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戦史FAQ目次


 【link】


 【質問】
 西忍入道とは?

 【回答】
 室町時代の興福寺でいちばん偉いお坊さんの日記である,『大乗院寺社雑事記』文明18(1486)年2月15日条に,次のような記事が記されている.

――――――
「西忍入道昨日十四日,於古市令入滅云々.九十三.不便々々.嘉吉元年歳十月より見初.天竺人ヒシリ(聖),号唐人倉,在二条之御地内三条坊門カラス丸也.彼ヒシリ之子也.(後略)」

(現代語訳)
「西忍入道が,昨日14日,古市で逝去したとのことである.
 享年93歳.
 不憫なことである.
 私(大乗院門跡尋尊)は,嘉吉元(1441)年10月に彼に初めて会い,知り合いとなった.
 天竺の人聖が,『唐人倉』と称して,京都の二条家敷地内の三条坊門烏丸に住んでいた.
 西忍は,その聖の息子である.・・・」
――――――

 『大乗院日記目録』なども参考にすると,天竺人聖が,南北朝中期,将軍足利義満の治世初期にあたる応安7(1374)年12月17日に日本にやってきて,相国寺の絶海中津の仲介によって義満に仕え,非常に愛されたそうである.

 聖は,「唐人倉」と称して,京都の三条坊門烏丸に倉を構えて活発な商業活動を展開し,海外にも広いネットワークを持ち,楠葉出身の女性を妻とし,子息西忍をもうけた.

 しかし,父の政策に批判的だった足利義持の時代になると,義持に罰せられて,一色氏の許に拘留される.

 西忍は至徳元(1384)年に生まれ,幼名を「ムスル」と言い,俗名を「楠葉天次」と言った.

 出家して「西忍」と名づけられたのは,西方の人である聖の息子であることにちなんでである.

 西忍は父の死後,赦免されて和泉国に下向し,立野に住み,曲川と立野に所領を持ち,93歳まで生きた.

 西忍の長子は新衛門尉元次,次男は四郎,三男は陽禅房大定と言い,立野の住人が皆平姓であるため,平氏を名乗った.

 西忍も父と同様に海外にネットワークを持ち,貿易船に乗り込んで何度か明に行っているそうであるが,西忍の幼名が「ムスル」であった事実から,天竺人聖をアラビア人であるとする説もある.

 本当にアラビア人であるかどうかはともかくとして,聖が日本人でも中国人でもない,はるか西域の異邦人であったことは確実な事実であり,南北朝時代にそういう人が日本に来て,将軍義満に寵愛されて,混血の子息が大乗院門跡と交流がある仏僧となり,いずれも海外にまで広がる活動を行った.

 非常に興味深い事実だと私は思う.

 【参考文献】
『夢から探る中世』(酒井紀美著,角川選書,2005.3)

「はむはむの煩悩」,2007年8月 1日 (水)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 西忍入道の出自がアラビア人であるとすると,イスラームの戒律はどうなったんでしょうね?

 【回答】
 実は私も疑問を持っています.

西忍は父の死後,義持に赦されて和泉国に下向したとき,大乗院門跡の経覚と知り合って,そこで経覚から仏の教えを受けて出家したそうです.
「西忍」という名前も,そのとき経覚につけられました(まあ,父の天竺人聖の時代から,興福寺と何らかの関係があった可能性もあるらしいが・・・).

そのとき,もし西忍がイスラム教徒であれば,イスラムの教えを放棄するにあたって葛藤があったはずなのだが・・・,ということですよね?

その辺は史料がないのでまったくわからないのですが,ただ,私なりに憶測いたしますと,高校世界史で学んだつたない知識によれば,イスラム教は中世のキリスト教に比べて,異教や異端に寛容であったそうですから,宗旨替えは意外に簡単だったのかもしれないですね.

それに西忍自身は,おそらく自分を日本人と思っていたでしょうしね.

投稿: はむはむ | 2007年8月 3日 (金) 13:52
http://djungarian.typepad.jp/weblog/2007/08/post_1750.html
http://djungarian.typepad.jp/weblog/2007/08/post_1750.html

「はむはむの煩悩」,2007年8月 1日 (水)
青文字:加筆改修部分

 それ以前に,イスラームが厳格な宗教だ」というのは,法学者や原理主義者に限った話であって,ムスリムであっても庶民なら結構いい加減です.
 非イスラーム世界へやってきて,それまでのイスラーム的「世間体」という枠がなくなると,飲み慣れない酒を飲んだりして泥酔したり,豚肉を平気で食ったりするアラブ人の話は,現代でもしばしば聞くところ.

 中世アラブ世界には,酒と美少年をこよなく愛し,それを詩(うた)にした,有名な詩人もいたりします.

 【質問】
 佐々木導誉とは?

 【回答】
 佐々木導誉は,近江国(現在の滋賀県)を地盤としていた武士で,南北朝を代表する武将の一人である.
 初期室町幕府の要職を歴任し,数々の合戦でも多くの手柄を立て,足利尊氏・義詮に忠実に尽くした名将である.
 武人であるだけではなく,文化にも造詣が大変深く,華美な生活を非常に好んで,当時の用語で「婆沙羅」大名ともてはやされた人物でもある.

 南北朝内乱の軍記物である『太平記』のも数多く登場し,多くのエピソードが知られる

「はむはむの煩悩」,2006.06.05 Monday

▼ 〔略〕,『太平記』には〔略〕導誉らしい逸話が収録されているので,今日はそれを紹介したい.

 康安1(1361)年12月,楠木正儀・細川清氏等の南朝軍が京都に攻め寄せた.

 将軍足利義詮以下の室町幕府軍は攻撃を防ぎきれずに京都を没落し,京都は南朝軍の占領するところとなった.

 当時の習慣として,こうした場合,目ぼしい武将の邸宅は占拠され,略奪され,焼かれるのが普通であった.
 将軍義詮の邸宅も,南朝軍に焼き払われてしまったのである.

 佐々木導誉の邸宅には,楠木正儀軍が押し寄せた.

 導誉は,京都を落ちるとき,自宅を占拠する武将に最高のもてなしをしようと考え,最高の贅沢品できれいに飾り立て,さらに遁世者を留め置いて,ごちそうを振舞うように命じた.
 その具体的な様子を『太平記』からちょっと引用してみると(読みやすくするためにひらがなにするなど,ちょっと変えてあります),

――――――
「六間の会所には大文の畳を敷き並べ,本尊・脇絵・花瓶・香炉・鑵子・盆に至るまで,一様に皆置き調えて,書院には義之が草書の偈・韓愈が文集,眠蔵には,沈の枕に鈍子の宿直物を取り副えて置く,十二間の遠侍には,鳥・兎・雉・白鳥・三竿に懸け並べ,三石入許なる大筒に酒をたたえ,遁世者二人留め置いて,『誰にてもこの宿所へ来たらん人に一献を進めよ』と,巨細に申し置きにけり」
――――――

 難解な文章で,詳しくはわからない部分もあるが,とにかく豪勢なもてなしであったことはご理解いただけるであろう.

 幕府の執事であった細川清氏が失脚して,南朝方に転じる羽目に陥ったのは,導誉の策略に出し抜かれたからである.
 だから南朝軍では,導誉に恨みを持つ者が多く,彼に対しては特に強硬に当たろうという意見が強かったが,正儀は,導誉のこの粋なはからいに感動し,感謝し,導誉の屋敷を一切荒らさなかったばかりか,幕府軍が巻き返して京都を奪還し,再び都を落ちるときには,さらに豪勢な酒肴を用意した上に,秘蔵の鎧と太刀を置いて去っていったのである.

 楠木正儀は,あの楠木正成の子であり,正行の弟である.
 武略に優れた父と兄の長所をよく受け継いでおり,導誉の風流を理解し,それに答える知性と美学と能力を併せ持った武将だったのであろう.

 このエピソードは,導誉と正儀の真骨頂と『粋』さをあますところなく伝える上に,乱世を彩る優れた美談であると,私は思うのである.

「はむはむの煩悩」,2006年12月20日 (水)

 【関連リンク】

「2ch.日本史板」:佐々木導誉ってどうよ?

「はむはむの煩悩」:大原野の花見


 【質問】
 妙法院焼き討ち事件とは?

 【回答】
 尊氏が幕府を開いて,彼に従った多くの武士が大変羽振りがよかったころ,あるとき佐々木導誉の家来たちが,京都郊外で小鷹狩を楽しみ,帰りに比叡山延暦寺の子院(現代の会社で言ったら子会社みたいなもの)である妙法院という寺院の前を通りかかった.

 当時,妙法院の住職は,北朝の光厳上皇の弟であらせられた.
つまり,当時の日本国の元首の弟が住職を務める寺院であり,今も昔も寺院社会の中では屈指の格式を誇る寺である.

 そのときの季節は秋だったので,妙法院の紅葉が大変美しかった.
 すると何と導誉の家来たちが,敷地に入って枝を折るという不届きな所業を始めたのである.
 もちろん,妙法院の僧侶が出てきてマナー違反を注意したのであるが,彼らはそれをあざけり笑って聞きもしない.

 遂に比叡山の僧兵が出動して,彼らをぼこぼこにぶん殴って追い出したのである.

 この報告を聞いて激怒したのが,佐々木導誉である.
 導誉は自ら軍勢300騎を率いて妙法院へ向かい,報復として寺に火をかけて全焼させてしまった.

 卑しい武士が軍勢を率いて,皇族が住職を務める寺を燃やしてしまうなど,日本始まって以来の前代未聞のスキャンダルである.
 比叡山では,当然この事件を重大視し,幕府に抗議して,導誉父子を処刑するように要求した.

 しかし,導誉は足利政権にとっては非常に重要な武将で,野球で言えばクリーンナップを占める打者である.
 南朝の勢力がまだまだ侮りがたいこの時期にあっては必要不可欠な武将であり,尊氏・直義兄弟も適当に聞き流していた.

 しかし,比叡山では神輿を担いで皇居に突入する構えを見せ(強訴),系列寺院まで含めて,宗教行事をすべて中止しようとした.

 そこで幕府は仕方なく,導誉を上総国(現在の千葉県)に流罪にする決定をくだした.

 しかし,導誉は上総国へ護送されるとき(「護送」と言うより,軍勢を率いて「行軍」したと言った方が正しいが),比叡山の神獣である猿の皮で作った腰当を全員につけさせ,道中酒やご馳走を用意させ,美女を侍らせ大宴会を開きながら流罪先へ下っていったのである.
 しかもこの流罪は短期間で解除された模様で,導誉はいつの間にか京都に戻って,これ以降も長く幕府の重要閣僚として活躍し続けたのである.

 日本史でも指折りのマキアヴェリストの面目躍如といったエピソードなのではないだろうか?

「はむはむの煩悩」,2006.06.05 Monday


 【質問】
 白河結城家文書とは?

 【回答】
 白河結城氏というのは,下総の大豪族である結城氏の分家で,今の福島県の白河を本拠とした武家である.
 分家と言っても本家の結城氏を凌ぐ勢力を持ち,南北朝初期には楠木正成等「三木一草」の一人で長く南朝の忠臣として称えられた結城親光が出現した.
 その兄弟親朝も南朝方の武士で,北畠親房からおびただしい数の書状をもらったことで知られるが,結局幕府方へ寝返った.

 白河結城氏は,その後も南陸奥の一大勢力として戦国に至るまで長く繁栄し,白河という戦略上重要な位置を占めた地域を支配したこともあって,京都の将軍や鎌倉公方,その他有力大名から多くの文書を受け取ったこともあり,この文書は現代中世の武家を研究する上できわめて重要な史料となっているのである.

 村井章介編『中世東国武家文書の研究―白河結城家文書の成立と伝来―』(高志書院,2008年)という本は,その名のとおり,白河結城家文書という文書を研究した本で,東大の日本中世史研究者が中心となって長年研究してきた成果をまとめたものである.

 この本の冒頭に収録されている論文・市村高男「白河結城文書の形成と分散過程」に,非常に興味深い事実が記されていたので紹介しよう.

 戦前,この家の研究を行ったのは,結城錦一という人である.
 この人は高名な心理学者であったが,白河結城家のご子孫で当主にあたる人物だったそうである.

 結城は当初,歴史をつまらないと思っていたそうだが,戦前の南朝賛美の時代風潮の中,南朝忠臣の子孫として仕方なく自分の家の研究を始めたそうだ.
 そしたら,
「史料に基づく論証過程は心理学と同じ」
ということに気づいて,だんだんおもしろくなってきて,東大の史料編纂所に入り浸って研究に没頭するようになったそうである.
 そのため,結城の白河結城氏研究は,戦前のものとしてはきわめて高い実証的水準を誇り,この家の文書が各地に分散して収集しづらかったこともあって,近年まで定説的地位を占めていたとのことである.

 近年,『白河市史』が刊行されたり,東大でこの文書の研究が進められたこともあって,結城の研究の誤りがいくつか見つけられ,ようやく研究が進展しつつあるそうであるが,それはともかく,有名な武家の子孫が高名な心理学者となって,自分の家のルーツを探る優れた研究を成し遂げたなんて,なかなかいい話だなあとおれは思うのである.

 【余談】
 そう言えば,足利尊氏の子孫は西南アジア史の大家だったんだよな.
 戦前,旧制高校に在学していたとき,歴史の先生に職員室に呼び出されて,
「明日は君の先祖の悪口を言わせてもらう.申し訳ないが我慢してほしい」
と言われたそうな.

はむはむ in mixi,2008年05月27日19:48


 【質問】
 千葉氏とその同族の粟飯原氏の,南北朝期の動向について教えられたし.

 【回答】
 南北朝時代には足利氏以外の外様の武士たちも多く活躍した.
 その代表選手は佐々木導誉であろうが,導誉と敵対した千葉氏胤やその一族もまた,大活躍して尊氏を支えたのである.
 そこで,千葉氏とその同族の粟飯原氏の南北朝期の動向について,簡単に紹介してみたい.

 千葉氏と粟飯原氏の祖は,桓武天皇の曾孫高望王の子・平良文である.
 つまり,千葉・粟飯原氏は桓武平氏である.下総国相馬郡を開発し,代々下総権介を務め,千葉介を称した.

 平安末期,千葉常胤は石橋山の合戦に敗れて安房国に逃れた源頼朝を迎え,頼朝の創業を助けた.鎌倉を本拠地とするように頼朝に勧めたのも彼である.

 常胤はその功によって頼朝に下総守護に任命され,千葉氏は以降代々同国守護を務めた.下総以外にも,伊賀や大隅の守護ともなった.

 元弘3(1333)年,新田義貞が鎌倉幕府を打倒するために上野国で挙兵すると,千葉貞胤もこれに呼応して蜂起して,鎌倉陥落に大いに貢献した.

 建武2(1335)年,足利尊氏が後醍醐天皇に背いて挙兵すると,貞胤は京都から新田軍に従軍して全国各地を転戦して尊氏軍と交戦した.
 翌建武3(1336)年1月には,尊氏軍との京都の戦いで,貞胤の嫡子・千葉高胤が戦死している.
 貞胤が後醍醐方となったのは,従兄弟の千田胤貞が尊氏方であったからと考えられている.

 戦況は結局足利軍に有利に進み,同年6月,尊氏の京都再占領,10月には義貞は北陸に没落した.
 貞胤も義貞に従うが,越前国木芽峠で,大量の凍死者を出した有名な猛吹雪に遭って新田軍からはぐれてしまう.

 その後貞胤は,室町幕府の越前守護斯波高経に説得されて,幕府方に転じる.
 下総国に強大な勢力を持つ千葉氏を話し合いで味方にしたのであるから,これは目立たないが高経の大きな功績であろう.

 貞胤は幕府に所領をほとんど安堵され,下総守護職の保持も認められた.
 また,鎌倉期に自身務めていた伊賀守護にも数回任命され,遠江守護も務めた.
 貞和4(1348)年の河内国四条畷の合戦では,貞胤も出陣して楠木正行軍と交戦している.
 このように,当初後醍醐天皇方であった千葉貞胤は,一転して忠実な幕府方として活躍し,尊氏に重用されたのである.続きはまた今度.

「はむはむの煩悩」,2008年5月30日 (金)
青文字:加筆改修部分

 前回も述べたとおり,粟飯原氏は平安時代に千葉氏から分岐した同族であるが,南北朝初期の当主粟飯原氏光は,千葉貞胤の実弟で,粟飯原家の養子となった人物である.

 同氏は鎌倉期にも一度断絶して,千葉氏から養子をもらって家を存続させているが,系図によれば,両家が断絶したときはもう一方から養子をとることを当初から取り決めていたそうである.
 足利基氏シリーズで紹介したように,岩松直国と世良田義政も実の兄弟であったし,東国の武家にはこのようなことは割と普通にあったことなのかもしれない.

 建武4(1337)年3月,新田軍が籠城する越前国金ヶ崎城が幕府軍の攻囲によって陥落した.
 このとき,後醍醐天皇の皇子恒良親王が捕えられて京都に護送され,4月毒殺された.

 『太平記』によれば,粟飯原氏光が尊氏・直義兄弟に命じられて親王に毒薬を飲ませたと記されている.
 真偽のほどは定かではないが,開幕早々,氏光が足利兄弟の側近として重要な任務をこなしていたことは事実であろう.

 その後,史料上は氏光の子・清胤の活動が顕著となる.
 惣領の千葉氏が守護を歴任して主に戦場で活躍したのに対し,粟飯原氏は幕府官僚として実務を専らとした傾向が窺える.

 暦応4(1341)年,暦応寺(天竜寺)の地曳,康永1(1342)年8月,天竜寺立柱,同年12月の天竜寺綱引・禄引といった儀式に,清胤は尊氏兄弟に従って参加している.
 この頃は,主に天竜寺の造営事業に携わっていたようである.

 康永3(1344)年3月,清胤は引付方の3番に奉行人として配属される.
 引付方とは,鎌倉幕府・室町幕府の所領に関する訴訟を扱った機関で,当時は直義が統括していた.
 この頃から,清胤と直義の親密な関係が始まるようである.

 同年5月,清胤は直義の新熊野社参詣に供奉,貞和2(1346)年12月,直義が霊夢を見たために鏡を六条八幡宮に奉納したときも,清胤は奉行を務めている.
 貞和3(1347)年2月,直義夫人渋川氏の懐妊による着帯の儀式および6月の出産,いずれも清胤が奉行を務めている.

 同年12月には,清胤は幕府政所執事に抜擢された.
 政所は,将軍家の財政を司る重要機関で,鎌倉幕府から南北朝期にかけては二階堂氏が世襲していた(後に伊勢氏が世襲).
 ここに二階堂氏とは何の関係もない清胤が就任したのであるから,彼がいかに幕府に重用されていたのかは明白であろう.

 粟飯原氏は,宗家の千葉氏以上に幕府権力の中枢に密着していたのである.
 両氏が観応の擾乱でいかなる動向を示すかについては,今度紹介したい.

「はむはむの煩悩」,2008年6月 4日 (水)
青文字:加筆改修部分

 前回述べたように,粟飯原清胤は直義と密接な関係にあったわけであるから,観応の擾乱に際しても直義党に属して活動したのではないか,と容易に予想されよう.

 実際,清胤のような幕府奉行人の多くは,直義の許で訴訟業務に携わっていたこともあって彼の重要な支持層となり,直義派に属して彼と運命をともにしたのである.

 その奉行人の中でも特に直義と親しかった清胤は,『太平記』によれば,上杉重能・畠山直宗といった直義党の重臣とともに直義に呼ばれ,高師直暗殺計画の謀議に加わったとされる.

 しかし,師直を直義邸に呼びだし,暗殺を決行するまさにその瞬間,清胤は突然変心する.

 清胤が師直に目くばせしたため,気配を察知した師直は直義邸を脱出し,暗殺は未遂に終わった.
 その夜,清胤は師直邸に行き,直義の陰謀をすべて暴露したのである.
 つまり,清胤は土壇場になって師直派(実態は尊氏派)に寝返ったのである.

 貞和5(1349)年8月,師直はクーデタを起こし,大軍を率いて尊氏邸を包囲,直義の失脚を要求したが,このとき師直軍には清胤も,伯父千葉貞胤とともに参加している.

 このクーデタは成功して直義は失脚し,尊氏の嫡子義詮が鎌倉から上洛して直義の地位を継ぐが,清胤は義詮の側近となり,義詮の御所奉行となって彼に忠実に仕える.

 千葉貞胤の方は観応1(1350)年1月1日に死去し,子の氏胤が後を継ぐ.

 折りしも尊氏・直義が激突した観応の擾乱の真っ最中で,氏胤は当初尊氏党で京都を守備していたが,戦局が不利と見ると直義党に寝返り,1月15日京都を脱出して直義軍に参加,17日には直義軍として入京,19日には師直の逃亡を阻止するために直義の命で近江国坂本に向かったという.

 2月,尊氏と直義が講和し,高師直一族が暗殺されるが,この頃氏胤の伊賀守護在任が確認される.
 これは直義軍参加による戦功褒賞である可能性が指摘されている.

 尊氏と直義の講和も長続きせず,8月直義は北陸に没落するが,氏胤は今度は尊氏について京都は離れなかった.
 11月,尊氏が直義を倒すために東国に出陣したときは従軍し,関東に下向し各地で直義軍と交戦した.
 正平7(1351)年1月2日,氏胤軍は相模国早河尻で直義党の上杉憲顕軍と戦い,多くの戦死者を出したという.

 要するに,千葉氏胤とその従兄弟粟飯原清胤は,観応の擾乱に際しては,驚くほど的確な情勢判断を行い,常に優勢な側について生き延びることに成功したのである.
 活動の舞台を関東に移して以降の氏胤についてはまた今度・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年6月 8日 (日)
青文字:加筆改修部分

 足利尊氏に従って関東に下った千葉氏胤は,その恩賞として上総守護に任命される.
 所謂「薩捶山体制」の一環であるが,ここに氏胤は本国の下総と併せて,2ヵ国の守護となるのである.

 しかし,これは長く続かなかった.
 文和2(1353)年7月末,尊氏は大軍を率いて再び京都に向かう.
 このとき,小山氏政・結城直光・佐竹義篤・小田孝朝など多くの関東武士が尊氏に従うが,氏胤はなぜか尊氏軍に従軍せず,関東にとどまった.

 そして文和4(1355)年,氏胤は上総守護職を取り上げられ,同職は佐々木導誉に与えられる.

 佐々木氏と上総国は,どうも密接な関係があったらしい.
 数年前旧ブログで「妙法院焼き打ち事件」について紹介したことがあったが,この事件で比叡山と衝突した導誉は,上総国へ流罪処分を下される.
 上総守護は,氏胤の前任者は導誉の子秀綱であった.

 こうした上総国と以前からの関係に加え,導誉の長年にわたる幕府への貢献が,尊氏に高く評価されたのが,この人事の大きな理由であろう.
 導誉は観応の擾乱では一貫して尊氏に味方し,尊氏・義詮の東西分割統治期にあっては西国の義詮に仕え,命がけで彼を助けた.
 上総守護であった導誉の子秀綱も,この時期の南朝との京都争奪戦の中,戦死している.
 同じ尊氏党でも,日和見をして直義に寝返ったりした氏胤とは,貢献度が全然違うのである.

 しかも上総国は,鎌倉時代には足利氏が守護を務めていた国であり,足利氏とも深い関わりのあった国であった.
 建武期には,尊氏の執事高師直が守護となっている.
 そういう面でも,同じ外様でもより信頼ができる導誉に,上総の統治を任せようと尊氏が判断したのも自然だと思う.

 しかし氏胤は,これに実力を行使して抵抗する.
 氏胤は上総国の地頭御家人たちに対して,導誉が派遣した守護代の命令に従わないようにけしかけ,さらに下総・上総国内に点在する導誉の所領を侵略し,押領した.

 導誉は氏胤の非法を幕府に提訴し,勝訴の判決を得るが,この判決が実施された形跡はない.
 もちろん,氏胤が実力で阻止したのである.

 結局,遂に康安2(1362)年に氏胤はふたたび上総守護に復帰する.
 導誉は義詮期には絶大な権勢を誇り,執事を次々に就任させては失脚させる「キングメーカー」ぶりを発揮するなど,権力抗争には絶対に敗北しなかった政治家であるが,千葉氏胤だけには上総が京都から遠く離れた遠隔地だったこともあって勝てなかったようである.

 だが,これも長くは続かなかった.
 旧直義党の上杉憲顕が鎌倉府に復帰したために,間もなく上総守護は世良田義政に交替し,次いで岩松直明を経て,犬懸上杉氏相伝の分国となることは,以前も紹介したとおりである.

 だが,千葉氏は本国の下総国の守護は戦国期に至るまで維持し,庶流も多く鎌倉公方足利氏の直臣である奉公衆に採用され,鎌倉府内で一定の名誉ある地位を保つことに成功する.
 奉公衆が道で外様大名に会ったとき,千葉氏にだけは馬を返して,その上でもう1度礼をすることになっていたそうである.
 千葉氏がいかに大切に扱われていたのかが,これからも窺えるであろう.

 さて,分家の粟飯原清胤の方であるが,彼は尊氏の東国下向後も京都にとどまり,義詮に御所奉行として忠実に仕え続ける.
 そして文和2(1353)年6月,南朝軍と京都東部にある神楽岡で交戦し,戦死する.
 清胤の子孫は奉公衆となって,ずっと在京して京都の将軍に仕えたのである.

※参考文献

山田邦明「千葉氏と足利政権」(同『鎌倉府と関東―中世の政治秩序と在地社会』校倉書房,1995年,初出1988年)

「はむはむの煩悩」,2008年6月13日 (金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 土岐頼遠とは?

 【回答】
 佐々木導誉と同時代を生きた武将で,美濃国(現在の岐阜県)を本拠地とした,土岐頼遠という者がいた.
 彼もまた,尊氏を創業から助け,多くの合戦で手柄を立てた武士であった.

 特に著名なのは,南朝の北畠顕家が奥州から京都に攻め上ってきたときに,美濃国の青野原(現在の関が原!)で,他の足利系武将とともに北畠軍を迎え撃ち,近江国侵入を阻んで南進させた功績であろう.

 結局,この転進があだとなって,顕家は摂津国天王寺で,高師直軍に敗れ,敗死するのであるが,かつては尊氏を九州に追い落としたほどの武将であっただけに,彼の戦死が南朝サイドに与えた戦力的・精神的打撃は計り知れないものがあったに違いない.

 かように頼遠は,確かに足利軍屈指の勇将ではあった.

 この頼遠が,あるとき笠懸を楽しみ,宴会で酔った帰りに,光厳上皇の行列と遭遇した.

 光厳上皇というのは,当時の日本の最高権力者であった.
 尊氏が後醍醐天皇に離反して挙兵したとき,ただの反乱軍に過ぎなかった足利軍にお墨付きを与え,官軍に仕立て上げたのは彼であり,室町幕府にとっては言わば恩人中の恩人,足を向けて眠れない人であった.

 当然,頼遠は馬から下りて,光厳院(「院」というのは,「上皇」の別称と考えて差し支えない)に平伏しなければならない.

 ところが頼遠は,泥酔していたこともあって,
「院と言うか,犬と言うか,犬ならば,射落としてやろう!」
と大声で暴言を吐いて,いきなり上皇の牛車に矢を連射したのである!
 牛車は中破し,上皇に供奉していた人々も,みな散り散りに逃げてしまった.

 この事件を聞いて激怒したのが,足利直義である.
 直義は頼遠を大逆罪と断じ(そりゃそうだ),土岐一族を殲滅させる方針を打ち出した.

 頼遠たちはあわてて本拠地の美濃へ帰り,国内の武士を組織して幕府に対抗しようとしたが,誰も頼遠に味方しない.

 仕方がないので,京都に戻って,当時後醍醐天皇や尊氏・直義兄弟に篤く崇敬を受けていた,臨済宗の高僧・夢窓疎石に泣きつく.

 直義は疎石のとりなしもあって,土岐一族の殲滅はようやく撤回したが,頼遠は逮捕し,侍所頭人・細川顕氏に彼の身柄を引き渡して,六条河原で首を刎ねさせたのである.
 武士が処刑されるときは,切腹が普通である.
 武士の斬罪は,もっとも恥ずかしい処刑方法で,彼は名誉すら認められなかったのである.

 過酷な処分であるが,状況を踏まえると,あらゆる意味で致しかたなしと言うべきであろう.

「はむはむの煩悩」,2006.06.06 Tuesday


 【質問】
 佐々木導誉と土岐頼遠とで,その所業に対して幕府の対応に大差が出たのは何故なのか?

 【回答】
 室町幕府の武将である佐々木導誉と土岐頼遠だが,この2人,一見すれば非常に共通点が多い.

 2人とも,室町幕府の中では,足利一門には属さない外様の武将であり,足利尊氏の創業を当初から助けた.
 「婆沙羅」と言われる,当時の伝統や権威を否定した大名であり,寺社・公家勢力という既存の旧権力に大胆にも挑戦した点でも共通している.
 一般向けの南北朝時代の歴史の本では,この2人の言動を共通のものとして,列挙してあるものも散見される.

 しかし,彼らの所業に対する幕府の対応は,あきらかに正反対であることに,容易にお気づきになられるであろう.

 導誉の妙法院焼き討ちについては,幕府は本気で処罰しようという意志は微塵も感じられない.
 妙法院の本寺である比叡山が,あまりにもうるさく言ってくるものだから,仕方なく流罪にして,それもごく短期間で解除している.

 しかし頼遠の光厳上皇の牛車襲撃に対しては,幕府は極めて厳格な処置を下している.

 直義は当初,土岐一族を全員処刑する方針を打ち出しており,自身深く帰依していた臨済宗の高僧・夢窓疎石のとりなしがあって,ようやく頼遠一人の処分にとどめている(頼遠に同行していた二階堂は流罪に処している.また,直義が疎石を利用して頼遠を欺いて処刑したとする解釈も存在するようである).

 それも,切腹すら許さない,武士にとって最高の屈辱を与える処刑方法を採用しているほどなのである.

 この差はいったい,なぜなのであろうか?
 導誉の所業は,一見突発的で衝動的に見えるが,子細に検討してみると,実は高度に計算され尽くした行動であったことがよくわかる.

 佐々木氏は,鎌倉時代以来近江国(現在の滋賀県)を勢力基盤とした武士団であったが,同じ近江に所在する比叡山延暦寺とは,権益が競合し,しばしば対立・衝突を繰り返す存在であった.

 それ以上に,王朝鎮護をその存在理由とする比叡山は,基本的に朝廷よりで,武家に対しては対立的であった.
 源頼朝の時代から,しばしば反幕府的言動をとってきたことは有名な事実である.

 当然足利政権に対しても,潜在的に反体制であった.
 尊氏の挙兵・行軍の折には,2度にわたって後醍醐天皇をお招きし,籠城の場を提供して,足利軍に頑強に抵抗したほどである.
 『太平記』によれば,そのため,尊氏も一時は,比叡山を潰すことを本気で考えたこともあったようである.
 室町期以降も潜在的に反武家で,6代将軍義教とも鋭く対立し,根本中堂を焼いて多くの僧侶が自殺したこともあったし(ちなみに,義教自身が,将軍になる前は天台座主,つまり比叡山のトップの僧侶であった),織田信長が焼き討ちした史実は,あまりにも有名であろう.

 このような背景を踏まえてみれば,導誉の妙法院焼き討ちは,決して突発的・衝動的な事件ではなく,室町幕府・佐々木氏と比叡山,もっと大きく言えば,武家勢力全般と天台宗との潜在的・根本的対立がその根底にあった,誠に根深いものであったと言えよう.

 従って,このような状況下における導誉の行動は,常に反武家的な言動をとりがちな比叡山に対する強烈な見せしめであり,威嚇であった.
 言わば,導誉は幕府の本音を確信的に代弁したに過ぎず,これでは幕府も本気で彼を罰する意志など持つわけはない.
 尊氏・直義も腹の中では,導誉め,よくやったと拍手喝さいを送っていたことであろう.

 対して頼遠の所業はどうか?

 光厳上皇は,室町幕府にとっては恩人中の大恩人である.
 彼が院宣を出してくれたからこそ,足利氏は朝敵の汚名をまぬがれ,官軍となることができたのである.
 彼がいなければ,おそらく足利氏は敗北し,到底幕府など開くことはできなかったであろう.

 そのような方を犬呼ばわりして,矢を射かけるなど,愚行・蛮行もいいところである.
 一歩間違えれば,お命だってあぶなかったのである.
 幕府にとっては,自分で自分の首を絞める自殺行為に等しい.

 こういう大バカな所業をしでかした武将に対しては,何があっても厳罰に処すのは,まことに自然な対処であり,正しい判断である.

 確かに頼遠は,戦に強い武将であり,戦力的には喉から手が出るほどほしい存在である.
 しかしそれを差し引いても,彼の院に対する蛮行は許すわけにはいかなかったのである.

 こうして見ると,この2人,しでかした事件は一見よく似ているが,その本質はまるで異なっていることがよくわかるであろう.

 導誉は,どれだけ無茶で破天荒な行動をしても,その背後には,高度にされ尽くした計算があって,慎重である.
 決して,自分を破滅に追い込むようなへまはしない男である.

 対して頼遠は,単に思い上がって,後先のことをまったく考えず,誰にも共感されない暴力を振るっているだけである.

 卓越したヴィルトゥと軽率な蛮勇を混同してはならない.

 世の中,一見似たものがたくさんあるが,真贋を見損なうことのないように,我々も心がけたいものである.

「はむはむの煩悩」,2006.06.13 Tuesday


 【質問】
 成身院光宣とは?

 【回答】
 以前,御座さんの文章を引用させていただいたことがあったが,今回もご本人のご許可を得て引用させていただく.

非常に興味深い人物の伝記である.

~~~引用開始~~~

 応仁の乱真っ最中の文明元年11月20日,
 興福寺大乗院門跡の尋尊は,日記に次のように記しています.

「光宣法印,円明院に於いて今日辰刻に入滅す.八十歳…(中略)今度一天大乱ハ一向此仁計略の旨と云々,其外,軍方に就き,種々の悪行,他国・自国,其の隠れ無きの間,一期候畢んぬ,定めて清盛公の如き由,兼日各相存ずるの處,思いの外時宜,中々是非無き次第也…」
(現代語訳:
 光宣法印が円明院で今日の辰の刻に亡くなった.80歳だという……
 今回の天下の大乱は,全てこの男の計略によるという.
 その他,戦争に加わって数々の悪事を働いたことは,他国においても,ここ大和国においても明らかであったので,天罰によって,このように生涯を終えることになった.
 その悪行ぶりはまるで平清盛のようだと前々から思っていたところ,意外にも天罰が下って亡くなった.
 まあ,これも運命というものだろう)

「一天大乱」,すなわち応仁の乱を引き起こした張本人と尋尊から名指しで批判された光宣という男,一般的にはマイナーですが,彼こそは日本史上屈指の怪僧であり,その半生を陰謀と戦争に費やしたマキャベリズムの権化である,と私は考えています.

 永享元年(1429),大乗院衆徒豊田中坊と一乗院衆徒井戸との間での争いが勃発しました.
 筒井氏は一族の井戸氏を支援したのに対し越智氏と箸尾氏は豊田中坊を支援し,永享3年の筒井氏による箸尾氏攻撃をきっかけに,大和国人たちは各々両派に続々と参戦,戦火は大和全土に広がりました.
 世にいわれる「大和永享の乱」です.

 永享4年になると,越智・箸尾の攻勢に筒井は窮地に陥ります.
 ここで登場するのが,筒井氏出身の興福寺僧,成身院光宣です.
 光宣は時の将軍,足利義教に援軍を要請します.
 幕府は大和国人同士の私戦との見解から不介入の立場をとっていたのですが,光宣の申し入れを受けて,将軍義教が周囲の反対を押し切って筒井氏支援を決定します.

 幕府軍の発向を知って越智方は大和南部に撤退しました.

 永享6年になると越智方と筒井方の対立が再燃し,8月には筒井順覚兄弟が越智氏に敗れて戦死してしまいます.
 ここで再び光宣が登場.
 同7年9月,再び光宣の懇請を受けた義教は大軍を派遣し,越智方を駆逐しました.
 しかし攻めると退き,退くと攻める越智方のゲリラ戦術により,合戦は泥沼化の様相を呈します.
 同11年に幕府はようやく越智・箸尾を鎮定しました.
 筒井氏はようやく一息つけたわけです.

 ところが乱後,筒井氏内部では河上五ケ関の代官職を巡って惣領の筒井順弘と成身院光宣との間に対立が起き,嘉吉元年(1441)10月,光宣は順弘を追放します.
 光宣は弟である相国寺の僧順永を還俗させ惣領にし,自らは代官職を獲得しました.
 とはいえ,事実上の筒井氏のトップは光宣でした.

 しかし大和への勢力拡大を図る河内守護畠山持国,河上五ケ関の代官職を狙う大乗院門跡の経覚は,成身院光宣と対立し,反光宣派の越智氏や筒井順弘を支援しました.
 後ろ盾であった義教は既に亡く,光宣は苦戦を強いられます.
 筒井順弘は嘉吉3年正月,越智氏と手を結び,筒井城を一時奪回します.
 これに対し光宣は順弘を殺害し,姿をくらまします.
 同年9月,反筒井の勢力である豊田・古市・小泉らの官符衆徒に攻撃を受けて筒井光宣は奈良から没落し,筒井城に逃れます.
 更に11月には筒井光宣治罰の綸旨が発給され,絶体絶命.

 けれども,ここで終わらないのが,我等が光宣.
 翌4年(文安元年,1444)初頭に経覚・畠山方は筒井城を攻めますが光宣は守り抜き,更に文安2年9月の鬼薗山城の戦いで筒井氏が経覚方を破り,筒井順永は官符衆徒・奈良中雑務検断職に返り咲き,光宣は河上五ケ関の代官職を回復し,揚げ句の果てには幕府の赦免まで得ます.
 享徳2年(1453)に経覚方の有力武将・古市胤仙が死去すると,経覚方と筒井方の和解の動きが進み,翌3年には経覚と光宣の対面が実現しました.

 ところが光宣は,こんな中途半端な平和に満足するような人間ではありませんでした.
 畠山氏内部で後継者争いが起こっていることに目をつけ,畠山持国の養子である弥三郎を支援します.
 経覚を援助する畠山氏の弱体化を狙ったのです.
 享徳4年(康正元年,1455)3月,畠山持国が死去すると,7月には畠山義就(持国の実子)派の越智氏らと畠山弥三郎派の筒井・箸尾氏らとの間で戦いが始まります.
 光宣らは敗れ,逐電します.
 長禄元年(1456)十月には筒井氏・箸尾氏らの所領は幕府により没収されましたが,光宣はまだまだ終わりません.
 管領細川勝元に働きかけ,そのとりなしで長禄3年6月,成身院光宣・筒井順永・箸尾宗信らは赦免されて奈良に復帰しました.
 そして畠山弥三郎が合戦で討たれると,光宣は弥三郎の弟である弥二郎を擁立しました(畠山政長).
 政長は同9月には細川勝元の協力を得て上洛を果たします.

 長禄4年(寛正元年)9月になると,細川勝元の陰謀により畠山義就が失脚,河内に下国します.
 義就を滅ぼす好機と見た稀有の策略家・光宣は幕府に働きかけ,閏9月,義就追討命令を出させます.
 河内周辺の守護・奉公衆を総動員する大規模な追討令で,翌10月,光宣は大和国竜田・嶋で義就方を撃破します.
 敗れた義就は南河内の嶽山に逃げ込み,籠城戦を展開します.

 寛正4年4月,光宣はそれまで紀州や南大和に通じていた嶽山城南口を断ち切りました.
 兵粮が尽きた嶽山城をついに落城し,義就は高野山,更には吉野に逃れました.
 翌5年9月には細川勝元に代わり畠山政長が管領に就任しました.
 全て光宣の戦功あってのことです.
 光宣にしてみれば,してやったり,といったところでしょう.

 ところが,当時最強の猛将であった義就はしぶとかったのでした.
 畠山政長は筒井・古市らに義就討伐を命じますが,義就は越智家栄らを味方につけて政長方を圧倒してしまいます.
 しかも文正元年(1466)暮れには,文正の政変や徳政一揆といった京都の情勢不安に乗じて,義就が山名宗全・斯波義廉の支援を背景に兵を率いて上洛しました.
 翌文正2年(応仁元年)正月には義就は義政から赦免され,政長を追って畠山氏の家督と紀伊・河内・越中の守護に復帰します.

 慌てた光宣は上洛して細川勝元に力添えを頼みますが,時すでに遅し.
 政長は屋形を義就に引き渡すよう将軍義政から命じられ,管領は政長に代わって斯波義廉が任じられました.
 政長一筋だった光宣にとって悪夢のような事態になってしまいました.
 光宣は政長と共に上御霊社に陣取り,押し寄せる義就軍と戦いました.
 この御霊林の戦いによって,応仁の乱の火ぶたは切って落とされたのでした.
 この戦いは山名宗全・斯波義廉の加勢を得た義就の圧勝に終わり,政長は敗走します.

 しかし細川勝元は与党を募り,反撃に転じます.
 京都では5月26日に,山名方の一色義直亭を攻撃しました.
 この作戦を立てたのも,また光宣でした.
 そして以後も光宣は東軍の軍師として活躍したのでした.

 まさに波瀾万丈の生涯ですね.
 彼が大和で暴れ回ったことが応仁の乱に繋がっているわけで,日本史上最大の大乱をプロデュースした成身院光宣は最強の策士と言えるでしょう.
 何で,こんなに面白い奴の人物伝が出版されないのか,不思議です.

~~~引用終了~~~

「はむはむの煩悩」,2007年6月30日 (土)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 80で亡くなったのなら,堂々の大往生と言うべきで,「天罰」でもなんでもないような気がしますが?(笑)

 【回答】
 これは私も同じことを思いました(笑)

 まあ,光宣は,ずっと一貫して興福寺大乗院と対立し,抗争しているようですから,大乗院門跡尋尊の立場からすれば,不倶戴天の仏敵でざまあ見ろって感じなんでしょうね.

 ちなみに,興福寺は中世を通じてずっと大乗院と一乗院という二大院家の勢力が強く,室町時代には彼らが大和守護も務めていますし,両院家が二大政党の議会政治のような政治を展開していますね.

 〔略〕

 光宣は,フィレンツェで神権政治を展開した怪僧ジロラモ・サヴォナローラを何だか彷彿とさせます.

「はむはむの煩悩」,2007年6月30日 (土) 13:17
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 南北朝時代の南部氏について教えられたし.

 【回答】
 南部氏は,大別して八戸南部氏と三戸南部氏の2系統に分けられるそうである.

 戦国時代に勢力を強め,江戸時代に南部藩の大名となった南部氏は三戸南部氏であるが,南北朝~室町時代にかけては,むしろ八戸南部氏の方が勢いが強かったとのことである.

 その八戸南部氏は南北朝時代には,楠木正成や新田義貞にひけをとらないほど,忠実な南朝方であった.
 同氏から出た南部師行は,陸奥将軍府の北畠顕家配下の武将として,軍事的に貢献しただけではなく,卓越した行政官として,北東北地方で顕家の命令を執行する重要な役割を果たしていた.
 延元3年(1338),南部師行は顕家に従って奥州からはるばる近畿地方まで大遠征し,和泉国阿倍野(大阪府)で室町幕府方の高師直軍と激突し,壮絶な戦死を遂げた.

 しかし,師行の兄弟政長が,その後も南朝方として東北地方の幕府軍と戦い続けた.
 この政長の孫・信光が,後村上天皇から拝領したと言われる大鎧が今でも現存し,国宝に指定され,同八幡宮に行くと拝観することができる.

 八戸南部氏は,江戸時代になると岩手県の遠野に移住し,遠野南部氏となった(江戸時代の八戸藩2万石の南部氏は,三戸(盛岡)南部氏から出た分家である).

 この遠野南部氏が残した遠野南部家文書には,北畠顕家が発給した文書が大量に残存している.
 顕家関連文書のほぼ8割ほど網羅していると考えられ,北畠顕家の研究には欠かせない重要な史料となっている.

根城の復元本丸

 根城とは,南北朝時代に南部師行が築城し,江戸時代まで続いた城である.
 国史跡に指定され,今でも複雑な遺構がよく残っている.

 私が行ったときは,あいにく雪が積もっており,しかも閉館で,中を見ることができなかった.
 機会があれば,雪がなくて開館しているときにまた行ってみたいと思う.

根城に隣接する八戸市博物館の入り口に立つ,南部師行の銅像

「新はむはむの煩悩」,2011年1 月17日 (月)


 【質問】
 南北朝時代のペンパル魔について教えられたし.

 【回答】
 ひさびさに,御座さんがmixiに書かれた記事を転載させていただく(都合により,一部改変した部分がある).転載を快諾してくださった御座さんと,新名一仁さんに改めて御礼申し上げます.
 ありがとうございました.

~~~引用開始~~~
 南北朝時代,最も多くの書状を書いたのは,おそらく北畠親房と今川了俊であろう.
 東の横綱・北畠親房と,西の横綱・今川了俊.

 片や関東で活動した南朝方の公家,片や九州で活動した北朝方(幕府方)の武士と,2人の立場は全く逆であるが,周辺の武士たちに手紙を送りまくって何とか味方につけようとしたところは同じである.

 それだけではなく,この2人には共通点が少なくない.

①教養人である.

 北畠親房は,有名な歴史書『神皇正統記』や有職故実書『職源鈔』などを著しており,まさに博覧強記というか,当代一流の学者であった.
 また今川了俊も,歴史書『難太平記』や紀行文『道ゆきぶり』を著しており,歌人としても有名であった.

 2人とも,その巧みな文才を活かして,周辺武士たちを口説いていたのである.

②卑劣な騙し討ちを行い自滅.

 そんな教養溢れる2人であるが,高潔な人物かというと,そうでもない.かなり卑怯である.
 北畠親房の場合は,関東から京都へ帰還してからの話であるが,北朝との和睦交渉の最中に奇襲を仕掛けるという謀略を用いた.
 これは一時的には成功して京都を占領することができたが,1ヶ月で幕府軍に奪還された.
 長期的に見ると,幕府を怒らせ講和の可能性をゼロにする愚策であり,まさに策士,策に溺れるといったところである.

 今川了俊は水島の陣に島津氏久・大友親世を招き,氏久に少弐冬資の来陣を促すよう依頼した.
 冬資は氏久の勧誘を容れて来陣するが,了俊は冬資を謀殺してしまう.
 面目を潰された氏久は激怒し,了俊の元を去る.
 新名一仁氏が明らかにしているように(※),島津氏を敵に回したことで,了俊の南九州攻略は結局,失敗に終わった.

③口先では調子が良いが,誠意がない

 2人とも書状の文面では,かなり調子の良いことを書いているが,具体的な恩賞の話になると,タテマエ論やレトリックでごまかす傾向が強い.

 武士たちの恩賞要求に対する,北畠親房の有名な言葉を引用する.
「新しい恩賞地については,現在はかなえられない.なぜなら,武士である貴方たちは代々弓矢をもって仕える家である.
 だが世が乱れてその心根が定まらなくなってきたのは残念であるが,つまるところ天皇に刃向かった過ちを悔いて降参してくる時には,所領の半分,もしくは三分の一だけ安堵(保証)してもらえるというのが昔からの習わしである.
 にもかかわらず今回,降参者に対して所領の全てを安堵するというのだから,たいへん寛大な処置ではないか.
 にもかかわらず長年敵方として反逆してきた者たちが,まだ降参して味方に転ずる前から大量の恩賞地を望むのは,武士の名誉を汚す恥知らずの行為ではないか.
 また朝廷にしてみても,道理にしたがって武士を召し使ってこそ,今後は何の疑いも無く彼らに頼ることができよう.
 まるで商人のようなさもしい根性を見せては,どうして彼らを将来,朝廷で用いることができよう.
 であるから,まず本領は安堵しよう.
 そして今後大きな功績があったなら恩賞を与えよう.
 このことを石川氏に伝えてほしい」
 白河結城氏からこの言葉を伝えられた石川氏が,満足しなかったのは言うまでもない.

 また今川了俊は,島津氏久を討つべく反島津の武士たちを一揆として組織し,島津氏から所領を没収して一揆に恩賞として与えることを約束していたが,了俊にとっては島津氏よりも南朝の菊池氏を打倒することの方が優先事項であったため,一方で島津氏との和平の道を探るという一揆への裏切りを行っている.
 この結果,島津氏久は一時,了俊の元に帰した.
 これに怒った一揆を宥めるため,了俊は書状を書いている.
「自分は私利私欲のために行動したことは1度もなく,常に我が身を顧みずに将軍家のためだけに行動している.
 菊池退治に並行して島津退治を行っても良いが,その場合はあなた方にたいへんな苦労をかけることになって申し訳ないので,島津退治は行うべきではないと思う.
 また島津問題が平和的に解決すれば菊池退治も容易になり,天下のためにもなると考える」との強弁.
 あげくの果てには,
「氏久が降参したが,あれはあれ,これはこれで,あなた方とは関係ない.
 あなたたちは各々,将軍家への忠義に励めば良いのだ」などと言い出す始末である.

 結果,彼らの了俊への不信感は募り,一揆は崩壊するのである.
~~~引用終了~~~

 ※新名一仁「康暦・永徳期の南九州情勢」(『都城地域史研究』10,2004年)

「はむはむの煩悩」,2008年7月 4日 (金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 足利方に味方した新田一族について教えられたし.

 【回答】
 新田義貞については著名な歴史上の人物であるので,説明に多言は要さないであろう.
 清和源氏の末裔で,後醍醐天皇の命令に従って鎌倉幕府打倒の兵を挙げ,鎌倉を攻め落とした勲功第一の武将である.
 同じ源氏の嫡流である足利尊氏が後醍醐に造反して挙兵した後も,後醍醐方として南朝の重鎮となって各地を転戦し,最後は越前国の藤島で非業の戦死を遂げた.

 当然,ほかの新田一族も多くは南朝方として室町幕府と各地で戦い続けた.四国で抵抗を続けた義貞の弟脇屋義助や,武蔵国矢口渡で畠山国清に謀殺された次男義興といった人物が,比較的知られているところであろう.
 義貞を筆頭とする新田一族は,戦前の皇国史観では,逆賊尊氏に対して果然と戦った,楠木正成と並ぶ「忠臣」に位置づけられていた.

 しかし,実は新田一族の中でも,足利方に属して室町期まで存続した支流は割と多い.
 今日は,そうした足利方の新田一族について,簡単に紹介したい.

 まず,岩松氏が挙げられる.
 岩松氏の祖は,足利義純が新田氏の祖義重の孫娘との間にもうけた時兼である.
 足利義純は,その後義重の孫娘と離婚して,畠山重忠の後家(北条時政の娘)と再婚し,畠山氏を相続する.
 そのため,時兼は義重から新田荘内の岩松郷を与えられ,岩松を名字とするのである.
 義貞が上野国で鎌倉幕府討幕の挙兵をしたとき,岩松経家も新田軍の有力武将として義貞に従軍した.
 彼の活躍は顕著だったようで,幕府滅亡後,後醍醐天皇から尊氏・直義兄弟に準じるほどの莫大な恩賞を与えられ,建武政権の要職にも就く.
 その頃,足利方に転じて,関東で直義の有力武将となり,北条高時の遺児時行が起こした中先代の乱では,時行軍を迎撃して戦死する.

 経家の子直国や弟と考えられる頼宥も尊氏に従って各地で戦い,頼宥は伊予国や備後国の守護を務めている.

 ほかにも,世良田義政が上総,新田大島義高が三河の守護を一時期務めている.

 また,里見氏も多く足利方に属している.

 興味深いのは大館氏である.
 大館氏明は南朝方として伊予で活動し,細川頼春の攻撃を受けて戦死している.
 ところが,子義冬が佐々木導誉の縁で幕府の近習となり,子孫は政所の奉行人として繁栄した.
 室町中期には,この家から出た今参局という女性が将軍義政の乳母となり,政界に強力な発言力を有したほどであった.

 しかし,最も成功し,広く繁栄した新田氏は,何と言っても山名氏であろう.
 山名氏の祖義範は,源平両勢力の板挟みとなり,優柔不断で最後まで去就を明確にしなかった父義重と異なり,源頼朝に当初から従い,頼朝に重用されて既に宗家の新田氏よりも強大な勢力を有していた.
 南北朝期,山名時氏は尊氏に当初から従って数々の武功を挙げ,丹波・若狭の守護となっている.
 その後,観応の擾乱では直義や直冬方となり,南朝方に転じて幕府に抵抗し続けるが,義詮の時代に幕府に帰参する.
 その後,一族で11ヶ国の守護を占め,「六分の一殿」などと称されるようになった.

 このように山名氏の勢力が強大になりすぎたため,将軍義満は一族内部の対立をたくみに利用して勢力削減をはかり,明徳の乱で山名氏清を打倒し,山名氏を但馬・伯耆・因幡三ヶ国の守護に転落させる.
 とは言っても,室町幕府の有力守護家であることには変わりなく,室町期には赤松・一色・京極氏と並んで,幕府の侍所頭人を務める「四職」の家柄となった.
 応仁・文明の乱では,山名宗全が西軍の総帥として,幕府を二分して戦ったことはよく知られている史実であろう.

 その後山名氏は,尼子・毛利氏や織田氏の侵攻を受けて衰退するが,山名豊国が徳川家康に仕えて江戸時代に家を存続させることに成功する.
 そして明治元(1868)年,山名義済が1万1千石に加増されて大名に昇格し,同17年義路が男爵を授けられる.

 いやはや,何ともしぶとい一族である.

「はむはむの煩悩」,2007年3月11日 (日)


 【質問】
 新田義興とは?

 【回答】
 新田義興は,新田義貞の次男である.

 義貞の嫡男は義顕であるが,新田義顕は建武4(1337)年3月,越前金ケ崎城を幕府軍に包囲され,後醍醐天皇の皇子である尊良親王とともに自害した.
 であるので,本来は次男である義興が家を継ぐべきであるが,彼は妾の子であるので義貞にはまったく愛されず,三男の義宗ばかり重用されて,義興は上野国にずっと放置されていたようである.
 言わば尊氏における直冬的ポジションに位置した人物であったようである.

 同年,北畠顕家が奥州から2度目の上洛戦を開始したとき,幼名を徳寿丸といった彼は,わずか6歳にして顕家軍に参加して大戦果を挙げた.
 吉野で後醍醐天皇が彼をご覧になり,その勲功を褒賞して御前で元服させて,義興と名乗らせたのである.

 父義貞の資質をよく受け継いで,非常に優れた武将で,正平7(1352)年には東国で挙兵して一時は尊氏を鎌倉から追い出して占領したほどである.
 その後も武蔵国で尊氏と一進一退の激戦を繰り広げ,最終的には敗北して越後国に逃れたものの,新田一族で越後の半分ほどを掌握し,あなどりがたい勢力を保っていた.

 延文3(1358)年,尊氏が死去した直後,足利基氏が鎌倉公方を務めていた時期に,武蔵・上野の南朝方に要請されて武蔵に赴き,ゲリラ活動を行って幕府方を大いに苦しめた.

 関東執事兼武蔵守護畠山国清は,責任を持って義興を鎮圧しなければならず,ろくに寝食もとらずに大軍を差し向けて義興の潜伏場所を捜索したが,容易に逮捕することができなかった.
 今も昔も,正規軍がゲリラを相手に戦うのは非常に難しかったようである.

 国清は何としても義興を討つために昼夜寝ずに戦略を練り,竹沢右京亮という武士を呼び寄せた.
 竹沢は,去る正平の武蔵野合戦のときは,義興軍に従軍して功績のあった人物である.
 それがいつしか足利方となっていたのであるが,国清は彼なら義興も油断するに違いないと考えて,彼といろいろと作戦を練った.

 帰宅した竹沢は,国清との打ち合わせのとおり,わざと法律を破って大勢の美女を呼び寄せて大宴会を開き,十数日かけてギャンブルをして遊びまくった.
 国清はこれも打ち合わせどおり,わざと激怒して竹沢の所領を没収して追放した.

 こうして竹沢は義興の許に逃れて彼に取り入ったのであるが,義興はこれを疑って,最初は面会もせず,秘密の相談にも参加させなかった.

 そこで竹沢は,京都から少将殿という16~17歳くらいの美女を呼び寄せ,自分の養女にして義興に差し出した.
 義興はやっぱり女の子が大好きだったので,この子にマジ惚れしてしまった.

 ほかにも,義興や彼が越後から連れてきた武士たちにお酒や鎧,馬,太刀などをたくさん進呈したので,半年ほど後には彼らは遂に竹沢をすっかり信用して,ゲリラの作戦や人数などの軍事機密を何でも竹沢に漏らすようになった.

 9月,頃合いよしと見た竹沢は,中秋の名月の宴を口実に義興を自宅に招いて,そこで謀殺しようとした.
 竹沢の申し出に,義興はもちろん何も疑わず出かけようとしたが,そのとき少将局から,
「よくない夢を見ましたので,夢説きに尋ねましたところ,7日間は外出してはならないと言われました.
 自重してください」
という手紙が来たので,外出を中止し,竹沢を帰宅させた.

 これを知った竹沢は翌日,少将局を呼んで殺害して,死体を堀へ捨ててしまった.

 単独では義興を討てないと悟った竹沢は,国清に頼んで,江戸遠江守と甥の江戸下野守を呼び寄せた.
 江戸は彼らも国清に所領を没収されたという設定にして,義興にこの恨みを晴らすための鎌倉攻撃を進言した.
 当時,基氏は鎌倉にはおらず,武蔵国入間川の陣に滞在していたのであるが,まず鎌倉を占領し,相模国を制圧して大勢力となってから基氏・国清と対決する戦略を申し出たのである.
 江戸のこの進言は,絶大な信頼を寄せる竹沢が取り次いだので,義興がこの嘘にたやすく騙されたのは言うまでもない.

 そして10月10日,鎌倉への道中,多摩川の渡場である武蔵国矢口渡で,竹沢は江戸の軍勢を隠れて待機させ,船の底に穴を開けて栓をしておいた.

 何も知らない義興たちは,まんまとこの船に乗ってしまった
(しかも目立たないようにと新田軍を分散させて戦力を減らしておくこの周到さ!).
 川の中ほどに来て,これまた当然,竹沢の息のかかった渡し守と水手が櫓を水に投げ捨て,船底の栓を抜いて泳いで逃げ去った.

 彼らは重い鎧を着ているので,多摩川のような水深の深い大河では溺れ死んでしまう.
 鎧を脱いで泳いで逃げようとしても,川岸には江戸の伏兵がいて討たれてしまう.
 どうしても死んでしまう,絶体絶命である.

 こうして,義興と世良田・井弾正忠・大島・由良たちは壮絶に自害した.
 土肥・南瀬口・市河の3人は裸になって,太刀を加えて川に飛び込んで岸まで泳ぎ,300騎の敵兵の中に乱入して討ち死にした.

 彼らの首は酒漬けにされて,入間川の基氏の陣に運び込まれて首実検が行われた.
 国清は非常に喜んだが,義興の首を確認した武士も昔,彼の軍勢に加わって戦っていたので,涙を流して彼の死を悲しんだ.
 こうして,喜びの中にも悲しみがあり,その場にいた人々は皆,袖を濡らしたそうである.

 新田義興はその後,日本史の常道パターンで怨霊化し,江戸遠江守を呪い殺し,入間川に雷を落として家屋や仏閣を全焼させたり,矢口渡に怪しい発光体を出現させたりしたので,人々は彼の霊を慰めるために新田神社(現東京都大田区矢口1丁目)を建立した.

 それはともかく,義興の死によって関東の南朝方の勢力は消滅したのである.
 国清の行動は,確かに道徳的にはほめられたものではないが,彼の勝利に対するすさまじい執念は非常に強く感じて印象的だなあと,大人になった今,この伝説を見ると思うのである.

「はむはむの煩悩」,2008年3月 8日 (土)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 千寿王(足利義詮)の例もありますが,年端も行かない年齢で,このように戦に参加することが,結構この時代あったのでしょうか?

 【回答】
 確かに,こういう例はけっこうあったみたいですね.
 中先代の乱のときの北条時行も確かまだ少年だったはずですし.

 「旗頭」としての存在だったと思いますが,確かにほかの時代では幼児や少年が大将として戦争に参加するのはあまり聞かないですよね.

「はむはむの煩悩」,2008年3月 9日 (日) 00:17
青文字:加筆改修部分


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