m

准トップ・ページへ戻る

◆室町時代(日本)
戦史FAQ目次


 【質問】
 「仁」がついていない天皇の家系は,謀反を起こし易いと聞きましたが?

 【回答】
 偶然なのか,鎌倉以降,後鳥羽系・後醍醐系といった家系が,なぜか反逆者を輩出している.

***

 悠仁さまのご誕生で,親王の名前は56代清和天皇(惟仁)以来,必ず「仁」の字がつく慣習になっていると報道されたので,ご存知の方も多いと思われるが,実はこれ,例外も多い.

 天皇に即位した親王に限っても,清和以降,こんなに例外があるのである.

●平安時代
57代陽成:貞明
58代光考:時康
59代宇多:定省
 ▼※宇多天皇は,元は源定省と言って,唯一皇族ではなく一般人から即位した天皇である.
60代醍醐:維城
 ※醍醐天皇は,後に「敦仁」と改名した.
61代朱雀:寛明
62代村上:成明
63代冷泉:憲平
64代円融:守平
65代花山:師貞
67代三条:居貞
68代後一条:敦成
69代後朱雀:敦良

●鎌倉時代
82代後鳥羽:尊成
84代順徳:守成
85代仲恭:懐成
94代後二条:邦治
96代後醍醐:尊治

●南北朝時代
97代後村上:義良
98代長慶:寛成
99代後亀山:熙成(よしなり)

とこのように,南北朝時代までは例外も多く,その後は「仁」が必ずつくようになる.

 こうして見ると,「仁」がつくのは,清和以降ではなくて,70代後冷泉天皇(親仁)以来の慣習と言った方が適切なのではないだろうか?

 また,醍醐天皇の後の名前の「敦仁」は,「あつぎみ」と呼んでいたらしいので,「仁」の読み自体も初期は一定していなかったのかもしれない.

 さらに言えば,これは天皇に即位した親王に限って見ただけで,例えば室町時代の102代後花園天皇の父である貞成親王は,「仁」字がついていない.

 まあ,これらの事実に基づいて特に主張したい何かがあるわけではなく,単に薀蓄をここで披露しただけなのであるが,鎌倉以降,後鳥羽系・後醍醐系と,「仁」がついていない家系がなぜか謀反を起こす反逆者の天皇を輩出した偶然も,不思議である.

「はむはむの煩悩」,2006.10.02 Monday



 【質問】
 謀反を起こす反逆者の天皇,という表現ですが,確かに実情は,天皇側が反逆の謀反なんだけど, 戦前は,北条義時や足利尊氏の方が逆賊扱いでしたよね?
 その辺引きずっている人は,まだ多いのかな,と思ったのですが,そういう表現で大丈夫なのかしら?

 【回答】
 後醍醐天皇の討幕計画は,当時から「主上御謀反」と称されていたので,「反逆者の天皇」という表現は間違いではないと思います.

 また,尊氏はともかくとして,南朝方の実質的リーダーであった北畠親房が,南朝の正統性を主張した『神皇正統記』においてさえ,承久の乱に関しては後鳥羽側が非難され,北条義時が後鳥羽上皇と戦ったことは歴史的流れとして正しかったことや,義時の善政について賞賛されていますから,義時を逆賊扱いすることは戦前においてもそんなになかったと思います.

 なお,拙ブログにおいて私は何度も尊氏を高く評価し,南朝批判を繰り返していますが,今まで右翼の方から抗議が来たことは1回もありませんし(笑),大丈夫だと思います.

はむはむ by massage,2008年05月25日 14時58分



 【質問】
 宇多天皇は一般人から即位した天皇?

 【回答】
 宇多天皇は生まれは皇族ですし,光考天皇の死の直前に皇族復帰親王宣下(字が間違っておりましたらすいません),皇太子に立太子しているとされていると記憶しております.

部外者 in 「はむはむの煩悩」

 確認したところ,宇多天皇は即位以前,元慶8(884)年4月13日,臣籍に降って源朝臣を賜り,源定省となっています.
 その後,仁和3(887)年8月25日,親王宣下を受け皇族に戻り,翌日光孝天皇皇太子となります.
 ですので,定省親王が臣籍に降っていたのはわずか3年あまりのことで,しかも即位直前にまた皇族に戻っておりますので,「一般人から即位した」というのは不正確な表現で,ご指摘のとおり「臣籍にあったことのある」という表現が適切ですので,〔略〕訂正させていただきます.

 また,仁和1(885)年1月,源維城(これざね)が源定省の子として誕生し,後に醍醐天皇となっておりますので,臣籍にいたことがある天皇は,実は宇多天皇だけではなく,宇多と醍醐の2人存在します.
 この点も併せて訂正させていただきます.

「はむはむの煩悩」


 【質問】
 後醍醐天皇はなぜ鎌倉幕府を倒そうと考えるようになったのか?

 【回答】
 天皇の座に就きたかった,彼の野心による.

***

 悠仁さまのご誕生で,ひさびさに男子の皇族が誕生し,新たな皇位継承者が出現したので,女系天皇の論議もひとまずは先延ばしにされた観がある.
 しかし,このような問題は,今後も毎世代続くことになるであろう.
 具体的には,仮に悠仁さまが数十年後,成人後に天皇にご即位されても,親王がお生まれにならなければ,また女系天皇の議論が復活することになる.

 皇室の問題は,なかなか難しいのである.

 しかし現代は,男子の皇位継承資格者が少なすぎることが大問題となっているが,あまりに多すぎるのもゆゆしき問題である.
 特に,皇室典範で皇位継承順位が明確に定められていなかった前近代においては,皇位をめぐる争いは,戦乱の要因になるほどの深刻な問題であった.

 古くは大海人皇子と大友皇子の叔父と甥の争いが壬申の乱を引き起こしたこともあったし,平安初期には平城上皇と嵯峨天皇の兄弟の確執が,京都と奈良に「二所朝廷」と呼ばれる二重権力状態を生み出し,薬子の変と呼ばれる政変を起こしたこともある.

 今日は,その中でも南北朝の内乱について,主に北朝の天皇を中心に紹介したいと思う.
 南北朝内乱の原因は,鎌倉後期に遡る.

 皇統が,88代後嵯峨天皇の皇子89代後深草天皇の系統と,その弟90代亀山天皇の系統に分裂したことが,そもそもの発端である.
 亀山天皇の皇太子に,父後嵯峨上皇の意志が強く働いて,後深草上皇の皇子熈仁親王を差し置いて,亀山天皇の皇子世仁親王が指名されたことが,後深草・亀山兄弟の確執を深めたのである.

 後嵯峨が,亀山系統に肩入れした理由はよくわからない.
 彼が凡庸な兄・後深草よりも,利発な弟亀山を深く愛したからだとどこかで聞いたことがあるが.

 後深草の子孫の系統は,後世持明院統と呼ばれ,北朝となった.
 亀山の系統は大覚寺統となり,南朝となった.

 後深草・亀山ともに,退位後も健在で院政を敷いたこともあり,両系統の政治力はまったくの互角であり,しばらくは両系統から交互に天皇を輩出することとなる.

 亀山の後は,予定どおり世仁が即位し,91代後宇多天皇となる.
 後宇多の後は,熈仁が即位し,92代伏見天皇となった.

 このように,鎌倉後期は,持明院統・大覚寺統から,まるで二大政党のように交互に天皇が即位する状況が続き,後世「両統迭立」と呼ばれることになった.

 これだけでもすでにむちゃくちゃややこしいのに,さらに難しい問題が起こった.
 両系統ともに,世代を経るにつれ,兄弟が多数生まれて皇位継承資格者が増え,それぞれの皇統で内紛が始まったのである.

 大覚寺統では,後宇多天皇の皇子94代後二条天皇と,その弟96代後醍醐天皇の系統に分裂した.

 そもそも後醍醐天皇は,大覚寺統の嫡流である後二条の皇子・邦良親王が幼少であったことから,言わばリリーフ,中継ぎの傍流の天皇として即位したものであり,彼の子孫が皇位を継承することは,全然想定されていなかった.

 しかし野心に燃える後醍醐は,それが我慢ならない.
 なんとか両統迭立をやめ,自分の子孫に天皇位を独占させるために,あれこれ考えた末に得た結論が,鎌倉幕府の打倒であった.
 当時,皇位継承には鎌倉幕府の意向が強い影響力を持っていたので,幕府さえ打倒すれば,自分の子孫が皇位を継承できると考えたのである.

 しかしこれは,敵の持明院統だけでなく,同じ大覚寺統の後二条系にすら警戒され,疎まれることとなった.

 後醍醐天皇の二度目の討幕計画が発覚し,失敗に終わると(元弘の変),鎌倉幕府は後醍醐を廃位し,持明院統から量仁親王(光厳天皇)を即位させ,皇太子に大覚寺統から大覚寺統・後二条系の邦良親王の子・康仁親王を採用する.

 しかし,その後全国各地で武士が挙兵し,ついに鎌倉幕府が滅亡すると,後醍醐は光厳を廃位し,再び皇位につくが,皇太子康仁も廃する.

 後二条系はこの措置に激怒した.
 後に足利尊氏が挙兵し,後醍醐の建武の親政が崩壊すると,康仁親王たち(木寺宮)は持明院統(北朝)・室町幕府について,京都にとどまる.
 南朝系がすべて足利政権に敵対したわけではないのである.
 本題の北朝の天皇については,また改めてエントリーを立てて論じたい.

「はむはむの煩悩」,2006.10.03 Tuesday


 【質問】
「鎌倉時代の北条氏は最盛期に滅んだ」
と何かの本に書いてあったのを覚えているのですが,最盛期に滅ぶというのはありえるのでしょうか?
 普通は衰退して滅ぶのでは?

 【回答】
 ありうる.
 相手が危機感を感じ,潰しに掛かり,彼らのほうが強ければ,これから伸びるはずの集団も潰れる.
 組織が天寿を全うする,というのは実際は稀なことだ.

 ローマ帝国は天寿を全うしたかもしれない.
 しかし,カルタゴは天寿を全うしたか?

 北条氏の場合,最盛期に滅んだというよりは,むしろ目に見える衰退期がないということなのだと思う.

 のちの室町幕府や江戸幕府には,明確に衰退期といえる時期がある.
 室町幕府の場合は最後の70〜80年くらい時間をかけて,徐々に衰退していって,最終的に滅ぶというイメージだし,江戸幕府に関しても室町幕府ほどでないにせよ,約15年の幕末動乱期を経て滅亡している.

 それに対して,鎌倉幕府は最末期まで政権としての幕府の権力は割としっかりしていたものが,いきなり情勢が180度ひっくり返って潰れたという感じがあるからね.
 もちろん,表面的には絶対的な権力に見えても内部がガタガタだったということもいえなくはないが,徐々に幕府の権力が弱くなって最後にトドメを刺されるって感じの滅び方じゃないから,目に見える衰退期というのが見出しにくい.

 また,守護などとして一門が領域に君臨していた国の総数は,末期が一番多い.
 元寇の時,九州に下向した鎌倉御家人が多かったのは,関東では北条氏の圧迫で生存の危機にあったからだ.
 足利氏も後醍醐天皇の挙兵に応じるまでは.北条氏の下で逼塞していた.

 北条氏はそれゆえに,他の全ての人々にとって許せない存在と化していたのだ.

日本史板
青文字:加筆改修部分

▼ 結論から言えば,少なくとも「最盛期に滅んだ」ということはまずないと思いますね.

 まず,古典的な理解ですが,蒙古襲来を撃退したとは言え,新たな恩賞地を獲得したわけではないですから,合戦に参加した武士に満足の行く恩賞が与えられたわけではなく,多くの武士の不満が増大したというのは確実にあったと思います.

 北条一門がほとんどの国の守護を占めたりして,足利氏等の外様御家人の不満が増大していたことも事実ですしね.

 また,蒙古襲来後,社会情勢が変化して,特に寺社本所領に悪党が跋扈して,そのため公家政権に依頼されて鎌倉幕府は従来よりも権限や管轄地域を拡大し,寺社本所領にも大いに関与できるようになり,一見権力が強大化したように見えますが,現実には悪党の蜂起をうまく鎮圧することができず,公家や寺社勢力の不満が蓄積したということもあります.

 内部を見ても,平頼綱・長崎高資といった御内人(得宗(北条氏嫡流)の家来)の専権が目立ち,霜月騒動などの内紛を繰り返しています.

 組織や人事も硬直化し,北条氏や御家人の昇進ルートががっちり定まり,そのこと自体はいいのですが幼少な人物が要職に就くことが多くなり,政治組織としての体をなしていかなくなります.末期には,国内が乱れているにもかかわらず幕府追加法をまったく出せなくなるほど機能不全に陥りますし.

 というわけで,末期の鎌倉幕府も,他の政権と同様,確実に衰退傾向にあったのは事実であったと考えます.
 鎌倉幕府の全盛期と言うのは,やはり古典的な理解ですが,後世長く理想の執権政治と称えられ,足利直義も目指した執権義時・泰時期なんでしょうね.

 ただ,後期鎌倉幕府が行った改革の数々は,必ずしも間違った政策ではなく,その方向性自体は妥当で(ただし中途半端),次代の建武政権・室町幕府に発展的に継承されたものも多いですし,衰退したと言っても完全に駄目になったわけではなく,通常ならばまだまだ継続していたはずの政権だったと思います.

 その点では,上記【回答】は間違っていないでしょう.

 やはり,後醍醐天皇というよくも悪くも強烈な君主が討幕を決意し,実行したのが滅亡の最大の要因であると思いますね.

はむはむ in 「軍事板常見問題 mixi支隊」


 【質問】
 京都国立博物館所蔵の「守屋家本騎馬武者像」は,足利尊氏の肖像画ではないのか?

 【回答】
 河合敦によれば,これまで平重盛とされてきた神護寺の肖像画が足利尊氏である(米倉迪夫説)可能性が高い.
 「守屋家本騎馬武者像」については,尊氏の馬は栗毛であること,征夷大将軍とは思えない肖像画の武士の姿から,戦前から疑問が持たれてきたという.
 また,尊氏の子供である義詮の花押が,肖像の頭上に押されている点も,もしこれが尊氏であるとすれば無礼なのだという.
 肖像主については細川頼之(ほそかわよりゆき),高師直(こうのもろなお),高師詮(こうのもろあきら)といった説がある.

 詳しくは,河合敦著『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』(光文社,2006/6/30),p.52-56を参照されたし.


 【質問】
 「主従制的支配権と統治権的支配権」説とは?

 【回答】
 これが,戦後の日本中世政治史を一貫してリードしてきた巨人・佐藤進一氏の著名な学説である.

 初期室町幕府の体制は,将軍足利尊氏が恩賞充行と守護職補任を担当し,弟直義が所領安堵や訴訟の裁許などを管轄するという二頭政体であった.

 佐藤氏は,この尊氏と直義の権限を分割する基準というか,両者の権力の本質的な相違を考察し,上記の支配権の概念を生み出したのである.
 すなわち,尊氏の権限は,武士の棟梁としての私的・主従制的な支配権に由来し,直義のそれは国家が統治するための公的な支配権に由来する.

 そして,この権力の二元性が,初期室町幕府だけではなく,鎌倉幕府の将軍と執権の二頭政治にも見られるとし(将軍=主従性,執権=統治権),さらには東国の反乱軍から出発し,私的な主従性的支配権を行使していた源頼朝が,朝廷から国家の統治権的支配権を分割して授けられ,正統性を有する国家権力として確立したとし,このように壮大な議論にまで発展させた.

 こうして,主従制的支配権と統治権的支配権は,日本中世の武家政権の根幹をなす支配原理として定説化され,長く歴史学界を支配したのである.

 しかしながら,この学説には,よく考えると矛盾点や疑問点も多い.

 まず誰もが真っ先に気づく問題点は,佐藤氏が直義の行使した所領安堵を統治権に属するとしたことである.

 しかし,所領安堵とは,武士が将軍の臣下となったときに,最初に主従関係を確認する行為ではなかったか?
 将軍に忠誠を尽くす代償として,自分の所領の安全を将軍に保障してもらうのである.
 とすれば,所領安堵は主従制的支配権なのではないか?

 ということで,安堵が主従制か統治権かという問題をめぐって,学界では長い論争が繰り広げられた.
 この議論にはいまだに決着がついていないが,私の見たところ,安堵を統治権と考える論者は,安堵に主従制的な要素が存在しないことを,説明しきれてはいないと思われる.

 これ以外にも,例えば二頭政治期に直義が軍勢催促の権限をほぼ独占していた事実については,どう説明するのであろうか?
 配下の武士を動員して合戦に参加させる行為は,武家政権として主従制の中核に位置する権限なのではないだろうか?

 さらに言えば,統治権的支配権の中枢を占めるとされる裁許だって,主従制の要素がまったく存在しないと言えるのだろうか?
 訴訟当事者が,自分の権利を主張するに際して,自らが幕府に対して果たした軍事的貢献(軍忠)も併せて主張する例など割と存在するし,直義がそれを考慮していると思われる事例も比較的存在する.

 観応の擾乱に際しては,多くの武士が直義に従って尊氏と戦った.
 彼らの多くは鎌倉以来の伝統的な地頭御家人であり,彼らや寺社・貴族の権益を保護する直義の政策に基づいて直義に安堵や裁許を拝領し,恩恵を受けた人々である.
 彼らにとって,直義とは忠節を尽くすべき『主君』ではなかったのか?
 尊氏を主君と仰ぎ,彼に味方した武士たちと,従属した原理が何が異なるのであろう?

 で,逆に考えれば,尊氏の行使した恩賞充行に,統治権的要素が皆無であると言えるであろうか?

 合戦に参加した武士の軍忠を,書類や目撃者の証言によって審査し,守護が南朝方から没収した所領の状況を調査し,軍忠の程度に応じて恩賞としてそれらの所領を与える.
 この事務的な作業は,直義の行使した安堵や所領関係の裁判の進行手続とも共通する部分があり,ある意味で非常に統治権的と言えるのではないだろうか?

 要するに佐藤氏の分類に従えば,幕府の政治機能はすべて主従性と統治権の要素を併せ持っており,尊氏と直義の権限をそれで区分することは困難なのである.

 というわけで近年の研究者は,主従制とか統治権という言葉は使うことには概して慎重である.

 だがしかし,かと言って,佐藤説が真っ向から批判され,完全に否定されたわけでもない.
 これに代わる権力の本質を説明する,新たな枠組みを構築することも,きわめて困難な作業だからである.

 今後,佐藤説を再検討し,新しい権力論を創造する作業が必要となってくるであろう.

「はむはむの煩悩」,2007年6月14日



 【質問】
 鎌倉幕府の将軍と執権を「二頭政治」というのはどうなんでしょう??

 【回答】
 そうですね.二頭政治という表現は不適切かもしれません.
 佐藤さんも,そこまで言ってなかったかも・・・.

 将軍と執権の権力は,尊氏兄弟ほど明確な権限分割は見られません.
 両者とも同時期に充行・安堵を行使しております.
 裁許はほとんど執権が独占しておりますが.

 わずかに弘安年間に,
惣領に対する安堵→将軍家政所下文,
庶子に対する安堵→執権・連署発給の関東下知状
という区分が認められる程度ですが,尊氏・直義の二頭政治とはだいぶ様相を異にするようです.

「はむはむの煩悩」,2007年6月17日 (日) 23:48



 【質問】
 直義は身内で信用出来るから,尊氏と直義とでお互いの行為が食い違わないような調整だけして,同じ権限を分け合ったとも考えられるんでしょうか?

 【回答】
 まあ,子細に見れば,例えば北朝との交渉役が執事高師直(尊氏派)から途中で直義に移行するなど,両者の管轄は時期によってけっこう変遷していて,争奪している形跡があるのですが(それはそれでこの二元論に対する間接的な批判にはなっている),
尊氏=恩賞充行,
直義=所領安堵・相論裁許・軍勢催促
という基本線は,室町幕府発足から観応の擾乱勃発まで,厳然として維持されています.

 このように,両者の権限はかなり明確に区分することができるので,両者の権力には,本質的に相違が存在するのではないかということで生み出された歴史的概念が,主従制的支配権と統治権的支配権であるわけです.

 『難太平記』には確か,尊氏が弓馬の将軍,直義は政道の将軍とされたと書かれていたはずですが,別に弓馬のことだって直義がやっているわけでして(笑)

 〔略〕
 実は単にめんどくさがりの尊氏が,いちばん自分が武士や寺社の支持を得やすい権限だけ自分の手元に残して,残りの大半を直義に押しつけたというだけの話だったのではないか,と個人的には感じていたりもします(笑)

 でも,それだとどうしても,配下の武将が尊氏・直義いずれかに与して党派が形成されることとなり,やがて破綻に至ったのではないかと・・・.

「はむはむの煩悩」,2007年6月15日 (金) 06:18


 【質問】
 中先代の乱を起こした北条時行は,後に後醍醐天皇側について,足利尊氏に対して隠居地の伊豆で反乱を起こしますが、なぜ彼は後醍醐天皇側についたんでしょうか?
 幕府は滅亡し、信濃に逃れて建武親政に不満を持って天皇に対して反乱まで起こしたのに…

 【回答】
 時の政権に対抗するために南朝に走った者は少なくない.
 細川定禅しかり足利義尊しかり.
 中央の政争に破れた者たちが政権に対抗するための,いわば駆け込み寺の側面を南朝が有していたわけ。
 中先代もその意味で南朝を利用し、南朝自体も節操なくそういった人間を迎えていたわけよ。

 余談だが,嘉吉でぶっ潰された赤松遺臣が,何の疑いもなく南朝にすんなり受け入れられたのは,南朝側の「来るもの拒まず」の姿勢によるもの。
 赤松遺臣はその後南朝の「玉」小倉宮の裔をぶっ殺して神璽を奪還、幕府への帰参とお家再興が叶ったと応仁記にあるけど,互いに必死だったんだわな。

(日本史板)


 【質問】
 どうすれば南北朝内乱にならずに済んだのか?

 【回答】
 人が歴史を動かすのか,歴史が人を動かすのかというのは,歴史学上の大問題であり,おれは基本的に後者の考え方である.

「どうすれば○○みたいな事態にならずに済んだのか?」
という議論は,特に太平洋戦争などでよく行われる議論であるが,やってみると意外に将棋で言うところの「必然手順」が多く,選択肢が限られていることに気づく.

 どうすれば南北朝内乱にならずに済んだのか?

 実は尊氏は後醍醐天皇に刃向かう気など毛頭なかったのであるが,展開上必然的に天皇と戦わざるを得ないハメに陥ってしまった.

 天皇方に勝利して幕府を開いた後も,天皇をどうするかがまた大問題である.
 まさか殺害するわけにいかないし,島流しにしてもまた鎌倉幕府のときと同様に,諸国の武士を煽って反乱を起こさせ,京都に戻ろうとするであろう.
 厳重な警備をして天皇を幽閉したところで,やっぱりたびたび脱出をはかって,遅かれ早かれ実際の史実と同様の展開となっていたであろう.
 三種の神器が本物かどうかなんて,尊氏も後醍醐も当時の国民も,本当はそんなことはどうでもよいのである.

 直義の処遇も大問題である.
 将軍の実弟で,しかも幕府の創設に大功のあった実力者を,まさか政権の中枢から排除できるわけがない.

 直義は結局尊氏と敵対して殺し合うことになるわけだが,それはあくまでも結果論であって,当初は尊氏兄弟も含めてそんな未来を予想した人間など1人もいるわけがない.
 いるとしたらそいつは人間ではなく,神である.

 仮に尊氏がその未来を予想できたとしても,その時点では自分に忠実な人間を排除するのに,周囲の武将たちが誰も納得するわけがない.
 そんなことしたら,上様ご乱心ということで,自分が殺されるのがオチであろう.

 「たられば」が許されるとすれば,せいぜい,直義を遠く鎌倉に派遣して,そこを分割統治させるくらいであるが,それだってどうせ直義は関東を拠点に勢力を拡大し,永享の乱が数十年早く起こるだけであろう.
 むしろ彼を京都に置いて近くで監視していたからこそ,観応の擾乱まで兄弟の決裂は遅れたのかもしれないのである.

 とまあこのように,だいたいは歴史が人を動かす例が多いように思うのであるが.

はむはむ in mixi,2008年05月01日18:47


 【質問】
 南北朝時代,内戦の推移に年号は,どのように左右されたのか?

 【回答】
 南北朝時代(1336〜92)は,吉野(南朝)と京都(北朝)に二人の天皇が同時に並び立った時代である.

 この時代には,年号も北朝と南朝で別々に制定されていた.
 つまり,常時,2つの年号が同時に存在していた時代なのである.

 今日は,この南北朝の年号について,おれの知っていることをつらつらと書いてみたい.

 まずは,南朝と北朝の年号をそれぞれ列挙してみよう.

★南朝

建武
延元
興国
正平
建徳
文中
天授
弘和
元中


★北朝

(建武)
暦応
康永
貞和
観応
(正平)
観応
文和
延文
康安
貞治
応安
永和
康暦
永徳
至徳
嘉慶
康応
明徳

 まず一見して気づくのは,南朝年号である「建武」と「正平」が,なぜ北朝年号でもあるのかである.

 「建武」とは,後醍醐天皇が,元弘4年を改元して制定した年号である.
 だから後醍醐天皇の親政を「建武の新政」,この政府を「建武政権」と呼ぶのであるが,実はこの改元には,多くの公家が反対したらしい.

 つまり,「武」の字が入っているのは非常に不吉である,これは戦乱を招く年号であるというのが,主たる反対意見だったのである.

 そもそも,この建武という年号は,確か後漢の光武帝のときの年号である.
 日本の年号というのは,平安時代以降は,漢籍の語句から選ばれるのが普通であり,中国の年号をそのまま採用することは滅多にない.
 その意味でも,この改元は,日本の伝統と先例から大きくはずれたものだったのである.

 それはともかく,戦乱の予測は現実のものとなり,足利尊氏が建武政権から離反して反乱を起こした.

 それで,建武政権は尊氏の反乱を鎮めるために「延元」と改元したのであるが,その効果もなく,結局は北朝と室町幕府の成立を許し,吉野の山奥に逼塞させられることとなった.
 南北朝時代の始まりである.

 ところが,尊氏は根っからの武人であったので,建武のような勇ましい年号を非常に好んでおり,しばらくそのまま使用し続けることにしたのである.
 室町幕府の基本法典も,建武3年に制定されたので,「建武式目」と言うのである.
 だから,建武は南朝年号であると同時に,北朝の年号でもあるのである.

 ところで,尊氏の弟の直義は,建武のような年号が嫌いだったらしい.
 建武を改元するときに,次の年号に,これからは武力に頼らない平和な世の中を作るべきだとして,「文和」を希望したほどである.
 直義の人間性が,よく現れているではないか.

 文和は,後に北朝年号として実現するが,それはなんと直義が尊氏と不和になって,失脚して死亡した後のことだった.

 こういうところにも,なんとなく尊氏という将軍の人間性が垣間見える気もする.

「はむはむの煩悩」,2005.11.23 Wednesday

 次は南朝年号である正平が,なぜ北朝年号でもあるのかについて,ご説明したい.

 発足当初の室町幕府では,将軍足利尊氏と弟直義が,2人で権限を分割する二頭政治を行っていた.
 これは,日本史に興味のある方なら,ご存知の方も多いと思う.

 将軍兄弟の二頭政治は,当初は非常に順調に行っていたのであるが,拮抗した権力を持つリーダーが2人もいる組織というのは,古今東西必ず派閥が形成されて権力抗争が発生し,分裂するものである.
 おまけに彼らの場合は,将軍の後継者の問題も絡んで,配下の守護大名たちが尊氏派・直義派をそれぞれ形成し,彼らをかついでいがみ合うようになった.

 こうして初期室町幕府はついに分裂し,尊氏軍と直義軍が全国の武士を二派に分けて戦闘を開始する事態に陥ったのであるが(観応の擾乱),その詳細な経過はあまりに複雑であるので,ここではすべて省略し,とにかく直義が鎌倉入りして,関東の武士団を直義派にする勢いを示したのである.

 そのため尊氏は,鎌倉の直義を討つために,自ら大軍を率いて東国に下向することを決意したのであるが,そのときに問題となったのが,南朝のことである.
 尊氏が京都を留守にしている間に,南朝軍が京都を襲って占領したら,大変な事態になる.
 京都には,一応息子の義詮を留守に置いておくことにしたが,当時彼はまだ20歳そこそこの若年の武将で,とても安心できない.

 そこで尊氏が採った苦肉の策が,幕府の南朝への全面降伏なのである.
 とにかく,直義を倒すためにはなりふりかまっていられない.
 尊氏は,南朝方に転じたのである.

 そして当然,北朝年号である観応の使用も停止することとなった.
 ここにおいて観応2年は,正平6年となり,一時的に南北両朝の統一が達成された.
 これを,「正平の一統」と言う.

 こうして尊氏は,南朝から錦の御旗を得て,関東に下って直義を打倒するのであるが,正平の一統は長く続かなかった.
 年が明けて正平7年の閏2月,突如南朝が和議の条件を一方的に破って,京都に攻め込み,留守を預かっていた義詮を蹴散らして,占領してしまったのである.

 しかもこのとき南朝方は,北朝の光厳・光明両上皇および崇光天皇と,皇太子直仁親王を拉致して,当時南朝の本拠地であった大和国の賀名生に連れ去ってしまったのである.
 おまけに,天皇に即位するときに必要な三種の神器までも没収して持って行ってしまった.
 ここに北朝は,いったん完全に滅亡してしまう事態となるのである.

 室町幕府の正統性を保障していた北朝の完全消滅という異常事態をどう解決したのかについては,もはや年号の話題から離れてしまうので,その気になったときにご紹介したいが,ともかく,南朝方の違約によって正平の一統は崩壊し,幕府方はふたたび観応年号に戻したのである.

 ちなみに,義詮が京都を脱出し,近江で戦死しかけたちょうどその日に,尊氏も関東で南朝軍に攻められ,討ち死に寸前の敗戦に追い込まれていたのであるが,とにかく正平の一統は,たったの3ヶ月で終わったのである.

 しかしながら,おれが年号の話を始めたのは,建武と正平について説明するためではない.
 もう一度,南朝と北朝の年号を見比べていただきたい.
 朝廷の正統性といった政治的イデオロギーを抜きにして,みなさんなら,ぶっちゃけどちらの年号を使いたいであろうか?
 おれは,断然北朝の年号である.
 特に応安以降の年号は秀作ぞろいである.
 正直,南朝の年号って,ださくてかっこ悪くないか?

 これは感性の問題であるので,南朝年号を好きな方もいらっしゃるであろうが,好き嫌いはともかくとして,少なくとも南朝と北朝の年号が,まったく異質の存在であることは,多くの方が納得していただけるのではないだろうか?

 これはおそらく,南北朝期全般を通じて,北朝=室町幕府の方が軍事的にも政治的にも圧倒的に優勢であったので,北朝の方に年号に関する有能なスタッフがそろっていたことも大きかったであろうし,何よりも日本古来の伝統や慣習を否定し,先例無視の革命的な宋学思想を抱く南朝の政治的イデオロギーが,南朝年号に反映していることが最大の原因なのではないかと考える.

 伝統的な,「和」を重んじる北朝の年号が,やわらかでおだやかなものが多いのに対し,南朝年号はどことなくぎすぎすしていて,物騒なのが多くないか?

 中国の年号をまんま移入した「建武」にしてからがそうである
(もっとも,建武は南朝で最も優れた年号だとおれは思う).

 年号にも,時の政権の理念が反映し,その政府の政権担当能力にそのまま比例することが多い.これが今日のおれの結論である.

 にしても,室町幕府ほど年号に悩まされた政権はないのではないかと思われる.

「はむはむの煩悩」,2005.11.25 Friday


 【質問】
 『正平の一統』とは?

 【回答】
 足利尊氏が直義を倒すため,事実上北朝を否定して南朝と結んだ和議.
 しかし短期間で南朝はこれを違約し,その結果,北朝は更なる混迷に陥ることに.

***

 貞和4(1348)年以降の北朝の体制は,光厳上皇の院政の下,光厳の子崇光が天皇に在位し,光厳の従兄弟直仁親王が光厳の養子となり,皇太子を務める体制であった.
 前回も述べたとおり,このまま順調に行けば,いずれ直仁が天皇に即位して,皇位を継承するはずであった.

 しかし観応元(1350)年に起こった,室町幕府の将軍足利尊氏と弟直義の幕府を,そして天下を二分した内乱である観応の擾乱が発生したことによって,北朝の運命も大きく変わることになったのである.
 観応の擾乱の過程は非常に複雑なので,詳論は割愛するが,観応2(1351)年11月,尊氏は直義を倒すために南朝に降伏する.

 ここに尊氏は南朝方となり,事実上北朝を否定し,年号も南朝年号である『正平』を使用することとなった.
 そして尊氏は,当時関東にいた直義を討つために,京都を留守にするのであるが,この尊氏の降伏を歴史学上『正平の一統』と呼ぶ.

 正平の一統は,尊氏が直義に勝つための苦肉の策であったが,これが残した副産物はあまりに深刻であった.
 和議では京都は幕府が守備することとなっていたが,南朝はこの条件を破って,尊氏不在の京都に突然侵攻,尊氏の子・義詮を追い払い,光厳上皇・光明上皇・崇光天皇と皇太子直仁親王を捕らえ,北朝の三種の神器まで接収して,南朝の本拠地に連行してしまったのである.
 この南朝の違約によって正平の一統は破綻し,尊氏党はたった4ヶ月弱にしてふたたび『観応』年号を使用する.

 京都は程なく幕府軍が反撃して回復する.
 しかし,北朝が消滅してしまったという大問題が残されてしまった.
 幕府というのは,朝廷によって正当性を保障されているものであるから,北朝のない室町幕府など,ただの逆賊で暴力集団に転落してしまうのである.

 そこで幕府は急遽,新しい天皇を擁立することとなり,当時出家する予定であった崇光の弟・弥仁親王を即位させるのである.

 しかし,この即位は北朝の家長であった光厳の承認のない即位であった.
 当然である.彼は南朝に拉致されて不在だったのであるから.
 何より,この即位は,新帝に必ず譲渡されることになっている三種の神器のない,きわめて異例の即位であった.
 これもまた,南朝に没収されていたからである.

 そこでやむを得ず,はるか古代の,群臣に擁立されて即位したとされる継体天皇に先例を求めて即位せざるを得なかったそうである.

 こうして即位したのが後光厳天皇であるが,このような逼塞した状況下で即位した事情があったために,後光厳朝の正当性ははなはだ希薄であった.

 直義派の武将が相次いで南朝方に転じたために弱体化した幕府の軍事力も影響して,この時期,幕府は何度も敗北し,たびたび京都を没落する.
 後世出てきた南朝正統論も,どうやらこの時期の北朝の正当性の弱さに原因があるようである.

 しかし,何も悪いことばかりではなかった.
 観応の擾乱以降の室町幕府は,北朝の弱体化した権威に頼ることができなくなった分,幕府内部の改革を次々と断行して,強力な実力を保有する政権に生まれ変わる.
 それまでは基本的に鎌倉幕府の猿真似に過ぎない政権であったのだが,擾乱を契機として,ようやく室町幕府らしい特色を持った政権へと変貌を遂げるのである.

「はむはむの煩悩」,2006.10.14 Saturday


 【質問】
 南北朝の内,内部分裂していたのは大覚寺統だけなのか?

 【回答】
 持明院統も分裂していた.
 そのため,状況が錯綜することになった.

***

 世代を経ることによるさらなる皇統の分裂は,大覚寺統だけの問題ではなかった.
 持明院統(北朝)においても皇統が分裂し,これが南北朝内乱と複雑にからみ合って,錯綜した状況を呈することになるのである.

 持明院統では,89代後深草の後,彼の子息92代伏見,伏見の子息93代後伏見,後伏見の弟95代花園と皇位を継承してきた.

 花園の次に,大覚寺統から96代後醍醐が即位したが,この後醍醐が鎌倉幕府の討幕をはかり,自分の子孫が皇位を独占することを狙ったことは,前回も述べたとおりである.

 2度目の討幕の陰謀が発覚した後(元弘の変),幕府によって後醍醐は廃位され,隠岐島に流され,その後は持明院統から後伏見の子息・北朝初代光厳天皇が幕府によって擁立された.

 しかし,この後各地で幕府に反対する武士が次々と挙兵し,足利尊氏・新田義貞が最終的に宮方に転じることによって鎌倉幕府が滅亡すると,隠岐から戻った後醍醐天皇は光厳を廃し,ふたたび即位して建武政権を樹立し,天皇親政を開始する.

※後醍醐は,自分が鎌倉幕府によって一度退位させられた事実を否定し,ずっと皇位についていたことを主張していたので,彼の主観では「ふたたび即位(重祚)」ではない.

 だが,この建武の新政はわずか2年間しか続かず,尊氏の挙兵および室町幕府の樹立によって,後醍醐は吉野に逃げ,日本に天皇が2人いる異常事態となり,南北朝の内乱が始まるのである.

 尊氏が擁立した北朝では,光厳の弟・光明天皇が即位する.
 だが,実質的な権限は,兄の光厳上皇が握っており,北朝政府は彼によって運営された.
 このように,退位した天皇が実質的な権限を有して政治を行う形態を「院政」と呼び,平安後期以降の中世日本では割と恒常的に見られた政治形態である.
 平安時代の白河・鳥羽・後白河の院政は有名だから,ご存知の方も多いだろう.

 北朝では以降,この光厳院政の下,光明の後,光厳の子息・崇光が即位する.

 ところが,ここで光厳は実に奇妙なことをするのである.
 彼は子息崇光の皇太子,つまり崇光の次に天皇として予定される親王に,花園の子息,つまり光厳にとっては叔父の息子にあたる直仁親王を指名するのである.

 光厳の子孫が断絶,もしくは断絶の可能性がきわめて高い状況であれば,この措置は理解できる.
 しかし当時,崇光の弟・弥仁も健在であったのに,彼はなぜか従兄弟・直仁親王を後継者に任命するのである.

 光厳がなぜこうしたのかはよくわからない.
 一説には光厳は,実は後伏見ではなく花園の子どもだったとか,いや,直仁が実は光厳の不義の子であったとか言われているようであるが,真偽は定かではない.
 推測すれば,持明院統,すなわち北朝内部で,鎌倉後期以来の両統迭立の原則を踏襲したのであろうか?

 いずれにせよ,このまま順調に北朝を支える室町幕府の覇権が確立していれば,直仁は確実に天皇に即位するはずであった.

 しかし,突然起こった非常事態によって,北朝は運命の女神に翻弄され続けることとなる.

 それはまた今度紹介しよう.

「はむはむの煩悩」,2006.10.10 Tuesday

 前回の続き.

 足利直冬というのは,尊氏の庶子である.
 だが,どうしたわけか父には本当に嫌われて,冷遇された.
 正妻の子ではなかったからだとも言われるが,当時,側室の子であっても,認知されれば普通に我が子として扱われたし,後を継ぐことも可能であった.

 だいたい,尊氏だって側室の子である.嫡子が夭折したので,足利家を相続することができたのである.
 つーかそもそも,家系を絶やさないために存在しているのが側室制度ではないか?

 とにかく,尊氏の直冬の嫌い方は尋常ではなかった.
 敵に対しても寛容だと評される尊氏が,自分の子どもに対して異常な憎悪を示す.

 私は,個人が歴史の流れを左右するとはあまり考えない方なのであるが,これは個人的な怨恨が歴史の流れを左右した一例なのかもしれない.

 幼少の頃から寺に預けられて完全に放置されていたのを見かねた直義が,この子どもを自分の養子とし,元服させて自分の名前から一字与えて,「直冬」と改名させた.

 なので,直冬は尊氏の子でありながら,一貫して反尊氏・親直義派として戦うことになるのである.

 直冬は直義の提案で,長門探題に就任し,備後国鞆に赴任する.

 しかし,その後京都で尊氏の執事高師直と直義の対立が顕在化し,結局直義が失脚してしまう.

 直義によって生存を保障されていた直冬の立場も自然危ういものとなり,討伐軍を差し向けられて,九州に没落する.
 ここに直冬と九州の関係が発生することとなった.

 肥後国河尻に上陸した直冬は,九州地方の中小の国人たちを味方につけ,勢力を拡大し始める.
 尊氏にとっては単なる憎悪の対象であっても,九州の武士たちにとっては将軍の血を引く貴種である.喜んで味方になったのも当然であろう.

 これを見た尊氏は,自ら九州に出陣して直冬を討つことを決意する.

 ここで少弐頼尚が,直冬に味方する.
 九州探題一色範氏との潜在的な対立が,直冬の下向と中央の政治情勢の変化によって,ついに顕在化したのである.

 この時期,畠山直顕が日向守護となっており,彼も直義派であった.
 ここに一色範氏は窮地に立たされた.

 これを救うべく,尊氏は出陣し山陽道を西に進んでいたのであるが,畿内で失脚していた直義が挙兵し,京都に進撃したので,尊氏は仕方なく引き返し,直義軍と戦闘を繰り返すが,敗北を重ねる.

 そこでやむを得ず降伏し,腹心の師直兄弟は殺害され,一時的に直義が圧倒的優位に立つ.

 この中央の動向と連動して,九州における直冬の勢力も強大となる.
 関東や東北もそうであるが,このように中央の優劣によって,地方の戦乱の形勢も変わるのである.

 一時的に優位に立った直義であるが,やがて尊氏は勢力を回復し,直義を京都から追い出して関東に追いやる.
 そして,直義を倒すために一時的に南朝に降伏し,南朝方となり,東海道を下って直義軍を撃破し,直義を死に至らせる.

 またしてもこの動きと連動して,一色氏は南朝方と合体し,直冬・少弐氏と戦う.
 申し遅れたが,この頃南朝方は,征西将軍宮懐良親王がトップに君臨し,それを肥後の菊池氏たちが支えるという体制であった.

 なお,この頃には一色氏も筑前・肥前・肥後・日向の守護となっている.
 強力な権限を与えなければ直冬方に対抗できないと見た幕府の判断であろう.

 こうして一色氏は直冬を追いつめ,これに耐えかねた直冬はついに九州を脱出する.
 後に直冬は,中国地方の南朝方を糾合し,京都に侵入して尊氏と最後の死闘を演じることとなるのである.

 奉じていた直冬がいなくなった少弐頼尚は,なおも一色と戦い続ける.
 今度は少弐が南朝方の菊池と連合し,一色に反撃したので,一色氏もついに九州を退去する.

 続きはまた今度.

「はむはむの煩悩」,2007年4月26日 (木)



 【質問】
 これは一色氏は自前の根拠地を持たされなかったということになるんでしょうか・・・(^^;

 【回答】
 ええと,私も今手元に参考文献がありませんもので,うろ覚えで書きますが,九州探題は,確か基本的に軍事指揮権と,わずかに与えられた些少な料所の処分権しかなかったはずです.

 で,配下の武士にそのわずかな料所を給付するわけですが,それすら押領として京都の幕府に訴えられ,直義から敗訴の決定をくだされたかわいそうな判決が残っているほどです.

 確か,護衛の兵士もろくにいないと嘆いていたはずです.
 誇張の可能性を差し引いても,窮乏していたのは事実であるようです.
 一色範氏,かわいそす・・・orz

 ですので,この状況で約20年も九州にとどまることのできた一色氏は,実は相当有能だったのではないかと私は考えています.

「はむはむの煩悩」,2007年4月26日 (木) 02:22〜28日 (土) 00:31


 【質問】
 南北朝時代の九州の勢力図は?

 【回答】
 足利尊氏が建武政権を打倒するために挙兵し,一時は京都占領する勢いを示したものの,やがて北畠顕家軍に敗北して九州に落ち延びてきたとき,少弐・大友・島津の三氏は皆尊氏に味方した.
 少弐頼尚は尊氏軍に合流し,筑前国多々良浜で後醍醐天皇方の菊地武敏軍を打ち破り,尊氏の再上洛→室町幕府開設の決定的な流れを作る.

 島津貞久は,このとき既に60代半ばであったが,高齢を押して尊氏に味方する(ちなみに貞久は,94歳まで長生きする).

 中でも最も大きな代価を払ったのは,大友貞載であろう.
 天皇方の結城親光が,偽って足利方に投降し,尊氏を刺殺しようと狙ったとき,貞載は体を張って親光と刺し違えて死亡する.
 これに感激した尊氏は,以後大友氏には特別に目をかけるのである.

 こうして,室町幕府発足直後の九州守護は,こんな感じとなった.

少弐頼尚:筑前・豊前・肥後
大友氏泰:豊後・肥前
島津貞久:大隅・薩摩
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宇都宮冬綱:筑後
細川頼春:日向

 建武政権から与えられた守護職を引き続き認められた例も多いし,建武政権が島津氏に与えたものの,取り上げられて足利一門の細川頼春に下された日向のような例もあるが,少弐・大友・島津三氏は,鎌倉中期の勢力は回復できなかったものの,守護領国は鎌倉末期の1国のみから2〜3国に増やしているので,まあ足利方に味方した成果はあったと言えるであろう.

 また,守護職だけではなく,恩賞の所領も,特に大友一族を中心に尊氏が多数与えたのである.

 しかし,尊氏が足利一門の一色範氏を新たに九州探題に任命して,九州に残したことは,九州に新たな火種をまくこととなった.

 九州には,肥後の菊池氏が有力な南朝方として抵抗を続けていた.
 菊池氏に対する抑えとしても,探題の設置は必要とされたのであろう.

 また,これより60年前の元寇の脅威も,いまだに強く残っていた.
 足利直義も,大宰府の水城の修理を命じているほどである.

 ほかにも前代以来の悪党対策など,鎌倉幕府が直面して苦しんだ政策課題を,室町幕府も引き続き背負ったと言えるのである.

 いや,南朝との戦乱に発展している分,鎌倉幕府以上に重い十字架を背負ったとも言えるかもしれない.
 政権を担当する者は,今も昔も苦悩するのである.

 というわけで,遠隔地を統治する上でも,九州探題の設置は必須のことであったのだが,これが特に少弐氏に不満を抱かせたことを言うまでもないだろう.

 鎮西探題の北条氏を倒すために建武政権,引き続き室町幕府に味方したのに,一色氏などに威張られては,何のために貢献したかわからないではないか?

 しかし,一色氏も大きな悩みを抱えていた.
 室町幕府は,一色氏をどこの守護にも任命せず(前回も述べたとおり,鎮西探題は肥前を自身の守護領国としていた),権限も大幅に削減して行動に制約を加えていた.

 無論,少弐氏等の不満を考慮しての措置である.

 九州探題の存在は絶対に必要である.
 しかし,探題に強力な権限を与えすぎると,在地の有力守護との軋轢が生じ,かえって権力基盤が揺らぐ.

 鎌倉府もそうであるが,遠隔地の地方統治機関には,強すぎず弱すぎない力を与えなければならない.
 室町幕府は,以降このさじ加減にずっと苦しめられることとなるのである.

 それはさておき,こういう事情もあって,一色範氏の九州経営は,非常に困難なものとなった.
 将棋に例えたら,飛車と角抜きで戦わせられるようなものである.
 これで九州の南朝勢力を殲滅させることなど,ほとんど不可能である.

 範氏が幕府に自ら窮状を訴えた史料が残っている.
 毎日の衣食住にも困る生活だったそうである.
 それで範氏は,通算9度も探題辞任,帰洛を願い出ているが,すべて幕府に却下されている.

 一色も少弐も,このように内心不満を抱えており,潜在的に対立していたが,それでも南北朝初期は,尊氏と直義の二頭政治が比較的うまくいき,全国的に幕府が優勢であったこともあり,この不協和音は顕在化はしなかった.

 しかし,やがて幕府内部の対立が表面化し,足利直冬が九州にやって来てから,情勢は一気に混沌とする.

 それについてはまた今度説明したい.

「はむはむの煩悩」,2007年4月25日 (水)

 九州探題一色氏が九州を退去した後,少弐氏と征西将軍宮懐良親王を擁する南朝方の菊池氏が決戦する.

 これに少弐氏が敗北し,菊池氏が勝利したことによって,懐良親王は九州の首都と言うべき大宰府を占領し,ついで九州全域に勢力を広げる.

 「南北朝内乱」と言っても,ほとんどの地域では南朝の勢力は逼塞し,事実上室町幕府内部の内輪もめが続いていたのであるが,九州地方だけは南朝の勢威が長期間にわたって大いに高まるのである.

 これを見て将軍足利尊氏は,自ら九州に出陣して九州の南朝勢力を撃滅することを決意する.
 しかし彼は,その矢先に病にかかって死去してしまう.

 ついで2代将軍足利義詮の時代,九州管領に任命されたのは,足利一門の斯波氏経である.

 氏経は,大友氏時に支援されて,豊後国から豊前国に進出し,次いで筑前国に向かうが,長者原の戦いで南朝軍に大敗を喫し,九州から追い出されてしまう.

 その後,九州探題には,同じく一門の渋川義行が任命されたが,彼は遂に九州に上陸することさえできなかった.

 このように,義詮時代は,室町幕府は九州には手も足も出なかったのである.

 当時,幕政を主導していたのは,氏経の父斯波高経であるが,こうした九州計略の失敗もあって,斯波政権は次第に弱体化していく.
 この点は,ちょうどイラクの戦後処理に手間取って支持を失いつつあるブッシュ政権と似ているかもしれない.

 3代将軍足利義満の時代になり,細川頼之政権に交代してから,新たに九州探題に任命されたのが,あの今川了俊(貞世)である.

 今川了俊についてはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2007年4月27日 (金)

 前回述べた九州の情勢を簡単におさらいすると,全国的に南朝が衰退する中,九州地方のみは征西将軍宮懐良親王の勢力が全域に大きく伸び,将軍義詮時代,九州に派遣された九州探題はいずれも撃退され,幕府方をまったく寄せつけなかった.

 懐良は,単に九州地方を抑えたのみならず,当時元に代わって成立した明と独自に外交関係を樹立するなど,ほとんど独立国のごとき様相を呈し始めた.
 これはいろんな意味で非常にまずい.

 そこで新将軍義満が応安4(1371)年に新たに九州探題に任命し,派遣したのが,今川了俊(貞世)である.
 彼については,ご存じの方も比較的多いのではないだろうか?

 了俊が探題に選ばれた理由としては,彼が当時の執事細川頼之派の武将であったことも大きい.

 前将軍義詮の後期には,斯波派が政権を掌握し,斯波氏経・渋川義行といった斯波派の武将が探題として派遣された.
 彼らが失敗したこともあって,斯波政権が弱体化し,反斯波派の細川頼之が政権を奪取するに至ったのであるが,政策の成否によって政権が交代するところは,現代の政党政治と共通する部分もある.

 了俊が探題に抜擢されたのは,もちろん細川派だったからだけではなかった.
 それまでに,中央の幕府で引付頭人・侍所頭人・山城守護を歴任するなど武将・政治家として実績があり,有能と評価されていたからである.

 また,幼少の頃から和歌を学び,歌人としても一流で,連歌もたしなむなど,優れた文化人でもあった.

 了俊は幕閣の期待に見事に答え,翌5年には早くも大宰府を陥落させ,7年には肥前国水島で少弐冬資を謀殺した.

 さて,ここでまた少弐氏が出てきた.
 探題の九州経営には,とにかく少弐氏が邪魔なのである.これは,室町幕府発足以来,一貫して存在した構図であった.

 ただ,このとき冬資を謀殺したのは,短期的には失敗だったようである.
 これによって,ずっと幕府に忠節を尽くしてきた島津氏久が造反し,以後了俊の九州計略は以降困難をきわめる.

 しかし,苦難の末に永徳1(1381)年には遂に菊池氏の本拠隈部城と良成親王の本拠染土城を陥落させ,九州全域をほぼ統一する.

 ここに九州地方も幕府の領域に入り,南北朝合一へ向けて大きく前進し,室町幕府の覇権が確立するのである.
 了俊が南北朝後期に幕府に果たした貢献は限りなく大きいと言えよう.

 しかし,応永2(1395)年,了俊は突然探題を解任される.
 中央で細川頼之が失脚し,再び管領が斯波義将に交代していたことや,24年間にわたって探題を務め,強大化した了俊を義満が警戒した事情が大きいともされる.

 九州を制圧するためには,探題の強力なリーダーシップが不可欠である.
 しかし,探題の力が強大化しすぎるのは,幕府にとってかえって都合が悪い.
 権力のパワーバランスというのは,このようにまことに難しいものであるらしい.

 その後の了俊の末路は不遇である.
 最盛期には,九州探題に加えて豊後・対馬を除く九州8ヶ国1島の守護も兼任し,対外交渉も担当していたのが,わずか駿河・遠江半国の守護に落とされ,応永の乱に際しては,義満に反抗した大内義弘と鎌倉公方足利満兼の連携をはかった疑いをかけられ,政界から完全に引退し,余生を和歌・連歌の創作や歌論書・歴史書の執筆活動に捧げた.

 南北朝内乱を足利氏の立場から見て叙述した歴史書『難太平記』は,ご存じの方も多いのではないだろうか?
 武将としても文化人としても大きな業績を残した人である.

 ちなみに,了俊が九州探題だったのは,彼が45歳から69歳までのときであり,その後も少なくとも88歳まで生き続けた.

 年を取ってから大活躍したのも,私が了俊に力づけられるところである.

「はむはむの煩悩」,2007年5月16日 (水)


 【質問】
 南北朝時代の戦争形態の変化について教えられたし.

 【回答】
 南北朝時代には,「軍忠状」という文書があり,現在でも全国各地の多数の武士の家に残されている.
 これは,合戦に従軍し,手柄を立てた武士が,自分の手柄(これを「軍忠」と言う)を具体的に文書に書き記して幕府や守護に提出したものである.
 幕府は,軍忠状に基づいて軍忠を審査し,将軍の感謝状(「感状」)を与えたり,武士が希望する官職を朝廷に推薦したり,ご褒美として新しい土地(恩賞)を与えたりしたのである.
 従って,この軍忠状には,当時の戦争の様子が具体的に記されているので,軍事史研究のための貴重な一級史料となっている.

 軍忠状の研究者によれば,軍忠状を網羅的に収集して,傾向を分析してみると,南北朝時代の戦争のあり方は,観応の擾乱を境として変化しているとのことである.

 南北朝前期・後期ともに,弓矢が合戦の主流の武器であるのだが(これは平安時代武士が出現して以来の一貫した傾向),前期は武士が馬に乗って太刀で斬り合うことも多く(太刀打),太刀で叩き殺されることが多く,戦死率が高い.

 しかし,後期になると,弓の性能が高くなったこともあって,隠れた遠隔地から騎馬の武士を狙撃することが多くなり,武士も戦うときは馬から下りて弓で撃ち合うようになった(これを「野臥合戦」と言う).
 自然に戦死率が減り,軍忠状には代わりに負傷の記述が多くなる.
 同時に,負傷の場所も,頭と足の割合が減少し,胴体を負傷する率が高くなる.

 ちょうど同時代のヨーロッパにおいても,同様の戦術の変化が起こり,騎馬が役に立たなくなったそうである.

 ほかにも当時は集団歩兵が存在せず,歩兵は常に散開していたので,槍による負傷や戦死は極度に低いなど,非常に興味深い事実が多い.

 【参考論文】
境伸太朗「南北朝期の九州における合戦の様相」(『七隈史学』7,2006年)

「はむはむの煩悩」,2007年1月30日 (火)


 【質問】
 足利軍の用兵はどのようなものだったか?

 【回答】
 彼らは,師直の分捕切棄法とか合理性を感じさせる戦術はあっても,奇襲の類のエピソードが一切ない.
 基本的に,相手よりも優勢な戦力を,敵軍がもっとも困るように合理的に運用して,ごくごく常識的な戦略で勝利をおさめたり,南朝方の有力な武将はできるだけ調略で寝返らせたりして損害を最小限に食い止めたり,そういう思想で貫かれているような気がいたします.

 実は足利軍の用兵には学ぶところが多いのではないかと思いますね.

「はむはむの煩悩」,2007年6月28日 (木) 07:19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 九州探題時代の渋川氏について教えられたし.

 【回答】
 応永2(1395)年,今川了俊が解任された後,新しい九州探題には渋川満頼が任命されて赴任した.

 満頼は,将軍義詮時代に九州探題に任命されたものの,九州に一歩も上陸することができなかった渋川義行の子息である.

 満頼の大叔母である幸子は義詮の正室であり,満頼は斯波義将の娘婿でもあり,渋川氏は足利一門の中でも格が高い家であった.

 当時,斯波義将が管領を務めており,彼が当然のごとく斯波与党であったことが,この人事の大きな要因であった.

 満頼は,本拠を博多に置いて豊前・肥前・肥後の守護を兼任し,一族で九州を統治しながら,一方で朝鮮と活発な通交を行い,室町幕府外交権の一部を担っていた.
 この時期は北山殿義満の時代で,室町幕府の最盛期であり,九州探題も全盛期と言うか,もっとも安定していた時期であると言えよう.

 こうして九州探題は,満頼から子息義俊へと継承されるが,応永32(1425)年,少弐満貞が蜂起する.

 またまたまた少弐氏である.
 探題が一色氏であろうが今川氏であろうが渋川氏であろうが,探題と少弐氏との確執は,構造的に再生産される宿命であったと言えるのである.

 これに義俊は敗北して博多を没落し,探題は従兄弟の満直が継承する.

 従来は,これ以降九州探題の勢力は急速に衰え,東肥前の局地的勢力に転落してしまうとする見解が主流であった.
 確かに大きな流れで見れば,探題の衰退は否めない事実なのであるが,最近出された研究では,中央の幕府政治の動向とも関連づけて,上記の定説的見解が再検討されている.

 次回は,この最新の成果を踏まえながら,その後の九州探題渋川氏について簡単に紹介したい.

「はむはむの煩悩」,2007年5月20日 (日)
青文字:加筆改修部分

 応永32(1425)年に始まった少弐氏と九州探題渋川氏の紛争は,数年間続いたようである.

 正長1(1428)年,室町殿義持が病死し,周知のように足利義教が籤引きによって義持の後継者に選ばれて室町殿となる.

 義教は,御前沙汰始,奉公衆整備等の幕政改革を進めていくが,当然戦乱が続く九州にも,意欲的に改革の手を伸ばした.

 まず,永享1(1429)年に,少弐氏の筑前守護を解任し,筑前を幕府料国とする.

 幕府料国というのは,要するに将軍直轄国である.
 信濃・日向・安芸など,通常の守護では統治しきれない不安定な国が,一時的に料国となる傾向がある.
 今回の筑前の場合は,守護少弐氏自身が幕府に敵対したので,料国とされたのである.

 料国の代官として派遣されたのは,周防・長門と豊前守護であった大内盛見であった.

 こうして,鎌倉以来の九州の雄である少弐氏・大友氏と,九州にとっては南北朝期以降の新興勢力である渋川氏・大内氏が激突することとなる.

 どこまで時代を下っても,中央の代官的勢力と,在地の勢力の対立構造は基本的に継続されたようである.

 ただ,この時期,軍事指揮権は大内氏がほとんど独占しており,探題渋川氏は軍事指揮系統からは除外されていたようである.

 また,この頃義教の下で鎮西ならびに唐船奉行が設置され,探題が有していた外交権も将軍に移される.

 こうして見ると,義教の政策意図はあきらかであろう.
 大宰府を有し,九州の首都とでも言うべき筑前を直轄化し,腹心の武将に統治させ,外交権も将軍が有する.
 九州探題の権限をできるだけ弱めて,将軍の九州に対する影響力をできるだけ強化する.

 当時,全体的に将軍親裁権を強化する方向で改革が進められており,九州政策も,その流れに位置づけることができるのである.

 従来は,渋川氏が軍事的に敗北したことによって衰退したと単純にとらえられていたが,中央の幕府の政策と密接に関連した現象であったとする見解が最近出されている.

 ところが永享3(1431)年,頼みの大内盛見が戦死してしまう.
 盛見は,大内弘茂が幕府に大内氏当主として指名されたのに,反乱を起こして弘茂を滅ぼして,強引に実力で幕府に認められた人物であり,決して弱い武将ではないのだが,それを倒すとは,本当に少弐氏はしぶとい勢力である.

 その後は,大内持世が後を継ぐが,渋川氏を幕府中枢から排除した形での将軍権力強化政策を断念した幕府は,渋川氏に軍事指揮権をふたたび与える.
 足利氏につながる渋川氏の貴種としての血統も,幕府の九州統治に必要不可欠と判断されたのであろう.

 探題の所領は,肥前東部に集中していた.
 鎌倉幕府の鎮西探題も,肥前守護を兼任していたので,肥前に所領を集積していたと推定される.
 その所領を,室町幕府の九州探題も基本的に継承したのではないだろうか?

 従来は,探題は肥前東部のごく狭い地域に押し込められた弱小勢力に転落したと評価されていたのであるが,ここは現代でも高速道路のジャンクションが存在するなど,交通の要所であり,大宰府のある筑前や物流拠点のある筑後にも近く,実際は九州の心臓部をがっちり掌握していたと言えるそうである.

 ただ,義教〜義政期にかけて探題であった渋川教直期には,肥前は守護不設置国とされていたと推定されている.

 探題に肥前守護を兼任させると,探題の力が強大化し,今川了俊期ほどではないにしても,かえって幕府にとって脅威となる.
 しかし,かと言って別人を守護に任命すると,渋川氏が肥前守護配下の国人となってしまい,軍事指揮系統に矛盾と混乱が生じ,九州争乱の基となる.

 九州探題は絶対に必要な存在であるので,探題に強すぎず弱すぎない権限を与えるのに,幕府はこのように最後まで非常に苦慮したのである.

 こうして,渋川氏は大内氏との協調を軸として,肥前に強固な地盤を有して,公式な軍事指揮権を行使しながら,衰退を続けながらも16世紀半ばまでしぶとく生き残るのである.

 最後まで探題領であった筑前国姪浜(ここは中世にチャイナ・タウンが存在したと考えられている港湾都市でもあった)には,「探題塚」があり,最後の探題が自害したとき,赤い血ではなく白い汁が流れ出し,以後村人が瘧の病に効く「探題さま」として祀っているそうである.

 九州探題は,遂には神となり,信仰の対象となったのである.

 【参考文献】
黒嶋敏「九州探題考」(『史学雑誌』116―3,2007年)

 【追記】
 mixiの方でご指摘がございましたので,追記いたします.

 伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』によりますと,大内盛見は50騎ほどの家臣と猿楽見物をしていたところ,菊池勢500騎に奇襲されて,ろくに応戦できないまま切腹したそうであります.

 貞成は「名将犬死の条,殊不便不便」(盛見のような名将が犬死にしてしまうなんて,とても不憫なことだ)と嘆いており,油断による戦死だったようです.

「はむはむの煩悩」,2007年5月23日 (水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 管領・関東管領の役割は?

 【回答】
 このブログの歴史関連のエントリーは,実は基本的にだいたいmixiに書いた日記を再掲したものである.

 まずそこで下書きのような感じで書いて,マイミクの方々にご意見やご感想をいただき,誤りなどを訂正して,加筆修正の上,ブログに再掲する.ここ最近は,ずっとそういうやり方で運営している.

 いつもご意見や知識をご教示くださるマイミクの中に,私と同業の日本中世史の研究者である,御座候さんという方がいらっしゃる.

 その方もご自分のmixi日記に歴史の記事を書いておられるのであるが,一般の方にも非常にわかりやすく,おもしろいと思われる記事があったので,今日はご本人のご許可をいただいて,それを全文ここに掲載させていただこうと思う.

 御座さん,ご快諾いただき,どうもありがとうございます.

〜〜〜引用開始〜〜〜

南北朝〜室町時代,関八州+伊豆・甲斐を支配した広域行政機関,
鎌倉府.
そのトップは鎌倉公方足利氏であり,補佐役=ナンバー2は関東管領上杉氏でした.

上杉氏は藤原北家勧修寺流藤原氏の流れで,実務官僚として朝廷に仕える貴族でした.鎌倉幕府6代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時,親王に従って鎌倉に下向したのが,上杉氏の祖,藤原重房です.その子頼重の女清子が足利貞氏に嫁して,足利尊氏・直義を生んだことで,足利氏と密接な関係を持つようになりました.
 
上杉頼重には,重顕・顕成・憲房らの子がいて,特に憲房は元弘の乱から南北朝の動乱にかけて足利氏を助けました.

憲房の子,憲顕が鎌倉公方足利基氏の補佐役として,初代の関東管領になって以来,関東管領は代々上杉氏が就任することになりました.


 この上杉氏,政治はもちろん,戦争もなかなか上手という,非常に有能な一族なのですが,お公家さん出身からか,結構繊細.
 歴代の関東管領の多くは,
 激務と精神的重圧に苦しめられています.根が真面目なのが災いしてか,明らかに寿命を縮めています.

上杉朝房(犬懸)
 上杉憲房の孫.
 応安元年に平一揆の乱を鎮圧するが,多くの人を殺してしまったことを思い悩む.
 同3年,突如,関東管領を辞任し,上洛.以後の消息不明.

上杉能憲(山内)
 上杉憲顕の子.
 晩年は報恩寺建立に心血を注ぐ.
 永和2年,病を理由に関東管領を辞任するが,鎌倉公方足利氏満の再三の要請により復帰.
 同4年に病没.46歳.

上杉憲春(山内)
 上杉憲顕の子,能憲の弟.
 康暦元年,康暦の政変に際して,室町将軍足利義満と鎌倉公方足利氏満との板挟みになり,自害.

上杉憲方(山内)
 上杉憲顕の子,能憲・憲春の弟.
 永徳2年正月,小山義政を許そうとする室町将軍足利義満と義政討伐に固執する鎌倉公方足利氏満との板挟みになり,関東管領を辞任.
 義政誅殺後の同年6月に復帰.
 明徳3年,病により関東管領を辞任.
 応永元年,病没.60歳.

上杉憲孝(山内)
 上杉憲方の子.
 父の後を継ぎ関東管領に就任.
 翌々年の応永元年,病により関東管領を辞任.
 応永3年,病没.26歳.(過労死?)

上杉朝宗(犬懸)
 上杉朝房の弟.応永2年就任,応永12年辞任.

上杉憲定(山内)
 足利満隆と上杉氏憲の陰謀により応永18年失脚,翌年病没.38歳.
(精神的ショックによる衰弱死?)

上杉氏憲(犬懸)
 上杉朝宗の子.法名禅秀.
 鎌倉公方足利持氏と対立し応永22年に関東管領辞任.
 同23年に謀叛を起こし鎌倉を占領するも,幕府軍の追討を受け敗退.
 同24年に自害(上杉禅秀の乱).

上杉憲基(山内)
 上杉憲定の子.
 上杉禅秀の乱を鎮圧するも,直後に関東管領を辞任して伊豆国三島に隠遁.
 翌年病没.27歳.(過労死?)

上杉憲実(山内)
 上杉憲基の養子.鎌倉公方足利持氏を再三諫めるも,かえって討伐の兵を差し向けられ,永享10年,鎌倉を退去し上野に下向.幕府軍と協力して持氏方を破る(永享の乱).
 憲実は将軍足利義教に対して持氏の助命嘆願を行うが,聞きいれられず,翌11年,持氏を自害に追い込む.
 良心の呵責に苛まれた憲実は関東管領を辞任し,家督を弟の清方に譲って出家,伊豆の国清寺に隠棲する.
 翌12年,持氏遺児を擁して結城氏朝らが挙兵すると,幕府の要請に従って俗界に復帰し,反乱軍を鎮圧する(結城合戦).
 結城合戦後は再び隠居を幕府に請願し,次男竜春(房顕)に京都奉公をさせ,他の子息は全て出家させ,鎌倉府の政治に関わらせないようにした.所領も佐竹実定に譲ろうとした.
 幕府は綸旨を発給してでも憲実を慰留しようとしたが,それが不可能と知ると,憲実の息子である竜忠を還俗させ(憲忠),関東管領に任命した.これに激怒した憲実は憲忠を義絶した.
 自身は諸国放浪の旅に出て,10年以上の遍歴の末,長門国で死没した.享年57歳.

 上杉禅秀は別として(笑),彼らは権謀術数の世界を生きていくには,あまりにも誠実で律儀すぎたのでした……

〜〜〜引用終了〜〜〜

 これまで私はたびたび,管領や関東管領を,それぞれ将軍や鎌倉公方の「補佐役」と説明してきた.

 それは確かに間違っていないし,御座さんもそのようにご説明されているのであるが,管領・関東管領にはもう一つ,
「将軍や公方権力の暴走を抑制する」
という重要な役割があったことも見落としてはならない.

 足利氏というのは,代々基本的に暴君である.

 だから京都の幕府でも,将軍と管領はしばしば衝突し,管領辞任に発展しているのであるが,鎌倉の方は京都以上に公方と管領の不協和音が大きかったようである.

 これは,鎌倉公方が京都の将軍に対してたびたび対抗の意志を示したので,関東管領が彼らの暴走を抑えようとした結果の反映であるのだが,それにしても管領というのは本当に大変な立場だったと思う.

「はむはむの煩悩」,2007年4月22日 (日)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 その意味では,関東から公方様を北条氏が絶滅した後の長尾景虎(上杉謙信)が関東管領になった頃は随分楽になってたんでしょうね.

 【回答】
 享徳の乱以降は,関東管領は鎌倉公方を補佐しなくなりますからね.
 公方の暴走を食い止めるという意味での苦労はなくなると思います.

 ただ,上杉氏自体が山内・扇谷で対立しますし,後北条氏も台頭してくるし,彼ら自身の補佐役であった長尾氏と対立を深めますから,苦労の中身は変わっても,大変だったでしょうね.

「はむはむの煩悩」,2007年4月23日 (月) 00:40
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 室町時代の左遷的官職は?

 【回答】
 大宰府は,中国や朝鮮といった外国との直接交渉窓口であり,国土防衛の最前線でもあり,重要な組織であるわけですけど,一方では大宰権帥は左遷の職でもあるんですね.

 そう言えば,六波羅探題も,鎌倉幕府の西国統治機関で,一応は北条氏の出世コースだったわけですが,一方では「アウェー」である西国で困難な判断を任されることが多く,「左遷」とまではいきませんでしたが,北条一門の多くが探題に就任することを忌避したがっていたそうです.

「はむはむの煩悩」,2007年5月21日 (月) 18:20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 足利将軍の暴君性も,本人達の資質というよりも時代が彼らをしてそうさせたという面が大きいと思えるのですが・・・.

 【回答】
 確かに,現代と異なって,管領や侍所頭人といった一部の例外は別として,権力を失うことが即生命と財産の侵害に直結した時代ですからね.
 敵はできる限り根絶やしにしてしまわないと,今度は自分がやられてしまいますから.

 ただ,そういう時代状況だったからこそ,上杉憲実のような,やむを得なかったとは言え,主君を殺した自分の所業を悔やみ,幕府の再三にわたる慰留にもかかわらず,地位と財産をすべて捨てて諸国放浪の旅に出た人物がますますきわだって見えますよね.

「はむはむの煩悩」,2007年4月25日 (水) 16:04
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 足利義満(1358-1408)は源氏,つまり,元を辿れば皇族出なのに,なぜ皇位簒奪を狙ったとされるんですか?
 つまり足利義満が天皇になっても,万世一系は維持可能では?

 【回答】
 義満が皇胤であることは間違いないのだけど,彼の家系は源氏となってすでに幾代も重ねており,臣下の家として固定していたので,皇統を継ぐ資格はないとされていた.

(日本史板)


 【質問】
 細川頼之とは?

 【回答】
 貞治6(1367)年,室町幕府2代将軍足利義詮が,わずか38歳の若さで急死した.

 初代将軍尊氏と彼の創業の苦労により,幕府の政権基盤は徐々に固まりつつあったが,衰えたりとは言え,南朝の勢力はまだまだ健在で,予断を許さない状況であった.

 こんなとき,リーダーの想定外の死去.
 後継者の義満は,まだ9歳の少年に過ぎず,到底幕府を指導する能力はない.

 この突然沸き起こった幕府の危機に,新しく管領に就任し,難局の打開にあたったのが,細川頼之なのである.

 細川氏は,足利一門で,鎌倉時代から代々足利氏に仕え,頼之の父祖も尊氏・義詮に従った歴戦の勇士である.

 彼の父・頼春は,室町幕府の侍所頭人を務め,正平7(1352)年,南朝軍が京都に突入したとき,七条大宮で壮絶な戦死を遂げた.
 また,頼之自身,従兄弟の細川清氏が幕府を裏切って南朝に寝返ったとき,讃岐で彼と戦って倒したり,中国管領として,山陽方面の軍政を担当したこともある.

 管領就任時は38歳.
 まさに,脂の乗り切った時期の登用であった.

 言うまでもなく,頼之の使命は,室町幕府の政権基盤をさらに強化し,覇権を確立して朝廷が2つに分裂している南北朝の状態を終結させることである.
 そのために,彼は獅子奮迅の大活躍をすることとなる.

 まず,将軍義満の幼少という非常事態のために,恩賞充行・所領安堵・裁判といった,本来は将軍が行使していた重要な権限を,将軍に代わって代行する.

 応安1(1368)年,就任早々彼が制定した一連の幕府追加法は,後世「応安の大法」と呼ばれ,室町幕府政治の基本方針を確立した法令であった.
 言うまでもなく,公正と正義に基づいた法治政治を目指すものである.

 ついで,名将今川了俊を九州管領に任じて,九州を平定するために派遣する.
 九州は,長く征西将軍宮懐良親王が支配しており,南朝の完全制覇する地方であった.
 軍事的にまったくふるわなかった当時の南朝においては,本拠地の近畿地方南部と並んで例外とも言える地域であり,幕府も九州の制圧を目指していたものの,長く果たせなかったのである.
 尊氏が,死の病と闘いながら九州遠征の準備を進めていたが,果たせずに死去したことは,割と有名なのではないだろうか?

 了俊は頼之の期待に見事に応え,いくつかの戦略的ミスを犯したりして,きわめて苦戦したものの,遂に南朝勢力を九州から駆逐することに成功する.
 最大の功績は無論,了俊に帰すべきであろうが,彼の武将としての資質を見抜いて,九州管領に抜擢した頼之の政治的力量も,高く評価するべきであろう.

 そして,彼の最大の功績と言えるのは,南朝の軍事的柱石であった楠木正儀を,北朝に寝返らせたことであろう.
 正儀は,あの伝説の忠臣楠木正成の子であり,同じく四条畷で高師直に倒された正行の弟である.
 父と兄の戦死後,楠木氏のリーダーとなり,南朝の本拠地であった奈良県南部・大阪府をがっちり抑え,幕府の侵攻を長年よく防いできた.
 2度ほど幕府の内紛に乗じて京都を占領したこともある.
 しかしながら一方では,朝廷が分裂している状況が,日本にとって有害無益である現実もよく認識しており,南朝の中では積極的な講和推進派でもあった.

 頼之は彼を説得して,幕府に帰参させたのである.
 彼の降伏によって,幕府と南朝のパワーバランスが大きく幕府に偏って,合一へ大いに前進したことは,言うまでもない.

 ほかにも,伊勢・越中といった「南朝王国」に対しても,積極的に軍事行動を起こして,幕府の勢力を拡大したのである.

 このように,内政面・軍事面で多岐にわたる活躍をし,多大な業績を残した頼之であるが,めでたしめでたしのいいことづくめではなかった.
 物事には,必ず負の側面がある.
 彼の治世は,一方では幕府内部に不協和音が絶えず,陰湿な権力抗争が渦巻いた歴史でもあった.

「はむはむの煩悩」,2005.12.29 Thursday


 【質問】
 管領細川頼之時代に起きた紛争の原因は?

 【回答】
 幼少の将軍義満に代わって管領として将軍権力を代行し,内政面・軍事面で多大な成果を挙げた細川頼之であるが,一人の人間が,長く政権を握っていると,どうしても負の側面が増大しがちである.
 古今東西,ありとあらゆる政治権力にその法則は当てはまるが,頼之の場合もまた,例外ではなかった.

 しかもこの管領という職は,特に権力が集中するので,過度の権力増大の問題は常に深刻であったらしい.
 室町幕府初期は「執事」と呼ばれていたのだが,そのころの執事であった高師直や細川清氏も,専横をきわめたと糾弾され,結局は失脚して殺害されている.

 また,義満もいつまでも子どもではない.
 頼之の養育の成果もあって,立派な青年となり,徐々に大将軍への道を歩み始めていた.

 こうなると,頼之に不満を持つ守護大名たちは,当然反頼之派を結成する流れになる.
 このとき,反頼之のリーダーとなったのは,彼の前任者,斯波義将であった.

 こうして守護たちは細川派・斯波派に分裂して党派抗争を行うのであるが,注目するべきは,この対立の構図は,このとき急に現れたのではなくて,幕府発足当初から連綿として存在していたのである.
 細かな例外は当然存在するが,細川派のメンバーの大半は,かつて将軍尊氏を支持したグループであり,斯波派は尊氏の弟直義の党派であった.

 かつても守護たちは,尊氏派・直義派に分裂して,観応の擾乱という内訌を演じたのであるが,その構図は,両者の死後も基本的に存続しているのである.
 おれは,この対立は,基本的に応仁の乱まで続いたのではないかと考えている.

 それはともかく,斯波派は体制内野党として,しばしば頼之を強く牽制したのであるが,頼之を悩ませたのは,武家内部の敵だけではなかった.
 禅宗寺院もまた,彼と鋭く対立したのである.

 頼之は個人としては,篤く仏法を敬い,殊に禅宗を崇敬し,寺院も建立した人であるが,それと政治家としての立場はまた別である.
 仏教勢力,特に禅宗系を,幕府の強力な統制下に置く政策を推進していたのである.

 しかし寺社勢力は,もともと自治の気風がみなぎっており,こうした権力者の統制を非常に嫌っていた
(ま,この時代は,寺社も権力なんだけどね).
 強力な統制政策を推進する頼之に,ただでさえ不満が鬱屈しているところへ,勃発した事件が,応安2(1369)年の「南禅寺楼門破却事件」である.

 この事件の詳細な経過は複雑なので省略するが,要するに,幕府が結果的にせよ,禅宗寺院と伝統的に対立していた比叡山の強要に屈服して,建設中の南禅寺の楼門を破壊し,礎石まで抜き去った事件である.

 頼之は,禅宗に過酷な支配を行うくせに,いざと言うときは頼りにならず,権益を守れないヘタレである――このイメージを幕府内外に植えつけたのは,彼の大きな失点であった.
 これを機に,禅宗は斯波派と結びついて,頼之を苦しめることとなる.

 しかし彼をもっとも悩ませたのは,楠木正儀問題である.
 正儀の幕府帰参は,確かに大局的に見れば,動乱終結への大きな一歩であったが,局所的には,幕府方・南朝方双方に深刻な不協和音をもたらすものであった.
 おたがい,相手は何十年も憎悪して戦ってきた宿敵である.
 それが突然講和です,仲よくしましょうと言っても,双方に収まらない勢力が出てきても,何ら不思議ではない.

 まず,正儀の家臣たちが,彼の幕府帰参に憤激して河内・和泉両国で一斉に蜂起した.
 対して頼之は,弟頼基を総大将にして,幕府の大軍を差し向けたが,もともと頼之に反発しているのに加え,なぜ俺たちが正儀などを助けなければならないのだと不満を抱いているからサボタージュしまくって,一向に作戦が進行しない.
 ぶちぎれた頼之は,管領を辞めて出家すると言い出して,寺に引きこもる始末.
 これは将軍義満が自ら彼を訪問し,説得して慰留に努めた結果,辞任を断念させることに成功し,畿内南軍もなんとか制圧できたのである.

 まるで,現代の政治家が辞任をちらつかせて求心力を維持する手法とまったくいっしょだが,頼之は,このような「辞任カード」を再三使ったらしい.
 このような手法は短期的には効果はあるだろうが,何度もこれに頼らざるを得なくなっていること自体が,政権が弱体であることを如実に示している.

 こうして,頼之政権は徐々にレームダック化していき,ついに康暦1(1379)年,2度目の南朝軍蜂起をきっかけとした斯波派のクーデタによって,彼は管領辞任に追い込まれ,自宅を焼き払って根拠地四国へと没落するのである.

「はむはむの煩悩」,2005.12.30 Friday


 【質問】
 細川頼之は中央政界失脚後,どのように自領を防衛したのか?

 【回答】
 康暦の政変で細川頼之が没落した後の幕府では,斯波義将が管領に就任した.
 彼も義詮時代の末期に執事を罷免されて追放されて以来,13年ぶりの政権奪回であった.
 これによって,幕府内部の勢力図が変化し,細川派の大名が,以降は野党として与党斯波派を牽制することになるのである.

 楠木正儀は,頼之の失脚と同時に幕府を離れ,ふたたび南朝方に転じた.
 彼の幕府帰参を推進したのが頼之であるとともに,彼がいかに幕府内で疎まれていたのかが,この事実からも窺えるであろう.
 彼もまた,足利氏の身勝手な都合に翻弄された悲劇の人であった.

 管領が義将に代わったとは言っても,彼の政治は,頼之の政治をそっくりそのまま踏襲するもので,基本的には何ら変化はなかった.

 えっ,所領安堵に管領施行状が出されるようになった?
 それはこないだ出した論文で,おれが発見したことだ.

 いずれにせよ,斯波に政権が交代しても,細川の敷いた基本路線の上を,基本的に踏襲して発展させる政治であったということは,言えるのである.
 ただ,頼之が推進した,禅宗寺院を幕府の強力な統制下に置く政策は変更され,僧録という機関が設置され,僧侶の自治を尊重する間接的で緩やかな支配に改められた.
 これは,斯波の政策の方が現実的に有効で妥当であったようである.

 さて,四国に没落した頼之には,早速討伐軍が編成され,追討の兵が向かった.

 しかし頼之は,以前自らが倒した従兄弟清氏の轍は踏まず,一族で団結して防衛にあたり,攻撃軍をいっさい寄せつけなかった.
 それどころか,逆に伊予に攻め込んで,伊予守護河野通直を戦死させ,かえって細川氏の勢力範囲を広げる始末であった.

 これは,細川氏が長年一族で守護として四国の経営にあたっていたために,がっちりとした勢力基盤を培っていたことも大きいが,最大の理由は,将軍義満が細川の討伐に非常に消極的で不熱心であったことである.

 義満は,幼少であった自分を養育してくれ,自分に代わって幕府を指揮して,多大な業績を挙げた頼之に対し,厚い恩義を感じていたのである.
 義満は,その傲岸不遜な性格ばかりがよく強調されるが,一方では幕府の宿老には丁寧で礼節のある態度を崩さなかったなど,礼儀正しい側面も指摘されている将軍である.

 そして,政変からわずか2年後の永徳1(1381)年には,弟頼元が上洛し,早々と細川氏は赦免された.
 依然,細川氏は野党であったが,少なくとも逆賊として追討されることはなくなったのである.

 その後,義満の政策課題は,土岐・山名といった斯波派の大名の勢力を削減する方向に向かう.

 当然,義満と義将もたびたび意見が衝突するようになるが,そのとき義将が使ったのが,なんと前任者頼之もたびたび使った「辞任カード」である.
 結局,時代が違っても,権力者のやることは,どこでもだいたい同じようである

 康応1(1389)年,義満は政情視察も兼ねて,安芸の厳島神社に参拝するが,このとき将軍の旅行をすべて準備したのは頼之である.
 義満は,人を退けて頼之と二人きりで語り合い,昔日の貢献を頼之に感謝したのである.

 明徳2(1391)年,義将は遂に管領を辞任し,分国越前に下向した.
 斯波派の山名氏を抑圧する将軍の政策に,遂に耐え切れなくなったのである.

 これと入れ替わるようにして,頼之は12年ぶりに上洛する.
 彼はもう出家していたので,管領に就任することはできなかったが,頼元を管領とし,実質的に管領として幕府を指導し,老体に鞭打って義満の山名氏弾圧政策を補佐する.

 山名氏は,一族で11ヵ国もの守護を占め,「六分の一衆」などと言われてパワーバランス的に幕府の大きな脅威となっていたので,これに打撃を与える必要がぜひとも存在したのである.

 義満は,幕府軍全軍を率いて,当時「内野」と呼ばれていた平安京の大内裏跡地の原っぱで山名軍を迎え撃ち,これを撃破する.
 室町幕府の覇権が確立した瞬間である.

 頼之はこれを見届けて,翌年63歳で死去するのである.
 彼の死の数ヵ月後,遂に南北朝は合体して,南北朝の動乱が終結する.
 彼の大望は,ついにかなえられたのである.

「はむはむの煩悩」,2006.01.01 Sunday

 つまり,頼之は,1度は失脚して追放されたものの,そのまま滅亡せずに,弟の頼元が管領に復帰する形で,政権を奪還したのである.

 しかも,失脚しても滅びなかったのは頼之だけではない.
 彼の政敵の斯波義将も,何度も管領に就任して幕政を主導したのである.
 康暦の政変によって,頼之を追放して管領に就任したのにしてからが,すでに2回目の管領就任なのであるが,明徳の乱で山名氏に打撃を与えて,南北朝合一が達成された後の明徳4(1393)年にも管領に返り咲いて,5年間にわたって政権を担当している.

 義将はさらに応永16(1409)年に,4代将軍義持の治世下においても,朝鮮外交のために子の義重に代わって管領に抜擢され,合計4度も管領を務めるのである.

 話は前後したが,応永5(1398)年には,義満は畠山基国を管領に採用する.
 これは,畠山氏から初めて就任した管領であるが,以降,細川・斯波・畠山の3氏によって交代して管領が務められ,応仁の乱まで続くのである.

 頼之は,このような「三管領」の慣習を定着させた政治家としても特筆するべきであるが,よく考えれば,前近代の世界で,このような敗者復活の機会が与えられていた政治体制というのは,きわめて稀なのではないだろうか?

 奈良時代以前は,長屋王,藤原仲麻呂,道鏡等の例で見るように,失脚した者は必ず殺されるのが普通であった(道鏡は下野国分寺に左遷であるが).

 平安時代は,源為義で死刑が復活されるまで,政争で敗れた者の命を奪うことはほとんどなかったが,それでも政権を奪回するなどという例は,ほとんど皆無であったろう.
 だいたいは,辺境に左遷されて,その憤懣を歌に詠んで歌集に入れられるというパターンではないだろうか?

 鎌倉幕府の歴史も,源頼朝の時代から,血で血を争う戦乱と粛清の時代であった.
 頼朝も,弟の義経をはじめとして,数え切れないほどの一族や家来を殺したし,執権北条氏も,多くの政敵を葬り去った.
 めぼしい政敵がいなくなった後は,一族で殺しあうほどであった.

 初期の室町幕府だって,事情は同じだ.
 尊氏も弟直義を殺したし,何度も言うように高師直,細川清氏といった歴代執事も最後には殺害されている.
 斯波義将の父高経も,最後は越前で幕府軍に包囲されたまま,病死している.

 このように,前近代では,いや,現代においてさえ,多くの国々では権力を失った政治家は,失脚して殺害されるのが普通であるのに,全盛期の室町幕府だけが,政権を失っても,生命と財産は保護され(基本的に,守護職まで奪われるわけではない),しかも復活のチャンスまで与えられていたのである.
 しかも,それは偶然による産物ではなく,ほとんど慣習による事実上の「制度」としてでなのである.

 これは,選挙による民意を問うシステムが存在しないだけで,実質的には政権交代のルールが確立している近代の政党政治に,きわめて近かったのではないであろうか?

 このような慣習の下で,室町幕府の政治は,非常に安定して効率よく運営された.

 将軍の権力を,管領が補完しながらも程よく牽制してセーブする.
その管領には,常時政権交代可能な守護勢力が健全な野党として監視役を務めており,管領に権力が集中しすぎて極度に腐敗しないように,定期的に交代することで自浄作用を果たす.

 18世紀のイギリスの政治家バークは,保守思想の根本の核の一つとして,「権力の相互抑制機能」を挙げたが,この時期の室町幕府は,そうした抑制の装置が実によく働いていたと言える.

 そして,このようなハイレベルな政治が,14〜15世紀の極東の島国で展開された事実に,おれは強い驚きを覚えるのである.

 明治維新後,日本は驚異的なスピードで欧米流の議会政治を導入し,いち早く政党政治を定着させたが,こんな急激な改革ができたのも,もともと日本人が「権力の分散」というものを,骨髄から理解していたためで,その起源は室町時代に求められる,
 おれは個人的にそう考えているのである.

「はむはむの煩悩」,2006.01.02 Monday


 【質問】
 南北朝合一までの経緯は?

 【回答】
 観応の擾乱以降の室町幕府は,北朝の弱体化した権威に頼ることができなくなった分,幕府内部の改革を次々と断行して,強力な実力を保有する政権に生まれ変わる.
 それまでは基本的に鎌倉幕府の猿真似に過ぎない政権であったのだが,擾乱を契機として,ようやく室町幕府らしい特色を持った政権へと変貌を遂げるのである.

 こうして北朝と幕府は勢力を回復し,後光厳の親政も軌道に乗り始める.

 ところが,ここでまた困った問題が発生したのである.
 南朝に拉致されていた北朝の3上皇と廃太子直仁が,政治交渉によって京都に戻ってきたのである.

「はむはむの煩悩」,2006.10.14 Saturday

 延文2(1357)年2月,光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁が,幕府との政治交渉によって,京都に戻ってきた.
 ところが,前回も述べたとおり,この時期,北朝ではすでに後光厳天皇が即位しており,親政を開始していた.

 本来は,後光厳の兄である崇光が,北朝の嫡流である.
 崇光の弟である後光厳は,もともと出家を予定されていた天皇であり,本来は皇位につくべき人物ではないというのが,崇光サイドの認識であった.

 そこで当然,崇光サイドは皇位を後光厳から取り戻そうとして運動を始めることとなる.
 廃太子直仁は,父花園法皇が住んでいた萩原の御殿に住み,「萩原殿」とか「萩原宮」と呼ばれ,応永5(1398)年まで存命するが,皇位奪回運動に参加した形跡はないようである.
 一度廃太子となった親王は,ふたたび皇位を望むことができなかったのであろうか?

 いずれにせよ,直仁には子どもがいなかったために,血統としては花園系は断絶してしまう.
 崇光サイドではこの後,崇光の子息,栄仁親王を皇位につけようと画策することとなる.

 ここにおいて北朝は,嫡流の栄仁親王と後光厳天皇の2系統に分裂する事態となった.
 かつて鎌倉後期の大覚寺統が,兄の後二条系(木寺宮)と弟の後醍醐系に分裂したのと,同様の現象が発生したのである.

 栄仁親王は伏見の御殿に住み,「伏見殿」と呼ばれ,後世伏見宮初代の親王とされた人物である.
 血筋としては崇光上皇の嫡子であるが,理念的には花園法皇−萩原宮直仁親王の流れを継承するものと考えられていたらしく,実際伏見宮家は,萩原宮の遺領を継承することになるのである.

 応安4(1371)年,後光厳天皇が譲位することとなった.
 崇光系にとっては,皇位を奪回する絶好のチャンスである.

 当時,室町幕府は,管領細川頼之が幼少の将軍義満に代わって将軍権力を代行していたが,幕府の下した判断は,栄仁ではなく,後光厳の子息緒仁に皇位を継承させるとするものであった.

 そして幕府の判断どおりに,緒仁が即位した.
 これが,後円融天皇である.

 筋論で言えば,嫡流である栄仁を天皇にするべきであろうが,どうして幕府はこのような判断を下したのであろうか?

 一つには,幕府が主体的に擁立し,観応の擾乱以降の苦楽を共にした後光厳系を尊重したという理由もあるだろうが,もっと大きな本質的な理由としては,このとき幕府は,事実上「両統迭立」の原則を放棄したのではないだろうか?

 「両統迭立」とは,一言で言えば,「兄弟・従兄弟で皇位を継承していく制度」のことである.
 兄弟で天皇位を回すから,皇統が分裂し,双方自分の子孫に相続させようと譲り合わず,混乱になる.
 その状況が続けば,世代を経るごとにさらに皇統が分裂し,さらに問題が複雑化し,深刻化する.

 ただでさえ困難な状況下で,後醍醐のような天皇が現れて,暴力的手段で皇位の独占を目論めば,日本国を二分する深刻な内乱が発生しかねない.
 すべて今まで見てきたとおりである.

 両統迭立は,いつかはやめなければ,構造的に天下大乱の基を永遠に再生産することとなってしまうのである.
 だから幕府はこの時,皇統を後光厳系に一元化し,親子で相続することを原則化することで,その問題の解消をはかったのではないだろうか?

 と考えると,後円融の即位は,日本史上非常に大きな意義を有することとなるのである.

 永徳2(1382)年には,後円融の子息幹仁が即位して,後小松天皇となる.
 このときも,栄仁は天皇になることができなかった.

 この後小松天皇の下で,明徳3(1392)年に南朝の後亀山天皇が退位し,南北朝合一が成立し,ようやく皇室の分裂という異常事態が正常に回復するのである.

 応永19(1412)年には,後小松の子息実仁が即位して,称光天皇となる.

 このように,南北朝後期から室町前期にかけては,本来は持明院系の傍流であった後光厳系が一貫して皇位を継承したのである.

 そしてこの時期,嫡流であったはずの伏見宮の境遇は,悲惨を極めた.

「はむはむの煩悩」,2006.10.15 Sunday


 【質問】
 永亨の乱(1439年)の原因は?

 【回答】
 足利持氏は滅びる必然性はなかったのに,自爆して滅亡してしまったように思えてならない.

 持氏期の鎌倉府は,特に永享以降は政務が停滞して武士や寺社の利益になる政策がほとんど出せない状態であった.

 統治機構が機能不全に陥っているにもかかわらず,彼が行ったことは,無駄に京都幕府との敵対を煽ることであった.
 将軍義教の将軍就任にお祝いの使者を出さず,鎌倉公方は自分の子どもの元服に将軍から1字もらうのが通例であるにもかかわらず,「義久」と名乗らせるetc.

 これらはすべて,持氏の個人的な判断で回避できたことである.
 むしろ関東管領上杉憲実以下,皆反対していた行為であるから,彼が重臣たちの進言を聞き入れていれば,確実に簡単に回避できた.

 政権基盤が衰退しているのに,自分からわざわざ家来たちが反対している仮想敵を挑発する行為を行ったら,家来の支持も失い,敵にも攻め込まれて惨敗するに決まっているし,実際史実もそういう展開になった.

 私は,鎌倉府の一部の研究者が高く評価するような持氏の自立政策を,とても評価する気になれない.
 持氏がするべきことは,隠忍自重の精神でじっと京都と協調を続け,京都からの多少の無理難題は甘受しながら,内政の改革を進めて鎌倉府の組織・制度を立て直すことであった.
 自立したければしたいほど,チャンスが到来するまで逆に無意味に刃向かってはならないのであった.

 そう,まさに徳川家康が豊臣秀吉にやったように.

 持氏は滅ぼされたが,家康は天下を取って300年の長期安定政権を樹立した.
 今,現代日本人の我々は,やはり家康の精神に学ぶべきであろう.

はむはむ in mixi,2008年05月01日18:47



 【質問】
 「鎌倉府滅亡の原因は将軍義教」説があるが?

 【回答】
 渡辺世祐著『関東中心足利時代之研究』(新人物往来社,1995.11)という大著がある.
 これは大正時代に刊行された古い本であるが,足利持氏期までの鎌倉府の政治史を丹念に叙述した大作で,鎌倉府研究をする人々にとっては,いまだにバイブル的扱いになっている書物である.

 渡辺博士によれば,鎌倉府滅亡の原因は,すべて将軍義教のせいなんだそうである.
 もちろん博士は,鎌倉府の組織に欠陥があったことや,持氏に軽率なところがあったことも指摘しているのであるが,結論としては義教が将軍就任以降持氏を滅ぼす気満々で,ありとあらゆる機会に持氏を挑発し煽りまくったことが永享の乱の原因であるとしている.

 九州探題や守護,その他比叡山等の有力勢力に対する政策を見る限り,義教が鎌倉府の力も弱体化させる方針を持っていたことは,まず動かない事実であろう.

 しかし,その事実から直ちに義教が当初から持氏討伐の意欲を抱いていたとするのは論理の飛躍があると思う.

 以前も述べたとおり,鎌倉府では関東管領上杉憲実以下,持氏の方針にはみんな反対していたが,京都においても「元老」畠山満家・管領斯波義淳以下,主立った重臣は皆鎌倉府との戦争には一貫して反対しており,義教を諫めていた.
 義教としても,持氏が京都に従順な姿勢を示せば,特に事を荒立てるつもりはなかったのではないかと考える.
 鎌倉府との全面決戦は,やはり大乱になる可能性が高かったし,京都幕府にとっても鎌倉府に絶対勝てる自信はなかったであろうから.

 実際には,どちらかと言えば,義教→持氏ではなく,逆に持氏が義教を挑発した事実が目立つ.

 将軍義教の将軍就任にお祝いの使者を出さなかったり,鎌倉公方は自分の子どもの元服に将軍から1字もらうのが通例であるにもかかわらず,「義久」と名乗らせたりしたことは前にも紹介したが,その他にも関東地方の幕府や京方の所領を押領したり,「京都扶持衆」と呼ばれる幕府方の武士を攻撃したり,永享に改元したのに従わずそのまま正長の年号を使い続けたり,幕府の方針に逆らって信濃出兵をはかったり駿河の守護家の内紛に介入したり,義教を呪詛したり・・・.

 ここまで煽ったら,義教に鎌倉府討伐の大義名分を与えるのも当然だし,反対していた幕府の重臣たちも従わざるを得ないのではないか?

 大博士の見解に異議を唱えて申し訳ないが,私はやはり永享の乱は,持氏の方に圧倒的に非があったと考えざるを得ないのである.
 持氏は軽率な政治家で,無駄に鎌倉府の滅亡を早めた.こんな人を持ち上げたり,ましてや美化することなどおれには絶対にできない.

 にしても,この時代の鎌倉と京都の関係って,どことなく大戦前の日米関係に似ている気がする・・・.

はむはむ in mixi,2008年05月13日13:07


 【質問】
 中世の京都の街の様子は?

 【回答】
 周知のように,794年に桓武天皇が平安京に遷都してから,首都としての京都の歴史は始まったのであるが,平安京のすべてが当初の計画のとおりに市街地化したわけではない.

 平安京の西部,すなわち右京は低湿地で人が住むには不適であったため,近代に至るまで市街地化はしなかったのである.

 従って平安京は,東部=左京のみが市街地化した.

 さらに中世には,左京の市街地は北部の上京と南部の下京に分かれた.

 上京と下京は二条大路で区切られ,両京は室町通りほか数本の街路で結ばれているだけであった.

 上京は天皇や貴族が住む上流階級の街,下京は商業地で主に商人が住んでいた.

 左京のさらに東には,賀茂川の東に六波羅と呼ばれる地域があり,ここは鎌倉時代六波羅探題の政庁が置かれた場所で,多数の武士が住んでいた.

 六波羅は元々平氏政権の本拠があった地域で,これを滅ぼした鎌倉幕府が六波羅の敷地をそのまま継承して,幕府の出先機関を設置したのである.

 以上をまとめると,鎌倉末期までの京都は,上京(公家の街)・下京(商業地)・六波羅(武士の街)と大別して3つの地域に分かれていたのである.
 これを覚えていただくと,以下の説明を理解することが容易になると思う.

「はむはむの煩悩」:2007年3月16日 (金)


 【質問】
 室町幕府の将軍は,どこに住んでいたのか?

 【回答】
 鎌倉幕府の将軍が「鎌倉殿」と呼ばれていたことは,よく知られている事実であろう.

 これに対して,室町幕府の将軍は「花の御所」とも呼ばれていた室町御所に住んでいたので,「室町殿」と呼ばれていた.これも比較的知られていると思う.
 しかし子細に見ると,厳密には足利将軍が室町殿に住んでいた時期は意外に短い.また,「室町殿」の称号も,3代将軍義満以降につけられたものである.

 〔略〕

 元弘3(1333)年,六波羅探題を滅ぼした足利尊氏は,下京の押小路高倉邸に住んだ.
 尊氏は,なぜか平安以来の武士の街である六波羅には一切目もくれず,従来あまり関係のなかった洛中に住むのである.
 戦乱で六波羅の建物が焼失していたであろうこともあり,現実的に住むことができないという事情が大きかったのかもしれないが,これ以降も足利氏が六波羅に関心を払うことはまったくなかった.

 尊氏はその後建武政権も滅ぼし,建武5(1338)年には征夷大将軍に就任し,康永3(1344)年に上京の土御門東洞院殿に移住する.
 土御門東洞院殿は,天皇が住んでいた内裏(現在の京都御所)の南に位置する.
 つまり尊氏は,空間的にも将軍として天皇を南朝の攻撃から守る役割を果たしていたのである.

 ところが,貞和5(1349)年3月,この屋敷が焼失してしまう.
 尊氏は,執事高師直の一条今出川の屋敷に移住する.

 同年8月には土御門東洞院殿が再建され,尊氏は元の邸宅に戻るが,その後観応の擾乱が勃発し,尊氏が各地を転戦しているうちに,この家は観応2(1351)年再び焼失してしまう.

 観応の擾乱以降は,たびたび京都を南朝方に奪われて没落したこともあって,1カ所に邸宅を構えることができなかったようである.
 戦争に明け暮れた尊氏の一生を実によく反映していると思う.

 延文3(1358)年死去したときは,下京の二条万里小路に住んでいた.

 一方,尊氏の弟である足利直義は,三条高倉邸(下京)に住み,「高倉殿」とか「三条殿」と呼ばれていた.

 この時代は,尊氏と直義で幕府の権限を分割して統治していたが,幕政の主導権を握っていたのは直義の方であった.だから当時の人々は,幕府は高倉殿にあると認識していたのである.

 貞和5年8月,直義は師直のクーデタによって失脚する.
 同年10月には鎌倉から尊氏の嫡男義詮が上洛し,直義がそれまで有していた権限を継承する.

 それに伴って高倉殿には義詮が住み,直義は追い払われるように直義派の武将であった細川顕氏の屋敷のあった錦小路堀川邸に移住する.
 これ以降,直義は死ぬまで「錦小路殿」あるいは「錦小路禅門」(出家したため)と呼ばれている.

 義詮は,今述べたように三条高倉殿に住んでいた.

 しかしこの屋敷も観応3(1352)年に焼失し,それ以降は父尊氏と同様にしばらく京都の各所をを転々とした.

 だが,延文3年,死去した尊氏の後を継いで2代将軍となり,貞治4(1365)年,三条坊門殿を新造し,移住する.

 三条坊門殿は,かつて直義が住んでいて,幕府の所在地とされていた三条高倉殿の東隣に位置する.義詮は,少なくとも空間的には直義を継承したのではないだろうか?

 この三条坊門殿は,室町殿に引っ越す前の若い頃の義満も住んでいた場所である.「上御所」と呼ばれた上京の室町殿に対して,「下御所」と呼ばれていたそうである.

 尊氏・義詮・義満の初期の足利将軍は,前代の武家の聖地・六波羅を捨て,だいたいは下京に住んだ(尊氏の土御門東洞院殿・一条今出川殿は例外).まとめると,こう結論づけることができるであろう.

 彼らは室町殿には住んでいなかったのだから(そもそも,初期は室町殿そのものが存在しなかった),当然「室町殿」とは呼ばれていない.では何と呼ばれていたのか?

 尊氏・義詮は「鎌倉大納言」,若い頃の義満は「鎌倉宰相中将」と呼ばれていたのである.

 将軍となった彼らは,ほとんど鎌倉に住んだことはないが(若い頃の義詮,観応の擾乱直後の尊氏は例外),にもかかわらず「鎌倉」を冠する称号を持っていたのである.

 室町幕府は鎌倉幕府を継承した政権であるが,首長である足利将軍も前代の将軍である鎌倉殿を意識の上で継承していることが,この事実からも伺える.

 室町殿に引っ越した義満以降については,次回に紹介したい.

「はむはむの煩悩」:2007年3月16日 (金)

 前回も述べたとおり,3代将軍義満も,将軍に就任した当初は父義詮が住んでいた下京の三条坊門殿に住み,「鎌倉宰相中将」と呼ばれていたが,永和4(1378)年に上京の北小路室町に新しい屋敷を建ててそこに引っ越してからは,『室町殿』と呼ばれるようになる.

 ここはもともと義詮の別荘であり,義満が住む前には崇光上皇が住んでいたこともある.

 室町御所は,庭にたくさんの樹木が植えられていて,1年中花が絶えることがなかったという.

 そのため,別名「花の御所」とも呼ばれる.
 だが崇光上皇が住んでいた頃から「花亭」と呼ばれていたそうで,もともと庭に花がたくさんあったのかもしれない.

 とにもかくにも足利氏の幕府を「室町幕府」と呼ぶのは,この家の所在地に由来するのであるが,初めて室町殿が出現するのは,足利氏の幕府が発足して実に40年以上経過して後のことであったのである.

 義満は,こうしてしばらくは室町殿と呼ばれ,実権をふるい続けたが,応永元(1394)年に将軍職と室町御所を子・義持に譲って,自分は出家し,京都西郊に北山御殿を造営して隠居する.
 現代の金閣寺である.
 とは言っても,政治上の実権は依然義満が握り続ける.
 義満は,かつてそれぞれ白河・鳥羽に住んで院政を行って権勢をふるった平安時代の白河法皇・鳥羽法皇を模倣して,自らも京都郊外の北山に住んだと言われている.
 史料を見ても,政治活動と言い,文書発給と言い,すべて義満が行っており,義持は何もしていない.

 この時期の義持は,せいぜい年に数回,お寺に参拝したり,天皇が北山殿に行幸したときに警備を担当している程度である.

 この時期,義満は北山にいたので,「北山殿」と呼ばれていた.

 義持は,どうやら室町殿ではなく,「新御所」と呼ばれていたらしい.
 室町殿に住んでいる征夷大将軍なのに,室町殿ではないのである.

 天皇をはるかに凌ぐ権勢をふるった義満も,応永15(1408)年に死去し,義持はようやく名実ともに実質的な権力を掌握する.
 義持は室町殿を出て,祖父義詮が住んでおり,若い頃の義満も住んでいた三条坊門殿に引っ越す.

 ところが,義持は室町殿に住んでいないのに,室町殿と呼ばれるのである.
 このときから,「室町殿」とは,足利氏の家督の名称となり,実際の所在地とは無関係につけられる称号となる.

 義持は,応永30(1423)年に将軍職を子・義量に譲り,出家する.
 しかし,政治の実権は依然握り続ける.
 義持は,父義満に非常に嫌われ,彼も父に非常に反発していたという.
 その彼が,父にされたのとまったく同じ仕打ちを自分の息子にするのも非常に興味深いが,この時期,義持は相変わらず室町殿と呼ばれ続け,義量は「将軍」と言われている.

 義量は,将軍に就任してわずか2年後に,わずか18歳の若さで死んでしまう.

 その後は,義持が将軍に復帰せず,法体のまま,応永35(1428)年に死去するまで政治を続けるが,北山殿義満もそうであったように,必ずしも征夷大将軍でなくとも,幕府の最高権力者となることができるのである.

 義持の死後,籤引きで弟の義教が将軍に選ばれるが,彼は僧侶であった.

 しかし,父義満も兄義持も,僧侶で将軍でないのに権力を握っていたにもかかわらず,彼はわざわざ還俗して,髪の毛が伸びきって髷を結って烏帽子をかぶれるようになるのを待ってから(これも「元服」と言うのである),征夷大将軍に就任し,権力の行使を開始する.

 義教は,最初は三条坊門殿に住んでいたが,やがて室町殿に移住した.

 その際,また改めて建物を新築した.
 花の御所は,大別して義満・義教・義政の3期に分けられるが,義教の時期の室町殿がもっとも史料が豊富で内部の構造を知ることができるとのことである.

 前回も触れたが,室町前期には,上京の室町殿が「上御所」と呼ばれ,下京の三条坊門殿は「下御所」と呼ばれていた.

 そして,将軍の代替わりごとに上御所と下御所を交互に移住し,それに伴って管領・守護以下の武士も一斉に引っ越すのである.
 これが全盛期の室町幕府のあり方であった.

 大半の時期を下京に住んでいた南北朝期の将軍たちに比べると,室町前期の将軍は,上京への進出が本格化している.

 室町幕府は単なる武家政権ではなく,朝廷の権限も掌握した公武合体政権であるという評価がなされるが,それが視覚的にもうかがえるのが,非常に興味深い.

 また,下御所に住んでいるときでも,将軍は室町殿と呼ばれる.
 逆に,室町殿に住んでいて将軍であっても,実権を握っていなければ室町殿とは言われない.
 要するに幕府で実権を握っている最高権力者が室町殿であるのだが,義満・義持の例でわかるように,室町殿は必ずしも将軍で室町御所に住んでいる必要はないのである
(ただし,義教の例でわかるとおり,室町殿になるためには,一度は将軍に就任しなければならない).

 このように,将軍の称号と住居の問題を見ても,いろいろと興味深い事実が見えてくるのである.

「はむはむの煩悩」,2007年3月17日 (土)

▼ 6代将軍足利義教は,嘉吉1(1441)年,播磨守護赤松満祐に暗殺される(嘉吉の乱).

 義教の跡は子義勝がわずか7歳で継いで7代将軍となるが,この義勝も就任してたったの8ヶ月で死亡し,義勝の弟の義政が8代将軍となる.

 義政は,将軍就任当初,上京の烏丸殿(烏丸資任の屋敷)に住んでいた.

 前回も述べたとおり,室町幕府体制が確立してからの足利将軍は,代替わりごとに上京の室町殿(上御所)と下京の三条坊門殿(下御所)を交互に移住するのが慣例化していた.
 義教は上御所に住んでいたので,この先例に従えば,義政は一度上御所に引っ越し,その後下御所に移住するのが筋であり,実際にそうする予定であったらしい.

 ところが,室町殿に妖怪が出現し,義政の母が烏丸殿に帰る事件が発生したこともあり,結局この引っ越しは中止となり,義政は烏丸殿に住み続けるのである.

 将軍の上京から下京,あるいは下京から上京への移住は,将軍だけではなく,管領・守護以下の諸大名や奉公衆等の一斉の移動も必要とした.
 それだけでも経費と手間のかかる大移動であるが,さらに御所の大規模な増改築・新造等の工事も伴った.
 その費用は守護が負担するのであるが,守護は分担の経費を支払うために,自分の任国に課税する.
 だから代替わり当初の将軍の移動は実は国家規模の大行事であり,守護はこれを忌避する傾向があったようである.

 既に義教の室町殿移住のときにも反対意見があり,室町殿以外の場所への移住が義教に進言されたのであるが,当時は将軍の力がまだ強く,義教の室町殿への強い意向に押し切られて引っ越しが実現したのである.

 義政は幼少で足利家を継いだので,そのような強い権力を持たなかったので,室町殿に移住することができなかったのであろう.

 今述べたように,義政は幼少で足利家家督を継いだので,当初は管領畠山持国や細川勝元が将軍権力を代行した.
 しかし長ずると将軍親裁を開始し,長禄2(1458)年に室町殿の造営・移住を宣言し,翌年実現させる.
 このとき,烏丸殿の建物や庭園の造営も進行していたので,当時の人々も驚いたそうだが,それだけ足利将軍の室町殿への強い思いを窺うことができよう.
 こうして義政も室町殿に実際に住む,名実ともに室町殿になったわけだが,文正2(1467)年,有名な応仁・文明の大乱が始まる.

 文明5(1473)年に義政は,将軍職を子義尚に譲るが,義満や義持と同様に,依然政治の実権は握り続ける.
 内乱当時,室町殿には義政・義尚父子と日野富子,そして難を逃れて移住していた後土御門天皇も住んでいたが,文明8(1476)年,室町殿が全焼してしまう.

 その後,室町殿父子は住居を転々とする.それをすべて紹介するのは煩雑になるので避けるが,結論だけ述べると,義尚は細川勝元の別邸であった小川殿,そして義政はあの有名な東山殿(銀閣のある慈照寺)に最終的に移住するのである.

 義政は,文明15(1483)年に東山殿に移住し,権限を義尚に譲って,自分を東山殿,義尚を室町殿と呼ぶように諸臣に命じる.

 そして戦乱によって荒廃した俗世から逃避して,趣味の世界に没頭する隠居生活を始めるのであるが,厳密に言えばすべての権限を義尚に譲ったわけではなく,禅院行政や外交などは依然掌握していたそうである.

 それはともかく,この続きはまた今度書きたい.

「はむはむの煩悩」,2007年3月21日(水)

 前回,室町殿に妖怪が出現した話をちょっと書いたが,余談ながら,この時代の上流階級の人の家には,どういうわけかよく妖怪が出現したようである.
 称光天皇も,トイレで巨大な亀に襲われて食べられそうになったらしい.

 それはそうとして,本題に戻ろう.

 10代義稙以降の将軍は,何度も京都を追われたこともあり,京都にいるときも諸所を転々としており,ほとんど一定の場所には住んでいない.

 しかしそれでも,メインと思われる住居を列挙してみると,以下のとおりである.
10代義稙:一条御所=細川讃州邸
11代義澄:細川政元の屋敷

 9代義尚の住んでいた小川殿も細川勝元の屋敷であったし,戦国初期の将軍は,細川氏の家に住んでいることが多い.

 この時期の将軍は,細川氏の傀儡に過ぎなかったのであるが,それがビジュアル的にもよく現れていると言えよう.
 特に11代義澄は,自身の御所を営むことができず,細川政元の屋敷の敷地の一部に住むという,まさに居候状態であった.

 室町殿が管領以下多数の諸大名や奉公衆を引き連れ盛大に上京と下京を移動し,諸国に課税して御所を新築する,かつての全盛期の将軍の姿は,そこには微塵もない.

 足利義澄は,明応2(1493)年,細川政元が将軍義稙を追放したクーデタ(明応の政変)で擁立された将軍であった.

 しかし義稙は,永正5(1508)年,大内義興に擁されてふたたび入京し,将軍に復職する.

 その後永正10(1513)年,義稙が下京に造営したのが「三条御所」である.

 三条御所の正確な位置については諸説あるそうであるが,最新の研究では,かつての三条坊門殿=下御所の1町南にあったとされている.

 12代義晴は,上京の地に御所を営んだが,正確な所在地や名称さえ,今日には伝わっていない.

 義晴の御所がかつての花の御所であるとする説が以前は有力であったようであるが,これも最新の研究では否定され,13代義輝が当初住んだ御所の名にちなんで,「今出川御所」と名付けられている.

 13代義輝は,上京の勘解由小路室町にあった武衛御所である.
 この御所は,後に大規模に改造されて本格的な城となった.

 義晴・義輝の時代は,今日の研究では,衰退過程にあるとは言え,わずかながら将軍の権力・権威が復活した時代とされている.それが住居にも反映されていると言えるのではないだろうか?

 15代義昭は,兄義輝と同じ武衛城に住んだ.
 この城は,織田信長によってさらに拡張されて,複数の郭と三層の天守閣を持つ城に変貌した.
 現代ではこの城を「旧二条城」と呼ぶ
(徳川家康が築城した現代の二条城とは異なるので,こうして区別して呼ぶ).

 以上,戦国期の室町将軍の住居を概観したが,結論として,戦国時代の将軍は,遂に室町殿に住むことはなかったのである.

 一応室町殿への執着はあったようで,特に義政は相当室町殿の修理にこだわっていたようであるが,すでにそのころから室町殿跡地には毎夜盗賊が集い,土一揆の拠点にもなれば,博打や喧嘩や宴会も日常茶飯事で,人殺しが死体を捨てていくなど,とても将軍の御所にできる状況ではなかった.

 結局,室町殿がその名のとおり室町殿に住んでいたのは,室町幕府240年の歴史の中でたかだか100年にも満たないのである.

 また,戦国期の将軍が,後期の義稙を除いて,ほとんど上京に住んでいるのも注目するべき事実である.

 大まかにわけて,

六波羅探題→六波羅

南北朝期の将軍御所→下京

室町期の将軍御所→上京と下京を交互に移住

戦国期の将軍御所→上京

という図式が見えてくる.
 武家政権は,六波羅を捨てて下京に移動し,それから徐々に公家の街上京に定着していったのである.

 織田信長は足利義昭を威嚇するために上京を焼き討ちしたが,そういう視点で見れば,上京は戦国末期には将軍の街となっていたと言えよう.

 また戦国の時代を反映して,御所の防備が徐々に固められていっている事実も注目に値する.
 すでに義政の室町殿も末期には堀を備えていたそうであるが,時を下るごとに御所の防衛機能は強化されていき,義昭の旧二条城に至っては,天守閣まで有している.

 このように,将軍の住居ひとつをとって見ても,時代の流れや権力構造等,さまざまな事実がうかがえるのである.

参考文献

小沢朝江「室町将軍の公私の空間」(小沢朝江・水沼淑子『日本住居史』吉川弘文館,2006年)

高橋康夫「描かれた京都―上杉本洛中洛外図屏風の室町殿をめぐって―」(同編『中世都市研究12 中世のなかの『京都』」新人物往来社,2006年)

田坂泰之「室町期京都の都市空間と幕府」(『日本史研究』436,1998年)

野田泰三「東山殿足利義政の政治的位置付けをめぐって」(『日本史研究』399,1995年)

 ※14代義栄は,京都に住むことがなかった.

「はむはむの煩悩」,2007年3月24日 (土)


 【質問】
 何かの本で「9代義尚以降の足利将軍は,いずれも京都の畳の上で自然死していない」というような話を目にしたことがあるんですが,これって本当でしょうか?

 【回答】
 確かに,京都で自然に死んだ将軍はいないですね.

 だいたい,追放されて地方で死んでいます(10代義稙は,「流れ公方」と言われた).

 13代義輝は,松永久秀に武衛第を襲撃されて戦死しています.

 15代義昭は,最後は豊臣秀吉の側近となって大坂で死んでいますが,これがある意味でいちばん幸福な死に方だったかもしれません.

「はむはむの煩悩」,2007年3月26日 (月) 10:08

 前回のエントリーで,fujiさんから,「9代将軍義尚以降で,京都で畳の上で死ねた足利将軍は一人もいないのではないか?」とのコメントをいただいたが,言われてみれば確かにそうである.

 そこで今日は,9代義尚以降の室町殿がどこで死んだのかを,ざっと見てみたい.

 9代義尚は,命令を聞かない近江守護六角高頼を討伐するため自ら近江に出陣したが,陣中で没した.
 これは室町幕府の場合に限らず,鎌倉幕府・江戸幕府を見渡しても,軍勢を率いて合戦に出陣するという,本来の「征夷大将軍」らしいことをした将軍は実は少なく,まして出陣中に死んだ将軍はおそらく彼だけである.
 義尚はその意味で希有であると言えよう.
 また,義尚は歌人としてすぐれ,歌集も残しているそうである.

 10代義稙は,前回も述べたとおり明応の政変で一度京都を追放され,また将軍に復位するなど,きわめて複雑な生涯を送った人物である.
 戦国時代の畿内の歴史は,敵味方が頻繁に入れ替わるなど非常に複雑怪奇で,専門が近い私でさえ,何度説明を聞いてもよく理解できないほどである.
 最後は,自分を将軍に復位させるのに力を尽くした細川高国を憎んで自ら京都を出て淡路に行き,後阿波に移って没した.
 このため,「島公方」と呼ばれたそうである.

 11代義澄は,義稙に京都から追い払われて近江で没した.

 12代義晴も,三好長慶に敗れて近江に逃れ,そこで死んだ.

 13代義輝は,戦国期の足利将軍としては,唯一京都で死んだ将軍である.
 だがしかし,その最期は松永久秀に武衛御所を急襲されて自殺するというものであった.
 その戦闘の模様は,傍らに刀を何本も刺し立て,取り替えながら敵兵と斬り合うという壮絶なものであったらしい.

 14代義栄は,上洛さえできずに摂津富田で病死した.
 しかも,死没の日付と場所には異説もあってはっきりしないそうである.

 15代義昭は,最後には豊臣秀吉と和平し,再び出家して(義昭はもともと僧侶であったが,兄義輝の戦死によって自ら幕府を再興するために還俗した人である),1万石を与えられて山城槇島に住んだ.
 最期は大坂で死去した.
 実はこの義昭が,後期の室町将軍の中ではある意味で,もっとも幸福な死に方をしたと言えるかもしれない.
 文禄の役のときには,非常に喜び勇んで上機嫌で肥前名護屋まで従軍するなど,何だかんだで根っからの将軍であることを感じさせるところもあった.

 それはそうとして,ざっと見てみるだけでも,戦国期の室町殿の運命は本当に過酷であることがご理解いただけると思うが,しかし反面,ここまで弱体化していながら,なお1世紀の間命脈を保ち続けた室町幕府のしぶとさの方に,私などは目を惹かれるのである.

「はむはむの煩悩」,2007年3月26日 (月)

 ※「徳川家茂が出陣中に大坂で客死してますよ(第二次長州征伐中)」と,同ブログ・コメント欄にて指摘されている.

 【質問】
 室町幕府が強い力を持っていたのは,三代義満から六代義教までと考えてよろしいでしょうか?

 【回答】
 そうですね.
 義教など,笑った顔が気にくわないというだけの理由で貴族の所領を全部没収したこともありますしね(笑)
 ただ,近年は8代義政の初期や,細川政元が10代義材を追放したクーデタである明応の政変までは,将軍も曲がりなりにも実質的な権力を持っていたとする見解が有力であるようです.

「はむはむの煩悩」,2007年3月18日 (日) 07:14


 【質問】
 今,手許に有る古い「日本史辞典」(角川書店 昭和41年発行)の付録である年表を読んでいたら,1418年の欄に
「この頃,武蔵の一揆勢,鎌倉幕府方として活躍」
との文言が載っています.
 おそらく鎌倉公方の誤植だとはおもうんですが,なにせ中世の歴史に疎いもので,
「ひょっとして,このころまで東国で北条家周辺の旧鎌倉幕府勢力が余喘を保っていたのかも・・・」
という疑問が湧いてきました.
 もし,この1418年頃(応永年間)の武蔵での一揆について御存じであれば,どんな一揆だったのか,ご教示願えませんでしょうか?

 【回答】
 この時期の一揆というのは反乱のことではなく,『集団』程度の意味.
 この頃,上野,武蔵の小中武士団が団結して『白旗一揆』という軍団を形成していました.

 埼玉県史通史編などを見てみましたが,1417年ころから武州南一揆が鎌倉公方側で参加していたようです.
 武州南一揆とは,平姓秩父氏を中心とする氏族の連合『平一揆』が,多摩川周辺の武士団の連合という地縁的な連合に変化したものです.
 鎌倉幕府は鎌倉府(鎌倉公方)の誤植で間違いないと思います.
 ただし武蔵の一揆勢がみな鎌倉府側だったわけではなく,武州北白旗一揆などは禅秀側だったようです.

日本史板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 所領安堵の実相は?

 【回答】
 所領安堵とは,言うまでもなく,幕府や大名が,武士の所領を承認し,知行を保障する行為である.
 所領安堵がなされることによって,武士がその権力の構成員であることが確認され,主従関係が構成されるのである.

 このように一見きわめてシンプルな行為に見えるのであるが,細かく検討してみると,所領安堵もいろいろとややこしくて複雑な問題を抱えているのである.

 安堵の手続がもっとも整備され,複雑化したのは,だいたい鎌倉後期から南北朝初期にかけての時期である.

 安堵の基準は,大きく分けて2つある.
 先祖代々その所領を所有してきた事実を譲状などの証文によって証明する「相伝の由緒」と,現実に今現在,その所領を実効支配している事実,すなわち当知行である.
 原則として,相伝の由緒と当知行の事実の両方が証明されれば,幕府からその所領を安堵されるのである.

 もうちょっと具体的に説明してみると,以下のとおりである.
 まず,幕府から安堵を拝領しようと思っている武士は,安堵を要求する申状を作成し,譲状などの証文を副えて幕府の安堵方という安堵を行う機関に提出する.

 安堵方では,これらの書類を審査して問題がないと認定すれば,安堵方の頭人の奉書でもって,所領の存在する国の守護と最寄りの国人に充てて,当知行しているかどうか,その所領に対して異論を唱える者(当時の用語で「支え申す仁」と言う)が存在しないか否かを尋問する命令を発する.

 で,問題がないとする守護や国人の返答(請文)をもって,晴れて安堵の承認となるのである.
 ※南北朝中期以降,国人に対する尋問は省略され,守護の保証のみとなる.

 その文書は,鎌倉幕府では将軍家政所下文あるいは執権・連署の関東下知状(一時期,惣領←将軍,庶子←関東下知状という管轄が存在した),初期室町幕府では足利直義の下文をもってなされた.

 このように,相伝の由緒と当知行の事実が証明されれば,特に問題はない.

 しかし,どちらか一方に問題があって欠けたときは,非常にややこしい問題となる.

 草創期とか,戦争に敗北したりして幕府の力が衰えたときは,当知行が優先されるようである.
 武士の当面の支持を得るために,とりあえず所領をまったく調べないで,申請に任せてひたすら安堵する.ひどいときには,具体的な所領名をまったく記さない例も多い.

 また,室町幕府の場合,後年代になればなるほど,当知行を重視し,優先するようになったようである.
 とりあえず,その所領を実効支配しているというだけで,安堵を拝領するのに非常に有利に働いたようである.

 では逆に,当知行ではなかった場合はどうなるのであろうか?
 異議を申し立てる者(「支え申す仁」)が出現した場合,案件は引付方に移管され,通常の不動産訴訟として扱われ,最終的には裁許下知状をもって判決が下された.

 それ以外にも,不知行であっても,何らかの事情で安堵が下されることもあった.

 例えば,南朝方の武士が,幕府方に投降して帰参したときに,降参人の所領の3分の1もしくは半分を安堵するという「降参人半分の法」という慣習法によってなされる安堵は,少なくとも建前上はその所領は幕府によって没収され,幕府方の武士に与えられていた所領なので,不知行地の安堵ということになる.

 また,譲状による譲与安堵も,親から子へ譲与される所領は,すべてが当知行というわけではなく,他人に押領されている所領が存在する場合もあるので,その所領については不知行安堵である.

 このように,安堵には大別して,当知行安堵と不知行安堵が存在するのである.

 不知行安堵は,特に降参人に対するものは,実態として,事実上の恩賞であったので,南北朝初期には直義だけではなく,尊氏が行ったものも多い.
 ここにも,尊氏と直義の権限が競合し,両者の対立が発生する要因が存在したのである.

 安堵が下された後の手続も,当知行と不知行では異なっていた.

 当知行安堵では,下文だけで手続が終了するのに対して,不知行安堵では,尊氏の恩賞充行と同様に,執事や内談頭人の施行状が発給されて,守護の強制執行(遵行)が行われる場合もあった.

 義満期には,当知行の安堵に対しても施行状が出されるようになったが,本来不知行地を当知行化する施行状を,すでに当知行されている所領に出すことは原理的に無理があったようで,早くも義持期には廃止されている.

 相伝の由緒と当知行の事実,これが安堵の基準であると言ったが,特に内乱期には,これに加えて軍忠も考慮されたようである.
 まあ,それはそうだよな.合戦に参加せずに,幕府に軍事的に何も貢献していないのに,安堵だけ要求するなんて虫のいい話が通用するわけがない.
 特に,南朝方のくせにしれっとした顔で安堵や裁許を求める輩も存在したようなので,潜在的に安堵に対しても,恩賞と同様軍忠が考慮されたのは理解できるであろう.

 また,安堵がなされるタイミングも大きな問題である.
 何も理由がないのに安堵を申請する行為は,邪な意図を持っているのではないかとかえって忌避された.

 安堵のタイミングには,将軍が代替わりしたときに行われる安堵と,被安堵者が親子や兄弟で所領を譲与したときに行われる譲与の安堵が存在した.

 で,代替わり安堵は,鎌倉中期まで見られるが,その後はもっぱら譲与安堵だけとなる.

 ほかにも買得安堵というものがあったりと,本当にこの問題は複雑でややこしい・・・.

「はむはむの煩悩」,2007年7月 3日 (火)
青文字:加筆改修部分


◆◆人物


 【質問】
 楠木正儀とは?

 【回答】
 南北朝時代で最も著名な武将と言えば,やはり何だかんだ言っても楠木正成なのであろうか?
 「大楠公」と呼ばれ,千早赤坂城に籠城して鎌倉幕府の大軍を迎え撃って善戦した武将.
 湊川では,足利尊氏の大軍を小勢で迎え撃ち,一族郎党皆壮絶な戦死を遂げた.

 子どもの正行も「小楠公」と呼ばれる名将で,摂津・河内で室町幕府の大軍をたびたび打ち破ったが,最後は四条畷で高師直の前に壮絶な戦死を遂げた.
 足利義詮がこの正行を非常に敬愛しており,自分の墓を彼の首塚の隣に建てさせたことは,先日も紹介したとおりである.

 しかし,正行に正儀という弟がいたことや,正儀が行ったことなどは,案外知られていないのではないだろうか?
 そこで今日は,この楠木正儀について,知っていることを紹介してみたい.

 正儀も,偉大な父や兄の血筋をよく受け継いで南朝のために奮戦し,たびたび軍事的成果を挙げた.

 特に観応3(1352)・文和2(1353)・康安1(1361)年の3度にわたって,室町幕府の内紛に乗じて京都に攻め入り,一時的に占領したのは特記されるべきであろう.
 康安1年の京都占領の際に,駐屯した佐々木導誉の邸宅で粋なもてなしを受け,彼もお返しに酒肴や鎧・太刀を返したエピソードは先日も紹介したとおりである.

 しかし正儀は,南朝の重鎮で勇猛果敢な武将という顔とは別に,北朝との和平を積極的に推進する宥和派というもう一つの顔も持っていたのである.
 そのため,同じ南朝の強硬な主戦論者と深刻に対立していた模様である.
 既に観応2(1351)年,南朝は足利直義が主導していた当時の幕府と和平交渉しており,正儀はその連絡役を務めていたが,その交渉が南朝側の勝手かつ一方的な態度で決裂した際に激怒して,
「南朝討伐の軍を派遣してください.
 そうすれば,私は幕府のお味方となって吉野を短期で攻め落としてみせましょう」
と幕府側に言い放った話が伝わっている.

 ちなみに義詮時代,幕府側の交渉役を佐々木導誉が務めていた時期があり,正儀と導誉は敵味方を超えた,言わば現代で言えば与野党の国対委員長のような親密な感情があったようである.

 先日紹介した『太平記』に記された彼らのエピソードも,真偽はさておき,そういった背景があってのお話らしい.

 こうした事情もあって,正儀は南朝上層部に不満を募らせていくようになり,次第に幕府に接近していったようである.
 そして,義詮が死去して将軍が義満となり,細川頼之が執事となってから,応安2(1369)年,頼之の誘いに応じて,正儀は遂に北朝方に転じたのである.
 幕府は,正儀が実効支配し,南朝から認められていた摂津・河内・和泉3ヶ国の支配の継続をそのまま認めて彼をこれらの国の守護とし,さらに摂津住吉郡の一部守護職を与えるなど非常に優遇し,これが南北朝の軍事バランスを北朝側に大幅に傾けることとなり,彼の幕府帰参が結果的に南北朝の合一に大きく寄与することとなった.

 南朝に殉じて壮絶な戦死を遂げた父や兄の行動とはあまりにも違う,正儀のこの行動は,特に戦前の歴史学界では摩訶不思議とされ,変節とか寝返りとか非難されることも少なくなかったようである.

 しかし,私は正儀は正儀なりに現実を深く見据え,日本国の将来のために考えて北朝に帰参したのだと思う.
 現実を見れば,やはり室町幕府の力はあまりにも強大である.
 局地的に,ごく短期間だけ京都を占領することはできても,大局的な勝利にはつながらない.
 天皇が2人同時に存在するという異常事態を何十年もこのまま続け,不毛な戦争を継続していたずらに人命を損耗するよりは,幕府と現実的な和平の道を模索するべきである,と正儀はそう考えたのではないか?

 そう言えば,彼の父の正成も後醍醐天皇にたびたび尊氏との和平を奏上している.
 足利氏との講和は,決して正儀一代のものではなく,楠木氏伝統の施策であったのかもしれない.

 正儀の末路もまた悲惨である.
 康暦1(1379)年,彼の後ろ盾だった頼之が幕府内部の反頼之派との権力抗争に敗れて失脚すると,正儀の幕府内における立場も自然と悪くなり,永徳2(1382)年,再び南朝方に転じる.

 彼のその後の消息はほとんどわかっていない.

「はむはむの煩悩」,2006年12月28日 (木)


 【質問】
 偏諱制度が確立したのは室町時代から?

 【回答】
 3代将軍足利義満以降,将軍が武士に自分の名前から1字与える偏諱の制度が確立したと一般には言われている.

 すなわち,将軍の「義○」の「○」の字を,上の方に与える(細川満元,勝元など).

 また,後期の大内氏など,家格の高い一部の武士に対しては,「義」の字を,上の方に与える(大内義興,義隆など).

 しかし,偉い人が自分の名前を与えることは,鎌倉時代から行われていたわけで,例えば足利尊氏の初名「高氏」の「高」は執権北条高時から,父貞氏の「貞」は同じく執権北条貞時から与えられていたことは,比較的知られている事実であろう.

 そもそも,尊氏の「尊」の字も,後醍醐天皇の「尊治」という名前から1字拝領しているのである.

 で,尊氏の時代に,偏諱の制度がどうなっていたのか論じた研究は,たぶんなかったはずである.

 斯波氏経などは,確実に尊氏の「氏」の字をもらっていると思う.
 ほかにも,尊氏から「氏」を与えられているんじゃないかと思える武士はけっこうたくさんいる.

 ただ,鎌倉〜南北朝期の武士の家には,例えば佐々木京極氏など,「氏」を代々の通字にしているところが多いので,尊氏由来かそうじゃないのかを見分けることが非常に難しい.
 これが,尊氏期の偏諱研究を停滞させている最大の原因だと思う.

 それに,室町中期から戦国期になると,将軍等の偉い人から一字偏諱として拝領したことを証明する文書(「一字書出」などと言う)が残っている事例が比較的多いので,論証が可能であるが,南北朝期ではこのような文書が残存している例がほとんどなく,多くは推定にとどまらざるを得ないという事情もある.

 また,畠山直宗,畠山直顕,桃井直常,足利直冬など,あきらかに直義から名前をもらっている例も多い.
 彼らは,観応の擾乱およびそれに続く紛争に際しては,やっぱりほとんど直義派に属して尊氏と戦っている.

 尊氏・直義両者の間で,自派を拡大するために武士を囲い合っていたということなのであろうか?
 この辺も,以前から非常に気になっているところである.

 また,相当の有力武士であるにもかかわらず,例えばこのブログで何度か取り上げた関東管領上杉氏など,将軍から偏諱を賜らない一族も存在する.

 これはなぜなのだろうか?
(ただし,江戸時代の上杉氏は,上杉綱憲(あの吉良上野介の実子)や藩政改革で有名な上杉治憲(鷹山)など,将軍から一字拝領している).

 このように偏諱ネタは,歴史の中でも人気のある分野で,専門家も一般の愛好家も等しく興味を持って話も盛り上がるのであるが,あれこれ推測は可能でも,なかなか断定しづらい難解な問題でもあるのである.

「はむはむの煩悩」,2007年5月28日 (月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 楠木正行とは?

 【回答】
 正行は,偉大な父・正成が「大楠公」と呼ばれているのに対して,「小楠公」とも呼ばれている武将で,摂津や河内における奮戦ぶりは,永く後世に語り継がれている.
 単に戦に強かっただけではなく,川に溺れた室町幕府軍の兵士をすくい上げ,衣服と食料を与えて丁重に故郷に送り返すなど,南北朝時代にはきわめて稀な武士道精神にあふれた武将でもあった.

 足利義詮はこの正行を非常に敬愛しており,死後彼の遺言に従って,尊敬する正行の首塚の隣に埋葬されたんだそうである.

 『宝筐院』にあるのが,義詮のお墓である.
 クリックして拡大すると,足利家の家紋である二引両が見えるであろう.
 このお寺に埋葬されたこともあって,義詮の法号を「宝筐院」というのである.
 義詮の墓の隣にあるのが,楠木正行の首塚である.

 敵の大将にまで敬愛される正行はもちろん偉大であるが,敵の偉大さを謙虚に認め,墓まで隣に作らせる義詮の度量の広さに,私などは凄みを感じるのである.

 宝筐院は,清涼寺という大きなお寺(国宝の釈迦像がある)のすぐ隣にあり,比較的容易に参拝することができると思います.興味のある方は,訪れてみられてはいかがでしょうか?

「はむはむの煩悩」,2006年12月25日 (月)
より再構成.


 【質問】
 佐々木導誉とは?

 【回答】
 佐々木導誉は,近江国(現在の滋賀県)を地盤としていた武士で,南北朝を代表する武将の一人である.
 初期室町幕府の要職を歴任し,数々の合戦でも多くの手柄を立て,足利尊氏・義詮に忠実に尽くした名将である.
 武人であるだけではなく,文化にも造詣が大変深く,華美な生活を非常に好んで,当時の用語で「婆沙羅」大名ともてはやされた人物でもある.

 南北朝内乱の軍記物である『太平記』のも数多く登場し,多くのエピソードが知られる

「はむはむの煩悩」,2006.06.05 Monday

▼ 〔略〕,『太平記』には〔略〕導誉らしい逸話が収録されているので,今日はそれを紹介したい.

 康安1(1361)年12月,楠木正儀・細川清氏等の南朝軍が京都に攻め寄せた.

 将軍足利義詮以下の室町幕府軍は攻撃を防ぎきれずに京都を没落し,京都は南朝軍の占領するところとなった.

 当時の習慣として,こうした場合,目ぼしい武将の邸宅は占拠され,略奪され,焼かれるのが普通であった.
 将軍義詮の邸宅も,南朝軍に焼き払われてしまったのである.

 佐々木導誉の邸宅には,楠木正儀軍が押し寄せた.

 導誉は,京都を落ちるとき,自宅を占拠する武将に最高のもてなしをしようと考え,最高の贅沢品できれいに飾り立て,さらに遁世者を留め置いて,ごちそうを振舞うように命じた.
 その具体的な様子を『太平記』からちょっと引用してみると(読みやすくするためにひらがなにするなど,ちょっと変えてあります),

――――――
「六間の会所には大文の畳を敷き並べ,本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至るまで,一様に皆置き調えて,書院には義之が草書の偈・韓愈が文集,眠蔵には,沈の枕に鈍子の宿直物を取り副えて置く,十二間の遠侍には,鳥・兎・雉・白鳥・三竿に懸け並べ,三石入許なる大筒に酒をたたえ,遁世者二人留め置いて,『誰にてもこの宿所へ来たらん人に一献を進めよ』と,巨細に申し置きにけり」
――――――

 難解な文章で,詳しくはわからない部分もあるが,とにかく豪勢なもてなしであったことはご理解いただけるであろう.

 幕府の執事であった細川清氏が失脚して,南朝方に転じる羽目に陥ったのは,導誉の策略に出し抜かれたからである.
 だから南朝軍では,導誉に恨みを持つ者が多く,彼に対しては特に強硬に当たろうという意見が強かったが,正儀は,導誉のこの粋なはからいに感動し,感謝し,導誉の屋敷を一切荒らさなかったばかりか,幕府軍が巻き返して京都を奪還し,再び都を落ちるときには,さらに豪勢な酒肴を用意した上に,秘蔵の鎧と太刀を置いて去っていったのである.

 楠木正儀は,あの楠木正成の子であり,正行の弟である.
 武略に優れた父と兄の長所をよく受け継いでおり,導誉の風流を理解し,それに答える知性と美学と能力を併せ持った武将だったのであろう.

 このエピソードは,導誉と正儀の真骨頂と『粋』さをあますところなく伝える上に,乱世を彩る優れた美談であると,私は思うのである.

「はむはむの煩悩」,2006年12月20日 (水)

 【関連リンク】

「2ch.日本史板」:佐々木導誉ってどうよ?

「はむはむの煩悩」:大原野の花見


 【質問】
 妙法院焼き討ち事件とは?

 【回答】
 尊氏が幕府を開いて,彼に従った多くの武士が大変羽振りがよかったころ,あるとき佐々木導誉の家来たちが,京都郊外で小鷹狩を楽しみ,帰りに比叡山延暦寺の子院(現代の会社で言ったら子会社みたいなもの)である妙法院という寺院の前を通りかかった.

 当時,妙法院の住職は,北朝の光厳上皇の弟であらせられた.
つまり,当時の日本国の元首の弟が住職を務める寺院であり,今も昔も寺院社会の中では屈指の格式を誇る寺である.

 そのときの季節は秋だったので,妙法院の紅葉が大変美しかった.
 すると何と導誉の家来たちが,敷地に入って枝を折るという不届きな所業を始めたのである.
 もちろん,妙法院の僧侶が出てきてマナー違反を注意したのであるが,彼らはそ