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◆◆豊臣家
<◆人物
戦国時代FAQ目次

秀吉

(画像掲示板より引用)


 【link】

「2ch.戦国板」◆(2006/07/28〜) 【智・勇魚の如き】黒田孝高総合スレ【縦横無尽】
 レス回収済

D.B.E 三二型」(2013/05/12)◆官兵衛が賤ヶ岳の前線に…秀吉サイン指令書発見

「朝目新聞」(2013/03/12)●秀吉の懐刀 田中吉政

やらない夫で学ぶ豊臣秀長〜太閤を支えた男

やらない夫で学ぶ豊臣秀長〜太閤を支えた男(金ヶ崎撤退戦)

『石田三成の末裔として育った』(澁谷理恵子著,近代文芸社,2013/07)

『黒田官兵衛・長政の野望 もう一つの関ヶ原』(渡邊大門,角川学芸出版,2013/08/24)

『秀吉の出自と出世伝説』(渡邊大門著,洋泉社,2013/05/10)

『秀吉の忠臣 田中吉政とその時代』(田中建彦・田中充恵著,鳥影社,2012/11/14)

『秀吉の手紙を読む』(染谷光廣著,吉川弘文館,2013/06/07)

『秀吉を支えた武将田中吉政―近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』(市立長浜城歴史博物館,2005/10)


 【質問】
 最近の山川の教科書には,秀吉を「尾張の地侍の出身」と書いてあったが,これはちょっと勇み足じゃないのかな?
 今までどおり,農民と言ってた方が穏当だと思うが?

日本史板

▼ 【回答】
 実父が名字つきで足軽として戦場に出る村長レベルだった,という話はよく聞くが.
 秀吉の家は清州織田家の織田達勝に仕えていた,というが最近の定説らしい.
 もともと中村一帯の広大な土地を所有する豪農で,戦になると足軽たちを動員し指揮を執る,格式的にそれなりの在地武士.
 ここ数年で,親父さんの名前で織田信秀の村方相談役になってる資料も見つかって,神社にも親父さんが代表者として記録されてる資料が出たとかで,有力な名主クラスだったことは間違いないみたい.
 大政所も百姓じゃなく,(階級は低いものの)武士の娘だということが判明したそうだ.

 だから極貧の最下層貧農の出ってのは,少なくとも嘘っぱちもいいところなんだと.

 確かに下士と農民は差のなかった時代だから,百姓といってもいいのかもしれないが,あれはどちらかといえば平民ウケするための脚色であり,マルクス主義史観の時代,さらに強固にされてしまった認識なだけのように思えてならないよ.
 まさに「穏当」な言い方.

 いろいろな脚色もあるようだけれど,ティーンのころ信長に仕え,既に清正や正則を部下に従え,注目され,スルスルと清洲城の奉行に出世しているのは事実なのだから,全くハシにも棒にもかからない貧民のわけはない.
 いくら実力社会でも,初めの初めは相応の身分でなければ領主信長の近侍にはなれないし,上司の注目を浴びることもできないよ.

▼ 実父も継父も,小名主,小庄屋くらいの,一つの荘に発言力のある身分であったろうと考えるのが妥当かと.
 何の記録も残らなかったのは,秀吉兄弟以外の後継者はなく,秀吉自身がかなぐり捨てた家門だったからに過ぎないのでは.

 びっくりだね.
 立身には幼少期からそれなりのバックは要るってことか.

日本史板
世界史板(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 作り話か実話かは置いておくとして,信長の草履を懐に入れて温めた秀吉の行動は,美談と言っていいのですか?

 【回答】
 「砂漠に塩」,2008年02月27日号
http://archive.mag2.com/0000135791/index.html
によれば,気づいた信長も共に立派だという.
 なぜならば,企業にたとえるなら,社員が10人もいれば,尽くしている奴は1人はいるが,そんな努力に気づく社長などほぼ皆無だからだという.
 すなわち,いくら人知れず尽くしたところで,それが伝わるとは限らず,一方,見え透いたパフォーマンスがサラッとできる奴は,賢いかちょっと足らないかそのどっちかなのだという.

 詳しくは同メール・マガジンを参照されたし.

 行き過ぎると臭いスタンド・プレーになるけどね.


 【質問】
 秀吉の「水攻め発動」条件は?

 【回答】
 『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
 曰く,
秀吉の水攻めの事例に共通しているのは,地形(城郭の立地,河川の有無)や天候などの自然条件といった客観的条件の他,付城戦術から創出された高度な土木技術の蓄積や,労働力・資材を短期間で集中できる組織力・経済力といった主体的条件である.
 東国大名では客観的条件はともかく,主体的条件を欠いている為に水攻め戦術が採用できず,また技術的に不可能だったとしている.
 また,秀吉の水攻めの中で,高松城水攻めは毛利軍主力を誘引する後詰決戦戦略の一翼をなす壮大な物であるが,太田城水攻めは
「中世的な惣国一揆による在地支配を粉砕し,豊臣政権による近世的な天下一統を誇示する一大イベントとして遂行されたと思われる」
事から,太田城水攻めを水攻め戦術の最終到達点ではなかったかとしている.

グンジ in mixi,2010年08月22日18:56
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 羽柴秀吉が豊臣秀吉と呼び名が変わったのは何故?

▼ 【回答】
 現代の感覚を歴史を学ぶ場に持ち込むと,混乱や誤解のもとになる.

 羽柴秀吉が豊臣秀吉に改姓したと誤解している人は多い.
 羽柴という苗字は引き続き存在していて,豊臣という姓を苗字とは別に獲得した,という流れを理解するのに障害になっているようだ.
 姓を持つような家柄の出自じゃなかったから,ないなら作ればいいじゃないという発想だったのだろうけど.
(源氏の名家の養子になろうとしたが,断られたとか)

世界史板
青文字:加筆改修部分

 豊臣賜姓以降,豊臣秀吉・秀頼が名字を使った形跡はありません.
 書状は名前のみか印章ですし,かの方広寺の鐘銘など,各地に残る寺にある秀頼の名はすべて「豊臣朝臣秀頼」です.
 ちなみに同時に名前が残る片桐且元の表記は,名字有りの「片桐東市正豊臣且元」です.

 したがって質問の答えは,秀吉がこの時期以降,羽柴と表記することをやめて,「豊臣」のみを名乗ったから「羽柴秀吉」が「豊臣秀吉」と表記が変わったということが正しいとおもわれます.

 前は羽柴を名乗っていたし,名字を改めてないから羽柴というのは早すぎる結論で,姓をもつものが必ず別の名字をもっているというわけでもないですし(津守氏・紀伊国造紀氏・阿蘇氏),秀吉は一度近衛家の養子になっているので,この時点で秀吉の名字が「近衛」になったと考えることもできます.

ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 秀吉が源氏の名家の養子になろうとしたが,断られた,という話は本当ですか?

 【回答】
 これは林羅山が書いた本の,
「足利義昭の養子になって将軍になろうとした」
という記述が元だと思いますが,以下のような理由から現在では疑問視する声が優勢です.

・征夷大将軍は清和源氏でなくてもなれる.
・養子の話が羅山以外の史料にない.
・朝廷は将軍を罷免することもできる.(足利義稙)

ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大坂城浮城計画とは?

 【回答】
 『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』内の,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
 曰く,
秀吉の水を制御する戦略は,築城思想にも反映としており,初めて城主となった長浜城は,琵琶湖に面した一種の水城だった.
 また伏見城も巨椋池を後背地とし,宇治川によって大阪湾と通じていた.
 大坂城ではその特徴がより一層明確に表れており,北は淀川や天満川,東は平野川や猫間川,西は人工運河の東横堀川に囲まれていた.
 文禄年間(1592〜95)に,淀川左岸に築かれた文禄堤を決壊させて淀川を氾濫させ,河内平野を水浸しにしようとする計画があったとしている.
 これが成功すると,上町台地の上にある大坂城は水の孤城となるが,敵にも水に阻まれて城を攻められなくなるという物で,実際に大坂冬の陣では慶長19(1614)年10月,大坂方は河内出口村狭田宮の堤を切ろうとしたが,徳川方に撃退されて失敗に終わった.
 逆に徳川方は淀川の流路を,城北新庄村から鳥飼方面に変える事で天満川を涸らし,大坂城の北の惣構えを突き崩そうとした.
 工事はほぼ順調に進捗し,天満川の水位は膝ぐらいまで低下した.
 大坂の陣は水を巡る戦いの一面があり,大坂方は秀吉の浮城計画に失敗して水を利用できなかった為,豊臣氏は滅亡したのかもしれないとしている.

(ただ,浮城計画が成功したとしても,当時の豊臣家が孤立無援である事には変わり無く,結果はあまり変わらず,むしろ三木城やガダルカナルみたいな事態になるんではないかなぁ,と思ったりする訳で)

グンジ in mixi,2010年08月22日18:56
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 大坂・船場を開発したのは秀吉?

 【回答】
 船場と言えば,大阪の経済活動の中心地となっている場所です.
 船場は,東西を東横堀川と西横堀川,南北を長堀川と土佐堀川で囲まれた地域を指し,本町通を境として北船場と南船場に分けられる事もあります.

 江戸期,大坂市街地は三郷と呼ばれ,天満組・北組・南組の3つの組がありました.
 船場では,安土町以北と西横堀沿いの浜側が北組,本町以南が南組になっていました.

 この地域の開発が始まったのは,豊臣秀吉の時代にまで遡ります.
 秀吉の大坂城を築城するに当たり,その工事は数次に分けられ,第1期が天守と本丸を,第2期には二の丸,第3期が惣構堀を完成させました.
 その後,1598〜99年にかけて三の丸を造成するに当たり,「大坂町中屋敷替」と言われる大規模城下町改造を実施しました.
 この時,惣構えの中にあった上町から町家や寺院が移転を命じられ,1594年に開削されていた東横堀川以西の新市街地に移されました.

 この計画的な市街地が船場で,東西・南北に直線の街路を築いて1辺が約42間(76.4m)の碁盤目状の街区を持たせ,家屋は秀吉の威厳を飾るに相応しく,檜の木造2階建てで統一され,「太閤下水」と呼ばれる下水道も完備していました.

 因みに,「太閤下水」は秀吉が整備したもので,大坂城西側の三の丸一帯一帯は,排水が悪い低地であった事から,大坂築城が開始されると同時に,下水道が体系的に整備されていきました.
 下水道はこの街区の中心線に設けられ,下水道を挟んで宅地と宅地が背中合わせになる為,こうした下水の事を「背割下水」と呼びます.
 この背割下水は,城下町の町割や宅地割の基準線ともなっています.

 背割下水は東西の横堀川に主として東から西に流される形で東西に設けられました.
 溝の幅は通常1〜4尺(0.3〜1.2m)でしたが,中には2間(3.6m)に及ぶものもありました.
 広報は素堀した後,間知石又は栗石で護岸し,更に漆喰を施し,道路横断箇所には石蓋が設けられていました.
 この背割下水には屎尿を流すのは御法度でした.
 屎尿は,完全に肥料として用いられる様になっていたからです.

 後に江戸参府の途上,大坂に寄ったシーボルトは,この事実を知り,驚嘆しています.
 管理は公儀所管で,維持作業は分担制となっていました.
 維持については,町民が個人的に使う下水道は個人の責任で,共同で使う下水道は町内の共同責任で実施され,公儀は大幹線の堀川を担当しましたが,公事を嫌って借家人を貫く様な土地柄の事,幾度となくこうした下水道の維持管理をきちんとする様に,と言う町触れが出され,罰金や罰則強化も行われています.

 この背割下水は江戸期に入っても整備され続け,幕末の頃には総延長が約192,000間(約346km)にも達しています.

 しかし,江戸幕府の重しが取れると,この背割下水の管理は等閑となり,背割下水はゴミ捨て場と化しました.
 この為か,大阪は1877年,1879年,1882年,1885年,1886年,1890年と相次いでコレラ渦に襲われ,その最悪の年である1886年と1890年の流行時には,最悪の日で一日の死者が200名を超えてしまいました.

 これを機に,太閤下水の補修が緊急の課題となり,1892年測量に着手し,1893年9月に改良計画が固まりました.
 計画案では太閤下水を暗渠化し,内部をコンクリートでU字型に固めて汚水の浸出を阻止すると言うものでしたが,それでもこの改良計画は総延長約67,000間(約121km),総事業費約69万円と言う我が国最初の大規模下水改良工事でもありました.
 現在の様に,下水管は未だありませんし,鉄筋コンクリート技術も無く,技術的には当時の最高峰の工法を用いたのですが,そのお陰か否か,現在に至るまで500年以上前の下水道が形を変えつつも残っている訳です.

 下水の話に寄り道してしまいましたが,こうした下水も完備した船場地区は,大坂冬の陣,夏の陣には戦場となり,遂には焦土と化してしまいます.

 その焦土を復興させる任に当ったのが,家康の孫である松平忠明です.
 忠明は1615年に亀山から大坂10万石に封ぜられ,焦土と化した大坂を復興させる為に尽力しましたが,1619年には幕府の政策が変わり,大和郡山に移封となりました.
 その後,大坂には誰も封ぜられず,幕府直轄地として大坂城代が置かれ,初代大坂城代として,伏見奉行だった内藤信正が任命されました.

 この時,伏見城は廃城となり,伏見城下の町人は大坂への移住を命じられています.
 西横堀川はこの頃完成し,船場の南を区切る長堀川も1619〜1622年に完成しました.

 ところで,伏見の町人達の移住は,船場の発展に大きく寄与する事になりました.
 彼らは上町の本町近辺,大坂城南東玉造近辺,船場の伏見町・呉服町付近,長堀川の川沿いに居住しましたが,長堀川の開削には,元伏見町人であった岡田心斎,三栖清兵衛,池田屋次郎兵衛,伊丹屋平右衛門が関わった事から,別名伏見川とも呼ばれました.
 長堀川の両岸は農地から市街地に転換され,長堀心斎町,長堀清兵衛町,長堀次郎兵衛町,長堀平右衛門町と言った開発町人の名前を付けた町が出来ました.

 因みに,1700年に編まれた『大坂 北組・南組・天満組 水帳町数家数役数寄せ帳』には,船場には138の町がありましたが,天保期には128町,1872年の大改正で108に整理統合されました.
 これにより,東横堀から西に向かって1丁目から5丁目もしくは4丁目となり,川に沿って縦に横堀1丁目から7丁目迄の街区構成となり,通し町名が付けられました.
 また,西本願寺と東本願寺の西には北渡辺町と南渡辺町が,東本願寺の南には上難波北之町と上難波南之町が作られました.
 以後,1970年の中央大通が出来て船場中央町が出来るまでは大きな変化も無く,1989年に中央区が誕生するまでは明治期の町名をなるべく保持していました.
 現在の船場の町は,東から堺筋,三休橋筋,御堂筋で区切られ,それぞれ1〜4丁目を構成しています.

 その船場の町名を覚えるのに用いられたのが以下の歌です.

 浜梶木,今は浮世と高伏道,平野淡路,瓦備後,安土本町,米屋唐物,久太久太に二久宝,博労順慶,安藤塩町,浜北から順に,土佐堀浜通(北浜通)〜梶木町(内北浜)〜今橋〜浮世小路〜高麗橋〜伏見町〜道修町〜平野町〜淡路町〜瓦町〜備後町〜安土町〜本町〜米屋町〜唐物町〜北久太郎町〜南久太郎町〜北久宝寺町〜南久宝寺町〜博労町〜順慶町〜安堂寺町〜塩町〜末吉通りの浜を読み込んでいます.

 船場では東西に走る道を「通り」,南北に延びる道を「筋」と呼びます.
 嘗て,通りの道幅は筋の道幅よりも広かったそうです.
 通りに沿って東西に通し町名が付いているのは,通りが幹線道だったからです.

 こうなったのは,東横堀以西については,秀吉が大坂城に向けて道路を作った為でした.
 また,一説には,西風が多いので,暑さを和らげる為に風を通しやすくしたとも言われています.
 反対に,東横堀以東は天王寺,堺に通じる松屋町筋や谷町筋の様な南北の道が幹線になっています.
 なお,島之内の周防町筋,三津寺筋は筋ではありますが,東西の道で,船場とは異なります.

 船場の筋は東側から,高麗橋浜,一丁目筋(板屋橋筋),八百屋町筋(鳥屋町筋),堺筋(紀州街道),難波橋筋(藤波橋筋),中橋筋,栴檀木橋筋(三休橋筋),丼池筋,心斎橋筋,淀屋橋筋,渡辺筋(魚棚筋),横堀筋です.
 但し,東横堀川の本町橋から南に大きく東に1町分膨らんで曲がり,一筋増えていて,これを箒屋筋と呼びます.

 筋の名前は通じている橋や街に由来するものが多く,例えば御堂筋は南北御堂に通じる道,堺筋は文字通り堺に通じる道筋ですが,この沿道には砂糖を扱う店が多かった事から,大坂では砂糖の隠語を堺筋と言いました.
 栴檀木橋筋は北浜三丁目の浜から中之島公会堂の南側に架かる橋のたもとに大きな栴檀の木があった事に由来します.
 因みに,難波橋は現在は堺筋に架けられていましたが,以前は1つ西の筋に架かっていた事から,その筋の事を難波橋筋と呼んでいました.

 更に,船場には両側町と片側町があります.
 両側町は,通りを挟んで向かい合っている家々が一つの町を構成しています.
 船場の場合,既述の様に42間(72m)平方が町割の基本で,東西に走る太閤下水が町の境界になっていました.
 そして,町の真ん中を幅4間の通りが貫くのが基本形でした.
 船場の宅地は一般に短冊形で,間口が狭く奥行が深いのが普通でした.
 一方,片側町は堀割に面した町で,川岸を浜と言い,荷揚げに使いましたが,納屋や町家などが建てられる場合もありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/03/07 23:02


 【質問】
 豊臣秀次って誰?

 【回答】
 豊臣秀吉の姉・ともの息子で,子供のできなかった秀吉の養子となり,関白職を譲られるなど秀吉の後継者とされていた人物です,秀頼が生まれるまでは.
 秀頼誕生後,「自分は邪魔者なのでは?」という猜疑心に駆られ,しばしば奇行をとるようになりました.
 そしてとうとう秀次謀反事件(といっても,蒲生氏郷の遺児への会津領相続を勝手に認可しただけ)が起こって,1595年に切腹させられたばかりか,秀次の子女・妻妾39人も京都三条河原で斬首されました.

【ぐんじさんぎょう】,2008/9/4

 【関連リンク】
『豊臣秀次―「殺生関白」の悲劇』

豊臣秀次の墓


 【質問】
 秀吉には秀頼以外に子供がいたというのは本当ですか?
 早死にしたのも含めると,全部で何人ぐらいいたのでしょう?

 【回答】
 豊臣秀吉の実子は,長男鶴松(夭折)と次男秀頼の2人.
 いずれも母親は浅井長政の長女,淀君.

 ほかに,豊臣秀吉が長浜時代,戦乱で荒れた竹生島宝厳寺の復興をした時の「竹生島奉加帳」に,寄進者として石松丸と南殿という名があり,石松丸(=秀吉の子),南殿(=石松丸の母親)という説があるが,詳細は不明.
 長浜で秀吉に信仰された妙法寺に,羽柴秀勝と伝わる子供の肖像画が残り,竹生島奉加帳との関連から,秀勝とは石松丸のことだと現在されているが,関連性は不明.
 妙法寺に葬られた羽柴秀勝が,秀吉の実子であったことを証明する資料はない.

 簡単にまとめると,

●実子
鶴松  幼名棄.母は淀殿.秀頼の兄.3歳で夭逝.
?秀勝  幼名石松丸.長浜時代の側室南殿の子.存在や関係を疑問視する声もある.
?女子  南殿の子.こちらはより存在や関係を疑問視されている.
?女子  北政所側近の孝蔵主の姪の子.丹羽家家臣に嫁ぎ娘が3人いたとされる.こちらも以下略.

●養子
羽柴秀勝  織田信長の四男.
小早川秀秋  北政所の甥.
結城秀康  徳川家康の次男.
豊臣秀勝  秀吉の甥,姉日秀の次男.
豊臣秀次  秀吉の甥,姉日秀の長男.
豪姫  前田利家の娘.宇喜多秀家の室.
菊姫  前田利家の娘.7歳で死去.
?お江  淀殿の妹,浅井長政とお市の方の娘.

●猶子
宇喜多秀家  宇喜多直家の子.母おふくは秀吉の側室.
智仁親王  正親町天皇の皇子・誠仁親王の第六皇子.

●淀殿の猶子
完子 淀殿の妹お江と羽柴秀勝(秀吉の甥で養子)の娘.

●北政所の養女
辰姫 石田三成の娘.

日本史板,2007/10/10(水)
青文字:加筆改修部分


「へうげもの」より


 【質問】
 豊臣家は滅びたと聞きました.
 血筋も絶えたのでしょうか?
 また,豊臣姓の人は,いるのでしょうか?
 いるなら豊臣秀吉と血縁関係(養子もある?)でしょうか?

 【回答】
 血筋は秀吉の甥の豊臣秀勝と豊臣秀次の女系で残ってる.
 秀吉の女系も一説に残っている.
 男系は絶えてる.
 生存説や落胤説もあるけど.

 秀勝は娘の豊臣完子が公家の九条家に嫁いで,その血は今の皇室にも入ってる(らしい).
 秀次は娘2人が秀次事件の粛清を免れたといわれ,ひとりは公家の梅小路家に嫁いだ.
 もうひとりは真田幸村の側室になって一男一女がいる.
(ただ,秀次の娘ではないという異説もある).

 秀吉の女系は,秀吉の側室の徳子(徳殿)が娘を産んでいたというもの.
 徳子の実家川副氏の史料で,その娘は丹羽家の家臣に嫁いだとあるらしい.

日本史板
青文字:加筆改修部分

▼>豊臣完子

 嫁ぎ先の九条家が,養子なく続いてれば,貞明皇后(九条節子)で天皇家に入ってるけど.輔嗣,尚忠あたりの関係が血が続いてるかwikiだけでは検証出来ず.
 と,思ったら,この二人,九条家から二条家に養子にいった連中の子孫が九条に戻ったようなので,続いているっぽいです.

>真田幸村の側室になって一男一女

 男が三好(秀次の旧姓ですね)幸信,女が岩城宣隆の継室顕性院.
 2代目の重隆は顕性院との子なので,岩城氏が養子なく続いてれば.

水上攝堤 by mail,2009/6/10


 【質問】
 加藤清正とは?

 【回答】
 戦国時代の武将(1562〜1611)

 尾張の土豪,正左衛門清忠の子として,尾張国愛知郡中村に生まれる.
 幼名,虎之助.
 幼い頃に父を亡くしたが,母親が豊臣秀吉の生母の伯母にあたることから,長浜城の羽柴秀吉子飼いの武将となる.
 元服後,秀吉に従って戦功をたて,1583年の賤ヶ岳の戦いでは一番槍.
 1588年,肥後20万石を与えられ,熊本城城主となる.
 1592年からの朝鮮出兵では蔚山城篭城戦で活躍.

 秀吉死後,秀頼の後見役となるも,石田三成らの文治派と反目したため,関ヶ原の戦いではでは東軍に属し,九州の西軍小西行長の宇土城,立花宗茂の柳河城を攻略.
 その功により行長の旧領及び豊後(大分県)鶴崎地方を加封され,合計54万石の大大名に.

 二条城での秀頼と徳川家康との会見を見届けた後,間もなく熊本城にて死去.

【ぐんじさんぎょう】,待機稿
を加筆改修

鳥取県 倉吉市:倉吉泥人形/加藤清正(明治末期)

(画像掲示板より引用)


 【質問】
 加藤清正は朝鮮の役で虎退治が有名だけど,当時の朝鮮半島に虎っていたの?

 【回答】
 戦前までは,有り触れた猛獣だった.
 朝鮮総督府が作った,虎の駆除についての資料が残っていたかな.
 ハングル板で見たことがある.

 昔は亜種としてチョウセントラと名づけられていたが,DNA調査などから,今ではアムールトラ(シベリアトラ)と同種といわれている.

 北朝鮮には今でもいるらしいが,韓国では絶滅したといわれている.
 金日成から一つがいの虎が贈られたこともある.
 既に物故していて,その仔が神戸市立王子動物園に飼育されている.

日本史板
青文字:加筆改修部分

▼ 朝鮮の虎といえば……

 李承晩にこういうエピソードがあるそうで;

 李承晩と日本の高官が会談をした際,ひょんなことから虎の話題になった.
日「朝鮮半島にも虎はいるんですか?」
李「昔はたくさんいたらしいが,秀吉の侵略の時にほとんど絶滅してしまった.今生きているのは1頭だけだ」
日「ほう,その虎はどこにいるんですか? 動物園ですか?」
李「あなたの目の前に座っている」

 いかにも李承晩が言いそうだということで広まっているそうですが,「若き将軍の朝鮮戦争」によると,出所不明の作り話だそうで.

唯野 in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2011年04月07日 08:34


 【質問】
 小出秀政(こいで・ひでまさ)って誰?

 【回答】
 小出秀政(1540〜1604)は,尾張国中村に生まれた戦国武将.
 豊臣秀吉に仕え,1582年に姫路城の留守居役,1585年に岸和田城主3万石となり,1598年8月の秀吉死去の後は豊臣秀頼の後見となった.
 関が原合戦後も所領は安堵され,片桐且元と共に摂津・河内・和泉を中心に,豊臣氏の家政を担当した.

 【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.5

【ぐんじさんぎょう】,2010/11/03 21:20
を加筆改修


 【質問】
 小出吉政(こいで・よしまさ)って誰?

 【回答】
 小出吉政(1565-1613)は秀政の息子で,母親は豊臣秀吉の叔母.
 秀吉に仕え,1593年には播磨国龍野に2万石付与され,1595年には出石6万石に移った.
 関が原の戦いでは西軍に属したが,弟・秀家が東軍に属したため,知行を安堵された.
 1604年,秀政没後,岸和田藩主となり,出石を嫡子・吉英(よしひで)に譲った.

 【参考ページ】
『日本歴史大事典』2(小学館,2000.10.20),p.5

【ぐんじさんぎょう】,2010/11/05 21:10
を加筆改修


 【質問】
 利休七哲のうち,芝山監物の石高や役職を教えてください.
 ググったのですが,生没年不詳というばかりで.

 【回答】
 この人,いわゆる荒木村重・中川清秀・高山右近らと同じ摂津衆で,大和田城にいたとき城主安部仁右衛門(二右衛門)と一緒に信長に帰順し,黄金を賜った……と信長公記巻十一にあります.
 どうもこれが,歴史に登場する最初のようです.
 だからかしら,帰順後も高山と行動を共にしています.

 で,安部のほうは川辺郡を与えられ,池田恒興隷下で役に就いていますが,
http://www.geocities.jp/kawabemasatake/nobunaga.html
ここ(↑)に芝山の名はないんですよね…
 将としての才覚はなかったのかもしれません.
 小田原陣韮山城攻めのときに戦目付をやってたり,聚楽第御幸の際,先駆をやってたりしてたみたいだけれど,……

日本史板,2007/09/30(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 利休七哲の一人,瀬田掃部の石高や役職を教えてください.
 ググったのですが,生没年不詳というばかりで.

 【回答】
【瀬田掃部】(1547?-1595)

 正忠,清右衛門.馬允・掃部頭.
 出身は近江瀬田とも武蔵国ともいう.
 初め後北条氏に仕え,天正10年頃,高山右近の推挙で秀吉に仕える.
天正12年(1584) 小牧長久手の合戦で兵150を率い,秀吉軍に従う.
天正13年(1585) 秀吉関白就任に伴い,従五位下掃部頭叙任.
天正15年(1587) 九州征伐で兵120を率いる.
天正16年(1588) 後陽成天皇の聚楽第行幸の際,騎馬で左の前駆を勤める.
天正18年(1590) 小田原征伐で相模玉縄城攻略戦に参加.
文禄04年(1595) 豊臣秀次秀次に近かったため,秀次自刃後,処刑.

日本史板,2007/09/30(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田官兵衛って誰?

 【回答】
 黒田官兵衛こと黒田孝高(よしたか)は,戦国時代から江戸時代前期にかけての戦国武将.[1]
 出家後の号「如水軒」からとって,「黒田如水」とも呼ばれる.[1]
 豊臣秀吉の側近として,調略や他大名との交渉などに従事.[1]
 彼の長男が黒田長政である.[1]

 ただし,歴史学者の渡邊大門によれば,後世に伝わる黒田官兵衛の逸話の殆どは創作であり,それどころか,そもそも軍師ですらなく,戦国大名間の交渉を担う「取次(とりつぎ)」や,軍勢を監督する「軍(いくさ)目付」の役割だったという.[2]

 【参考ページ】
[1]http://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AE%98%E5%85%B5%E8%A1%9B
[2]http://mainichi.jp/feature/news/20131005ddp014040011000c.html

 【関連リンク】
http://www2.plala.or.jp/bakauma/kuroda/uma50.html


 【質問】
 黒田官兵衛の生涯を,簡単に教えてください.

 【回答】

 天文15年11月29日(1546年12月22日),小寺職隆の嫡男としての誕生.
 父親の武具に戯れる幼年期.
 母を亡くし,文学に耽溺した思春期.
 小寺政職の家老として.
 赤松政秀襲来(1569).織田,赤松を支援.
 あえて織田家の家来として(1575)

 英賀合戦.孝高,500の兵で毛利・三木軍を退ける(1577)
 両兵衛,播磨戦線に立つ.
 三木合戦.別所長治,反旗を翻す(1578)
 荒木村重と主君の裏切りによる一年の幽閉(1578〜1579)


 黒田姓を名乗り,秀吉の寄騎に(1580)
 黒田二十騎の活躍
 兵糧攻めと水攻め(1581-1582)
 中国大返しと天王山(1582)
 賤ヶ岳の合戦(1583)
 小牧・長久手時の大坂播磨戦線(1584)
 キリスト教入信(1585)と,禁令による,あっさり棄教(1587)
 西伐(1585〜1586)
 東伐(1590)


 宇都宮鎮圧
 文禄・慶長の役
 秀吉の死と退却戦


 関ヶ原序章;七将三成襲撃事件
 如水の九州戦線
 関ヶ原の合戦
 関ヶ原後日
 黒田藩五十二万石
 太宰府天満宮内に草庵を構えた晩年
 慶長9年3月20日(1604年4月19日)の死.京都伏見藩邸にて.享年59.

A.H:日本史板,03/12/25 23:21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田如水の生きていた当時の評価を教えてください.
 豊臣秀吉は彼の才覚を見抜いていてさらに野心があることも見抜いていたようですが,他の武将はどう評価していたのでしょうか?
 野心家とみていたのか,誠実な人間と見ていたのか.

 【回答】

▼ 小早川隆景の如水評が,実に言い得て妙.

------------
 ある時,黒田如水が隆景に質問した.
「私は勘によって物事を判断するため,間違いを起こすことがある.
 私に比べ,小早川殿の判断には狂いはない.
 何か秘訣があるのでしょうか?」
 隆景はこれに答えて,
「おっしゃるほどのことではありません.
 私は黒田殿ほど鋭くありません.
 物事を考えに考え抜いたあげく,結論を出すしかありません.
 黒田殿は頭が良いため,素早く決断なさる.
 そのために情報に誤りがあった場合に判断が狂われることがあるのでしょう」
------------

 これもいい言葉だな.
 隆景というのは偉い人だ.

------------
 如水の子である長政も,「分別」について隆景に教えを乞うた.
「分別に肝要であるのは仁愛です.
 仁愛により分別すれば万が一,理に当たらないことがあっても,そう大きな誤りにはならない.
 逆に才智が巧みでも,仁愛のない分別は,正しいとは言えないでしょう」
と答えたという.
------------

 如水について,坂口安吾の言った「二流の人」というのは,すごい評価だと思う.
 信長,秀吉,家康を一流として,そこまでたどり着けなかった武将.
 三流ではないが,運か何かが欠けていたんだろうな.
 でも,長政が主人公の小説より,如水が主人公の方が多い.
 やっぱり俺は,息子よりは親が好きだな.

戦国板,2006/08/05〜08/25
青文字:加筆改修部分

 とうの昔に隠居していたはずの如水が,九州を物凄い勢いで切り取り,しかもその領地をそっくり家康に献上し,恩賞とか別にいりませんと嘯いているのを見て,多分彼の真意を理解していない秀忠は,「今世の張良」という評語を残した.

 さらに前の話.
 官兵衛(まだ如水じゃない,官兵衛)が,有岡城で反乱を起こした荒木村重の説得に向かい,そのまま行方不明になったとき,信長は
「あいつ裏切ったっぽいから人質(のちの長政)殺せ」
と秀吉に命じた.
 それを知った竹中半兵衛が,秀吉に言った.
「私が始末しますから人質をお預けください」
 秀吉はそうした.
 が,半兵衛は「黒田殿は絶対に裏切るような人ではない」と信じていたので,こっそりと長政を匿って助けた.

 如水はまあ実際,野心家でもあったかもしれないが,全体としては「こいつ,お人よしなんじゃないか?」ってくらい誠実で義理堅い.
 有岡城で親切にしてくれた牢番にまで義理を立て,その子供を養子にして黒田家の重臣に取り立てたほど,

 もっとも,人の上に立つ者はその位でないと.
 中国の故事で,将軍が兵卒の労をねぎらったかなんかした際に,その兵の母親が泣いたという話が有る.
「この子の父も昔,将軍にねぎらってもらって感激して,死にものぐるいで戦って死んだ.
 この子もきっと戦って死ぬだろう」
と.
 果たしてその通りになった.

日本史板,2009/12/14(月)
青文字:加筆改修部分

▼126 名無しさん@お腹いっぱい.[] 投稿日:2006/08/25 01:07:36  ID:a467UOEj

 自分の受ける感じ,長政は「かなり仕える部下」,如水は「仕える部下」からはみだしている.
 どっちが上かは考えてもわからないけど,あの時代(天下二分)に主体的に動けるのはすごいと思う.
小説になりやすいのも,秀吉が警戒したかもしれないのも,そこだと思う.


127 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/08/26 08:44:10  ID:ZuXyrt7n

 如水は,主君から信頼が全然ないのが致命的だな.
 小寺,豊臣,徳川と立て続けに不信がられてるのはな.
 才気煥発すぎる秀吉にしても,信長には部下として信頼されたし,家康にしたって一応は律儀者だと評判もあったのに,なんでなのか?
 なんか事を起こす前に,余計な言動であっさり警戒されてるのは,人がいいというか,うっかりしてるというか・・・


128 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/08/26 23:16:00  ID:NWtay/5K

 頭のいいバカって感じだな.
 後年は特に.

戦国板,2006/08/26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田官兵衛への
「戦上手」という評価は妥当?

 【回答】

 実績あるから.
 寡兵で大軍を4度破ってる.
 その内2つは,規模が300対1000とかで小さいから,有名じゃないのかもしれないが,後の2回は毛利戦で10倍の相手に勝ってる.
 もちろん黒田隊のみで.

 青山合戦
○黒田300 VS 赤松政秀1000

 土器山合戦
○黒田300 VS 赤松政秀3000

 英賀村の戦い
○黒田500 VS 浦宗勝5000

 阿閉城篭城戦
○黒田500 VS 宇喜多軍8000

 三木城攻め
○黒田隊500 VS 別所勢700
○黒田隊500 VS 別所勢1000

 まあ,大友を降したっていっても,主体が即席の傭兵だからやっぱり弱兵で,黒田家の古参の家来が,その分過剰に奮闘せざるを得なかった.
 だから,如水は結果的に,古参の重臣をかなり戦死させちゃったんだけどな.

戦国板,2006/08/03〜08/17
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「黒田家譜」は,どの程度信頼できるの?

 【回答】

 家譜なんてもんは,事績を誇張して書いてる部分があるものとして読み取るのがあたりまえ.
 黒田家譜は,身びいきはわりと激しい方で,史料的価値はちょっと?と言われている.
 如水の名声の根拠となる事績や逸話は,黒田家譜にしか書かれていないのも多く,如水が参加した戦いで,如水がどこまで家譜に書かれたほど活躍・貢献したかについては,いまいち信憑性がない.
 どこの大名家でも,家譜は多かれ少なかれ,自家の誇大宣伝になるけれどね.

戦国板,2006/08/17
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田官兵衛の兜について教えてください.

 【回答】
 合子(ごうす)[ふた付きのわん]の形をした,合子形兜(ごうすなりかぶと)と呼ばれるもの.
 兜のしころは,赤みのある革でくるんだもので,威毛は黒糸素賭威.

 黒田官兵衛は,妻・光姫(幸圓)の父である志方城主・櫛橋伊定から婚約の祝いに,銀白壇塗合子形兜を贈られた.
 これは元来は南北朝時代の武将・赤松円心の愛用品.
 黒田官兵衛はその兜をもとに,朱を混ぜた漆を表面に塗ったものを制作し,これが「如水の赤合子」と恐れられることになる.

 のちに南部藩(岩手県)に献じられ,現在は同県盛岡市中央公民館に所蔵されている.


 大阪城では,あのおわん兜の模型が小学生に爆笑されてる.
 自分も初めて見たとき,やっぱり噴いた.

 【参考ページ】
http://kanbei.tenkomori.tv/e302153.html
http://blogs.yahoo.co.jp/rowmoment_boy/23427129.html
http://chikuwa7.at.webry.info/201210/article_1.html
http://www.geocities.jp/kazzuki2001/

官兵衛の「朱塗合子形兜・黒糸威胴丸具足」
(こちらより引用)

戦国板,2006/09/21
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田官兵衛の主要な家臣を教えてください.

 【回答】
・黒田八虎
 黒田兵庫助(官兵衛の弟 日向の陣で先手し長政を補佐)
 黒田修理助(官兵衛の弟 一時羽柴秀長にえる)
 黒田図書助(官兵衛の弟 一時羽柴秀長にえる.藤堂高虎と親交があった)
 栗山四郎右衛門(生涯首数57級 官兵衛一番のお気に入り)
 井上九郎右衛門(官兵衛の父職隆の側近)
 母里太兵衛(常に黒田家の先鋒をつとめ,生涯首数76級は家中No1)
 後藤又兵衛(長政と兄弟のように養育された.藩外での名声はNo1)
 黒田三左衛門(官兵衛が有岡城に幽閉された際の看守の息子)

・黒田二十四騎
 上記8人に加え,
久野四兵衛
野村太郎兵衛(宇都宮鎮房に一の太刀)
吉田六郎太夫(生涯首数50級)
桐山孫兵衛
小河伝右衛門
菅六之助
三宅山太夫
野口佐助
益田与助
竹森新右衛門(黒田家復興の立役者の息子,旗奉行)
林太郎右衛門
原弥左衛門
堀平右衛門
衣笠久右衛門
毛屋主人
村田兵助

 黒田二十四騎の一人菅六之助は,剣術に長じ,新陰流(疋田文五郎)と当理流(宮本武蔵の養父無二之助の流儀)の免許皆伝.
 朝鮮で虎を斬り殺した経験もある
 加藤清正の虎退治は逸話だが,こちらは実話だ.
 関ヶ原の合戦で島左近を倒したのも彼の隊だが,このときは鉄砲隊の狙撃であった.

A.H:日本史板,03/12/25 23:21
青文字:加筆改修部分

 【関連リンク】
http://www2.plala.or.jp/bakauma/kuroda/uma52.html
http://www.relatedknb.com/jinbutu/hachitora.html


 【質問】
 黒田官兵衛と毛利家との関係は?

 【回答】
 毛利家の小早川隆景と官兵衛はまぶダチ.
 九州征伐でも一緒に鍋島調略してるし,朝鮮でも隆景と小西が意見食い違ったときも,官兵衛は隆景と同じ発言してる.
 吉川広家が家督継ぐとき後押ししたのも,婚姻の世話もしたのも如水.
 秀吉の次に認めてたと思うよ.

 広島に築城した時も,官兵衛に土地の鑑定してもらってる.
 もっともこの件は,策士同士の腹の読みあいってかんじだけどな.

 如水と長政は豊臣政権で,対毛利家の外交窓口である取次って職についてたから,毛利家と縁が深いのはそのせいだろう.
 結局,黒田親子が政権内で失脚して,あとは三成が取次ぎになったけど,長政の関ヶ原の時の工作が成功したのは,毛利家との2代にわたる信頼関係があったからでしょうね.

 ただ,毛利家というかこの一族ってさ,如水と関わって,良かったことより迷惑を掛けられたことのほうが多いんじゃなかろうか…
 吉川元春に膾を勧めて,結果的に寿命を縮めさせたのは,この人.
 嫌がる毛利領でのキリスト教布教を,輝元に取り付けて支援したのも,この人.
(んで,その直後に禁教令が出て,如水はあっさり棄教.毛利領内の切支丹は弾圧)
 秀秋の養子先に,最初に毛利家を打診して,小早川家が絶えたのも,この人のせい.
 関ヶ原で,吉川広家に結果的に空証文掴ませたのは,息子.
(関ヶ原後,毛利家が防長2国になって家臣の家禄も払えず,新領主からは年貢の返米も迫られ,窮地に陥ったとき,輝元は領地を返上して,いっそ大名を辞めようかどうか如水に相談してる.
 如水が,辞めないでとりあえず頑張りましょう,そのうちいいこともあるかもよ,とか慰めて止めたはず.
 だから,信頼関係は(なぜか)ずっとあるみたいなんだけどな)

 ここぞ,というところで悪意のない働きかけをされた結果,すごく迷惑してる気がする.
 毛利の人々は,それでよかったのか…?

戦国板,2006/08/16〜08/20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 親父黒田より息子黒田の方が,実は大物なんじゃない?
 親父の秀吉の天下取りへの貢献と,息子の関が原での活躍の,どちらにより信憑性があるかといえば,明らかに後者だろうに.
 如水も長政本人も周囲の人間も,なぜか父の方が偉大だと思いこんでるのが,何か不思議な気さえする.

 【回答】
 長政の懐柔は,如水の布石と信頼があったから行えたんだってばよ.

・小早川秀秋→秀頼誕生の時,立場が危うくなった秀秋を,小早川家の養子に斡旋.
 付け家老を黒田家から2人出す事に成功.

・吉川広家→広家は嫡子では無いが,元長死後に如水に吉川家の相続を根回ししてもらう,如水を師父と敬慕.

・武断派七将→戦場の生き字引として,深く尊敬される.
 清正に至っては関ヶ原の九州戦線で,如水に従うと言う手紙さえ送っている.

 これだけの下地を作ってたからこそ,長政の工作が実を結んだのだよ.
 そして,長政しか離反工作を行う事が出来なかったのは,如水の信用がバックにあったから.
 高虎でも藤孝でも忠興でもなく,長政でなければ対毛利の工作はできなかったんだね.

 長政はむしろ,江戸時代になってからの業績を,もっと評価されてもいいような気がする.
 領国経営も及第点だし,外交的にもこまめに幕閣の有力者の情報収集をし,見舞いに行ったり姻戚関係を結んだりと,外様大名としての生き残りを賭けて,こちらの方面でも最後までよく働いてると思う.

戦国板,2006/08/17
青文字:加筆改修部分

 自分の受ける感じ,長政は「かなり使える部下」,如水は「使える部下」からはみだしている.
 どっちが上かは考えても分からないけど,あの時代(天下二分)に主体的に動けるのはすごいと思う.
 小説になり易いのも,秀吉が警戒したかもしれないのも,そこだと思う.

戦国板,2006/08/25
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 朝鮮出兵では,黒田如水は何をしていたの?

 【回答】
 軍事顧問格で渡韓するが,在韓軍の実権は秀吉奉行として全体を指揮する石田三成と,その一派,宇喜多秀家,小西行長らに握られていて,ことごとく如水と対立.
 その背景には,豊臣政権内部における,武功派(福島正則・加藤清正ら)と,吏僚派(しりょうは:石田三成・大谷吉継ら)の対立があった.

 如水は嫌気が差し帰国.

 文禄2年,名護屋(現・佐賀県)の本陣において秀吉は,征韓軍の不振に対し,秀吉自身が渡韓し軍の指揮を執ると言い出した.
 家康らはこれを止めに入ったが,なかなか聞き入れない.
 そのとき,隣の部屋にいた如水が大声をあげて聞こえよがしに,
「韓国のわが軍の過ぎるところ残虐至らざるなく,人民はみな恐れて山林に逃げ込み,田畑は荒れて,徹発すべき五穀もなければ人もいない.
 諸将は戦功を争って,統制は全くない.
 こんなことでは明国はおろか,朝鮮平定もおぼつかない.
 今,在韓軍を統制する能力のある人物は,江戸大納言(家康)か加賀宰相(前田利家)然らずんば,かく申す如水のみである」
と,わざと聞こえるように独り言を言った.
 秀吉も閉口して,如水を再び渡韓させることにした.

 そうして再度渡韓.
 しかし依然として石田&宇喜多らに実権を握られていて,思うさまに手腕を振るうことは出来ない状態.
 そんなあるとき,漢城に陣を置いていた石田三成が,軍議のため官兵衛の陣を訪問すると,官兵衛は浅野長政と碁を打っている最中であるという理由で三成を待たせた.
 これに三成らは激怒して,帰ってしまう.
 これを三成は秀吉に讒言し,官兵衛は無断帰国,秀吉の勘気を蒙る.
 これを避けるために剃髪,如水と号し,自ら謹慎する.

 慶長2年(1597年)の慶長の役では,三たび渡韓し,総大将・小早川秀秋の軍監として釜山に滞陣.
 第一次蔚山城の戦いにおいて,加藤清正の救援に向かった長政が留守にした梁山城が8,000の軍勢に襲われた際,救援に駆けつけ,1,500の兵で退ける.
 両城における戦勝後,戦線縮小を図ったが,これらを福原長堯などの軍目付たちが酷評して秀吉に報告し,秀秋,長政,蜂須賀家政など,多くの武将が叱責や処罰を受ける事となった.
 こうした軍人と文官の対立は,後の関が原合戦までシコリを残すこととなる…


130 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/08/27 00:30:52  ID:tG9h8j4V

 如水が碁を打って三成待たせたのは,まあただの意地っ張りだけど,そこでいきなり無断で日本に帰ってくるのは,何考えてるのか分からんな.
 まだ軍監を解任されてもないのに.
 秀吉もこの時点では,「許してやれ」って言ってるのに.
 ふつう職投げ出して遠征先から帰るか?
 関ヶ原の時より,このとき何を考えてたのか謎.


131 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/08/27 09:18:09  ID:a9yJVVmi

「なんとなくむしゃくしゃしていた.
 日本に帰れるなら理由はどうでも良かった.
 今は反省している」

 この人,結構ノリというか思いつきで行動してるとこ多いと思うけどな.
 でも,頭はいいからあとからそれなりに理屈をつけるというか,周りが深読みして深謀があるように見えるっていうか….


132 名無しさん@お腹いっぱい.[] 投稿日:2006/08/27 20:00:36  ID:m3Zq/EOG

「なんとなくむしゃくしゃしてやった.
 本気で天下とろうとは思ってなかった.
 今は反省している.(息子にも迷惑かけたし…)」

 …っつーか,死ぬまで変わらんな.

 【参考ページ】
http://kitabiwako.jp/kanbee/people/
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1446551304
http://www.relatedknb.com/
http://ameblo.jp/igokyoto/entry-11383481181.html

戦国板,2006/08/17
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 黒田長政の兜って,どんなもの?

 【回答】
 こんなもの.[1]
 この兜は,源平合戦の戦場の一つである,一の谷の鵯越(ひよどりごえ)の急峻な崖を表現した,「一の谷形兜」と呼ばれるもので,ヒノキの薄板の上部を前方に曲げ,表面には銀箔を押してある.[1][3]
 「竹中家譜」によれば,この兜は,竹中重治の死後,福島正則の手に渡り,その後黒田長政の所用となったという.[1]
 また,「黒田家重宝故実(じゅうほうこじつ)」によれば,
「朝鮮出兵で不仲となった福島正則と黒田長政を仲直りさせるために,竹中氏や長谷川氏が仲介となって,それぞれが用いていた兜の写し(=複製品)を交換させた」
とされている.[1]

 一方,交換で福島正則の所用となったのが,こちらの兜.
 大水牛兜と言う物で,鉄地黒漆塗桃形鉢で,眉庇上に眉と見上皺を打ち出し,金箔押石餅を前立としている.
 脇立は金箔押の大水牛で,▲(しころ)は朱漆塗吹返しに革包み3枚の笠▲形式.
 総重量,2.65kg.[2]
(▲=革ヘンに毎)

 元は浅井長政の使番・浦野若狭守が所持.
 浦野は熱烈な八幡神を信仰する武将で,ある日,通夜で武運祈願をしている最中,ふと夢を見て夢から覚めると,この大水牛の兜が忽然と現れたという.[2]
 浅井家が没落すると,浦野は黒田長政に仕え,この大水牛脇立兜の写し(複製)を作り,献上した.[2][3]
 当時は,交換されるものといえば脇差が普通で,兜の交換は珍しく,それだけこの兜は名兜としてとても有名だった.[5]

 もちろん,長政にとってもお気に入りの兜だったらしく,朝鮮役にもこれをかぶって行った.
 さて,その文禄の役.

 とある戦場で長政,敵軍の将発見.
 例の如く一人で駆け出した.
 黒田軍のみなさんが「殿!!」とあわてる間こそあれ,気がつけばその敵将と,川の中で組討を始めてた.

 さて,川の中である.重い鎧を着ている.当然のことだが,沈む.

ブクブクブク

「ああ!殿が水の中に!」「殿はいずこ!?」

 すると川の中から,にょっきりこの兜の角が現れた.

「おお!殿はあそこだ!」「殿は無事だ!」

 ブクブクブク

「殿はいずこー!?」

 にょっきり

「ああ良かった無事だ」

 ブクブクブク

「殿ー!?殿はどこにー!?」

 水面から角が出たりもぐったり.
 そんなことを繰り返しているうちに長政,気がついたら敵将を討ち取り,川から這い上がってきた.

家来「殿,ご無事でしたか! しかしその兜のおかげで,殿の場所だけはバッチリ分かりました!」
長政「…」

戦国板,2009/03/17
青文字:加筆改修部分

 また,関ヶ原前哨戦で増水した合渡川を渡るときには,乗馬が足を滑らせ長政が川に転落し流されたのだが,兜の尖った先が柳の枝に引っかかって,何とか家臣に救出され,命拾いした.
 ここで長政死んでたら大変なことになってたから,変わり兜が好きでよかったな(笑


217 名無しさん@お腹いっぱい.[sage] 投稿日:2006/09/21 21:42:43  ID:0mraRwdX

 名将言行録で誰だったかが,自分の具足姿を見て怖がる奥さんに,
「黒田殿を見たらショック死するぞ」
みたいな事言ってなかったっけ.
「当時(少なくとも言行録が編集された頃)から見ても,やっぱりあれはショッキングだったんだ」
と笑った記憶があるんだが.

戦国板,2006/09/21
青文字:加筆改修部分

 【参考ページ】
[1]http://museum.city.fukuoka.jp/jf/2007/nagamasa3/html/nagamasa3.html
[2]http://www.rekishijin.jp/kachu-blog/20120412daisuigy/
[3]http://blog.livedoor.jp/sengle/archives/2160334.html
[4]http://www.city.fukuoka.lg.jp/chuoku/kikaku/charm-kankou/ch-jouhouhassin/suigyukabuto.html
[5]http://blog.goo.ne.jp/kuroda-bushi/e/20c45ec59ed328c2bd9cc98be8ab458a


 【質問】
 黒田親子による宇都宮(城井)鎮房謀殺について教えてください.

 【回答】

 端から殺る気満々で,騙して政略結婚して,舅とその家臣を騙し討ちでヌッ殺し,14歳の嫁を磔にしたとされる謀殺事件.

 亀姫の年齢は諸説あるし,自害させたとも磔にしたともあるが,長政が舅の城井鎮房ともども中津城の宴に呼んで殺しています.
 肥後遠征中に如水も連携して,鎮房の幼い嫡男を家臣ともども,館ごと火をつけて焼殺してる.

 九州遠征や豊前切取りの時は,この他にも降した城の女子どもや兵を磔にしたりと,黒田親子も一通りの残虐行為はしている.
 孝高に「城井の娘と長政を結婚させて,一時停戦して謀略で一族を殺してしまえ」と命じたのは秀吉だけどな.
 秀吉としては,肥後が一揆で混乱している時に,豊前まで豪族の反乱が長引いて不安定になると厄介なので,早いとこかたをつけたかった.

 ちなみに豊前の城井攻めでは,長政は負けっぱなし.
 黒田・吉川・毛利の連合軍1万2000を率いて,城井1500に滅茶苦茶に負け,殆ど壊滅状態.
 影武者が代わりに死んでたりする.

戦国板,2006/09/17〜09/18
青文字:加筆改修部分

311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:42:49 ID:GjrCDrzG

 豊前つながりでちょっと書いたんで貼ってみる.
 黒田は主人公じゃないけど.


312 名前:1[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:43:48 ID:GjrCDrzG

秀吉  おまえにくれてやった豊前の国に,城井なんちゃらって地侍がいるだろ
官兵衛 はい
秀吉  あいつ,転封命令に従わないでゴチャゴチャ言ってるから,殺しといて
官兵衛 はっ

313 名前:2[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:44:31 ID:GjrCDrzG

鎮房  あの猿は,父祖伝来の土地を朱印状ひとつで取り上げるつもりか
朝房  どこで聞きつけたのか,当家の家宝も召し出せと言って来ております
鎮房  今度ばかりは覚悟を決めた.鎌倉の世よりこの地に住んで四百余年,民百姓と共に耕した城井谷の山河が我らの枕ぞ
朝房  とーちゃんかっこいい!


314 名前:3[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:45:47 ID:GjrCDrzG

長政  鉄砲もろくに扱えぬ田舎侍どもめ.コテンパンに叩きのめしてやる
又兵衛 親父殿にも相談せずにおまえが総大将なんて,大丈夫かよ
長政  うるさい.農民が教えてくれたこの山道から攻め込まれるとは鎮房も予期してないはずッ
旗本A 若様!前方の岩陰より猛烈な矢の雨!待ち伏せされていたようです
又兵衛 おいおい・・・
長政  相手はせいぜい千五百,こちらは毛利の援軍含めて二万.負けるはずがない! 突撃!!
旗本B さらに左右より兵! 狭い山道にて我が軍は身動き取れず,隊伍が分断されております!
長政  なんの,相手は寡兵! 押しつぶせ! まだ俺のターンだ!
旗本C 背後に軍勢! 旗印は左三ツ巴! 城井勢です!
長政  なんの,相手は(以下同文
旗本C もはや下知も届きません! ここは早くお逃れくだされ!
又兵衛 あ〜あやっぱりな・・・


315 名前:4[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:46:48 ID:GjrCDrzG

官兵衛 (城井に呼応して近隣各地で地侍が蜂起か.面倒なことになったな・・・)
恵瓊  拙僧にお任せを.城井の鶴姫と長政殿の婚姻を条件に和睦を纏めてみせますぞ
長政  え?ぼくにお嫁さん!?
官兵衛 かたじけない.ではその間に他の乱を平定するとしよう
長政  美人系? それとも可愛い系?
又兵衛 おまえもう氏んで良いよ


316 名前:5[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:47:59 ID:GjrCDrzG

鎮房  中津城にて鶴姫の婚儀だと
家老  典礼にかこつけた黒田の謀でしょうか
鎮房  まあよい,これも時代じゃ.ご先祖の高恩には先の戦で報いた.父上,よろしいですな
長房  頭領の貴様が好きにせい
鎮房  谷も色づき,もう収穫期じゃ.領主の座を守るために田畑を荒らすは本意ではない
家老  殿!
鎮房  儂は武士として死にに参る.朝房の身重の嫁御を実家に逃す手筈だけは整えておけ
家老  はっ・・・


317 名前:6[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:49:33 ID:GjrCDrzG

長政  父上,いよいよ鎮房を騙し討ちですな!
又兵衛 静かにしろ馬鹿
長政  馬鹿とはなんだ馬鹿
官兵衛 いいから黙れ馬鹿.おまえの嫁に聞かれたらどうする
長政  (´・ ω・`)
官兵衛 (緒戦でこっぴどく負け,娘を人質に誘き出して騙し討ちか・・・残したくない歴史だな)

鎮房  やあやあ,婚儀と聞いて参りましたが,随分簡素な席ですな
長政  武家の不調法,お許し下され.時にお供衆はどちらに?
鎮房  ご城下の合元寺に置いて参った.ほんの四十名ほどなので安心めされよ
長政  寡兵にござるな.安心いたした
又兵衛 (この馬鹿が・・・)
鎮房  名高き後藤殿がお相手とは,この鎮房一生の誉にござる
又兵衛 ・・・


318 名前:7[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 18:51:40 ID:GjrCDrzG

 鎮房は小姓と二人で数十名を道連れにし,最後は又兵衛の槍にかかった.
 城井谷の館は急襲を受け,老父長房ほか一族が誅せられた.
 同じ頃,事前に肥後一揆鎮圧の与力として参陣させられていた朝房も,逗留先で夜討ちに遭って果てている.
 合元寺では血で血を洗う激闘が繰り広げられ,寺の土壁は赤く染まった.
 その後,洗っても洗っても血の色が滲み出てくることから,同寺は赤壁寺とも呼ばれるようになった.
 中津城下では城井の怨霊伝説が囁かれ,官兵衛は城井神社を祀って慰霊に努めた.

 豊前宇都宮氏は,城井谷の地で代を重ねて城井氏となり,領民に愛され,一族郎党は結束して戦国の世を勇戦した.
 武門の名を惜しみ,潔く散った鎮房が見事なら,かの地から一族を引き離すが肝要と見た秀吉の慧眼もまた,見事と言える.
 こうして,城井家は歴史の表舞台から去った.

 朝房の妻・竜子は,進壱岐守らに護られて英彦山に逃れ,忘れ形見の男児を産んだ.
 子は朝末と名付けられた.
 江戸初期,朝末を城井谷の領主として迎えるべく,遺臣たちが諸方に働きかけた記録が残るが,ついに願いは叶わなかった.
 朝末は福井松平家の旗本として,一生を終えたという.


319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 19:00:04 ID:GjrCDrzG

 以上,前に見聞きした話をベースに書いた.
 多少端折ってるけど,一応史実のはず.


322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:06:58 ID:+DFSwLNX

 戦国期は,こういう謀殺を汚点とは考えないよね.
 長政はこの時城井さんを殺った刀を,ずっと持ち歩いてたし.


323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:08:55 ID:NGAJTAnG
>>319
 中津周辺の出身?
 別に逸話スレッドだから史実じゃないけどいいですよ.


324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:09:39 ID:141DWTZy

 本当に汚点みたいな暗殺は,歴史の表舞台には出てこないだろうしね.


326 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:17:40 ID:+DFSwLNX

 そういや,フロイスは
「殺したい相手を饗宴に招いて油断させたところを騙し討ちにするのが,この国の慣習」
とか書いてたな.


327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:21:40 ID:vkhWPP4N

 中央の政局に関わってないローカルな話だから有名じゃないけど,城井谷関連の怨念の史実浸食ぶりはやばいからなあ…
 黒田節とかマジで歌うのタブーらしいよ.

酒は飲め飲め飲むならば
日の本一のこの槍を
飲みとるほどに飲むならば

 「宇都宮鎮房に酒を飲ませて騙し討ちした歌」だから.

 前にどっかのスレッドで黒田関連の話題になった時,自称地元の人がとんでも説を書き込んでフルボッコされてたけど,実は本人は地元に伝わる伝説に懐疑的な人だったらしく,
「まだ現実味のある話を選んだのに,これもデタラメですか…」
と落ち込んでいたのが印象的だった.


329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/12(月) 20:49:51 ID:GjrCDrzG

 祖先が城井の殿様に仕えてた(自称)から,バイアスが掛かってるのは間違いない.
 でも別に謀殺酷いウキョー!!ってつもりも無い.
 個人的には苦労人の孝高さんも好きだし.

 流れを読み誤って滅びた一地方領主にも,ちゃんと通すべき筋目があったって話を書きたかった.
 荒らしてしまったならスマン.

>>327
 子供の頃聞いた昔話の「いい殿様」は,たいてい「うつのみやのお殿様」だし,地元の人に愛されてたのは,きっと事実なんじゃないかと.
 あと,黒田節が歌われてるのは確かに聴いたことがなかった.
 なるほどタブーなんだ.

 史実が浸食される課程としては,文中に挙げた猟官運動の経緯が入るだろうね.
 徳川さんに「こんなに正当な領主なんですよ!」って主張するために,偽書屋で書物を偽造するのが当たり前だったらしいし.
 そのための資金集めをするのが遺臣の仕事だったってことも,宇都宮本に書いてた.

戦国板,2010/04/12(月)
青文字:加筆改修部分


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