◆通史
<アジア&太平洋方面・目次
<第2次世界大戦FAQ
「『満州帝国』がよくわかる本」(太平洋戦争研究会著,PHP文庫,2004年12月) 初心者向け
◆◆戦間期
【小林主体思想】(別名「マルチ・スタンダード」)
アメリカが日本に「自由」と「民主」を与えてくれたと思い込んでる者がいる.
だが実は,戦前から日本には「民主主義」はあったのだ.
大正デモクラシーは,戦後の民主主義と同じものである.
山本夏彦氏は,大正時代に広がった民主主義の特色を
「普選」「親不幸の公認」「恋愛の謳歌」「猫なで声」「口語体」「挨拶の喪失」
だと皮肉っぽく語っている.
婦人の参政権はなかったが,婦人は別段,怒りもしなかった.
参政権を欲しがっていたのは市川房枝ら,せいぜい100人か1000人くらいのものだった.
大正デモクラシーによって,日本が持っていた,もっと大事な価値がいっぱい破壊された.
例えば「忠孝」の精神である.
戦後は,アメリカからのデモクラシーが,さらに価値の紊乱に拍車をかけ,教養・道徳が衰えたのである.
日本の「保守派」の知識人が,アメリカの正義である「自由」と「民主」を賛美するとは一体何事か!? 恥を知れ!
(小林よしのろ「戦争論3」,p.67)
【ツッコミ】
曖昧・粗雑な論です.
「アメリカが日本に「自由」と「民主」を与えてくれたと思い込んでる者がいる.
だが実は,戦前から日本には「民主主義」はあったのだ」
と書いておきながら,最後は
「アメリカの正義である「自由」と「民主」」
と言っちゃうわけですか…….
わずか十数行の文章の中の論理矛盾も,自分じゃ気付かないほど耄碌されましたか?,この50歳を越える爺さん漫画家は.
それにですね,大正デモクラシーと現在の自由民主主義が同じものかというと,これにも疑問が残りますな.
大正デモクラシーと一口に言っても,生成期と高揚期と衰退期とでは,性質が異なってくる.
政党や非特権的な資本家が,民衆の世論を背景にして,元老・枢密院・貴族院・郡部などの特権階級の力を抑えようとした,というのが生成期に対する通説的見方.寺内正毅軍閥内閣出現を阻止した大正政変など,特徴的ですな.
政党政治が軌道に乗り,また,第1次大戦後に高まってきた労働運動・農民運動・社会主義運動と絡み合って,「改造の十字路」「民衆の組織化」と呼ばれる社会風潮が現れたのが,高揚期.
ちなみに吉野作造は,自分の民本主義はいわゆる右派社会民主主義とは両立できるが「過激主義(ボルシェヴィズム)」,つまり革命主義とは相容れないと認めておりまして,大杉栄などの当時の革命派から論難されております.
そんでもって,例によって内部対立していくのが衰退期.既成政党は民衆組織を敵対視し,社会不安や経済的混乱に対処する力を欠く.民主主義的要求は治安維持法などで圧殺される,そんなこんなでジ・エンド.
小林は,大正デモクラシーのどの部分が,どのように「戦後の民主主義と同じ」だと言いたいんでしょうか?
論が粗雑過ぎて,肯定も否定もできかねますな.まあ,飲み屋のオヤジの政談と同レベルってことです.
第3点.
いくら山本夏彦が大正デモクラシーを皮肉っていたからといって,「忠孝の精神」がなくなったと言えるものなのか? 忠孝の精神が,そんなに大事なのか? そこが疑問です.
「忠孝」は,朱子学上の概念です.
朱子学とは中国・南宋の学者,朱子によって大成された,宋代の新しい儒学で,「道学」「性理学」「程朱学」とも呼ばれます.
日本への伝来は鎌倉時代のことで,室町時代には禅僧の教養として学ばれます.
日本における隆盛期は江戸時代で,幕藩態勢の整備につれて,幕府・藩の教学の基礎になり,思想的影響は儒学の他の学派の中で最も著しかったとされます.
これは,名分論に基づく君臣関係の規制,身分制の重視,禁欲的傾向など教学的要素が強く,自然秩序観も社会の安定指向期に受け入れられ易い素地があったためと考えられています.
そうだとするなら,
「大正デモクラシーによって,朱子学的精神が廃れた」
という主張は,あながち間違いではないのかもしれません.大正デモクラシーにおける民衆の要求の一つは,身分に囚われない平等な1票を与えよ,なのですから.
しかし,それをもって大正デモクラシーを否定する気には到底なれませんな.平等な一票を保障する事は,公正な選挙のためには必要だ,と考えられているのですから.
忠孝精神を守りたい,というのであれば,身分制重視の朱子学に頼らず,他の思想に依ったほうが建設的では?と思うのですが…….
いずれにせよ,何故どのようにして「大正デモクラシーが忠孝精神を破壊した」と,小林が考えているのか,具体的に明らかにならないことには,上の論も想像の域を出ないのですが.
同じように,
>戦後は,アメリカからのデモクラシーが,さらに価値の紊乱に拍車をかけ,
>教養・道徳が衰えたのである.
なる主張も,いかなる根拠によるものなのか,全く分からないので論じようもありません.「西側はモラル退廃が云々」という言葉は,冷戦期にベルリンの壁の向こう側からよく聞かれましたが…….
そういえば,詭弁テクニックの中に,
「主観で決め付ける」
「資料を示さず自論が支持されていると思わせる」
というものがありましたな.
なお,「自由」と「民主」が「アメリカの正義である」わけがないという事は,高校生レベルの世界史の知識のはずですね.
アメリカ流「自由と民主」と,小林は言いたかったのかもしれませんが,それならば,改訂版でも出してその辺を明確にすべきでしょう.
「新ゴーマニズム宣言」単行本の「イラクの農夫がアパッチ・ヘリを撃ち落とした」の件もそうですが,なぜ修正を一向にしないのか,不思議でなりません.誤りを認める事は恥だとでも思っているのでしょうか.
それにまた,本当に忠孝精神は破壊されてしまったのでしょうか?
「戦後の,自分の勤める企業にひたすら忠誠を尽くす,サラリーマンの態度は,企業論理にとって都合の良いように変形した忠孝精神である」とは,深田祐介や猪瀬直樹など,多くの識者が指摘するところです.藩が会社に代わっただけではないかというものです.
この説が本当だとすれば,少しも忠孝精神は破壊されていないことになるのですが,小林は触れてさえいません.会社勤めを経験したことのない小林は,それに思い至らなかったのかもしれませんが.
ちなみに,朱子学には忠孝精神の他に,「理気説」「性情説」「居敬窮理説」という説を展開しています.
この内,性情説とは以下のようなものです.
人間は性と情の絡まりであると説かれます.「性」は理で本性理性,情は気で気質感情を言います.
そして,人間が情のままに行動すれば,仁義礼智の性を喪失し,人間のあるべきあり方は不明となり,家族・村落・国家の人間共同体は危機に陥る.そこで,情の動きを純粋にして性の筋目に従わせ,人倫の道を守るようにすべきである,としています.
「作法としての反米」と唱え,その実質,過激な反米差別を感情的に唱え続けている――小林にとって親米に見えた者には,ポチとレッテルを貼って罵倒していますね.絞殺自殺した小泉首相の姿まで描いています(p.29)――小林に,性の筋目は見出せません.
朱子学的精神の内,忠孝だけをクローズ・アップして,他を切り捨ててしまっている姿勢には,大きな矛盾を感じるのですが,どうでしょうか?
もしかすると,「いいものなら,それだけ残すべきだ」と小林は言うかもしれません.
しかし,そうであったとしても,江戸時代の軌範を,現代にそのまま当て嵌まることには無理があり過ぎるでしょう.当時と今とでは,人間を取り巻く精神的環境も物質的環境も,全く異なるのですから.
そうである以上,その「いいもの」をいかに現代に適合させていけばいいのか?という考察が必要になるはずなのですが,本書にはそれは皆無です.
昔に戻しさえすればいい,というのであれば,それは保守ではなく,単なるオストリッチ・コンプレックスじみた守旧派でしかありません.
まあ,曖昧な主張なら,言い抜けは幾らでも可能ですけどね.
だいたい,忠孝の精神は,目上の者に対する尊敬の念を持つよう勧めていますが,自説に同調的でない者を醜悪に描く小林が,忠孝の精神を遵守しているようにも思えません.
自分自身では全く守っていないものを,他人に守らせようとする態度は,矛盾ではないでしょうか?
こんな穴だらけの言説で,第2次大戦を語って欲しくはないものです.
余談ですが,「国のために」とか「無私の精神」とか言ってる奴が国を滅ぼすんだ…なんて,へそ曲がりなこと言ってる山本夏彦が,
「小林に引用されてる」
って聞いたら,どんな顔するんでしょうね.
【参考文献】
(1) 大正デモクラシー関連
岡義武編『吉野作造評論集』,岩波文庫
信夫清三郎「大正デモクラシー史」,日本評論社
今井清一「日本の歴史23 大正デモクラシー」,中央公論社
大久保利謙「日本全史 近代III」,東大出版会
(2) 朱子学関連
後藤俊瑞「朱子の実践哲学」,目黒書店
友枝龍太郎「朱子の思想形成」,春秋社
島田虔次「朱子学と陽明学」,岩波新書
【珍説】
パリ不戦条約では,自衛戦争か侵略戦争かの判断は,該当国家の裁量に委ねられていた.
推定林間≒「一応仮コテ」
一方,1928(昭和3)年には,パリで「不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)」なるものが調印され,「侵略戦争」の放棄を宣言した.
これはグロティウス以来の,戦争は無差別に肯定するという常識が,変化し始めた兆しでもある.
ところが「侵略」の定義は当事国に任されていた.要するに…
「わが国はこれから侵略するぞーーー!!」
と言わない限り,「侵略」にならないのである.
小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.218
【事実】
であれば,それは各国が勝手に判断するのではなく,事後的に国際法廷や国際会議で判定を受けるべき問題であると,国際法学の大家オッペンハイムが示している.
条約の趣旨から言っても,自衛権を損なわないためであり,勝手な解釈で戦争を起こす事を肯定しているわけではない.
【質問】
ケロッグ=ブリアン条約の成立までの経緯と,同条約の問題点は?
【回答】
今も尚,国際上では有効とされているケロッグ=ブリアン条約であり,そもそも満州事変を否定する材料の一つとなった「不戦条約」だが,この成立にはかなり混乱が伴っており,成立からして骨抜きな条約みたいだ.
キッシンジャーによると,WW1後対ドイツ政策に行き詰ったフランスのブリアン首相が,マジノ線構築による防御戦略によって,能力的にはドイツ東部への侵攻「封じこめ」を捨て去ったことにより,フランスの政戦両略の不整合がおきた混乱から,なんとか世論の支持(国際的な物を含む)を得ようとしてアメリカに提案したもののようだ.
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指導者は混乱すると,政策の方向を決定する代わりに世論のムードに訴えようとする傾向がある.
何かをやっていると見られたい願望に駆られて,ブリアンはアメリカの参戦10周年の機会を利用して,1927年6月に,仏米両国政府が両国の間では互いに戦争を放棄し両国のすべての紛争を平和的手段で解決することに合意するという条約案をアメリカ政府に提案したのであてた.
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―――ヘンリー・キッシンジャー著『外交』上巻(日本経済新聞社,1996.6),394ページ
※この場合のアメリカ参戦はWW1への参戦のこと.
これに対して,当時のアメリカ国務長官ケロッグは,回答に迷ったが,この条約案が実際上の効果は無い事を確認した上で,選挙対策としてこの「平和のための案」に批准することを決めた.
そして,ケロッグはこの案に出来るだけ多くの国を参加させようと働きかけ,理念的に「国家の政策手段としての戦争放棄」をうたい,1928年8月12日,50カ国の参加を得て「ケロッグ=ブリアン不戦条約」(パリ不戦条約)に署名した.
しかしながら,パリ不戦条約が署名されるとすぐに,各国の政治家達は考えを変え始めた.
すなわち,以下のような条項を盛り込むことによって「骨抜き」にしたのであった.
・自衛のための戦争と国際連盟規約
・ロカルノ条約,及びフランスの同盟から生じる義務を履行するための戦争
この二点を合法化したことにより,この条約はいかようにも受け取れる条約となり,結局「元に戻る」となってしまったわけだ.
この上さらにイギリスが「自国を防衛するための自由」,アメリカが「モンロー主義と自衛のための権利」を主張し,しかもアメリカはいろんな抜け道を作った上で,すべての強制行為参加を拒否した.(国際連盟に参加しなかったからね)
んで,ケロッグは数ヵ月後にこんなことを言い出した.
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上院外交委員会での証言でケロッグは,アメリカは不戦条約上,侵略行為の被害国を助ける義務を負っているわけではない,
なぜならばそうした侵略行為があること自体,すでに不戦条約が破棄されていることを示すものだからであると言う途方もない理論を示した.
「もし他の国がこの条約を破ったとしたら,なぜ我々はこの条約に参加していなければならないのか」
と,モンタナ選出のウォルシュ上院議員が質問したのに対し
「そうしなければならない理由は少しもない」
と国務長官は回答したのである.
ケロッグはこの条約を,
「パリ不戦条約は平和が保たれている限りにおいて平和を保つであろう」
という同語反復に変えてしまったのであった.
戦争がこれから始まろうとしている状況を除いたあらゆる状況下で,禁止されたということである.
それゆえ,D・W・ブローガンがケロッグ・ブリアン条約について次のように述べたのも不思議ではなかった.
「かつて第十八修正条項によって飲酒という悪を根絶したアメリカは,今度は,誓約をすることによって戦争を根絶しようと世界の各国に呼びかけたのである.
世界の国々は,あえて信じも疑いもせず,それに従ったのである」
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同395ページ
で,この条約によって,フランスはかつての同盟国から軍縮の圧力を掛けられることになっちまった.
しかもラインラント占領が早期終了される結果となって,マジでブリアン涙目と言う感じ.
にしても・・・・
アメリカは不戦条約上,侵略行為の被害国を助ける義務を負っているわけではない,
なぜならばそうした侵略行為があること自体,すでに不戦条約が破棄されていることを示すものだからである
.
……なんか,日本のサヨクみたいな言い分だなコリャ.
まぁ,これへの反省が戦後アメリカが欧州やアジアの安全保障への参加を誘発したと思えば,かなり興味深いが.
ケロッグ=ブリアンとは,確かに「不戦条約」ではあったが,上のように各国によって骨抜きにされてしまった.
でも,この不戦条約は,いろんな場面で各国への批判材料となったことも事実である.
この意味でWW1以前よりも戦争に対する認識が変化したのは間違いない.
これを
「強制力なきゆえの欠陥条約に過ぎない」
と判断するか,
「世界各国が不戦という理念を持った転換点」
と見るかは,各人の判断に委ねることにする.
漏れ的には両方の意味合いがあって,結局は「自国に有利なような条約」であっても相手が利用できる条約という,正当性や大義名分などを変化させる物であったと思う.
ますたーあじあ in mixi, 2008年01月05日19:09
【質問】
「昭和四年,ソ連は満州に侵攻したが,これが,ケロッグ・ブリアン協定を破った最初の侵攻戦争」である.英米仏伊は,ソ連に不戦条約義務違反を注意したが,当然ながら,ソ連自身はこれを「侵攻戦争」でなく「自衛戦争」とし,制裁を受けなかった」
と書いてあったのですが,これは事実でしょうか?
【回答】
1929年の中ソ紛争なら,
「ソ中両国に警告を与える」
というオチで不戦条約参加55カ国中38ヶ国が賛同.
この時は,経緯もあってソヴィエトに好意的な解釈を行った国のほうが多いかな.
イギリスは,ソ連が国際連盟加盟国で無いことを理由に,取り上げるのを拒否してるし.
ちなみに,この中ソ紛争が「ケロッグ・ブリアン協定を破った最初の侵攻戦争」でなかった場合,満州事変が最初になってしまうので,ことさら取り上げられることが多い.
+
【質問】
これ本当ですか?
昭和14年『ノモンハン事件』の空中戦で被弾し,敵地に不時着した原田文雄少佐,伊藤曹長の二人はソ連軍の捕虜となった.
伊藤曹長はそれまで敵機25機を撃墜し,『ホルンバイルの華』とまでうたわれた逸材であったが,捕虜送還で帰ってきた彼らを待ちうけていた運命は非情なものであった.
原田少佐は『自決』を強要され,伊藤曹長は軍法会議で『有罪』となり,ともに人生から消え去ったという.
ノモンハンの捕虜で,帰国後の運命を恐れて,ソ連の地に残留を望んだ将兵は1千名を超えていたといわれている.
祖国の栄光のために戦いながら,祖国からの報復を恐れて帰国を断念し,ソ連に永住したのである.
http://members.at.infoseek.co.jp/koidetyu/siberia3.htm
【回答】
本当です.
皇軍は自称「無敵」なので,負けたことになれば,誰か上層部が詰め腹を切らされます.
従って,負けた事実を隠蔽するため,こういった不利な状況を知っている人々を徹底的に死に追いやりました.
他にも,前線部隊の将校なんかも自決を強要させられています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
◆◆◆軍縮会議関連
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
1921(大正10)年,アメリカ大統領ハーディングの提唱で,「ワシントン会議」が開かれた.
「国際協調」で「平和の永続を図る」という美しき目的の会議である.
ところがこれが例の
「一見,理想的で,実はアメリカだけの利益になることを他国に押し付ける」
というお家芸,そのものだった.
日本外交の柱だった日英同盟は,「国際協調にそぐわない」と廃棄させられた.
海軍軍縮条約で,戦わずして戦艦を沈められた.
(小林よしのり「戦争論」3,p.215)
【ツッコミ】
日英同盟の件は,全くの妄想.どこからこんな怪電波を拾ってきたのやら.
また,軍縮条約を結ばずに八・八艦隊なんてやってたら,戦争する前に国が滅ぶ.
八八艦隊を揃えたら、台湾の要塞化どころか陸軍の維持すら出来ない。
何せ艦隊維持整備費で国庫の四割を食ってしまうんだ。
旧ソ連みたいに財政破綻するか、三〇年代中盤でヤケクソになって戦争始めるか・・・
それに小林は,米英も戦艦廃棄してるのを知らないんだろうか? それとも、日本だけが艦艇を
削減されて6割になったと思ってたんだろうか?
知っててなおもそう書いたにしても、知らなかったにしても、彼にこの問題を語る資格は無いよね。
日本が沈めたのは未完成艦と日露でゲットした前ド級艦。
あと、謎の不揃い口径長12インチ砲搭載艦。
いわばリストラ艦。
まだまだ使える超ド級戦艦/巡戦を沈めた大英帝国や、保有枠満たす為に火力不足の12インチ砲搭載艦を残さざるを得なかったアメの方がよっぽど痛い。
もし,このとき日本が戦艦「陸奥」を捨てていれば,コロラド級2隻とネルソン級2隻をさらに葬れただろう。
まあ,結果論だが。
ちなみに,日本に6割を呑ませる取引材料として,陸奥存続について早々に了承したのがイギリス.
それとも「土佐」「天城(地震が無ければ加賀)」を沈められたのを,小林はそんなに恨んでいるのか?
八八艦隊の維持費だけで国庫の4〜5割が吹っ飛び、アメリカが,議会さえ黙らせれば財政的にダニエル計画艦隊がもう1セット揃えられる事を知らないんだろうか?
普通に考えたら,戦間期の軍縮ではアメリカが一番損をするんだよ。
アメリカが本気を出して建艦競走を始めたら,日英合わせてもアメリカの工業力に太刀打ちできなかったからね。
なのにわざわざ,自分で自分の手足を縛ろうとするわけだからね。
よしりんは「当時の価値と現代の価値は違う」と言う癖に,当時の状況をまったく考えない.
ちなみに件の条約を結んだ加藤友三郎海軍大将はこんなことを言ってたワケだ。
「アメリカと互角の軍備を整えても,実際に戦争するには金が要る。
そんな金貸してくれるのは,世界一の金持ちのアメリカしかない。
しかし,帝国海軍が戦争する相手は,現実的にアメリカしかない。
アメリカから金借りてアメリカと戦争するなんて、んなアホな。
軍備は国力相当にして、その国力を貯えることが重要」
ってね。慧眼。
小林信者は、小遣い帳を付けるところから人生勉強をやり直してくれ。
【質問】
日英同盟の解消はどちら側に原因があったのでしょうか?
【回答】
日本側にある.
まず,第一次大戦で同盟を理由に参戦した割には,欧州には大した戦力を送らず,そのくせ大陸での利権を掻っ攫おうとした態度が英国の世論を大きく刺激した.
大規模派兵が兵站能力から不可能だったのは言うまでもないが,世論とは得てして感情的なもの.
また,当時外務次官で日本の外交を一手に担っていた幣原喜重郎が,旧来の同盟による勢力均衡という習慣を断ち切り,国際協調によって平和を保とうという理想を持って外交を進めたせいでもある.
なお,イギリス側の意見としては,連邦内ではオストラリア,ニュージーランドが同盟継続.
南アフリカは中立だがウィルソン主義に賛同.
カナダが強行に同盟継続反対.
政府内としてはカーゾン外相,チャーチル植民地相,連盟担当のバルフォア枢密院議長,チェンバレン国爾尚書,陸海軍大臣,参謀総長まで,全て同盟継続派だった.
日本の意思が同盟継続ならば,イギリスも同盟解消に積極的に動くことはなかっただろう.
【質問】
第2次大戦までの,日本の対英感情,英国の対日感情はどんなものだったのか?
【回答】
日本⇒英国:尊敬の対象であり,模範.
英国⇒日本:まあ友好的.日本を教えたことを誇りにする地域も.
言うまでもなく,この関係は戦争で台無しに.
以下引用.
日本協会が創立された1891年には,日本に関心を持つイギリス人はごく少なかった.奇特な学者や外交官だけが日本に関心を持っていた程度で,普通の人は日本の存在さえも知らなかった.
この奇特な学者や外交官達が日本協会を作り,民間の日英交流が始まったのだが,20世紀の初めに,日英同盟が締結され,親交の時代が20年足らず続き,それから第2次大戦に入って,日英は敵と味方に分かれてしまった.
日本の戦争捕虜になったイギリス人の中には,今もって強い反日感情を持っている人も多い.
この戦争の時期を除いて日本人は,概してイギリス人から快く,友好的に受け入れられてきたと思う.
日本人に造船技術を教えたことを誇りにしているグラスゴーでは,戦争中でさえも,日本とのつながりを断たないといって,日本とグラスゴーの友好協会を残しておいた.
この時期,日本人はイギリス人を尊敬し,先生と敬い,日本は東洋のイギリスになりたい,あるいは東洋のイギリスであると称していた.
マークス寿子著「大人の国イギリスと子どもの国日本」
(草思社,1992/7/20),p.237
一方,グラスゴーのような例まである国とは対照的に,「我が闘争」でアジア人を劣等民族呼ばわりしているような国と,日本は同盟を結んだのだから,どう考えたって選択ミスとしか思えない.
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
ワシントン会議で,当時の額で1億5千万円の巨費を投じて開発していた山東地域は,中国に返還させられた.
アメリカはこれで,大いに中国に恩を売った.
一方,日本が手に入れたものは,「国際協調」という約束だけだった.
いくら美しい目的を掲げても,行われた事は外交テーブル上の戦争で,結果はアメリカの一人勝ちだった.
(小林よしのり「戦争論」3,p.216)
【ツッコミ】
身の程をわきまえずに大戦中、火事場泥棒的に「対華21箇条要求」なんて横暴な事をした懲罰だよ。
みんなで仲良く切り分けていたパイに砂かけてどうすんだよ?
あらかじめイギリスかアメリカと示し合わせてからやりゃいいのに、抜け駆けするから・・・
カイザー・ヴィルヘイムより外交感覚が無いよ。
そもそも,日本政府が山東利権をいかに確保する気だったかを無視して「返還しただろうが」と言われても
…….
ワシントン会議直前の日本の閣議決定の方針は
1.最低限、無条件返還はなし
2.できれば山東鉄道は合弁経営
3.鉱山資源は中国に独占させない
だった。
んで,鉄道経営に関しては,途中で
「中国の長期借款(しかも鉄道経営者は日本人)という形式で当分確保」
に変わる。
交渉は最終的に中国全権団の分からず屋ぶりにウンザリした米英全権団の好感と努力に助けられ,上記の目的を達成(無条件返還なし、鉄道は中国への長期貸付(運営陣日本人参加)、鉱山は日中合弁)
無条件返還にこだわっていた中国に比べて明らかに成功しているわけだが.
それから,条約に基づいて、米英が西太平洋の軍港を要塞化するのを放棄した事は無視ですか?
イギリスが戦艦8巡洋戦艦8を基幹とする太平洋艦隊配備計画を諦めたのは無視ですか? おかげで太平洋戦争開戦時に日本軍は楽勝で香港・シンガポールとグアムを陥落できたのですが。
【質問】
アメリカはハワイ、イギリスはシンガポールという重要拠点を要塞化制限から巧妙に外しましたが何か?
日本は台湾すら要塞化できなくなりましたが何か?
【回答】
>シンガポール
艦隊無き軍港がそんなに脅威か?
>ハワイ
ハワイが無ければ、米海軍の太平洋での活動なんてほとんどできないじゃん。
貧乏国相手に、何でそこまで妥協してやらなきゃいけないんだか。
一方で,アメリカはフィリピンを防衛する手段を失ってるし。
フィリピンの問題といい、軍縮によって日本の財政破滅が逃れられたことといい、日本はワシントン条約のおかげで太平洋戦争が出来たようなもん。
こんなこというと、
「それはすべて,アメリカが日本と戦争するために仕組んだことだ」
なんてことを言いだすく奴が現われそうだが、それは完全な妄想なんでその辺よろしく。
>台湾要塞化
日本は(条約批准しようがしまいが)一枚看板の艦隊を使って,太平洋のど真ん中で一撃必殺の迎撃型艦隊決戦をするつもりだったでしょ。
台湾まで防衛戦が下がる状況じゃ、既に艦隊は澪付く屍になってて史実通り「負け」じゃん。
後方で予備艦を再編成する余裕のある米英と違って、意味無いと思うなぁ。
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
この会議〔ワシントン会議〕では中国政策として「9ヶ国条約」が結ばれた.
中華民国を含む9国が一致協力し,将来,中国の政情が安定すれば各国は不平等条約を解消、既得権を放棄するという実に理想主義的な条約だった.
地理的に,欧米諸国とは比べものにならないほど満州などの問題が重要な日本にとって,他の国との「一致協力」には不利な点が多く,維新も傷つくことになった.
それでも日本は「国際協調」に賭けたのである.
戦争が起きないように欧米と足並みを揃え,中国の政情が安定することに賭けた.
ところがまずこの「9ヶ国条約」を破ってきたのは他ならぬ中国だった!
中国は政情の安定どころではなく,いまだに各軍閥が内戦を続けている段階で,世界各国の租界でテロを起こし,略奪を繰り返してきた.
こんな場合は他の国が一致協力して対応するという約束だった.
ところがアメリカは,自分が提案したルールを勝手に破り,他の国と違って中国に好意的だという態度を示し,抜け駆けで利権を得ようと画策した.
もちろんそれは,アメリカが中国に租界を持っていなくて,他の国のようにテロの被害に遭っていないから言えたことだが…
例によって彼らは,自分たちが一番,中国に良心的に対応していると思い込んでいた.
中国人は,アメリカの譲歩はテロの容認だと受け取り,さらにテロを激化させた.
言っておくが,この軍閥によるテロは,民族自決のための抵抗のテロではない.
彼らの目標は天下のみ!
彼らは中国民衆から略奪していたから,租界に中国人が流入していたのだ.
そして結局は,各国が独自に行動するようになり,「9ヶ国条約」は全く無意味になった.
そんな中,日本は極めて忠実にこの条約を守っていたと,当時の駐支各国外交官全員が認めていた.
(小林よしのり「戦争論」3,p.216-217)
【ツッコミ】
最近の戦間期の研究だと、九ヶ国条約の内容は日英も一応は考えていた(時期は不明確なのがミソ)
「将来的な既得権排除」
をただ確認しただけで、それは結局何の争点にもなっていなかったし、
焦点である現状の日英の既得権益は,アメリカの全権団がバランスとって承認したのが確認されてる。
他のワシントン会議の個別案件としての山東、21ヶ条、シベリア、海軍軍備、
いずれにおいても日本はむしろボロ儲けなんて見方をしてる。
というか「9ヶ国条約が条文通り遵守されていれば」自体、上述のように実際には色々日英米でお約束があったわけで、それが「日本に不利」云々とは無縁。
ついでに言えば,中ソという潜在的地域大国を参加させていない、かつ同床異夢のワシントン体制に,そもそも欠陥があったとも言える。
中国での特権放棄をアメリカが率先したのは事実だが、ケロッグやらスティムソンやらのアメリカの機会均等・門戸開放支持者の意図には、利権と同時にアメリカ外交お定まりの
「道徳的にアメリカが勝るべき」
という面が強い。連中はむしろワシントン体制の中に民国政府を組み込むことを重視していた。
そして,果して状況に適応していなかった「9ヶ国条約を忠実に守った」ことは評価されるべきなのか?
上海で自作自演の邦人殺害をやり、租界で戦闘、挙げ句陸軍を投入し、租界への爆撃までやってのけた日本のどこが,
「国際強調を重視し、もっとも忠実にこの条約を守った」
と言えるのか?
どこの,なんて名前の外交官がそんな妄言吐いたのか,具体的に言ってみれ.
個人的には,
・ワシントン体制を見直して地域秩序の再編ををきちんとやらなかった日英米
・革命外交なんて調子付いてた民国政府、
・横でかき回したソ連、
どいつもこいつも問題ありとしか思えないけどね。
上海事変

【質問】
ロンドン条約が「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」問題を引き起こすことになったのは何故か?
【回答】
山田朗によれば,野党による,手段を選ばぬ倒閣戦術として利用されたため.
ことは,条約調印直後,野党,政友会(犬養毅総裁)が議会で,この条約を調印したことは「統帥権干犯」ではないか,と政府を追及したことに始まる.
天皇の統帥権を補佐するのは,海軍の場合,海軍軍令部長(当時,加藤寛治)であるので,その軍令部長が反対する条約を政府・海相が無理矢理結んだのは,天皇の統帥権を犯すものだ,という論理である.
「統帥権干犯」というインパクトのあるスローガンを作ったのは,「国家改造」運動の黒幕・北一輝であるとも言われている.
その「統帥権干犯」を,政友会が利用したのである.
だが浜口雄幸内閣は,協調外交(篠原外交)・財政緊縮(井上財政)路線を堅持するためには,軍縮実現は譲れなかった.
憲法学者・美濃部達吉の学説を拠り所にして「干犯論」に対決,条約批准審査を行う枢密院への工作にも成功し,なんとか10月2日に条約批准へと持ち込んだ.
それでも,ロンドン条約を巡る紛糾は,財部海相失脚と条約派軍人の没落を招いただけではなく,11月14日には浜口首相狙撃事件を引き起こし,軍部・右翼による政党政治否定の「国家改造」運動を高揚させるきっかけとなるなど,以後の政治との関わりでは,極めて深刻な後遺症を残した.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.122-124,抜粋要約)
この統帥権は,ドイツ法の影響と、帷幄権限(軍事に関する事項を閣議に通さず天皇に上奏できる権限)
から生まれた慣習的な考え方で、当時でも
a)統帥権自体を認めない説
b)統帥権という概念は認めてもその政府からの独立を否定する説
c)統帥権の独立を肯定するものも統帥権の独立とは、もっぱら作戦行動についての独立であって、個別の作戦行動を離れた予算や人事に関しては統帥権の問題とはならないと考える説
d)軍の編成については帷幄機関にも発言権があってしかるべきだとする説
などがあり、c)説が通説で、軍令部や政友会の主張のd)説は少数の異端説。
というのも,犬養らの主張は,明治憲法の
第11条『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス(統帥大権)』
と,
第12条『天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(編制大権)』
との混同で,統帥大権と編成大権は別々の大権.各々の大権が別の大権を犯すと言うのは明らかにおかしな話。
仮にそれが正しいとしたら
第十五条は『天皇ハ爵位勲章……ヲ授与ス』
とあるので,恩賞権は独立して総理大臣が関与できない事になってしまう。
なお,犬養自身は軍縮条約に賛成だったが、政権奪取のため,あえて持論を押さえた.
◆◆満州事変
【質問】
大陸進出が国の政策として確立されたのは,いつ頃か?
【回答】
1926年頃だという.
以下引用.
1894〜95年の日清戦争後から陸軍が主張し始めた大陸進出論に対抗して,海洋発展という新たな海軍戦略の思想を打ち出したのは佐藤鉄太郎中将(鈴木貫太郎中将と同期)で,1892年,大尉の時に「国防私説」,1902年,少佐のときに「帝国国防論」を書いて世論に大きな影響を与えた.
陸軍は,最後の決戦を戦うのは陸軍であるから,国防は陸主海従でなければならないと主張し,かつ大陸進出の必要性を強調していた.
佐藤はこれに対し,
「島国である日本は海主陸従でなければならない.
イギリスは大陸征服に向かわず,富を海外に求めて繁栄している.
侵略征服する国は必ず滅びる事は,歴史が証明するところである」
と論じた.
当時,海軍は制度上,陸軍の下位にあった.
陸軍大将か中将を庁とする参謀本部の中に海軍軍令部が置かれていたから,軍令部の独立はかねてからの海軍の悲願だった.
山本権兵衛海相は,佐藤の「帝国国防論」を武器として陸海軍対等を主張,03年の暮れにようやく軍令部が独立した.
しかし,大陸進出論と海洋発展論は並列のままだった.
日露戦争から4年後の09年,佐藤大佐はさらに論を進めて「帝国国防史論」を出し,
「国防よりも大陸の発展,満州と中国における事業を重視する誤った考えがあるが,国防より侵略に走る事は亡国の原因になる」
と論じた.
山本時代の海軍は一貫して,大陸進出に反対した.
ロシアが敗れて国力が低下すると,海軍のみではなく,財界とその支援を受ける報道界も,大陸進出に反対するようになった.
先鋒となったのは「東洋経済新報」であり,13年には満州放棄論を唱え,次いで小日本主義(大陸に進出せず,軍備拡張を避け,国内開発を優先する)を打ち出した.
この年,海軍は佐藤の執筆になる「国防問題」を発表して海主陸従を主張し,経済発展と人口問題の解決を大陸に求めるのは誤りであるとして,大陸進出論の見直しと陸軍の拡張中止を求めた.
この13年に発足した山本内閣は,こうした新政策の実行に乗り出したが,翌14年のシーメンス事件で山本大将は予備役編入となり,大陸進出論は再び勢いを得た.
しかし15年から海相,22年から23年までは首相兼海相として大正期の海軍をリードした加藤友三郎大将もまた,大陸進出論には反対を続けた.
加藤海相は21年11月から22年3月まで,全権委員の独りとしてワシントン海軍軍縮会議に出席したが,原敬首相と戦略思想において一致していた.
帰国後,首相になった加藤大将はないから,米英との軍核戦争で勝ち目は大海軍の建設は諦め,大陸進出を見直し,シビリアン・コントロールを導入して軍縮を進めるという施策に着手したが,翌23年,病を得て辞任,間もなく死去した.
大正最後の年となる1926年,加藤寛治軍令部次長は講演の中で,大陸は日本の死活地域であるとした.これまでの海軍の戦略思想を転換して,陸軍と同調したのである.
軍令部次長がそうした場で私見を開陳する事はないから,あらかじめ財部彪海相,鈴木貫太郎軍令部長の承認を得ていたと見て間違いないであろう.
こうして,経済・国防両面に於ける大陸進出が,国の政策として確立されたのだった.
「世界の艦船」2005年8月号,p.84-86(左近允尚敏 Sakonjoh Naotoshi 著述)
国内で資源が殆ど採れない日本の陸軍が,初めに着目したのが中国大陸の資源だった.
1917年(大正6年),中国北部や中部の資源調査を行った参謀本部の小磯国昭少佐(のち首相)は,「帝国国防資源」の中で,
「支那の原料を欧米人に壟断せられざるの処置あること緊要なり」
と指摘した.
小磯は,朝鮮半島の釜山と日本本土を海底トンネルで結ぶ鉄道建設構想も提案している.
背景には,島国日本が経済封鎖されることへの恐怖感があった.
陸軍はまず,満州(中国東北部)を国防資源の確保先として狙った.
関東軍高級参謀の板垣征四郎は,満州事変を起こす半年前の31年(昭和6年)3月,満州の重要性について,
「(満州は)国防資源として必要なる殆んど凡ての資源を保有し,帝国の自給自足上絶対必要」
と強調した.
翌32年,満州国建国で,日本は大豆,コウリャンなどの他,鉄,石炭などを手に入れた.
だが,石油は,満州や,37年(昭和12年)からの日中戦争で占領した中国国内では見つかっていなかった.
読売新聞 2005/12/22
【質問】
昭和2年(1927)の南京事件とは?
【回答】
2百人の中国軍兵士と女子供を含む数百人の一般人暴徒による各国領事館銃撃事件.
英国人2人,日米伊仏デンマーク人各1人が死亡,
暴行,略奪は床板,便器空瓶にまで至った.
このとき日本は完全無抵抗を貫いたが,米英は軍艦より砲撃.
後に北京のソ連領事館を捜索したところ,クレムリンからの「指令」文書が発見され,これにより,領事までもが殺されそうになったイギリスは,ソ連と断交
した.
この事件について中国刊行の「中国歴史」は現在,
「・・・英,米,日などの帝国主義は狂ったように南京城を砲撃し,中国軍民二千人余りを死傷させた・・・」
などと記述している.
【質問】
済南事件とは?
【回答】
昭和3年(1928)に起きた,中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件.
略奪被害戸数136,被害人員約400.
中国側も立ち会った,済南医院での日本人被害者の検死結果は,以下の通り.
藤井小次郎
頭および顔の皮をはがれ,眼球摘出.内臓露出.陰茎切除.
斎藤辰雄
顔面に刺創.地上を引きずられたらしく全身に擦創.
東条弥太郎
両手を縛られて地上を引きずられた形跡.頭骨破砕.小脳露出.眼球突出.
東条キン(女性24歳)
全顔面及び腹部にかけ,皮膚及び軟部の全剥離.
陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり.
両腕を帯で後手に縛られて顔面,胸部,乳房に刺創.助骨折損.
鍋田銀次郎
左脇腹から右脇に貫通銃創.
井上国太郎
顔面破砕.両眼を摘出して石をつめる.
宮本直八
胸部貫通銃創,肩に刺創数カ所.頭部に鈍刀による
切創.陰茎切除.
多比良貞一
頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創.
腹部を切り裂かれて小腸露出.
中里重太郎
顔面壊滅.頭骨粉砕.身体に無数の刺創.右肺貫通銃創.
高熊うめ
助骨折損,右眼球突出.全身火傷.左脚の膝から下が脱落.
右脚の白足袋で婦人と判明した.
他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され,人定は不可能であった.
【質問】
田中上奏文とは?
【回答】
日本の大陸侵略意図の証拠として使われてきた,プロパガンダ用の偽文書.
当初から偽文書と判明していたが,中国では本物として広まっているという.
以下引用.
昭和2年に政府が中国関係の外交官や軍人を集めて開いた「東方会議」の内容を当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書を装い,「世界を征服しようと欲せば,まず中国を征服しないわけにはいかない.これは明治天皇が遺した政策である」などと書かれている.
4年に中国語の印刷物が現れ,英語版やロシア語版も登場した.
あり得ない日付が記されるなど事実関係の誤りが多く,当初から偽文書と判明していたが,中国では本物として広まった.
【2006/03/02東京朝刊から】
【質問】
政府や陸軍中枢が満州事変を事前に止められなかったのはなぜなのでしょうか?
いくらなんでも,一個師団丸々が独断で動くとしたら,バレそうな気がするのですが…
【回答】
事変が起こる前としたら,バッチリばれていました.
しかし,先の三月事件程度のクーデターごっこと舐めていたのか,あまり本気で止めるつもりがない,若しくはちょっときつく言えば止めれると思っていた模様.
満鉄爆破は1931年9月28日に予定していたが,現地で金で買収した大陸浪人が酔って計画を喋った所為で,弾薬や軍需品を集めているという情報が漏れて,これが政府に伝わりました.
政府は計画を止めるため,参謀本部第一作戦部長の建川美次少将を満州に派遣しまた.
建川は18日午後に奉天に到着,その夜に招かれた料亭で
『君らの事は半分バレた.中央は止めよという.
自分の意見は,うまくやるならやれ,駄目なら止めた方がよかろう,というものだ』
と話し,酔いつぶれて寝込んでしまいまた.
中央が本気で止める気がないと察した石原たちは,昭和6年9月18日深夜,計画通りに鉄道爆破を実行.
建川自身は
『まさか,その夜やるとは思っていなかった』
と後に回想していました.
また,本来関東軍を真っ先に止めるべき筈の憲兵隊も事実上,関東軍に支配されており,その役割を果たしていませんでした.
事変の最中に関して言うのなら,関東軍の進撃の速度が速過ぎて,国際連盟内で停戦や兵の引き上げを話し合っている間に戦果が既成事実として出来上がっていたのもあります.
事変後ほぼ三日で関東軍は満州の中央部を抑え,朝鮮軍は東部を確保し,残るのは,満州北部と,長城線に近い西部だけとなっていました.
また,石原は予てから意を通じていた朝日新聞を通してに戦況を流し,更には苦戦を演じて,国民からの熱烈な支持を得ることに成功しています.
この世論が,中途半端に民主政治を行なっていた日本政府の不拡大方針を曲げてしまう事になります.
元老の西園寺公望さえも
「幣原外交は正統派で間違いがないと支持してきたが,いかに正しいことでも,国論が挙げて,非なり悪なりとするに至っては,生きた外交をするうえでは考え直さねばならない」
と洩らす状態でした.
そしてその後,板垣,石原の工作で,満州の軍閥各指導者らは,シナ本土からの分離独立を宣言しました.
こうなると,早期撤退の問題もなくなり,また,
「満州の独立は満州人自身の意思だ」
という既成事実が作られました.
【質問】
満州事変は何の国際法違反ですか?
零戦 in コヴァ =推定林間
【回答】
ワシントン会議の中での海軍軍縮条約が「ワシントン条約」であり,同じく,中国・ベルギー・ポルトガルを含めて締結したのが「9カ国条約」ですが,その9カ国条約はの主旨は
[1]中国の主権,独立,領土的・行政的保全を尊重すること
[2]中国が自ら有力かつ堅固な政府を確立するため,完全にして障害のなき機会を供与すること
[3]中国の領土をとおして,いっさいの国民の商工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するため,各国が尽力すること
[4]友好国の国民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため中国における情勢を利用すること,・および,友好国の安寧に害ある行動を是認することをさしひかえること,
一方,日本が日中戦争の講和条件として蒋介石に突きつけた諸要求が,
●支那は容共抗日政策を放棄し,日満両国の防共政策に協力すること
●所要地域に非武装地帯を設け,特殊の機構を設定すること
●日満支3国間に,密接な経済協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して,所要の賠償をすること
以上の他,『口頭説明』として次の細目を付加しました.
●支那は満州国を正式承認すること
●支那は排日および反満政策を放棄すること
●北支および内蒙古に非武装地帯を設定すること
●北支は支那主権の下において,日満支3国の共存共栄を実現するに適当な機構を設定し,これに広汎なる権限を与え,日満支経済合作の実をあげること
●内蒙古に防共自治政府を設立すること
●支那は防共政策を確立し,日満両国の防共政策遂行に協力すること
●日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して,特殊機構を設けること.また上海市には租界外に特殊政権を設け,日支協力して治安維持と経済発展にあたること
●日満支3国は資源開発,関税,交易,航空,通信等に関して協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して,所要の賠償をすること
(付記)
●北支,内蒙古,中支の一定地域に必要な機関,日本軍が保障駐屯するのを認めること
●前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する
明らかに,9カ国条約の主旨の「中国主権の尊重」「領土保全」「列強既存利権の確約」に反してますよ.
9カ国条約は,「満州における日本の特殊利権」は保証していますが,「中国からの満州分離」は認めていません.
日本の満州利権の多くが清朝時代に締結されたものであり,その清朝の後継政権である中華民国領土に満州が含まれていないと言うのは無理があります.
中国の列強利権は,時の中国政権(地主)である清朝が列強へ特許として与えた(正確には奪われた)ものであり,地主不在となれば特許(利権)そのものが消滅します.
北支地帯の日満支共同管理体制なんて,9カ国条約締結諸国にとっては余計なお世話であり,北支からの欧米経済締め出しと受け止められてもしょうがないでしょう.
賠償金要求は,蒋介石政権の財政健全化に協力していた英国の努力へ水を差す行為です.
上海に,租界の指揮下に入らない軍隊を駐留させるなんて,南支に多くの利権を持つ欧州列強への挑戦と受け止められても仕方ないでしょ.
一番まずいのが,列強の利権が絡み合う大陸を対象にした外交交渉なのに,これら講和条件について,9カ国条約諸国への事前の根回しや説明を一切していない事です.
そして,極めつけが近衛の「蒋介石政権を相手とせず」の馬鹿強気発言.
これだけでも,明らかなワシントン体制の破壊と挑戦です.
日本が独断で中国ワシントン体制をリセットしようとしていると勘ぐらない列強はいないでしょう.
日本はもう少し,「世界の中の日本」と言う立ち位置を考えて,中国へ戦争をふっかかるべきでしたね.
あのアメリカだって,「世界の中のアメリカ」を考えて,国連であれだけ根回ししてイラクへ戦争ふっかけたのに.それより立場が遙かに弱かった日本が,自作自演・我田引水としか見られない独走行為をするとは,頭が足りなかったとしか言いようがありません.
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
中国の相次ぐテロに外交官達は,こう忠告した.
「中国が,外国に対する敵対と裏切りを続けるなら,遅かれ早かれ,1,2の国が我慢しきれなくなって,手痛いしっぺ返しをしてくるだろう」
それは一番被害を受けている日本がやるだろうと,内心誰もが思っていた.
そして満州事変は起きたのである!
ところが満州事変に対する米英の反応は,日本人には理解し難いものだった.
以前,1927年に,南京で米英の居留民が中国に襲われ,米英は自衛のために南京を攻撃した.
この時,米英は中国人を「野蛮人」と呼んだ.
同様に,満州で日本の居留民が中国人に襲われ,日本は自衛のために満州を攻撃したのに,米英は今度は日本人を「野蛮人」と呼んだのである.
国際連盟はリットン調査団を派遣.
その報告書は,日本の立場に理解を示しながらも,結論としては満州国を認めず,国際管理下に置くというものだった.
(小林よしのり「戦争論」3, p.219)
【ツッコミ】
関東州の租借権と鉄道の敷設権は,満州を植民地化していい理由になどなりません。
リットン調査団の報告書は、事変後の「満足なる解決の条件」として,満洲における日本の利益の承認、内に対する治安維持、外に対する安全保障、満州の自治などを提案しています。
日本側の要求は全て満たされたはずでした。
治安維持を口実に元の権益以上の権益を武力によって強奪するならば、それはただの侵略でしかありません。
南京の例など,別に米英はその事件を利用して,南京周辺全域を占領したり傀儡国家を作ったりしたわけではありませんので,満州事変と比較すること自体無茶です.
もし仮に米英がそのようなものを作っていたら,やはり「野蛮」と非難されていたかもしれませんね.
「満州事変に対する米英の反応は,日本人には理解し難い」? 「小林には理解しがたい」の間違いでしょう.
【珍説】
日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は,他の国でもやってる普通の事.非難に値しない.
【事実】
最近議論してよく見かける主張に
「日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は,他の国でもやってる普通の事だ,非難に値しない」
ってのがある.
まぁ,大体の場合
日本の戦争は聖戦だ!
↓
(突っ込み)戦争始めた時点では「資源の確保地」以上の事は決まっていませんが.
↓
そんなことは他の国もやっている!
ってパターンなんだけどね.
さて,少しでもデマを減らしたいと思うので書いておくが,上記はトンデモない間違い.
ヴェルサイユ条約※やワシントン条約,国際連盟規約の制定によって「領土保全」が定められ,それ以前のように「植民地切り取り」は事実上禁止となった.
故に,もはやWW1以降の植民地戦争は違法となる.
まぁ,特に満州事変は9カ国条約違反であり(満州事変は,自作自演の張学良爆破事件から,タンクー協定までを指す)満州国は国連から否定された.
満州国を承認した国は,枢軸国の影響が強いか,もしくは中立国であり,こんなのは「国際的な合意」を得ていない.
この「WW1以前」と「WW1以降」を認識していない人ってかなりいるんだよね.
たしかに,ケロッグ=ブリアン不戦条約には欠陥があったし,9カ国条約にもいろんな欠陥があった.
しかし,日本は批准していると言う事実を軽く見すぎ.
WW1以前とWW1以降の世界は違うし,WW2以前とWW2以降の世界はまた違うものなのだ.
※ 「ヴェルサイユ条約」で一応,民族自決原則が出てきて,「パリ講和会議」でケロッグ=ブリアン条約が結ばれました.
WW1後,それらの条約が「締結された」ということを言いたかっただけで.
ますたーあじあ in mixi,2008年01月04日19:00
【質問】
ケロッグ=ブリアン条約に欠陥があっても批准してしまうと,その欠陥を甘受しなければならないということですか?
【回答】
もし問題があるのなら,それこそ国際社会を動かすべきだったんですよ.
ただ・・・当時の日本の無気力さからしてかなり難しいですねぇ・・・
そもそも満州事変自体,関東軍の暴走だし.
ますたーあじあ in mixi,2008年01月04日 20:24
ますたーあじあさんのように,9カ国条約などに不満があるなら国際社会に訴えればよかったんですよ.
それこそ,満州でこそこそするよりも大々的にです.
「合法的」にやれば,あれほどひどい結果にはならなかったはずですしね.
本来ならこういうことは「外交の失敗例」として反面教師とすべきであり,自己の歴史の正当化に使うべきではないと思います.
それこそ結局は「何にも学んでいない」ということになるのではないでしょうか.
【質問】
満州事変は本国に独断で行なわれたのなら,その資金はどこから調達されたのでしょうか?
【回答】
中公新書だったかに,当時の日本の植民地支配を支えた金融政策をうまくまとめた本があるよ.
早い話,朝鮮銀行や中国に日本が開設した銀行に紙幣を乱発させ,資金を得ていたのさ.
でも軍は,それが日本に輸入インフレとして入ってきてしまうことまでは考えが及ばなかったようだ.
これによる日本経済の破綻が,あの戦争の重要な要因だったりもする.
中国でのアヘン経営資金は事実上,岸信介個人の活動資金の一部しか賄えなかったという説もある
.
で,岸は日本に帰る際,この資金だけじゃ足りなくて,現地物資を大量に横領隠匿横流ししたりして,戦後の政治活動資金を得たりしたわけだ.
【質問】
田中義一は,その内規に照らし合わせると陸軍大臣としての条件を満たしていなかったから,東条英機みたいな「陸軍大臣兼務」が出来なかったということで良いでしょうか?
【回答】
陸軍大臣は,現行の陸軍大臣,参謀総長,教育総監の三長官一致の原則としていました.
とは言え,これは建前で,他にも陸軍次官,人事局長の進言・情報,軍の長老クラス,特に皇族,元帥,軍事参議官其の他,大将クラスの意向も無視できません.
また,彼の場合は,将官とは言え,予備役もしくは後備役の人物です.
幾ら,大正2年の改正で現役でなくてもよい,とは言え,現役に拘る軍内の意向を無視することが不可能です.
ちなみに,東条英機の場合は,陸軍次官と参謀次長の談合で決まったりします.
彼の場合は,未だ退役している訳ではないので,昭和11年の官制改正で規定された規程に合っています.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
日本が主張したように,満州は「化外の地」だったの?
【回答】
No.
1915年の日華条約で日本は,中華民国から満州権益租借期間の延長を取り付けている.つまりは満州の主権が中華民国にある事を認めている.
ちなみにこの条約がなければ,満州の租借権は,満州事変の頃には租借期限切れになっている.
それを後から家外の地だの言い出しても筋が通らない.
おまけに柳条湖事件は石原莞爾と板垣征四郎の企んだ作戦だろ.
爆破しといて中国国民党軍の仕業にしたろ.
で,満州国設立だからな.
どうあがいても,日本の主張が国際的に認められる可能性はなかったろう.
おまけに,日本は「満州国の独立は決して日本の傀儡国家作りではなく,民族自決の国際原則に基づいた正しい独立」を建前としたが,満州や関東州に住む漢民族や満州族,モンゴル族は,中国国籍から強制的に満州国籍へ切り替えられたにも関わらず,日本人と朝鮮人は日本国籍のまま.
満州事変の仕掛け人である関東軍の石原莞爾は
「関東州は廃止して,日本人はみな満州国籍を取るべき」
と主張したが,無視された上に左遷.
満州在住の日本人は,日本国籍のままで満州国の官僚や国策会社の幹部に就き,その他「満州国民」としてのさまざまな権利を享受したにもかかわらず、義務に関しては「日本国民」としての治外法権を利用できることになった.
そのため,満州国は国民の定義を最後までウヤムヤにし続けた。
国民を定義できなかったから当然のことながら選挙は行えず、議会は存在せず、満州国は最後まで憲法を制定できなかった。
詳しくは
関東州(および満州国)
を参照されたし.
こうして,無理ある主張に依る矛盾は,最後まで満州国の国体に影響したのでしたとさ.
軍事板・改
上記についてですが,こちらのサイトに以下の内容が記述されています.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6mansyu-jin.htm
-------引用----------------------------------------------
当時の満州は,中国人の土地ではなかったのでしょうか?
まず,以下の電報を見ていてください.
「三,現今滿洲住民の殆ど全部が漢民族なることに顧み,宣統帝の擁立は滿洲自身に於ても不評判なるべく(後略)」
(「日本外交年表竝主要文書」 外務省編 原書房 P187)
これは,1931年11月1日,当時の外務大臣幣原喜重郎が,天津総領事桑島主計に宛てた訓電の一部です.
ここでは,はっきりと満州地方の住民は殆ど漢民族,つまり「中国人」であると言い切っています.
もう一つ,見てください.
「満蒙は漢民族の領土に非ずして寧ろ其関係我国と密接なるものあり 民族自決を口にするものは満蒙は滿洲及蒙古人のものにして滿洲蒙古人は漢民族よりも寧ろ大和民族に近きことをみとめさるへからず 現在の住民は漢人種を最大とするも其経済的関係亦支那本部に比し遥に密接なり」
石原莞爾「現在及将来に於ける日本の国防」
(「太平洋戦争への道」第七巻 資料編 P74)
「満州を日本が支配するのは正当だ」と言っているわけですが,それでも,人口的には,漢民族,すなわち「中国人」が最も多いということを認めています.
-------引用終わり----------------------------------------------
また上記サイト内のこちらのページでは,1937年12月末時点での人口構成比が紹介されています.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/jinkou-m.htm
-------引用----------------------------------------------
満州国の人口構成
康徳四年(一九三七年)一二月末現在
出典:平凡社 世界大百科事典昭和一四年(一九三九年)捕遺
〔文中の漢数字を算用数字に改め,比率がない場合は付け加えた〕
民 族 人 口 比率
漢民族 2,970.0万人 81.6%
満洲族 435.0万人 12.0%
蒙古族 98.0万人 2.7%
内地人 42.0万人 1.2%
朝鮮人 93.0万人 2.6%
欧米人 1.1万人 0.0%
合 計 3,639.1万人 100%
(日立デジタル平凡社「百科で見る20世紀」より)
-------引用終わり----------------------------------------------
上記人口構成表は1937年作成のものであり,満州国建国時である1932年2月とは時間的間隔がありますが,5年程度で大規模な人口構成の変動(2000万人以上の漢民族の流入)が起こったとは考えにくいため,満州国建国時でも漢民族が最大多数派であったことを示す資料として価値はあるといえます.
ちなみに「化外(けがい)」とは,
中華帝国の「王化」の及ばない野蛮の地で,中国の世界観によれば「中国の神聖不可分の領土」でないという意味.
http://www.geocities.jp/ikiiki49/page009.html
ではないかと.
満州国独立の図

【質問】
満州利権は守らなければならないものだったのでは?
【回答】
実態を無視して勝手にそう思い込んだのが,ケチのつき始めな訳でして。
対外市場は英米で、食糧は朝鮮・台湾。資源も英米。
あの当時でも、植民地との移出入市場における経済規模(移出入合計約9億)より英米(英3億、米14億、インド6億)その他との貿易市場の方がはるかに規模が大きい。
スローガンとは裏腹に、満州の存在は日本経済にとって重要性があるとは言えなかったのが本当のところ。
少なくとも,英米との関係悪化を忍んでまでやることでは決してなかった。
その現状分析から,英米協調路線、貿易立国路線を主張する石橋湛山の「小日本主義」も提唱されている.
「無駄な大陸への深入りは避ける」
ぶっちゃけこれにつきるんじゃないですかね。
日本が大陸に深入りした時点で
・大陸に利権を持つ列強,
・いまだに大陸利権を持っていないアメリカ、
・大陸中国の軍閥
との対立は避けられない。
それを避ける策としては、桂ハリマン覚書を受け入れて,満鉄の共同経営&満州への米資本を受け入れていればよかったんだが…….
ちなみに山室信一「キメラ 満州国の肖像」(中公新書)によれば,
「第一次大戦後の戦争が総力戦になった為に、陸軍、特に石原莞爾は長期持久戦の資源確保を目的として、満州領有を計画した」
そうである.
「山室 ただ世界史的な条件で一番重要なのは、第一次世界大戦の衝撃です。この戦争ではじめて人類は総力戦体制で戦争を行った。
石原莞爾などはとくにそのことを意識したわけです。
戦争に勝つためには、経済力、生産力を上げなければいけない。とりわけそのなかでも石炭と鉄が、当時の武器を生産するのに最も重要な資源でしたが、それは日本にない。
それを獲得できるのは満洲である。
そういう形で総力戦体制が与えた影響は甚大で、そこからおそらく異なる段階に入ったのではないかと思います。
二十世紀初頭の後藤新平の時代の満洲と、第一次大戦以後の満洲は、決定的に意味の異なる空間だと考えた方がいい。後藤などの時代の満洲は大豆などの農業生産地、穀倉でしかないわけですが、第一次大戦後には、総力戦体制を遂行するための最大の戦略物資基地になる」
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/kan/kan10.htm
ま,「将来の保険」に固執するあまり,現実に対する対応を誤ったのでは,元も子もありませんが.
913名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)01:14:28ID:???
満州事変が起きなければ放棄だから,大陸との火種がなくなるな.
その後にソ連が中国にチョッカイ出してきた場合も,満朝国境の防備さえキチッと固めてりゃ,日本は高みの見物.
国民党が悲鳴を上げだした後,日英米仏あたりで介入して恩を売る,と.
915名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:20:53ID:???
その前にドイツが茶々入れていると思われ.
晴天白日旗を描いたBf109とかJu87とかV号戦車とか・・・
916名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:26:26ID:???
するとスペイン内戦のラインナップが中国で激突?
917名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:34:36ID:???
流石に,欧米・日本が共産党支援と思えないしなぁ・・・.張作霖支援か?
924名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)07:25:47ID:???
それ以前から武器輸出で日本経済はウハー.
中国共産党相手なら89式戦車でも大活躍.
ソ連の進出でチハたんでT34を相手する事になって,当時のメイドインジャパンの悪評を証明する事になるかも知れんが.
931 :名無し三等兵 :2005/11/01(火) 13:51:01 ID:???
T34生産も平時は順調じゃないどころか,不良ありまくり不足部品ありまくり修理デキネーヨー!状態だったので,いいとこBT戦車だろ.
935名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)16:24:54ID:???
さらにそこに地方軍閥軍のマイナー兵器もさらっと登場.
PZLとかイカルスとかがJu86とかを迎撃に.
941名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)19:51:45ID:???
史実でも,その手のオファーはあったらしい.
あともう少しで成約と言う所でなくなったけど,国民党軍はドイツ兵器のお得意様だったからね.
942名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)19:59:34ID:???
まぁ戦前のドイツ貿易は対中のほうが利益があったからねー.
ぶっちゃけドイツ顧問団&国民党軍がもうチョイ頑張ってくれたら,日本も深入りしないですんだんじゃないかなぁ・・・
で,利害の一致した英米と友好関係・・・
ヲレも仮想戦記脳だ(笑).
【珍説】
仮に海洋貿易国への転身ができたとしても,その後の世界恐慌と世界経済ブロック化で、日本は貿易から締め出されアボーンしていただろう。
【事実】
それは後付けの歴史観。
実際には対米貿易額は世界恐慌後も特別変わらず、日米開戦まで増加し続けています。
(日中戦争あたりで一時期減りますが)
【珍説】
日本にとって満州は 経済・国防上,最重要な「生命線」と呼ばれる土地だった.
(小林よしのり「戦争論」3, p.215)
【事実】
上述のように,別に最重要でも何でもありません.
【質問】
上項目は如何なものなんでしょうか。
同項目には総力戦・生産力などの経済力についてのみ記載されていますが、実際はそれを重視したのではなく、やはりソ連の南下(ロシアの赤化なども)、を恐れた結果ではないでしょうか?
うちの曾ジーさん(旧海軍佐官だったはず)も
「アメリカは怖くなかった。でもロシアは怖かった」
と申しておったそうです。
アメリカの太平洋を勢力圏にしたのも脅威に感じていたとは思いますが、満州に関してはやはりソ連ではないでしょうか?
【回答】
順序を間違えています.
極東ソ連軍が増強を始めたのは,満州での日本軍の軍事行動に刺激を受けたからであり,これは1932年からです.
この年からシベリア鉄道の複線化や国境のトーチカ陣地構築・ヴラディヴォストーク軍港再開などが行われます(山田朗「軍備拡張の近代史」より).
ちなみに1931年の極東ソ連軍は,6個ライフル師団のみ.戦車なし,航空機なし,です.
同時期の関東軍は師団2個,混成旅団2個,独立守備隊1個,独立飛行中隊3個です.
シベリアの国土面積を考えますと,脅威と呼べるほどのものではないですね.
ただし,純軍事的な意味としての意味においてなら,関東軍がソ連軍を「脅威」と感じたのは,ソ連軍が張学良軍に大打撃を与えた1927年からです.
それまでは仮想敵として意識すらされていないようで,対ソ作戦計画は具体性に乏しいものだったそうです.
関東軍において,具体的な対ソ作戦計画作成が行われるのは1933年からです.
(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)
【質問】
「満州で日本軍が軍事的に刺激を受けたからであり、1932年から」
というのは日露戦争が入ってませんよね。
1896年(明治29)にはロシア軍が朝鮮・京城に入ったり、北清事変の際なかなか撤退しなかったり(日本もだけど),アジア(中国全土、上海など)周辺でのロシアによる中長期的脅威が認められたからsplendid isolationを崩さなかったイギリスが日本と同盟を組んだのではないでしょうか?
日露戦争後、政権が変わったからといっても,常に不凍港を求め続けていたことは事実だとは思うのですが。
【回答】
ご指摘の件ですが,ロシア革命の影響を軽視しておられるように感じます.
また,「恒に備えよ」は確かに軍事的常識ですが,将来生起するかもしれない不確かな脅威のために,それよりも優先度の高い事項を犠牲にするのは,論理的に正しい対応とは言えません.
東アジアにおけるワシントン体制と言うのは、ひとえに
「中国を列強の植民地的争奪の場としない」
という約束事で成立してたものですから、日本が一方的にこの約束事を破って満州侵攻に乗り出せば,列強の中で孤立することが必然です.
対ソの備えとしての満州侵攻(仮にそのような意図で行われたとして)が,そのリスクを冒してまでの優先事項であったか,非常に疑問です.
「将来,日米関係だってどうなるか分からない」
からと言って,「核武装して自主防衛」を唱えるようなもので,失礼ながら
「何を優先させるべきだったか?」
という視点が欠落しているように思われます.
(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)
【質問】
満州国は日本の既得権益だったんじゃねーの?
【回答】
日本の満州に置ける正当な権益は,「点と線」だけ.
旅順大連を含む関東州の租借と,長春以南の満州鉄道と付属鉱山経営権,鉄道周囲幅1kmの警察権,1万人までの軍駐留権だけです.
満州全域=面を日本がどうこうする利権なんか,元地主の清朝もドコの列強も認めていませんでした.
まして国家創造の権利なんて,誰が日本に対して承認したんですか?
だからこそ,自作自演の攻撃を日本はでっち上げ,満州事変を起こして同地域を占領したわけです.
軍事板
【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)
なぜそんな結論〔『満州国を認めず,国際管理下に置く』という,リットン調査団の結論〕が出るのか?
松岡洋右代表はこう反論した.
「アメリカ国民はパナマ運河地帯をそのような管理下に置くことに同意するだろうか?
イギリス国民はエジプトに対するそのような管理を許すだろうか?」
小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.219
【ツッコミ】
ほほう,だから何なのかな?
外相が自国を正当化する主張をするのは当り前だろう?
それとだね,満州事変をパナマ/スエズに例えるならば,運河を爆破した上で,パナマ/エジプト側に濡れ衣を着せ,それを口実にしてパナマ/エジプト全土を占領するようなものなのだよ.
松岡外相の弁明は,いかにも苦しいね.
ところで小林君は,そのスエズ運河に関しては,こんなことを書いているね?
1956年10月,イスラエル軍がエジプトに軍事侵攻.
それに対して
「イスラエルとエジプトの戦争から,スエズ運河を守る」
として,イギリス・フランスがエジプトに出兵.
「スエズ戦争」が勃発した!
実はこれは,イスラエル・イギリス・フランスが共謀して起こした,あからさまな侵略だった.
from 「SAPIO」 2004/4/14号,p.59
類似ケースについて,片や肯定,片や「あからさまな侵略」と呼ぶのは,ダブスタではないのかね?
【質問】
なぜ松岡外相は国際連盟決議の場から立ち去ったのか?
【回答】
まずもって,国際連盟脱退は閣議決定であり,国際連盟・19人委員会の勧告が出されて,満州国が承認されなかったら,脱退することは既に決定済みだった.
[quote]
斉藤内閣は二月二十日の閣議で,連盟総会において第十五条四項に基づく勧告案が採択された場合は「連盟脱退の方針を定め帝国憲法下の手続きを執る」基本方針を決定した.
手順としては,報告書の採択には反対投票を行い,代表の引揚げを実施する,
この引揚が総会閉会に伴う当然の引揚と同一視されるのは政治的に面白くないので,
「帝国政府は日支紛争事件に関し,連盟と協力し得る限度に達したるもの認むる」
趣旨の声明を出す事など,ジュネーブに訓令した.
閣議決定後,斉藤首相,内田外相は天皇に謁見,この旨を上奏した.
[/quote]
―――『満州国と国際連盟』(臼井勝美著,吉川弘文館,1995.5),162ページ
んで,松岡は国際連盟からの脱退はしたくなかったと述べている.
[quote]
「満蒙問題に就いては,わが国の満蒙政策遂行上実質的に故障の起こらぬ限りは大概のことは我慢するという考えであって,できることなら連盟に留まって,過去十三年間世界も認めている通り,わが国も最も連盟に忠実なる国の一つであったことの歴史を継続して,以って尚,世界の平和の為に尽くすようにしたい」
[/quote]
―――同,165ページ
松岡は確かに「あの場」では,国際連盟からの脱退に消極的だった.
ただ,その閣議決定を引き出したのは,外務省連中の意見を汲んだ松岡だったりする.
[quote]
ここで注目されるのは,第十五条四項の勧告書が通達されると,ジュネーブ代表部が従来の妥協的な態度から一転して,強硬措置の採択を政府,内田外相に迫った事である.
すなわち,もし勧告案が総会で採決された場合は,
「我が方として単に代表部引揚げの如き姑息な手段はこの際とるべきに非ず」(十六日着)
「事茲に至りたる以上,何等遅疑する所なく断然脱退の措置を取るに非ずんば,徒に外間の嘲笑を招くに過ぎずと確信す」(十七日着)
という,脱退の実現を強硬に要請する電脳が,相継いで本省によせられた.
松岡の発想であるが,長岡・佐藤も結局は同意した
[/quote]
ということで,閣議決定の元になった意見もまた松岡だったりする.
ちなみに,19人委員会の十五条四項とは,リットン調査団の報告書第九章第七原則である
「中国の主権の下での満州の自治」
の事で,日本としては「満州国承認」が原則だったため,受け入れられなかった(というのが,当時の日本の主張)
ますたーあじあ in mixi,2008年03月19日23:29
つまり,閣議決定された「国際連盟」からの脱退という案は松岡が出したけども,松岡自身は脱退したくはなかったということですか.それにしてもずいぶんと皮肉な結果になったんですね.
個人的に思うのは,中国の主権の下での満州の自治という一方で,
「満州には,中国の主権下に自治政府を樹立する.
この自治政権は,国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下,充分な行政権を持つものとする.
満州は非武装地帯とし,国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う.
日中両国は『不可侵条約』『通商条約』を結ぶ.
ソ連がこれに参加を求めるのであれば,別途三国条約を締結する」
という条件は,かなり魅力的に思えます.
ヤン in mixi,2008年03月20日 00:39
【質問】
>外務省連中の意見を汲んだ
外務省は何で脱退志向だったので?
消印所沢 in mixi,2008年03月20日 22:56
【回答】
上に述べましたが,十九人委員会の
・主権は中国にある.
・満州における満州国の維持・承認は,日中両国の友好的承認が不可能である事.
・連盟は今後も満州国を承認しない事
という勧告案を出したからです.
じゃ,なんでそれまであった「共同統治案」が消えたかと言うと,元々反対意見もあったのですが,論争の最中に,よりにもよって陸軍が「山関事件」なる,日中衝突を起こしたからです.
しかも原因が
「現地守備隊の謀略」(他の作戦との関連性はなし)
だったので,特にスティムソンなどに「満州国否定」の正当性を与える事になってしまいました.
このとき政府は不拡大だったのですが,劣化石原が沢山いた当時の日本では・・・.
ますたーあじあ in mixi,2008年03月21日 21:23
【質問】
日ソ関係が悪化し始めたのは,いつ頃からか?
【回答】
1920年代の日ソ関係は普通に安定していた。
当時のソ連内部では,東支鉄道を中心とする北満の勢力範囲を維持できるなら,日本の南満支配を認めるのもやむなし、という空気が強かった。
これが悪化するのは満州事変で反共を掲げる「満州国」が成立し、日ソが緩衝地帯を失って直接国境を接するようになってから。
要するに満州事変をやった結果,ソ連は極東地帯に初めて本格的に関心を寄せるようになった、ということ。
事変以後に急増するようになる極東赤軍の配備状況がそれを端的に現している。
第一この時期のソ連は干渉戦争や内戦からの復興問題もあって,あまり積極的な膨張主義的姿勢を取ることを避けており、それが膨張主義剥き出しの姿勢へ変化するようになるのはまだ先の40年代以降のこと。
【質問】
戦前の日本は,国際連盟からの委任統治で南洋諸島を統治していましたよね?
連盟脱退後も継続していたようですが,なぜ統治が認められたのでしょうか?
【回答】
別に連盟を脱退したからと言って、国際連盟との協力関係を絶ったわけではなく、国際司法裁判所、国際労働機関、その他諸委員会との関係は従来通りであり、1935年の第16回連盟通常総会では、国際司法裁判所判事に日本の長岡寿一が選出されてさえいます。
尤も、日中戦争勃発後の1938年に、国際連盟理事会が対日制裁を決議したことにより、常設統治委員会、阿片諮問委員会、社会問題諮問委員会の政府委員派遣は停止、個人資格での参加も辞退させ、国際労働機関への協力も停止、国際司法裁判所については、脱退規定はないので、。拠出金支払いを停止し、後任判事を出さないようになっています。
ちなみに、南洋群島の委任統治については、国際連盟そのものからの委任ではなく、Versailles条約で委任されたものであり、日本政府は同条約を破棄したわけではないとの理屈により、脱退通告時から統治継続を表明しており、国際連盟諸機関への協力停止後もそのままとなっていました。
蛇足だけど、Versailles条約では、南洋群島は日本の国際連盟C式委任統治区域となっています。
これは、委任統治区域を決めるに当たり、旧枢軸国領土を、A式、B式、C式の三つに分けた物で、A式委任統治区域は、殆ど自立しうる程度に発達している地方、B式は、独立国として仮承認を受けうる程度には発達していない地方に対する制度です。
南洋群島のC式は、土着人民の利益のために一定の保障を与えることを要する条件で、かつ、受任国領土の構成部分として、その国法の下に施政を行うべき地域です。
つまり、受任国の単純な領土ではありませんが、領土に近い性格のもので、C式は、委任統治の名による領土再分割の方法といえるでしょう。
ちなみに、委任統治に当たっては、地域の詳細情報、施政諸般の措置を国際連盟理事会に報告する義務があり、連盟脱退後もこの委任は継続されています。
【質問】
第二次上海事変は,日本軍と中国軍どちらが先に攻撃を開始したのでしょうか?
【回答】
中国軍.
1937年8月13日朝に上海租界の海軍陸戦隊に向かっての発砲,砲撃が有り,昼頃には国府軍の爆撃機が租界の上空を示威飛行を行なっている.
この地域は第一次上海事変後の協定で中立地帯とされ,支那中央軍の侵入は禁止されていた.
それ以前の邦人に対する無数のテロや協定違反,動員などの軍事行動を鑑みる限り,支那事変に限れば先に手を出したのは中国側.
◆◆支那事変
【質問】
なぜ日中戦争は「支那事変」「日華事変」と呼ばれることがあるのですか?
【回答】
当時,宣戦布告がない武力衝突は須らく,事変と呼ばれていた.
日中戦争もそうだ.日中の間に宣戦布告はなかった.
そのため,最初期には「北支事変」,次いで「支那事変」と称された.日華事変という呼び方は,公式のものではないが,当時のマスコミで使われることがあったものだ.
今でも防衛庁防衛研究所戦史室では「支那事変」と呼ぶ.厚生労働省でもそうだ.
では何故,日華事変さえ宣戦布告出来なかったかと言うと,当時の米国の議会では,戦争当事国には戦略物資の輸出を禁じる法案が可決されていたからだ.
日本は米国の石油,鉄に頼っている状態なので,「日本はあくまでも戦争では無い」と言い張る必要が有ったのだ.
これは米国その他から軍事援助を受けている蒋介石政府にしても同じこと.
国際法上,第三国は交戦国に対して軍事援助する事はできない.
なので中国も日本に宣戦布告できなかった.
蒋介石が対日宣戦布告するのは,日米開戦の直後になる.
【余談】
あの,事変当時,
「支那側から発砲してきたので,わが軍が応戦した……」
って,そういうニュースがよくあるでしょう.
〔著者の母親は,〕その「支那側」ってのを東海道の品川だと思って,
「ずいぶん近くで戦争があるんだね」
って……これにゃァふいちゃいましたよ.
林家正蔵著『正蔵一代』(青蛙房,2001/4/25),p.10
【質問】
小林よしのりの『戦争論』に
『支那事変(日中戦争というのは正確ではない)』
って書いてあったんですが,どうして正確じゃないんですか?
そして,どうして支那事変が正確なんですか?
【回答】
日中戦争という場合,日本と中華民国+中国共産党軍との戦争全体を指すことになります.
しかし歴史的には,これらの戦争はいくつかの期間に分割して呼称が付いています.
満州事変,上海事変はほぼ連続して発生し,講和は一括しておこなわれていますが,武力衝突が起きた場所が違うので,別に呼ばれています.
盧溝橋の武力衝突に始まる北支事変と第二次上海事変は連続して起き,総称して支那事変と呼ばれるようになりますが,この戦争は第二次大戦の終結まで継続します.
日中戦争という呼称は,これらの区分を無視して全体を継続した戦争であったように呼んでいる点で,問題のある呼称ということです.
余談だが,この「事変」の繰り返しにより,思わぬところへの影響もあったという.
以下引用.
あのころは,幾たびか,事変が途中でおしまいになったことがあるでしょ?
しばらくするとまた始まるってようなときで,あたしたちが〔慰問隊として〕行ってたときも,途中で平時編成になっちゃったんで,戦時体制を解かれたもんですから,ふたりの慰問隊は,もう何をしてもいいってことになった.
林家正蔵著『正蔵一代』(青蛙房,2001/4/25),p.185
当時のポスター
(画像引用元:「ヴァーチャル・ミュージアム」)

【質問】
日中戦争の開戦に至った経緯には,どのような背景があるのでしょうか?
【回答】
直接的には国民党軍が侵略してきた事.
当時,張学良を排除してトップに立ったけれども,地盤の弱かった蒋介石が,上海の日本租界を攻撃して手柄を立てようとしたことが直接の原因.
それに対して日本の軍部は懲罰の名目でなし崩しに戦闘を続け,結局南京まで進撃した.
国民党の本拠地の南京は落としたが,蒋介石は逃げてしまったので,その後も「追撃」の名目でどんどん戦線が拡大し,後退不可能と化す.
ブロック経済も背景としてあった.
まあ直接の因果関係があるわけじゃないが.日本は華北に侵出しようとし,国府はナチスドイツに接近していった.
ナチが送り込んだ軍事顧問団が作戦を立てて仕掛けてきたとゆー人もいる.
まあ,向こうが仕掛けてきたから日本の自衛戦争っつーのは確かかもしれんが,国府を相手にせずって言っちゃぁおしまい.日本の侵略と言われても仕方ない.
カイロ宣言やイラク戦争もそうだが,無条件降伏の要求は侵略の意思ありとされるのが当然.
勝てば官軍でお咎めなしっつー狂った国もあるが.
自衛戦争なら無条件降伏の要求なんて出来ないはずなんだけどなあ.
【珍説】
日中戦争は,中共に仕掛けられてずるずるの戦争だった.
推定林間≒「一応仮コテ」
【事実】
悪いですが,中国を「中共」と呼ぶ癖が空気のように染み付いているからかもしれませんが,そのころは中国共産党はまだ一勢力に過ぎません.
たしかに日本と交戦を声だかに叫んでいたのはやつらだけど.
最初にでっち上げの柳条湖事件を口実に,正当な権益の何十倍もの他国領を軍事占拠し,支配している事が日中の緊張の原因.
共産党が何を画策しようが,最初の火種が無ければ無意味.
共産党が先に手を出したと言うが,正規軍を動かして中国領に攻め入ったのは日本が先.中国共産党軍がいつ,日本領に軍事的な攻撃を仕掛けて来たというのかな?
加えて,日本が攻撃したのは満州事変でも盧溝橋でも上海でも中華民国軍であり,共産党軍ではないのだが.
盧溝橋事件が共産党の陰謀,って奴は,とりあえず通史側の代表的見解である秦郁彦「盧溝橋事件の研究」でも読んだ方が.
とは言っても,この本,7000円近くするけどな.
なお,『戦士政治課本』というテキストは,存在自体は確認されたようだが,内容は不明.
安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』,P207〜P208より.
第四は,『抗日戦士政治課本』の存在が確認されたことである.
この本については,かつて葛西純一氏が,『新資料盧溝橋事件』(成祥出版社,一九七四年)において,人民解放軍総政治部『戦士政治課本』の盧溝橋事件記述を「中国共産党謀略」説の論拠の一つとしてあげて以来,その所在が注目されていたが,中共中央文献研究室編『毛沢東年譜』中巻(人民出版社,文献出版社,一九九三年)の二三二頁の注にこの本についての言及が見られる.
しかし,その内容については不祥.
共産党が事態を煽る事が出来たのも,日本が満州を武力占拠していたから.どちらが先かは明らか.
(だから必死で満州事変と日華事変は別物と言ってたのだろうが)
盧溝橋

【質問】
日中戦争は中国側が先に仕掛けてきたんですか?
【回答】
当時の国際法規から言えば,日中戦争で「侵略」してきたのは中華民国(国民党).
でも日本も,「自衛反撃」の範疇を超えて追撃したのに,国際社会の許可を取らなかった.
なので,どっちもどっち.
ただ,先に手を出したのは国民党側.
【質問】
よく盧溝橋事件で,先に発砲してきたのは中国側だから中国が悪いという意見がありますが,日本が中国に進駐していたのは問題がないんでしょうか?
【回答】
よく誤解されているが,先に発砲してきたかどうかが問題なのではない.
「日本を攻撃することを国民党政府の最高指導者が許可して攻撃計画を立てていた」ことが問題.
盧溝橋事件は,「相手を刺そうとナイフを取り出そうとしたら,相手に先にナイフを抜かれて刺された」という状況なので,そこだけ見れば日本には非はない.
一応,日本と中華民国には「塘沽(タンクゥ)協定」ってのを結んで停戦中だったので.
【質問】
日本は愛国心を煽ることで戦争になったのですか?
【回答】
「愛国心」だけで戦争になったわけじゃありません.ファクターの一つではありますけどね.
最終的に行き着くのは「経済的閉塞感」ですよ.
一番の原因は,政権交代を目指した「護憲の父」の犬養毅が,どう考えても強弁・恣意的解釈でしかない,海軍が唱えた「統帥権」の問題を,政局に利用したため,この言葉だけが独り歩きをし,それが5.15や2.26を引き起こして,軍部の暴走を止められない状況を作り出しました.
2.26で高橋是清が死んだ時点で,日本の財政的死亡は確定でした.
こういう政治的背景を無視して「愛国心」のみに注目するのは,公平な見方とは思えませんね.
行き過ぎたナショナリズムは確かに問題だが,現在の日本がその状況にあるとはとても思えません.
補足しておくと,高橋是清の政策により,日本は世界に先駆けて恐慌から脱出してます.
満州事変で全てが吹き飛びましたが.
私はあの戦争の要因を,「日本はこれからどうあるべきか」という戦略に対する総意が不透明,不徹底に終わったことが,要因であると考えています.
その例が日英同盟の破棄だったり,あの日中戦争への姿勢であると,考えています.
(もちろん,経済的な閉塞も含まれますが.)
【質問】
参謀本部は,つーか日本は中国の分割と一部支配は考えていたが,中国全土を支配しようなどと計画したことは一度もないそうだが,じゃ,なんで講和しなかったんだろ? だったら南京で帰ってくりゃいいじゃないか.
【回答】
当時の大日本帝国では,全権を担って講和条件の取捨選択出来る人間がいなかった.
その為,各組織から上げられた総論を纏めて講和条件とする馬鹿なことをしたため,蒋介石から
「この条件を飲むのは亡国に等しい」
と言って拒絶されてしまった.
仲介を受けた在支大使のトラウマンも
「この条件を飲むとは考えられない」
と漏らしている.
その後は私的外交が横行し,蒋介石からすればどれが正しい講和チャンネルか分からず彼を混乱させてしまった為,なおの事講和が難しくなってしまった.
【質問】
日中戦争の時,中国側が日本側の停戦交渉や講和に応じず,中国側が戦争を続けたというのは本当ですか?
【回答】
或る意味本当ですが,日本側の交渉術が下手糞過ぎたのも一因.
それと,日本側の講和は,様々なChannelが入り乱れていて,どれが本命だか判らない状態に加え,日本内部でも足の引っ張り合いをしていた訳で,これを中国に信じろと言われても,どれを信じて良いのやら,だし.
まともな和平交渉については,近衛の阿呆発言は兎も角,それ以後でも宇垣和平工作では,それなりに双方共歩み寄りがあったものの,近衛の腰砕けと軍部過激派の反対でおじゃんになった訳で.
で,最終的に汪兆銘を擁立して,中華民国国民政府を作り,これを承認した後,此処と和平交渉して妥結したから,和平交渉に応じなかったと言うのは誤りですね.
蒋介石政府は,政府じゃないのですから(笑.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
「講和に応じず戦争を続けた」というのが,拠点を攻略されても降服や講和をせず,更に後方に拠点を移して抗戦,という状況を指すのなら「本当」だな.
ベトナム戦争の時,北ベトナム軍が米国の停戦交渉や講和に応じず,北ベトナム側が戦争を続けたというのも本当だし,文永の役の前,鎌倉幕府が元の親書に応じず,結果元寇となったのも本当です(笑).
「どちらかが講和に応じなかったから戦争が続いた」
という見方は,状況と合わせて行わないと錯誤や短絡の元です.
【質問】
蒋介石は重慶を落とされたら,次はどこに逃げるつもりだったのでしょうか?
【回答】
蒋介石は雲南の昆明辺りまで退いて抗戦を続けるつもりだったらしい.
タイ・ベトナム・ビルマの国境近く.
麻薬王クンサーは元蒋介石の部下で,ゴールデントライアングルは中華民国臨時首都になるハズだった.
ただ,雲南省政府主席の竜雲はどちらかと言うと和平派であり,汪兆銘のハノイ脱出を手助けしたりしている.
雲南は長期に渡って独立を維持してきた勢力なので,すんなりと蒋介石に協力するかは未知数.
1942年夏頃から重慶・成都を攻略する『五号作戦』が計画・準備されており,南方での戦況の悪化がなければ,蒋介石の命運も危うかっただろう.
また,ソ連に亡命政府を樹立する計画もあったそうだ.
【質問】
日華事変時の,特に上海攻防戦での蒋介石軍の戦闘機と戦車について教えてください.
あと,ドイツは参謀を派遣したりしてますが,武器の供与などあったのでしょうか?
【回答】
戦闘機は米国製Curtiss Hawkシリーズ(後のP-36ではなく,複葉戦闘機)が主力です.
爆撃機は,Curtiss A-12,Chance Vought O2U/V-92C.
戦車は,Vickers6t戦車Mk.EとCarden Loidでしょうが,イタリアのC.V.33も装備しています.
ドイツの関与ですが,清朝時代から関係は深く,小銃や拳銃はMoselが主力ですし,高射砲は,後に日本軍がコピーした88mm高射砲,航空機ではHe-111A爆撃機,Hs-123襲撃機,Fw-44練習機が売却され,戦車は1号戦車,装甲車としてSdKfz.221を購入しています.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
日華事変時の中国軍に空軍や海軍は存在したのですか?
日華事変時の中国軍に組織された戦車部隊,組織された潜水艦部隊や艦隊,戦闘機部隊は存在したのでしょうか?
【回答】
日華事変の中国海空軍はしっかり存在します.
日清戦争でやられても,辛亥革命で国が引っ繰り返っても,海軍の再建の試みは行われており,旧式ですが巡洋艦も装備していました.
但し,武漢の戦闘までに主力艦艇が失われ,以後は河用砲艦だけの存在になってしまっています.
空軍は宋美齢を司令官として当初はドイツ,次いで米国,更にソ連の機材を使って整備されていました.
上海,南京や重慶で日本の陸海軍爆撃機隊が中国空軍に迎撃されて苦戦していますし,日本海軍の旗艦出雲は爆撃を掛けられたり,あまつさえ,日本本土爆撃までされています.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
朝日新聞は社説で,中国の犠牲者は1千万人を上回ると報道していますが,実際にはどれだけの犠牲者が出たのでしょうか?
【回答】
終戦時の国民党および連合国の公式発表が130万人.恐らくこれが一番正確だろう.
記事の信憑性で東スポと朝鮮新報を比べるようなものだが(笑).
発表された「日中戦争犠牲者数」の変遷
終戦時 130万人 GHQ発表
終戦時 130万人 国民党発表
1948年 438万人 国民党政府報告書
1950年代 1000万人 共産党政権発表
1970年 1800万人 共産党政権発表
1985年 2100万人 共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1998年 3500万人 江沢民発表
2005年 5000万人 卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)
……
3165年(予想) 10億人
【質問】
日中戦争を巡る日本の「責任」を,現代の中国はどのように見ているのか?
【回答】
一部の軍国主義者こそが加害者で,一般民衆には罪はない,というのが公式見解.
以下ソース.
1972年の日中国交正常化の際の中国側の「責任」理解は,「一部の軍国主義者」責任論だった.
この点について日本も了解し,日本側は
「過去において,日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し,深く反省する」
と述べた.
一部の軍国主義者こそが加害者で,一般民衆には罪はないという考え方こそが,国交正常化以前の日中関係の政経分離論を支え,また,国交正常化交渉地の「日中友好論」や賠償放棄を裏付けるものともなっていた.
このような中国側の基本的な立場は,1978年に,その「一部の軍国主義者」に相当するA級戦犯が靖国神社に合祀され,80年代に首相らが公式参拝することによって,日本への抗議としていっそう明確に現れる.
中国側からすれば,「一部の軍国主義者」に責任を帰し,一般人民には罪はなかったとすることが,賠償放棄,友好交流の前提であり,だからこそ「一部の軍国主義者」に参拝するという日本政府要人の行為は,この前提を破壊するものだと映るのである.
小泉総理が「反省し,お詫び」しても,まだ「行動で示せ」となるのはそのためであり,「甲級戦犯分祀」に中国側が拘り,靖国問題の妥協点として提示してくるのも,そのためである.
(川島真〔中国近代史専門家〕 from 「中央公論」, 2005/7, P.62)
【質問】
大日本青少年ドイツ派遣団について教えてください.
【回答】
大日本青少年ドイツ派遣団は1938年7月13日にブレーメンの次にハンブルクを訪問.
「現在ハンブルクの人口は110万人」
とか
「エルベ河河口に係留された船舶宿泊所が夏のシーズン中で大いに賑わっている.
宿泊料金は大人50ペニヒ」
と記しています.
ハーゲンベック動物園にも行っています.
15日出発,ノルド・ゼーの「アドルフ・ヒットラー・クーグ」と呼ばれる労働奉仕団による干拓地を見学し,次の訪問地フレンズブルクへ.
移動はドイツ自慢の自動車専用道路をドライブしたとあります.
1995年にTVの報道特集で日独交歓事業の特集を放映したことがあり,録画を録ってあります.
その中で日本人3名・ドイツ人2名の,まだお元気な方への訪問インタビューがありました.
山形県,古沢健太郎氏,当時最年少19歳で放映時76歳.
ドイツ派遣中に8mmを撮影してきたということで,まだ持ってみえました.
岐阜県可児市,丹羽(旧姓篠崎)秀夫.佐賀,稲富早苗.派遣団の記録係で,今も当時の資料を保存されている.
ハーケンクロイツの小旗やHJの短剣!各種バッジなども持ってみえる.
ドイツ側は日本より状況が厳しく,現住所はわからない様に取材.
驚いたのはニーダーザクセンに団長シュルツェの奥さんが89歳でまだ存命で,彼女もHJと一緒に日本へ行ったということだがBDM?が来たという記録は見たことないような気がします(?)
シュルツェ氏本人は3年前に亡くなったという事ですが,派遣団が来る前にシュルツェが日本を下見したときに撮影したフィルムを彼女が保存していたのにも驚きました.
丹羽氏は帰朝後,講演会をしたりして青少年団の発展に尽くしたのが仇となり,昭和21年に
「ナチス思想を吹聴し,・・・戦争誘発に大いなる貢献をした」
ために教職追放となってしまわれました.
TV放映からまた時間が経過し,皆さん,まだお元気かどうか・・・
◆◆仏印進駐
【質問】
1940年の北部仏印進駐の段階で,日本にはどういう選択肢があったのか?
【回答】
3つの選択肢があったと考えられる.
1.北進して,ソ連に攻め込み,ドイツを支援すること.
当時,ノモンハンの問題もあり,国境紛争が全面戦争になるという考えもあったし,松岡外務大臣などは,北進を強硬に主張,昭和天皇に対し,単独上奏まで行っている.
2.南進して,インドネシアの資源を手に入れることにより,自給体制を整えること.
とくに,南印には石油が埋まっていた.
日蘭会商で,一応平時に必要な石油のほとんどは確保できる試算はあったが,軍需には到底足りないと考えていたのもある.
ただ,これは「戦争のため」に石油が足りないと言うに等しいとは思うが・・・まぁ,中国問題が解決できないんだから「平時」では既にないな.
3.東進して,アメリカと戦争すること.
3つの中で最も危険な選択肢であるし,当時の人々のほとんどはそう考えていたはず.
まぁ,東條秀樹も首相になる前は,開戦強硬派だったが・・・.
海軍では,永野修身(いねむり総長)あたりが,開戦強硬派か・・・.
いずれにしても,無茶・無理・無謀な選択だが.
日本は最終的に2.と3.を実行した,1941年12月8日に,真珠湾攻撃と,インドネシア・フィリピンに対して侵攻した.
真珠湾攻撃の目的は,アメリカ太平洋艦隊に南進作戦の邪魔をさせないためで,インドネシア侵攻は,石油資源獲得が目的,
フィリピンは資源輸送を邪魔されないために必須という戦略.
ただ,山本五十六と日本政府は,真珠湾攻撃でアメリカの厭戦気分を引き出し,早期講和の材料にしようと考えていたようだが・・・まぁ,博打好きの五十六らしいと言えばらしいかな.
北進に関しては,独ソ戦で,ソ連を現実的な脅威とみなさなくなっていた.
アメリカの考えとして,以下にナイ教授の文章を引用
「アメリカは日本への石油禁輸措置によって日本の南進を阻止しようとした.『アメリカは日本の首に手綱をかけて,時々締め上げてやる』と,ローズヴェルト大統領は言ったものである.
当時,ディーン・アチソン国務次官補も,戦争には至らない,なぜならば『日本人が合理的なら,アメリカへの攻撃は日本の破滅以外の何者でもないこpとは明らかだからだ』と言ったと伝えられる.
しかし日本人は戦争をしなければ,どの道最後には敗北に至ると考えていた.
日本は石油の90%を輸入に依存していたので,輸入が絶たれれば,海軍は一年も持つまいと計算していた.
したがって,戦争を始めるほうが,徐々に絞め殺されるよりもましだ,と日本は決断したのである」
私見だが,おそらく「北部仏印進駐」後での「仏印中立化案」を呑んでいれば,「石油の禁輸」はなかっただろう.
なにせ,野村-ルーズベルトの会談上でも南仏進駐は,石油の禁輸を招くと警告している.
それに,チャーチル-ルーズベルトの大西洋会談でも,南部仏印進駐の話は通している.
日本政府はこれにまともに取り合わず,ルーズベルトは面目丸つぶれとなった.
あとは,中国大陸からの撤兵要求だが,これも日本側からすると受け入れられない選択肢だったんだろう.
中国からの撤兵は,経済的な後背地からの遮断だと当時の日本人は信じていた.
まぁ,この辺りの細かい話をしだすとキリがないので,この辺にしておく.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第4章を参照されたし.
【質問】
なぜ日本は南部仏印進駐を行ったのか?
【回答】
その主目的は日華事変の処理にあったが,米英に対して攻勢防御の体制をとる狙いもあった.
しかし,この攻勢防御の思想の底には,南部仏印は南方進出のための足場であるとの考えが潜んでいた事は否定できない.
また,資源確保の狙いもあったという.
まず,攻勢防御については,御田重宝が次のように述べている.
参謀本部ロシヤ課長や阿南陸相秘書官などを務めたことのある林三郎氏の「太平洋戦争陸戦概史」は,陸軍内部から見た興味ある大東亜戦争史であるが,その中で次のように「南部仏印進駐」の位置を説明している.
「第3次近衛内閣が成立して間もなく,日本,仏印共同防衛協定が成立した(7/26).
当時,この協定の成立を必要ならしめたのには,次の2つの理由があった.
すなわち1つは,その頃タイは表面においては日本に好意を示していたが,裏面においては英米と友好関係を保持するにきゅうきゅうとしていたから,日本軍の南部仏印進駐によって,タイをして日本に対し好意的中立に立たしめ,仏印,タイ,ビルマを一帯にして重慶(蒋介石政権)の背後遮断を更に強化せんとすることであった.
もう一つは米英蘭華の政治的,経済的,軍事的な対日包囲態勢に対する,消極的な対応措置(食糧問題の見地から、特にタイに睨みを利かす)をとる必要があったことである.
すなわち,もし米英がタイに強圧を加えれば,タイはもちろんのこと,仏印なかんずく南部仏印は米英側の陣営に入り,その結果,日華事変(日中戦争)の処理は不可能となり,日本は全面的に後退を余儀なくされる危険性があったからである.
このように,南部仏印進駐の主目的は日華事変の処理にあったが,米英に対しては攻勢防御の体制をとったわけである.
しかし,この攻勢防御の思想の底には,南部仏印は南方進出のための足場であるとの考えが潜んでいた事は否定できない.
南部仏印進駐に伴う国際的な反響は,非常に大きかった.日米関係はとみに悪化し,アメリカはこうした情勢の下では,日米交渉継続の基礎がないと日本側に通告すると共に,直ちに日本の資産を凍結し,続いて8月1日に対日航空用ガソリンの禁輸をも断行した.
陸海軍首脳部は南部仏印進駐に伴う国際的な反響を予め深刻に検討しなかった.もともと平和は不可分にして,部分的には存在しない.南部仏印進駐は単なる日本対仏印の問題に留まることなく,枢軸国対反枢軸国の世界政策の問題として,全世界に強く響くとの感覚が鈍かった.
かくて南部仏印進駐の結果,日米交渉は全く暗礁に乗り上げてしまったので,日本は9月6日の御前会議の決定に基づき,対米英戦争準備を,概ね10月下旬に終わることを目途として,本格的に進めるに到った」
軍部の国際感覚のなさが,南部仏印進駐という新たな国際緊張の種を播いたのである.
(「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.,抜粋要約)
また,資源確保の狙いもあったという.
以下引用.
波多野澄雄・筑波大教授は著書でこう書く.
「海軍軍務局の藤井茂(軍務二課員)は,石井(秋穂・陸軍省軍務課員)に,南部仏印に進駐すれば,米,鈴,ゴムなどを確実に握ることができ,また,蘭印に睨みを利かせることによって,やがて蘭印の態度は好転し,油も入ってくるだろう,と語り,石井も同感であったという」(「幕僚たちの真珠湾」朝日選書)
当時の富岡定俊・海軍軍令部作戦課長は,戦後,自著「開戦と終戦」(毎日新聞社)で,
「進駐すれば……万が一オランダが石油をよこすかもしれないというバクチ的な望みがあったことは事実である」
と記している.
近衛内閣は41年6月11日,蘭印との買油交渉を打ち切った.
そして仏印政府を半ば威嚇する形で7月23日,南部仏印進駐に関する協定を締結した.
読売新聞 2005/12/22
【珍説】
仏印進駐は,日本政府とフランス政府の合意に基づいての進駐。
ドイツに敗れたフランスには本国から遥か遠く離れた仏印を単独で防衛する力はなかった。
そこで、ドイツに日本を懐柔してくれるよう頼んだり、アメリカに武器の供給を要請したりしたのであるが、結局、断られてしまった。
やむを得ず、フランスは日本の要求を認めた。9月、日本軍はトンキンを流れる紅河の北側に進駐する(北部仏印進駐)。
そして、翌年7月には、フランスは仏印南部への日本軍の進駐をも認めることになる(南部仏印進駐)。
さらに、こうした進駐の動きと前後して、日仏両政府間・両現地軍間での協議を通じて得られた合意に基づいて、軍事と経済の両面で仏印における日仏協力体制が形成されていった。
http://www.bk.dfma.or.jp/~senshi/00-09.htm
【事実】
そのフランス政府ってドイツの傀儡であるヴィシー政権なんですが.
「合意」ってのも,重巡から空母まで繰り出すような示威をさんざん繰り返した後に,強引に呑ませた「合意」。
それに,思いっきり間違ってますよ、その引用文。
史実では進駐をめぐる交渉で相当な反発を食っております。
>北部仏印進駐
最初の西原・カトルー会談では当初好意的だったものの,交渉過程で態度が硬化してゆき、日本軍の仏印進駐は事実上占領と同義なので,英米関係の上からも認められない、という回答が返ってきてます。
そのカトルーは,独断での援蒋ルート閉鎖と日本監視団受け入れ決定で本国から更迭され――つまり本国も日本の行動に好意的ではなかったことを示している――,後任のドクーはさらに進駐に対し拒絶的姿勢を見せます。
>日本軍はトンキンを流れる紅河の北側に進駐する
協定だと「日本軍の行動地域は紅河以北に限定。ハノイには入るな」となってます。
引用文だと,仏印側が好意的に進駐を受け入れたように読めますが,史実とは異なってます。
ちなみにこの北部進駐、最後は現地軍が成立した協定を無視し独走して勝手に武力で進駐しちゃったというオチつき。
>南部仏印進駐
これもフランス側は露骨に拒否する姿勢を見せていました。
日本は,ドイツから手を回してヴィシー政権に圧力をかけさせるものの,フランスは,なかなか日本の要求を受け入れようとせず、あまつさえ北部仏印進駐の件で日本に抗議までしています。
で、この交渉過程では威圧のために,陸海軍揃って航空機や艦船をジャンジャン繰り出しての威圧を重ね、しまいには二航戦まで南下させる計画があったくらい。
その結果,最後はフランスが屈服したというものであり、
「そして、翌年7月には、フランスは仏印南部への日本軍の進駐をも認めることになる(南部仏印進駐)。
さらに、こうした進駐の動きと前後して、日仏両政府間・両現地軍間での協議を通じて得られた合意に基づいて、軍事と経済の両面で仏印における日仏協力体制が形成されていった」
なんていう御気楽なもんではありません。
ついでに補足。
南部仏印進駐は日米和平交渉の真っ最中、それも米側が提案に対する日本側の回答を待っているところに行われた行動。
そのために米側を刺激して禁輸措置を招いた。
【珍説】
なるほど仏印進駐当初は、いくつか行き違いが有ったかも知れない。だが日仏が協力関係だったのも事実。
以下,参照のこと.
「日本陸海軍は日本とフランスが合意した協定の許す範囲内で、仏印に進駐していたのである。
それはあくまでも駐屯であって、主権の委譲や消滅などを伴う占領ではなかった。日本軍が特定の飛行場や港湾を含む仏印領内の基地を使用して戦争を遂行することができたのは、軍事力を背景とした交渉を通じて、フランスから許可を得ていたからにほかならない。
フランスが日本に対してはかった便宜は基地施設の提供だけではなかった。日本軍が駐屯に必要とする費用の負担、仏印に足止めされていたフランスの民間船舶を徴用(有償)したいという日本からの要求への同意、中国軍や連合国軍の潜水艦、飛行機など敵の行動、及び伝染病の発生などの衛生面や気象に関する情報の提供、サイゴン放送局の使用許可、機雷に触れたり攻撃を受けたりして航行できなくなった日本の艦船の曳航と修繕のための仏印海軍施設の使用許可など、仏印におけるフランスの対日協力は多方面にわたった。
また、経済面でも対日貿易割当量を拡大したり、関税率を引き下げたりするなどの便宜をはかった.
(詳しくは拙著「第二次世界大戦とフランス領インドシナ――「日仏協力」の研究――」彩流社を参照)。
「太平洋戦争(大東亜戦争)の影に日仏協力あり」
(SECURITARIAN 2000年9月号より)
防衛研究所 戦史部 主任研究官 立川 京一
【事実】
で、どういう経緯で「協力関係」に至ったんでしょうかね。
フランス側の自主的な好意だったんでしょうか?
【珍説】
確かに日本側の都合も有るよ。双方の言い分も、目論みも有るに決まってる。
でも日仏は協力関係になったの。
日仏間の少々のいざこざは、大東亜戦争を戦い抜いて、親日・親米になった,今の日米関係の激変に比べたら些細なこと。。
>これでアメリカが黙ってるわけ無い。
物事の順番を間違えてるな。アメリカ側の中国に対する軍事支援と、その後の経済的圧力とが、日本を仏印進駐へ進ませ、更には戦争に追い込んでいった。
追いつめられた日本のやむを得ない行動が、キミの言う「日本の都合」.
【事実】
自説に都合の悪い話は「些細なこと」か……。
>協力関係
武力の威圧による,他国からおよそ認められないような不当な形の,ですがね。
しかし、
>確かに日本側の都合も有るよ。双方の言い分も、目論みも有るに決まってる。
>でも日仏は協力関係になったの。
これだとワルシャワ条約下でのソ連ーチェコ・ポーランド関係も平然と,「でも協力関係になった」で正当化できそう。
>中国に対する軍事支援
もともと正当性・必要性があるとは言いがたい対中戦争を,日本が進めた結果,招いたアメリカの対中支援ですが。
ついでに言うと、一時期アメリカの対中支援は先細りになって(重慶陥落ごろ)、中国側も抗戦継続を諦めかけたんですが,日独伊三国同盟締結で日米関係が悪化した結果,それが吹っ飛んで抗戦続行と相成った経緯があります。
それに,支那への軍事支援ならドイツもソ連もやっています.
ドイツやソ連が日本を追い詰めたことになるのですかね?
【珍説】
なるほどアメリカが、日米和平交渉の真っ最中、それも米側が提案に対する日本側の回答を待っているところに行われた仏印進駐に「刺激された」のは事実だろう。
しかし,独立した国同士の協力体制に、関係ない国が横から文句言うのもおかしな話。
本当は枢軸国相手の戦争に向かう口実に使ったんだよ。
【事実】
当事者のかたっぽは独立してませんが.
それに,日本が南部仏印に進駐し,基地を取得するとなると、米領フィリピンはもろに日本の軍事的脅威に晒されるわけで,関係ない訳ありません。
もう一つ。
日本はすでに1941年7月2日、正式に「南方進出の体制を強化す」と定め、「本号目的達成のため対英米戦を辞せず」としています。(「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」)
つまり,米国の意図が仮に戦争誘発であったとしても,それはもはや関係ない訳で。
【珍説】
米側の都合はそうだろうね。でも日本とフランス側の都合もある。
またこうした議論は、やはり「木を見て森を・・・」だろう。
根本的にはアメリカ側の戦争への意図,その為の対日圧力とすれば、個々の事例で言ってても、あまり意味がない。
それにまた,日本側が1941年に戦争への苦渋の決断をしたとしても、アメリカ側はもっと前から(おそらく1937年には既に)その方向へ進んでたんだから、
日本の決断は遅すぎるくらい。
【事実】
自説に都合の悪い話は「些細なこと」「木を見て森を見ず」か……。
<日本の都合>
ドイツの西方作戦の電撃的成功を見、欧州が植民地に構っていられなくなった内に,そこへ進出し,資源を獲得、日中戦争を一気に解決しよう…というもくろみ。
<フランスの都合>
偏に日本のゴリ押し。出来ることなら進駐なぞ受け入れたくなかった。
これでアメリカが黙ってるわけ無い。
それと,「アメリカ側はもっと前から(おそらく1937年には既に)その方向へ進んでたんだから」の根拠はなんですか?
1938年1月、ルーズベルトの覚書。
「私は、われわれが日本兵士の行動に対してドルで責任を追及できる基礎を作り始めるべきであると考えている。
…アメリカには日本の膨大な資産があり、この資産を凍結するには外国人財産管理法というすばらしい先例があるということは事実である。これだけ言えば充分だろう」
1940年半ば、真珠湾へ艦隊をとどめておくことに対する海軍作戦部長スタークの説明
「日本がオランダ領東インド諸島を攻撃したときに、アメリカが行動を起こす準備にはならないにせよ、一定の抑止力としては役立つだろう。
アメリカの意図が不明確であることだけでも、日本を引き止めるのには役立つであろう」
1941年7月1日、ルーズベルトからイッキーズ内務長官への話
「あなたも承知のとおり、太平洋における平和を維持することが大西洋を支配するために極めて重要なのである。
私は回航する海軍を十分持っていない。
太平洋で小さい事件でも生ずれば、その1つ1つが大西洋における艦艇を少なくすることを意味するのである」
どう見ても対日戦争を推進しよう、という意図は見えませんが。
【珍説】
アメリカは選挙の関係上、国民の支持を得られない限り表立って戦争への方向には行かないんだ。
そのため,本当は戦争を決断してても、表向きは戦争反対を唱えてたりする。
しかし自国防衛のためなら戦争の大義名分が立つから、日本を追いつめて、結果暴発してくれたら大助かり。
合衆国は、孤立政策から脱却し、戦争の際には英仏の側に立って、積極的に介入する用意がある旨を道義的に確約する。[1,p143]
1939年1月16日 ウィリアム・C・ブリット駐仏大使
『あなたがたの子供たちは、海外のいかなる戦争に送り込まれることもない』
1940年10月30日、ルーズベルト大統領選挙前の演説
このわずか2ヶ月後に、ルーズベルトは無二の親友であるハリー・ホプキンスを通じて、チャーチルに次のように伝えた。
『われわれが共同してこの戦争を勝ち抜くことを大統領は決意している。これを間違わないでいただきたい。大統領は、いかなる犠牲をはらっても、あらゆる手段を用いてイギリスを勝利達成まで援助する、ということをあなたに伝えるために、私をここに派遣した。
・・・大統領は、人事のすべてをつくす。』
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog096.html
【事実】
『われわれが共同してこの戦争を勝ち抜くことを大統領は決意している。これを間違わないでいただきたい。大統領は、いかなる犠牲をはらっても、あらゆる手段を用いてイギリスを勝利達成まで援助する、ということをあなたに伝えるために、私をここに派遣した。・・・大統領は、人事のすべてをつくす。』
から、
「あなたも承知のとおり、太平洋における平和を維持することが大西洋を支配するために極めて重要なのである。
私は回航する海軍を十分持っていない。太平洋で小さい事件でも生ずれば、その1つ1つが大西洋における艦艇を少なくすることを意味するのである」
ということになるわけなんですが。
>日本を追いつめて、結果暴発してくれたら大助かり
しません。大西洋に回すリソース減るんで。
つか,この意見ははどう見ても「日本を追いつめて、結果暴発してくれたら大助かり」という意見の根拠が伴っておりません。
【質問】
日本の南部仏印進駐を,なぜアメリカは重大視したのか?
【回答】
アメリカは大変な錯覚をしたのだ,と京都産業大学教授
・須藤眞志は述べる.
「日本の南部佛印進駐は,大東亜共栄圏の思想に基づく東南アジア一帯を支配する第一歩であり,やがてその勢力は自国のテリトリーである,フィリピンにまで及ぶものと解釈した」のだという.
以下引用.
最も重要なのは日本の南部佛印進駐であった.
昭和16年7月末,日本は北部佛印より南部に軍を移動させた.
当時,日本軍は,佛印から中国雲南省に抜けるルートを通って蒋介石政府に物資が運ばれるのをなんとか遮断したかった.
また,佛印のゴム,スズといった戦略物資を確保することも重要であったし,ヴィシー政権との交渉がはかどらなかったことも理由であった.
日本の南部佛印進駐は戦術的・経済的な意味が強く,これを機会に東南アジア全体に覇権を確立しようなどという大それた計画はなかった.
しかるにアメリカは大変な錯覚をした.
日本の南部佛印進駐は,大東亜共栄圏の思想に基づく東南アジア一帯を支配する第一歩であり,やがてその勢力は自国のテリトリーである,フィリピンにまで及ぶものと解釈したのである.
アメリカはそれまでの日米交渉の打切りを通告し,日本資産を凍結し,日本の最大の弱点であった石油,屑鉄といった重要な戦略物資の輸出を禁止した.
日本は驚愕した. なぜ北から南に下がっただけでアメリカがこれほど激怒するのか理解できなかった.
これはまさにパーセプション・ギャップ(認識の相違)であった. 南部佛印に対する日本とアメリカとの認識(パーセプション)が完全にずれていたのである.
はっきりした証拠はないが,このときにルーズベルト大統領は日米戦争を決意したのではないかと推察される.
ここにもアメリカ人の持つ合理主義と日本人の非合理主義のギャップが存在した.
日本の南部佛印進駐は大東亜共栄圏確立の第一歩という大戦略に基づいたものではなかったのだが,アメリカ側はこれを一種のドミノ理論と捉え,次々とドミノを倒すがごとき状況が展開され,やがて全東南アジアが日本の手に落ちることを危惧したのである.
このアメリカ側の錯覚が日米戦争の最も重要な原因の一つになってしまったのである.
戦後,アメリカがベトナム戦争に介入していったのと同じ理論であった.
【質問】
南部仏印進駐が日米戦争を招くかどうかを,軍部はなぜ予想できなかったのか?
【回答】
日米開戦の時に軍務課長,開戦後軍務局長の要職にあった佐藤賢了少将(のち中将.戦後,A級戦犯となり無期懲役)の回想によれば,彼は
「南部仏印進駐は日米戦争にはならない」
と判断し,それが陸軍の一般的な考え方であったという.
また,対米戦も何とかなるさ,という奢りがあったとする意見もある.
以下引用.
「問題は,南部仏印進駐が日米戦争を招くかどうか,である.私は日米戦争にはならないと判断しておった.その理由は次の通りである.
日本軍隊は既に北部仏印に進駐しており,それがただ南部に進むだけである.
そして進駐はフランスのビシー政府との協定に基づいてやることであり,決して戦争でもなければ侵略でもない.また,そこは米国の領土でも植民地でもない.
日本はフィリピンの安全は保障する.
蘭印に脅威を与えるかもしれないが,そこは米国の領土ではない.蘭印が平和的手段による日本の経済的交渉に応じさえすれば,日本はこれを攻撃する意思はない.
蘭印との平和交渉を妨げているのはオランダと米国である.
南部仏印に僅かの日本軍隊が進駐したからといって,フィリピンや蘭印と米国との交通に脅威を感ずるよりも,ハワイに米国太平洋艦隊が駐留していることが,遥かに日本に脅威を与えている.
だから南部仏印進駐によって米国が対日戦争をしかける理由はない」
陸軍の「国際感覚のなさ」を物語ってあまりあると言えようか.
参謀本部ロシヤ課長や阿南陸相秘書官などを務めたことのある林三郎氏は,陸軍の米英過小評価の原因を,次のように見ている.
「米英過小評価の原因は,人事行政と幼年学校の教育にあった.
人事行政としては,米英留学の経歴を持つ上級将校が,親米派あるいは消極論者として,中央部には用いられなかったことである.
この傾向は三国同盟成立後,特に目立った」
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.15-16,抜粋要約)
豊田貞次郎外相は,同月〔41年6月〕24日の政府大本営連絡会議で,米国の石油禁輸の可能性に言及した.
その際,大本営陸軍部戦争指導班の「機密戦争日誌」(軍事史学会編,錦正社)はどう書いていたか.
「野村(吉三郎・駐米大使よりの電(報)『ヒステリック』なるに一驚せるならんか 当班不同意」
その後も数日に渡り,
「当班全面禁輸とは見ず」(7月26日)
などの表現が続いている.
〔略〕
米国は,在米日本資産の凍結を発表したが,日本軍は予定通り進駐を開始.
米国は8月1日,石油の対日全面禁輸に踏み切った.
戦後,三輪〔宗弘・九大〕教授のインタビューに対して,当時の高田利種・海軍省軍務一課長は,
「南部仏印進駐までは米国は起こらないだろうという考えだった.それだけにびっくりした」
と語った.
日本政府も軍部も,南部仏印までは大丈夫と見ていたのだった.日本は米国の出方を見誤った.
元大本営参謀の瀬島竜三氏は,
「米国の対日全面禁輸はすなわち日米開戦を意味するからであり,それを承知のはずのルーズベルト大統領が,あえて進んでそのような措置を,このときとるとは判断し得なかった」
と述懐している(「大東亜戦争の実相」 PHP文庫).
読売新聞 2005/12/22
日本は,北部仏印進駐で米国から屑鉄を止められ,南部仏印進駐で石油を止められたわけだが,日本国内で米国の出方について警鐘を鳴らしたのは少数で,威勢のいい者達がそんな事は考えもしないで行動していた.
これまで不敗で来たのだから,対米戦も何とかなるさ,という奢りが,陸海軍共にあったということだろう.
土門周平(インタビュー) from 読売新聞 2005/12/22