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 ビリケン様が(笑

関が原研究所

「それにつけても金のほしさよ」◆新・やる夫の関が原戦線異常アリ

●書籍

『さかのぼり戦国史』(学研パブリッシング,2013.5)

「信長と十字架 −「天下布武」の真実を追う」立花京子(集英社新書)

 現在,鈴木眞哉・藤本正行「信長は謀略で殺されたのか 本能寺の変・謀略説を嗤う」(洋泉社新書y)の感想を作成中(正確には以前にも感想を作成したので再作成)でして,この本の中で黒幕説(明智光秀の背後には共犯や共同正犯,教唆犯,幇助犯などがいる,とする説)の検討の中で本書が出てきたので,近所の図書館から借りて読んでみました.
読んで一言「頭痛い…」

 本書の主張を大雑把に纏めると,
・南欧勢力(スペインやポルトガル,イエズス会やポルトガル商人など)が日本人の協力者や潜在キリシタンを通じて織田信長に「天下布武」思想を吹き込み,それにより信長はイエズス会の意向に沿う形で,また援助を受けながら全国制覇を進めていく.
・しかし全国制覇直前になってから信長はイエズス会の意向から逸脱し始めた為,イエズス会は光秀を使って信長を排除.「主殺し」の光秀をそのまま後釜にするのは体面的によろしくないので,羽柴秀吉を使って光秀を処分し,秀吉を後継者に据えた.
という物.
 たぶんこれで間違ってない,と思う.

 この主張について鈴木・藤本両氏は

1.信長への援助が行われた事を裏付ける史料が無い
 信長への軍事援助の例として挙げたのは,キリシタン大名の大友宗麟がイエズス会から贈られた大砲を信長に一門贈った,という「間接的事例」のみで,しかもイエズス会がそれを行ったという史料は無い.
 また別の本での対談で,信長はイエズス会から様々な援助(鉄砲の製造技術や貿易による利益,布教を通じて得た情報の提供など)を得ていた,としているが,それについても裏づけは無い.

2.イエズス会は火薬の原料の一つである硝石の輸入を左右していた,としているが,それを証明できていない
 宗麟がイエズス会の司教に硝石輸入を独占できるよう依頼していた事を根拠にしているが,実際にはイエズス会が支援していた(とされる)勢力の敵対勢力(毛利家や本願寺など)も,硝石を入手している.
(根来衆や雑賀衆なんかがいい例ですな)

3.当時イエズス会は日本の有力者と目した人物に声をかけており,信長もその時点(1566年)での有力者の一人に過ぎない.

4.信長はイエズス会の意向に沿う形で寺社勢力を弾圧し,多くの寺院を破壊した,としているが,その様な事実は無い.
 延暦寺や本願寺は宗教的な敵対ではなく,政治的な敵対だったし,寺院の破壊についてフロイスの記録を根拠にしているが,そこに挙げられている寺院は戦乱に巻き込まれて破壊されたものである.

……などとして批判しています.

(詳しくは「信長は謀略で殺されたのか」の第六章「雄大にして空疎な「イエズス会黒幕説」」を読まれたし)

 また個人的な疑問点もあったり.
 本書では足利義輝(室町幕府第十三代将軍)が,宗麟を通じて度々鉄砲を入手.諸大名に幕府権力の回復への協力を積極的に働きかけ,その報奨として鉄砲を贈与した,としています.

 そしてここから

・イエズス会と結託したポルトガル商人が宗麟を仲間に引き入れて義輝を支援させ,ポルトガル商人と結びついた堺の日本人商人がこれを仲介.
 さらに京都周辺では堺商人の協力により獲得した協力者や潜在キリシタンが一つのグループを結成して義輝の幕府権力の回復を支援し,その結果として永禄元(1558)年に京都に帰還.
 そして永禄二(1560)〜四(1562)年にかけて鉄砲の贈与を通じて幕府権力の再興・強化をはかる.
 永禄二年には布教の下地ができた京都にバテレンが入京し,翌年には布教許可を得て活動を開始する.

――という道筋が見えるのだとか.(第三章「天下布武と決勝綸旨)

 で,帰洛を実現した義輝の背後にあり,南欧勢力に傾倒して深く結びついてた宗麟の力は大きかった,として「当時の日本政治の舞台廻し役」だった,としています.
(義輝は阿波の武将で畿内に強大な勢力を築いていた三好長慶と争っており(というより,足利将軍家は十二代将軍の義晴の時代から戦っている),天文二十二(1553)年には長慶に敗れて近江の朽木に亡命.永禄元年に講和して京都に帰還している)

 しかし今谷明「戦国三好一族 天下に号令した戦国大名」(洋泉社MC新書)によると,義輝と長慶の講和は近江の六角義賢の斡旋によるものとしており,また鉄砲についても義輝方の細川晴元が天文十八(1549)年に本願寺の僧侶を通じて入手して試作させており,大量生産のめどがついたので翌年七月の洛中での戦闘で使用された,としています.
 なお公家の山科言継は日記に,将軍方の晴元勢が使用した鉄砲により三好方に死者がでたという話をきいた,と記しており,この天文十九(1550)年七月十四日の記録が,日本における鉄砲実戦使用の初見史料である,としています.
 また同年二月に築かれた,城の壁が「鉄砲による攻撃」への対策として,二重にした壁の間に石を入れていた事もあり,畿内ではこの時期すでに鉄砲が普及していた,ともしています.
(詳しくは「戦国三好一族」の第五章「幕府との苦闘」及び第六章「八ヶ国の覇者」を読まれたし)

 このような状態で,九州の宗麟が大きな力を振るえる余地があったのだろうか?

 この他にも
・天下布武印の形はイエズス会関連印や大友宗麟印と似ている
・京都での布教が始まった時期に南欧からの珍品を入手した吉田兼右は潜在キリシタンだ
・朝倉義景の子の阿若丸は足利義昭(義輝の弟で十五代将軍)や信長らに毒殺された可能性がある
・永禄八(1565)年に義輝が三好三人衆や松永久秀によって暗殺された際,長慶は義輝の弟で僧侶の覚慶(後の義昭)を暗殺する謀略を立ててた説がある(長慶は永禄七(1564)年に病死)
とかなんとか.

 あとがきの中で
――――――
 私をして永年研究をつづけさせている力は,謎解きの面白さは別として,私が着想した仮説を論証して公にしなければ,私たちは真実と違う話を,自国の歴史としていつまでも受容することとなる恐れであります.
 過去から先祖の経験を学び,未来の過ちを未然に防ぐために,歴史をより真実に近く共通に認識することが私たちにとってまず必要な事だと思います.(p.258,259)
――――――
としていますが…
 その結論が信長は外圧によって生まれた権力だから外圧によって潰されたのもやむをえない,とか,秀吉の「天下布武」の課題は国内の制覇と南欧勢力への依存と締め付けの抱き合わせという綱渡り的関係の維持がどーたらこーたら.

 なんか…いろんな意味で困った一冊でした.

「こんどの計画がすべて時間の浪費ということです.
 ウィンザー公に関するファイルには目を通しました.
 カナリスとも話しました.
 結論としては,資料はまったくいい加減なものでした.
 マドリッドのシュトーラー大使からの報告も,ウィンザー公はドイツに好意的だとしています.
 スペインの貴族たちのパーティでのゴシップにしても,大使は自分に都合よく解釈しています.
 問題はそこにあります.
 みんな,ウィンザー公が自分たちの味方だと信じたがっている.
 一種の希望的観測です.
 仮にウィンザー公がベートーベンを好きだというと,愚かにもナチ党びいきだと早合点してしまうのです」
(ハリー・パタースン「ウィンザー公掠奪」(ハヤカワ文庫NV)P.61)

――――――グンジ in mixi, 2008年10月12日17:39

『敗者の日本史 10 小田原合戦と北条氏』(黒田基樹著,吉川弘文館,2012/12/18)

『秀吉に井えよ!!』(長浜城歴史博物館編,サンライズ出版,2013.8)


 【質問】
 応仁の乱の真相は?

 【回答】
 今日もまた,御座さんの興味深い歴史関係の記事を引用させていただく.

〜〜〜引用開始〜〜〜

 最近,家永遵嗣氏らの研究によって,応仁の乱勃発の真の要因が解き明かされつつある.

 教科書的には,応仁の乱の発端となったのは,将軍家の後継争いと言われている.
 将軍足利義政の正室である日野富子が実子義尚を将軍とすべく,山名宗全を義尚の後見人とし,これに対して義政の実弟で次期将軍に内定していた義視が細川勝元を頼り,山名・細川の対立を基軸として乱が勃発したというのである.

 しかし日野富子と山名宗全の提携というのは,同時代史料には見られず,軍記物『応仁記』の創作であるという.山名宗全は寧ろ足利義視と親しく,乱中に義視が西軍(山名方)に走るのも,乱前からの交流に基づくと推測される.

 また周知のように,細川勝元は山名宗全の娘婿にあたり,両氏の間に根本的な対立関係は存在しなかった.
 「継嗣がいなかった勝元は,宗全の子・山名豊久を養子にしていたが,文正元年に実子細川政元の誕生後,豊久を廃嫡して仏門に入れた」ことが対立の要因となったという説もあるが,政元の母は宗全の娘(養女)であり,政元が細川氏の後継者となることは宗全にとっても歓迎すべき事態であった.
 実際,応仁の乱の勃発により,山名氏の血を引く政元は忌避され,細川野州家から養子として迎えた勝之が後嗣となっている.

 宗全と勝元の関係が決定的に悪化するのは,文正の政変以後であり(文正の政変では2人は協力して伊勢貞親を失脚させている),僅か4ヶ月後には応仁の乱が勃発する.
 細川勝元のライバルは畠山義就と伊勢貞親であり,舅の宗全と事を構える気はなかった.
 御霊合戦など,応仁の乱の初動で遅れをとったのも,そのためである.
 文明6年に山名氏が東軍(細川方)に降伏した後も,乱が継続したことからも,乱の根本要因が山名・細川の対立関係にないことは明らかである.

 嘉吉の乱以降の幕閣の対立構図は,細川・京極・赤松vs斯波・一色・土岐・畠山・大内であった.
 双方と姻戚関係を持つ山名氏は,基本的には中立姿勢であったが(心情的には後者に近いが,義政政権の主流派である前者との対決は好まず),文正の政変で義尚乳父の伊勢貞親が失脚し,義視の将軍職継承が目前に迫ると,新政権での主導権を握るべく,畠山義就への加担・細川勝元との敵対を選択した.
 10年にもわたる応仁の乱の幕開けである.

〜〜〜引用終了〜〜〜

「はむはむの煩悩」,
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 応仁の乱の戦闘経過を教えてください.

 【回答】
 以下,「週刊まんが日本史・足利義政編」より抜粋(うそ).

−−−−−−
 文正2年(1467)1月18日
 京都,上御霊社の森付近.
 畠山義就勢.
「出撃準備はできたか!」
「ヤボール! ヘルコマンダール」

 同,森に布陣する畠山政長勢
「敵襲だ! 始まったぞ!」
「総員配置につけ! 武器を点検しろ!」
「お前たち,ケツを上げろ!」
「来たぞ」
「神様,神様,神様……」
 HA HA HA
「弓隊,ファイア(放て)!」
 HUM! HUM!
 SHU!
 CHUNK!
「!」
「突撃! 走れっ!!」
 URAAAAAAAAA!!
 KPANG!
 KAN!
 BTHUMP!
 BTHUMK!
 SAP!
 BLAN!
 BASH!
「増援がないとはどういうことだオレンジ・アイン(細川勝元).
 見殺しにする気か」
「畜生,脱出しよう」
「走れっ!!」

 応仁の乱の第1ラウンドは,山名宗全・畠山義就の完勝に終わった.
 政長は辛うじて落ち延びた.

 だが,その間にも両派の増援は続々と到着する.
 邸は塀をめぐらし,壕を掘って攻撃を待ち構えた.
 京の都では,田舎出の兵が,追い剥ぎや押し込みをする.
 原因不明の出火もあちこちで起こり,世情は騒然となった.

 5月25日,山名宗全邸.
「東軍(細川勢)は兵力,約16万.烏丸通鞍馬口付近から南へ一条通まで,そこから南へ折れて,大宮通まで布陣.
 対して我がほうは,約11万6千.上立売東町あたりを先端にして,千本通まで陣を張りました.
「赤松政則が挙兵して播磨を制圧.備前・美作にも侵入しつつありしたが,政則上洛のため,現在,戦線は停滞中です」
「斯波義敏が越前で武田義廉勢と交戦中,また,尾張にも侵攻中です」
「若狭でも,武田信賢が一色義直勢との戦闘を始めました.一色勢は伊勢でも世保政康の攻撃を受けています」
「いずれも細川勝元の策謀と思われます」
「連中,かなり気合が入ってますぞ」
「これから何が起こるかわからんぞ」

 5月26日.元誓願寺通.
 FOOM! FOM!
 QWAN! QWAAM!
「東軍の火箭攻撃だ!」
 BUH-FOOOM!
「衛生兵! 畜生,早く来い!」
「ファイア! ファイア!」
 HUM! HUM!
 SH-!
 TOSH-!
「ヒィィィ,お母ヂャン!」
「占領は後続に任せろ! 突撃!」
「敵の抵抗に構うな,突破しろ!」
「カス頭低くしろ お前はここを守れ!」
「俺についてこい! 行くぞ兵隊! 俺が戦争を教えてやる!」
 KAN! KAN!
 ZAP!
 ZAK!
 ZAM!
 CE'ZANNE!

「東軍は圧倒的兵力と新兵器・火箭とで,我が陣中央に攻勢をかけています」
「堀川まで兵を下げる.各自の判断で後退」
「細川勝久の屋敷の守りが手薄だ.ここへ集中攻撃! 勝久の首を取れ!」

 一条大宮,細川勝久邸.
 HUM! HUM!
 SHU!
 BUH-FOOOM!
「うわ!」
 URAAAAAAAAA!!
 KAN!
 KPANG!
 BTHUMP!
 BTHUMK!
「うわあ!」
「こら,逃げるな!」
「赤入道に負けてたまるか! 全速前進!」
「2時の方向に赤松政則勢3百!」
 赤松政則は正親町へ折れて下り,猪熊通りを駆け上げる.
 大宮猪熊は人家の密集する小路で,大部隊を展開できない.
 政則は細川勝久邸に入り,彼を救出した.
「脱出する」
「まだ生きてるぞ」
「うるせえ,もう助からねえよ」
 BO! BO!
「なんてことだ.寺や民家を次々焼き払いながら追撃してくる」
「止まるな! 突っ走れ!」

 5月27日,山名本陣.
「遺憾ながら戦況は悪化しております.
 このまま敵の攻撃が続けば,戦線の崩壊も時間の問題かと」
「ほー,オレ様に意見するのか.偉くなったな」
「じ……自分は,その……」
「タコッ!」
 BLAM!
「くそ! いつか殺してやる」
「前方監視を怠るな」
「誰一人生還できなくなるぞ」
「静かだ」
「2人ずつ交代して休む.4時間眠れる」

 東軍の更なる攻撃はなかった.
 勝元は,まだ無傷の騎兵4〜5千を有していたが,花の御所の守りを固めただけだった.
 その後,7月下旬〜8月に西軍の援軍が来るまで,大規模な戦闘は起こらなかった.

「なんか疲れた」
「若いの,どこの部隊だ?」
「戦争はこれから長くなるぞ」
「あんたは誰だ?」
「誰でもいい.仕事は注意深く,慎重にやれ.油断するな」
「生き残れよ,若いの」

 そして戦乱は,それから約200年続いた…
−−−−−−

 【参考ページ】
『日本の歴史を見る4 南北朝と室町政権』(小和田哲男監修,世界文化社,2006.7.1)

※ 応仁の乱も扱っているのに,合戦シーンが一つもないどころか,まるでレディコミみたいな不思議な漫画.

【ぐんじさんぎょう】,2010/02/13 23:00
に加筆改修


 【質問】
 応仁の乱はなぜ11年も続いたのか?

 【回答】
 多数の守護大名が利害関係から細川勝元側,山名持豊側にそれぞれ分かれ,小競り合いを散発的に繰り返したため,それらが全て撤退するまでだらだらと続いた.
 河合敦によれば,大規模な力攻めが行われたのは,応仁の乱勃発の最初の年(1466)だけであり,以後は両軍とも拠点に強固な陣地を構築し,大兵をもってしても簡単には落とすことができなくなったため,局地戦の小競り合いばかりが続いた.
 1472年には持豊が勝元に講和を持ちかけたが,細川一族の反対により講和はならなかった.
 1473年には持豊,勝元が相次いで死に,翌年にはそれぞれの子供である細川政元,山名政豊の間で講和が結ばれたが,有力大名がなおも在陣しており,小競り合いは続いた.
 1477年,最有力の大内政弘が撤退したことで,他の大名も撤退,ようやく乱は完全に終結した.

 山田智彦によれば,大内撤退の道筋をつけ,乱の後始末をしたのは実は日野富子だったという.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.226-231を参照されたし.


 【質問】
 桶狭間の戦いって,現在の処(一応)確定している情報というのは,何がどういう感じなんでしょうか?
 一般的に広まっている俗説と,学術的な研究結果の乖離が激しくて,ちょっと混乱しているというか…
 義元があれだけの大軍勢でも討たれた理由や,信長の奇襲云々の辺りもまだはっきり分かっていないんでしょうか?

 【回答】
 ぶっちゃけ,全然分かってない.
 確定情報つったらそれこそ,
「織田側が今川側よりも劣る戦力で攻撃仕掛けて,義元討って勝った」
という点のみ.

 ただ,俗説とやらも全く嘘ばっかじゃない.
 義元は実際に御輿に乗って,道中進軍してたし(足利将軍の分流だからって理由があったからだが) ,信長側の襲撃方法がどうあれ,今川側にとっては結果的に想定外の遭遇戦になって,指揮系統が混乱したのも確か.

 「数が少ない」「信長側の攻撃」そのものに色々条件が重なって,義元の首が挙げられる状況にまでなってしまったという点と,人数にバラつきはあれど史料的にいちばん信頼できる信長公記or日本戦史を鑑みるに,
「今川側は万クラスの大軍勢だった」
という点も信憑性が高いから,信長奇跡の勝利という一般的な認識は,全然間違っていない.

日本史板,2009/05/23(土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 うちの弟が「秀吉の墨俣一夜城の話は嘘」と言い張っているのですが,実際どうなんでしょう?

 【回答】
 一夜城は誇張された,後の講談などの話だから,当時実際に一夜城ができたか?と聞かれればNoという答えになる.
 当時の資料を見ると,どうやら墨俣の敵方の砦を奪取して,それを補修して再利用したというのが,一番有力らしい.
 その指揮にあたったのは秀吉ではなく,信長自身であったという事も分かってきている.

日本史板


 【質問】
 秀吉の水攻めの原点は?

 【回答】
 『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
 曰く,
「信長公記」巻五によると元亀3(1572)年,織田信長は浅井長政が立て籠もる小谷城への付城(敵の城を攻略する為に臨時に築かれた城郭)であった虎尾御前城から,宮部城までの約5.5kmの間に,幅三間半(約6.3m)の道路を普請.
 それを守る為,小谷側に高さ一丈(約3m)の土塁を築いて水を入れたとしている.
 この道路の普請の目的は
・小谷城の付城である虎尾御前と後方との連絡線確保
・虎尾御前の拠点を孤立させる事なく,小谷城への包囲態勢を維持する
にあったとしており,この様な策がとられたのは西進する武田軍を迎撃する為,帰国するにあたり,朝倉・浅井軍に対して万全の備えをする必要があったとしている.
 この時の中心的役割を果たしたのが羽柴秀吉(当時横山城代,虎尾御前城番)で,この時に敵味方を完全に遮断して敵を封じ込める為には,「兵」より「水」が効果的であり,長期戦になればその歩王が安上がりである事を学んだとしている.

グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 六条合戦ってどんな感じだったんですか?

 【回答】
 「信長公記巻二・永禄十二年,三好勢返す六条合戦の事」によれば,以下の通り.

 永禄12(1569)年正月4日,三好三人衆は畿内を流浪していた斎藤右兵衛太輔龍興・長井道利主従ら南方の諸浪人を糾合し,薬師寺九郎左衛門を先懸けに公方様御座所の六条本圀寺に攻め寄せた。
 門前はまたたく間に焼き払われて寺は重囲のただ中に落ち,敵が寺内へ突入してくるのも間近と思われた。

 このとき寺内にあって公方様を警護していたのは,細川典厩藤賢・織田左近・野村越中・赤座七郎右衛門・津田左馬丞・坂井与右衛門・明智十兵衛光秀・森弥五八・山県源内・宇野弥七らであった。
 この内,若狭衆の山県・宇野は隠れなき勇士と名高く,揃って敵将薬師寺の旗本勢へ突入し,並居る敵勢を切り崩して激闘した.
 しかし次々と押し寄せる敵兵の前にやがて力尽き,両名とも槍下にて討死した。
 他の御所勢も奮戦し,敵が突入してくればその都度これを押し返し,なかには敵勢三十騎を一度に射倒して敵が算を乱す場面も見られた。

 三好勢は攻めあぐねた.
 そのような中,三好左京大夫義継・細川兵部大輔藤孝・池田筑後守勝正・池田清貧・伊丹衆・荒木衆らの援軍がようやく到着し,桂川河畔で三好勢にぶつかった.戦は黒煙うずまく激戦となったが,来援軍は高安権頭ら敵方の大将を次々と討ち取って勝利を得,三好勢の撃退に成功した。

 戦の後,来援軍は岐阜の信長公のもとへ急使を送って変事出来を知らせた。

http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho5.html

 三好勢の攻めあぐねが敗因ではないかと.
 準備を入念にやるべきだったね.


 【質問】
 川中島はなぜ最終的には武田信玄の領土になったのか?

 【回答】
 河合敦によれば,領域経営の差によるものだという.
 上杉謙信は,征服地については降将にそのまま支配を認めることが多く,このため情勢が変わると,その降将が再び叛旗を翻すケースが後を絶たなかった.
 一方,信玄は征服地には必ず代官を派遣して,武田流の政策を展開したため,新地はしばらくすると武田色に染まったという.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.65-66を参照されたし.


 【質問】
 「敵に塩を送る」とは?

 【回答】
 「敵に塩を送る」とは,以下のような話です.

 武田信玄,今川義元,北条氏康は三国同盟を結んだものの,桶狭間の合戦の後,今川氏の衰退に乗じて武田信玄が蠢動を開始します.
 今川氏真は北条氏政と諮り,信玄の領内への太平洋沿岸で産出した塩の移出を停止する措置を執ります.
 これによって,武田の領国では忽ち塩飢饉となりますが,越後の上杉謙信が,武田信玄はにっくき敵だが,農民までその苦しみに追い込む事は見るに忍びないとして,信玄に書を送り,北越で産出した塩を牛馬の背に乗せ,糸魚川街道を通って,武田の領内に送り込まれ,塩荷駄は1569年1月11日に松本に到着.
 こうして,信玄は苦境を脱した…という美談です.

 ところが,この話を遡っていくと,元禄年間頃までで行き止まり,それ以前は全く出てこない話だったりします.
 とすると,この話,元禄に湧いた話になる訳ですが,元禄期には瀬戸内の良質の塩が格安で富士川を上り始めた時期に当ります.
 この塩は鰍沢で揚陸され,此処から馬背で甲府方面に送られるようになった訳で,従来,この地を独占していた日本海の揚浜製塩の業者や運搬人,そして,その塩から利益を得ていた領主にとっては強敵の出現となります.
 この為,こうした美談をでっち上げて,恩を売って塩を売るという商才を発揮したのではないか,と言われています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/11/06 22:34
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 長篠の戦(1575)で,織田信長が武田勝頼相手に,火縄銃部隊を3列にして発射して,発射にかかる時間を短縮していたと学校で習いました.
 ヨーロッパでも,火縄銃を使っていた時代,このような作戦は採られたのですか?

 【回答】
 まず,信長の三千挺三段撃ちですが,行われていなかったと言うのが,ここ15年ぐらいの定説に成りつつあります.
 まず,最も史料価値の高いと言われる太田牛一の「信長公記」には,この戦術に関する記述が全く無い事が有ります.
 この戦術の初出は,小瀬甫庵の「信長記」ですが,この書は長篠の合戦の50年も後に出版されており,多分に江戸幕府の思想的プロパガンダのバイアスがかかっており,資料的価値が低い事.
 当時の織田,徳川軍の鉄砲隊は,各家臣団の諸兵,傭兵等の混成部隊であり,複雑な統制の取れた行動が,訓練期間の足りなさも相まって困難であった事.
 長篠の陣が,山の稜線に沿って複雑に出入りしており,一人(少数)の合図に従って一斉射撃を加えるのが,無線の無い当時は不可能であった事が予測される事が有ります.
 では,何故に小瀬甫庵がその戦術を思い立ったかと言えば,中世の中国では,ボウガンの三段撃ちを行っており,儒学者である小瀬甫庵が「信長記」にそれを盛り込んだのでは,との説が有力です.
 そして,何故この三段撃ちが定説として流布されたかと言えば,旧陸軍参謀本部が,「日本戦史」編さんのおり,ろくに精査もせずに採用した為でした.

 長篠の戦いの真の革新的な所は,野戦築城を日本で始めて大規模に採用した事です.

http://www.mainichi.co.jp/hanbai/nie/nazo_nihon4.html#11
によれば,これは,恐らく宣教師からの助言が有ったものと思われます.

[quote]
 長篠合戦の72年前の1503年,ヨーロッパで野戦築城された陣地に拠(よ)って鉄砲を使った側が,攻めてきた敵をさんざんに破るという有名な戦いが行われた.イタリアのチェリニョーラというところで,スペイン軍がフランス軍を打ち破ったのである.
「好奇心の強い信長は,ルイス・フロイスらの宣教師から最新の軍事知識を仕入れ,長篠で実践したのでは」
と鈴木さんは推測する.
[/quote]

新所沢の三等兵 ◆Uk

 これが事実とすれば,情報を重視した信長らしいやりかたではないかと.

長篠の戦
(うそ)
(画像掲示板より引用)


 【質問】
 長篠の戦では,どうして自分等にとって不利な環境で戦うことを,武田は強いられてしまった訳?
 そういった武田不利の事前の状況は,どんな過程でつくりだされたの?

 【回答】
・織田・徳川の援軍が来る前に長篠城を包囲して落とすつもりが落とせなかった
 そのため十分な迎撃体制が取れなかった.

・側面をカバーしていた砦が徳川氏の酒井勢によって落とされ,退路を遮断される不安要素が出てきた.

・数で勝る織田・徳川の援軍が到着して,ただ退却するだけでは追撃されるおそれが出てきた.

・ある程度の戦果を上げないと,勝頼の権威に影響して,今後の家中の統制が難しくなる.

・以上の理由でやむをえず戦端を開いたが,やっぱり勝てずに退却中に多くの被害を受けてしまった.

……と,こんな感じ.

 戦死した有力武将の多くは,通説にいうように織田・徳川勢に突撃して鉄砲にやられたのでなく, 退却途中に追撃されて討ち取られたと記憶しています.

日本史板,2005/01/17
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 三木城は二年にわたって籠城したそうですが,何千人もが二年も籠城可能だったのですか?

 【回答】
 篭城って言っても,当初より三木城のみ孤立してたわけじゃない.
 神吉城・志方城などの支城や丹波の波多野秀治が持ちこたえていた間は,毛利からの支援が届いていたし,村重の謀反で秀吉のほうが孤立しかけていた.
 反旗を翻して2年間城に篭ってはいたものの,厳重な包囲下に有った期間とイコールではない.
 支援が途絶え完全に孤立するのは,落城前の数ヶ月間.

 支城攻略は,丹羽長秀・滝川一益等が行っているから,別所討伐には秀吉救援の一面があり,秀吉軍の攻撃を2年間持ち堪えたわけでもない.
(秀吉が自力だけで窮地を脱し,別所を滅ぼしたのではない)

 織田軍相手に2年持ったのは事実だが,兵糧攻めにあった期間が2年なのではない.

日本史板


 【質問】
 秀吉の三木城攻めと,ソロバンとの関わりについて教えられたし.

 【回答】
 算盤と言うのは意外に新しい計算用具で,1570年前後に日本に入ってきたとされています.
 そして,堺や長崎で作られ始めました.

 商業が発展したところ算盤あり.
 堺や長崎以外にも,算盤が独自の発展を遂げた地方があります.
 大商人を多数輩出した近江です.
 この近江でも,算盤の生産地として有名だったのが大津だそうです.

 近江に算盤が齎されたのは,1612年のこと,近江商人である片岡庄兵衛が,長崎奉行である長谷川左兵衛藤広に随行して長崎に下り,同地で明国人から算盤の見本と使用方法を授かって来たのが始まりです.
 片岡庄兵衛は,その後,幕府御用達となり算盤製造の元締めとなります.
 当初は知る人ぞ知ると言う形で始まったので,市場も小さかったのですが,後に珠算教育が隆盛を極めた京都に近く,交通の要衝でもあった大津は,後に高級品として名を馳せ,1794年の記録によれば,大津では算盤製造に携わる家が,数十から百家に及んだとあります.
 ただ,大津の算盤は技術水準が高く,高級品の扱いであり,行商による販売が主体で,かつ生産効率が低いので,中々大量生産が出来ていませんでした.

 長崎のものは中国算盤の影響を直接受けた様であり,長崎算盤は籤竹が丸竹,枠の両端は角張っていたり,少し外側に傾いているなど,随所に独自性を持っていますが,市場が小さいのと,日本列島でも大消費地から遠かったことから,主流になるに至っていません.

 もう一つの産地は,堺算盤です.
 『毛吹草』と言う書物には,「摂津名物中浜十露盤」と書かれていますが,実際に堺で何時頃から算盤が作られ始めたのかは,はっきりとは分っていません.
 堺の算盤は,戦国末期から織豊時代末期に掛けて隆盛を極め,江戸期に入ると鎖国の影響で,貿易船が長崎に限定されたこと,大和川の付け替えで堺の街は分断され,川から流入した土砂により,貿易港としての機能を失って行くにつれて,衰退の一途を辿っていき,1695〜1777年には算盤屋8軒の存在が明らかになっているに過ぎません.
 数十軒から百軒と書かれている大津に比べると非常に少ない数です.

 他にも,広島や雲州算盤なんかが生産地としては有名どころですが,現在の算盤生産の中心地と言えば播州に止めを刺します.
 従来は大坂冬の陣,夏の陣による畿内の争乱を逃れた大津の職人が,この地に来て産業を興したと言う説がありましたが,大津の算盤は,先述の通り1612年以降なので,産業として成り立っていない状態です.
 更に,1742年の職業別軒数の記録には算盤職人の名称が無く,需要増が見込まれたのは19世紀初め以後で,時期が遅く,また,分業の職人の呼び名も違う上,工法も異なることから,この説は現在では退けられつつあります.

 その代わりに浮上しているのが堺説です.
 1742年に書かれた三木の職業別軒数の資料によると,295軒の半数近くが大工であり,木工職を加えると半数を超えます.
 多くは出職で,居職としては紺屋26軒,形屋16軒であり,算盤の文字が出て来ません.
 三木に大工が多かったのは,秀吉が行った三木の乾殺しと呼ばれた城攻めにより,荒廃した街の再建の為に各地から大工が集まったからでした.

 しかし,街が再建されてしまうと,彼らは出職として各地で腕を振いますが,中には算盤の生産現場で働く者も出て来ます.
 算盤が普及してきて需要が増してくると,こうした人々を出職として雇うより,地元に留め置いて仕事をさせた方が効率的ですし,大工自身も居職となるので家族共々楽に暮らせ,卸商にしても,人件費が安く済むという利点があります.
 そこで,そうした部分に目を付けた大坂の職人が堺の技術を移転して,播州に現地生産拠点を置いたのが始まりとされている訳です.

 堺との関係で言えば,堺も三木も刃物の生産地として現在でも有名です.
 1742年の段階では,鍛冶職が12軒ありましたが,主に野道具鍛冶で,金物生産ではありませんでした.
 農家の生産力向上の為に,農機具の需要が増し,農家の家内工業から専業化して大工道具や刃物の主産地となったのが,1751〜89年とされています.
 古文書では,明和年間から天明年間に掛けて,三木の鍛冶職が増加しており,1783年と1785年には三木の鋸,包丁鍛冶職が堺の鍛冶仲間から大坂町奉行に訴訟をされた記録が残っています.
 つまり,この頃までには,既に三木の金具は市場に於いて一定の勢力を得ていた様です.

 この鍛冶職の盛んな状態を見て,出職となっていた大工や木挽き達が,居職の鍛冶屋に転職したケースもあったと言います.

 こうした鍛冶職の隆盛が,そうした商品を扱う商業の発展を促し,その道具立てとして用いられたのが算盤となったと考えられています.
 時代は下りますが,1857年には大都市である江戸や大坂に比べ規模の小さな三木で,算盤問屋が8軒もありました.
 何れもルーツは金物問屋で,作屋清右衛門は,1765年に三木金物問屋の草分けである豪商,三代目作屋黒田清兵衛時代に分家独立して,新たに黒田清右衛門家を興して金物問屋となり,1804年には江戸積問屋2軒のうちの1軒として三木金物をひっさげて江戸に進出,大いに繁盛しました.
 その後,堺との関係から算盤製造に転業し,現在に至っています.

 本家である黒田清兵衛家も,この清右衛門家に触発されて算盤販売に参入し,後に分家が黒田屋を名乗り,本家は作屋と改称しました.
 清兵衛家は既に,江戸の十軒店中の算盤問屋「丸柏家」と直取引していましたが,それにも清右衛門家の助言があったと考えられます.

 初期の算盤は,長崎,堺,大津の算盤が大きなシェアを占めていましたが,文化文政期の文化爛熟時代になると,寺子屋の増加による一般庶民向けの算盤の需要が急激に増え,従来の生産地では中々需要に応えられませんでした.
 此処に後発だった播州算盤などの付け入る隙があった訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2009/12/11 22:38


 【質問】
 なぜ鳥取城包囲戦(1580)は起こったのか?

 【回答】
 河合敦によれば,城主・山名豊国は織田方に降ったものの,それを良しとしない重臣らが山名豊国を追放して毛利方へついたため.
 山名豊国は圧迫を受けるとすぐになびく傾向があり,秀吉から「臣属するなら因幡一国を与えるが,逆らえば娘は磔」というアメとムチを提示され,娘を溺愛していた豊国は織田方に降った.
 しかし上述の重臣の反乱が起こり,吉川経家を城将として受け入れた.
 秀吉はそれを知り,入念な準備を整えた上で,翌年9月になって出立することになった.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.175を参照されたし.


 【質問】
 なぜ秀吉は鳥取城を無血開城させることに成功したのか?

 【回答】
 河合敦によれば,兵糧攻めと心理作戦で城兵の士気を挫いたという.

 包囲に先立ち,秀吉は商人を使って因幡の穀物を相場の数倍の値段で買い占めさせた.
 その上で秀吉軍は,城下の農民や婦女子が城へ避難するよう追い立てることで,篭城中の城内の食糧消費に拍車をかけさせた.
 また,城の周囲を空堀で囲い,城付近の河川には乱杭を打って縄を巡らし,夜は無数の松明で照らして完全包囲した.
 さらに,昼夜の別なく鐘や太鼓,鬨(とき)の声,不意の鉄砲銃撃や火矢で不安を煽りたて,これにより精神的におかしくなる城兵が続出した.
 さらにまた,これ見よがしに城外で市を開いて食べ物を売買させたり,歌舞をやらせるなどして厭戦気分を煽った.
 これらは包囲軍の士気を維持する上でも効果があった.
 加えて秀吉は,板塀に白い紙を張ることで,短時間に白壁作りの豪壮な本陣を作ったように見せかけ,敵城兵に本陣の強固さを信じさせた.

 4ヵ月後,飢えた城兵が人肉を食べ出したため,吉川経家は抵抗を断念.
 彼の切腹と引き換えに,篭城軍を全て放免するという条件で,城は落ちた.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.176-178を参照されたし.


 【質問】
 備中高松城水攻めについて教えられたし.

 【回答】
 『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
 曰く,
高松城は足守川の自然堤防の上に築かれた平城で,城と周囲の田圃(それも寄手が近づき難い深田)との比高差がほとんど無かった.
 天正10(1582)年4月,秀吉は南北と東に付城を築いた上で27日に攻撃に出たが,深田の為に数百人が討ち取られて敗退している.
 高松城を水攻めした理由としては
・高松城の西と南西は広く開けた平地であり,毛利軍の後詰との連絡を完全に絶つにはこの方面に土提を築いて水攻めにした方が効果的と判断した
(この方面に築かれたであろう付城は,高松城と毛利軍の後詰に挟撃される危険があったが,これにより後詰軍のみ相対すればよい)
・秀吉が備中入り(4/14)して間もなく梅雨入りした
(梅雨入りにより,周囲の深田が更に泥濘化して城方を有利に,寄手を不利にしたが,これを逆手に取り,城と田圃との高低差がほとんど無い事に注目した.
 松平家忠の「家忠日記」によると,水攻めが行われた5月のうち,雨天が14日(1〜5,12,14〜16,18,24〜26,29)あった.
 家忠はこの時期,遠江と三河にいたが,備中高松城についても十分参考となるデータだとしている)
といった理由を挙げている.

 また,この水攻めは高松城攻略に留まらず,後詰決戦(国境の城を攻めた時に後詰にやってくる敵の大名との間で行われる主力決戦)戦略の不可欠な一環で,高松城を攻囲する事で毛利軍主力を誘引し,信長本隊の到着による後詰決戦を想定していたとする説も紹介している.
 秀吉のこの水攻め戦略は,「従来の付城戦術を現地状況に即して創造的に発展させたものといえそうだ.」としている.

グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 秀吉軍が備中高松城を水攻めしていた時,城の西には毛利軍が既に到達していたと聞きました.
しかし,高松城を間に挟んで両軍がにらみ合っている間に高松城落城.
 毛利軍が高松城が粘っているうちに,秀吉軍に対して大規模な攻撃をしなかったのはなぜでしょうか?

 【回答】
 毛利と秀吉は足守川をはさんで直接対峙する形になっていた.
 高松城は完全に水没していて戦える状態にはなく,城兵の支援は期待できない.
 戦力的に,秀吉とのガチンコ勝負で勝てるかどうかも分からないかった上に,秀吉の求めに応じて信長が直接援軍に来るという情報もあって動くに動けなかった,というところらしい.

 こんなかんじ
http://www2.sanmedia.or.jp/xplus/kensyou/bittyu.htm

日本史板


◆◆本能寺の変以降


 【質問】
 明智光秀が本能寺の変を起こした理由として考えられるものは?

 【回答】
 『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著,中公新書,2007.7).
 信長の天下布武の過程で失脚や粛清されたり,謀反を起こした家臣や外様を通じて,信長の戦略や素顔に迫る一冊.

 読んでて信長に対し,思わず思った事.「あんたはどこのスターリンだよ」(笑).

 興味深かったのが明智光秀についての考察.
 光秀の本能寺の変を起こした要因として,

・信長の四国政策の変更(光秀の取次ぎで長宗我部家とは同盟関係にあったが,それを破棄.遠征軍を送ろうとし,光秀はハブにされていた)

・光秀の重臣斎藤利三の問題(利三は稲葉一鉄の家臣だったが,光秀の下に転仕.信長は光秀,利三側に厳しい裁定を下した)

に加えて,

・光秀は当時67歳の高齢(通説の55歳は怪しい,としている)で嫡男の光慶はこの時13歳.老い先短く,また信長と政策上の衝突もある中で,信長は光慶に丹波はおろか坂本城を継がせてくれるのだろうか.
それならいっその事….ということではないか,と考察しています.

(ただ個人的な疑問として,光秀には娘婿の秀満がいる訳でして.光慶にすぐに継がせるのは無理でも,秀満が後見人になるとか,光慶が成長するまで秀満にリリーフで跡を継がせる,とか光秀は考えなかったのかな,とか.
 まあ,無理だと考えたのかなぁ)

 そして終章では,信長の性格(短気で傲慢,強い猜疑心や執念深さ)が一族や家臣団,征服先の国人領主への粛清や外様の謀反に繋がった,としていますが…
 そういったのは他の戦国大名でもあったし….

 まあ,面白い一冊だと思います.

グンジ in mixi,2008年03月23日13:48

▼尾張なリズムで
ギラつく殿は
天下を欲しがる
野望のサイン

ジョーラクめざした
背後のスキが
アセるぐらいに
包囲にはまる

よこしまな明智が
DANCIN' IN THE SUN
この寺で あばれて
止まらない
野蛮な対応(オーノー)

A CHI CHI A CHI
燃えてるんだ廊下
もう A CHI CHI A CHI
キリシタンだろうか?
WOH, UPSIDE INSIDE OUT
市を泣かせても
A CHI CHI A CHI
それは太陽が
させたことだよ
夏の太陽が

ニュース速報板 in mixi,2010/11/24(水)


 【質問】
 本能寺って軍事的な意味はあった場所なの?

 【回答】
 本能寺は種子島氏の菩提寺.
 つまり鉄砲の最初の伝来地であり,鉄砲大量生産のライセンスと硝石の輸入大窓口だった種子島氏の,本土首都である京都の販売窓口代理店であった訳.
 硝石は堺で輸入販売されていたが,織田は種子島氏を重用し,硝石貿易の独占を図っていた.

 ちなみに,これに対して武田あたりは自前で鉄砲火薬製造を図っていた.

------------------------------
 硝石を得にくい位置に本拠地をおいていた信玄や謙信だが,信長の鉄砲隊が強化されていくのを指をくわえて見ていたわけではない
 彼らはまもなく「塩硝」と呼ばれる硝酸カリウムを用いるようになった.
 上杉家の古文書の中には,謙信の時代に塩硝を使った火薬の製法にかかわる永禄二年(1559)の文章が見える.
 後北条氏に関係する天正17年(1589)の文章には,下野国の知内町(栃木市)から四貫八二九文(約50万円分)の塩硝が年貢として納められた事を示す記述がある.
 信長の死後,中国人やポルトガル人は「硝石の輸出をやめれば日本の鉄砲は役にたたない」とあなどっていた.しかし,塩硝が量産されるようになった事により,鉄砲を多用する日本の・・

《 海外貿易から読む戦国時代 》武光 誠
----------------------------

 その火薬の性能・品質については「???」だけどね.

日本史板

本能寺上空を哨戒する魔女
(天狗下駄着用)

(野上武志 in mixi,2009.7.8)


 【質問】
 本能寺の変のとき兵士たちは,自分らが攻撃している相手が信長だと知っていたの?

 【回答】
 光秀の部下の回顧録では,本能寺が何処なのかも誰を討ちに行くのかも,まるで解らないまま進軍してたらしい.
 家康を討ちに行くのだろう,と皆,憶測していたようだ.

 もし本当の事がわかっていたら,俺だったらこっそり軍を抜け出し,重い鎧を脱ぎ捨てて本能寺に向かって全力疾走.
 本能寺についたら信長にご注進,難を逃れた信長から後日たっぷり褒章をもらうだろうからね.

 しかも史実では,明智軍は本能寺へ進撃中に,であった人間を片っ端から切り捨てたらしい.出くわした人間にとっては,全くの災難だが.

 だから,明智が
「敵は本能寺にあり!」
などと叫ぶはずもない.
 これは頼山陽か誰かの創作.

日本史板


 【質問】
 本能寺の変のとき,秀吉以外の信長配下の将は何をしてたの?

 【回答】
 柴田は上杉と対峙していて動けなかった.
 滝川は動いたところを北条に攻撃されて壊滅した.
 丹羽・信孝は兵が逃散してしまい,秀吉軍に合流した.

日本史板


 【質問】
 濃姫,どうなった?

 【回答】
 『信長公記』によると,本能寺の変後,蒲生賢秀が安土城から信長の妻子を避難させたという.
 この妻子のなかに「安土殿」という女性がいて,これが濃姫ではないか,とする説.

 安土殿という名は織田信雄の分限帳に出てくる.
 この女性は信雄が面倒を見て慶長十七年に亡くなったという.さらに,大徳寺総見院から濃姫のものとされる墓も見つかった.法名は養華院殿要津妙玄大姉.

 ま,濃姫については,結婚したが即離婚したという説から,早死に説まであるけど,決定的な史料はまだ見つかっていないようだ.

日本史板


 【質問】
 戸次川(へつぎがわ)の戦いについて教えてください.

 【回答】
 肥前の竜造寺,豊後の大友,薩摩の島津の三大勢力による九州の覇権争いは,まず竜造寺家が脱落.
 その後は大友家と島津家の二大勢力の争いとなって行ったのですが,その両軍が雌雄を決すべく最後に戦った場所が,この戸次界隈.

 1586年(天正14年)秋,豊後の国を目指し北上する島津軍に対抗するため,豊臣秀吉に援軍を乞うた大友軍(大将は大友宗麟の子,大友義統).
 土佐から長宗我部元親,信親.讃岐からは十河存保,仙石久秀等の援軍が到着し,島津家久率いる約2万の軍勢を迎え撃つことになったのですが,急ごしらえの豊後四国連合軍の連携の悪さか,島津軍が得意とする「釣野伏」の戦術により,長宗我部信親を始めとする多くの武将が討ち死にし,結果的に大友軍の大敗に終わってしまったという結末...
 これにて九州の覇は島津家のものになった...かと思いきや,その後の豊臣秀吉による九州侵攻により,さしもの島津家も恭順の意を表することとなったのですが,その舞台のことは機会があればまた後日に.

国道10号線脇にあります標柱
これが無ければ,この場所が古戦場跡だとは気付かないんですよ〜.


かつての合戦が行なわれていた場所.
画像の手前が島津軍,そして奥には大友,長宗我部軍が陣取っていたようです.


橋を渡り,川向こうから見る景色.
のどかな風景が広がっていますが,400年程前に壮絶な戦いが行われていたとは,想像できませんよね.

カブリモノスキー in mixi,2009年07月21日21:36
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「美濃返し」って何?

 【回答】
 1583年の賤ケ岳の戦いでは秀吉軍は,敵の来襲を誘うために,いったん大垣の織田信孝軍に向かい,これを制圧した.
 それから大岩山砦などの陣所の落城を知って,越前に取って返した.
 これが「美濃返し」.

 その時の行軍速度が丸一日で50kmといったところ.
 徒歩主体の軍の行軍速度としては,当時としては異常だったそうです.

軍事板
加筆修正部分:青文字


 【質問】
 竹ヶ鼻城水攻めについて教えられたし.

 【回答】
 秀吉が徳川・織田連合軍と戦った,小牧・長久手の合戦の際に行われた戦い.
 天正12(1584)年5月10日,織田信雄方の竹ヶ鼻城を包囲.竹ヶ鼻城は木曽川と長良川の乱流域の中にあり,東側には木曽川支流の足近川が流れていたので,桑原輪中の堅固な堤防が築かれていた.
 秀吉は水攻めを決断し,翌11日から工事を開始して短期間で完成させると足近川から注水.
 また,ちょうど梅雨時期にあった事もあり(「家忠日記」では5月だけで最低8日降雨があった),二ノ丸まで冠水する.
 水攻めの最中,攻囲軍の筒井勢の堤が切れて水位が低下するハプニングが発生したが,直ちに修築して再度注水.城方は6月7日に和議申し入れ,10日には開城している.
 この間,徳川・織田連合軍も本多忠勝,織田長益,滝川雄利らが後詰に向かったが,木曽川で撃退されている.
  『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』内,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)によれば,竹ヶ鼻城攻めは濃尾国境(とりわけ木曽川を境にした)の勢力圏確定の為の限定的な攻勢作戦の一環であり,水攻めが行われたのは
・水攻めに適した地形である
・確実な開城が保証される事で勢力圏確定が容易になる
と判断したからではないか,としている.

(ただし,この竹ヶ鼻城を水攻めについては,そうする事によって徳川・織田軍を誘引し,後詰決戦を狙った物であり,家康らは籠城軍を鼓舞はしたが,援軍には赴かなかったので,目的の達成はならなかった,という話もある(学研「戦国の堅城」P.124))

グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太田城水攻めについて教えられたし.

 【回答】
 小牧・長久手合戦の際,根来衆や雑賀一揆衆(雑賀衆と雑賀三搦(みからみ)衆)が徳川方に付いて,泉州岸和田城に押し寄せ,あわよくば大坂城を衝こうとした事に怒った秀吉の紀州征伐の際に行われた戦い.
 和泉国は根来寺による「泉州知行」と言われるぐらい,根来寺や雑賀一揆衆に支配されていた.
 紀州国も紀州の守護であった畠山氏の権威は,凋落の一途をたどっており,国内を統一する戦国大名も出現せず,小領主連合(=一揆)の勢力が強かった.
 雑賀三搦衆に属する太田党も,「宮郷十二ヶ村並太田郷ハ地頭ナク我持ノ所也」(「太田水責記」)と呼号していたとしている.
 天正13(1585)年3月下旬,泉州南部の根来衆,雑賀一揆衆の城砦をは次々と落とされ,根来寺も焼失.太田党は遠征軍の来襲を受け,一族郎党や妻子を挙げて太田城に籠城.
 大田城は「東西ハ二町半,南北ハ二町」(1町=109.09m)とさして広くない平城だが周囲に大堀を廻らし,四方に櫓を立てた,なかなか堅固な城だった.
 秀吉軍6000余人の攻撃は,太田党の銃撃により,主だった者51人,雑兵数百人の死者を出して失敗.
 これに激怒した秀吉は水攻めを命じ,3月26日から始まった大堤の普請は人海戦術(動員された人夫は47万とも17万ともいわれる)により短期間で完成.
 4月1日から注水が始まり,3日には満水となった.
 城側も堤を築いて対抗したが,長期にわたる水攻めで地面から水が浸透して浸水.
 9日には宇喜多勢の堤が決壊して多数の溺死者を出し,復旧に数日要する事態が発生したが,城方の窮状は限界に達し,22日には開城を申し入れる.
 秀吉はその代償として,先日の合戦で討ち死にした51人分の首級を要求.
 城方は太田左近をはじめ,大将分36人を含めた51人分の首級を差し出し,24日に城兵が退去.

 雑賀五荘ではこの他,中津,吹上,小雑賀などで雑賀衆が籠城し,落城・開城しているが,太田城だけ水攻めにしたのは,『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』内,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)によれば,
「あえて圧倒的な大軍と物量を誇示することで,中央政権の支配を拒む紀州惣国一揆は今後断じて許さないという,天下人としての強い意思表示ではなかったか」
としている.

グンジ in mixi,2010年08月15日12:08
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 秀吉の越中出陣について教えられたし.

 【回答】
 これについては,
大学院の後輩が発表した論文
萩原大輔「関白秀吉越中出陣に関する基礎的考察」(『富山史壇』162,2010年)
がおもしろかったので,これを紹介したい.
 内容はタイトルのとおりなのであるが,もう少し詳しく説明しよう.

 着々と全国統一を進めていた羽柴秀吉は,天正13年(1585)7月11日,関白に就任する.
 翌7月,秀吉は越中国の佐々成政を討伐するため,同国に出陣した.
 これは,秀吉の関白としての初めての軍事行動であった.

 しかし従来,秀吉の越中出陣について,実証的に丹念に復元した研究はないそうである.
 この論文は,その基礎的な事実について検討したものである.

 この論文ではまず,このときの秀吉軍の総兵力について,約7万人と推定している.
 この数字は,秀吉朱印状等の古文書,当時の僧侶の日記,宣教師ルイス・フロイスの報告といった一次史料に基づいて算出しており,説得力があると思う.
 従来は,江戸時代の軍記物等から10万人とされていたようで,この点まず新しい実証的成果があったと考える.

 そして,秀吉軍の先遣隊の出陣から,秀吉の京都帰還までの日程や経過を,一次史料に基づいて丹念に復元しており,堅実な実証を行っていると言える.

 また,この出陣は,佐々成政の討伐以外にも,複数の目的があったそうである.
 まず,織田信雄を名目上の総大将とすることにより,秀吉と信雄が名実ともに主従関係となったことを,天下に視覚的に明示する目的が挙げられる.
 また,秀吉が関白に就任する直前の同年7月5日,100年に一度と言われるほどの大地震が近畿から東海地方にかけて発生していたそうで,発足間もない秀吉政権の不吉な前兆と,世の人々に思われていた.
 この出陣は佐々成政を圧倒することで,その不安を払拭する目的も兼ねていたと著者は論じる.

 結果的に実現しなかったものの,佐々成政の居城であった富山城で,越後国の上杉景勝と会見する構想もあったそうである.

 文章も簡潔平易で,私のような門外漢にもわかりやすかったのも,この論文の長所である.

 個人的には,この遠征中,秀吉が眼病を患い,本来は花押を記すべき文書でそれを行えず,やむを得ず朱印で代用したことを詫びている事実の指摘が興味深かった.

「新はむはむの煩悩」,2010年9 月 4日 (土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 忍城水攻めについて教えられたし.

 【回答】
 『歴史群像アーカイブVol.6 戦国合戦入門』にて,桐野作人「秀吉流「水」戦略」(歴史群像1998年冬春号初出)が,これについて考察している.
 曰く,
天正18(1590)年,秀吉による小田原攻めの際,北条側についた成田氏長の忍城には侍足軽から百姓町人,女子供など3740人が籠城.(城主である氏長は北条氏直の命により小田原城に入城)忍城は関東七城に数えられる堅城で,城の周囲に流れる元荒川,星川が天然の要害をなし,「此の城大沼を抱え,四方道窄く,左右深田,而して大勢進退自由ならず」(「忍城戦記」)という状態だった.
 秀吉軍23000余人(総大将は石田三成.大谷吉継,長束正家など譜代武将と佐竹義宣,宇都宮国綱など関東の諸大名)が6月1日に忍城を包囲.
 5〜6日に攻撃を行うが守りが堅く,城壁に近づけなかった.
 三成は城の東南にある丸墓山から,周囲の地形を観望して水攻めを決定.
 この決定については遅梅雨の時期でもあり,妥当な戦術眼だとしている.
 7日から開始された普請は,数万人を動員しての工事で14日には完成.
 荒川,利根川の水が引き入れられたが,「家忠日記」(当時,松平家忠は小田原に在陣)によると5月中旬から6月5日まではほぼ連日雨だったのが,土提完成後はほとんど降らなかった.
 三成はこの城攻めで「豪雨により土提が崩壊し,水攻めが無に帰した」として「いくさ下手」との評価が定着したが,これについては
・史料によって豪雨のあった日は16日説と18日説があるが,「家忠日記」では両日とも降雨は無く(間の17日に夕立があったのみ),またこの合戦の基本史料である「忍城戦記」には豪雨とそれによる土堤崩壊の記述が見えない
・忍城開城について6月27日説,7月17日説があり,小田原城開城後である後者が通説になった感があるが,氏長が6月20日頃に秀吉の勧めで投降を承諾している事実から,これが忍城に伝えられた事,そして折からの水攻めによる苦衷が相まって,6月27日に開城したとする方が合理的な解釈だと思われる
として,忍城の水攻めは近世以降,「三成凡将説」を強調する為,その意義が軽視されているように感じられ,むしろ三成は秀吉から学んだ水攻めの定石を過不足無く遂行して当然の結果を得たように思えるとしている.

(ただ,この水攻めについては三成の発案ではなく,秀吉からの命令による物だとの話もある)

グンジ in mixi,2010年08月22日18:56
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太閤検地の際,石田三成はどうやって島津義久を助けたの?

 【回答】
(史実かどうかは分かりませんよ〜  話し半分ぐらいで (w`;

 秀吉による天下統一が成り,太閤検地が行われるコトになったのですが……

 日本の端っこ,薩摩の地で島津義久が泣いていた.

       ____
     /      \
   /  _ノ  ヽ、_  \  薩摩って,まだ地侍の力が強いんだお!
  / o゚((●)) ((●))゚o \  
  |     (__人__)'    |    検地なんてやったら,反乱がおきるお!
  \     `⌒´     /


 そこで義久は,秀吉の懐刀で,この検地の実質的責任者であった石田三成に泣きついた.


       ____
     /      \
   /  _ノ  ヽ、_  \
  /  o゚⌒   ⌒゚o  \    三成,助けるお!
  |     (__人__)    |
  \     ` ⌒´     /



   / ̄ ̄\
 /   _ノ  \
 |    ( ●)(●)
. |     (__人__)  ムカツクけど,
  |     ` ⌒´ノ   常識的に考えて仕方がないから,助けてやるよ.
.  |         }
.  ヽ        }
   ヽ     ノ        \
   /    く  \        \
   |     \   \         \
    |    |ヽ,二⌒)、          \



   / ̄ ̄\
 /   _ノ  \
 |    ( ●)(●)
. |     (__人__)  村の数を数えて教えてくれ!
  |     ` ⌒´ノ   
.  |         }       あとは,こちらで適当に処理すっから……
.  ヽ        }
   ヽ     ノ        \
   /    く  \        \
   |     \   \         \
    |    |ヽ,二⌒)、          \


       ____
     /      \
   /  _ノ  ヽ、_  \
  /  o゚⌒   ⌒゚o  \    助かるお!
  |     (__人__)    |
  \     ` ⌒´     /


 こうして,義久は領内の村の数を数え,三成に伝えた.
 その数を元に,三成は60万石と云う検地結果をでっち上げた.
 ただしコレは,当時の島津領内の実質石高より,20万石も多いモノっだった……



                これが三成の単純な計算ミスだったか,
        / ̄ ̄\      それとも,何かの思惑があったのかは分からない……
      /       \       
      |::::::        |  しかし,三成が,義久から感謝されていたのは,
     . |:::::::::::     |                        史実のようである.
       |::::::::::::::    |          ....,:::´, .  
     .  |::::::::::::::    }          ....:::,,  ..
     .  ヽ::::::::::::::    }         ,):::::::ノ .
        ヽ::::::::::  ノ        (:::::ソ: .
        /:::::::::::: く         ,ふ´..
-―――――|:::::::::::::::: \ -―,――ノ::ノ――  
         |:::::::::::::::|ヽ,二⌒)━~~'´
 


ベタ藤原 in mixi,2008年10月05日00:53
〜2008年10月05日 22:10

▼ 史実では,石田三成が検地に当たったのは文禄3年九月の検地です.この時,三成の家臣が薩摩・大隅・日向に出向き,直接検地に当たりました.
 この検地は島津義弘が,石田三成の扱いで検地をしてもらうように頼んだものでした.

 太閤検地では,徳川家康や毛利輝元など家臣掌握が可能だった大名は,大名自身が検地を行い,結果を申告しました.
 島津家の場合は自力での検地が危険だったため,中央政権による検地で反発を最小限にとどめようとしたということのようです.
 また,当時の検地で五割から三割ほど石高が増加するのは当たり前だったそうなので,特に三成が配慮したというわけではなさそうです.

 ちなみにこの時,島津家の領地から太閤蔵入地として一万石,石田三成に六千二百石,梅北一揆の後に薩摩仕置きを行った細川幽斎に三千石が分け与えられています.

詳細は山本博文著「島津義弘の賭け」

ばっし in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 TV番組「大奥」で,キリスト教徒迫害の理由について,宣教師たちが日本をヨーロッパの植民地にしようとしているから,とかいうような話をしていたけど,本当ですか?

 【回答】
 キリスト教徒追放は,次のような経緯によるものです.

 秀吉は天正15(1587)年に,いわゆる伴天連(バテレン,宣教師)追放令を九州平定後の博多で発布しています.
 この法令は,キリスト教を邪宗とし,宣教師の20日以内の国外退去を命じたものです.
 「日本は神国たる処」,「神社仏閣」を破却し,「日域之仏法を相破」る様な真似をして,「天下よりの御法渡」にも従わない.よって追放する.
 しかし,商売人でなくとも,「仏法のさまたげを成ささる輩」は渡航を許可する,といった主旨のものです.
 「神国」とは仏の垂迹した神々の国の意.
 これは幾分観念的ですが,他にも切支丹への強制的改宗・高位の人物の改宗の制限,海外への日本人の売却の禁止,牛馬の屠殺禁止の盛り込まれたものもあります.

 出された背景の一つとして,大村純忠が天正8(1580)年に長崎を教会に寄進していたことがあります.
 パレード達が信者を扇動して神社・仏閣を破壊し土地を占有していることを秀吉は好まなかったのでしょう.

 しかし,貿易を奨励しているので,この追放令は緩やかなものでした.
 この時,キリスト教の信仰を捨てなかった播磨明石城主高山右近は領地を取り上げられましたが,一般人の信仰は「その者の心次第」として禁じませんでした.

 同時に,秀吉は宣教師に,海外に売られた日本人を直ちに帰国させるよう命じており,まだ日本の港にいる日本人奴隷は買い戻すよう命じています.
(秀吉は,日本人が人身売買に関わっていることも認識しており,そうした仲介人や船主を磔刑としています)

 天文年間,弘治年間頃から主に九州の日本人,特に女性が売買の対象となっていました.
 弘治元年十月(1555年11月),マカオの宣教師カルネイロは,多くの日本人がポルトガル商人に買われ,マカオに輸出されていると手紙に記していますが,彼ら宣教師は人身売買を,日本への布教を妨げると判断し,それを受けたポルトガル国王は,元亀元年三月六日(1570年3月12日),ポルトガル人が日本人の売買に関わることを禁止しました.
 合わせて日本人奴隷の解放と,それに反する者の全財産を没収することが決まりました.
 しかし,一部の宣教師が人身売買に反対しても,イエズス会自体が人身売買を許可しており,国王の発布した法であっても拘束力は弱く,その後も日本人の売買は続いています.
 イエズス会が禁令を出したのは,慶長年間になってからです.
 慶長元年,イエズス会は奴隷商人への破門を議決.
 慶長二年四月,インド副王はポルトガル国王名で,日本人奴隷の売買,日本刀の輸出を禁じました.
 このようにイエズス会も日本人売買禁止令を出しますが,従うポルトガル人は少なかったようです

 慶長元年(1596),サン・フェリペ号が土佐沖で座礁.この船には三百名近い黒人奴隷が乗っていました.
 増田長盛は日本の慣習法により,サン・フェリペ号の積荷を接収しようとしましたが,船員はこれに激怒しスペインの領土が西洋からアメリカ大陸,アジアに及んでいると脅しました.
 これは長盛を恫喝するためでしたが,この時船員はさらに
「布教によって内部に味方を作る戦略が領土拡大につながった」
と告げたのです.
 フィリピン総督もサン・フェリペ号の積荷接収に抗議しましたが,秀吉は
「貴国は布教によって他国を制圧していると聞く.
 日本人が貴国で神道を説こうならば貴国の王は喜びはすまい.これを考えろ.
 サン・フェリペ号の積荷は返そうとしたが,伴天連追放令に違反しているために接収した.
 この判断に誤りはあるまい.
 貴国において貴国の法に従わない日本人がいるならば,それは大いに裁いてもらって結構である」
と言い放ちました.

 徳川政権下で出された伴天連追放文は,秀吉による追放令より厳しいものになっています.
 英・蘭両国人の渡来もあり,侵略的意思がはっきり示された為でしょう.
 なお17世紀にインドを訪れたフランス人医師ベルニエは,ポルトガル人が侵略的行為によって追放された国の中に日本を挙げています.
 他に,東南アジア・インドにもペグー他ポルトガル人を追放した国がありました.

(山野野衾 ◆a/lHDs2vKA 他 in 日本史板)

+

 実際,日本での当時のキリスト教布教には,半強制的な布教,寺社破壊など問題も多く,また,当時のイエズス会副管長コエリョは,長崎をマカオやマニラのような植民地拠点にしようという野望を持っていたそうです.

 以下引用.

[quote]

■2.キリシタン大名・有馬晴信■

 そもそも島原の地の旧主・有馬晴信がキリシタンに改宗したのは,現実的な理由であった.近隣を支配する強大な龍造寺隆信に対抗するために,キリシタン大名の大友純忠と同盟する事を決意し,そのために改宗を願い出た,とルイス・フロイスは『日本史』に記している.

 洗礼の意思はイエズス会から派遣されていた巡察使ヴァリニャーノに伝えられ,晴信は領内の寺社を破壊し,領民を改宗させるという約束の上で,洗礼を受けた.
 ヴァリニャーノは晴信に兵糧と鉛,硝石などの軍事物資を提供して,支援を行った.

 晴信は約束通り,領民たちに宣教師の説教を聞くことを要求し,どうしてもデウスの教えを理解しようとしない者は領国から出て行くように命じた.

 晴信の庇護のもとで,宣教師たちは日本の寺院の仏像を破壊し,仏教徒の目の前で放火したりした.またキリシタンと僧侶の間に争いが起きると,晴信は僧侶を処刑すると脅し,財産を没収した.領民はこれを聞いて震え上がり,たちまち千人を超える人々が改宗したという.

 晴信は宣教師の求めに応じて,領民から少年少女を取り上げ,インド副王に奴隷として送る,ということまでしている.

■3.持ち込まれた悪習■

 こうした仏教・神道迫害は,他のキリシタン大名の領地でも広く行われた.そのために天正15(1587)年,豊臣秀吉は伴天連(バテレン)追放令を出した.
 その理由は,第一に宣教師による信仰の強制,第二にキリシタンによる寺社の破壊と僧侶への迫害,第三に宣教師たちの牛馬の肉食,第四にポルトガル人による奴隷売買であった.

 日本の在来信仰では,領主が権力や武力を用いて,特定の信仰を領民に強制するようなことはなかった.
 最初に来日したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルは,いちはやくこの点に注目し,日本では男女共に「各人が自分の意思に従って」宗派を選ぶのであり,「誰に対してもある宗派から他の宗派に改宗するように強要することはしません」と報告している.
[1,p207]

 同時期のヨーロッパでは,1618年から1648年まで,ドイツを舞台にして周辺諸国を巻きこんでプロテスタントとカソリックが戦った「30年戦争」が起こった.いわゆる宗教戦争の最大のもので,戦場になった地域では敵宗派の住民の虐殺,暴行略奪,住居の破壊などで人口の30パーセントから90パーセントが失われたという.
 こうした悲惨な経験から,ヨーロッパでは,信教の自由と政教分離といった近代的概念が成立していくのだが,ザビエルの観察に見られるように,これらはすでに当時の日本社会では実質的には実現されていたものであった.

 また,有馬晴信,大村純忠,大友宗麟らキリシタン大名が竜蔵寺や島津との戦争で窮地に陥った時,副管区長コエリョは秀吉に遠征を進言し,そうすればキリシタン領主等を全員結束して,秀吉の味方につけることを約束した.
 秀吉はこの発言から,イエズス会がキリシタン大名を糾合して,日本の支配者になろうとしているのかもしれない,という警戒を抱いた.
 実際にコエリョは長崎をマカオやマニラのような植民地拠点にしようという野望を持っていた.[a]
 キリシタン宣教師らは,権力者による信仰の強制,宗教を戦争に利用するというヨーロッパ中世の悪習を日本に持ち込んだのである.

 徳川幕府も慶長18(1614)年,禁教令を出して,「キリシタンの徒党」を追放することを宣言した.
 その理由は,
第一に日本で「邪教」を弘めて日本の国を自分たちの手で領有することを企んでいることであり,
第二に「神国・仏国」日本の信仰,道徳,法に反し,罪人を崇めるような非道の行いをしていることであった.「非道の行い」とは,僧侶・神官への迫害や寺社の破壊を指すのであろう.

 有馬晴信の子・直純はこの2年前の慶長16(1612)年から宣教師に領内からの立ち退きを命じ,教会を破壊した.
 やがて直純は日向に転封され,大半の家臣を引き連れて移住したが,一部に牢人となって残ったキリシタンがいた.

[/quote]

【ロシア政治経済ジャーナル】,7 Mar 2006
参考文献と推定される書籍:神田千里著『島原の乱』,中公新書,H17


 【質問】
 結局,日本でキリスト教が普及しなかったのは,キリシタン弾圧のせい?

 【回答】
 要因の一つではあります.

 まず,日本の場合,公認の宗教として神道と習合した仏教が存在し,土俗の信仰も,仏教+神道の枠組みの中に収まるため,特に新しい宗教が必要とされたわけではないこと.
 江戸初期のキリシタン弾圧と禁教の体験から,忌避感があったこと.
 明治以降のキリスト教が士族やインテリ層を中心に広まったため,土俗的信仰を容認せず,また現世利益を否定する傾向が強かったため,民衆の感情に訴えるところが少なかったこと,などです.

 韓国と比較すると分かり易いかと.
 朝鮮について言えば,李氏朝鮮では儒教が保護され,仏教は弾圧されていたこと.
 儒教が民衆救済の宗教としては機能しないことから,新しい宗教が求められていたこと.
朝鮮でのキリスト教は現世利益も肯定するような土俗的で大衆的な内容であったこと
……などが朝鮮でのキリスト教の普及に繋がったというのもあるでしょう.

 これらのような要素が日本にももしあれば,日本でもキリスト教は大ブレイクしていたことでしょう.
 そうなっていれば,ドイツのようなキリスト教民主連合という政党が日本にもあって,自公連立政権ではなく,自基連立政権なんてものがあったかも.
 あと,靖国神社の代わりに靖国教会とか.
 ローマ法王庁13課の日本支部があったりとか.
 HENTAI漫画家の大粛清とか.

世界史板・改


 【質問】
 もし秀吉により家康が東北転封だったら,どうなってたでしょうか?

 【回答】
 徳川の関東転封は,北条攻めの恩賞として石高の加増と同時になされたものです.
 徳川に与えられた関東250万石と同等の石高を当時の東北で与えようとしたら,関東での面積を上回る領土を与えねばなりません.
 当然,地生えの大小名を多数転封させる必要が生じます.
 伊達や最上などもどこかに移さねば,東北で250万石はまず捻出出来ません.
 ここまで乱暴な転封となると,徳川がどうこうより,恭順したばかりの奥羽諸大名の動向が最大の問題となるでしょう.
 関東への転封は,攻め滅ぼした北条氏の遺領だから,在地勢力に対する遠慮はいりませんでした.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 秀吉が家康を関東でなく,東北に飛ばしてたら,今の東京は存在してる? 東北は発展してる?

 【回答】
 江戸東京の現在の姿は,関東平野の中心ではあるが小山と入り江ばかりだった地に,莫大な開発を投入した結果なので,ここに入府する天下統一権力がない限り,とても都市づくりには資金も労働力も足りない.

 日比谷の入り江も埋め立てられないし,神田山もそのままで,神田川なんて切り通しは作れないし,関東平野の中心ではあっても,今ひとつぱっとしない未開発地域であり続けると思われる.

 東北はあまりに辺地だ.
 蒲生氏郷の嘆きは正しい.
 関東ではなく東北を領した場合,徳川家康はおそらく天下取りに失敗していた.

 ゆえに京都大阪の豊臣政権が続き,江戸東京は存在せず,鎌倉小田原川越あたりが各々,地域の中心都市となるだろう.

 東北はこの場合,さほど発展しない.
 東北の発展は関東のおこぼれに与るというのが全てなのだから,
 東北にとっては,関東に政権があることが望ましい.
 でも徳川の力で,それなりには開発されるでしょ.
 貧乏くじのはずの関東も,開発でプラスにしたんだから.

 同じような感覚で北海道なんか与えられたら,それこそ流刑扱いだな(笑)
 もし,開拓スピリッツにあふれていたらうれしいが.

日本史板,2009/08/13(木)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 秀吉によって転封された徳川家康は,関東運営をどのように着手していったのか?

 【回答】
 まずは交通整備から.

***

 半村良氏の作品に,「江戸打入り」と言う佳作があります.
 足助の鈴木家で最後に残った本家の跡取り息子を死なせたくないばかりに,親戚の鈴木家に作事掛として従軍した若者が,方々で機転を利かせ,ある時は秀吉が通る大井川の橋を建設する大工の棟梁を暗殺から救ったり,家康の愛妾の着物を守っているうちに,本多正信に目を掛けられ,鈴木家が属している松平家を通じて足軽に取り立てられ,小田原合戦でも,北条や秀吉を相手に重要でしかも地道な活躍をすることで,終には江戸で本多正信の内証を仰せつかる様になり,母親や嫂,姉らも,ひょんな切っ掛けで家康の愛妾と縁があって,彼女の着物仕立てを扱うようになり,これから江戸で逞しく生きていこうと言う,足軽出世物語です.
 本当は,此の後の主人公の江戸での活躍が楽しみだったのですが.

 1590年8月1日,家康は秀吉から関東転封を命じられ,江戸を拠点に定めます.
 当時の江戸は大名の城の態を為しておらず,城の近くまで入江が入り込み,平山城を中心として周辺に家臣の屋敷や町人町を配する様な近世城下町を築くには余りにも手狭でした.
 今の皇居外苑,日比谷公園,西新橋,浜松町の当たりには日比谷入江が広がり,東側には江戸前島とか外島と呼ばれる砂洲が拡がっていました.
 神田川は古くは平川と呼ばれ,江戸城と江戸前島の間を流れて日比谷入江に注ぎ込んでいました.

 先ず江戸を整備するに当たり,輸送路を確保することになります.
 具体的には江戸湊の整備,道三堀の開削などが行われ,これにより水上交通を確保し,陸上交通では,奥州道と東海道の整備が行われました.
 これに伴い,真っ先に整備された橋が千住大橋で,1594年に初めて架けられたとされています.
 つまり徳川家の関東経営には,東北との道路交通整備が最優先されたことになります.

 陸上輸送路を確保した徳川家は,続いて海上輸送路の確保,更に宅地造成に取りかかります.
 先ずは日本橋川の途中,一石橋から大手門方向へ先述の道三堀を開削しました.
 この堀を通じて,城普請に必要な物資が陸揚げされ,堀端には木材の浜が開かれ,掘留近くに幕府の蔵地,所謂「和田倉」が設けられました.
 大手門からは道三堀の北側に沿って東行するルートを整備し,平川には常盤橋を架けます.

 橋の東側には町割された町が設けられ,メインストリートの本町が整備されます.

 因みに当初,この常盤橋には名前が無く,単に大橋と呼ばれていただけですが,他に浅草方面に通じていたことから,浅草口橋とも言われていました.
 架けられたのは千住大橋よりも早いとされています.

 当時は戦国の遺風が未だ残っている時代.
 橋の上には刀を売り買いする市が立ち,その見分のために刀を抜く事も多かったため,凄まじく荒んだ雰囲気だったそうです.
 1593年にはその大橋の上で果たし合いまで有り,この試合で大男が負けたことや,この刀市ではまがい物を売りつけられる事も多かったことから,インチキなものと同義の言葉で,「大橋もの」という言葉も生まれました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月13日21:02

 1600年,多摩川に六郷橋が架けられました.
 これは関ヶ原合戦の直前の事.
 良く,江戸幕府は橋を建設するのに消極的であると言う話が為されていますが,家康としては,江戸の防衛よりも,東西間の物資輸送の強化を優先したと言う事が言えます.

 関ヶ原合戦で勝利した家康は,1601年,戦国期の宿駅を中心にして東海道に各駅を設定し,各駅には伝馬朱印と定書を下すと共に,伝馬36疋を常備し,伝馬手形を持つものにはその所有を認めました.
 その代償として,1疋につき居屋敷30坪乃至80坪を与え,其の分の地子が免除されました.
 これは後の東海道五十三次の大半を占め,其の後,中山道にも同じ様な公的輸送制度が整えられていきます.

 さて,日本橋の架橋は定かではありませんが,1604年2月に,日本橋を起点に,東海道,中山道,日光街道,奥州街道,甲州街道と言う所謂五街道のルートが定められ,一里塚が設置されていますので,その前年,1603年に架けられたと言うのが有力な説です.

 1603年3月から,中国筋と四国の大名に対し,千石夫と言われた御手伝普請が行われました.
 これは,石高千石につき10名の人足を動員するもので,この時に,神田山から土を削って日比谷入江など30余町に渡る埋立が行われ,今の洲崎辺りの土地造成が大規模に行われました.
 また,江戸前島の沿岸部には埠頭が櫛比する江戸湊が整備され,江戸城外郭の外堀が造られています.
 これらの施設は,江戸城建設の為の資材輸送施設の整備となるもので,江戸前島と言う新たな造成地を南北に貫く様に東海道が付け替えられ,江戸の南北軸を確定しました.

 1604年6月からは西国外様大名28家を中心とする江戸城の手伝普請が発令され,先ず,伊豆の石切場で石を切り出し,船で江戸湊まで運び込みました.
 この運搬船は全部で3000艘と言われ,これらの運搬船が月二回のペースで往復しました.
 こうして石が貯めこまれ,城は1606年春から本格的に構築が開始されます.
 この時,天守台の石垣,本丸御殿の造営の他,城の東南方面の外曲輪,雉子橋から溜池辺りまでの堀が造られました.

 1607年からは東国大名家を中心とする手伝普請が発令され,天守を建設し,曲輪の石垣が増強されることになり,内堀,外堀の外郭が整えられると共に,大名屋敷地の割当が行われました.
 内堀には本丸を防禦する為,大手土橋を始めとする土橋(表面に土を覆いかけた橋)が造られ,これらの橋は強固な門や桝形で固められていました.
 更に,本丸北側,後の紅葉山下門橋には刎橋が設けられています.
 対して外堀の橋は貧弱で,桝形は整備されておらず,木橋が何カ所かに渡って架けられていました.
但し,東北方面の奥州街道の起点である浅草橋(後の常盤橋)と神田方面の玄関口である神田橋の内側には防御施設が整えられています.

これら手伝普請は1614年に一旦中断(豊臣氏との戦争準備の為)され,其の後も家康の死去などがあって,休止状態だったのですが,1619年から再開されました.

 それに先立つ1616年からは,平川付け替えに着手され,神田台地を掘り割って平川の流路を小石川からお茶の水方向に切り通し,現在の神田川と同じ流路が造られます.
 これで江戸城外郭の範囲が拡張される事になります.
 この工事の目的は,家康の死去に伴い,駿府に居住していた家康の家臣団を,将軍家に組み込む必要があった為,その住居地を造成する事にありました.
 こうして,神田台地の先端部が整えられて駿河台が開かれ,この時発生した土砂を以て,湾岸部の更に広い範囲の埋立が行われました.

 其の後,神田川は1620年と1660年に拡張工事が行われ,従来の平川は掘留となり,江戸の洪水への脅威は薄らぎます.
 ただ,新たに流域となった地区では後々まで鉄砲水に悩まされることになりますが….

 1629年,家光の将軍家就任に伴い,将軍の威光を示す為に,全国の大名家を総動員した大々的な工事が行われることになりました.
 この工事により,従来木橋だった外堀の橋が整備され,雉子橋,一ツ橋,大炊殿橋(神田橋),大橋(常盤橋),後藤橋(呉服橋),かぢ橋(鍛冶橋),無名の橋(後の数寄屋橋)など多くの橋が造られたほか,外堀に沿って高い石垣や城門,桝形が整備され,防衛力が強化されています.

 また,新たに開削された神田川には,浅草橋,いづみ殿橋(和泉橋)の他,後の筋違橋と昌平橋の原型が架けられていますが,浅草橋にある浅草門や筋違橋にある筋違門は未だ設けられていません.
 更に江戸前島の整備が進み,かつて江戸湊の最前線であった楓川や三十間堀は運河となって,連絡の為に多くの橋が架けられる様になります.
 日本橋川からは更に北方向へ伊勢町堀,東掘留川や浜町堀が整備され,周辺地域は商業地,武家地としての利用が進められていきます.
 東海道には,中橋,京橋,新橋と,堀川に架けられた橋を次々渡って南下する形となります.

 楓川に多くの橋が架けられ,陸上交通が頻繁になるにつれて,船の為の桁下空間の確保(つまり,反りを入れる)が難しくなり,結果として,大型船の着岸は江戸湊から,八丁堀や霊岸島と言った岸壁が大型船の荷揚げ場に変わっていきました.

 1636〜1639年はこうした江戸形成工事の最終段階として,外郭工事が行われ,北から西へは,小石川,牛込,市ヶ谷,四ッ谷に桝形と門が設けられ,南方向には虎ノ門と幸橋門が完成しました.
 これらの殆どには水位調節機能を兼ねた土橋が併設されています.
 神田川では,越前松平氏によって1636年に浅草橋の内側に御門が建設され,筋違橋の城側には加賀前田氏によって同じ年に桝形石垣が構築され,1639年に筋違門が普請奉行の手によって建設されました.
 これで,江戸城の防衛線が確立したことになります.

 因みに,重要な橋には格式を示す為の擬宝珠が取付けられていました.
 これらは江戸初期の鋳物師の一族である椎名伊予家によって製作されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年02月15日21:46

▼ 江戸前島を貫通する外濠ですが,これは鈴木理生氏は,開幕後の天下普請における日比谷入江埋め立て時に作られたものとしています.
しかし,開幕前の図とされる「別本慶長江戸図」には外濠が書き込まれており,平河移設時に開削された可能性があります.

HI in FAQ BBS


 【質問】
 四国衆とは?

 【回答】
 1585年,土佐の長宗我部がほぼ四国統一を完成させます.
(最近の研究では,伊予の中部には河野氏の勢力が残ったと言う説も出て来ているので,完全に四国統一を為しえていないとも言われていますが)
 しかし,折角の四国統一も,明智光秀を破って日の出の勢いの豊臣秀吉には勝てず,8月には長宗我部家は豊臣軍に膝を屈しました.
 こうして長宗我部元親は,土佐1国の領有のみ許され,阿波には蜂須賀家政が,讃岐には仙石秀久,伊予に小早川隆景が配されました.
 この他,蜂須賀,仙石,小早川の与力大名として,阿波には赤松則房,毛利兵橘,讃岐に十河存保,伊予に安国寺恵瓊,来島通総,得居通久が封じられます.
 これらの大名家は何れも,長宗我部戦での活躍が認められたものです.

 この内,豊臣家の本国に近い阿波と讃岐には豊臣大名が,伊予には秀吉に近い毛利系大名が配されました.
 これらの配置は,瀬戸内3国に政権下の有力大名を配して,九州征討に備えたものであり,九州征討の前に,これらの大名領国では検地が行われ,新たな軍役賦課を設定しました.
 実際に,九州征討での先陣を務めたのは,これら「四国衆」でした.

 1586年9月,仙石秀久を総大将に,四国衆を先陣とする九州征討が行われます.
 しかし,豊後戸次川の戦では,長宗我部信親が戦死するなど,豊臣軍が大敗してしまいます.
 これにより,秀久は領知を没収されてしまいました.
 1587年正月,それに代って讃岐に入ったのは,秀吉の長浜以来の黄母衣衆である尾藤知宣でした.
 ところがこの知宣も,日向での合戦で,宮部継潤の軍を助けなかった事を秀吉から叱責されて追放.
 8月10日に生駒親正が封ぜられ,やっと讃岐の国情は安定しました.

 生駒親正へは,秀吉から「讃岐国一円領知状」が出されているものの,国内には秀吉直轄の蔵入地が設定されています.
 ただ,親正はその代官にも任ぜられており,豊臣政権下での生駒家及び讃岐の重要性が判ります.
 更に親正は,中村一氏,堀尾吉晴と共に,三中老として,五奉行五大老体制の調整を図る要職にも就いていました.

 こうして領国に入った親正は,1588年に引田浦,宇多津と言う港町に入り,その延長線上の野原庄を城地に選定しました.
 この野原庄は,戦国時代には香西氏配下の武将達の小城が多数有ったとされていますが,発掘調査では港湾施設や積荷が多数出土しており,港町としての役割もあったと考えられています.
 特に,西浜,東浜や砂洲の存在,船便の良さも記録されているので,こうした部分も選定の大きな要因となったものと考えられています.
 また,都市民の為に平地を確保し,水利面としては香東川を治水して,その伏流水を生活用水とする事により,「富貴繁昌備わる」野原が近世城下町高松へと変貌していきました.

 更に,城地に高松が選定されたのは,親正の豊臣政権下での役割がありました.
 この高松城は全国初で,かつ最大の海城です.
 北面は総て海に面し,5棟有る櫓の内,2棟は海に面しています.
 三重の堀には海水を引き入れ,外堀は東西浜の船入に繋がるなど,その縄張りは主眼を海に置いていました.
 つまり高松は,豊臣政権に於て,瀬戸内海の防衛及び侵略拠点としての布石でもあった訳です.

 伊予に関しては,小早川隆景が封じられ,城割や検地を行って中世から近世への変貌が始まります.
 これらの施策は先に述べた通り,来るべき九州平定に備えてのものでしたが,国内には与力の小大名領が錯綜し,旧領主の河野氏や西園寺氏なども未だ未練がましくこの地に残るなど,完全に払拭するまでには至りませんでした.

 1587年6月,九州平定により,小早川隆景には筑前1国と筑後2郡,肥前2郡が与えられ,その養子であった毛利秀包にも筑後3郡が与えられて,彼らは伊予を離れます.
 これについては,毛利宗家を何れは中国路から九州に転封させる計画であったとも伝えられていますが,実際には,来るべき大陸侵攻の布石として期待された大名配置になったのであろうと推定されています.

 そして,小早川転封の後,伊予に入ったのは,これまた秀吉子飼いの武将である福島正則で,正則は東予と中予に11万石を与えられて湯築城に入り,更に南予には同じく子飼い武将である戸田勝隆が大津城に15万石で封ぜられました.
 こうして,阿波に蜂須賀175,700石と赤松10,000石,毛利兵橘1,082石,讃岐に生駒150,000石,伊予に福島110,000石と戸田150,000石,それに来島14,000石,得居通久3,000石,更に安国寺恵瓊の領知の一部23,000石があり,瀬戸内3国に豊臣大名が配されました.

 伊予に入った福島と戸田は,伊予の国衆平定,それに旧族の弾圧を進め,兵農分離を図っていきます.
 これは,来るべき大陸侵攻に不可欠な要素でもありました.
 1588年になると,勝隆は板島丸串城に,正則は国分山城に移りますが,更に秀吉蔵入地であった中予の正木城に,栗野秀用が入ったとも言われています.

 暫くはこの体制が続きますが,1595年7月,関白秀次が高野山に追放され,切腹となる事件が起きると,その検使役を福島正則,池田秀雄等が務めた功により,正則は尾張清洲24万石に転じ,池田秀雄が国分山城に入りました.
 秀雄は,1598年に朝鮮出兵で没したので,小川祐忠が東予を領し,秀雄の子,秀氏は南予大津2万石に移されました.
 更に,秀次事件の頃には文禄の役で功を上げた加藤嘉明が増封されて,淡路から正木に入っています.
 また,板島の戸田勝隆に代り,秀長配下だった藤堂高虎が,秀吉に加わり,板島に封ぜられました.
 この高虎を取り立てたのが生駒親正であり,生駒は着々と自勢力を四国に扶植していった訳です.

 秀吉から見れば,こうした四国配置の大名は「四国衆」として一括して認識され,小田原の役から朝鮮出兵まで,水軍としての軍団編成が行われていました.
 とは言え,朝鮮出兵では実態は「四国衆」と言う一体活用とは到底言えず,大名間で反目がありました.

 こうした中,生駒一正と蜂須賀家政は名実共に統一水軍の構成を為していました.
 蜂須賀家は,生駒家と共に秀吉政権内では統一の過程に深く関わり,蜂須賀正勝は播磨龍野5万石の大名となりました.
 流石に,その後の危険を察知したのか,正勝が阿波を受ける事はせず,嫡嗣の家政が阿波1国を受け,家政は父同様,秀吉政権下で重要な位置を占めます.

 他方,土佐にはあわよくば失地を回復しようと虎視眈々と狙っている長宗我部元親がおり,秀吉の敵である柴田勝家や徳川家康に呼応したり,島津義久を援助する等の行為により,秀吉政権にとって長宗我部家は仮想敵国の扱いでした.
 つまり,生駒と蜂須賀は,共に連携して瀬戸内海だけでなく土佐をも抑える役割を持っており,万一土佐が叛乱を起こした場合は,両家による連合軍で対抗する必要がありましたから,普段から水軍同士の連携が密に行われていました.
 因みに,城下町の防衛ラインである寺町は,生駒の高松,蜂須賀の徳島共に土佐を向いて形成されており,また実際に生駒,蜂須賀連合軍が土佐を攻める準備をした事もありました.

 生駒と蜂須賀が共に連携していたのとは対照的に,伊予の大名間は激しい対立がありました.
 特に,藤堂高虎と加藤嘉明は,同じ水軍衆だったものの,諸大名も認知する位,酷い対立があり,軍事行動の分離や排斥が見られました.
 高虎は独断でこうした話を秀吉に行っており,蜂須賀家政は,加藤嘉明に同情的でした.

 この朝鮮出兵では,石田三成の腹心である福原長堯が戦目附に派遣され,蜂須賀家政等の戦線縮小策を秀吉に報告し,それを聞いた秀吉が激怒して,家政等が罰せられると言う事件が起きます.
 この為,家政は石田三成を激しく憎む事になり,後に福島正則,藤堂高虎,加藤清正,浅野幸長,細川忠興,黒田長政と共に武功派として,石田三成を襲撃する事件を起こす切っ掛けになったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/09/30 21:49
青文字:加筆改修部分


 【珍説】
 「兵農分離以後も農民は,"農民の武装を"していました!」???
470 :霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I :2010/11/30(火) 00:42:45 ID:86RHAqy1
>464
>そもそも兵農分離って農民と武士,その他の階級全部が武装を有する事を合法というか放置していたのを
>武士以外は武装禁止って定めたものであって,農民は武士の戦争に戦闘員として参加していたというようなもんじゃないんだが
>いったいこの誤解はどこから発生したものなんだろうな?
>日本史の教科書でも農民の武装を禁止した,としか書いてないはずなんだが…

霞ヶ浦の住人の回答.
「農民の武装を」していました!

説明.
幕末の新撰組隊士の多くは,農民の出でした.

「2) 農民主体の運動体最近歴史家の中で認められたが,幕末から明治にかけて,農民主体の運動体とし
てこう言った身分差別のない組織を作ったのは新選組が最初であった.
高杉が作った奇兵隊は侍が農民たちを集めたが,身分社会は残っており,平等で
はなかった.新選組は農民主体の集団であり,基本的には農民が下,侍が上と言う構図は無く,
集団の中では全くの実力の社会で,平等なのである.
余り身分差別を意識しない,それが何よりの証拠に敬語表現が殆どないのである.
良く言われる事で,多摩地区は言葉が汚い,けれどもっと綺麗な上品な言葉は持って
いるのかと言うと,もとより無く,ほぼ同じ言葉を使っている.
あの勝海舟を見ると,良く乱暴な言葉が出て来るが,差別の無い農民主体の運動体
であった新選組も上でも下でも同じであろうと考えられる.」

下記を参照ください.
ttp://byp.web.infoseek.co.jp/sns4.htm

 【事実】
 農民の帯刀というか脇差の所持は,届け出さえあれば許可をもらえるものだったよ.
 旅のさいなどの自衛用にとかで.
 でもってそれらを使うために,農民にも剣術道場で稽古が出来た.

 まあ脇差というのは,
大脇差:1尺8寸以上2尺未満(54.5cm〜60.6cm)
中脇差:1尺3寸以上1尺8寸未満(40cm〜54.5cm)
小脇差:1尺以上1尺3寸未満(40cm未満)
程度の小さい刀なんだがね.

 また,江戸時代の足軽は,支給される給料だけでは生活できないので,半士半農状態.

 刀狩でも,狩猟や有害鳥獣駆除などの名目で,かなりの武器が残された.
 終戦後,GHQ指令で武器を回収した際に,日本刀だけで100万本とも言える数が回収されている.

 あと,幕末期の新撰組の様なのは,武士身分に取り立ててもらえるってんで集まった集団.
 任命され組織された時点で農民身分じゃあない.
 新撰組は農家出身の者が多かったのは事実だが,全員そうだったのではなく,新撰組は近藤勇ほか農民出身と,芹沢鴨ほか郷士(下級武士)出身とで,半々ずつの構成.
 後に粛清で芹沢派は数を減らすけど.
 結成に当たっては,会津藩預かりの立場を経て,最終的には幕府のお墨付きをもらっている.
 また,当初の結成目的も「将軍警護」.
 隊規でも,きわめて士道を重視する姿勢をとっている.
 壬生浪士組の段階で,農民から浪人を経て,支配階級の武士になる姿勢を非常に重視したわけで,士農の立場を捨てた組織であるがごとき主張は,お角違いも良い所.

 しかし何で,戦国時代の話をしてるのに,幕末の話に持って行きたがるんだ?

軍事板,2010/11/30(火)
青文字:加筆改修部分



 【反論】
373 :霞ヶ浦の住人 ◆1qAMMeUK0I :2010/11/29(月) 22:41:14 ID:pRh9RB6o
「戦国時代は悲惨な時代・・・ 戦国時代の主従関係
 戦国合戦の話を読んでいると,軍勢が何千何万とか書かれていますが,
その数字のすべてが武士というのではなく,武士10〜15%,農民85〜90%の割合だそうです.
村の大きさによって徴発される人数(1人〜8人くらい)が割り当てられました.
そのような強制動員の他に,積極的に参加する者が多くいたそうです.
 戦地での掠奪など,彼らにとって戦場は稼ぎ場でもあり,農兵だけでなく,
食うに困るあぶれ者,野盗や山賊なども多く混じっていたようです.
 合戦の背景には,掠奪暴行,乱取り(人や物を奪うこと)があって,その掠奪や人狩りが目的で参加し,
合戦後には人身売買の市が立てられることもあったそうです.
戦国大名たちもそのような濫妨狼藉(らんぼうろうぜき)を黙認したり,
敵城を攻め落とした後の褒美として,兵たちに自由に乱取りをさせました.
 そして,そのような狼藉は常識であり,決して悪事とは見なされていなかったといわれます.
敵に勝ち,掠奪行為によって領国が豊かになるとすれば,まさに一石二鳥であり,
むしろ推奨すべきことだったのでしょう.戦争に勝つと,
桃太郎の宝を積んだ荷車のように略奪品を満載して凱旋したのかもしれません.
 戦国時代の約100年間は,各地あるいは全国規模で凶作,水害,干魃,疫病,飢饉が毎年のように多発した時代だったそうです.
 戦乱の世が長期にわたって続いた原因として,家臣団に与える領地を獲得するためとか,
下克上の目を他国侵略へそらすため,といわれますが,その他に大きな目的として食糧を奪い取るための戦争も多かったと思われます.
 戦場付近の村を襲って農作物を根こそぎ奪い,女・子供をさらって来て売り払ったり奴隷にしたり.
現実の戦国時代は飢餓から生き残るために,人々が必死になった悲惨で厳しい時代だったのですね.」

下記,江戸検公式ブログを参照ください.
ttp://edokentei.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/index.html
下記,戦国乱世のコ〜ナ〜を参照ください.
ttp://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/sengoku.htm

 【再反論】
>その数字のすべてが武士というのではなく,武士10〜15%,農民85〜90%の割合だそうです.
>村の大きさによって徴発される人数(1人〜8人くらい)が割り当てられました.

 それ,戦闘要員じゃなく,兵站を支援する労役に就く非戦闘要員だぞ.
 当然,武装してないので略奪は出来ない,というか略奪するなら,戦闘要員の方が先でほぼ残ってない.

>合戦後には人身売買の市が立てられることもあったそうです

 実際にはこの人身売買市ってのは,ほぼ戦争で捕虜になった戦闘要員や,占領された拠点・城で捕虜になった,戦闘要員の妻子家族.
 でもって人身売買って言っても,実際には身代金取引の場所.
 払えない場合とか,身内に支払いを無視された場合,鉱山などで労役に就かされる.

 もちろん,生活に困窮した農民が,余分な家族を売る事も混じっていたが,一部でしかなかった.

 というかなんで,そういうデマや誤解の方ばっかり記述してるサイトばっかし引き当ててくるんだ?,お前.

軍事板,2010/11/29(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ秀吉は関白職を引退したあと,大坂城を居城にしなかったのでしょう?
 わざわざ伏見城を(二度も)作らなくても,大坂城という立派な城があったのに.

 【回答】
 聚楽第は秀次に与え,
淀城は淀君のに与え,
大坂城は秀頼に与えたので.

 大阪人は,大坂城を「太閤はんの城」と思ってるけど,実際には秀吉の数ある持ち城のひとつにすぎないんだよね.
 関白時代は聚楽第,太閤になってからは伏見城が本拠地だし,大坂にいた時代なんて実際はほんの一時期.
 秀吉死後の秀頼の居城ではあっても,豊臣政権の本拠地とはいえない.

日本史板


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