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◆通史
アジア&太平洋方面・目次
<第2次世界大戦FAQ



 【link】

『第二次対世界大戦とフランス領インドシナ 〜「日仏協力」の研究〜」(立川京一著)

 1937年以後の日仏関係と,対独敗戦後のヴィシー政府と日本との関係を研究したもの.
 欧州のフランス外交関係は結構本になっているが,植民地政府の動きを描いた本は中々無い.
 そうした間隙を埋めるような本なので,結構面白そうなものになっている.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

『永井荷風の昭和』(半藤一利著,文春文庫,2000.6)

『日米戦はゞ』(池崎忠孝著,新潮社,1941)

 『日米もし戦わば 戦前戦中の「戦争論」を読む』(北村賢志著,光人社,2008.6)を読んで触発されたので,たまたま古本屋で見かけ,購入.
 後知恵から批判するのは容易かつ安易すぎる著者の予測よりも,むしろ
「対日戦の場合,英国はキング・ジョージ5世級戦艦4隻をシンガポールに派遣する!」
など当時の噂が興味深いです.
(この噂に対して著者は否定的)
 なお,序文は加藤寛治大将,定価1円40銭・外地定価1円54銭.

――――――軍事板
青文字:加筆改修部分

『日本の近代6 戦争・占領・講和』(伊藤隆ほか編集委員,五百旗頭真著,中央公論新社,2001.4)

『満州帝国』がよくわかる本」(太平洋戦争研究会著,PHP文庫,2004年12月) 初心者向け

やる夫が通州事件に巻き込まれるようです


 【質問】
 保阪クラスで信用できないって言ったら,信用できる歴史研究者ってどんな人がいるのよ?
 半藤一利とか?
 別に喧嘩売ってるわけじゃなくて,その人の本も読んでみたいと思ってるだけだからね.

 【回答】
 半藤さんだったら保阪さんの方が信用できると思う.
 『ノモンハンの夏』とか『昭和史』とかフィーリング優先というか,先入観が勝ってる記述が多い気が.

 難癖ばっかのてめーはどうなんだと言われると,昭和史関連だと北岡伸一,加藤陽子,有馬学,中村隆英とかがぱっと思いついた.
 伊藤隆東大名誉教授関係者ばっかと言われそうだけど,左翼の永井和とかも実証的で好き.

軍事板
青文字:加筆改修部分


◆◆戦間期


 【小林主体思想】(別名「マルチ・スタンダード」)

 アメリカが日本に「自由」と「民主」を与えてくれたと思い込んでる者がいる.
 だが実は,戦前から日本には「民主主義」はあったのだ.
 大正デモクラシーは,戦後の民主主義と同じものである.

 山本夏彦氏は,大正時代に広がった民主主義の特色を
「普選」「親不幸の公認」「恋愛の謳歌」「猫なで声」「口語体」「挨拶の喪失」
だと皮肉っぽく語っている.

 婦人の参政権はなかったが,婦人は別段,怒りもしなかった.
 参政権を欲しがっていたのは市川房枝ら,せいぜい100人か1000人くらいのものだった.

 大正デモクラシーによって,日本が持っていた,もっと大事な価値がいっぱい破壊された.
 例えば「忠孝」の精神である.

 戦後は,アメリカからのデモクラシーが,さらに価値の紊乱に拍車をかけ,教養・道徳が衰えたのである.
 日本の「保守派」の知識人が,アメリカの正義である「自由」と「民主」を賛美するとは一体何事か!? 恥を知れ!

(小林よしのろ「戦争論3」,p.67)

 【ツッコミ】
 曖昧・粗雑な論です.

「アメリカが日本に「自由」と「民主」を与えてくれたと思い込んでる者がいる.
 だが実は,戦前から日本には「民主主義」はあったのだ」
と書いておきながら,最後は
「アメリカの正義である「自由」と「民主」」
と言っちゃうわけですか…….
 わずか十数行の文章の中の論理矛盾も,自分じゃ気付かないほど耄碌されましたか?,この50歳を越える爺さん漫画家は.

 それにですね,大正デモクラシーと現在の自由民主主義が同じものかというと,これにも疑問が残りますな.

 大正デモクラシーと一口に言っても,生成期と高揚期と衰退期とでは,性質が異なってくる.
 政党や非特権的な資本家が,民衆の世論を背景にして,元老・枢密院・貴族院・郡部などの特権階級の力を抑えようとした,というのが生成期に対する通説的見方.寺内正毅軍閥内閣出現を阻止した大正政変など,特徴的ですな.
 政党政治が軌道に乗り,また,第1次大戦後に高まってきた労働運動・農民運動・社会主義運動と絡み合って,「改造の十字路」「民衆の組織化」と呼ばれる社会風潮が現れたのが,高揚期.

 ちなみに吉野作造は,自分の民本主義はいわゆる右派社会民主主義とは両立できるが「過激主義(ボルシェヴィズム)」,つまり革命主義とは相容れないと認めておりまして,大杉栄などの当時の革命派から論難されております.
 そんでもって,例によって内部対立していくのが衰退期.既成政党は民衆組織を敵対視し,社会不安や経済的混乱に対処する力を欠く.民主主義的要求は治安維持法などで圧殺される,そんなこんなでジ・エンド.

 小林は,大正デモクラシーのどの部分が,どのように「戦後の民主主義と同じ」だと言いたいんでしょうか?
 論が粗雑過ぎて,肯定も否定もできかねますな.まあ,飲み屋のオヤジの政談と同レベルってことです.

 第3点.
 いくら山本夏彦が大正デモクラシーを皮肉っていたからといって,「忠孝の精神」がなくなったと言えるものなのか? 忠孝の精神が,そんなに大事なのか? そこが疑問です.

 「忠孝」は,朱子学上の概念です.
 朱子学とは中国・南宋の学者,朱子によって大成された,宋代の新しい儒学で,「道学」「性理学」「程朱学」とも呼ばれます.
 日本への伝来は鎌倉時代のことで,室町時代には禅僧の教養として学ばれます.
 日本における隆盛期は江戸時代で,幕藩態勢の整備につれて,幕府・藩の教学の基礎になり,思想的影響は儒学の他の学派の中で最も著しかったとされます.
 これは,名分論に基づく君臣関係の規制,身分制の重視,禁欲的傾向など教学的要素が強く,自然秩序観も社会の安定指向期に受け入れられ易い素地があったためと考えられています.

 そうだとするなら,
「大正デモクラシーによって,朱子学的精神が廃れた」
という主張は,あながち間違いではないのかもしれません.大正デモクラシーにおける民衆の要求の一つは,身分に囚われない平等な1票を与えよ,なのですから.
 しかし,それをもって大正デモクラシーを否定する気には到底なれませんな.平等な一票を保障する事は,公正な選挙のためには必要だ,と考えられているのですから.
 忠孝精神を守りたい,というのであれば,身分制重視の朱子学に頼らず,他の思想に依ったほうが建設的では?と思うのですが…….

 いずれにせよ,何故どのようにして「大正デモクラシーが忠孝精神を破壊した」と,小林が考えているのか,具体的に明らかにならないことには,上の論も想像の域を出ないのですが.

同じように,
>戦後は,アメリカからのデモクラシーが,さらに価値の紊乱に拍車をかけ,
>教養・道徳が衰えたのである.
なる主張も,いかなる根拠によるものなのか,全く分からないので論じようもありません.「西側はモラル退廃が云々」という言葉は,冷戦期にベルリンの壁の向こう側からよく聞かれましたが…….

 そういえば,詭弁テクニックの中に,
「主観で決め付ける」
「資料を示さず自論が支持されていると思わせる」
というものがありましたな.

 なお,「自由」と「民主」が「アメリカの正義である」わけがないという事は,高校生レベルの世界史の知識のはずですね.
 アメリカ流「自由と民主」と,小林は言いたかったのかもしれませんが,それならば,改訂版でも出してその辺を明確にすべきでしょう.
 「新ゴーマニズム宣言」単行本の「イラクの農夫がアパッチ・ヘリを撃ち落とした」の件もそうですが,なぜ修正を一向にしないのか,不思議でなりません.誤りを認める事は恥だとでも思っているのでしょうか.

 それにまた,本当に忠孝精神は破壊されてしまったのでしょうか?
 「戦後の,自分の勤める企業にひたすら忠誠を尽くす,サラリーマンの態度は,企業論理にとって都合の良いように変形した忠孝精神である」とは,深田祐介や猪瀬直樹など,多くの識者が指摘するところです.藩が会社に代わっただけではないかというものです.
 この説が本当だとすれば,少しも忠孝精神は破壊されていないことになるのですが,小林は触れてさえいません.会社勤めを経験したことのない小林は,それに思い至らなかったのかもしれませんが.

 ちなみに,朱子学には忠孝精神の他に,「理気説」「性情説」「居敬窮理説」という説を展開しています.
 この内,性情説とは以下のようなものです.
 人間は性と情の絡まりであると説かれます.「性」は理で本性理性,情は気で気質感情を言います.
 そして,人間が情のままに行動すれば,仁義礼智の性を喪失し,人間のあるべきあり方は不明となり,家族・村落・国家の人間共同体は危機に陥る.そこで,情の動きを純粋にして性の筋目に従わせ,人倫の道を守るようにすべきである,としています.

 「作法としての反米」と唱え,その実質,過激な反米差別を感情的に唱え続けている――小林にとって親米に見えた者には,ポチとレッテルを貼って罵倒していますね.絞殺自殺した小泉首相の姿まで描いています(p.29)――小林に,性の筋目は見出せません.
 朱子学的精神の内,忠孝だけをクローズ・アップして,他を切り捨ててしまっている姿勢には,大きな矛盾を感じるのですが,どうでしょうか?

 もしかすると,「いいものなら,それだけ残すべきだ」と小林は言うかもしれません.
 しかし,そうであったとしても,江戸時代の軌範を,現代にそのまま当て嵌まることには無理があり過ぎるでしょう.当時と今とでは,人間を取り巻く精神的環境も物質的環境も,全く異なるのですから.
 そうである以上,その「いいもの」をいかに現代に適合させていけばいいのか?という考察が必要になるはずなのですが,本書にはそれは皆無です.
 昔に戻しさえすればいい,というのであれば,それは保守ではなく,単なるオストリッチ・コンプレックスじみた守旧派でしかありません.
 まあ,曖昧な主張なら,言い抜けは幾らでも可能ですけどね.

 だいたい,忠孝の精神は,目上の者に対する尊敬の念を持つよう勧めていますが,自説に同調的でない者を醜悪に描く小林が,忠孝の精神を遵守しているようにも思えません.
 自分自身では全く守っていないものを,他人に守らせようとする態度は,矛盾ではないでしょうか?

 こんな穴だらけの言説で,第2次大戦を語って欲しくはないものです.

 余談ですが,「国のために」とか「無私の精神」とか言ってる奴が国を滅ぼすんだ…なんて,へそ曲がりなこと言ってる山本夏彦が,
「小林に引用されてる」
って聞いたら,どんな顔するんでしょうね.

 【参考文献】

 (1) 大正デモクラシー関連
 岡義武編『吉野作造評論集』,岩波文庫
 信夫清三郎「大正デモクラシー史」,日本評論社
 今井清一「日本の歴史23 大正デモクラシー」,中央公論社
 大久保利謙「日本全史 近代III」,東大出版会

 (2) 朱子学関連
 後藤俊瑞「朱子の実践哲学」,目黒書店
 友枝龍太郎「朱子の思想形成」,春秋社
 島田虔次「朱子学と陽明学」,岩波新書


 【珍説】
 パリ不戦条約では,自衛戦争か侵略戦争かの判断は,該当国家の裁量に委ねられていた.

推定林間≒「一応仮コテ」

 一方,1928(昭和3)年には,パリで「不戦条約(ケロッグ・ブリアン条約)」なるものが調印され,「侵略戦争」の放棄を宣言した.
 これはグロティウス以来の,戦争は無差別に肯定するという常識が,変化し始めた兆しでもある.

 ところが「侵略」の定義は当事国に任されていた.要するに…
「わが国はこれから侵略するぞーーー!!」
と言わない限り,「侵略」にならないのである.

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.218

 【事実】
 であれば,それは各国が勝手に判断するのではなく,事後的に国際法廷や国際会議で判定を受けるべき問題であると,国際法学の大家オッペンハイムが示している.
 条約の趣旨から言っても,自衛権を損なわないためであり,勝手な解釈で戦争を起こす事を肯定しているわけではない.

軍事板


 【質問】
 ケロッグ=ブリアン条約の成立までの経緯と,同条約の問題点は?

 【回答】
 今も尚,国際上では有効とされているケロッグ=ブリアン条約であり,そもそも満州事変を否定する材料の一つとなった「不戦条約」だが,この成立にはかなり混乱が伴っており,成立からして骨抜きな条約みたいだ.
 キッシンジャーによると,WW1後対ドイツ政策に行き詰ったフランスのブリアン首相が,マジノ線構築による防御戦略によって,能力的にはドイツ東部への侵攻「封じこめ」を捨て去ったことにより,フランスの政戦両略の不整合がおきた混乱から,なんとか世論の支持(国際的な物を含む)を得ようとしてアメリカに提案したもののようだ.

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 指導者は混乱すると,政策の方向を決定する代わりに世論のムードに訴えようとする傾向がある.
 何かをやっていると見られたい願望に駆られて,ブリアンはアメリカの参戦10周年の機会を利用して,1927年6月に,仏米両国政府が両国の間では互いに戦争を放棄し両国のすべての紛争を平和的手段で解決することに合意するという条約案をアメリカ政府に提案したのであてた.
----------------------------------------------------------------

―――ヘンリー・キッシンジャー著『外交』上巻(日本経済新聞社,1996.6),394ページ
※この場合のアメリカ参戦はWW1への参戦のこと.

 これに対して,当時のアメリカ国務長官ケロッグは,回答に迷ったが,この条約案が実際上の効果は無い事を確認した上で,選挙対策としてこの「平和のための案」に批准することを決めた.

 そして,ケロッグはこの案に出来るだけ多くの国を参加させようと働きかけ,理念的に「国家の政策手段としての戦争放棄」をうたい,1928年8月12日,50カ国の参加を得て「ケロッグ=ブリアン不戦条約」(パリ不戦条約)に署名した.

 しかしながら,パリ不戦条約が署名されるとすぐに,各国の政治家達は考えを変え始めた.
 すなわち,以下のような条項を盛り込むことによって「骨抜き」にしたのであった.

・自衛のための戦争と国際連盟規約
・ロカルノ条約,及びフランスの同盟から生じる義務を履行するための戦争

 この二点を合法化したことにより,この条約はいかようにも受け取れる条約となり,結局「元に戻る」となってしまったわけだ.

 この上さらにイギリスが「自国を防衛するための自由」,アメリカが「モンロー主義と自衛のための権利」を主張し,しかもアメリカはいろんな抜け道を作った上で,すべての強制行為参加を拒否した.(国際連盟に参加しなかったからね)

 んで,ケロッグは数ヵ月後にこんなことを言い出した.

-----------------------------------------------------------------
 上院外交委員会での証言でケロッグは,アメリカは不戦条約上,侵略行為の被害国を助ける義務を負っているわけではない,
 なぜならばそうした侵略行為があること自体,すでに不戦条約が破棄されていることを示すものだからであると言う途方もない理論を示した.
「もし他の国がこの条約を破ったとしたら,なぜ我々はこの条約に参加していなければならないのか」
と,モンタナ選出のウォルシュ上院議員が質問したのに対し
「そうしなければならない理由は少しもない」
と国務長官は回答したのである.
 ケロッグはこの条約を,
「パリ不戦条約は平和が保たれている限りにおいて平和を保つであろう」
という同語反復に変えてしまったのであった.
 戦争がこれから始まろうとしている状況を除いたあらゆる状況下で,禁止されたということである.
 それゆえ,D・W・ブローガンがケロッグ・ブリアン条約について次のように述べたのも不思議ではなかった.
「かつて第十八修正条項によって飲酒という悪を根絶したアメリカは,今度は,誓約をすることによって戦争を根絶しようと世界の各国に呼びかけたのである.
 世界の国々は,あえて信じも疑いもせず,それに従ったのである」
-----------------------------------------------------------------

同395ページ

 で,この条約によって,フランスはかつての同盟国から軍縮の圧力を掛けられることになっちまった.
 しかもラインラント占領が早期終了される結果となって,マジでブリアン涙目と言う感じ.

 にしても・・・・
 アメリカは不戦条約上,侵略行為の被害国を助ける義務を負っているわけではない,
 なぜならばそうした侵略行為があること自体,すでに不戦条約が破棄されていることを示すものだからである .
 ……なんか,日本のサヨクみたいな言い分だなコリャ.

 まぁ,これへの反省が戦後アメリカが欧州やアジアの安全保障への参加を誘発したと思えば,かなり興味深いが.

 ケロッグ=ブリアンとは,確かに「不戦条約」ではあったが,上のように各国によって骨抜きにされてしまった.

 でも,この不戦条約は,いろんな場面で各国への批判材料となったことも事実である.

 この意味でWW1以前よりも戦争に対する認識が変化したのは間違いない.

 これを
「強制力なきゆえの欠陥条約に過ぎない」
と判断するか,
「世界各国が不戦という理念を持った転換点」
と見るかは,各人の判断に委ねることにする.

 漏れ的には両方の意味合いがあって,結局は「自国に有利なような条約」であっても相手が利用できる条約という,正当性や大義名分などを変化させる物であったと思う.

ますたーあじあ in mixi, 2008年01月05日19:09


 【質問】
「昭和四年,ソ連は満州に侵攻したが,これが,ケロッグ・ブリアン協定を破った最初の侵攻戦争」である.英米仏伊は,ソ連に不戦条約義務違反を注意したが,当然ながら,ソ連自身はこれを「侵攻戦争」でなく「自衛戦争」とし,制裁を受けなかった」
と書いてあったのですが,これは事実でしょうか?

 【回答】
 1929年の中ソ紛争なら,
「ソ中両国に警告を与える」
というオチで不戦条約参加55カ国中38ヶ国が賛同.
 この時は,経緯もあってソヴィエトに好意的な解釈を行った国のほうが多いかな.
 イギリスは,ソ連が国際連盟加盟国で無いことを理由に,取り上げるのを拒否してるし.

 ちなみに,この中ソ紛争が「ケロッグ・ブリアン協定を破った最初の侵攻戦争」でなかった場合,満州事変が最初になってしまうので,ことさら取り上げられることが多い.


+

 【質問】
 これ本当ですか?

 昭和14年『ノモンハン事件』の空中戦で被弾し,敵地に不時着した原田文雄少佐,伊藤曹長の二人はソ連軍の捕虜となった.
 伊藤曹長はそれまで敵機25機を撃墜し,『ホルンバイルの華』とまでうたわれた逸材であったが,捕虜送還で帰ってきた彼らを待ちうけていた運命は非情なものであった.
 原田少佐は『自決』を強要され,伊藤曹長は軍法会議で『有罪』となり,ともに人生から消え去ったという.
 ノモンハンの捕虜で,帰国後の運命を恐れて,ソ連の地に残留を望んだ将兵は1千名を超えていたといわれている.
 祖国の栄光のために戦いながら,祖国からの報復を恐れて帰国を断念し,ソ連に永住したのである.

http://members.at.infoseek.co.jp/koidetyu/siberia3.htm

 【回答】
 本当です.

 皇軍は自称「無敵」なので,負けたことになれば,誰か上層部が詰め腹を切らされます.
 従って,負けた事実を隠蔽するため,こういった不利な状況を知っている人々を徹底的に死に追いやりました.
 他にも,前線部隊の将校なんかも自決を強要させられています.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


◆◆◆軍縮会議関連

 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 1921(大正10)年,アメリカ大統領ハーディングの提唱で,「ワシントン会議」が開かれた.
 「国際協調」で「平和の永続を図る」という美しき目的の会議である.

 ところがこれが例の
「一見,理想的で,実はアメリカだけの利益になることを他国に押し付ける」
というお家芸,そのものだった.

 日本外交の柱だった日英同盟は,「国際協調にそぐわない」と廃棄させられた.

 海軍軍縮条約で,戦わずして戦艦を沈められた.

(小林よしのり「戦争論」3,p.215)

 【ツッコミ】
 日英同盟の件は,全くの妄想.どこからこんな怪電波を拾ってきたのやら.

 また,軍縮条約を結ばずに八・八艦隊なんてやってたら,戦争する前に国が滅ぶ.
 八八艦隊を揃えたら、台湾の要塞化どころか陸軍の維持すら出来ない。 何せ艦隊維持整備費で国庫の四割を食ってしまうんだ。
 旧ソ連みたいに財政破綻するか、三〇年代中盤でヤケクソになって戦争始めるか・・・

 それに小林は,米英も戦艦廃棄してるのを知らないんだろうか? それとも、日本だけが艦艇を 削減されて6割になったと思ってたんだろうか?
 知っててなおもそう書いたにしても、知らなかったにしても、彼にこの問題を語る資格は無いよね。

 日本が沈めたのは未完成艦と日露でゲットした前ド級艦。
 あと、謎の不揃い口径長12インチ砲搭載艦。
 いわばリストラ艦。
 まだまだ使える超ド級戦艦/巡戦を沈めた大英帝国や、保有枠満たす為に火力不足の12インチ砲搭載艦を残さざるを得なかったアメの方がよっぽど痛い。
 もし,このとき日本が戦艦「陸奥」を捨てていれば,コロラド級2隻とネルソン級2隻をさらに葬れただろう。 まあ,結果論だが。
 ちなみに,日本に6割を呑ませる取引材料として,陸奥存続について早々に了承したのがイギリス.

 それとも「土佐」「天城(地震が無ければ加賀)」を沈められたのを,小林はそんなに恨んでいるのか?
 八八艦隊の維持費だけで国庫の4〜5割が吹っ飛び、アメリカが,議会さえ黙らせれば財政的にダニエル計画艦隊がもう1セット揃えられる事を知らないんだろうか?
 普通に考えたら,戦間期の軍縮ではアメリカが一番損をするんだよ。
 アメリカが本気を出して建艦競走を始めたら,日英合わせてもアメリカの工業力に太刀打ちできなかったからね。
 なのにわざわざ,自分で自分の手足を縛ろうとするわけだからね。

 よしりんは「当時の価値と現代の価値は違う」と言う癖に,当時の状況をまったく考えない.

 ちなみに件の条約を結んだ加藤友三郎海軍大将はこんなことを言ってたワケだ。
「アメリカと互角の軍備を整えても,実際に戦争するには金が要る。
 そんな金貸してくれるのは,世界一の金持ちのアメリカしかない。
 しかし,帝国海軍が戦争する相手は,現実的にアメリカしかない。
 アメリカから金借りてアメリカと戦争するなんて、んなアホな。
 軍備は国力相当にして、その国力を貯えることが重要」
ってね。慧眼。

 小林信者は、小遣い帳を付けるところから人生勉強をやり直してくれ。

(軍事板)


 【質問】
 日英同盟の解消はどちら側に原因があったのでしょうか?

 【回答】
 日本側にある.

 まず,第一次大戦で同盟を理由に参戦した割には,欧州には大した戦力を送らず,そのくせ大陸での利権を掻っ攫おうとした態度が英国の世論を大きく刺激した.
 大規模派兵が兵站能力から不可能だったのは言うまでもないが,世論とは得てして感情的なもの.

 また,当時外務次官で日本の外交を一手に担っていた幣原喜重郎が,旧来の同盟による勢力均衡という習慣を断ち切り,国際協調によって平和を保とうという理想を持って外交を進めたせいでもある.

 なお,イギリス側の意見としては,連邦内ではオストラリア,ニュージーランドが同盟継続.
 南アフリカは中立だがウィルソン主義に賛同.
 カナダが強行に同盟継続反対.
 政府内としてはカーゾン外相,チャーチル植民地相,連盟担当のバルフォア枢密院議長,チェンバレン国爾尚書,陸海軍大臣,参謀総長まで,全て同盟継続派だった.
 日本の意思が同盟継続ならば,イギリスも同盟解消に積極的に動くことはなかっただろう.


 【質問】
 どういう状況を作れば,日英同盟が継続できたでしょうか?

 【回答】
 英国にとっても同盟に価値があるという状況を作り出すことかと思います.

 英国にとって日英同盟は,英国の東アジア権益に対するロシアの脅威に対抗するためのモノでしたので,日露戦争終結後,独の台頭も手伝って英がロシアと仲良くなり,この脅威がなくなると基本的に必要ないのです.
 日露が終わってしばらくすると不要論が出始めてきます.

 しかしながら,日本がこれを理解せず,列強の東アジア権益を露骨に狙ってしまったり,植民地の独立派を助けてしまったり,米を仮想敵国として海軍増強を行い続けた(英国としては米との戦争に巻き込まれたくないです)結果,新たな脅威として目をつけられてしまいました.

 第一次大戦が勃発して英国が同盟に価値を見出したのですが,ここで日本が行った協力を,英国は同盟国として不十分と考え,むしろ権益への脅威とする見方が強くなっちゃったんです.

 平間さんの日英同盟の本とか,日英交流史の三巻あたりが参考になると思います.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第2次大戦までの,日本の対英感情,英国の対日感情はどんなものだったのか?

 【回答】
 日本⇒英国:尊敬の対象であり,模範.
 英国⇒日本:まあ友好的.日本を教えたことを誇りにする地域も.

 言うまでもなく,この関係は戦争で台無しに.

 以下引用.

 日本協会が創立された1891年には,日本に関心を持つイギリス人はごく少なかった.奇特な学者や外交官だけが日本に関心を持っていた程度で,普通の人は日本の存在さえも知らなかった.
 この奇特な学者や外交官達が日本協会を作り,民間の日英交流が始まったのだが,20世紀の初めに,日英同盟が締結され,親交の時代が20年足らず続き,それから第2次大戦に入って,日英は敵と味方に分かれてしまった.
 日本の戦争捕虜になったイギリス人の中には,今もって強い反日感情を持っている人も多い.

 この戦争の時期を除いて日本人は,概してイギリス人から快く,友好的に受け入れられてきたと思う.
 日本人に造船技術を教えたことを誇りにしているグラスゴーでは,戦争中でさえも,日本とのつながりを断たないといって,日本とグラスゴーの友好協会を残しておいた.
 この時期,日本人はイギリス人を尊敬し,先生と敬い,日本は東洋のイギリスになりたい,あるいは東洋のイギリスであると称していた.

マークス寿子著「大人の国イギリスと子どもの国日本」
(草思社,1992/7/20),p.237

 一方,グラスゴーのような例まである国とは対照的に,「我が闘争」でアジア人を劣等民族呼ばわりしているような国と,日本は同盟を結んだのだから,どう考えたって選択ミスとしか思えない.


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 ワシントン会議で,当時の額で1億5千万円の巨費を投じて開発していた山東地域は,中国に返還させられた.
 アメリカはこれで,大いに中国に恩を売った.

 一方,日本が手に入れたものは,「国際協調」という約束だけだった.
 いくら美しい目的を掲げても,行われた事は外交テーブル上の戦争で,結果はアメリカの一人勝ちだった.

(小林よしのり「戦争論」3,p.216)

 【ツッコミ】
 身の程をわきまえずに大戦中、火事場泥棒的に「対華21箇条要求」なんて横暴な事をした懲罰だよ。
 みんなで仲良く切り分けていたパイに砂かけてどうすんだよ?
 あらかじめイギリスかアメリカと示し合わせてからやりゃいいのに、抜け駆けするから・・・
 カイザー・ヴィルヘイムより外交感覚が無いよ。

 そもそも,日本政府が山東利権をいかに確保する気だったかを無視して「返還しただろうが」と言われても …….

 ワシントン会議直前の日本の閣議決定の方針は
1.最低限、無条件返還はなし
2.できれば山東鉄道は合弁経営
3.鉱山資源は中国に独占させない
だった。

 んで,鉄道経営に関しては,途中で
「中国の長期借款(しかも鉄道経営者は日本人)という形式で当分確保」
に変わる。
 交渉は最終的に中国全権団の分からず屋ぶりにウンザリした米英全権団の好感と努力に助けられ,上記の目的を達成(無条件返還なし、鉄道は中国への長期貸付(運営陣日本人参加)、鉱山は日中合弁)

 無条件返還にこだわっていた中国に比べて明らかに成功しているわけだが.

 それから,条約に基づいて、米英が西太平洋の軍港を要塞化するのを放棄した事は無視ですか?
 イギリスが戦艦8巡洋戦艦8を基幹とする太平洋艦隊配備計画を諦めたのは無視ですか? おかげで太平洋戦争開戦時に日本軍は楽勝で香港・シンガポールとグアムを陥落できたのですが。

(軍事板)

 【質問】
 アメリカはハワイ、イギリスはシンガポールという重要拠点を要塞化制限から巧妙に外しましたが何か?
 日本は台湾すら要塞化できなくなりましたが何か?

 【回答】
>シンガポール
 艦隊無き軍港がそんなに脅威か? 

>ハワイ
 ハワイが無ければ、米海軍の太平洋での活動なんてほとんどできないじゃん。
 貧乏国相手に、何でそこまで妥協してやらなきゃいけないんだか。
 一方で,アメリカはフィリピンを防衛する手段を失ってるし。

 フィリピンの問題といい、軍縮によって日本の財政破滅が逃れられたことといい、日本はワシントン条約のおかげで太平洋戦争が出来たようなもん。

 こんなこというと、
「それはすべて,アメリカが日本と戦争するために仕組んだことだ」
なんてことを言いだすく奴が現われそうだが、それは完全な妄想なんでその辺よろしく。

>台湾要塞化

 日本は(条約批准しようがしまいが)一枚看板の艦隊を使って,太平洋のど真ん中で一撃必殺の迎撃型艦隊決戦をするつもりだったでしょ。
 台湾まで防衛戦が下がる状況じゃ、既に艦隊は澪付く屍になってて史実通り「負け」じゃん。
 後方で予備艦を再編成する余裕のある米英と違って、意味無いと思うなぁ。

(軍事板)


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 この会議〔ワシントン会議〕では中国政策として「9ヶ国条約」が結ばれた.
 中華民国を含む9国が一致協力し,将来,中国の政情が安定すれば各国は不平等条約を解消、既得権を放棄するという実に理想主義的な条約だった.

 地理的に,欧米諸国とは比べものにならないほど満州などの問題が重要な日本にとって,他の国との「一致協力」には不利な点が多く,維新も傷つくことになった.

 それでも日本は「国際協調」に賭けたのである.
 戦争が起きないように欧米と足並みを揃え,中国の政情が安定することに賭けた.

 ところがまずこの「9ヶ国条約」を破ってきたのは他ならぬ中国だった!

 中国は政情の安定どころではなく,いまだに各軍閥が内戦を続けている段階で,世界各国の租界でテロを起こし,略奪を繰り返してきた.
 こんな場合は他の国が一致協力して対応するという約束だった.

 ところがアメリカは,自分が提案したルールを勝手に破り,他の国と違って中国に好意的だという態度を示し,抜け駆けで利権を得ようと画策した.

 もちろんそれは,アメリカが中国に租界を持っていなくて,他の国のようにテロの被害に遭っていないから言えたことだが…
 例によって彼らは,自分たちが一番,中国に良心的に対応していると思い込んでいた.

 中国人は,アメリカの譲歩はテロの容認だと受け取り,さらにテロを激化させた.
 言っておくが,この軍閥によるテロは,民族自決のための抵抗のテロではない.
 彼らの目標は天下のみ!
 彼らは中国民衆から略奪していたから,租界に中国人が流入していたのだ.

 そして結局は,各国が独自に行動するようになり,「9ヶ国条約」は全く無意味になった.

 そんな中,日本は極めて忠実にこの条約を守っていたと,当時の駐支各国外交官全員が認めていた.

(小林よしのり「戦争論」3,p.216-217)

 【ツッコミ】
 最近の戦間期の研究だと、九ヶ国条約の内容は日英も一応は考えていた(時期は不明確なのがミソ)
「将来的な既得権排除」
をただ確認しただけで、それは結局何の争点にもなっていなかったし、 焦点である現状の日英の既得権益は,アメリカの全権団がバランスとって承認したのが確認されてる。

 他のワシントン会議の個別案件としての山東、21ヶ条、シベリア、海軍軍備、 いずれにおいても日本はむしろボロ儲けなんて見方をしてる。

 というか「9ヶ国条約が条文通り遵守されていれば」自体、上述のように実際には色々日英米でお約束があったわけで、それが「日本に不利」云々とは無縁。
 ついでに言えば,中ソという潜在的地域大国を参加させていない、かつ同床異夢のワシントン体制に,そもそも欠陥があったとも言える。

 中国での特権放棄をアメリカが率先したのは事実だが、ケロッグやらスティムソンやらのアメリカの機会均等・門戸開放支持者の意図には、利権と同時にアメリカ外交お定まりの
「道徳的にアメリカが勝るべき」
という面が強い。連中はむしろワシントン体制の中に民国政府を組み込むことを重視していた。

 そして,果して状況に適応していなかった「9ヶ国条約を忠実に守った」ことは評価されるべきなのか?
 上海で自作自演の邦人殺害をやり、租界で戦闘、挙げ句陸軍を投入し、租界への爆撃までやってのけた日本のどこが,
「国際強調を重視し、もっとも忠実にこの条約を守った」
と言えるのか?
 どこの,なんて名前の外交官がそんな妄言吐いたのか,具体的に言ってみれ.

 個人的には,
・ワシントン体制を見直して地域秩序の再編ををきちんとやらなかった日英米
・革命外交なんて調子付いてた民国政府、
・横でかき回したソ連、
どいつもこいつも問題ありとしか思えないけどね。

(軍事板)

上海事変


 【質問】
 ロンドン条約が「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)」問題を引き起こすことになったのは何故か?

 【回答】
 山田朗によれば,野党による,手段を選ばぬ倒閣戦術として利用されたため.

 ことは,条約調印直後,野党,政友会(犬養毅総裁)が議会で,この条約を調印したことは「統帥権干犯」ではないか,と政府を追及したことに始まる.
 天皇の統帥権を補佐するのは,海軍の場合,海軍軍令部長(当時,加藤寛治)であるので,その軍令部長が反対する条約を政府・海相が無理矢理結んだのは,天皇の統帥権を犯すものだ,という論理である.
 「統帥権干犯」というインパクトのあるスローガンを作ったのは,「国家改造」運動の黒幕・北一輝であるとも言われている.
 その「統帥権干犯」を,政友会が利用したのである.

 だが浜口雄幸内閣は,協調外交(篠原外交)・財政緊縮(井上財政)路線を堅持するためには,軍縮実現は譲れなかった.
 憲法学者・美濃部達吉の学説を拠り所にして「干犯論」に対決,条約批准審査を行う枢密院への工作にも成功し,なんとか10月2日に条約批准へと持ち込んだ.

 それでも,ロンドン条約を巡る紛糾は,財部海相失脚と条約派軍人の没落を招いただけではなく,11月14日には浜口首相狙撃事件を引き起こし,軍部・右翼による政党政治否定の「国家改造」運動を高揚させるきっかけとなるなど,以後の政治との関わりでは,極めて深刻な後遺症を残した.

(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.122-124,抜粋要約)

 この統帥権は,ドイツ法の影響と、帷幄権限(軍事に関する事項を閣議に通さず天皇に上奏できる権限) から生まれた慣習的な考え方で、当時でも

 a)統帥権自体を認めない説
 b)統帥権という概念は認めてもその政府からの独立を否定する説
 c)統帥権の独立を肯定するものも統帥権の独立とは、もっぱら作戦行動についての独立であって、個別の作戦行動を離れた予算や人事に関しては統帥権の問題とはならないと考える説
 d)軍の編成については帷幄機関にも発言権があってしかるべきだとする説

などがあり、c)説が通説で、軍令部や政友会の主張のd)説は少数の異端説。

 というのも,犬養らの主張は,明治憲法の
第11条『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス(統帥大権)』
と,
第12条『天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム(編制大権)』
との混同で,統帥大権と編成大権は別々の大権.各々の大権が別の大権を犯すと言うのは明らかにおかしな話。
 仮にそれが正しいとしたら
第十五条は『天皇ハ爵位勲章……ヲ授与ス』
とあるので,恩賞権は独立して総理大臣が関与できない事になってしまう。

 なお,犬養自身は軍縮条約に賛成だったが、政権奪取のため,あえて持論を押さえた.


◆◆満州事変


 【質問】
 大陸進出が国の政策として確立されたのは,いつ頃か?

 【回答】
 1926年頃だという.
 以下引用.

 1894〜95年の日清戦争後から陸軍が主張し始めた大陸進出論に対抗して,海洋発展という新たな海軍戦略の思想を打ち出したのは佐藤鉄太郎中将(鈴木貫太郎中将と同期)で,1892年,大尉の時に「国防私説」,1902年,少佐のときに「帝国国防論」を書いて世論に大きな影響を与えた.

 陸軍は,最後の決戦を戦うのは陸軍であるから,国防は陸主海従でなければならないと主張し,かつ大陸進出の必要性を強調していた.
 佐藤はこれに対し,
「島国である日本は海主陸従でなければならない.
 イギリスは大陸征服に向かわず,富を海外に求めて繁栄している.
 侵略征服する国は必ず滅びる事は,歴史が証明するところである」
と論じた.

 当時,海軍は制度上,陸軍の下位にあった.
 陸軍大将か中将を庁とする参謀本部の中に海軍軍令部が置かれていたから,軍令部の独立はかねてからの海軍の悲願だった.
 山本権兵衛海相は,佐藤の「帝国国防論」を武器として陸海軍対等を主張,03年の暮れにようやく軍令部が独立した.
 しかし,大陸進出論と海洋発展論は並列のままだった.

 日露戦争から4年後の09年,佐藤大佐はさらに論を進めて「帝国国防史論」を出し,
「国防よりも大陸の発展,満州と中国における事業を重視する誤った考えがあるが,国防より侵略に走る事は亡国の原因になる」
と論じた.
 山本時代の海軍は一貫して,大陸進出に反対した.
 ロシアが敗れて国力が低下すると,海軍のみではなく,財界とその支援を受ける報道界も,大陸進出に反対するようになった.
 先鋒となったのは「東洋経済新報」であり,13年には満州放棄論を唱え,次いで小日本主義(大陸に進出せず,軍備拡張を避け,国内開発を優先する)を打ち出した.
 この年,海軍は佐藤の執筆になる「国防問題」を発表して海主陸従を主張し,経済発展と人口問題の解決を大陸に求めるのは誤りであるとして,大陸進出論の見直しと陸軍の拡張中止を求めた.

 この13年に発足した山本内閣は,こうした新政策の実行に乗り出したが,翌14年のシーメンス事件で山本大将は予備役編入となり,大陸進出論は再び勢いを得た.

 しかし15年から海相,22年から23年までは首相兼海相として大正期の海軍をリードした加藤友三郎大将もまた,大陸進出論には反対を続けた.
 加藤海相は21年11月から22年3月まで,全権委員の独りとしてワシントン海軍軍縮会議に出席したが,原敬首相と戦略思想において一致していた.
 帰国後,首相になった加藤大将はないから,米英との軍核戦争で勝ち目は大海軍の建設は諦め,大陸進出を見直し,シビリアン・コントロールを導入して軍縮を進めるという施策に着手したが,翌23年,病を得て辞任,間もなく死去した.

 大正最後の年となる1926年,加藤寛治軍令部次長は講演の中で,大陸は日本の死活地域であるとした.これまでの海軍の戦略思想を転換して,陸軍と同調したのである.
 軍令部次長がそうした場で私見を開陳する事はないから,あらかじめ財部彪海相,鈴木貫太郎軍令部長の承認を得ていたと見て間違いないであろう.
 こうして,経済・国防両面に於ける大陸進出が,国の政策として確立されたのだった.

「世界の艦船」2005年8月号,p.84-86(左近允尚敏 Sakonjoh Naotoshi 著述)

 国内で資源が殆ど採れない日本の陸軍が,初めに着目したのが中国大陸の資源だった.
 1917年(大正6年),中国北部や中部の資源調査を行った参謀本部の小磯国昭少佐(のち首相)は,「帝国国防資源」の中で,
「支那の原料を欧米人に壟断せられざるの処置あること緊要なり」
と指摘した.
 小磯は,朝鮮半島の釜山と日本本土を海底トンネルで結ぶ鉄道建設構想も提案している.
 背景には,島国日本が経済封鎖されることへの恐怖感があった.

 陸軍はまず,満州(中国東北部)を国防資源の確保先として狙った.
 関東軍高級参謀の板垣征四郎は,満州事変を起こす半年前の31年(昭和6年)3月,満州の重要性について,
「(満州は)国防資源として必要なる殆んど凡ての資源を保有し,帝国の自給自足上絶対必要」
と強調した.

 翌32年,満州国建国で,日本は大豆,コウリャンなどの他,鉄,石炭などを手に入れた.
 だが,石油は,満州や,37年(昭和12年)からの日中戦争で占領した中国国内では見つかっていなかった.

読売新聞 2005/12/22


 【質問】
 田中上奏文とは?

 【回答】
 日本の大陸侵略意図の証拠として使われてきた,プロパガンダ用の偽文書.
 当初から偽文書と判明していたが,中国では本物として広まっているという.
 以下引用.

 昭和2年に政府が中国関係の外交官や軍人を集めて開いた「東方会議」の内容を当時の田中義一首相が昭和天皇に報告した文書を装い,「世界を征服しようと欲せば,まず中国を征服しないわけにはいかない.これは明治天皇が遺した政策である」などと書かれている.
 4年に中国語の印刷物が現れ,英語版やロシア語版も登場した.
 あり得ない日付が記されるなど事実関係の誤りが多く,当初から偽文書と判明していたが,中国では本物として広まった.
【2006/03/02東京朝刊から】

産経朝刊 2006/03/02/09:26


 【質問】
 昭和2年(1927)の南京事件とは?

 【回答】
 2百人の中国軍兵士と女子供を含む数百人の一般人暴徒による各国領事館銃撃事件.
 英国人2人,日米伊仏デンマーク人各1人が死亡,
 暴行,略奪は床板,便器空瓶にまで至った.
 このとき日本は完全無抵抗を貫いたが,米英は軍艦より砲撃.

 後に北京のソ連領事館を捜索したところ,クレムリンからの「指令」文書が発見され,これにより,領事までもが殺されそうになったイギリスは,ソ連と断交 した.

 この事件について中国刊行の「中国歴史」は現在,
「・・・英,米,日などの帝国主義は狂ったように南京城を砲撃し,中国軍民二千人余りを死傷させた・・・」
などと記述している.

がおまる in mixi


 【質問】
 済南事件とは?

 【回答】
 昭和3年(1928)に起きた,中国兵による略奪陵辱暴行殺人事件.
 略奪被害戸数136,被害人員約400.

 中国側も立ち会った,済南医院での日本人被害者の検死結果は,以下の通り.

藤井小次郎
 頭および顔の皮をはがれ,眼球摘出.内臓露出.陰茎切除.

斎藤辰雄
 顔面に刺創.地上を引きずられたらしく全身に擦創.

東条弥太郎
 両手を縛られて地上を引きずられた形跡.頭骨破砕.小脳露出.眼球突出.

東条キン(女性24歳)
 全顔面及び腹部にかけ,皮膚及び軟部の全剥離.
 陰部に約2糎平方の木片深さ27糎突刺あり.
 両腕を帯で後手に縛られて顔面,胸部,乳房に刺創.助骨折損.

鍋田銀次郎
 左脇腹から右脇に貫通銃創.

井上国太郎
 顔面破砕.両眼を摘出して石をつめる.

宮本直八
 胸部貫通銃創,肩に刺創数カ所.頭部に鈍刀による 切創.陰茎切除.

多比良貞一
 頭部にトビ口様のものを打ち込まれたらしい突創.
 腹部を切り裂かれて小腸露出.

中里重太郎
 顔面壊滅.頭骨粉砕.身体に無数の刺創.右肺貫通銃創.

高熊うめ
 助骨折損,右眼球突出.全身火傷.左脚の膝から下が脱落.
 右脚の白足袋で婦人と判明した.

 他の二体は顔面を切り刻まれたうえに肢体を寸断され,人定は不可能であった.

がおまる in mixi


 【質問】
 柳条湖事件に使われた爆薬の威力は?

 【回答】
 レールと枕木の被害は『奉天駅史』によれば,
「長春側軌条約一0サンチ,大連側軌条約七〇サンチ破損」

 どうやら破損個所がコーナ-部分だったため,ほとんど列車走行に影響しなかったということらしい.

 爆発が小規模だったのは花谷証言によれば以下の通り,
「今度は列車をひつくり返す必要はないばかりか,満鉄線を走る列車に被害を与えないようにせねばならぬ.
 そこで工兵に計算させて見ると,直線部分なら片方のレールが少々の長さに亘つて切断されても,尚高速力の列車であると一時傾いて,すぐ又走り去つてしまうことが出来る.
 その安全な長さを調べて,使用爆薬量を定めた」

ヨッチ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 柳条湖事件の動機は?

 【回答】
 参謀本部次長福島安正が作り上げた,在外公館の武官によって行われる諜報活動,工作活動と言うのは,それなりに成果を上げました.
 しかし,1919年のシベリア出兵の様に,戦争が大規模化し長期化すると,こうした片手間な体制では情報収集や工作活動が不十分になると言う弊害も生み出します.

 そこで,組織的に情報収集や工作活動を行うために,シベリア派遣軍が駐屯する要地,つまり,ウラジオストク,ハバロフスク,ブラゴベシチェンスク,哈爾浜,チタ,イルクーツク,オムスクの各地に特務機関が設置され,現地工作を担うことになります.

 シベリア撤兵後は,対ソ戦の見地から,ソ連に程近い満州北部の満洲里,黒河,綏芬河に設置され,ソ連地域への浸透工作を行っていました.
 一方,軍人にはソ満国境地帯,満州一帯での調査活動を禁止していたので,彼らは屡々民間人,特に南満州鉄道に出向の形で民間人となり,それを隠れ蓑に情報収集や工作活動を続けました.

 こうした特務機関の情報将校の一人に神田正種と言う将校がいました.
 彼は1919年に陸軍大学を卒業後,1920年4月に参謀本部第二部ロシア班に配属されたのを皮切りに,1922年3月にウラジオストク特務機関の業務補佐,6月には黒河特務機関に転属し,対ソ情報活動に従事しました.
 1924年3月に,この黒河特務機関が閉鎖になると,一旦ロシア班に戻りますが,1925年8月からは満鉄哈爾浜支社調査課嘱託として出向し,1927年12月までそこを拠点に情報収集,工作活動を進めたという,根っからのスパイマスターな人です.

 満鉄に出向している際に,彼は,将来勃発するであろうソ連との衝突に備え,日ソ両軍の衝突地点と目された地点を実地探査し,兵要地誌を作成します.
 彼はソ連の実力について,当時は革命の混乱から立ち直り,シベリア鉄道の輸送力も回復,有事の際にソ連が軍隊を移動する能力が向上していると喝破し,それに比べ,日本は関東軍が遼東半島に駐屯するにも関わらず,主要兵力を内地から送る必要があり,動員に多くの時間を費やすであろうと予測し,日ソ両軍の衝突地点は,シベリア鉄道沿線ではなく,東支鉄道の沿線,特に斉斉哈爾辺りであろうと予想し,それに勝利する為には,ソ連軍の移動に最も力を発揮する鉄道の破壊工作と,日本の生命線たる南満州鉄道の保護に最も力を注ぐ必要があると考えました.

 この為,彼は大興安嶺付近,ホロンバイル草原の調査活動,満鉄所蔵の各種ロシア関係資料の収集,精査,東支鉄道関係資料の収集に加え,1927年3月から7月にかけて実際にシベリア鉄道を用いて欧州出張まで行い,モスクワでは鉄道関係資料の収集に輸送力の算定までやってのけました.

 1927年秋にはこれらの資料を基に,『満州沿海州経略私案』を自費出版すると共に,1928年にはロシア班長の笠原幸雄と駐旅順関東軍司令部付大佐の河本大作に対し,『対露謀略要綱』を提出しています.
 その骨子は前述の通りですが,当時張学良政権との関係が悪化し,東支鉄道の日本軍による利用は先ず望めないものであり,ソ連が進出した場合でも張学良軍がそれを阻止する事はないと言う考えを述べており,日本が先ず採るべき方策としては,東支鉄道の破壊工作を重点的に行い,満州北部を防衛すると言う考えでした.

 その後,彼は朝鮮軍の情報参謀として転出しますが,間島地方での謀略活動と其処を起点にした沿海州に対する情報収集,工作活動を展開していきます.

 こうした活動の中で,元々満洲防衛を主体とした考えは,満洲の軍事占領,植民地化へと変貌し,最終的に板垣征四郎,石原完爾らと協力して満洲事変に関与していくことになりました.
 つまり,満洲防衛の為には,満洲を自由に使用し,経済力を培養する必要がある事,また,ソ連に対する鉄道網の整備を行う事が必要で,それを現在の張学良政権を始めとする軍閥には任せておけない,と言うことは,日本が満洲を経営するしかない,となっていった訳で.

 こうして,石原完爾,第二部第四班長の橋本欣五郎等と幾たびか会合を持ち,朝鮮軍司令官が彼らの活動を快く思っていなかった南次郎から林銑十郎に代わったことで,具体性を帯び,遂に柳条湖事件(1931/9/18)を引き起こしました.

 朝鮮軍はこの時,関東軍を支援して満洲に越境出動したのですが,これは統帥権の侵犯であり,陸軍刑法に十分抵触する行為です.
 朝鮮軍は天皇直隷の軍の一つであり,朝鮮半島の守備を任されている訳で,この範囲外に出る場合は,天皇の事前の勅裁乃至,事後に於ける勅許が必要となります.
 さらに,作戦動員計画に対しては参謀総長の区処を得る必要がありました.

 これを無視した林銑十郎の行為は,宮中,参謀本部,若槻礼次郎内閣でも認められず,進発部隊である第20師団歩兵第39旅団は進発停止の命令を受け,新義州にとどめ置かれました.
 しかし,林銑十郎はこれをも無視する形で越境を命じた訳です.
 この行為が元で,林銑十郎は以後,「越境将軍」と言う不名誉な名前を奉られることになります.

 しかし,彼の信念の底には,意外なのですが,トゥラン主義がありました.
 つまり,朝鮮,満洲,モンゴルの諸民族は日本人と同様,ウラル=アルタイ語族に属し,これらは広い意味でのトゥラン民族であり,将来的にはこれらを合わせた一つの大国家建設に向かっていくべきだとの考えです.
 林銑十郎は,朝鮮,満洲,モンゴルの諸民族は,日本の支援を得て,満洲において一つの国を建設していくのだと考えており,これであれば,民族自決の理にも適う訳で,国際世論も納得するであろうと言う読みでした.

 因みに,林銑十郎と言う人,朝鮮軍司令官の後,1934年1月から1935年9月まで陸軍大臣に就任,さらに1937年2月から6月の短期間ですが,内閣総理大臣にも就任しています.
 で,内閣総理大臣退任後,何と大日本回教協会の会長に就任しました.

 まぁ,一種ロマンな人だったりする訳ですが,それに振り回されて,そのロマンの為に15年間戦争の真っ直中に置かれた国民は,悲劇だったのかも知れませんね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/04/30 21:13


 【質問】
 政府や陸軍中枢が満州事変を事前に止められなかったのはなぜなのでしょうか?
 いくらなんでも,一個師団丸々が独断で動くとしたら,バレそうな気がするのですが…

 【回答】
 事変が起こる前としたら,バッチリばれていました.
 しかし,先の三月事件程度のクーデターごっこと舐めていたのか,あまり本気で止めるつもりがない,若しくはちょっときつく言えば止めれると思っていた模様.

 満鉄爆破は1931年9月28日に予定していたが,現地で金で買収した大陸浪人が酔って計画を喋った所為で,弾薬や軍需品を集めているという情報が漏れて,これが政府に伝わりました.
 政府は計画を止めるため,参謀本部第一作戦部長の建川美次少将を満州に派遣しまた.
 建川は18日午後に奉天に到着,その夜に招かれた料亭で
『君らの事は半分バレた.中央は止めよという.
 自分の意見は,うまくやるならやれ,駄目なら止めた方がよかろう,というものだ』
と話し,酔いつぶれて寝込んでしまいまた.

 中央が本気で止める気がないと察した石原たちは,昭和6年9月18日深夜,計画通りに鉄道爆破を実行.
 建川自身は
『まさか,その夜やるとは思っていなかった』
と後に回想していました.

 また,本来関東軍を真っ先に止めるべき筈の憲兵隊も事実上,関東軍に支配されており,その役割を果たしていませんでした.

 事変の最中に関して言うのなら,関東軍の進撃の速度が速過ぎて,国際連盟内で停戦や兵の引き上げを話し合っている間に戦果が既成事実として出来上がっていたのもあります.
 事変後ほぼ三日で関東軍は満州の中央部を抑え,朝鮮軍は東部を確保し,残るのは,満州北部と,長城線に近い西部だけとなっていました.
 また,石原は予てから意を通じていた朝日新聞を通してに戦況を流し,更には苦戦を演じて,国民からの熱烈な支持を得ることに成功しています.
 この世論が,中途半端に民主政治を行なっていた日本政府の不拡大方針を曲げてしまう事になります.
 元老の西園寺公望さえも
「幣原外交は正統派で間違いがないと支持してきたが,いかに正しいことでも,国論が挙げて,非なり悪なりとするに至っては,生きた外交をするうえでは考え直さねばならない」
と洩らす状態でした.

 そしてその後,板垣,石原の工作で,満州の軍閥各指導者らは,シナ本土からの分離独立を宣言しました.
 こうなると,早期撤退の問題もなくなり,また,
「満州の独立は満州人自身の意思だ」
という既成事実が作られました.

軍事板?

 グラフ雑誌「歴史写真」昭和8年5月号の扉に掲載された,満州事変・熱河討伐隊における川原部隊の田中挺身支隊,池上少尉が率いる「髑髏隊」の着色カラー写真.
 白黒写真にはあった髑髏白抜き日の丸旗の左右の文字は,修正されて消された様でした.
 キャプションには,「“髑髏隊の武勲”池上少尉の一隊 古北口の一番乗」とあります.

 この髑髏の記章は,おそらく一次大戦のイタリアのアルディーティ兵や,オーストリア/ハンガリー帝国のストゥルムトルッペからの影響が強いと思うのですが,どうでしょう?

よしぞう(maro') in mixi,2006年11月06日02:06

着色カラー写真の元になった写真

 白抜き髑髏の日の丸旗や大小異なる白抜き髑髏の赤い腕章,雑誌ではトリミングされていた左右の兵士等も確認出来ます.
 おそらく新聞社が撮影した報道写真を焼き増しした物でしょう.

よしぞうmaro' in mixi,2007年05月18日19:11


 【質問】
 満州事変は何の国際法違反ですか?

零戦 in コヴァ =推定林間

 【回答】
 ワシントン会議の中での海軍軍縮条約が「ワシントン条約」であり,同じく,中国・ベルギー・ポルトガルを含めて締結したのが「9カ国条約」ですが,その9カ国条約はの主旨は

[1]中国の主権,独立,領土的・行政的保全を尊重すること
[2]中国が自ら有力かつ堅固な政府を確立するため,完全にして障害のなき機会を供与すること
[3]中国の領土をとおして,いっさいの国民の商工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するため,各国が尽力すること
[4]友好国の国民の権利を減殺すべき特別の権利または特権を求めるため中国における情勢を利用すること,・および,友好国の安寧に害ある行動を是認することをさしひかえること,

 一方,日本が日中戦争の講和条件として蒋介石に突きつけた諸要求が,

●支那は容共抗日政策を放棄し,日満両国の防共政策に協力すること
●所要地域に非武装地帯を設け,特殊の機構を設定すること
●日満支3国間に,密接な経済協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して,所要の賠償をすること

 以上の他,『口頭説明』として次の細目を付加しました.
●支那は満州国を正式承認すること
●支那は排日および反満政策を放棄すること
●北支および内蒙古に非武装地帯を設定すること
●北支は支那主権の下において,日満支3国の共存共栄を実現するに適当な機構を設定し,これに広汎なる権限を与え,日満支経済合作の実をあげること
●内蒙古に防共自治政府を設立すること
●支那は防共政策を確立し,日満両国の防共政策遂行に協力すること
●日本軍の中支占拠地域に非武装地帯を設定して,特殊機構を設けること.また上海市には租界外に特殊政権を設け,日支協力して治安維持と経済発展にあたること
●日満支3国は資源開発,関税,交易,航空,通信等に関して協定を締結すること
●支那は帝国(日本)に対して,所要の賠償をすること

 (付記)
●北支,内蒙古,中支の一定地域に必要な機関,日本軍が保障駐屯するのを認めること
●前諸項に関する日支間の協定成立後に停戦する

 明らかに,9カ国条約の主旨の「中国主権の尊重」「領土保全」「列強既存利権の確約」に反してますよ.
 9カ国条約は,「満州における日本の特殊利権」は保証していますが,「中国からの満州分離」は認めていません.

 日本の満州利権の多くが清朝時代に締結されたものであり,その清朝の後継政権である中華民国領土に満州が含まれていないと言うのは無理があります.
 中国の列強利権は,時の中国政権(地主)である清朝が列強へ特許として与えた(正確には奪われた)ものであり,地主不在となれば特許(利権)そのものが消滅します.

 北支地帯の日満支共同管理体制なんて,9カ国条約締結諸国にとっては余計なお世話であり,北支からの欧米経済締め出しと受け止められてもしょうがないでしょう.
 賠償金要求は,蒋介石政権の財政健全化に協力していた英国の努力へ水を差す行為です.
 上海に,租界の指揮下に入らない軍隊を駐留させるなんて,南支に多くの利権を持つ欧州列強への挑戦と受け止められても仕方ないでしょ.
 一番まずいのが,列強の利権が絡み合う大陸を対象にした外交交渉なのに,これら講和条件について,9カ国条約諸国への事前の根回しや説明を一切していない事です.
 そして,極めつけが近衛の「蒋介石政権を相手とせず」の馬鹿強気発言.
 これだけでも,明らかなワシントン体制の破壊と挑戦です.
 日本が独断で中国ワシントン体制をリセットしようとしていると勘ぐらない列強はいないでしょう.

 日本はもう少し,「世界の中の日本」と言う立ち位置を考えて,中国へ戦争をふっかかるべきでしたね.
 あのアメリカだって,「世界の中のアメリカ」を考えて,国連であれだけ根回ししてイラクへ戦争ふっかけたのに.それより立場が遙かに弱かった日本が,自作自演・我田引水としか見られない独走行為をするとは,頭が足りなかったとしか言いようがありません.

軍事板暫定移転スレッド in コヴァ板


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 中国の相次ぐテロに外交官達は,こう忠告した.
「中国が,外国に対する敵対と裏切りを続けるなら,遅かれ早かれ,1,2の国が我慢しきれなくなって,手痛いしっぺ返しをしてくるだろう」
 それは一番被害を受けている日本がやるだろうと,内心誰もが思っていた.

 そして満州事変は起きたのである!
 ところが満州事変に対する米英の反応は,日本人には理解し難いものだった.

 以前,1927年に,南京で米英の居留民が中国に襲われ,米英は自衛のために南京を攻撃した.
 この時,米英は中国人を「野蛮人」と呼んだ.

 同様に,満州で日本の居留民が中国人に襲われ,日本は自衛のために満州を攻撃したのに,米英は今度は日本人を「野蛮人」と呼んだのである.

 国際連盟はリットン調査団を派遣.
 その報告書は,日本の立場に理解を示しながらも,結論としては満州国を認めず,国際管理下に置くというものだった.

(小林よしのり「戦争論」3, p.219)

 【ツッコミ】
 関東州の租借権と鉄道の敷設権は,満州を植民地化していい理由になどなりません。

 リットン調査団の報告書は、事変後の「満足なる解決の条件」として,満洲における日本の利益の承認、内に対する治安維持、外に対する安全保障、満州の自治などを提案しています。
 日本側の要求は全て満たされたはずでした。
 治安維持を口実に元の権益以上の権益を武力によって強奪するならば、それはただの侵略でしかありません。

 南京の例など,別に米英はその事件を利用して,南京周辺全域を占領したり傀儡国家を作ったりしたわけではありませんので,満州事変と比較すること自体無茶です.
 もし仮に米英がそのようなものを作っていたら,やはり「野蛮」と非難されていたかもしれませんね.

 「満州事変に対する米英の反応は,日本人には理解し難い」? 「小林には理解しがたい」の間違いでしょう.


 【珍説】
 日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は,他の国でもやってる普通の事.非難に値しない.

 【事実】
 最近議論してよく見かける主張に
「日本がWW2前に行った資源目的の侵攻は,他の国でもやってる普通の事だ,非難に値しない」
ってのがある.

 まぁ,大体の場合

日本の戦争は聖戦だ!

(突っ込み)戦争始めた時点では「資源の確保地」以上の事は決まっていませんが.

そんなことは他の国もやっている!

ってパターンなんだけどね.

 さて,少しでもデマを減らしたいと思うので書いておくが,上記はトンデモない間違い.
 ヴェルサイユ条約やワシントン条約,国際連盟規約の制定によって「領土保全」が定められ,それ以前のように「植民地切り取り」は事実上禁止となった.
 故に,もはやWW1以降の植民地戦争は違法となる.

 まぁ,特に満州事変は9カ国条約違反であり(満州事変は,自作自演の張学良爆破事件から,タンクー協定までを指す)満州国は国連から否定された.
 満州国を承認した国は,枢軸国の影響が強いか,もしくは中立国であり,こんなのは「国際的な合意」を得ていない.

 この「WW1以前」と「WW1以降」を認識していない人ってかなりいるんだよね.

 たしかに,ケロッグ=ブリアン不戦条約には欠陥があったし,9カ国条約にもいろんな欠陥があった.

 しかし,日本は批准していると言う事実を軽く見すぎ.

 WW1以前とWW1以降の世界は違うし,WW2以前とWW2以降の世界はまた違うものなのだ.

※ 「ヴェルサイユ条約」で一応,民族自決原則が出てきて,「パリ講和会議」でケロッグ=ブリアン条約が結ばれました.
 WW1後,それらの条約が「締結された」ということを言いたかっただけで.

ますたーあじあ in mixi,2008年01月04日19:00

 【質問】
 ケロッグ=ブリアン条約に欠陥があっても批准してしまうと,その欠陥を甘受しなければならないということですか?

 【回答】
 もし問題があるのなら,それこそ国際社会を動かすべきだったんですよ.

 ただ・・・当時の日本の無気力さからしてかなり難しいですねぇ・・・

 そもそも満州事変自体,関東軍の暴走だし.

ますたーあじあ in mixi,2008年01月04日 20:24

 ますたーあじあさんのように,9カ国条約などに不満があるなら国際社会に訴えればよかったんですよ.
 それこそ,満州でこそこそするよりも大々的にです.
 「合法的」にやれば,あれほどひどい結果にはならなかったはずですしね.

 本来ならこういうことは「外交の失敗例」として反面教師とすべきであり,自己の歴史の正当化に使うべきではないと思います.
 それこそ結局は「何にも学んでいない」ということになるのではないでしょうか.

ヤン in mixi,2008年01月04日 20:46


 【質問】
 満州事変は本国に独断で行なわれたのなら,その資金はどこから調達されたのでしょうか?

 【回答】
 中公新書だったかに,当時の日本の植民地支配を支えた金融政策をうまくまとめた本があるよ.
 早い話,朝鮮銀行や中国に日本が開設した銀行に紙幣を乱発させ,資金を得ていたのさ.
 でも軍は,それが日本に輸入インフレとして入ってきてしまうことまでは考えが及ばなかったようだ.
 これによる日本経済の破綻が,あの戦争の重要な要因だったりもする.
 中国でのアヘン経営資金は事実上,岸信介個人の活動資金の一部しか賄えなかったという説もある .
 で,岸は日本に帰る際,この資金だけじゃ足りなくて,現地物資を大量に横領隠匿横流ししたりして,戦後の政治活動資金を得たりしたわけだ.


 【質問】
 エルサルバトルはなぜ日本の次に満州国を承認したの??
 日本となんにも関係無い上,アメリカの支配権の国なのに.

 【回答】
 エルサルバドルと日本は全く無関係な国ではない.

 1932年にエルサルバドルのアラウホ大統領が青年将校のクーデターで倒され,エルナンデス臨時大統領が政権の座についた折,米国,中米諸国その他の各国は,革命政権不承認の原則をうたった1923年の中米条約を尊重して,いずれも承認を行なわなかった.
 しかし,そのクーデター政権を日本は,天皇の名において承認し,エルナンデスの就任通知の親書に丁寧な返書を寄せた.
 これに依り両国の友好関係が樹立されている.
 当時のエルサルバドルが「満洲国」を実質的に,一番最初に承認したのはこの様な経緯から,という見方がある.

 しかし一方,WW2時には日本に躊躇無く宣戦布告しているあたり,エルサルバドル的にはどうでもよかったようにも思える.

 当時の大統領がかなり頭おかしくて,外交は全部,占いで決めてたって話だ.
 満州国承認も占いの結果で決めたとかなんとか.
 当然アメリカの怒りを買ったのは言うまでもない.
 エルサルバドルはリットン調査団の日本非難勧告にも賛成している,マルティネスが神秘主義や魔術に傾倒してたのは有名な話だし,巫女に占わせて満州国承認を即決という俗説も,信憑性は高い気がする.

 ちなみにエルサルバドルは「中米の日本」と呼ばれているが,これは親日国という意味ではなく,勤勉だ,という意味らしい.⇒more

世界史板
憑かれた大学隠棲 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「満鉄付属地」とは?

 【回答】
 ポーツマス条約により,東清鉄道の一部を承継した日本は,ロシアからその鉄道付属地の権益も継承します.
これが満鉄付属地と呼ばれる地域です.
 この地域は,南満州鉄道が土木・教育・衛生などを担当していましたが,名目上は中国の主権下にありました.
 実質上は,中国から見れば治外法権地域に相当していましたが….

 序でに,関東州も租借地として継承しますが,こちらは日本の主権下にある地域として,関東都督府(後の関東庁)の管轄下に置かれ,その都督府配下にあり,関東州を防衛する為の駐留日本軍が,後の関東軍になっていきます.

 当時の中国には,彼方此方に列強各国の租借地,租界,治外法権地域が存在し,彼らはその治外法権を援用する形で,中国の主要都市に自国郵便局の出張所を設け,自国に差し立てる郵便物は,国内扱いとしていました.

 1922年にようやく,中国の主権尊重,領土保全と門戸開放を原則とする九ヵ国条約が日本,英国,米国,フランス,イタリア,オランダ,ベルギー,ポルトガルと中国との間に締結され,年末限りで各国が設けていた郵便局を閉鎖する事で同意します.
 日本の場合,65カ所の郵便局,93カ所の切手売捌き所,148カ所のポストを撤去しています.

 閉鎖されたと言っても,租借地の郵便局は其の儘だった訳ですが,此処で問題になったのが,満鉄付属地の問題です.
 日本側が,租借地と同等と主張したのに対し,中国側は鉄道の付属地という特殊形態の所有地なので,中国の主権下にあると見做すとして対立.

 結局この地域の扱いは継続審議事項となり,付属地内には日中双方の郵便局が設置され,満鉄付属地相互の郵便物は,中国側の料金より低くする事は出来なくなりました.
 そのため,関東庁郵政局では域内専用の葉書を作成したり,また,付属地から中国宛の郵便物を差出す時は,中国郵政発行の切手を用いなければならないのですが,日本側から差出した場合,日本側で切手を貼り替えて中国側に引き渡す方法が採られていました.
 この為,日本側は貼替え用の切手代を予算計上しておかねばなりませんでした.

 さて,関東軍の影響下に満州国が出来た後,付属地の扱いは微妙となります.
 元々の関東軍の存在意義は,外敵から満鉄や関東州を守ると言うものでした.
 ところが,関東軍の影響下で満州国が成立してしまうと,その満鉄付属地周辺には敵がいなくなります.
 そうなると,付属地の存在意義も無くなりますので,1937年11月5日に「満州国ニ於ケル治外法権ノ撤廃及南満州鉄道株式会社付属地ノ行政権ノ委譲ニ関スル日本国満洲国間条約」により,12月1日を以て満鉄付属地の返還が決定され,満州国に於ける日本の治外法権は消滅しました.

 但し,関東州は従来通り日本の租借地となっています.

 こうして付属地内の日本の郵便局は閉鎖となり,付属地でも日本切手に代わって満洲切手が使用する事になりました.

 ところで治外法権撤廃の為には,満州国が法治国家であるという体裁がなければなりません.
 このため満州国では日本法を元にして,刑法,民法,民事訴訟法を公布した他,1941年には日本の治安維持法と同じ治安維持法が公布されました.

 因みに日本の官僚達は,満洲人や中国人から「法匪」と揶揄されるくらいの多量の法律を作りますが,近代国家には必ず有るはずの憲法は公布されず,また,満州国の国民の資格,国民の国家に対する権利と義務を定めた国籍法は存在しませんでした.

 もっとも,日本の国籍法は二重国籍を認めていなかった為,国籍法を作ってしまうと,在留邦人は満洲国籍を取得しなければならず,そうなると,日本国籍は喪失してしまう訳で…この為,国籍法は作られなかったのだと言う説があります.

 但し,満州国人民の権利・義務に関しては,1934年に公布された人権保障法が規定していました.
 とは言え,その前文には,その適用は「戦時若しくは非常事変の場合を除く」とされており,実質上機能していないと言っても過言ではなかったかも知れません.

 更に付属地の返還は,国家としての制度的な整合性を取る為に各方面に影響を及ぼしていました.

 赤十字もその一つで,満州国には1934年に溥儀が皇帝となった際の下賜金100万円を元にした恩賜普済会が活動していましたが,付属地と関東州は日本国の延長と言う事で,日本赤十字社満洲委員本部が活動していました.

 赤十字の活動は,戦地・紛争地のあらゆる攻撃から無条件で保護される為に,標章は赤十字社のみが使える事になっています.
 また,赤十字の加盟国では赤十字社とそれに相当する組織は一つの国の中で単一でなければ成りません.

 このため,付属地が返還されてしまうと,日本と満洲双方の赤十字が併存してしまい,赤十字の大原則に抵触してしまう為,関東州以外は,1938年10月1日に満洲側の恩賜普済会と日本側の日本赤十字社満洲委員本部を統合した財団法人満州国赤十字社が誕生します.

 但し,これまた満州国赤十字社は国際赤十字の正式メンバーになれなかった為,あくまでもこれは私的機関に過ぎませんでした.
 とは言え,満州国の領域内で赤十字活動が出来ないのは問題なので,国際赤十字は,満州国赤十字社の存在を黙認するという立場を取った訳です.

 黙認された存在とは言え,一応,国際機関のお墨付きを得た事は満州国にとって,国際社会との交流窓口が出来た事を意味し,目出度いと言う事で,その設立日には大々的に祝賀行事をしたりしています.

 それ自体,冷静に考えれば,非常に空しいものなのですが….

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月29日21:58


 【質問】
 満州国の郵便事情は?

 【回答】
 柳条湖事件に端を発した満州事変で,関東軍は,1931年の年末までに東北部の殆どを占領します.

 しかし中国東北部に於ては元々,1928年の満洲易幟により,中華民国の一部として中華郵政の領域に入っていました.
 ところが関東軍の占領後も,郵便事業については明確なビジョンが関東軍側になく,中華郵政がずっと郵便事業を続けることになります.

 これは1932年1月の錦州陥落以後,東北部全土が関東軍の占領下にあっても,海関と郵政はそのまま存続していました.
 と言うのも海関は,列強に対し中国が負った賠償や内外債償還の担保で,列強諸国の管理下にあった為,日本も無闇に手出しが出来なかったですし,中華郵政については,清朝が倒れ中華民国が出来た時や,軍閥の内戦に於ても,各勢力からその中立性が認められ,満洲地域を含む,中国全土の郵便事業を一括して中華郵政が担うことが暗黙の了解事項となっていました.

 とは言え名目上,日本は中国から東北三省を独立させ,満州国と言う新国家を樹立した訳ですから,独立した郵政事業を発足させる事を考えます.

 当時,吉林省と黒龍江省は哈爾浜にある吉黒郵政管理局が担い,奉天省は奉天にある遼寧郵政管理局が担っていました.
 これらの管理局長には外国人が就任しており,奉天はイタリア人,哈爾浜は英国人でした.

 これを接収して郵政事業を展開しようとした訳ですが,その矢面に立ったのは,関東庁逓信局です.
 この関東庁逓信局は,日本の租借地であった関東州と満鉄付属地の電信・電話を統轄していた機関で,中国側との交渉に於て,外国人局長の留任,一般職員の継続雇用,郵貯(当時100万円の貯金額があった)の新国家の支払保証をすると反面,施設,資金の押収すると言う条件を付け,かつ,中国政府と新政府の紛争は関東庁逓信局が斡旋すると言う案を作り,1932年3月に関東庁逓信局,奉天の日本領事館,関東軍の協議で承認され,本国の閣議決定を経て,4月1日に実行に移されました.

 ところが,中華郵政側は日本側が接収を強行するなら,郵便・為替・貯金業務を完全停止すると通告して抵抗.

 当時,Lytton調査団が来満していた事もあり,日本も手荒な真似は出来ず,4月25日に東三省の郵政は現状維持で,職員待遇も従来通り,郵便料金,取扱方法,規定,記帳法,中国本土や外国との郵便交換も従来通り,収支は満州国の検査を受けるものの,剰余金は哈爾浜,奉天の郵務長が保管,為替は臨時規定で対処,貯金は別に協議すると言う妥協で,日本側(満州国側)は中華郵政を接収し,中華郵政としては一体化した運営を継続するという玉虫色の妥協が成立しました.

 因みに郵便料金については,当時中国は世界最大の銀保有国でしたので,銀本位制が取られていました.
 但し紙幣は雑種幣制だったため,1926年秋の蒋介石の北伐以降,東三省の紙幣は銀貨に対して暴落,東三省の紙幣1円が本土の銀貨8角(中国の通貨単位は1円=10角=100分)に下落した為,東北の1円で切手を購入し,それを1円分の切手として,上海や南京に持って行って換金して差益を得る投機が横行する様になりました.
何と言っても中国郵政は全土で統一的なサービスを展開していましたから….

 このため,東三省で発行された中華郵政の切手には「限吉黒貼用」と言う文字を加刷し,これは東三省だけで通用する様にしていました.
 ですから,中華郵政的には余り痛手を受けませんでした.
 ただ,消印は民国歴になっていた為,満州国側が不快感を示します.
 とは言え,大同年号を使えば今度は本土側が反発しますから,結果的に,6月以降消印は西暦で日付表示をすることで妥協が成立しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月26日22:22

 中華郵政の接収と並行して,満州国は独自の切手を発行する事で作業を進めます.
 しかし,切手の正式な発行日も決まっておらず,何時必要になるか判らなかったので,日本で印刷されたそれの最初のロットは,オフセット印刷に普通紙で納品されました.

 日本切手の様に,凹版印刷に透かしと毛紙を使った手数のかかる切手が発行されたのは1934年以降になります.

 切手の作成等と前後して,満州国に郵便事業を管轄する郵務司が交通部の外局に設置され,万国郵便連合への加盟も申請され,愈中華郵政の接収が始まります.
 この時の条件は,中華郵政接収後に発生した経済損失の補填, 中国側の上海(郵政総局の所在地)からの東三省への職員増強への反対と,南下希望者の名簿提出要求,日本人監察官を奉天と哈爾浜に派遣を満洲側が出していました.

 しかし,万国郵便連合は1932年6月25日に満州国の加盟却下を通達します.

 不利な満洲側ですが,既成事実を盾に交渉を続け,最終的に新切手の発行と中華郵政切手との等価交換の実施,為替の満州国移管と東三省地域での中華郵政の為替の無効,南下職員への不干渉,郵政監察官の派遣と南下希望以外の職員達への現状地位の維持と言う条件が中華郵政の東三省代表と満洲側代表との交渉で合意されました.

 これで満洲側(日本側)は安心し,8月1日には新切手発行と高を括っていたのですが,7月23日に南京の中国国民政府交通部は声明を発表し,東三省の郵政全面閉鎖を宣言します.
 奉天の郵政管理局では,局長が最後の仕事として局舎の正面に閉鎖告知文を掲示.

 そして,7月25日までに満洲側の担当者が奉天の郵政管理局に駆付けると,局内は5〜6人の守衛がいるだけで,残りの職員は逃散してしまいました.

 満洲側の郵政最高責任者(日本の逓信省工務局庶務課長が出向)等幹部は周章狼狽しますが,取り敢ず体裁を整える為,新切手の発行を1日休んだだけの7月26日から開始することになりました.

 で,7月26日に郵政の再開を内外に喧伝するのですが,郵政事業の大半を占めていた中国系職員がいなくなったために実質的な業務は出来ず,奉天郵便局の売上は,切手150枚(70組程度),葉書26枚,小包引受1個で為替に至っては引受0と惨憺たる有様でした.

 さて,こうなると翌日から業務が停止するかと言えば然に非ず.
 郵政管理局には,逃散した職員に代わって自分を雇って欲しいと言う求職者が殺到し,警官隊が出動する騒ぎになりました.

 こうして,満州国の郵政は多難なスタートを切った訳です.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月27日21:31

 1932年7月,中華郵政は,東三省地域からの撤退に当たり,次の様に声明を出しています.

――――――

 業務停止期間中,欧米各地宛の郵便物はシベリアを経由せず,スエズ運河あるいは太平洋経由で逓送する様改め,万国郵便連合加盟国の郵便局は,中国と各国との往来郵便物もこれに準じて扱って欲しい.
 東三省に於て発行される切手は,中国郵政総局の許可を得ずに発行されたものであり,これは絶対に承認せず,この種の切手を貼った各種書状や小包は,全て料金不足として処理する.

――――――

 この声明に従って,満州国から差し出された郵便物は,山海関以南に逓送された場合,差出人に変装するまでに至りませんが,其処に貼付されている切手は無効として扱い,中国側では料金未納郵便として扱われ,受取人は不足金額を納付して受け取ると言う様な形になっていました.

 この措置が執られたのは基本的に中国のみで,他の万国郵便連合加盟国は,満州国の切手が貼られた郵便物であっても,料金未納とはせずに受付けています.
 但しその扱いは,満州国の承認国以外は,日本国の属領で発行されたものと見做していたようです.

 とは言え,満州国が東三省と熱河省を統治しているのは間違いない訳で,何時までも意地を張って,料金未納扱いにするのも中国としても,この地域との経済活動を益々日本側に追いやってしまいます,
 しかも塘沽停戦協定の発効で,事実上満州国の支配を追認せざるを得なくなると,中満間の郵政当局で協議が行われ,1934年11月24日に,満華通郵協定が両国との間で締結され,1935年1月から,満州国と中国との郵便物交換が再開されることとなりました.

 この時定められたのは,妥協の産物で,中国側が満州国の切手や葉書の有効性を認める代り,中国宛に満洲から差し立てられる郵便物には,満州国(後には満洲帝国)の表示を用いない,満州国の年号を用いない,満州国になった際に改名された都市名の消印を用いないと言う条件が付きました.
 これに従って満州国側は,満華通郵切手と呼ばれる,国名なしの専用切手を発行します.

 ただ,そんな事を知らない一般庶民や,末端の郵便局で中国宛の郵便物を,知らずに消印作業することもあります.
 そんな場合は,中華郵政側は違反部分(郵便物の国名の文字や年号など)を塗りつぶし,切手の場合は未納扱いにしていました.
 が,この未納となった郵便料金は受取人負担ではなく,中国側の窓口であった山海関の交換局で負担していました.

 対外的にはこんな感じで,国としての体裁を一所懸命整えていた満州国ですが,一方,日本との関係はどうか,と言うと,満州国は中国から分離独立したと言う体裁を為している為,本来ならば,1922年締結の日支間郵便物交換約定,日支間価格表記書状及び箱物交換約定,日支間小包郵便物交換約定,日支間郵便為替約定をそのまま継続した上で,必要ならそれを改訂すると言う形を取らねばならないのに,これらは全て廃止され,1935年12月26日に調印された,日満郵便条約で新しく規定されました.

 一般に郵便関係の条約は,1922年の日中間の様に,各郵便物や為替を別々の約定で規定するのが慣例ですが,満州国と日本の間は,一つの条約で規定されていると共に,その条約に於て,日本と満州国を「単一の郵便境域」と規定していました.

 「単一の郵便境域」というのは,万国郵便連合憲章では,「万国郵便連合の文書の締約国が継越の自由を尊重した上で通常郵便物の相互交換を確保し,及び他の領域又は地域からの継越郵便物を差別することなく自国の郵便物と同様に取扱う義務を負う地域」となっています.

 即ち,その国から見て,「国内」扱いで郵便を届ける範囲であり,単一の郵便境域内の郵便料金には,基本的に国内便の料金が適用される訳です.

 と言う事は,日本からすると,「満州国の支配地域は,国内の一地方」と宣言した事になったりします.(あれ?

 更に,条約では日満間の郵便制度を可能な限り統一する事も謳われていました.
 当然,日本の制度を弄る事は全く考えていない訳ですから,これ又,満州国郵政其の物を日本の制度に合わせると言うものです.

 郵便一つ取ってみても,日本が主張していた,満州国は独立国だ,と言うのは根拠に乏しいモノだったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年06月28日22:25


 【質問】
 満州事変以降,対中貿易が激減していますが,これって「満州事変以外」の要因もあるのでしょうか?
 幣原外交によって,対中貿易が拡大→満州事変で消し飛んだと言う認識なのですが,他の要因をご存知でしたら教えてください.

ますたーあじあ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】
 大陸との貿易窓口で一番大きな場所と言えば上海です.
 しかし上海では1931年の満州事変以後,排日ボイコットが為され,中国全体として日本製品の輸入が低調となった上に,1932年の上海事変で,上海を経由した日本からの物流が完全に途絶したのが大きいのではないか,と思います.

 実際,神戸と長崎の華僑貿易も,これを境に扱い数量がガクンと減っています.
 でもって,上海事変が一段落しても,日本製品ボイコットは続けられ,上海に進出していた日本人商人や,日本に居た華僑の対面にいた中国側の商人も,日本商品を扱いにくくなり(場合によっては身の危険もあり),結局,日本人商人は上海から撤収.
 日本に居た華僑も商売にならないので,本国に撤収していっており,相対的に貿易が細っていったと言う感じです.

 また,台湾を経由した華南地方との三角交易も,同様に大陸側に窓口が無くなった為,下火になっていき,台湾は域内貿易で生きる事を余儀なくされています.

 これに追い打ちを掛けたのが,日中戦争の勃発と第2次上海事変の勃発ですけどね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 田中義一は,その内規に照らし合わせると陸軍大臣としての条件を満たしていなかったから,東条英機みたいな「陸軍大臣兼務」が出来なかったということで良いでしょうか?

 【回答】
 陸軍大臣は,現行の陸軍大臣,参謀総長,教育総監の三長官一致の原則としていました.
 とは言え,これは建前で,他にも陸軍次官,人事局長の進言・情報,軍の長老クラス,特に皇族,元帥,軍事参議官其の他,大将クラスの意向も無視できません.

 また,彼の場合は,将官とは言え,予備役もしくは後備役の人物です.
 幾ら,大正2年の改正で現役でなくてもよい,とは言え,現役に拘る軍内の意向を無視することが不可能です.

 ちなみに,東条英機の場合は,陸軍次官と参謀次長の談合で決まったりします.
 彼の場合は,未だ退役している訳ではないので,昭和11年の官制改正で規定された規程に合っています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 日本が主張したように,満州は「化外の地」だったの?

 【回答】
 No.
 1915年の日華条約で日本は,中華民国から満州権益租借期間の延長を取り付けている.つまりは満州の主権が中華民国にある事を認めている.
 ちなみにこの条約がなければ,満州の租借権は,満州事変の頃には租借期限切れになっている.
 それを後から家外の地だの言い出しても筋が通らない.

 おまけに柳条湖事件は石原莞爾と板垣征四郎の企んだ作戦だろ.
 爆破しといて中国国民党軍の仕業にしたろ.
 で,満州国設立だからな.
 どうあがいても,日本の主張が国際的に認められる可能性はなかったろう.

(軍事板)

 おまけに,日本は「満州国の独立は決して日本の傀儡国家作りではなく,民族自決の国際原則に基づいた正しい独立」を建前としたが,満州や関東州に住む漢民族や満州族,モンゴル族は,中国国籍から強制的に満州国籍へ切り替えられたにも関わらず,日本人と朝鮮人は日本国籍のまま.
 満州事変の仕掛け人である関東軍の石原莞爾は
「関東州は廃止して,日本人はみな満州国籍を取るべき」
と主張したが,無視された上に左遷.
 満州在住の日本人は,日本国籍のままで満州国の官僚や国策会社の幹部に就き,その他「満州国民」としてのさまざまな権利を享受したにもかかわらず、義務に関しては「日本国民」としての治外法権を利用できることになった.

 そのため,満州国は国民の定義を最後までウヤムヤにし続けた。
 国民を定義できなかったから当然のことながら選挙は行えず、議会は存在せず、満州国は最後まで憲法を制定できなかった。

 詳しくは
関東州(および満州国)
を参照されたし.

 こうして,無理ある主張に依る矛盾は,最後まで満州国の国体に影響したのでしたとさ.

軍事板・改

 上記についてですが,こちらのサイトに以下の内容が記述されています.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6mansyu-jin.htm

-------引用----------------------------------------------

 当時の満州は,中国人の土地ではなかったのでしょうか?

 まず,以下の電報を見ていてください.

「三,現今滿洲住民の殆ど全部が漢民族なることに顧み,宣統帝の擁立は滿洲自身に於ても不評判なるべく(後略)」
 (「日本外交年表竝主要文書」 外務省編 原書房 P187)

 これは,1931年11月1日,当時の外務大臣幣原喜重郎が,天津総領事桑島主計に宛てた訓電の一部です.
 ここでは,はっきりと満州地方の住民は殆ど漢民族,つまり「中国人」であると言い切っています.

 もう一つ,見てください.

「満蒙は漢民族の領土に非ずして寧ろ其関係我国と密接なるものあり 民族自決を口にするものは満蒙は滿洲及蒙古人のものにして滿洲蒙古人は漢民族よりも寧ろ大和民族に近きことをみとめさるへからず 現在の住民は漢人種を最大とするも其経済的関係亦支那本部に比し遥に密接なり」
 石原莞爾「現在及将来に於ける日本の国防」
 (「太平洋戦争への道」第七巻 資料編 P74)

 「満州を日本が支配するのは正当だ」と言っているわけですが,それでも,人口的には,漢民族,すなわち「中国人」が最も多いということを認めています.

-------引用終わり----------------------------------------------

 また上記サイト内のこちらのページでは,1937年12月末時点での人口構成比が紹介されています.
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/data/jinkou-m.htm

-------引用----------------------------------------------

満州国の人口構成

康徳四年(一九三七年)一二月末現在

出典:平凡社 世界大百科事典昭和一四年(一九三九年)捕遺
〔文中の漢数字を算用数字に改め,比率がない場合は付け加えた〕


民 族   人  口 比率

漢民族    2,970.0万人     81.6% 
満洲族    435.0万人      12.0%
蒙古族    98.0万人       2.7%
内地人    42.0万人       1.2%
朝鮮人    93.0万人       2.6%
欧米人    1.1万人 0.0%

合 計    3,639.1万人 100%


(日立デジタル平凡社「百科で見る20世紀」より)

-------引用終わり----------------------------------------------

 上記人口構成表は1937年作成のものであり,満州国建国時である1932年2月とは時間的間隔がありますが,5年程度で大規模な人口構成の変動(2000万人以上の漢民族の流入)が起こったとは考えにくいため,満州国建国時でも漢民族が最大多数派であったことを示す資料として価値はあるといえます.

lala in FAQ BBS

 ちなみに「化外(けがい)」とは,

中華帝国の「王化」の及ばない野蛮の地で,中国の世界観によれば「中国の神聖不可分の領土」でないという意味.
http://www.geocities.jp/ikiiki49/page009.html

ではないかと.

ラッキーマン. in FAQ BBS

満州国独立の図


 【質問】
 満州利権は守らなければならないものだったのでは?

 【回答】
 実態を無視して勝手にそう思い込んだのが,ケチのつき始めな訳でして。
 対外市場は英米で、食糧は朝鮮・台湾。資源も英米。
 あの当時でも、植民地との移出入市場における経済規模(移出入合計約9億)より英米(英3億、米14億、インド6億)その他との貿易市場の方がはるかに規模が大きい。
 スローガンとは裏腹に、満州の存在は日本経済にとって重要性があるとは言えなかったのが本当のところ。
 少なくとも,英米との関係悪化を忍んでまでやることでは決してなかった。

 その現状分析から,英米協調路線、貿易立国路線を主張する石橋湛山の「小日本主義」も提唱されている.

「無駄な大陸への深入りは避ける」
 ぶっちゃけこれにつきるんじゃないですかね。
 日本が大陸に深入りした時点で
・大陸に利権を持つ列強,
・いまだに大陸利権を持っていないアメリカ、
・大陸中国の軍閥
との対立は避けられない。

 それを避ける策としては、桂ハリマン覚書を受け入れて,満鉄の共同経営&満州への米資本を受け入れていればよかったんだが…….

(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo他 in コヴァ板)

 ちなみに山室信一「キメラ 満州国の肖像」(中公新書)によれば,
「第一次大戦後の戦争が総力戦になった為に、陸軍、特に石原莞爾は長期持久戦の資源確保を目的として、満州領有を計画した」
そうである.

山室 ただ世界史的な条件で一番重要なのは、第一次世界大戦の衝撃です。この戦争ではじめて人類は総力戦体制で戦争を行った。
 石原莞爾などはとくにそのことを意識したわけです。
 戦争に勝つためには、経済力、生産力を上げなければいけない。とりわけそのなかでも石炭と鉄が、当時の武器を生産するのに最も重要な資源でしたが、それは日本にない。
 それを獲得できるのは満洲である。
 そういう形で総力戦体制が与えた影響は甚大で、そこからおそらく異なる段階に入ったのではないかと思います。
 二十世紀初頭の後藤新平の時代の満洲と、第一次大戦以後の満洲は、決定的に意味の異なる空間だと考えた方がいい。後藤などの時代の満洲は大豆などの農業生産地、穀倉でしかないわけですが、第一次大戦後には、総力戦体制を遂行するための最大の戦略物資基地になる」

http://www.fujiwara-shoten.co.jp/kan/kan10.htm

 ま,「将来の保険」に固執するあまり,現実に対する対応を誤ったのでは,元も子もありませんが.

913名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)01:14:28ID:???

 満州事変が起きなければ放棄だから,大陸との火種がなくなるな.
 その後にソ連が中国にチョッカイ出してきた場合も,満朝国境の防備さえキチッと固めてりゃ,日本は高みの見物.
 国民党が悲鳴を上げだした後,日英米仏あたりで介入して恩を売る,と.


915名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:20:53ID:???

 その前にドイツが茶々入れていると思われ.
 晴天白日旗を描いたBf109とかJu87とかV号戦車とか・・・


916名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:26:26ID:???

 するとスペイン内戦のラインナップが中国で激突?


917名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)02:34:36ID:???

 流石に,欧米・日本が共産党支援と思えないしなぁ・・・.張作霖支援か?


924名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)07:25:47ID:???

 それ以前から武器輸出で日本経済はウハー.
 中国共産党相手なら89式戦車でも大活躍.
 ソ連の進出でチハたんでT34を相手する事になって,当時のメイドインジャパンの悪評を証明する事になるかも知れんが.


931 :名無し三等兵 :2005/11/01(火) 13:51:01 ID:???

 T34生産も平時は順調じゃないどころか,不良ありまくり不足部品ありまくり修理デキネーヨー!状態だったので,いいとこBT戦車だろ.


935名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)16:24:54ID:???

 さらにそこに地方軍閥軍のマイナー兵器もさらっと登場.
 PZLとかイカルスとかがJu86とかを迎撃に.


941名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)19:51:45ID:???

 史実でも,その手のオファーはあったらしい.
 あともう少しで成約と言う所でなくなったけど,国民党軍はドイツ兵器のお得意様だったからね.


942名前:名無し三等兵[sage]投稿日:2005/11/01(火)19:59:34ID:???

 まぁ戦前のドイツ貿易は対中のほうが利益があったからねー.
 ぶっちゃけドイツ顧問団&国民党軍がもうチョイ頑張ってくれたら,日本も深入りしないですんだんじゃないかなぁ・・・
 で,利害の一致した英米と友好関係・・・
 ヲレも仮想戦記脳だ(笑).

(軍事板)

 【珍説】
 仮に海洋貿易国への転身ができたとしても,その後の世界恐慌と世界経済ブロック化で、日本は貿易から締め出されアボーンしていただろう。

 【事実】
 それは後付けの歴史観。
 実際には対米貿易額は世界恐慌後も特別変わらず、日米開戦まで増加し続けています。
(日中戦争あたりで一時期減りますが)

(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in コヴァ板)

 【珍説】
 日本にとって満州は 経済・国防上,最重要な「生命線」と呼ばれる土地だった.

(小林よしのり「戦争論」3, p.215)

 【事実】
 上述のように,別に最重要でも何でもありません.
 【質問】
 上項目は如何なものなんでしょうか。
 同項目には総力戦・生産力などの経済力についてのみ記載されていますが、実際はそれを重視したのではなく、やはりソ連の南下(ロシアの赤化なども)、を恐れた結果ではないでしょうか?
 うちの曾ジーさん(旧海軍佐官だったはず)も
「アメリカは怖くなかった。でもロシアは怖かった」
と申しておったそうです。
 アメリカの太平洋を勢力圏にしたのも脅威に感じていたとは思いますが、満州に関してはやはりソ連ではないでしょうか?

 【回答】
 順序を間違えています.

 極東ソ連軍が増強を始めたのは,満州での日本軍の軍事行動に刺激を受けたからであり,これは1932年からです.
 この年からシベリア鉄道の複線化や国境のトーチカ陣地構築・ヴラディヴォストーク軍港再開などが行われます(山田朗「軍備拡張の近代史」より).

 ちなみに1931年の極東ソ連軍は,6個ライフル師団のみ.戦車なし,航空機なし,です.
 同時期の関東軍は師団2個,混成旅団2個,独立守備隊1個,独立飛行中隊3個です.
 シベリアの国土面積を考えますと,脅威と呼べるほどのものではないですね.

 ただし,純軍事的な意味としての意味においてなら,関東軍がソ連軍を「脅威」と感じたのは,ソ連軍が張学良軍に大打撃を与えた1927年からです.
 それまでは仮想敵として意識すらされていないようで,対ソ作戦計画は具体性に乏しいものだったそうです.
 関東軍において,具体的な対ソ作戦計画作成が行われるのは1933年からです.

(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)

 【質問】
「満州で日本軍が軍事的に刺激を受けたからであり、1932年から」
というのは日露戦争が入ってませんよね。
 1896年(明治29)にはロシア軍が朝鮮・京城に入ったり、北清事変の際なかなか撤退しなかったり(日本もだけど),アジア(中国全土、上海など)周辺でのロシアによる中長期的脅威が認められたからsplendid isolationを崩さなかったイギリスが日本と同盟を組んだのではないでしょうか?
 日露戦争後、政権が変わったからといっても,常に不凍港を求め続けていたことは事実だとは思うのですが。

 【回答】
 ご指摘の件ですが,ロシア革命の影響を軽視しておられるように感じます.
 また,「恒に備えよ」は確かに軍事的常識ですが,将来生起するかもしれない不確かな脅威のために,それよりも優先度の高い事項を犠牲にするのは,論理的に正しい対応とは言えません.

 東アジアにおけるワシントン体制と言うのは、ひとえに
「中国を列強の植民地的争奪の場としない」
という約束事で成立してたものですから、日本が一方的にこの約束事を破って満州侵攻に乗り出せば,列強の中で孤立することが必然です.
 対ソの備えとしての満州侵攻(仮にそのような意図で行われたとして)が,そのリスクを冒してまでの優先事項であったか,非常に疑問です.

「将来,日米関係だってどうなるか分からない」
からと言って,「核武装して自主防衛」を唱えるようなもので,失礼ながら
「何を優先させるべきだったか?」
という視点が欠落しているように思われます.

(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)


 【質問】
 満州国は日本の既得権益だったんじゃねーの?

 【回答】
 日本の満州に置ける正当な権益は,「点と線」だけ.
 旅順大連を含む関東州の租借と,長春以南の満州鉄道と付属鉱山経営権,鉄道周囲幅1kmの警察権,1万人までの軍駐留権だけです.
 満州全域=面を日本がどうこうする利権なんか,元地主の清朝もドコの列強も認めていませんでした.
 まして国家創造の権利なんて,誰が日本に対して承認したんですか?

 だからこそ,自作自演の攻撃を日本はでっち上げ,満州事変を起こして同地域を占領したわけです.

軍事板


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 なぜそんな結論〔『満州国を認めず,国際管理下に置く』という,リットン調査団の結論〕が出るのか?
 松岡洋右代表はこう反論した.
「アメリカ国民はパナマ運河地帯をそのような管理下に置くことに同意するだろうか?
 イギリス国民はエジプトに対するそのような管理を許すだろうか?」

小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.219

 【ツッコミ】
 ほほう,だから何なのかな?
 外相が自国を正当化する主張をするのは当り前だろう?

 それとだね,満州事変をパナマ/スエズに例えるならば,運河を爆破した上で,パナマ/エジプト側に濡れ衣を着せ,それを口実にしてパナマ/エジプト全土を占領するようなものなのだよ.
 松岡外相の弁明は,いかにも苦しいね.

 ところで小林君は,そのスエズ運河に関しては,こんなことを書いているね?

 1956年10月,イスラエル軍がエジプトに軍事侵攻.

 それに対して
「イスラエルとエジプトの戦争から,スエズ運河を守る」
として,イギリス・フランスがエジプトに出兵.
 「スエズ戦争」が勃発した!

 実はこれは,イスラエル・イギリス・フランスが共謀して起こした,あからさまな侵略だった.

from 「SAPIO」 2004/4/14号,p.59

 類似ケースについて,片や肯定,片や「あからさまな侵略」と呼ぶのは,ダブスタではないのかね?


 【質問】
 なぜ松岡外相は国際連盟決議の場から立ち去ったのか?

 【回答】
 まずもって,国際連盟脱退は閣議決定であり,国際連盟・19人委員会の勧告が出されて,満州国が承認されなかったら,脱退することは既に決定済みだった.

[quote]

 斉藤内閣は二月二十日の閣議で,連盟総会において第十五条四項に基づく勧告案が採択された場合は「連盟脱退の方針を定め帝国憲法下の手続きを執る」基本方針を決定した.

 手順としては,報告書の採択には反対投票を行い,代表の引揚げを実施する,
 この引揚が総会閉会に伴う当然の引揚と同一視されるのは政治的に面白くないので,
「帝国政府は日支紛争事件に関し,連盟と協力し得る限度に達したるもの認むる」
趣旨の声明を出す事など,ジュネーブに訓令した.
 閣議決定後,斉藤首相,内田外相は天皇に謁見,この旨を上奏した.

[/quote]
―――『満州国と国際連盟』(臼井勝美著,吉川弘文館,1995.5),162ページ

 んで,松岡は国際連盟からの脱退はしたくなかったと述べている.

[quote]

「満蒙問題に就いては,わが国の満蒙政策遂行上実質的に故障の起こらぬ限りは大概のことは我慢するという考えであって,できることなら連盟に留まって,過去十三年間世界も認めている通り,わが国も最も連盟に忠実なる国の一つであったことの歴史を継続して,以って尚,世界の平和の為に尽くすようにしたい」

[/quote]
―――同,165ページ

 松岡は確かに「あの場」では,国際連盟からの脱退に消極的だった.
 ただ,その閣議決定を引き出したのは,外務省連中の意見を汲んだ松岡だったりする.

[quote]

 ここで注目されるのは,第十五条四項の勧告書が通達されると,ジュネーブ代表部が従来の妥協的な態度から一転して,強硬措置の採択を政府,内田外相に迫った事である.
 すなわち,もし勧告案が総会で採決された場合は,
「我が方として単に代表部引揚げの如き姑息な手段はこの際とるべきに非ず」(十六日着)

「事茲に至りたる以上,何等遅疑する所なく断然脱退の措置を取るに非ずんば,徒に外間の嘲笑を招くに過ぎずと確信す」(十七日着)
という,脱退の実現を強硬に要請する電脳が,相継いで本省によせられた.
 松岡の発想であるが,長岡・佐藤も結局は同意した

[/quote]

 ということで,閣議決定の元になった意見もまた松岡だったりする.

 ちなみに,19人委員会の十五条四項とは,リットン調査団の報告書第九章第七原則である
「中国の主権の下での満州の自治」
の事で,日本としては「満州国承認」が原則だったため,受け入れられなかった(というのが,当時の日本の主張)

ますたーあじあ in mixi,2008年03月19日23:29

 つまり,閣議決定された「国際連盟」からの脱退という案は松岡が出したけども,松岡自身は脱退したくはなかったということですか.それにしてもずいぶんと皮肉な結果になったんですね.
 個人的に思うのは,中国の主権の下での満州の自治という一方で,
「満州には,中国の主権下に自治政府を樹立する.
 この自治政権は,国際連盟が派遣する外国人顧問の指導の下,充分な行政権を持つものとする.
 満州は非武装地帯とし,国際連盟の助言を受けた特別警察機構が治安の維持を担う.
 日中両国は『不可侵条約』『通商条約』を結ぶ.
 ソ連がこれに参加を求めるのであれば,別途三国条約を締結する」
という条件は,かなり魅力的に思えます.

ヤン in mixi,2008年03月20日 00:39

 【質問】
>外務省連中の意見を汲んだ

 外務省は何で脱退志向だったので?

消印所沢 in mixi,2008年03月20日 22:56

 【回答】
 上に述べましたが,十九人委員会の

・主権は中国にある.
・満州における満州国の維持・承認は,日中両国の友好的承認が不可能である事.
・連盟は今後も満州国を承認しない事

という勧告案を出したからです.

 じゃ,なんでそれまであった「共同統治案」が消えたかと言うと,元々反対意見もあったのですが,論争の最中に,よりにもよって陸軍が「山関事件」なる,日中衝突を起こしたからです.
 しかも原因が
「現地守備隊の謀略」(他の作戦との関連性はなし)
だったので,特にスティムソンなどに「満州国否定」の正当性を与える事になってしまいました.

 このとき政府は不拡大だったのですが,劣化石原が沢山いた当時の日本では・・・.

ますたーあじあ in mixi,2008年03月21日 21:23


 【質問】
 日ソ関係が悪化し始めたのは,いつ頃からか? 

 【回答】
 1920年代の日ソ関係は普通に安定していた。
 当時のソ連内部では,東支鉄道を中心とする北満の勢力範囲を維持できるなら,日本の南満支配を認めるのもやむなし、という空気が強かった。
 これが悪化するのは満州事変で反共を掲げる「満州国」が成立し、日ソが緩衝地帯を失って直接国境を接するようになってから。
 要するに満州事変をやった結果,ソ連は極東地帯に初めて本格的に関心を寄せるようになった、ということ。

 事変以後に急増するようになる極東赤軍の配備状況がそれを端的に現している。
 第一この時期のソ連は干渉戦争や内戦からの復興問題もあって,あまり積極的な膨張主義的姿勢を取ることを避けており、それが膨張主義剥き出しの姿勢へ変化するようになるのはまだ先の40年代以降のこと。

(名無し四等兵 ◆clHeRHeRHo in コヴァ板)


 【質問】
 戦前の日本は,国際連盟からの委任統治で南洋諸島を統治していましたよね?
 連盟脱退後も継続していたようですが,なぜ統治が認められたのでしょうか?

 【回答】
 別に連盟を脱退したからと言って、国際連盟との協力関係を絶ったわけではなく、国際司法裁判所、国際労働機関、その他諸委員会との関係は従来通りであり、1935年の第16回連盟通常総会では、国際司法裁判所判事に日本の長岡寿一が選出されてさえいます。

 尤も、日中戦争勃発後の1938年に、国際連盟理事会が対日制裁を決議したことにより、常設統治委員会、阿片諮問委員会、社会問題諮問委員会の政府委員派遣は停止、個人資格での参加も辞退させ、国際労働機関への協力も停止、国際司法裁判所については、脱退規定はないので、。拠出金支払いを停止し、後任判事を出さないようになっています。

 ちなみに、南洋群島の委任統治については、国際連盟そのものからの委任ではなく、Versailles条約で委任されたものであり、日本政府は同条約を破棄したわけではないとの理屈により、脱退通告時から統治継続を表明しており、国際連盟諸機関への協力停止後もそのままとなっていました。

 蛇足だけど、Versailles条約では、南洋群島は日本の国際連盟C式委任統治区域となっています。
 これは、委任統治区域を決めるに当たり、旧枢軸国領土を、A式、B式、C式の三つに分けた物で、A式委任統治区域は、殆ど自立しうる程度に発達している地方、B式は、独立国として仮承認を受けうる程度には発達していない地方に対する制度です。
 南洋群島のC式は、土着人民の利益のために一定の保障を与えることを要する条件で、かつ、受任国領土の構成部分として、その国法の下に施政を行うべき地域です。
 つまり、受任国の単純な領土ではありませんが、領土に近い性格のもので、C式は、委任統治の名による領土再分割の方法といえるでしょう。

 ちなみに、委任統治に当たっては、地域の詳細情報、施政諸般の措置を国際連盟理事会に報告する義務があり、連盟脱退後もこの委任は継続されています。

(世界史板)


 【質問】
 第二次上海事変は,日本軍と中国軍どちらが先に攻撃を開始したのでしょうか?

 【回答】
 中国軍.
 1937年8月13日朝に上海租界の海軍陸戦隊に向かっての発砲,砲撃が有り,昼頃には国府軍の爆撃機が租界の上空を示威飛行を行なっている.
 この地域は第一次上海事変後の協定で中立地帯とされ,支那中央軍の侵入は禁止されていた.
 それ以前の邦人に対する無数のテロや協定違反,動員などの軍事行動を鑑みる限り,支那事変に限れば先に手を出したのは中国側.


◆◆支那事変


 【質問】
 日中戦争のことが全く分からないので,一から勉強するための書籍を探してます.
 よってだいたいの流れをを知りたいので,初心者向けで読みやすく,史実に忠実なのがいいです.


 【回答】
 日中戦争という現象そのものを抑えた上で,本を探したほうがいいかも.
 てな意味では臼井勝美の『新版 日中戦争』(中公新書,2000年)とか.
 同著者の『満州事変』ともども,昔から出てる本を増補改訂した定評のある入門書.
 構成も大分手を入れてて,改訂前のものより各段に読みやすい.
 ただ政治・外交面の動きが主なので,軍事面はどうしても弱くなる.

 とりあえず知りたいなら小林英夫の「日中戦争」あたりが良いんじゃないかな….
 新書で買いやすいし.

 太平洋戦争研究会の本はよりムック本的だから,上の本を読みつつ,そっちを一緒に辞書代わりにするといいかも.

 同じ太平洋戦争研究会ならこっちもあるよ.
http://www.php.co.jp/bookstore/detail.php?isbn=978-4-569-66703-4
 内容は大差なかったはずだから,どっちかプラス臼井先生がいいかも

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ日中戦争は「支那事変」「日華事変」と呼ばれることがあるのですか?

 【回答】
 当時,宣戦布告がない武力衝突は須らく,事変と呼ばれていた.
 日中戦争もそうだ.日中の間に宣戦布告はなかった.
 そのため,最初期には「北支事変」,次いで「支那事変」と称された.
 日華事変という呼び方は,公式のものではないが,当時のマスコミで使われることがあったものだ.
 今でも防衛庁防衛研究所戦史室では「支那事変」と呼ぶ.厚生労働省でもそうだ.

 では何故,日華事変さえ宣戦布告出来なかったかと言うと,当時の米国の議会では,戦争当事国には戦略物資の輸出を禁じる法案が可決されていたからだ.
 日本は米国の石油,鉄に頼っている状態なので,「日本はあくまでも戦争では無い」と言い張る必要が有ったのだ.

 これは米国その他から軍事援助を受けている蒋介石政府にしても同じこと.
 国際法上,第三国は交戦国に対して軍事援助する事はできない.
 なので中国も日本に宣戦布告できなかった.

 蒋介石が対日宣戦布告するのは,日米開戦の直後になる.

 【余談】

 あの,事変当時,
「支那側から発砲してきたので,わが軍が応戦した……」
って,そういうニュースがよくあるでしょう.
 〔著者の母親は,〕その「支那側」ってのを東海道の品川だと思って,
「ずいぶん近くで戦争があるんだね」
って……これにゃァふいちゃいましたよ.

林家正蔵著『正蔵一代』(青蛙房,2001/4/25),p.10


 【質問】
 小林よしのりの『戦争論』に
『支那事変(日中戦争というのは正確ではない)』
って書いてあったんですが,どうして正確じゃないんですか?
 そして,どうして支那事変が正確なんですか?

 【回答】
 日中戦争という場合,日本と中華民国+中国共産党軍との戦争全体を指すことになります.
 しかし歴史的には,これらの戦争はいくつかの期間に分割して呼称が付いています.

 満州事変,上海事変はほぼ連続して発生し,講和は一括しておこなわれていますが,武力衝突が起きた場所が違うので,別に呼ばれています.
 盧溝橋の武力衝突に始まる北支事変と第二次上海事変は連続して起き,総称して支那事変と呼ばれるようになりますが,この戦争は第二次大戦の終結まで継続します.
 日中戦争という呼称は,これらの区分を無視して全体を継続した戦争であったように呼んでいる点で,問題のある呼称ということです.

世界史板

 余談だが,この「事変」の繰り返しにより,思わぬところへの影響もあったという.
 以下引用.

 あのころは,幾たびか,事変が途中でおしまいになったことがあるでしょ?
 しばらくするとまた始まるってようなときで,あたしたちが〔慰問隊として〕行ってたときも,途中で平時編成になっちゃったんで,戦時体制を解かれたもんですから,ふたりの慰問隊は,もう何をしてもいいってことになった.

林家正蔵著『正蔵一代』(青蛙房,2001/4/25),p.185

当時のポスター
(画像引用元:「ヴァーチャル・ミュージアム」


 【質問】
 日中戦争の開戦に至った経緯には,どのような背景があるのでしょうか?

 【回答】
 直接的には国民党軍が侵略してきた事.
 当時,張学良を排除してトップに立ったけれども,地盤の弱かった蒋介石が,上海の日本租界を攻撃して手柄を立てようとしたことが直接の原因.
 それに対して日本の軍部は懲罰の名目でなし崩しに戦闘を続け,結局南京まで進撃した.
 国民党の本拠地の南京は落としたが,蒋介石は逃げてしまったので,その後も「追撃」の名目でどんどん戦線が拡大し,後退不可能と化す.

 ブロック経済も背景としてあった.
 まあ直接の因果関係があるわけじゃないが.日本は華北に侵出しようとし,国府はナチスドイツに接近していった.
 ナチが送り込んだ軍事顧問団が作戦を立てて仕掛けてきたとゆー人もいる.
 まあ,向こうが仕掛けてきたから日本の自衛戦争っつーのは確かかもしれんが,国府を相手にせずって言っちゃぁおしまい.日本の侵略と言われても仕方ない.

 カイロ宣言やイラク戦争もそうだが,無条件降伏の要求は侵略の意思ありとされるのが当然.
 勝てば官軍でお咎めなしっつー狂った国もあるが.
 自衛戦争なら無条件降伏の要求なんて出来ないはずなんだけどなあ.


 【質問】
 田母神「論文」ですが,

――――――
 現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが,我が国は日清戦争,日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て,これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである.
 これに対し,圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが,昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない.
――――――

というのは妥当な主張なのでは?

 【回答】
 半分正解.

「武力で脅して結ばせた条約は無効!」
というのが国際ルールになったのは,
条約法に関するウィーン条約(1981/7/20発効)
だから,確かにそれ以前のものについては違法性はない.

(リアリストとしての私見で言えば,どうとでも恣意的に国際法を解釈してゴリ押しする国もある以上,「そもそも国際法上の違法・合法って何?という疑問が大いにあるが,議論が横道にそれるので,とりあえずそれは置いておく)

 でも,中国などが「侵略侵略」と騒ぎ,少なくともその点では国際世論も同じ認識(ここ重要)でいるのは,
「権益を守るために条約等に基づいて軍を配置した」
こと自体なのではなく,当時の日本軍の行動が「権益を守るための自衛」の枠を大きく外れていると見なされている点なんだよね.
 つまりタモさんは,国際世論からは侵略の構成要素だと思われていない点を指して,
「これは侵略ではなく正当!」
と言っているに過ぎないんだ.
 「天然」でやっているなら(どうも天然のようだけれど)ともかく,意図的にやっているのなら論点のすり替えだね.
 詭弁ではおなじみの手口だ.

 だから,条約に基づく軍の進駐にまで,中国が噛みついてくるなら,その点は堂々と反論すればいい.

 けれども,その後の中国全土への戦火の拡大までは,弁護しきれないと思うよ.
 必要最小限度の武力行使じゃないから.
 少なくともこれをして「自衛だ」と国際世論に認めさせるのは,どんなプロパガンダ工作をやっても難しいだろうね.
 プロパガンダ工作というのは,もともと説得力のある土台(見た目に分かり易い写真であるとか,象徴的な事件であるとか,歴史的に積もり積もっていた不信感とか)の上に幻の楼閣を築く作業であって,何もないところに土台を一から作る仕事じゃないからね.


 【珍説】
 日中戦争は,中共に仕掛けられてずるずるの戦争だった.

推定林間≒「一応仮コテ」

 【事実】
 悪いですが,中国を「中共」と呼ぶ癖が空気のように染み付いているからかもしれませんが,そのころは中国共産党はまだ一勢力に過ぎません.
 たしかに日本と交戦を声だかに叫んでいたのはやつらだけど.

 最初にでっち上げの柳条湖事件を口実に,正当な権益の何十倍もの他国領を軍事占拠し,支配している事が日中の緊張の原因.
 共産党が何を画策しようが,最初の火種が無ければ無意味.

 共産党が先に手を出したと言うが,正規軍を動かして中国領に攻め入ったのは日本が先.中国共産党軍がいつ,日本領に軍事的な攻撃を仕掛けて来たというのかな?
 加えて,日本が攻撃したのは満州事変でも盧溝橋でも上海でも中華民国軍であり,共産党軍ではないのだが.

 盧溝橋事件が共産党の陰謀,って奴は,とりあえず通史側の代表的見解である秦郁彦「盧溝橋事件の研究」でも読んだ方が.
 とは言っても,この本,7000円近くするけどな.

 なお,『戦士政治課本』というテキストは,存在自体は確認されたようだが,内容は不明.
 安井三吉著『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』,P207〜P208より.

 第四は,『抗日戦士政治課本』の存在が確認されたことである.
 この本については,かつて葛西純一氏が,『新資料盧溝橋事件』(成祥出版社,一九七四年)において,人民解放軍総政治部『戦士政治課本』の盧溝橋事件記述を「中国共産党謀略」説の論拠の一つとしてあげて以来,その所在が注目されていたが,中共中央文献研究室編『毛沢東年譜』中巻(人民出版社,文献出版社,一九九三年)の二三二頁の注にこの本についての言及が見られる.
 しかし,その内容については不祥.

 共産党が事態を煽る事が出来たのも,日本が満州を武力占拠していたから.どちらが先かは明らか.
(だから必死で満州事変と日華事変は別物と言ってたのだろうが) 

軍事板

盧溝橋


 【質問】
 この人〔田母神〕だけでなく佐藤元空将もこの説を奉じてるみたいだけど,「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党」ってソースはなんですか?

HASU in 「軍事板常見問題 mixi支隊」

 【回答】

------
wikipedia

「中国共産党陰謀説」の有力な根拠としてあげられているのは,葛西純一が,中国共産党の兵士向けパンフレットに,盧溝橋事件が劉少奇の指示で行われたと書いてあるのを見た,と証言していることであるが,葛西が現物を示していないことから,事実として確定しているとはいえない,との見方が大勢である.
-----

 共産党陰謀説の根拠はただ一つ,これだけです.

JSF

 軍事研究2001年3月号の「日本の戦史 80 牟田口中将とディマプール 五十」(太田嘉弘)で,

――――――
"東京裁判終了後に,中共軍政治部発行の初級革命教科書野中に「蘆溝橋事件は中共北方局の工作である」と記述した資料があることが知られた.
(中略)
 のちに中共のナンバー・ツーまで上り詰めた劉少奇が,米国の記者に「あれは自分がやらせたのだ」と語ったのである."
――――――

ってあるんですよね.
 このシリーズのどっかで,この記者がライフの記者で1947年だかそのあたりの雑誌に載ったけど,日本では報道させられなかったとか何とかって読んだ気がするんですが,バックナンバー探しても見つからないんで,気のせいかもしれません.
 まぁ,この記事の信憑性は私には判断できません.

D.B.

 蘆溝橋事件中国共産党陰謀説は,英語版Wikipedia『劉少奇(Liu Shaoqi)』でも紹介されてますね.
 その出所は片岡鉄哉氏の『Resistance and Revolution in China』だそうです.

 ここがよくまとまっていますね.
http://www.geocities.jp/yu77799/rokoukyou/inbou1.html

 秦郁彦氏曰く「妄想以外の何ものでもなさそうだ」

バグってハニー

 そもそも「論文」のフォーマットじゃないよね,これ・・・

>中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で
>「廬溝橋の仕掛け人は中国共産党で,現地指揮官はこの俺だった」
>と証言していたことがわかっている「大東亜解放戦争( 岩間弘,岩間書店)」

 これ多分,引用なんだろうが,引用ならページ数ぐらい書け,本文中に入れずに註にしろ.
 ていうか論文なら,「作者名『書名』(出版社名,初版発行年)○○ページ」っていう形に指導されるはずなんだが,本当に論文か?コレ

 中身的にはハリー・ホワイト=コミンテルン陰謀論とか洪思翊中将とか朝鮮の人口の話とか,凄くよく見る話で,特に変わった所は無いかなぁ.

たれ

以上「軍事板常見問題 mixi支隊」より
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日中戦争は中国側が先に仕掛けてきたんですか?

 【回答】
 当時の国際法規から言えば,日中戦争で「侵略」してきたのは中華民国(国民党).
 でも日本も,「自衛反撃」の範疇を超えて追撃したのに,国際社会の許可を取らなかった.
 なので,どっちもどっち.
 ただ,先に手を出したのは国民党側.


 【質問】
 日中戦争は日本が,中国大陸で正当に保有していた権益を国民党軍が攻撃したから,自衛の為にやむを得ず始まった戦争だという意見をたまに聞きますが,それはどこまでが本当でどこまでがウソですか?

 【回答】
 上海租界に対する攻撃だから,日本だけじゃなくって列強全ての権益に対する侵害.
 それに対する正当防衛は成立する.

 ただ,その後に南京まで落としたのは明らかに過剰防衛.
 開戦に責を問うなら国府軍に責任があり,結果に責任を問うなら日本が悪い.

 どちらの見解が正しいかは言うまでもなかろう.
 結果が全てだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 この返答は流石に変じゃないですか?
 この論法で行くと,真珠湾作戦をやった日本を無差別爆撃で追い詰めたアメリカはやりすぎ,ということになりますし,同様にドイツとソ連もそうですよね.
 双方が停戦条約に同意するまで戦争が続くのは当然であって,首都の南京まで日本軍が行くのは普通のことじゃないでしょうか?
 また,結果についても当然,開戦した側の国民党政府に責任があるのは明白だと思いますが.

SLEEP in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 どのあたりが変なのでしょうか?

 自衛を目的とするなら,中国軍が全面撤退を始めた11月10日以降,侵攻を停止すべきでした.
 すでに既得権益と居留民保護の目的は達成されていましたからね.
 にもかかわらず,侵攻を続けたのは,過剰防衛といわれても仕方が無いです.

「じゃあ,日米,独ソはどうなの?」
って,それは短絡的ですよ.
 状況がまったく違います.

極東の名無し三等兵 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 国民党軍が全面撤退を始めたことは,戦争の終結を意味しません.
 なぜなら敗軍を再編成し攻勢を仕掛けてくる可能性を否定できないからです.
 緒戦で敗勢にあった軍が勢力を盛り返すことに成功することはしばしばあります.
 おっしゃるように南京まで掃討戦をやらず,大部分の兵員を本土に送り返して同じ目にあったら,たいていの人は
「なぜあの時徹底的に叩かなかったんだ?」
と批判するんじゃないでしょうか.
 また日米戦,独ソ戦と状況が違うのは当然であって,私がこの回答を問題視しているのは,戦争のルールとして万国共通であるべき国際法を捻じ曲げているんじゃないかということです.

SLEEP in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 敗軍を再編成し攻勢を仕掛けてくる可能性があるのは確かにその通りです.
 しかし,だからといって全面的な追撃を行えば,それは自衛の枠を外れた侵略であるとみなされます.
 SLEEPさんがこれを自衛の枠内であると考えても,国際社会はそうは見てくれませんよ.

 たとえば,10月6日の国際連盟総会で採択された二三国諮問委員会の報告では
「中国に対する日本の軍事行動は,紛争の起因となった事件とは比較にならぬほど大規模である」
と述べています.
 また,日本の軍事行動は自衛ではなく,日本が加盟している九ヵ国条約,不戦条約の違反であると認定しています.
(要約『新版 日中戦争』p88 中央公論新社[中公新書]2000年)

 逆に言えば,完全な自衛だと主張し,それを国際社会に認めさせるくらいの説得力を持たせるには,
「敵が敗軍を再編成し攻勢を仕掛けてくる可能性」
を甘受しなければならないということでしょう.

 ところで誤解があるようですが,上海事変は,この時点(南京攻略以前)では全面戦争ではなく,大規模ではあるが偶発的な武力衝突の域を出ていないと考えられており,列強のすべての国が,速やかな沈静化を望んでいました.日本ですらそうだったんですよ.
 そのために日本がとった手段(南京攻略,第二次和平案)が最悪だったせいで,誰も望まないのに泥沼化してしまいました.
「結果が全てだ」
とは,つまりはそういうことでしょう.

 あと,
「戦争のルールとして万国共通であるべき国際法を捻じ曲げている」
としていますが,なんという国際法のどの条文を捻じ曲げているのか,具体的に回答を願えませんか?

極東の名無し三等兵 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分



 【反論】
 私が言いたいのは細かい条文のことじゃありません.
 パリ不戦条約などの,侵略戦争を禁止した法の前提となる平等性です.
 日本やドイツの侵略を裁いたように,中国についても同じ態度で挑むべきだと言うことです.
 男性から女性への暴力は完全に男性が悪いが,女性から男性への暴力は男性にも責任がある(あるいはその逆)なんて法は,先進国では認められませんよね.

一部わかりにくい表現などありましたらご容赦ください.

>10月6日の国際連盟総会で採択された二三国諮問委員会の報告

 それは単に当時の状況では現地で何が起きているか,わからなかったということでしょう.
 今となっては蒋介石が国民党軍100万近くを動員して行った本気の戦争だったということがわかっています.
 規模の面や準備からして,決して偶発的な衝突とかそんなチャチなものじゃなかったのは明白です.
 そもそも「大規模ではあるが偶発的な武力衝突」なんていうのはファンタジーであって,軍隊と言うのはお役所ですから,大規模に動かそうと思えば偶発性は自ずから否定されます.
 国境警備隊が自動小銃を打ち合っているのが自然と師団規模以上の戦闘になるとか,ありえるとお考えでしょうか.

 また,勝ちすぎた(殺しすぎた)側に批判が集中することはけっこうあります.
 今度のグルジアにおけるロシアやベトナムにおけるアメリカがそうでしょう.
 どちらも戦争を仕掛けた側が弱すぎて,いきなり殺されすぎて非人道的なように見えるのです.
 中国における日本軍もそうでしょう.
 日米や独ソの戦いは対称系ですから,一気に肩がつかずベルリンや沖縄までじりじり進み,お互い大流血でスポーツの試合のように見えるんでしょう.
 でも法というのは,弱かろうが強かろうが平等に適用されるのが原則です.
 つまり真珠湾攻撃の日本やバルバロッサ作戦のドイツのような侵略側に対する手厳しい態度が,上海租界攻撃に対する国民党にも当てはまるべきだということです.

SLEEP in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

 【再反論】
 SLEEPさんの主張をまとめると以下の通りで良いですか?
・上海事変において国民党は,本気の戦争を仕掛けてきた.
・日本は自衛のために反撃を行った.国民党軍への全面追撃は,軍事的に当然.
・戦端を開いた国民党は非難されるべき.

 〔略〕

「先に手を出したのだから,中国国民党が悪い.日本だけ悪く言われる謂れはない!」
ってところですか.
 それは子供の論理です.
 その仕返しの程度が行き過ぎれば
「手を出したあいつも悪いけど,お前もやりすぎ」
って言われるのは当然です.

 その『程度』というのが,一発殴られた仕返しに,相手をボコボコにして両手足切り落とした上で,相手の家に放火したら,誰だって最初の一発を問題にはしないでしょう.
 過激な例ですが,日本がやらかしたのは,そういうことです.

極東の名無し三等兵 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分

 ここにとある土地があるとして,その持ち主をCさんとでもしましょうか.
 その土地は経過は省くが,超好条件でAさんBさん他数人が協同で借りて商売してました.
 ところがCさんちの息子なり舎弟なりが,その土地は俺んちのだ返せと武装して押しかけてきましたが,協同借地人のうち,Jさんがこれを実力で叩き返しました.

 まあここまでは正当防衛の範囲でしょう.

 さてJさんは,Cさんの息子なり舎弟なりを借地から叩き出すだけでは行動を止めず,放置したら再襲撃されるからと言って,Cさんの本宅まで押し掛け占拠し,Cさんの家長がいうことを聞かないと見ると,Cさんの係累を担ぎ出し,Cの家の家長は交代したと,Cさんの家長にも他の協同借地人に諮ることも無く宣言しました.

 身近なレベルに置き換えて言えば,当時の日本の行動ってこんなですよ?
 更に言えば日本がこういう行動取ったの,二度目ですからね.

 具体的なこれこれの条約のこの条文と言わずに,漠然とした平等性などという言い方をした日には,どんだけよく言っても,極端な過剰防衛としか言いようがないかと思いますがねぇ.

 まあわたしゃ,侵略が悪いことだなどとはこれっぽっちも思っていない性質ですから,警官のような,あるいはレフェリーのような強制力のある裁定者のいない国際社会は,逆に言えば全員が個々のリソースに基づいて同じ場に参加するゲームプレイヤーなわけで,他のプレイヤーを差し置いてスタンドプレイに徹すれば,そりゃ孤立もし,袋叩きにもなるでしょうとしか思いませんがね.

名無しクルセイダー信者 in FAQ BBS
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 よく盧溝橋事件で,先に発砲してきたのは中国側だから中国が悪いという意見がありますが,日本が中国に進駐していたのは問題がないんでしょうか?

 【回答】
 よく誤解されているが,先に発砲してきたかどうかが問題なのではない.
 「日本を攻撃することを国民党政府の最高指導者が許可して攻撃計画を立てていた」ことが問題.
 盧溝橋事件は,「相手を刺そうとナイフを取り出そうとしたら,相手に先にナイフを抜かれて刺された」という状況なので,そこだけ見れば日本には非はない.
 一応,日本と中華民国には「塘沽(タンクゥ)協定」ってのを結んで停戦中だったので.


 【質問】
 日本は愛国心を煽ることで戦争になったのですか?

 【回答】
 「愛国心」だけで戦争になったわけじゃありません.ファクターの一つではありますけどね.

 最終的に行き着くのは「経済的閉塞感」ですよ.

 一番の原因は,政権交代を目指した「護憲の父」の犬養毅が,どう考えても強弁・恣意的解釈でしかない,海軍が唱えた「統帥権」の問題を,政局に利用したため,この言葉だけが独り歩きをし,それが5.15や2.26を引き起こして,軍部の暴走を止められない状況を作り出しました.

 2.26で高橋是清が死んだ時点で,日本の財政的死亡は確定でした.

 こういう政治的背景を無視して「愛国心」のみに注目するのは,公平な見方とは思えませんね.
 行き過ぎたナショナリズムは確かに問題だが,現在の日本がその状況にあるとはとても思えません.

 補足しておくと,高橋是清の政策により,日本は世界に先駆けて恐慌から脱出してます.
 満州事変で全てが吹き飛びましたが.

ますたーあじあ in mixi

 私はあの戦争の要因を,「日本はこれからどうあるべきか」という戦略に対する総意が不透明,不徹底に終わったことが,要因であると考えています.
 その例が日英同盟の破棄だったり,あの日中戦争への姿勢であると,考えています.
(もちろん,経済的な閉塞も含まれますが.)

葉月 in mixi


 【質問】
 参謀本部は,つーか日本は中国の分割と一部支配は考えていたが,中国全土を支配しようなどと計画したことは一度もないそうだが,じゃ,なんで講和しなかったんだろ? だったら南京で帰ってくりゃいいじゃないか.

 【回答】
 当時の大日本帝国では,全権を担って講和条件の取捨選択出来る人間がいなかった.
 その為,各組織から上げられた総論を纏めて講和条件とする馬鹿なことをしたため,蒋介石から
「この条件を飲むのは亡国に等しい」
と言って拒絶されてしまった.
 仲介を受けた在支大使のトラウマンも
「この条件を飲むとは考えられない」
と漏らしている.

 その後は私的外交が横行し,蒋介石からすればどれが正しい講和チャンネルか分からず彼を混乱させてしまった為,なおの事講和が難しくなってしまった.


 【質問】
 蒙疆政権誕生の経緯は?

 【回答】
 1912年,辛亥革命によって清帝国が滅びると,ゴビ砂漠を挟んだ外側の外モンゴルは,清帝国から独立を宣言してラマ教高僧のボグド=ハーンを戴く政権を樹立し,1913年,民国政府からは独立を容認されませんでしたが,中国の宗主権下で高度な自治を獲得しました.
 その後,1917年のロシア革命後,南シベリアから反革命軍が侵入し混乱を極めますが,1924年にスフバートルとチョイバルサンによる抵抗運動が勝利し,革命が成立,ボグド=ハーン政権に代わってモンゴル人民共和国となります.
 一方,ゴビ砂漠の内側にあった内モンゴルは,同時期に平民出身の遊牧民バブージャブにより日本の支援を得た独立運動が展開されますが,1915年までに鎮圧され,こちらは従来通り中国領に留められました.

 1932年,満州事変により満洲が民国から分離すると,満洲のモンゴル人居住地域は,特殊行政地域とされ,興安東西南北の4省が設置されます.
 1933年になると,関東軍は大興安嶺を越えて熱河省に侵攻し,此処を満州国に編入しました.

 関東軍としては,外蒙古に影響力を及ぼしているソ連軍が,内蒙古西部を通して満洲に侵攻することを恐れ,察哈爾省と綏遠省のモンゴル人達に宣撫工作を行い,分離独立を促していきます.

 当時,中国の省の支配に組み込まれていたとは言え,伝統的には遊牧民の有力王公を中心に「盟」と彼らが呼ぶ自治権を有する地方行政単位を構築し,2つの省には,シリンゴル盟,チャハル盟,バインターラ盟,ウランチャプ盟,イフジョウ盟の5つがありました.
 1928年,民国の制度で省制が改革され中央集権の度合いが高まると,その盟による自治は失われ,1934年にモンゴル人達は,ドムチョックドンロブ(通称「コ王」)を立てて百霊廟蒙政會を組織,1935年5月に蒙古軍政府を成立させました.
 この裏には関東軍の特務機関の暗躍がありました.
 当時,満州国熱河省の承徳,赤峰にそれがあり,モンゴル人に対し,武器や資金の提供,軍事訓練などを施しています.
 関東軍の考えとしては,中国の名目的な主権は残しつつ,実際には中国の影響を極力廃した親日的な自治政権を誕生させ,これを足がかりに華北地方に進出すると言うものであり,また,内蒙古から外蒙古に浸透して工作活動を起こし,反ソ機運を煽り,モンゴル人全体を日本の側に付かせて,ソ連の影響力を削ろうという目論見もありました.

 1937年に盧溝橋事件が勃発すると,これ幸いとばかりに関東軍は参謀長東条英機が察哈爾派遣軍を編成し,察哈爾省北部を占領した後,帰遠,包頭を立て続けに占領し,寧夏,甘粛両省と境を接する綏遠省に侵出すると共に,張家口を中心とする察南地方と山西省北部の大同を中心とした晋北地方が関東軍の支配下に置かれました.
 本来,察南地方と晋北地方は支那方面軍の工作地域,守備地域だったのですが,東条英機は軍令を無視して自軍の支配地域としたのでした.

 ところが,この両地域はモンゴル人の居住地域ではなく,そこに住む多くの人々は回族,即ち中国系のムスリムだった訳です.
 東条は功名に逸って,従来の満洲人,モンゴル人だけではなく,さらに厄介なものを取り込んだことになります.

 結果,支配地域は三分割され,10月28日に,先ず,コ王を中心とする蒙古軍政府を改組して作られた蒙古聯盟自治政府を作り,彼らの支配地域をシリンゴル盟,チャハル盟,ウランチャプ盟,バインターラ盟,イフジョウ盟,つまり,察哈爾省北部,綏遠省とし,2つの特別市,厚和(旧綏遠,今は呼和浩特)と包頭を管轄する地域と規定し,政府は厚和に置かれました.
 それに先んじて,9月4日に張家口を首府とする察南自治政府,10月15日に大同を首府とする晋北自治政府が成立しています.
 これら3つの政府の上位機関で,三者の利害調整機関として,11月22日,蒙疆聯合委員会が組織されます.

 元々,関東軍内部でもこれらの政府は独立国として扱う予定はなく,日本人の最高顧問が主宰する蒙疆聯合委員会が3つの自治政府を統轄し,事実上の中央政府の役割を果たす様にしています.
 これが,所謂,「蒙疆政権」と呼ばれているものです.

 関東軍は,「蒙古」と言う名称を出来るだけ使わないようにしました.
 これは,「蒙疆」と言う言葉に置き換えられています.
 即ち,この地域にはモンゴル人だけではなく漢族や回族が多数含まれているので,「蒙古」を使うのは住民支配上不適切だと考えたことに依ります.

 元々,明治末期から「満蒙」と言う言葉は使われていますが,蒙古,蒙の概念には,内モンゴル西部地方が含まれず,大興安嶺を間に挟む内モンゴル東部地方だけとされていました.
 これは1912年に調印された日露協約で,内モンゴルの地域は,北京を南北に走る経度線を境に,東は日本,西はロシアの勢力圏と定められたことに依るもの.

 しかし,今回の関東軍の遠征で,事実上西の地域まで取り込まれてしまったので,新たな言葉の概念が必要となりました.
 従来の中国から見ると,長城以北は華北の一部ではあるにせよ,辺疆に属することから,屡々これらの地域は疆と呼ばれていました.
 そこで,蒙古と辺疆を組み合わせ,蒙疆と言う概念が作られた訳です.
 この裏には,モンゴル人主体の自治,独立を認めない日本側の姿勢もあったりします.

 これにはモンゴル人達は非常に反発しています.
 元々の呼び名を使って何が悪いのか,由緒のある言葉を捨てるのは誇りを捨てるに等しい,と.
 コ王は,公式の席でも「蒙古」を使い続けました.
 しかし,日本人通訳はそれをわざわざ「蒙疆」と言い換えていたそうです.

 モンゴル人から見れば,「蒙古」は世界中誰でも知っている歴史上の名称であるのに,「蒙疆」だと,中国の辺境で独立した政権ではなく,中国に隷属した地方政権であると言う認識になる訳で.
 結局,これらの反発を日本人達も無視し得なくなり,1939年9月1日に,蒙疆聯合委員会は3政府鼎立を止め,形式的にはモンゴル人が主導する統一自治政府,蒙古聯合自治政府を成立させます.
 従来の察南自治政府は宣化省,晋北自治政府は大同省となり,残りの地域は5つの盟が其の儘地方行政単位となりました.
 但し,実質的には最高顧問に日本人がいて,その監督を受けることには変りありません.

 こうした妥協が成ったのは,蒙疆政権が支配していた回族は3.8万人と必ずしも多くなかったからで,この地域に住んでいる人口で最も数の多い漢族の528万人より遙かに少なく,モンゴル人15.9万人や日本人4.1万人よりも少なかったりする訳で.
 ただ,甘粛省,青海省,寧夏省,新疆省に住んでいたムスリムに対する工作活動を見据えると,回族を無碍にすることが出来なかったのも確かです.

 更に目を北に向けると,外モンゴル,タンヌトゥーバ,カザフなどにも影響を及ぼす地域で,彼らを扇動して中国から独立させて,親日イスラーム国家を樹立し,更に中央アジアからイラン,トルコに至る地域を連携させて,ロシア包囲網を作ろうと言う構想を抱いていました.

 まさに,壮大な夢と言うべきものだったりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/05/01 22:04


 【質問】
 日中戦争の時,中国側が日本側の停戦交渉や講和に応じず,中国側が戦争を続けたというのは本当ですか?

 【回答】
 或る意味本当ですが,日本側の交渉術が下手糞過ぎたのも一因.

 それと,日本側の講和は,様々なChannelが入り乱れていて,どれが本命だか判らない状態に加え,日本内部でも足の引っ張り合いをしていた訳で,これを中国に信じろと言われても,どれを信じて良いのやら,だし.

 まともな和平交渉については,近衛の阿呆発言は兎も角,それ以後でも宇垣和平工作では,それなりに双方共歩み寄りがあったものの,近衛の腰砕けと軍部過激派の反対でおじゃんになった訳で.

 で,最終的に汪兆銘を擁立して,中華民国国民政府を作り,これを承認した後,此処と和平交渉して妥結したから,和平交渉に応じなかったと言うのは誤りですね.
 蒋介石政府は,政府じゃないのですから(笑.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 「講和に応じず戦争を続けた」というのが,拠点を攻略されても降服や講和をせず,更に後方に拠点を移して抗戦,という状況を指すのなら「本当」だな.
 ベトナム戦争の時,北ベトナム軍が米国の停戦交渉や講和に応じず,北ベトナム側が戦争を続けたというのも本当だし,文永の役の前,鎌倉幕府が元の親書に応じず,結果元寇となったのも本当です(笑).

「どちらかが講和に応じなかったから戦争が続いた」
という見方は,状況と合わせて行わないと錯誤や短絡の元です.


 【質問】
 日中戦争の時に汪兆銘が重慶を脱出したのは,蒋介石の同意を得たうえでの行動だったと聞きましたが,本当でしょうか?

 【回答】
 同意を得たと言うか,汪兆銘が提案を持ちかけた上での行動.
 共産軍に追い詰められ,日本側の条件を呑んで和平を選ぶ道を選ぶしかなかったが,共産軍に蒋介石打倒の口実を与えさせない為,汪兆銘は蒋介石に対して
「君は安易な道を行け,我は苦難の道を行く」
との書簡を送り,重慶からハノイに脱出し以後,単独で日本政府との交渉を進めた.
(日中戦争の見通しは明るくない,中国を救うには日本との和平しかない,と汪兆銘は考えていた.)

 だから後に,蒋介石とは別に汪兆銘は,南京政府(汪政権)を樹立している.
 日本の傀儡だけど・・・

世界史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 蒋介石は重慶を落とされたら,次はどこに逃げるつもりだったのでしょうか?

 【回答】
 蒋介石は雲南の昆明辺りまで退いて抗戦を続けるつもりだったらしい.
 タイ・ベトナム・ビルマの国境近く.
 麻薬王クンサーは元蒋介石の部下で,ゴールデントライアングルは中華民国臨時首都になるハズだった.

 ただ,雲南省政府主席の竜雲はどちらかと言うと和平派であり,汪兆銘のハノイ脱出を手助けしたりしている.
 雲南は長期に渡って独立を維持してきた勢力なので,すんなりと蒋介石に協力するかは未知数.
 1942年夏頃から重慶・成都を攻略する『五号作戦』が計画・準備されており,南方での戦況の悪化がなければ,蒋介石の命運も危うかっただろう.

 また,ソ連に亡命政府を樹立する計画もあったそうだ.


 【質問】
 日華事変時の,特に上海攻防戦での蒋介石軍の戦闘機と戦車について教えてください.
あと,ドイツは参謀を派遣したりしてますが,武器の供与などあったのでしょうか?

 【回答】
 戦闘機は米国製Curtiss Hawkシリーズ(後のP-36ではなく,複葉戦闘機)が主力です.
 爆撃機は,Curtiss A-12,Chance Vought O2U/V-92C.
 戦車は,Vickers6t戦車Mk.EとCarden Loidでしょうが,イタリアのC.V.33も装備しています.

 ドイツの関与ですが,清朝時代から関係は深く,小銃や拳銃はMoselが主力ですし,高射砲は,後に日本軍がコピーした88mm高射砲,航空機ではHe-111A爆撃機,Hs-123襲撃機,Fw-44練習機が売却され,戦車は1号戦車,装甲車としてSdKfz.221を購入しています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 日華事変時の中国軍に空軍や海軍は存在したのですか?
 日華事変時の中国軍に組織された戦車部隊,組織された潜水艦部隊や艦隊,戦闘機部隊は存在したのでしょうか?

 【回答】
 日華事変の中国海空軍はしっかり存在します.
 日清戦争でやられても,辛亥革命で国が引っ繰り返っても,海軍の再建の試みは行われており,旧式ですが巡洋艦も装備していました.
 但し,武漢の戦闘までに主力艦艇が失われ,以後は河用砲艦だけの存在になってしまっています.

 空軍は宋美齢を司令官として当初はドイツ,次いで米国,更にソ連の機材を使って整備されていました.
 上海,南京や重慶で日本の陸海軍爆撃機隊が中国空軍に迎撃されて苦戦していますし,日本海軍の旗艦出雲は爆撃を掛けられたり,あまつさえ,日本本土爆撃までされています.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 朝日新聞は社説で,中国の犠牲者は1千万人を上回ると報道していますが,実際にはどれだけの犠牲者が出たのでしょうか?

 【回答】
 終戦時の国民党および連合国の公式発表が130万人.恐らくこれが一番正確だろう.
 記事の信憑性で東スポと朝鮮新報を比べるようなものだが(笑).

発表された「日中戦争犠牲者数」の変遷
     
終戦時    130万人  GHQ発表
終戦時    130万人  国民党発表
1948年    438万人  国民党政府報告書
1950年代   1000万人  共産党政権発表
1970年    1800万人  共産党政権発表
1985年    2100万人  共産党政権発表(抗日勝利40周年)
1998年    3500万人  江沢民発表
2005年    5000万人  卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)

……

3165年(予想) 10億人

 【質問】
 日中戦争を巡る日本の「責任」を,現代の中国はどのように見ているのか?

 【回答】
 一部の軍国主義者こそが加害者で,一般民衆には罪はない,というのが公式見解.
 以下ソース.

 1972年の日中国交正常化の際の中国側の「責任」理解は,「一部の軍国主義者」責任論だった.
 この点について日本も了解し,日本側は
「過去において,日本国が戦争を通して中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し,深く反省する」
と述べた.
 一部の軍国主義者こそが加害者で,一般民衆には罪はないという考え方こそが,国交正常化以前の日中関係の政経分離論を支え,また,国交正常化交渉地の「日中友好論」や賠償放棄を裏付けるものともなっていた.

 このような中国側の基本的な立場は,1978年に,その「一部の軍国主義者」に相当するA級戦犯が靖国神社に合祀され,80年代に首相らが公式参拝することによって,日本への抗議としていっそう明確に現れる.
 中国側からすれば,「一部の軍国主義者」に責任を帰し,一般人民には罪はなかったとすることが,賠償放棄,友好交流の前提であり,だからこそ「一部の軍国主義者」に参拝するという日本政府要人の行為は,この前提を破壊するものだと映るのである.
 小泉総理が「反省し,お詫び」しても,まだ「行動で示せ」となるのはそのためであり,「甲級戦犯分祀」に中国側が拘り,靖国問題の妥協点として提示してくるのも,そのためである.

(川島真〔中国近代史専門家〕 from 「中央公論」, 2005/7, P.62)


 【質問】
 大日本青少年ドイツ派遣団について教えてください.

 【回答】
 大日本青少年ドイツ派遣団は1938年7月13日にブレーメンの次にハンブルクを訪問.
「現在ハンブルクの人口は110万人」
とか
「エルベ河河口に係留された船舶宿泊所が夏のシーズン中で大いに賑わっている.
 宿泊料金は大人50ペニヒ」
と記しています.

 ハーゲンベック動物園にも行っています.
 15日出発,ノルド・ゼーの「アドルフ・ヒットラー・クーグ」と呼ばれる労働奉仕団による干拓地を見学し,次の訪問地フレンズブルクへ.

 移動はドイツ自慢の自動車専用道路をドライブしたとあります.

 1995年にTVの報道特集で日独交歓事業の特集を放映したことがあり,録画を録ってあります.
 その中で日本人3名・ドイツ人2名の,まだお元気な方への訪問インタビューがありました.
 山形県,古沢健太郎氏,当時最年少19歳で放映時76歳.

 ドイツ派遣中に8mmを撮影してきたということで,まだ持ってみえました.
 岐阜県可児市,丹羽(旧姓篠崎)秀夫.佐賀,稲富早苗.派遣団の記録係で,今も当時の資料を保存されている.
 ハーケンクロイツの小旗やHJの短剣!各種バッジなども持ってみえる.
 ドイツ側は日本より状況が厳しく,現住所はわからない様に取材.

 驚いたのはニーダーザクセンに団長シュルツェの奥さんが89歳でまだ存命で,彼女もHJと一緒に日本へ行ったということだがBDM?が来たという記録は見たことないような気がします(?)
 シュルツェ氏本人は3年前に亡くなったという事ですが,派遣団が来る前にシュルツェが日本を下見したときに撮影したフィルムを彼女が保存していたのにも驚きました.

 丹羽氏は帰朝後,講演会をしたりして青少年団の発展に尽くしたのが仇となり,昭和21年に
「ナチス思想を吹聴し,・・・戦争誘発に大いなる貢献をした」
ために教職追放となってしまわれました.

 TV放映からまた時間が経過し,皆さん,まだお元気かどうか・・・

バンケン in mixi


 【質問】
「白洲次郎は,第二次大戦前に日英の間で行われた開戦回避に向けての会談(1939年頃)の中心人物だった」(月刊『現代』,2008年9月号)
というのは本当ですか?

 【回答】
 その可能性は薄いようです.
 当時,クレーギー駐日英国大使が,ビジネスで渡英する白洲次郎に,食料省幹部への紹介状を書いたのは確かのようです.
 しかし,それは
彼が開戦否定派の一員である樺山愛輔伯爵の娘婿であった事,
交渉の窓口であった吉田茂とも親しかった事,
英国ケンブリッジ大学の人脈が太かった事から,今後の交渉におけるパイプ役を期待していた
のであって,別に白洲次郎が直接交渉していた訳ではないようです.

 記事を見る限り,『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5)を参考にしているようですが,それを読んでも上に書いた以上の事は書かれていないと思うんですがね.
 月刊現代は,どちらかというと反自民的な雑誌だと思いますが,それでも白洲次郎は人気なんでしょうか.
 そんなのは関係なく,白洲次郎の記事は団塊の世代にウケるんでしょうかね?

寄星蟲 in mixi,2008年08月04日00:59


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