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◆通史
アジア&太平洋方面・目次
<第2次世界大戦FAQ



 【link】

「戯言 by 紫音」◆(2010-02-14)「満州事変が抱えていた矛盾」

誰か昭和を想わざる

●書籍

『空気と戦争』(猪瀬直樹著,文春新書,2007.7)

『決定版 太平洋戦争 1 「日米激突」への半世紀 歴史群像シリーズ』(黒野耐・瀬戸利春他著,学研,2008.12)

『近衛文麿 「運命」の政治家』(岡義武著,岩波新書,1979)

『近衛文麿「黙」して死す すりかえられた戦争責任』(鳥居民著,草思社,2007.3)

『第二次対世界大戦とフランス領インドシナ 「日仏協力」の研究』(立川京一著,彩流社,2000.5)

 1937年以後の日仏関係と,対独敗戦後のヴィシー政府と日本との関係を研究したもの.
 欧州のフランス外交関係は結構本になっているが,植民地政府の動きを描いた本は中々無い.
 そうした間隙を埋めるような本なので,結構面白そうなものになっている.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

『昭和戦前期の宮中勢力と政治』(茶谷誠一著,吉川弘文館,2009.10)

『永井荷風の昭和』(半藤一利著,文春文庫,2000.6)

『日米戦はゞ』(池崎忠孝著,新潮社,1941)

 『日米もし戦わば 戦前戦中の「戦争論」を読む』(北村賢志著,光人社,2008.6)を読んで触発されたので,たまたま古本屋で見かけ,購入.
 後知恵から批判するのは容易かつ安易すぎる著者の予測よりも,むしろ
「対日戦の場合,英国はキング・ジョージ5世級戦艦4隻をシンガポールに派遣する!」
など当時の噂が興味深いです.
(この噂に対して著者は否定的)
 なお,序文は加藤寛治大将,定価1円40銭・外地定価1円54銭.

――――――軍事板
青文字:加筆改修部分

『日本の近代6 戦争・占領・講和』(伊藤隆ほか編集委員,五百旗頭真著,中央公論新社,2001.4)

『広田弘毅 「悲劇の宰相」の実像』(服部龍二著,中公新書,2008.6)

『満州帝国』がよくわかる本」(太平洋戦争研究会著,PHP文庫,2004年12月) 初心者向け

やる夫が通州事件に巻き込まれるようです


 【質問】
 保阪クラスで信用できないって言ったら,信用できる歴史研究者ってどんな人がいるのよ?
 半藤一利とか?
 別に喧嘩売ってるわけじゃなくて,その人の本も読んでみたいと思ってるだけだからね.

 【回答】
 半藤さんだったら保阪さんの方が信用できると思う.
 『ノモンハンの夏』とか『昭和史』とかフィーリング優先というか,先入観が勝ってる記述が多い気が.

 難癖ばっかのてめーはどうなんだと言われると,昭和史関連だと北岡伸一,加藤陽子,有馬学,中村隆英とかがぱっと思いついた.
 伊藤隆東大名誉教授関係者ばっかと言われそうだけど,左翼の永井和とかも実証的で好き.

軍事板
青文字:加筆改修部分


◆◆戦間期


 【小林主体思想】(別名「マルチ・スタンダード」)

 アメリカが日本に「自由」と「民主」を与えてくれたと思い込んでる者がいる.
 だが実は,戦前から日本には「民主主義」はあったのだ.
 大正デモクラシーは,戦後の民主主義と同じものである.

 山本夏彦氏は,大正時代に広がった民主主義の特色を
「普選」「親不幸の公認」「恋愛の謳歌」「猫なで声」「口語体」「挨拶の喪失」
だと皮肉っぽく語っている.

 婦人の参政権はなかったが,婦人は別段,怒りもしなかった.
 参政権を欲しがっていたのは市川房枝ら,せいぜい100人か1000人くらいのものだった.

 大正デモクラシーによって,日本が持っていた,もっと大事な価値がいっぱい破壊された.
 例えば「忠孝」の精神である.

 戦後は,アメリカからのデモクラシーが,さらに価値の紊乱に拍車をかけ,教養・道徳が衰えたのである.
 日本の「保守派」の知識人が,アメリカの正義である「自由」と「民主」を賛美するとは一体何事か!? 恥を知れ!

(小林よしのろ「戦争論3」,p.67)

 【ツッコミ】
 曖昧・粗雑な論です.

「アメリカが日本に「自由」と「民主」を与えてくれたと思い込んでる者がいる.
 だが実は,戦前から日本には「民主主義」はあったのだ」
と書いておきながら,最後は
「アメリカの正義である「自由」と「民主」」
と言っちゃうわけですか…….
 わずか十数行の文章の中の論理矛盾も,自分じゃ気付かないほど耄碌されましたか?,この50歳を越える爺さん漫画家は.

 それにですね,大正デモクラシーと現在の自由民主主義が同じものかというと,これにも疑問が残りますな.

 大正デモクラシーと一口に言っても,生成期と高揚期と衰退期とでは,性質が異なってくる.
 政党や非特権的な資本家が,民衆の世論を背景にして,元老・枢密院・貴族院・郡部などの特権階級の力を抑えようとした,というのが生成期に対する通説的見方.寺内正毅軍閥内閣出現を阻止した大正政変など,特徴的ですな.
 政党政治が軌道に乗り,また,第1次大戦後に高まってきた労働運動・農民運動・社会主義運動と絡み合って,「改造の十字路」「民衆の組織化」と呼ばれる社会風潮が現れたのが,高揚期.

 ちなみに吉野作造は,自分の民本主義はいわゆる右派社会民主主義とは両立できるが「過激主義(ボルシェヴィズム)」,つまり革命主義とは相容れないと認めておりまして,大杉栄などの当時の革命派から論難されております.
 そんでもって,例によって内部対立していくのが衰退期.既成政党は民衆組織を敵対視し,社会不安や経済的混乱に対処する力を欠く.民主主義的要求は治安維持法などで圧殺される,そんなこんなでジ・エンド.

 小林は,大正デモクラシーのどの部分が,どのように「戦後の民主主義と同じ」だと言いたいんでしょうか?
 論が粗雑過ぎて,肯定も否定もできかねますな.まあ,飲み屋のオヤジの政談と同レベルってことです.

 第3点.
 いくら山本夏彦が大正デモクラシーを皮肉っていたからといって,「忠孝の精神」がなくなったと言えるものなのか? 忠孝の精神が,そんなに大事なのか? そこが疑問です.

 「忠孝」は,朱子学上の概念です.
 朱子学とは中国・南宋の学者,朱子によって大成された,宋代の新しい儒学で,「道学」「性理学」「程朱学」とも呼ばれます.
 日本への伝来は鎌倉時代のことで,室町時代には禅僧の教養として学ばれます.
 日本における隆盛期は江戸時代で,幕藩態勢の整備につれて,幕府・藩の教学の基礎になり,思想的影響は儒学の他の学派の中で最も著しかったとされます.
 これは,名分論に基づく君臣関係の規制,身分制の重視,禁欲的傾向など教学的要素が強く,自然秩序観も社会の安定指向期に受け入れられ易い素地があったためと考えられています.

 そうだとするなら,
「大正デモクラシーによって,朱子学的精神が廃れた」
という主張は,あながち間違いではないのかもしれません.大正デモクラシーにおける民衆の要求の一つは,身分に囚われない平等な1票を与えよ,なのですから.
 しかし,それをもって大正デモクラシーを否定する気には到底なれませんな.平等な一票を保障する事は,公正な選挙のためには必要だ,と考えられているのですから.
 忠孝精神を守りたい,というのであれば,身分制重視の朱子学に頼らず,他の思想に依ったほうが建設的では?と思うのですが…….

 いずれにせよ,何故どのようにして「大正デモクラシーが忠孝精神を破壊した」と,小林が考えているのか,具体的に明らかにならないことには,上の論も想像の域を出ないのですが.

同じように,
>戦後は,アメリカからのデモクラシーが,さらに価値の紊乱に拍車をかけ,
>教養・道徳が衰えたのである.
なる主張も,いかなる根拠によるものなのか,全く分からないので論じようもありません.「西側はモラル退廃が云々」という言葉は,冷戦期にベルリンの壁の向こう側からよく聞かれましたが…….

 そういえば,詭弁テクニックの中に,
「主観で決め付ける」
「資料を示さず自論が支持されていると思わせる」
というものがありましたな.

 なお,「自由」と「民主」が「アメリカの正義である」わけがないという事は,高校生レベルの世界史の知識のはずですね.
 アメリカ流「自由と民主」と,小林は言いたかったのかもしれませんが,それならば,改訂版でも出してその辺を明確にすべきでしょう.
 「新ゴーマニズム宣言」単行本の「イラクの農夫がアパッチ・ヘリを撃ち落とした」の件もそうですが,なぜ修正を一向にしないのか,不思議でなりません.誤りを認める事は恥だとでも思っているのでしょうか.

 それにまた,本当に忠孝精神は破壊されてしまったのでしょうか?
 「戦後の,自分の勤める企業にひたすら忠誠を尽くす,サラリーマンの態度は,企業論理にとって都合の良いように変形した忠孝精神である」とは,深田祐介や猪瀬直樹など,多くの識者が指摘するところです.藩が会社に代わっただけではないかというものです.
 この説が本当だとすれば,少しも忠孝精神は破壊されていないことになるのですが,小林は触れてさえいません.会社勤めを経験したことのない小林は,それに思い至らなかったのかもしれませんが.

 ちなみに,朱子学には忠孝精神の他に,「理気説」「性情説」「居敬窮理説」という説を展開しています.
 この内,性情説とは以下のようなものです.
 人間は性と情の絡まりであると説かれます.「性」は理で本性理性,情は気で気質感情を言います.
 そして,人間が情のままに行動すれば,仁義礼智の性を喪失し,人間のあるべきあり方は不明となり,家族・村落・国家の人間共同体は危機に陥る.そこで,情の動きを純粋にして性の筋目に従わせ,人倫の道を守るようにすべきである,としています.

 「作法としての反米」と唱え,その実質,過激な反米差別を感情的に唱え続けている――小林にとって親米に見えた者には,ポチとレッテルを貼って罵倒していますね.絞殺自殺した小泉首相の姿まで描いています(p.29)――小林に,性の筋目は見出せません.
 朱子学的精神の内,忠孝だけをクローズ・アップして,他を切り捨ててしまっている姿勢には,大きな矛盾を感じるのですが,どうでしょうか?

 もしかすると,「いいものなら,それだけ残すべきだ」と小林は言うかもしれません.
 しかし,そうであったとしても,江戸時代の軌範を,現代にそのまま当て嵌まることには無理があり過ぎるでしょう.当時と今とでは,人間を取り巻く精神的環境も物質的環境も,全く異なるのですから.
 そうである以上,その「いいもの」をいかに現代に適合させていけばいいのか?という考察が必要になるはずなのですが,本書にはそれは皆無です.
 昔に戻しさえすればいい,というのであれば,それは保守ではなく,単なるオストリッチ・コンプレックスじみた守旧派でしかありません.
 まあ,曖昧な主張なら,言い抜けは幾らでも可能ですけどね.

 だいたい,忠孝の精神は,目上の者に対する尊敬の念を持つよう勧めていますが,自説に同調的でない者を醜悪に描く小林が,忠孝の精神を遵守しているようにも思えません.
 自分自身では全く守っていないものを,他人に守らせようとする態度は,矛盾ではないでしょうか?

 こんな穴だらけの言説で,第2次大戦を語って欲しくはないものです.

 余談ですが,「国のために」とか「無私の精神」とか言ってる奴が国を滅ぼすんだ…なんて,へそ曲がりなこと言ってる山本夏彦が,
「小林に引用されてる」
って聞いたら,どんな顔するんでしょうね.

 【参考文献】

 (1) 大正デモクラシー関連
 岡義武編『吉野作造評論集』,岩波文庫
 信夫清三郎「大正デモクラシー史」,日本評論社
 今井清一「日本の歴史23 大正デモクラシー」,中央公論社
 大久保利謙「日本全史 近代III」,東大出版会

 (2) 朱子学関連
 後藤俊瑞「朱子の実践哲学」,目黒書店
 友枝龍太郎「朱子の思想形成」,春秋社
 島田虔次「朱子学と陽明学」,岩波新書


 【質問】
 蒋介石の北伐について教えてください.

 【回答】
 中山艦事件を契機に,急速に台頭してきた蒋介石が中心となり,1926年7月1日,国民政府は北伐を開始(第1次北伐).
 北伐軍は各地軍閥を各個撃破し,翌1927年には南京,上海を占領した.
 しかし国民党内部の混乱から一時中断.
 蒋介石が混乱の収拾に成功し,権力を掌握すると,北伐を1928年4月8日に再開した(第2次北伐)
 張学良が12月29日に降伏したことをもって,北伐は完了し,全国統一を果たした.
 しかしこれは,地方の軍閥勢力を残存させたままでの妥協的な「統一」であったため,その後も戦乱は続いた.

 【参考ページ】
http://www.c20.jp/1926/07hokub.html
http://blog.livedoor.jp/kota6053/archives/51638635.html
http://www.eonet.ne.jp/~chushingura/p_nihonsi/episodo/201_250/234_01.htm
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1921-30/1926_hokubatsu.html
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%8C%97%E4%BC%90/

【ぐんじさんぎょう】,2009/9/4 21:00
に加筆

 私は台南で,蒋介石のよく来た店でかに飯食いました.
 うまくなかった.
 台北ではソウビレイの館にとまりましたが,ものすごく広くて歩くのが大変でした.
 風呂場が十畳くらいありました.

風船殿様 in mixi,2009年09月03日 22:28

栃木 利夫・坂野良吉『中国国民革命』
坂野良吉『中国国民革命政治過程の研究』
を読むべし.

鮭缶 in mixi,2009年09月03日 22:34

 北伐自体とは直接関係有りませんが,臼井勝美「中国をめぐる近代日本の外交」(筑摩書房,1983)は面白かったですね.
 辛亥革命後の複雑怪奇な日中関係を知るため,いくつかの視点を提供してくれます.

 そういえば,台湾の淡水かどこかで,「蒋介石の仏像」が出来てましたっけ.
 蒋介石はクリスチャンだったのですが・・・

整備兵 in mixi,2009年09月04日 01:44


 【珍説】
 パリ不戦条約では,自衛戦争か侵略戦争かの判断は,該当国家の裁量に委ねられていた.

推定林間≒「一応仮コテ」

 一方,1928(昭和3)年には,パリで「不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)」なるものが調印され,「侵略戦争」の放棄を宣言した.
 これはグロティウス以来の,戦争は無差別に肯定するという常識が,変化し始めた兆しでもある.

 ところが「侵略」の定義は当事国に任されていた.要するに…
「わが国はこれから侵略するぞーーー!!」
と言わない限り,「侵略」にならないのである.

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.218

 【事実】
 であれば,それは各国が勝手に判断するのではなく,事後的に国際法廷や国際会議で判定を受けるべき問題であると,国際法学の大家オッペンハイムが示している.
 条約の趣旨から言っても,自衛権を損なわないためであり,勝手な解釈で戦争を起こす事を肯定しているわけではない.

軍事板


 【質問】
 ケロッグ=ブリアン条約の成立までの経緯と,同条約の問題点は?

 【回答】
 今も尚,国際上では有効とされているケロッグ=ブリアン条約であり,そもそも満州事変を否定する材料の一つとなった「不戦条約」だが,この成立にはかなり混乱が伴っており,成立からして骨抜きな条約みたいだ.
 キッシンジャーによると,WW1後対ドイツ政策に行き詰ったフランスのブリアン首相が,マジノ線構築による防御戦略によって,能力的にはドイツ東部への侵攻「封じこめ」を捨て去ったことにより,フランスの政戦両略の不整合がおきた混乱から,なんとか世論の支持(国際的な物を含む)を得ようとしてアメリカに提案したもののようだ.

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 指導者は混乱すると,政策の方向を決定する代わりに世論のムードに訴えようとする傾向がある.
 何かをやっていると見られたい願望に駆られて,ブリアンはアメリカの参戦10周年の機会を利用して,1927年6月に,仏米両国政府が両国の間では互いに戦争を放棄し両国のすべての紛争を平和的手段で解決することに合意するという条約案をアメリカ政府に提案したのであてた.
----------------------------------------------------------------

―――ヘンリー・キッシンジャー著『外交』上巻(日本経済新聞社,1996.6),394ページ
※この場合のアメリカ参戦はWW1への参戦のこと.

 これに対して,当時のアメリカ国務長官ケロッグは,回答に迷ったが,この条約案が実際上の効果は無い事を確認した上で,選挙対策としてこの「平和のための案」に批准することを決めた.

 そして,ケロッグはこの案に出来るだけ多くの国を参加させようと働きかけ,理念的に「国家の政策手段としての戦争放棄」をうたい,1928年8月12日,50カ国の参加を得て「ケロッグ=ブリアン不戦条約」(パリ不戦条約)に署名した.

 しかしながら,パリ不戦条約が署名されるとすぐに,各国の政治家達は考えを変え始めた.
 すなわち,以下のような条項を盛り込むことによって「骨抜き」にしたのであった.

・自衛のための戦争と国際連盟規約
・ロカルノ条約,及びフランスの同盟から生じる義務を履行するための戦争

 この二点を合法化したことにより,この条約はいかようにも受け取れる条約となり,結局「元に戻る」となってしまったわけだ.

 この上さらにイギリスが「自国を防衛するための自由」,アメリカが「モンロー主義と自衛のための権利」を主張し,しかもアメリカはいろんな抜け道を作った上で,すべての強制行為参加を拒否した.(国際連盟に参加しなかったからね)

 んで,ケロッグは数ヵ月後にこんなことを言い出した.

-----------------------------------------------------------------
 上院外交委員会での証言でケロッグは,アメリカは不戦条約上,侵略行為の被害国を助ける義務を負っているわけではない,
 なぜならばそうした侵略行為があること自体,すでに不戦条約が破棄されていることを示すものだからであると言う途方もない理論を示した.
「もし他の国がこの条約を破ったとしたら,なぜ我々はこの条約に参加していなければならないのか」
と,モンタナ選出のウォルシュ上院議員が質問したのに対し
「そうしなければならない理由は少しもない」
と国務長官は回答したのである.
 ケロッグはこの条約を,
「パリ不戦条約は平和が保たれている限りにおいて平和を保つであろう」
という同語反復に変えてしまったのであった.
 戦争がこれから始まろうとしている状況を除いたあらゆる状況下で,禁止されたということである.
 それゆえ,D・W・ブローガンがケロッグ・ブリアン条約について次のように述べたのも不思議ではなかった.
「かつて第十八修正条項によって飲酒という悪を根絶したアメリカは,今度は,誓約をすることによって戦争を根絶しようと世界の各国に呼びかけたのである.
 世界の国々は,あえて信じも疑いもせず,それに従ったのである」
-----------------------------------------------------------------

同395ページ

 で,この条約によって,フランスはかつての同盟国から軍縮の圧力を掛けられることになっちまった.
 しかもラインラント占領が早期終了される結果となって,マジでブリアン涙目と言う感じ.

 にしても・・・・
 アメリカは不戦条約上,侵略行為の被害国を助ける義務を負っているわけではない,
 なぜならばそうした侵略行為があること自体,すでに不戦条約が破棄されていることを示すものだからである .
 ……なんか,日本のサヨクみたいな言い分だなコリャ.

 まぁ,これへの反省が戦後アメリカが欧州やアジアの安全保障への参加を誘発したと思えば,かなり興味深いが.

 ケロッグ=ブリアンとは,確かに「不戦条約」ではあったが,上のように各国によって骨抜きにされてしまった.

 でも,この不戦条約は,いろんな場面で各国への批判材料となったことも事実である.

 この意味でWW1以前よりも戦争に対する認識が変化したのは間違いない.

 これを
「強制力なきゆえの欠陥条約に過ぎない」
と判断するか,
「世界各国が不戦という理念を持った転換点」
と見るかは,各人の判断に委ねることにする.

 漏れ的には両方の意味合いがあって,結局は「自国に有利なような条約」であっても相手が利用できる条約という,正当性や大義名分などを変化させる物であったと思う.

ますたーあじあ in mixi, 2008年01月05日19:09


 【質問】
「昭和四年,ソ連は満州に侵攻したが,これが,ケロッグ・ブリアン協定を破った最初の侵攻戦争」である.英米仏伊は,ソ連に不戦条約義務違反を注意したが,当然ながら,ソ連自身はこれを「侵攻戦争」でなく「自衛戦争」とし,制裁を受けなかった」
と書いてあったのですが,これは事実でしょうか?

 【回答】
 1929年の中ソ紛争なら,
「ソ中両国に警告を与える」
というオチで不戦条約参加55カ国中38ヶ国が賛同.
 この時は,経緯もあってソヴィエトに好意的な解釈を行った国のほうが多いかな.
 イギリスは,ソ連が国際連盟加盟国で無いことを理由に,取り上げるのを拒否してるし.

 ちなみに,この中ソ紛争が「ケロッグ・ブリアン協定を破った最初の侵攻戦争」でなかった場合,満州事変が最初になってしまうので,ことさら取り上げられることが多い.


+

 【質問】
 これ本当ですか?

 昭和14年『ノモンハン事件』の空中戦で被弾し,敵地に不時着した原田文雄少佐,伊藤曹長の二人はソ連軍の捕虜となった.
 伊藤曹長はそれまで敵機25機を撃墜し,『ホルンバイルの華』とまでうたわれた逸材であったが,捕虜送還で帰ってきた彼らを待ちうけていた運命は非情なものであった.
 原田少佐は『自決』を強要され,伊藤曹長は軍法会議で『有罪』となり,ともに人生から消え去ったという.
 ノモンハンの捕虜で,帰国後の運命を恐れて,ソ連の地に残留を望んだ将兵は1千名を超えていたといわれている.
 祖国の栄光のために戦いながら,祖国からの報復を恐れて帰国を断念し,ソ連に永住したのである.

http://members.at.infoseek.co.jp/koidetyu/siberia3.htm

 【回答】
 本当です.

 皇軍は自称「無敵」なので,負けたことになれば,誰か上層部が詰め腹を切らされます.
 従って,負けた事実を隠蔽するため,こういった不利な状況を知っている人々を徹底的に死に追いやりました.
 他にも,前線部隊の将校なんかも自決を強要させられています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


◆◆◆軍縮会議関連

 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 1921(大正10)年,アメリカ大統領ハーディングの提唱で,「ワシントン会議」が開かれた.
 「国際協調」で「平和の永続を図る」という美しき目的の会議である.

 ところがこれが例の
「一見,理想的で,実はアメリカだけの利益になることを他国に押し付ける」
というお家芸,そのものだった.

 日本外交の柱だった日英同盟は,「国際協調にそぐわない」と廃棄させられた.

 海軍軍縮条約で,戦わずして戦艦を沈められた.

(小林よしのり「戦争論」3,p.215)

 【ツッコミ】
 日英同盟の件は,全くの妄想.どこからこんな怪電波を拾ってきたのやら.

 また,軍縮条約を結ばずに八・八艦隊なんてやってたら,戦争する前に国が滅ぶ.
 八八艦隊を揃えたら、台湾の要塞化どころか陸軍の維持すら出来ない。 何せ艦隊維持整備費で国庫の四割を食ってしまうんだ。
 旧ソ連みたいに財政破綻するか、三〇年代中盤でヤケクソになって戦争始めるか・・・

 それに小林は,米英も戦艦廃棄してるのを知らないんだろうか? それとも、日本だけが艦艇を 削減されて6割になったと思ってたんだろうか?
 知っててなおもそう書いたにしても、知らなかったにしても、彼にこの問題を語る資格は無いよね。

 日本が沈めたのは未完成艦と日露でゲットした前ド級艦。
 あと、謎の不揃い口径長12インチ砲搭載艦。
 いわばリストラ艦。
 まだまだ使える超ド級戦艦/巡戦を沈めた大英帝国や、保有枠満たす為に火力不足の12インチ砲搭載艦を残さざるを得なかったアメの方がよっぽど痛い。
 もし,このとき日本が戦艦「陸奥」を捨てていれば,コロラド級2隻とネルソン級2隻をさらに葬れただろう。 まあ,結果論だが。
 ちなみに,日本に6割を呑ませる取引材料として,陸奥存続について早々に了承したのがイギリス.

 それとも「土佐」「天城(地震が無ければ加賀)」を沈められたのを,小林はそんなに恨んでいるのか?
 八八艦隊の維持費だけで国庫の4〜5割が吹っ飛び、アメリカが,議会さえ黙らせれば財政的にダニエル計画艦隊がもう1セット揃えられる事を知らないんだろうか?
 普通に考えたら,戦間期の軍縮ではアメリカが一番損をするんだよ。
 アメリカが本気を出して建艦競走を始めたら,日英合わせてもアメリカの工業力に太刀打ちできなかったからね。
 なのにわざわざ,自分で自分の手足を縛ろうとするわけだからね。

 よしりんは「当時の価値と現代の価値は違う」と言う癖に,当時の状況をまったく考えない.

 ちなみに件の条約を結んだ加藤友三郎海軍大将はこんなことを言ってたワケだ。
「アメリカと互角の軍備を整えても,実際に戦争するには金が要る。
 そんな金貸してくれるのは,世界一の金持ちのアメリカしかない。
 しかし,帝国海軍が戦争する相手は,現実的にアメリカしかない。
 アメリカから金借りてアメリカと戦争するなんて、んなアホな。
 軍備は国力相当にして、その国力を貯えることが重要」
ってね。慧眼。

 小林信者は、小遣い帳を付けるところから人生勉強をやり直してくれ。

(軍事板)


 【質問】
 日英同盟の解消はどちら側に原因があったのでしょうか?

 【回答】
 日本側にある.

 まず,第一次大戦で同盟を理由に参戦した割には,欧州には大した戦力を送らず,そのくせ大陸での利権を掻っ攫おうとした態度が英国の世論を大きく刺激した.
 大規模派兵が兵站能力から不可能だったのは言うまでもないが,世論とは得てして感情的なもの.

 また,当時外務次官で日本の外交を一手に担っていた幣原喜重郎が,旧来の同盟による勢力均衡という習慣を断ち切り,国際協調によって平和を保とうという理想を持って外交を進めたせいでもある.

 なお,イギリス側の意見としては,連邦内ではオストラリア,ニュージーランドが同盟継続.
 南アフリカは中立だがウィルソン主義に賛同.
 カナダが強行に同盟継続反対.
 政府内としてはカーゾン外相,チャーチル植民地相,連盟担当のバルフォア枢密院議長,チェンバレン国爾尚書,陸海軍大臣,参謀総長まで,全て同盟継続派だった.
 日本の意思が同盟継続ならば,イギリスも同盟解消に積極的に動くことはなかっただろう.

▼ 以下引用.

――――――
「もし幣原喜重郎という当時の日本として稀(まれ)な外交官がイニシアチブを取って代案を作ってこれを破棄していなければ,英国はとうてい自分からは破棄を言い出せなかった」

http://www.okazaki-inst.jp/061202-tokyo.html
――――――

――――――
 ワシントン・・・会議開催<(1921〜22年)>当時,<外務次官を経て>駐米大使であった幣原喜重郎<(1872〜1951年)>は,全権としてこの「ワシントン体制」の構築に深く関与しました.
 ・・・イギリスは当初,日英同盟の内容を実質的には変更せずに,アメリカを加えた「日英米三国協商」を提唱しましたが,これに対して幣原は,イギリス提案から軍事色を取り払い,何か問題が起きた際には関係国間で互いに協議するという試案を英米両国に提示しました.
 この「幣原試案」をもとに日本・イギリス・アメリカ・フランスの4カ国で協議が進められ,1921年 12月13日に4カ国代表が本条約に調印,日英同盟はこれに吸収される形で解消されました.

http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/shidehara/01.html
――――――


 【質問】
 どういう状況を作れば,日英同盟が継続できたでしょうか?

 【回答】
 英国にとっても同盟に価値があるという状況を作り出すことかと思います.

 英国にとって日英同盟は,英国の東アジア権益に対するロシアの脅威に対抗するためのモノでしたので,日露戦争終結後,独の台頭も手伝って英がロシアと仲良くなり,この脅威がなくなると基本的に必要ないのです.
 日露が終わってしばらくすると不要論が出始めてきます.

 しかしながら,日本がこれを理解せず,列強の東アジア権益を露骨に狙ってしまったり,植民地の独立派を助けてしまったり,米を仮想敵国として海軍増強を行い続けた(英国としては米との戦争に巻き込まれたくないです)結果,新たな脅威として目をつけられてしまいました.

 第一次大戦が勃発して英国が同盟に価値を見出したのですが,ここで日本が行った協力を,英国は同盟国として不十分と考え,むしろ権益への脅威とする見方が強くなっちゃったんです.

 平間さんの日英同盟の本とか,日英交流史の三巻あたりが参考になると思います.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第2次大戦までの,日本の対英感情,英国の対日感情はどんなものだったのか?

 【回答】
 日本⇒英国:尊敬の対象であり,模範.
 英国⇒日本:まあ友好的.日本を教えたことを誇りにする地域も.

 言うまでもなく,この関係は戦争で台無しに.

 以下引用.

 日本協会が創立された1891年には,日本に関心を持つイギリス人はごく少なかった.奇特な学者や外交官だけが日本に関心を持っていた程度で,普通の人は日本の存在さえも知らなかった.
 この奇特な学者や外交官達が日本協会を作り,民間の日英交流が始まったのだが,20世紀の初めに,日英同盟が締結され,親交の時代が20年足らず続き,それから第2次大戦に入って,日英は敵と味方に分かれてしまった.
 日本の戦争捕虜になったイギリス人の中には,今もって強い反日感情を持っている人も多い.

 この戦争の時期を除いて日本人は,概してイギリス人から快く,友好的に受け入れられてきたと思う.
 日本人に造船技術を教えたことを誇りにしているグラスゴーでは,戦争中でさえも,日本とのつながりを断たないといって,日本とグラスゴーの友好協会を残しておいた.
 この時期,日本人はイギリス人を尊敬し,先生と敬い,日本は東洋のイギリスになりたい,あるいは東洋のイギリスであると称していた.

マークス寿子著「大人の国イギリスと子どもの国日本」
(草思社,1992/7/20),p.237

 一方,グラスゴーのような例まである国とは対照的に,「我が闘争」でアジア人を劣等民族呼ばわりしているような国と,日本は同盟を結んだのだから,どう考えたって選択ミスとしか思えない.


 【質問】
 第二次大戦まで日英同盟が存続していた場合,日本も英にならい,ドイツに宣戦布告してたのでしょうか?
 それともソ連を警戒して見合わせていた?

 【回答】
 何ともいえない.
 一言で日英同盟といっても2回改定されているので,もし同盟が存続していたとしても,1939年の時点での内容を決めない事にはわからない.

 仮に第二〜三次同盟を前例とするならば,英国の宣戦と同時に日本も宣戦する事になる.

 第一次日英同盟の参戦義務は,

・1国と戦闘状態になったときは同盟国は中立を守り,その他の国の参戦を防ぐよう取り計らう
・2国以上と戦闘状態になったときは同盟国も参戦する

 前者にしたがって,日露戦争でイギリスはロシアに対して中立を守った.
(ただし日本への援助ならびにロシアへの嫌がらせを頻繁に行っていた事は事実)
 ロシアの衛星国も日本に宣戦していたから後者の項目が発動してもいいんだけど,それは大人の事情で無視された.
 この状態で公式な宣戦布告の理由にするには,ドッガーバンク事件のごとき出来事が起きて,かつ,参戦するだけのメリットと必要性がないと無理だろう.

 その仮定でイタリアが宣戦すると,イギリスは独伊2国と戦闘状態に入るので,日本は自動的に独伊へ宣戦布告することとなる.

 ただし,やっぱり最終的には同盟の締結内容によるだろう.
 交戦可能な相手国の除外規定として,第三次同盟ではアメリカが指定されていたので,それと同じようにドイツが指定されてたりしたらどうにもこうにも.

軍事板


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 ワシントン会議で,当時の額で1億5千万円の巨費を投じて開発していた山東地域は,中国に返還させられた.
 アメリカはこれで,大いに中国に恩を売った.

 一方,日本が手に入れたものは,「国際協調」という約束だけだった.
 いくら美しい目的を掲げても,行われた事は外交テーブル上の戦争で,結果はアメリカの一人勝ちだった.

(小林よしのり「戦争論」3,p.216)

 【ツッコミ】
 身の程をわきまえずに大戦中、火事場泥棒的に「対華21箇条要求」なんて横暴な事をした懲罰だよ。
 みんなで仲良く切り分けていたパイに砂かけてどうすんだよ?
 あらかじめイギリスかアメリカと示し合わせてからやりゃいいのに、抜け駆けするから・・・
 カイザー・ヴィルヘイムより外交感覚が無いよ。

 そもそも,日本政府が山東利権をいかに確保する気だったかを無視して「返還しただろうが」と言われても …….

 ワシントン会議直前の日本の閣議決定の方針は
1.最低限、無条件返還はなし
2.できれば山東鉄道は合弁経営
3.鉱山資源は中国に独占させない
だった。

 んで,鉄道経営に関しては,途中で
「中国の長期借款(しかも鉄道経営者は日本人)という形式で当分確保」
に変わる。
 交渉は最終的に中国全権団の分からず屋ぶりにウンザリした米英全権団の好感と努力に助けられ,上記の目的を達成(無条件返還なし、鉄道は中国への長期貸付(運営陣日本人参加)、鉱山は日中合弁)

 無条件返還にこだわっていた中国に比べて明らかに成功しているわけだが.

 それから,条約に基づいて、米英が西太平洋の軍港を要塞化するのを放棄した事は無視ですか?
 イギリスが戦艦8巡洋戦艦8を基幹とする太平洋艦隊配備計画を諦めたのは無視ですか? おかげで太平洋戦争開戦時に日本軍は楽勝で香港・シンガポールとグアムを陥落できたのですが。

(軍事板)

 【質問】
 アメリカはハワイ、イギリスはシンガポールという重要拠点を要塞化制限から巧妙に外しましたが何か?
 日本は台湾すら要塞化できなくなりましたが何か?

 【回答】
>シンガポール
 艦隊無き軍港がそんなに脅威か? 

>ハワイ
 ハワイが無ければ、米海軍の太平洋での活動なんてほとんどできないじゃん。
 貧乏国相手に、何でそこまで妥協してやらなきゃいけないんだか。
 一方で,アメリカはフィリピンを防衛する手段を失ってるし。

 フィリピンの問題といい、軍縮によって日本の財政破滅が逃れられたことといい、日本はワシントン条約のおかげで太平洋戦争が出来たようなもん。

 こんなこというと、
「それはすべて,アメリカが日本と戦争するために仕組んだことだ」
なんてことを言いだすく奴が現われそうだが、それは完全な妄想なんでその辺よろしく。

>台湾要塞化

 日本は(条約批准しようがしまいが)一枚看板の艦隊を使って,太平洋のど真ん中で一撃必殺の迎撃型艦隊決戦をするつもりだったでしょ。
 台湾まで防衛戦が下がる状況じゃ、既に艦隊は澪付く屍になってて史実通り「負け」じゃん。
 後方で予備艦を再編成する余裕のある米英と違って、意味無いと思うなぁ。

(軍事板)


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 この会議〔ワシントン会議〕では中国政策として「9ヶ国条約」が結ばれた.
 中華民国を含む9国が一致協力し,将来,中国の政情が安定すれば各国は不平等条約を解消、既得権を放棄するという実に理想主義的な条約だった.

 地理的に,欧米諸国とは比べものにならないほど満州などの問題が重要な日本にとって,他の国との「一致協力」には不利な点が多く,維新も傷つくことになった.

 それでも日本は「国際協調」に賭けたのである.
 戦争が起きないように欧米と足並みを揃え,中国の政情が安定することに賭けた.

 ところがまずこの「9ヶ国条約」を破ってきたのは他ならぬ中国だった!

 中国は政情の安定どころではなく,いまだに各軍閥が内戦を続けている段階で,世界各国の租界でテロを起こし,略奪を繰り返してきた.
 こんな場合は他の国が一致協力して対応するという約束だった.

 ところがアメリカは,自分が提案したルールを勝手に破り,他の国と違って中国に好意的だという態度を示し,抜け駆けで利権を得ようと画策した.

 もちろんそれは,アメリカが中国に租界を持っていなくて,他の国のようにテロの被害に遭っていないから言えたことだが…
 例によって彼らは,自分たちが一番,中国に良心的に対応していると思い込んでいた.

 中国人は,アメリカの譲歩はテロの容認だと受け取り,さらにテロを激化させた.
 言っておくが,この軍閥によるテロは,民族自決のための抵抗のテロではない.
 彼らの目標は天下のみ!
 彼らは中国民衆から略奪していたから,租界に中国人が流入していたのだ.

 そして結局は,各国が独自に行動するようになり,「9ヶ国条約」は全く無意味になった.

 そんな中,日本は極めて忠実にこの条約を守っていたと,当時の駐支各国外交官全員が認めていた.

(小林よしのり「戦争論」3,p.216-217)

 【ツッコミ】
 最近の戦間期の研究だと、九ヶ国条約の内容は日英も一応は考えていた(時期は不明確なのがミソ)
「将来的な既得権排除」
をただ確認しただけで、それは結局何の争点にもなっていなかったし、 焦点である現状の日英の既得権益は,アメリカの全権団がバランスとって承認したのが確認されてる。

 他のワシントン会議の個別案件としての山東、21ヶ条、シベリア、海軍軍備、 いずれにおいても日本はむしろボロ儲けなんて見方をしてる。

 というか「9ヶ国条約が条文通り遵守されていれば」自体、上述のように実際には色々日英米でお約束があったわけで、それが「日本に不利」云々とは無縁。
 ついでに言えば,中ソという潜在的地域大国を参加させていない、かつ同床異夢のワシントン体制に,そもそも欠陥があったとも言える。

 中国での特権放棄をアメリカが率先したのは事実だが、ケロッグやらスティムソンやらのアメリカの機会均等・門戸開放支持者の意図には、利権と同時にアメリカ外交お定まりの
「道徳的にアメリカが勝るべき」
という面が強い。連中はむしろワシントン体制の中に民国政府を組み込むことを重視していた。

 そして,果して状況に適応していなかった「9ヶ国条約を忠実に守った」ことは評価されるべきなのか?
 上海で自作自演の邦人殺害をやり、租界で戦闘、挙げ句陸軍を投入し、租界への爆撃までやってのけた日本のどこが,
「国際強調を重視し、もっとも忠実にこの条約を守った」
と言えるのか?
 どこの,なんて名前の外交官がそんな妄言吐いたのか,具体的に言ってみれ.

 個人的には,
・ワシントン体制を見直して地域秩序の再編ををきちんとやらなかった日英米
・革命外交なんて調子付いてた民国政府、
・横でかき回したソ連、
どいつもこいつも問題ありとしか思えないけどね。

(軍事板)

上海事変


 【質問】
 ロンドン条約が「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」問題を引き起こすことになったのは何故か?

 【回答】
 山田朗によれば,野党による,手段を選ばぬ倒閣戦術として利用されたため.

 ことは,条約調印直後,野党,政友会(犬養毅総裁)が議会で,この条約を調印したことは「統帥権干犯」ではないか,と政府を追及したことに始まる.
 天皇の統帥権を補佐するのは,海軍の場合,海軍軍令部長(当時,加藤寛治)であるので,その軍令部長が反対する条約を政府・海相が無理矢理結んだのは,天皇の統帥権を犯すものだ,という論理である.
 「統帥権干犯」というインパクトのあるスローガンを作ったのは,「国家改造」運動の黒幕・北一輝であるとも言われている.
 その「統帥権干犯」を,政友会が利用したのである.

 だが浜口雄幸内閣は,協調外交(篠原外交)・財政緊縮(井上財政)路線を堅持するためには,軍縮実現は譲れなかった.
 憲法学者・美濃部達吉の学説を拠り所にして「干犯論」に対決,条約批准審査を行う枢密院への工作にも成功し,なんとか10月2日に条約批准へと持ち込んだ.

 それでも,ロンドン条約を巡る紛糾は,財部海相失脚と条約派軍人の没落を招いただけではなく,11月14日には浜口首相狙撃事件を引き起こし,軍部・右翼による政党政治否定の「国家改造」運動を高揚させるきっかけとなるなど,以後の政治との関わりでは,極めて深刻な後遺症を残した.

(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.122-124,抜粋要約)

 この統帥権は,ドイツ法の影響と、帷幄権限(軍事に関する事項を閣議に通さず天皇に上奏できる権限) から生まれた慣習的な考え方で、当時でも

 a)統帥権自体を認めない説
 b)統帥権という概念は認めてもその政府からの独立を否定する説
 c)統帥権の独立を肯定するものも統帥権の独立とは、もっぱら作戦行動についての独立であって、個別の作戦行動を離れた予算や人事に関しては統帥権の問題とはならないと考える説
 d)軍の編成については帷幄機関にも発言権があってしかるべきだとする説

などがあり、c)説が通説で、軍令部や政友会の主張のd)説は少数の異端説。

 というのも,犬養らの主張は,明治憲法の
第11条『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス(統帥大権)』
と,
第12条『天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(編制大権)』
との混同で,統帥大権と編成大権は別々の大権.各々の大権が別の大権を犯すと言うのは明らかにおかしな話。
 仮にそれが正しいとしたら
第十五条は『天皇ハ爵位勲章……ヲ授与ス』
とあるので,恩賞権は独立して総理大臣が関与できない事になってしまう。

 なお,犬養自身は軍縮条約に賛成だったが、政権奪取のため,あえて持論を押さえた.


◆◆満州事変


 【質問】
 大陸進出が国の政策として確立されたのは,いつ頃か?

 【回答】
 1926年頃だという.
 以下引用.

 1894〜95年の日清戦争後から陸軍が主張し始めた大陸進出論に対抗して,海洋発展という新たな海軍戦略の思想を打ち出したのは佐藤鉄太郎中将(鈴木貫太郎中将と同期)で,1892年,大尉の時に「国防私説」,1902年,少佐のときに「帝国国防論」を書いて世論に大きな影響を与えた.

 陸軍は,最後の決戦を戦うのは陸軍であるから,国防は陸主海従でなければならないと主張し,かつ大陸進出の必要性を強調していた.
 佐藤はこれに対し,
「島国である日本は海主陸従でなければならない.
 イギリスは大陸征服に向かわず,富を海外に求めて繁栄している.
 侵略征服する国は必ず滅びる事は,歴史が証明するところである」
と論じた.

 当時,海軍は制度上,陸軍の下位にあった.
 陸軍大将か中将を庁とする参謀本部の中に海軍軍令部が置かれていたから,軍令部の独立はかねてからの海軍の悲願だった.
 山本権兵衛海相は,佐藤の「帝国国防論」を武器として陸海軍対等を主張,03年の暮れにようやく軍令部が独立した.
 しかし,大陸進出論と海洋発展論は並列のままだった.

 日露戦争から4年後の09年,佐藤大佐はさらに論を進めて「帝国国防史論」を出し,
「国防よりも大陸の発展,満州と中国における事業を重視する誤った考えがあるが,国防より侵略に走る事は亡国の原因になる」
と論じた.
 山本時代の海軍は一貫して,大陸進出に反対した.
 ロシアが敗れて国力が低下すると,海軍のみではなく,財界とその支援を受ける報道界も,大陸進出に反対するようになった.
 先鋒となったのは「東洋経済新報」であり,13年には満州放棄論を唱え,次いで小日本主義(大陸に進出せず,軍備拡張を避け,国内開発を優先する)を打ち出した.
 この年,海軍は佐藤の執筆になる「国防問題」を発表して海主陸従を主張し,経済発展と人口問題の解決を大陸に求めるのは誤りであるとして,大陸進出論の見直しと陸軍の拡張中止を求めた.

 この13年に発足した山本内閣は,こうした新政策の実行に乗り出したが,翌14年のシーメンス事件で山本大将は予備役編入となり,大陸進出論は再び勢いを得た.

 しかし15年から海相,22年から23年までは首相兼海相として大正期の海軍をリードした加藤友三郎大将もまた,大陸進出論には反対を続けた.
 加藤海相は21年11月から22年3月まで,全権委員の独りとしてワシントン海軍軍縮会議に出席したが,原敬首相と戦略思想において一致していた.
 帰国後,首相になった加藤大将はないから,米英との軍核戦争で勝ち目は大海軍の建設は諦め,大陸進出を見直し,シビリアン・コントロールを導入して軍縮を進めるという施策に着手したが,翌23年,病を得て辞任,間もなく死去した.

 大正最後の年となる1926年,加藤寛治軍令部次長は講演の中で,大陸は日本の死活地域であるとした.これまでの海軍の戦略思想を転換して,陸軍と同調したのである.
 軍令部次長がそうした場で私見を開陳する事はないから,あらかじめ財部彪海相,鈴木貫太郎軍令部長の承認を得ていたと見て間違いないであろう.
 こうして,経済・国防両面に於ける大陸進出が,国の政策として確立されたのだった.

「世界の艦船」2005年8月号,p.84-86(左近允尚敏 Sakonjoh Naotoshi 著述)

 国内で資源が殆ど採れない日本の陸軍が,初めに着目したのが中国大陸の資源だった.
 1917年(大正6年),中国北部や中部の資源調査を行った参謀本部の小磯国昭少佐(のち首相)は,「帝国国防資源」の中で,
「支那の原料を欧米人に壟断せられざるの処置あること緊要なり」
と指摘した.
 小磯は,朝鮮半島の釜山と日本本土を海底トンネルで結ぶ鉄道建設構想も提案している.
 背景には,島国日本が経済封鎖されることへの恐怖感があった.

 陸軍はまず,満州(中国東北部)を国防資源の確保先として狙った.
 関東軍高級参謀の板垣征四郎は,満州事変を起こす半年前の31年(昭和6年)3月,満州の重要性について,
「(満州は)国防資源として必要なる殆んど凡ての資源を保有し,帝国の自給自足上絶対必要」
と強調した.

 翌32年,満州国建国で,日本は大豆,コウリャンなどの他,鉄,石炭などを手に入れた.
 だが,石油は,満州や,37年(昭和12年)からの日中戦争で占領した中国国内では見つかっていなかった.

読売新聞 2005/12/22


 【質問】
 田中上奏文とは?

 【回答】
 日本の大陸侵略意図の証拠として使われてきた,プロパガンダ用の偽文書.
 当初から偽文書と判明していたが,中国では本物として広まっているという.
 以下引用.

 昭和2年に政府が中国関係の外交官や軍人を集めて開いた「東方会議」の内容を当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書を装い,「世界を征服しようと欲せば,まず中国を征服しないわけにはいかない.これは明治天皇が遺した政策である」などと書かれている.
 4年に中国語の印刷物が現れ,英語版やロシア語版も登場した.
 あり得ない日付が記されるなど事実関係の誤りが多く,当初から偽文書と判明していたが,中国では本物として広まった.
【2006/03/02東京朝刊から】

産経朝刊 2006/03/02/09:26


 【質問】
 昭和2年(1927)の南京事件とは?

 【回答】
 2百人の中国軍兵士と女子供を含む数百人の一般人暴徒による各国領事館銃撃事件.
 英国人2人,日米伊仏デンマーク人各1人が死亡,
 暴行,略奪は床板,便器空瓶にまで至った.
 このとき日本は完全無抵抗を貫いたが,米英は軍艦より砲撃.

 後に北京のソ連領事館を捜索したところ,クレムリンからの「指令」文書が発見され,これにより,領事までもが殺されそうになったイギリスは,ソ連と断交 した.

 この事件について中国刊行の「中国歴史」は現在,
「・・・英,米,日などの帝国主義は狂ったように南京城を砲撃し,中国軍民二千人余りを死傷させた・・・」
などと記述している.

がおまる in mixi


 【質問】
 済南事件とは?

 【回答】
 昭和3年(1928)に起きた,中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件.
 略奪被害戸数136,被害人員約400.

 中国側も立ち会った,済南医院での日本人被害者の検死結果は,以下の通り.

藤井小次郎
 頭および顔の皮をはがれ,眼球摘出.内臓露出.陰茎切除.

斎藤辰雄
 顔面に刺創.地上を引きずられたらしく全身に擦創.

東条弥太郎
 両手を縛られて地上を引きずられた形跡.頭骨破砕.小脳露出.眼球突出.

東条キン(女性24歳)
 全顔面及び腹部にかけ,皮膚及び軟部の全剥離.
 陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり.
 両腕を帯で後手に縛られて顔面,胸部,乳房に刺創.助骨折損.

鍋田銀次郎
 左脇腹から右脇に貫通銃創.

井上国太郎
 顔面破砕.両眼を摘出して石をつめる.

宮本直八
 胸部貫通銃創,肩に刺創数カ所.頭部に鈍刀による 切創.陰茎切除.

多比良貞一
 頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創.
 腹部を切り裂かれて小腸露出.

中里重太郎
 顔面壊滅.頭骨粉砕.身体に無数の刺創.右肺貫通銃創.

高熊うめ
 助骨折損,右眼球突出.全身火傷.左脚の膝から下が脱落.
 右脚の白足袋で婦人と判明した.

 他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され,人定は不可能であった.

がおまる in mixi


 【質問】
 陸軍悪玉論って,いつ頃,何を根拠に広まったんですか?

 【回答】
 出版事情がややよくなってきた昭和25年ごろから戦記ブームが起きて,その初期は海軍関係者ばかりが回想を発表した.
 当然ながら自分たちに戦争(敗戦)責任はなく,陸軍の無茶苦茶な作戦で負けたんだって内容.
 これがどんどんエスカレートして,開戦責任も陸軍だけに押し付ける論調が形成されてしまった(昭和30年代初期).
 陸軍関係者はこのころから慌てて,自己弁護を含む回想を大量に出版し始めたけど後の祭.
 かくして歴史は作られたんだよ.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 もっともプロパガンダというものは,人々をして信じさせる素地がないと成功は難しい.
 「陸軍悪玉論」の場合,その素地があった.

 大陸利権の保護を名目に戦争を主導したとされるのが陸軍だからだ.
 そもそも満州事変起こしたも陸軍だしな.
 東条が首班として戦争を指導したのも,地味に大きい.

 しかし海軍や議会,国民がまったく無罪かと言えばそんなことはないと思う.
 人は責任を押し付け合い,悪者探しする生き物だってこったな.

モッティ ◆uSDglizB3o in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「海軍悪玉論」ってどうよ?

 【回答】
 対中戦争の方の経緯を無視した論.
 そっちの方で米の中国利権と衝突,禁輸措置,石油確保のための南方進出ってあるのであって,海軍がいきなり石油を求めだして,米に喧嘩売ったわけではない.

 海軍だって対米戦は苦戦するどころか勝ち目が薄いから,なるべく戦いたくないって解答してる人たちもいた.
 山本五十六を筆頭として.
 特に,通商破壊されたら守りきることが出来ないし,手も足も出ないってのは,研究分析されてとっくに判りきってた
(米の保有潜水艦数と日本の保有対潜駆逐艦数からしてもう…)

 それでも,
「やれるか?」
と訊かれたら
半年ぐらいは戦えます」
って答えなくちゃならなかったのが,軍人の辛いところであり,それは陸軍も同じ.
(近衛が山本から聞いたという「半年は暴れて見せます」発言自体の信憑性も問われているけどね)
 全部,海軍がそうした政府内調整や外交方針や交渉の手動権を握ってたとかいうんでなければ,海軍が突っ走ったとかいうのは言いがかりでしかない.

 もちろん,海軍は対米戦には消極的だったというのも間違い.
 支那事変当時から,渡洋爆撃や空母による沿海都市爆撃,長江を遡っての武漢三鎮攻略の支援くらいしか出番のなかった海軍内では,不満が燻っていた.

 同様に陸軍にも,英米可分論を唱えて対米戦には消極的な一派もあった.
 しかしだからといって,陸側の良識派の一部の声だけ根拠にして,「陸軍が対米戦に消極的だった」なんて論理は明らかに間違い.

 結局,陸海両方の良識派は陸海軍の強硬派の声を抑えきれずに,戦争に引きずられて行ったんだから.

 禁輸措置がとられる前と取られた後とで,米英との交渉やら何やらで難航や失敗や強硬に出ているのが,南方進出までの経緯にあるのであって,つまりあれは当時の「日本全部が突っ走った」でFA.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 満州事変って何?

 【回答】
 満州事変 Manchurian Incident は、1931年(昭和6年)9月18日の柳条湖事件をきっかけに,関東軍が閣議も無視して,5ヶ月間で満州全土を占領した紛争.
 これを機に抗日運動が激化し,また,満洲国建国により,中国市場に関心を持つアメリカら列強との対立も深刻化した.
 「戦術的には成功,戦略的には失敗」の典型.

 【参考ページ】
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E4%BA%8B%E5%A4%89/
http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/mukden%20incident.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-5/ad1931a.htm
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161533345/content.html
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%CB%FE%BD%A3%BB%F6%CA%D1

【ぐんじさんぎょう】,2009/9/24 23:00
に加筆

 国家の戦略的統一性が,最終的に崩壊した事件.

しまだ in mixi,2009年09月24日 07:52

<満州事変前後の無駄知識>

●満州において,軍が警備地域以外に出動するには,領事館の出兵要請が必要だった.
 張作霖爆殺事件のとき,軍は領事館の要請を受け出動しようとしたが,総領事館の要請が来ず失敗.
 その為,満州事変のときは満鉄線路爆破を口実に,総領事館の要請を受けずに出動した.

●満州事変前,張学良の満鉄包囲鉄道の影響で,満鉄の収益は激減し,株式の配当金が半額になった.

●建川美次少将が満州に来て,石原か板垣を呼び出そうとしたり,奉天の24p砲が調子が悪いから,と旅順から運ばせたり,大川周明から板垣へメッセンジャーが来たりと,現地では「何かあるのではないか?」と予感する者が多かった.

●土肥原健二少将は新聞記者が来れば,昼からでも,ウイスキーを勧めるような豪快な人物だった.

●上海事変の爆弾三勇士のことをマスコミに語った田中隆吉(上海駐在公務館付き陸軍武官補佐 少佐)に怒った海軍陸戦隊士官が,田中を襲撃.
 田中は一筆書いて許してもらったが,陸軍省の抗議により,田中を襲撃した士官は内地に戻された.
 この田中を襲撃した士官が,後に五・一五事件を起こす三上卓中尉である.

●満州国建国前,この国の政治首班に誰を据えるかの議論をしたとき,山東省に居た孔子の子孫を首班に据える案がでた.

●リットン調査団が満州に来た時,リットンも他の随行員も,蒋介石,張作良よりも,溥儀の方が人物が上,と評価していた.

ベタ藤原 in mixi,2007年02月06日09:08

 昭和史なワシのばーさん.

・京都生まれだがかなり良家ぽい

・その証拠に京都から東京の師範学校に進学

・学校ではトイレでタバコ吸ってたらしい

・そうするうちに関東大震災に遭遇

・学校が焼けたので辞めて京都に帰る

・帰ったら,養豚場の息子さんとの縁談が来た

・養豚場が嫌なので逃亡

・逃亡して満州に渡る

・このあと数年間空白,関東軍の従軍看護婦になってたりしたらしい

・満鉄職員の祖父と結婚

・敗戦後引き揚げ

 よくわからんのは,大正から昭和初期の10代女性が,ほいほいと満州にいったりするもんなんだろうか?と言う事だが( ・・)/

緑川だむ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年07月15日 12:39


 【質問】
 柳条湖事件に使われた爆薬の威力は?

 【回答】
 レールと枕木の被害は『奉天駅史』によれば,
「長春側軌条約一0サンチ,大連側軌条約七〇サンチ破損」

 どうやら破損個所がコーナ-部分だったため,ほとんど列車走行に影響しなかったということらしい.

 爆発が小規模だったのは花谷証言によれば以下の通り,
「今度は列車をひつくり返す必要はないばかりか,満鉄線を走る列車に被害を与えないようにせねばならぬ.
 そこで工兵に計算させて見ると,直線部分なら片方のレールが少々の長さに亘つて切断されても,尚高速力の列車であると一時傾いて,すぐ又走り去つてしまうことが出来る.
 その安全な長さを調べて,使用爆薬量を定めた」

ヨッチ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 柳条湖事件の動機は?

 【回答】
 参謀本部次長福島安正が作り上げた,在外公館の武官によって行われる諜報活動,工作活動と言うのは,それなりに成果を上げました.
 しかし,1919年のシベリア出兵の様に,戦争が大規模化し長期化すると,こうした片手間な体制では情報収集や工作活動が不十分になると言う弊害も生み出します.

 そこで,組織的に情報収集や工作活動を行うために,シベリア派遣軍が駐屯する要地,つまり,ウラジオストク,ハバロフスク,ブラゴベシチェンスク,哈爾浜,チタ,イルクーツク,オムスクの各地に特務機関が設置され,現地工作を担うことになります.

 シベリア撤兵後は,対ソ戦の見地から,ソ連に程近い満州北部の満洲里,黒河,綏芬河に設置され,ソ連地域への浸透工作を行っていました.
 一方,軍人にはソ満国境地帯,満州一帯での調査活動を禁止していたので,彼らは屡々民間人,特に南満州鉄道に出向の形で民間人となり,それを隠れ蓑に情報収集や工作活動を続けました.

 こうした特務機関の情報将校の一人に神田正種と言う将校がいました.
 彼は1919年に陸軍大学を卒業後,1920年4月に参謀本部第二部ロシア班に配属されたのを皮切りに,1922年3月にウラジオストク特務機関の業務補佐,6月には黒河特務機関に転属し,対ソ情報活動に従事しました.
 1924年3月に,この黒河特務機関が閉鎖になると,一旦ロシア班に戻りますが,1925年8月からは満鉄哈爾浜支社調査課嘱託として出向し,1927年12月までそこを拠点に情報収集,工作活動を進めたという,根っからのスパイマスターな人です.

 満鉄に出向している際に,彼は,将来勃発するであろうソ連との衝突に備え,日ソ両軍の衝突地点と目された地点を実地探査し,兵要地誌を作成します.
 彼はソ連の実力について,当時は革命の混乱から立ち直り,シベリア鉄道の輸送力も回復,有事の際にソ連が軍隊を移動する能力が向上していると喝破し,それに比べ,日本は関東軍が遼東半島に駐屯するにも関わらず,主要兵力を内地から送る必要があり,動員に多くの時間を費やすであろうと予測し,日ソ両軍の衝突地点は,シベリア鉄道沿線ではなく,東支鉄道の沿線,特に斉斉哈爾辺りであろうと予想し,それに勝利する為には,ソ連軍の移動に最も力を発揮する鉄道の破壊工作と,日本の生命線たる南満州鉄道の保護に最も力を注ぐ必要があると考えました.

 この為,彼は大興安嶺付近,ホロンバイル草原の調査活動,満鉄所蔵の各種ロシア関係資料の収集,精査,東支鉄道関係資料の収集に加え,1927年3月から7月にかけて実際にシベリア鉄道を用いて欧州出張まで行い,モスクワでは鉄道関係資料の収集に輸送力の算定までやってのけました.

 1927年秋にはこれらの資料を基に,『満州沿海州経略私案』を自費出版すると共に,1928年にはロシア班長の笠原幸雄と駐旅順関東軍司令部付大佐の河本大作に対し,『対露謀略要綱』を提出しています.
 その骨子は前述の通りですが,当時張学良政権との関係が悪化し,東支鉄道の日本軍による利用は先ず望めないものであり,ソ連が進出した場合でも張学良軍がそれを阻止する事はないと言う考えを述べており,日本が先ず採るべき方策としては,東支鉄道の破壊工作を重点的に行い,満州北部を防衛すると言う考えでした.

 その後,彼は朝鮮軍の情報参謀として転出しますが,間島地方での謀略活動と其処を起点にした沿海州に対する情報収集,工作活動を展開していきます.

 こうした活動の中で,元々満洲防衛を主体とした考えは,満洲の軍事占領,植民地化へと変貌し,最終的に板垣征四郎,石原完爾らと協力して満洲事変に関与していくことになりました.
 つまり,満洲防衛の為には,満洲を自由に使用し,経済力を培養する必要がある事,また,ソ連に対する鉄道網の整備を行う事が必要で,それを現在の張学良政権を始めとする軍閥には任せておけない,と言うことは,日本が満洲を経営するしかない,となっていった訳で.

 こうして,石原完爾,第二部第四班長の橋本欣五郎等と幾たびか会合を持ち,朝鮮軍司令官が彼らの活動を快く思っていなかった南次郎から林銑十郎に代わったことで,具体性を帯び,遂に柳条湖事件(1931/9/18)を引き起こしました.

 朝鮮軍はこの時,関東軍を支援して満洲に越境出動したのですが,これは統帥権の侵犯であり,陸軍刑法に十分抵触する行為です.
 朝鮮軍は天皇直隷の軍の一つであり,朝鮮半島の守備を任されている訳で,この範囲外に出る場合は,天皇の事前の勅裁乃至,事後に於ける勅許が必要となります.
 さらに,作戦動員計画に対しては参謀総長の区処を得る必要がありました.

 これを無視した林銑十郎の行為は,宮中,参謀本部,若槻礼次郎内閣でも認められず,進発部隊である第20師団歩兵第39旅団は進発停止の命令を受け,新義州にとどめ置かれました.
 しかし,林銑十郎はこれをも無視する形で越境を命じた訳です.
 この行為が元で,林銑十郎は以後,「越境将軍」と言う不名誉な名前を奉られることになります.

 しかし,彼の信念の底には,意外なのですが,トゥラン主義がありました.
 つまり,朝鮮,満洲,モンゴルの諸民族は日本人と同様,ウラル=アルタイ語族に属し,これらは広い意味でのトゥラン民族であり,将来的にはこれらを合わせた一つの大国家建設に向かっていくべきだとの考えです.
 林銑十郎は,朝鮮,満洲,モンゴルの諸民族は,日本の支援を得て,満洲において一つの国を建設していくのだと考えており,これであれば,民族自決の理にも適う訳で,国際世論も納得するであろうと言う読みでした.

 因みに,林銑十郎と言う人,朝鮮軍司令官の後,1934年1月から1935年9月まで陸軍大臣に就任,さらに1937年2月から6月の短期間ですが,内閣総理大臣にも就任しています.
 で,内閣総理大臣退任後,何と大日本回教協会の会長に就任しました.

 まぁ,一種ロマンな人だったりする訳ですが,それに振り回されて,そのロマンの為に15年間戦争の真っ直中に置かれた国民は,悲劇だったのかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/30 21:13


 【質問】
 政府や陸軍中枢が満州事変を事前に止められなかったのはなぜなのでしょうか?
 いくらなんでも,一個師団丸々が独断で動くとしたら,バレそうな気がするのですが…

 【回答】
 事変が起こる前としたら,バッチリばれていました.
 しかし,先の三月事件程度のクーデターごっこと舐めていたのか,あまり本気で止めるつもりがない,若しくはちょっときつく言えば止めれると思っていた模様.

 満鉄爆破は1931年9月28日に予定していたが,現地で金で買収した大陸浪人が酔って計画を喋った所為で,弾薬や軍需品を集めているという情報が漏れて,これが政府に伝わりました.
 政府は計画を止めるため,参謀本部第一作戦部長の建川美次少将を満州に派遣しまた.
 建川は18日午後に奉天に到着,その夜に招かれた料亭で
『君らの事は半分バレた.中央は止めよという.
 自分の意見は,うまくやるならやれ,駄目なら止めた方がよかろう,というものだ』
と話し,酔いつぶれて寝込んでしまいまた.

 中央が本気で止める気がないと察した石原たちは,昭和6年9月18日深夜,計画通りに鉄道爆破を実行.
 建川自身は
『まさか,その夜やるとは思っていなかった』
と後に回想していました.

 また,本来関東軍を真っ先に止めるべき筈の憲兵隊も事実上,関東軍に支配されており,その役割を果たしていませんでした.

 事変の最中に関して言うのなら,関東軍の進撃の速度が速過ぎて,国際連盟内で停戦や兵の引き上げを話し合っている間に戦果が既成事実として出来上がっていたのもあります.
 事変後ほぼ三日で関東軍は満州の中央部を抑え,朝鮮軍は東部を確保し,残るのは,満州北部と,長城線に近い西部だけとなっていました.
 また,石原は予てから意を通じていた朝日新聞を通してに戦況を流し,更には苦戦を演じて,国民からの熱烈な支持を得ることに成功しています.
 この世論が,中途半端に民主政治を行なっていた日本政府の不拡大方針を曲げてしまう事になります.
 元老の西園寺公望さえも
「幣原外交は正統派で間違いがないと支持してきたが,いかに正しいことでも,国論が挙げて,非なり悪なりとするに至っては,生きた外交をするうえでは考え直さねばならない」
と洩らす状態でした.

 そしてその後,板垣,石原の工作で,満州の軍閥各指導者らは,シナ本土からの分離独立を宣言しました.
 こうなると,早期撤退の問題もなくなり,また,
「満州の独立は満州人自身の意思だ」
という既成事実が作られました.

軍事板?

 グラフ雑誌「歴史写真」昭和8年5月号の扉に掲載された,満州事変・熱河討伐隊における川原部隊の田中挺身支隊,池上少尉が率いる「髑髏隊」の着色カラー写真.
 白黒写真にはあった髑髏白抜き日の丸旗の左右の文字は,修正されて消された様でした.
 キャプションには,「“髑髏隊の武勲”池上少尉の一隊 古北口の一番乗」とあります.

 この髑髏の記章は,おそらく一次大戦のイタリアのアルディーティ兵や,オーストリア/ハンガリー帝国のストゥルムトルッペからの影響が強いと思うのですが,どうでしょう?

よしぞう(maro') in mixi,2006年11月06日02:06

着色カラー写真の元になった写真

 白抜き髑髏の日の丸旗や大小異なる白抜き髑髏の赤い腕章,雑誌ではトリミングされていた左右の兵士等も確認出来ます.
 おそらく新聞社が撮影した報道写真を焼き増しした物でしょう.

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月18日19:11


 【質問】
 満州事変は何の国際法違反ですか?

零戦 in コヴァ =推定林間

 【回答】
 ワシントン会議の中での海軍軍縮条約が「ワシントン条約」であり,同じく,中国・ベルギー・ポルトガルを含めて締結したのが「9カ国条約」ですが,その9カ国条約はの主旨は

[1]中国の主権,独立,領土的・行政的保全を尊重すること
[2]中国が自ら有力かつ堅固な政府を確立するため,完全にして障害のなき機会を供与すること
[3]中国の領土をとおして,いっさいの国民の商工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するため,各国が尽力すること
[4]友好国の国民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため中国における情勢を利用すること,・および,友好国の安寧に害ある行動を是認することをさしひかえること,

 一方,日本が日中戦争の講和条件として蒋介石に突きつけた諸要求が,

●支那は容共抗日政策を放棄し,日満両国の防共政策に協力すること
●所要地域に非武装地帯を設け,特殊の機構を設定すること
●日満支3国間に,密接な経済協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して,所要の賠償をすること

 以上の他,『口頭説明』として次の細目を付加しました.
●支那は満州国を正式承認すること
●支那は排日および反満政策を放棄すること
●北支および内蒙古に非武装地帯を設定すること
●北支は支那主権の下において,日満支3国の共存共栄を実現するに適当な機構を設定し,これに広汎なる権限を与え,日満支経済合作の実をあげること
●内蒙古に防共自治政府を設立すること
●支那は防共政策を確立し,日満両国の防共政策遂行に協力すること
●日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して,特殊機構を設けること.また上海市には租界外に特殊政権を設け,日支協力して治安維持と経済発展にあたること
●日満支3国は資源開発,関税,交易,航空,通信等に関して協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して,所要の賠償をすること

 (付記)
●北支,内蒙古,中支の一定地域に必要な機関,日本軍が保障駐屯するのを認めること
●前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する

 明らかに,9カ国条約の主旨の「中国主権の尊重」「領土保全」「列強既存利権の確約」に反してますよ.
 9カ国条約は,「満州における日本の特殊利権」は保証していますが,「中国からの満州分離」は認めていません.

 日本の満州利権の多くが清朝時代に締結されたものであり,その清朝の後継政権である中華民国領土に満州が含まれていないと言うのは無理があります.
 中国の列強利権は,時の中国政権(地主)である清朝が列強へ特許として与えた(正確には奪われた)ものであり,地主不在となれば特許(利権)そのものが消滅します.

 北支地帯の日満支共同管理体制なんて,9カ国条約締結諸国にとっては余計なお世話であり,北支からの欧米経済締め出しと受け止められてもしょうがないでしょう.
 賠償金要求は,蒋介石政権の財政健全化に協力していた英国の努力へ水を差す行為です.
 上海に,租界の指揮下に入らない軍隊を駐留させるなんて,南支に多くの利権を持つ欧州列強への挑戦と受け止められても仕方ないでしょ.
 一番まずいのが,列強の利権が絡み合う大陸を対象にした外交交渉なのに,これら講和条件について,9カ国条約諸国への事前の根回しや説明を一切していない事です.
 そして,極めつけが近衛の「蒋介石政権を相手とせず」の馬鹿強気発言.
 これだけでも,明らかなワシントン体制の破壊と挑戦です.
 日本が独断で中国ワシントン体制をリセットしようとしていると勘ぐらない列強はいないでしょう.

 日本はもう少し,「世界の中の日本」と言う立ち位置を考えて,中国へ戦争をふっかかるべきでしたね.
 あのアメリカだって,「世界の中のアメリカ」を考えて,国連であれだけ根回ししてイラクへ戦争ふっかけたのに.それより立場が遙かに弱かった日本が,自作自演・我田引水としか見られない独走行為をするとは,頭が足りなかったとしか言いようがありません.

軍事板暫定移転スレッド in コヴァ板


 【珍説】
 中国は世界の列強国に分割統治されていた.
 租界なんかも一杯あった.
 当時,中国植民地政策は悪とはされてはいなかったのね.むしろ常識だったんだよ.

 【回答】
 まさに当時の日本はこのように考えて空気読まずに,満州以西へも侵攻しましたとさ.
 でも米の呼びかけで,中国は独立国と認めて植民地化やめましょうという合意が,日本以外の国では出来ていた訳,残念ながら.

 世界中の列強の決定に対し,そのような主張を振りかざして強引に楯突いた結果は言うまでもなし.

 それに中国が分割統治されていたってのは,激しい間違い.
 国土の大部分は国民党が統一していたし,租界なんてごく一部.
 結局中国が巨大過ぎて,100年以上かけても列強各国は植民地化を果たせず,撤退したの.
 当時の中国では列強各国は蒋介石政権を承認して植民地経営からは撤退済み.
 国際的に独立国の合法政権と承認されてる中国に攻め込んだ日本は,空気読めなさ過ぎ.

軍事板


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 中国の相次ぐテロに外交官達は,こう忠告した.
「中国が,外国に対する敵対と裏切りを続けるなら,遅かれ早かれ,1,2の国が我慢しきれなくなって,手痛いしっぺ返しをしてくるだろう」
 それは一番被害を受けている日本がやるだろうと,内心誰もが思っていた.

 そして満州事変は起きたのである!
 ところが満州事変に対する米英の反応は,日本人には理解し難いものだった.

 以前,1927年に,南京で米英の居留民が中国に襲われ,米英は自衛のために南京を攻撃した.
 この時,米英は中国人を「野蛮人」と呼んだ.

 同様に,満州で日本の居留民が中国人に襲われ,日本は自衛のために満州を攻撃したのに,米英は今度は日本人を「野蛮人」と呼んだのである.

 国際連盟はリットン調査団を派遣.
 その報告書は,日本の立場に理解を示しながらも,結論としては満州国を認めず,国際管理下に置くというものだった.

(小林よしのり「戦争論」3, p.219)

 【ツッコミ】
 関東州の租借権と鉄道の敷設権は,満州を植民地化していい理由になどなりません。

 リットン調査団の報告書は、事変後の「満足なる解決の条件」として,満洲における日本の利益の承認、内に対する治安維持、外に対する安全保障、満州の自治などを提案しています。
 日本側の要求は全て満たされたはずでした。
 治安維持を口実に元の権益以上の権益を武力によって強奪するならば、それはただの侵略でしかありません。

 南京の例など,別に米英はその事件を利用して,南京周辺全域を占領したり傀儡国家を作ったりしたわけではありませんので,満州事変と比較すること自体無茶です.
 もし仮に米英がそのようなものを作っていたら,やはり「野蛮」と非難されていたかもしれませんね.

 「満州事変に対する米英の反応は,日本人には理解し難い」? 「小林には理解しがたい」の間違いでしょう.


 【珍説】
 日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は,他の国でもやってる普通の事.非難に値しない.

 【事実】
 最近議論してよく見かける主張に
「日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は,他の国でもやってる普通の事だ,非難に値しない」
ってのがある.

 まぁ,大体の場合

日本の戦争は聖戦だ!

(突っ込み)戦争始めた時点では「資源の確保地」以上の事は決まっていませんが.

そんなことは他の国もやっている!

ってパターンなんだけどね.

 さて,少しでもデマを減らしたいと思うので書いておくが,上記はトンデモない間違い.
 ヴェルサイユ条約やワシントン条約,国際連盟規約の制定によって「領土保全」が定められ,それ以前のように「植民地切り取り」は事実上禁止となった.
 故に,もはやWW1以降の植民地戦争は違法となる.

 まぁ,特に満州事変は9カ国条約違反であり(満州事変は,自作自演の張学良爆破事件から,タンクー協定までを指す)満州国は国連から否定された.
 満州国を承認した国は,枢軸国の影響が強いか,もしくは中立国であり,こんなのは「国際的な合意」を得ていない.

 この「WW1以前」と「WW1以降」を認識していない人ってかなりいるんだよね.

 たしかに,ケロッグ=ブリアン不戦条約には欠陥があったし,9カ国条約にもいろんな欠陥があった.

 しかし,日本は批准していると言う事実を軽く見すぎ.

 WW1以前とWW1以降の世界は違うし,WW2以前とWW2以降の世界はまた違うものなのだ.

※ 「ヴェルサイユ条約」で一応,民族自決原則が出てきて,「パリ講和会議」でケロッグ=ブリアン条約が結ばれました.
 WW1後,それらの条約が「締結された」ということを言いたかっただけで.

ますたーあじあ in mixi,2008年01月04日19:00

 【質問】
 ケロッグ=ブリアン条約に欠陥があっても批准してしまうと,その欠陥を甘受しなければならないということですか?

 【回答】
 もし問題があるのなら,それこそ国際社会を動かすべきだったんですよ.

 ただ・・・当時の日本の無気力さからしてかなり難しいですねぇ・・・

 そもそも満州事変自体,関東軍の暴走だし.

ますたーあじあ in mixi,2008年01月04日 20:24

 ますたーあじあさんのように,9カ国条約などに不満があるなら国際社会に訴えればよかったんですよ.
 それこそ,満州でこそこそするよりも大々的にです.
 「合法的」にやれば,あれほどひどい結果にはならなかったはずですしね.

 本来ならこういうことは「外交の失敗例」として反面教師とすべきであり,自己の歴史の正当化に使うべきではないと思います.
 それこそ結局は「何にも学んでいない」ということになるのではないでしょうか.

ヤン in mixi,2008年01月04日 20:46


 【質問】
 満州事変は本国に独断で行なわれたのなら,その資金はどこから調達されたのでしょうか?

 【回答】
 中公新書だったかに,当時の日本の植民地支配を支えた金融政策をうまくまとめた本があるよ.
 早い話,朝鮮銀行や中国に日本が開設した銀行に紙幣を乱発させ,資金を得ていたのさ.
 でも軍は,それが日本に輸入インフレとして入ってきてしまうことまでは考えが及ばなかったようだ.
 これによる日本経済の破綻が,あの戦争の重要な要因だったりもする.
 中国でのアヘン経営資金は事実上,岸信介個人の活動資金の一部しか賄えなかったという説もある .
 で,岸は日本に帰る際,この資金だけじゃ足りなくて,現地物資を大量に横領隠匿横流ししたりして,戦後の政治活動資金を得たりしたわけだ.


 【質問】
 エルサルバトルはなぜ日本の次に満州国を承認したの??
 日本となんにも関係無い上,アメリカの支配権の国なのに.

 【回答】
 エルサルバドルと日本は全く無関係な国ではない.

 1932年にエルサルバドルのアラウホ大統領が青年将校のクーデターで倒され,エルナンデス臨時大統領が政権の座についた折,米国,中米諸国その他の各国は,革命政権不承認の原則をうたった1923年の中米条約を尊重して,いずれも承認を行なわなかった.
 しかし,そのクーデター政権を日本は,天皇の名において承認し,エルナンデスの就任通知の親書に丁寧な返書を寄せた.
 これに依り両国の友好関係が樹立されている.
 当時のエルサルバドルが「満洲国」を実質的に,一番最初に承認したのはこの様な経緯から,という見方がある.

 しかし一方,WW2時には日本に躊躇無く宣戦布告しているあたり,エルサルバドル的にはどうでもよかったようにも思える.

 当時の大統領がかなり頭おかしくて,外交は全部,占いで決めてたって話だ.
 満州国承認も占いの結果で決めたとかなんとか.
 当然アメリカの怒りを買ったのは言うまでもない.
 エルサルバドルはリットン調査団の日本非難勧告にも賛成している,マルティネスが神秘主義や魔術に傾倒してたのは有名な話だし,巫女に占わせて満州国承認を即決という俗説も,信憑性は高い気がする.

 ちなみにエルサルバドルは「中米の日本」と呼ばれているが,これは親日国という意味ではなく,勤勉だ,という意味らしい.⇒more

世界史板
憑かれた大学隠棲 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「満鉄付属地」とは?

 【回答】
 ポーツマス条約により,東清鉄道の一部を承継した日本は,ロシアからその鉄道付属地の権益も継承します.
これが満鉄付属地と呼ばれる地域です.
 この地域は,南満州鉄道が土木・教育・衛生などを担当していましたが,名目上は中国の主権下にありました.
 実質上は,中国から見れば治外法権地域に相当していましたが….

 序でに,関東州も租借地として継承しますが,こちらは日本の主権下にある地域として,関東都督府(後の関東庁)の管轄下に置かれ,その都督府配下にあり,関東州を防衛する為の駐留日本軍が,後の関東軍になっていきます.

 当時の中国には,彼方此方に列強各国の租借地,租界,治外法権地域が存在し,彼らはその治外法権を援用する形で,中国の主要都市に自国郵便局の出張所を設け,自国に差し立てる郵便物は,国内扱いとしていました.

 1922年にようやく,中国の主権尊重,領土保全と門戸開放を原則とする九ヵ国条約が日本,英国,米国,フランス,イタリア,オランダ,ベルギー,ポルトガルと中国との間に締結され,年末限りで各国が設けていた郵便局を閉鎖する事で同意します.
 日本の場合,65カ所の郵便局,93カ所の切手売捌き所,148カ所のポストを撤去しています.

 閉鎖されたと言っても,租借地の郵便局は其の儘だった訳ですが,此処で問題になったのが,満鉄付属地の問題です.
 日本側が,租借地と同等と主張したのに対し,中国側は鉄道の付属地という特殊形態の所有地なので,中国の主権下にあると見做すとして対立.

 結局この地域の扱いは継続審議事項となり,付属地内には日中双方の郵便局が設置され,満鉄付属地相互の郵便物は,中国側の料金より低くする事は出来なくなりました.
 そのため,関東庁郵政局では域内専用の葉書を作成したり,また,付属地から中国宛の郵便物を差出す時は,中国郵政発行の切手を用いなければならないのですが,日本側から差出した場合,日本側で切手を貼り替えて中国側に引き渡す方法が採られていました.
 この為,日本側は貼替え用の切手代を予算計上しておかねばなりませんでした.

 さて,関東軍の影響下に満州国が出来た後,付属地の扱いは微妙となります.
 元々の関東軍の存在意義は,外敵から満鉄や関東州を守ると言うものでした.
 ところが,関東軍の影響下で満州国が成立してしまうと,その満鉄付属地周辺には敵がいなくなります.
 そうなると,付属地の存在意義も無くなりますので,1937年11月5日に「満州国ニ於ケル治外法権ノ撤廃及南満州鉄道株式会社付属地ノ行政権ノ委譲ニ関スル日本国満洲国間条約」により,12月1日を以て満鉄付属地の返還が決定され,満州国に於ける日本の治外法権は消滅しました.

 但し,関東州は従来通り日本の租借地となっています.

 こうして付属地内の日本の郵便局は閉鎖となり,付属地でも日本切手に代わって満洲切手が使用する事になりました.

 ところで治外法権撤廃の為には,満州国が法治国家であるという体裁がなければなりません.
 このため満州国では日本法を元にして,刑法,民法,民事訴訟法を公布した他,1941年には日本の治安維持法と同じ治安維持法が公布されました.

 因みに日本の官僚達は,満洲人や中国人から「法匪」と揶揄されるくらいの多量の法律を作りますが,近代国家には必ず有るはずの憲法は公布されず,また,満州国の国民の資格,国民の国家に対する権利と義務を定めた国籍法は存在しませんでした.

 もっとも,日本の国籍法は二重国籍を認めていなかった為,国籍法を作ってしまうと,在留邦人は満洲国籍を取得しなければならず,そうなると,日本国籍は喪失してしまう訳で…この為,国籍法は作られなかったのだと言う説があります.

 但し,満州国人民の権利・義務に関しては,1934年に公布された人権保障法が規定していました.
 とは言え,その前文には,その適用は「戦時若しくは非常事変の場合を除く」とされており,実質上機能していないと言っても過言ではなかったかも知れません.

 更に付属地の返還は,国家としての制度的な整合性を取る為に各方面に影響を及ぼしていました.

 赤十字もその一つで,満州国には1934年に溥儀が皇帝となった際の下賜金100万円を元にした恩賜普済会が活動していましたが,付属地と関東州は日本国の延長と言う事で,日本赤十字社満洲委員本部が活動していました.

 赤十字の活動は,戦地・紛争地のあらゆる攻撃から無条件で保護される為に,標章は赤十字社のみが使える事になっています.
 また,赤十字の加盟国では赤十字社とそれに相当する組織は一つの国の中で単一でなければ成りません.

 このため,付属地が返還されてしまうと,日本と満洲双方の赤十字が併存してしまい,赤十字の大原則に抵触してしまう為,関東州以外は,1938年10月1日に満洲側の恩賜普済会と日本側の日本赤十字社満洲委員本部を統合した財団法人満州国赤十字社が誕生します.

 但し,これまた満州国赤十字社は国際赤十字の正式メンバーになれなかった為,あくまでもこれは私的機関に過ぎませんでした.
 とは言え,満州国の領域内で赤十字活動が出来ないのは問題なので,国際赤十字は,満州国赤十字社の存在を黙認するという立場を取った訳です.

 黙認された存在とは言え,一応,国際機関のお墨付きを得た事は満州国にとって,国際社会との交流窓口が出来た事を意味し,目出度いと言う事で,その設立日には大々的に祝賀行事をしたりしています.

 それ自体,冷静に考えれば,非常に空しいものなのですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月29日21:58


 【質問】
 満州国の郵便事情は?

 【回答】
 柳条湖事件に端を発した満州事変で,関東軍は,1931年の年末までに東北部の殆どを占領します.

 しかし中国東北部に於ては元々,1928年の満洲易幟により,中華民国の一部として中華郵政の領域に入っていました.
 ところが関東軍の占領後も,郵便事業については明確なビジョンが関東軍側になく,中華郵政がずっと郵便事業を続けることになります.

 これは1932年1月の錦州陥落以後,東北部全土が関東軍の占領下にあっても,海関と郵政はそのまま存続していました.
 と言うのも海関は,列強に対し中国が負った賠償や内外債償還の担保で,列強諸国の管理下にあった為,日本も無闇に手出しが出来なかったですし,中華郵政については,清朝が倒れ中華民国が出来た時や,軍閥の内戦に於ても,各勢力からその中立性が認められ,満洲地域を含む,中国全土の郵便事業を一括して中華郵政が担うことが暗黙の了解事項となっていました.

 とは言え名目上,日本は中国から東北三省を独立させ,満州国と言う新国家を樹立した訳ですから,独立した郵政事業を発足させる事を考えます.

 当時,吉林省と黒龍江省は哈爾浜にある吉黒郵政管理局が担い,奉天省は奉天にある遼寧郵政管理局が担っていました.
 これらの管理局長には外国人が就任しており,奉天はイタリア人,哈爾浜は英国人でした.

 これを接収して郵政事業を展開しようとした訳ですが,その矢面に立ったのは,関東庁逓信局です.
 この関東庁逓信局は,日本の租借地であった関東州と満鉄付属地の電信・電話を統轄していた機関で,中国側との交渉に於て,外国人局長の留任,一般職員の継続雇用,郵貯(当時100万円の貯金額があった)の新国家の支払保証をすると反面,施設,資金の押収すると言う条件を付け,かつ,中国政府と新政府の紛争は関東庁逓信局が斡旋すると言う案を作り,1932年3月に関東庁逓信局,奉天の日本領事館,関東軍の協議で承認され,本国の閣議決定を経て,4月1日に実行に移されました.

 ところが,中華郵政側は日本側が接収を強行するなら,郵便・為替・貯金業務を完全停止すると通告して抵抗.

 当時,Lytton調査団が来満していた事もあり,日本も手荒な真似は出来ず,4月25日に東三省の郵政は現状維持で,職員待遇も従来通り,郵便料金,取扱方法,規定,記帳法,中国本土や外国との郵便交換も従来通り,収支は満州国の検査を受けるものの,剰余金は哈爾浜,奉天の郵務長が保管,為替は臨時規定で対処,貯金は別に協議すると言う妥協で,日本側(満州国側)は中華郵政を接収し,中華郵政としては一体化した運営を継続するという玉虫色の妥協が成立しました.

 因みに郵便料金については,当時中国は世界最大の銀保有国でしたので,銀本位制が取られていました.
 但し紙幣は雑種幣制だったため,1926年秋の蒋介石の北伐以降,東三省の紙幣は銀貨に対して暴落,東三省の紙幣1円が本土の銀貨8角(中国の通貨単位は1円=10角=100分)に下落した為,東北の1円で切手を購入し,それを1円分の切手として,上海や南京に持って行って換金して差益を得る投機が横行する様になりました.
何と言っても中国郵政は全土で統一的なサービスを展開していましたから….

 このため,東三省で発行された中華郵政の切手には「限吉黒貼用」と言う文字を加刷し,これは東三省だけで通用する様にしていました.
 ですから,中華郵政的には余り痛手を受けませんでした.
 ただ,消印は民国歴になっていた為,満州国側が不快感を示します.
 とは言え,大同年号を使えば今度は本土側が反発しますから,結果的に,6月以降消印は西暦で日付表示をすることで妥協が成立しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月26日22:22

 中華郵政の接収と並行して,満州国は独自の切手を発行する事で作業を進めます.
 しかし,切手の正式な発行日も決まっておらず,何時必要になるか判らなかったので,日本で印刷されたそれの最初のロットは,オフセット印刷に普通紙で納品されました.

 日本切手の様に,凹版印刷に透かしと毛紙を使った手数のかかる切手が発行されたのは1934年以降になります.

 切手の作成等と前後して,満州国に郵便事業を管轄する郵務司が交通部の外局に設置され,万国郵便連合への加盟も申請され,愈中華郵政の接収が始まります.
 この時の条件は,中華郵政接収後に発生した経済損失の補填, 中国側の上海(郵政総局の所在地)からの東三省への職員増強への反対と,南下希望者の名簿提出要求,日本人監察官を奉天と哈爾浜に派遣を満洲側が出していました.

 しかし,万国郵便連合は1932年6月25日に満州国の加盟却下を通達します.

 不利な満洲側ですが,既成事実を盾に交渉を続け,最終的に新切手の発行と中華郵政切手との等価交換の実施,為替の満州国移管と東三省地域での中華郵政の為替の無効,南下職員への不干渉,郵政監察官の派遣と南下希望以外の職員達への現状地位の維持と言う条件が中華郵政の東三省代表と満洲側代表との交渉で合意されました.

 これで満洲側(日本側)は安心し,8月1日には新切手発行と高を括っていたのですが,7月23日に南京の中国国民政府交通部は声明を発表し,東三省の郵政全面閉鎖を宣言します.
 奉天の郵政管理局では,局長が最後の仕事として局舎の正面に閉鎖告知文を掲示.

 そして,7月25日までに満洲側の担当者が奉天の郵政管理局に駆付けると,局内は5〜6人の守衛がいるだけで,残りの職員は逃散してしまいました.

 満洲側の郵政最高責任者(日本の逓信省工務局庶務課長が出向)等幹部は周章狼狽しますが,取り敢ず体裁を整える為,新切手の発行を1日休んだだけの7月26日から開始することになりました.

 で,7月26日に郵政の再開を内外に喧伝するのですが,郵政事業の大半を占めていた中国系職員がいなくなったために実質的な業務は出来ず,奉天郵便局の売上は,切手150枚(70組程度),葉書26枚,小包引受1個で為替に至っては引受0と惨憺たる有様でした.

 さて,こうなると翌日から業務が停止するかと言えば然に非ず.
 郵政管理局には,逃散した職員に代わって自分を雇って欲しいと言う求職者が殺到し,警官隊が出動する騒ぎになりました.

 こうして,満州国の郵政は多難なスタートを切った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月27日21:31

 1932年7月,中華郵政は,東三省地域からの撤退に当たり,次の様に声明を出しています.

――――――

 業務停止期間中,欧米各地宛の郵便物はシベリアを経由せず,スエズ運河あるいは太平洋経由で逓送する様改め,万国郵便連合加盟国の郵便局は,中国と各国との往来郵便物もこれに準じて扱って欲しい.
 東三省に於て発行される切手は,中国郵政総局の許可を得ずに発行されたものであり,これは絶対に承認せず,この種の切手を貼った各種書状や小包は,全て料金不足として処理する.

――――――

 この声明に従って,満州国から差し出された郵便物は,山海関以南に逓送された場合,差出人に変装するまでに至りませんが,其処に貼付されている切手は無効として扱い,中国側では料金未納郵便として扱われ,受取人は不足金額を納付して受け取ると言う様な形になっていました.

 この措置が執られたのは基本的に中国のみで,他の万国郵便連合加盟国は,満州国の切手が貼られた郵便物であっても,料金未納とはせずに受付けています.
 但しその扱いは,満州国の承認国以外は,日本国の属領で発行されたものと見做していたようです.

 とは言え,満州国が東三省と熱河省を統治しているのは間違いない訳で,何時までも意地を張って,料金未納扱いにするのも中国としても,この地域との経済活動を益々日本側に追いやってしまいます,
 しかも塘沽停戦協定の発効で,事実上満州国の支配を追認せざるを得なくなると,中満間の郵政当局で協議が行われ,1934年11月24日に,満華通郵協定が両国との間で締結され,1935年1月から,満州国と中国との郵便物交換が再開されることとなりました.

 この時定められたのは,妥協の産物で,中国側が満州国の切手や葉書の有効性を認める代り,中国宛に満洲から差し立てられる郵便物には,満州国(後には満洲帝国)の表示を用いない,満州国の年号を用いない,満州国になった際に改名された都市名の消印を用いないと言う条件が付きました.
 これに従って満州国側は,満華通郵切手と呼ばれる,国名なしの専用切手を発行します.

 ただ,そんな事を知らない一般庶民や,末端の郵便局で中国宛の郵便物を,知らずに消印作業することもあります.
 そんな場合は,中華郵政側は違反部分(郵便物の国名の文字や年号など)を塗りつぶし,切手の場合は未納扱いにしていました.
 が,この未納となった郵便料金は受取人負担ではなく,中国側の窓口であった山海関の交換局で負担していました.

 対外的にはこんな感じで,国としての体裁を一所懸命整えていた満州国ですが,一方,日本との関係はどうか,と言うと,満州国は中国から分離独立したと言う体裁を為している為,本来ならば,1922年締結の日支間郵便物交換約定,日支間価格表記書状及び箱物交換約定,日支間小包郵便物交換約定,日支間郵便為替約定をそのまま継続した上で,必要ならそれを改訂すると言う形を取らねばならないのに,これらは全て廃止され,1935年12月26日に調印された,日満郵便条約で新しく規定されました.

 一般に郵便関係の条約は,1922年の日中間の様に,各郵便物や為替を別々の約定で規定するのが慣例ですが,満州国と日本の間は,一つの条約で規定されていると共に,その条約に於て,日本と満州国を「単一の郵便境域」と規定していました.

 「単一の郵便境域」というのは,万国郵便連合憲章では,「万国郵便連合の文書の締約国が継越の自由を尊重した上で通常郵便物の相互交換を確保し,及び他の領域又は地域からの継越郵便物を差別することなく自国の郵便物と同様に取扱う義務を負う地域」となっています.

 即ち,その国から見て,「国内」扱いで郵便を届ける範囲であり,単一の郵便境域内の郵便料金には,基本的に国内便の料金が適用される訳です.

 と言う事は,日本からすると,「満州国の支配地域は,国内の一地方」と宣言した事になったりします.(あれ?

 更に,条約では日満間の郵便制度を可能な限り統一する事も謳われていました.
 当然,日本の制度を弄る事は全く考えていない訳ですから,これ又,満州国郵政其の物を日本の制度に合わせると言うものです.

 郵便一つ取ってみても,日本が主張していた,満州国は独立国だ,と言うのは根拠に乏しいモノだったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月28日22:25


 【質問】
 満州事変以降,対中貿易が激減していますが,これって「満州事変以外」の要因もあるのでしょうか?
 幣原外交によって,対中貿易が拡大→満州事変で消し飛んだと言う認識なのですが,他の要因をご存知でしたら教えてください.

ますたーあじあ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 大陸との貿易窓口で一番大きな場所と言えば上海です.
 しかし上海では1931年の満州事変以後,排日ボイコットが為され,中国全体として日本製品の輸入が低調となった上に,1932年の上海事変で,上海を経由した日本からの物流が完全に途絶したのが大きいのではないか,と思います.

 実際,神戸と長崎の華僑貿易も,これを境に扱い数量がガクンと減っています.
 でもって,上海事変が一段落しても,日本製品ボイコットは続けられ,上海に進出していた日本人商人や,日本に居た華僑の対面にいた中国側の商人も,日本商品を扱いにくくなり(場合によっては身の危険もあり),結局,日本人商人は上海から撤収.
 日本に居た華僑も商売にならないので,本国に撤収していっており,相対的に貿易が細っていったと言う感じです.

 また,台湾を経由した華南地方との三角交易も,同様に大陸側に窓口が無くなった為,下火になっていき,台湾は域内貿易で生きる事を余儀なくされています.

 これに追い打ちを掛けたのが,日中戦争の勃発と第2次上海事変の勃発ですけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 田中義一は,その内規に照らし合わせると陸軍大臣としての条件を満たしていなかったから,東条英機みたいな「陸軍大臣兼務」が出来なかったということで良いでしょうか?

 【回答】
 陸軍大臣は,現行の陸軍大臣,参謀総長,教育総監の三長官一致の原則としていました.
 とは言え,これは建前で,他にも陸軍次官,人事局長の進言・情報,軍の長老クラス,特に皇族,元帥,軍事参議官其の他,大将クラスの意向も無視できません.

 また,彼の場合は,将官とは言え,予備役もしくは後備役の人物です.
 幾ら,大正2年の改正で現役でなくてもよい,とは言え,現役に拘る軍内の意向を無視することが不可能です.

 ちなみに,東条英機の場合は,陸軍次官と参謀次長の談合で決まったりします.
 彼の場合は,未だ退役している訳ではないので,昭和11年の官制改正で規定された規程に合っています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 日本が主張したように,満州は「化外の地」だったの?

 【回答】
 No.
 1915年の日華条約で日本は,中華民国から満州権益租借期間の延長を取り付けている.つまりは満州の主権が中華民国にある事を認めている.
 ちなみにこの条約がなければ,満州の租借権は,満州事変の頃には租借期限切れになっている.
 それを後から家外の地だの言い出しても筋が通らない.

 おまけに柳条湖事件は石原莞爾と板垣征四郎の企んだ作戦だろ.
 爆破しといて中国国民党軍の仕業にしたろ.
 で,満州国設立だからな.
 どうあがいても,日本の主張が国際的に認められる可能性はなかったろう.

(軍事板)

 おまけに,日本は「満州国の独立は決して日本の傀儡国家作りではなく,民族自決の国際原則に基づいた正しい独立」を建前としたが,満州や関東州に住む漢民族や満州族,モンゴル族は,中国国籍から強制的に満州国籍へ切り替えられたにも関わらず,日本人と朝鮮人は日本国籍のまま.
 満州事変の仕掛け人である関東軍の石原莞爾は
「関東州は廃止して,日本人はみな満州国籍を取るべき」
と主張したが,無視された上に左遷.
 満州在住の日本人は,日本国籍のままで満州国の官僚や国策会社の幹部に就き,その他「満州国民」としてのさまざまな権利を享受したにもかかわらず、義務に関しては「日本国民」としての治外法権を利用できることになった.

 そのため,満州国は国民の定義を最後までウヤムヤにし続けた。
 国民を定義できなかったから当然のことながら選挙は行えず、議会は存在せず、満州国は最後まで憲法を制定できなかった。

 詳しくは
関東州(および満州国)
を参照されたし.

 こうして,無理ある主張に依る矛盾は,最後まで満州国の国体に影響したのでしたとさ.

軍事板・改

 上記についてですが,こちらのサイトに以下の内容が記述されています.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6mansyu-jin.htm

-------引用----------------------------------------------

 当時の満州は,中国人の土地ではなかったのでしょうか?

 まず,以下の電報を見ていてください.

「三,現今滿洲住民の殆ど全部が漢民族なることに顧み,宣統帝の擁立は滿洲自身に於ても不評判なるべく(後略)」
 (「日本外交年表竝主要文書」 外務省編 原書房 P187)

 これは,1931年11月1日,当時の外務大臣幣原喜重郎が,天津総領事桑島主計に宛てた訓電の一部です.
 ここでは,はっきりと満州地方の住民は殆ど漢民族,つまり「中国人」であると言い切っています.

 もう一つ,見てください.

「満蒙は漢民族の領土に非ずして寧ろ其関係我国と密接なるものあり 民族自決を口にするものは満蒙は滿洲及蒙古人のものにして滿洲蒙古人は漢民族よりも寧ろ大和民族に近きことをみとめさるへからず 現在の住民は漢人種を最大とするも其経済的関係亦支那本部に比し遥に密接なり」
 石原莞爾「現在及将来に於ける日本の国防」
 (「太平洋戦争への道」第七巻 資料編 P74)

 「満州を日本が支配するのは正当だ」と言っているわけですが,それでも,人口的には,漢民族,すなわち「中国人」が最も多いということを認めています.

-------引用終わり----------------------------------------------

 また上記サイト内のこちらのページでは,1937年12月末時点での人口構成比が紹介されています.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/jinkou-m.htm

-------引用----------------------------------------------

満州国の人口構成

康徳四年(一九三七年)一二月末現在

出典:平凡社 世界大百科事典昭和一四年(一九三九年)捕遺
〔文中の漢数字を算用数字に改め,比率がない場合は付け加えた〕


民 族   人  口 比率

漢民族    2,970.0万人     81.6% 
満洲族    435.0万人      12.0%
蒙古族    98.0万人       2.7%
内地人    42.0万人       1.2%
朝鮮人    93.0万人       2.6%
欧米人    1.1万人 0.0%

合 計    3,639.1万人 100%


(日立デジタル平凡社「百科で見る20世紀」より)

-------引用終わり----------------------------------------------

 上記人口構成表は1937年作成のものであり,満州国建国時である1932年2月とは時間的間隔がありますが,5年程度で大規模な人口構成の変動(2000万人以上の漢民族の流入)が起こったとは考えにくいため,満州国建国時でも漢民族が最大多数派であったことを示す資料として価値はあるといえます.

lala in FAQ BBS

 ちなみに「化外(けがい)」とは,

中華帝国の「王化」の及ばない野蛮の地で,中国の世界観によれば「中国の神聖不可分の領土」でないという意味.
http://www.geocities.jp/ikiiki49/page009.html

ではないかと.

ラッキーマン. in FAQ BBS

満州国独立の図


 【質問】
 満州利権は守らなければならないものだったのでは?

 【回答】
 実態を無視して勝手にそう思い込んだのが,ケチのつき始めな訳でして。
 対外市場は英米で、食糧は朝鮮・台湾。資源も英米。
 あの当時でも、植民地との移出入市場における経済規模(移出入合計約9億)より英米(英3億、米14億、インド6億)その他との貿易市場の方がはるかに規模が大きい。
 スローガンとは裏腹に、満州の存在は日本経済にとって重要性があるとは言えなかったのが本当のところ。
 少なくとも,英米との関係悪化を忍んでまでやることでは決してなかった。

 その現状分析から,英米協調路線、貿易立国路線を主張する石橋湛山の「小日本主義」も提唱されている.

「無駄な大陸への深入りは避ける」
 ぶっちゃけこれにつきるんじゃないですかね。
 日本が大陸に深入りした時点で
・大陸に利権を持つ列強,
・いまだに大陸利権を持っていないアメリカ、
・大陸中国の軍閥
との対立は避けられない。

 それを避ける策としては、桂ハリマン覚書を受け入れて,満鉄の共同経営&満州への米資本を受け入れていればよかったんだが…….

(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo他 in コヴァ板)

 ちなみに山室信一「キメラ 満州国の肖像」(中公新書)によれば,
「第一次大戦後の戦争が総力戦になった為に、陸軍、特に石原莞爾は長期持久戦の資源確保を目的として、満州領有を計画した」
そうである.

山室 ただ世界史的な条件で一番重要なのは、第一次世界大戦の衝撃です。この戦争ではじめて人類は総力戦体制で戦争を行った。
 石原莞爾などはとくにそのことを意識したわけです。
 戦争に勝つためには、経済力、生産力を上げなければいけない。とりわけそのなかでも石炭と鉄が、当時の武器を生産するのに最も重要な資源でしたが、それは日本にない。
 それを獲得できるのは満洲である。
 そういう形で総力戦体制が与えた影響は甚大で、そこからおそらく異なる段階に入ったのではないかと思います。
 二十世紀初頭の後藤新平の時代の満洲と、第一次大戦以後の満洲は、決定的に意味の異なる空間だと考えた方がいい。後藤などの時代の満洲は大豆などの農業生産地、穀倉でしかないわけですが、第一次大戦後には、総力戦体制を遂行するための最大の戦略物資基地になる」

http://www.fujiwara-shoten.co.jp/kan/kan10.htm

 ま,「将来の保険」に固執するあまり,現実に対する対応を誤ったのでは,元も子もありませんが.

913名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)01:14:28ID:???

 満州事変が起きなければ放棄だから,大陸との火種がなくなるな.
 その後にソ連が中国にチョッカイ出してきた場合も,満朝国境の防備さえキチッと固めてりゃ,日本は高みの見物.
 国民党が悲鳴を上げだした後,日英米仏あたりで介入して恩を売る,と.


915名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:20:53ID:???

 その前にドイツが茶々入れていると思われ.
 晴天白日旗を描いたBf109とかJu87とかV号戦車とか・・・


916名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:26:26ID:???

 するとスペイン内戦のラインナップが中国で激突?


917名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:34:36ID:???

 流石に,欧米・日本が共産党支援と思えないしなぁ・・・.張作霖支援か?


924名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)07:25:47ID:???

 それ以前から武器輸出で日本経済はウハー.
 中国共産党相手なら89式戦車でも大活躍.
 ソ連の進出でチハたんでT34を相手する事になって,当時のメイドインジャパンの悪評を証明する事になるかも知れんが.


931 :名無し三等兵 :2005/11/01(火) 13:51:01 ID:???

 T34生産も平時は順調じゃないどころか,不良ありまくり不足部品ありまくり修理デキネーヨー!状態だったので,いいとこBT戦車だろ.


935名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)16:24:54ID:???

 さらにそこに地方軍閥軍のマイナー兵器もさらっと登場.
 PZLとかイカルスとかがJu86とかを迎撃に.


941名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)19:51:45ID:???

 史実でも,その手のオファーはあったらしい.
 あともう少しで成約と言う所でなくなったけど,国民党軍はドイツ兵器のお得意様だったからね.


942名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)19:59:34ID:???

 まぁ戦前のドイツ貿易は対中のほうが利益があったからねー.
 ぶっちゃけドイツ顧問団&国民党軍がもうチョイ頑張ってくれたら,日本も深入りしないですんだんじゃないかなぁ・・・
 で,利害の一致した英米と友好関係・・・
 ヲレも仮想戦記脳だ(笑).

軍事板



 【珍説】
 仮に海洋貿易国への転身ができたとしても,その後の世界恐慌と世界経済ブロック化で、日本は貿易から締め出されアボーンしていただろう。

 【事実】
 それは後付けの歴史観。
 実際には対米貿易額は世界恐慌後も特別変わらず、日米開戦まで増加し続けています。
(日中戦争あたりで一時期減りますが)

(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in コヴァ板)

 そもそもブロック経済の要因が,「日本のように」為替ダンピングをかまして輸出攻勢を仕掛けてくる国への対応策なのです.
 これは高橋財政による日本経済の回復の一翼を担った政策なので,迂闊に止められません.
 ぶっちゃけ,
「ブロック経済ヤメレ!」
って文句を言っても,
「じゃあ,ダンピング止めろ」
って突っ込まれるだけ.
〔要出典〕

軍事板



 【珍説】
 日本にとって満州は 経済・国防上,最重要な「生命線」と呼ばれる土地だった.

(小林よしのり「戦争論」3, p.215)

 【事実】
 上述のように,別に最重要でも何でもありません.
 【質問】
 上項目は如何なものなんでしょうか。
 同項目には総力戦・生産力などの経済力についてのみ記載されていますが、実際はそれを重視したのではなく、やはりソ連の南下(ロシアの赤化なども)、を恐れた結果ではないでしょうか?
 うちの曾ジーさん(旧海軍佐官だったはず)も
「アメリカは怖くなかった。でもロシアは怖かった」
と申しておったそうです。
 アメリカの太平洋を勢力圏にしたのも脅威に感じていたとは思いますが、満州に関してはやはりソ連ではないでしょうか?

 【回答】
 順序を間違えています.

 極東ソ連軍が増強を始めたのは,満州での日本軍の軍事行動に刺激を受けたからであり,これは1932年からです.
 この年からシベリア鉄道の複線化や国境のトーチカ陣地構築・ヴラディヴォストーク軍港再開などが行われます(山田朗「軍備拡張の近代史」より).

 ちなみに1931年の極東ソ連軍は,6個ライフル師団のみ.戦車なし,航空機なし,です.
 同時期の関東軍は師団2個,混成旅団2個,独立守備隊1個,独立飛行中隊3個です.
 シベリアの国土面積を考えますと,脅威と呼べるほどのものではないですね.

 ただし,純軍事的な意味としての意味においてなら,関東軍がソ連軍を「脅威」と感じたのは,ソ連軍が張学良軍に大打撃を与えた1927年からです.
 それまでは仮想敵として意識すらされていないようで,対ソ作戦計画は具体性に乏しいものだったそうです.
 関東軍において,具体的な対ソ作戦計画作成が行われるのは1933年からです.

(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)

 【質問】
「満州で日本軍が軍事的に刺激を受けたからであり、1932年から」
というのは日露戦争が入ってませんよね。
 1896年(明治29)にはロシア軍が朝鮮・京城に入ったり、北清事変の際なかなか撤退しなかったり(日本もだけど),アジア(中国全土、上海など)周辺でのロシアによる中長期的脅威が認められたからsplendid isolationを崩さなかったイギリスが日本と同盟を組んだのではないでしょうか?
 日露戦争後、政権が変わったからといっても,常に不凍港を求め続けていたことは事実だとは思うのですが。

 【回答】
 ご指摘の件ですが,ロシア革命の影響を軽視しておられるように感じます.
 また,「恒に備えよ」は確かに軍事的常識ですが,将来生起するかもしれない不確かな脅威のために,それよりも優先度の高い事項を犠牲にするのは,論理的に正しい対応とは言えません.

 東アジアにおけるワシントン体制と言うのは、ひとえに
「中国を列強の植民地的争奪の場としない」
という約束事で成立してたものですから、日本が一方的にこの約束事を破って満州侵攻に乗り出せば,列強の中で孤立することが必然です.
 対ソの備えとしての満州侵攻(仮にそのような意図で行われたとして)が,そのリスクを冒してまでの優先事項であったか,非常に疑問です.

「将来,日米関係だってどうなるか分からない」
からと言って,「核武装して自主防衛」を唱えるようなもので,失礼ながら
「何を優先させるべきだったか?」
という視点が欠落しているように思われます.

(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)


 【質問】
 1930年代の日本軍の,ソ連軍についての認識は?

 【回答】
 当時の日本軍の関心は,宿敵であったロシア(ソ連)に注がれていました.
 帝政ロシアが崩壊し,ソ連邦になった後も機械化が進められていた赤軍の現況に対する脅威認識の程度が,対ソ軍備のレベルを決定する基準になっていました.

 昭和六年に最初の日ソ交換隊付将校となった宮野正年大尉は,ソ連から帰国して間もなく,省部首脳や諸学校の幹部多数に対して,赤軍の編成装備,戦法及び訓練の要領についての報告,説明を行いましたが・・・
 十分な共感を得ることが出来ませんでした.

 この一連の理解不足を嘆いた宮野大尉は,
「特に中央上層部のが根本的に頭の切り替えをするのでなければ,わが軍はたちまちソ連軍に引き離されてしまうであろう.」
と結んだところ,第一次世界大戦間,ロシア軍の従軍武官であった参謀本部第三部長の小畑敏四郎少将は,宮野大尉に対して,「恐ソ病」であると強く戒めたそうです.

 上記のように赤軍近代化の実態が至当に認識されなかった理由として

T 軍部の指導者が,日露戦争・第一次世界大戦を通じた帝政ロシア軍の印象を変えなかった.

U 赤軍を帝政ロシア軍と同一視し,「民族的特性は不変」と評価していた.

V 革命後の赤軍は,赤軍大粛清により幹部の質が大幅に低下していたことが,実態の把握を困難にしていた.

 以上三つの理由が挙げられます.

 この赤軍に対する認識の甘さが後々,大きなダメージとして日本軍に降りかかってくるのでした.

<参考文献>
機甲戦の理論と歴史 ストラテジー選書
葛原 和三著 戦略研究学会編集 川村 康之監修

CRS@空挺軍 in mixi,2009年08月02日16:00
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 満州国は日本の既得権益だったんじゃねーの?

 【回答】
 日本の満州に置ける正当な権益は,「点と線」だけ.
 旅順大連を含む関東州の租借と,長春以南の満州鉄道と付属鉱山経営権,鉄道周囲幅1kmの警察権,1万人までの軍駐留権だけです.
 満州全域=面を日本がどうこうする利権なんか,元地主の清朝もドコの列強も認めていませんでした.
 まして国家創造の権利なんて,誰が日本に対して承認したんですか?

 だからこそ,自作自演の攻撃を日本はでっち上げ,満州事変を起こして同地域を占領したわけです.

軍事板


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 なぜそんな結論〔『満州国を認めず,国際管理下に置く』という,リットン調査団の結論〕が出るのか?
 松岡洋右代表はこう反論した.
「アメリカ国民はパナマ運河地帯をそのような管理下に置くことに同意するだろうか?
 イギリス国民はエジプトに対するそのような管理を許すだろうか?」

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.219

 【ツッコミ】
 ほほう,だから何なのかな?
 外相が自国を正当化する主張をするのは当り前だろう?

 それとだね,満州事変をパナマ/スエズに例えるならば,運河を爆破した上で,パナマ/エジプト側に濡れ衣を着せ,それを口実にしてパナマ/エジプト全土を占領するようなものなのだよ.
 松岡外相の弁明は,いかにも苦しいね.

 ところで小林君は,そのスエズ運河に関しては,こんなことを書いているね?

 1956年10月,イスラエル軍がエジプトに軍事侵攻.

 それに対して
「イスラエルとエジプトの戦争から,スエズ運河を守る」
として,イギリス・フランスがエジプトに出兵.
 「スエズ戦争」が勃発した!

 実はこれは,イスラエル・イギリス・フランスが共謀して起こした,あからさまな侵略だった.

from 「SAPIO」 2004/4/14号,p.59

 類似ケースについて,片や肯定,片や「あからさまな侵略」と呼ぶのは,ダブスタではないのかね?

▼ ついでに言えば,リットン報告書は小林が言うほど偏ったものでもない.
 以下は,『全文リットン報告書』( ビジネス社,2006.11)を読んだ人の感想.

――――――
「この紛争(満洲事変)は,一国が国際連盟規約の提供する調停の機会をあらかじめ十分に利用し尽くさずに,他の一国に宣戦を布告したといった性質の事件ではない.
 また一国の国境が隣接国の武装軍隊によって侵略されたといったような簡単な事件でもない.
 なぜなら満洲においては,世界の他の地域に類例を見ないような多くの特殊事情があるからだ」(P306).
 ここで書かれているとおり,報告書をどう読んでみても,満洲事変は日本軍による侵略といったものではない,と読めるのである.

 報告書は日本語訳文で300余ページに及ぶ.
 巻末には英語の原文150ページも付けられている.
 あえて言うまでもないが,日本語訳文に疑問があれば原文にあたることも可能だ.

 そして,事変発生前における満洲の状況,日本が有する権益,日本が満洲経営に乗り出す背景,シナ側の排日・侮日行為の数々,事変の経過など,実に詳細・重厚なレポートである.
 あらためて満洲の「多くの特殊事情」がよく理解できる.
 こうしてみると,日本が国際連盟を脱退したことが如何にも愚策だったように思える.
 この公正なレポートであるリットン報告書を活用して,もっと上手な立ち回りができなかったものか・・・.

――――――としりん in 「BK1」,2007/01/31/10:51:39


 【質問】
 なぜ松岡外相は国際連盟決議の場から立ち去ったのか?

 【回答】
 まずもって,国際連盟脱退は閣議決定であり,国際連盟・19人委員会の勧告が出されて,満州国が承認されなかったら,脱退することは既に決定済みだった.

[quote]

 斉藤内閣は二月二十日の閣議で,連盟総会において第十五条四項に基づく勧告案が採択された場合は「連盟脱退の方針を定め帝国憲法下の手続きを執る」基本方針を決定した.

 手順としては,報告書の採択には反対投票を行い,代表の引揚げを実施する,
 この引揚が総会閉会に伴う当然の引揚と同一視されるのは政治的に面白くないので,
「帝国政府は日支紛争事件に関し,連盟と協力し得る限度に達したるもの認むる」
趣旨の声明を出す事など,ジュネーブに訓令した.
 閣議決定後,斉藤首相,内田外相は天皇に謁見,この旨を上奏した.

[/quote]
―――『満州国と国際連盟』(臼井勝美著,吉川弘文館,1995.5),162ページ

 んで,松岡は国際連盟からの脱退はしたくなかったと述べている.

[quote]

「満蒙問題に就いては,わが国の満蒙政策遂行上実質的に故障の起こらぬ限りは大概のことは我慢するという考えであって,できることなら連盟に留まって,過去十三年間世界も認めている通り,わが国も最も連盟に忠実なる国の一つであったことの歴史を継続して,以って尚,世界の平和の為に尽くすようにしたい」

[/quote]
―――同,165ページ

 松岡は確かに「あの場」では,国際連盟からの脱退に消極的だった.
 ただ,その閣議決定を引き出したのは,外務省連中の意見を汲んだ松岡だったりする.

[quote]

 ここで注目されるのは,第十五条四項の勧告書が通達されると,ジュネーブ代表部が従来の妥協的な態度から一転して,強硬措置の採択を政府,内田外相に迫った事である.
 すなわち,もし勧告案が総会で採決された場合は,
「我が方として単に代表部引揚げの如き姑息な手段はこの際とるべきに非ず」(十六日着)

「事茲に至りたる以上,何等遅疑する所なく断然脱退の措置を取るに非ずんば,徒に外間の嘲笑を招くに過ぎずと確信す」(十七日着)
という,脱退の実現を強硬に要請する電脳が,相継いで本省によせられた.
 松岡の発想であるが,長岡・佐藤も結局は同意した

[/quote]

 ということで,閣議決定の元になった意見もまた松岡だったりする.

 ちなみに,19人委員会の十五条四項とは,リットン調査団の報告書第九章第七原則である
「中国の主権の下での満州の自治」
の事で,日本としては「満州国承認」が原則だったため,受け入れられなかった(というのが,当時の日本の主張)

ますたーあじあ in mixi,2008年03月19日23:29

 つまり,閣議決定された「国際連盟」からの脱退という案は松岡が出したけども,松岡自身は脱退したくはなかったということですか.それにしてもずいぶんと皮肉な結果になったんですね.
 個人的に思うのは,中国の主権の下での満州の自治という一方で,
「満州には,中国の主権下に自治政府を樹立する.
 この自治政権は,国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下,充分な行政権を持つものとする.
 満州は非武装地帯とし,国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う.
 日中両国は『不可侵条約』『通商条約』を結ぶ.
 ソ連がこれに参加を求めるのであれば,別途三国条約を締結する」
という条件は,かなり魅力的に思えます.

ヤン in mixi,2008年03月20日 00:39

 【質問】
>外務省連中の意見を汲んだ

 外務省は何で脱退志向だったので?

消印所沢 in mixi,2008年03月20日 22:56

 【回答】
 上に述べましたが,十九人委員会の

・主権は中国にある.
・満州における満州国の維持・承認は,日中両国の友好的承認が不可能である事.
・連盟は今後も満州国を承認しない事

という勧告案を出したからです.

 じゃ,なんでそれまであった「共同統治案」が消えたかと言うと,元々反対意見もあったのですが,論争の最中に,よりにもよって陸軍が「山関事件」なる,日中衝突を起こしたからです.
 しかも原因が
「現地守備隊の謀略」(他の作戦との関連性はなし)
だったので,特にスティムソンなどに「満州国否定」の正当性を与える事になってしまいました.

 このとき政府は不拡大だったのですが,劣化石原が沢山いた当時の日本では・・・.

ますたーあじあ in mixi,2008年03月21日 21:23


 【質問】
 日ソ関係が悪化し始めたのは,いつ頃からか? 

 【回答】
 1920年代の日ソ関係は普通に安定していた。
 当時のソ連内部では,東支鉄道を中心とする北満の勢力範囲を維持できるなら,日本の南満支配を認めるのもやむなし、という空気が強かった。
 これが悪化するのは満州事変で反共を掲げる「満州国」が成立し、日ソが緩衝地帯を失って直接国境を接するようになってから。
 要するに満州事変をやった結果,ソ連は極東地帯に初めて本格的に関心を寄せるようになった、ということ。

 事変以後に急増するようになる極東赤軍の配備状況がそれを端的に現している。
 第一この時期のソ連は干渉戦争や内戦からの復興問題もあって,あまり積極的な膨張主義的姿勢を取ることを避けており、それが膨張主義剥き出しの姿勢へ変化するようになるのはまだ先の40年代以降のこと。

(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in コヴァ板)


 【質問】
 戦前の日本は,国際連盟からの委任統治で南洋諸島を統治していましたよね?
 連盟脱退後も継続していたようですが,なぜ統治が認められたのでしょうか?

 【回答】
 別に連盟を脱退したからと言って、国際連盟との協力関係を絶ったわけではなく、国際司法裁判所、国際労働機関、その他諸委員会との関係は従来通りであり、1935年の第16回連盟通常総会では、国際司法裁判所判事に日本の長岡寿一が選出されてさえいます。

 尤も、日中戦争勃発後の1938年に、国際連盟理事会が対日制裁を決議したことにより、常設統治委員会、阿片諮問委員会、社会問題諮問委員会の政府委員派遣は停止、個人資格での参加も辞退させ、国際労働機関への協力も停止、国際司法裁判所については、脱退規定はないので、。拠出金支払いを停止し、後任判事を出さないようになっています。

 ちなみに、南洋群島の委任統治については、国際連盟そのものからの委任ではなく、Versailles条約で委任されたものであり、日本政府は同条約を破棄したわけではないとの理屈により、脱退通告時から統治継続を表明しており、国際連盟諸機関への協力停止後もそのままとなっていました。

 蛇足だけど、Versailles条約では、南洋群島は日本の国際連盟C式委任統治区域となっています。
 これは、委任統治区域を決めるに当たり、旧枢軸国領土を、A式、B式、C式の三つに分けた物で、A式委任統治区域は、殆ど自立しうる程度に発達している地方、B式は、独立国として仮承認を受けうる程度には発達していない地方に対する制度です。
 南洋群島のC式は、土着人民の利益のために一定の保障を与えることを要する条件で、かつ、受任国領土の構成部分として、その国法の下に施政を行うべき地域です。
 つまり、受任国の単純な領土ではありませんが、領土に近い性格のもので、C式は、委任統治の名による領土再分割の方法といえるでしょう。

 ちなみに、委任統治に当たっては、地域の詳細情報、施政諸般の措置を国際連盟理事会に報告する義務があり、連盟脱退後もこの委任は継続されています。

世界史板


 【質問】
 以下の見解はどうですか?

――――――
 〔「腹切り問答」に対し,〕陸軍が議会に謝罪を要求し,ついには時の広田内閣が総辞職に追い込まれるのである.
 この時点で日本陸軍は,まるで一個の政治集団と化して,日本という国を乗っ取ってしまったかのようであった.

――――――『「戦争」に強くなる本』(林信吾著,ちくま文庫),p.128

 【回答】
 海軍を無視するのは困ったものですね.
 もし本当に陸軍が日本を乗っ取っていたのだとしたら,陸海軍間の予算獲得合戦や,それを背景とした国家戦略上の対立もなく,したがってソ連と米英と同時に敵対するような路線はとらなかったでしょう.
 そのため,それ以後の歴史は現実とは大きく変わっていた可能性があります.
(戦争となったか,そしてそれで敗北していたかは,別問題としても)

 一応,ホホイは引用文章に続けて,
「いや,この言い方もいささか正確ではない.
 当の軍人たちに,そのような意識があったとも思われないからだ」
と書いていますが,意識があろうがなかろうが,「乗っ取ってしまったかのよう」という表現には,問題があると思います.


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