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◆◆人物 Személyek
<◆室町時代 Muromacsi-kor
<戦史FAQ目次
(画像掲示板より引用)
『関東管領上杉氏 シリーズ・中世関東武士の研究 第11巻』(黒田基樹著,戎光祥出版,2013.6)
『真説 楠木正成の生涯』(家村和幸著,宝島社新書,2017/5/10)
家村和幸さん(元二等陸佐[陸軍中佐],日本兵法研究会会長)が,新刊を出されました.
家村さんのライフワークは「兵法研究」ですが,その大きな柱の一つに「楠木正成」研究があります.
今回出た新刊は,大楠公はいかにして部下を動かしたか?に着目した内容で,大楠公の統率力を解明する
『真説 楠木正成の生涯』
です.
新書で読みやすく,『太平記』の豆知識を解説するコラム3編もちょうどいい按配です.
個人的には大満足の一冊です.
わかりやすくて読みやすくて面白い.
そのうえ信頼できる内容です.
いまわが国は,激動の時代のさなかにあります.
不透明なこれから先の時代を読み,理解する土台は,バッタのように,あれやこれや海外事情に飛びついて食い散らかして終わるのではなく,わが国の縦糸に改めて気づき,そこに戻って叡智とエネルギーを取り戻して満充電することにあります.
いくら知識や思想や政治を知っても,統率力というエンジンがなければ絵に描いた餅.
現実に活かすことはできませン.
いつまでたっても報道や自称専門家のいい加減な話に振り回されたくない,と思っているなら,新書なのにこんな充実した内容を持っている本著をポケットに入れない選択肢はないでしょう.
兵法といえば戦術や戦略ばかりに目が行きがちです.
ところがこういう感覚に囚われると,一歩間違えば人生を棒に振ります.
いくら立派な発想や衆に抜きんでた見識,天才的ひらめきがあっても,命令を下す立場にある人に統率力がないと,そのもつ能力を十全に発揮することはできないからです.
けっきょく宝の持ち腐れになってしまうのです.
統率力の何たるかを,大楠公から学べる本.
それがこの本です.
著者・家村さんのことばも紹介しますので,イマスグ手に入れてください.
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この度,宝島新書より『真説 楠木正成の生涯』を上梓いたしました.
今から約六百八十年前,後醍醐天皇の討幕挙兵にいちはやく挙兵し,天才的な兵法で鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ「大楠公」こと楠木正成につきまして,かつては,日本人であれば教科書や唱歌を通じて誰もが知っている英雄でしたが,大東亜戦争に敗れ,GHQ占領下で歴史教科書からその名を消されてからは,今日でさえ,広く知られているとは言い難い,実に残念な状況です.
それでも昨今,産経新聞での連載記事や同新聞社主催のシンポジウムなどを通じて,徐々にその名が広まりつつあるのは,大変うれしいことです.
「軍師」として兵法に長けていた人物は,古今東西の歴史にもたくさん出てまいります.
しかし,楠木正成の偉大さは,それだけではなく,鎌倉時代から南北朝時代にかけての日本で「最強の精鋭軍団を育てた」という事実です.
あらゆる兵法書を血肉化し,『孫子』を越えた独自の兵法を完成させ,しかも,卓越した統率力でそれらを実行に移して戦場で連勝し,時代の流れを大きく変えた稀代のリーダー,これこそが,楠木正成の正しい評価だといえます.
そして,その卓越した統率力が,楠木正成という人物の「人柄」そのものに根差していたということも,非常に重要なポイントです.
当時,国中の武将が恐れていた楠木勢の将兵たちは皆,人生を意気に感じて正成の下で戦い,正成のために死ぬことを至上の喜びとしていたのでした.
皆が死を恐れずに戦う軍勢ほど,強いものはありません.
本書は,主に楠流兵法書『太平記評判秘伝理尽鈔』という書物の中から,知られざる楠木正成の人物像,とりわけ家臣・兵士や領民の心を引きつけたその人間的な魅力について抜粋し,現代語訳にすることで多くの皆様に紹介しようとするものです.
智恵と仁愛と勇気に満ち溢れた楠木正成の生涯には,現代社会を生きる私たち,とりわけ組織リーダーの立場にある方々に大いに役立つ「手本」が無数に散りばめられています.
本書を一人でも多くの方にお読みいただけるよう,ご協力いただければ幸甚です.
平成二十九年 五月
日本兵法研究会 会長
家村 和幸
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------------発行:おきらく軍事研究会(代表・エンリケ航海王子)
【質問】
「殿」と「館」の違いについて教えられたし.
【回答】
室町幕府の執事奉書や管領奉書等の発給文書の宛名につけられる敬称は,基本的に「殿」である.
僧侶に出されるときは「御房」,一揆等集団に宛てられるときは「御中」となったりなどもするが,武士に対して出されるときはほぼ必ず「殿」である.
これは,鎌倉幕府の場合も同じである.
対して,後醍醐天皇綸旨や大塔宮護良親王令旨といった建武政権―南朝系の文書で武家宛のものの敬称は,基本的に「館」である.
つまり,当時幕府系の文書の宛名の敬称は「殿」,南朝系は「館」とかなりきれいに分けられていたのである.
具体的には,例えば
「佐々木佐渡大夫判官入道殿」
「佐々木佐渡大夫判官入道館」
といった感じである.
(佐々木導誉宛の文書の場合.ちなみに北朝系の文書は基本的に武士に対して出されることはなかった)
どうしてこのような使い分け,と言うより南朝では敬称に「館」を使用したのか,その理由は私にはわからない.
建武政権の古文書に関する論文や解説書はたくさんあるが,私が知っている限りでこの点を指摘したものは皆無である.
で,以前から不思議でたまらないのであるが,ひとつ言えることは,「殿」も「館」も,もともとは建物を指す言葉で,それが人間を指す敬称となったわけであるから,同系統の言葉であることは確かであろうということだ.
戦国期,武田氏や今川氏など,室町幕府の守護の系統をひく大名家の当主は「お屋形様」と呼ばれたが,これも南朝文書の「館」に共通しているんじゃないかと考えている.
もし南朝が室町幕府に勝っていたら,「館」の方が主流となって「殿」が廃れ,現代日本語も若干変わっていたかもしれない.
※ただし,南朝文書でも,九州の征西将軍宮(懐良親王・良成親王)の令旨の場合は,「殿」と「館」が混在したようだ.
「はむはむの煩悩」,2008年7月30日 (水)
青文字:加筆改修部分
【質問 kérdés】
朝倉孝景って誰?
【回答 válasz】
朝倉孝景(1428~1481)は越前守護・斯波氏の3家老の一人.
Aszakura Takakage (1428 -1481) egyike az a Siba klán három magas rangú
hűbéreseinek, aki a Ecsizenben Sugo (feudális kormányzó).
戦国大名・朝倉氏の祖.
(図1 孝景肖像画)
長禄2(1458)年,斯波義敏と越前守護代・甲斐常治との戦いである長禄合戦において,孝景は守護代方の主力として活躍.
翌年の足羽郡和田荘の戦いにおいて勝利し,守護方についていた義兄の堀江利真と,叔父である朝倉将景を敗死さす.
長禄合戦勝利後,反孝景派であった一族分家の朝倉将景,朝倉景契,朝倉良景などを討ち果たす.
また,孝景と甲斐氏は越前の軍勢を率いて鎌倉に出兵して1年近く在陣し,堀越公方・足利政知(足利義政の弟)を支援.
そして,政知を補佐した渋川義鏡の子・義廉(よしかど)が斯波氏の当主に起用され,朝倉孝景と甲斐敏光がこれに従うことになった.
巻き返しを図る斯波義敏は足利義政から赦免され,文正元年(1466),義敏は越前・尾張・遠江の守護職に復帰したが,たちまち失脚して越前へ逃げ下った.
文正2(1467)年,御霊合戦に参陣し,畠山義就に加勢.
応仁元年(1467),応仁の乱が勃発すると,孝景は主家である斯波義廉と協力し,西軍に参陣.
上京の戦い,相国寺の戦いなどに参加し,伏見稲荷では骨皮道賢を討ち取るなどの功を挙げる.
しかし越前の在地では斯波義敏が勢力を伸ばしており,また,東軍方からの働きかけもあって,応仁2(1468)年,孝景は嫡子・氏景を京都に残して越前に下国.
孝景は坂北郡の深町氏などの有力国人や大寺社を味方に誘い,幕府との交渉を重ねて,文明3(1471)年5月,
「越前の守護職については孝景の望みに任せる」
という足利義政の御内書を獲得して,東軍へ寝返る.
同様に氏景も東軍へ寝返り,足利義政に見参して越前へ下国した.
そして孝景は越前平定に乗り出し,守護代・甲斐敏光(甲斐常治の子)勢と交戦.
文明4(1472)年,越前・府中を陥落させ,坂井郡長崎庄での戦いにも勝利し,敏光は加賀に逃れる.
文明6(1474)年,敏光は富樫幸千代の援助を受け,越前へ逆襲.
しかし孝景は杣山(そまやま)城にたてこもった甲斐勢を掃討すると共に,また殿下・桶田口から岡保・波着山まで深く侵攻した甲斐氏や千福氏を討ち取る.
そして,美濃守護代家・斎藤妙純の仲介により,甲斐氏と和睦.
文明7(1475)年,甲斐氏が守護代として遠江に下向すると,孝景は最後まで残っていた大野郡の犬山城と土橋城の攻略を開始.
井野部・中野の合戦で二宮氏を討ち捕り,斯波義敏を京都に送り返して,越前一国の平定を成し遂げた.
文明11(1479)年,尾張・越前・遠江守護である斯波義寛(斯波義敏の子)が,敏光を引き連れて越前奪還のために朝倉征伐を開始.
豊原寺に侵攻し,二宮氏も平泉寺に入った.
京から進発した義寛は越前北部の坂井郡の細呂宜・長崎・金津にて孝景と交戦.
孝景は現場指揮を氏景に任せ,また,弟の慈視院光玖に大野郡を固めさせて,自身は第一線を退いた.
この戦いは斯波義寛が優勢であったものの,他の越前各所で行われた戦いでは朝倉方優勢であって,一進一退.
その対陣中の文明13(1481)年7月,孝景は病没した.享年54.
孝景の東軍離脱は応仁の乱のターニング・ポイントと言われているが,子孫の朝倉義景も,勝手に信長包囲網から抜けて信玄を激怒させているあたり,
「もしかして性格も遺伝するのでは?」
と思わせる人物の一人である.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/朝倉孝景
https://www.ibis.jp.net/asakuraeirintakakage ※肖像画引用元
http://asakura-museum.pref.fukui.lg.jp/010_about/history.php
mixi, 2017.9.9
下克上第一人者こと朝倉英林孝景(敏景は斯波義敏麾下時代の名乗り)の定めた分国法……
まあ,国内法というよりは朝倉家の家訓集.
ただし,全部が全部孝景が書いたものではなく,後々で氏景・貞景・宗滴といった後継者達が条文を加筆する事で現存する形になったものと思います.
以下,原文(といっても幾通りか残っているものの一つ),口語訳,ついでに寸評を少し.
口語訳中の( )は,自分が文書を通して裏読みしてみた補足的なモノ(笑)
------------
一 朝倉之家に於いて宿老を定むべからず,其身の器用忠節によるべく候.
「朝倉の家においては,重臣は固定させてはならない.
家臣の能力や働きぶりで選ぶように.
(重臣層が固定化すると,当主の足かせになる事がある.
重臣であっても任免権を手放すな)」
二 代々持来候などとて,無器用の人に団扇並びに奉行職を預けられましく候.
「代々その役に就いてきたからって,ボンクラに部将や奉行をやらせちゃいけない」
※現代人からすれば何を今さらと言いたくなる,人事面の総則.
しかし裏を返せば,当時の幕府や守護大名はこういう当たり前の事ができていなかったのかも知れない.
三 天下静謐たりといふとも,遠近の国に目付けをおきて,其国のていたらくを聞候ハん事専一候.
「平穏な時期であっても,諸国に調査員を派遣して,各地の情報を逐一つかんでおくように」
※たぶん忍者がどうのという話ではない.
商工業の取引なんかも,情報収集の一環だと思う.
四 名作の刀,さのみ好まれまじく候.
其ゆへは,万匹の太刀を持ちたりとも,百匹の槍百丁には勝たれまじく候.
万匹をもつて百匹の槍を百丁求め,百人にもたせ候はば,一方は防ぐべく候.
「高価な名刀を買い漁ったりするのはやめておけ.
そもそも,銭100貫の名刀を買うぐらいなら,その100貫文で1貫文の槍100本を買って100人の槍隊を編成すれば,合戦場で戦線の一つを受け持たせる事ができるだろ」
※英林殿はどうやらコストパフォーマンス志向だったらしい.
なお,その100人の兵士への手当がどうのと考えるのは現代人の発想(笑
五 京都より四座の猿楽細々呼下し,見物このまれまじく候.
其の値を国の猿楽のうちの器用ならんを上らせ,仕舞をも習はせられ候はば,後代まて然るべくか.
城内において夜能かなふまじく候.
「都から売れっ子の猿楽師を何度も呼びつけて興行させるのは,金がもったいないぜ.
そんな金があるなら,地元の猿楽師の研修や育成に投資した方が,よほど後世の役に立つ.
城内で夜遅くまで能楽? 論外.
(周りの迷惑だし,日中の仕事に差し支えるだろうが)」
※英林殿は地産地消志向でもあったらしい.
おかげで曾孫玄孫の代には文化芸能が大いに振興したわけだが(笑
六 侍いの役なるとて,伊達・白川へ使者をたてよき馬鷹もとめられまじく候.
自然他所より到来候はば尤に候,それも三ケ年すきは,他家へつかわせられべく候,長もちすれは後悔出来に候.
「馬や鷹が武士のたしなみだからと言って,陸奥伊達郡・白河郡といった遠隔の名産地にまで買い求めるのはよせ.
他所からそういう馬や鷹を貰ったのなら使えばいいが,3年ぐらいたったらスッパリ手放してしまうといい.
(3年も働かせていればくたびれるはずだから)
長々と惜しんでいると後で痛い目を見るぞ」
※基本,ブランド品に金かけるのを戒める条文が多い.
戦国乱世は実用品第一!という事か.
七 朝倉名字中をはしめ,おのおの年始の出仕の時上着布子なるべく候.
並びに各の同名定紋をつけさせられべく候.
分限のあるとて,衣装を結構せられ候はば,国の端々のさふらい色を好み,ふきそゝきたる所へ此ていにて出にくきなどとて,嘘病をかまへ,一年出す二年出仕いたさすば,後々は朝倉の前へ伺候のものすくなかるへく候.
「朝倉一門衆にしろ家臣にしろ,年始の出仕の時は布子(麻製の普通の布地)の上着で来い.
あとそれぞれの家の家紋をつけろ.
(家紋でどこの家か分かるようにしないと,普段顔を突き合わせない連中が困る)
裕福な家柄だからって豪華な絹服で出仕すると,家格の低い連中がそいつ等の派手な服の間に並ぶのを嫌がって仮病を使ってだんだん出仕しなくなるだろ?
そんな事を繰り返してたら家臣が減っちまうだろうが」
※安物のスーツ姿で成人式に出たりしたら,すっごい居心地悪くなった人には身につまされる話かも(苦笑
八 其身のなり見にくゝ候とも,健気ならんものには情可有之候.
又臆病なれともゆふ儀をしたてよきは,供使いの用にたち候.
両方かけたらんは所領たうなに候か.
「風采が上がらなくても勇敢で真面目に働く奴は,きちっと評価して目をかけてやれ.
逆にヘタレだが人当たりのいい奴なんかは,供侍みたいな補佐役系の役目に向いている.
見栄えも勇気もダメな奴?
それって俸禄の無駄遣いじゃね?」
※人材活用の心得その1.
適材適所,評価すべき点は評価,役立たずには辛く.
九 無奉公のものと奉公のともから,おなしくあひしらはれ候ては,奉公の人いかていさみあるへく候.
「仕事しない奴とキチッと仕事する奴を一緒くたに扱うなよ.
真面目な奴のやる気が萎えるからな」
※人材活用の心得その2.
人事評価する方も楽じゃない.
十 さのみ事かけ候はすは,他国の牢人なとに祐筆させられましく候.
「よほどの緊急時でも無い限り,他国の牢人に文書係をさせるなよ.
(機密文書は信頼の置ける奴に扱わせる,これ大切)」
※裏を返すと,祐筆(秘書みたいなもん)が機密を漏洩する事はよく起きたんだろうなあ.
十一 僧俗ともに能芸一手あらんもの他家へこされましく候.
但身の能をのみ本として,無奉公ならんともからは曲なかるべく候.
「僧侶にせよ俗人にせよ,一芸に秀でた人材を他家に引き抜かれないように気をつけろ.
ただし自分の才能を鼻にかけて反感買ってる奴とか,ろくすっぽ働かない奴はこの限りじゃない」
※明智光秀って,まさかこの但し書き部分に引っかかってスルーされたんじゃないだろうな?(笑
十二 勝べき合戦とるべき城攻め等の時,吉日をえらひ方角をしらべ時日を逃す事口惜候.
如何によき日なるとて大風に舟を出し,大勢にひとりむかはば,其曲あるべからす候.
あく日あく方なりとも見合により,しよ神しよ仏・八幡・まりし天に別してせいせひをいたし,信心をもつて戦われ候はば,勝利をゑられべく候.
「勝てそうな戦,攻め落とせそうな城を目の前にして,日が悪いだの方角が悪いだのと言って好機を逃すのはアホの所行だ.
逆に,吉日や吉方だからって嵐の日に船を出したり,寡兵で敵の大軍にカチ込むのもパープリンのやる事.
たとえゲンの悪い日や方角であっても,神様仏様のご加護を信じて機会を捉えれば,八幡様や摩利支天様が勝たせてくれるってもんさ」
※現代人には想像しにくい,中世人ならではの験担ぎへの警鐘.
いや,現代人だって判断に迷った時は縁起のいい方をつい選んじゃうもんだし・・・
十三 年中に三ケ度ばかり器用正直ならんものに申付,国をめくらせ,土民百姓の唱えを聞き,其さたを改められべく候.
少々かたちを引かへ,自身もしかるべく候.
「有能かつ嘘のない家臣を選んで,年に3回ばかり領内を巡察させて,庶民の様子を見させ声を聞かせ,その報告を元に政務を見直しするといい.
自分がお忍びで実際に見て回るのもアリだ」
※戦国大名の走りらしい,地域密着思想.
朝倉始末記とかだと,気さくな人だったらしい.
十四 朝倉か館の外,国のうちに城郭をかまへさせまじく候.
惣別分限あらんもの一乗の谷へこされ,其郷其村には代官百姓等はかり置かれべく候.
「朝倉家に属するものではない城や砦を,越前国内に築城させないように.
(国人や土豪が独自に城を構えだすのは,反乱や一揆の温床になる恐れがあるからな)
特に,重臣クラスは一乗谷に館を構えて常駐させ,所領には代官を派遣して統治させるように」
※前半の城云々は,百年後に秀吉や家康の出した一国一城令とは,意味合いが違うと思う.
これは多分,築城計画の一元化による集権統治への試みの一環じゃないかと.
十五 伽藍仏閣並びに町屋等通られん時は,少々馬をとどめ,見にくきをば見にくさと云,よきをばよきといはれ候はば,いたらぬ者なとは御ことばをかかりたるなとゝて,悪しきをば直し,よきをば猶たしなむべく候,さうさをいれす,国を見事にもちなすも心ひとつによるへく候.
「神社仏閣や町屋を見て回った時は,(毎回でなくてもいいが)時には馬を止めて汚れや破損があったら注意し,綺麗にしてあれば誉めてやるといい.
殿様が直々に評価してくれたとあれば,庶民もキチッと受け止めてくれるからな.
ま,こういう無造作な声かけも,国を統治するための心配りって奴だな」
※英林殿の地域密着思想その2.
こういう条文は後代の加筆ではなく,初代孝景のオリジナルだと思う.
十六 諸沙汰直奏の時,理非すこしもまげられましく候.
若役人わたくしをいたすのよし聞およはれ候はば,同とかにかたく申付られべく候.
諸事うつろをきんこうにさたいたし候へば,他国のあくとう等いかやうにあつかいたるも苦しからず候.
みたりかはしき所としられ候へは,他家よりてをいるゝものにて候.
「裁判や決裁をする時に,物の道理に合わない裁きを下しちゃいけねえ.
もし汚職や依怙の沙汰をする役人がいたら,敗訴した奴と同じだけの罰を下してやれ.
政治や司法が公明正大に運営されていれば,他国の敵勢力だって付け入っては来られない.
他国に越前を侵されるとしたら,お前達の政治に悪評が立っているせいだと思え」
※これ読んでるとガチで心配になる,
本当に大丈夫か現代ニッポン?
(この後第十六条は当主の心構えが長々続くがどうにも抽象的な話なので割愛)
(末文)
十七 この条々大方におもわれては益なく候.
入道一孤半身にて不思議に国をとるより以来,昼夜目をつなかすくふういたし,
ある時は諸国の名人をあつめ,其かたるを耳にはさみ,いまにかくのことくに候.
あいかまへて子孫において此条々書をまもられ,まりし天・八まんの御おしへとおもはれ候はば,
かつくも朝倉の名字あひつづくべく候,末々において我がままにふるまはれ候はば,たしかにこうくわい可有之者也
「これまでに俺が挙げた家訓をおろそかにしても,あんましいい事無いぜ.
俺は親を早くに亡くした身ながら運良く越前一国を手中に収めて,今こうして国を治める事ができたが,そいつは昼も夜も目を曇らせずに創意工夫し,諸国の名人智者の話を聞いて参考にしてきたからだと思う.
お前達も子供や孫に俺の残した教訓を守らせ,神様仏様と同じぐらいに大事に守ってくれれば,朝倉家は今後も続いてくれるだろう.
将来アホンダラの子孫が我が儘なことをしだしたら,ぜってー後悔すっからな」
※「義景がアホだから」の一点張りに朝倉家滅亡の責を帰す気にはなれないけどね.
以上,福井県民による朝倉家のPRじみたネタでした.
現代人の参考になりそうな教訓,あったかなあ……orz
戦国時代板,2013/01/17(木)
"2 csatornás" Hadakozó fejedelemségek kora BBS, 2013/01/17(csütörtök)
青文字:加筆改修部分
Kék karakter: retusált vagy átalakított rész
この朝倉孝景条々に書かれてる内容って,戦争関連の記述に関しては英林孝景本人(又は2代氏景)が書いていて,家内統制,領国運営みたいな項目に関しては3代貞景,宗淳孝景,宗滴が加筆していったっていう見方がされているね.
初代と2代目当主の頃は,国内に敵残存勢力もまだまだ多くて,越前国内でも毎年戦があって,国内統治もままならなかったが,3代,4代の頃に書状の発給量や寺社の建設数が飛躍的に伸びているのが,残された日付等から窺い知れるそうだ.
戦国時代板,2013/01/17(木)
"2 csatornás" Hadakozó fejedelemségek kora BBS, 2013/01/17(csütörtök)
青文字:加筆改修部分
Kék karakter: retusált vagy átalakított rész
【質問 kérdés】
飯尾為種って誰?
3行以上で教えて!
Ki az Ínó Tametane?
Kérem, mondja meg harom vagy több sorokban!
【回答 válasz】
飯尾為種(?~1458)は室町時代中期の法曹官僚にして能臣.
飯尾は「いいのお」「いのお」または「いいお」と読む.
同時代の官吏・中原康富曰く,「文武の達者」
応永33年(1426年),興福寺と東大寺の衝突を阻止するため,奈良へ派遣さる.
応永34年(1427年),赤松満祐追討に向かった細川満元への督促の使者として派遣さる.
正長1(1428)年の奉書に加判していることから,足利義教の初政か同義持の晩年に奉行人に登用されたものと推定される.
足利義教が将軍になると重用され,評定衆に加えらる.
義持政権までの奉行人の活動は,裁判の被告人の召喚命令など,軽微なものに限定されていたが,義教政権の時に職務範囲は安どや裁判の判決にまで拡大.
為種は南都奉行・八幡奉行・東寺奉行などの別奉行を兼務したほか,義教が関係を強めつつあった伏見宮家の担当奉行にも任ぜらる.
永享5年(1433年),伏見宮貞成親王と三宝院満済という義教に大きな影響力を与えた2人の間で所領の境界争いが起きた際に,事態の収拾に奔走.
また,鎌倉府との対立や大内氏と大友氏の争いで混沌する状況下で,諸大名や満済への諮問の使者として派遣さる.
同年閏7月,山門奉行のとき,為種が山門領を押領したとして,延暦寺と対立する.
山徒たちは,同じく山徒だった光聚院猷秀(こうじゅいんゆうしゅう)が山門の資金を押領して,幕府関係者へ不当な資金提供を行ったことを激しく非難していたが,猷秀と結託した人物の一人として為種の名も挙げた.
為種は,山門からの訴訟や申請を受け付ける,延暦寺の「別奉行」職にあり,取次に当たって「礼銭」という手数料をとり,自らの収入源としていたため,職務にまつわるこのような収入の曖昧さを突かれ,山門から名指しで批判されたのだった.
延暦寺衆徒は為種配流を求めて強訴を起こし,幕府は為種を流罪にすることにするが,秘かに為種に対して尾張国に身を隠すように命じる.
その後,間もなく復帰し,神宮開闔(かいこう)・八幡(はちまん)奉行などを歴任,幕府の裁許に絶大な力を振るう.
永享7年(1435年),奉行人筆頭である公人奉行に任ぜらる.
永享10年(1438年)から始まった永享の乱では,錦御旗の作成について,武家故実に通じた為種が世尊寺行豊と協議.
永享12年(1440年),勅撰和歌集である『新続古今和歌集』が完成するが,その中に為種の歌が載せられていることを知った義教は,
「為種は奉行人として多忙であるのに,和歌を詠む[暇がある]とは何事か」
と彼を叱責し,為種は歌を却下された上,1年間蟄居.
嘉吉元年(1441年)6月,嘉吉の変で義教が暗殺されると,直後に政務を実質的に委任さる.
その後出家するも,職務はそのまま続け,管領・細川持之が申請した赤松満祐追討の綸旨を三条実雅の屋敷にて手交される.
また,管領・畠山持国任命の使者をつとめ,また,禁闕の変の際の内裏炎上に伴う再建事業を含めた事件処理,斯波氏の内紛の仲介などにあたる.
嘉吉3年(1444年),息子・為数が奉行人就任.
宝徳元年(1449年),管領・細川勝元が辞意を表明した際,諸大名や伊勢貞親とともに慰留に努める.
康正元年(1455年)までは奉書に加判しているが,晩年,病気がちとなり,長禄2年(1458年),病死.
【参考ページ Referencia Oldal】
早島大祐『足軽の誕生』(朝日新聞出版,2012), p.148-154
https://kotobank.jp/word/飯尾為種
https://www.free-style.biz/sengoku/?p=2026
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/iio1.htm
【ぐんじさんぎょう】,2017/9/24 20:00
を加筆改修
【質問】
御賀丸とは?
【回答】
今日も,御座さんがお書きになられた文章を,ご本人のご承諾を得てここに転載させていただくことにいたします.
~~~引用開始~~~
そのまんま東こと東国原英夫氏が宮崎県知事に選ばれ,全国で驚きの声があがったのは記憶に新しいところですが,室町時代には「ジャニーズJrが知事に就任」並みの大事件が起こっています.
足利義満の命により「御児」御賀丸(音賀,恩賀,御賀麿とも)が和泉守護に就任したのです.
御賀丸は足利義満晩年の寵童(義満の侍童は十人いたが,その筆頭)で,『兼宣公記』など廷臣の日記に散見されます.
たとえば義満は毎年十一月一日には御賀亭に湯治へ訪れています(『教言卿記』応永十三年・十四年).
また稚児ながら,興福寺大乗院方国民の十市氏討伐のため大和国に発向したこともあります(「東寺王代記」応永十三年二月十三日).
和泉国は堺という巨大貿易港を抱える屈指の大国であり,ここの守護は非常に実入りが良いのです.
大大名であった山名氏清・大内義弘とも,和泉守護所の堺を本拠としています.
いかに御賀丸が義満の寵愛を受けていたがうかがえます.
稚児が守護になったのは後にも先にもこの1例のみ.
きっと御賀丸はタッキーや神木君ばりの美少年だったのでしょう.
美童・御賀丸は義満の威を借りた横暴な振る舞いが多かったようで,諸権門との衝突が絶えませんでした.
応永十一年には御賀丸が東寺領大和河原城庄を百五十貫文で売るよう強要します.
河原城庄は,飛鳥川原寺の周辺の地で,東寺にとってみれば,空海が東寺と高野山とを往復する宿泊所として勅給された川原寺と一体の領地であり,東寺長者が渡領として代々厳重に管理してきた宗祖ゆかりの地でした.
東寺は三宝院満済に助けを求めたものの,御賀丸が義満に訴えたため,泣く泣く同庄を手放しています(東寺百合文書).
また応永十二年には御賀丸の代官が興福寺領である「大和国宇陀郡以下所々庄園等」を押領したため(『荒暦』応永十二年六月二日条),興福寺別当・大乗院門跡の孝円が上洛して幕府に訴えています(『教言卿記』応永十二年六月二十一日条)
ところが応永十五年五月六日に義満が没すると(『教言卿記』同日条),状況は一変します.
義満の後を嗣いで政権を掌握した義持は,自分を疎んじ弟の義嗣を寵愛した父・義満を快く思っていませんでした.
義満亡き今,義持の怒りは義満の寵童であった御賀丸に向かいます.
この年の八月までには御賀丸は和泉守護職を解任され,細川頼長(上守護家)・細川基之(下守護家)の両名が和泉守護に就任しました(今谷明「和泉半国守護考」).
これを見た東寺も同年九月,すかさず河原城庄還付の訴えを起こし,十月には室町殿足利義持から安堵を獲得しました.
すなわち義持は御賀丸の非法な「責取」を糾弾し,河原城庄の東寺への返付を命じたのでした(廿一口方評定引付).
義満死後,御賀丸は出家したらしく,帥法印(帥坊)と呼ばれました.
彼は京都の近衛西洞院でひっそりと余生を過ごしたようです.
【参考】
富田正弘「御賀丸の非法な『責取』を叱る」(上島有・大山喬平・黒川直則編『東寺百合文書を読む』)
~~~引用終了~~~
「はむはむの煩悩」,2007年8月 8日 (水)
青文字:加筆改修部分
【質問】
室町時代までの肝付氏について教えてください.
Kérem, mondja el a Kimocuki klánat amíg Muromacsi-kor a három vagy több sorban.
【回答】
「いつからが戦国時代か?」という定義問題は,ここでは置いておくとして.
肝付氏は,伴兼行(伴善男の玄孫,善男 → 中庸 → 仲兼 → 兼遠 → 兼行)が薩摩に下向したことに始まるという.
すなわち,『新編伴氏正統世系図』によれば,伴兼行が冷泉天皇の安和元年(968)に薩摩掾に任ぜられ,翌二年薩摩国に下向し,鹿児島郡神食村に館を建ていわゆる薩摩掾としての事務をとったと伝えられている.
その孫・兼貞は,大隅国肝属郡の弁済使となって肝属郡に入部.
兼貞は,島津庄開発領主の太宰大監・平季基の女を妻にし,男子がなかった季基の後嗣となり島津庄の荘官(荘司)となった.
(平季基には兼輔という息子があり,兼輔の娘の婿になったのが兼貞,との異説もある)
兼貞は,長子・兼俊に本家を継がせ,次男兼任を萩原に,三男俊貞を安楽に,四男行俊を和泉に,五男兼高を梅北にと,それぞれ所領を分け与えて,本家の藩塀として配した.
兼俊は群名を苗字とし,「肝付」と称した.
この兼俊が肝付氏初代である.
兼俊は次男兼綱を北原に,三男兼友を検見崎に,れぞれ所領を分け与えて一家を興させた.
以後,肝付氏の代々は高山の弓張城を居城として勢力を拡大していった.
鎌倉幕府体制下の守護,地頭が入部してくると,旧制度による国司や荘司(荘官)などとの間に軋轢が生じるようになった.
肝付氏の所領でも,大隈守護に補せられた名越氏がその九十町歩を奪い,肝付氏が談議所に訴え出るという事件が起った.
訴訟は長年月を要し,肝付兼石,兼藤らが解決に努力したが,名越氏はそれに応ぜず,却って兼藤は名越方の凶刃に倒れるという結果になった.
また,惣領と庶子との間に対立が起り,庶子のなかには名越氏に味方するものもあった.
兼藤の嫡子・兼尚は訴訟事件で鎌倉に在住し,その子の兼隆は幼少であったため,兼藤の二男で日向三俣の領主・兼重が兄・兼尚の番代として家政をみた.
南北朝の争乱にあたっては,肝付兼重は日向高城に拠って南朝方となり,八代の伊東祐広,肥後の菊池武敏・阿蘇氏らと呼応して国富庄に入り,大いに威を振るった.
そして,肝付氏と島津氏は対立関係となった.
島津氏ははじめ南朝方にあったが,のちに足利尊氏に味方していた.
足利尊氏は延元元年(1336),畠山直顕を日向・大隈方面に派遣して肝付氏に対抗させ,それに豊後の佐伯氏,大隈の禰寝氏,日向土持氏らにも協力を求め,さらに島津貞久を帰国させて肝付氏に当たらせた.
島津氏は兼重方の姫木城,三俣院山之口の王子城を攻め,ついで,肝付兼隆の拠る加瀬田城を攻撃してこれを落した.
畠山直顕は兼重の守る高城に迫ったが,兼重はよく防戦し,直顕勢を撃退した.
しかし延元四年に至って高城は直顕勢によって落され,兼重は高山の本城に入った.
その結果,日向における肝付氏の勢力は振るわなくなった.
その後,兼重は頽勢を挽回するため,鹿児島攻略を策したがならず,大隈地方を転戦したが戦況を覆すことはできず,ついに病を得て死去した.
やがて,尊氏と直義の兄弟対立によって,島津氏,畠山氏らは去就の変転を繰り返し,肝付氏においては兼重のあとを継いだ秋兼が,蒲生氏らとともに畠山氏に属するということもあった.
秋兼の子・兼氏は畠山氏と結んで自家の安泰を図り,さらに新納実久と結んで島津氏とも誼を通じるようになった.
兼氏のあとを継いだ兼元は,島津氏の麾下に属し,応永十七年(1410)には島津元久に従って上洛,将軍足利義持に謁見した.
兼元の子・兼忠も,島津氏と親密な関係を維持した.
兼忠の弟・兼政は島津久豊の養子となり,頴娃を領して頴娃を称し,二弟兼恒は日向国庄内山田村に封ぜられ,三弟兼長,四弟兼広らもそれぞれ知行を賜った.
兼忠は長男の国兼と不和となったため,家督は二男の兼連が継ぎ,三男の兼光は日向国諸県郡大崎城に移住して島津氏に仕えた.
兼連は島津氏からの覚えもめでたく,弟兼光とともに犬追物の射手もつとめたが,文明十四年(1482)に死去し,幼い兼久が家督を継承した.
一族の兼長・兼広らは幼い兼久を侮って島津氏に通じ,領内が乱れたため,兼久は志布志の新納忠続を頼って日向飫肥に奔った.
兼久を迎え入れた新納忠続は,ただちに兵を発して高山を平定すると兼久を復帰せしめた.
兼久は文明十七年に,島津武久(忠昌)から加冠を受けて三郎四郎を改めて兼久と称したが,永正三年(1506),島津忠昌は高山城を攻撃してきた.
このとき,兼久は志布志の新納忠武の支援を得て,忠昌勢の撃退に成功した.
同五年(1508)に至って忠昌は肝付氏・新納氏らの圧力に苦しみ自殺,子の忠治が島津氏の家督を継いだ.
忠治の跡は弟の忠隆,さらに忠隆の跡は弟忠兼(のちに勝久)が家督を襲った.
兼久のあとを継いだ兼興は,大永四年(1524)に島津忠吉の守る串良鶴亀城を包囲攻撃し,忠吉を討ち取り鶴亀城を領した.
ついで,享禄三年(1530)には鹿屋城も領したという.
兼興の次が,戦国大名・肝付兼続である.
【参考ページ】
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/kimo_k.html
http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/kimotuki.html
http://kimotsuki.info/pages/know/history/post-1456.html
http://www.tarumizu.info/blog_detail/4/344/
mixi, 2016.10.26
【質問】
楠木正儀とは?
【回答】
南北朝時代で最も著名な武将と言えば,やはり何だかんだ言っても楠木正成なのであろうか?
「大楠公」と呼ばれ,千早赤坂城に籠城して鎌倉幕府の大軍を迎え撃って善戦した武将.
湊川では,足利尊氏の大軍を小勢で迎え撃ち,一族郎党皆壮絶な戦死を遂げた.
子どもの正行も「小楠公」と呼ばれる名将で,摂津・河内で室町幕府の大軍をたびたび打ち破ったが,最後は四条畷で高師直の前に壮絶な戦死を遂げた.
足利義詮がこの正行を非常に敬愛しており,自分の墓を彼の首塚の隣に建てさせたことは,先日も紹介したとおりである.
しかし,正行に正儀という弟がいたことや,正儀が行ったことなどは,案外知られていないのではないだろうか?
そこで今日は,この楠木正儀について,知っていることを紹介してみたい.
正儀も,偉大な父や兄の血筋をよく受け継いで南朝のために奮戦し,たびたび軍事的成果を挙げた.
特に観応3(1352)・文和2(1353)・康安1(1361)年の3度にわたって,室町幕府の内紛に乗じて京都に攻め入り,一時的に占領したのは特記されるべきであろう.
康安1年の京都占領の際に,駐屯した佐々木導誉の邸宅で粋なもてなしを受け,彼もお返しに酒肴や鎧・太刀を返したエピソードは先日も紹介したとおりである.
しかし正儀は,南朝の重鎮で勇猛果敢な武将という顔とは別に,北朝との和平を積極的に推進する宥和派というもう一つの顔も持っていたのである.
そのため,同じ南朝の強硬な主戦論者と深刻に対立していた模様である.
既に観応2(1351)年,南朝は足利直義が主導していた当時の幕府と和平交渉しており,正儀はその連絡役を務めていたが,その交渉が南朝側の勝手かつ一方的な態度で決裂した際に激怒して,
「南朝討伐の軍を派遣してください.
そうすれば,私は幕府のお味方となって吉野を短期で攻め落としてみせましょう」
と幕府側に言い放った話が伝わっている.
ちなみに義詮時代,幕府側の交渉役を佐々木導誉が務めていた時期があり,正儀と導誉は敵味方を超えた,言わば現代で言えば与野党の国対委員長のような親密な感情があったようである.
先日紹介した『太平記』に記された彼らのエピソードも,真偽はさておき,そういった背景があってのお話らしい.
こうした事情もあって,正儀は南朝上層部に不満を募らせていくようになり,次第に幕府に接近していったようである.
そして,義詮が死去して将軍が義満となり,細川頼之が執事となってから,応安2(1369)年,頼之の誘いに応じて,正儀は遂に北朝方に転じたのである.
幕府は,正儀が実効支配し,南朝から認められていた摂津・河内・和泉3ヶ国の支配の継続をそのまま認めて彼をこれらの国の守護とし,さらに摂津住吉郡の一部守護職を与えるなど非常に優遇し,これが南北朝の軍事バランスを北朝側に大幅に傾けることとなり,彼の幕府帰参が結果的に南北朝の合一に大きく寄与することとなった.
南朝に殉じて壮絶な戦死を遂げた父や兄の行動とはあまりにも違う,正儀のこの行動は,特に戦前の歴史学界では摩訶不思議とされ,変節とか寝返りとか非難されることも少なくなかったようである.
しかし,私は正儀は正儀なりに現実を深く見据え,日本国の将来のために考えて北朝に帰参したのだと思う.
現実を見れば,やはり室町幕府の力はあまりにも強大である.
局地的に,ごく短期間だけ京都を占領することはできても,大局的な勝利にはつながらない.
天皇が2人同時に存在するという異常事態を何十年もこのまま続け,不毛な戦争を継続していたずらに人命を損耗するよりは,幕府と現実的な和平の道を模索するべきである,と正儀はそう考えたのではないか?
そう言えば,彼の父の正成も後醍醐天皇にたびたび尊氏との和平を奏上している.
足利氏との講和は,決して正儀一代のものではなく,楠木氏伝統の施策であったのかもしれない.
正儀の末路もまた悲惨である.
康暦1(1379)年,彼の後ろ盾だった頼之が幕府内部の反頼之派との権力抗争に敗れて失脚すると,正儀の幕府内における立場も自然と悪くなり,永徳2(1382)年,再び南朝方に転じる.
彼のその後の消息はほとんどわかっていない.
【質問】
楠木正儀は左利き?
【回答】
〔略〕
そう言えば,楠木正儀は左利きだったなあということを思い出したので,それをちょっと紹介してみたい.
大学の日本史講座ではだいたいどこでも,学部生や院生向けに古文書実習というのがあって,そこで古文書のくずし字の読み方を学ぶのであるが,うちの大学の場合は,コピーや写真ではない本物の原文書を直に触って読めるというのが,「ウリ」となっている.
で,私がまた修士の大学院生だった頃,その実習で「和泉淡輪文書」という文書をアメリカ人の留学生といっしょに読んだことがある.
淡輪文書というのは,その名のとおり和泉国の御家人であった淡輪(たんのわ)氏に伝わった文書で,和泉国(大阪府南部)に在住した武士だったこともあり,南朝方だった時期がけっこう長くて,後村上天皇とか楠木正儀など,南朝の文書が多数伝来している貴重な文書群である.
いっしょにその淡輪文書を読んでいたアメリカ人留学生は,私などよりはるかにくずし字が読める人で,突然
「楠木正儀は左利きだ」
と言いだした.
うろ覚えで恐縮であるが,彼によると,確か右利きの人間が毛筆で字を書くと,右から左の方に字が曲がっていき,左利きだと反対に左から右へと字が曲がっていくそうである.
で,楠木正儀の字は,左から右へ曲がっていってるので,彼は左利きということであった.
確かに,今手元にある佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中公文庫,1974年)255ページに収録されている楠木正儀の文書の写真を見ても,そのように字が流れている.
楠木正儀は,本当に左利きだったらしいのである.
とすると,今ではそうでもないが,私が子どもだった頃は,左利きは恥ずかしいということで親に無理矢理矯正されたなんて話をよく聞いたものだが,南北朝時代にはそうでもなかったということなのだろうか?
どうも当時は,正儀以外にも左利きだった武将はけっこういたらしく,例えば前述の佐藤著書300ページに載っている菊池武重の置き文の字も,左から右へ曲がっている.
歴史上の人物が右利きか左利きかなんて研究はさすがにないだろうし,大昔の人の左利きに対する意識なんてのも私は全然わからないのであるが,左利きの正儀から,いろいろとあれこれ空想をめぐらしてしまうのである.
「はむはむの煩悩」,2008年6月22日 (日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
偏諱制度が確立したのは室町時代から?
【回答】
3代将軍足利義満以降,将軍が武士に自分の名前から1字与える偏諱の制度が確立したと一般には言われている.
すなわち,将軍の「義○」の「○」の字を,上の方に与える(細川満元,勝元など).
また,後期の大内氏など,家格の高い一部の武士に対しては,「義」の字を,上の方に与える(大内義興,義隆など).
しかし,偉い人が自分の名前を与えることは,鎌倉時代から行われていたわけで,例えば足利尊氏の初名「高氏」の「高」は執権北条高時から,父貞氏の「貞」は同じく執権北条貞時から与えられていたことは,比較的知られている事実であろう.
そもそも,尊氏の「尊」の字も,後醍醐天皇の「尊治」という名前から1字拝領しているのである.
で,尊氏の時代に,偏諱の制度がどうなっていたのか論じた研究は,たぶんなかったはずである.
斯波氏経などは,確実に尊氏の「氏」の字をもらっていると思う.
ほかにも,尊氏から「氏」を与えられているんじゃないかと思える武士はけっこうたくさんいる.
ただ,鎌倉~南北朝期の武士の家には,例えば佐々木京極氏など,「氏」を代々の通字にしているところが多いので,尊氏由来かそうじゃないのかを見分けることが非常に難しい.
これが,尊氏期の偏諱研究を停滞させている最大の原因だと思う.
それに,室町中期から戦国期になると,将軍等の偉い人から一字偏諱として拝領したことを証明する文書(「一字書出」などと言う)が残っている事例が比較的多いので,論証が可能であるが,南北朝期ではこのような文書が残存している例がほとんどなく,多くは推定にとどまらざるを得ないという事情もある.
また,畠山直宗,畠山直顕,桃井直常,足利直冬など,あきらかに直義から名前をもらっている例も多い.
彼らは,観応の擾乱およびそれに続く紛争に際しては,やっぱりほとんど直義派に属して尊氏と戦っている.
尊氏・直義両者の間で,自派を拡大するために武士を囲い合っていたということなのであろうか?
この辺も,以前から非常に気になっているところである.
また,相当の有力武士であるにもかかわらず,例えばこのブログで何度か取り上げた関東管領上杉氏など,将軍から偏諱を賜らない一族も存在する.
これはなぜなのだろうか?
(ただし,江戸時代の上杉氏は,上杉綱憲(あの吉良上野介の実子)や藩政改革で有名な上杉治憲(鷹山)など,将軍から一字拝領している).
このように偏諱ネタは,歴史の中でも人気のある分野で,専門家も一般の愛好家も等しく興味を持って話も盛り上がるのであるが,あれこれ推測は可能でも,なかなか断定しづらい難解な問題でもあるのである.
「はむはむの煩悩」,2007年5月28日 (月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
楠木正行とは?
【回答】
正行は,偉大な父・正成が「大楠公」と呼ばれているのに対して,「小楠公」とも呼ばれている武将で,摂津や河内における奮戦ぶりは,永く後世に語り継がれている.
単に戦に強かっただけではなく,川に溺れた室町幕府軍の兵士をすくい上げ,衣服と食料を与えて丁重に故郷に送り返すなど,南北朝時代にはきわめて稀な武士道精神にあふれた武将でもあった.
足利義詮はこの正行を非常に敬愛しており,死後彼の遺言に従って,尊敬する正行の首塚の隣に埋葬されたんだそうである.
『宝筐院』にあるのが,義詮のお墓である.
拡大すると,足利家の家紋である二引両が見えるであろう.
このお寺に埋葬されたこともあって,義詮の法号を「宝筐院」というのである.
義詮の墓の隣にあるのが,楠木正行の首塚である.
敵の大将にまで敬愛される正行はもちろん偉大であるが,敵の偉大さを謙虚に認め,墓まで隣に作らせる義詮の度量の広さに,私などは凄みを感じるのである.
宝筐院は,清涼寺という大きなお寺(国宝の釈迦像がある)のすぐ隣にあり,比較的容易に参拝することができると思います.
興味のある方は,訪れてみられてはいかがでしょうか?
「はむはむの煩悩」,2006年12月25日 (月)
より再構成.
【質問】
後円融天皇の性格は?
【回答】
北朝第5代の天皇・後円融天皇は,むちゃくちゃ凶暴で大変な天皇であった.
後醍醐天皇や後白河法皇ほどではないが,この天皇もよく言えば個性的,悪く言えば上で述べたとおりの印象深い天皇だと思う.
後円融天皇の奥さん三条厳子(後小松天皇の母)の父,三条公忠は,当時ほかの公家たちもそうであったように,遠隔地の荘園の多くを武士の侵略によって失い,財政的に窮乏していたので,京都の土地を手に入れようと考えた.
そこで,これまたほかの公家たちがしていたように,将軍足利義満に依頼して,義満から天皇に口添えしてもらって,その土地の領有を認める綸旨を天皇から拝領しようとした.
このような,将軍による天皇や院への口添えを,当時「武家執奏」と言い,将軍から武家執奏があった場合,朝廷は原則としてそれを拒否することができず,必ず綸旨を発給しなければならなかった.
公忠はこのシステムを利用して,確実に京都の土地を入手しようとしたのである.
義満は公忠の依頼どおりに,天皇に執奏した.
しかし,天皇からの返事は一向に来ない.
そこで公忠は再び義満に依頼して,ふたたび紹介状を書いてもらったのだが,その2日後,娘で天皇の奥さんである厳子から,天皇が非常に立腹しているとの知らせを受ける.
さらにその2日後,後円融天皇が
「武家執奏だから綸旨は出してやる.
そうしなければ義満に怒られるし.
その代わり,お前とはもう口も聞かないし,顔も合わせないからそのつもりでいろ」
と厳子に言い放ったという連絡があった.
公忠は,その日の日記に,
「武家執奏は他の貴族もやっていることではないか?
例え私に非があったとしても,娘を追いつめるとはひどすぎる」
とぼやいた.
結局,公忠はこの土地を辞退することにして,後円融にもそのとおりに伝えた.
するとその直後,天皇から公忠のもとに伝奏奉書がもたらされた.
公忠がそれを蔵人へ提出すれば,綸旨が発給される仕組みなのであるが,後円融は公忠が辞退を表明するのを待って,綸旨申請など絶対にできないことを見越して,わざわざこの伝奏奉書を出してきたのである.
なかなかひどい嫌がらせではないか?
しかもその数日後,公忠は後円融から,
「先日お前が望んだ土地は,武家執奏に頼ったから与えるわけにはいかないが,ほかの土地なら2倍の面積を与えよう」
という意外な言葉をもらう.
公忠が喜んだのもつかの間,その2ヶ月後に後円融天皇は徳政令を発布して,京都の地を元の持ち主に返還するように命令する.
しかもわざわざ,二条良基と三条公忠の土地は武家執奏だから除外する,という付帯条件までつけて.
娘の厳子から,
「お父様,早く土地を返還して.
さもないと私が危ない」
という,ほとんど悲鳴じみた書状が届き,公忠はこの土地も辞退に追い込まれるのである.
なんとまあ,しつこい嫌がらせだと思う.
妻の父,世が世なら藤原道長の立場にあたる人物に向かって,繰り返し繰り返し喜ばせたり落ち込ませたり,へびの生殺しにも似たいじめではないか?
後円融がこのような所業に走った背景には,当時室町幕府の力が急速に伸びていた事実が挙げられる.
当時,北朝の権限は,全盛期を迎えつつある幕府のために次々と奪われ,京都の市政権は,いわば天皇権力の最後の牙城であった.
その土地の権限さえもが,武家執奏という形で後円融と同年齢の将軍義満に蚕食されかけている.
しかも,妻の父,すなわち外祖父までもがそのシステムを利用して義満にすり寄っている.
後円融が立腹するのも,ある意味で当然なのであるが,にしても執念深くてひどすぎる嫌がらせである.
だいたい,この時期の朝廷は,幕府がなければもはや何もできないのであるから.
後円融なりの精一杯の抵抗も,結局はむなしく,北朝の検非違使が管轄していた京都の市政権は,これからほどなくして幕府の侍所が掌握するところとなる.
その後,後円融天皇は,出産直後で衰弱している厳子を刀の峰でしこたま打ち付けて,大量出血させて大けがさせるという事件を起こす.
その後,持仏堂に立て籠もって自殺未遂まで起こす.
自殺は義満の説得で何とか思いとどまるが,翌日母親広橋仲子のもとに逃げ込むなど,だだっ子のマザコン坊やに等しい醜態を繰り返す.
この事件の背景には,義満と上皇の愛妾按察局の密通の噂があったらしいが,ここにも義満の強大な力を怖れ,過剰に反発してかえって裏目る天皇の哀しい姿がある.
以前,旧ブログの方で説明したことがあったが,後光厳―後円融―後小松―称光の系統は,南北朝内乱中期,北朝の崇光天皇系統が南朝軍に三種の神器とともに拉致され,緊急事態でやむを得ず天皇に擁立された系統である.
特に後光厳・後円融の2代は,神器なしで即位するなど,正統性に非常に問題があり,そのコンプレックスも大きかったらしく,当時の幕府の強大なパワーと相まって,この系統の天皇や皇族は,奇行や蛮行のエピソードがやたら多い.
称光天皇は,たびたび危篤に陥って病床に伏す病弱な天皇だったにもかかわらず,太刀や弓矢をもてあそぶやたら武芸好きの人で,近臣や女官にたびたび暴力をふるっていた.
これは本名の「躬仁」が,「身に弓あり」と読めるせいだという将軍義持の判断で,「実仁」と改名させられているほどである.
その弟の小川宮など,兄の天皇が飼っていたペットの羊をあまりに熱心にほしがるので,譲り与えたところ,直後にこの羊を撲殺してしまうなど,あきらかに精神を病んでいる節があった.
後光厳系統が断絶して,比較的おだやかな気性の人物が多い元の崇光系統に天皇位が戻ったのは,日本のために結果的によかったのではないだろうか?
【参考文献】
『日本の歴史12 室町人の精神』(桜井英治著,講談社,2001.10)
「はむはむの煩悩」,2007年7月23日 (月)
青文字:加筆改修部分
【質問】
高師冬とは?
【回答】
高師冬という武将が南北朝初期にいた.
高師冬は,高師秋の弟で,あの執事高師直の従兄弟にあたる.
師秋が直義派なので,師冬は本来は尊氏派の師直とは敵対関係にあるはずなのであるが,彼は師直の養子となり,師直の兄弟高師泰の娘と結婚している.
なので彼は終生尊氏党として活動したのである.
※余談ながら,高一族には「師春(師直の叔父)」「師夏(師直の嫡子)」「師秋」「師冬」と「春夏秋冬」の名を持つ者が全員そろっている.
師冬も師直・師泰と同様に武勇に優れた武将で,足利尊氏に従ってたびたび戦功を挙げ,暦応2(1339)年には関東執事に任命されて東国に下向し,南朝の中ボス北畠親房と激しい戦闘を繰り広げた.
康永2(1343)年には遂に親房が籠城する常陸国関城・大宝城を陥落させ,彼を吉野に追い払った.
これによって,関東の戦乱は以降数年間はしばらく小康状態となった.
師冬はこのように大戦果を挙げ,翌年関東執事を師直の弟重茂と交替して,意気揚々と京都に凱旋した.
桃井直常も確かに非常に優れた武将であったが,はっきり言えば,直常クラスの武将は室町幕府にはほかにいくらでも存在したのである.
ところが,これだけの勲功を挙げた武将ならば,数ヶ国の守護職を与えられてもまったくおかしくないのに,しかも彼は当時絶大な権勢を誇っていた高師直の養子であるにもかかわらず,彼が受けた恩賞は,官途が参河守から播磨守に変わったこと以外は,わずかに伊賀守護に任命されただけである.
関東執事だった頃は,武蔵守護も兼任し,関東諸国だけではなく奥州7郡にまでおよぶ広大な権限を与えられ,数ヶ国の軍勢に号令する力を持っていたのであるが,それがわずかに東海道の要衝に位置するとは言え,狭隘な伊賀1国しか与えられなかったのは,左遷以外の何者でもないのではないだろうか?
(と言うより大功を挙げたのに関東執事を罷免されることがそもそもないだろう)
当時のほかの武将ならば,当然この待遇に不満を爆発させ,反尊氏となって直義に接近したり,あるいは南朝方に寝返ったとしても全然不思議ではない.
しかし,師冬はこの冷遇にもかかわらず,不満の色は一切見せずに,以降も尊氏の忠臣として活動し続けるのである.
高一族は,よく諸国の荘園を押領しまくった悪逆非道の武将として描かれることが多いが,実際には基本的には武蔵・三河といった足利氏が鎌倉期に守護を相伝していた国の守護しか務めておらず,ほかには伊勢・越後・石見など南朝方の勢力が強い国に臨時に任命されたに過ぎない.
で,それらの国の反乱が一応収まったらすぐに他の武将と交替するのである.
このように,細川・山名などとは異なって領国や所領の類にはほとんど欲望を持たなかった人々である.
私は高氏は本当は,尊氏に対する忠誠心だけがきわめて高かった,楠木氏並みに権力欲の薄い清廉な一族であったと思っている.
観応1(1350)年,尊氏と直義の対立が激化すると,直義派の関東執事上杉憲顕に対抗するために,師冬はふたたび関東執事に任命され(当時執事は2人いて,両執事制であった),東国に下向する.
しかし,当時全国的に直義党の勢力が圧倒的に優勢だったこともあって,今回は武運つたなく,観応2(1351)年1月,上杉軍に籠城していた甲斐国須沢城を攻撃されて自害してしまうのである.
彼もまた報われることの少なかった悲劇の武将だと思う.
「はむはむの煩悩」,2008年4月 7日 (月)
青文字:加筆改修部分
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