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戦史FAQ目次


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『蓮如 夏の嵐』(岳宏一郎著,講談社,2004/04)

 「信長の野望」だったり「天下統一」だったりの,戦国時代裏の主役でゲーム中最大の敵役(違)である顕如の4代前,本願寺中興の祖の人の話.
 顕如が継いだ本願寺自体,当時は天台宗(比叡山延暦寺)>青蓮院>壁>本願寺の一末寺の末寺だったそうで,まさにいぢめられっ子.この反動が一向一揆なのか(違
 そこからこの逃げ檀上真っ青な,逃げ上手な蓮如のリア充戦略(逃げ上手・子沢山連枝戦略)が火を噴く.
 叡山の僧兵からのいぢめからか,御坊の縄張りを防戦志向でつくったと作者は判断したようだ.
 このあたり戦闘そのものの描写は無いが,末寺は上部へ上納金か山門,いやなら武力衝突を選ぶしかないことを書いています.
 百姓の持ち足る国を工作した下間蓮崇も,架空の人格を与えられ,いい味出しています

 しかしWIKIにもあるが

>妻の死別を4回に渡り経験し,生涯に5度の婚姻をする.
>子は男子13人・女子14人の計27子を儲ける.死の直前まで公私共に多忙を極めた.

 いそがし過ぎだろ,いろいろ.

------------軍事板,2012/05/09(水)

 【質問】
 南北朝時代の畠山氏について教えられたし.

 【回答】
 畠山国清という武将も非常に魅力的で,南北朝時代を代表する武将のひとりである.
 その生涯は高師直や佐々木導誉にひけを取らないすさまじさであるが,やはり一般的にはマイナーであまり知られていない人物であろう.

 そこで今回は,南北朝時代の畠山氏について,同氏が紆余曲折を経ながらも発展していって,室町時代に管領家として成立するまでを簡単に紹介していきたい.

 畠山氏の祖は,鎌倉初期の足利義兼の長子義純である.

 足利義純は,長子であったが母親が遊女であったために足利宗家を継ぐことができなかった.
 そこで義純は,父の従姉妹新田義兼の娘と結婚し,岩松時兼と田中時朝の2子をもうけた.
 この岩松時兼の子孫が南北朝内乱において幕府方として活動していることは,以前も紹介したことがある.

 元久2(1205)年,北条時政によって畠山重忠が滅ぼされた.
 畠山重忠は桓武平氏の出で,源平争乱で大活躍する名将であるが,北条氏との抗争に敗れて滅亡したのである.

 しかし,名族である畠山氏をこのまま消滅させるのはまことに惜しいということになり,重忠の後家(時政の娘)を足利義純と再婚させ,義純に畠山氏の名跡と遺領を相続させた.
 ここに清和源氏の畠山氏が誕生したのである.

 足利氏の場合,一般的に早期に宗家と分かれた家は家格が低く,譜代の家人扱いなのであるが,畠山氏の場合はこうした事情で誕生した家であるので,斯波氏に継ぐ家柄の高さを維持していたようである.

 南北朝期には高国・国氏系と国清系の両惣領家と美濃の庶流である直顕系などに分かれていた.
 まずは高国・国氏系について紹介したい.

 義純と時政娘との間に生まれた泰国が畠山氏を継ぐが,系図によれば泰国―国氏―高国と続くとされる.
 しかし,世代的に国氏と高国を父子と見ることはほとんど不可能で,両者の間には1代か2代欠落があると推定されている.
 足利尊氏の祖父家時と父貞氏も年齢計算が合わないところがあり,鎌倉後期の足利氏はそれだけ史料に乏しいのである.
 当該期の同氏の地位がどんなものであったか窺われるであろう.

 それはともかく,『梅松論』によれば,建武2(1335)年12月,足利軍が京都を攻撃したとき,勢多を直義が攻撃し,高師泰が副将軍としてこれを補佐し,芋洗を吉見頼隆,宇治を尊氏が攻撃し,畠山高国が淀を攻撃する部隊を率いていたそうである.
 このように,畠山高国は草創期から一軍を率いる有力部将として活躍していたのである.
 同氏の足利氏内部における地位の高さが窺われるであろう.

 建武3(1336)年に足利軍が京都を再占領して室町幕府が成立するとともに,高国は山城御家人小枝道忍等を率いて京都周辺の南朝軍と交戦し,ついで伊勢守護に任命されて伊勢で連戦した.

「はむはむの煩悩」,2008年2月17日 (日)
青文字:加筆改修部分

 室町幕府発足早々伊勢守護に任命された畠山高国であるが,伊勢守護は2年も経たないうちに,暦応1(1338)年に高師秋に交代した.

 高師秋というのは高師直の従兄弟で,観応の擾乱では高一族としては数少ない直義派として行動した武将である.
 昔,旧ブログでこの人物を取り上げたことがあり,彼もなかなかおもしろいのであるが,それはともかく,どうして短期間で伊勢守護が交代したのであろうか?

 同年正月,はるか奥州から遠征し,美濃国青野原(現在の関が原)で幕府軍と戦った北畠顕家軍は,進路を南に転じて伊勢を通過した.
 顕家は,この後近畿地方各地で高師直軍と何度も合戦し,和泉国堺浦で遂に戦死する.
 また,同年閏7月には,北畠親房が義良親王(後の後村上天皇)や宗良親王等を擁する大海軍を率いて伊勢国大湊を出航した.

 この船団は途中で台風に遭遇し,親房は常陸,宗良は遠江に漂着し,義良は伊勢に戻るのであるが,ともかく南朝軍のこれらの軍事活動を阻止できなかった責任を取らされた,
 これが高国の伊勢守護罷免の理由であると推定されている.

 高国はその後何年も在京し,大した要職に就けずに不遇だったらしいが,康永4(1345)年,嫡子国氏が奥州一方管領に任命されたのに伴い,国氏とともに陸奥の多賀国府に赴任した.

 このとき,吉良貞家も一方の奥州管領に起用されており,直義党の貞家に対抗して,尊氏派の畠山国氏が採用されたのだとされている.
 確かに,高国の後に伊勢守護になった師秋は前述したとおり直義派であり,観応の擾乱の展開を見ても畠山父子は尊氏党として活動している.
 当時鎌倉府でも,尊氏派の高師冬と直義派の上杉憲顕の両執事体制であり,尊氏派と直義派の対立は,畿内近国のみならず,全国的に波及していたのである.

 しかし高国は,このときの奥州赴任にあたって直義の許を訪れ,直義から激励の和歌を贈られているのである.
 実際には,多くの武将は明確には派閥に分かれておらず,尊氏とも直義とも良好な関係を維持していたのであろう.
 元々はみんな親戚同士だし,仲よしだったのである.

 だが,現実に衝突が起きると,政界の人間として,兄と弟どちらに味方するか,必然的に踏み絵を迫られる.
 ともあれ,高国・国氏父子は尊氏党となり,観応2(1351)年2月,吉良貞家に陸奥国岩切城を包囲され,100名を超える味方とともに自害した.

 国氏には平石丸という遺児がおり,元服して国詮と称し,陸奥国賀美・黒川両郡の領有を幕府から認められている.
 しかし,ここも奥州管領斯波詮持に侵略されていたようで,明徳2(1391)年には,その停止を命じる管領細川頼元の命令が出されている.

 このように陸奥の畠山氏は概して振るわず,戦国期には安達郡の二本松を領有する弱小大名に過ぎなくなる.
 ちなみに伊達輝宗を拉致して,伊達政宗軍に輝宗とともに射殺された畠山義継は,この末裔である.

「はむはむの煩悩」,2008年2月23日 (土)
青文字:加筆改修部分

 申し遅れたが,細川顕氏のエントリーのあたりから,主として小川信『足利一門守護発展史の研究』(吉川弘文館,1980年)を参考に書いている.

 この著書は,細川・斯波・畠山の3管領家の南北朝時代の事績を,膨大な史料を網羅的に集めて実証的に解明した研究である.
 私は長年にわたってこの本を繰り返し繰り返し何度も読み,自分の研究に大いに役立ててきた.
 昭和56年度の日本学士院賞も受賞しており,緻密で手堅い実証は専門の研究にも立派に通用するのはもちろん,簡明で平易な叙述は一般的な歴史愛好家にとっても十分おもしろく読める楽しい書物であると思う.
 桃井直常等,管領家以外の武将についても要所要所で触れられているし,750ページを超える本であるが,興味を持たれた方は一度読まれてはいかがだろうか?

 本題に戻ろう.
 畠山氏には,ほかにも畠山泰国の子・義生を祖とし,鎌倉期には代々美濃国に所領を有した直顕系の庶流も存在する.

 畠山直顕は,最初義顕と名乗っていた武将で,尊氏が九州から再起して再上洛した際,日向の国大将として九州に残った.

 これはもちろん,肝付兼重等九州地方の南朝勢力を打倒するためであるが,日向国には元北条泰家領であった国富荘,元赤橋守時領であった島津荘日向方が足利氏領として存在するので,これらの足利領を防衛する重大な使命も帯びていた.

 義顕は,主に日向・大隈を中心に南九州一帯に広範な権限を行使し,初期から肝付氏・伊東氏等の南朝方を圧倒し,康永4(1345)年には日向守護に任命されているが,鎮西管領であった一色範氏からは指令を受けた形跡はなく,まったく別個に独立して活動していたようである.

 暦応3(1340)~4年頃に義顕から直顕と改名しているが,これは直義から「直」の字を拝領したものであると容易に推定されよう.
 この事実からもわかるとおり,畠山直顕は有力な直義党の武将であり,観応の擾乱の際には直義を支持する足利直冬に味方して尊氏―一色氏と結ぶ島津氏・大友氏と抗争した.

 その後も島津氏と戦い続け,同氏を一時南朝方に走らざるを得なくさせたほどであるが,直冬の勢力が衰えるとともに直顕の勢力もまた衰退した.
 とは言え,桃井氏・石塔氏に次いで忠実な直義派の武将であったと言えると思う.

 直顕の甥に,畠山直宗という人物がいる.直宗も直義から「直」の字を拝領したのであるが,この人が守護や頭人等の軍事活動や幕府の要職を務めた事実は何ら知られていない.

 しかし,直義の側近中の側近で,常に彼の傍で仕えていたらしく,直義の行動に直接大きな影響を与えることのできる人物であった.ドラクエに例えれば,遊び人といったところか?

 この直宗が,直義の執事的地位にあった上杉重能と僧妙吉とともに,直義に高師直を讒言して,師直の排除を決意させたのである.

 そのため,貞和5(1349)年8月にクーデタを起こして尊氏邸を包囲した師直・師泰兄弟は,重能と直宗の身柄の引渡しを要求している.

 結局幕府は両者の越前流罪を決め,実行にうつしたが,両者は護送の最中暗殺されている.
 このようにスキル的にはまったく無能な人物であったが,歴史の展開に大きな影響を与えたと言える点では,彼もまた重要な存在意義を有するのかもしれない.

 次回はいよいよ,畠山国清について紹介したい.

「はむはむの煩悩」,2008年2月24日 (日)
青文字:加筆改修部分

 畠山国清は,畠山高国の弟貞国の孫である.前述したように,畠山氏の系図は若干問題があるのであるが,国清系については少なくとも年代的には問題はないようである.

 建武2(1335)年12月,足利尊氏が鎌倉で挙兵して京都に攻め上る途上,伊豆国府で官軍と合戦が行われた.そのとき,国清の父・家国が戦死している.

 その後国清は,戦死した父に代わって足利軍の有力部将として尊氏に従軍し,日本各地で合戦に参加して勲功を積んだ.

 その活躍は相当大きかったらしく,建武3(1336)年,室町幕府発足直後,国清は早速和泉・紀伊2ヵ国の守護に任命されている.

 和泉守護は建武4(1337)年に細川顕氏に交代するが,紀伊守護は観応の擾乱に至るまで一貫して維持している.

 言うまでもなく紀伊国は現在の和歌山県にあたり,南朝の本拠の間近であり,最前線地帯である.
 国清がいかに幕府に重用されていたかが窺えるであろう.

 国清は紀伊の南朝方を抑えつけた後,暦応1(1338)年9月には越前の南朝方に備えるため近江に出陣したり,いろいろと活躍していたようである.

 貞和3(1347)年に楠木正行が河内・和泉で蜂起すると,国清は両国守護細川顕氏を側面から援護している.

 ところで国清は,当初は熱烈な尊氏党であったらしい.『太平記』には国清は「無二の将軍方」であったと記されている.
 彼のキャラクターや武将としての卓越した能力から見ても,本来は尊氏派になっているべき人物であるように思える.

 貞和4(1348)年4月,足利直義は正行を倒す大戦果を挙げた高師直に対抗するために,養子直冬を「紀州大将軍」とする光厳上皇の院宣を獲得して彼を紀伊に出陣させた.
 この遠征は直冬軍の大勝利に終わって成功を収めたらしいが,国清はこのとき直冬軍にはほとんど協力していない.
 紀伊守護である自分の管轄を犯されて,内心かなり不愉快であった模様である.

 また,細川顕氏のエントリーでも述べたとおり,四條畷の合戦の後,楠木軍に敗北した責任をとらされた顕氏は河内・和泉の守護職を改易され,その後は高師泰が両国の守護となっていたが,貞和5(1349)年8月の師直クーデタの直前に,国清が両国の守護に任命されている.
 これもクーデタを断行するために大軍を率いて上洛した師泰に代わったものと見られ,むしろ尊氏党の中枢を占める人物としての活動であろう.

 ところが,翌観応1(1350)年,実際に起こった尊氏と直義の戦争に際しては,国清は直義軍の主力として行動し,尊氏軍をさんざん打ち負かしたのである.続きはまた今度・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年2月28日 (木)
青文字:加筆改修部分

 観応(1350)年12月,失脚して出家していた足利直義は京都を脱出して大和国に逃れる.
 すると「無二の将軍方」であったはずの畠山国清は,直義を河内国石川城に迎え入れ,直義派としての立場を鮮明にしたのである.

 『太平記』によれば,彼が直義派になった理由は,直義が南朝方となったため,大和・河内・和泉・紀伊の南朝方がみな直義党となったからであるという.
 おそらく大方そのとおりだと思うし,情勢の変化を見て巧みに立場を変える国清らしい行動と言えよう.

 国清は直義を奉じて摂津に出陣し,観応2(1351)年1月,摂津守護代の軍勢を撃破した.
 次に国清は直義を山城国八幡に置いて,北陸から入京した桃井直常・斯波高経等と連携して尊氏の上洛を阻止し,丹波から播磨に撤退した尊氏軍を細川顕氏等と呼応して圧迫し,2月,摂津国打出浜で石塔頼房等とともに尊氏軍を撃破した.
 つまり国清は,事実上の直義軍の主将として尊氏を倒したのである.

 尊氏と直義が一時的に講和した後再開された直義主導下の幕府においては,国清は引付頭人に就任し,従五位下修理権大夫に昇進した.
 これはもちろん,国清の勲功が抜群であったことに対する直義の褒賞である.

 8月の直義北陸没落においては,国清も直義に従って越前に同行している.
 この結果,国清は紀伊・河内・和泉の守護職を幕府に没収された.
 河内守護は高師泰の子師秀,和泉守護は以前述べたとおり,このとき尊氏派に寝返った細川顕氏がそれぞれ就任している(紀伊の後任守護は不明).

 しかし10月に行われた尊氏と直義の講和会議では,国清は和平派に転じたらしく,顕氏とともに尊氏との和平を直義に強く勧めている.
 国清もまた,悪化する一方の直義の情勢を見て,講和するべきだと考えたのであろう.

 だが繰り返し述べるように,桃井直常の激しい反対に遭って結局講和は成立せず,面目を失った国清は上洛して出家しようとして尊氏に制止された.

 要するに国清はふたたび尊氏派へ寝返ったわけであるが,直義が3月に信任して引付頭人に登用した5人の武将のうち,結局最後まで直義に殉じたのは桃井直常と石塔頼房の2人だけで,畠山国清・細川顕氏・石橋和義の3人は尊氏党に転じている.

 国清は尊氏の推挙によって正五位下に昇進している.
 かつて自分に歯向かって苦しめた武将でも,有能な人物はこだわらずにどんどん登用する,それが尊氏という将軍なのである.

 11月,尊氏は仁木頼章を新執事に任命し,直義を打倒するために東国に出陣した.
 国清もこの尊氏軍に従って東海道を東下した.

 尊氏軍は直義軍を次々と撃破して,正平7(1352,北朝観応3)年1月,箱根早川尻で直義軍を破った後,尊氏は仁木頼章・義長兄弟と国清を伊豆に派遣して直義を逮捕させた.
 かつて直義軍の主将であった国清は,それからわずか1年後には直義を最前線で撃破してその政治生命にとどめを刺したのである.
 あまりにも運命の女神は皮肉なことをするものだなあと思う.続きはまた今度・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年3月 2日 (日)
青文字:加筆改修部分

 関東に向かい,直義を降した尊氏であったが,尊氏はそのまましばらく鎌倉にとどまって,東国の経営に専念することにしたのであった.

 観応2(1351)年11月から文和2(1353)年7月までの2年弱の間の室町幕府は,東国を尊氏,西の旧六波羅探題管轄地域を義詮がそれぞれ分割して統治する変則的な体制であった.
 擾乱以前の尊氏・直義兄弟の分割統治は,権限の分割であったが,この尊氏・義詮父子の分割統治は,地域の分割であった.わずかな期間であるが,この時期は幕府の政権基盤確立のために重要な時期であったと私は考えている.

 正平7(1352,北朝観応3)年,南朝が幕府との講和を破棄して東の尊氏,西の義詮を攻撃した.
 西の義詮軍京都撤退→奪回→石清水攻城戦の流れについては,今までも何度か紹介したが,東においても尊氏が武蔵国に出陣し,金井原・小手指原に連戦して南朝&旧直義党連合軍を撃破した.
 いわゆる武蔵野合戦である.

 畠山国清はこれに従軍して活躍し,ついで新田義興・脇屋義治等が相模国河村城に籠城するとこれを攻撃した.
 相変わらず幕府軍の有力武将として活躍していた模様である.

 この時期,国清はまず伊豆守護に任命されている.
 伊豆はかつて源頼朝が流人として過ごし,平家打倒のために挙兵した地方である.
 また,後の鎌倉幕府執権北条氏の本拠地でもあり,鎌倉時代には北条氏家督(得宗家)が代々守護を務めた国である.
 南北朝初期には,直義が厚く信頼して高師直に殺害された上杉重能が守護を務めており,室町時代には,関東管領を務めた山内上杉氏が代々伊豆守護となっている.
 要するに伊豆国は,武家にとっては政治的・歴史的にきわめて重要な地域なのである.
 この国の守護を任された一事を見ても,国清の幕府における地位が窺えるであろう.

 文和2年6月,西国において南朝軍がふたたび京都を占領し,義詮と後光厳天皇は美濃国に退いた.
 尊氏は義詮を救うため,前述したとおり,大軍を率いてふたたび上洛するが,このとき子息基氏をあらたに鎌倉府の首長・鎌倉公方とし,国清を基氏の補佐として関東執事に任命する.
 関東執事・畠山国清の誕生である.

 同時に国清は,武蔵守護にも補任された模様である.
 鎌倉府は相当大きな権限を与えられ,引き続き関東の南朝方と戦い続け,基氏と国清のコンビは,東国をよく治めたようである.

 国清が新田義興を武蔵国矢口渡で謀殺したというのは,この時期の伝説である.
 余談ながら私は,子どもの頃この話を本で読んで,畠山国清というのは何て悪い奴なんだと思った記憶がある.
 私の中で国清は,長い間歴史上最高の悪人のひとりであったが,今にして思えば,彼は関東執事として当然の職務を遂行したまでであろう.
 しかしこの事件は,信頼できる史料では確認できないそうである.

 ともかく,この時期が国清の生涯で絶頂期であったと言えるであろう.

「はむはむの煩悩」,2008年3月 5日 (水)
青文字:加筆改修部分

 鎌倉公方足利基氏に討伐されて,一時的に滅亡した畠山氏であるが,畠山国清の弟・義深がほどなく許されて幕府に復帰する.

 貞治5(1366)年8月,政変が起こり,幕政を掌握していた斯波高経以下の斯波一族が失脚し,越前に没落するが,畠山義深はその追討軍の大将として越前に出陣し,そのまま越前守護となった.
 桃井氏シリーズでも紹介したが,失脚前に斯波氏が有していた分国越前・若狭・越中の守護職は失脚に伴ってそれぞれ畠山義深・一色範光・桃井直信に交代したのである.

 斯波氏も高経の死去に伴ってまもなく許されて,翌貞治6(1367)年8月には斯波義将が幕府に復帰して越中守護を回復するが,義深はそのまま越前守護に留任する.

 越前国は建武政権の頃から斯波氏が関わりを持ち,室町幕府発足以降ずっと同氏が守護を維持してきた分国である.
 京都に近く,北陸への重要な通路にあたり,大荘園も多く,かつて新田義貞や足利直義も再起のために下向するなど,軍事的・経済的に重要な拠点であったのは,今までもたびたび紹介してきたとおりである.
 そのため,斯波氏以外にも多くの武将が越前の獲得を狙っており,延文2(1357)年には細川清氏が越前を希望して尊氏に拒否されたのを不満として,一時阿波国に逃亡したほどである.
 畠山義深は,斯波氏を牽制する幕府の方針として,このような重要なポジションをまかされたのである.

 同年12月に将軍義詮が死去し,幕府は幼少の将軍義満を管領細川頼之が補佐する体制となるが,義深は旧尊氏党であった影響もあり,細川派の武将として活動し,康暦1(1379)年に死去するまで越前守護に在職し続けた.

 そして,義深の子・基国の代になって畠山氏は一気に勢力を拡大するのであるが,それについてはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年3月17日 (月)
青文字:加筆改修部分

 言い忘れていたが,畠山国清の官途は,関東執事に就任して数ヵ月後,修理権大夫から阿波守となっている.
 また,延文3(1358)年4月の尊氏死去に伴い,出家して道誓と称している.
 このため,国清は「阿波入道」と呼ばれた.

 さて,京都の政界では尊氏の死によって,将軍義詮・執事細川清氏という新体制となった.

 新執事細川清氏については,今までも何度か述べたことがあるが,骨の髄からの武人で,戦争で勲功を積むことだけで出世して,執事まで登りつめた武将である.
 そのため,当然推進する政策もタカ派的なものとなり,この際軍事力を駆使して南朝を一気に打倒しようと彼は考えた.

 清氏は西国の幕府軍を大編成して大軍をそろえたが,これに関東の国清も呼応し,延文4(1359)年10月,国清は東国の数万騎の大軍を率いて上洛を開始した.
 国清にとってはひさびさの畿内進出であった.

 国清は,11月6日入京して義詮に面会し,12月には摂津国尼崎に出陣した義詮に続いて京都を出発し,清氏等ともに南朝討伐戦を開始した.

 このとき,国清はふたたび河内・和泉守護に任命されている.
 翌年4月には,和泉守護を細川業氏と交代しているが,代わりに紀伊守護に転じている.
 どうも今回の畿内遠征については,国清もまた非常に積極的で,鎌倉公方基氏に強く進言して実現したらしい.
 東国と西国の中枢部に自らの強力な地盤を築いて幕政を牛耳ろうという国清の壮大な構想が窺えるのではないだろうか?

 この戦争は,当初は大成功を収めた.
 国清は河内に進出して四条村で南朝軍と交戦し,翌延文5(1360)年3月には,前年まで6年間後村上天皇の行宮であった金剛寺に乱入して焼き払い,4月には紀伊に侵攻して高野山等の諸城を落城させた.
 一方清氏も河内の諸城を攻略し,5月には楠木正儀の赤坂城を陥落させた.

 国清・清氏という東西の2大タカ派武将が力を併せれば無敵であった.
 畠山国清というのは,本当に戦争の強い名将である.

 こうして幕府軍は5月下旬にはいったん京都に帰ったが,この後事件が起こった.
 7月,清氏たちはふたたび南朝軍を討つと称して京都を発ったが,実はこれは京都の留守を預かっていた仁木義長を失脚させるための謀略であり,途中で仁木を襲撃するために彼らは京都に引き返した.

 仁木義長というのは,前執事仁木頼章の弟で,彼も兄とともに熱烈な尊氏党の武将で日本各地を転戦しておびただしい戦功を挙げ,「勇士」と称えられていた人物である.
 当時は伊賀・伊勢等の守護を務めていたが,こういう人物なので専横の振る舞いも多く,清氏と激しく対立していたのである.

 危険を察知した義長は,将軍義詮を拘束して防戦する決意を固めたが,義詮が脱出したので一族を挙げて伊勢に没落して失脚した.

 高師直の四條畷の合戦のときもそうであったが,この政権はどういうわけか軍事的に圧勝した直後に,内部分裂を起こす癖があるようである.
 こんなことばかりやっているので,抑えつけたはずの南朝もふたたび息を吹き返すのであるが,それはともかく,『太平記』はこの事件の首謀者を国清であるとする.
 しかし今まで見てきたとおり,当時国清はずっと関東にあって東国の経営に専念しており,義長との間には何ら利害関係がなかったので,『太平記』のこの見解は一般的には否定的に見られている.

 それはさておき,仁木義長追放事件のわずか1年後,今度は国清自身が追放されることになるのであるが,それについてはまた次回紹介したい.

「はむはむの煩悩」,2008年3月 9日 (日)
青文字:加筆改修部分

 〔略〕
南朝に圧倒的勝利を収めても,このように内紛を繰り返してしまうのは,やはり当時の社会・経済の変動がその根底にあるからなんだと思いますね.

 南朝を滅ぼせば,それですべてが丸く収まるといった単純な問題ではなく,構造上の要因も大きかったんだと思います.
 南北朝の対立は,内乱を構造的に再生産するきっかけであり,確かに大きかったですが,それがすべてではないです.

「はむはむの煩悩」,2008年3月10日 (月) 14:20
青文字:加筆改修部分

 仁木義長追放事件の後間もなく,延文5(1360)年8月,畠山国清は関東に帰還した.

 『太平記』によれば,義長を追放したために逼塞していた南朝方が,ふたたび息を吹き返したのは国清のせいであるという評判が京都で立ち,京都五条の橋に,
「御敵の種を蒔き置く畠山打ち返すべき世とは知らずや」
「何程の豆を蒔きてか畠山日本国をば味噌になすらん」
などという落首が立つなどして面目を失ったため,国清は夜中こっそり京都を発って,鎌倉に逃げ帰ったとされている.

 南北朝時代の落首と言えば,
「この頃都に流行るもの~」
で有名な,二条河原の落首が代表的で著名であるが,ほかにもたくさんの落首がこの時代には出現したらしい.
 このあたり,現代のネット文化と共通しているようで興味深い.

 それはともかく,しかしこの『太平記』の見方は,前回も述べたとおり,義長追放事件の首謀者は国清ではなく,細川清氏であると考えられるので,真相はついていないようである.
 現代の歴史家は,国清帰倉の原因を,むしろ同じ『太平記』に記されている,関東の軍勢が畿内の長期滞陣に耐えかねて,無断で東国に帰る者が続出した事実に求めているが,おそらくそれが正しいであろう.

 国清が東国に帰ってわずか1年あまり後の康安1(1361)年11月,今度は国清が突然失脚する.

 鎌倉公方足利基氏は尊氏の実子であるが,直義の猶子となっており,直義を非常に敬愛していたらしい.
 直義を尊敬するあまり,直義が嫌って絶対に観なかった演劇の類を,基氏も彼を見習って終生観なかったそうである.
 この点,能や狂言をこよなく愛し,これらの芸能を積極的に育成した義満以下の室町殿とは対照的であるが,それはともかく,こういう人間だったので根っからの尊氏党である国清とは,いろいろ意見が衝突して合わないことがあったらしい.
 そもそも今回の畿内遠征も,基氏は消極的で乗り気ではなかったのを国清が強引に押し通して,基氏をしぶしぶ承知させて実現したものであったらしい.

 それに加えて,国清失脚の最大の要因は,東国における旧直義党の勢力の巻き返しであった.
 同年9月にも,西国で執事細川清氏が失脚して,旧直義党であった斯波氏が実権を握るが,このような全国的な旧直義党の反撃の前に,国清も敗れ去ったのである.

 国清の後任の関東執事には,かつて直義派であった高師秋の子師有が就任した.
 基氏はやがて旧直義党の中心人物であり,越後で反幕府活動を続けていた上杉憲顕を帰順させ,師有の後任の関東管領に就任させている.
 この後関東管領は上杉氏の一族から選ばれるようになるが,これらの事実も上記の推定を裏づけるであろう.

 国清は本国伊豆に撤退した.
 彼に味方したのは一族および遊佐・神保・杉原等の最も親しい家来しかいなかった.
 このような孤立無援の状況の中,それでも約10ヶ月にわたって抵抗を続けたのはさすがだと思うが,ついに敗北した.
 その後は,大和に逃れて南朝方に寝返ろうとしたが,仁木義長・細川清氏の帰順さえも認めた南朝は,国清の投降は決して許さず,最後は畿内を放浪してのたれ死んでしまったのである.

 以上瞥見してきたが,畠山国清が南北朝時代を代表する武将のひとりであることは疑いないであろう.
 道徳的にはおせじにも優れた人物ではないし,最後は最悪の形で迎えることとなったが,交通も通信も発達していなかった時代に,東国と西国の中枢地帯を掌握して強大な権力を握ろうとした,その気概は評価してもいいと思う.

 ここに畠山氏はいったん滅びることになったが,すぐに復活して幕府政治の中枢に返り咲くこととなるのである.
 続きは次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年3月13日 (木)
青文字:加筆改修部分

 畠山義深の子・基国は,文和1(1352)年に生まれた.伯父と父の東国転出の関係で幼少の頃は関東で過ごし,基国の「基」の字は,おそらくは鎌倉公方基氏の偏諱を賜ったのではないかと考えている.
 ただ,伯父国清をはじめとする畠山一族が関東で失脚したのが康安1(1361)年であるので,基国が元服して基氏から1字拝領するには,彼が9歳以前でなければならず,少し若すぎる気もするが,新田義興が後醍醐天皇の御前で6歳で元服した例もあるので,可能性はあるにはあると思う.

 基国は永和2(1376)年頃,首都京都の行政を司る要職である侍所頭人(当時の侍所長官は山城守護も兼任)を務めていた事実を確認できる.
 当時すでに24歳で,右衛門佐の官途も有していた.ここから幕府の重臣としての彼の人生がスタートするのである.

 康暦1(1379)年に父義深が死去した後は越前守護を継ぐが,その直後に康暦の政変が起こり,管領細川頼之が失脚する.

 政変後,頼之の政敵である斯波義将が管領に就任するが,細川派であった基国がこのとき頼之を助けるために,具体的に行動を起こした形跡は何もない.
 父の死の直後であった事情も大きかったし,自分も巻き込まれて失脚するのを避けるために自重したのだと考えられているが,妥当であろう.
 このとき,基国と富樫昌家・一色範光が追討を受けるらしいという噂も立ったそうで,やはり基国も困難な立場に追い込まれていたことが窺える.

 政変後,基国は越前と越中を義将と交換し,越中守護に転じる.
 これが畠山氏初の世襲分国であるが,越前に比べると京都から遠く,政治的・軍事的に不利になったことは否めない.
 斯波派の勢力伸長に伴って,基国の勢力も減退したのである.

 しかし基国は,ここから飛躍的に勢力を拡大し,畠山氏の発展が始まる.
 同年,基国は引付頭人に起用される.

 永徳2(1382)年には,河内守護に任命されて,河内に出陣した.
 河内は楠木正儀の本拠地であり,応安2(1369)年,正儀が幕府に帰順して以降も10年以上楠木氏が河内守護を務めていた.
 この正儀が同年ふたたび南朝方に転じたので,かつて伯父国清が深い関係を持っていたこの地に,基国が出陣を命じられたのであろう.

 この戦争の経過はあきらかではない.
 つまり,史料的に残る価値がないほどに,基国の河内制圧は容易に達成された模様である.

 正儀が北朝に転じた後,それまで正儀に従っていた南朝軍が反発して蜂起し,管領頼之時代にたびたび幕府の侵攻を受け,康暦2(1380)年にはかつての正儀の部下であった橋本正督が敗死するなど,楠木氏の勢力も南北朝末期に至って非常に衰退していたことも,畠山軍の勝利の要因として非常に大きいであろうが,伯父譲りの基国の武将としての有能な手腕も,この勝利には大きく貢献していると思う.

 ともかく,河内もこれ以降畠山氏の世襲分国となり,同氏が代々継承することとなる.
 畿内の要地を制圧して,畠山氏の基盤はさらに確実なものとなったのである.
 この続きはまた今度に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年3月20日 (木)
青文字:加筆改修部分

 越中・河内に続いて畠山基国が領国とした第3の国は,能登である.

 基国が能登守護に任命された正確な時期は不明であるが,遅くとも南北朝末期であるとされている.
 至徳4(1387)年,富樫昌家の死去に乗じて加賀が斯波氏の分国となったので,斯波氏の勢力拡大に対抗するための措置と考えられている.

 室町幕府の歴史を見ていつも思うのは,この政権の優れたバランス感覚である.
 特定の勢力が突出した力を持たないように,常に細心の注意を払って政権運営がなされている.
 特に将軍義満のバランス感は,神業と言ってもいいほどの領域に達していると思う.

 能登は結果的に基国の次男・満慶が継承し,以後彼の子孫である能登畠山氏が代々能登守護を務める.
 なお,基国の叔父・国ひろが佐渡守護になっているので,畠山氏は一族で4ヵ国の分国を保有したことになる.

 明徳2(1391)年,室町幕府は山名氏と戦争を行った.
 幕府軍と山名軍は,京都の大内裏跡である内野で決戦をして,このとき基国は前線で陣頭指揮を行って顕著な勲功があった.

 この恩賞として基国は山城守護と侍所頭人に任命された.
 首都京都を擁する山城国と京都の行政を担当する侍所長官の地位を与えられた意義は多言を要しないであろう.
 同時に基国の弟深秋が尾張守護となり,畠山氏は一時尾張も領有した.

 山城守護・侍所頭人は明徳5(1394)年までに結城満藤・京極高詮にそれぞれ交代した.
 前年に管領が細川頼元から斯波義将に交代したことも,この人事に大きく影響しているようであるが,両職は,強大すぎる権力を持つ武将が出現しないよう,最後まで世襲化しなかった地位である.
 こういうところにも,幕府のバランス感覚が現れているのである.

 応永2(1395)年に義満が出家し,多数の公家・武家も義満に倣って出家する.
 基国もこのとき出家して,法名を徳元と名乗った.
 そしてついに応永5(1398)年,基国は幕府の管領に就任する.管領畠山氏の出現である.

 基国は応永12(1405)年まで管領を務め,幕府の重鎮として活躍し続ける.
 その間,応永6(1399)年,大内義弘を追討するための大将軍として和泉国堺に出陣し,義弘を討ち取る勲功を挙げる.

 畠山氏というのは他氏と比較しても軍事的貢献が目立つ一族なのであるが,この恩賞として大内氏の分国であった紀伊の守護に任命される.
 畠山氏は結局,越中・河内・能登・紀伊の4ヵ国を代々世襲し,管領と山城守護に時折任命される幕府の重臣中の重臣の家として確立するのである.

 基国は応永13(1406)年に死去するが,子息の満家が後を継いで何度か管領となって義教初期まで全盛期の幕府を支え続ける.
 ちなみに,有名なクジを引いて将軍を義教に決めたときに管領だったのが,この畠山満家である.

「はむはむの煩悩」,2008年3月23日 (日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 室町時代の能登畠山氏について教えられたし.

 【回答】
 実は最近,ニコニコ動画にはまっている.

 わずか3時間でクリアしてしまうドラクエ3タイムアタックとか,しょこたんのお絵かき動画とか,興味深い画像がたくさんあるが,その中でも特に毎日うpを楽しみにしているのが,『信長の野望』で,能登の畠山義総でプレイしているものである.
 能登畠山氏は,南近江の六角氏,飛騨の姉小路氏などとともに,初期設定がきわめて低い弱小大名の一人で,これを選んで天下統一を達成するのは非常に困難とされており,にもかかわらずプレイヤーはほんと上手で,「これを見るのが最近の日課」というコメントもちらほら散見しており,みんなおれと考えることがいっしょだなあと思うwww

 だが,この能登畠山氏,ゲームではほんとに弱い大名だし,事実戦国末期には確かに悲惨な状況に陥ってしまったが,室町時代や戦国時代初期には相当すごい大名だったのである.

 能登畠山氏の祖は,畠山満慶という人物である.

 満慶の兄満家(満家・満慶兄弟は生年が同じであるので,双子説もある)は,どうしたわけか将軍義満に非常に忌み嫌われ,蟄居させられていた.

 満慶は逆に義満にかわいがられ,畠山氏の家督を継承していたのであるが,義満の死後,家督や所領をすべて投げだし,満家に譲ってしまったのである.

 こんな無欲な武将はほかには誰もいなかったので(せいぜい以前紹介した上杉憲実くらいのものか?),当時,天下の美談として非常にもてはやされたのであるが,満家ももちろん弟のはからいに感謝し,お礼として能登の守護職を彼に返還した.

 以降,この満慶の子孫が代々能登守護を継承していくのである.

 満家は後に全盛期の幕府を堅実に盛りたてる名管領となるが,能登畠山氏も三管領・四職と並ぶ幕府宿老として幕府政治を支えた.
 彼らとともに,重大な政治課題の解決に際して,将軍の諮問を受けて意見を述べることを許されている数少ない重臣級守護大名の一人だったのである.

 戦国時代には,他国に侵略することは一切なく専守防衛に徹し,上杉謙信でさえ攻めあぐねた天下の名城七尾城に居住して領国経営に専念した.

 そのため,特に義総の時代に非常に栄え,多くの貴族や文化人が戦乱を避けて能登を訪問し,能登は文化的にも大いに発展し,七尾の町は小京都と称えられた.

 最後は内紛続きで急速に衰え,滅亡してしまうが,約1世紀にわたって平和を維持したことは,積極的に評価していいだろう.

 この点,2系統に分裂して互いに抗争して応仁の乱の原因を作り,その後も長く畿内の紛争の要因となった管領畠山宗家とは全然異なる.

 私は,このように代々穏やかで平和的だった能登畠山氏が,けっこう好きなのである.

「はむはむの煩悩」,2007年6月18日 (月)


 【質問】
 細川顕氏とは?

 【回答】
 先月は,南北朝時代の越中国の歴史について,桃井直常を中心に紹介したが,直常と同様に忠実な直義派でありながら,否,直常以上に直義に厚く信頼・重用されていながら,観応の擾乱以降直常とは対照的に行動した,細川顕氏という武将がいる.

 今月はまず,細川顕氏の生涯を紹介したい.

 細川顕氏は,その名字から推察できるように,後の室町幕府管領細川氏から出た人物である.

 八幡太郎源義家の孫・義康が足利氏の祖である.
 その子・義兼が足利氏の嫡流となり,子孫に尊氏・直義の兄弟を出すが,足利義兼の兄・義清が細川氏の祖である.

 細川氏は足利一門の中では庶流で身分が低い家来筋の家とされ,南北朝初期には細川公頼の子の和氏・頼春等の兄弟と,公頼の弟である頼貞の子・顕氏・定禅・皇海等の兄弟に分かれていた.

 細川頼春の子・頼之の系統が後の管領細川氏となるので,顕氏は管領家とは従兄弟の関係にあたることとなる.

 他の足利一門と同様,細川氏は一族を挙げて元弘以来,尊氏・直義兄弟に仕えて忠勤を励むこととなる.
 建武政権期には,足利直義が建武政権の関東の地方組織である鎌倉将軍府の執権となったので,細川顕氏は彼に従って鎌倉に下向して,鎌倉で直義に仕えていたらしい.

 やがて建武2(1335)年に足利尊氏が武家政権復興のために挙兵するにおよんで,顕氏も尊氏に従軍して各地を転戦するが,尊氏は一時は京都を占領するものの,遠く奥州から後醍醐方の救援に押し寄せた北畠顕家軍のために,京都を没落して九州に落ちることとなる.
 その途上,播磨国の室津で尊氏は軍議を開き,細川和氏と顕氏たち細川一族を四国に派遣することを決定した.

 ここに戦国期まで続く細川氏と四国の関係が発生するのである(※ただし,顕氏の弟・定禅がすでにこれ以前から四国で足利勢力の養成に努力していた).

 このとき,和氏と顕氏は,尊氏から四国地方の恩賞充行権を譲られ,将軍権力を代行して四国の武士たちに多数の恩賞を与えている.

 やがて尊氏が九州から再起してふたたび畿内に侵攻したとき,細川一族は従えた多数の四国勢を率いて尊氏軍に合流して上洛し,以降畿内各地を転戦している.

 中でも暦応1(1338)年5月に,顕氏が室町幕府執事高師直とともに和泉国で北畠顕家を敗死させた戦功はきわめて大きく,尊氏兄弟の絶大な信頼を得るに至った.

 このように細川顕氏は南北朝初期において顕著な勲功を挙げたために,河内・和泉・讃岐の3ヶ国の守護を兼ねることとなった.
 顕氏のみならず,他の細川氏も莫大な恩賞に預かり,ほかに土佐・阿波・淡路・備後の守護も一族で領有して,細川氏は合わせて7ヶ国の大守護となった.

 猛将である桃井直常が越中1ヶ国の守護にしかなれなかったことと比較しても,細川顕氏がいかに幕府に優遇されていたか一目瞭然であろう.

 この時期,一族で3ヶ国以上の守護職を保有した大名家は,わずかに佐々木氏4ヶ国(六角氏頼:近江,京極導誉:出雲・隠岐,富田秀貞:美作),上杉氏3ヶ国(上杉憲顕:上野・伊豆・越後),高氏3ヶ国(高師兼:三河,高重茂→高師冬:武蔵,高師直:上総),少弐氏3ヶ国(少弐頼尚:筑前・肥前・豊前)しかなかった.

 南北朝全期を通してみた場合,山名氏11ヶ国,仁木氏9ヶ国と,細川氏の分国数を凌いだ大名は存在するが,彼らはいずれもほんの一時期それらの国々を領有したに過ぎない.
 対して細川氏は,南北朝の早期にすでに応永以降の世襲分国8ヶ国(摂津・和泉・丹波・讃岐・土佐・阿波・淡路・備中)の原型を形成しており,しかも分国が四国・畿内の重要地域を中心に集中的にまとまっていた事実は看過できない.

 細川氏の勢力は,他の守護家と比較しても,すでに抜きんでた実力を誇っていたのである.
 しかも細川一族は,多数の守護分国だけではなく,中央の幕府の要職も多数務めていた.
 顕氏に限定して見ても,暦応3(1340)年~康永3(1344)年3月,貞和2(1346)年に侍所頭人,康永3年3月には二番引付頭人を歴任する.

 貞和2年3月には,尊氏・直義兄弟が山城安国寺を参詣したおりに,顕氏の邸宅を訪問している.
 いかに将軍兄弟に信頼されていたかが,この事実からも窺えるであろう.
 ちなみに北朝から与えられる官職も,康永年間に刑部少輔から陸奥守に昇進している.
 陸奥守は,前代鎌倉幕府では北条一門クラスが任命される重要官職であった.

 細川顕氏は,優れた武断系の武将で,合戦一筋に将軍家に忠誠を尽くし,莫大な戦果を挙げたが,それだけではなく引付方の業務といった文治系の行政官としても有能だったのである.
 ここが桃井直常とはちょっと異なっていた部分で,ドラクエに例えれば賢者といったところであろうか?

 しかし,翌貞和3(1347)年8月に,楠木正成の遺児・正行が挙兵してからは,顕氏の運命も大きく転換することとなる.続きはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年2月 4日 (月)
青文字:加筆改修部分

 貞和3(1348)年8月,楠木正成の遺児・正行が挙兵し,南河内から紀伊・和泉を席捲して摂津にまで進撃してきた.

 そこで幕府は,南朝軍との最前線の河内・和泉守護である細川顕氏を当然首将として,紀伊守護畠山国清・丹波守護山名時氏とともに出撃させた.

 前回言い忘れたが,南朝の行宮が所在する大和国吉野の最前線にあたり,楠木氏の本拠も存在して南朝の勢力がきわめて強い和泉・河内の守護に任命されていたことも,顕氏の幕府内における地位がいかに高かったのかを物語っていよう.

 しかし楠木正行は,父正成が「大楠公」と称えられていたのに対して「小楠公」とも呼ばれ,以前紹介したことがあるが,足利義詮が彼を非常に尊敬して,正行の首塚の隣に自分の墓を建てさせたほどの名将である.

 顕氏も決して弱い武将ではないのだが,このときは相手が悪すぎた.
 顕氏は9月,河内国教興寺の戦いに大敗を喫して,さらに堺・住吉・天王寺等でも連敗し,11月末,京都に逃げ帰ってしまった.

 そこで幕府は12月,執事高師直・師泰の大軍を代わりに出陣させた.
 貞和4(1349)年正月,師直・師泰は河内国四条畷で正行を敗死させた.
 これが世に名高い四条畷の戦いである.
 師直は勢いに乗じて吉野まで攻め込み,行宮を焼き払う大戦果を収めて帰京した.

 この戦争によって,師直の幕府内における勢威は非常に上昇したが,対して失態を犯した顕氏の力は大きく低下し,河内・和泉の守護職は没収されて高師泰,ついで畠山国清に交代し,顕氏はわずか讃岐1国の守護に転落した.

 そのころ顕氏の弟細川皇海の分国土佐も改易され,高定信が守護となった模様である.

 こうして顕氏は反師直派となり,師直と対立を深めていた直義に自然に接近することとなり,直義派の中心的人物と見なされるようになる.

 貞和5(1349)年8月,師直・師泰のクーデタによって直義は失脚し,10月三条坊門の自宅からも追放されるが,直義はその後錦小路堀川にあった顕氏の邸宅に住む.
 このときから直義は死ぬまで「錦小路殿」とか「錦小路禅門」と呼ばれるが,直義と顕氏の関係がいかに密接であったのかを如実に物語っているだろう.

 直後に起こった観応の擾乱の初期の簡単な経過は,ここを参照していただきたいが,顕氏は当初,足利直冬を討つために出陣した尊氏―師直軍に従軍していたのであるが,直義の京都脱出に呼応して,播磨のあたりで尊氏軍を離脱し,分国讃岐へ赴いた.

 なおこのとき,細川氏のすべてが直義派となったわけではなく,阿波・伊予・備後3ヶ国の守護を維持していた従兄弟の細川頼春は尊氏派として戦い続けた.
 ここに細川氏は,頼春系―尊氏党,顕氏系―直義党と分裂することとなったのである.

 顕氏は讃岐で畿内侵攻の準備を整え,部将内島を土佐に派遣して,旧分国土佐の奪還をはかった.
 頼春の分国阿波も攻略したが,ここは頼春の嫡子頼之が防戦し,顕氏軍を退けた模様である.

 そして顕氏はやがて,讃岐・土佐の軍勢を率いてふたたび本州に上陸し,観応2(1351)年2月,尊氏の籠城する播磨国書写山を攻撃した.

 尊氏は圧倒的軍事的劣勢のため,やむを得ず直義と和議を結ぶが,京都に攻め寄せた桃井直常とともに,細川顕氏が直義党勝利のために果たした貢献は非常に大きかったと言えよう.

「はむはむの煩悩」,2008年2月 7日 (木)
青文字:加筆改修部分

 観応の擾乱第1ラウンドで敗北を喫した尊氏は,とりあえず直義と和睦して,観応2(1351)年2月27日,京都に戻った.直義は翌28日上洛した.

 3月3日,細川顕氏も京都に戻り,直ちに尊氏の館に行って面会を求めたが,このとき尊氏は激怒して,「降参人のくせにおれに会いたいとは何事だ!」と猛烈な剣幕で面会を拒否して顕氏を追い返したという.

 このエピソードについては,尊氏は客観的情勢をまったく理解できないと評価され,尊氏が精神疾患を患っていたとする説の根拠のひとつにも取り上げられるのであるが,私はその見解には以前から疑問を持っている.

 南北朝時代の越中シリーズのエントリーでも述べたが,観応の擾乱の真の原因は恩賞問題であったと私は考えている.

 顕氏が尊氏に面会を求めた前日,尊氏と直義は会談して今後の幕府の方針について話し合っている.

 そのとき尊氏は,①尊氏派の武士42人の恩賞を優先して行うこと,②その後両軍の賞罰を行うこと,の2条件を強引に直義に認めさせている.

 要するに擾乱前と同様に,尊氏が恩賞充行権を保持し,事実上尊氏派の武士にのみ恩賞を与えることを決めたわけで,会談前非常に不愉快だった尊氏は,交渉成立後は打って変わってきわめて上機嫌になったそうである.

 尊氏は今回の戦争の敗因を分析し,恩賞充行権さえ死守していれば必ず勢力を回復できると確信していたのであろう.
 表面的な軍事的勝利に浮かれて客観情勢が見えていなかったのは,むしろ直義の方ではなかったか?

 もっとも,実際にその後行われた論功行賞は,概して直義派の武士に手厚かった.

 現実的にはこの時期,幕府が与えた恩賞はわずか2件しか確認できない.
 それも尊氏による佐々木導誉の兄貞氏に対し,以前与えた恩賞地が実現しないので,代替地を与えた替地充行と,直義による陣中で没した直義子息の冥福を祈るための寄進であり,厳密な意味での新恩給与とは言えなかった.
 また,高師直が敗死し,当時尊氏には執事がいなかったので,尊氏が和睦前に直義派の武士から没収して味方に与えた所領についても施行状が出されず,事実上空証文と化していた.
 要するに,実態としては恩賞充行は機能を停止していたのである.

 4月2日には佐々木導誉・仁木頼章・同義長・土岐頼康等尊氏派7人の罪がようやく許され,所領を安堵された体たらくである.
 諸国の守護にも多く直義党が起用され,引付頭人も直義派の武士で占められた.

 だがしかし,軍事的に敗北した尊氏派の武士から膨大な所領が没収され,直義派の武士に大々的に与えられる事態が回避されたことが何よりも大きいのである.
 守護人事も多くは以前没収された分国の返還にとどまり,尊氏のダメージは最小限に抑えられた.
 引付方も,実際は寺社本所領を保護し,武士の権益を侵害する機関であったので,守護クラスの武士にとって必ずしも歓迎される地位ではなかった.
 直義党の武士にとって,命がけで戦ったのに,戦前と比べて権益がほとんど増加しなかった,この事実が直義の命運を決定したのだと考える.

 話を顕氏に戻そう.
 顕氏は,尊氏の怒りに恐れおののいたらしい.
 そこで顕氏は,尊氏の機嫌を直すために,4月2日,丹波に滞在中の義詮を迎えに行き,10日義詮とともに帰京した.

 この行動は,直義に不信感を抱かせた模様である.
 直義は4月16日,錦小路の顕氏邸を出て,山名時氏の家に引っ越した.

 とは言え顕氏は,桃井直常等とともに直義党の武士の1人として,引付頭人に任命されているので,一応は直義党にまだ属していた.

 だがしかし,8月1日の直義北陸没落に際しては,顕氏は直義に同行せずに京都にとどまり,義詮から京都守護を命じられる.顕氏は尊氏派に寝返ったのである.

「はむはむの煩悩」,2008年2月10日 (日)
青文字:加筆改修部分

 細川顕氏の尊氏派への転身については,当時から変節と評価されていた.
 北朝の重鎮で,太政大臣も務めた洞院公賢は,その日記『園太暦』に,
「件の顕氏は,直義の専一の仁であると日頃言われていたのに,今は義詮に味方している.
 彼の行動は言葉で言い表しようがない.
 末代の世とはこのことであろうか」
と記して慨嘆している.

 しかし,この行動は顕氏なりに精一杯考えてとったものではなかったか,と私は考えている.

 尊氏と直義の和平以来,両者の力関係が逆転して尊氏が有利になっていき,直義に勝ち目がなくなっていくのは,顕氏ほどの力量を有する武将なら,容易に見抜けたであろう.
 無駄に尊氏と戦って不毛な破滅の道を突き進むよりは,何とか直義を尊氏と和解させようと顕氏は願っていたのではないだろうか?
 そもそも,観応の擾乱の当初の直義の名分は,高師直一族の排除である.
 当初の目的が達成された今となっては,なおさら将軍と戦う意味がない.
 原理原則にもっとも忠実であったのは,実は顕氏なのではないだろうか?

 尊氏は8月6日,顕氏を和平交渉の使者として,直義のいる越前へ派遣した.
 これは無論,直義と最も親しかった人間が交渉役としていちばん適役であると判断されたためであるが,案外顕氏は自らこの役を志願したのかもしれない.

 しかし,越中の歴史シリーズでも書いたように,このときの交渉は,尊氏の提示した条件に,桃井直常との絶交があったために成功しなかった.
 顕氏は,その後も直義の許に滞在し続ける.
 これを顕氏がふたたび直義派に寝返ったと解釈する意見もあるが,使者として赴いたわけであるから,大軍を率いていたわけではなく,寝返ったとしてもほとんど戦略的に意味がないであろう.
 直義に拘留されたか,引き続き直義の説得を続けたのか,どちらかであったと思う.

 10月に尊氏と直義はふたたび近江で和平交渉を行っているが,このときも顕氏は懸命に直義の説得にあたっている.
 このときには,8月の北陸没落には同行した畠山国清も顕氏といっしょに説得を行っている.
 しかし直常が強硬に反対したのでついに和睦は成立せず,顕氏と国清以下多数の武将が直義の許を去った.

 越前守護斯波高経までもが尊氏党に復帰したので,直義は越前にとどまることができず,さらに関東まで没落することになるのである.
 直義のことを思って尊氏との講和をギリギリまで説得し続けた顕氏と,どこまでも尊氏に敵対して結局主君を破滅に追い込んだ直常,本当の意味で直義の忠臣であったのはどちらなのであろうか?

 尊氏は南朝に降伏し,直義を討つために東国に出陣する.
 このとき,顕氏たち細川一族はほとんど義詮に配属された模様である.
 正平7(1352,北朝観応3)年正月,顕氏は南朝から従四位下に叙せられる.
 さらに引付頭人にも再任され,失っていた和泉・土佐の守護にも復帰したと考えられている.

 同年閏2月,南朝の違約による京都侵攻の際には,他の諸将とともに義詮に従って一時近江に逃れている.
 このとき,従兄弟の侍所頭人細川頼春が,七条大宮において壮絶な戦死を遂げている.

 3月中旬,義詮軍は京都を奪回し,続いて行われた石清水八幡宮の攻城戦では,顕氏は幕府軍の総大将として陣頭指揮にあたっている.

 このとき顕氏は,19歳の子息政氏を失う痛手を負いながらも,山下にあった極楽寺・祓殿等の建物数軒を全焼させる猛攻撃を繰り返し,5月11日遂に南朝軍を駆逐して石清水を落城させた.

 こういうところはさすが強い武将だと思うが,こうして大きな功績を挙げ,着々と四條畷で失った勢力を取り返しつつあった矢先,7月5日,顕氏は突然病にかかって死去する.

 当時の人々は,顕氏が石清水の堂社を焼き払った報いと酷評したそうである.
 だが,私には幕府再建の目途が立ったので,既に2月に鎌倉で死去していた直義の後を追いかけたように見えるのであるが,これは少し彼に好意的過ぎる見方であろうか?

 なお顕氏死後は,子息繁氏が讃岐・土佐の守護職を継承したが,延文4(1359)年に死去した.
 また,養子業氏(細川清氏の実弟)は和泉守護となるが,延文5(1360)年南朝軍の攻撃によって和泉の守備を放棄して京都に逃げ帰り,翌康安1(1361)年政変が起こって清氏が失脚するとともに,和泉守護も罷免された模様である.
 業氏は,義満初期には引付頭人を断続的に務めたが,守護になった形跡はない.
 また,業氏の子息と推定される業秀も義満期に引付頭人を務め,永和4(1378)年頃には紀伊守護に任命されているが,南朝軍に敗北して淡路に逃走している.
 顕氏系細川氏は,このように顕氏の死後は概して振るわなかったのである.

「はむはむの煩悩」,2008年2月12日 (火)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 尊氏と和睦した時点で,直義はいったん北朝に帰参していた,と考えていいのでしょうか?

 【回答】
 その点は実はけっこうあいまいなのですが,そのように考えていいと思います.

 直義が京都を脱出して挙兵したときに,南朝に講和を申し入れ,南朝内部でもいろいろ議論があったらしいですが,とりあえずその申し入れを認めて直義の基準を許す後村上天皇綸旨が出ています.

 しかし,その後合戦が直義党の勝利に帰してまた北朝の天皇を担げることになり,そのとき直義と南朝は,改めて本格的な和平交渉に入り,講和の条件,つまり今後の日本のあり方について真剣な議論が交わされています.

 ですが,双方とも真剣であっただけに5ヶ月も続いた交渉は不成立に終わり,8月の直義北国落ちを迎えるわけです.

 桃井直常の件ですが,確かに直義にとっては受諾できない条件であったと思います.

 また,仮にまた和睦しても,おそらくは直義は擾乱以前の政治力を回復することも不可能だったと思います.

 ただ,政治的生命を失って引退することになったとしても,とことんまで戦って生命を失うよりははるかにましなのではないか,顕氏たちはそう考えて直義に講和を勧めたのではないでしょうか?

 この辺は「たられば論」になってしまうのでどうしても推測になってしまうのですが,直義が越前にいる時点では尊氏も直義を殺害することまでは考えていなかったのではないかと・・・.

 もっとも私は,尊氏による直義毒殺も疑っていますけどね.
 自然死の可能性も否定できないと思っています.
 45歳での死亡は,足利氏と言うか当時の日本人としてはそんなに不自然な年齢ではないですし,失脚した政治家が失意のあまり,寿命を縮めて死期を早めることは,割と普遍的に見られることですから.

 とにかく,擾乱以前と以後では直義にまるで意欲や冴えがなくなって,適切な判断もできなくなり,投げやりな行動ばかりになる,それは事実だと思います.

「はむはむの煩悩」,2008年2月12日 (火) 22:39
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 細川政元はものすごい変わり者だったというのは本当ですか?

 【回答】
 細川政元は,確かに奇行の多い困った殿様でしたが,一方では明応の政変で将軍を追放して実権を握るなど,戦国初期の「キングメーカー」にふさわしい大政治家でもありました.
 学界では一時「京兆専制」なんて用語も流行ったことがあります.

 妻子を持たない宗教は上杉謙信も信仰していて,それで謙信の死後後継をめぐって「御館の乱」と呼ばれる内乱も起きていますね.

「はむはむの煩悩」,2008年2月 5日 (火) 16:08
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 細川頼之とは?

 【回答】
 貞治6(1367)年,室町幕府2代将軍足利義詮が,わずか38歳の若さで急死した.

 初代将軍尊氏と彼の創業の苦労により,幕府の政権基盤は徐々に固まりつつあったが,衰えたりとは言え,南朝の勢力はまだまだ健在で,予断を許さない状況であった.

 こんなとき,リーダーの想定外の死去.
 後継者の義満は,まだ9歳の少年に過ぎず,到底幕府を指導する能力はない.

 この突然沸き起こった幕府の危機に,新しく管領に就任し,難局の打開にあたったのが,細川頼之なのである.

 細川氏は,足利一門で,鎌倉時代から代々足利氏に仕え,頼之の父祖も尊氏・義詮に従った歴戦の勇士である.

 彼の父・頼春は,室町幕府の侍所頭人を務め,正平7(1352)年,南朝軍が京都に突入したとき,七条大宮で壮絶な戦死を遂げた.
 また,頼之自身,従兄弟の細川清氏が幕府を裏切って南朝に寝返ったとき,讃岐で彼と戦って倒したり,中国管領として,山陽方面の軍政を担当したこともある.

 管領就任時は38歳.
 まさに,脂の乗り切った時期の登用であった.

 言うまでもなく,頼之の使命は,室町幕府の政権基盤をさらに強化し,覇権を確立して朝廷が2つに分裂している南北朝の状態を終結させることである.
 そのために,彼は獅子奮迅の大活躍をすることとなる.

 まず,将軍義満の幼少という非常事態のために,恩賞充行・所領安堵・裁判といった,本来は将軍が行使していた重要な権限を,将軍に代わって代行する.

 応安1(1368)年,就任早々彼が制定した一連の幕府追加法は,後世「応安の大法」と呼ばれ,室町幕府政治の基本方針を確立した法令であった.
 言うまでもなく,公正と正義に基づいた法治政治を目指すものである.

 ついで,名将今川了俊を九州管領に任じて,九州を平定するために派遣する.
 九州は,長く征西将軍宮懐良親王が支配しており,南朝の完全制覇する地方であった.
 軍事的にまったくふるわなかった当時の南朝においては,本拠地の近畿地方南部と並んで例外とも言える地域であり,幕府も九州の制圧を目指していたものの,長く果たせなかったのである.
 尊氏が,死の病と闘いながら九州遠征の準備を進めていたが,果たせずに死去したことは,割と有名なのではないだろうか?

 了俊は頼之の期待に見事に応え,いくつかの戦略的ミスを犯したりして,きわめて苦戦したものの,遂に南朝勢力を九州から駆逐することに成功する.
 最大の功績は無論,了俊に帰すべきであろうが,彼の武将としての資質を見抜いて,九州管領に抜擢した頼之の政治的力量も,高く評価するべきであろう.

 そして,彼の最大の功績と言えるのは,南朝の軍事的柱石であった楠木正儀を,北朝に寝返らせたことであろう.
 正儀は,あの伝説の忠臣楠木正成の子であり,同じく四条畷で高師直に倒された正行の弟である.
 父と兄の戦死後,楠木氏のリーダーとなり,南朝の本拠地であった奈良県南部・大阪府をがっちり抑え,幕府の侵攻を長年よく防いできた.
 2度ほど幕府の内紛に乗じて京都を占領したこともある.
 しかしながら一方では,朝廷が分裂している状況が,日本にとって有害無益である現実もよく認識しており,南朝の中では積極的な講和推進派でもあった.

 頼之は彼を説得して,幕府に帰参させたのである.
 彼の降伏によって,幕府と南朝のパワーバランスが大きく幕府に偏って,合一へ大いに前進したことは,言うまでもない.

 ほかにも,伊勢・越中といった「南朝王国」に対しても,積極的に軍事行動を起こして,幕府の勢力を拡大したのである.

 このように,内政面・軍事面で多岐にわたる活躍をし,多大な業績を残した頼之であるが,めでたしめでたしのいいことづくめではなかった.
 物事には,必ず負の側面がある.
 彼の治世は,一方では幕府内部に不協和音が絶えず,陰湿な権力抗争が渦巻いた歴史でもあった.

「はむはむの煩悩」,2005.12.29 Thursday


 【質問】
 管領細川頼之時代に起きた紛争の原因は?

 【回答】
 幼少の将軍義満に代わって管領として将軍権力を代行し,内政面・軍事面で多大な成果を挙げた細川頼之であるが,一人の人間が,長く政権を握っていると,どうしても負の側面が増大しがちである.
 古今東西,ありとあらゆる政治権力にその法則は当てはまるが,頼之の場合もまた,例外ではなかった.

 しかもこの管領という職は,特に権力が集中するので,過度の権力増大の問題は常に深刻であったらしい.
 室町幕府初期は「執事」と呼ばれていたのだが,そのころの執事であった高師直や細川清氏も,専横をきわめたと糾弾され,結局は失脚して殺害されている.

 また,義満もいつまでも子どもではない.
 頼之の養育の成果もあって,立派な青年となり,徐々に大将軍への道を歩み始めていた.

 こうなると,頼之に不満を持つ守護大名たちは,当然反頼之派を結成する流れになる.
 このとき,反頼之のリーダーとなったのは,彼の前任者,斯波義将であった.

 こうして守護たちは細川派・斯波派に分裂して党派抗争を行うのであるが,注目するべきは,この対立の構図は,このとき急に現れたのではなくて,幕府発足当初から連綿として存在していたのである.
 細かな例外は当然存在するが,細川派のメンバーの大半は,かつて将軍尊氏を支持したグループであり,斯波派は尊氏の弟直義の党派であった.

 かつても守護たちは,尊氏派・直義派に分裂して,観応の擾乱という内訌を演じたのであるが,その構図は,両者の死後も基本的に存続しているのである.
 おれは,この対立は,基本的に応仁の乱まで続いたのではないかと考えている.

 それはともかく,斯波派は体制内野党として,しばしば頼之を強く牽制したのであるが,頼之を悩ませたのは,武家内部の敵だけではなかった.
 禅宗寺院もまた,彼と鋭く対立したのである.

 頼之は個人としては,篤く仏法を敬い,殊に禅宗を崇敬し,寺院も建立した人であるが,それと政治家としての立場はまた別である.
 仏教勢力,特に禅宗系を,幕府の強力な統制下に置く政策を推進していたのである.

 しかし寺社勢力は,もともと自治の気風がみなぎっており,こうした権力者の統制を非常に嫌っていた
(ま,この時代は,寺社も権力なんだけどね).
 強力な統制政策を推進する頼之に,ただでさえ不満が鬱屈しているところへ,勃発した事件が,応安2(1369)年の「南禅寺楼門破却事件」である.

 この事件の詳細な経過は複雑なので省略するが,要するに,幕府が結果的にせよ,禅宗寺院と伝統的に対立していた比叡山の強要に屈服して,建設中の南禅寺の楼門を破壊し,礎石まで抜き去った事件である.

 頼之は,禅宗に過酷な支配を行うくせに,いざと言うときは頼りにならず,権益を守れないヘタレである――このイメージを幕府内外に植えつけたのは,彼の大きな失点であった.
 これを機に,禅宗は斯波派と結びついて,頼之を苦しめることとなる.

 しかし彼をもっとも悩ませたのは,楠木正儀問題である.
 正儀の幕府帰参は,確かに大局的に見れば,動乱終結への大きな一歩であったが,局所的には,幕府方・南朝方双方に深刻な不協和音をもたらすものであった.
 おたがい,相手は何十年も憎悪して戦ってきた宿敵である.
 それが突然講和です,仲よくしましょうと言っても,双方に収まらない勢力が出てきても,何ら不思議ではない.

 まず,正儀の家臣たちが,彼の幕府帰参に憤激して河内・和泉両国で一斉に蜂起した.
 対して頼之は,弟頼基を総大将にして,幕府の大軍を差し向けたが,もともと頼之に反発しているのに加え,なぜ俺たちが正儀などを助けなければならないのだと不満を抱いているからサボタージュしまくって,一向に作戦が進行しない.
 ぶちぎれた頼之は,管領を辞めて出家すると言い出して,寺に引きこもる始末.
 これは将軍義満が自ら彼を訪問し,説得して慰留に努めた結果,辞任を断念させることに成功し,畿内南軍もなんとか制圧できたのである.

 まるで,現代の政治家が辞任をちらつかせて求心力を維持する手法とまったくいっしょだが,頼之は,このような「辞任カード」を再三使ったらしい.
 このような手法は短期的には効果はあるだろうが,何度もこれに頼らざるを得なくなっていること自体が,政権が弱体であることを如実に示している.

 こうして,頼之政権は徐々にレームダック化していき,ついに康暦1(1379)年,2度目の南朝軍蜂起をきっかけとした斯波派のクーデタによって,彼は管領辞任に追い込まれ,自宅を焼き払って根拠地四国へと没落するのである.

「はむはむの煩悩」,2005.12.30 Friday


 【質問】
 細川頼之は中央政界失脚後,どのように自領を防衛したのか?

 【回答】
 康暦の政変で細川頼之が没落した後の幕府では,斯波義将が管領に就任した.
 彼も義詮時代の末期に執事を罷免されて追放されて以来,13年ぶりの政権奪回であった.
 これによって,幕府内部の勢力図が変化し,細川派の大名が,以降は野党として与党斯波派を牽制することになるのである.

 楠木正儀は,頼之の失脚と同時に幕府を離れ,ふたたび南朝方に転じた.
 彼の幕府帰参を推進したのが頼之であるとともに,彼がいかに幕府内で疎まれていたのかが,この事実からも窺えるであろう.
 彼もまた,足利氏の身勝手な都合に翻弄された悲劇の人であった.

 管領が義将に代わったとは言っても,彼の政治は,頼之の政治をそっくりそのまま踏襲するもので,基本的には何ら変化はなかった.

 えっ,所領安堵に管領施行状が出されるようになった?
 それはこないだ出した論文で,おれが発見したことだ.

 いずれにせよ,斯波に政権が交代しても,細川の敷いた基本路線の上を,基本的に踏襲して発展させる政治であったということは,言えるのである.
 ただ,頼之が推進した,禅宗寺院を幕府の強力な統制下に置く政策は変更され,僧録という機関が設置され,僧侶の自治を尊重する間接的で緩やかな支配に改められた.
 これは,斯波の政策の方が現実的に有効で妥当であったようである.

 さて,四国に没落した頼之には,早速討伐軍が編成され,追討の兵が向かった.

 しかし頼之は,以前自らが倒した従兄弟清氏の轍は踏まず,一族で団結して防衛にあたり,攻撃軍をいっさい寄せつけなかった.
 それどころか,逆に伊予に攻め込んで,伊予守護河野通直を戦死させ,かえって細川氏の勢力範囲を広げる始末であった.

 これは,細川氏が長年一族で守護として四国の経営にあたっていたために,がっちりとした勢力基盤を培っていたことも大きいが,最大の理由は,将軍義満が細川の討伐に非常に消極的で不熱心であったことである.

 義満は,幼少であった自分を養育してくれ,自分に代わって幕府を指揮して,多大な業績を挙げた頼之に対し,厚い恩義を感じていたのである.
 義満は,その傲岸不遜な性格ばかりがよく強調されるが,一方では幕府の宿老には丁寧で礼節のある態度を崩さなかったなど,礼儀正しい側面も指摘されている将軍である.

 そして,政変からわずか2年後の永徳1(1381)年には,弟頼元が上洛し,早々と細川氏は赦免された.
 依然,細川氏は野党であったが,少なくとも逆賊として追討されることはなくなったのである.

 その後,義満の政策課題は,土岐・山名といった斯波派の大名の勢力を削減する方向に向かう.

 当然,義満と義将もたびたび意見が衝突するようになるが,そのとき義将が使ったのが,なんと前任者頼之もたびたび使った「辞任カード」である.
 結局,時代が違っても,権力者のやることは,どこでもだいたい同じようである

 康応1(1389)年,義満は政情視察も兼ねて,安芸の厳島神社に参拝するが,このとき将軍の旅行をすべて準備したのは頼之である.
 義満は,人を退けて頼之と二人きりで語り合い,昔日の貢献を頼之に感謝したのである.

 明徳2(1391)年,義将は遂に管領を辞任し,分国越前に下向した.
 斯波派の山名氏を抑圧する将軍の政策に,遂に耐え切れなくなったのである.

 これと入れ替わるようにして,頼之は12年ぶりに上洛する.
 彼はもう出家していたので,管領に就任することはできなかったが,頼元を管領とし,実質的に管領として幕府を指導し,老体に鞭打って義満の山名氏弾圧政策を補佐する.

 山名氏は,一族で11ヵ国もの守護を占め,「六分の一衆」などと言われてパワーバランス的に幕府の大きな脅威となっていたので,これに打撃を与える必要がぜひとも存在したのである.

 義満は,幕府軍全軍を率いて,当時「内野」と呼ばれていた平安京の大内裏跡地の原っぱで山名軍を迎え撃ち,これを撃破する.
 室町幕府の覇権が確立した瞬間である.

 頼之はこれを見届けて,翌年63歳で死去するのである.
 彼の死の数ヵ月後,遂に南北朝は合体して,南北朝の動乱が終結する.
 彼の大望は,ついにかなえられたのである.

「はむはむの煩悩」,2006.01.01 Sunday

 つまり,頼之は,1度は失脚して追放されたものの,そのまま滅亡せずに,弟の頼元が管領に復帰する形で,政権を奪還したのである.

 しかも,失脚しても滅びなかったのは頼之だけではない.
 彼の政敵の斯波義将も,何度も管領に就任して幕政を主導したのである.
 康暦の政変によって,頼之を追放して管領に就任したのにしてからが,すでに2回目の管領就任なのであるが,明徳の乱で山名氏に打撃を与えて,南北朝合一が達成された後の明徳4(1393)年にも管領に返り咲いて,5年間にわたって政権を担当している.

 義将はさらに応永16(1409)年に,4代将軍義持の治世下においても,朝鮮外交のために子の義重に代わって管領に抜擢され,合計4度も管領を務めるのである.

 話は前後したが,応永5(1398)年には,義満は畠山基国を管領に採用する.
 これは,畠山氏から初めて就任した管領であるが,以降,細川・斯波・畠山の3氏によって交代して管領が務められ,応仁の乱まで続くのである.

 頼之は,このような「三管領」の慣習を定着させた政治家としても特筆するべきであるが,よく考えれば,前近代の世界で,このような敗者復活の機会が与えられていた政治体制というのは,きわめて稀なのではないだろうか?

 奈良時代以前は,長屋王,藤原仲麻呂,道鏡等の例で見るように,失脚した者は必ず殺されるのが普通であった(道鏡は下野国分寺に左遷であるが).

 平安時代は,源為義で死刑が復活されるまで,政争で敗れた者の命を奪うことはほとんどなかったが,それでも政権を奪回するなどという例は,ほとんど皆無であったろう.
 だいたいは,辺境に左遷されて,その憤懣を歌に詠んで歌集に入れられるというパターンではないだろうか?

 鎌倉幕府の歴史も,源頼朝の時代から,血で血を争う戦乱と粛清の時代であった.
 頼朝も,弟の義経をはじめとして,数え切れないほどの一族や家来を殺したし,執権北条氏も,多くの政敵を葬り去った.
 めぼしい政敵がいなくなった後は,一族で殺しあうほどであった.

 初期の室町幕府だって,事情は同じだ.
 尊氏も弟直義を殺したし,何度も言うように高師直,細川清氏といった歴代執事も最後には殺害されている.
 斯波義将の父高経も,最後は越前で幕府軍に包囲されたまま,病死している.

 このように,前近代では,いや,現代においてさえ,多くの国々では権力を失った政治家は,失脚して殺害されるのが普通であるのに,全盛期の室町幕府だけが,政権を失っても,生命と財産は保護され(基本的に,守護職まで奪われるわけではない),しかも復活のチャンスまで与えられていたのである.
 しかも,それは偶然による産物ではなく,ほとんど慣習による事実上の「制度」としてでなのである.

 これは,選挙による民意を問うシステムが存在しないだけで,実質的には政権交代のルールが確立している近代の政党政治に,きわめて近かったのではないであろうか?

 このような慣習の下で,室町幕府の政治は,非常に安定して効率よく運営された.

 将軍の権力を,管領が補完しながらも程よく牽制してセーブする.
その管領には,常時政権交代可能な守護勢力が健全な野党として監視役を務めており,管領に権力が集中しすぎて極度に腐敗しないように,定期的に交代することで自浄作用を果たす.

 18世紀のイギリスの政治家バークは,保守思想の根本の核の一つとして,「権力の相互抑制機能」を挙げたが,この時期の室町幕府は,そうした抑制の装置が実によく働いていたと言える.

 そして,このようなハイレベルな政治が,14~15世紀の極東の島国で展開された事実に,おれは強い驚きを覚えるのである.

 明治維新後,日本は驚異的なスピードで欧米流の議会政治を導入し,いち早く政党政治を定着させたが,こんな急激な改革ができたのも,もともと日本人が「権力の分散」というものを,骨髄から理解していたためで,その起源は室町時代に求められる,
 おれは個人的にそう考えているのである.

「はむはむの煩悩」,2006.01.02 Monday



 【質問】
>敗者復活

 確かに珍しいし,良い制度だと思いますが,江戸時代の老中や藩政も,結構敗者復活があったようなイメージですが.
> 例:西郷頼母,板倉勝静,小笠原長行,勝安芳,一橋慶喜.

 【回答】
 江戸時代についてはあまり存じませんので,そうと言われれば,はいそうですねとしか言えませんね.

 ただ,ぱっと見たところ,全員幕末の幕府側の人物ですよね.

 衰退期に人材が枯渇して,仕方なく敗者を復活させるのと,全盛期の政権が余裕を持って敗者をも有効に活用するのとでは,全然意味が違うと私は思いますね.

はむはむ by mail,2009年06月24日 23時52分
&2009年06月25日 00時01分
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 三浦氏について教えられたし.

 【回答】
 関東地方には,千葉氏以外にも強大な勢力を誇った名族が多数存在していた.
 相模国(現神奈川県)の三浦半島を本拠地としていた三浦氏もそうである.
 〔略〕

 三浦氏は桓武平氏の一流で,今述べたように相模国三浦郡を本拠とした在庁官人で,嫡流は代々三浦介を称した.

 平安末期,源頼朝が挙兵すると,三浦義明は一族を挙げて頼朝軍に参加し,彼の創業を大いに助けた.
 そのため,鎌倉幕府が開かれた後も,三浦氏は幕府内で大いに権勢を誇り,相模・河内・紀伊・讃岐・土佐などの守護を歴任した.

 しかし宝治1(1247)年,三浦泰村が,執権北条時頼の策略にかかり滅亡し,このとき一族のほとんどが壊滅した.
 所謂宝治合戦で,この政変によって北条氏の権力基盤は確固たるものとなった.

 この後三浦氏は,支流で北条氏に従った佐原盛時が惣領となって後を継ぐが,三浦氏の勢力は著しく衰えることとなった.

 こうした状況のもと,三浦氏は後醍醐天皇の倒幕運動を迎えることとなるのであるが,このとき三浦氏がどう行動したか,具体的に窺える史料は存在しない.
 しかし,『太平記』によれば,建武政権発足後,時継と考えられる惣領三浦介が上洛して,後醍醐天皇が主催した紫宸殿の儀式に参加しているし,建武1(1334)年には,建武政権の東国統治機関である鎌倉将軍府で当時執権を務めていた足利直義から所領を与えられているので,一応後醍醐方に味方して,家を存続させることに成功した模様である.

 頼朝の創業を助け,鎌倉初期には大勢力を誇っていた三浦氏は,家格意識がきわめて高い家であった.
 この紫宸殿での儀式のとき,後醍醐天皇は南庭の陣に千葉貞胤と三浦(時継?)を召して,千葉が左,三浦が右に立つように命じた.
 ところが千葉は三浦と並ぶのは嫌だと言い,三浦は千葉の右に立つことを拒否して,結局儀式に参加しなかったそうである.

 このエピソードから,朝廷には,千葉と三浦が関東の武士たちの中でも筆頭で並び立つ名族と認識されていたことがわかる.
 しかし,三浦は千葉の下に立つことを嫌い,千葉は三浦と並べられることを嫌がった.
 家柄は異常に高く自身プライド意識は強烈に持っているが,現実には宝治合戦のダメージを受けて衰退し,千葉氏よりもはるかに弱小な小領主にすぎない,これが三浦氏の現実であったことが窺えるのである.

 やがて建武2(1335)年夏,北条高時の遺児時行が信濃で挙兵し,建武政権に対する反乱を起こした(中先代の乱).
 このとき三浦氏は,時継と同族の時明は北条方に味方し,時継の子高継と一族の芦名盛員は足利方となって分裂した.続きはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年6月16日 (月)
青文字:加筆改修部分

 前回のエントリーの最後で述べたように,中先代の乱のとき,三浦氏は分裂し,三浦時継と同族の時明は北条時行に味方し,時継の子高継と一族の芦名盛員は足利方となった.結果,北条方の時明と足利方の芦名盛員が戦死した.

 尊氏が鎌倉を占領し,時行を追い出すと,三浦時継は一族20人あまりと船に乗って逃走するが,尾張国熱田浦に漂着し,そこで熱田大宮司に捕えられ京都に護送され,処刑された.

 三浦時明は「凶徒大将」と呼ばれているし,時継も処刑されているところから,三浦氏は諏訪氏とともに,時行をかついだ首謀者と見られている.
 三浦氏は,かつて宝治合戦で一族をほとんど滅ぼされ,著しく勢力が衰退した武家である.
 しかし,本拠地三浦半島が鎌倉のすぐ近くにあり,執権北条氏を内心で憎悪しながらも,一方では同氏と融和・協調をはからなければ生存できなかった.
 小山・千葉・佐竹など北関東の外様の勢力は,みな多かれ少なかれ北条氏に抑圧されていたので,南北朝期には北条氏をまったく支持せず,尊氏と強く結びついたのであるが,南関東の三浦氏の場合は,このように地理的に特殊な位置を占めていたので,この後もかなり複雑な行動を取らざるを得なかったようである.

 ともあれ,時継の子,高継が尊氏に従って勲功を挙げたために,三浦氏は存続に成功し,高継は尊氏から「相模国大介職」と本領を安堵される.
 続く尊氏の挙兵に際しても高継は尊氏に従軍し,尊氏の京都占領→九州没落にも従い,途中美作に潜伏して足利勢力の養成に努め,九州から再起して東上した尊氏を迎える.

 室町幕府発足後は,同族の三浦貞連が幕府の侍所頭人を一時期務めている.
 また,建武4(1337)年,北畠顕家が東北から鎌倉に攻め込み,斯波家長が戦死したとき,三浦氏は鎌倉の幼主義詮を三浦半島にかくまっている.
 三浦氏は永正13(1516)年,北条早雲に滅ぼされるのであるが,早雲は三浦半島の南端部に立て籠る三浦氏を攻撃するのに,膨大な兵力と時間をかけている.
 三浦半島は,このように天然の要塞だったのである.

 そして,遅くとも観応2(1351)年までには,三浦氏は相模守護に任命されている.
 相模守護職は,鎌倉初期に三浦氏が代々相伝した職であるが,この職も宝治合戦以来失っていた.
 三浦氏は,尊氏に従って活躍することで,念願の守護に復帰したのである.

 この三浦氏が観応の擾乱でどう行動するかは,また次回紹介したい.

「はむはむの煩悩」,2008年6月18日 (水)
青文字:加筆改修部分

 観応の擾乱の頃,三浦氏は高継の子高通の代になっていたが,三浦高通は直義派に加わる選択をする.
 観応2(1351)年の暮れ,直義が北陸から鎌倉入りするが,高通は直義と上杉憲顕に従って,相模守護の任務を続けた.

 しかし,まもなく尊氏が京都から大軍を率いて東国に攻めよせ,正平7(1352)年1月鎌倉は尊氏に占領され,憲顕は逃走し直義は翌2月に死亡する.
 『太平記』によれば,このとき高通は降参して鎌倉にいたそうである.

 だが,高通はその後も尊氏に敵対する隙を窺い,閏2月に南朝方の新田義興と義宗が挙兵すると,これに呼応して蜂起した.

 尊氏が新田軍と戦うために武蔵国に出陣すると,高通はその隙を突いて鎌倉を占領した.
 その後も義興を三浦に迎えたりしていたようであるが,やがて尊氏軍に再び鎌倉を攻撃され,追い出された.

 三浦高通の行方は,その後10年間は不明である.
 本拠地の三浦半島に逼塞していたとする見解もあるが,その可能性は高いであろう.
 前回も述べたとおり,三浦半島の南端部は天然の要害で,防御に適した土地であった.

 千葉・小山・宇都宮・佐竹・結城氏ら,ほかの関東の外様の武家はほとんど尊氏派となって戦ったが,同じ外様の武家でも三浦氏は直義派となった.
 前者は,鎌倉以来広大な領域を支配し,強力な軍事力を有していたため,将軍尊氏と直接主従関係を持とうとする傾向が強かった.
 しかし三浦氏は,鎌倉に非常に近い位置に存在し,しかも宝治合戦で大打撃を受けて以来領土も些少で軍事力も弱かったので,否応なしに北条氏や上杉氏,直義といった時の鎌倉の支配者に従わなければならなかった.
 それが,三浦氏が直義党となった原因であると考えられている.

 このように三浦氏は観応の擾乱で直義派であったために,長年雌伏を余儀なくされていたが,上杉憲顕が鎌倉公方基氏に赦されて鎌倉府に復帰すると,ふたたび相模守護に復帰する.
 この後三浦氏は高通・高連・高明と三代にわたって相模守護を相伝するが,三浦氏の所領は三浦半島,それも最南端部に限られ,相模国内の所領はほとんど公方や奉公衆の直轄領や鎌倉の寺社領で占められていた事実が研究によってあきらかとなっている.

 この点,同じ守護でも,一族で何ヵ国も分国を保有し,しかも分国内に莫大な所領を集積した細川氏や上野国の上杉氏などとは著しく相違している.
 三浦氏は,足利氏から見れば所詮は外様である.
 支持を取りつけるために守護は回復させてやるが,本拠地鎌倉の近くで必要以上に勢力を増大されると不都合である.
 なので,直義党に属していたこともあって,領土は狭く抑えられ,大名としての成長を妨げられたのである.
 このあたりにも足利氏のバランス感覚がよく現われているが,ともかく三浦氏は,守護としては弱小であった.

 とは言っても,鎌倉後期に比べれば守護職も回復しているし,三浦氏としてはまあ妥協できる範囲内であったろう.
 ところが4代公方持氏の時代になって,持氏は三浦氏から相模守護を取り上げ,側近の小山田上杉氏の定頼に与え,次いで同じく近臣中の近臣で,母の実家の出身でもある一色持家を相模守護としてしまう.

 持氏は,これに先立って犬懸上杉禅秀(氏憲)が起こした反乱によって鎌倉を追われ,駿河国に没落しており(上杉禅秀の乱),京都の室町殿足利義持が味方したために,なんとか反乱を鎮圧して鎌倉を回復したのであるが,これによって鎌倉府の政権基盤の脆弱さを痛感していた.
 そのため,膝下の相模国の公方権力を強化しようとしてこの措置を取ったのであるが,三浦氏も禅秀の乱のときは持氏方として戦っていたのである.
 なので,三浦氏にとってはこの相模守護の交代は,はなはだ納得の行かない措置であり,持氏に対して深く恨みを残したに違いない.

 だが,三浦氏は何度も言うとおり,家柄意識は非常に高いのに,その実力が弱いという矛盾のために,この不条理な交代も甘んじて受け入れなければならなかった.
 しかしやがて,その恨みを晴らすときがやってくる.
 永享10(1438)年,室町幕府軍と上杉憲実軍が持氏を攻撃し(永享の乱),持氏が鎌倉から出撃すると,三浦時高は本拠地三浦から出陣して鎌倉を占領し,持氏の退路を遮断して戦局の行方を決定づけたのである.

※参考文献

山田邦明「三浦氏と鎌倉府」(同『鎌倉府と関東―中世の政治秩序と在地社会』校倉書房,1995年,初出1992年)

「はむはむの煩悩」,2008年6月20日 (金)
青文字:加筆改修部分

▼ 三浦半島の名所油壺の由来は,三浦氏最後の武将三浦道寸(義同=よしあつ)居城がここにあり,北条早雲に滅ぼされたとき,三浦軍の兵士の油が海面に浮かび,それを北条軍が壷に汲んだことから,と小学校の歴史の副読本で読んだ記憶が.

水上攝堤 by mail,2009/6/10


 【質問】
 依田時朝とは?

 【回答】
 南北朝中期,将軍足利義満の初期に,室町幕府に依田時朝(法名元信)という官僚がいた.
 当時の言葉で言えば,奉行人である.

 この依田が,課税免除を訴えた東寺の訴訟窓口となって訴訟進行を担当し,東寺のためにいろいろ尽力してくれた.
 東寺はこのお礼に,5貫文の酒肴料,すなわち賄賂を依田に贈ろうとしたが,依田は断って頑として受け取らなかったそうである.
 仕方がないので東寺は,酒肴料ではなく節料,つまり正月のお祝いの贈り物という名目にして,金額も2貫文に減らしてようやく受け取らせたそうである.
 しかもその2貫文は現金ではなく,2貫文相当の和紙と扇であった.
 紙ならば,幕府の発給文書の用紙等に使用でき,まじめな仕事に有意義に活用できるということなのであろう.

 この依田時朝という人物は,南北朝初期から奉行人を務めていた古参の官僚である.

 南北朝初期の室町幕府は,これまで何度も言及したように,将軍足利尊氏の弟直義が幕政の主導権を握り,訴訟を担当していた時代である.
 著名なエピソードであるが,この直義は,お祝いの贈り物でさえも絶対に受け取らず,全員に送り返す堅物であった.

 依田の清廉潔白な態度も,直義の薫陶があったのかもしれない.
 ちなみに彼は,2代将軍義詮の時代には,恩賞方の奉行人として,幕政を主導し,直義政治の復活を目指した斯波高経のブレーンであった.
 こうした事実からも,依田の志向が窺えると思う.

 室町幕府の奉行人は,賄賂もらいまくりのイメージがあるが,中にはこのような清廉潔白な人もいたのである.

「新はむはむの煩悩」,2010年3 月18日 (木)


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