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◆◆◆◆主要人物
<◆◆◆日本
<◆◆各国の状況
<◆ホロコースト 目次
<WW2 FAQ
杉原千畝
(画像掲示板より引用)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-05) [トンデモ][文藝] 相馬黒光と酒井勝軍のデート
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-06) [トンデモ][伝書鳩] ユダヤ論者も伝書鳩が好きだった!?(その1)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-09) [トンデモ][伝書鳩] ユダヤ論者も伝書鳩が好きだった!?(その2)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-10) [トンデモ][伝書鳩] ユダヤ論者も伝書鳩が好きだった!?(その3)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-04-14) [トンデモ][柳田國男]
資生堂と柳田國男の光と影(その2)
里見甫関連
「神保町系オタオタ日記」■(2006-06-13) [トンデモ]
鴎外のトンデモ,露伴の非科学(その3)
>日本人=シュメール人同祖論『日本の民族』(昭和5年4月刊行)の著者,戸上駒之助も登場
「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-10)[トンデモ][柳田國男]
松本フミと柳田國男・堀一郎
ユダヤ陰謀論者
「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-18)[ヨコジュン][トンデモ]
長尾真治ではなく尾島真治だった
>5月12日に言及した日ユ論同祖論の関係者,「長尾真治」は正しくは,「尾島真治」という人であった.
「神保町系オタオタ日記」■(2007-06-20)[トンデモ][ヨコジュン]
中山忠直と竹内文献
>SF詩人にして,日ユ同祖論者だった中山啓(中山忠直)の周辺には,澤田健や小谷部全一郎,三村三郎など,竹内文献がらみの人がいることはわかっていた.
「神保町系オタオタ日記」■(2008-03-29)[トンデモ][図書館] 酒井勝軍の死とトンデモない人達
「神保町系オタオタ日記」■(2008-04-15)[トンデモ][催眠術] 酒井勝軍と玉利喜造
「神保町系オタオタ日記」■(2010-08-24)河豚計画と笹川良一
「神保町系オタオタ日記」■(2011-04-28)[トンデモ]戦時下の中山忠直と小辻節三
日ユ同祖論
「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-04)[トンデモ]真崎甚三郎日記に見る古賀政男・治朗兄弟と酒井勝軍
「神保町系オタオタ日記」■(2011-07-07)[トンデモ]反ユダヤ主義を貫き通した四王天延孝
「神保町系オタオタ日記」■(2007-03-28) [トンデモ]
諸岡存博士の公職追放
諸岡存博士は,大直会なる反ユダヤ主義団体の創設者
「神保町系オタオタ日記」■(2007-04-14)[トンデモ]
諸岡存,時代遅レナリ!
>昭和18年5月12日 諸岡八時ニ来訪,ユダヤ禍排撃同志会規約案ヲ持チ来リ,予ニ后援ヲ乞フ.
杉原千畝FAQ集(松浦寛作,リンク切れ)
『6千人の命のビザ』(杉原幸子著,朝日ソノラマ,1990)
『アッツ,キスカ軍司令官の回想録』(樋口季一郎著,芙蓉書房,1971)
『自由への逃走 杉原ピザとユダヤ人』(中日新聞社会部,東京新聞出版局,1995.9)
『真相・杉原ビザ』(渡辺勝正著,大正出版,2000)
『日本人に救われたユダヤ人の手記』(ソリー・ガノール著,祥伝社文庫,2002.6)
『日本に来たユダヤ難民』(ゾラフ・バルハフティク(カウナスでのビザ受給交渉担当者),原書房,1992.4)
【質問】
東條英機がユダヤ人を助けたことがあるというのは本当か?
【回答】
本当.
満州国を事実上,支配していた関東軍は,ユダヤ人難民の入境を拒むこともできた.
しかし,樋口はオトポールのユダヤ人難民を救う,決断を行った.そして,樋口は軍人として当然のことだったが,新京(現在の長春)に司令部を置いていた関東軍の参謀長だった東條英機中将に,ユダヤ人難民の入国を許可するように求めた.
日本軍ではこのような案件は,軍司令官ではなく,参謀長が決裁した.
――「ユダヤ製国家日本」(ラビ・M・トケイヤー著),p.44
私は,イスラエルでセオドア・カウフマンと会って,
「どうして東條が『ゴールデン・ブック』入りしなかったのだろうか?」
と,たずねた.
すると,カウフマンは,
「もし,東條参謀長が,父やユダヤ民族協会の幹部と会っていたとしたら,その名が樋口と安江とともに,1941年の夏に,間違いなく『ゴールデン・ブック』に刻まれたはずだ」
と,語った.
もしも,そうなっていたとすれば,その後の東條の国際的なイメージが,大きく変わっていたにちがいない.
東條は日本の敗戦後に,連合国が行った一方的な東京裁判によって,”A級戦犯”として絞首刑に処されたが,全世界のユダヤ人たちから助命嘆願書が,マッカーサー元帥のもとに寄せられたことだったろう.
そして,連合国を,ひどく困惑させたにちがいない.
――同,p.54
ちなみにこの件の昭和13年3月12日,当時日本とドイツの間には「日独防共協定」はあったが,未だ「同盟関係」にはない.
「フグ計画」から考えて,ユダヤ人を助けることで,満州国の国際的な承認を取りつけるとっかかりとしたかったのだろう.
また,当時,満州でユダヤ人に対するテロを日本は容認しているという批判が世界中からあり,それをかわす狙いもあったと推測される.
開戦後,ドイツの反ユダヤ主義的要求と妥協して上海収容所を建設するなど,東條内閣がどちらかと言えば反ユダヤ的施策をとったことを合わせて考えると,この解釈が最も自然だろう.
【質問】
ヤコブ・シフとは?
【回答】
日本で最も著名だったユダヤ人.アメリカ系.
ニューヨークで名の通った投資銀行,クーン・レープ商会の代表であり,米国ヘブライ救済協会会長.
日露戦争の際,日本の外債5千万ドルを引き受け,国際的にも注目される.その動機は,ロシアが戦争に負ければ,ポグロムに代表される帝政ロシアのユダヤ人弾圧の状況が改善されると確信していたため.
「金持ちで影響力に富む」という,日本人一般のユダヤ人観を体現する存在だった.
シフが日本に残した良いイメージは,後年,日本の軍国主義者達が
「ユダヤ人の助けを得て世界を制覇しよう」
と考えることに至ったことに繋がる.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.28-29を参照されたし.
【質問】
ユダヤ人音楽家,レオ・シロタは,日本政界にどんな人脈を持っていたのか?
【回答】
鮎川義介や廣田弘毅と繋がりを持っていたという.
以下引用.
ユダヤ系音楽家の影響力はクラシック音楽に留まらなかった.ポピュラー音楽家も彼らに指導を受けていた.
たとえばシロタの弟子だった石井京の妹である石井好子は,ヴェッハーペニッヒの弟子で高名なシャンソン歌手となる.
彼女は有力な政治家である久原房之介の孫にあたり,ユダヤ人保護によって「満州国」に外資を導入しようとした鮎川義介とも親族だった.
山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.150-151
廣田弘毅もシロタ家の近所に住んでいた.
廣田とシロタはローマ字で名前の綴りが似ていて(SirotaとHirota),郵便が誤配されることで親しくなった.
クリスマスのときなど,廣田はシロタ家の人々が郵便を受け取りに行くと,
「あなたのところへお返しするのは残念だな.シロタ家に届くプレゼントのほうが中身がいいからなぁ」
と冗談を言う間柄だった.
山本尚志著「日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ」
(毎日新聞社,2004.11.20),p.175
これらは強力なコネとは言えないまでも,満州国への外資導入プランなどには少なからず影響を及ぼしていることが確実と思われる.
ただし,同書によれば,シロタが積極的に政治家を動かそうとした事実はないので,その点は誤解のないように.
【質問】
マイジンガーとは?
【回答】
ヨゼフ・アルベルト・マイジンガーは1899年,ミュンヘン生まれ.
1921年,ナチ党に入党(原文ママ).
第一次大戦では志願兵として2年近く戦う.
公証人役場と銀行で実習の後,1922年のルール闘争に参加,ミュンヘン警察に勤務する.
翌年のミュンヘン一揆でバイエルン・フライコールに動員され,忠実に活動した後,1933年,政治警察に移り,1年後にSS中佐として国家秘密警察に転属される.
翌年結婚.
親衛隊保安防諜部の幹部に登用された際の人事考課録では,ゲシュタポの管理職として極めて有能かつ勤勉な官吏で,政治的にも個人的にも問題はないと評価されており,また「赤血勲章」を受勲している.
1939年,ポーランド占領後,SS大佐としてワルシャワの保安警察及びゲシュタポの長官となり,悪魔的残忍さのために「ワルシャワの殺し屋」というあだ名を貰った,
部下ですらこの上司を軽蔑の目で見ていた.
ヒムラーでさえ,マイジンガーの行動記録にショックを受け,裁判にかけて場合によっては銃殺しようと考えたが,側近のハイドリッヒが手を回してこれを阻んだと言われている.彼は訴追を逃れさせるため,マイジンガーを東京に転勤させた.
帝国保安本部RSHA第4局(外国担当)のワルター・シェレンベルク局長は,マイジンガー赴任に先立ってリヒャルト・ゾルゲの監視を命じ,定期的に「電話で」報告するよう指示した.
マイジンガーは着任後直ちに,ゾルゲについて憲兵隊に警告して日本側を驚かせ,これがゾルゲ逮捕にも繋がるが,シェレンベルクはそこまで考えていなかったため,マイジンガーの粗暴なやり方に激怒したという.
マイジンガーは,睨んだり気に入らなかったりした人物を,卑劣な方法で監視したり逮捕したりしたのみならず,自分の権限を勝手に拡張した.
リッベントロープ外相はヒムラーに,在外公館の警察アタッシェの行動や報告が,問題を起こしていると抗議している.
マイジンガーの越権行為の頂点は,上海にいる日本人の協力者を使い,ユダヤ難民を殺害させようとしたことだった.彼は上海に強制収容所を建設しようとしていた可能性が高い.
また,フランク事件にも関与した.
東京での評判は最低だった.
大使館の中では恐怖の的だった.
あまりのひどさに大使館では,何の因果でこんな男と付き合わねばならないのかと嘆いた.
日本側は,自分の役に立つ限りにおいてマイジンガーと協力した.
日独間に警察協定や同盟関係があろうとなかろうと,マイジンガーは無気味な存在であり,好感は持てなかった.
憲兵隊はマイジンガーを信用していなかった.
ゾルゲとゲシュタポはぐるだと思っていたのである.
ゾルゲ逮捕後,日本側は彼を信頼しなくなる.
マイジンガーは,日本人はスパイ・ヒステリーだと非難していたが,ゾルゲには異常なほどの関心を示した.
巣鴨拘置所のゾルゲに面会しようと試みて断られたときは,狂ったように日本の警察を罵った.
ゾルゲ逮捕のため,ゾルゲと親しかったオットー大使の立場が苦しくなり,彼が東京を追われると,マイジンガーは自由に活動できるようになった.
犬塚らの離任は,マイジンガーの周辺のドイツ側の圧力によるものだったと言われる.
1945/9/6,マイジンガーは逮捕され,9/15,フランクフルトへ移送.
そしてポーランド側に引き渡され,1947/3/7,ワルシャワ最高裁判所から死刑を宣告された.
刑は翌日,執行された.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.174-179,
184-191を参照されたし.
【質問】
松岡洋右外相は反ユダヤ主義者だったのか?
【回答】
安江大佐の影響を受けており,決して反ユダヤとは言えないようだ.
以下引用.
------------
もともと彼〔松岡〕と安江は,彼が満鉄総裁時代に大変親しい仲であった.
米国で教育を受けたこともあって少数民族問題に理解があり,ユダヤ人問題についても安江の意見をよく聞いていた.
満鉄調査部がユダヤ問題研究に力を入れたのもそのためである.
したがって,ドイツとの同盟を推進したものの,これは米国牽制を目的とした彼の外交テクニックの一環であり,ユダヤ人に対しては何も含むところがなかった.
昭和15年12月31日,これは三国同盟締結から間もない頃だが,彼は例のジックマンを私邸に招(よ)んで次のように告げている.
「自分はヒットラー総統と同盟条約を締結した責任者であるが,ヒットラーの反ユダヤ主義を日本で行うなどと言ったことはない.
これは自分個人だけの意見でなく,日本政府の意見でもある.
このことは世界に宣伝してもらって一向差し支えない」
------------安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.214-215
発言の最後を見るに,世界に向けての宣伝的意味も,この会見にはあると思われる.
------------
もともと彼〔松岡〕と安江は,彼が満鉄総裁時代に大変親しい仲であった.
米国で教育を受けたこともあって少数民族問題に理解があり,ユダヤ人問題についても安江の意見をよく聞いていた.
満鉄調査部がユダヤ問題研究に力を入れたのもそのためである.
〔略〕
同じ頃〔1940年末〕,安江は近衛首相の私邸の萩外荘に招ばれ,ユダヤ人問題について意見を求められている.
日本が第2次大戦に入るまでは駐日ドイツ大使館の工作にも関わらず,反ユ的政策を全くとらなかったのは,このように安江の政府首脳への働きかけがあったからである.
------------安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.214-215
▼ ウォルター・ラカー編『ホロコースト大事典』(柏書房,2003)では,
「日本の反ユダヤ主義は,実際には狂信者の小さなサークルに限定されたものであった」
と締めくくられている.
松岡がこのサークルの外にいたことは,言うまでもない.
なお,同書の見方では安江大佐は.必要ならばユダヤ人の影響力を利用しようという,プラグマティズム的な反ユダヤ主義者という文脈で紹介されており,上記の記述とも基本的には一致していると言えよう.▲
◆◆◆◆杉原千畝
【質問】
杉原千畝がユダヤ人を助けるに至った経緯は?
【回答】
杉原千畝のリトアニア領事館での主な仕事は,ソ連やドイツ情報の収集でした.
その為には,ポーランドの諜報員と協力関係を築き上げる事がより情報の収集に役立つ事になります.
そこで,ヤクビャニェツ大尉やダシュキェヴィチ中尉を含むポーランド諜報機関と協力していました.
(日本とポーランドとの諜報協力関係は,こちらを参照)
そして,この諜報機関との協力関係は,ポーランド難民に対する日本の通過ヴィザ発給の件とも関わっています.
ダシュキェヴィチ中尉が1948年に英国で恐らくリビコフスキの求めに応じて書かれた自身の活動報告書にはこの辺り以下の様に触れられています.
------------
私はソ連領内からの情報を日本領事に提供する他に,日本の通過ヴィザ発給の決定に関する回答を領事から受け取ることになっていた.
当時,ポーランド難民がソ連と日本を経由して米国及び南アメリカ沖の島の一つにトランジットで行くことが出来る様にすると言う計画が練られていた.
私は領事から,ヴィザ発給の件は10日後になると言う返事を受け取った.
既に日本政府の同意が得られ,後は外務省かrの指示を待つだけだというのである.
領事は難民問題の解決には好意的で,此の事では多くの働きをしたし,日本経由で南アメリカ沖の小国の一つにポーランド難民を出国させようという公式案を出した最初の一人でもあった.
当該国の在カウナス名誉領事は,出国者の誰一人その国には向かわず,未だ閉鎖されていない駐日ポーランド共和国大使館の助けを借りて日本から他の国に行こうとしていることを承知しながら,然るべき手数料を払わせて滞在ビザを発給することに同意した.
日本領事によるヴィザ発給の日が来ると,ユダヤ人は挙って申請に詰め掛けたが,ポーランド人の希望者は少なかった.
申請者は十数名に過ぎず,私は彼らを優先させるべくあらゆる手を尽くした.
日本領事は通過ヴィザを600通発行する予定だったが,暫くして,発給数はそれよりずっと多い900通にも達したことが判明した.
それもまた,我々の工作の賜物だった.
その経緯はこうだ.
ある日,杉原領事が私に,旅券に決り文句を日本語で記入するのに大変手間がかかり,迅速な処理の妨げになっているという話をした.
そこで私は,ゴム印を作って残りの部分と署名だけを書き入れる様には出来ないか,と提案してみた.
彼は私の考えに賛成し,雛形をくれた.
私はそれをヤクビャニェツに渡し,ヤクビャニェツはゴム印を注文したのだが,この時私達はゴム印を2個作る様に言いつけた.
その内の1個はヴィリニュスへ送られ,そこでも日本の通過ヴィザが発行されたのである.
但し,それは日本領事がカウナスを退去した後,それより前の日付を打って作成したものだったという訳だ.
------------
因みに,通過ヴィザを発給する場合,渡航予定国のヴィザかそれに準ずる証明書を所持している事が条件です.
数人は米国の宣誓証明書を持っていたのですが,それ以外は日本から第三国に出国するという根拠を示す書類を何も持ち合わせてはいませんでした.
この為,東京の本省と杉原との間で電文による交渉が繰り返される羽目になります.
ただ,ソ連領事は,もし日本が先にヴィザを発給するのであれば,ソ連もヴィザを発給する用意があると言う説明をしていました.
ただ,ソ連のヴィザを入手する為には,カウナスから日本までの乗車券も,ソ連の国営旅行社であるインツーリストにて外貨払いで予約購入しなければなりませんでした.
乗車券は当時でも約160ドルと高価で,誰も買える値段ではありませんでした.
結局,8月10日,東京との不毛な交渉を打ち切った杉原は,領事館の閉鎖と並行して8月11日より全員にヴィザを発給する事にしました.
これは8月31日にリトアニアの領事館を引き払って,ベルリンに発つ当日まで行われます.
杉原の記憶では,日本の通過ヴィザを受け取ったのは約3,500名で,その内ユダヤ人は500名程度であり,彼らはユダヤ団体が発行した種々の証明を有しており,多くはウッチから来た人々でした.
この杉原の記憶が曖昧なのは,時間の節約の為,通し番号の記入を止めたからであり,そればかりでなくダシュキェヴィチ中尉の回想にある様に,領事が退去した後も無断で発行されたヴィザがあったと考えられています.
元々,このリトアニアのポーランド難民,その殆どがユダヤ難民だったのですが…彼らが日本領事館に蝟集したのは,在カウナス・オランダ領事のヤン・ズヴァルテンディクのアイデアでした.
彼は,元々フィリップスのリトアニア支社長でしたが,1940年5月に駐バルト諸国オランダ大使のL.P.J.ド・デッケルの要請を受けて,それまでの親ドイツ領事に代わって新しく領事に就任した人物です.
当時,リトアニアを通じて脱出する手段を必死に探っていたのが,オランダ出身のナタン・グットヴィルトで,彼が最後に行き着いたのがヤン・ズヴァルテンディクだったのです.
そして,ズヴァルテンディク領事は,グットヴィルトのパスポートに,
「カウナス駐在オランダ領事は本状により,スリナム,キュラソー他のオランダ領土への入国に際し入国ヴィザが不要である事を証明する」
と言う注記を記入しました.
これは,本来オランダ領事が用いるべき所定の形式の一部だけでした.
本来の注記には,
「キュラソー知事のみが入国を許可しうる」
と言う文章が必要だったのですが,領事は敢えてこれを無視しました.
こうして,オランダ領事は注記を記載します.
日本は未だこの当時は連合国との戦争を行っていませんでしたので,日本を経由して蘭印に抜ければ,オランダ領西印度諸島やギアナ方面に行くことが出来ます.
つまり,日本として何の躊躇いも無くヴィザを発給できたわけです.
その注記を基にして,杉原は日本へのヴィザを発行しました.
ソ連領事とは,日本のヴィザを先に発給するという条件で,ソ連領内の通過ヴィザを発給する同意を取り付けます.
そして,杉原は本省の訓令に逆らってヴィザを発給し始めました.
当初,杉原領事は1日300枚のヴィザを発給するつもりでしたが,用紙が足りない上に,1人1人面接してから全部手書きで記入しなければならなかったので,余計に時間が掛かりました.
そこで,彼は通し番号を記入するのを止めてしまいました.
杉原の補佐をしていたのは,リトアニア人のグゼとポーランドの諜報機関から送り込まれたボーイのボレスワフ・ルジツキだけでした.
ルジツキは混乱が起きない様,申請者に整理券を配りました.
こうして,9月1日まで彼はベルリン行きの汽車の窓からすら書いて書いて書きまくって通行証を手渡しました.
ベルリン到着後,杉原は当時の駐独大使来栖三郎に報告しましたが,来栖は何も言いませんでした.
その後間もなく,杉原はプラハに異動となり,在プラハ領事として着任しました.
1941年2月28日に杉原はカウナスでの活動に関する報告書,「昭和15年分本邦通過査証発給表 在カウナス帝国領事館」と呼ばれるそれを本省に提出しますが,これが現在「杉原のリスト」と呼ばれています.
このリストは外務省外交資料館に保存されており,そこには2,139名の名前が掲載されており,7月9日以降のヴィザ公布を受けた人々も掲載されています.
なお,多くの人々を逃がす為,杉原は1人の名前で家族全員にヴィザを発行しています.
例えば,ゾフィア・ルティクと言う女性は,アンジェイ,テレサの2名の子供を連れてカウナスから脱出したのですが,「杉原のリスト」では,「ゾフィア・ルティク」の名前のみが掲載されている事でも分かります.
こうして,杉原の通過ヴィザを受け取った難民達はシベリア経由で日本に辿り着き,その受け容れ,宿泊先の手配は,当時の駐日ポーランド大使タデウシュ・ロメルの手に委ねられました.
1941年2月2日付のアウグスト・ザレスキ亡命政府外相に宛てて送られた暗号電報では,以下の様に報告しています.
難民が殺到した為,神戸で緊急の領事業務に携わらざるを得ず,最も安い宿泊料にて宿舎を手配する.
費用は差し当たり領事館予算より支出する.
我々は主として米国の各種資金援助を得てポーランド特別委員会を設立した.
今のところ,全ユダヤ人委員会との協力により,困難な事態を首尾良く統制している.
1月末までに566名のポーランド難民が到着,その95%がユダヤ人である.
この内300名を既に送り出した.
この様に,最初はこの動きは,ポーランドの諜報機関が,自国民を脱出させる動きだったのです.
結局,ポーランド人の脱出人数は多くなく,その殆どがユダヤ人となってしまいましたが,それはそれでまた米国のユダヤ人達の協力を得ることは出来る様になりました.
何れにしても,ポーランドとしては損にはならなかった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/11 23:24
青文字:加筆改修部分
【質問】
リトアニアの日本領事館に押し寄せたユダヤ人達は,どこから集まって来たのか?
【回答】
・ドイツのポーランド占領によって生じた避難民
・ソ連勢力圏内での政治的弾圧によって生じた避難民
の2種類.
後者については1939/7/28の,杉原領事代理の本省への打電文に,それは現れている.
以下にそれを引用.
当国内共産党工作の急速度に進展したる影には「ゲペウ(GRU)」の仮借なき,且電撃的「テロ」工作行はれたる次第にして「ゲペウ」は先つ赤軍進駐と共に波蘭(ポーランド)人,白系露人,当国人及猶太人の政治団体本部を襲い団員名簿を取上けたる上,選挙3日前より団員の一斉検挙を開始,右は今に至るも継続せられ居る処,今日迄に逮捕せられたる者「ウイルー」千五百,当地其の他の諸地に二千あり,大部分は旧波蘭軍人官吏,白系露人将校,当国旧政権与党たりし国民党乃至社会党幹部「ブント」派(筆者注,在ポーランド,ロシア・ユダヤ人労働者総同盟のことで,ユダヤ人を民族として規定し,民族自治を主張する権利を唱えていた),及「シオニスト」猶太人にして,前首相「メルキス」及「ウルブシス」外相も夫々家族と共に莫斯科(モスクワ)に送られたり.
尚1週間前に抑留波蘭軍人千六百「サマラ」方面へ押送されたるに対し英国側は当地並に莫斯科(モスクワ)に於て蘇(ソ)側に抗議中.
右粛清開始以来,危険を感し農村に潜込みたる者鮮(すくな)からす独逸領に脱走せる者数百と謂はれ,猶太人は本邦経由渡来すへく,査証関係にて当館に押掛くる者連日百名内外に及ひ居れり.
(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,八幡書店,1989/8,p.195-196)
【質問】
1940/8/9の,杉原からの,ユダヤ人15人の敦賀1ヵ月滞在を許可して差し支えなきや?とする請訓電報に対し,外務省が
「本邦滞在方については本邦上陸許可後の問題と致したし」
と回答したのは何故か?
【回答】
当時の日本の入国管理法規では,入国と通過の可否決定は県庁の権限に属していたため.
実際には税関,警察などの下部官庁が,そのつど滞在期間を指定することができた.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.144-145を参照されたし.
【質問】
なぜソ連はユダヤ人の領内通過を認めたのか?
【回答】
ソ連は,難民通過を認めることで,自国の人道性を宣伝できた.
それ以上に重要なのは,ドルが手に入ることだった.
査証発給その他の手数料は,現金で約200ドル.
これはかなりの高額で,支払える者は少なかった.
また,スパイを潜り込ませる可能性も勘定に入れていた.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.146-147を参照されたし.
【質問】
「オランダ領西インド諸島キュラソー入国」案を考案したのは杉原だったのか?
【回答】
そういう説もある.
本来キュラソー入国には査証は必要なく,滞在については入国の際,総督が許可権を持つことになっていた.
リガ駐在のオランダ大使,デ・デッカーは,入国を確実にするため,申請者の旅券に
「キュラソー入国は査証なしで可能」
と記入させた.
これを受けて杉原は,
「通過査証.日本経由(スリナム,キュラソーまたは他のオランダ植民地領へ).カウナス領事代理杉原千畝」
と記入した.
杉原の査証作戦が始まる前の1940年6月,オランダのヤン・ヅヴァルテンダイク領事がデ・デッカー大使の同意を得て,東リトアニアのテルゼにあるタルムード学院の学生で,オランダ出身のナタン・グートヴィルトに,キュラソーへの入国査証を発給したことがあった.
こういう形で目的国入国に必要な書類を手に入れられる可能性は,たちまちの内に難民に知れ渡った.
キュラソー入国案は杉原から出たという説もある.
ポーランドの研究者エヴァ・パラシュ=ルトコヴスカは,杉原の通報者であったダスキエヴィッチ中尉が,1948年に記した未公開のメモを,数年前に発掘した.
それによれば,
「日本経由でキュラソーに脱出させる案を出した一人でもある」
と記述されているという.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.147-148を参照されたし.
【珍説 Fura Elmélet】
「杉原[千畝]が日本政府(外務省)の命令に反してビザを発行したと書かれている本もあるが,いかにビザがあっても政府が拒否すればユダヤ人は日本に入国できない.
つまりユダヤ人亡命は,時の日本政府が黙認していたということである」(百田尚樹『日本国紀』,p.379)
【事実 Tény】
ユダヤ難民が日本に入国できたのは,ウラジオストクの日本総領事代理が外務省の指示に逆らったため.
ウラジオストクの日本領事館には外務省から,
「杉原が発給したビザを持つユダヤ難民を,日本に向かう船に乗せてはならない」
との訓令が出ており,本来なら日本には渡れないはずだった.
しかしウラジオストク日本総領事館の根井三郎総領事代理は,
「帝国の公館が発給したビザには,日本の威信がかかっている.これを無効にすれば,日本は国際的信頼を失うことになる」
として,外務省の指示を拒絶.
ビザを持ったユダヤ人の乗船を許したばかりか,ビザを持たないユダヤ人にも渡航証明書を発行.
これによって難民たちは敦賀に渡ることができた.
実は根井はハルビン学院での杉原の後輩だったため,そういう人脈も根井の判断に影響した可能性がある.
それはともかく,外務省に根井の手柄の横取りをさせるがごときデタラメを吹聴するのは感心しませんな.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4143?p=1
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kyouiku-shidou/documents/setsuzou.pdf
mixi, 2019.8.4
【質問】
8月に難民が敦賀に到着してから後の,日本外務省の態度は?
【回答】
現地当局による審問の結果,杉原に対し,難民が最終目的地として挙げている米国とカナダへの正規の入国査証が欠けていることを指摘.
また,難民達が殆ど現金を持っていないことを批判した.
大臣発カウナス宛第22号電信では,間接的ながら杉原を叱責している.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.149を参照されたし.
【質問】
杉原が救った人間の数は?
【回答】
おそらく不明.
「杉原リスト」最後の記入は1940/8/31の第2139号だったが,全部で幾つ査証が発給されたかは確認しようがない.杉原夫人は,夫は最後には時間の無駄を避けるため,記帳しなかったと言っている.
杉原自身は未公開メモの中で,3500の査証を発給したと記しているが,家族全員が一個の査証で出国した場合や,16歳以下で親の旅券に併記されているため,査証を必要としなかった場合など考えると,助けられた人の数はこれを上回るだろう.
領事館が閉鎖され,9月4日,杉原がベルリンに向けてカウナス駅から出発した際も,査証を貰おうとしてプラットフォームにまで追いかけてきた難民がいた.
杉原は文字通り,最後の瞬間まで仕事を続けた.
汽車が動き出すと,難民達は列車を負って走り出した.
杉原は所有者欄が空白のままの査証用紙を窓から投げ,日本に着いたら「バンザイ・ニッポン!」と叫べ,と教えた.
ポーランドの研究者,エヴァ・パラシュ=ルトコヴスカは,ポーランド側は査証問題に介入し,偽装作戦を実施したという.
時間がなくなったため,杉原はポーランド側の一人に官印を作成するよう要求している.
そしてポーランド側は,杉原に通報せずに2つの官印を偽造し,一つをヴィルナに送った.
そのため,杉原離任後も,日付を繰り上げた査証を手に入れたユダヤ人が何人かいた.
杉原はベルリンに暫く滞在した後,プラハに赴任.
同地では現地事情のため,通過査証を発給する機会は殆どなかった.1941/2/15に領事館を閉鎖するまでに,ドイツ系ユダヤ人に36の査証を発給している.
1941/3/6,杉原はケーニヒスベルクに赴任.
外務省の記録によれば,彼は同地で32の査証を発給した.
1942年12月,大島大使の手配で杉原は在ルーマニア公使に任命される.
しかし公使とは名のみで,仕事はロシア語文書の翻訳だけ.ユダヤ人を救うことはもはや不可能になった.
戦争終了までブカレストに勤務し,その年8月,他の館員と共にソ連軍に抑留された.
彼らが日本に帰国したのは1947年4月初めだった.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.150-153を参照されたし.
リトアニア・ヴィリニュスにある,杉原千畝の記念碑を訪れた,天皇・皇后夫妻
(こちらより引用)
【質問】
日本に到着したユダヤ人難民は,どういう環境下に置かれたのか?
【回答】
さて,日本に辿り着いたポーランド難民達ですが,東京から更に別の地域に行く事になっていました.
ドイツの影響が日増しに強まっている日本で,第三国への出国は非常に困難なものとなり,ポーランド人達は日本の事を「東京の門」と呼んでいます.
1941年2月6日付のロメル大使のザレスキ外相宛の報告には次の様にあります.
------------
シベリア経由によるソ連占領地域から極東への難民の脱出は,昨年初夏から自然発生的,個人的且つ無秩序に始まった.
ソ連によるリトアニア及びヴィリニュス地域の吸収合併は,当該地域に居住するポーランド人乃至ポーランド系ユダヤ人社会に一時的な混乱と動揺を引き起こしたが,その後現地での貧窮や迫害,或いはカザフスタンへの追放から逃れる唯一の道として極東へ向かおうとする衝動が起こり,それが時と共に集団的に,しかし絶えず無秩序に強まっている.
カウナス地区とヴィルニュス地区から日本までの旅は,通常のルートであれば証明書や他国のヴィザの取得は難しくなく,難民達は9月まで,カウナスではその後も交付を受ける事が出来た.
ヴィルニュス地区とカウナス地区からの難民は,遂には大量輸送の形で当地に流れ込んでくる様になったが,それは特に10月以降,比較的寛大な出国許可の交付とそう長くは続くまいという予想によって始まったのである.
最終的に在東京ポーランド共和国大使館は,1941年2月5日までにウラジオストク経由で来日したポーランド国民(確認済み,又は自称)約740名のリストを作成した.
これまでに来日した難民で,ポーランド国民と確認された者,或いはポーランド国民と推定される者の95%以上はユダヤ人であり,ユダヤ教徒で無い者もいるにはいるが,少なくともユダヤ系の家系の出身である事は確かで有る.
この様な現象は,彼らが単に進取の気質に富んでいると言う事だけで説明がつくものでは無く,海外にいる同胞の組織的支援を受けられることが大きい.
ポーランド難民の流入が相変わらず少ないのは,ほぼ例外なく物質的に劣悪な状況にあること,地縁や地域生活との結びつきがユダヤ人よりも強いこと,見知らぬ東洋への危険で高価な旅という企てに対して,特に初めの頃拒絶反応が強かった事によるものと考えられる.
この結果,ポーランド人難民のうち当地に到着したのは,現段階では以下の通りである.
地下ルートで潜入したポーランド軍将校4名,海外在住の親類の援助でやって来た数家族など合計15名程で,その一部は日本に長期滞在の予定であるが,他は既に日本から出国したか,間もなく出国する.
当大使館からの直接の援助で,既にこちらに向かっている,或いはこれからヴィリニュスを出発するポーランド人が,現段階で25名いる.
これらの最緊急課題に取り組む為,私は昨年10月の在日ポーランド人集会で在東京「ポーランド戦争被災者救済委員会」を召集した.
参加者は,
議長に私の妻,
事務局長には東京在住の有力実業家クレメンス・ズィンゴル氏,
会計には満洲のポーランド系最大手企業主の夫人で現在来日中のジクマンノヴァ女史,
そして理事は大使館書記官K.スタニシェフスキ氏,極東ポーランド通信班長A.ビスコル氏,シュチェシニャコヴァ女史,ロマネク氏
である.
委員会は所期の目的の為,極東在住のポーランド人のみならず外国人からも可能な限りの資金を集め,ニューヨークの合同配給委員会(ジョイント)等からも数回に亘り物質的援助を受け,円滑に活動の手筈を整えた.
委員会は横浜及び神戸のユダヤ人諸団体と直ちに連絡を取り,東京に加え神戸にも事務所を設置した.
委員会の代表は,ウラジオストクからやって来た難民の大集団が敦賀に到着する度に出迎えに行き,入国手続きを行い,そこからほど近い神戸へと向かわせる.
神戸では地元のユダヤ人共同体が,特別に用意された数百人収容の収容施設に彼らを受け容れる.
東京にやって来る数少ないポーランド人は出来るだけ,我が大使館の敷地内に特別に建てられた別棟に宿泊させている.
委員会は難民に対して当座の金銭的援助,助言,支持を与えている.
------------
なお,ポーランドからの戦争難民への物質的援助は,ポーランド大使達が日本にいる1941年10月までも,上海に彼らが移り,次の移動を待つ間も,ほぼニューヨークの合同配給委員会の肩に掛かっていました.
その援助は12月8日の太平洋戦争開戦以降も続き,開戦により972名の難民が上海に足止めを食った際にも,差し当たり合同配給委員会からの援助は中止されませんでした.
1942年10月6日付でロメルはテヘランより,最終報告書を亡命政府に提出しています.
------------
1940年秋から1941年夏までの間に,約2,300名の難民がポーランドからウラジオストク経由で日本に来た.
その97%がユダヤ人であり,ヴィルニュスとカウナスから来た人々が主体で,南東部の国境地帯の出身者は稀であった.
多くの者は,カウナス発行の身分証明書と日本の通過ビザしか持っていなかった.
戦争が終わるまでの避難場所が見つかるのを待ちわびながら,難民達は神戸に借りた27軒の家と横浜,東京に収容された.
宿舎と食事の世話は,合衆国のユダヤ人組織「合同配給委員会」の資金援助を得て,神戸のユダヤ人共同体が引き受けた.
衛生,衣類,文化面の援助や家族との連絡,パスポートやヴィザの手配は,私が東京で結成した「ポーランド戦争被災者救済委員会」が面倒を見た.
私は委員会の難民担当にポーランド系ユダヤ人達を配し,委員会の活動資金は,ポーランド政府からの補助金,米国のポーランド系組織の資金的援助,極東全域のポーランド人によるカンパ,地元での催し物からの収入によって賄われた.
目的地のヴィザを取得したものの,自己資金を持っていない難民に目的地までの旅費を工面したのは,ユダヤ人組織「ヒツェム」である.
総ての財源を合計すると,1942年7月1日までに約35万米ドルが,極東に逃れてきたポーランド難民の為に拠出されたことになる.
支援活動全体の指揮と監督以外に,在ポーランド共和国大使館が直接関わったのは,難民へのパスポートの交付であり,これは終始一手に引き受けた.
それから滞在の延長や日本への今後の入国ヴィザと通過ヴィザの問題,支援の要請,目的国のヴィザの取得について,日本政府との間に立って仲介した.
また,軍への志願者の登録を目立たぬ様慎重に進め,その志願兵達をカナダや近東へ送り出すと言う件にも関与した.
ポーランド共和国政府の尽力により,極東のポーランド難民の為に一定数の難民ヴィザが確保された.
カナダが250で,その内80はラビとラビ修行中の神学生達に優先的に割り当てられ,オーストラリアが65,ニュージーランドが30,ビルマが50である.
更には大使館の協力で,パレスティナへの約400名分の移民証明書を確保した.
大使館は又,米国に約300名分,中南米諸国に約100名分のヴィザを独自に確保することで貢献した.
1941年の9月と10月には,在京ポーランド共和国大使館の閉鎖に伴い,日本政府が日本に留まっていた殆どユダヤ人ばかりのポーランド難民約1,000名全員を上海に移送した.
11月1日,特命大使として上海に入った私は,個人的に難民の世話を引き受けた.
オーストラリア,ニュージーランド,ビルマ,パレスティナのヴィザの割当を新たに確保出来,残る難民全員に振り分けようとしていたのだが,船舶航行の禁止とそれに続く太平洋戦争の開戦とが,我々の努力を台無しにしてしまった.
此の結果,ポーランド国籍のユダヤ人難民約950名が上海に残留することになったが,その内の400名以上がラビとその家族,及びラビ修行中の神学生であった.
我々のこうした活動は,ポーランド国籍の避難民が自国領事館の保護を受け,世界に通用するパスポートを持ち,十分な物質的援助と連合国への脱出のチャンスを得ると言うことを基本としていた.
1942年8月,上海のポーランド領事館が閉鎖され,その翌日には極東からポーランドの在外公館員全員が引き揚げることになるが,以後,占領日本軍東京の同意の下,非公式に在留ポーランド国民の保護を引き継いだのは,在中国ポーランド人連盟理事会という名称の急造の委員会であった.
構成メンバーには在留ポーランド人の代表に加えて,ポーランド国籍のユダヤ人難民の代表も加わった.
日本,中国,満洲からのポーランドの外交官及び領事館職員の撤退に伴い,最後の最後にポーランド国籍の民間人54名も出国出来ることになったので,私は45名分の席をユダヤ人難民に割り当てる事にした.
人選に当たっては,後に外部からの効果的な救援活動に駆け付けられる様に,総ての政治,社会,職業集団の最も活動的な人物が必ず含まれる様にした.
こうして,難民達は私と一緒に南東アフリカへ向けて出発し,大部分はそこから更に英国へ向かったが,その内訳はラビ3名,ラビ養成学校の代表が3名,シオニストが7名,ブンド(ユダヤ社会主義労働党)党員5名等々であった.
------------
ところで,1941年春,公式の報告書では触れられていないある出来事がありました.
ある日のこと,ロメルは日本の外務省に呼び出され,ポーランド人30名が日本への不法入国を企てたことを,非常に激しい口調で告げられました.
杉原領事は,難民のパスポートに申請者の氏名を片仮名で手書きをし,それから署名しました.
誰かがその1つを写し取った様で,ナホトカから敦賀に着いた連絡船から30名の「ヤクブ・ゴルトベルク」が上陸しようとしたのです.
ヴィザ偽造の事実に,日本側は神経を尖らせ,30名の「ヤクブ・ゴルトベルク」の入国を拒否します.
仕方なく彼らは翌日ナホトカに向けて出航しましたが,ソ連の入国ヴィザも持っていないので上陸許可が下りず,それから数週間,ナホトカと敦賀の間を往復していたそうです.
結局ロメル大使は,3週間以内に日本から出国させるという条件で,彼らを敦賀へ上陸させることに成功し,駐日オランダ大使やグルー駐日米国大使の協力を得て,ロメルは然るべきヴィザを入手し,この不運な難民達を日本から送り出すことに成功しました.
それにしても,日本の官吏はさぞかし驚いたことでしょうね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/12 23:04
青文字:加筆改修部分
【質問】
天草丸事件とは?
【回答】
1941/3/13,ウラディウォストークでユダヤ難民90人を乗せた天草丸が敦賀に入港した際,日本当局が,杉原の査証は持っているが最終目的国の入国許可を提示できない難民の日本滞在を拒否した事件.
何週間も前から入国希望者数が出国者数を大幅に上回っていた状況を鑑み,日本政府は突如厳格な態度に転じたのだった.
同船はソ連に戻る他はなかったが,神戸のユダヤ人コミュニティ指導者アナトール・ポネヴェイスキは,在神戸オランダ領事デ・フォークトの周旋と内務省の口添えで,船長に対してウラディウォストークで難民を下船させないようにし,デ・フォークトが,全ての船客の旅券に「キュラソーには査証不要」と記入することを確約したため,難民達は3/16に日本に入国できた.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.159-160を参照されたし.
【珍説】
八紘一宇というのは「天皇の下で全ての民族は平等」ということだが,この政治的主張は単なるフィクションではなかった! じつはかなり本気の主張であることが証明されてきているのだ.
第二次大戦で日本はドイツと同盟国だった.ドイツは「日本もユダヤ人を排斥しろ」と再三圧力をかけてきたが,日本政府は「全面的にユダヤ人を排斥するのは八紘一宇の国是にそぐわない」とはねつけたのである.
民族差別をしないという八紘一宇の主張を日本は貫いていた!
ドイツから逃げるユダヤ人難民は日本の通過ビザを取得し,敦賀に上陸し,神戸から上海に向かった人が多かったらしい.
6000人のユダヤ人にビザをあたえて逃亡を助けた日本人外交官杉原千畝は有名だが,もともと彼の行動は日本の「八紘一宇」の政治的主張のもとにやっていたわけだ.
反日マスコミは産経の報道を否定しようと「杉原千畝は個人の決断でビザを書いた」という従来の説を流すが,ユダヤ人差別はしないとの政府公文書「猶太人対策要綱」が存在し,当時の電文にも外務省が杉原に反対した形跡はない.
(小林よしのり『戦争論』)
【事実】
「命のビザ」の発給に関し,日本政府は,二度に渡って「ビザ発給禁止」を通告しており,また,戦後に杉原氏を辞職を強要しています.
詳しくは
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/book/objection/6tiune.htm
を参照されたし.
ちなみに,彼ら亡命ユダヤ人はウラジオストック―敦賀ルートの他,イルクーツク―満州ルートにも流れ込んできた.ロシア革命以後,ロシア系ユダヤ人が満州に入っていたのでそれを頼ったのだった.
それを見て驚いた陸軍参謀本部の,ユダヤ人の満州流入阻止の意を受けて関東軍へ赴いたものの,現地で諭されて逆に「俺が腹を切る覚悟で参謀本部を説得する」と言って帰っていった人が,東条英機陸軍中将.
別に,東條が男気を発揮したわけではない.
満州は世界的に孤立する中,ユダヤ人のネットワークと国際的な発言権を渇望していた.特に.ソ連から流入していた亡命ユダヤ人は,当時の状況からアメリカですら受け入れられなかった.
この点に目を付けた満州及び関東軍は,世界的な圧力回避のために積極的に受け入れをすることになる.
諭された内容とはこんな所.
それを悪い事とは言わない.
だが,東條を誉めるなら,悪名高い,磯貝とか辻も同列に誉めなければならなくなる.なにしろ積極的に受け入れを進めていたのは,関東軍その物なんだから.
ちなみに,彼らは中央が何言おうと,入植を推し進めていただろう.事実進めていた.
だから,東條が中央,つまり参謀本部や大本営,陸軍省を説き伏せたとしても,体制には変わりはなかったと思われる.
ちょっと言い過ぎかな?
でも,そんな所だよ.
また,杉原領事の発行したビザは,確かにある意味「空手形」だったが,国としての体面からして,「空手形」とすることは実際には困難だろう.
満州は日本ではないから,形式上は構わないにせよ,「満州が日本政府のビザを認めない」となれば,世界の笑い者になるのは確実.
ちなみに…,浦塩ルートで大挙して来たユダヤ人の件で,本省から杉原氏に問い合わせがあったとき,
「疑義があるなら乗船拒否を船長に指示されたい」
という趣旨の返答をして,
「ソ連への面子丸つぶれだろうがっ.んなことできるかい,ヴォケ.エエカゲンにせい.」
という趣旨の訓電を受けているそうな.
(軍事板)
さらに,一人の商社マン,古崎博が,満州時代の思い出を綴った自伝「水銀と戦争」を書いている.
その中に安江大佐と会ったときの様子が出てくる.そのときに彼が語った言葉とされる記述を以下に引用する.
「満州,北支,上海等に居る白系ロシア人の指導者達は,殆ど全部ユダヤ人です.
わしは以前,ドイツ軍がポーランドに進入したとき,ワルシャワの日本大使館に助けを求めて飛び込んできた,2百数十名のユダヤ人の子供達を,シベリア経由で満州に送らせて助けたことがある.
日独伊軍事協定の手前,具合の悪いこともあったけれど,人道上の問題であるし,此所の白系ロシア人達を味方にするためにも,わしは助けるほうが正しいと思って,断固反対を押し切ったわけです」
(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,八幡書店,1989/8,p.200)
仮にユダヤ人を助けることが日本政府の意思であったとするならば,なんで安江大佐は「反対を押し切」らねばならなかったのか.
ここで安江大差は急に引き締まった顔になって声を落とし,
「ナチスのユダヤ人虐殺については軍は発表しないことにしているから,君もその心算で,この問題にこれ以上触れないで貰い度い」
と言った.
(同,p.202)
仮にユダヤ人を助けることが日本政府の意思であったとするならば,なんで軍は虐殺の事実を伏せたがっていたのか.
挙げ句,安江は予備役編入させられている.
その〔1940/9/27の三国同盟締結の〕翌日,東京,すなわち陸軍省から安江に一本の電報が届いた.
「予備役に編入,現地待命」
というのである.特務機関長からの解任であった.
駐日ドイツ大使館から親ユ,つまり反ナチのナンバーワンとして指名されていた安江が,三国同盟締結で真っ先に犠牲(いけにえ)にされたのである.
米国との戦争を絶対に回避したいという安江と,カウフマン達ユダヤ人リーダーの共通の願いと努力はここに挫折した.
ユダヤ人達の受けたショックは大きく,カウフマンは病の床に倒れた.彼らの前途に大きな凶兆を感じたのであろう.
安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.207
仮にユダヤ人を助けることが日本政府の意思であったとするならば,なんで軍はその窓口である安江を解任したのか.
大連特務機関員として間近に接していた蛯名治三郎の回想記には,こうあるという(孫引き引用).
昭和12年以後の情勢は親独,親伊のムードであった.
したがって,外人に対する軍部としての態度も,自ら峻厳ならざるを得なかったと思う.
特にユダヤ人に対しては,国際的な存在だけに,〔安江大佐の〕特務機関長としての立場は,あらゆる方面から疑惑を受けて苦しかったのは事実である.
しかし,安江機関長は自己の信念に基づき,愛の精神で一貫しようと賢明の努力をされたのである.
(P.205)
仮にユダヤ人保護が政府の方針であったなら,なぜ安江大佐は「疑惑を受けて苦し」い立場になったのか.矛盾である.
蛯名治三郎はこうも述べている.
当時,ユダヤ人は国際的で信用がおけないという不信感が,軍部にも一般にもあったことは否定できない.
それにドイツの反ユダヤ政策が輪をかけたような状態にあった.
この観念が普遍的であったので,ユダヤ人対策は面倒性があった.
(p.205-206)
【珍説】
辞職の件は,夫人がそう言っているだけでしょう? 俺にはそれ自体が疑わしい.
本当にそんな話があったとしたならば,正式な命令でもないのに何で従うの? なんで従う義務があったの? やましいことでもあったの?
ましてや,退職金で不利になるのならなおの事ちゃんと抗議するべきだし,普通に考えれば,正式ではないが辞めて欲しい時は,条件をよくして懐柔するものでしょう?
おかしすぎる話じゃん.
そもそも,何で7年も経って,そんな原因でクビになると思うの?
おおかた,色々な軋轢があって嫌われていた人間がいたたまれなくなって辞めざるを得なくなったというだけの話なんじゃないの?
【事実】
外務省的にというかお役所的には,懲戒免職にすると監督責任がいろんな所へ及ぶから,依願退職の形を取りたかったんだろうね.依願退職なら,部外者には個人の都合で辞めたとしか見えなくなるからね.
今の日本でも別に珍しくはない話だよ.
「抗議しなかったのはなぜか」?
それは逆らったら,「建前は依願退職,実態は免職」が,「建前も実態も免職」に変わるだけだからだよ.
「退職金も年金もパーだよ,どうするの?」
と圧力をかける訳だ.
日本の役所や大企業では,このパターンが多い.
これといった理由や醜聞も無しに,杉原氏が退職願を書いたと言う時点で組織的な強要が有ったと見るのが「大人の常識」なのですよ.
まあ,あと10年もして君が社会人になったら,嫌でもわかるようになるから,焦らなくて良いですよ.
それに,後に(最近の話なのが情けないのだが),外務大臣が杉原の家族に謝罪し名誉を回復している.http://www.chiunesugihara100.com/news2.htm
なぜ,謝罪し,名誉を回復したのか?
それは,謝罪すべき事,名誉を汚すことを外務省が行ったからだ.
以下の経緯を見ても,円満な退職とは見なし難い.
杉原は周到に関係を築き上げていたので,すぐ情報活動を始めることができた.前の赴任地,ヘルシンキでポーランドの地下運動関係者とのコネを作り上げていたのである.
〔略〕
杉原は領事の地位を利用して,彼らに日本や満州国の旅券を発給してこれに報い,後には通過査証を発給して,ポーランド系ユダヤ人の逃走を可能にすることとなる.
情報機関の活動が相互依存的な性質のものであることから,日本政府が杉原に広範な行動の自由を与え,後のユダヤ人救出作業にも許可を与えていたことは,ありえないことではない.
しかし具体的な証拠はない.
幸子夫人は,杉原が1940年(昭和15年)8月に領事館を閉鎖した際,カウナスでの秘密活動がソ連に漏れるのを防ぐため,関係書類は全て処分したと言っている.
H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』
(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.140-141
帰国後間もなく岡崎勝男事務次官に呼び出され,重いがけぬことに退官を通告された.
疲れ果て孤独な面持ちで家に帰ってきた.次官は,ポストがないので退職してもらいたいと言ったのだ.
そればかりではない.
その後かつての同僚達の間に,杉原はカウナスで査証を発給した際にユダヤ人から金をとったという噂が流れた.
杉原はがっかりして身を引き,沈黙を守った.
この噂が確認されたことはない.
同,p.153-154
【質問】
「杉原は,嫌われていていて外務省を辞めざるを得なくなっただけ」に対する反論には,いささか疑問があります.
事実上の免職みたいに書いていますが,当時,大リストラの真っ只中だったということを無視しています.
「辞めさせられた」のは事実ですが,それが免職だったのかリストラだったのかは不明と思われます.
>なぜ,謝罪し,名誉を回復したのか?
>それは,謝罪すべき事,名誉を汚すことを外務省が行ったからだ.
えーと,この外務大臣というのが悪名高き”紅の傭兵”こと河野洋平なんですが.(汗
こやつが謝罪したからといって”謝罪すべき事,名誉を汚すことを外務省が行ったからだ.”てのはあまりにも短絡的です.
【回答】
傍証から考えて,免職であった可能性が高いと判断しております.
・ピザ発給に対する外務省からの叱責
・夫人の証言
・難民流入に対する外務省の困惑
・外務省内に流布された,杉原についての悪いうわさ
・ユダヤ人に対する外務省,日本国内の態度変化(1945年に向かうに従い,反ユダヤ的になる)
・同じく親ユダヤ的だった安江大佐などへの処遇
また,当時の外相が”紅の傭兵”であることと,謝罪に別な解釈が可能性であるとすることの明確な因果関係が見られません.
河野洋平の過大な遠慮の対象は中国共産党政府であり,ユダヤ人に対してもそうであるとの根拠が見出せません.
それ以外の点についても,貴氏の印象論に過ぎません.
明確な根拠が提示されましたなら,喜んで訂正に応じますので,どうか根拠をお示しください.
【質問】
藤原宣夫の主張やレヴィン教授の著書『千畝』には問題があるのか?
【回答】
これらについては,杉原千畝研究家である大正出版社長・渡辺勝正が,杉原問題の二冊目の著書『真相・杉原ビザ』(大正出版)を今年7月に出し,糾弾しているという.
「杉原問題とはこういうことだったのか,と事実に反する話に仕立てられて終わってしまったら大変,と思い,あの本を出したんです」
と,渡辺は述べている.
渡辺は,当時,難民代表を務めた後のイスラエル宗教大臣ゾラフ・バルファティクまで訪ね,藤原,レヴィン両氏の言説を一つ一つ事実と照らしたという.
また,レヴィン教授の『千畝』については,翻訳者の一人の篠輝久自身が,
「原著はもっと,むちゃくちゃだった」
と認めているという.
さらに渡辺によると,翻訳本にも,事実関係の誤りが初歩的なものを含めてすくなくとも数百ヵ所ある,という.
在米のレヴィン教授は電話で,
「出典は明記した.でっち上げはしていない」
と答えたが,外交史料館の研究者A氏は,
「事実誤認の激しさに呆然とした.あまりにもひどく,とてももう……」
と呆れ,日本語を知らないせいなのか,訓令類もほとんど素通りなことに驚いているという.
くわしくは,『AERA』2000/11/13号,長谷川煕署名記事を参照されたし.
また,次のような具体的な問題点を指摘する声もある.
『千畝』の翻訳が良心的でない第一点は,完訳でないにもかかわらず,そのことがどこにも明示されていないことである.
この翻訳には,原文からの削除,改竄,文や段落の並び替えなどの「監修」が各所に施されている.
第二点は,学術書の体裁を装いながら,研究書には必須のビブリオグラフィが添付されておらず,レビンの問題多い諸説がいかなる文献にもとづいているのか分からない点である.
原著の巻末文献を閲覧してまず驚かされることは,日本語の研究書がないことである.
原著まで購入しようという読者は少ないであろうから,翻訳のみを読んだだけで,原著者が日本語を解さないなどということは,まず想像できまい.
監修者の諏訪は,千畝の前妻クラウディアの発見にたいして「広範で徹底的事実調査に脱帽」するなどと称しているが,特にクラウディアにふれた第二章におけるインタビュー取材には,明確に疑わしいものがある.
例えば,満州時代の話を聞きに千畝の実妹にレビン自らインタビューしたという場所が,原文(岐阜市)と翻訳(一宮市)では異なる.
原著者と訳者の篠の間には,他にも理解の不一致があり,家族が「悪名高い反ユダヤ主義の指導者」セミョーノフの軍隊に属していたされるクラウディアが,「ユダヤ人医師ドーフ」と再婚したとレビンは主張するのに対して,訳者の篠は,『意外な解放者』のなかで,「クラウディア・セメノビナ・ドルフ」を「信仰深いロシアのクリスチャン」としている.
後者は,レビンのクラウディア情報取得を明示する注記にある日付(一九九五年五月)の三カ月後に刊行されたものである.
原著者と訳者の理解は両立し得ない.
〔略〕
レビンは,一九四〇年六月一五日のソ連によるラトビア占領に伴い,後に千畝の諜報活動を助けるポーランド地下組織のリビコフスキー大佐が,ストックホルム事務所にもぐり込み,そこに「小野寺信将軍」(原文一三三頁)がいたとしている.
この主張は,「一九四一年初頭から,戦後に亡くなった小野寺信将軍」がヨーロッパにおける諜報網を指揮し,「リビコフスキーとともに,上の方から,千畝の救出活動を端緒をつけた」(原文二〇〇頁)という推定を引き出すための布石だが,小野寺のストックホルム着任は一九四一年一月二七日であり,前年はまだ日本にいる.
また,言うまでもなく,千畝による「救済活動」は,前年夏に始まっている.
あとがきで小野寺夫人の『バルト海のほとりにて』に言及している諏訪は,レビンの誤りに明らかに気づいている.
そこで監修者(あるいは訳者)は,前者を「小野寺信陸軍大佐」(二一五頁)に書き換え,後者を「小野寺信少将は,一九四〇(昭和一五)年当時は大佐で」(三二二頁)などと「意訳」(!?)することによってレビンの致命的なミスを糊塗するのである.
一九四〇年当時,小野寺の肩書きが陸軍大佐であったというのは正しいが,この時まだ小野寺がストックホルムにいなかったことが,訳文では巧妙に秘匿されている.
〔略〕
杉原が「諜報員(スパイ)として活動していたことが判明した」というレビンの言明にも一驚を禁じ得ない.
ロシア語で書かれた報告書で,満州駐留部隊を南太平洋に転出したがっている参謀本部が外務省に働きかけ,「ドイツ軍進攻の速やかで正確な特定を要請した」(吉上昭三・松本明訳の後出論文に引用)と自ら述べているように,千畝がリトアニアに派遣された主要な目的が,緊張高まる独ソ間の情報収集にあったことは,あまりにも明白であるからである.
千畝の諜報活動については,むろんポーランド側でも詳細に調査されており,ワルシャワ大学日本語学科のエヴァ・パワシュ=ルトフスカと戦中抵抗運動に加わったアンジェイ・タウデシュ・ロメルの共同研究の一端が,「第二次世界大戦と秘密情報活動――ポーランドと日本の協力関係」(『ポロニカ』,一九九五年六月号)と題する論文に紹介されている.
レビンの著書の主眼は,ユダヤ人難民救出のイニシアティヴを千畝個人から「日本の要人たち」にシフトしようという点にある.
しかし,先のインタビューの最後でレビン自身が「ユダヤ人救出のための特命を受けていたという証拠も見あたらない」とするように,こうした立論は根拠が薄い.
『千畝』のなかでレビンは,MGM映画会社東京支配人の義弟でポーランド系ユダヤ人カッツのケースをあげ,本省が訓令を与えた例とするが,大映画会社(社主は排日キャンペーンを繰り広げていた新聞王ハーストと昵懇)の支配人の係累の例を,ユダヤ人一般の保護例に付会するのは,乱暴な話である.
ゲッべルスによって映画という宣伝媒体の役割が喧伝されていた時期,対米関係の改善を模索していた日本政府にとって,カッツの出自がどのような意味を持っていたかを等閑視するとすれば,あまりにも無邪気に過ぎよう.
またレビンは,インタビューで,情報収集の見返りに「山脇大将からポーランド軍人を満州経由で逃がすために六〇〇通のヴィザを命じたとされる杉原の救出活動」が,「杉原の一連の行動の端緒となったと考えられる」としているが,著書『千畝』で,「その証拠は未発見」としているように,これは単なる憶測にすぎない.
「情報の見返りというだけなら,ユダヤ難民への発給は『余分なこと』だった」(『自由への逃走』)
という中日新聞社の社会部記者の疑問は,もっともな疑問である.
レビンは,千畝に対する「日本の要人たち」の後援を立証するためには相当無理な議論もいとわない.レビンは,山脇大将ばかりか樋口季一郎少将までも,千畝の「長い満州勤務時代を通して旧知の間柄だったかもしれない」など言い張るのである.
樋口が大佐時代に第三師団の参謀長としてハルビンに来たのが,一九三五年八月一三日.
この時点で満州国外交部を辞任した杉原は帰国しており,その後もすれ違いで,両者は戦後も含め一面識もない.
原文では蓋然性の示唆であったものが,翻訳では「かもしれない」が省かれており,途方もない話に変貌している.
〔略〕
さらに,訳本にはこんな捏造まで.
ヒレル・レビン著『千畝』邦訳本・これが「捏造」の証拠だ!
同書初版より72~75ページ(PDFファイル)
原書『In search of SUGIHARA』より該当部分(PDFファイル)
「捏造される杉原千畝像」論文で告発されている,同書のトンデモ邦訳ぶりをしめす証拠の一つ.
「南京大虐殺」や「731部隊」についての長い記述がカットされ,「日本帝国が崩壊してから半世紀たった現在,植民地主義の傷痕は,なお日本人の感情を刺激し,論争や弁明を引き起こしている」なる簡単な記述のみにかえられている(記述にかなりの移動があるのですこしながく該当部分をピックアップ).
両ホームページには,他にも色々指摘されている部分はあるが,松浦の推定が混じっているらしき部分,本書と直接関係ない部分は割愛した.
これほど誤謬があり,かつ,監訳にも数々の問題が指摘される書籍は,5段階評価でDレベル(他の類書とのクロス・チェックがなされない間は信頼できない情報)とされるのが妥当だろう.
ただし,上記松浦の記述も,元元の出典は『世界』第679号(岩波書店,2000年9月1日発行)のため,その点は留意せねばならない.
◆◆◆◆「専門家」達
【質問】
安江仙弘の「ユダヤの人々」はどんな本か?
【回答】
1934年刊行.南次郎関東軍司令官の序文つき.
安江はシベリア出兵の際,司令部勤務で白系ロシアの将校からシオンの議定書の話を聞いた経験を持つ.
その彼が数ヶ月パレスチナに滞在調査した後に書かれた報告書が同書.
祭政一致や家族重視,先祖崇拝といった日ユ両民族に共通の要素を指摘する一方,ユダヤの陰謀は日本にとって危険なものだと警告.
とはいえ,ユダヤ人との間に現実の要請に応じた穏健な関係を構築するよう提言している.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.37を参照されたし.
【質問】
安江大佐は反ユダヤ主義者なのか?
【回答】
彼を反ユダヤ主義者だとする評価は,当時,彼と対立していたアブラハム小辻(小辻節三)による評価に起因する.
小辻はユダヤ教に改宗した学者で,松岡洋右の満鉄総裁時代,その顧問を務めていた.
彼は安江を,「ユダヤの影の政府が世界を動かしているとの見方をしている反ユダヤ主義者」と見なしていた.
しかし安江は,冷静な現実主義者でもあったため,1939年の極東ユダヤ民族大会においては,窮地にあるユダヤ人達の支持者に変貌している.
全体として見れば,親ユダヤ的に行動したと言って差し支えない.
安江の理想は,満州のユダヤ人の対日協力が,全世界のユダヤ人にとってのモデルになってほしいということである.ユダヤ人と共に東亜新秩序を実現しようというものだった.
安江は,アメリカのユダヤ人はシナのユダヤ人と疎遠になっていると考える.後者が日本との強調を急いでいるのに対し,前者は日本との政治的緊張を欲している.
にも関わらず極東のユダヤ人の立場は,アメリカの,そして世界各地のユダヤ人の間に,日本にとって有利な方向に影響を及ぼしつつある.
日本はユダヤ人の協力を得て,支那事変や大陸侵攻,そして満州の発展についての真相を世界に知らせることが出きる.
日本がユダヤ人を迫害しているという非難もかわすことができる.
ドイツはこうした行動に反対しないだろう…….
こうした安江の主張の大半は,希望的観測に過ぎない.にも関わらず外務省・回教及猶太問題委員会は耳を傾けた.
安江の研究や思想の多彩さ,その幻想と認識の多様さの中に,日本のユダヤ政策全体が抱えた問題が浮かびあがってくる.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.72-73 &
81-83を参照されたし.
【質問】
私設安江機関は何故誕生したのか?
【回答】
安江の予備役編入後,周囲の人間から「今までの仕事を続けてくれ」と懇願されたためだという.
以下引用.
〔安江の予備役編入後,〕家には特務機関の部下をはじめ外国人まで訪問者が相次いだ.
満鉄や陸軍部内にでさえ安江の良き理解者がいて,「我々がサポートするから,ぜひ今まで通り仕事を続けてください」と切望された結果,彼自身も東條への個人的感情は別として,今までの仕事を「天我が材を下す.必ず用あり」※の天から与えられたものと考え直し,再起を決意した.
そして,周囲の協力者達の計らいで満州国政府の簡任(勅任)待遇顧問や満鉄総裁室付嘱託ということで活動資金も確保され,ここに私設安江機関が誕生した.
当時,関東軍参謀長は陸士同期の中将飯村穣であり,彼あたりが種々の配慮をしてくれたことと思われる.
飯村は関東軍参謀長就任前は陸軍大学校校長を務めており,離任後は内閣総理大臣直属で,各官庁の中堅の俊秀を集めた「総力戦研究所」の所長として「想定による日米戦争机上演習」で日本の敗戦を推論した,陸軍きっての兵学家であった.
彼は人格円満にして冷徹な頭脳の持ち主で,終始陸軍の中枢を歩いたエリート中のエリートであった.
安江弘夫著『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(八幡書店,1989/8),p.209
※
原文ママ.
正確には
天生我材必有用(天 我が材を生ずる 必ず用あり)
李白の「将進酒」より.
【質問】
海軍の「ユダヤ問題専門家」,犬塚惟重の主張はどんなものだったか?
【回答】
犬塚はシベリア出兵に参加,現地でロシア革命の背後に無気味なユダヤ問題が存在すると「知り」,20年に渡ってこれに熱心に取り組んだ.
彼は,日本は早急に常設の早期警戒・監視機関を作るべきであり,日本のユダヤ政策は八紘一宇の精神に基く国家政策の目標と優先順位に配慮したものでなければならないと警告.
そして,日本は過去の経験を生かし,計算づくで自惚れやのユダや人をコントロールする術を身につけなければならないと主張.
犬塚の目標は,日本が支配する新秩序下のアジアの中で,ユダヤ人の永続的な生存権を保証することにあった.
外務省・回教及猶太問題委員会において彼は,ユダヤ人を通じて米国資本を日本に導入するための民間組織設立を提案した.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.37-38
& 83-84を参照されたし.
【質問】
安江大佐と犬塚大佐は,コンビを組んで行動していたのか?
【回答】
マービン・トケイヤーの『フグ計画』ではそのように書かれているが,これは間違いであり,連絡こそ取り合っていたものの,コンビを組んで行動したことはなかったという.
第一に行動範囲が,安江は大陸におけるユダヤ対策の責任者だが,犬塚は海軍としての性格上,上海港関係に限られていたという.
また,対米ユダヤ人工作についても,二人の行動や目的は異なっているという.
詳しくは『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.171を参照されたし.
そもそも戦前から官庁は縦割り行政であって,陸海軍が合同した例はあまりないように思われるのだが.
【質問】
酒井勝軍のユダヤ観はどんなものだったのか?
【回答】
日本人のユダヤ観には,ユダヤ人を自らと同一視しながらも彼らを拒否し,ユダヤ人を羨むと同じに彼らの力を恐れるという矛盾をはらんだものがあるが,酒井はその典型である.
彼は確信的国家主義者であると共に,キリスト教原理主義者でもあったため,キリスト教徒としてはユダヤ人が神から選ばれた民族であることを認めると同時に,ナショナリストとしては,真に選ばれた民族としての日本人の役割を強調した.
米国との戦争が始まると,酒井の論文は軍指導部に,時局便乗の反ユダヤ思想のための精神的武器を与えるものとなった.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.38-40を参照されたし.
【質問】
四王天延孝とは?
【回答】
四王天延孝(1879~1962)は陸軍中将.
フランスの士官学校に留学,第1次大戦中はパリ大使館付武官だった.
そのときに,アンドレ・スピールの「ユダヤと大戦」を読んでユダヤ問題に関心を抱き,1925年から反ユダヤ的な著作を世に問い始めた(筆名は「藤原延孝」)
1937年には,外務省の肝いりで設立された国際政経学会の理事長となった.
1938年にはドイツ・エアフルトで開催された「国際反ユダヤ人会議」に出席.
彼は熱烈な天皇崇拝者,天皇制支持者であり,伝統的な排外ナショナリズムを日本的反ユダヤ主義と結びつけた.
彼は,天皇をユダヤの魔手から守ることは,日本にとって重要であるばかりでなく,世界の全ての民族の役に立つものであり,これこそ大和民族の純なる使命だと主張した.
彼は1942年に衆議院議員になるが,引き続き宣伝工作に熱中した.
【参考ページ Referencia Oldal】
H. E. マウル『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.40-44
関根真保『日本占領下の<上海ユダヤ人ゲットー>』(昭和堂,2010), p.54
【質問】
小山猛夫とは?
【回答】
シベリア出兵時,安江仙弘が現地募集の通訳として採用した一人.
後に満州鉄道調査部ロシア班長となってユダヤ研究に従事し,東山紫明のペンネームでユダヤ関係の著述を行った.
終戦時,満鉄の渉外部長となってソ連軍との交渉に当たったが,やがてシベリアに連行され,消息を絶った.
1989年現在,消息不明のまま.
大変温厚篤実な人柄だったという.
詳しくは『大連特務機関と幻のユダヤ国家』(安江弘夫著,八幡書店,1989/8),p.155-156を参照されたし.
【質問】
小山猛夫のユダヤ観は?
【回答】
小山は,政府からは距離を取って日本的なユダヤ理解の確立を試みた,独自の色合いの専門家である.
彼は,寛容さこそ皇道の根本にあるのだとする.
彼によれば,日本の政治の最大の目標は,八紘一宇の精神に基いて確固たる世界平和を実現することであり,その精神にのっとってユダヤ人を日本人は受け入れなければならないのだとした.
彼は東亜新秩序を軍事的手段では建設することには反対し,大和民族の考え方は,自らを高めることによって他を支配しようとするものだと説く.
そして,ユダヤ人との協力は,彼らの世界的ユダヤ網との繋がりを通じ,西洋諸国の政治的・経済的・金融的センターに接近する道だというのである.
詳しくは,H. E. マウル著『日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか』(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.44-46を参照されたし.
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