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「GIGAZINE」◆(2012/05/06)アウシュビッツ強制収容所に行って分かったこと,分からなかったこと
「KUBRICK.blog」◆(2022年10月09日) 【家族たち】キューブリックの義理の叔父、ナチスの反ユダヤ主義プロパガンダ映画『ユダヤ人ジュース』を監督したファイト・ハーランについて
「VOR」◆(2012/07/07)ヒトラー あるユダヤ人を救う
> ヒトラーの第1次大戦時の戦友であったドイツ系ユダヤ人が,ヒトラーに対し,
>家族の安全を保障するよう嘆願した手紙が発見される.
> このユダヤ人に対しては1940年8月に保護が許可され,
>1941年6月には命令が失効した事が通告されたが,独の敗戦まで生き抜き,
>1983年に死去している.
お前は誰だ(from「日刊都市伝説」)
ご家庭で手軽にできる「ナチスの人体実験」
「第Ⅲ収容所」◆(2016/5/5) 【ヒトラーを支えた共犯者たち】ナチスの最も極悪な10人
『20世紀ドイツ史』(石田勇治著,白水社,2005/07/25)
ドイツ近現代史の概説書,というよりも入門書か.前半は「ドイツ」の大雑把な通史で,さらりと読み流せばだいたいドイツ史の概略はわかる(無論,記述は近現代に重点が置かれているけれど).
もう知ってるひとは飛ばしてもさほど問題ないだろう.
後半は,二つの世界大戦とナチズムに関する6つの問題について述べられている.
それぞれの章題は次の通り.
1.帝国の幻影(pp.111-124)
2.戦争責任問題とヴァイマル外交(pp.125-140)
3.あるドイツ・ユダヤ人の軌跡――ホロコーストとドイツ社会(pp.141-157)
4.強制移住から大量殺戮へ(pp.159-172)
5.東部戦線――戦線のジェノサイド化(pp.173-188)
6.「過去の克服」とは何か――日独比較の視点から(pp.189-203)
個人的に一番関心があるのは4章と5章.
4章はホロコーストの起源について,機能派的な立場から説明している.※1
ナチによるユダヤ人への民族浄化政策が,出国圧力→ポーランドへの追放→マダガスカルへの追放→ソ連領への追放→行き詰まり,という道筋を辿る中で絶滅政策を導いた,としている.
――――――
たしかにナチ・ドイツの反ユダヤ主義は,ホロコーストの前提となっていたし,ヒトラーはホロコーストの始まりに深くかかわっていた.
民族ドイツ人の帰還に多大な関心を寄せ,これを「ユダヤ人問題の解決」と結びつけたヒトラーは,親衛隊幹部との会合をとおして,移住政策全体の進捗状況をよく把握していた.
追放から絶滅へのユダヤ人政策の転換も,ヒトラーの了解なしにはあり得なかった.
しかし,この政策転換をヒトラーの意思や,反ユダヤ主義の論理だけで説明することは困難である.
むしろ,戦争の予期せぬ展開と民族再編計画が頓挫し,窮地においこまれたナチ高官たちが,事態の打開を求めて,ヒトラーとともに選びとった道,それがホロコーストの始まりであった.(p.172)
――――――
5章では,仮借ない殲滅戦が行われた東部戦線が扱われる.
東部戦線においては劣等人種であるとされたスラヴ人と,ナチズムの宿敵とされた「ユダヤ=ボリシェヴィズム」に対する闘争が行われ,その過程でドイツ軍の蛮行はエスカレートしていった.
この章では特に,セルビアとベラルーシの事例がピックアップされて扱われている.※2
「東方」に注がれた視線は侮蔑であり,そして蔑んだ相手だからこそ,このような蛮行が可能になったともいえよう.
さて,とりとめもなく感想を書いてきたが,本書の持つ価値については,『歴史学研究』第817号(2006年8月)に掲載された書評を引用して済ませる事にしよう.
――――――
〔……〕4つの書は,いずれも一般の読者向けに書かれているため,紙幅上の制限にくわえて,注釈や網羅的なビブリオグラフィーも持たない.
しかしながら同シリーズは,近年,とりわけ東西ドイツが統一された1990年代以降の,我が国のドイツ現代史研究の一線で活動する研究者が,どのような問題に取り組み,またいかなる成果をあげているかを示しており,その価値は,単なる入門書や啓蒙書のレヴェルにとどまるものではない.※3
――――――
また本書は,非常に有り難い事に,基本的な文献の目録が充実している(ぼくの教授の本はなかったけど……orz).
ドイツ現代史を知りたいと思うひとはまずこれを読むべきだろう.
※1:この前書いた,ホロコーストの基礎知識について - Danas je lep dan.では,反ユダヤ主義のみに原因を帰する理解へのカウンターという面もあったとはいえ,反ユダヤ主義を軽視していたきらいがあるかもしれない.
あと,最近の研究動向では「意図派」「機能派」という枠組みそのものの機能不全が指摘されているらしい.
詳しくは,小野寺拓也「歴史研究の『ミクロ過程論的転回』――『ゴールドハーゲン後』のナチズム・ホロコースト研究」『歴史学研究』第840号(2008年5月)を参照.
※2:占領下のユーゴスラヴィアとそこで展開された民族浄化については,第二次大戦下のユーゴスラヴィア - Danas je lep dan.も参照.
※3:小原淳氏による.p.58.
――――――「ストパン」■(2009-04-03)[読書][中・東欧][歴史]ドイツ現代史の入門書を読む
【質問】
ドイツ・ユダヤ人は第二次大戦終結までにどのくらい減少したのか?
Mennyi csökkentek németi zsidók végéig a második világháború?
【回答】
ヒトラーがドイツの首相に就任した1933年には,ドイツ・ユダヤ人の人口は約52万5000人だった.
反ユダヤ主義の暴威にさらされたことにより,出国が禁止された1941年10月までに,約30万人がドイツから出国.
絶滅政策の初期段階では,ドイツ・ユダヤ人を含むヨーロッパ・ユダヤ人は,ポーランド占領地域に作られたゲットーに移送され,ドイツ側はそこにユダヤ人を閉じ込め,彼らの収入の道を絶つことで,計画的・組織的な飢餓政策を推進した.
その後,1942年初めには「労働による殲滅」政策が始まり,ユダヤ人は強制収容所へ移されて過酷な労働に死ぬまで従事させられ,病死または衰弱死した.
上記の各段階で,意図的な虐殺があり,移動殺戮部隊である「行動部隊(アインザッツグルッペン Einsatzgruppen)」の技術的・精神的困難を解消すべく,常設の絶滅収容所が建設された.
一方,ドイツ人と婚姻関係にあるユダヤ人およびその子供・孫は,大多数が生き残った.
これは,配偶者であるドイツ人・オーストリア人の猛抗議によるものであった.
しかし,仮にナチスが勝利していたならば,彼らも結局は絶滅対象になっただろうと言われている.
ヒトラーが自殺した1945年,ドイツ・ユダヤ人人口は推定2万5000人に激減していた.
【参考ページ】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.176-179, 217-222, 319-321 & 351-355
https://www.ushmm.org/outreach/ja/article.php?ModuleId=10007687
http://synodos.jp/international/6236
mixi, 2016.8.17
【質問】
なぜドイツで反ユダヤ主義が激化したのか?
【回答】
ドイツは,あまり関係のない人々が,共通の言語や文化なるものによって無理やりにくっつけられたため,は文化的,宗教的,または社会的・経済的住民集団を抑圧するか,強制的に同化せしめるかにならざるをえないのだという.
現代でも,少なめに見積もっても国民の15%がファシズム的な価値観の持ち主であると言う.
以下引用.
------------
おおよそドイツと言われている地域には,時には300以上の領邦国家や伯爵領や自由都市があり,フランス革命後に整理されたとはいえ,19世紀半ばでもまだ30以上の小国家群であった.
それが1871年に統一されてドイツ帝国となった.
しかし,人口比から見れば3分の1にも満たない市民層の言葉と共用の,ある程度の共通性があるだけだった.
あまり関係のない人々が無理やりにくっつけられ,特殊金属のようなもので溶接させられた感が強い.その特殊金属とは共通の言語や文化なるものであり,かつ,統一という軍事的および,それがもたらした未曾有の経済的成功である.
したがって,19世紀後半のドイツ帝国は,法治国家ではあっても,主権は皇帝にあり,国民主権に基くデモクラシーという意味での国民国家ではなかった.
特に文化の基盤には「民族精神 Volksgeist 」などというものが想定されていた.
日本でもその影響で「ゲルマン民族」とか,そのエキスとして「不屈のゲルマン魂」ゲルマン的サッカー」など,なんの根拠もない言葉が使われるようになってしまった.
〔略〕
だが,こうしたエトノス〔民族〕に重点を置いた国家は,国民の一部に対する「差別」が西欧型※よりさらに強くなる.
高名な社会学者ライナー・レプジウスは,こう書いている.
「政治的主権の担い手としてのデモス(民)を,何か特定のエトノス(民族)と同一視するならば,どんな場合でも必ず結果として,ある政治的組織体の中での他のエスニック・グループ,あるいは文化的,宗教的,または社会的・経済的住民集団を抑圧するか,強制的に同化せしめるかにならざるをえない」
1871年以降のドイツ帝国の歴史は,ユダヤ人への,カトリックへの,また労働者階級への抑圧の歴史であった.
そして最後にヨーロッパ・ユダヤ人の全面抹殺のブログラムとなった.
もちろん,この西欧型と中欧型の区別はあくまで理念型であって,実際には多くの混合型がある.
フランスではフランス語ができなければ文明人と見なされない時代が続いた点では,フランス語中心主義だったと言えるし,国籍に関する取り決めも,全てがいわゆる属地主義であったわけではない.
また,ドイツの場合も,長い間に東欧から色々な形で入ってきて定住したスラブ系の名前の人でも,代が替われば誰もがドイツ人と思うところがある.
しかし,国籍法を始め,国の根幹を支える価値体系にやはり大きな差があることは間違いない.
※自ら定めた共通の法の下に結集した民(デモス Demos )の作る政治的共同体という考え方である.------------三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.21-24
このデモスが歴史や文化や言語を共有している必要は,少なくとも理論上はない.
〔略〕
こうしたフランスやアメリカ式の,少なくとも理論上は,文化的共通性とか,ましてや血統上の同質性を前提としない国民国家のあり方を,西欧型と名付けておこう.
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,その点は留意されたし.
------------
例えば,1969年と言えば学生運動の激しかった時代で,当局の監視の目は圧倒的に左翼の組織に向けられていたが,その年の連邦憲法擁護庁による半ば義務的な調査でも,90の組織に3万7000人の右翼過激派がいるとされている.
しかし,そうした「活動家」の数よりも重要なのは,社会学者,政治学者による様々なメンタリティ調査,つまりアンケートだけでなく,長いインタビューやディスカッションを入れた調査によると,西ドイツの住民は60年代から90年代まで一貫して,低く見積もっても15%ほどがファシズム的な価値観の持ち主であったことである.
フランクフルト社会研究所だけでなく,いくつかある有名な世論調査研究所の調査でも,そうした結果が出ている.
専門家の疑問は,そうしたメンタリティの持ち主が,社会の合理化,近代化に乗り遅れた下積みの人々に多いのか,あるいは多少とも時代について行けた人々のあいだに多いのかを巡ってなされていた.
そして実は,一般的印象とは異なり,後者の人々のほうが,右翼的心情に染まりやすいというデータがたくさん出ている.
人種差別や外国人排斥の温床は,社会の中核部分に常に潜んでいたのだ.
------------同,p.78
だたし,フランスでも決してユダヤ人差別がドイツに比べてマシとはいえないばかりか,むしろドイツより酷い場合もあるそうなので,それが上述のフランス語至上主義だけで説明できるのかどうか,なおいっそうのデータ蓄積が必要となるだろう.
【質問】
なぜナチはアーリア人を優遇してユダヤを迫害したのか?
【回答】
ユダヤ人は,ドイツの多くの地域で工場などの生産設備の所有者であり,社会資本の再整備に当たって邪魔な存在であった.
また,中世以降連綿と続けられてきたユダヤ人に対する蔑視・迫害も背景にあった.
【質問】
ドイツが施行した各種法及び政策上においては,「ユダヤ人」はどう定義されていたのですか?
【回答】
ニュールンベルク法,ユダヤ人規定に準拠.
1,祖父母にさかのぼり,四人の祖父母のうち三人がユダヤ教徒の場合→ユダヤ人(ユーデ)
2,祖父母のいずれか二人がユダヤ教徒で本人も同様の場合→ユダヤ人(ユーデ)
※信仰していないと一親等ユダヤ系混血児(ユーディッシュ)とされる.
3,祖父母の一人がユダヤ教徒で,本人が違う場合→二親等ユダヤ系混血児とされる.
4,信仰はないが祖父母にユダヤの血が入っている者→ユダヤ系混血(ハルプユーデン)
※平時においては国民とするが非常時にはユダヤ人とする
【質問】
ナチスは何を証拠に,ユダヤ人を判別していたの?
ユダヤ教信者をユダヤ人としていたの?
【回答】
1935年11月14日付けでユダヤ人の概念を規定した条例が出されており,それによると,
(1)本人の祖父母4人のうち,3人以上がユダヤ教徒であった場合,本人は法的にユダヤ人(ユーデ)となる.
この場合,両親の宗教の内容は問われない.
(2)本人の祖父母4人のうち,1人がユダヤ教徒であった場合,本人は法的にユダヤ系(ユーディッシュ)となる.
本人がユダヤ教徒でない場合は,二親等ユダヤ混血児になる.
ちなみに祖父母2人と本人がユダヤ教徒の場合,本人はユダヤ人扱いになる.本人がユダヤ教徒出ない場合は,一親等ユダヤ混血児になる…等,かなりややっこしい.
本来,ユダヤ人を血統的なもの,人種として扱ってきたナチスだが,彼らの法による概念では宗教の属性による分別が行われている.
仮に血統的に純粋なアーリア人がいたとしても,祖父母3人がユダヤ教に入信していた場合,彼はユダヤ人になってしまうのである.変なの.
(イスラエル国防相 ◆3RWR.afkME)
【質問】
ナチス・ドイツのユダヤ人への対応は,どのように変化していったの?
【回答】
最初,ユダヤ人をマダガスカル島に島流しにするつもりだったらしい.
で,戦争が始まったんで沙汰止みになって,今度はさっさとソ連をやっつけてシベリアに送るつもりが,戦局が思わしくなくてそれどころじゃ無くなる.
強制収容所を置いてるポーランドでは,食いもん足んなくなって総督が悲鳴を上げる.
ヒムラーがヒトラーにないしょで銃殺し始める.
で,ガスで「処理」する事にしたんだが,青酸ガスのバルブ開けるのはアルバニア人とかにさせてたそうだ.
そもそもアウシュビッツとかのガス室は,兵士の心理的負担を軽減するために作られたものだからね.
銃殺を行う兵士に精神異常が相次いだことへの対策として,アイヒマンが殺人工場の建設を提案したのがはじまり.
軍事板,2000/07/08(土)
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツ国内では,ユダヤ人迫害に対し,どんな抵抗運動が起こったのか?
【回答】
例えば,署名運動や抗議の退学などが音楽学校学生によって起こった.
また,フルトヴェングラーはユダヤ系音楽家を擁護するため,新聞に公開書簡を発表するなど東奔西走した.
また例えば,ドイツ国防軍は,ナチスに距離をとる保守主義者の牙城となっていた.
以下引用.
------------
ドイツで1933年にナチス党が政権を奪取すると,ドイツ各地でユダヤ人が組織的に厳しく迫害されるようになった.
公務員であったユダヤ系音楽家の多くは,公職からユダヤ人を排斥する職業的官吏再建法の成立によって解任されることになり,各地の音楽大学や劇場からも多くの音楽家が追い出された.
シロタの義弟でデュッセルドルフ国立歌劇場音楽総監督ホーレンシュタインもその地位を失った.
ピアニストのベルリン音楽大学教授クロイツァー,マンハイム国立歌劇場音楽総監督ローゼンシュトックなども,このとき解任された.
ユダヤ人迫害のような蛮行が,抵抗なしに受け入れられたわけではない.
ナチスは反対派を厳しく弾圧したが,ベルリン音楽大学では学生がユダヤ人教授を擁護した署名運動を行なって,ドイツ音楽界の名誉を幾らかは守った.
ユダヤ系の師と共に学校を辞めて,個人教授に切り替える学生も多かった.
ユダヤ系音楽家圧迫に反対した人々の筆頭が,ホーレンシュタインの師ヴィルヘルム・フルトヴェングラーで,彼はユダヤ系音楽家を擁護するために新聞に公開書簡を発表した.
この挑戦には,ナチスもいささかたじろいだ.
フルトヴェングラーはベルリン・フィルハーモニーの常任指揮者であり,1934年に日本の外交官が日本外務省への公信で報告したように,地位,人格,才能から,ドイツ一般民衆の「圧倒的人望」を得ていたからだ.
この日本外交官は,ナチスに抵抗するフルトヴェングラーの背後に,ナチスの反ユダヤ主義に賛成しない多くの民衆がいると強調した.
保守的で愛国的であっても犯罪的行為には反対する人々のことは,ナチスにもなかなか弾圧できなかった.
さらに日本の外交官は,とりわけドイツ国防軍が,ナチスに距離をとる保守主義者の牙城であることを指摘している.
この観察も正しく,第二次世界大戦末期に,良心派の将校は1944年7月20日事件(ヒトラー総統暗殺未遂事件)まで引き起こした.
ドイツ宣伝省のナチス官僚は,ユダヤ系音楽家を擁護するために東奔西走したフルトヴェングラーについて,
「フルトヴェングラーが擁護しようとしないユダヤ人を一人でも挙げることができますか」
と愚痴を言った.
ホーレンシュタインも地位を失い亡命した時,師の推薦を得て海外で再就職を試みた.
1933年にナチス体制が成立しても暫くの間,フルトヴェングラーの指導するベルリン・フィルハーモニーはトップ奏者にユダヤ系音楽家を擁していた.
その一人が,後にピアストロ・トリオの一員としてシロタとも共演したベルリン・フィル首席チェロ奏者のヨーゼフ・シュースターだった.
フルトヴェングラーはシュースター,コンサート・マスターのゴールドベルクなどユダヤ系楽団員をソリストとして器用,その実力を誇示してナチスに対抗した.
しかし1934年,作曲家ヒンデミットの処遇を巡ってフルトヴェングラーはヒンデミット擁護の公開状を発表,ナチスの反撃を受けて辞任することになった.
ベルリン国立歌劇場で活躍した大指揮者エーリッヒ・クライバーも連帯して辞任,ドイツ音楽界は2人の守り手を失った.
ナチスの統制に屈しないで,ベルリン音楽大学ではもう一度だけ学生の抗議と署名が行われた.
政治的反対派が容赦なく強制収容所で虐待されるナチス体制の下で,抗議活動を展開した学生の勇気には驚くべきものがあったが,状況を変えることはできなかった.
あるヨーロッパの音楽家一族に伝わる話では,フルトヴェングラーはいったん亡命を決意したのだが,すでに亡命を余儀なくされていた親友のユダヤ人音楽家に,ドイツの聴衆を見捨てないように懇願された.
フルトヴェングラーは汚名と批判を被りながらドイツに留まって,友人の願いに応えた.
------------山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」(毎日新聞社,2004.11.20),p.133-135
伝聞・風説の類にコメントするのも如何なものかとは思いますが,クラシックの演奏家の挿話に明るければ,上記で紹介されている.
『あるヨーロッパの音楽家一族に伝わる話では,フルトヴェングラーはいったん亡命を決意したのだが,すでに亡命を余儀なくされていた親友のユダヤ人音楽家に,ドイツの聴衆を見捨てないように懇願された.』
のユダヤ人音楽家は容易に思いあたります.
同じドイツが生んだ大指揮者ブルーノ・ワルターBruno
Walterであれば,こういった類の懇願をフルトヴェングラーにしたとしても可笑しくないでしょう.
フルトヴェングラーは1948年にアメリカのシカゴ交響楽団から来演の依頼を受けます.
このとき,
『ナチスにとどまったフルトヴェングラー等もってのほか』
と,当時のアメリカ・クラシック界の大物,トスカニーニ,ホロヴィッツ,ルービンシュタイン,ハイフェッツ,カザルス等がこぞって反対し,シカゴでの演奏を拒否するとまで,言い放ちます.
このとき,ユダヤ系でありながらフルトヴェングラーを擁護したのは,弟子筋に当たるメニューインであり,ワルターその人でした.
ワルターとフルトヴェングラーの親交は広く知られており,
『マーラーはワルターに任せた』
と,ワルターの音楽性への信頼も厚かったフルトヴェングラーですから,仮にワルターから
『どうか,ドイツの人々を見捨てないでください』
と懇請されれば,更なる汚名を被るのを覚悟でドイツに残ったとしても不思議ではありません.
ちなみに,ナチスの支配するドイツに残ることが相当のデメリットになるとの認識は,1937年時点でトスカニーニと論争になった時点である程度把握できたでしょうし,ストコフスキーに実際に亡命の打診をした時点で,アメリカでの自分への反発の強さを感じていたことは間違いないと思われます.
こういうのが,ほんまの「武勇伝」ちゃうやろか?
【質問】
ドイツ軍軍人によるユダヤ人救出活動はあったの?
【回答】
国防軍の中にもかなり反ナチがいて,ベック将軍等の力を借り,オスター将軍やカナーリス提督,フォン・ドーナニー博士などが偽パスポートを偽造したり,サボタージュを行なうなど,ユダヤ人救出作戦の準備を整えていたとのこと(クーデターの機会も).
ただし反ナチがかならずしも,反・反ユダヤに重なるものではありませんでした.
シャハトはそれなりにユダヤ人に同情的でしたけど,大部分は,<無関心によるユダヤ人迫害の幇助>らしいです.
戦争に負けそうになったから・・・と言う理由で反ユダヤ政策に対しては賛成こそしないものの,見て見ぬふりが大半だったとも聞きました.
まあ,自分達も命を懸けて戦っているのに,そこまで目を向けろと言うのは酷ではありますが.
しかし初期からの陰謀者である,L・v・ベックやC・ゲルデラー等は,軍事的・人道的両方を持ちあわせ合意していたと聞きます.
少し遅れて参加したv・トレシュコウやC・v・シュタウフェンベルクも軍事的視点を優先していましたが,東方の虐殺に容認(黙認)できなかったようです.
ジャック・ヒギンズの歴史冒険小説に出てくるシェレンベルク少将も,ユダヤ人に偽造パスポート渡して,スウェーデン経由で脱出を手伝ったり,収容所の反乱を支援したりしていたとあります.
でもヒギンズの小説に出てくる少将は,少し美化されている感じもしますので,あまり鵜呑みにはできませんが…….
(ちなみに,シェレンベルクが出てくるヒギンズ作品は,ハリー・パタースン名義の「ウィンザー公掠奪」と,名作「鷲は舞い降りた」の続編「鷲は飛び立った」です.
どっちのシェレンベルクも,かなり魅力的な人物として描かれています.
ハヤカワ文庫NVから発売されているので参考までに)
シェレンベルクは戦後,裁判で,ユダヤ人からも好意的な証言をしてくれたことから,SSに所属していた罪だけが問われて,実際には二年間だけ刑務所で服役して釈放されたそうです.
シェレンベルクはその後,肝臓癌で亡くなったと聞きます.
収容所警備の職務についていたSS(髑髏部隊,SD,ゲシュタポ)の中にも,ごく希にですが,ドイツ人であることが恥ずかしいと漏らしたり,ユダヤ人を動物扱いできない人もいたらしく,彼等は降級・左遷,武装SS一兵卒として東部戦線の最も危険な前線へ送られた,と聞きました.
国防軍の中では,戦況視察に立ち会った将校や兵士が,親衛隊(一般)によるユダヤ人虐殺をたまたま目にし,それが原因で加わった人もやはり多かったらしいです.
正義感か,少なくとも自分達だけは手を汚したくないと考え,そのうち,自分達も手を汚さなければならないのかも・・・と感じ始めたかは知りませんが.
ネーベ長官は7/20の乱のメンバーとしては,ごくわずかな警察官ですね.
彼は特別行動隊B(アイン・・・グルッペ)を指揮していたのですが,他の地区と比べると被害者が少なかったのは,彼の迷いだったんでしょうか.
警察では他に,フォン・ヘルドルフ(SA,SS准将),フォン・シュレンブルク伯が,水晶の夜以降からの参加者です.
ヘルドルフ伯は,ユダヤ人迫害の水晶の夜事件に対し,シャハト博士に続き,大胆に抗議した人です.
▼ 他に,こんな例もあります.
――――――
第3帝国の秘密最深部/ホロコースト
1943年,ブッヘンバルト強制収容所で汚職捜査をしていたSD経済事犯部のコンラート・モルゲン少佐は,「法律的な根拠のない」ユダヤ人の絶滅作業を,「はじめて知り」,びっくりして,上司に報告.
収容所を管理する上位機間RSHA(ドイツ国家保安警察本部)内にも,ユダヤ人処刑命令の文書の不在が確認され,本部長のカルテンブルナーまでが,
「おら,絶滅作業なんて知らなかった」
と,びっくり仰天.
「ユダヤ人の絶滅作業は,現場レベルでの違法行為か」
「あるいは国家最高レベルでの,(おそらくは総統みずからの)違法行為か」
と大騒ぎになった.
結果,ヒムラーと総統官房の介入をまねき,モルゲンは「ユダヤ人絶滅措置の法的根拠についての捜査」の中止を命じられた・・・・.
――――――
以上,デビッド・アーヴィング「ヒトラーの戦争」からの引用です.▲
ちょっと面白いので挙げておきます.
ただしアーヴィングには,中立性に関して疑問の余地も大いにあります.
詳しくは別項参照.
少なくとも,クロスチェックは必須かと.
軍事板,2000/07/09(日)~07/13(木)
青文字:加筆改修部分
▼ アーヴィングは反ユダヤ主義に基づくホロコースト否認論者であることが確定しましたので,該当部分は削除しました.
⇒more▲
2018.6.18
【珍説】
ボイコット運動などを通じ,ユダヤ人はドイツに公然と敵対していたから,敵性外国人として強制収容されて当然.
【事実】
おいおい,そのボイコット運動って
http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/gulfwar_02_05_12.html
ここの中ほどで紹介されてる.「ユダヤ人がドイツに宣戦布告」の記事のことか?
この新聞にははっきりと「BOYCOTT OF GERMAN
GOODS」って書いてある.
否定派はこれを根拠にユダヤ人への待遇を正当化しようとしてるみたいだが,宣戦布告とやらの内容が実はただの不買運動で,実情は失敗していたのに,なぜ強制収容所で隔離されることになるのか.
【質問】
大戦中ドイツにはユダヤ人はいなかったんですか?
みんながみんな亡命か収容所送り?
【回答】
まずドイツ本国,それからドイツに占領,併合された地域でも,ユダヤ人に対する扱いというのはいろいろと違いがあった.
最終的に絶滅政策をとっていた時期もあるけど,強制労働により戦争遂行に必要な人的資源にみなす政策などもあった.
このへんの事情は「シンドラーのリスト」が扱っている.
また,ユダヤ人は欧州に歴史的に見ても古くからいるわけで,必ずしも他民族と人種的にきちっと分類できるわけではない.
ユダヤ人説のあったナチス・ドイツ軍人としては,空軍のエアハルト・ミルヒ元帥が有名.
また,エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥もユダヤ人説を疑われ,SSに調査された.
彼の本名はエーリッヒ・フォン・レヴィンスキー(マンシュタイン家の養子)で,その家系はワルシャワのラビの血を引いていたらしい.
この他にも,ごく少数だが,ユダヤ系であるにもかかわらず,有力者の妻や係累で特別許可を受けて収容所に送られなかった者もいる.
書類を誤魔化したり,金を掴ませたり,ナチに積極的協力をする事で黙殺してもらうとか,抜け道は割りと多かった模様.
【質問】
エーリッヒ・フォン・マンシュタインはリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキーという名前であって,養子でマンシュタイン家に来た人のであって,本当はユダヤ系の家系っていうのは本当でしょうか?
本人が側近に語ったっていうのは本当?
【回答】
プロイセンのユンカーだったフォン・マンシュタイン家に跡取りの男子が生まれなかったため,同じユンカーのフォン・レヴィンスキー家から養子として迎えられたのがエリッヒ.
当時のマンシュタイン家の当主の妻とレヴィンスキー家の当主の妻は姉妹だったので,生まれる前にはそういう取り決めをしていた.
レヴィンスキー家がユダヤの血を引いている,とマンシュタインが言ったという話は,彼の副官だったアレクサンダー・シュタールベルクの「回想の第三帝国」という回想録に出てくる.
ただしシュタールベルクがそう書いているだけで,本人がそういう発言をした確証はない.
この本では,マンシュタインがユダヤ人の虐殺について知らなかったと発言したという記述もあり,内容をそのまま受け取るのは危ういところがある.
なおLewinskyまたはLewinskiという姓はユダヤ系スラブ人によくあるが,もし仮にそうだったとしてもニュールンベルク法の規定では,マンシュタインはユダヤ系ではないということになる.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ナチス・ドイツ空軍のミルヒ元帥はユダヤ人だったのか?
【回答】
現時点では,否定も肯定もできない模様.
ミルヒの生立ちの秘密については,以下引用.
……だがそんなものよりミルヒの生涯を終始決定的に支配した,ある重大な秘密があった.
それがミルヒにとってよくよく重大なものだったことは,彼の人生の終り近くになって,ある伝記作家がその真相をつきとめた際にも,ミルヒは頑として口をつぐんで何も語ろうとしなかったことでもわかる.
(中略)
ミルヒを生むことになるクララという女性は,自分の叔父とはげしい恋におちたが,そのような結婚が両親からも,また教会のおきてに照らしても許されようはずがなく,クララはやむなく別の相手のアドルフ・ミルヒと結婚した.
それは彼女に,アドルフの子は絶対に生ませないというきびしい約束の上での,納得ずくの結婚だった.
クララが後に保護院に収用されるような不治の精神病者となったことでも裏書きされるように,クララが真に愛した男性は叔父であり,叔父の子を生むという条件のもとでクララはアドルフとの結婚を承諾したのであった.
(中略)
……この秘密を彼が知ったのは,中年になってからの一九三三年のことである.それは密告を通じてであった.ミルヒの父親はユダヤ人であると密告したものがあり,ことの真偽をその筋を調査しているうちに右のような出征の秘密が判明したのである.
この密告は,ナチでも党の枢要の地位にあるミルヒを失脚させようとしての,誰かの工作だったことはもちろんである.
アドルフ・ミルヒは事実ユダヤ人だった.
それで息子をアーリア人種に分類されるよう,エアハルトは私生児であるという話を母親が捏造したのだという噂が,まことしやかに囁(ささや)かれるようになった.
(中略)
「誰がユダヤ人で,誰がユダヤ人でないかをきめるのはこの俺だ!」
と,ゲーリングはミルヒの出生の秘密の噂話を持ち込んでくる者達によく言った.
だが彼の示すこのような姿勢は密告者たちに,ははあん,さてはゲーリングもこの話の揉み消し側に回っているんだなと思い込ませるだけだった.
ゲーリングがミルヒ出生の秘密をすべて知っていたことはもちろんである.
このミステリーへのゲシュタポの探査の背後にはゲーリングがいた.
自分の右腕になっている男が,自分の母親のいまわしい人生よりもさらに陰惨な出生の秘密をもっているという事実を,ゲーリングが握っていなかったなどとは,考える方がおかしいというものであろう.
(レン・デイトン著「戦闘機」上巻,P65~67)
これをもってミルヒがユダヤ人ではない,とは申しません.
引用した冒頭に出てくる「ある伝記作家」がデービッド・アービング(David
Irving)であることはde.wikiなどでも明らかです.先ごろ有罪判決を受けたようですが.
en.wikiなども調べ,関連サイトも見ましたが,なにやら,蟲がいっぱい詰まった箱を覗いたような気分になったことをご報告申し上げます.
エアハルト・ミルヒ
(画像掲示板より引用)
【珍説】
実際にユダヤ人は,かなり保護されていた.
例えばドイツ空軍の最高権力者の一人,エアハルト・ミルヒ元帥はユダヤ人.
【事実】
迫害されてないなら,なんでミルヒは出自を捏造した?
堂々とユダヤ人だってしとけばいい.
【質問】
ドイツ国防軍は虐殺には関与していなかったの?
【回答】
そんなことはない.
ドイツ国防軍は,ヒトラーの横暴におされた高貴なる騎士道集団では決してない.
むしろときには愚昧で,必要にかられ一般市民を虐殺し,たぶんにナチズムに共鳴した.
さらに悪いことに戦後,ニュウルンベルクの戦犯裁判対策で,戦闘日誌を改竄.
悪行と失敗をヒトラーとSSになすりつける傾向にあった.
この意見はデビッド・アーヴィング『ヒトラーの戦争』(ハヤカワ文庫NF)に依った.
たぶん事実だと思う.
芝健介『武装SS』(講談社選書メチエ)から,以下の国防軍指令を引用する.
・国防軍第6軍ライヘナウ元帥指令(1941年10月10日)
「(今回のドイツ軍による)ユダヤ・ボルシェビキ体制打倒の遠征の本質的目的は,この体制の権力装置を解体し,ヨーロッパ文化圏におけるその影響力を,永久に抹殺することにある」
・同第11軍マンシュタイン将軍指令(同11月20日)
(同上の内容)
・同第4戦車軍ホート将軍指令(42年8月1日)
「ブラーツカヤ・ゼムリャの戦闘には,非戦闘員の地域住民が戦闘に参加している.15歳以上の男子住民は全員射殺せよ」
当然ながら名将マンシュタイン著『失われた勝利』(中央公論社)からは,上記指令もふくめ,ボルシェビキやユダヤ人問題,パルチザン処遇についての論述はほとんど省かれている.
しかし後方兵站線確保ひとつとっても,だれかが手を汚さねばならない.
いわゆるアインザッツグルッペン(処刑部隊)に代表される戦争犯罪と国防軍は,いわれるよりは表裏一体の関係にあったものと思う.
軍事板,2000/07/24(月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
"ドイツ国防軍に15万人のユダヤ人兵士がいた"のは嘘なんですか?
【回答】
「長年の内にゲルマンとユダヤの血が混じった」
ので判別不可.
よって「いた」とも言える.
あと,「ユダヤ」ってのはユダヤ民族とかじゃないぞ.「ユダヤ教を信じてる人」だからな.
お前がユダヤ教を信じれば,お前は「ユダヤ人」となる.
これが,「ナチの定義のユダヤ人」なら,もっとずっと多くなる.
「3代前まで遡って,キリスト教に改宗してようがしてまいが,ユダヤ人の血が混じってないことが証明できなかったらユダヤ人」
というのが,その定義.
で,厳密に調べ始めたら,ナチ幹部は「ユダヤ人」だらけになったので,うやむやになったとさ.
軍事板
【質問】
以前にNHKスペシャルでドイツはユダヤ人没収資産(現金,金塊,美術品等)をスイス銀行を利用して,戦費に充てなければ,ドイツは三ヶ月もたなかったという事が言われてましたが,本当でしょうか?
個人的にはホロコーストを行わず,それらに充てていた収容所護衛の為の兵士,輸送用の車両,収容所建設の為の予算等を戦争に充てていたら,欧州戦線の状況はかなり違った物になったと思うのですが.
【回答】
戦争を甘く見すぎです.
そんな没収財産の3桁も4桁も上回る金が,湯水の如く使われていくのが戦争と言うもの.
ドイツは5年間近く戦争していますから,
4年×12月=48ヶ月
として,ユダヤ資産無しで3ヶ月持たないとするなら,ユダヤ資産で45ヶ月以上戦争したことになります.
戦前ドイツの資産が9割以上,ユダヤ資産でなければありえない計算ですなあ.
…東南アジアの華僑じゃああるまいし.
軍事板,2004/11/22
青文字:加筆改修部分
さて,1932年のライヒ財政は,租税収入が87%を占めていました.
33年にHitlerが政権を握ると,この租税収入の比率は低下し,36年には50%を割り込むことになります.
その代わりに増えたのが,公債収入と手形金融で,手形金融が36年度に支出の38%,公債収入は同年度に支出の13%を賄っていました.
この間のライヒ財政収入は一貫して赤字財政です(33年は3%,38年度に6%~計算方法によっては14%).
公債収入に関しては,公債の利率を4.5%に抑え,会社の配当を6%に設定してそれを超える場合は,強制的に割引銀行に公債基金として預託し,銀行その他金融機関に公債の引き受けを強制しています.
それ以外に,ライヒ鉄道の優先株売却(33~34年),公債償還基金の取り崩し,失業保険制度を元にした,ライヒ職業紹介失業保険庁と,ライヒ社会保険機関からの財政援助が,国家財政とは別に行なわれています.
後,1938年度以降,ドイツ国籍のユダヤ人に対する特別財産税,これは1938年度に4億9851万マルク,39年度は5億3313万マルクが徴収されています.
このほか,オーストリア併合に伴い,国防などの行政経費相当分が州となったオーストリアからライヒ政府に1億8741万マルク,社会保険料としては,5608万マルクが納入されています.
更に,1939年1月からは,ライヒ税法による所得税の適用が行なわれていますが,これは旧オーストリア国民にとってみれば,配偶者と子供二人を持つ労働者は20%の増税となっています.
それと,チェコスロヴァキア併合で,中央銀行の7786万マルクの準備金が没収され,ライヒ政府の会計に組み込まれています.
一方,1933~37年度の国防支出は323億マルク,これは政府支出925億マルクの35%です.
この支出には,メフォ手形と呼ばれる政府特殊手形が206億マルク,雇用創出手形2億マルクが入っており,国防費に投入された租税収入は,償還費用を除けば,190億マルクになります(租税収入509億マルクの37.3%).
ユダヤ人からの特別財産税なんてへの突っ張りにもなりません.
こういった種々の手形や公債での国防費管理は限界に達し,1938年末には国庫の資金は20億マルクの不足に陥り,10月のズデーテンラント侵攻の費用にも事欠く有様だったりしていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/11/22
青文字:加筆改修部分
【質問】
ルートヴィヒ・グットマンって誰?
【回答】
ルートヴィヒ・グットマン Ludwig Guttmann はユダヤ人亡命者で医師.
1899年7月3日,トシェック Toszek という町に生まれる.
この街はポーランドのピャスト朝(960年頃~1370年)の初期に建設された要塞から発展した町だが,その後,ボヘミア王の所領になったり,シレジエン公のものとなったりしており,ドイツ名ではトシュト
Tost と呼ばれた.
第一次大戦後,住民投票によってドイツ帰属が決まった.
1921年のことである.[3]
(第二次大戦後はポーランド領)
ぞれより前の1742年,シレジエン戦争の最中,プロイセン王国支配下のこの街に最初のユダヤ人コミュニティが作られた.
プロイセンはこの入植を,富をもたらすものとして歓迎し,ユダヤ人たちは若いプロイセン王が正義と公正さをもたらしてくれるものと期待した.
当初,プロイセン当局とユダヤ人社会との関係は中立的だった.
しかし,皇帝フリードリッヒ二世は,ユダヤ人社会に特別な金融税をかけるようになった.
破産した者は,町に住む権利を失った.
その後,他の町への移住を奨励されたり,経済損失を恐れて逆に引き止められるようになったり,七年戦争でプロイセンが困窮すると,ユダヤ人富豪の規制をさらに緩めたりと,主に経済的理由によってユダヤ人社会に対する政策は揺れ動いてきた.
1885年には,この街には146人のユダヤ人が住んでおり,これは住民総数の6%に相当した.[4]
グットマンは17~18歳の時,放課後に,負傷した炭鉱夫を専門に扱う病院で,ボランティアとして働いていた.
ある日,脊髄を損傷した若い炭鉱夫が運ばれてきた.
彼についての記録を書き始めたグットマンは,スタッフにこう言われた.
「記録は要らないよ. どうせもっても数週間だ.」
その言葉通り,その炭鉱夫は尿路感染症と重度の床ずれから敗血症にかかり,5週間後に死んだ.
この患者のことを,グットマンは生涯忘れることはなかったという.[1]
彼は医学を志し,1924年,ドイツのフライブルク大学で医学博士の学位を取得.
ヴロツワフで神経学で高名なフェスター教授の下で働く機会を得た.
1928年からは,ハンブルク大学に併設された,ベッド数300の精神科クリニックで神経外科医を勤め,1929年にはフェスター教授の助手になった.[1]
しかしナチス・ドイツが台頭してくる.
1932年の総選挙ではNSDAPが大躍進.
SAによるユダヤ人商店・ユダヤ人医師に対する嫌がらせや,法的な制限を行い始めるようになった.[4]
1933年には,ユダヤ人が公立病院で医療に従事することが禁止され,グットマンも6月30日付で解雇される.
グットマンはしかし,ヴロツワフのユダヤ人病院の神経外科部長として,直ちに職を得た.
実は彼には外国からの仕事のオファーが十分あったのだが,ナチスが長続きするとは信じられなかったグットマンは,ドイツに留まった.
ユダヤ人医療従事者界の長に選ばれたグットマンは,危険を冒しながら何度もユダヤ人を救った.[1]
1938年9月,グットマンはゲシュタポに,ユダヤ人以外の患者を退院させ,またユダヤ人以外の患者の診察をやめるよう命じられる.[1]
1938年11月9日夜から10日未明にかけての「水晶の夜」では,多くのユダヤ人やその住宅,商店,シナゴーグなどが襲撃され,故郷のトシェックでもシナゴーグが炎上させられた.[4]
一方,ヴロツワフにいたグットマンは,病院のスタッフに「病院に助けを求めて来た者はすべて受け入れるよう」命じた.
それにより,病院に来た63人の患者のうち60人が,逮捕され強制収容所送りになるのを免れた.[1]
ここに至り,グットマンもドイツを離れる決意をする.
1939年初め,彼は妻子を連れてドイツを離れ,同年3/14にイギリスに到着,同国に亡命した.[1]
有能な神経医学者だったグットマンは,オックスフォードに研究を続ける場を与えられた.
当時,半身麻痺患者の死亡率は80%に達していた.
生存した者は,“仕事に就けず,将来の希望も持てず,役立たずの社会のお荷物”として施設に送り込まれた.
半身麻痺患者の平均余命は,わずか3ヶ月だった.
1941年12月,グットマンはイングランド医療研究委員会に要請され,脊髄損傷患者の扱いとリハビリに関するレポートを提出する.
その結果,委員会は脊髄損傷患者のみを対象にした特別なセンターの設置を決定.
1943年9月,バッキンガムシャー州ストーク・マンデヴィル病院に国立脊髄損傷センターが設立され,グットマンは政府によって所長に任命された.
ベッド数26のセンターは,1944年2月1日にオープンし,脊髄を損傷した兵士を収容した.[1]
自分の足で歩くことができなくなった彼等は当時,医療関係者にも一般大衆にも,「将来に目的も希望もない」「二度とふたたび社会に溶け込めない」存在であるとみなされていた.
脊髄を損傷した兵士たちは鎮静剤を投薬され,ギプスを当てられ,ベッドに寝かされたきりで,避けようのない死を待つだけだった.
尿路感染症やひどい床ずれにより,大半が2年以内に死亡した.[1]
しかしグットマンは,患者への鎮静剤投与をやめさせ,尿路感染症や床ずれを防ぐため,患者をできるだけベッドから離すようにした.
また,スポーツや手作業(木工,時計の修理,タイピングなど)を奨励することによって,患者の肉体面および精神面での健康を回復させた.
特にスポーツは,半身や四肢が麻痺した患者の体力やスピードやバランス感覚や持久力を向上させるだけでなく,自信喪失,自己憐憫などに沈みがちな患者の精神をも向上させるのに有効だった.
スポーツによって育まれる自己鍛錬,自信,競争心,同朋意識などは,患者が社会に復帰するには必要不可欠だ.
グットマンのセンターに倣い,他の医療センターでも積極的にスポーツをリハビリに取り入れるようになった.[1]
その身体的・精神的なリハビリテーションにスポーツが最適であると考えたグットマンは,1948.7.28,入院患者を対象としたストーク・マンデビル競技大会を,センター内で開催した.
これはロンドン五輪の開催日と同じ日だった.
14人の男性と2人の女性の半身/四肢麻痺者がアーチェリーと卓球の競技を行った.
「ちっぽけな競技会ではあったが,スポーツが身体機能者だけに与えられた特権ではないことを実演するには十分だった」
と,のちにグットマンは語った.[1][2]
その言葉を裏付けるように,翌1949年には,より多くの病院から,より多くの患者が大会に参加.
次の年も,その次の年も,参加者と競技種目は増え続けた.
1952年には,外国人選手(オランダの傷痍軍人チーム)が初参加.
翌年以降も参加国も増え続けた.[1][2]
1960年には,グッドマンの考えにより,大会そのものが英国の外で開催されることとなった.
同年9/11にローマ・オリンピックが終わると,その一週間後の9/18,23ヶ国から400人の身体障害のある選手が参加して,ローマで『ストーク・マンデヴィル国際競技大会』が開催された.
これが第1回パラリンピックである.[1][2]
1961年,グットマンは『英国障害者スポーツ協会』を設立した.
1969年8月にはストーク・マンデヴィル・スタジアムが完成し,エリザベス女王が公式にオープンした.
このスタジアムは『ストーク・マンデヴィル競技大会』の精神から生まれた障害者のためのスポーツ・センターで,ストーク・マンデヴィル病院のすぐ隣に建設された.
1966年,グットマンはナイト爵位を授与された.
22年間脊髄損傷センターの所長を務めたグットマンは,1967年に引退.
1980.3.18,冠状動脈血栓症のため死去.享年80.[1]
「失ったものを数えるな.残されたものを最大限に生かせ」
が,彼のモットーであったという…[1]
【参考ページ】
[1]http://blog.goo.ne.jp/hanamamagon/e/aff8770939b77746776d77c80e51c833
[2]http://www.jsad.or.jp/paralympic/what/history.html
[3]http://www.sztetl.org.pl/en/article/toszek/3,local-history/
[4]http://www.sztetl.org.pl/en/article/toszek/5,history/
【関連リンク】
Susan Goodman 『Spirit of Stoke Mandeville: Story of Sir Ludwig Guttmann』(HarperCollins Publishers Ltd,1986)
Ludwig Guttmann: Founder of the Paralympics|YouTube
The Mandeville Legacy - Paralympics Documentary|YouTube
【質問 kérdés】
ヴォルフガンク・フュルシュトナーについて教えてください.
Kérem, mondja meg Wolfgang Fürstnerről
【回答 válasz】
ベルリン五輪の時の選手村村長.
ユダヤ系であることが発覚し,村長から副村長に降格され,その後自殺.
***
祇園精舍の鐘の声,諸行無常の響きあり.
高邁な理想も久しからず,ただ春の夜の夢のごとし.
オリンピックも高邁な理想はいつしか単なる建前となり,スポーツ・コマーシャリズムと開催国家の思惑とが絡み合った異形のイベントと化して久しいが,今回はその先駆けとなり,まんまとユダヤ人迫害の有耶無耶化に成功したベルリン・オリンピックのエピソードの一つである.
ヴォルフガンク・フュルシュトナーは1896年4月4日ベルリン生まれ.
巡洋戦艦デアフリンガーの最後の艦長Albert Heinrich Hans Karl von Schlick (1874–1957)の娘,Leonie
von Schlickと結婚.
第一次大戦には中尉として従軍.
戦後混乱期の1921年には,オバーシレジアの「Free Corpses」一揆を主導している.
世の中が少し落ち着いた1928年,ベルリンで創設されたスポーツ協会の創設者の一人となった.
また,彼はナチスにも接近.
1933年1月から,陸上競技クラブからのユダヤ人アスリート追放が始まるが,フュルシュトナーはこれにも関与したという.
そして1933年4月にはブランデンブルガー・アスレチック・ユニオン Verband Brandenburgischer Athletikvereine
の会長に任命された.
これはブランデンブルクのすべての陸上競技クラブのを束ねる組織だった.
オリンピックのベルリン開催が決まると,1934~1936年にフュルシュトナーはオリンピックの選手村の建設を担当.
1935年初頭には彼はオリンピック組織委員に任命され,1936年5月27日には選手村の村長に就任した.
しかし彼の人生はここから暗転する.
「フュルシュトナーは半ユダヤ人」という噂が立ち始めたのである.
ユダヤ人の定義についてはナチス党の中でも議論を呼ぶ問題だったが,いわゆるニュルンベルク法では以下のように定義された.
・4人の祖父母のうち3人以上がユダヤ教共同体に所属している場合は,本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
・4人の祖父母のうち2人がユダヤ教共同体に所属している場合,
(1) ニュルンベルク法公布日時点・以降に本人がユダヤ教共同体に所属している者は「完全ユダヤ人」
(2) ニュルンベルク法公布日時点・以降にユダヤ人と結婚している者は,本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
(3) ニュルンベルク法公布日以降に結ばれたドイツ人とユダヤ人の婚姻で生まれた者は,本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
(4) 1936年7月31日以降にドイツ人とユダヤ人の婚外交渉によって生まれた者は,本人の信仰を問わず「完全ユダヤ人」
(5) 上記のいずれにも該当しない者は「第1級混血」(ドイツ人)
・4人の祖父母のうち1人がユダヤ教共同体に所属している者は「第2級混血」(ドイツ人)
そしてフュルシュトナーの祖父も,キリスト教に改宗したユダヤ人だったのである.
編者の個人的見解だが,自らユダヤ人迫害に加担していた彼は,おそらくそれまでこのことを知らなかったに違いない.
定義上は「第2級混血」でドイツ人扱いされるものの,1級・2級問わず混血者も差別に晒された.
たとえば1944年10月には,一級混血の男性にはトート機関の強制労働収容所での強制労働が義務付けられ,同年11月には全ての混血は公職から追われている.
フュルシュトナーも1936年6月末,副村長に降格させられた.
さらに,国防軍からも追い出されるだろうと予想された.
オリンピックが閉会して3日経った1936.8.19,彼は拳銃自殺する.
ナチスはこの自殺を隠蔽しようとして,
「フュルシュトナーは)交通事故死した」
と発表したが,外国人ジャーナリストによって真相はドイツの外に洩れた.
なお,一説によれば,最後にフルシュトナーの自殺の「背中を押した」のは,国防軍での将来が無くなったことで,妻から離婚を通告されたことだったという.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Wolfgang_F%C3%BCrstner
https://de.wikipedia.org/wiki/Wolfgang_Fürstner_(Offizier)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E6%B3%95
https://ww2gravestone.com/people/furstner-wolfgang/
https://forum.axishistory.com/viewtopic.php?t=175826
1枚目:肖像画
向かって右下の胸ポケットについているのは一等鉄十字章
(図No. faq210711fr,こちらより引用)
2枚目:ナチス幹部ハインリヒ・ヒムラーの横に座っているフュルシュトナー
(図No. faq210713fr,こちらより引用)
mixi,2021.7.13
【質問】
戦後ドイツにおけるホロコーストの扱われ方は?
【回答】
戦後直後から60年代までは,ホロコーストは主として裁判の話題だった.
戦後直後の大半のドイツ人は,廃墟の中における日々の生活問題に没頭していた.
1940年代後半から50年代にかけ,ドイツ人はヒトラーについての議論を忌避した.
敗戦の大きな痛手の中で,彼らの心理状態は加害者の立場と被害者の立場が相半ばするものだった.
ナチスの犯罪に関しては「臭い物にフタ」という雰囲気が強く,ナチスの犯罪を暴露する者は,「Nestbeschmutzer(巣を汚す者)」と批判された.
(ただし一方で,パウル・ツェラーンの詩『死のフーガ』は,1948年にドイツ語版が発行されると,10年以内に広く知られるようになり,ドイツで頻繁に引用されるまでになっている.
つまり,当時の一般のドイツ人がホロコーストを全く知らなかったということは,少なくともありえない)
しかし1960年代になると,大きな変化があった.
一つはアイヒマン裁判である.
イスラエル諜報機関モサッドによるアイヒマン誘拐作戦という劇的な展開もあって,独逸のみならず世界的に大きな関心を呼んだ.
次いで1963年,フランクフルトにおいて二人のSS隊員が,アウシュヴィッツでの犯罪に関して起訴された.
ドイツ中がこの裁判に注目することとなった.
裁判では,収容所に囚われていた被害者たちが,ガス室による大量虐殺や,親衛隊員らによる拷問,虐待の細部を証言し,メディアが連日報道した.
様々な妨害勢力や法的障壁など数多くの問題を抱えていたが,時効の延長に延長を重ね(これを是とするかどうかでは激論となった)ながら,1945~1992年の間に,西ドイツの裁判所は,ナチ犯罪に関して10万人以上を起訴した.
1万3000件以上が裁判にかけられ,6489件の有罪判決が出された.
禁固刑197件(そのうち終身刑が163件),死刑12件.
一方,文芸分野では,1966年にホロコースト詩人ネリー・ザックスが,ノーベル文学賞を受賞.
1979年1月には,今度はテレビがホロコーストへのドイツ人の関心を呼び起こすことになった.
アメリカで作成された連続番組「ホロコースト」が,ドイツでも放送されたのである.
国民世論は大いに高まり,連邦議会はナチの犯罪に関する時効を廃止するにまでなった.
1984年にシュトゥットガルトで開催された国際学術会議や,1985年に公表された,ドイツ・イスラエル調査委員会による調査結果は,ドイツにおけるホロコースト教育に大きな影響を及ぼした.
結果,ドイツの学校では種々の学年で,20世紀のドイツ史およびヨーロッパ史の一部として,ホロコーストを教えることが定着した.
1990年10月以降,統一ドイツでは,ユダヤ人に対するナチスの政策も含め,ナチ期を全ての側面において教えることは,あらゆるタイプの学校,全ての教育レベルで義務となっている.
【参考ページ】
ウォルター・ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.326-331, 507-512 & 615-617
http://www.economist.com/news/christmas-specials/21683971-seventy-years-after-adolf-hitlers-death-how-germans-see-him-changing-what
http://synodos.jp/international/17883/
http://www.huffingtonpost.jp/toru-kumagai/auschwitz-trial_b_8238418.html
https://www.youtube.com/watch?v=NKWx7blqk70
mixi, 2016.11.6
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