛一は後に秀吉の家臣となったので,特に信長におもねる必要がなかったからだと思いますが,そういう公平性の意味でも『信長公記』が第1級の史料とされています.

「はむはむの煩悩」,2007年6月22日 (金) 21:48〜21:58
青文字:加筆改修部分

▼>伊勢長島一向一揆の鎮圧に際して,一揆製をだまし

 一揆が何か作ったみたいになってます.

部外者 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

「さて,本日のジャパネットたかたが自信をもってお勧めするのが,この商品!
 一揆製ですから,大変お求め易くなっております」


 【質問】
 秀吉の九州出陣で討ち死した長曾我部信親に嫡男はいたんでしょうか?

 【回答】
 信親は二十二で戦死したが,娘が一人いただけ.
 その娘は信親の弟盛親に嫁ぐ.叔父姪の結婚だ.
 五人の男子に恵まれたが,大阪夏の陣後,盛親と共に全員処刑された.

 ちなみに,信親の妻は,明智光秀の家臣だった石谷頼辰の娘.
 頼辰の義理妹(養父石谷光政の実娘,斉藤利三の義妹でもある)は元親の妻で信親の母だから,義理の従兄弟結婚になる.

日本史板


 【質問】
 北条氏の人気のなさは異常.

 【回答】
・下手に長く続いたため,個人単位ではなく一族単位で語られることが多い
・最も名の知れた早雲の登場時期が早すぎる
・隣の上杉,武田に華がありすぎる
・配下の風魔一族がイメージ的に目立ちすぎる
・攻めよりも守りのイメージが強い
・最後の大一番が籠城→降伏という地味な結果に終わる

 一言で言えば地味なのよな.
 創作物では勢力よりも,個人にスポットが当たりがちだが,北条氏はその焦点の当てどころがはっきりしないんで.
 この人ならこういう格好という外見上のイメージがはっきりしてる人物がいれば,ゲームとかにも出しやすいんだが.

 早雲がもう少し後の人物で,上杉・武田と直接やりあってたなら,あるいは.

漫画板,2009/09/08(火)


 【質問】
 最近の山川の教科書には,秀吉を「尾張の地侍の出身」と書いてあったが,これはちょっと勇み足じゃないのかな?
 今までどおり,農民と言ってた方が穏当だと思うが?

日本史板

▼ 【回答】
 実父が名字つきで足軽として戦場に出る村長レベルだった,という話はよく聞くが.
 秀吉の家は清州織田家の織田達勝に仕えていた,というが最近の定説らしい.
 もともと中村一帯の広大な土地を所有する豪農で,戦になると足軽たちを動員し指揮を執る,格式的にそれなりの在地武士.
 ここ数年で,親父さんの名前で織田信秀の村方相談役になってる資料も見つかって,神社にも親父さんが代表者として記録されてる資料が出たとかで,有力な名主クラスだったことは間違いないみたい.
 大政所も百姓じゃなく,(階級は低いものの)武士の娘だということが判明したそうだ.

 だから極貧の最下層貧農の出ってのは,少なくとも嘘っぱちもいいところなんだと.

 確かに下士と農民は差のなかった時代だから,百姓といってもいいのかもしれないが,あれはどちらかといえば平民ウケするための脚色であり,マルクス主義史観の時代,さらに強固にされてしまった認識なだけのように思えてならないよ.
 まさに「穏当」な言い方.

 いろいろな脚色もあるようだけれど,ティーンのころ信長に仕え,既に清正や正則を部下に従え,注目され,スルスルと清洲城の奉行に出世しているのは事実なのだから,全くハシにも棒にもかからない貧民のわけはない.
 いくら実力社会でも,初めの初めは相応の身分でなければ領主信長の近侍にはなれないし,上司の注目を浴びることもできないよ.

▼ 実父も継父も,小名主,小庄屋くらいの,一つの荘に発言力のある身分であったろうと考えるのが妥当かと.
 何の記録も残らなかったのは,秀吉兄弟以外の後継者はなく,秀吉自身がかなぐり捨てた家門だったからに過ぎないのでは.

 びっくりだね.
 立身には幼少期からそれなりのバックは要るってことか.

日本史板
世界史板(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 作り話か実話かは置いておくとして,信長の草履を懐に入れて温めた秀吉の行動は,美談と言っていいのですか?

 【回答】
 「砂漠に塩」,2008年02月27日号
http://archive.mag2.com/0000135791/index.html
によれば,気づいた信長も共に立派だという.
 なぜならば,企業にたとえるなら,社員が10人もいれば,尽くしている奴は1人はいるが,そんな努力に気づく社長などほぼ皆無だからだという.
 すなわち,いくら人知れず尽くしたところで,それが伝わるとは限らず,一方,見え透いたパフォーマンスがサラッとできる奴は,賢いかちょっと足らないかそのどっちかなのだという.

 詳しくは同メール・マガジンを参照されたし.

 行き過ぎると臭いスタンド・プレーになるけどね.


 【質問】
 羽柴秀吉が豊臣秀吉と呼び名が変わったのは何故?

▼ 【回答】
 現代の感覚を歴史を学ぶ場に持ち込むと,混乱や誤解のもとになる.

 羽柴秀吉が豊臣秀吉に改姓したと誤解している人は多い.
 羽柴という苗字は引き続き存在していて,豊臣という姓を苗字とは別に獲得した,という流れを理解するのに障害になっているようだ.
 姓を持つような家柄の出自じゃなかったから,ないなら作ればいいじゃないという発想だったのだろうけど.
(源氏の名家の養子になろうとしたが,断られたとか)

世界史板
青文字:加筆改修部分

 豊臣賜姓以降,豊臣秀吉・秀頼が名字を使った形跡はありません.
 書状は名前のみか印章ですし,かの方広寺の鐘銘など,各地に残る寺にある秀頼の名はすべて「豊臣朝臣秀頼」です.
 ちなみに同時に名前が残る片桐且元の表記は,名字有りの「片桐東市正豊臣且元」です.

 したがって質問の答えは,秀吉がこの時期以降,羽柴と表記することをやめて,「豊臣」のみを名乗ったから「羽柴秀吉」が「豊臣秀吉」と表記が変わったということが正しいとおもわれます.

 前は羽柴を名乗っていたし,名字を改めてないから羽柴というのは早すぎる結論で,姓をもつものが必ず別の名字をもっているというわけでもないですし(津守氏・紀伊国造紀氏・阿蘇氏),秀吉は一度近衛家の養子になっているので,この時点で秀吉の名字が「近衛」になったと考えることもできます.

ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 秀吉が源氏の名家の養子になろうとしたが,断られた,という話は本当ですか?

 【回答】
 これは林羅山が書いた本の,
「足利義昭の養子になって将軍になろうとした」
という記述が元だと思いますが,以下のような理由から現在では疑問視する声が優勢です.

・征夷大将軍は清和源氏でなくてもなれる.
・養子の話が羅山以外の史料にない.
・朝廷は将軍を罷免することもできる.(足利義稙)

ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 豊臣秀次って誰?

 【回答】
 豊臣秀吉の姉・ともの息子で,子供のできなかった秀吉の養子となり,関白職を譲られるなど秀吉の後継者とされていた人物です,秀頼が生まれるまでは.
 秀頼誕生後,「自分は邪魔者なのでは?」という猜疑心に駆られ,しばしば奇行をとるようになりました.
 そしてとうとう秀次謀反事件(といっても,蒲生氏郷の遺児への会津領相続を勝手に認可しただけ)が起こって,1595年に切腹させられたばかりか,秀次の子女・妻妾39人も京都三条河原で斬首されました.

【ぐんじさんぎょう】,2008/9/4

 【関連リンク】
『豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇』

豊臣秀次の墓


 【質問】
 豊臣家は滅びたと聞きました.
 血筋も絶えたのでしょうか?
 また,豊臣姓の人は,いるのでしょうか?
 いるなら豊臣秀吉と血縁関係(養子もある?)でしょうか?

 【回答】
 血筋は秀吉の甥の豊臣秀勝と豊臣秀次の女系で残ってる.
 秀吉の女系も一説に残っている.
 男系は絶えてる.
 生存説や落胤説もあるけど.

 秀勝は娘の豊臣完子が公家の九条家に嫁いで,その血は今の皇室にも入ってる(らしい).
 秀次は娘2人が秀次事件の粛清を免れたといわれ,ひとりは公家の梅小路家に嫁いだ.
 もうひとりは真田幸村の側室になって一男一女がいる.
(ただ,秀次の娘ではないという異説もある).

 秀吉の女系は,秀吉の側室の徳子(徳殿)が娘を産んでいたというもの.
 徳子の実家川副氏の史料で,その娘は丹羽家の家臣に嫁いだとあるらしい.

日本史板
青文字:加筆改修部分

▼>豊臣完子

 嫁ぎ先の九条家が,養子なく続いてれば,貞明皇后(九条節子)で天皇家に入ってるけど.輔嗣,尚忠あたりの関係が血が続いてるかwikiだけでは検証出来ず.
 と,思ったら,この二人,九条家から二条家に養子にいった連中の子孫が九条に戻ったようなので,続いているっぽいです.

>真田幸村の側室になって一男一女

 男が三好(秀次の旧姓ですね)幸信,女が岩城宣隆の継室顕性院.
 2代目の重隆は顕性院との子なので,岩城氏が養子なく続いてれば.

水上攝堤 by mail,2009/6/10


 【質問】
 加藤清正とは?

 【回答】
 戦国時代の武将(1562〜1611)

 尾張の土豪,正左衛門清忠の子として,尾張国愛知郡中村に生まれる.
 幼名,虎之助.
 幼い頃に父を亡くしたが,母親が豊臣秀吉の生母の伯母にあたることから,長浜城の羽柴秀吉子飼いの武将となる.
 元服後,秀吉に従って戦功をたて,1583年の賤ヶ岳の戦いでは一番槍.
 1588年,肥後20万石を与えられ,熊本城城主となる.
 1592年からの朝鮮出兵では蔚山城篭城戦で活躍.

 秀吉死後,秀頼の後見役となるも,石田三成らの文治派と反目したため,関ヶ原の戦いではでは東軍に属し,九州の西軍小西行長の宇土城,立花宗茂の柳河城を攻略.
 その功により行長の旧領及び豊後(大分県)鶴崎地方を加封され,合計54万石の大大名に.

 二条城での秀頼と徳川家康との会見を見届けた後,間もなく熊本城にて死去.


 【質問】
 柳生十兵衛の出身地が奈良って本当?
 山田風太郎のイメージで,てっきり兵庫出身だって思ってたけど・・・

 【回答】
 柳生家の本拠地は,もともと大和国柳生荘だぞ.
 爺さんのとき取り上げられていたが,親父の宗矩が関が原の戦いの戦功で再び貰い受けた.
 十兵衛はそれから7年後の生まれ.
 大和国(奈良県)生まれだといっても,全くおかしくない.

日本史板

 兵庫出身と勘違いされたのは,柳生兵庫助と混同されたせいかも.
 この柳生兵庫助の兵庫は,兵庫県とは何の関係もないです.
 確か漫画の『バガボンド』にも兵庫助が出てたはず.

Deutschland光線 in FAQ BBS


 【質問】
 山中鹿之助(幸盛)は尼子家再興のため働き,武士の鏡と言われますが,主君のために忠誠を尽くして働くという武士道は,江戸時代以降のことであり,戦国時代の武士道は,藤堂高虎のように自分の出世や一族郎党の発展のために,主君をたびたび変えたり,生き残るために主君を裏切るのは普通だったと言います.
 山中鹿之助は何故,江戸時代以降の武士道のような考えを持つようになったのでしょうか?

 【回答】
 ではない.
 山中鹿助(「鹿之助」は後世の改変)は,尼子をかつて裏切ったこともある.
 数度の尼子復興挙兵も.織田勢力を頼んだ領地入手の望みだったと考えるべき.

▼ しかも再興運動当時,毛利に降伏した尼子義久たちは健在で,しかも毛利の監視下にあったので,勝久をかつぎあげたのは忠臣……とはいえないかも.
 旧主が危険に晒される恐れが高いのに.


 本能寺の変の時.羽柴秀吉はいち早く毛利と和睦をして明智を討ったが,
 1578年,山中らの拠城・上月城(城兵3千)が毛利軍3万に包囲される.
 秀吉は救援に駆けつけようとしたが,三木城の別所氏が織田に背いたため,そちらに集中しなくてはならなくなり,動きがとれない.
 そこで秀吉は信長に助けを求めたが,信長は上杉謙信や石山本願寺の攻勢に備えるため,秀吉に対して

「三木城攻めに専念せよ」
と命令.
 この時点で中国地方の反毛利独立勢力は,秀吉に見捨てられた.▲

 その為,見捨てられた山中鹿助の最後が,殊更に悲劇的に見えるようになってしまった.
 これは山中鹿助自身も意図していなかったことであった.

日本史板
蒼野青 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分

 【関連リンク】
山中鹿之助は忠臣か?(忠臣説の側に立つページ)


◆◆武田信玄関連


 【質問】
 これまで武田信玄とされてきた長谷川等伯筆の肖像画(下画像)は,実は信玄のものではないというのは本当か?

 【回答】
 河合敦によれば,賛否あって決着を見ていないという.
 例えば藤本正行は,
・この肖像画が信玄を描いたものだという確かな史料はないこと
・太刀の目釘や笄(こうがい)の家紋が「二つ引両(ひきりょう)」であること
・長谷川等伯は戦国時代には能登で活躍していたこと
から,能登畠山一族のものではないかとしている.
 しかし,信玄説を唱える人々も少なくないという.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.60-62を参照されたし.


 【質問】
 武田信虎追放は信玄主導だったのか?

 【回答】
 河合敦によれば,板垣信方・飯富虎昌ら武田家重臣主導の反乱だったという見方が強くなっているという.
 甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強く,信虎が集権化を推進すると共に,周辺諸国との大きな合戦を繰り返したため,国人層の反発を受けたのだという.
 事実,後を継いだ信玄は,投書奨励によって家中の不満を和らげようとすると共に,多数の間諜を領内に放ち,重臣反乱を察知できるようにしていた.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.63-65を参照されたし.


 【質問】
 武田信玄は『人は石垣,人は城』の言葉通り,城塞を活用しなかったのか?

 【回答】
 「武田信玄は城なんてものには頼らなかった.『人は石垣,人は城』と言って,有能で忠実な家臣団に守られた偉大な武将であった.
 偉大な父と比べて,新府城なんてものを造った勝頼はアフォである」
という俗説がある.

 この俗説が生まれたのにはいくつかの理由があるであろうが,一つには,信玄が城に居住せず,甲府の躑躅ヶ崎館という普通の邸宅に住んでいた事実が挙げられよう.

 しかし躑躅ヶ崎館は,京都の室町御所を模した守護の館であるが,近年の発掘調査によれば,武田流の当時としては最新の築城技術が存分に使われていたそうである.

 複数の郭に分割され,深い堀に囲まれた堅固な要塞であった.
 そもそも京都の将軍御所だって,以前述べたように,戦国期には城塞化していたのである.

 しかも後背には要害山を控え,いざと言うときにはこの要害に籠城することが可能であった.
 これは,朝倉氏の越前一乗谷など,初期の戦国大名には比較的一般的に見られる防御形態である.

 躑躅ヶ崎館以外にも,甲斐には城や砦が無数に設置され,網の目のように張り巡らされた狼煙台ネットワークによって情報が迅速に伝達されていた.
 言わば,甲斐国自体が巨大な要塞のようであった.

 領国拡張のための侵攻の際にも,海津城など,信玄は城を存分に活用した.
 駿河を占領したときは,清水に江尻城を築城するなど,占領地の支配&さらなる侵攻の前進基地として,城は有効に活用された.

 はるか後年,武田氏が滅亡し,徳川氏が天下を獲った後,大坂の陣に際して,真田幸村は大坂城のいちばん防御の弱い地点に「真田丸」と呼ばれる武田流の出丸を築き,徳川軍を大いに苦しめたという.

 実際は,武田信玄もまた城をほかの戦国大名並みに活用した.
 否,もっとも城を有効に利用した部類に入る武将と言っても過言ではない.

 ほかにも,
「武田軍は自軍の誇る騎馬隊に絶対の自信を持っていたので,鉄砲の有効性を軽視し,そのため長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北した」
という俗説もあるが,実際には,武田の鉄砲隊は北条や上杉と比較してもかなり多くて充実していたし,そもそも騎馬隊などというものは存在しなかったのである.

 武田は,結局は敗北して滅んでしまった歴史の敗者なので,いろいろ俗説が生まれやすいのであろうが,できる限り偏見を排して事実を探求して行くべきだと思う.

はむはむ

 武田旧臣が徳川家に取り込まれたのが,「武田神話」成立の一因と言われていますね.
 小幡景憲の『甲陽軍鑑』もその1つなわけで……
(もっとも近年は,黒田日出男氏が『甲陽軍鑑』の史料的性格の再検討を進めていますが)

 武田旧臣(武川衆)である柳沢氏から出た柳沢吉保も,自分が甲府藩主になったこともあって,信玄の神格化を推し進めたようです.

 武田勝頼が築城した新府城についても,近年,発掘調査の成果等に基づき,学界において再評価が進んでいます(山梨県韮崎市教育委員会編『新府城と武田勝頼』新人物往来社).

御座候 | 2007年10月 8日 (月) 18:48

甲府城跡

「はむはむの煩悩」,2007年10月 8日 (月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 高坂昌信とは?

 【回答】
 武田信玄,武田勝頼の2代に仕えた戦国武将で,武田四名臣の一人に数えられます.
 小岩岳城攻略戦では一番乗りの功績を挙げ,第4次川中島の戦いでは,妻女山攻撃の別働隊として戦功を挙げ,他にも三方ヶ原の戦いなど武田氏の主だった戦いに参戦していますが,長篠の戦の折には海津城の城代として,越後方面の守備に当たっていました.
 ちなみに信玄が昌信に送ったラブレター(というか,浮気の弁明状)が現存していることでも知られています.

【ぐんじさんぎょう】,2008/8/24 23:15

▼「ごめんなさい.
 ほんの出来心だったんです.
 だって向こうが誘惑してくるんだもん.
 でも本気じゃないです.
 たしかに浮気はしたけど,本気じゃないです.
 浮気したのは体だけ,体だけだから.
 僕の心は貴方だけのものです.
 本当にごめんなさい.
 許してください.
 愛してる」

 以上,信玄さんの詫び状意訳.
 登場人物は全員男ってのが,なんともアレ.

漫画板,2009/07/05(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 山本勘助は実在した人物なの?

 【回答】
 昭和44年に発見された市川文書によって,山本勘助(山本管助)の実在は確認された,と考える人は多い。
・信玄の名代として出向いてるので,それなりの地位にいた武将だったという説,
・後世の甲陽軍鑑によって過大に喧伝されただけで,並みの武将だったという説,
・いや,諜報謀略が主任務だったので,表立っての記録が残されにくい立場だったという説,
・いやいや,当時の武田家は譜代の合議制だったので,余所者の山本勘助には発言権はなかったという説,
・いやいやいや,当時の軍師は吉凶を占う陰陽師的な側面があり,アドバイザー的な立場で影響力があったという説,
いろいろあるようだが。

 架空人物説を説く奥野高広を除けば,管見では,「市河文書」の「山本管助」=「山本勘助」にはっきりと疑義をはさんでいるのは,笹本正治だけ。
 あとは殆どが,「市河文書」で山本勘助実在!と大して検証もせずに決めつけてしまっている。

 たぶん,「市河文書」に出てくる山本管助は軍師山本勘助のモデルだろう。それはいい。
 甲斐武田家臣に山本一族がいたこともほぼ確実だ。
 だが現在のところ,実在が確認されているのは山本管助であって,山本勘助ではない。
 ここははっきりすべきであろう。
 当の山本管助は,弘治年間と推定される「市河文書」の中に登場したきり,その消息は知れない。

日本史板

 実在したと言われる勘助は軍師ではなく,足軽大将だったんだと考えられている.
 「勘助=名軍師」という俗説ができたのは江戸期.
 家康は,武田遺臣を召抱えたり信玄の真似をしたりと信玄贔屓だったからそういう武田マンセー土壌が出来ていたんだな.
 が,明治になったら「甲州流兵法はウソっぱち」となり勘助は否定され,そのあおりで勘助の存在自体も否定視されるようになった.

日本史板

 【参考サイト】
http://www.asahi-net.or.jp/~jt7t-imfk/taiandir/x105.html

 ※
 ただ,当時は通称は当て字が当たり前だったため,大方の研究者は「管助」「勘助」の文字の違いには問題を感じていません.

 現代の日本では発音が同一でも文字が異なれば別人と考えてよいのですが,明治以前にはそうではありませんでした.
 ことに字(あざな)=通称の場合発音さえあっていれば,あとはどの字を当ててもオーケーでした.(諱(いみな)の場合はどの文字を使うか重視されますが)
 おそらく私が長々と書くより「武士の名前」でgoogle検索してみていただくのが早いと思います)

 それを承知した上で市川文書の「山本管助」との記述に疑念を呈しているのが本項目の
「だが現在のところ,実在が確認されているのは山本管助であって,山本勘助ではない」
との記載のあるリンク先であり,それに対して大方の研究者は,それはおかしいことでも何でもないと考えています.

nameless in FAQ BBS


 【質問】
 武田軍の標準的な編成は?

 【回答】
 武田軍陣立図屏風というものがあります.
 それを見ると,まず左右に鉄砲隊(ただし戦国後期と違い弓矢をもつ足軽との混成部隊),続いて中央に三間(約6メートル)の長槍,二間の短い槍ときて,最後に徒歩武者,騎馬武者と他の戦国大名と同じような部隊の編成です.
 更にまた鉄砲,長槍,槍,徒歩組,騎馬武者ときて総大将武田信玄,その後ろに馬周り集や近衆などの側近という編成です.
 また武田軍は,印地打ちという石を投げる足軽が活躍しました.

 ちなみに騎馬武者は大変手間がかかる.
 馬に食べさせる食料や水の確保.馬の世話ががりが必要で,代わりの馬も必要なのです.

90式改 in FAQ BBS,2009年9月27日(日) 18時46分
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 武田騎馬軍団は史実では存在しなかったって本当?

 【回答】
 当時の戦国大名の兵力動員の形態から考えて,なかったか,あったとしても小規模と考えたほうが自然だという.
 以下引用.

 戦国時代のテレビや映画では,無敵の武田騎馬軍団等と言っているのがあります.
 しかし本当は戦国の武田家には,騎馬軍団がいませんでした.
 「戦国合戦本当はこうだった」(藤本正行著 洋泉社)では,戦国大名の兵士は家臣がその知行地から,騎馬武者1人,長柄鑓持ち,持ち鑓5人,弓何人,鉄砲1人,旗持ち・手明何人などと各村から農民を集めて兵士にします.
 この場合騎馬武者は,多くは指揮者などの上級兵士が多かった.
 当然騎馬武者だけを集めて,集団生活や訓練などは出来ません.
 訓練などは知行地ごとの,いわば各村ごとにしか出来ないはずです.
 当然のことながら,騎馬軍団を造れなかったわけです.
 おおよそ騎馬武者一人に付き,7人〜10人の歩兵が一つの基本単位となって,行動しています.
 その騎馬武者の割合も,上杉家等他家と比較しても,武田家が特別高い割合でもなかったことを考えると,やはり武田騎馬軍団は存在していなかったことになります.
http://homepage3.nifty.com/k-haruaki/koborehanasi.htm

日本史板

▼ そして,まずは戦国時代の基本戦術単位である備が小規模な諸兵科連合であり,軍勢は十数〜数十個の備によって編成されていた事を考える必要があります.
 備の騎馬隊(数十騎ほど)は,それぞれの備で個々に運用されていたのです.

トビ in FAQ BBS,2009年9月16日(水) 21時7分
青文字:加筆改修部分

 したがって武田騎馬軍団というものは,あったとしてもそれほどたいした規模ではなかったと考えられる.
 騎馬を大量に養うには,非常にコストがかかるし.
 特に戦国日本式の騎馬養成は大変.

軍事板
青文字:加筆改修部分

▼ ただし,騎馬の集中運用というのが完全に無かったかと言うとそうでもない.
 しかし,それはフィクションのような数百〜数千の騎兵が突撃するようなものより,ずっと規模の小さい,数十騎くらい集めれば精一杯といったものだったそうだ.
 100騎もいたら,凄い大規模な騎馬部隊という感覚.

 でもって,そうした騎馬部隊というのは常設の物というのは少なく,戦場で臨時に余剰騎兵を集めて突撃させるような物が大抵で,その他に本陣控えの旗本,伝令役たちの十〜数十騎ぐらいしか無い.

 武田騎馬軍団については,今の山梨県が馬の産地ってことで,移動や輸送に馬がふんだんに使えたこと,つまり馬や騎兵に余裕があった事から言われたもの.

軍事板,2008/09/24(水)
青文字:加筆改修部分

▼ 要するに,騎乗した兵士だけで常設部隊が組めるほど馬が居なかった.
 と言うより,下っ端は合戦に使えるような馬なんて持ってなかった.

 ヨーロッパでも騎兵というのは,ハンガリーあたりの騎馬民族が傭兵としてやっていた例がほとんど.
 北東アジアから東欧あたりの騎馬民族以外には,騎兵という兵種そのものがほとんど存在しない.
 中世ヨーロッパには多少居たが,騎馬突撃みたいなのは結局あまり流行らず,損害の補充が難しいと言うのもあり,結局廃れる.
 ナポレオンが騎兵の栄光を復活させるが,以降は下り坂.

日本史板
青文字:加筆改修部分

 「武田騎馬軍団」は宣伝戦の威力もありだよ.
 んで,騎馬の突撃衝力というのは,多分にイメージに支えられるところが大きい.
 「あんな大きな動物が大挙してこっちに突撃してくる!」という威圧力だね.
 武田家では,宣伝戦で敵方に培われた「騎馬軍団」のイメージを有効に活かすため,突撃の際には馬から下りる,ということまでやっている.

軍事板


 【質問】
 信玄死後,武田が滅亡してしまったのは何故か?

 【回答】
 河合敦によれば,勝頼の領国経営の失敗だという.
 甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強いにも関わらず,勝頼は集権化を推進して重臣の離反を招いた.
 ▼また,勝頼は強引な力攻めを好み,そのために長篠の戦いで大敗を喫した.(2008.11.3削除)
 ▼さらに,武田家中の情報収集も怠ったため,重臣反乱も察知できなかったのだという.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.67-68を参照されたし.

▼ ただし別項目からも垣間見えるように,勝頼愚将説は一面的なモノの見方に過ぎず,例えば
「武田軍は自軍の誇る騎馬隊に絶対の自信を持っていたので,鉄砲の有効性を軽視し,そのため長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗北した」
というのも俗説に過ぎない.
 実際には,武田の鉄砲隊は北条や上杉と比較してもかなり多くて充実していたし,そもそも騎馬隊などというものは存在しなかった.

 まあ愚将でなくとも,時代に合わない戦略をとればコケるわけで.
(名門企業がコケるときは,たいていこのパターン)


 なお,河合敦については,「最新の研究成果を踏まえていない」という問題点の指摘があるので留意されたし.▲

▼ 戦国時代は結局,「この人は戦が上手くて,領土を拡大して俺たちに分け前をくれるから,この人を主君に仰ごう」というのが殆どなんですよね.
 だから,いったん落ち目になってしまうと,あっという間にみんな裏切って,あっけなく滅んでしまう.

 特に勝頼の場合,本来は諏訪家の人間であり,武田家の後継者とみなされていなかったのに,義信事件の結果,信玄の跡継ぎに取り立てられたという特殊事情があり,家臣から家督としての正当性を疑われていたというハンデ(彼の名はもともとは「諏訪四郎勝頼」であり,武田家に入った後も武田家の通字である「信」を名乗っていない.勝頼は嫡子信勝の家督継承までの中継ぎという位置づけ)がありました.
 実際,信長の甲斐遠征の折に勝頼を裏切り,武田家滅亡を決定づけた武田一族の穴山信君(梅雪)は後に,武田勝頼が側近偏重で親族を斥けたことを批判し,自らが勝頼に代わって武田家を再興すると宣言しています.
 穴山信君は,勝頼と心中する義理は自分にはなく,むしろ勝頼を裏切り勝ち馬である信長に乗ってこそ,武田家の家名を残せると判断したのであり,こうした一族のドライな割り切りが勝頼を窮地に追いやったわけです.

 なお,この側近政治について河合敦氏は,
「甲斐は国人(重臣)層の自立性が非常に強いにも関わらず,勝頼は集権化を推進して重臣の離反を招いた」
と批判するわけですが,勝頼の側近であった跡部勝資と長坂釣閑斎については,信玄時代からの重臣であることが指摘されています
(平山優「武田勝頼の再評価」『新府城と武田勝頼』).
 そもそも戦国最大の勝ち組である織田信長は,集権化を達成することで勢力を拡大したのであり,これに対抗するには勝頼も,集権化を進めるほかありませんでした.

「勝頼は強引な力攻めを好み,そのために長篠の戦いで大敗を喫した」
と河合氏は非難しますが,日に日に勢力を拡大する織田家と戦う時期としては,勝頼が兵を動かした天正2年はむしろ,「遅すぎる」というのが現実でした(平山優「武田勝頼の再評価」).
 家臣団の反対意見に足を引っ張られて,勝頼は侵攻の時期を逸したのであり,どちらかというと集権化になかなか踏み切れなかったことが,勝頼の敗因になったと言えます.

 また,長篠の戦いで大敗してから(長篠合戦での勝頼の指揮が,それほど的外れなものではなかった点は,藤本正行『信長の戦争』に指摘があります),7年も武田家が保ったことは,私の目から見れば奇跡的に思えます.
 長篠合戦後,勝頼は織田・徳川の侵攻を食い止めることに成功しています.
 そのこと一つとっても勝頼を凡将とは見なせないと思います.

 長篠合戦以後,領土の拡大を望めなくなった勝頼は,領国内の支配に意を払い,統治の安定化を図っています.
 また信玄の重農主義から,商人や職人に役を賦課する重商主義に転換し,ある程度成果を得ています(笹本正治『戦国大名の日常生活』).
 信長も,遠江の要衝である高天神城を陥とした勝頼のことを,
「勝頼は信玄の軍法を守り,表裏をわきわめた武将だ.恐るべき敵である」と評価しており(「上杉家文書」),武田攻めの際にも非常な決意で臨んだ甲斐遠征が,たったの1ヶ月で完了したことに驚いています.

 それから,北条氏政との同盟を破棄して上杉景勝と結んだことを問題視する声もありますが,仮に御館の乱で(北条氏から養子入りした)上杉景虎を支援し,彼が家督についた場合,北条氏の勢力が越後にまで伸びることになり,情勢が変化して北条・上杉氏が織田・徳川氏と結びついた時には,四方を敵に囲まれる事態になります(平山優「武田勝頼の再評価」).
 上杉景勝と同盟を結び,労せずして上野と信濃の上杉領を景勝から譲渡されることは,勝頼がとることのできる選択肢の中では最善のものだったと思います.
 勝頼は北条氏との戦いは優勢に進めており,北条氏と断交したことで勝頼が一気に苦境に立たされたわけではありません.
 武田家滅亡の半年ほど前には,北条氏政に従っていた駿河の松田氏が武田方に転じており,この時点において勝頼はなお「頼りになる」存在でした(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』).
 問題はあくまで対織田・徳川だったのです.

 あくまで織田信長との対決に拘り,武田家を滅亡に追いやったと批判されることも多い勝頼ですが,近年の研究では,天正7年の末以降,勝頼が信長との和睦を模索していたことが指摘されています(鴨川達夫『武田信玄と勝頼』).
 信長がこの和睦要請を断固として拒絶した理由は,信玄が自分を裏切って信長包囲網に加わった恨みからと推定され,勝頼が信玄から「負の遺産」をも継承していたわけです.

 信長が和睦や降伏を許さない以上,勝頼に残された道は織田氏との決戦しかないわけですが,長篠合戦の時点ですら織田氏と武田氏との戦力差は隔絶しており,合戦後はその差が更に開いていきました.
 どんな名将でも,この差をひっくり返すことは無理だったと思います.
 上杉氏や毛利氏にしても信長の横死に救われただけで,信長がそのまま生きていたら,滅ぼされていた公算が大でしょう.

 以上の内容を要約すると,
 @家督継承後,武田勝頼は内政・外交・軍事などにおいて失策らしい失策は殆どしていない.
 基本的には,その時点で取り得る最善の選択をしている.
 A唯一失策と言える点は,織田信長の勢力が巨大化する前に決戦を挑まなかったことだが,これもイレギュラーな形で家督を継承した勝頼が,家臣団の反対を押し切って兵を動かすことが難しかったためであり,「家臣の諫めを聞かずに暴走した」という勝頼愚将論は成り立たない.
 Bつまり「相手が強すぎた」だけであり,勝頼以外の人物が家督だったとしても,武田家の劣勢を覆すことは不可能であったと思われる.

 更に付け加えますと,河合敦氏は,「投書奨励によって家中の不満を和らげようとすると共に,多数の間諜を領内に放ち,重臣反乱を察知できるようにしていた」賢い信玄と,「武田家中の情報収集も怠ったため,重臣反乱も察知できなかった」愚かな勝頼とを対比しているようですが,これも表面的な見方です.

 信玄の「重臣反乱の事前察知」というのは,義信派のクーデターを事前に察知し,断固粛清したことを指すと思われますが,勝頼の場合はこの種の大々的なクーデター計画は存在しません.
 勝頼に対する重臣の反乱というのは,要するに織田・徳川方の調略に応じて連鎖的に無血開城したということであり,これを事前に察知することは難しいですし(なお重臣の離反は勝頼の専制への反発というよりは,天正9年3月の高天神城落城による勝頼への失望が主因),仮に薄々「怪しい」と疑っていたとしても,勝頼には不満分子を鎮圧するだけの余力がありませんでした
(たとえば,長篠合戦で勝手に戦線離脱した穴山信君を処分していない).

御座候 by mail,2008年11月16日 23時29分
〜2008年11月17日 12時07分


◆◆山内家

 【質問】
 大河ドラマ「功名が辻」で武田鉄矢とかやってる,山内家の最初の家来の二人は,実在した人物?
 幕末まで子孫は残ってる?

 【回答】
 実在の人物だよん.

 「山内家史料休夢覚書」によると
・弘治3年7月12日,山内氏の住む黒田城は、敵の夜襲に遭い兄十郎は討死,父盛豊も負傷した
・13歳の一豊は,家臣の祖父江道印の案内で屋敷の隠窓を破って外に出て土居の藪の竹を切って堀に橋を掛け城を脱出して岩倉城の織田信安のもとにのがれた.
とあるよん.
 つまり,祖父江道印は実在の人物ってことだね.

 また,山内入国後の宿毛領の領主として祖父江志摩次郎兵衛がいるよん.

・柏島1000石を与えられ柏島守護となったこと
・祖父江志摩は,山内一豊が幼少の頃尾州黒田城でその危難を助けた祖父江道印の子であること 
・祖父江志摩は柏島で22年間生活し,元和9年に68歳で没したこと
・島民はその徳を慕って,毎年旧盆に祖父江志摩の墓前で「志摩さん踊り」を奉納していること
は「宿毛市史」にも残ってるよん.

 木曽川町史では,
・祖父江家は,現在の中島郡祖父江町の出身で,盛豊の妻の縁者で黒田城の井戸番蔵番を勤めた盛豊が左腕と頼む有力家臣
・現在も木曽川町の電話帳には「祖父江」は約50軒程度,掲載されている

 でもって,幕末土佐藩の司令官の1人,祖父江鷹衛は祖父江の子孫.他にもう1人,祖父江がいるけど,彼もそうだよん.

 五島は,五藤主計が幕末に家老をしているよん.

 木曽川町史では,
・一豊の父盛豊が尾張へ来た時のこと,長良川郷戸の渡しの渡船の船中で,五藤三郎左衛門浄基が盛豊の人柄にほれ込み臣従し仕えた
・「功名が辻」のは五藤吉兵衛で浄基の子ども
・五藤家は当時黒田近辺の豪族で,岩倉織田家に仕えた有力者
・「五藤」も電話帳で約200軒程度確認可能

 愛知県一宮市(旧・木曽川町)の山内家菩提寺・法蓮寺に行けば, 山内家の墓と並んで五藤家や祖父江家の墓もあるよん.
 山内家の譜代中の譜代だぁね.

日本史板


 【質問】
 一豊の妻,千代の出生地ってはっきり分かってたっけ?

 【回答】
 千代の出生地は,郡上市の八幡城城主・遠藤盛数の娘という説のほか,近江 (滋賀県)浅井氏の家臣である若宮友興氏の娘とする説などいろいろある.
 いずれも系図や寺の過去帳の記載などを根拠にしており,一定の信頼性はあるといわれているが,出生地を確定するまでには至ってないのが現状.
 ちなみに司馬遼太郎の「功名が辻」は,若宮氏説をベースにしている.

日本史板


 【質問】
 山内一豊譚は戦国の出世物語扱いされているが,オレなら僻地の土佐24万石より東海道沿いの掛川5万石の方がいいな.
 土佐転封は,実は体のいい左遷じゃないか?

 【回答】
 単に東海道は譜代,外様は遠方の地のルールが適用されただけで,「左遷」ではない.

 ただ,一豊入封時の土佐藩は,超ド級の貧乏でありますた.
 さらに,慶長十一年に一豊が死去した後,それに追い討ちを掛けるように幕府から度重なる課役負担を強いられ,藩財政は困窮を極めておりますた.
 当初,それに必要な資金を大阪の商人から調達しつつ自転車操業しておりますたが,その後間もなく元和七年頃,藩財政は破綻寸前まで逝っちゃいますた.

 土佐藩が物産として本格的に自藩領の木材に着目し始めたのは,一豊死後約二〇年.
 それによって藩財政が潤うのは,一豊死後三〇年近く経ってからでありまつ.
 元和八年,こんな財政状態ではいかん,と大慌てで山から檜を切り出し,大阪民間市場へ廻送し続けた結果,一豊入封以来ここで初めて藩財政の建て直しに成功したのでつ.
 しかし,民間需要分の伐採に加え,寛永始めの大阪城と二条城普請時に膨大な数の土佐檜を乱伐し献上し続けたから土佐の檜山は禿山となり,急遽民間に対し木材伐採の規制を設け,藩をあげて造林に励み出すのでありまつ.

日本史板


 【珍説】
 山内一豊は土佐長宗我部の一領具足たちをだまし討ちして虐殺した悪人だ!

 【事実】
 原作の司馬氏は,長宗我部氏や郷士階級の出身である坂本龍馬を題材にした小説も書いていることから,土佐入国後の一豊に関しては批判的です.
 ただし,一豊と同様に統治が難しい領地を与えられた結果,その統治に失敗して改易された外様大名がいたことを考えると,やむを得ない部分もある,としています.
 また,半農半兵という一領具足の特色が,兵農分離という時代の流れと衝突したことも,こうした悲劇の一因といえます.
 当時(1600〜1601年)はまだ混乱しており,そうしたことは日常茶飯事なんですけどね(^^;

 どちらの立場に立つかによって,ものの見方は変わってしまいます.
 こうした歴史的事実の,一点のみをとらえてどちらかを一方的に非難することは,無益であるばかりでなく,正直言ってうざいです.

日本史板


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