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戦史FAQ目次


 【質問】
 南北朝時代の九州の勢力図は?

 【回答】
 足利尊氏が建武政権を打倒するために挙兵し,一時は京都占領する勢いを示したものの,やがて北畠顕家軍に敗北して九州に落ち延びてきたとき,少弐・大友・島津の三氏は皆尊氏に味方した.
 少弐頼尚は尊氏軍に合流し,筑前国多々良浜で後醍醐天皇方の菊地武敏軍を打ち破り,尊氏の再上洛→室町幕府開設の決定的な流れを作る.

 島津貞久は,このとき既に60代半ばであったが,高齢を押して尊氏に味方する(ちなみに貞久は,94歳まで長生きする).

 中でも最も大きな代価を払ったのは,大友貞載であろう.
 天皇方の結城親光が,偽って足利方に投降し,尊氏を刺殺しようと狙ったとき,貞載は体を張って親光と刺し違えて死亡する.
 これに感激した尊氏は,以後大友氏には特別に目をかけるのである.

 こうして,室町幕府発足直後の九州守護は,こんな感じとなった.

少弐頼尚:筑前・豊前・肥後
大友氏泰:豊後・肥前
島津貞久:大隅・薩摩
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
宇都宮冬綱:筑後
細川頼春:日向

 建武政権から与えられた守護職を引き続き認められた例も多いし,建武政権が島津氏に与えたものの,取り上げられて足利一門の細川頼春に下された日向のような例もあるが,少弐・大友・島津三氏は,鎌倉中期の勢力は回復できなかったものの,守護領国は鎌倉末期の1国のみから2〜3国に増やしているので,まあ足利方に味方した成果はあったと言えるであろう.

 また,守護職だけではなく,恩賞の所領も,特に大友一族を中心に尊氏が多数与えたのである.

 しかし,尊氏が足利一門の一色範氏を新たに九州探題に任命して,九州に残したことは,九州に新たな火種をまくこととなった.

 九州には,肥後の菊池氏が有力な南朝方として抵抗を続けていた.
 菊池氏に対する抑えとしても,探題の設置は必要とされたのであろう.

 また,これより60年前の元寇の脅威も,いまだに強く残っていた.
 足利直義も,大宰府の水城の修理を命じているほどである.

 ほかにも前代以来の悪党対策など,鎌倉幕府が直面して苦しんだ政策課題を,室町幕府も引き続き背負ったと言えるのである.

 いや,南朝との戦乱に発展している分,鎌倉幕府以上に重い十字架を背負ったとも言えるかもしれない.
 政権を担当する者は,今も昔も苦悩するのである.

 というわけで,遠隔地を統治する上でも,九州探題の設置は必須のことであったのだが,これが特に少弐氏に不満を抱かせたことを言うまでもないだろう.

 鎮西探題の北条氏を倒すために建武政権,引き続き室町幕府に味方したのに,一色氏などに威張られては,何のために貢献したかわからないではないか?

 しかし,一色氏も大きな悩みを抱えていた.
 室町幕府は,一色氏をどこの守護にも任命せず(前回も述べたとおり,鎮西探題は肥前を自身の守護領国としていた),権限も大幅に削減して行動に制約を加えていた.

 無論,少弐氏等の不満を考慮しての措置である.

 九州探題の存在は絶対に必要である.
 しかし,探題に強力な権限を与えすぎると,在地の有力守護との軋轢が生じ,かえって権力基盤が揺らぐ.

 鎌倉府もそうであるが,遠隔地の地方統治機関には,強すぎず弱すぎない力を与えなければならない.
 室町幕府は,以降このさじ加減にずっと苦しめられることとなるのである.

 それはさておき,こういう事情もあって,一色範氏の九州経営は,非常に困難なものとなった.
 将棋に例えたら,飛車と角抜きで戦わせられるようなものである.
 これで九州の南朝勢力を殲滅させることなど,ほとんど不可能である.

 範氏が幕府に自ら窮状を訴えた史料が残っている.
 毎日の衣食住にも困る生活だったそうである.
 それで範氏は,通算9度も探題辞任,帰洛を願い出ているが,すべて幕府に却下されている.

 一色も少弐も,このように内心不満を抱えており,潜在的に対立していたが,それでも南北朝初期は,尊氏と直義の二頭政治が比較的うまくいき,全国的に幕府が優勢であったこともあり,この不協和音は顕在化はしなかった.

 しかし,やがて幕府内部の対立が表面化し,足利直冬が九州にやって来てから,情勢は一気に混沌とする.

 それについてはまた今度説明したい.

「はむはむの煩悩」,2007年4月25日 (水)

 九州探題一色氏が九州を退去した後,少弐氏と征西将軍宮懐良親王を擁する南朝方の菊池氏が決戦する.

 これに少弐氏が敗北し,菊池氏が勝利したことによって,懐良親王は九州の首都と言うべき大宰府を占領し,ついで九州全域に勢力を広げる.

 「南北朝内乱」と言っても,ほとんどの地域では南朝の勢力は逼塞し,事実上室町幕府内部の内輪もめが続いていたのであるが,九州地方だけは南朝の勢威が長期間にわたって大いに高まるのである.

 これを見て将軍足利尊氏は,自ら九州に出陣して九州の南朝勢力を撃滅することを決意する.
 しかし彼は,その矢先に病にかかって死去してしまう.

 ついで2代将軍足利義詮の時代,九州管領に任命されたのは,足利一門の斯波氏経である.

 氏経は,大友氏時に支援されて,豊後国から豊前国に進出し,次いで筑前国に向かうが,長者原の戦いで南朝軍に大敗を喫し,九州から追い出されてしまう.

 その後,九州探題には,同じく一門の渋川義行が任命されたが,彼は遂に九州に上陸することさえできなかった.

 このように,義詮時代は,室町幕府は九州には手も足も出なかったのである.

 当時,幕政を主導していたのは,氏経の父斯波高経であるが,こうした九州計略の失敗もあって,斯波政権は次第に弱体化していく.
 この点は,ちょうどイラクの戦後処理に手間取って支持を失いつつあるブッシュ政権と似ているかもしれない.

 3代将軍足利義満の時代になり,細川頼之政権に交代してから,新たに九州探題に任命されたのが,あの今川了俊(貞世)である.

 今川了俊についてはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2007年4月27日 (金)

 前回述べた九州の情勢を簡単におさらいすると,全国的に南朝が衰退する中,九州地方のみは征西将軍宮懐良親王の勢力が全域に大きく伸び,将軍義詮時代,九州に派遣された九州探題はいずれも撃退され,幕府方をまったく寄せつけなかった.

 懐良は,単に九州地方を抑えたのみならず,当時元に代わって成立した明と独自に外交関係を樹立するなど,ほとんど独立国のごとき様相を呈し始めた.
 これはいろんな意味で非常にまずい.

 そこで新将軍義満が応安4(1371)年に新たに九州探題に任命し,派遣したのが,今川了俊(貞世)である.
 彼については,ご存じの方も比較的多いのではないだろうか?

 了俊が探題に選ばれた理由としては,彼が当時の執事細川頼之派の武将であったことも大きい.

 前将軍義詮の後期には,斯波派が政権を掌握し,斯波氏経・渋川義行といった斯波派の武将が探題として派遣された.
 彼らが失敗したこともあって,斯波政権が弱体化し,反斯波派の細川頼之が政権を奪取するに至ったのであるが,政策の成否によって政権が交代するところは,現代の政党政治と共通する部分もある.

 了俊が探題に抜擢されたのは,もちろん細川派だったからだけではなかった.
 それまでに,中央の幕府で引付頭人・侍所頭人・山城守護を歴任するなど武将・政治家として実績があり,有能と評価されていたからである.

 また,幼少の頃から和歌を学び,歌人としても一流で,連歌もたしなむなど,優れた文化人でもあった.

 了俊は幕閣の期待に見事に答え,翌5年には早くも大宰府を陥落させ,7年には肥前国水島で少弐冬資を謀殺した.

 さて,ここでまた少弐氏が出てきた.
 探題の九州経営には,とにかく少弐氏が邪魔なのである.これは,室町幕府発足以来,一貫して存在した構図であった.

 ただ,このとき冬資を謀殺したのは,短期的には失敗だったようである.
 これによって,ずっと幕府に忠節を尽くしてきた島津氏久が造反し,以後了俊の九州計略は以降困難をきわめる.

 しかし,苦難の末に永徳1(1381)年には遂に菊池氏の本拠隈部城と良成親王の本拠染土城を陥落させ,九州全域をほぼ統一する.

 ここに九州地方も幕府の領域に入り,南北朝合一へ向けて大きく前進し,室町幕府の覇権が確立するのである.
 了俊が南北朝後期に幕府に果たした貢献は限りなく大きいと言えよう.

 しかし,応永2(1395)年,了俊は突然探題を解任される.
 中央で細川頼之が失脚し,再び管領が斯波義将に交代していたことや,24年間にわたって探題を務め,強大化した了俊を義満が警戒した事情が大きいともされる.

 九州を制圧するためには,探題の強力なリーダーシップが不可欠である.
 しかし,探題の力が強大化しすぎるのは,幕府にとってかえって都合が悪い.
 権力のパワーバランスというのは,このようにまことに難しいものであるらしい.

 その後の了俊の末路は不遇である.
 最盛期には,九州探題に加えて豊後・対馬を除く九州8ヶ国1島の守護も兼任し,対外交渉も担当していたのが,わずか駿河・遠江半国の守護に落とされ,応永の乱に際しては,義満に反抗した大内義弘と鎌倉公方足利満兼の連携をはかった疑いをかけられ,政界から完全に引退し,余生を和歌・連歌の創作や歌論書・歴史書の執筆活動に捧げた.

 南北朝内乱を足利氏の立場から見て叙述した歴史書『難太平記』は,ご存じの方も多いのではないだろうか?
 武将としても文化人としても大きな業績を残した人である.

 ちなみに,了俊が九州探題だったのは,彼が45歳から69歳までのときであり,その後も少なくとも88歳まで生き続けた.

 年を取ってから大活躍したのも,私が了俊に力づけられるところである.

「はむはむの煩悩」,2007年5月16日 (水)


 【質問】
 南北朝時代の北陸地方について教えられたし.

 【回答】
 〔新田義貞討ち死に等の後,〕興国3(1342,北朝康永1)年から翌4年にかけては,宗良親王が越中国に滞在したことが知られる.

 宗良親王は,後醍醐天皇の皇子である.彼も南朝方として遠江や信濃・越後などを転戦したが,同じく後醍醐の皇子で征西将軍宮として一時九州地方全域を支配した懐良親王とは異なって,武将としては無能でほとんど活躍できなかった.

 しかし,武将としてはともかく歌人としては非常に優れた人物で,各地を転戦,と言うよりは放浪している間に多数の和歌を詠み,『李花集』『新葉和歌集』という歌集を作ったほどである.靖国神社の遊就館に入って,いちばん最初に展示されている和歌が宗良親王の歌だったりするのである.

 この宗良親王が,一時期越中に赴いて,ここで幕府軍と戦ったわけであるが,彼が根拠地としたのが放生津(現射水市)である.

 放生津は古くから開けた港湾都市で,鎌倉中期以降越中の守護所が設置され,鎌倉幕府最後の越中守護名越時有が自刃したのもこの放生津であった.

 室町期の越中守護畠山氏の守護所が置かれたのも放生津であり,はるか後年の戦国期,京都を追放された10代将軍足利義稙が再起のための本拠地にしたのもここである.このように放生津は,越中国の政治・経済の最重要拠点であった.

 ごく短期間であるが,宗良親王はこの放生津に拠って南朝方の武士や気比宮の支援を受けて足利氏に対抗したのである.

 南北朝初期の越中守護は,まず建武3年から翌4年にかけては,源範頼の子孫である吉見頼隆が任じられた.

 建武4年から康永3(1344)年までは,今まで何度か名前が出てきた井上(普門)俊清が越中守護となる.

 しかしこの俊清は,吉見氏と激しく対立していたようで,そのためもあって康永3年から俊清は南朝方に転じる.

 井上氏の抵抗は相当激しかったようで,貞和4(1348)年まで4年間,断続的に蜂起し,吉見氏等幕府軍と激しい戦闘を続けている事実が知られる.

「はむはむの煩悩」,2008年1月15日 (火)
青文字:加筆改修部分

 このブログでは何度も述べてきたことであるが,初期の室町幕府は,将軍足利尊氏と弟直義の二頭政治体制であった.

 この足利兄弟の分業体制は,初期こそ順調に機能したものの,徐々に尊氏・直義それぞれを支持する守護による党派が形成されて,両派の対立が深まっていき,ついに観応元(1350)年,武力衝突に発展して幕府は分裂し,日本全国を巻き込む内乱となった.これが観応の擾乱である.

 尊氏派と直義派の対立に際して,もっとも忠実かつ強硬な直義派として尊氏と徹底的に戦ったのが,越中守護桃井直常である.

 桃井氏の祖は,鎌倉初期に出現した,足利義兼の子義胤である.直常は義胤の4代の孫にあたる.
 上野国群馬郡桃井郷を領有したことから桃井の名字を称したと言われ,足利一門の中では庶流で身分が低い武士であった.

 新田義貞の鎌倉攻略に参戦し,尊氏挙兵後は足利方として戦った.
 暦応元(1338)年には,奥州から近畿地方に攻め寄せた北畠顕家軍を,高師直とともに撃破し,その功として一時的に若狭守護となった.

 暦応3(1340)年には伊賀守護に在任した形跡があり,康永3(1344)年からは前回述べたとおり越中守護となり,南朝方に寝返った前守護井上俊清の追討戦に活躍した.

 このように直常は,優れた猛将であり,軍事的に幕府に貢献してきた根っからの武人であった.

 一般に,尊氏に従った武士は新興の武士層や足利庶流の御家人が多く,直義派となった武士は鎌倉以来の伝統的な地頭御家人層や足利一門では家格的に上位に位置する家,そして官僚層がその支持基盤とされる.

 言わば,尊氏派=武断派,直義派=文治派と分類されているのであるが,桃井直常は上記の分類にあてはめればどう見ても典型的な武断派であり,強力な尊氏派であった高師泰や仁木義長,細川清氏といった武断系武将と同様に本来は尊氏派となってもおかしくなさそうであるが,彼は前述したとおりもっとも屈強で忠実な直義派となり,心底から尊氏を憎悪して一生将軍家と戦い続けるのである.

 尊氏と直義の対立は,これまたよく知られているように,まずは尊氏の執事高師直と直義の対立として表面化する.
 観応の擾乱の過程は,きわめて複雑なのでできるだけ要点をかいつまんで説明すると,貞和5(1349)年8月,師直のクーデタによって直義は失脚,12月には出家に追い込まれた.
 しかし観応元(1350)年10月,尊氏と師直が,尊氏の庶子で直義の養子である足利直冬を討伐するために中国地方に出陣した隙をついて,直義は京都を脱出,直常もこれに呼応して越中に下って挙兵した.

 当時の北陸地方は,若狭の山名時氏,越前の斯波高経,越後の上杉憲顕,そして越中の直常と強力な直義党地帯が形成されていた.
 直常はここで蜂起して,能登や加賀に侵攻して尊氏派と戦う.

 そして観応2(1351)年正月,北陸の大軍を率いて遂に京都に上洛,四条河原で尊氏方と激突して大激戦を繰り広げた.
 このときの合戦は,戦乱続きであった南北朝時代でも特筆されるほど膨大な戦死者を出した激戦であった模様である.

 尊氏・師直は丹波から播磨に撤退し,2月17日摂津打出浜で直義軍と決戦したが,師直・師泰が重傷を負う惨敗を喫した.

 尊氏はやむをえず師直兄弟の出家・助命を条件に直義と講和するが,直義はこれを遵守せず,配下の上杉能憲に高一族を誅殺させる.

 こうして観応の擾乱の第一ラウンドは,直義の圧倒的な軍事的優勢のもとにいったん幕を閉じるが,桃井直常率いる越中勢が直義勝利に果たした大きな役割は,擾乱の経過を見るだけでも一目瞭然であろう.

 直義が復権した幕府において,直常は一時罷免されていた越中守護に復帰し,石橋和義・畠山国清・石塔頼房・細川顕氏といった他の直義派諸将とともに引付頭人に任命される.

 引付頭人というのは,主として不動産訴訟を司る幕府中央の訴訟機関・引付方の長で,現代で言えば閣僚クラスに相当し,前線で合戦に明け暮れていた直常にとっては大抜擢で栄達と言えるであろう.

 尊氏を屈服させ,幕府内部で存在感を増したこの時期が,直常の生涯で絶頂期と言えるのであるが,続きはまた今度紹介したい.

「はむはむの煩悩」,2008年1月17日 (木)
青文字:加筆改修部分

 観応2(1351)年2月,尊氏と直義の講和が成立し,幕府の体制は一応擾乱以前の状態に戻ることとなった.

 しかし,両者の決裂はあまりにも早く訪れることとなる.

 もともと観応の擾乱とは,尊氏の執事高師直の専横があまりにも激しいので,これを取り除くことを大義名分として直義が起こした乱である.
 その証拠に,このとき直義が諸国の武士に出した軍勢催促状は,「師直・師泰誅伐事」という文言で書き出されており,尊氏の名は出されていない.

 しかし,その師直が排除されたにもかかわらず,非常に早く再破綻が訪れたということは,この乱の本質が,師直を倒せばそれで丸く収まるなどといった単純なものではないことを如実に示していると言えよう.

 個人的には,観応の擾乱の真の原因は,恩賞問題であると考えている.

 つまり,幕府方に参加し,軍事的に貢献したにもかかわらず,満足の行く恩賞がもらえなかった武士が非常にたくさんいたために,恩賞充行を担当していた尊氏―師直ラインへの守護層の支持が一時的に低下し,幕府のもう一方の核であった直義への求心力が高まった.
 これがこの乱の本質的な要因であったと思う.
 これは,根本的に建武政権が短期間で破綻した原因と同質のものである.

 言わば直義に味方すれば,たくさんの恩賞がもらえるのではないかと期待されたのであるが,しかし直義は一時軍事的に圧倒的勝利を収めたにもかかわらず,尊氏の恩賞充行権を奪わず,擾乱以前と同様に寺社本所領保護命令を連発して武士の権益を抑制する有様であった.

 直義に味方しても利益があたえられず,かえって侵害されることが判明して,直義に対する支持が急速に低下して,再び尊氏の力が上昇し始めたのである.

 和平からわずか1ヶ月後の3月末には,直義派の奉行人斉藤利泰が深夜路上で何者かに暗殺された.
 5月4日には,桃井直常が直義邸から帰宅する途中,武士の襲撃を受けた.

 7月には近江の佐々木導誉と播磨の赤松則祐が,南朝方に寝返って幕府に背いた.
 尊氏は佐々木を征伐するために近江に,尊氏の子義詮(後の2代将軍)が赤松征伐のために,播磨にそれぞれ出陣する.

 直義は健闘を祈って彼らを見送ったが,ふと気づくと,尊氏派の武将は全員京都を出ていた.
 これは実は京都を包囲して直義を殲滅するための,尊氏の謀略なのであった.

 直義と直義派の武将たちは,8月1日に京都を脱出して北陸に没落する.
 このとき,直義に北陸没落を進言したのは,石塔義房と桃井直常であった.
 直常が直義の行動に非常に強い影響を与えていることが見て取れよう.

 直常が直義に北陸に行くことを勧めたのは,前回も述べたとおり,北陸一帯が直義党の守護で占められており,再起のためにはもってこいの地方だったからである.
 直義は斯波高経の越前金ヶ崎城に入るが,これは16年前に新田義貞が再起のために取った行動とまったく同じである.
 義貞を倒すために京都で中心となって作戦を練ったのは,ほかならぬ直義なのであるが,このときの彼の胸中はいかなるものがあったであろうか?

 8月6日には,尊氏は細川顕氏を使者として派遣し和平交渉を行うが,このとき尊氏がつけた条件の中に,桃井直常と手を切ることがあったので,交渉は決裂した.
 尊氏にとって,直常というのはやはり邪魔で邪魔でしょうがない鬱陶しい存在だったのであろう.

 8月18日から21日にかけては,能登三引山において,桃井直信と吉見氏頼の間で交戦があった.
 桃井直信は直常の弟で,ずっと兄とともに戦ってきた歴戦の勇士である.
 能登守護吉見氏が,直義派ぞろいの北陸にあって数少ない尊氏党であったので,しばしば合戦が行われたが,このときは桃井軍は撃退されて,逆に越中に侵攻された.

 9月に近江で尊氏軍と直義軍の交戦があり,直義軍が敗北した.
 10月に近江で尊氏と直義が直接面会して,ふたたび和平交渉が行われた.
 このときは,講和成立直前まで行ったが,直常が強硬に反対したので決裂した.
 とにかく,直常が存在するせいで,両者はついに仲直りできなかった.

 この後直義は,鎌倉に赴く.
 関東には,直義派の重鎮である上杉憲顕がいて,彼に頼って再起をはかるためである.

 彼は11月15日に鎌倉に到着するが,このとき具体的にどんなルートを辿って鎌倉に行ったのか,実は確実な史料は残っていない.
 しかし常識的に考えて,越中を経由して信濃に入り,上野に出て南下したとするのが,もっとも妥当なのではないだろうか?
 この推定が正しいとすれば,これまた17年前,北条時行が挙兵して直義軍を撃破して鎌倉を占領したルートとまったくいっしょである.
 北陸落ちと言い,かつて倒した敵とまったく同じことをせざるを得ないとは,何とも皮肉なものである.

 ところで,先ほど,佐々木導誉と赤松則祐が南朝に寝返ったと述べたが,これは事実であったらしい.
 尊氏は直義を倒すために,ひそかに南朝と交渉を進めていた.
 そして11月,尊氏は南朝に降伏し(正平一統),4日,京都の守備を義詮にまかせて,直義を討伐するために東国に出陣した.

 尊氏軍は駿河・伊豆・相模で次々と直義軍を撃破し,翌年正月5日,鎌倉に入った.
 直義は翌2月26日,師直・師泰の1周忌の日に死んだ.

 こうして直義は歴史上の舞台から姿を消すが,直常は直義死後もずっと尊氏を倒すために執念深く戦い続けるのである.
 それについてはまた次回に・・・.


 (道路が整備され,乗用車がある現代においても,富山から立山連峰を超えて長野に抜けるのは至難の業,との指摘を受けて,)
 ということはつまり,越中から直接信濃に抜けるのは高い山があって非常に困難で,直義は越後国を経由した可能性が非常に高いということですよね.

 こういうところは土地勘がない者だと,頓珍漢な推測をしてしまいますね・・・orz
 ご教示,どうもありがとうございました.

 あるいは,越前から近江,越中から飛騨へ出るなどして東海道を下ったのではないかとも考えられますが,近江の佐々木,美濃の土岐,駿河の今川など太平洋側は尊氏党の武将が非常に多いので,やっぱりこのルートは現実的ではないなあと・・・.

 〔略〕

 越中国の事例ではありませんが,同じ北陸である越前国では,建武3(1336)年陰暦10月に,新田義貞軍がわずか600メートルの木芽峠を越えて敦賀に向かうときに猛吹雪に遭い,大量の凍死者を出した事実が『太平記』に記されております.

 長野県木曽御料林のヒノキの年輪成長曲線を調べると,この年は特に寒冷な年であった事実が判明し,『太平記』の記述は真実であると考えられるそうですが,それを差し引いても北陸の冬の厳しさを感じされられるエピソードですよね.

「はむはむの煩悩」,2008年1月19日 (土)
青文字:加筆改修部分

 ようやく直義を倒したものの,室町幕府をめぐる情勢は,まだまだ予断を許さないものがあった.

 桃井直常をはじめとする,直義の養子直冬を盟主とする旧直義党の勢力も健在であったし,一応降伏して尊氏もその一部となってはいるものの,南朝勢力もいつ尊氏を裏切って攻撃してくるか予想できなかった.
 所詮はお互いの利害や打算で適当に結んだ講和であった.

 直義が死んだ翌月の正平7(1352)年閏2月,いきなり南朝は講和を一方的に破棄して尊氏の滞在する鎌倉と義詮の守る京都を同時に攻撃した.
 「正平の一統」はここにわずか数ヶ月で崩れ去ったのである.

尊氏も義詮もこれを防ぎきれずに没落したが,南朝が北朝の3上皇と皇太子直仁親王を拉致して連れ去ったのはこのときのことである.

 それはともかくとして,翌3月には,尊氏・義詮はそれぞれ鎌倉・京都を奪回したが,南朝の後村上天皇軍は石清水八幡宮に籠城し,義詮軍はこれを包囲した.

 当時の石清水八幡宮は,難攻不落の名城で,籠城戦にはもってこいの天然の要塞であった.
 ここに,南北朝時代と言うよりは中世でもっとも激しく,長期間にわたる戦いのひとつである石清水の攻囲戦が開始されるのである.

 このとき桃井直常は,後村上軍を救援するために越中で挙兵する.
 『太平記』によれば,越後から新田義宗が7千騎で放生津に到着し,これを直常が3千騎で迎え入れ,合計1万騎で能登へ進撃したという.

 『太平記』に記載される兵力は誇張があってそのまま信用はできないが,それでも相当の勢力であったことは確かで,これが石清水まで到達していれば,南朝軍にとって頼もしい救援になったであろうが,直常の援軍が到着する前に,5月に八幡は陥落,南朝軍は撤退した.

 直常蜂起失敗以降,幕府による桃井氏討伐戦が本格化した.
 すでに先の観応2(1351)年8月の直義北陸没落に伴って,越中守護には井上暁悟という僧侶が任命されていた.

 井上暁悟は,去る康永〜貞和年間にかけて南朝方に転じて幕府の追討を受けた井上俊清の出家した姿であった.
 この武士が,情勢の変化に伴ってふたたび幕府方に転じ,攻守ところを変えて桃井を攻めたのである.

 観応3(1352)年の6月から8月にかけては,越中国氷見を中心として,能登守護吉見氏頼の指揮下に激しい合戦が繰り広げられた.

 能登守護吉見氏が一貫して尊氏=幕府方であったこともあって,越中国で合戦があるときは,多くの場合能登国との国境地帯である氷見周辺で戦闘が行われたようである.
 越中の桃井討伐戦は,この後文和2(1353)年まで断続的に行われた.

 しかし,桃井はしぶとく抵抗を続けた.
 南朝方に転じていた足利直冬が,文和3(1354)年末,山陰から京都に侵攻し上洛するが,これに直常は呼応し,3千騎の軍勢で上洛する.

 京都の人々は,3年前の観応2年の直常上洛のときの猛威を思い出して,恐怖で震え上がったようである.
 直常軍は大文字山に布陣して,その篝火は夜空を焦がしたという.

 しかし,翌文和4(1355)年には尊氏・義詮の反撃があり,直冬軍は3月に洛中の大決戦に大敗し,京都から撤退した.

 こうして,徐々に室町幕府の力が増大して,直常はじり貧となっていくのであるが,続きはまた今度紹介しよう.

「はむはむの煩悩」,2008年1月21日 (月)
青文字:加筆改修部分

 延文3(1358)年4月,室町幕府初代将軍足利尊氏が死去した.
 5月,高師直の後を継いで執事を務めていた仁木頼章が,執事を辞職し出家・引退した.

 10月には細川清氏が新しく執事に就任し,12月には足利義詮が2代将軍となった.
 この代替わりは,越中国の政治情勢にも大きな影響を与えた模様である.

 翌延文4(1359)年7月から9月にかけて,越中では井上暁悟の追討戦が展開され,10月,井上氏は遂に没落した.

 前回説明したとおり,暁悟は観応以降越中守護を務めていたのであるが,尊氏から義詮への代替わりにともなって幕府にふたたび敵対したらしい.
 このときの戦争も,主要な戦場は氷見周辺であった.

 暁悟に代わって新しく越中守護となったのは,執事細川清氏の弟・頼和であった.
 南北朝期の政治の特徴は,このように中央の政治情勢に応じて,地方の情勢も変化することである.

 清氏の権勢は,長くは続かなかった.
 この武将については,大昔に前のブログで詳しく紹介したことがあるが,合戦で立てた勲功のみによって出世を遂げたたたき上げの武人である.
 それだけに,自らの力を過信した専横の振る舞いが多く,多くの人々に嫌われていたのである.

 康安元(1361)年9月,清氏は失脚し,本拠地若狭国に没落した.
 これに伴って,弟頼和の越中守護職も没収される.

 代わって越中守護に任命されたのは,斯波高経であった.
 高経は観応の擾乱に際しては桃井直常とともに直義派だったのであるが,その後一貫して反尊氏を貫いた直常とは異なり,造反と帰参を繰り返し,この頃室町幕府内部の二大派閥(細川派・斯波派)の一方のリーダーとなっていたのである.

 高経は,4男義将を執事にするなど子弟を幕府の要職につけて政権基盤を固め,自らは越中守護となって,かつての仲間である桃井討伐を開始するのである.

 同年12月,南朝方となった細川清氏は,楠木正儀・石塔頼房らと京都を一時占領する.
 桃井直常はこれに呼応して越中から上洛しようとするが,果たせずに挫折する.
 長年にわたる幕府軍の追討を受けて,桃井の勢力は徐々にではあるが,確実に衰えていた.

 翌康安2(1362)年6月頃にも,諸国で南朝方の蜂起があり,直常もこれに呼応して信濃で蜂起し,越中に攻め込んでいる.

 もはや隣国で挙兵せざるを得ないところに,桃井氏の退潮傾向がはっきり見てとれるが,直常は昼間,越中守護代鹿草出羽守率いる幕府軍および能登・加賀・越前からの援軍を相手に,大いに奮戦してさんざんに打ち破る.

 夜になって,同盟軍と作戦会議を行うために,たった1人で誰にも告げずに本陣を離れ,本陣から2里ほど離れた井口城へ向かう.

 このとき,昼の合戦で敗れた能登・加賀の幕府軍300騎あまりが,不利を悟って直常軍に投降するために直常の本陣にやってきて直常に面会を求めた.

 しかし直常はどこにもおらず,桃井軍も誰も彼の行き先を知らない.
 直常が没落したのではないか,と本陣は大騒ぎとなって大混乱に陥った.

 これを見て,投降しようと思っていた能登・加賀勢は滅多にない大チャンスといきなり桃井軍を攻撃し,200人あまりを討ち,100人ほど生け捕りにし,本陣を炎上させて壊滅させてしまった.

 直常は気づいて引き返そうとしたが時既に遅く,仕方なく井口城へ逃走した.

 幕府軍は,たった300騎であの猛将桃井直常の本陣を陥落させた大戦果に感動し,彼らを大いに賞賛したが,後で真相が知れ渡り,嘲笑されたと言う.

 要するに指揮官が軽率にも陣地を離れ,そこを敵,しかも投降者に攻撃されたという直常の油断による敗戦なのであるが,それにしても,元弘以来,数多の合戦を指揮してきた歴戦の武将とは到底思えない拙劣なミスである.

 ともかくこれ以降,桃井氏の勢力は大きく減退することになるが,続きはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年1月23日 (水)
青文字:加筆改修部分

 越中守護は,貞治2(1363)年頃,斯波高経から子息で執事の義将に交代する.

 斯波氏が守護を務める時代が続くのであるが,前回述べた康安2(1361)年の敗北以来,この時期桃井氏が挙兵して幕府と戦った事実は見られないようである.
 さしもの桃井氏も,長年にわたる幕府の追討を受けて,逼塞を余儀なくされていたのではないだろうか?

しかし,斯波氏の幕閣における権勢も長くは続かなかった.

貞治3(1364)年12月,興福寺衆徒が春日社の神木を奉じて入京,ごう訴に及んだ.
 これは,斯波氏の被官朝倉宗祐(後の戦国大名朝倉氏の祖)が,興福寺領越前国河口坪井荘の押妨をやめないことに抗議するためのものであった.

 斯波氏は自らの家来の起こした問題を解決することができなかったために,神木の京都滞在はこれから1年半の長きにわたった.
 また,政敵佐々木導誉の策略も防ぐことができず,政権の求心力を急速に失っていった.

 こうして貞治5(1366)年8月,高経父子は失脚して越前国へ没落し,山名氏・六角氏等の追討を受けることとなった.

 これに伴って斯波氏の越中守護も当然没収されることとなったのであるが,その後守護に任命されたのは,何と桃井直常の弟で,南北朝初期から兄とともに戦ってきた桃井直信であった.

 直常もこの頃幕府に帰順したらしく,翌貞治6(1367)年には出家して上洛している.

 観応以来一貫して反幕府=南朝方を貫いて抗戦を続けてきた桃井氏が,この時期どうして幕府に帰参したのであろうか?

 幕府の立場から見れば,南朝の有力武将を帰参させて味方とすることで,政権基盤を強化して幕府の覇権確立を一層進めるためであったに違いない.
 これより先,すでに貞治2年には周防の大内氏,翌貞治3年には,山陰一帯で強大な勢力を誇っていた山名氏を帰参させているし,応安2(1369)年には,管領細川頼之の仲介で楠木正成の子正儀が幕府方となっている.
 南朝の有力武将に対し,軍事力ではなく宥和を進めて傘下に収めるのが,この時期の幕府の基本方針であったらしい.

 また桃井氏の場合は,その根拠地越中は,先に失脚・没落して幕府と敵対した斯波氏の領国越前と至近の距離にあり,斯波氏を討伐する意味でも,桃井氏の帰参は歓迎するところであったろう.

 また,これは桃井氏の利害とも一致していた模様である.
 越中守護として桃井氏を抑圧してきた斯波氏は,同氏にとっては不倶戴天の敵となっていたらしい.
 これは私の想像なのであるが,一貫して反幕府を貫いてきた桃井直常にとっては,かつては同じ直義党でありながら,都合よく造反と帰参を繰り返して権力を強化してきた斯波氏は,むしろ一貫して尊氏=幕府方を貫いた武将よりはるかに,憎悪の対象となっていたのではないだろうか?

 こうして桃井氏は観応以来18年ぶりに幕府の守護となるのであるが,これも長くは続かなかった.

 貞治6年7月に高経が越前国そま山城で病死すると,義将は幕府と交渉を開始し,あっさり赦免されて9月には上洛し,義詮と対面する.

 同年12月に義詮が病死し,幼少の義満の下で新管領細川頼之の代行政治が開始されると,早速義将は越中守護に復帰し,直常は京都を脱出,越中に向かい,応安元(1368)年挙兵する.これが桃井氏の最後の蜂起であった.

 応安3(1370)年3月,斯波義将と加賀守護冨樫竹童丸等は越中国長沢で桃井軍と交戦し,直常の子直和を討ち取った.

 応安4(1371)年7月に直常が飛騨国司姉小路家綱の援軍を得てふたたび挙兵したので,義将はまた越中国に出陣し,能登守護吉見氏の協力も得て,8月越中国後位荘で決戦し,遂に桃井氏を完全に殲滅した.

 これ以降,桃井氏が挙兵することはなく,直常の行方も不明である.
 長年幕府を悩ませてきた桃井氏も,これで遂に壊滅したのである.
 これは確かに一つの時代の終わりであり,室町幕府の覇権確立への大きな一歩であった.

 なお,桃井氏には直常流のほかに,尚義―盛義流が存在し,こちらは尊氏党で,桃井盛義が建武3(1336)年から建武4(1337)年にかけて但馬守護を務め,貞和5(1349)年から観応2(1351)年にかけても短期間であるが能登守護となっている.
 室町期に桃井氏は,将軍直属の常備軍である奉公衆として活躍するが,この桃井氏はこちらの系統の末裔と考えられている.

 続きはまた次回に・・・.

 【追記】
 室町期の奉公衆桃井氏につきましては,こちらの記事で訂正・補足をしましたので,ご参照いただけましたらさいわいです.

「はむはむの煩悩」,2008年1月25日 (金)
青文字:加筆改修部分

▼ 前回まで8回にわたって南北朝時代の越中国の歴史を紹介してきたが,通読していただければ,当該期の同国の歴史は,まさに桃井直常の歴史と言っても過言ではなく,彼を中心に展開した歴史であると評価できよう.
 個人的には,井上俊清にも興味があるのであるが,やはり直常が主人公である事実は不動であろう.

 楠木・新田・北畠といった,最初から南朝方として南朝の天皇に尽くした武士や公家を除けば,桃井直常は,観応の擾乱以降はごくわずかな一時期を例外として一貫して反幕府=南朝方として活動したのであり,そのため越中国は「反足利」の勢力の強い『南朝王国』となったのである.

 適当に折り合いをつけて幕府に復帰し勢力を伸ばした斯波氏や山名氏といった,ほかの直義に属した武家と比べても,桃井氏のこの一貫性は特筆に値すると思う.
 直常がなぜここまで幕府に敵対・抵抗を続けたのか,その理由は私にはよくわからない.
 直義と何らかの結びつきがあり,尊氏を心底から憎悪していたであろうことは想像できるが,それにしても尊氏・直義死後もずっと反逆し続けられたものだと思う.

 ただ,桃井氏がここまで抵抗を続けることができたのは,単に直常個人の不屈の意志の力だけではなかったことを見落としてはならない.
 越後・信濃・飛騨といった比較的南朝勢力の強い隣国にめぐまれ,それらの国から支援を受け続けることができたであろうこともその一因と考えられるが,何より最大の要因は,越中国の武士たちがずっと直常を支持し,彼に従い続けたからであったに違いない.

 はるか後年の史料であるが,相国寺鹿苑院蔭涼軒主の記した日記である『蔭涼軒日録』延徳2(1490)年2月8日条には,田河氏が桃井直常の謀反に加わったので,田河氏の所領田河保が奉公衆の波多野氏に充行われた事実が記されている.
 前回触れた太田保も,太田氏が桃井氏に味方したために没収されて細川氏に与えられた所領であったと考えられている.
 このように,桃井氏に与同して所領を改易された国人は多数存在したに違いない.

 これは実はむちゃくちゃすごいことなのである.
 常に勝ち馬に乗ることばかり考えている地方の国人を,劣勢の中ずっと配下に置き続けるのは,並大抵のことでは不可能である.
 例えば,執事細川清氏は,康安元(1361)年失脚して自身の分国若狭へ没落したが,若狭の国人たちは幕府の追討軍が迫るとあっさりと彼を見捨て,幕府に寝返った.
 越前で興福寺領荘園の押領を続け,主家斯波氏失脚の原因となった朝倉宗祐も,斯波高経が失脚すると要領よく幕府方となっている.

 次第に衰えていき,孤立無援に近い状況の中で戦いを続ける桃井直常が,在地の国人層を長期間従わせ続けたこと自体が驚異的なことであり,直常はやはりひとかどの武将であったのだろう.

 しかしそのため,桃井氏没落後の越中国は,将軍の直轄領である御料所や細川・斯波・畠山等の守護クラスの武士領,将軍の直轄常備軍である奉公衆の所領,醍醐寺三宝院や石清水八幡宮といった親幕寺社の荘園で埋め尽くされることとなった.
 「反足利」の根拠地の一つであった越中は,反足利であった故に,非常に『足利化』の進行した地方となったのである.

 康暦元(1379)年,政変で管領細川頼之を失脚させ,自ら管領に返り咲いた斯波義将は,畠山基国の分国越前と自身の分国越中を交換する.
 ここに義将は,建武以来の本国越前をようやく回復し,越中国は以降畠山氏が相伝する領国となる.

 数十年にわたって続いた内乱もようやく終結し,明徳3(1392)年,南北朝が合一する.
 越中にも,平和な時代が到来したのである.

 畠山基国や子満家は,後に管領を務めるなど,有力政治家として全盛期の室町幕府を支え続ける.
 無論,越中国は彼らの活動を支える有力な根拠地の一つとなったのである.

「はむはむの煩悩」,2008年1月30日 (水)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 なぜ桃井直常は尊氏を憎悪していたのですか?

 【回答】
 これがねえ,よくわからないんですよねえ.
 桃井直常が,とにかく尊氏を憎んでいたことだけはよくわかるのですが・・・.

 山名時氏なんかは,もともとは熱烈な尊氏―師直派だったのですが,塩冶高貞失脚後の出雲守護職を自分がなろうと狙っていたのに,師直が高貞と同族の佐々木導誉に出雲守護職を与えたのを恨んで以降直義派になったとか言われていますが,直常は恩賞が足りないと恨むような人間でもないし・・・.

 〔略〕

 今ちょっと調べてたら,直常が直義派となった理由として,北畠軍撃破の戦功を師直が無視したためとされていることがわかりました.

 でも,ほんとかなあ・・・???
 後述しますが,桃井氏は師直や尊氏が死んだ後も,義満の代に至るまでずっと反幕府側に立って抗戦を続けているわけですよ.
 いくら何でも,そこまで引きずりますかねえ・・・?

 それに,短期間とは言え若狭守護に抜擢されているし,伊賀・越中守護にも任命されていますから,戦功が無視されたってこともないと思います.

 ちなみに直常の「直」は,おそらく直義の偏諱を賜ったんだと思います.

 両者にはきっと特別な関係があったんでしょうけど,室町幕府成立以前の足利氏ってあまり史料にめぐまれていなくて,確実なことがなかなかわからないんですよね〜・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年1月18日 (金) 12:09〜2008年1月18日 (金) 13:19
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 直常も「南朝に寝返った」のなら,伊勢の北畠氏や九州の菊池氏などの南朝勢と連携して,北朝方を攻め立ててもいいようなものですが……?

 【回答】
 おそらく,直常もそういう包囲・連携作戦は常に念頭に置いていたと思います.

 かつて奥州から畿内に攻め寄せた北畠顕家軍も,北陸の新田義貞軍と連携して京都を攻める戦略を立てていましたし,足利義詮が石清水八幡宮に籠城する後村上天皇軍を攻めたとき,直常は後村上を救援しようと越中で準備していますし.

 ですが,計画を立てるのとそれを実現させることはやはり別問題でして,顕家も直常も,結局は連携に失敗しています.

 戦国時代,足利義昭は全国の大名に号令して織田信長包囲網を形成させることに成功していますが,やはり実際には全軍連携して信長を包囲殲滅させることができず,結局は信長に各個撃破されておりますし
(武田信玄が連携に失敗した朝倉義景を難詰している書状も残っています).

 ただ,文和3(1354)年に直常は,山陰の足利直冬・山名時氏軍と連携して,京都を占領することに一時成功していますから,これは連携が成功した例と言えるかもしれません.

「はむはむの煩悩」,2008年1月19日 (土) 19:52
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 その後,桃井氏はどうなったのか?

 【回答】
 今日は以前書いたエントリーの訂正も兼ねて,没落以降の桃井氏について若干補足をしたい.

 このエントリーで私は,室町期に奉公衆として活躍する桃井氏は,直常流とは別系統の,尊氏党として活動した系統の末裔であると述べた.
 そう推測している研究があったので,このときはその見解に従ったのであるが,先日室町期の桃井氏について論じる論考を拝見し,それによれば奉公衆の桃井氏は,直常の弟・直信の子孫であるのが真相であるようだ.

 桃井氏が越中国で起こした反乱を鎮圧された後の応安5(1373)年,桃井直信が京都六条室町に住んでいた事実が知られる.
 兄直常は行方不明となるが,弟直信は赦免されて幕府に帰順したようである.
 このとき直信は,祇園社執行顕詮の依頼で丹後・但馬・伯耆守護山名師義への紹介状を書いている.
 山名氏も旧直義党の有力守護であったから,直義党OBの人的交流は継続していたようである.

 直信には,詮信という子息がいた.
 無論2代将軍義詮から偏諱を賜ったのである.
 この桃井詮信は,将軍直臣となるが,特に顕著なのは歌人としての活動である.
 さまざまな歌集に,彼が詠んだ数首の和歌が入選しているそうである.
 当時の和歌の会は,単なる趣味の場ではない.
 ここで培われた人脈が,幕府の政策判断に影響を与えるなど,政治に密接な関わりがあった.

 また詮信は,管領斯波義将と歌人仲間として親交があったようである.
 桃井氏と斯波氏は,かつては不倶戴天の敵同士であったが,戦乱が収まった時期にはおたがいかつての怨恨を捨て,関係を修復していたのである.

 直信の弟に直弘という人物がおり,直弘は早くから幕府に帰順していた模様であるが,彼の子孫尚儀が越中国射水郡浅井保に住み,斯波義将の娘を妻としたという伝来がある.
 これも桃井・斯波の関係を窺わせる所伝であろう.

 桃井詮信は長命で,応永末期まで生存した.
 応永28(1421)年頃には桃井治部少輔という人物が,4代将軍義持の近臣として行動している.
 応永32(1425)年には,危篤となった5代将軍将軍義量の病気平癒のために,義量近臣と大御所義持近臣が洛中の七薬師堂に太刀・香水を献じているが,その義量近臣の中に,桃井持信という人物が見える.
 もちろん義持の偏諱を賜っているのである.

 6代将軍義教は,幕府直轄軍である奉公衆の編成に着手する.
 彼は直属の家臣を5番に分けるが,その2番衆の番頭を務めたのが,桃井治部少輔入道常欽であった.
 これは義持近臣の桃井治部少輔の,出家した姿であると推定されているが,妥当であろう.

 永享7(1435)年には,義教の側室が桃井の自宅で男子を出産している.
 幕府近臣の邸宅が,将軍家子女のお産の場所に指定されることは多くあったそうで,近臣にとってはきわめて名誉なことであったに違いない.

 このように桃井氏は,室町期においても生き残って,将軍側近の有力武家として,軍事や和歌といった芸能を通じて,室町幕府に貢献し続けたのである.

 なお,桃井氏のほかに直義党として尊氏と戦って,後に将軍家の近臣に編成された守護としては,上野氏がある.
 上野頼兼が観応2(1351)年に尊氏軍に敗れて但馬で戦死した後,子の詮兼が幕府に復帰し,上野氏は後に3番衆番頭を代々務めたのである.

※参考文献
松山充宏「南北朝期守護家の再興―匠作流桃井氏の幕政復帰―」(『富山史壇』142・143,2004年)

「はむはむの煩悩」,2008年3月15日 (土)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 当時越中公方?がいた放生津とは川もなく陸続きで,馬ならおそらく数時間で行けたはずですが,まっ平らな平地で城郭を築けるような山や丘もないし,居を構えるにふさわしい場所とは到底思えません.

 【回答】
 あくまでも伝承だそうですし,どこまで事実かは不明ですが,ただ,まったくの事実無根というわけではなく,桃井氏と何らかのつながりがあったことは確実でしょうね.
 あるいは,この桃井氏も在京して幕府に奉公していたのかもしれません.

 ちなみに桃井尚儀・斯波義将娘夫妻には,直之と慶林坊日隆なる2人の子がいて,日隆は基氏の子である妙本寺日霽に学んで,あの本能寺の開祖となったそうです.

「はむはむの煩悩」,2008年3月16日 (日) 13:52
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 直系ではないにしろ,あの直常の一族が室町期を通して,幕府の要職に就いていたというのは,驚くばかりなのですが.

 【回答】
 弟の子孫ではありますが,これは意識の上では事実上ほとんど直常直系という認識に近かったと思いますよ.

 兄弟や親子でそろって幕府に敵対した場合,兄や父は許されなくても,弟や子が赦免されて幕府に復帰する例がけっこう多いんですね.
 畠山氏もそうですし,細川頼之が康暦の政変で失脚したときも,弟の頼元はいち早く赦免されて幕府に帰順しています.
 頼元も後に管領となり,頼之に実子がなかったために兄の養子となって,後の管領細川京兆家の祖となっています.
 斯波高経父子が失脚・没落したときも,高経が死去すると子の義将がすぐに復帰していますし.

 どうも,できる限り家の存続は許すという方針が,当時の幕府にはあったようですね.

「はむはむの煩悩」,2008年3月16日 (日) 13:52
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 浪岡城(青森県)
とは?

 【回答】
 鎌倉幕府を滅ぼし,建武政権を樹立した後醍醐天皇は,東北地方に地方統治機関・陸奥将軍府を設置し,北畠顕家を陸奥国司に任命して,義良親王(後の後村上天皇)とともに東北に派遣した.

 北畠顕家は,足利尊氏を窮地に追い詰める大活躍をしたものの,武運つたなく,最期は和泉国で戦死した.

 その後,顕家の弟北畠顕信が陸奥国司に任命されて東北地方に赴き,各地を転戦した.

 北畠氏は,南北朝末期から室町初期の頃に浪岡の地に入り,ここを本拠地としたと推定されている.
 浪岡の北畠氏は,「浪岡御所」と呼ばれた.
 そして応仁の乱の頃,本格的に浪岡城を築いたとされている.この浪岡城跡を今回見学してきたのである.

 当時の北東北は,日本海側に安東氏,太平洋側にかつて北畠氏の部下であった南部氏が勢力を伸ばし,たがいに抗争していた.
 北畠氏の浪岡城は,両勢力の境界に位置し,両氏の直接対決を緩和させる役割を果たしていたのだが,かえって漁夫の利を占める形になって,一時は相当強大な勢力を誇ったらしい.

 それを証明するように,浪岡城は,8つの郭で構成される,複雑で壮大な構造を持つ大城郭である.

 発掘して出土した遺物は,およそ4万点にのぼるそうである.
 鎧・刀といった武器も,もちろん発見されている.
 鉄砲も見つかっており,鉄砲が種子島に伝来してわずか30年ほどで,本州の北まで普及した事実が判明する.
 中国・朝鮮製の陶磁器も出土している.
 中でも注目するべきは,銭貨が1万枚以上発見されていることで,北畠氏の豊かな経済力と広大な流通を物語っている.

 また,浪岡は,青森・弘前と中世には大港湾都市であった十三湖を結ぶ交通の要衝に位置しており,江戸時代には宿場町として栄えた.
 現代も,東北自動車道浪岡インターがすぐそばにあり,こうした地理的に有利な点も,北畠氏が大発展した大きな理由であったろう.

 浪岡御所北畠氏は,戦国末期に一族の内紛もあって衰退し,最期は大浦(津軽)為信(後の津軽藩祖)の攻撃にあって浪岡城は落城し,戦国大名としての北畠氏は滅亡したのである.

「新はむはむの煩悩」◆2011年8 月28日 (日)
青文字:加筆改修部分


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