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「SPIEGEL」◆(2013/04/08) Late Push on War Crimes: Prosecutors to Probe 50 Auschwitz Guards
「愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記」■ホロコーストの「一酸化炭素殺人」について少し調べてみた
「エルエル」:The Auschwitz Experience: Museum of Holocausts
「沖縄タイムス」◆(2013/05/07) 戦後68年.93歳でも逮捕!? アウシュビッツ看守を逮捕 独検察
「強制収容所グーゼンの日記 ホロコーストから生還した画家の記録」(アルド・カルピ著,創元社,2006.9)
「炎を目の前にして ナチ強制収容所から生還した少女の記録」(トルーディ・ビルガー著,日本エディタースクール出版部,1996.11)
【質問】
各絶滅収容所における犠牲者数は?
【回答】
1960年代~70年代,西ドイツで元ナチ党員の戦争犯罪告発の準備が幅広く行われ,それに伴って発掘された,ホロコースト犠牲者に関する信頼できる統計資料等によれば,以下の通り.
アウシュヴィッツ =ビルケナウ |
100万 | 1941.9 42.1~44.11 |
ソビブル | 25万 | 1941.5~6 42.10~12 43.3~8 |
トレブリンカ | 90万 | 1942.7~43.8 |
ベウジェッツ | 60万 | 1942.3~43年初め |
ヘウムノ | 15万2000 | 1941年末~1942.5 42.9~43.3 |
マイダネク | 6万~8万 |
詳しくは,
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.154-155
を参照されたし.
【質問】
強制収容所は強制労働を目的とするものだったのか?
【回答】
強制収容所は強制労働にも使われた,という.
以下引用.
ある読者が,私〔太田〕が
「ユダヤ人を主体とする強制収容所が強制労働を目的とするものであったとする指摘は,ホロコースト否定論者によっても全くなされていない」
という主張をコラム#976で行い,その論拠の一つとして,ホ
ロコースト否定論を論駁している
http://www.nizkor.org/qar-complete.cgi
というサイトでも,そんな指摘は取り上げられていない旨記したところ,
「取り上げられている」
という反論を寄せられました.
同サイトの関係ありそうな箇所は,下掲のとおりです.
6. If Auschwitz wasn't a "death camp," what was its true purpose?
The IHR says (original): It was a large-scale manufacturing complex.
Synthetic rubber (Buna) was made there, and its inmates were used as
a workforce. The Buna process was used in the U.S. during WWII.
The IHR says (revised): It was an internment center and part of a
large-scale manufacturing complex. Synthetic fuel was produced
there, and its inmates were used as a workforce.
Nizkor replies: True to some extent. Auschwitz was a huge complex;
it had ordinary POW camps (in which British airmen were also held,
and they testified of atrocities in the nearby extermination camp).
Auschwitz II, or Birkenau, was the largest camp, and the gas
chambers were there. Auschwitz III, or Monowitz, was the industrial
manufacturing plant. Many prisoners were indeed used for forced
labor in Auschwitz. But the "unfit" -- meaning the elderly, the
children, and most of the women -- were immediately sent to the gas
chambers.
(太田訳)
第6問 アウシュヴィッツ「死の収容所」ではないとして,一体それは何だったのだろうか.
IHRの以前の答え:
大規模な製造施設だった.合成ゴムがここでつくられ,収容者は労働者として使われた.
同様の合成ゴム工場は先の大戦中に米国にもあった.
IHRの現在の答え:
大規模な製造施設の名称であると同時にその一隅にあった収容センターの名称.
合成燃料がここでつくられ,収容者は労働者として使われた.
Nizkorによる論駁:
部分的には正しい.アウシュヴィッツは巨大な施設だった.
通常の捕虜収容所(そこに捕らわれていた英空軍兵士達は,近くの絶滅収容所での残虐行為の証人となった)もあった.
アウシュヴィッツ2またの名はビルケナウ(Birkenau)は最大の収容所であり,ガス室(複数)がそこにはあった.
アウシュヴィッツ3またの名はモノヴィッツ(Monowitz)は産業製造工場だった.沢山の囚人達がアウシュヴィッツで強制労働に使われた.しかし,「不適者」,すなわち老人と子供と大部分の女性は,直ちにガス室に送られた.
これは,IHR(Institute for Historical Review)というホロコースト否定団体によるQA形式のパンフレットの,各Aに対し,Nizkor名で反駁を加えたもののうちの一部です.
さて,ユダヤ人絶滅計画が実施に移された1942年以降,ユダヤ人が収容されていた収容所は,ポーランド内だけでも6箇所もあり,このほか,ソ連領内にも同様の収容所があるにもかかわらず,IHRが(ユダヤ人が収容されていた収容所としては一番大きいとはいえ,)アウシュヴィッツしか工場を併設していた収容所を挙げていない,というのが留意すべき第一点です.
しかも,「収容者は労働者として使われた」と言っているだけで,「ユダヤ人収容者は(あるいは,ユダヤ人収容者も)労働者として使われた」とは言っていない,というのが留意すべき第二点です.
つまり,IHRは,アウシュヴィッツだけではユダヤ人も強制労働に使われていたと言いたいわけではなく,要は,アウシュヴィッツは工場施設であって,労働力として(通常の労働者のほか)収容者も使われていたけれど,ユダヤ人絶滅施設ではなかった,ということが言いたいのでしょう.
ですから,ホロコースト否定論者が,収容されたユダヤ人は,(労働に耐え得ない者を除き,)全員強制労働に使われていた,ということを主張していた,ということには,冒頭の典拠からはなりません.
後は蛇足です.
ナチスは,時間をかけて次第にユダヤ人迫害のレベルを上げて行ったのであって,(地域によって時期的にはズレがあるが)やがてユダヤ人全員が収容所に入れられ,強制労働に使われるに至り,その後,1942年からは絶滅目的でユダヤ人虐殺が開始され,逃げたり隠れたりして収容所行きを逃れた者以外の欧州及び占領下のソ連のユダヤ人は,終戦までにほぼ絶滅されます.
以上,http://72.14.203.104/search?q=cache:6PUhBLKjwaEJ:www.virtualmuseum.ca/Exhibitions/orphans/english/themes/pdf/glossary.pdf+Jew%3Bforced+labour%3BNazis&hl=ja
と
http://www.holocaust-education.dk/tidslinjer.asp
も参照した.)
虐殺の過程で,老人・子供・大部分の女性,を先に殺し,大人の男性は強制労働に従事させることがあったのは,毎日キャパシティ一杯の人数の虐殺を整斉と実施していくに際して,「在庫」たる大人の男性に生存への希望を抱かせ,蜂起の芽を摘まんがためであり,強制労働させることが目的ではありませんでした.
【質問】
絶滅政策をとっていたはずの強制収容所で,終戦時までユダヤ人の生き残りがいたのは何故?
【回答】
そういう疑問を持つ人は,おそらく絶滅収容所と強制収容所とを混同している.
強制収容所は「労働による殲滅」を目指していたので,ユダヤ人は病死か衰弱死するまで酷使されたが,収容された途端に殺されたわけでもない.
ナチス親衛隊は強制収容所というシステムを最後まで維持しようとし,1944年末になっても,なお新規の収容所建設さえ試みた.
ユダヤ人狩りは戦争終結間際まで続けられ,むしろ戦局が末期的になるにつれ,それに反比例してユダヤ人狩りヒステリーが悪化していた印象がある.
たとえばパリでは1944年初頭からユダヤ人狩りがエスカレートし,イタリアではムッソリーニ処刑後,急進右翼が支配した北イタリアにおいて,初めて本格的なユダヤ人狩りがスタート.
ハンガリーでもナチスの傀儡だった矢十字党政権下において,短期間のうちに大量のユダヤ人移送が行われ,ドイツ占領時代のハンガリーだけでユダヤ人50万人が殺害されている.
また,強制収容所に送り込まれたのはユダヤ人だけではなかった.
1944年には囚人の数は60万人に上ったが,その中心的グループはソ連の囚人だった.
要するに絶えず新規の囚人が送り込まれてきたので,戦争末期に送り込まれてきた囚人には,連合軍の収容所解放によって生き残るチャンスがあった.
一方,絶滅収容所では,ほぼノー・チャンスだった.
公式にはアウシュビッツ収容所と呼ばれたアウシュビッツ=ビルケナウには,強制収容所と併設して絶滅収容所が設けられていたが,ソ連軍が近づいてきた1945.1.17,このアウシュヴィッツ複合体は閉鎖されることになった.
6万7千人がまだ収容所内にいたが,他の収容所に移されることになり,彼らは徒歩で歩かされた.
その死の行進で数千人が死亡し,その先の無蓋貨車での移動,各地の収容所内で,さらに多くが死亡した.
1945.1.27,ソ連軍はアウシュビッツを占領したが,そこで発見されたのは約1000体の遺体と,8000人以上の生存者だった.
生存者は病人と,施設内に隠れて死の行進を免れた人々だった.
ポーランドのルブリン近郊に建設されたマイダネク収容所も,やはり強制収容所と絶滅収容所の複合体だった.
1944年7月,ソ連軍はマイダネクを解放したが,囚人の疎開はそれ以前に行われており,生存者は約1000人だけだった.
ポーランドのウーチから約60km離れたところに建設されたヘウムノは,絶滅のみを目的とする4つの収容所のうち,最初に建てられたものだった.
当時はヴァルテガウという,1939年秋にドイツによって併合されたポーランド地域の中にあった.
ヴァルテガウのユダヤ人を殆ど殺害しつくし,さらにウーチ・ゲットーの生き残りの人数を減らすという目的を達すると,1944年末,収容所と焼却施設は完全に破壊された.
殺害のために同収容所に連れてこられた15~30万のユダヤ人のうち,逃げることができたのは10人にも満たない.
ルブリンの東に位置していたベウジェッツは,1942年3月開設.
ガリツィア地方のユダヤ人が絶滅したことにより,1942年11月末に閉鎖された.
それ以前,ベルジェッツには要塞建設のため,奴隷労働をさせられたユダヤ人の収容所があったが,1940年秋に解体されているので,両者の混同に注意.
約60万人がここで殺され,逃げることができたのは2名のみ.
そのうち戦争終結まで生き延びることができたのは1名のみだった.
ポーランド東部にあったソビブル絶滅収容所は,1942年5月開設.
ここでは1943年10月,囚人が蜂起し,約400人が脱出.
約半数が収容所周囲の地雷原を突破し,約100人が追跡などを逃れて自由を得,35人が戦後まで生き抜くことができた.
ソビブルは蜂起発生後,ナチスによって完全に破壊された.
ワルシャワの北東約120kmのところにあるトレブリンカは1942年7月開設され,1943年11月閉鎖.
その間,約75~80万のユダヤ人が殺害された.
閉鎖後,ナチスは収容所を爆破し,痕跡を全く消す作業をユダヤ人の特別労務班に行わせた.
同収容所から脱出できたのは,1943.8.2の囚人蜂起によって周囲の森の中に逃げ込むことができた数百人だけ.
そのうち,戦後まで生き延びることができたのは60人にも満たなかった.
【参考ページ】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.4-14,175-176,319-324
mixi, 2016.8.18
【質問】
絶滅収容所で殺害されたユダヤ人の遺体は,どう処分されたのか?
【回答】
死体処理は,どの絶滅収容所でも大きな問題だった.
アウシュヴィッツでは当初,ビルケナウの植林地域に掘られた穴に入れられたが,穴がいっぱいになるにつれ,これが汚染源となったので,1942年夏~11月の間に,穴は掘り起こされ,蛆だらけの死体10万7000体が焼却された.
以後,死体の口から金歯を抜き取った後,焼却するシステムが整えられた.
第5焼却場まで建設されたが,それでも焼却能力が死体の数に追い付かず,野外で焼却することもあった.
マイダネクでは共同墓地に埋めていたが,1942年6月,焼却炉が2つ完成した.
しかしこれらは小さなもので,死体を処理しきれず,死体は野外において特製の火葬燃料によって焼かれた.
その後,1日当たり1000人分の焼却能力を備えた大型焼却炉を完成させている.
1943.11.3からの数日間,マイダネクで最大の殺戮が行われたときは,親衛隊が焼却炉近くの溝で,1万8400人のユダヤ人を射殺.
囚人たちは全ての虐殺の痕跡を除去するため,墓穴に土をかけさせられ,墓穴に入りきれなかった死体を焼いた.
残った骨片は特殊な粉砕機で粉にされて袋詰めにされ,肥料とし使うために親衛隊の倉庫に運ばれている.
ヘウムノは,死体から金歯を抜き取る作業を最初に始めた絶滅収容所である.
ユダヤ人の囚人たちに,死体から貴重品を抜き取る作業をやらせた後,巨大な穴に死体を投げ込ませた.
後に焼却施設も作られたが,収容所閉鎖に当たり,全ての施設は完全に破壊された.
ベウジェッツでは死体は野外の共同墓地で焼却された.
ソ連軍がベウジェッツに迫ると,犯罪の証拠隠滅のため,ナチスは墓地を掘り起こし,腐敗した死体を焼却.
それから骨を粉末になるまで砕き,隣接する野原に撒いた.
ソビブルでも死体は焼却または埋葬された.
囚人蜂起の後,この収容所は閉鎖されたが,その際,跡形もなく施設は破壊された.
トレブリンカは最後に建設された絶滅収容所であるため,これまでの経験を活かし,最も効率的にユダヤ人を殺害できる施設となっていた.
ユダヤ人はガスで殺され,大規模な焼却場で灰にされた.
収容所が閉鎖されると,ナチスは施設を爆破し,大規模墓地の痕跡は消し去られ,ユダヤ人囚人の特別作業班に松を植えさせた.
そのため,同地が連合軍によって占領されたときには,大量殺害の痕跡は残っていなかった.
ナチス・ドイツにとって,死体処理は倫理学上の問題ではなく,作業能率の問題に過ぎなかったのである.
【参考ページ】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.4-14,319-324
※死体映像があります.ご注意ください
mixi, 2016.8.20
【質問】
第一次世界大戦時にドイツ軍に所属し,勲章等を受けた経験があるユダヤ人でも,強制収容所に収監されたんでしょうか?
それとも,収監の免除等の特別処置がとられたんでしょうか?
【回答】
絶滅収容所ができる前の話だが,白ルテニア地方(ベラルーシ)の司政官だったヴィルヘルム・クーべが,処刑のため移送されてきたユダヤ人の中から第一次大戦の叙勲者をピックアップして,ヒムラーに助命を願い出たという話がある.
ちなみにこのクーべという男,ナチ初期からの党員で強硬な反ユダヤ主義者だったのだが,党中央とケンカして独ソ戦後に占領地域の司政官に左遷されていた.
そこで迫害されるユダヤ人の姿を見て,彼らの庇護者に変貌.
時には本人が直接現場にかけつけるなどしてユダヤ人狩りへの妨害を続け,SSと対立した.
ナチはこの反逆者に手を焼いたが,解任される前に皮肉なことに,彼はパルチザン・メンバーの使用人がベッドに仕掛けた爆弾によって暗殺されている.
【質問】
「アニ・アミン」とは?
【回答】
アウシュビッツの囚人達が作詞,作曲した歌.
今日でも「過ぎ越しの祭」の晩餐のときに,シナゴーグではよく歌われる,という.
犠牲者への追悼のようなものか.
以下引用.
今日でも「過ぎ越しの祭」の晩餐のときには,シナゴーグではよく「アニ・アミン」という歌が歌われる.
「アニ・アミン」とは,ヘブライ語で「私は信じる」という意味である.
この歌は,アウシュビッツの囚人達が作詞,作曲した,悲しいけれど,実に美しい歌である.
その東洋的な旋律は,誰がいつ聞いても,胸を揺さぶられる.
この「アニ・アミン」の歌をとってみても,ユダヤ人がいかに楽天的な民族であるかということが分かる.
彼らは極限的な状況に置かれ,死から逃れられない運命であったのに,
「私達は,救世主が来ることを信じている.
しかし,救世主が現れるのが,少しだけ遅れている」
という言葉を歌い,自分達を慰めたのである.
マーヴィン・トケイヤー著「ユダヤ商法」(日本経営合理化協会出版局,
2000/9/7),p.263
こうした過去の悲劇や屈辱を教訓とし,永遠に忘れないような制度を社会に組み込んでいるのが,ユダヤ人の強みの一つである,ともトケイヤーは述べている.
確かにナイスなアイディアであろう.
【珍説】
ユダヤ人収容所の生活は快適だった.
【事実】
わー,ちょー快適っすねえ(笑)↓
1944年にヴェステルボルクからベルゲン=ベルゼンへ送られたオランダの法律家アーベル・ヘルツベルフは,この収容所のことを以下のように描写している――
「収容所内には不毛の荒れ地が広がり,冬にはそれが泥海か氷原に,夏には砂礫と土埃と石くれの原となった.
地中には地虫もミミズも住まず,空中には蝶やトンボの姿も無かった.
雀が草の種を啄ばみにくることもなく,電柱に止まる鳥もなければ,樹上でさえずる小鳥の姿もなかった」
だがそれでもベルゲン=ベルゼンは,飢えが急速に収容者を蝕みつつあったとはいえ,どちらかといえばましな収容所だった.
(『アンネの日記 研究版』より)
【質問】
ガス室はあったの? なかったの?
【回答】
ありました.
疑問の余地はどこにもありません.
個々のガス室の稼働状況については,議論が提起されるかもしれませんが,ナチス・ドイツが,ホロコーストのひとつの手段としてガス室を採用した,という事実は消えないのです.
「なかった」というのは,極めて悪質なデマです.
ところで,こういう質問をするひとに聞きたいのですが,ガス室が「あった」から,もしくは「なかった」から,どうしたというのでしょうか.
ガス室は確かにナチの悪行の象徴的存在です.
しかし,「仮に」ガス室がなくとも,東方での集団殺害,餓死・病死,ポグロムといったやり方で殺されていった人びとが大量にいる訳です.
「ガス室」は大事な事です.
ぎゅうぎゅう詰めに押し込まれた部屋の中で,見えない凶器によって,苦痛にまみれた方法で殺されるというのは,平和な時代を生きるわれわれにとっては,想像しがたい残虐な出来事です.
そのようなやり方で虐殺された人びとの存在を,われわれは忘れてはいけません.
しかし同時に,ガス室は再三申し上げているように,ホロコーストのひとつの局面なのです.
それがなかったからといって,ホロコーストも否定できるとか,その残虐性が薄まるとか,そういう性質のものではないのです.
もう,ガス室「だけ」に拘るのはやめにしませんか.
ガス室「だけ」に拘るという態度は,否定論者の思うつぼです.
「ストパン」■(2009-03-22)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・番外編
青文字:加筆改修部分
【反論】
――――――
>http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20090320/1237532520
>ガス室がたとえ存在しなかったのだとしても,ホロコーストの存在は揺るぎません.
じゃあなんで,ガス室をホロコーストの証拠として出してきたの?
つーかガス室は存在しないけど,ホロコーストは存在する?
「論より証拠」という日本語の諺はご存知?
http://dic.nicovideo.jp/b/a/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9/61-#88
――――――
【再反論】
僕のエントリが読めないのかなぁ.
文脈を読めば答え書いてあるでしょ.
――――――
ガス室で殺されたのは一部です.
また,ガス室にはツィクロンBでなく一酸化炭素ガスを用いるものもありましたから,ツィクロンBで殺された犠牲者はもっと少ないでしょう.
要するに,ガス室がたとえ存在しなかったのだとしても,ホロコーストの存在は揺るぎません.
http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20090320/1237532520
――――――
だれも「ガス室は存在しない」なんて言ってないよね.
否定論者が「ガス室ガス室」うるさいから,
「『仮に』ガス室がなかったのだとしても,ホロコーストの犠牲者ってそれだけじゃないからね」
ということを言っているに過ぎないわけで,当たり前だけどガス室も重要な要素だから.
ていうか,自分で「たとえ」ってワードが含まれた箇所を引用してるやんけ.
仮定法って学校で習わんかったのか?
(この人に限らず,仮定法や反語表現がわからない否定論者って多いよね!
わからないふりをしているのか,わからないようなひとが否定論者になるのか)※
「ストパン」■(2010-08-26)[歴史修正主義]ニコニコ大百科における,ホロコースト否定論の終わらぬループ
青文字:加筆改修部分
※ 確信バイアスの前には,見聞きしたことでさえ歪曲されてしまうのが当たり前です.
カンボジア虐殺に関する「アジア的優しさ」しかり,北韓に関する「地上の楽園」またしかり.
【質問 kérdés】
ガス室があった証拠は「無い」?
https://twitter.com/katsuyatakasu/status/1106893703694565378
【回答 válasz】
ナチス・ドイツは大戦末期,ガス室を爆破するなどして証拠隠滅に努めた.
たとえばソビブルやトレブリンカは建物すべてが跡形も無く破壊され,今日では痕跡さえ残っていない.
にもかかわらず,直接・間接の証拠がいくつも残されている.
ベウジェッツ絶滅収容所については,2人の証言者がいる.
一人は,脱走できた囚人の内,ただ一人の生き残りであるルドルフ・レーダーの証言.
もう一人は,ベウジェッツを1942年8月に訪れた親衛隊衛生技術局技術消毒部長クルト・ゲルスタインの証言である.
ソビブル絶滅収容所についても証言者がいる.
同所では1943年10月,囚人が蜂起し,約400人が脱出.
約半数が収容所周囲の地雷原を突破し,約100人が追跡などを逃れて自由を得,35人が戦後まで生き抜くことができた.
トレブリンカ絶滅収容所でも同様に,1943.8.2に囚人が蜂起.
数百人が周囲の森の中に逃げ込むことができ,60人未満が戦後まで生き延びることができた.
アウシュビッツ=ビルケナウは絶滅収容所と強制収容所とが併設された複合施設だったため,ソ連軍占領時には8000人以上の生存者がいた.
それら生存者の内,死体処理に従事させられたユダヤ人(ゾンダーコマンドと呼ばれた)の証言がある.
また,解放前に殺害されたゾンダーコマンドも,書き記したメモを地中に埋めるなどして証言を残している.
囚人の中には詳細な記録を残している者もいた.
さらに,施設勤務の親衛隊員の証言も存在する.
物証としては,初期のガス室があった焼却棟Iは,親衛隊員の防空壕に転用されたためか,不完全ながら残存.
また,他のガス室も残骸が残されている.
さらに,致死量を超える量のツィクロンBを取引した書類も発見されている.
マイダネク収容所も,やはり強制収容所と絶滅収容所の複合体だった.
1944年7月,ソ連軍占領時,生存者は約1000人いた.
また,ポーランドの地下抵抗組織が戦時中,ガス殺を含む,ここについての情報を連合軍側に伝えている.
さらに,ドイツ当局はソ連軍の進撃速度を過少評価していて,ガス室の破壊が遅れ,5つのガス室が残ったままだった.
絶滅収容所が併設されていない強制収容所でも,ガス殺が行われている証拠が残っている.
オーストリア,リンツの東方にあるマハトハウゼン強制収容所では,1942年3月~1945年4月末までに1692人をツィクロンBで殺害している.
この死体処理をさせられた囚人のうちの生き残り3名の証言.
また,焼却棟の指揮官だった親衛隊員マルティン・ロートの証言が残されている.
さらに,焼却による証拠隠滅が間に合わなかった13の「死者記録簿」が存在する.
ベルリンの北90kmに位置するラーヴェンスブリュックのガス室については,それを提案した親衛隊医師パーシバル・トライテが証言している.
また,収容所指揮官ヨハン・シュヴァルツフーバーの証言もある.
ストラスブールの南48kmに位置するナッツヴァイラー=シュトルートホフ強制収容所のガス室については,文書が証拠として存在する.
1943.9.26,収容所建設部からストラスブール大学解剖学研究室へ送られた明細書,
「ナッツヴァイラー強制収容所のガイドラインに沿っての作業の装備・充実化およびガス室の建設に関する件」
がそれである.
チェコのテレージエンシュタット・ゲットーにもガス室は建設された.
証言者はゲットーの長老会議議長ベンヤミン・ムルメルシュタイン博士.
また,施設の建設・デザインに徴募された2人のユダヤ人技師,エーリヒ・コーエンとクーリッシュも詳細な陳述を残している.
ただし同ゲットーでの殺害計画は実現しなかった.
ダッハウ強制収容所のガス室については,収容所勤務の医師フランティーゼク・プラーハが証言.
また,米軍占領時にはガス室はそのまま残されており,1945.5.3のアメリカ軍撮影のドキュメンタリー・フィルムにも,ガス室が映っている.
そしてガス室は今日なお残っている.
【参考ページ Referencia Oldal】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.4-14,133-147, 175-176,319-324
mixi, 2019.3.24
【質問 kérdés】
ツィクロンBは衣服の消毒に使われただけでは?
https://twitter.com/katsuyatakasu/status/1106512920169463809
【回答 válasz】
確かに,囚人のシラミ駆除「にも」使われてはいる.
しかし収容所へのツィクロンBの供給量は,シラミ駆除に必要な量をはるかに超える,数トンに達している.
これは収容所に残されていた,購入やその他の取引の記録概要によって判明している.
この書類が証拠となって,ツィクロンBを供給していたテスタ社の社員が2名,同じくデゲシュ社の経営者が起訴され,いずれも有罪を宣告された.
テスタ社の社員2名は絞首刑となっている.
【参考ページ Referencia Oldal】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003), p.342
mixi, 2019.3.17
【質問 kérdés】
「ツィクロンBは消毒用であって,虐殺用ではなかった」と最初に言い出したのは誰?
【回答 válasz】
.知られている限りでは,1976年に出版されたアーサー・バッツ Arthur Butz の『20世紀のたぶらかし The Hoax of the
Twentieth Century 』が最初.
歴史学者のロバート・S・ウィストリヒによれば,バッツはオカルトまみれの陰謀論者であり,バッツは,この「たぶらかし」を
(1)莫大な戦費を費やしたことを連合国側が正当化するためであり,
(2)連合国を裏で操るユダヤ人の陰謀であり,
(3)ヒトラーの犯罪を誇張することによって自己正当化を図る共産主義者の陰謀によるものである
と主張している.
……ユダヤ人に連合国を裏で操るほどの力があったのなら,そもそもホロコーストなんか起こらないだろうに(苦笑)
また,(1)~(3)が並存できるという考え方も到底理解しがたい.
ちなみにバッツはイリノイ州のノースウェスタン大学の教授だったという.
ただし歴史学ではなく,電子工学・コンピュータ学の.
ある分野における専門家も,専門外のことに関しては途端にトンデモになりうるということを,この人物の事例はよく示している.
【参考ページ Referencia Oldal】
ウォルター・ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),「ホロコースト否定論」の項
mixi, 2019.3.18
【質問 kérdés】
なぜツィクロンBが使われることになったのか?
Miért használták a Zyklon B-t?
【回答 válasz】
効率性を追求したため.
有毒ガスによる虐殺では当初,ディーゼル・エンジンで発生させた一酸化炭素が使われたが,後にツィクロンBに切り替わった.
ただしベウジェッツ,ソビブル,トレブリンカの3つの絶滅収容所では,閉鎖まで一酸化炭素が用いられた.
また,ザクセンハウゼン強制収容所ではカプセルタイプのツィクロンAも使用された.
切り替えられた理由としては,一酸化炭素よりも遥かに早く効果が現れるものだったからという点が最も大きい.
また,一酸化炭素によるガス殺よりも比較的廉価だった.
さらに,一酸化炭素による殺害よりも作業も簡単だった.
粒状のツィクロンBを小窓からガス室に投げ込むだけで済んだからだ.
さらにまた,この方法は親衛隊隊員の心理的負担を軽くするものと思われた.
上記実験の結果,収容所の医者は所長のルドルフ・ヘスに,この方法で殺された者は苦しみを感じないと保証していた.
【参考ページ Referencia Oldal】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.6 & 135-147
mixi, 2019.3.20
に加筆修正
【質問】
ガス室にチクロンBを投入して30分後に扉を開けることなんてできたの?
作業員が青酸ガスで死んだりしない?
【回答】
強制換気装置がついていたので可能だった.
(ジャンークロード・プレサク)
換気装置のついていないガス室もあったが,作業員にガスマスクをつけさせて作業させた.
それに作業はユダヤ人にやらせていたので,危険が残っていても気にしなかった.
http://www.asyura2.com/0502/war67/msg/410.html
2020.8.16
【質問 kérdés】
ロイヒター・レポートって何?
Mi az Leuchter jelentés?
【回答 válasz】
ロイヒター・レポートは,アメリカの処刑ガス室に従事していたフレッド・A・ロイヒター Fred A. Leuchter が,1988年にアウシュヴィッツのガス室について調査した報告書.
「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所のガス室が処刑ガス室として利用された,あるいはそのように機能したと考えることは不可能である」
と結論したため,ホロコースト否認論者によって,よくとりあげられる.
しかしロイヒターは工学修士ではなく哲学修士であり,ビルケナウについても十分に下調べしないまま調査したため,そのレポートには様々な瑕疵が指摘されており,信憑性は低い.
【参考ページ Referencia Oldal】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003), p.133-137, 594-573
https://www.ushmm.org/wlc/ja/article.php?ModuleId=10008003
http://kingink.biz/archives/1495
https://www.youtube.com/watch?v=niBw8JakaFg
mixi, 2018.6.9
【質問 kérdés】
ロイヒター・レポートにはどんな点に問題があるの?
Hol van a Leuchter-jelentés hibája?
【回答 válasz】
ロイヒターは初歩的なミスをいくつも犯している.
たとえば彼は,ガス室の壁と衣類の虱駆除室の壁からサンプルを採取し,ケミカル・ラボにシアン化水素の検査を依頼.
検査の結果,ガス室のサンプルより駆除室のサンプルのほうが,ガス残留レベルが高かったことから,
「アウシュヴィッツのガス室で殺された人間はいない」
と結論を下した.
しかし,ガス室のサンプルのガス残留レベルが低いのは当たり前の話で,ソ連軍がアウシュヴィッツに迫ってきた1944年,ドイツ軍は虐殺行為を隠蔽するためにガス室を爆破したからだ.
その瓦礫はそれから何年もの間風雨に晒されており,ロイヒターがサンプルを削り取った1988年には,残留シアン化水素はかなり希釈されていた.
ちなみにシアン化水素は水溶性なので,雨水に溶けてしまう.
むしろロイヒターの憶測とは逆に,1988年にもなってなおもシアン化水素が残留しているという事実自体が,ガス室では相当高濃度のシアン化水素が使われたことを指し示している.
その上ロイヒターは,ケミカル・ラボにシアン化水素の検査を依頼するにあたり,コンクリート片の入手先を伏せた.
そのため,分析を依頼されたアルファ・アナリティカル社によれば,ロイヒターが提出したサンプルの表面にはシアン化物が明白であったが,依頼された解析がサンプルの表面ではなく内部に関するものであると思ったため,サンプルを粉砕してから解析作業を行ったという.
これで,既に風雨に晒されていた残留シアン化水素は,さらに希釈されてしまった.
また,虱はシアン化物に対しては,人間より遥かに大きな耐性を持っている.
そのため,虱駆除には高濃度のガスが必要とされる.
その上,一部屋に人間をぎっしり詰め込めば,少量のガスで短時間のうちに命を奪うことができる.
よって,ガス室のサンプルより駆除室のサンプルのほうが,ガス残留レベルが高くて当たり前.
また例えばロイヒターは,
「人間を殺すには0.32%濃度のシアン化水素が必要だが,これでは大量のガスの残留物が下水設備に広がって,収容所全体を汚染したはず.
また,看守はガス室に大量のツィクロンBを投下しなくてはならなかったから,自らも毒ガスを浴びたはず.
特殊任務部隊(囚人による死体処理担当の部隊)がガス室に入るには24時間待たなくてはならなかったはずだ」
と主張した.
この勘違いの原因は,彼がシアン化水素の量を過大に見積もったことにある.
実際には,人間を殺すのに必要なシアン化水素の量は,ロイヒターの計算の10分の1で足りた.
どうやらロイヒターは,死刑囚一人を安楽死させる処刑用ガス室と,一度に大量虐殺するためのガス室とを,同じ感覚でとらえていたらしい.
そんなこんなでロイヒター・レポートは今日では,アマチュアによる杜撰な「調査」と認識され,例えて言えば,ガイガーカウンターの使い方もろくに知らないまま福島に放射線量調査に出かけて,針が振り切った!と大騒ぎした人と同様の扱いを受けていますとさ.
【参考ページ Referencia Oldal】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003), p.594-573
リップシュタット『否定と肯定』(ハーパーコリンズ・ ジャパン,2017),p.84-85. 239-240, 252-253
http://kingink.biz/archives/1495
http://www.israelshamir.net/Hungarian/Hungarian16.htm
mixi, 2018.6.9
【質問】
ユダヤ人は,全員がガス室で殺されたのですか?
【回答】
ユダヤ人の犠牲者は総計で600万人にのぼると言われます.
そのうち,ガス室で殺されたのは一部です.
また,ガス室にはツィクロンBでなく一酸化炭素ガスを用いるものもありましたから,ツィクロンBで殺された犠牲者はもっと少ないでしょう.
要するに,ガス室がたとえ存在しなかったのだとしても,ホロコーストの存在は揺るぎません.
犠牲者の多くは,収容所・ゲットー内部や輸送中の劣悪な環境によって病死・餓死した人びとです.
ナチが直接に手を下した訳ではありませんが,極度に不衛生な環境に放り込んで,ろくに食事も与えず労働させたのですから,普通はこれも虐殺の被害者と見なします.
おそらく,日本の刑法でもこのような行為は殺人に該当するでしょう.
また,東欧に進撃したナチの行動部隊(アインザッツグルッペン,Einsatzgruppen)によって,多数のユダヤ人が射殺され,彼らが煽ったポグロム(民衆によるユダヤ人迫害)によっても,多くのユダヤ人が犠牲になりました.
彼らもホロコーストの犠牲者に含まれます.
もともとガス室というのは,兵士がユダヤ人の射殺で心理的負担をおぼえるようになったので,より「人道的」な殺害方法として選択されたものです.
「ストパン」■(2009-03-20)[歴史修正主義]ホロコーストの基礎知識について17
青文字:加筆改修部分
【質問】
シャワー室って嘘言って,シャワーの蛇口から毒ガス流したって本当?
【回答】
愛・蔵太氏は,
――――――
なんか妙な映画・漫画その他フィクションの見すぎ.
ガス室にユダヤ人大量に閉じ込めて,上の穴からチクロンBぶちまけて,本当に虫ケラのように殺したんじゃないかと.
それ以外にも餓死・病死とかいろいろありそう.
ただ,「一酸化炭素」で殺した,という事実は確認できなかったなぁ.
「ホロコーストの基礎知識について」を読んでたらあまりにも背中がかゆくなったので何か言ってみる - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記
――――――
と回答していますが,その「閉じ込め」る為にシャワー室という嘘が用いられたのは事実です.
大量殺害においては,いかにして犠牲者の抵抗に遭わずに殺害場所に連れていくか,というのが重要になってきますが,わざわざ服を脱がせて,張りぼてのシャワーノズルのある部屋に案内したナチは,その点巧みだったというべきでしょう.
なお,ディーゼル・エンジンを用いたガス殺については,以下に解説があります.
―――――――
トレブリンカを始めとする,ラインハルト作戦の絶滅収容所でユダヤ人達がどのように殺されていったのか,その正確な死因(一酸化炭素中毒か,窒素酸化物中毒か,それとも酸素欠乏による窒息か)は,これらの収容所が完全に破壊され,ガス室やエンジンの運転条件を再現する資料が残されていない以上,もはや知ることはできません.
しかし,ディーゼルエンジンを使ったガス殺が可能であり,実際にそれが行われたことは厳然たる事実であって,Bergのような似非科学的「理論」によって否定できるものではないのです.
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/holocaust/stove191.htm
――――――
また,芝健介氏の本にも,ラインハルト作戦で一酸化炭素ガスが用いられた旨の記述があります.
(『ホロコースト――ナチスによるユダヤ人大量殺戮の全貌』中公新書,2008,p.194)
「ストパン」■(2009-03-22)[歴史修正主義]ホロコースト否定論FAQ・番外編
青文字:加筆改修部分
なお,上記ブログのコメント欄では,以下のように指摘されている.
――――――
hokusyu 2009/03/23 02:54
一酸化炭素のガス殺は,もともとはT4作戦,つまり障害者の安楽死計画の中で用いられていた方法で,それがユダヤ人殺害に応用されていったことは,『アウシュヴィッツとアウシュヴィッツの嘘』の中にも記述されていたと思います.
――――――
▼ 【珍説】
【質問】
以下の主張は正しいのですか?▲
――――――
肯定論者が主張するアウシュヴィッツの犠牲者の数は400万→150万→100万→63万→36万人…と,どんどん減少しつつある.
フリツォフ・メイヤー(Fritjof Meyer)に至っては35万6千名にまで下方修正している.
修正派の意見に反論できなくて,アウシュヴィッツの死亡者をどんどん減らしていってるくせに,全体の犠牲者は相変わらず「600万」と主張している正史派の方が明らかにおかしい.
アウシュヴィッツの変貌については
http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/faurison_02.htm
を参照されたし.
――――――
▼ 【回答】
アウシュヴィッツ絶滅収容所における推定犠牲者数は,過去に何度か増減している.
最初に出された数字は「250万がガス殺された」というもので,これは1946年4月,ニュルンベルク裁判でルドルフ・ヘスがアイヒマンに言及しつつ,述べた数字である.
しかし後になってヘスは,自らの記憶に基いて,この数を113万5000人に修正している.
一方1945年,ポーランドとソ連当局に任命された調査委員会は,400万人がアウシュヴィッツで殺害されたと結論している.
この数は生存者の証言と,ガス室と焼却炉の容量,その絶滅装置の使用期間から算出したもの.
この数字を根拠にして,アウシュヴィッツ博物館でも90年代初めまで,300~400万人という概数を,公式で,疑いのないものとしてきたが,イスラエル,ドイツ,米国の新聞での公開討論の結果,訂正されることになった.
(この訂正自体が,『ホロコーストに関しては疑問を差し挟むこと自体がタブーにされている』といった,リビジョニストの物言いに対する反証ともなっている)
最新のアウシュヴィッツ犠牲者数は,アウシュヴィッツ博物館のために,1993年,フランチシェク・ビーバーが算出したものである.
彼は利用できる証拠すべてと,50年に及ぶ研究蓄積を利用し,約100万人が殺害されたとした.
詳しくは,
『ホロコースト大事典』(ウォルター・ラカー編,柏書房,2003.10),p.155
を参照されたし.▲
▼ 【事実】▲
否定論者が出してくるアウシュヴィッツの死亡者のリストって,西暦順に並べると減ってないんだよな.
何で時間にともなって「減ってる」って錯覚してるんだ?
<300万人> アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスの自白による. 1945年
<800万人>フランス戦争犯罪調査局とフランス戦争犯罪情報サービスによる 1945年
<400万人> ニュルンベルク裁判が「法廷に顕著な事実」としたソ連側資料による.1945年
ただし1990年に撤回される.
<600万人> Miklos Nyiszli (1951)の序文の筆者Tibere Kremerによる
<80万人から90万人>歴史家Gerald Reitlinger (1953)による.
<900万人>ドキュメンタリー映画『夜と霧』による. 1956年
<100万人>Jean-Claude Pressac (1989)による.
<63万人から71万人>Jean-Claude Pressac (1994)
<150万人>1995年にビルケナウの記念碑で,1990年に放棄されていた400万人という数字と差し替えられた数字.
▼ 400万人というのは,誇張が明らかだったため,昔の西側の学者がだれも被害者を割り出す手がかりとしなかった数字である.▲
西側の研究家は最初から信用していない.
さらにソ連は「200万人のユダヤ人と200万人のポーランド人が殺された」と主張していたのであって,400万人全部がユダヤ人であるとは言っていない.
ソ連当局,ポーランド当局,西ドイツ当局は,大戦中にアウシュヴィッツ当局が保管していた死亡登録簿(Sterbebucher)の存在を認めることに慎重であった.
各国の当局はついに,登録簿の存在を公にした.
彼らは登録簿を復元したと主張したが,それは,1941年7月27日から1943年12月31日までの期間であった.
収容所の開設は1940年5月20日であり,ドイツ人が撤退したのは1945年1月18日であるから,死亡登録簿が復元された期間は,収容所の存在期間の半分強である.
復元された登録簿は46巻であり,そこには69000名の名前が記載されている.
メイヤー論文そのものは独語なので,まだ手をつけていないが,英訳された,同論文に関する評伝等をみる限り,その内容は疑ってかかった方が良い.
いくつか例示すると
・死体焼却炉の処理能力を2200人から1200人程度に減らしている.
この根拠を,焼却炉の設計・施工したトウプ社の技術部門からの書簡に求めているが,マイヤーは設計段階で2200人,施工完了後1200人としている.
実際の書簡の日付は逆で当初1200人と見積もったが,稼動後の状況で2200人は処理できるとなっている.
明らかに,作為的な論旨を展開している.
・焼却処理された人数の母数を,マイヤーはハンガリーからの移送されたユダヤ人を従来の40万人から,
10万人程度に減らしているが,40万人というのは『誇張されている』とだけ記しており,具体的な根拠をあげていない.
40万人は,ドイツ国鉄の運行記録,ならびにハンガリーでの移送報告によるもので,2700人を3000人と丸めるようなケースは当然存在したであろうが,統計上の誤差脱漏以上の差異は,両記録のクロスリファレンスでは見受けられない.
そもそも死者数は”推定値”であって,誰も正確な数だとは主張してない.
”推定値”なのだから,研究が進めば数も変わるわな.
それを否定の証拠などと見なすのはナンセンスだ.
そういえば最近の保守派の言い分では,シベリア抑留者の数と死亡者の数が,実は公表されていた数の数倍だったとかそんな話が出てた.
つまり否定派の論理に従うなら,シベリア抑留は捏造ということですな(笑)
【質問 kérdés】
アウシュヴィッツ=ビルケナウのガス室は,どのようなものだったのか?
【回答 válasz】
初期の小型のものから,施設は次第に大型化していった.
同収容所でのガス殺は1941.9.3,基幹収容所のブロックII房にてソ連兵捕虜600人,罹病ポーランド人囚人250人がツィクロンBにより殺害されたことに始まる.
この「実験」の結果,最初の恒久的ガス室が作られることになった.
その後,要求される「処理」能力の増大により,さらに大型のガス室が作られた.
これらガス室は,ソ連軍によってアウシュビッツが占領された時には既に,一つは叛乱の結果,その他は証拠隠滅のために破壊されていたが,ナチス親衛隊員や死体処理に従事させられていたユダヤ人の証言により,その一部は構造の詳細まで判明している.
その証言によれば,ガス室の扉が開かれた時,遺体は噛み合い絡み合った山となっていたという.
少しでも天井近くのきれいな空気を吸いたい一心から,互いが互いを下敷きにしてよじ登ろうとすさまじい格闘が行われたためだった.
一方,家族で身を寄せ合うように死んでいた遺体もあったという.
【参考ページ Referencia Oldal】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.140-142
mixi, 2019.3.19
【質問 kérdés】
アウシュヴィッツ=ビルケナウにあった焼却炉は,どのようなものだったのか?
【回答 válasz】
アウシュヴィッツは当初,ポーランド人やロシア兵捕虜をこき使うための強制収容所として建設されたので,焼却炉の能力は限られたものだった.
最初の焼却棟I Crematorium I には3つの焼却炉があったが,24時間稼働しても340体の焼却能力しかなかった.
そのため,多くの死体はビルケナウに穴を掘って処理されたが,やがて穴はいっぱいとなって汚染源となったため,1942年夏~11月の間に掘り起こされ,10万7000体の腐乱死体が改めて野外で焼却処分された.
焼却棟Iは1940.8.15~1943.7まで稼働した後,建物は親衛隊員の防空壕に転用され,施設の一部は取り壊された.
戦後,復元されたのはこの初期モデルのうちの2つの焼却炉である.
一部の歴史修正主義者がこの復元された焼却炉だけを見て,「150万人もの人間を焼却する能力など無い! ホロコーストは捏造!」などと騒いでいるが,上述のようにこの炉だけで150万人も焼いたわけではない.
つまりこれは疎い人を騙そうとするプロパガンダに過ぎない.
死体処理能力不足が問題になったために建設されたのが焼却棟II~IV.
焼却棟IIは1943年3月~11月まで稼働し,ドイツ当局の計算によれば24時間稼働して1440体を焼却することができた.
ただし親衛隊員の証言によれば,実際の焼却能力はもっと高かったという.
焼却棟IIIは1943年6月~11月まで稼働し,IIと同等の能力があった.
II, IIIは証拠隠滅のために閉鎖後破壊され,念のため1945.1.20には爆破もされている.
焼却棟IVは故障による中断期間を挟んで1943年3月~10月まで稼働.
ドイツ当局の計算によれば24時間稼働して768体を焼却することができた.
ただし親衛隊員の証言によれば,実際の焼却能力はもっと高かったという.
この棟は10月,蜂起したユダヤ人により破壊されている.
焼却棟Vは故障による中断期間を挟んで1943年5月~1945年1月まで稼働.
ドイツ当局の計算によれば24時間稼働して768体を焼却することができた.
ただし親衛隊員の証言によれば,実際の焼却能力はもっと高かったという.
これも証拠隠滅のために閉鎖後破壊され,念のため1945.1.26には爆破もされている.
焼却棟増設にもかかわらず,1944年後半にはそれらだけでは死体を焼却しきれなくなったので,野外での焼却が行われるようになっている.
【参考ページ Referencia Oldal】
ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003),p.4-14
http://chikatravel.com/2017/05/09/topf-und-soehne/
https://www.jewishvirtuallibrary.org/crematoria-and-gas-chambers-at-auschwitz-birkenau
https://www.hdot.org/debunking-denial/ab4-civilian-ovens-comparison/
http://www.nationalarchives.gov.uk/education/resources/holocaust/gas-chambers-crematoria-birkenau/
焼却棟II
https://www.youtube.com/watch?v=x3EeTFtYr5E
mixi, 2019.3.23
【質問】
アウシュヴィッツの死体焼却炉の処理能力では,殺害したとされるユダヤ人の死体を焼却処理しきれないんじゃないの?
【回答】
アウシュヴィッツの最大収容人員は40万人となってるんだけど,死体焼却炉の処理能力って,最低でも一日あたり1200人.
月20日稼動でざっくり計算しても,年間20万人の死体焼却に耐えられる数字.
チフス・赤痢の蔓延を考慮しても,この死亡率は,病死も含めた自然死としては異常.
この過大な死体処理能力の発注という,史料に残る事実を考慮すれば,アウシュヴィッツという施設がどういう性格かは,一目瞭然.
【質問】
アウシュヴィッツの焼却炉は合計16万体の死体を処理するだけの耐久力しかなかったのでは?
そして焼却炉を修復した記録は無い.
【回答】
通説側の主張からして,焼却は炉だけを使ったものでなく野外でも行われたものだということになっている.
【質問】
1991年に公表された公式文書によればアウシュヴィッツの囚人の死者は合計13万人.死因はチフスや自然死なのでは?
【回答】
これはIHRが「ゴルバチョフに教えてもらった」と主張する資料であって,内容そのものがはっきりしない.
【珍説】
記録によると搬入された石炭の量は自然死した死者数と合致している.
すなわち,ガス処刑された大量の死体を焼却するだけの石炭は無い.
【事実】
通説側の主張は,焼却は機械油の廃油やベンジンを使って行われたとなっている.
そのため,石炭の量を持ち出して焼却が不可能だと主張することはナンセンスである.
【質問】
戦後,ルドルフ・ヘスは拷問されたのだから,その証言は信用できないのでは?
【回答】
そうとも言えない.
よく否定派がルドルフ・ヘスが拷問されていたとのソースとして持ち出すのがこの本.
確かにこの本には,拷問されたというようなことが書いてある.
だが,それと同時に同書では
「ガス殺をやった.大量の死体を焼いた」
とはっきりと書いてある.
否定派の見解によれば,ヘスは拷問されて嘘の証言を書かされたということになっているのに,手記の捏造を担当した人間は,それと一緒に拷問の事実が書いてあることを見逃して出版を許してしまったということになってしまう.
つまり,「捏造した人間は間抜けだったからうっかり見逃した」という解釈しかできなくなってしまっているのだ.
もちろん否定派は,
「司法取引を持ちかけられて嘘を書いたけど,応じてくれないことがわかったから拷問のことを書いた」
というもっともらしい解釈を披露してはいるけれど,この手記は書かれた後数年経ってから日の目を見たもので,その間修正する手間も暇も十分にあったはずなのである.
そしてもっと重要なことだが,その解釈には,否定派がもっとも重要視する証拠が一切存在しない.
拷問による証言が,通常の裁判では証拠能力がないのは言うまでもないのですが,拷問によって得られた証言が,常に嘘であるということはいえないのではないでしょうか?
いわゆる検事の作文に,拷問を持って署名させたら,無論問題にもならないのですが,よく考えて見れば,検事が作文するためには,犯行の現場・目撃証言等に相当の知識が必要ですよね.
で,強制収容所とかの所長とか隊員とか,一箇所の捕虜収容所で尋問されたわけじゃないですよね.
それぞれの証言に『ブンカー』とか『クレマ』って言う言葉があったり,食い違いもあるけど共通点も多いってことは,何十とかっていう捕虜収容所の尋問担当者に,同じ検事の作文を配布して,拷問の上,そのように証言させたってことになるんですけど,英・米・露で一斉にそんな検事の作文を配布するって,ちょっと可笑しいと思うんですよね.
しかも,強制収容所のガス殺の細部を作文できるような知識が1945年~47年って言う時点で,連合国側に逢ったというのも腑に落ちないんです.
空中写真はあってもアウシュビッツって建物,ソ連軍が解放したときには,かなり破壊されてたから,どの場所を,ガス室にするとか,勝手に考えるの難しいって思います.違いますか?
そもそも裁判というものは,歴史問題については「政治的に正しい」判決を出す場所でしかありません.
まさしくニッコーが言うように,学問的に,実証主義的に「事実がどうであったか」を判定する,決定する場所ではありません.
特に,ホロコースト問題のように極めて政治的な問題,社会的なタブーになっている問題について,
判決それ自体を取り上げることには何の意味も無いかと思われます.
重要なのは,
「ホロコーストの実在について,どのような証拠の提示,論理の展開がなされたのか,裁判の具体的な中身」
でしょう.
【珍説】
アメリカ軍医のラーソン博士が裁判で,ガスで殺された人は居なかったと,証言している.
http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points2/Larson.html
【事実】
>ダッハウで私が個人的に検死した被収容者のうち,
>こうしたやり方で殺された被収容者は,かなり少なかったと思う
というのが,そのサイトのラーソンの証言なんだが,その裁判当時は,
「ダッハウは絶滅収容所」「ガス室がある」
と考えられていたので,ラーソンがそのような証言をした.
実際に,診断などで確認した訳ではない.
ちなみに,現在ではダッハウは絶滅収容所ではない事が判明しているのは知っているよな?
絶滅収容所はソ連が解放し発表した所のみ.
【珍説】
収容所が赤十字を受け入れたのは「ガス殺が始まったとされる時期」より後である.
そして,赤十字は虐殺を確認していない.
【事実】
赤十字を受け入れたのは,二箇所,連合国軍の捕虜収容所と絶滅収容所ではない収容所でした.
前者の収容所の居心地が意外に悪くは無かったことは事実のようですが,後者の収容所は相当な演出と擬装が行われていました.
国際赤十字はテレジェンシュタットのゲットーには査察に入りましたが,そこは偽装された見せ物用のゲットーでした.
http://www.law.hiroshima-u.ac.jp/profhome/nishitan/doc/01998-redcross2.htm
国際赤十字としては1944年にドイツに視察には入りましたが,それは戦争捕虜収容所です.
上のページにも書かれていますが,当時の条約には一般人の保護は入って無かったようですな.
従って,国際赤十字は一般人の収容されている所までは視察する権利も何も無かった,と.
唯一,1944年にテレジエンシュタット強制収容所が,赤十字の視察を受け入れたが,残された写真等から見て,実際に赤十字が視察したのは,併設されていたゲットーとの説もある.
そして視察受け入れに際し,相当の偽装が行われた.
【珍説】
赤十字は再三,連合国に爆撃を止めるよう言ったが聞かなかった.
結果として収容所のユダヤ人が餓死した.
参考資料: 『Did Six Million Really die?』 著Richard
E Hawood
RED CROSS RECIPIENTS WERE JEWS
The Report states that "As many as 9,000
parcels were packed daily. From the autumn
of 1943 until May 1945, about 1,112,000 parcels
with a total weight of 4,500 tons were sent
off to the concentration camps" (Vol.
III, p. 80). In addition to food, these contained
clothing and pharmaceutical supplies. "Parcels
were sent to Dachau, Buchenwald, Sangerhausen,
Sachsenhausen, Oranienburg, Flossenburg,
Landsberg-am-Lech, Floha, Ravensbruck, Hamburg-Neuengamme,
Mauthausen, Theresienstadt, Auschwitz, Bergen-Belsen,
to camps near Vienna and in Central and Southern
Germany. The principal recipients were Belgians,
Dutch, French, Greeks, Italians, Norwegians,
Poles and stateless Jews" (Vol. III,
p. 83). In the course of the war, "The
Committee was in a position to transfer and
distribute in the form of relief supplies
over twenty million Swiss francs collected
by Jewish welfare organisations throughout
the world, in particular by the American
Joint Distribution Committee of New York"
(Vol. I, p. 644). This latter organisation
was permitted by the German Government to
maintain offices in Berlin until the American
entry into the war. The ICRC complained that
obstruction of their vast relief operation
for Jewish internees came not from the Germans
but from the tight Allied blockade of Europe.
Most of their purchases of relief food were
made in Rumania, Hungary and Slovakia. The
ICRC had special praise for the liberal conditions
which prevailed at Theresienstadt up to the
time of their last visits there in April
1945. This camp, "where there were about
40,000 Jews deported from various countries
was a relatively privileged ghetto"
(Vol. III, p. 75). According to the Report,
"'The Committee's delegates were able
to visit the camp at Theresienstadt (Terezin)
which was used exclusively for Jews and was
governed by special conditions. From information
gathered by the Committee, this camp had
been started as an experiment by certain
leaders of the Reich ... These men wished
to give the Jews the means of setting up
a communal life in a town under their own
administration and possessing almost complete
autonomy. . . two delegates were able to
visit the camp on April 6th, 1945. They confirmed
the favourable impression gained on the first
visit" (Vol. I, p . 642). The ICRC also
had praise for the regime of Ion Antonescu
of Fascist Rumania where the Committee was
able to extend special relief to 183,000
Rumanian Jews until the time of the Soviet
occupation. The aid then ceased, and the
ICRC complained bitterly that it never succeeded
"in sending anything whatsoever to Russia"
(Vol. II, p. 62). The same situation applied
to many of the German camps after their "liberation"
by the Russians. The ICRC received a voluminous
flow of mail from Auschwitz until the period
of the Soviet occupation, when many of the
internees were evacuated westward. But the
efforts of the Red Cross to send relief to
internees remaining at Auschwitz under Soviet
control were futile. However, food parcels
continued to be sent to former Auschwitz
inmates transferred west to such camps as
Buchenwald and Oranienburg.
(from http://maa999999.hp.infoseek.co.jp/ruri/gulfwar_02_05_15.html)
つまり赤十字もナチスもユダヤ人を救おうとしていたが,連合軍がそれを妨害した訳だ.
【事実】
やっぱりmaaさんとこの受け売りか.
誤植がそのままなんだよね.「Richard E Hawood」は正しくはHarwood.rが抜けてる.
ちなみにハーウッドはペンネームで,本名はRichard
Verrall.で,こいつはイギリスの極右組織「National
Front」の関係者.
ナショナルフロントはネオナチ認定されてるんでその辺も宜しく.
ソースとしてはどうしても弱いね,なるべく一次資料を持ってきて欲しい所だ.
それと、以下の文.
The ICRC complained that obstruction of their vast relief operation for Jewish internees came not from the Germans but from the tight Allied blockade of Europe.
大西洋でドイツの潜水艦が,どれだけ輸送船を沈めたか知らないんですか?
それによって、物資輸送が著しく妨害されたことも.
全般的に知識不足といっても過言ではないですね.
だいたいやね,
「主張に情報が従属しているプロパガンダ本ではやな,事実は二の次にされるんが常やがな.極左や極右のアジビラ見てみい」
ということも分かってへん,メディアリテラシー貧困な奴が,ナニ歴史論客気取ってけつかんねん.
【珍説】
国際赤十字委員会は,連合軍が無差別爆撃で,強制収容所へ援助物資を届けることを妨害していることに不満を訴えていた.
【事実】
そのような事実は存在しません.
ズンデル裁判ではこの件について,裁判長から
「存在しない資料を使ってホロコーストを否定しようとした」
と指摘されています.
アウシュヴィッツ近郊への爆撃が可能になるのは1944年5月以降.
アウシュヴィッツ近辺への爆撃は1944年8月20日の8キロ当方への併設工場が最初.
収容所そのものへの爆撃開始は9月以降.
1944年春以降10万人のハンガリーからのユダヤ人の移送を含め,爆撃が開始された以降も,移送は続いている.
ヴェステルボルクからの最終移送は9月5日,テレジエンシュタットからは10月24日,ボルツァーノからの最終移送は10月28日.
同日アウシュヴィッツからベルゲン=ベンゼン向けて収容者の移送が開始.
鉄道の運行状況を見る限りにおいて,物資・人員の輸送の滞りは8月下旬以降顕著になるが,その以前の段階で否定派が主張するような鉄道運行が大きく滞った形跡はない.
【質問】
強制収容所に売春宿があったって本当?
【回答】
強制収容所に設置された売春宿に関する包括的な研究は,世界的にみても少ない.
日本語で読めるものとしては,クリスタ・パウルの『ナチズムと強制売春』があり,その中で公文書等の一次資料から,アウシュヴィッツ=モノヴィッツに囚人用売春宿があったことを事実認定している.
また,同様の囚人用売春宿を利用できる囚人は,総じて,ユダヤ人でない『ドイツ人』の政治囚もしくは刑事囚で,
囚人労働隊等を管理する立場にあった特権的なカポなどごく少数.
IGフェルベンのプラントに併設されたモノヴィッツに囚人用売春宿あったことが,
ユダヤ人の大量殺戮を否定する何らの根拠になりえないことに留意.
売春所などは収容者のモチベーションを上げたり,ヒエラルキー形成の目的はあったようだ.
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20060208ChristaPaul.htm
【質問】
以前「写真で見るホロコースト」(たぶんこんな名前)という本の中に,
「ユダヤ人の体を煮て?石鹸を作った」
とあったのですが,コレは本当なのでしょうか?
【回答】
人油石鹸については化学的に否定されている.
生体内で作られる脂肪酸の炭素鎖の長さは偶数になるはずだが,人油石鹸と言われているものを調べてみると,奇数のモノの比率が高い.
石油から合成している証拠である.
ハヤカワから出てるニセ科学検証本,マイクル・シャーマー著「なぜ人はニセ科学を信じるのか―UFO,カルト,心霊,超能力のウソ」では,リファレンスとして下の本を示した上で
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4760115153.html
>(これらの著作によると)検査されて人間の脂肪の陽性反応が出た棒石鹸は一つもない.
と紹介されている.
ちなみに,中公新書「プロパガンダ戦史」(絶版)によると,第一次大戦時(1918年)に既に,「ドイツの死体製油工場」をネタにしたプロパガンダが行われている.
念のため言っとくと,「ホロコーストなぞ行われていなかった」とかいう話と,石鹸の話は全く別の次元の話なので,故意にごっちゃにしないように.
ただし,2006年になって以下のような報道が出ている.
------------
◆Tests show that Nazis used human remains to make soap(Mail & Guardian online)
(仮訳)
ポーランドの国民記録機関(Institute for National Remembrance<IPN)の最新の研究により,ナチスが第二次世界大戦中,ポーランドのバルト海沿岸の都市グダニスクに設置していた医療研究施設で,人間の脂肪から石鹸を作っていたことが証明された.
IPNグダニスク支部のPaulina Szumera氏がドイツDPA通信の電話インタビューに対して明らかにした.
IPNは,ナチス・ドイツのルドルフ・スパナー<Rudolf Spanner教授が率いていた同研究施設で1945年に発見された石鹸片の分析を,ワルシャワ農業大学のAndrzej Stolyhwo教授に依頼.
その結果,石鹸に人体の組織が含まれていることが判明した.
分析対象となった石鹸片は,第二次大戦後にナチスの戦争犯罪が裁かれたニュルンベルグ裁判で証拠品となったもの.
当時はまだ,検察側には石鹸片が人体から作られたものかどうかを判断する技術がなかった.
石鹸を作るのに使われた人間の脂肪は,カリーニングラード,ビドゴーシチ,またグダニスク近郊のシュトゥットホフ強制収容所から運ばれたと考えられている.
IPNの調査によると,石鹸は,手術室や検死室の清掃にスパナー教授が使っていたとされる.
------------Mail & Guardian Online, 2006/10/6
なお,このサイトは「Africa's first online
newspaper」だそうだが,信頼性がどの程度かは不明.
続報を待ちたい.
軍事板,2004/01/08
青文字:加筆改修部分
【質問】
ルーデルは著書の中で,強制収容所らしき施設の写真を見せられたさいに「知らなかった」と答えていますが,現場の兵士達は本当にそれらを知らなかったんですか?
【回答】
占領地でのユダヤ人や地方党幹部の狩りだしと収容所への移送には,国防軍も協力していた.
また,占領地での保安任務やパルチザンの掃討は,陸軍の部隊もやっている.
だから収容所の存在や,そこで何が起きているかを知っていた者もいただろう.
ルーデルが本当に知らなかったかどうかは,また別の話だが.
強制収容所の存在は民間人も知っていたし,そこで何が行われているかは薄々ながら知っている者もいた.
言葉を換えれば「知らないようにしていた」といってもいいが.
ルーデル
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01m01b02.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01m01b03.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq01m01b03g.jpg
(画像掲示板より引用)
【質問】
ユダヤ人強制収容所が連合軍の空襲を受けて,ユダヤ人が大量に脱走するということはあったんでしょうか?
【回答】
ありません.
連合国のスタンスとしては,「ユダヤ人だけ特別扱いはできない」というものでした.
それよりも,リソースを適正に用いて戦争を早期に終結させることが,ユダヤ人を含む連合国国民全体の利益であり,結果として早期終結が早期解放に繋がる,という考えでした.
したがって強制収容所に空襲をかけるということは行われませんでした.
このへんの,英米のユダヤ人コミュニティと英米政府との交渉については,「ホロコースト大事典」に詳しく述べられています.
【質問】
ヨハン・デムヤンユク(デム=ヤニュク)って誰?
【回答】
"Ivan" John Demjanjuk は,ウクライナ生まれ.
第二次大戦中,ナチスドイツのユダヤ人強制収容所で冷酷な看守として恐れられ.「イワン雷帝」というあだ名がついた人物.
戦後,
「1942年,1943年に,トレブリンカ「絶滅収容所」で,ディーゼル排気ガスを使って,少なくとも875000名のユダヤ人を殺害した」
と告発され いったんは死刑判決を受けたが,1993年,証拠不十分として釈放され,アメリカに移住した.
しかし2007年11月,ドイツのナチス犯罪追及センターは,
「デムヤンユクが,ポーランドのソビブル Sobibor 収容所の看守だったことを示す身分証明書が見つかった」
として,検察当局に逮捕するよう要請した.
2009.5.12,米国は彼を国外追放という形でドイツに引き渡した.
当時,彼は89歳で体調が悪く,救急車で自宅から運ばれた.
2009.8.31からミュンヘン地裁で裁判が始まった.
裁判では彼は,看守の経歴を否定した過去の主張から転換し,「ナチスへの協力を強いられた」との線での弁護を試みている.
【参考ページ】
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4082588.html
http://www.dw-world.de/dw/article/0,,3779203,00.html
http://www.afpbb.com/middle/1616
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2669663/4977952
http://plaza.rakuten.co.jp/1005motomura/diary/200912020004/
http://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20090403/cob
デムヤンユク
(http://www.dw-world.de/dw/article/0,,3779203,00.htmlより引用)
【ぐんじさんぎょう】,2010/04/13 21:00
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