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(朝目新聞より引用)
「D.B.E.ミニ型」:電車で織田信長のアルバム聴いてたんだけど・・・(情報源Blue
Twin Tails)
>また邦楽厨(笑)かww
>ルイスフロイス聴けよ
「D.B.E. 三二型」(2011/01/22)◆アニメ「へうげもの」キャスト発表,放送は4月7日から
「D.B.E. 三二型」(2012/04/04)◆伊賀の里は忍者だらけ…街角で手裏剣・吹き矢も
「D.B.E. 三二型」(2012/04/04)◆忍者デザインのナンバープレート 甲賀市で交付開始
「Togetter」◆(2013/01/12) 隆慶一郎,その功罪
「朝目新聞」●究極のグルメ武士道・・・「野武士のグルメ」レビュー (of BLACK徒然草)
「イソヤ界」◆(2010年1月27日)戦国時代の戦術とか戦闘の流れ教えてくれ:カナ速
「萌通.com」◆(2010/03/27)戦国時代の東西の戦闘力考察
◆◆城砦
「D.B.E. 三二型」◆敵はイノシシ,落城の危機 丹波黒井城跡
「D.B.E. 三二型」◆(2010/02/08)石田三成の石垣どこへ? 彦根城転用説…実は10個未満/情報源カトゆー家断絶
「netbunker」:日本のマチュピチュ?天空の城 竹田城跡 - 地球はすごい!
村上敦 in twitter(2012/12/16)◆ アマゾンのクリスマス玩具みたいなところから.この発想はなかった…スノードームっぽい彦根城
『城 (歴群図解マスター)』(香川元太郎著,学研マーケティング,2012.8)
『三重の山城ベスト50を歩く』(福井健二・竹田憲治・中井 均編著,サンライズ出版,2012/09/23)
◆◆書籍
『畿内・近国の戦国合戦』(福島克彦著,吉川弘文館,2009.7)
平地城館が密集する地域での戦闘について,三好勢や細川勢が争っていたころの木津川流域を例にとって,考える冒頭は素晴らしい.
戦争の日本史の戦国時代を扱った巻は,概説史が多いけども,東国の戦国合戦のように南奥州(いわき,白河)に目配りして佐竹や宇都宮,那須氏などの動静を描いたり,この巻のように戦闘の実相について,史料をもとに掘り下げて描いているものもある.
三好勢の四国からの兵力増援の仕組み,あるいは六角氏と甲賀の関係などは,関連論文を探して読んでみたいところ.
京都の中心にあった上京,下京や日蓮宗寺院,山科本願寺などについても,もっと知りたい.
――――――軍事板,2011/07/19(火)
『織豊政権と東国社会 「惣無事令」論を越えて』(竹井英文著,吉川弘文館,2012.5)
『真実の「日本戦史」 戦国武将編』(家村和幸著・監修,宝島社(文庫),2010/12/18)
本著冒頭にある著・監修者・家村さんの次の言葉に同意します.
<戦国の世を生き抜いた武将たちは皆,統率力に満ちた名戦略家であり,同時に優れた戦術家であった.
それゆえ,戦国時代の古戦史には,我々が今日戦略・戦術上の原則としているものの実例がすべてある.
又,現実の国際社会の実相も,強力な統制力が存在せず,謀略が多用され,国益がぶつかり合うものであり,その意味でこの時代は,「日本の中に小さな国際社会が現出した時代」と言えるだろう,
世界は今や,大戦国時代であり,これに処する上で戦国の世を生き抜いた武将たちの人生は,現代に通じる兵法書そのものである.>
国際社会は典型的な弱肉強食世界で,力がないものの発言権はほとんどありません.
きれい事のまったく通用しない世界です.
そこで通用するのは何か?
「力」
「パワー」
です.
力やパワーとは何かといえば,武力です.
経済力ではありません.
経済力は武力に代替しえません.
わが国内でも,そういう常識で世の中が動く時代がありました.
そう,戦国時代です.
家村さんがお書きになっているとおり,
<この時代は,「日本の中に小さな国際社会が現出した時代」>
だったといえます.
本著は,
「戦国時代の戦史を通じ,斬れば血が出るような教訓を得たい」
とおもっている,少なからぬ人の期待に応えられる一冊です.
■軍事的見地から,
わが戦国時代の戦史を,一般人向けに書籍を通じて啓蒙したプロフェッショナルは,故・大橋武夫さんくらいしか思い当たりません.
そんないま,家村和幸という方をあなたに紹介できることを大変嬉しく思います.
本著の著者紹介からご経歴を紹介します.
<家村和幸(いえむら・かずゆき)
兵法研究家,元陸上自衛官(二等陸佐).
昭和36年,神奈川県生まれ.
聖光学院高等学校卒業後,昭和55年,二等陸士で入隊,第10普通科連隊にて陸士長まで小銃手として奉職.
昭和57年,防衛大学校に入学,国際関係論を専攻.
卒業後は第72戦車連隊にて戦車小隊長,情報幹部,運用訓練幹部を拝命.
その後,指揮幕僚課程,
中部方面総監部兵站幕僚,戦車中隊長,陸上幕僚監部留学担当幕僚,第6偵察隊長,幹部学校選抜試験班長,同校戦術教官,研究本部教育訓練担当研究員を歴任し,平成22年10月退官.
著書に
『戦略・戦術で解き明かす真実の「日本戦史」』(宝島SUGOI文庫),
『図解雑学 名将に学ぶ世界の戦術』(ナツメ社),
論文に
「支那事変拡大の経緯を戦略・戦術的思考で分析する!」(別冊宝島),
「戦略・戦術的思考とは何か」(ほうとく)
などがある>
■本著最大の特徴は
1.戦国時代に特化した戦史解説書
2.「兵学的ものの見方」をプロの教授を通じて得られる教科書
3.手に入れやすい文庫本で読みやすい.
の3点に凝縮されます.
それと感じるのは,
1.図が豊富で,とてもわかりやすい構成になっていること
1.各章のあとにあるコラムの内容が興味深い
1.本のナビゲーションとして合戦年表が冒頭にある.これは秀逸.
ということです.
玉手箱のように,いろんなものが出てくる楽しさが味わえる本ともいえますね.
個人的には,
1.島津家の有名な「釣野伏」が図で解説されていたところ(P191)
2.太田道灌の戦略十五条(コラム1)
3.日新公の「いろは歌」
がスイートスポットでした.
■本著を読めば,
兵学・軍事的なものの見方は,外交や国家戦略と不可分一体であることが本当によくわかります.
あわせて,わが先祖が血と汗を通じて残してくれた貴重な財産をとことん吸収し,自家薬篭中のものとしないまま,いたずらに外にばかり目を向ける愚かさに気付かせてもくれます.
国家戦略が形になったのが,外交であり軍事作戦です.
そのことをもっとも端的な形で,具体的に示す教訓あふれる宝物が,歴史の長い風雪に耐えて今に残る,わが戦国戦史なのかもしれません.
そんなことを思いました.
本全体の構成は,
1.合戦年表等の資料集
1.意図を明確に示す秀逸なまえがき
1.用語解説
1.本編の戦史解説(全7章)
1.各章の後にある興味深い内容のコラム
というものです.
初心者にやさしい,ベテランにも興味を引かせる,実に有機的な姿です.
文庫本にここまで情報を詰め込めるものか,と正直感心しています.
年末年始にぜひお読みください.
オススメです.
――――――おきらく軍事研究会,平成22年(2010年)12月25日(土)
『図説・戦国甲冑集―決定版』(伊沢昭二著,学研,2002/12)
『戦国争乱を生きる 大名・村,そして女たち』(舘鼻誠著,日本放送出版協会,2006.12)
戦国期の戦争観が改まりつつあるという視点で読むと,軍事板の書評スレで紹介するのも妥当.
藤木久志,勝俣鎮夫などの人口に膾炙した著作から,地道な研究まで引用して,村の城や戦争をとりあげたり,戦国領主と国人,百姓らの相互関係などを定義しなおされつつあるとして紹介.
史料引用は短切で,現代語で分かりやすく訳されているのも嬉しい.
時代劇でとりあげられる毛利や斉藤道三なども,史料を踏まえて,時代小説や歴史小説での通俗像を改めて描いているなど,当時の時代を分かりやすく解説しており,大変読みやすい.
――――――軍事板,2009/12/31(木)
『戦国の軍隊 現代軍事学から見た戦国大名の軍勢』(西股総生著,学研パブリッシング,2012.3.19)
ざっくりながら.
・ 戦国期の軍隊のあり方について,東国大名は兵農未分離が通説とされるが,足軽と在地衆や知行の割,軍役負担における武器持ち出しの種類や数量の要求,こういった諸要素を鑑みて,戦国期のかなり早い段階から,実際には兵農分離が進んでおり,軍制についての西高東低といった現象は,実はなかった,という視点.
・ 人数も装備も人足もマチマチに編成される,パッケージ式の「家」単位の衆に対し,大名に提供する兵士達の武器・防具は,訓練無しでも即席で編成される,大名隷下で運用されるのを前提とした兵種別部隊を構成できるよう,次第に操法などの簡略化・統一化する長柄への進化,少ない訓練でも扱える鉄砲に戦力化諸々.
・ なによりも提供される兵は,後述するように非正規雇用でまかなったかもしれない,
・ 武士道は当時,外国にいた新渡戸稲造が一次以下の資料に頼ること無く書かれたもので,誤解にまみれ,更にそれを大正期以降の軍国主義者が利用した,
――などなど,通説の多くを否定するような感じを受けました.
特に,現代的に視点については,封建制における侍を大名に雇われた正規雇用社員に例え,足軽は失業者やアウトロー,ドロップアウトした人たちからなる傭兵隊と分析し,繁盛期に雇用され,閑散期に解雇されるパート・アルバイトのような非正規雇用社員になぞらえ,人員調整を図っていたのではないか,といった具合.
他にも,「雑兵物語」は当然として,クレフェルトの「補給戦」なども登場して,通説を覆しかねない,実に軍事的視野から切り込んだ,中々興味深い内容でした.
しかし,もどかしいというか恐ろしいというか遅れているというか,文中には,考古学や歴史学の集まりで軍事アプローチを披露した途端に,拒絶反応が出て,「他所でやってくれ」と言われる始末.
銃砲が戦場に登場した近世以降なら――近世以降の欧州史なら当然のように使われる――当たり前といっていい「火力」といった用語すら反応が・・・
確かに,著者が指摘するように,近代軍事学を戦国時代に通用させるのがダメなら,現代歴史学が当たり前のようにやっている,近代的な用語概念を利用して分析する行為ができないではないか,との話も納得できる.
真に戦国史が分析されるには,著者の言うとおり,軍事的視野の欠如を解決しないといかんだろうな.
------------軍事板,2012/03/27(火)
『戦国ファッション絵巻 戦国の魅力,いにしえのファッションで徹底解説!』(山田順子監修,マーブルトロン,2009.8)
戦国時代の様々な階層(大名から庶民まで)の服装や甲冑,履物や手袋,小物などを紹介した本.
監修者は時代考証家.
「戦国いい話・悪い話まとめブログ」で紹介されていた本で,人物のイラストは現代風ですが,それ以外はかなりガチなデキになっています.
あと,時代考証家についての話も興味深かったり.
-------------グンジ in mixi,2012年07月05日23:56
『動乱の東国史7 東国の戦国争乱と織豊権力』(池享著,吉川弘文館,2012/09/27)
『日本の軍事革命』(久保田正志著,錦正社,2008.12.1)
軍事革命に関する日欧の対比論集で,言ってみれば「長篠合戦の世界史」をより戦国史重点に突っ込んだ感じ.
足軽隊の編制や兵農分離,火砲利用の少なさ,城郭建築の発展やらを,軍事革命論的に解釈したりして面白い.
脚注や図版,データ類も必要十分なものは掲載されているし,一時もてはやされた「刀と首取り」みたいな,都合のよい数量のつまみ食いは見当たらない.
文章もこなれていて,論文集の割には読みやすい方だと思う.
類書がほとんどないんで,本論が適当かは,まだこれからの研究次第だろうが.
軍事革命論に首を突っ込んだ自分としては,文句なしに良書だった.
――――――軍事板,2009/09/29(火)
『信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学―』(藤本正行著,講談社学術文庫,2003.1.9)
以前,従来は天才による独創的な戦術ばかりで彩られていたとされてきた源義経の合戦が,実はそうではなく,きわめて常識的・現実的な情勢判断と戦術によって遂行されていたという話をしたことがあるが,ほかに日本史において軍事的天才による奇跡的な奇襲による大勝利とされている合戦には,織田信長が今川義元を討ち取った桶狭間の合戦も挙げられるであろう.
この桶狭間神話は,近代日本にも大きな影響を与えたそうである.
太平洋戦争中は,劣勢な織田軍が装備・人数ともに圧倒的に優勢な今川軍を天才的な策略によって撃破した鬼神のごとき勝利として学校教育でもたびたび取り上げられ,国民の戦意高揚の道具にされた.
それだけではなく,日本軍の軍事教材としても用いられ,迂回して奇襲という織田軍の戦術は,実際にアメリカ軍との戦いでたびたび採用されたそうである.
しかし,藤本正行『信長の戦争―『信長公記』に見る戦国軍事学―』(講談社学術文庫,2003年,初出1993年)によれば,こうした桶狭間合戦像は,実はまったく江戸時代の創作だったのである.
藤本氏は,織田信長の家臣太田牛一が著した記録であり,現代においても織田信長研究の第1級史料とされている『信長公記』を丹念に読み込みながら,実際の桶狭間合戦を復元している.
まず,今川義元の尾張侵攻の目的からして,京都に上洛して天下を統一するためという定説的理解は根本的に間違っている.
当時の政治情勢からして,義元が上洛を成功させるためには,織田・斉藤・六角という戦国大名勢力を連続して撃破しなければならず,無謀きわまりない行為である.
しかも当時は,室町幕府第13代将軍足利義輝が健在で,幕府の権威が復活し,京都の政界も安定していた時期であり,義元がわざわざ軍勢を率いて上洛する大義名分もなかった.
この時期に,義元が大きなリスクを冒して上洛をはかる理由は何一つなかったのである.
桶狭間合戦の本当の原因は,三河国境に近い尾張の織田方の城であった鳴海・大高・沓懸の3城が今川方に寝返ったため,義元がこれを完全に確保することを目的として出兵したものである.
つまり,当時よくあった戦国大名同士のありふれた領土紛争だったのである.
義元が桶狭間という谷に布陣したというのも嘘で,実際は桶狭間山という山に陣取っていた.
そこから,低地にいた織田軍の動きは丸見えであり,織田軍が迂回して背後から今川軍を急襲したというのも江戸時代の創作である.
実際は,山上にいる今川軍に向かって真っ直ぐ突撃したのである.
信長の戦略目的も,義元を討ち取ることではなかった.
鳴海・大高・沓懸の3城を織田方に取り返すことが信長の最大の戦略目標であり,そのために織田方の砦を攻撃して疲弊した今川軍を叩くつもりであった.
しかし信長は,目の前にいた新手の今川軍を疲弊した兵と勘違いし,これを攻撃したのである.
そのとき,突然豪雨が降って追い風となり,織田軍の姿が一瞬消えた強運もあり,今川軍もまさか目前に信長が出現したとは夢にも思わず,想定外の出来事に対応が遅れたこともあって,義元戦死という,信長ですら夢にも思わなかった大戦果が得られたのである.
桶狭間の合戦とは,信長の状況判断のミスがたまたまプラス方向に働いた,要するに偶然・まぐれの賜物だったのである.
百歩譲って結果的に強襲・奇襲の形になったとは言えるだろうが,こんな勝利は見習ったり手本とするべきではないことは言うまでもないであろう.
戦前の日本軍は,江戸時代の創作に過ぎない桶狭間神話を真に受けて,実際に無謀な作戦を繰り返し,いたずらに被害を増やした形跡がある.
こういう,反省するべき部分はきちんと反省するべきである.
この本には,ほかにも墨俣一夜城,姉川の戦い,長篠の合戦,鉄甲船などについても綿密に検証を加えている.
お勧めの一冊である.
――――――「はむはむの煩悩」,2007年6月22日 (金)
【質問】
戦国時代の開始は一般的には,伊勢宗瑞の堀越御所討ち入りとされてるようですが,どうなんでしょうか?
色々な説があって,明応の政変(1993年)が戦国時代の開始とされる場合が多いようですし,一昔前は,応仁の乱からを戦国の始まりとされてましたよね?
【回答】
1993年・・・・・・
能登沖,釧路沖地震,そして北海道南西沖地震と大きな被害が続出.
政治では細川政権の誕生で,55年体制が崩壊.
冷夏による米不足もこの年だった.
戦国時代かはともかく,後々の色々な混乱が始まった年ではあったな.
Jリーグ開幕もこの年だったけか.
ドーハの悲劇も1993年だ.
それはともかく,最近の流れに乗って,1493年でいいんでない.
個人的には学校で習った,応仁の乱からってのがしっくりくるけどね.
どっちであれ,一応の中央政権である室町幕府関連の事件を境目にするほうが,理解しやすいでしょう.
伊勢宗瑞は,戦国時代の始まりを象徴する人物の一人だとは思うけど,日本全体での時代の区切りとするには,ちと地方的な存在じゃないかな.
関東に限って言えば,宗瑞が出てくる前から,すでに戦国時代が始まってるとも言えそうだし.
ただ,明応の政変と伊勢宗瑞の伊豆侵攻は同じ年の出来事だし,両者は互いに連動して起こっていたわけだから,
「明応の政変が戦国時代の始まり」
というのなら,それは
「伊勢宗瑞の伊豆侵攻が戦国時代の始まり」
ということと,ほとんど同義なんじゃないかな.
享徳の乱は形式的には都鄙合体で一応ケリがついているので,まあ関東においても明応の政変からということでいいんじゃないかな?
尼子経久の月山富田城奪還・京極氏からの独立が,室町幕府の権威否定だったのなら,1486年に戦国開始となる.
応仁・文明の乱にしてもそうだし,明応の政変にしてもそうだが,幕府内部での家臣の権力争いだったら,これは戦国開始とは言えないと思うんだが,しかし,そもそも明応政変に戦国の始期を求めている論者は,室町幕府の全国政権としての体裁はずっと継続していたという観点で論じているからな.
室町幕府自体,全国政権といっても江戸幕府みたいに強大な権力を持っていたわけじゃないから,騒乱ははそれこそ応永の乱や明徳の乱,後南朝など枚挙いとまない.
恐らく,京極→尼子が戦国始期とするなら,元弘の乱あたりからずっと戦国時代になるだろう.
日本史板,2007/10/17(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国戦史って歴群でしか読まないんですが,他の雑誌(書籍)と比べて評価はどんなもんなんでしょう?
買うかどうかちと迷ってるので,参考に聞かせてもらえれば幸いです.
【回答】
歴史群像の記事をまとめたものなので,歴史群像を購読しているのなら必要ないかもしれません.
また,他の戦国時代関連のものと比較しての評価も自分はわかりません.
歴史群像系の書籍はディープなオタには物足りないが,入門には良書との評価のようです.
ただ入門とはいえ,同じく『歴史群像アーカイブ
vol.2 戦術入門』など評価の高いものもあります.
個人的には洋の東西を問わず,近世の戦術に興味があるので買う予定ではあります.
名無し猫又友の会 ◆d/Ss304xco in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本の戦国時代の軍事制度について,詳しく述べられている本ってありますか?
【回答】
一番手っ取り早い本は,歴史群像ARCHIVEのVol.6 『戦国合戦入門』ですね.
これに掲載されている参考文献を見るのが早道だと思います.
戦国時代の軍制ならば,笹間良彦氏の一連の図説,特に『日本戦陣作法事典』は中々見応えがあります.
築城法だと,『ドキュメント戦国の城』とかですかねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代後期の日本が世界最強国だったのは本当ですか?
論拠はマッチロック式銃の保有数と世界有数の動員兵力なんですが.
【回答】
ふぉ.この手の質問は何度も出るようじゃから,少し背景を説明しておこうかの.
戦国末期の日本が世界でも有数の大量の鉄砲保有国で,かつ戦場における鉄砲の集中利用の戦術面でも突出しておったという事実を,一般人向けの書籍で実証的に指摘したのはノエル・ペリンじゃったな.20年ほど前に,改めて指摘された日本人のほうが驚いたものじゃった.
この話は,日本の自虐的な歴史教育を見直そうという連中にもてはやされたもので,かなり一般に誇張して伝わった面があるようじゃの.
じゃがな,ペリンが驚愕すべき事実であり,今日の世界が学ぶべき歴史であると世界に紹介したのは,日本が短期間に世界一の鉄砲保有国となったことではなく,その後に一転して軍縮を徹底して行い,事実上,当時の最新兵器であった鉄砲を放棄したことのほうなのじゃよ.
16世紀末に世界最大の鉄砲保有国,おそらくは世界有数の軍事力を持っていたことを名誉と考えるか,知られている限りでは世界の歴史で唯一,自主的に最新兵器を廃棄し,徹底的な軍縮に成功した国が日本じゃったということをのほうを誇りとすべきなのかは,ま,自分で判断することじゃな.
さて,そのペリンの本じゃが,かなり事実誤認の多い代物らしい.
銃砲史研究者の宇田川武久は著書『鉄炮伝来』(中公新書,1990年2月)のあとがきで,いくつかの問題点を指摘している.
それにじゃな,軍事的に見れば,装備のレベルと動員兵力の大小が,戦闘の勝敗を決めるわけではないのじゃよ.
兵士たちの士気,指揮体系の確かさ,訓練・実践の経験の多さ,資金と食料の調達.
そういうバックグランドがあってこそ,強いかどうか判断されるべきものじゃよ.
数比べで「最強」を判断するのは,いささか短絡的じゃな.
また,海軍が弱いので外征に向いてはおらんしの.
防衛戦力としては世界でも当時トップ・レベルじゃが,外征軍隊としては三流というところじゃろうの.
【質問】
日本の戦国時代で裏切りが多いのはどうしてなんでしょうか?
【回答】
戦国時代だろうと譜代の家臣が裏切れば,汚名や非難は避けられないし,寝返り先でも信用されない.
譜代で主君を裏切った人間の多くは裏切り返されるか,信用できないということで後々誅殺されたり,用済みになったら殺されたりしている.
裏切るのが常というか生き残る手段として使うのは,特定の主君に昔から仕えているわけでもない,情勢に合わせてあっちこっちの有力大名とくっつく弱小勢力の家や豪族であって,そいつらにとっては頼りにならない親分についていくメリットなんかないから,情勢が不利になると離反する.
信長と家康のは,「譜代の家臣でもないのにお互い裏切らなかった同盟」だからこそ伝えられてる.
それでも,嫌気がさして離反してもおかしくない事も何回かやったのに,家康はよく信長についていったよ,というくらいの同盟だった.
ヨーロッパでも譜代の家臣クラスはそうそう裏切らないが,そうでない奴とか割と裏切ってる.
むしろ,譜代の家臣で裏切る割合というのは,ややヨーロッパの方が多い.
フメルニツキイの乱(1648〜1686年,ウクライナ)など見ると,敵も味方も裏切りまくり.
日本のは「日本国内だから」いろんな資料・事例が集まりやすく,裏切りの総数が多いように錯覚してるだけ.
同クラスの中小規模勢力が離反したりする件数では,ヨーロッパもさほど変わりが無い.
ちなみに主君に譜代の臣として仕え,先代の死後は家臣の仲で一番の有力者で後継者にも信頼されてたのに,率先して裏切った挙句,裏切り先でも微妙な立場でそのうち見捨てられるんじゃないかとビクビクしてて,寝返り先の主君が死んで,急いで本拠に帰るというときに,「ついでに処分」されることを恐れて独自行動を取ったら,追っ手に囲まれて逃げられず殺されてしまったのが,かの穴山梅雪(武田家臣)…
自業自得というか,裏切り者にふさわしい末路というか,天罰が下ったというか…
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代では裏切りが当たり前なのに,たまに
「それは不忠だ,許さん」
とか
「卑怯者!」
とかいわれるケースがあります.
どういう場合が良くて,どういう場合が駄目なのか基準があるんでしょうか?
【回答】
基本,寝返ってくれた側に利益があれば何でも許される.
どうでもいいタイミングで自発的に,保身の為に裏切るようなのは歓迎されない.
どうまた裏切るのは目に見えてるから.
武田攻めの時の小山田信茂と穴山信君を比較すれば分かりやすいかね.
前者は戦いの帰趨が決まった後の裏切り,後者は戦いの帰趨を決めた裏切り.
しかし,譜代の家臣や一門衆が裏切るのは,世間体的にあまり宜しくない.
前に挙げた二名は武田の一門衆で,本来は裏切りは許されず,戦い切って降伏するか,天目山で勝頼と共に果てるべき立場.
だから小山田信茂は不忠を咎められて切腹,後者は生き延びたは良いが,徳川の中では物凄く微妙な立場だった.
小早川秀秋の低評価もそれと同等.
なお,子供の頃に虐められたからと言う理由で,降伏を許されなかったケースもある.
虐められっ子は虐められたことを忘れないので注意しよう(笑)
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の戦死率って高かったの?
【回答】
よほどの大敗でもない限り,戦死者が10%を超えることはない,らしい
ただ,遠征先で壊滅した場合は,バラバラになって敗走する途中で,捕らえられて売り払われることもあれば,主君を見限って逃げ出すヤツも出てくるので(特に主君を渡り歩くタイプの特殊な?雑兵など),生還しなかった=戦死,というわけではない.
そういった,戦死以外で帰らない数を差し引くと,敗戦でも大多数は戦死率10%未満,って意味だろう.
まあ,個別の戦闘でみると,異常な戦死率の事例もある.
桶狭間の戦いの前哨戦で,鳴海城を攻めた別働隊は,総勢300人ほどのうち50人ほど戦死だとか聞いた.
(この攻城戦は,たぶん,ヤンマが連載中のセンゴクでも先月ぐらいに描かれてると思うんだが,数字は出てたかなあ?)
日本史板,2010/09/19(日)
青文字:加筆改修部分
▼ 場合によってまったく違うので,一概には言えません.
外征か 一揆か 謀反か
野戦か 攻城戦か
隣国相手カでも当然違いますし,攻められる相手が後のない死兵,たとえば大阪の陣の豊臣方のような場合でも違うでしょう.
秀吉の小田原征伐のような大規模戦の場合は,緒戦の攻城戦のさい,敵の指揮を挫くため,籠城側を皆殺しにするのがデフォでした.
また,一方が総崩れのときは,落ち武者狩りや,道に迷っての餓死などで,本拠にたどり着けない例も多かったようです.
(例:長篠合戦)
双方の指揮や政治的・地理的状況などを考えて,個別に判断すべきだと思いますね.
閻魔さくや in FAQ BBS,2011/6/23(木) 8:51
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
戦国時代の戦闘描写が史実に忠実な映画って,何かありますか?
【回答】
「クレヨンしんちゃん・嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」
騙されたと思って見て見ろ,戦闘描写ならあれほど史実に即した物は他に無い.
少なくとも「なんちゃって戦国」物の大河なんぞよりはよほど優れている.
あの頃はまだ剣術も普及して無かったし,武将クラスは太刀を佩用,腰に差す打刀は雑兵の武器.
劇中でも又兵衛や太郎左衛門らは太刀,それ以下の雑兵らは打刀だったよ.
ここらへんも時代考証がしっかりしてると言われてる所以だと思われる.
また,篭城戦で,鉄砲隊の第一射撃の後の弾込めで
「防ぎ矢!」
奇襲戦では,遭遇→槍合わせ→相手が背を向けた機を逃さず
「馬上,前へ!」
そのほか,「早駆け!」→鳴り物が,ドンドンドン!! とか,めちゃ燃えたよ(笑).
戦場でも腰の刀を誰も抜いていない,というのも凄い.
井尻のおっさんも,槍が使えなくなるまで刀は抜いていない.
そこらへんのドラマや映画だとすぐに刀を抜いて突撃かましてたからなぁ〜
音響効果.
鍔迫り合いも,すばらしく良い.
鎬を削って,ガチャガチャ言わせてる辺りほれぼれする.
刃と刃で切り結ぶ様な馬鹿なチャンバラをやってる全ての人間に見習って欲しい.
矢を放ったときの「カン!」という弦音(つるね)も,リアルでなかなかよい.
だだし,又兵衛が矢を放ったときのみ,「ポン」という気の抜けた弦音になっていたのは少々残念(by
弓道部OB)
【質問】
戦国時代の編成について.なぐり書き程度でいいので教えてください.
【回答】
所謂「武士」ってのが戦う人.
士(侍)ね.
数十石の徒歩侍(お徒歩組とも)ってのも居たが,100石以上は騎乗が義務付けられていた.
おおむね50石以上が馬に乗って出陣していったと思われる.
で,サムライってのは一人だけで合戦しに行くわけではない.
それでは足軽と一緒になる^^;
中間/小者とか,従者と呼ばれる非戦闘員を数名くらい引き連れて行ってた.
100石〜くらいの一番小さい単位の騎馬の場合,騎馬武者(自分)以外に,馬の口取り(馬子),槍持ち,はさみ箱持ち(荷物持ち)を引き連れる.
つまり,サムライ1 従者3の計4人になる.
これ,基本形.
で,もうちょい財政的に余裕があれば,徒歩の戦闘員を数名付け足す.
200石くらいになると,小荷駄(馬載の荷物)1セット(つまり馬+口取り)も連れて行く.
つまり,騎馬侍(自分)+徒歩戦闘員数名+従者3名+小荷駄1セットの計10人近く.これも1つの基本形.
さて,さらに石高が増えるとどうなるか.
人数を増やす方向は2つある.
1つは若党とかサンピン(給金が3両1分)と呼ばれる,2人目以降の騎馬武者を増やす方向.
騎馬武者(若党)+槍持ち+口取り+荷物持ちの,基本形4人が増える.
以後,基本形2セット目,3セット目・・・と増えて行く.
余裕があれば,徒歩戦闘者も1名くらいつけてやることもある.
2つ目の方向は,ヨロイ持ち(替え鎧)とか弁当持ちとか下足番とか雨具持ちとか・・・装備充実の非戦闘員.
小荷駄も2セット目 3セット目...と増えて行く.
と,俺は理解してます.
違ってたら訂正ヨロ^^;
軍事板,2008/09/24(水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
旗奉行とは?
【回答】
戦国時代,総大将の周りには旗が立ち並んでいました.
例えば,上杉謙信の有名な「毘」の一文字,武田信玄の孫子の旗,徳川家康の「厭離穢土,欣求浄土」,石田三成の「大一大万大吉」の旗などが有名です.
元々は馬上に旗指がいたのですが,旗が大型化してくると徒になり,彼らを統御する幟大将,旗大将,旗奉行,幟奉行などと言う職名が室町幕府以降に出て来ます.
この旗奉行と言う職は,侍大将に次ぐ重職でした.
出陣の際には,城中大広間に床飾りをします.
その飾り自体は軍師が行いますが,出陣時に旗を掛けて飾るのは旗奉行の仕事です.
そして,出陣の儀式では全員に主君から杯が下されますが,返盃するのは旗奉行だけです.
これは,「速やかに敵を討って旗を返す」と言う謂われから来ています.
その旗1面に対し,旗指が1名と助手が2名付きます.
この助手の内1名は,床几持ちでもあり,合戦場に至ると,旗を立て連ねた後側で旗指の為に床几を置き,旗指を座らせます.
旗指は,手縄の先に付けた手留りを取って旗杖に持ち絡め,前掛りになって旗杖を突っ張ります.
助手2名はその後で,蝉本から付けた手縄を引っ張り,風のある場合は風上に回って手縄を引っ張り,旗を巻かない様にしていきます.
万一,戦に利あらず,味方敗走と言う局面に至れば,旗奉行は味方大敗を見切ると,下知して,旗を受筒より抜き,旗絹を棹へ挙げ,横手に結び付けて棹を横に伏せて担がせ,旗指達を引き退かせます.
大体10丁ほど引くと,敵の鋭鋒は鈍り,味方の士気も戻ってくるので,その辺りの要害の地に留まって,旗を再び立てて敗兵を集め,再び軍勢を立て直す重要な役目を果たしています.
更に我に利が無く,落城の憂き目を見た場合は,最後の敗戦の時に旗持等を落とすのも重要な仕事.
逆にここぞという時は,旗奉行自ら手に旗を取って,敵城に迫っていきます.
こうした旗奉行の最盛期は,大坂夏の陣までであり,天下泰平の世の中が訪れると,五節句や月並みなどに出仕する以外特に用もない閑職となっていきました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/25 21:37
【質問】
旗指物の作り方を教えられたし.
【回答】
旗に使われる生地には錦,絹,布(植物繊維で織った布のことで絹の反対語)等が用いられます.
大きさは,使う武将の趣味になりますが,大体1丈2尺ほどの生地を2枚準備し,これを縫い合わせます.
但し,裾部分の3分の1は縫いません.
縫い付けた所は,綻びが生じない様に,黒革を貼っておきます.
こうして作り上げた旗には神が宿り,その旗色から勝敗が分かれると言われました.
吉相だけでなく,凶相も出て来ます.
例えば,「籠城の旗ならば落城の前兆」とか,「百日の間,軍あるべからず」などなど.
他にも,旗が急に風に吹き上げられても,その旗が敵に靡けば凶の中に吉があるとか,逆に味方に靡けば凶中の凶と言うものや,「敵の旗に矢を射立てるのは不吉」とか.
中には,忍者による噂の類もあるでしょうが….
因みに,敵の旗に矢を射立てた場合,急いで甲を脱ぎ弓弦を外して,弓を袋に収めなければ成りません.
ところが,敵からの矢が自分の旗に当った場合は,進んで合戦すべき大吉と言います.
これは旗に神が宿っているからと言う考えによるものです.
この為,旗を立てる場合は,それ相応の過程が要りました.
先ず,旗を仕立てるのは正月,五月,九月の何れかの月が仕立月とされていました.
尤も,合戦なんかで急場に間に合わない場合もあります.
その場合は仕立月でなくても構いませんが,戌巳,庚申の日は絶対に避けました.
反対に亥の日は良いとされていました.
旗を仕立てる際には,裁断する役人は滝水や清流を被って精進し,21日間または7日を過ごします.
そして,生地を裁つのは,日の出に妻戸の間,東に向かって行います.
但し,東方に悪神ある場合は,旺相,玉女とかの方に向かいます.
気をつけねばならないのは方角で,場合によっては,「千人出でて一人も帰らざる」とされた最悪神のいる方角もあるので,方角には非常に注意を払いました.
裁断をする役人の正面には,床に敷いた布地の上に生地と物差しを置き,生地の右に蓬の矢を2本,物差しの左に葦の矢を2本置きます.
役人の右に胎蔵剣,左に金剛剣を置き,更に矢と剣の外側に桑の弓をそれぞれ弦を内側にして1張ずつ置きます.
この他に,当然,糸や針が必要ですし,御幣や神饌も必要です.
裁断をする役人は,生地を裁ちながら,心中に心経七巻他色々な呪文を唱え,勧請祈念の神は,伊勢大神宮,八幡大菩薩,他に旗主の氏神とします.
その役人は,烏帽子に直垂を着用し,相方1名も同様です.
そして跪き,裁刀を取り,金剛剣を内に握り,刃を外方にして使います.
裁ち終えた後には三肴,三献あるいは一献の祝儀が入ります.
この間,旗主たる大将は梨打烏帽子,鎧直垂を着て見守ります.
裁った布は,新しい莚の上で,旗と成る上から下に縫っていきますが,縁起が悪いので返し針は使いません.
縫い上がると旗銘を入れ,これを7日,短い場合でも3日の間,加持祈祷した後,家紋を加えて加持します.
但し,銘の文句や紋の有無は大将の考えによります.
最後に十分祓をして仕上げます.
この時の祓文は
「一二三四五六七八九十申(そろえてならべていつわりさらにたねちらさずいわいめでこころしずめてもうす)」
であり,これを10遍繰り返すことで,旗に神が宿ると言う訳です.
旗紋は元々,生豆汁を墨に和して書いたものですが,時代が下ると,視覚に訴えるようになります.
旗に文字を書く場合は,竿に向く様に書き,裏は左字となります.
染めは,
黒が榛の実・楸葉(鉄媒染),
紺が橡・藍,青が藍,
赤が茜・蘇芳(明礬媒染),
緋が茜・紅花,
赤橙が朱・梔子・鬱金・黄蘗に紅染加工,
黄が鬱金・刈安・黄檗,
褐色が胡桃(鉄媒染)・柴・桑
と言ったもので行います.
染めた旗は,外に捲り,上の乳(旗の縁に付けた小さな輪)1箇所に2つずつ,乳の数は28とします.
これを旗竿にかける訳ですが,旗竿には霊所の竹を用い,その太さや細さを見極め,末も枯れていない上,竹の虫もささず,節間伸びた丈を立てながら7日,あるいは3日加持して使用します.
この時の加持は,摩利支天九字の文を唱え,印を結びます.
因みに,霊所というのは,名高い神社仏堂の地の事です.
取出す際には生門の方に取出します.
生門の方とは,子の日は子の方角,丑の日は丑の方角となりますが,但し,子の日は子より7つ目,午の方,丑の日は丑より7つ目,未の方は死所であり,使用してはいけません.
取り出し方法としては,根掘りか立勝で行います.
根掘りとは,竹の根を掘り出して根を切らず,髭を取り去るだけにするもの,立勝は,根を切り削ることです.
立勝の場合は,左刃に付けた鉈である左刀で行わねば成らず,節数は丁にせず,半にしないといけません.
掘る際にも,竹の根に神酒を三度祭り,南無八幡自在菩薩と3回唱え,竹を順に3回巡り,掘ってその穴に竹の枝葉を納め,脇から小竹を掘り寄せて,その跡に植えておきます.
これは,跡を絶やさずに祝う意味を持ちます.
神酒は本式の場合は,醴(米と麹と酒で一夜で醸造する酒のこと)を用いますが,略式は普通の酒でも構いません.
竹は2本ほど見立てて掘り取り,1本を保険にして,良い方を旗竿にします.
2本掘る場合も,手順は同じです.
旗竿の寸法は,1丈2尺,或いは1丈5尺,もしくは1丈8尺とし,節数の半分の所で切ります.
そして,竿竹には根の部分を用います.
竿の上端にある蝉口,天子用なら竜頭,将軍や公方家は鳩居と言いますが,この部分は塗りをして,革を丸く結び,上端を蜻蛉の形にして付けるとしています.
まぁ,旗一つでもこれだけ大騒ぎをする訳です.
まして,軍旗を無くしたり倒したりするとエラいことになります.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/27 23:37
【質問】
旗指物を使った戦術について教えられたし.
【回答】
さて,昨日も述べた様に旗は非常に神聖なものだったりするのですが,神聖なものだからこそ,逆に思い込みが激しいと,いざ違った時には,慌てふためくことになります.
古くは木曾義仲が使った手で,信濃源氏の井上光基と言う武将率いる星名党300余騎に,平氏の赤旗を作らせ,それを源氏の白旗の上に付けて,平氏方の城資永の陣に向かい,味方と信じ込ませて中に紛れ込み,河渡りの最中で平家の赤旗をかなぐり捨てて,源氏の白旗を立て,木曾軍と共に攻め立て城軍を壊滅に持っていくと言う話があったりします.
時代は下って戦国時代.
贋旗を良く用いたのが,ご存じ真田昌幸とか幸村(当時は与三郎).
例えば対北条戦では,無紋の旗に北条家の重臣である松田氏の紋所である永楽通宝の銭形を書き,部下達にその旗を挿させて,夜討を決行します.
夜討なので,旗の形はしかとは判らず,右往左往している内に,その旗を見た兵達がどうやら重臣の松田憲秀が謀反を起こしたと思い込み,同士討ちを始め,大混乱している間に,夜討軍はさっさと上田に引揚げたと言う話があります.
また,武田信玄が未だ存命の頃,対上杉,対北条二正面作戦を展開していた際に,箕輪で三ツ鱗の旗を物見が見て驚き,信玄も対北条戦の先鋒として派遣した真田昌幸勢が壊滅したかと慌てたのですが,実は,その軍勢こそ昌幸の軍勢で,北条の軍勢を散々破って凱旋する最中だったりします.
信玄は,昌幸に
「なんで敵の旗を掲げていたのか?」
と聞くと,昌幸は,若しこの地で上杉の軍勢と遭遇した場合は,「味方で御座い」と言って逃れるつもりだったといけしゃあしゃあと弁明したそうです.
こうした贋旗は例え紙製の旗でも,百姓や町人を動員して旗を掲げさせれば結構効果がありました.
例えば,韮崎合戦では,信玄の留守中に公布に攻め入った信濃連合軍に対し,甲府の留守を預かった原虎胤は,国内各地から駆集めた百姓や町人凡そ5,000名に紙旗を持たせて軍勢に擬しました.
これを見た信濃連合軍は士気が低下し,事なきを得たと言います.
今川の軍勢を迎え撃つ織田の軍勢も,節句幟や木綿切れを民家から駆り出しての大騒ぎで,大軍勢を用意した様に見せかけようと努力していました.
尤も,これは桶狭間で今川義元が敗死して事なきを得ましたが.
先述の真田の場合,予め無地の白旗を幾流も用意しておき,必要に応じて敵の定紋を付けて欺く事を良くしていました.
また,逆に六文銭の旗だけ立てておいて,敵方が突っ込んだら実はもぬけの殻という事もあったりします.
この様な失態を防ぐ為,物見に出る者は,常に落ち着きが肝心でした.
例え,敵の旗を森林に立っている事が分っても,その脇に鳥獣がいて,静かに見えていれば,空陣である事が判るので,注意せよ,とか,旗を多く立てる敵の場合は実際には兵が少ない事が多い等と,軍中斥候書と言う書物には,物見の要諦を書き残しています.
尤も,相手が真田さんだったら,裏の裏をかかれるかも知れないので,おいそれと信じがたいのかも知れませんが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/07/28 23:14
【質問】
「むかで衆」って何?
【回答】
武田信玄の使番衆の呼び名で,武田武士のなかでも豪の者だけが選ばれたという.
彼らは敵の動きを見張るなど,主に伝令部隊として動いた.
戦の最前線で伝令としての役目をして,味方が間に合わない場合は戦った.
その呼称は,彼らが百足の旗指物を用いたことに由来するが,これは百足の素早い動きとその猛々しさを表現した,信玄好みのものであった.
ムカデは攻撃性も強く,決して後退しないことから,毘沙門天の使いとされてきた.
【参考ページ】
http://www2.harimaya.com/takeda/html/tk_hata.html
http://id17.fm-p.jp/112/ashigarutai/index.php?module=viewdc&action=plist&hpid=ashigarutai&stid=11&idx=33
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/1292/iti.html
むかで衆の旗指物
(http://www2.harimaya.com/takeda/html/tk_hata.htmlより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2011/08/16 20:00
を加筆改修
【質問】
今週の 『へうげもの』 で, 濃緑のお茶を出され,
鳥居元忠が驚く,と云うシーンがあったのですが……
濃緑になる前のお茶の色ってどんな色だったのですか?
【回答】
今に生きる我々は 『抹茶』 と云うと 『濃緑』 と云うイメージがあるのですが,安土桃山時代以前に飲まれていた 『抹茶』 と云うのは,上のコマでもあるように 『茶黄色』 をしていたそうです.
さて 『茶黄色』 と云われる当時の 『抹茶』 の色なのですが,実際にどんな色だったかと云うと……
当時のお茶は,茶葉を蒸して自然冷却した後に粉末にしたモノで,自然冷却される過程で,茶葉の葉緑素が色素が破壊されるので,
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・(・・)・) < 赤味がかった白乳色
/JベタJ \__________
と云う話があります.
利休が黒茶碗を使い始める以前は,朝鮮から渡来した,枇杷色だったり白味がかった茶碗が使われていたのですが……
実際,どんな風かと云うと〜 枇杷色の茶碗がないので,ちょいと色が濃いけど,備前の茶碗で代用すると, こんな感じ〜
白茶碗だと, こんな感じ
で,茶と茶碗の色が溶け合って,ぼんやりとした印象を持つようになります.
そこで,このお茶を黒い茶碗に入れると,茶碗の黒と,茶の白が互いに引き立ち,すっきりとした印象を与えるようになります.
そこに,
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(・(・・)・) < 利休が黒茶碗を発明した必然性!
/JベタJ \__________
があるワケです.
まぁ 『へうげもの』 で出てきた濃緑の抹茶というのも,現在の抹茶よりも黒味がかったモノで,江戸時代に入ると 「色が悪い」 と云う事で,廃れてしまうのですが…… (w`;
ベタ藤原 in mixi,2011年10月06日22:58
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦国時代の戦術について勉強してみようと思うんだけど,何から始めるといいだろうか?
特に釣り野伏せについて興味があるんですが…
【回答】
戦国時代の戦術に関してなら,『歴史群像アーカイブ 戦国合戦入門』はコストパフォーマンスが高いんでお勧め.
いろいろな時代・地域が入り混じってるが,『図解雑学 名称に学ぶ世界の戦術』も戦術を知るのにはいいかも.
全体の動きがわかりやすい.
戦術は載ってないが,『絵解き 戦国武士の合戦心得』『絵解き 雑兵足軽たちの戦い』もイラスト付きで武器の使い方とか書いてあるんでお勧め.
さっきチラ見した『戦略戦術兵器事典A【日本戦国編】』では,二重に伏兵を用意するとか,味方に自分達が囮であると教えないとかして,釣り野伏せを成功させたとか書いてた.
すまん,俺がわかるのはこのくらい.
戦国板か日本史板で聞いた方がいいかもね.
【反論】
『絵解き 雑兵足軽たちの戦い』って東郷隆の?
あれ,「資料が太平記」とか堂々と書いてあって,相当にとんでもだぞ(笑)
いや,太平記だって文献としての価値は当然あるが,南北朝当時の下級兵士や戦争の様相の解説には使えんだろ.
太平記の成立期のものが反映されていると観るのが当然で,それによる補正とかを入れながら解明していくとか,成立期の足軽を解説するとかなら好感が持てるんだが.
軍事板,2010/11/18(木)
青文字:加筆改修部分
【質問】
「鶴翼の陣」って,唯の横に並べてみただけでできているのですか?
【回答】
「鶴翼の陣」は,両翼の部隊を中央の部隊より前方に配置した防戦重視の陣形.
敵が我が陣の本営目指して中央突破を図れば,両翼の部隊を中央に向かって前進させ,包囲攻撃または側面攻撃を図る.
ただし,この陣形に適した地形(谷や盆地の辺縁部など)でないと,側面を迂回されて,両翼の部隊が各個撃破されかねないのと,彼我の兵力差が我に有利か,またはある程度の範囲内の劣勢でないと,包囲や側面攻撃をしても,我が中央部への敵の攻撃力を削ぐことができず,かえって兵力分散の愚を犯して我が主力をいち早く,撃破される危険がある.
軍事板
【質問】
付城戦術とは?
【回答】
敵城の周囲に陣城,柵を築いて敵の兵糧切れや戦意喪失を待つ物で,長期戦にはなるが,
・確実な勝利が保証される
・敵は完全に捕捉されて逃げられない
・寄手の主力を他の戦線に転用可能
といった利点がある.
『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』内,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)によれば,秀吉も播磨三木城や因幡鳥取城で,付城戦術を採用して成功している.
グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分
【質問】
日本初の水攻めは?
【回答】
『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
曰く,「近江愛智郡志」などによると,永禄3(1560)年に六角義賢が,浅井氏と通じた高野瀬秀澄の肥田城を攻めた際,城の周囲に長さ五八町(約6.3km),幅一三間(約23m)の土塁を築き,宇曽川,愛智川の水を引き入れたが,土塁が決壊して失敗に終わったとの記述があり,
「おそらく,この事例が文献に表れる水攻めの初出だと思われる」
としている.
なお,「勢州軍記」に,天文年中(1532-54)に義賢が,不仲となった息子の義弼が籠もる肥田城を水攻めにしたとの記述があるが,これについては義弼の年齢(天文最後の年(23年)でも10歳)から,事実ではないとしている.
グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分
【質問】
傷の治療で思い浮かぶのですが,よく日本の時代劇とかで,傷口に焼酎を吹きかけるシーンを見ますよね.
細菌の観念が無い時代でも,日本ではアルコールの消毒作用を知っていたのでしょうか?
【回答】
現在使用している消毒用アルコールは濃度70%のモノです.
焼酎での消毒効果は,多分ないよりまし,くらいだと思います.
しかし防腐作用があることは知られていましたから,消毒に使用するのは自然な発想でしょう.
ただ焼酎は蒸溜と言う工程を経ていますから,細菌が混じっている可能性はごく低い.
滅菌水なんて気の効いたものがなかった時代ですから,それの代わりとして考えれば,むしろ焼酎で洗い流し,洗浄する様に使ったと考えた方が良いかも知れません.
16世記半ばにイエズス会士のルイス・ド・アルメイダが日本初の西洋式外科病院を建てて化膿創の治療にあたったのだが,その処置の1つに焼酎に浸した布で創を洗うというのがあります.
それ以後広まったのでしょう.
ある知識が学問として体系付られる遥か前から,体験的に知られていたというのはよくある話.
尚,現在の傷の手当ての基本は,傷口はきれいな水(可能なら滅菌水)で洗い流せ,です.
消毒液は傷の治りを悪くする場合があるから,なるべく使わない様になっています.
また手術等で皮膚を消毒する場合,アルコールは殺菌力がイマイチですので,
もっと強力な消毒液を使います.
幕末の頃日本に来た欧米の医師達は,日本の医師達が直ぐ傷を縫合して閉鎖してしまう,と書き残しています.
これは何を意味しているかと言うと,特に汚染された傷を閉鎖されてしまい空気に触れなくなると,
破傷風やガス壊疽等の嫌気性菌が増殖し易くなり,その結果死亡率が高くなります.
これが元で亡くなった人も大分いたもよう.
現在でも汚染されていると考えられる傷は縫合して閉鎖してはならず,解放状態を維持し,細菌感染がない事を確認してから縫合する様にされています.
抗生物質のなかった時代は,細菌感染を起こすと命取りでしたし,戦場なんて不潔極まりない環境ですので,
どこから細菌が入り込むかわかりません.
◆宗教ファクター
【質問】
よく戦国武将が仏門に入っていますが,入る意味って何でしょうか?
【回答】
別に戦国時代に限ったことではないが
(1)殺戮と陰謀渦巻く生活が嫌になったため
※僧侶を殺すのは大変に嫌われるし,自身も殺戮に関わらなくてよくなるし
※歌道,書道,画道.文化的な生活ってものをやってみたいなら坊さんですよ
(2)家主を辞任,あるいは世代交代の選択枝として手っ取り早かったため
※出家するのだからね
(3)障碍者になると武将生活は望めないため
※例外もいるにはいますが
(4)一族の菩提を弔う用員になるため
※無縁仏にさせられるのは地獄への道.一族なんだから面倒をみないと…
(5)仏教組織(宗教界は独立組織として全国規模で展開していた)とコネを持つため
※一向宗だけではありませんよ
こんなところかと.
日本史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
僧兵や一向一揆と,素麺との関係は?
【回答】
さて,筑前飯盛神社の文書で出て来た素麺という食べ物.
京都では1200年代の初めには既に切麦同様に,中国からその製法が伝わっていたと考えられます.
そして,京都から全国へと製法が伝わっていきました.
1300年代には丹波で素麺が作られている記録があり,前に紹介した山科家は近江の菅浦に荘園があった為,此処から小麦が届いていますが,この近くの坂本でも素麺を作っており,坂本から素麺を買っている記録が1400年代末にあります.
坂本で作られていると言う事は,当然比叡山でも作られていた訳で,延暦寺は京都の寺領内に素麺屋を置いていました.
一方,洛中から南では,河内で小麦が作られ,1400年代には素麺が生産され,年貢か土産として送っている記録が残されています.
奈良へはそれより少し早く,1350年代の法隆寺の記録に,南北朝の合戦に参加した僧兵への恩賞として素麺が振る舞われていた記事があります.
先述の様に,興福寺の子院である多聞院配下の嶋荘では1480年代に素麺が生産されている事が記録され,この地方が奈良の素麺生産の中心として君臨していました.
現在の様に三輪が出て来るのは相当後で,1565年にやっと記録が為されています.
大坂は先日書いた様に,寺内町の中島で素麺が作られ,石山本願寺でも盛んに素麺が食されていました.
時代はぐっと下がって江戸後期に有名になるのは灘素麺です.
灘と言えば,現在は清酒の灘の生一本が有名ですが,灘辺の灘五郷,即ち,今津郷,西宮郷,東郷(魚崎),中郷(住吉と御影),西郷で製造される酒,醤油,焼酒,素麺などの名産品を合わせて,灘目と言う様になりました.
灘で素麺が生産されたのは,芦屋川や住吉川の急流を利用した水車を設置して,三田米を搗精することから始まった醸造業が大発展したからです.
米がシーズンオフである夏期に水車の動力を遊ばせるのも勿体ないので,小麦の水車製粉が行われ,その小麦粉を利用した素麺作りが1700年代初頭に発展しました.
製粉する小麦は夏期に関東や九州,播州などの産地から購入し,素麺に加工した上で,上方(摂津)素麺と呼ばれて,魚崎から菱垣廻船または樽廻船に積まれて江戸に送られています.
中世に大陸との廻船交易で栄えたのは九州だけでなく,寧ろ日本海地方の方が盛んでした.
素麺が中国から伝わった際には,場合によっては敦賀辺りから入ったのかも知れません.
日本海沿岸で中世から素麺作りが盛んだったのは輪島です.
能登の守護だった畠山氏の家臣温井氏は,輪島の領主であり,畠山氏も温井氏も,戦国時代には輪島素麺を贈答品として盛んに用いています.
因みに,石山本願寺にも輪島素麺が送られており,能登や加賀は一向宗が盛んに勢威を張った地でもありますから,場合によっては摂津中島で作られた素麺の技術は此処から伝播した物かも知れません.
1500年代になると,蓮如が越前と加賀の境にある興福寺大乗院が所領していた吉崎に,無断で道場を建てています.
その後,一向宗は益々盛んになり,越前,加賀,越中,能登から老若男女が群れを成して吉崎御坊へと流れ込む様になりました.
そして,この時,蓮如は人々の歓心を買う為に,夏は冷酒,冬は燗酒を振舞い,雑煮で腹を満たして送り出していましたが,この振舞いに京都から取り寄せた素麺を使った可能性が高いと考えられています.
また,都から蓮如を慕って素麺職人が流れてきて,この地で素麺作りの伝承をし,それが輪島や豊原寺へと技術伝承されて行きました.
因みに豊原寺は元々天台宗の寺でしたが,一向一揆勢に占拠されています.
しかし,織田信長によって越前を初めとする一向一揆勢は制圧され,1575年には豊原寺は焼かれました.
これで一旦,豊原素麺は途絶えるのですが,豊原を攻めた織田勢の内,柴田勝家が越前に封ぜられ,豊原寺近くの丸岡には甥の柴田勝豊が城を築いて,城下町を形成し,そこに住み着いた職人達が,豊原素麺を丸岡素麺と改名して売り出し,江戸初期には名物となっています.
能登半島では,奥能登の正院付近で素麺が作られており,蛸島村がその生産の中心地でしたが,こちらは輪島からその技術が伝えられたと考えられています.
輪島から伝わった素麺系列の麺としては他に,越中氷見饂飩があります.
饂飩と称していますが,素麺より少し太いだけで製法は全く素麺と同じです.
この他,若狭小浜,出雲大社の門前町,伯耆米子でも素麺が生産されていました.
小浜の方は京都から伝わったのかも知れませんが,出雲や伯耆のそれは,1632年に国替えで池田氏が因幡,伯耆に封ぜられた事から美作経由でこの地に伝わった可能性が高いとされています.
では,播州はどうなっているのか,と言うとそれは明日にでも.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/06/11 22:44
【質問】
戦国時代,宗派対立で信者同士が殺し合いを大規模にやってたなんてことはあったの?
【回答】
天文法華の乱でググッてみるヨロシ.
山科本願寺を法華宗徒が焼き討ちしたんだが,もちろん中に篭っていた信徒は女も子供も容赦なく殺された.
これはほんの一例で,戦国期の仏教はむしろ宗派同士で殺し合いをするのがデフォ.
石山本願寺があれほど堅固な要塞だったのも,この時の苦い教訓からと言われている.
ニュース極東板
青文字:加筆改修部分
【質問】
なんでザビエルは日本に来たの?
【回答】
カトリック教会において,教徒が犯した罪は,
自らが犯した罪を自覚し反省する,
(´Д`;) マリアサマニ ヨクジョウシマッタヨ
∨)
((
『痛悔』
自らが犯した罪を神父に告白し,ゆるしを得る,
(;´Д`) シンプサマ マリアサマニ ヨクジョウシテシマイマシタ
( 八)
〉 〉
『告解』
罪のゆるしに見合った償いをする
(´Д`;), ポコチンセツダン?
ノノZ乙 ソレハ ゴカンベンヲ!!!
『償い』
の三段階を経て,完全に罪がゆるされるもの,とされていた.
16世紀初頭……
教会は腐敗していた……
司教位などの教会内における地位を金銭で売買されるようになり,
___
..⌒ヽ ' ⌒ヽ
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二二二二二二ヽ iヽ二二二二二二二二i
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| 神様,ミサの手順ってどうでしたっけ?
\_______________
神学教育をロクに受けていないような,地方貴族のボンボンが神父になり,一人でミサを開けないような事態が多発.
また,主に教会側の経済的理由から 『償い』 部分を軽減できるという,
/::::ヽ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;)
贖宥状を売るあるよ!
|::::::::::/ ヽヽ
今こそ,売るあるよ!
|::::::::::ヽ ........
..... |:|
|::::::::/
) (. | サン・ピエトロ大聖堂を作りだす
m n _∩ i⌒ヽ;;|. -=・=‐
.‐・=-.| ∩_ n m 金が欲しいあるよ!
⊂二⌒___) (. 'ー-‐' ヽ.
ー' | (___⌒二⊃
\ \ ヽ. /(_,、_,)ヽ
| / /
\ \ | /トエェェェェエイ | / /
\ ヽ |ュココココュ| |/
/ 贖宥状を買って,
\ ヽ. ヽニニニニソ/
/ みんなで天国に行くあるよ!!
\ \
/ /
\ `ー---一' ./
『贖宥状』(免罪符)が大々的に販売されることとなった.
カトリック内でも,
∧,,∧ ∧,,∧
∧,,∧ (´・ω・) (・ω・`).
∧,,∧ 現状マズクね?
( ´・ω).(O┬O) (O┬O) (ω・`
)
( O┬O ∧,,∧. ∧,,∧)┬O ) なんとかしないとね!
◎-J┴◎( ´・) (・` )┴し-◎
( .__ l) (l __ )
`uロu'. `uロu'
と云う話があり,改革への兆しが芽生えつつあった中,
、;."`;: .:..――――
;":::::::::::::::::ヾ::::::::::: \
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::::::::::::::::r^i::::::i^i_:::: / l
::::::iヽ○i l○〉:〉ヽ::::/ ..:::|
:::::rヽ∨ i_/ //;イ .::::::::|
:::::::\iJesus //:::i .::::::::::|
::::::::::::> † :〈::::::: | .::::::::::|
:::::::::/>―<i ::: |.....::::::::::|
:::::::/:::::::::::::::/:::::::::::| .:::::::::::|
一人の尻の穴まで鉄壁に作られたドイツ人神学者がブチ切れる!
男の名は,
. 〆ニニニノユ
. // 「 ̄^|
. / /(^,ニ=L__」ニ\ ______,
. (| ||||,,,,, ノ`|Tη~コ.|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\
. `ヽヽ(,,iii,, .._」L__ ノ.ト(♀ ̄|||∞∞∞.
)
. | |(i,,  ̄|| ̄ ̄ ( | ' | (||""''
!!''. /
. | |(,,,,iii ,,,,ii|,,|_⊥_」||iiilll|_)/ii,,_____/,iノ
. └-'''!!ii,,,,,,,ii!!!|iiiii|||||||||||||||||||||||||| /|||||||
||iii,,,,,,,,,/
.  ̄ ̄||i!ー! ||' '|||||' '||||||||||||
/||||||||||.|||||||||||/
. ┌┘!・┐|||llll|||||||lllll|||||!!!|||| /|||||||||||||||||||/
. | | .|__|||||||||||||||||||||
| .|⌒'i' ̄|~^| |||||||||||||||
ーーーー-| | |・┴┐|||||||||| ||iへ|iヘ|i_|−i|-ii-,|||
. | | | =ーュ_(||`. Jesus //| ||
))||||
ーーーー-| | |ーーーー-||\_ЦШ__|ー!!ш|||
. /| | | ( ̄ ̄\_____/||||||||||||
. /-| | | `一-,ヽ HEAVEN
| |||||||||||||
. / | | |ヾヾ !||||| )) )/__〃_/||||||||||||||
/ | | |||l) ) !!! |ト- ゚/ (
||||||||||||||
マルティン・ルター
鉄壁ドイツ人で,ガチな神学研究者であった彼は,贖宥状販売の神学的問題点を指摘.
、-≦_ー‐ -=ニ`ー、ヾ,ヽヽト、ヾヨヽ'i Y,r‐'‐イ
〉三_‐_´_ `ミ、_ヽ`ミト、ト_ミ;;W_ヽi
リ∠'-三!,
彡ラ'_´-_‐' -‐三ミー_-ミミr' `"┴ミミミ≦
〃彡-_ ,-__ヽ≡_−ヾミ{_
ト\、!
ム,∠/-,-',,.-, |彡_/~~≡_ |ハ!ヾ' 我らは神の代理人
}三三{ /) ト'、'、 `ー‐-'_、 ,
! 聖書の地上代行者
. f三三ム !r'( ヽヽ、 、 r-、ミヾi|!|,-|
f三シ´ } y'/ \`ヽ,ヾ|!、 !ヽミリソ|Z! 我らが使命は
ノ彡゙ ヽッ';:;;:、 \ `ヾ≧キ};==iリ 神の教えを歪める愚者を
:゙ /;:;:;;〃_,,、_ `ヽ{_ノ'-'
! その肉の最後の一片までも
ヽ, i /;:;:;=、´,=ト、゙_ ,.-、.
i 絶滅すること―
ヽヽ,i' i',彡;:;, ゙トy_`,ー-..、 ト、,._
〉‐'
ヽヽ, \レ: .:, `'ヽ'、'w,_ `ヽ、〉"
YヽL
、 ヽヽ, `に;;::; 、 `ヽ_~)'r'´i_,r
‐ ┼ ゙i\ Amen
ヽ ヽヽ ヾrシ ヾ_-ァ‐' 〈r'
ヽ,-'‐ \
ヽ ヽヽ ヾfシノ, , 〃/ ヽ_,
ノ!i\ ノノ
ヽ ヽ\_,..-ヾカソノソシノ`ヽ、 </
ソ ゙ _,| |
ヽ、_ソ/)、 `\´ `ヽ!
/ , └┐i!
ヽミ_-' / ノ\ \ |
|! 、ヾッ, | ||
ヽ  ̄ ´ \ \. ト、
" \_`'、||
聖書に書かれていない秘跡や慣習を否定し,結果としてカトリック側から破門.
その後,ドイツ農民戦争だのなんだののゴタゴタが起きるワケなのですが,それは本編とは関係が無いので,捨て置くとして……
1534年.
,__
/ ./\ _,,..,,,,_
_,,..,,,,_
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・ω・ヽ/・ω・ ヽ,..,,,,_
/_____/ .(´ー`) ,\ ./ ・ω_,,..,,,,_
l _,,..,,,,_/ω・ ヽ
 ̄|| || || ||. |っ¢..|| ̄ | / ・ヽ
/・ ヽ l
|| || || ||./,,, |ゝ iii~ `'ー--l
ll l---‐´
| ̄ ̄ ̄|~~凸( ̄)凸 `'ー---‐´`'ー---‐´
パリ郊外モンマルトルの丘の中腹にあるサン・ドニ聖堂に6人の神学者が集まった……
_,,..,,,,_ _,,..,,,,_ 現状よくないよね.
_,,..,,,_/ ・ω・ヽ/・ω・ ヽ,..,,,,_
./ ・ω_,,..,,,,_ l _,,..,,,,_/ω・
ヽ 内部改革の必要あるよね!
| / ・ヽ /・ ヽ l
`'ー--l ll l---‐´ 自らの内側を顧みる必要があるよね!
`'ー---‐´`'ー---‐´
と云う次第で,
_,,..,,,,_ ,,_ ,,_ ,,_ ,,_
/ ・ω・ ヽ ヽ.ヽ ヽ.ヽヽ
l l .l l .l l l
`'ー---‐´‐´‐´‐´‐´‐´
この6人により 『イエズス会』 が設立される.
彼らは教皇からの認可を受け,正式な修道会となる.
また会員は高い教養を持ち,各地の大学や諸侯から招聘を受けるようになる.
そして彼らは世界各地への宣教活動を重視し,積極的に宣教師を海外へ派遣した……
1541年,ポルトガル国王の要請で,一人の宣教師がインド・ゴアへ派遣される.
その男の名は,
_,,..,,,,_
./ ・ω・ヽ
l l
`'ー---‐´
フランシスコ・ザビエル
サン・ドニ聖堂に集った6人の神学者の一人である……
ベタ藤原 in mixi,2010年03月02日21:08
教義なき戦い・極東死闘編
「こがぁな限られたヨーロッパの土地が,なんの役に立つんなら.
見てみない.今にあっちこっちに教会が立つようになるど.そうなりゃ誰も寄り付かんよ.
それに比べてアジア言うたらよ,まだほとんど手付かずじゃけんの.
そのうちの何割が,黙ってみんな信徒になるんで」
「じゃけん主は,そのお姿に似せて人間を作ったちゅうけん,アジア人の肌色は俺たちの肌色と違うけぇ,主のお姿に似てるたぁ言えんかろう.
主のお姿に似とらんもんに布教しては教義が広まらん言いよるんど」
「はっはっは.何がお姿や.おお.フランシスコやらぁ,何を目当てに布教しとるん?
ニホン人のオメコやないの.
言うなら,あれらオメコの汁で教会建てちょるんど.
のお,おやっさん.
教義言うてもクルス言うても,主の教えを説くためにあるんじゃないの.
そりゃ信徒がおらな出来ゃせんので.
布教に身を張って何が悪いの」
でんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんでんずでーんでん
軍事板,2004/04/30
【質問】
三浦按針とカトリックとの確執について教えてください.
【回答】
慶長5年3月16日(1600年4月29日)
(:::::::::::: ヽ
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(:::::::::::: ' (::::::::::::::::::::::::::: ヽ⌒ヽ
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ゝ:::::::::::: `ヽ(:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
) (⌒ ,
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ヽ
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ヽ::::::::::::::::::::::::
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/~'7;; |/~''7 ::::::::::::::::::::::::
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( ̄| ( ::::::::::::::::::::::::
、___`t-'ーイゝ-i
ヽ] ̄二二二7
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〜 ~~~〜〜 ~~ 〜〜~~ 〜〜 ~ 〜〜 〜〜 ~~~
一人の男が豊後臼杵に流れ着く……
男の名は,
/ ̄ ̄\
/ ヽ、_ \ バタッ!
(>)(< ) .|
(__人__) |
(,`⌒ ´ |´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ
{ |
ヽ\__
,, ___,{ / \__)_
(____`ヽ_(  ̄ ゙̄ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ、
)
ウィリアム・アダムス.
出身地はイギリス.
彼は『リーフデ号』に乗り込み,西周り航路で極東を目指すオランダ商船団に参加することとなった. しかし,商船団は,途中,他国船による拿捕や悪天候による沈没を受け散り散りとなったが 『リーフデ号』 だけはなんとか日本までたどり着いた.
当時,日本で布教活動をしていたイエズス会とフランシスコ会(共にカトリック派)は,この事を知ると,
____
/_ノ ヽ、_\ 秀頼!
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
あいつら処刑してお!
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ /
/ // プロテスタントだから,
| :::::::::::(⌒) | | | /
ゝ :::::::::::/ いっちょ,処刑してお!
| ノ | | | \ / ) /
ヽ / `ー'´ ヽ / / バ
| | l||l 从人 l||l
l||l 从人 l||l バ ン
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、 ン
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒))
と秀頼に請願.
大阪でアダムスら 『リーフデ号』 の乗組員を引見した,当時五大老の
(⌒)―(⌒)
( ・_・ )
>(゚Д゚)イ
(O゙゙゙と)
__(酒)xL_〉
(__ノUωU
徳川家康は,彼を気に入り,家臣として召しかかえてしまう.
それを知ったイエズス会とかフランシスコ会とかは,アダムスの元に神父を派遣して,
__
:/ u\; ___
;/ ノル(<)\; / ;u ノ し\
てめぇ 日本からでてけ!
;| (>) _) \;/ ⌒ \
;|::: ⌒(__ノェソ / ,
| 嫌ならカトリックに改宗しろお!
;\ u ´ ソ / ^
|
;\ , | |
,ヾ \_ n^^- \ j; __/
;/ ∠_;i  ̄丶/ ̄ \
;( ⌒) ´ ノ \
と恫喝するものの,アダムスは日本に留まり続け,その信仰をかえることはなかった.
時は流れ,慶長16年(1611),来日したスペイン使節セバスティアン・ビスカイーノは,家康と秀忠に謁見した後,奥州諸湾の測量を実施した.
(⌒)―(⌒)
( ・_・ ) なぜにそんなことをするみゃ〜
>(゚Д゚)イ
(O゙゙゙と)
__(酒)xL_〉
(__ノUωU
と家康からその真意を問われたアダムスは,
/ ̄ ̄\
/ノ( _ノ \ 侵略するためです.
| ⌒(( ●)(●)
.| (__人__) スペインの奴らは,修道士を派遣した後,
| ` ⌒´ノ 軍隊を送りこむのが定石なのです!
. | }
. ヽ } 常識的に考えて!
ヽ ノ \
/ く \ \
| \ \ \
| |ヽ,二⌒)、
\
と進言.
それまでキリシタンに対して黙認と云う形で寛容であった家康だが,この事件が一因となってキリシタン弾圧へと向かうのであった……
ある意味,徳川幕府によりキリシタン弾圧は,
/ ̄ ̄\
/ \
|:::::: |
. |::::::::::: |
|:::::::::::::: | ....,:::´, .
. |:::::::::::::: } ....:::,, ..
. ヽ:::::::::::::: }
,):::::::ノ .
ヽ:::::::::: ノ (:::::ソ: .
/:::::::::::: く
,ふ´..
-―――――|:::::::::::::::: \ -―,――ノ::ノ――
|:::::::::::::::|ヽ,二⌒)━~~'´
「死刑にしろ!」 とか 「改宗しろ!」 とか云われ続けた一介のプロテスタント教徒によるカトリックへの個人的な復讐と云う一面をもっていたのかもしれません……
ベタ藤原 in mixi,2010年02月26日02:25
【質問】
蝦夷地におけるキリスト教布教の状況は?
【回答】
西国での布教活動が禁教令の施行により狭まっていった為,新たな市場を開拓する為に,北の地にやって来た神父がいました.
松前には,アンジェリス神父とカルヴァリオ神父が交互にやって来ています.
最初のアンジェリス神父の訪問は何とか友好的に終わりましたし,松前公広も「松前は日本ではない」という立場で,影にその滞在を黙認してくれました.
1621年,アンジェリス神父は再び松前を訪れます.
そして,信徒の告解を聞くと共に,蝦夷の地理,アイヌについての正確な情報を入手する事に懸命になりました.
この報告書が,耶蘇会年報に収められた"Relatone
del Regno di leso"(『蝦夷国報告書』)と呼ばれるもので,現在も当時の印刷の儘保存されています.
こうして,西洋人達は蝦夷地の事を初めて詳しく知ることになり,蝦夷地は島であることが紹介された訳です.
それに先立つ1620年,アンジェリスの支持を受けて,カルヴァリオ神父が蝦夷地を訪ねます.
彼は1609年に来日すると,当初は京,大坂での布教活動を行っていましたが,其所での活動が困難になると,流刑になった信徒を慰めるべく東北へと流れ,其所でアンジェリスと出会って意気投合し,彼の協力者となりました.
カルヴァリオ神父は蝦夷地に渡る時,金堀人夫に変装して出羽久保田港を出帆し,松前へと渡ってきました.
彼は誰にも疑われることもなく,8月始めに無事松前に上陸しました.
2年前にアンジェリス神父が来た時の松前にはキリシタンは15名程度しかいませんでしたが,一時滞在の商人の名目や金堀人夫の名目でやって来たキリシタンが著しく増えていたそうです.
其の後,千軒岳の砂金採掘場にいるキリシタンを慰問する為に,カルヴァリオ神父は金山へと赴きます.
この場所は千軒岳の山中,知内川上流にあり,松前から1日の行程でしたが,道が険しくて馬に乗って移動するのも叶わず,徒歩で登ったと言います.
カルヴァリオ神父は1週間を此処で過ごし,密かに訪れる信者の告解を聞き,洗礼を授け,都合3週間以上松前とこの砂金採掘場で過ごしました.
彼等は都合2回ずつ松前に渡ったのですが,この頃,伊達政宗が禁教の態度を明らかにすると,周辺の会津,秋田,南部,津軽の諸家も一斉にキリシタンの弾圧を開始し,1623年,アンジェリス神父は捕らわれて原主水等47名の日本人信徒と共に12月4日,東海道の入口の札ノ辻刑場にて火炙りとなり,刑死しました.
また,この弾圧の為にカルヴァリオ神父も1624年に60名の信徒と共に捕えられ,2月22日に青葉城に近い広瀬川で,9名の信徒と共に水責めの刑で殉教してしまいました.
松前の信徒は神父が来なくなってから,ひっそりと街の片隅や山奥で暮らしていました.
松前家では,この事実を知っていましたが,砂金が家の重要な財源であることに加え,信者の表だった動きも無かった為に放任していました.
これが覆ったのが,1637年に起きた島原の乱です.
幕府は全国に再び禁教令を出すと共に,松前家にも厳重に取り締まりを行う通達が出されました.
こうして松前でも弾圧が行われる事になりましたが,なお,奥地に入ったり,城下にいたキリシタンの罪は問わず,金山のキリシタンのみを処断することになりました.
1639年8月,酒井九十郎,長野次郎兵衛,池木利右衛門等に率いられた捕吏の一隊が松前から4kmの地点にある大沢部落の上流付近にあった金堀の住居を急襲し,予め内偵で特定していた信徒男女合せて56名のうち,50名を斬首し,事前に千軒岳を越えて逃げた6名も上ノ国石崎で捕まり,その場で処刑されました.
もう1つの隊が千軒岳に派遣されました.
既に大沢部落の変事を知っていた男女の信徒50名は,礼拝堂,マリア観音寺の前で祈りを唱えながら,斬首されていきました.
総数106名の信徒の斬首が行われ,幕閣には領内のキリシタン全員を処刑した事にしていましたが,実際にはキリシタンの監視を続けたものの,迫害までには至っていません.
ただ,厳しい監視の下に置かれていました.
この監視は時代を経るに従って厳しくなり,従来寛大だった入国も,身元保証人が無ければ認められなくなり,江戸幕府と同じく五人組制度を導入しました.
そして,キリシタンを訴人した者は,褒美に500乃至300両の銀子を与え,キリシタンが発見された五人組は名主共々共同責任となるという触れが出されています.
更に,転宗したキリシタンが死亡した場合は,その死骸を塩漬けにしておいて当主の指示を待てと言う所まで行っています.
転宗したとしても,監視の眼を逃れる事は出来ません.
転宗した人は「本人」と呼ばれ,転宗後に生まれた子や孫は「類族」と呼んで,本人から7代に渡って厳しい監視に置かれています.
因みに,実は先ほどの池木利右衛門も信徒の一人だったりします.
千軒岳の殉教により一時停滞した砂金採取ですが,其の後は奥地に侵入していきました.
この地はアイヌの居住地でしたが,上流で砂金を採ると水が汚れ,鮭が川に上らなくなり,動物が移動するなど,アイヌと和人の間での軋轢も大きくなります.
こうしたことも原因で,1669年に,静内の酋長シャクシャインによってアイヌが蜂起し,和人270名余が殺される所謂「シャクシャインの乱」が起きました.
これを契機に松前家では砂金の採取を禁じ,和人を蝦夷地に入ることを禁じます.
結局,蝦夷地の砂金採取はキリシタンの弾圧と共に終熄していきましたが,有珠善光寺地蔵堂には織部灯籠があり,砂金場近くの沢からも石像が発見されており,この地でも密かにキリシタン信仰は息づいていたものと考えられています.
織部灯籠型の墓碑に関しては,松前家墓所からも発見されており,宝珠の裏側に十字が刻まれていたり,五輪塔下部の隠れた部分に十字が刻まれていたりするものが見つかりました.
また,松前家6代当主の内室である椿姫の墓にも石室の扉に十字の彫刻があります.
墓所に一族以外の者が入っていないとは考えにくいので,実は松前家内部でも密かに信仰を続けていた者が居たのかも知れません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/04/23 22:02
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