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戦史FAQ目次


 【link】


 【質問】
 「主従制的支配権と統治権的支配権」説とは?

 【回答】
 これが,戦後の日本中世政治史を一貫してリードしてきた巨人・佐藤進一氏の著名な学説である.

 初期室町幕府の体制は,将軍足利尊氏が恩賞充行と守護職補任を担当し,弟直義が所領安堵や訴訟の裁許などを管轄するという二頭政体であった.

 佐藤氏は,この尊氏と直義の権限を分割する基準というか,両者の権力の本質的な相違を考察し,上記の支配権の概念を生み出したのである.
 すなわち,尊氏の権限は,武士の棟梁としての私的・主従制的な支配権に由来し,直義のそれは国家が統治するための公的な支配権に由来する.

 そして,この権力の二元性が,初期室町幕府だけではなく,鎌倉幕府の将軍と執権の二頭政治にも見られるとし(将軍=主従性,執権=統治権),さらには東国の反乱軍から出発し,私的な主従性的支配権を行使していた源頼朝が,朝廷から国家の統治権的支配権を分割して授けられ,正統性を有する国家権力として確立したとし,このように壮大な議論にまで発展させた.

 こうして,主従制的支配権と統治権的支配権は,日本中世の武家政権の根幹をなす支配原理として定説化され,長く歴史学界を支配したのである.

 しかしながら,この学説には,よく考えると矛盾点や疑問点も多い.

 まず誰もが真っ先に気づく問題点は,佐藤氏が直義の行使した所領安堵を統治権に属するとしたことである.

 しかし,所領安堵とは,武士が将軍の臣下となったときに,最初に主従関係を確認する行為ではなかったか?
 将軍に忠誠を尽くす代償として,自分の所領の安全を将軍に保障してもらうのである.
 とすれば,所領安堵は主従制的支配権なのではないか?

 ということで,安堵が主従制か統治権かという問題をめぐって,学界では長い論争が繰り広げられた.
 この議論にはいまだに決着がついていないが,私の見たところ,安堵を統治権と考える論者は,安堵に主従制的な要素が存在しないことを,説明しきれてはいないと思われる.

 これ以外にも,例えば二頭政治期に直義が軍勢催促の権限をほぼ独占していた事実については,どう説明するのであろうか?
 配下の武士を動員して合戦に参加させる行為は,武家政権として主従制の中核に位置する権限なのではないだろうか?

 さらに言えば,統治権的支配権の中枢を占めるとされる裁許だって,主従制の要素がまったく存在しないと言えるのだろうか?
 訴訟当事者が,自分の権利を主張するに際して,自らが幕府に対して果たした軍事的貢献(軍忠)も併せて主張する例など割と存在するし,直義がそれを考慮していると思われる事例も比較的存在する.

 観応の擾乱に際しては,多くの武士が直義に従って尊氏と戦った.
 彼らの多くは鎌倉以来の伝統的な地頭御家人であり,彼らや寺社・貴族の権益を保護する直義の政策に基づいて直義に安堵や裁許を拝領し,恩恵を受けた人々である.
 彼らにとって,直義とは忠節を尽くすべき『主君』ではなかったのか?
 尊氏を主君と仰ぎ,彼に味方した武士たちと,従属した原理が何が異なるのであろう?

 で,逆に考えれば,尊氏の行使した恩賞充行に,統治権的要素が皆無であると言えるであろうか?

 合戦に参加した武士の軍忠を,書類や目撃者の証言によって審査し,守護が南朝方から没収した所領の状況を調査し,軍忠の程度に応じて恩賞としてそれらの所領を与える.
 この事務的な作業は,直義の行使した安堵や所領関係の裁判の進行手続とも共通する部分があり,ある意味で非常に統治権的と言えるのではないだろうか?

 要するに佐藤氏の分類に従えば,幕府の政治機能はすべて主従性と統治権の要素を併せ持っており,尊氏と直義の権限をそれで区分することは困難なのである.

 というわけで近年の研究者は,主従制とか統治権という言葉は使うことには概して慎重である.

 だがしかし,かと言って,佐藤説が真っ向から批判され,完全に否定されたわけでもない.
 これに代わる権力の本質を説明する,新たな枠組みを構築することも,きわめて困難な作業だからである.

 今後,佐藤説を再検討し,新しい権力論を創造する作業が必要となってくるであろう.

「はむはむの煩悩」,2007年6月14日



 【質問】
 鎌倉幕府の将軍と執権を「二頭政治」というのはどうなんでしょう??

 【回答】
 そうですね.二頭政治という表現は不適切かもしれません.
 佐藤さんも,そこまで言ってなかったかも・・・.

 将軍と執権の権力は,尊氏兄弟ほど明確な権限分割は見られません.
 両者とも同時期に充行・安堵を行使しております.
 裁許はほとんど執権が独占しておりますが.

 わずかに弘安年間に,
惣領に対する安堵→将軍家政所下文,
庶子に対する安堵→執権・連署発給の関東下知状
という区分が認められる程度ですが,尊氏・直義の二頭政治とはだいぶ様相を異にするようです.

「はむはむの煩悩」,2007年6月17日 (日) 23:48



 【質問】
 直義は身内で信用出来るから,尊氏と直義とでお互いの行為が食い違わないような調整だけして,同じ権限を分け合ったとも考えられるんでしょうか?

 【回答】
 まあ,子細に見れば,例えば北朝との交渉役が執事高師直(尊氏派)から途中で直義に移行するなど,両者の管轄は時期によってけっこう変遷していて,争奪している形跡があるのですが(それはそれでこの二元論に対する間接的な批判にはなっている),
尊氏=恩賞充行,
直義=所領安堵・相論裁許・軍勢催促
という基本線は,室町幕府発足から観応の擾乱勃発まで,厳然として維持されています.

 このように,両者の権限はかなり明確に区分することができるので,両者の権力には,本質的に相違が存在するのではないかということで生み出された歴史的概念が,主従制的支配権と統治権的支配権であるわけです.

 『難太平記』には確か,尊氏が弓馬の将軍,直義は政道の将軍とされたと書かれていたはずですが,別に弓馬のことだって直義がやっているわけでして(笑)

 〔略〕
 実は単にめんどくさがりの尊氏が,いちばん自分が武士や寺社の支持を得やすい権限だけ自分の手元に残して,残りの大半を直義に押しつけたというだけの話だったのではないか,と個人的には感じていたりもします(笑)

 でも,それだとどうしても,配下の武将が尊氏・直義いずれかに与して党派が形成されることとなり,やがて破綻に至ったのではないかと・・・.

「はむはむの煩悩」,2007年6月15日 (金) 06:18


 【質問】
 恩賞充行権は,大きくて決定的な権限であると言うべきでしょうか?

 【回答】
 そう思います.

 恩賞充行権は,草創のごく初期に,ほんの短期間だけごく一部の武将に認められたに過ぎません.

 ここまで明確にはっきりと,しかも長期間にわたって充行が許可された(鎌倉府は持氏が滅亡するまで充行を行っていた)のは鎌倉府だけですね.

 鎌倉府は,九州探題や中国探題等,幕府のほかの統治機関に比べて,あきらかに格段に強大な権限を保有しています.

 将軍以外に恩賞充行を広範に行使した例外は,東西分割統治期の西国の義詮政権と,足利直冬の勢力くらいのものですが,前者はいずれ尊氏の後を継ぐことが自明でしたし,後者はおそらく尊氏に無断で勝手に行っていたのだと思います.

 逆に言えば,鎌倉府にここまで大きな権限を与えなければ,東国を平定できなかったということでもありますね.

「はむはむの煩悩」,2008年4月21日 (月) 17:19〜17:35
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「主従制的支配権と統治権的支配権」という興味深い学説をうかがいましたが,当時の武士達からは,尊氏・直義兄弟はほぼ同格,つまり直義もその気になれば(?)すぐに「恩賞充行権」を行使できる存在であると看做(みな)されていたということでしょうか・・・?

fuji in 「はむはむの煩悩」,2008年1月20日 (日) 09:36
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 そう思いますね.

 この兄弟は,もともと1歳差しかなく,母親(上杉清子)も同じで,「両御所」などと称されていた存在です.血統的にはほとんど差がなかったわけです.

 それに,二頭政治とは言っても平等に権限を分割したわけではなく,所領安堵から裁許や軍勢催促まで,大半の業務は直義が掌握しています.

 尊氏が保有していたのは,恩賞充行と守護職を任命する権限しかないんですね.
(まあ,逆に言えば,これだけでも直義に十分対抗できるほど最重要な機能であったとも言えるわけですが・・・)

 これは,幕府成立直後に尊氏が出家引退を熱望して,すべてを直義に投げ与えようとしたからでして,そのため当時の人々は,直義邸である三条殿に幕府が所在すると認識していたほどです.

 そもそも,鎌倉幕府の将軍はほとんど飾り物であったわけで,それに比べると尊氏の存在はかえって強すぎるくらいでして,鎌倉幕府の後継者を自認する室町幕府で鎌倉と同様,将軍がお飾りになってしまう可能性は十分にあったと思いますね.

 観応の擾乱でいったん講和した際,尊氏は自派の武士に対する恩賞を優先させることを直義に強く主張し,強引に認めさせています.

 これを通したとき,尊氏は急に上機嫌になったそうですが,これはつまり軍事的にいくら敗北していても,恩賞充行権さえ死守していれば絶対に負けはない,と尊氏は知り抜いていたわけでして,こういうところはやはり優れた政治家だったなあと思います.

「はむはむの煩悩」,2008年1月20日 (日) 12:26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 室町時代の守護の権限には,大犯三箇条以外にどんなものがありますか?

 【回答】
 南北朝期から,
・領地争いにおける実力行使権(刈田狼藉)
・採決の執行権(使節遵行)
・半済法(荘園の年貢の半分を兵糧米として徴収)
・守護請(荘園年貢の徴収代行)=権限というより荘園領主の依頼による
・国内の民事裁判
等です.

日本史板,2002/12/06
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 室町幕府の件で,質問です.
 室町幕府全盛(3代義満・4代義持)の頃の守護大名は,その領国に課した税金(段銭)を,幕府に納税していたのでしょうか?
 応仁の乱後は,幕府の統制力が弱体化し,各国守護などは,戦国大名化して独立の大名となったので,幕府に税金(段銭)を納付していないことはわかるのですが.

 【回答】
 守護はその成立のときから,幕府に納税はしていないよ.
 幕府から領地を安堵される代わりに,領内の治安を守ったり,幕府から召集命令がかかれば,自費で兵を率いて,命をかけて幕府を守るために戦うのが守護の役割だった.

 幕府の財政基盤は基本的には,直轄領である御料所から上がる収入のみ.

 鎌倉幕府の収入源は,荘園領主(関東御料)&知行国主(関東御分国)としての収入.
 つまり貴族としての収入だったので,地頭などの要求とはしばしば矛盾していた.
 逆に,そういう理由があったからこそ,荘園領主の貴族たちが地頭とのトラブルを,鎌倉幕府に訴えて勝利する例が多かった.

 室町幕府の収入はややこしくて,『室町幕府の土地』はほとんど無い.
(ちなみに全国で守護が設置されていない国の一つに山城国があったが,山城守護は管領がやってた)
 その代わり,関所や港からの通行税や土倉・酒屋からの商業税と,港からの税を取り立てていた.
 あとは臨時に段銭(土地の面積に応じてかかる),棟別銭(家一戸ごとにかかる)を取り立てていた.

 「段銭」は,義満期などの幕府全盛期は,守護を通じて諸国から徴収していた.
 のち15世紀中頃より守護が,大名化して自己のための段銭「守護段銭」を賦課するようになったとの説明もある.(『日本歴史体系2 中世』)

 徳政令の分一銭(貸付金の十分の一を幕府に納める代わり,借金を棒引きしない)なんかも重要な財源.
 あとは時期が限られるが貿易収入も.

 室町幕府では成立時に弱体であったせいもあって,味方をする武士たちに土地を配りすぎたとも言われて,御料所が少なく,日野富子が都に七口の関を設けて,通行料を取ったりしたのも,もともとの幕府の財政基盤の弱さを立て直すためだったとも言われる.

日本史板,2009/10/26(月)〜10/27(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 もともと守護は軍事・警察権で,領地の安堵とか徴税ってのは地頭のことかと思ってた.
 で,室町期の半済令あたりから経済的にも急激に侵略して行ったのだと.
 違うの?

 【回答】
 この辺ややこしいというか.

 鎌倉時代の守護は取り分はない.
 守護は地頭を兼ねていて,地頭の収入などで食っていた.
 ただし守護になるのは,もともと有力御家人が多かったし,軍事警察権は使いようによっては便利なので,それらを活かして国内の地頭を配下のようにしていく動きは,鎌倉時代からあった.

 室町時代になって半済令で,「守護が土地から得る収入」が制度化された.
 室町期の守護は,南北朝の動乱を経て,その権限を「半済」などを通じて拡大させた(『日本歴史体系2 中世』)

日本史板,2009/10/26(月)〜10/27(火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 足利持氏滅亡後に再興された鎌倉府について教えられたし.

 【回答】
 実は持氏滅亡後,しばらくして鎌倉府は再興され,その歴史が続いている.
 そこで,今回からはしばらく,その後の鎌倉府について簡単に紹介してみたい.

 持氏滅亡後,関東地方は室町幕府の直轄支配下に置かれた.
 しかし将軍・足利義教は,いずれ自分の子息を新たに鎌倉公方に任命して,鎌倉に下向させる構想を持っていたらしい.

 鎌倉府は,確かに歴史的に何かと京都に反抗的で,頭の痛い存在であった.
 しかし関東は,京都からは遠く離れた地方であり,京都周辺の諸国のように将軍が管領を介して守護を統制することは困難で,どうしても中間行政組織が必要であったことがわかる.
 京都幕府が望んでいたのは従順な鎌倉府であって,鎌倉府の存在そのものの全否定ではないのである.

 それまでの公方不在の関東および,新公方就任後の新たな鎌倉府においても当然,関東管領・上杉憲実が東国支配の重鎮として活動を継続することが期待されていた.

 しかし肝心の上杉憲実は,もうすべてに嫌気がさして,政界を引退しようとしていたのである.

 関東管領・上杉氏は,もともと代々権力欲の希薄な一族であったが,憲実は特にその傾向が強かった.
 憲実は政治よりも,学問や仏教を好む武将であった.
 永享の乱で主君・持氏を鎌倉永安寺に幽閉している最中も,足利学校再興のために,儒教の基本文献である五経を同校に寄進しているほどである.

 そして今回,己の意に反して,結果的に主君持氏を死に追いやってしまった.
 おそらく罪の意識にさいなまれて,もう,何もかもが嫌になってしまったのであろう.
 永享11(1439)年6月28日,憲実は持氏が自害した永安寺で自殺未遂事件を起こしている.
 同年末までには伊豆国の国清寺に引きこもり,出家している.
 まだ29歳の若さであった.
 法名は長棟といった.

 国清寺は,憲実の曾祖父憲顕が創建した寺院で,元弘3(1333)年,憲顕の父憲房が足利尊氏から恩賞として拝領した伊豆国奈古谷郷にあり,伊豆守護でもある上杉氏の本拠地であった.
 全盛期には壮大な規模を誇り,非常に栄えたそうである.

 憲実はここに引退して余生を仏道修行に捧げようとしたのである.
 このとき憲実の子息はまだ幼かったので,越後国から実弟の清方を呼び寄せて後継者にしようとした.

 ところが翌永享12(1440)年3月,持氏残党である下総国の結城氏朝たちが,持氏遺児である足利春王丸と安王丸を擁立して,常陸国や下総国結城城で挙兵した.
 以前も紹介したことがあるが,結城氏は2代公方氏満の時代に,宗家小山氏の莫大な所領を拝領して宗家の地位にのし上がり,下野守護にも任命されるなど,鎌倉公方の恩恵で大発展した武家で,親公方派であった.
 鎌倉公方に御恩のある武士たちが,上杉氏の打倒を目指して一斉に挙兵したのである.

 そのため京都幕府は,憲実に政界復帰と結城氏討伐を命じた.
 憲実は仕方なく伊豆国を出発し,鎌倉に入り,神奈川(現横浜市)まで出陣して,結城氏討伐を指揮した.
 これが世に言う結城合戦である.

 翌嘉吉1(1441)年4月,結城城は陥落した.
 春王丸と安王丸は捕えられ,京都に護送される途中,美濃国垂井で処刑された.
 これでようやく憲実も引退できると思いきや,歴史は憲実になかなか引退を許さなかったのである.
 続きはまた今度に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年11月19日 (水)
青文字:加筆改修部分

 結城合戦が終結した直後,嘉吉1(1441)年6月24日,京都で将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に赤松邸で暗殺された.

 満祐はその後,自身の分国播磨へ下り,9月に幕府軍に敗死するまで抵抗を続けた.
 これが嘉吉の乱である.

 義教の死後,嘉吉2(1442)年11月,長子義勝が後を継いで7代将軍となったが,彼はまだ8歳の少年であったので,管領畠山持国が将軍の権限を代行する体制となった.
 その昔,将軍義満が幼少であったので管領細川頼之が義満の権限を代行したことがあったが,その先例に倣ったのである.
 また,鎌倉府においても,2代氏満・4代持氏の初期は関東管領が同様に権限を代行したが,その例とも同じである.

 ところが翌嘉吉3(1443)年7月,その将軍義勝もわずか9歳で死去してしまう.
 義勝の死は,父義教の持氏討伐の報いを受けたものであると噂されたという.
 その後は,義勝の弟義成(義政)が7歳で家督を継いだが,もちろん幼少であることには変わりなかったので,管領による代行政治は続いた.

 京都幕府の政治情勢はこんな感じであったので,鎌倉府どころではなくなった.そのため,関東管領上杉憲実はますます引退できなくなって,東国の統治を担当しなければならなくなったのである.
 すでに嘉吉1年6月29日,義教暗殺の直後に憲実に宛てて出された管領細川持之書状には,憲実が隠居を望んでいることは京都でも承知しているが,こんな状況になったので関東の政治は憲実に任せるようにと幕府で決定した旨が記されている.

 憲実は仕方なく政治家を続けたが,内心大いに不満であったことは言うまでもない.
 しかしこんな状況下でも,憲実は自身の引退に向けて着々と準備を続けていた.
 文安1(1444)年,憲実は譲状を作成して,上杉氏の重要な所領を二男房顕にすべて譲った.
 そして,房顕には京都で奉公させ,残り4人の男子はすべて出家させ,自分の子孫を今後一切関東の政治に関与させないようにしようとしたのである.

 関東管領の後継者には,前回も述べたように実弟清方を呼び寄せて,彼に山内上杉氏の家督を譲って関東地方の所領も与えた.
 ところが清方は,文安2(1445)年に死去してしまった.
 そこで家臣の長尾景仲たちが話し合って,出家していた憲実の長男竜忠を還俗させて憲忠と名乗らせ,家督を継がせた.
 もちろんこれは憲実の意志とは違う.
 憲実の思いどおりの未来はなかなか実現せず,権力はどこまでも憲実にまとわりついてくるのであった.

「はむはむの煩悩」,2008年11月24日 (月)
青文字:加筆改修部分

 文安4(1447)年になって,ようやく持氏の死去以来空席となっていた鎌倉公方の後継者について,幕府で評議された.
 永享の乱で持氏が敗死したのが永享10(1438)年のことであるから,それ以来,実に9年も経っていたのである.

 だが新鎌倉公方の候補として,足利義成(後の8代将軍義政)の弟にするか,それとも持氏の子息にするか,京都幕府は決めかねていた.
 京都に従順な鎌倉府を作るのであれば,将軍の弟が適任に思えるが,関東は足利基氏以来,4代にわたって基氏系足利氏が統治してきた地域である.
 関東の安定を考えるならば,持氏の子どもの方がふさわしいかもしれず,幕府が後継者決定に悩むのも自然の成り行きであったかもしれない.

 そこで京都幕府は,新公方の人選を関東管領上杉憲実に一任し,かつ新公方就任後も引き続き憲実に管領を続けさせようとした.
 京都と鎌倉の関係を円滑に保ち,平和と安定を導くために,憲実の存在は必要不可欠であると考えられていたのである.

 しかし,憲実が引退を強く希望していることは,京都幕府も十分承知していた.
 そこで幕府は,それを制止するために後花園天皇綸旨を獲得することまで検討した.
 これは実際には発給されなかった模様であるが,草案まで作成された.

 しかしそれでも憲実の引退の意志は強く,そこで同年7月4日に,憲実の子憲忠を関東管領にするよう憲実に説得することを命じる後花園天皇綸旨が,京都幕府の管領細川勝元宛に出された.
 言うまでもなく,幕府の人事に関して天皇の綸旨が出されるのは異例のことである.
 それだけ日本の平和のために,山内上杉氏の存在が必要と考えられていたのである.

 これは前回も紹介したように,自身の子孫を未来永劫関東の政治に関与させない憲実の意志とまったく反することであった.
 しかし,長尾氏・太田氏等上杉氏の家臣も憲忠が後を継ぐことを望み,京都の管領以下諸大名から天皇までもがそれを支持している情勢では,憲忠が関東管領に就任するほかの選択肢はなかったのであろう.
 実際,ほかに関東管領の適任者もいなかったようであるし.

 結局上杉憲忠は関東管領となった.
 父の命令に背いた憲忠を,憲実は義絶した.
 だが,憲実はようやく念願かなって政界を完全に引退することができた.

 文安5(1448)年,38歳となっていた憲実は,ひとり傘をかぶり,わらじを履いて諸国放浪の旅に出かけた.
 人には,主君持氏を滅ぼした謝罪のための行脚であると語ったそうである.
 ちなみにその前年,家臣長尾氏が憲実養父憲基から拝領した所領である伊豆国平井郷を憲実は没収して,持氏未亡人に進上している.
 こういう行動からも,憲実の贖罪の意志は本物であったと考えられるのである.

 引退後,憲実がたどった道はあまりはっきりしていないようであるが,実家のある越後国に行ってから京都に立ち寄ったらしい.
 九州に行ったという話もある.
 最終的には宝徳4(1452)年頃,西国の大大名である大内氏と縁がある長門国大寧寺にたどりついて,そのままここに定住し,寛正7(1466)年,56歳で死去した.
 憲実は,本当に関東と絶縁したのである.

 さて,憲実が去った後の鎌倉府であるが,それについてはまた今度に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年11月26日 (水)
青文字:加筆改修部分

 関東管領は上杉憲忠ということで決着したが,肝心の鎌倉公方はどうなったのであろうか?

 新鎌倉公方は,前公方持氏の遺児・永寿王(万寿王の説もある)に決定した.
 永享の乱の後,信濃国の大井持光に養われていたという.

 足利永寿王の公方就任を支持したのは,越後守護上杉房定や上杉氏家臣団,京都においては畠山氏とされている.
 永寿王は文安6(1449)年に元服し,将軍になったばかりの足利義成(後の義政)から「成」の字を拝領して,「成氏」と名乗った.
 そして,過去の公方の先例どおり左馬頭に任官し,次いで左兵衛督に昇進した.

 ちなみに,足利成氏の生年や,正式に鎌倉公方に就任した時期は,諸説あってはっきりしない.
 一般的には,時代が新しくなるほど史料が増えて,判明する事実は増えていくものであるが,鎌倉府のように衰退したために,かえって新しい年代の方が謎が多くなる事例も,けっこう存在するのである.

 それはともかく,こうして鎌倉府は再興されたが,新公方成氏の権限は著しく制限され,京都幕府が関東管領上杉氏を介して東国支配を行う体制となっていた.
 京都の将軍に匹敵する権限を行使して,半ば独立国のようになっていた持氏期までの鎌倉府は,どこにも存在しなかったのである.

 このような状況に,成氏が満足するわけがない.
 また,成氏にしてみれば,関東管領上杉憲忠は,父持氏を殺した上杉憲実の息子であり,親の仇であった.
 なので,その意味でも公方と管領の仲がいいはずはなかった.

 宝徳2(1450)年,成氏は鎌倉を脱出して江ノ島に移り,上杉軍と交戦した(江ノ島合戦).

 京都幕府の管領畠山持国は書状を出して,上杉憲実を召喚して成氏を鎌倉に返すように相談せよと,成氏の近臣に命じている.
 幕府は,この期に及んでもまだ憲実に頼ろうとしていたのである.

 しかし前回述べたとおり,憲実はとっくに政界を引退しており,このときどこにいたのかすらわからない状態であった.
 結局このときは,憲実の弟重方が調停を行って,年内には成氏は鎌倉へ戻った.

 しかし,この和睦は問題を先送りにしたに過ぎなかった.
 享徳3(1454)年,公方成氏は,管領憲忠を鎌倉西御門第で謀殺した.
 享徳の乱の勃発であるが,続きはまた次回に・・・.

「はむはむの煩悩」,2008年12月13日 (土)
青文字:加筆改修部分

 享徳3(1454)年,関東管領上杉憲忠が鎌倉公方成氏に暗殺されたとき,前管領で父の憲実は,長門国の大寧寺に滞在していた.

 いくら世を捨て鎌倉から遠く離れた地にいたとしても,さすがにこの情報は憲実のもとにもたらされたはずであるが,彼がこの事件についてどう思ったかは残されていない.
 自分の命令を破って俗界に戻ったために,義絶した息子のことなど何とも思わなかったのか,それとも義絶したとは言え,やはり実の息子であるから深い悲しみを覚えたのであろうか?

 それはともかく,成氏が憲忠を暗殺したことにより,公方と上杉氏の関係は完全に決裂した.
 翌享徳4(1455)年の正月,相模国島河原で,公方成氏軍と山内上杉氏・扇谷上杉持朝連合軍との間で合戦が始まった.
 山内上杉氏は,憲忠の弟・房顕が関東管領となり,公方に対抗した.
 また,京都幕府も成氏追討のために軍勢を派遣した.

 成氏は,同年2月に武蔵国村岡に在陣し,3月に下総国古河へ移った.
 これ以降,公方が鎌倉へ戻ることは2度となかった.
 なので,古河に移ってからの公方は,「古河公方」と呼ばれるのである.

 6月には,幕府軍が鎌倉を占領した.
 このとき,公方の御所をはじめとして,神社仏閣がほとんど焼失し,鎌倉は荒れ果てた.

 康正2(1456)年,成氏は,京都幕府に憲忠殺害について弁明書を提出している.
 それ以降も何度か成氏は弁明書を送ったらしいが,幕府はこれをことごとく無視した.

 成氏を公方として認めない京都幕府は,寛正3(1457)年,将軍義政の庶兄を還俗させて,新しい公方とすることにした.
 これが足利政知である.
 政知は,長禄2(1458)年に関東に下向するが,鎌倉は今川氏が制圧し,相模国は上杉氏が抑えていた.
 上杉氏も山内と扇谷の対立が激しくなり,諸勢力が対立・競合して,政知は鎌倉に入ることができず,伊豆国堀越で足止めをくった.
 なので,政知を「堀越公方」と呼ぶ.
 名実ともに,鎌倉府と鎌倉公方はここに滅亡したのである.

 東国の戦乱は長期化し,泥沼化していった.
 この戦乱を「享徳の乱」と言うが,西国に先駆けて,東国は戦国時代に突入したとする見方が有力である.
 古河公方成氏は,父持氏が永享改元を無視して正長年号を使い続けたのと同様に,京都の改元を無視して享徳年号を使用し続けた.
 それは,実に享徳27年まで続いた.
 この間,京都では,康正・長禄・寛正・文正・応仁・文明と年号が変わり続けた.

 成氏自身は,京都との和睦を強く求めたらしい.
 基本的に,鎌倉公方が京都を挑発するが,先に詫びを入れて和平をはかるのは,必ず鎌倉公方である.
 この構図は,成氏になっても変わらなかったのである.

 応仁2(1468)年にも,成氏は京都に和睦を申し入れている.
 しかし,このときは京都でも応仁・文明の大乱が勃発し,将軍義政は東軍,管領斯波義廉は西軍と,将軍と管領は分断されていた.
 とても成氏どころではなく,成氏は西軍の諸将から適当にあしらわれ,表面的な和睦で終わった(※).

 関東と京都が正式に和睦したのは,ようやく文明15(1483)年になってからである(都鄙和睦).
 古河公方成氏は一応関東9ヵ国の支配を認められ,堀越公方政知には伊豆国と料所が与えられた.
 しかし,長期間にわたる戦乱のために,関東足利氏の勢力は非常に衰え,かつての力を取り戻すことはできなかった.

 成氏は,明応6(1497)年に死去した.
 64歳であったという.
 皮肉なことに,前の4代の鎌倉公方よりも長命であった.
 成氏の後,古河公方は政氏―高基―晴氏―義氏と続くが,やがて小田原北条氏が台頭し,戦国の騒乱に翻弄されてさらに衰退が続き,天正10(1582)年,義氏が死去して消滅した.

 鎌倉は荒廃し,大仏の腹では昼間から博打をする不届き者がいた.
 公方の御所も消滅し,「御所之内」という地名が残るだけとなった.

 鎌倉が復興するのは,成氏が鎌倉を離れて実に半世紀後,北条早雲が鎌倉入りしてからである.

※桜井英治「応仁二年の「都鄙和睦」交渉について」(『日本史研究』555,2008年)

「はむはむの煩悩」,2008年12月15日 (月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 管領・関東管領の役割は?

 【回答】
 このブログの歴史関連のエントリーは,実は基本的にだいたいmixiに書いた日記を再掲したものである.

 まずそこで下書きのような感じで書いて,マイミクの方々にご意見やご感想をいただき,誤りなどを訂正して,加筆修正の上,ブログに再掲する.ここ最近は,ずっとそういうやり方で運営している.

 いつもご意見や知識をご教示くださるマイミクの中に,私と同業の日本中世史の研究者である,御座候さんという方がいらっしゃる.

 その方もご自分のmixi日記に歴史の記事を書いておられるのであるが,一般の方にも非常にわかりやすく,おもしろいと思われる記事があったので,今日はご本人のご許可をいただいて,それを全文ここに掲載させていただこうと思う.

 御座さん,ご快諾いただき,どうもありがとうございます.

〜〜〜引用開始〜〜〜

南北朝〜室町時代,関八州+伊豆・甲斐を支配した広域行政機関,
鎌倉府.
そのトップは鎌倉公方足利氏であり,補佐役=ナンバー2は関東管領上杉氏でした.

上杉氏は藤原北家勧修寺流藤原氏の流れで,実務官僚として朝廷に仕える貴族でした.鎌倉幕府6代将軍として京都から宗尊親王が迎えられた時,親王に従って鎌倉に下向したのが,上杉氏の祖,藤原重房です.その子頼重の女清子が足利貞氏に嫁して,足利尊氏・直義を生んだことで,足利氏と密接な関係を持つようになりました.
 
上杉頼重には,重顕・顕成・憲房らの子がいて,特に憲房は元弘の乱から南北朝の動乱にかけて足利氏を助けました.

憲房の子,憲顕が鎌倉公方足利基氏の補佐役として,初代の関東管領になって以来,関東管領は代々上杉氏が就任することになりました.


 この上杉氏,政治はもちろん,戦争もなかなか上手という,非常に有能な一族なのですが,お公家さん出身からか,結構繊細.
 歴代の関東管領の多くは,
 激務と精神的重圧に苦しめられています.根が真面目なのが災いしてか,明らかに寿命を縮めています.

上杉朝房(犬懸)
 上杉憲房の孫.
 応安元年に平一揆の乱を鎮圧するが,多くの人を殺してしまったことを思い悩む.
 同3年,突如,関東管領を辞任し,上洛.以後の消息不明.

上杉能憲(山内)
 上杉憲顕の子.
 晩年は報恩寺建立に心血を注ぐ.
 永和2年,病を理由に関東管領を辞任するが,鎌倉公方足利氏満の再三の要請により復帰.
 同4年に病没.46歳.

上杉憲春(山内)
 上杉憲顕の子,能憲の弟.
 康暦元年,康暦の政変に際して,室町将軍足利義満と鎌倉公方足利氏満との板挟みになり,自害.

上杉憲方(山内)
 上杉憲顕の子,能憲・憲春の弟.
 永徳2年正月,小山義政を許そうとする室町将軍足利義満と義政討伐に固執する鎌倉公方足利氏満との板挟みになり,関東管領を辞任.
 義政誅殺後の同年6月に復帰.
 明徳3年,病により関東管領を辞任.
 応永元年,病没.60歳.

上杉憲孝(山内)
 上杉憲方の子.
 父の後を継ぎ関東管領に就任.
 翌々年の応永元年,病により関東管領を辞任.
 応永3年,病没.26歳.(過労死?)

上杉朝宗(犬懸)
 上杉朝房の弟.応永2年就任,応永12年辞任.

上杉憲定(山内)
 足利満隆と上杉氏憲の陰謀により応永18年失脚,翌年病没.38歳.
(精神的ショックによる衰弱死?)

上杉氏憲(犬懸)
 上杉朝宗の子.法名禅秀.
 鎌倉公方足利持氏と対立し応永22年に関東管領辞任.
 同23年に謀叛を起こし鎌倉を占領するも,幕府軍の追討を受け敗退.
 同24年に自害(上杉禅秀の乱).

上杉憲基(山内)
 上杉憲定の子.
 上杉禅秀の乱を鎮圧するも,直後に関東管領を辞任して伊豆国三島に隠遁.
 翌年病没.27歳.(過労死?)

上杉憲実(山内)
 上杉憲基の養子.鎌倉公方足利持氏を再三諫めるも,かえって討伐の兵を差し向けられ,永享10年,鎌倉を退去し上野に下向.幕府軍と協力して持氏方を破る(永享の乱).
 憲実は将軍足利義教に対して持氏の助命嘆願を行うが,聞きいれられず,翌11年,持氏を自害に追い込む.
 良心の呵責に苛まれた憲実は関東管領を辞任し,家督を弟の清方に譲って出家,伊豆の国清寺に隠棲する.
 翌12年,持氏遺児を擁して結城氏朝らが挙兵すると,幕府の要請に従って俗界に復帰し,反乱軍を鎮圧する(結城合戦).
 結城合戦後は再び隠居を幕府に請願し,次男竜春(房顕)に京都奉公をさせ,他の子息は全て出家させ,鎌倉府の政治に関わらせないようにした.所領も佐竹実定に譲ろうとした.
 幕府は綸旨を発給してでも憲実を慰留しようとしたが,それが不可能と知ると,憲実の息子である竜忠を還俗させ(憲忠),関東管領に任命した.これに激怒した憲実は憲忠を義絶した.
 自身は諸国放浪の旅に出て,10年以上の遍歴の末,長門国で死没した.享年57歳.

 上杉禅秀は別として(笑),彼らは権謀術数の世界を生きていくには,あまりにも誠実で律儀すぎたのでした……

〜〜〜引用終了〜〜〜

 これまで私はたびたび,管領や関東管領を,それぞれ将軍や鎌倉公方の「補佐役」と説明してきた.

 それは確かに間違っていないし,御座さんもそのようにご説明されているのであるが,管領・関東管領にはもう一つ,
「将軍や公方権力の暴走を抑制する」
という重要な役割があったことも見落としてはならない.

 足利氏というのは,代々基本的に暴君である.

 だから京都の幕府でも,将軍と管領はしばしば衝突し,管領辞任に発展しているのであるが,鎌倉の方は京都以上に公方と管領の不協和音が大きかったようである.

 これは,鎌倉公方が京都の将軍に対してたびたび対抗の意志を示したので,関東管領が彼らの暴走を抑えようとした結果の反映であるのだが,それにしても管領というのは本当に大変な立場だったと思う.

「はむはむの煩悩」,2007年4月22日 (日)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 その意味では,関東から公方様を北条氏が絶滅した後の長尾景虎(上杉謙信)が関東管領になった頃は随分楽になってたんでしょうね.

 【回答】
 享徳の乱以降は,関東管領は鎌倉公方を補佐しなくなりますからね.
 公方の暴走を食い止めるという意味での苦労はなくなると思います.

 ただ,上杉氏自体が山内・扇谷で対立しますし,後北条氏も台頭してくるし,彼ら自身の補佐役であった長尾氏と対立を深めますから,苦労の中身は変わっても,大変だったでしょうね.

「はむはむの煩悩」,2007年4月23日 (月) 00:40
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 和泉守護補任の沿革は?

 【回答】
 南北朝期の守護というのは,基本的に徹底的な実力主義である.

 南朝軍に敗北すると,即罷免されるし,幕府内部の権力抗争によっても頻繁に改替される.
 だいたいの国において,守護が特定の家に固定化し,世襲化するのは南北朝後期である.

 中でも和泉国は,南朝の本拠地のすぐ近くに存在し,楠木氏の本拠河内国を隣に控え,対南朝最前線地帯にあたり,しかも当時の大貿易都市堺を有していたので,多くの武将がこの地の守護を狙っていた.
 従って争奪戦も非常に激しく,世襲化は遅れに遅れ,細川氏に世襲化したのはようやく4代将軍義持の頃であり,しかも変則的な統治体制を取ったのである.

 和泉守護職については,今までもたびたび触れてきたが,今日は改めて和泉守護の補任状況を簡単に紹介したい.
 そうすることで,この時代の具体的な状況が改めてわかってくると思う.

1 畠山国清:建武3(1336)〜建武4(1337)

2 細川顕氏:建武4(1337)〜貞和3(1347)

3 高師泰:貞和3(1347)〜貞和5(1349)

 直義派の武将細川顕氏が,南朝の楠木正行軍に河内・摂津で敗北したことをうけて,尊氏派の高師泰に交替したものである.

4 畠山国清:貞和5(1349)〜観応2(1351)

 貞和5(1349)年8月の師直クーデタを断行するために,大軍を率いて上洛した師泰に代わって任命されたものと見られている.

5 細川顕氏:観応2(1351)〜文和1(1352)

 観応2(1351)年8月,直義の北陸没落に畠山国清が同行したことをうけて,尊氏派に寝返った顕氏を再登用したものである.

6 細川業氏:文和1(1352)〜延文4(1359)

 顕氏の死去に伴って,子の業氏が相続したと考えられている.

7 畠山国清:延文4(1359)〜延文5(1360)

 関東執事畠山国清が上洛し,京都幕府軍と南朝追討戦を遂行するにあたっての措置と考えられている.

「はむはむの煩悩」,2008年3月31日 (月)
青文字:加筆改修部分

8 細川業氏:延文5(1360)

 国清が紀伊守護に転じたのに伴って,業氏が再任命されたものである.
 しかし,仁木義長追放事件を契機とする南朝軍蜂起によって,業氏は和泉の守備を放棄して退却した.

 ここに和泉と摂津の一部が完全に南朝の支配下に入り,後村上天皇は摂津の住吉社に行宮を移した.
 そのため,以降数年間は和泉守護に関する史料がまったくなくなる.

9 楠木正儀:応安2(1369)〜永和4(1378)

 南朝の重鎮であった楠木正儀が,幕府方に寝返ったことに伴い,正儀がそれまで実効支配していた和泉・河内・摂津の一部等の支配をそのまま承認し,併せてこれらの国々の守護に任命した措置である.

10 山名氏清:永和4(1378)〜明徳2(1391)

 永和4(1378)年11月,南朝方で楠木氏の一族で正儀の部下であった橋本正督が紀伊で挙兵し,紀伊守護細川業秀が敗北して淡路に逃走したことに伴う軍事的措置である.

11 大内義弘:明徳3(1392)〜応永6(1399)

 明徳の乱で,山名氏清をはじめとする山名一族が打倒されたことにより,氏清討伐に大功を挙げた大内義弘に恩賞として与えられたものである.

12 仁木義員:応永7(1400)〜応永10(1403)

 応永の乱で大内義弘が討伐されたことをうけ,仁木義員に交替したものである.

13 奥御賀丸:応永14(1407)〜応永15(1408)

 奥御賀丸とは義満に寵愛された寵童である.
 彼と彼の和泉守護補任については,御座候さんがお書きになられた文章を転載させていただいた,こちらのエントリーに詳しい.

「はむはむの煩悩」,2008年4月 3日 (木)
青文字:加筆改修部分

15 細川頼長(上守護)・細川基之(下守護) :応永15(1408)年〜

 応永15(1408)年,義満が死去する.後を継いだ将軍義持は父と不和であったので,義満が行った政策を相当改変した.父の寵童であった奥御賀丸の和泉守護を罷免したのもその一環であった.

 後任の和泉守護となったのは,細川頼長と細川基之の2人であった.

 細川頼長は,細川頼之の弟頼有の子である.
 細川基之は,頼之の弟満之の子で,頼之の養子となった人物である.
 つまり,2人とも頼之の甥にあたり,従兄弟同士であった.

 この両名は,和泉守護となる前は,備後守護であった.
 備後は頼之の分国の1つであったが,彼の死後頼長と基之に与えられたのである.
 備後西部を頼長,中部・北部を基之が管轄するという体制であった.
 このように1つの国を分割して(だいたい郡毎に分けるケースが多い),複数の守護が統治する体制を,学術用語で「半国守護」とか「分郡守護」と言う.

 しかし応永8(1401)年に備後守護は,大内義弘討伐の恩賞として山名時ひろに交代する.
 備後守護を罷免された頼長と基之は,応永15(1408)年に奥御賀丸が和泉守護を罷免されたのをうけて,後任の同国守護となるのである.

 上述したように,複数名が守護を務めるときは,地域を分割するのが通常なのであるが,彼らの場合は地域を分割せず,原則として2人で共同で守護権力を行使した.

 南北朝期,守護が不在であったり,存在したとしても勢力が弱かったりした場合には,国内の有力武士2名が幕府の命令を執行するケースがあったが(両使遵行),それに似た統治形態で,非常に特殊であったと言えよう.

 このような特異な体制となった理由としては,大都市堺を控える和泉で,1人に守護をさせると権力が増大しすぎるからと説明されている.

 頼長は上守護,基之は下守護と呼ばれ,以降は彼らの子孫が代々和泉守護職を世襲して戦国期に至った.

 下守護家は滅亡するが,織豊期に上守護家から細川藤孝が出現し,肥後熊本藩主細川家へとつながるのである.

「はむはむの煩悩」,2008年4月 5日 (土)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 室町時代の左遷的官職は?

 【回答】
 大宰府は,中国や朝鮮といった外国との直接交渉窓口であり,国土防衛の最前線でもあり,重要な組織であるわけですけど,一方では大宰権帥は左遷の職でもあるんですね.

 そう言えば,六波羅探題も,鎌倉幕府の西国統治機関で,一応は北条氏の出世コースだったわけですが,一方では「アウェー」である西国で困難な判断を任されることが多く,「左遷」とまではいきませんでしたが,北条一門の多くが探題に就任することを忌避したがっていたそうです.

「はむはむの煩悩」,2007年5月21日 (月) 18:20
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 所領安堵の実相は?

 【回答】
 所領安堵とは,言うまでもなく,幕府や大名が,武士の所領を承認し,知行を保障する行為である.
 所領安堵がなされることによって,武士がその権力の構成員であることが確認され,主従関係が構成されるのである.

 このように一見きわめてシンプルな行為に見えるのであるが,細かく検討してみると,所領安堵もいろいろとややこしくて複雑な問題を抱えているのである.

 安堵の手続がもっとも整備され,複雑化したのは,だいたい鎌倉後期から南北朝初期にかけての時期である.

 安堵の基準は,大きく分けて2つある.
 先祖代々その所領を所有してきた事実を譲状などの証文によって証明する「相伝の由緒」と,現実に今現在,その所領を実効支配している事実,すなわち当知行である.
 原則として,相伝の由緒と当知行の事実の両方が証明されれば,幕府からその所領を安堵されるのである.

 もうちょっと具体的に説明してみると,以下のとおりである.
 まず,幕府から安堵を拝領しようと思っている武士は,安堵を要求する申状を作成し,譲状などの証文を副えて幕府の安堵方という安堵を行う機関に提出する.

 安堵方では,これらの書類を審査して問題がないと認定すれば,安堵方の頭人の奉書でもって,所領の存在する国の守護と最寄りの国人に充てて,当知行しているかどうか,その所領に対して異論を唱える者(当時の用語で「支え申す仁」と言う)が存在しないか否かを尋問する命令を発する.

 で,問題がないとする守護や国人の返答(請文)をもって,晴れて安堵の承認となるのである.
 ※南北朝中期以降,国人に対する尋問は省略され,守護の保証のみとなる.

 その文書は,鎌倉幕府では将軍家政所下文あるいは執権・連署の関東下知状(一時期,惣領←将軍,庶子←関東下知状という管轄が存在した),初期室町幕府では足利直義の下文をもってなされた.

 このように,相伝の由緒と当知行の事実が証明されれば,特に問題はない.

 しかし,どちらか一方に問題があって欠けたときは,非常にややこしい問題となる.

 草創期とか,戦争に敗北したりして幕府の力が衰えたときは,当知行が優先されるようである.
 武士の当面の支持を得るために,とりあえず所領をまったく調べないで,申請に任せてひたすら安堵する.ひどいときには,具体的な所領名をまったく記さない例も多い.

 また,室町幕府の場合,後年代になればなるほど,当知行を重視し,優先するようになったようである.
 とりあえず,その所領を実効支配しているというだけで,安堵を拝領するのに非常に有利に働いたようである.

 では逆に,当知行ではなかった場合はどうなるのであろうか?
 異議を申し立てる者(「支え申す仁」)が出現した場合,案件は引付方に移管され,通常の不動産訴訟として扱われ,最終的には裁許下知状をもって判決が下された.

 それ以外にも,不知行であっても,何らかの事情で安堵が下されることもあった.

 例えば,南朝方の武士が,幕府方に投降して帰参したときに,降参人の所領の3分の1もしくは半分を安堵するという「降参人半分の法」という慣習法によってなされる安堵は,少なくとも建前上はその所領は幕府によって没収され,幕府方の武士に与えられていた所領なので,不知行地の安堵ということになる.

 また,譲状による譲与安堵も,親から子へ譲与される所領は,すべてが当知行というわけではなく,他人に押領されている所領が存在する場合もあるので,その所領については不知行安堵である.

 このように,安堵には大別して,当知行安堵と不知行安堵が存在するのである.

 不知行安堵は,特に降参人に対するものは,実態として,事実上の恩賞であったので,南北朝初期には直義だけではなく,尊氏が行ったものも多い.
 ここにも,尊氏と直義の権限が競合し,両者の対立が発生する要因が存在したのである.

 安堵が下された後の手続も,当知行と不知行では異なっていた.

 当知行安堵では,下文だけで手続が終了するのに対して,不知行安堵では,尊氏の恩賞充行と同様に,執事や内談頭人の施行状が発給されて,守護の強制執行(遵行)が行われる場合もあった.

 義満期には,当知行の安堵に対しても施行状が出されるようになったが,本来不知行地を当知行化する施行状を,すでに当知行されている所領に出すことは原理的に無理があったようで,早くも義持期には廃止されている.

 相伝の由緒と当知行の事実,これが安堵の基準であると言ったが,特に内乱期には,これに加えて軍忠も考慮されたようである.
 まあ,それはそうだよな.合戦に参加せずに,幕府に軍事的に何も貢献していないのに,安堵だけ要求するなんて虫のいい話が通用するわけがない.
 特に,南朝方のくせにしれっとした顔で安堵や裁許を求める輩も存在したようなので,潜在的に安堵に対しても,恩賞と同様軍忠が考慮されたのは理解できるであろう.

 また,安堵がなされるタイミングも大きな問題である.
 何も理由がないのに安堵を申請する行為は,邪な意図を持っているのではないかとかえって忌避された.

 安堵のタイミングには,将軍が代替わりしたときに行われる安堵と,被安堵者が親子や兄弟で所領を譲与したときに行われる譲与の安堵が存在した.

 で,代替わり安堵は,鎌倉中期まで見られるが,その後はもっぱら譲与安堵だけとなる.

 ほかにも買得安堵というものがあったりと,本当にこの問題は複雑でややこしい・・・.

「はむはむの煩悩」,2007年7月 3日 (火)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 奉行人とは?

 【回答】
 古今東西いかなる政権にも,必ず官僚組織や機構が存在する.

 室町幕府の官僚は,奉行人と言った.

 古代以来の中国や現代の日本では,官僚は登用試験を経て採用されるものであるが,日本中世の官僚・奉行人は,飯尾・布施・松田など代々奉行人を務める家柄が存在し,そこの子弟が就任した.

 その起源は,鎌倉幕府の六波羅探題の奉行人に由来する.
 六波羅が滅亡しても,建武政権→室町幕府と引き続き奉行人に登用されて,家系が継承されたのである.
 この点では,この3つの政権は,決して断絶しているのではなく連続した権力である.

 既に鎌倉時代から奉行人は相当な発言力を有していたが,室町幕府においては後期になればなるほど奉行人の権限や政治的な地位は拡大・向上していった.

 奉行人が将軍の意志を奉じて発給する文書を奉行人(連署)奉書と言う.
 南北朝期にはその残存数は非常に少ないが,後期になるほど飛躍的に増大していき,御判御教書や管領奉書が消滅した応仁の乱以降においては,将軍の発給する御内書を除けば,ほぼ唯一の幕府発給文書となる.

 その命令内容も,南北朝期は訴訟当事者に対する幕府法廷への出頭命令がほとんどで,室町前期には守護に対する段銭の催促停止命令が大半で,応仁以前はその用途は限定的であった.

 しかし,応仁の乱以降はありとあらゆる多種多彩な内容を命じるようになり,中には相論の裁許や恩賞充行まで命じたものもある.

 初代将軍足利尊氏の頃から,将軍だけが行使し,ほかの誰にも行わせなかった恩賞充行を,将軍の仰せを奉じる形とは言え,奉行人が命じるようになるのである.
 非常に重大な変化だと私は思う.

 奉行人奉書を網羅的に集めた史料集がもう刊行されているにもかかわらず,奉行人奉書の研究はあまり進展しているとは言えない状況にある.

 一つには,あまりにも残存数が多すぎて,命令内容も広範にわたっており,研究が困難であることが関係していると思う.
 史料はなさすぎたらもちろん研究が大変であるが,逆に多すぎてもかえって難しくなるものなのである.

 もう一つは,後期の室町幕府の政治史や権力構造があまりにも複雑で難解すぎて,文書となかなか関連させづらいことがあると思う.

 戦国期の幕府では,将軍権力は分裂するし,細川氏等の諸勢力も台頭し,誰が奉行人に奉書の発給を命じたか,専門家さえも容易に判断できないものが多いのである.

 しかし,逆に言えばこれから大いに研究を進展させる余地がある文書と言えるので,私も今後注目していこうと考えている.

「はむはむの煩悩」,2007年8月 5日 (日)
青文字:加筆改修部分


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