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「D.B.E. 三二型」◆(20090611) 米のホロコースト博物館で発砲 警備員が死亡,犯人も重体
>ここ,行こうとした(特別展でやってたナチスのプロパガンダ特集に魅かれて)けど
>人多すぎで断念したとこです…… あんな人混みで撃ちやがったのか……
MEMRI◆(2007/5/30) 「イランのホロコースト否定テレビ・シリーズ」
「北東アジア研究」◆(2006.1) 中国国内三大ユダヤ移民グループの国籍と法律問題(1840~1945) by 潘光[pdf]
『ユダヤ人を救え! デンマークからスウェーデンへ』(エミー E. ワーナー著,水声社,2010.11)
ナチスによるデンマーク侵入,占領から,それに対するデンマーク人達の抵抗,その対抗策として,SSによるユダヤ人一斉摘発と,その顛末について書いており,ユダヤ人に対する部分が大部を占めているが,出来るだけ当事者の回想録や証言を用いて,当時を生々しく再現している.
特に,こうした本ではとかく,ドイツ人は総て悪者に描かれがちであるが,デンマーク人やスウェーデン人と協力して,ユダヤ人やレジスタンスの保護に動いたドイツ人外交官や,海軍司令官にもスポットを当てているし,内部にいたドイツ人も,ユダヤ人を見つけても素知らぬふりをしたとか,不審船を見つけても見逃したと言う記述が,随所に出て来て,決してドイツも一枚岩でなかったことが伺える.
また,「戦争が終わりました,めでたしめでたし」で終わった訳ではなく,戻ってきたユダヤ人が再びデンマーク にどう受入られて生活を再建していったかまでを書いており,デンマークに於ける近代ユダヤ人史としても利用出来る秀作である.
因みに終章では,デンマークがどうしてユダヤ人を保護することが出来たのかを書いており,他に同じようにユダヤ人を匿ったブルガリア,そして南フランスの事例と合わせて,その共通点を探っている.
水声社さん,出来れば,此処に出て来たトドロフ氏の「善行のはかなさ」を翻訳出版キボンヌ.
――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2010/12/28(火)
良書なり.
「・・・この彼らの引受人たちは,彼らに美味しい食事を用意してくれた.
ベークドハム,ローストポテト,アップルパイである」
正統派は少なかったらしいが,よりによって.
――――――軍事板,2011/01/06(木)
『ローマ教皇とナチス』(大澤武男著,文春新書,2004)
【質問】
ヨーロッパ・ユダヤ人の各国別の犠牲者数は?
【回答】
2003年時点の最新の研究による推定では,以下の通り.
ドイツ | 14万4000 | |
オーストリア | 4万8767 | |
アルバニア | 591 | |
イタリア | 5596 | |
オランダ | 10万2000 | |
ギリシャ | 5万8443 | |
ソ連 | 210万 | |
チェコスロヴァキア | 14万3000 | |
デンマーク | 116 | |
ノルウェー | 758 | |
ハンガリー | 55万9250 | |
フランス | 7万6000 | ※他国籍者を含む |
ブルガリア | 7335 | |
ベルギー | 2万8000 | ※他国籍者を含む |
ポーランド | 270万 | |
ユーゴスラヴィア | 5万1400 | |
ルクセンブルク | 720 | |
ルーマニア | 12万0919 |
【参考ページ】
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.156
【質問】
ホロコーストの犠牲者総数を確定する上での難点は?
【回答】
犠牲者算定には文書資料からの合算と,ホロコースト以前と以後の人口統計の比較だが,そのどちらにも困難が生じている.
前者に関しては,ナチスは多くの文書やその他の証拠を棄却してしまっており,また,ソ連や東南ヨーロッパでの犠牲者は,そもそも正確な統計がとられていない.
後者に関しても,東,特に東南ヨーロッパには利用できる統計が欠けている.
例えばソ連の人口調査は,民族・宗教別カテゴリーの分類が不充分であり,東および東南ヨーロッパでは,国境線がしばしば変更されたことにより,使用できる統計も,比較するための十分な基礎を欠いている.
上記2点に加え,ナチスによって推進されたユダヤ人移住出国政策も,算定の障害となっている.
フランスとオランダの移送リストと死者のリストには,1933-40年にオーストリアとドイツから出国したユダヤ人の名前がしばしばあり,これによって明らかに,フランスとドイツのリストに載る名前が重複している.
第二次大戦直前と大戦中の国境線の変更も,算定の障害となっている.
バルト諸国やポーランド東部,ブコヴィナ,ベッサラビアなど多くの地域では,人々の国籍が数回変わっている.
トランスニストリアなどは公式にルーマニアとドイツに管理されていたため,その地のホロコースト犠牲者は,国籍から言えばルーマニアだが,彼らが殺害された地域はウクライナと見なされていた.
同様の問題はハンガリー,チェコスロヴァキア,ギリシャ,ブルガリアとユーゴスラヴィアの間でも起こっている.
詳しくは,
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.155-156
を参照されたし.
【質問】
何鳳山って誰?
【回答】
何鳳山(1910-97年)は中華民国の外交官で,1938-40年に駐ウィーン総領事.
自国の駐独大使らが反対したにもかかわらず,数千人のユダヤ人に中国行きのビザを出し,出国を助けたという.
2008年11月,彼を顕彰する記念碑が,ウィーン市内に設けられた.
【参考ページ】
2008/11/11-15:44,時事通信
【質問】
ワレンベルクはユダヤ人救済にどう貢献したのか?
【回答】
スウェーデンの外交官,ラウール・ワレンベルクは1944年,ハンガリーのスウェーデン公使館が進めていた現地のユダヤ人救済活動支援のため,外務省からブダペシュトに派遣された.
彼が,ハンガリーのナチスが実施していたユダヤ人移送や,SSが計画していたブダペシュト・ゲットー爆破を阻止したおかげで,10万人近くのユダヤ人の命が救われた.
彼は1945年1月,ソ連軍に逮捕され,消息を絶った.
そして1947年7月,モスクワのルビヤンカ牢獄で無惨な死を遂げた.
詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.133を参照されたし.
【質問】
ホロコーストに対するヴァチカンのスタンスは?
【回答】
▼ バチカンは反共という立場から最初はナチスを支持しており,ユダヤ人の虐殺に対して気にかけてなかったのだけど,でもローマでユダヤ人狩りがはじまると,バチカンはユダヤ人たちを教会に匿ったらしいですね.
お膝元でユダヤ人狩りをやられて,さすがに気がひけたらしい.
バチカンは反共という立場から最初はナチスを支持していたが,ホロコーストに対しては,指導者の一部を含み,諸国の修道院において,カトリック聖職者は相当数の人々がユダヤ人を救助した.
たとえばローマでユダヤ人狩りがはじまると,カトリック教会はユダヤ人たちを教会に匿った.
ドイツでもミヒャエル・ファウルハーバー枢機卿という人が,ナチスの政策を公然と批判した.
ただし一般的に言って,この分野におけるナチスの政策に抵抗した人々は,カトリック教会の下級聖職者に集中しており,救助活動は個人的であった.
これと対照的に,上級聖職者であればあるほど無力となり,教皇ピウス12世は,ホロコーストに対して殆ど何もできず,また,下級聖職者ほど積極的でもなかった.
ピウス12世がそのような態度をとった原因としては,以下が挙げられている.
1.宗教を否定する共産主義が勢力を伸ばしていたことに危機感を抱いていた事
2.キリスト教ヨーロッパ文明の根本にある反ユダヤ主義の影響
3.ドイツ文化,ドイツ社会に強く親しんでいたピウス12世の個人的性向
4.軍事力も強制力も持たず,権威のみしか持っていないローマ教皇と言う存在自体の弱さへの認識
巷間言われているように,まったく何もしなかったわけではない.
たとえば,
ドイツ政府に数多くの諫言書を送り,
ラテン・アメリカへのユダヤ人入国ビザの確保を試み,
アメリカ合衆国に対してヨーロッパからの亡命者の入国割り当て数を増加するよう要望し,
ポーランドに援助団体を送ることを申し出,
ユダヤ人8万人の移送を考えていた,スロヴァキアのヨゼフ・ティソ大統領に対して抗議した.
しかしそれらは悉く無視された.
教皇の影響力は,それらを実現させるには,あまりにも弱すぎたのである.
また一方で,ウスタシャの過激な暴力に明確な非難をせず,亡命ポーランド枢機卿からの,ヨーロッパ・ユダヤ人のためにもっと強硬な抗議をすべきだとの提案を拒絶した.
教会がヴァチカンの指導の下,ユダヤ教に対する神学的立場を変えるという根本的転換を始めたのは,ヨハネ23世(在位1958~1963年)の時代になって後のことである.
【参考ページ】
ラカー『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.657-660
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_hb/a6fhb400.html
http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/50637853.html
http://www.wound-treatment.jp/next/dokusho71.htm▲
軍事板,2000/07/09(日)
青文字:加筆改修部分
◆◆スイス
【質問】
赤十字は,なぜナチスからユダヤ人を救えなかったか?
【回答】
権限的限界と,中立性のほうをより重要視したことによる.
これについては,マイケル・イグナティエフが次のように述べている.
1942年10月14日,国際赤十字を運営するスイス人政治家・法律家・医者・実業家23名から成る委員会が,ドイツ占領下のヨーロッパ各地における民間人の強制移送に関する派遣員達の証言を検討するために集まった.
厳密に法的に言えば,民間人は赤十字の関知するところではなかった.当時のジュネーヴ条約は,赤十字の派遣使節に戦争捕虜視察の権利しか認めていなかった.
だが,そうした視察をする内,赤十字の派遣員達は強制移送の噂を耳にし,東部方面へ走り去る密閉状態の列車を目にし,強制収容所のそばを車で通っていた.
ドイツ赤十字社社長エルンスト・グラヴィッツに,こうした収容所について彼らが尋ねたところ,この問題はジュネーヴには関わりのないことだと彼は答えた.
誰に関わりがあるのか,グラヴィッツは知っていた.彼はドイツ赤十字の社長であるばかりか,親衛隊の軍医長でもあり,収容者を使った秘密の人体実験の責任者の一人だった.
赤十字は強制収容所から締め出されていたが,中で何が起こっているのか薄々気付いていた.
赤十字運営委員会幹部,カール・ブルクハルトはベルリン出張中,ドイツのある高級官僚から,ヒトラーが1942年までに「ドイツからユダヤ人が一人もいなくなる」ことを命じる命令書に,41年初頭に署名したと聞かされた.
ブルクハルトがこのことをジュネーヴ在住のアメリカ領事に伝えると,それは絶滅を意味するものか?と領事は尋ねた.
それしかありえないとブルクハルトは答えた.
9月下旬までに赤十字国際委員会は,ユダヤ人ともなんとも名指しせずに,民間人に対する強制移送と強制労働を非難する公開呼掛け文を起草した.
その案が投票にかけられると,ブルクハルトは,公開アピールを出すことに真っ向から反対した.国際道義に訴える高尚な公開呼びかけが,ヒトラーにいささかなりと影響を及ぼすとは考えにくく,赤十字が現に有する捕虜との面会権を危うくするだけだという論法だった.
スイス政府代表も,公開宣言はスイスの中立すら危うくするのではないかと恐れ,慎重を期するよう勧めた.
「良きサマリア人は,黙って人助けをするのが本当ではなかろうか?」と.
公開アピールは出されずじまいだった.
赤十字は知りえたことについて,戦争中ずっと沈黙を守り通した.
1944年にドイツがハンガリーを占領した時,国際委員会の派遣使節フリードリッヒ・ボーンは,ユダヤ系の幾つかの孤児院と病院を赤十字の監督下に置き,数千名のユダヤ人職員に赤十字の証明書を交付することで,なんとか守った.
だが,出国ヴィザは入手できず,44年暮れ,ブダペシュト在住のユダヤ人5万人が駆り集められ,ドイツへの死の行進を強いられるのを,なすすべなく傍観せざるを得なかった.
ドイツとポーランドでは,収容所への立入を派遣使節は一切禁じられていた.
44年にマウトハウゼンを通った派遣員達は,死体焼却炉から立ち上る煙を目にした.
ポーランドのある収容所の連合軍捕虜を視察した,他の派遣員達は,アウシュヴィッツという所に民間人を毒ガスで殺すシャワー室があると聞き込んだ.
だが彼らは,この噂を確認する機会に恵まれなかった.
45年春に第3帝国が崩壊するまで,内情は彼らの目に触れなかった.
そしてドイツ赤十字社長グラヴィッツは,収容者達に対する彼の実験の全貌が明るみに出る直前,自殺したのだった.
(Michael Ignatieff, a writer & journalist,
「仁義なき戦場」,
毎日新聞社,1999/10/30,p.,抜粋要約)
結局,国際社会では善意など,さほど当てにできないことの,一つの実例と言えよう.
【関連サイト】
http://www.zsido.hu/aktiv/rabbiv.php
http://www.magyarholokauszt.hu/mh011125.html(5月15日~)
(Szeigyi from one BBS)
【質問】
スイスはユダヤ人難民を受け入れたのか?
【回答】
殆ど受け入れることはなかった.
国内の労働市場を守り,外国人増加を押さえる,という国益的観点から,難民の流入阻止に賢明となった.
1938/8/18以降,スイスはユダヤ難民に与えていた滞在許可証の発行を停止.
また,ナチス・ドイツ側と交渉し,ユダヤ系ドイツ人の旅券に「J」スタンプを押させるようにし,この旅券の所持者に対して,スイスの滞在・通過ビザがある場合のみ,入国を許可する,という協定を結んだ(1938/9/29).
さらに1942年8月には,スイス政府は,
「人種的な理由から入国を図る者は,全て国境で追い返す.
何度も入国を図った場合は,ナチス側に引き渡す」
と決定した.
これにより,ユダヤ人難民のスイス入国は事実上,全く不可能になった.
ちなみに,「J」スタンプは,20年代にも,スイスに帰化するユダヤ人の書類に押されていた例がある.
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.38-45, 49 &
68を参照されたし.
【質問】
スイス政府はユダヤ人虐殺を知らなかったのか?
【回答】
少なくとも1942年8月以前には知っていた.
1942/1/2に,ドイツ軍伍長がスイスに亡命し,ロシアでのユダヤ人虐殺をスイス軍情報機関に告白した.
また,1942年4月に,情報機関が政府に提出した報告書には,別の亡命兵士による,ユダヤ人殺戮の証言があった.
さらに同年5月には,ロシア国境で貨車に乗せられた大勢のユダヤ系ポーランド人が窒息死させられたことを示す写真を,スイス政府は在ケルン・スイス領事から入手していた.
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.45-47を参照されたし.
【質問】
なぜスイスは反ユダヤ的政策をとったのか?
【回答】
国内の労働市場を守り,外国人増加を押さえる,という国益的観点から.
また戦時中には,その間の物資不足に対処する意味もあった.
さらに,スイスには第二次大戦以前から,反ユダヤ思想が見られた,ということもある.
さらにまた,30年代には,政府を始めとするスイス社会の各層がファシズムの影響を受け,ナチスを称賛する声があったという.
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.48-50を参照されたし.
【質問】
政府命令に反し,ユダヤ人難民にスイス滞在許可証を発行し続けた警察幹部がいたというのは本当か?
【回答】
本当.
ザンクト・ガレン州警察幹部だったポール・グリューニンガーは, 滞在許可証発行停止命令に反し,1938/8/18以降もユダヤ人難民に対して許可証を発行し続けた.
救ったユダヤ人は約3000人.
しかし1939/4/3,命令違反の咎で彼は停職処分に.そして刑事裁判にかけられ有罪とされた.
それまでにも,中傷の密告をされたり,無理矢理精神科医の診察を受けさせられたりしている.
以後,彼は死ぬまで定職に就けず,一家は貧困に喘いだ.
1968年,地元紙の報道がきっかけで,彼の行動は世界中から称賛されることになった.
だが,スイス政府の対応は遅く,1995年になってようやく彼に再審無罪の判決が下りた.
しかしそのときには,グリューニンガーは既に死去(1972/2/22)していた.
彼の臨終の言葉;
「私は何度でも同じことをするよ」
詳しくは,福原直樹著「黒いスイス」(新潮新書,2004/3/20),p.67-74を参照されたし.
◆◆USA
【質問】
なぜアメリカはユダヤ人難民を受け入れなかったのか?
【回答】
アメリカはナチス政権成立以前から移住制限を導入していた.
アメリカの移民法の問題は,「真の」出生地からの移住のみを許可するという出身国主義にあった.
そのため,ポーランド生まれで無国籍者としてドイツに住んでいたか,電撃戦の後もポーランドにとどまっていた何千人ものユダヤ人は,もともと米国の対ポーランド枠が小さかったこともあり,アメリカ入国は事実上不可能になった.
ドイツによる「併合」後,無国籍となり,比較的大きかった「大ドイツ」への移住枠からはみ出てしまったオーストリア系ユダヤ人の7~8割も,その犠牲となった.
1940年6月,米国は突如,入国規制を強化する.
背景には市民の反ユダヤ感情,反移民感情があった.ユダヤ人を救うことは政治目標達成を妨げ,戦争完遂に有害だと考えられたのだ.
それに,米国のユダヤ人には政府の後ろ盾が欠けていた.
この措置を提唱したブレッケンリッジ・ロング国務次官は,東欧のユダヤ人に強い偏見を持っていた.最近刊行されたリチャード・ブライトマンの論文はこれを裏づけている.
規制強化で難民のアメリカ入国は極めて困難になったが,中でも問題だったのは,ナチス支配下諸国に親類のいる申請者の入国を制限するという条項だった.スパイ活動の危険ありというのである.
移住先としてはアメリカ以外に,マダガスカル・プロジェクトや,中央アフリカ,南米,オーストラリアなどの構想があり,フィリピンではある農場主がユダヤ人1万人を受け入れるという話まであったが,全て実現しなかった.
詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.96,167-168を参照されたし.
▼ ただし,アメリカに移住できたユダヤ人は,皆無だったわけではない.
「合法移民」の枠内で,1931~45年までの15年間に,256,538人のユダヤ人がアメリカに移住したという.
詳しくは,『アメリカの民族集団』(綾部恒雄編,日本放送出版協会,1978)を参照されたし.▲
【質問】
アメリカのユダヤ人は,ホロコーストから何故もっと多くのユダヤ人を救わなかったのか?
【回答】
答えは単純で,「救えなかった.救うだけの力が無かった」
1933年にヒトラー政権が誕生した当時,アメリカ合衆国には約470万人のユダヤ人がいた.
なるほど,結構な数に思える.
彼らが一致団結していたならば.
ところが実際には,団結どころか分派,分派を繰り返し,小規模な組織が数多く誕生していたのが実態だった.
なにせ一口にユダヤ人と言っても,スファラディム(スペイン半島にいたユダヤ人の子孫で,17世紀ごろから北米大陸に移住),ドイツ系,東欧系とで,移民の時期も違えば,生活習慣も違えば,宗教観さえ違う.
それがさらに政治イデオロギーによって細かく分かれ,小党乱立すること,現代のイスラエル議会の如し――という有様.
その上,同胞の救援の仕方でも対立して,一致することがなかったというのだから,救援成功など夢のまた夢.
それに追い打ちをかけたのが大恐慌で,これによって数千のユダヤ系企業が破産.
しばらくの間,ユダヤ系アメリカ人の失業率は,合衆国全体の失業率よりも高いという始末.
他人様を救う前に,自分自身の暮らしの心配をしなければならなかった.
また,「貧すれば鈍す」というやつで,大恐慌によってアメリカ国内全体に社会的・人種的緊張が高まり,反ユダヤ主義がアメリカ国内でも強くなった.
今のテレビ伝道師のラジオ版みたいなカトリック神父が,やたらに反ユダヤ主義を煽る放送をするわ,反ユダヤ主義の職業団体が120もできるわで,アメリカ・ユダヤ人からしてみれば,ヨーロッパの同胞を救う前に,自分たちがヨーロッパの同胞のようになりかねないと恐怖に震える有様だった.
だが,そうだ,ルーズヴェルト大統領側近の中にも,アメリカ・ユダヤ人がいるじゃないか.
イザドア・ルービン.
ベンジャミン・コーエン.
フェリックス・フランクファーター.
サム・ローゼンマン.
ヘンリー・モーゲンソーJr.
シドニー・ヒルマン
等等.
彼らは何をしているんだ?
ところが財務長官モーゲンソー以外は誰も,救出作戦を支持するよう,大統領に非公式な圧力をかけることがなかった.
彼らは自分の事を,まずアメリカ人であり,たまたまユダヤ系であるにすぎない,としか思っていなかったからだ.
議会でも同じような状況で,下院議員の中にアメリカ・ユダヤ人は10人おり,しかもそのうちの3人は,救出を支援する立場にある委員会のメンバーだったが,移民法の自由化の事案を推し進めることに乗り気ではなかった.
世論が反対だったからだ.
結局,アメリカの公式の政策は,
「ユダヤ人を救う方法は,できるだけ早く戦争に勝つことであり,その目標を邪魔しかねないことは,どんなこともするべからず」
だった.
ユダヤ人難民に食糧の小包を送ることも,収容所の囚人を戦時捕虜と規定することも,制裁の威嚇も,ガス室の爆撃さえも,この理由で拒否された.
これが変わるには,1944年1月に戦争難民委員会が設立されるまで待たねばならなかったのである.
【参考ページ】
ウォルター・ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003.10.30),p.34-40
2014.9.11
【質問】
なぜハリウッドのユダヤ人は,反ナチ映画を作らなかったのか?
【回答】
作らなかったのではなく,作れなかった.
米国国内でのユダヤ人差別を恐れ,ハリウッドではユダヤ的なものが徹底的に抑圧されたからだ.
以下引用.
百年前,アメリカの土地や基幹産業はすでにWASP(アングロサクソンのプロテスタント.最初に移民したイギリス系のこと)に独占されており,ユダヤ系移民の入り込む余地はなかった.
しかし,ちょうどサイレント映画が発明され,英語ができず文盲も多い移民達の唯一の娯楽になっていた.
彼らはそれに眼をつけ,WASPの支配が及んでいない南カリフォルニアに撮影所を作った.
言語と国境を越えた人類的娯楽,ハリウッド映画の誕生である.
〔略〕
ユダヤの陰謀? いや,逆に彼らは徹底的にユダヤ的なものを抑圧した.
ユダヤ系の俳優にはWASP風芸名を与えた.
怒った俳優が
「だったらエイブラハム・リンカーンにでもしてくれ!」
と怒鳴ると,モーグル〔映画会社のドン〕の一人はこう言った.
「エイブラハム? それはユダヤっぽすぎる」
ヒトラーがユダヤ人を虐殺しても,ハリウッドは反ナチ映画を作れなかった.
戦後,「赤狩り」の名の下にユダヤ系映画人が弾圧された時も無抵抗だった.
差別を恐れてユダヤ人としての自己主張を自らに禁じたハリウッドは保守化し,60年代後半のカウンター・カルチャーに対応できず,経営的に崩壊.
映画会社は全てコングロマリットの巨大資本に乗っ取られ,ユダヤの帝国は崩壊した.
現在,ユダヤ系は主に資本家ではなく,プロデューサーとしてハリウッドで活躍している.
町山智浩著「アメリカ横断TVガイド」(洋泉社,2000.9),p.66-67
この一件だけ見ても,第二次大戦を巡る様々なユダヤ陰謀論は,どれも荒唐無稽だと分かるだろう.
当時のアメリカでも,ユダヤ人はそんなに大した勢力ではなかったのだ.
(だからこそ,ドイツからアメリカへののユダヤ難民の流入が阻止された)
【質問 kérdés】
ワシントン・ホロコースト記念博物館銃撃事件とは?
【回答 válasz】
2009年6月10日,ワシントンDCのホロコースト記念博物館において,ホロコースト否定論者で白人至上主義者のジェームズ・ヴァン=ブランが発砲した事件.
これにより警備員1人が死亡,ヴァン=ブランは他の警備員に撃たれ重傷を負った.
犯人は7月に第一級殺人罪などで起訴されたが,裁判中の2010年1月6日病死.
***
2009年6月10日.
特別警察官スティーブン・タイロン・ジョーンズ Stephen Tyrone Johns はその日,ワシントンDCにある米国ホロコースト記念博物館の警備にあたっていました.
39歳になる彼は,約1年前に再婚したばかりでした.
その日は,小学生の団体が見学に来ており,博物館の中は数千人の入館者でほぼ満員でした.
午後12時50分ごろ, 一人の老人が記念博物館にやってきます.
ジョーンズはこの老人のためにドアを開けてやります.
ところがこの老人はライフルを持っていました.
博物館に入るなり,それを発砲し始めます.
彼の雇い主であるワッケンハット Wackenhut 警備会社によれば,少なくとも一発がジョーンズの胴体に命中.
ジョーンズは38口径の拳銃を持っていましたが,それを発砲する間もなく,その場に倒れます.
同僚の特別警察官ハリー・ウィークス Harry Weeks とジェイソン・「マック」・マッキューストン Jason "Mac"
McCuistonが犯人に発砲します.
犯人の顔に命中.
重傷を負いました.
この迅速な対応が無ければ,見学中の小学生などが大勢死傷していたことでしょう.
犯人はその場で逮捕されました.
事件後,付近の連邦政府の建物は,直ちに閉鎖.
犯人が乗ってきた車は,爆発物の有無を調査されます.
幸い爆弾は発見されませんでした.
ジョーンズはジョージ・ワシントン大学病院に緊急搬送されます.
しかし彼は助かりませんでした.
犯人の名はジェームス・ウェネカー・ヴァン=ブラン John Wenneker von Brunn,88歳.
白人至上主義者であり,「ホロコーストなど無かった」と主張する歴史修正主義者でもありました.
1981年には,高金利政策に反対して理事を誘拐する目的で,複数の武器をもって連邦準備制度理事会の建物に侵入したことにより,有罪判決も受けています.
それ以前にも数々の逮捕歴がありました.
2004年から2005年にかけて,彼はアイダホ州のハイデン・レイクに住んでいました.
ハイデン・レイクには,リチャード・ギーント・バトラー Richard Girnt Butler 主宰のネオ・ナチ団体,「アーリアン・ネーションズ
Aryan Nations」があります.
また,彼はウェブサイト「ホーリー・ウエスタン・エンパイア(聖なる西洋帝国)」を立ち上げ,ナチスドイツによるユダヤ人虐殺をでっち上げであると主張していました.
精神鑑定の後,7月にヴァン=ブランは第一級殺人罪などで起訴されました.
ところが彼は様々な疾患を抱えており,公判中に入院.
翌年1月,病死してしまいます.
このため,犯人の動機は今も分かっていません.
一説には,オバマ大統領の発言に対する反発だったと言われています.
6月5日,オバマ大統領はドイツに外遊中,ユダヤ人強制収容所を訪れ,
「ホロコーストを否定する者は無知で忌まわしい」
と発言していました.
これが犯人を刺激したのかもしれません.
また,事件2日後の6月13日は,『アンネの日記』を書いたアンネ・フランクの誕生日でした.
ヴァン=ブランのサイトでは,「『アンネの日記』は捏造」とも主張していました.
ヴァン=ブランは誕生日付近を狙ったのでしょうか?
それを知るすべはありません.
2009年6月19日,特別警察官スティーブン・タイロン・ジョーンズの葬儀が,メリーランド州フォートワシントンのEbenezer AME教会で行われました.
葬儀には2000人が出席.
その後,博物館にはジョーンズを記念する石碑が置かれ,また,「スティーブン・タイロン・ジョーンズ・サマー・ユース・リーダーシップ・プログラム」基金が設立されました.
これは,若者にホロコーストについての正しい知識と教訓を学んでもらうプログラムのための基金です.
犯人の名前は忘れ去られても,スティーブン・タイロン・ジョーンズの名は長く語り継がれるでしょう.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://www.ushmm.org/information/press/in-memoriam/stephen-tyrone-johns-1969-2009
http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2009/06/10/AR2009061003884.html
http://edition.cnn.com/2009/CRIME/06/10/museum.shooting/
http://newsyomaneba.seesaa.net/article/121277246.html
http://www.nytimes.com/2009/06/11/us/11shoot.html?mcubz=3
https://www.theguardian.com/world/2009/jun/10/holocaust-museum-shooting-washington
https://www.youtube.com/watch?v=3c0xB76KmiA
mixi, 2017.9.10
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