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◆◆◆総記
「朝目新聞」●ナチスの隠し財宝?ドイツ政府がチェコ国境近くで大量の埋蔵貴金属を発掘中 (of ドロネコイア)
【質問】
ワイマール共和国は共和制なのに,なぜDeutsches
Reich と名乗っているのか?
【回答】
Reichは「帝国」という意味だけでなく,単に「国」をも意味するのではなかったでしょうか.
皇帝を戴く国ではないヴァイマル共和国の軍隊はReichs
Wehrだし.
Deutsches Reich(ドイツ国)は1871年から1945年までのドイツ語の国名であり,帝政ドイツ,ワイマール共和国,ナチス・ドイツの三つの時代に区分されます.
ですから上述のとおり,Reichは必ずしも君主国を指すものではありません.
ソースはウィキペディア「ドイツ国」ですが,英語版,ドイツ語版もそうなっているので間違いはないでしょう.
【質問】
ドイツにおける鉄十字の変遷を教えてください.
日本語版ウィキペディアを見ると,現代ドイツは鉄十字とも縁を切ったようですが.
【回答】
それは鉄十字を黒十字と混同していると思われます.
鉄十字はプロイセン王国以来,ナチス・ドイツ時代も通して軍隊のシンボルとしての使用が続いているのに対して,国籍標識としての黒十字は1918年に航空機に初めて使用された後,第二次世界大戦で航空機・戦車・車両に幅広く用いられたものの,戦後は廃れた,ということになっているみたいです.
ソースは英語版Wikipedia「Iron Cross」.
実は「黒十字は1918年に航空機に初めて使用された」というのは「Iron
Cross」ではソースが付いていないのですが,ただ国防軍は黒十字(バルケンクロイツ,直線だけで構成される)で,今の連邦軍では曲線的,末広がりの鉄十字というのは写真なんかでいつも見ているわけで,大丈夫かなあと.
「Luftstreitkräfte」(WWI中のドイツ空軍)の項でも1918年からバルケンクロイツだと書いてありますし.
白地に黒の十字であるドイツの鉄十字意匠は,遡ると中世のTeuton騎士団の騎士団旗に行き着きます.
元々,欧州に於て四角い旗に十字と言う意匠が定着したのは,十字軍の旗から始まって,
1188年のFrance王Philip-August,
England王HenryII,
Flanders伯Philip
が取り決めを結び,旗に表示する十字の色を一定にする事にしたのが最初と言われています.
Franceは白地に赤十字,
Englandは赤地に白十字,
Flandersは白地に緑十字
として制定され,
1277年にEnglandが旗の地色と十字模様の色を逆転させて白地に赤十字となり,
Franceは1375年に逆に赤地に白十字になり,更に青地に白十字に変更されています.
時代は下って,1867年に北ドイツ連邦がPrussia主導の下に作られますが,この時にBismarckが制定したのが,1848〜51年にPrussiaの海運大臣が推し進めた国旗案にあった赤・白・黒の横三色旗で,国民に対しては赤と白はHanza諸都市,黒と白がPrussiaを指すと説明され,国王Wilhelmに対しては,黒と白はPrussiaを,赤と白がBrandenburgを指すと説明して,なし崩し的に国旗にされました.
その海軍旗は,黒・白・赤を旗の右上にカントンとして表示し,白地に黒線と白線で縁取りされた黒十字の中央にPrussiaの鷲が描かれたものとなりました.
白地に黒十字は,Teuton騎士団の象徴から拝借し,且つ,陸軍の兵士や海軍の水兵達の軍功章の代表的な紋章である鉄十字を組み合わせた物です.
これは1872年のドイツ帝国成立後もそのまま用いられ,第一次大戦が終わるまで使用されました.
20世紀に入ると航空機が登場します.
陸軍には1910年に,海軍には1912年に航空機が配備されました.
1912年,陸海軍機には,自国を表す標章を付けねば識別が付きませんから,当初は翼に黒い帯状の線を引いて識別していました.
1914年9月28日から陸軍の機体には,俗に言う黒のMalta十字が,胴体,垂直尾翼,主翼上下に付きました.
一方,海軍の機体には,方向舵と主翼に,海軍旗と同じ真っ直ぐの黒十字の意匠が塗装され,これは1915年まで使用されています.
1915年に陸海軍機とも,黒のMalta十字に意匠統一され,一時的に真っ直ぐな黒十字は姿を消します.
1918年4月18日になると塗装の簡素化から,曲線のあるMalta十字は中止となり,真っ直ぐな所謂Balkan十字に変更されます.
但しBavaria王国所属機については,胴体に白縁付き黒十字を描き,方向舵は全面黒となっていました.
第一次大戦でドイツが敗北し,航空機の保有は禁じられることになります.
また帝政も崩壊した為,その国旗も黒・白・赤の横三色旗から現在と同じ,黒・赤・金の横三色旗が1866年以来復活します.
勢い,Balkan十字は消滅しますが,1933年にHitlerが政権を獲ると復活します.
但し,1933〜36年までは垂直尾翼には鉤十字ではなく,Hindenburgに配慮してHitlerが復活させた黒・白・赤の横三色旗の旧国旗が使用されていました.
赤地に白丸鉤十字の国家社会主義労働党旗は,並行して国旗として用いられた形です.
1935年に国家社会主義労働党旗が国旗に採用されると,再軍備した空軍の機体には,Malta十字に加え,垂直尾翼に今までの黒・白・赤の旧国旗に変わって,鉤十字旗が描かれる様になります.
赤地が目立ちすぎると言うので,それが本格的に消されたのが1940年以降で,以後1945年まで,Variation色々なBalkan十字が使用される事となります.
大戦が済んで,再び敗れたドイツは4カ国+αの占領下に置かれることになりますが,航空兵力が復活したのは,1950年にソ連占領地区に於て,人民警察航空隊が作られてからです.
この時は,未だ公式には占領下ですので,旗の公式掲揚は禁じられ,1949年に漸く,Weimar時代と同じく,国旗の意匠は東西とも黒・赤・金の横三色旗に戻ります.
因みに,1945〜49年の民用船舶意匠旗は万国船舶信号書のC旗の末端部に三角の切り込みを付けた青・白・赤・白・青の横線旗が使用されています.
また,Franceの支配下に置かれたSaar地方については,旗竿側から青と赤の縦二色旗に白十字が描かれたFrance国旗に似た旗が1956年まで使用されていました.
余談は兎も角,警察航空隊の飛行機には,黒・赤・金が三色分かれて菱形の中に描かれていました.
その後,1955年以降,ソ連占領地区と米英仏其の他占領地区に分かれてドイツは独立しますが,ドイツ民主共和国の空軍には,人民警察航空隊と同じ意匠が描かれます.
しかし,同じ国旗だと見分けが付かない為,民主共和国側は連邦共和国の抗議を押し切って,1959年に中央に国章が描く様になりました.
ディバイダーと麦と槌の例の物で,これが空軍標章にも適用されます.
一方,ドイツ連邦共和国のそれは,1955年に制定されますが,1918年初頭以来のMalta十字を採用し,方向舵に国旗を描いていました.
飛行機というのは船舶から色々取り入れた部分が多かったりします.
Germanyの航空機徽章と言うのも,最初は海軍旗から取り入れた訳で,実際に直線の黒十字が使われたのは,1912年以降になったりする訳です.
【参考文献】
1967年刊のAircraft Markings of the World
1912-1967(英国Harleyford刊/Bruce Robertson)
1998年刊のMiritary Aircraft Insignia of
the World(米国Naval Institute Press刊/John
Cochrane&Stuart Elliott著)
後者はAnnapolisにあるので,米海軍関係の出版局か何かか,と.
Teuton騎士団の騎士団旗とドイツ国旗の話は,『世界旗章図鑑』(ホイットニー・スミス他著,平凡社,1977.6)を参照しました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月15日22:15
【質問】
ドイツ軍と聞くと逆卍と鉄十字が思い浮かぶのですが,この二つ,どう意味が違うのですか?
【回答】
鉄十字=ドイツの国籍標識
鍵十字=ドイツ社会主義労働者党の標識.
逆まんじ(卍)のマークは「ハーケンクロイツ(鉤十字)」と呼び,ナチス(国家社会主義労働党)のシンボルマーク.
源はサンスクリットの「スヴァステカ」という吉祥の印.
「鉄十字(アイゼンクロイツ)」は「バルカンクロイツ」と並んで使われるドイツの国家標識で,ドイツ国家のシンボル.
源はプロイセン王国の紋章で,さらに源を辿ると中世ドイツ騎士団の掲げていた紋章.
余談だが,卍はペンタグラム(☆)やヘクサグラム(イスラエルのダビデの星)と並ぶ人類最古のシンボルの一つで,幸運や神秘的な力をあらわしている.
古くからヨーロッパの貴族や教会などが家紋などに用いていたが,ナチが使ったために邪悪な意味がついてしまった.
たとえばフィンランド空軍は青い鉤十字を国家記章としていたが,これは空軍の育ての親であるスウェーデンのローゼン家の幸運のシンボルを採用したもので,ナチとは無関係.
アメリカのある州兵師団もかつて,地元先住民のシンボルであるオレンジに赤い鉤十字のマークを師団記章に用いていたが,開戦直前に別なものに替えている.
フィンランド空軍の旧マーク(ハカリスティと呼ばれる)

軍事板
Finlandの他に,Latviaも軍の機体の国籍表記にスワスチカを用いていました.
こちらは,Finlandと違って深紅の卍です.
但し,海軍が唯一保有していた Fairy Seal水上偵察機は,黒い逆さ卍になっていました(時期によって深紅だったり).
1941〜44年に復活したLatvia空軍の機体も,尾翼に白い四角地に逆さ卍を描いています.
参考
http://www.nationalflaggen.de/flags-of-the-world/flags/lv%5Eair.html#1918
http://www.insigniamag.com/afs005.html
http://www.insigniamag.com/indan.html
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【質問】
ヴェルサイユ体制時代のドイツ軍のことを「警察軍」と呼ぶ文章を見かけますが,再軍備宣言が行われる前は正式の軍隊ではなく,日本の「警察予備隊」みたいな,軍隊と警察の中間的な存在だったのでしょうか?
【回答】
別に軍隊というものが否定された訳ではありません.
Versailles条約で,兵員10万の陸軍,前弩級艦数隻を含む海軍がきっちり存在しています.それは旧帝政ドイツ軍をそのまま引き継いだものです.
但し,治安出動の装備を優先し,外征的軍隊の装備が許されなかったため,警察軍という邦訳が為されたものであると言うことが出来ます.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
革命直後,国内の軍隊は解体し,在外部隊も復員と同時に雲散霧消し,ゼークト将軍が苦労して国防軍を再建したようなことが書いてあったのですが,ということは,国防軍=警察軍はゼロの状態からスタートした新組織であって,帝国軍とは直接連続していないってことでしょうか?
【回答】
全くのゼロ・スタートではありません.
Versailles条約においては,ドイツ軍の兵力は10万人に制限され,国内治安維持に重点を置いた軍隊として規定されています.
そのため,海外での戦闘は考慮されず,装備や資金に色々制限が加えられています.
同条約において保有が認められたのは,陸軍は歩兵7個師団,3個騎兵師団,総兵力10万人.航空機,戦車その他攻撃的兵器の所有が禁じられています.
海軍は兵員数15,000名で1万トン未満の艦船で構成する小規模艦隊の保有が認められ,潜水艦は保有を禁じられました.
軍需生産は種目毎に特定された総数30ほどの企業に生産が認められ,輸出は禁じられていました.
組織的には,陸軍参謀本部,陸軍大学が解体されました.
この軍隊は,スパルタクス団の一揆(写真右)などの際には,政府の命令で治安維持に出兵していますし,諸外国もこれを認めていますので,軍隊の法的な地位は確立されているはずです.
その軍隊も,紆余曲折がありますが,帝国陸海軍のある程度の戦力を維持して成立していますので,完全なゼロからのスタートではありません.
寧ろ,戦後の西ドイツ,東ドイツの軍の方がゼロからのスタートではないかと思います.
※尤も,軍需生産については海外での生産とか,ソ連での生産,種々の理由(民間向けのほにゃらら)をつけた輸出とか,色々な抜け道があって,20年代前半から再軍備に向けた研究を行っていましたし,その予算についても,陸軍はB会計,海軍はX会計という裏予算で,再軍備に向けて作業を行い,装備の発注を行っています.
また,表向き解体された参謀本部(Generalstab)は,Truppenamtと名称を変えて存続しています.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
Ju-86爆撃機民間型(画像引用元:「模型の火の鳥」)

【質問】
ワイマール時代のドイツでは,再軍備の為の隠し予算があったと聞きましたが,どういったものだったのでしょうか?
【回答】
全体的に軍事費の規模が縮小傾向にありましたが,必要なものを賄わないといけないので,偽装した支出が行われています.
種類的には以下のものです.
1. 予算には合法的に計上されていながら,ノレ基準(Versailles条約に基づいて国際軍事監視委員会が規定した軍備制限)を越える軍備活動に対する支出
2. 予算に正規に計上されていない軍備のための支出
3. 軍備制限規定に違反し,かつ予算上の措置も執られていない軍備活動に対する支出
1920年代初頭の場合は,国防省に対する民間からの献金を財源に基金を設立,また,合法的に取得した予算費目から一部をそう言った基金に組み入れて運用すると言うケースがありました.
1925年以降,陸軍では,正規の歳出額の1割をそうした非合法支出に充てていましたし,1923年のルール闘争に際して,政府が国防軍に提供した,総額1億金マルクの資金から,ルール基金という基金を設け,これと民間からの寄付をを財源に企業に非合法の出資とか融資を行い,補助金を交付しています.
例えば,これらの資金を以て,旧軍需産業で解体・撤去された軍需生産用の設備を買い取り,ロッテルダム,ストックホルムで保管した後,新規に軍需生産に従事する企業にこれらの設備を提供し,資金を得ています.これが,総額7,450万マルクに上りました.
また,1927年に発覚した,海軍の「ローマン事件」では,海軍軍令部海上輸送部の部長だったローマンと言う人物の汚職事件ですが,これは,海軍の秘密軍備資金を運用するために,映画会社の株式を取得し,その映画会社は,国防相,蔵相,海軍軍令部長の債務保証の下に,資金借入を行い,映画の輸入割当についても政府から特別な便宜を図るなどした見返りに,彼の個人秘書に対し,映画会社は彼女に多額の給与と住宅の贈与を行い,映画会社からローマンに対するキックバックは,1000万マルクに上ったと言うもので,こうした資金運用が,陸海軍の裏基金を支えていました.
流石に,こうした偽装工作は政府の危機を招くことになったので,政府,議会,軍部と折衝の結果,1928年以降は以下のように秘密資金の設定が行われるようになります.
1. 秘密再軍備のための資金は,合法的な会計上,陸海軍予算案の諸科目に偽装して計上されます.
また,一部は国防予算以外の政府支出で,「扶助」「一般財政管理」の予算案にも偽装した名目で国防軍支出が計上され,予算成立後,それを組み替えて本来の支出目的に支出されました.
2. 合法的な会計は,陸海軍とも<白>会計と呼ばれ,陸軍の非合法会計は<青>会計,海軍のそれは,<赤>会計と呼ばれていましたが,1928年以後は陸軍の非合法会計をX会計,海軍の非合法会計をB会計と言うようになりました.
なお,陸軍の非合法会計は,「軍備基金」とか「修繕基金」とする場合もあります.
3. 政府支出のうち,「戦後処理負担」の「武装解除・撤退」の支出の一部は,「製造施設基金」として軍需産業に補助金として交付されたり,X会計に繰り入れられたりしています.
4. 航空戦力に関する支出は,X会計,B会計のそれぞれで支出されたほか,政府支出の「運輸省」支出からも民間航空に対する補助金を実際の必要以上に多額に計上するやり方で行われました.
5. 陸軍では,陸軍兵器局が支出の担当となり,予算の集約,現金収支統制と支出統制は,1920年代半ばは参謀本部,その後は国防局が当たっています.
その支出を管理する特別の国庫勘定としては,B勘定が設定され,全ての資金収支を統一的に管理することになっていました.
この支出の内訳ですが,陸軍はたいていの場合,総動員時に急増する軍備に備えて予め建設しておく製造設備資金に多く充てられています.
1928年度のX会計予算は,総額6,910万マルクで,これは正規国防支出項目の実に43.2%に相当しています.
このうち,4,610万マルクはノレ基準に対する違法支出であり,更にその中の2,370万マルクは別の支出項目からの繰り入れ支出でした.
施設建設支出の例を挙げると,既存製造設備を偽装して,歩兵・砲兵用兵器製造の為の機械設備の整備として,ポルテ,ボルジッヒ,リグノーゼに資金を提供しますが,ポルテ以外は非合法企業でした.
火薬の製造能力向上のため,ヴォルフ,リグノーゼ,クリュンメル,ブラウエに対する事業所新設費用を提供しますが,この4社とも非合法企業であり,事業は表向き,各社の自主的なものとされていました.
また,ドイツ硝子白熱光製作所(アゥワー)に対しては,ガスマスク製造施設の拡大が図られますが,名目上,これは,「市民のガス防護の準備」,ティール・ゼーバッハ兄弟社は合法企業として信管製造を行っていましたが,計画による施設拡大と製造能力向上は,動員時の必要を満たすためであったために,この事業は「時計製造施設の拡張」として実行されました.
最後に,毒ガス戦闘用資材の調達は,中間製品は通常取引でしたが,最終生産はソ連領内で行っていました.
ちなみに,国防軍支出に対する非合法支出(対歳出比)は以下の通りです.
1925 1926 1927 1928 1929 1930 1931 1932
陸軍非合法支出額 40 35
50 75.2 59.4 64.9 ? 66.6 (単位100万マルク)
国防費の支出割合 9.1 7.7 10.0 13.8
12.1 13.1 14.6
海軍非合法支出額 6.9 7.7
12.3
対支出比 3.3 4.0 6.8
大蔵省内部では,「海軍は何時も嘘をつく.陸軍は本当のことを言うが,ただ,それは極稀だ」と言われていました.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

【質問】
第2次世界大戦のとき,ドイツはベルサイユ条約による天文学的な借金を抱えてたのに,どうやってポーランドを占領するほどの軍事費を拠出したんですか?
【回答】
まず,賠償額を現実的な金額に減額させることにドイツは成功します.
米国がドーズ賠償協定を成立させ,J.P.モルガンを主力とする2億ドルの借款供与によって,ドイツを金為替本位制に復帰させることで,ドイツ経済は安定し,米国はドイツ金融市場に短期資金を貸し付けます.
これには,フランスも戦債を米国に依っていたので,同意せざるを得なかった訳です.
ところが,1929年の世界大恐慌に端を発した世界的な金融恐慌は,ドイツに於いては,1931年5月初旬にオーストリアのクレディット・アンシュタルトが支払い不能となったのを契機に,6月に多額の信用が海外に逃避して信用危機が発生しました.
その対策として,米国大統領フーヴァーがモラトリアム宣言を出して,政治債務の一年支払い停止が実現します.
だが,ドイツに於いては信用恐慌が激化して金融機関の閉鎖が相次ぎ,英国は平価切り下げと金本位制の停止を行いました.
事此処に至って,賠償履行は不可能であることが,各国によって支持され,1932年6月に賠償の停止を
決定した訳です.
軍事費については,1920年代から既に再軍備のための資金を密かに蓄積していました.
例えば,1923年のルール闘争に際して,政府が国防軍に提供した総額1億マルクの資金に由来するルール基金とか,民間からの寄付金を元に企業に非合法の出資や融資を行い,補助金を交付することなどが行われています.
こういう会計は,陸軍では<青>会計,海軍は<赤>会計と言われており,後に,汚職事件をきっかけに表に出てきましたが,前者をX会計,後者をB会計と改称され,維持されました.
これによって,Weimar期の戦争遂行資金は密かにプールされています.
また,ヒトラー政権移行後,最初はメフォ手形という金融手形を発行して,国防費に充てていました.
しかし,償還額が膨大になり,これが行き詰まってくると,不足分は,納入者国庫証券という6ヶ月満期の割引国庫証券を発行し,現金の代わりに,これで業者への支払いを行います.
ところが,チェコやオーストリアへの出兵の結果,その証券発行額の予測値を大きく上回ってしまい,軍需に偏った生産体系の整備の結果,民生品の供給が不足し,輸入需要の増大,輸出の停滞も招き,金・外貨準備高は枯渇し,ライヒスバンクでは,オーストリア国立銀行の金・外貨準備,外国証券売却などの手法で,ようよう枯渇を免れ,これを機に,大蔵省は国防省会計に制限を加えます.
しかし,軍需発注は止まるところを知らず,冗談抜きで,9月末には国家破産の状況に陥ってしまうところでした.
【質問】
チェコ,ポーランド,フランスなどの直接ドイツに占領された国家の軍隊や資本は,どういう処置を受けたのでしょうか?
例えばドイツ国内では戦線が悪化しても基本的に企業を国家が接収するというような事は行われていませんが,占領地域の税金,国家資産,民間資産などがどう扱われたのか,詳しいサイトや書籍などがあれば御教示頂けないでしょうか?
また,その国の軍隊や兵器,軍需工場などの行方も気になります.
チェコの戦車工場の接収とか,各国のSSの義勇兵などは有名ですが,膨大な規模とは言えませんし,負けたとはいえ大量にあった兵器・弾薬などの有効活用がどれくらいなのだろうかと.
ポーランドやフランスなど,自国開発の戦闘機などもあり,その製造ラインでドイツ機を製造すればもっと生産台数が向上したのではないかと思うし,徴兵も出来れば戦力的には大変助かったと思うのですが・・・・
【回答】
フランス兵は終戦まで捕虜収容所で働かされています
フランス軍の鹵獲(ろかく)兵器はドイツ軍に使用されており,ノルマンディの海岸要塞にルノー戦車の砲塔が流用されたり,パルチザン対策にホチキス戦車が使用されたりしてます.
企業も,ルノー社はドイツの為に軍需生産しており,そのために戦後,酷い目にあっています.
レン・デイトン著『電撃戦』(ハヤカワ文庫)には,1940年のフランス戦役で得たドイツの利得について,以下のように書かれています.
「フランス,ベルギー,オランダにおいて,ドイツ軍はその戦争能力を一変させるに足るほどの軍需資材と工場とを見つけ出した.
ドイツにおいては軍需生産は現に低下していた.
ドイツ陸軍における車両化歩兵部隊と車両化補給部隊の極度の不足を救ってくれたのは(中略)じつはフランスの自動車工業だった.
さらにドイツの燃料備蓄は,10ヶ月間の戦闘によって底をつきそうになっていたが,この戦争機構がさらに2年間働き続けられるくらい補充された」
戦前からの工業国だったチェコの場合は,ドイツによる保護領化後,ドイツのために兵器を生産しています.
接収ではなく,スコダは普通に受注して普通に生産してます.
戦争開始から中盤くらいまで,ドイツ軍の装甲師団のかなりはチェコの38(t)や35(t)戦車でした.
またドイツ軍は鹵獲した占領国の兵器や装甲車,戦車などを使用しています.
珍妙極まりない例でいくと↓でしょうな.非常に大規模かつ有効に活用されてます.
http://www.panzer-modell.de/berichte/t-26_mit_7-5cm_pak/t26.htm
ただし,元が外国製のなので補給や用兵等の問題があり,占領地域で治安維持に当たる部隊が主に使用しました.
さらにルーマニアやブルガリアなど,工業生産力が低い同盟国に鹵獲兵器を供与しています.
さらに,ドイツ陸軍は1942年の段階で定員不足に陥っていたので,工業用人口を召集しました.
その結果,ポーランド,ロシア,フランスなどの捕虜が大々的に労働力として投入されています.
つまり間接的に「人口増加」を行っていたわけです.
そのお陰もあって,ドイツの兵器生産は,1944年1年間だけで1939〜42年に匹敵します.
「1942年3月,ザウケルが労働力調達の最高責任者に任命された後,「募集」方法はますます強権的暴力的になっていった(3).
こうして戦争末期の44年夏,ドイツ国内で「就業」している外国人労働者は約760万人(戦争捕虜193万,外国人(市民)労働者572万)にたっした」
なお,国家による企業接収は,ドイツ本国でも行われていました.
ドイツでは,R企業(Rustungsbetriebe)と呼ばれるものがありました.
これは「戦時におけるその活動を国防軍によって規制され,平時
に於いて既にそれに備える企業」と定義され,主に戦闘用兵器生産企業が指定されています.
また,国防経済に関与する場合は,k企業(Kriegswichtige
Betriebe)やl企業(Lebenswichtige Betriebe)に指定され,いずれも,国防軍経済監督部やライヒ経済省地方支所などの指定,監督の下に設けられています.
更に,国防軍にはそれぞれの軍に,「専用企業」というものがあり,空軍の場合は,Junkers,Aradoなどの航空機製造企業4社,ドイツ航空銀行,航空施設有限会社など合計20社に上っています.
陸軍は,有限会社鉱業資源再利用協会という特殊会社の元に,陸軍専用工業企業(HIB)がその資産管理の
元で操業していました.
これは,1944年11月には111企業に上っていました.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
French tank used by German

フランスから接収したハーフトラック「ユニック・ケグレス」に7.5cm
pak40を搭載した突撃砲
ルノー・トーチカ

+
【質問】
あのチョビ髭野郎には愛想が尽きました.ドイツから出て行くにはどうしたらいいですか?
ルドルフ・ヘス
【回答】
とりあえず,中立国の誰かに成り済ますことが必要です.
スペイン語が出来るのなら中南米の人に,ポルトガル語が出来るのならブラジルの人に,アジア系ならタイとか日系とか中国系とか….
英語とフランス語しか出来ない人はご愁傷様….
で,出て行くルートは,1940年までなら主に4つありました.
一つは北ルート,
何らかの方法でSwedenに出国し,其処から何らかの伝手を頼って新大陸への乗船券を手に入れ,伝手の影響力を駆使して滞在先のビザを発給して貰い,2〜3ヶ月に1度の新大陸行便船(貨物船)に乗れればOKです.
但し,トロンヘイムでドイツ軍の検査が行われます.
そこで疑われてはいけません.
なお,米国行は非常に人気が高く,その乗船券を巡る争いは熾烈ですので,出来れば南米経由の方が良いでしょう.
なお,間違われて撃沈,あるいは触雷で沈没と言うケースが稀にありますので,それに当たったらご愁傷様.
他に,滅多なことでは席が空きませんが,外交官とブリテン島の政府中枢に伝手があれば,航空機でひとっ飛びと言う方法もあります.
これも,Mosquito出現までは危なく,撃墜される場合もある諸刃の剣です.
南なら,Italy経由での出国が可能,但し,1940年夏以降は不可になりますが….
此処で何らかの方法で日本の船を探し出して乗り込むことが出来れば,安全にアジア方面に逃走することが出来ます.
これも,Swissのビザが必要になりますが,度胸を据えていけば,Austria周りでItalyに入国することでクリア出来ます.
勿論,触雷とかの危険はありますがね.
Greeceから便船を得てEgyptに渡ると言う手もありますが,其処に至るには,Magyar,Yugoslavia,Greeceと三カ国のビザが必要になりますので,素人にはお勧めできません.
西ならば,Franceさえクリア出来れば,Spainを経由して其処から便船を見つけて出国するか,更にPortugalに渡って其処から出国と言うことが出来ます.
このルートは,一番安全で便船の数も多かったりするのですが,如何せん,国内体制がネックで,共産主義者,共和派,反体制派などの思想の持ち主,お尋ね者は,利用できません.
下手をすれば,銃殺隊の前に引き出され,出国することも適わないかも.
東は,1941年6月までなら,旧PolandからMoskvaを経てシベリア鉄道経由で,満洲里に至り,日本を経由してアメリカに出国,もしくは,上海に渡ると言うもの.
香港に出られさえすれば,アメリカでもインドでもお好きな場所に行けるでしょう.
但し,お国がソ連を承認していなければ,その国のビザを取ることが出来ませんので要注意です(ビザなし渡航が可能な地域を除く).
それと,食べ物に注意しないと,偶に外交行嚢を抱えた外交官に毒や睡眠薬を盛られたりします.
ちなみに,1941年6月以降になると,東欧を通って,Turkeyに出国,其処からBakuを経由してKazakhなどの中央アジアを通り,シベリアからシベリア鉄道に乗ってと言うルートが推奨です.
さあ,あなたはどのルートを選びますか?
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月20日
「国家元首になる ⇒ ベルリンを蹂躙される
⇒ 偽者を自殺させて敵を欺き,その隙にUボートで南極のヒミツキチへ」
というルート希望(アドルフ)
【質問】
「贋LIFE」って何?
【回答】
ナチスがプロパガンダのために作ってバラまいた,「LIFE」誌のニセモノ.
上:本物
右:ニセ物


「おいジョー,今週のLIFEが落ちてるぜ」
「そりゃいいや,開いてみろよ」
さて,中身は…?


……死体写真で一杯です.
(グロ画像注意)
小ネタっつーか底意地の悪いブツがたくさん.
これを作った担当者は絶対ヤバい.
『ナチスの発明』って本がありましたけど,いわゆる「精神的ブラクラ」もナチスの発明だったとは意外….
いや,さもありなん?
おあとが宜しいようで.
【質問】
ベルリン陥落時の日本側の駐独大使は誰で,陥落後にどうなったのですか?
【回答】
駐独大使は,最後まで大島浩.
彼は,4月14日朝ににベルリンからザルツブルグの南方70kmにあるバドガシュタインに向けて避難.
ちなみに此処はアルプス要塞の近くで,早くからドイツによって大使館関係者の避難先に指定されていた.
同行は,長井亜歴山商務参事官,内田藤雄一等書記官,前田陽一外交官補,小松光彦陸軍少将,小島秀雄海軍少将,彼等は駐在武官,甲谷悦雄駐在武官補佐官(陸軍大佐),古森善五郎吸収医学専門学校教授などで,15台の自動車で大使館を出発.
5月11日にバドガシュタインは米軍の占領下に置かれ,大使は米軍に連行.
7月1日に大使ら主な人々33名は,ザルツブルグから空路,ルアーブルへ移送.
7月4日に輸送船ウェストポイント号で大西洋を横断し,11日にニューヨークに到着.
午後10時15分発の飛行機でワシントンに連行され,ポトマック河畔の第1142陸軍捕虜収容所に収容され,尋問を受け,8月8日からは,ペンシルベニア州ベッドフォードに大使一行6名は移送され,引き続き尋問.
11月16日,メリーランド州カンバーランドから,大陸を横断し,シアトルの移民収容所へ.
11月23日,米海軍輸送船ゼネラル・ランドール号に乗船し,12月6日に日本着.
ちなみに大島は,12月16日に大森収容所に拘留され,東京裁判で終身刑となる.
余談だが,ヴァイオリニストの諏訪根自子は大島大使夫人の私設秘書をしていた.
一方,駐独公使は,松嶋鹿夫.
彼は,ベルリンから北東に90km行ったプレンツラウから更に南西に12kmのクレヒレンドルフに避難し,大使館分館を開設.
クレヒレンドルフは,4月26日にソ連軍に占領されたが,当時はまだ日ソ間に戦闘状態は生じていなかったので,大使館分館の保護を要請(但し,その夜に自動車1台,トランク80個をソ連兵に掠奪されたが).
4月29日に内務省人民委員部部隊による残留事情取り調べを受けた後,ソ連政府訓令によって,モスクワへの連行が決定し,5月4日にモスクワに到着後,日本大使館に引き渡され,事情聴取の後,5月6日,寝台車でモスクワを出発し,16日に満洲里に到着.
なお,ベルリンの日本大使館には,河原o一郎参事官,新関欽哉三等書記官,杉浦徳,兼松武,吉野文六,中根正巳各外交官補,間片英彦電信官,曽木隆輝二等通訳官,真田為市,大瀧孝義各外務書記生が残留.
4月21日より大使館にて籠城開始.
当日は10名に,大使館の雇員夫妻と料理人,湯本武雄大蔵省財務官,佐藤克郎横浜正金銀行ベルリン支店副支配人など5名合流.
4月25日に,守山義雄朝日新聞ベルリン支局長,原良夫同支局員合流.
5月18日,国境警備隊のソ連軍大佐が大使館を訪れ,4時間以内の出発を申し入れ.
リヒテンベルク駅より,他の邦人122名と合流し,ソ連を経て帰国の途につく.
【質問】
なんで大戦時のドイツは科学技術が優れてたんですか?
【回答】
優れていないから負けた.
後退角翼・デルタ翼・軸流ジェットの実用化.赤外線暗視装置・ワルターボート……など読み物としては面白いが.そのほかの部分で,戦争を遂行する上で技術的に不得手な分野は多々あった.
例えば,ごくごく当たり前の大型輸送トレーラーを作れない皺寄せで,末端の補給部隊は馬車を使用していた.
たまたま兵器開発のシーソーゲームの順番が途切れたので目立つ物もある.
(ドイツが新兵器を投入した後,連合国が対応する前にドイツが負けた.とか.)
もう一つ.もう散々語りつくされていることだが,ドイツは開戦時点で希少金属や非鉄金属の供給に不安があった.高オクタン燃料も同様.
そのため,ドイツ人は様々な形で代替技術を模索したり,性能の劣る方式を渋々使っていたりする.
実はこの辺りの”無いものを如何に補うか?”と言う部分に寧ろ技術面で面白い工夫が見られるんだが.
それもまたヲタク的ドイツ信者には渋々採用した方式が「連合国より優れた方式」と映る.
では何故戦後はその方式は廃れたのか?と聞くと大抵は
「ドイツが負けたから」
「戦後の技術革新で連合国の方式が発達したから」
と言う.
誤認が連綿と繰り返されており,過度に高い評価を受けている場合がある.

(引用元:朝目新聞)
◆◆◆資源関連
【質問】
合成石油はドイツでどの程度,供給されたのか?
【回答】
最盛期で46%を賄った.
だが,それは採算を度外視したものだったため,それを頼りにして戦争を継続することには難があったという.
以下引用.
第1次大戦の敗戦国・ドイツは,イラク一帯に確保していた石油利権をフランスに譲渡し,「持たざる国」に転落した.
1933年(昭和8年),ナチスが政権を掌握すると,軍事体制の確立と共に,石炭を液化する「合成石油」の開発に力を入れた.
ヒトラーは化学者らを前に,
「今や石油を抜きにした経済は考えられない.
政治的独立を求めるドイツは,いかなる犠牲を払ってでも石炭液化計画は続行すべきだ」
と強調した.
この結果,39年(昭和14年)9月,ドイツがポーランドに侵攻して第2次大戦が始まった直後には,合成石油の生産は日産7万2千バーレルに達し,ドイツの全石油供給量の46%に上った.
第2次大戦の開戦当初,ドイツは華々しい快進撃を続けた.
しかし,英国への本土上陸作戦は難航した.
このため,採算を度外視して開発する合成石油だけで,戦争を継続させことは容易ではなかった.
これがヒトラーの目を東に転じさせる一因となる.
ソ連のコーカサス地方は,バクー油田を始め世界的な産油地帯だった.
1870年代に帝政ロシアの下で開発が進み,革命時の混乱を乗り越えて,再び生産を本格化させていた.
京都大名誉教授の野田宣雄氏(ドイツ近代史)は,
「ヒトラーが第2次大戦を始めた当初から,ソ連の石油を狙っていたとまでは考えられない.
だが,最終的にバクーが対ソ戦の目的の一つになった」
と語る.
読売新聞 2005/12/22
【質問】
ドイツも液化石炭に頼っていたのは周知ですが,液化石炭からは重油はとれないのですか?
ドイツ戦車はガソリンエンジンばかりなので,もしかしたらこの辺が理由になったのかな?と思い質問.
【回答】
一番基礎的な石炭の低温乾留法でも,ガソリン,重油,軽油,パラフィンは生産されています.
ちなみに,乾留終了後の残渣は,木炭の代用品です.
石炭79,592tから,ガソリンは433kl,クレオソート油2,765kl,パラフィン104t,ピッチ1,238t,発動機油9kl,コールタール16kl,B重油11kl,含蝋油9kl,酸性油10klとコーライト21,123tが出来ています.
合成法だと,もう少し生産量が多くなります.
ドイツなんかは乾留法よりもっと進歩したものなので,もう少し品質と種類が多かったみたいです.
眠い人◆gQikaJHtf2
【質問】
大戦中のドイツでも,日本のように金属回収や供出などをしていたのですか?
【回答】
戦時中のドイツでもリサイクルが行われていました.
ジュラルミンの加工で生起した屑金や廃材の回収再生は,産業四ヶ年計画庁の統一指導下に,国内廃品蒐集再生機構の一部として活動しています.
航空機工業に於ては,次の方法が採られています.
まず,航空機工業に於ては,材料倉庫に付属している切出し鈑取り工場に於て,品種毎に蒐集する.
また,加工作業間の削り屑も,また注意して品種毎に蒐集し,実際に飛散消耗する材料重量を減らす.
この見地から,工場の一角に品種毎の削り屑入れの壺を設け,間接工が絶えず工場を巡回して,削り屑を集めること.
最後に,廃品航空機は空軍の航空本廠で解体し,利用しうる部品は修理用部品として再利用するほか,残材は品種毎に選別蒐集する.
なお,廃品航空機の解体が軍で行われるのは,解体や分類の工数が非常に大きいため,これを民間で行った場合に生じるであろう,再生材の原価に跳ね返らない様にする為です.
こうした再生用廃材屑金は,金属商品管理所の統制下,大企業内のものはドイツ労働戦線の活動,中小企業や家庭でのそれは,屑物商によって蒐集選別されて,再生会社に売却されます.
この再生用資材の価格は,法規によって公定していますが,この公定価格は基本的に100kg当りの最低買取金額(屑金は最高買取価格)で,蒐集の重量が小さくなると高め(屑金は逆に最低買取価格)に,誘導されています.
こういったものは,軽金属に留まらず,1942年7月13日には古鉄回収指令がシュペーアから出されます.
これは統治区の経済会議所が所管地区内の古鉄回収指導者となり,統治区長官の同意を得て数量調査,回収行為の指導を担当するもので,回収の範囲は,数量の如何に関わらず,以下のものになります.
まずは,各種工業及び手工業製作所の工場に存在する各種古鉄,
次いで,製品の種類並びに寸法変更のために未加工の状態で放置される鉄鋼材,
更に,註文取消によって半製品状態になっている鋼材,
同じく形式の変更により,最早使用し得ず,放置状態の鉄鋼製もしくは鋳鉄製完成部品,
最後に,休止機械施設で,短期間に軍需生産用に転換し得ないもの(但し,戦時経済遂行または,一般生産合理化の犠牲となって休止した新式機械施設は除外)
の五種類が挙げられています.
これらの価格は原則,屑鉄価格が適用されますが,二番目の未加工状態の放置鉄鋼材については別途の規定,三番目,四番目,五番目も,所有者自身で評価する保証申込書を資材配給統制有限会社に提出することで,補償される場合があります.
これらの回収物品は,所有者の責任に於て,現品引渡し場所で輸送準備を実施し,同所から軍・防空警察・古鉄所有者または古鉄商の所有する運搬用具で古鉄蒐集倉庫に運搬した後,倉庫内で古鉄商が配当された労力を用いて選別し,爾後は,軍需大臣の申し出で,交通省が製鉄所または鋳物工場に輸送することになっていました.
こういったものの輸送は,大概が輻輳してしまうのが常ですが,1942年6月に運輸機関使用節約令の公布で統制され,円滑な輸送が行われています.
この省令では,全国に32カ所の輸送監督部を開設し,当該管轄地区の物資を一定の地域的限界を超えて輸送する場合には,この輸送監督部の許可を得ると言うもので,これが結構機能していたようです.
鍋や釜まで回収していた何処かの国に比べると,まだ混乱が少ないと言えるのでしょうかね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
◆◆◆ドイツの戦争方針
【質問】
1939年にソ連と独ソ不可侵条約を締結
同年のポーランド侵攻に始まり6月にはパリを占領→イギリスにも攻撃
上陸できないまま1941年にソ連に侵攻
とありますが,なんでいきなりソ連にドイツは侵攻したんでしょうか?
「イギリスとソ連に挟み撃ちになる→ドイツ兵力分散→まずい」
と思うのですが…
【回答】
イギリスに侵攻するのは不可能になったが,かといってイギリスに即座に反撃をしてくるような力があるわけでもなく(少なくともドイツはそう判断した),それならば西への侵攻が行き詰まったなら東へ…
ということで次の標的はソビエトに定められた.
まぁ,ヒトラーは実際にはイギリス本土へ上陸するつもりなど無く,バトル・オブ・ブリテンは講和条約を結ばせる為の圧力をかけるのが目的だった,とか,背後を攻撃されないようにソビエトと不可侵条約を結びはしたが,ロシアの植民地化はヒトラーの,というかドイツの歴史的目標だったので,必ずソビエトには攻め込むつもりだった,とか色々あるけど,端折って説明すると上のようになる.
んで,なんで1941年にソビエトを攻撃したかというと,ドイツは石油資源のかなりの量をソビエトに頼っていたのだけど(あとはルーマニアから),ソビエトはドイツへの石油供給を渋り始め(ドイツが欧州を制覇する可能性が薄れてきたので,ドイツよりも連合国側に石油を供給した方が得なのでは?と考え初めた),このままだとドイツの必要石油量が確保できなくなるか,さもなければ石油価格の高騰で経済が破綻する可能性が出て来た為.
それならば,まだ備蓄量が充分あるうちに・・・ということで1941年の開戦となった.
さして「いきなり」というわけでもなく,一応ソビエトもドイツとの戦争の可能性が急激に上昇し始めたことには気づきつつあって,主に東欧(ルーマニア,ハンガリー)方面を主正面とした先制攻撃計画が構想されたりはしていた.
そんなこともあって,ソビエトは前線部隊にドイツ軍に対して挑発と取られる行動を取ったり,またドイツ軍の挑発行動に応じたりしないようにとの厳命を出していて(ドイツに「先に手を出したのはソビエトだ」と条約破棄の口実を与えるので),それが開戦初日に徹底的に奇襲される原因になる.
スターリンは実際にドイツ政府内の極秘情報まで全部知ってて,バルバロッサの開戦日まで知っていたのに,「ここで対独戦争はしたくない」という自分勝手な思いだけで情報を全部無視してたことが明らかになってる.
独裁者の独善なのさ.
【質問】
独ソ戦はどうあがいてもドイツは勝てないと言う結論がでていますが,
絶対勝てないという意見はドイツの首脳陣にはなかったのですか?
【回答】
ヒトラーはそうは思っていなかった.
ドイツ軍首脳陣は
「開戦するにはまだ早い,もっと戦力を整えてから……」と考えていたが,権力者がやるといった以上
,やらないと言う選択肢はない.
ただドイツ軍首脳部も戦争を楽観視していた傾向があり,「勝てないかもしれんが和平には持ちこめるだろう」的な認識の甘さがあった.
結局電撃戦による初戦の大勝利で,
「なんだ,やれば出来るじゃん」
ということになり,後は惰性で物事が進んだ.
ポーランド,フランスそしてバルカン諸国.これだけ電撃戦が成功して慢心しない人は皆無かと
.
独ソ戦では,33個師団では足りないとして,同盟諸国の増援を頼ったがこれが又なぁ…….
同盟国の兵力計算の算定にも甘さが有る(これは側近参謀の責任)
【質問】
なぜドイツは負けたのか?
【回答】
ドイツ軍は,「戦争とは早食い競争だ」と思って始めた.
ソ連軍は,「戦争とは大食い競争だ」と思って受けて立った.
イギリス軍は,平時からどんな不味い物でも平気で食っていた.
アメリカ軍は,他の連中が食えなくなるまで料理を作り続けて勝った.
グルメなイタリア軍は,そもそも参戦したのが間違いだった.
初期の独ソ戦において,狭軌の貨物・機関車が足りていれば,モスクワをおとせた.
ヒ総統がグ将軍に,キエフに進撃させたのも補給が続かないと判断されたから.
ヒ総統がレニングラードを重視したのも補給を輸送船で行おうと考えたフシもある.
結局,補給ですね,敗因は
しかも,モスクワ落としたってソ連は降伏しなかっただろう.
退却を繰り返し,敵の補給線が伸びきったところで攻勢に移るというのは,ロシアのお家芸みたいなもんだし.
当のドイツ軍人であるクラウゼヴィッツは,「戦争論」の中で,
「広大な領土を持つ国の征服は困難である」
「首都やある地方を失っても最終的な勝利を得る可能性はある」
と述べている.
これはクラウゼヴィッツがナポレオンのロシア遠征のときに,ロシア軍側に参加して得た教訓だ.
独ソ戦といい,日中戦といい,結局この通りになった.
【質問】
仮定の話で恐縮ですが.
ナチス・ドイツの大きな敗因は二正面作戦を強いられたことだと思いますが,では,対西側または対ソ連のどちらか一方に戦線を絞れていたら,第二次大戦の帰趨はどうなっていたでしょうか?
特に,ドイツ人は「真の敵はあくまでソ連であり,,西欧とは和解できる筈だ」と考えていましたので,対英早期講和→対ソ戦に全力傾注,という流れは「不可能ではなかった」のではないかと….
まあ,チャーチルが居る限り講和は難しいでしょうが,例えば,ダンケルクで英陸軍を一網打尽にしておればあるいは?…という気がしましたので.
【回答】
ニ正面が敗因と言われますが,どちらか一方面のみでも負けたと思います.
西方で考えると,ドイツ海軍は空母一隻も保有してません.建造中ではありましたが完成してません.空母の制空権なくして大西洋の制海権は有り得ません.
潜水艦は作りましたが,これは空母よりコストが安く,貧乏性ゆえに悪い方向にコストパフォーマンスを考えた結果でしょう.
では対ソ侵攻一本槍では?と考えますと,当時のドイツの人口は7〜八千万です.一千万の兵力の動員は無理です.
片やソビエト連邦は約二億プラスで,開戦後まもなく総力戦体制に入ってます.
ドイツの総力戦体制は43年からで,41年から敗戦まで予備の補充兵力不足に悩まされ,西方の戦線がなくても予備兵力の不足で自然崩壊したでしょう.
最終結論でいいますと,ドイツの人口が三億で,工業水準と大量生産体制が米国並みだったら勝ってたかも知れません.
(一等自営業 ◆JYO8gZHKO.)
◆◆◆ドイツ軍関連
【質問】
なんで,飛行機や戦車を持つことを禁じられてて戦車を「農業用工作機」とか称したりしてコソコソ作っていたドイツが,ポーランドを一気に占領したり,フランスまで陥落させることができたんですか?
特にドイツが発明した新兵器の活躍が著しいですが,飛行機を持てなかった国がどうやってテスト飛行とかしてたんですか?
【回答】
1,途中で軍縮条約破った.
「本来,アレは英仏が先駆けて軍縮する約束だったのにそれが果たされていない! ならばドイツがそれを守る義務もない!」
みたいな感じで.
2,英仏の融和政策.
ドイツが軍事拡大しても,ソ連の防波堤になってくれるならいーやとか思ってた.
むしろ軍事的に強くないと防波堤にならないし.
3,電撃戦術
それまでの戦争の常識(WW1時)はお互い陣地を作って,塹壕掘って,相手の裏に回りこむというような長期戦方式だった.
グデーリアンの考案した(って言っていいのかな)戦車による電撃作戦が大成功を収め,まだ騎兵使ってたポーランドはともかく,陸軍大国フランスまでを陥落せしめた.
それまでの戦車は,あくまで機関銃を避けながら相手の陣地を踏破する補助戦力だったんだよね.
……と,まぁ,いろんなことがありました.
長期戦やったらフランスに負けてたと思う.
なお,新型飛行機のテストはソ連領内でコソーリやった.「ラッパロ条約の秘密条項」というヤツで.
【質問】
ナチスドイツにおいて,武装SSと国防軍とは完全に別組織だったのでしょうか?
たとえば,SSから国防軍への転属,あるいはその逆は恒常的に行われていたのでしょうか?
それとも,かなり例外的なことだったのでしょうか?
【回答】
完全に別組織.
武装SSは独自の士官学校を持っていたし,兵士も別個に徴募していた.作戦本部という自身の参謀組織も持っていた.制服も陸軍とは微妙に異なるものを使っていた.
ただし実戦においては,武装SS部隊と陸軍部隊は同じ指揮系統に属し一緒に戦った.
また,人材不足に悩んでいた武装SSに陸軍から士官が転属してくることもよくあった.
大戦末期には,海軍や空軍から余剰の人員がかなり大量に武装SSに転属して戦っている.
そのため転属させられたばかりに捕虜となってから虐待されたケースもある.
国防軍から武装SSへの転属は,上官がこれと思う人物を本人の意思を聞いた上で転属(志願者も居た模様)させたりした.
シュタールベルク著「回想の第三帝国」に,著者の知人が,上官に転属の意思があるかどうか聞かれ,断ると,残念だが志願者は幾らでもいるから,いいよ,といった反応を見せる話が有った.
【質問】
ナチス親衛隊に入るには身長とか視力が一定以上無いと駄目だったらしいけど,具体的にどれくらい必要だったの? あと,髪や目の色も重要?
【回答】
身長は175cm以上.視力は知らない
身長や健康状態など身体条件もさることながら,血統も非常に重視された.
当初は士官は1750年,兵卒でも1800年まで遡って家系にユダヤ人がいないことを証明しなければならなかった.
(しかし血統については,抜け道というか目こぼしされるケースが多多あった.そこで多数のポルノのテーマになっている「純粋アーリア人創造計画」が試みられたわけだ)
特に第一次大戦終結直後に生まれた世代は少年時代に栄養状態が良くなかったため,身長や体格が基準に満たないものも多かった.
そのため戦争が始まってからの親衛隊の急速な拡大に伴って,このような厳しい条件では人員を確保できず,基準はどんどん引き下げられていった.
最終的には祖父母にユダヤ人でなく,とりあえず健康であればいいというところにまでなっている.

【質問】
WWU時のドイツ海軍(Krigsmarine)はドイツ国防軍(Wehrmacht)と同組織だったのでしょうか?
それともWaffen-SSのように別組織だったのでしょうか?
【回答】
基本的には,国防軍を構成する陸海空三軍(Heer,Kriegsmarine,Luftwaffe)は,国防軍総司令官(Oberster
Befehlshaber der Wehrmacht)の統帥下に存在.
国防軍総司令部(OKW)は1938年までは国防省で,組織上は陸軍総司令部(OKH),海軍総司令部(OKM),空軍総司令部(OKL)の上位にあった.
しかし独ソ戦開始後はOKHが東部戦線,OKWがその他の戦線を担当することになった.
また,1941年12月にはヒトラーは陸軍総司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥を解任,自ら総司令官を兼任することになった.
そのため,実質的には国防軍最高司令官兼陸軍総司令官であるヒトラーの下にOKW,OKH,OKM,OKLが並ぶ形になっている.
さらに,OKLはあのデブ〔ヘルマン・ゲーリング〕が牛耳っていた.
【質問】
ヒトラーと国防軍の仲は悪かったの?
【回答】
ヒトラーと国防軍の関係は時代と共に変化している.
とはいえ,あまりにも冒険的な対外政策を掲げ,軍事素人のヒトラーに対して,国防軍の多くの将軍は冷ややかな態度を取り続けていた.
(もちろん,カイテルほか,ヒトラーと関係の良好な将軍も多数いたが)
ヒトラーの総統という地位は,ドイツの大統領と首相を兼務しているわけで,その上,1941年末には陸軍総司令官も兼任した.
その意味では,間違いなくヒトラーの指揮下に国防軍はあったわけだが,潜在的にも,顕在的にも反目関係が絶えずあった.
特に東部戦線の負けが込み始めるに従い,ヒトラーの前線指揮への介入はどんどん酷くなり,後退して戦線の整理を望む将軍(特にマンシュタインが代表的)と占領地の死守を望むヒトラーとの対立は覆うべくもないものとなる.
その過程において,しばしば,ヒトラーは前線の司令官たちへ責任を転嫁するように,「国防軍のせいで負けた」という台詞もはくようになった.
【質問】
WW2当時のヒトラー暗殺未遂事件――爆弾破裂させたけど,ヒトラーが奇跡的に無傷に等しかった奴――をネタにした小説で,冒頭,国防軍の機甲師団の前線帰りの大佐がレストランで思わず総統を一言罵ってしまい ,その後,ゲシュタポの取調室でボコボコにされた姿のその大佐と主人公とが再会するというエピソードがあったのですが,戦時下のドイツで総統を罵倒した,国防軍の大佐クラスが,ゲシュタポに逮捕され拷問されるなんてありえたのでしょうか?
†さくや† in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【回答】
十分有り得るでしょうね.
国防軍とゲシュタポは別組織ですし,その人物が軍務から離れている時に「反政府的」な言動を行ったとすれば,襟の星の数なんかには関係無く引っ張られたでしょう.
新所沢の三等兵◆Uk in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
例えば,日本へ派遣されたゲシュタポのマイジンガー大佐は,日本ではオットー駐日ドイツ大使以上の権勢を誇っていたとか.
【質問】
戦争の功罪はともかく,ナチスドイツの軍服のデザインには定評があると思うのですが,あの軍服をデザインした特定の個人や団体は存在するのですか?
【回答】
基本的に,ドイツ国防軍の軍服のデザインは帝政時代からの伝統を引き継いでいる.
詰襟形の軍服(ドイツ,日本.,ソ連etc)はどちらかというと古いデザイン.
米軍も第一次大戦までは詰襟
親衛隊の開襟にネクタイは,国防軍と差異を持たせるためのものという話を聞いたことがある.
ただし,親衛隊も開戦時には国防軍とほぼ同じものを採用しており,開襟式のものは儀杖部隊や上級の高官くらいしか着用していない.
なお,親衛隊の黒服は,ナチによってドイツ社会の根幹を成すとされた農民(の耕す土の色)の黒であり,本来はかっこよさや威圧効果を目的とした色ではない.
(軍事板)
ドイツ空軍のユニフォームはヘルマン・ゲーリングがデザインしたとされています.
もちろん彼が実際にデザインしたわけではなく,WW1の際にリヒトホーヘン航空団で部下だった男にデザインさせたものを彼が採用したのです.
空軍のユニフォームはすべて開襟なのが特徴ですが,これは親衛隊と同じように,従来のユニフォームと違う新しいイメージを持たせるためでした.
なお,空軍のユニフォームは元々,空軍を秘匿するための組織であるドイツ航空スポーツ協会(DLV)のユニフォームとして採用され,35年3月のドイツ空軍の存在の公表の後もそのまま着用されています.
ドイツ海軍のユニフォームは,さかのぼれば1848年に創設されたプロイセン海軍にたどり着き,第二次大戦でもデザインは基本的にほぼ変わっていませんでした.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
鉄十字勲章とは?
【回答】
鉄十字章は1813年3月17日にプロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世によって制定されました.
その後,ドイツが戦争に突入するたびに制定される勲章となっています.
当時の等級は
*星付き大十字章
*大十字章
*一級鉄十字章
*二級鉄十字章
の4等級でした.
2度目に制定された普仏戦争の際の受賞者は,
大十字章:9名
一級鉄十字章:1.319名
二級鉄十字章:43.242名
となっています.
3度目に制定された第一次世界大戦の際の受賞者は,
大十字章:5名
一級鉄十字章:163.000名
二級鉄十字章:500万9.645名
でした.
なお,星付き大十字章を授章したのはフォン・ブリュッヒャー元帥とフォン・ヒンデンブルク元帥の二名のみです.
1939年9月1日,アドルフ・ヒトラーは鉄十字章の再制定を布告しました.
この際に星付き大十字章は廃止され,大十字章と一級鉄十字章の間を埋めるものとして騎士十字章が制定されました.
大戦中,大十字章はへルマン・ゲーリングにしか授与されず,事実上騎士十字章が最上位の勲章とされ,その後新たに等級が追加されてより高位の騎士十字章が出現します.
騎士十字章の受賞者は7.500名,
一級鉄十字章は約30万名,
二級鉄十字章は約230万名でした.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
ドイツ兵は戦場でも勲章をつけていたんですか?
【回答】
付けてました.
野戦で着用しやすいように,鉄十字章を改造して騎士十字章の代わりにしたり,布製のドイツ黄金十字章なんてのもありました.
ただし,戦争中期以降に普及したカムフラージュ・ユニフォームでは,勲章や徽章の類は一切着用しないように定められています.
もっとも,騎士十字章はさすがに着用してたみたいで,かのエルンスト・バルクマンがバルジ大作戦で敵中突破をやってのけた時に,襟元の騎士十字章が目立つから隠せと戦友に言われたエピソードがありますね.
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
そして,騎士十字章や鉄十字章はしばしば敵兵による略奪の対象になり,捕虜が勲章を奪われたり遺体から盗まれることも多かった.
ノルマンディで戦死したクリスチャン・タイクゼンSS少佐は,負傷して捕虜となり,野戦病院で死亡したが,その際勲章や認識証ごとジャケットを盗まれた.
そのため,身元不明遺体として埋葬されてしまい,戦後しばらくたってから身元が確認された.
【質問】
現在でも騎士十字章は授与されるのでしょうか?
【回答】
騎士十字章は,ナポレオン戦争時代からのプロイセンの伝統的な鉄十字章が,ナチ時代にそのように改称されたもの.
戦時に授与される勲章なので,戦後ドイツでの授与はない.
なお,中央にナチのカギ十字がある騎士十字章は,戦後は着用禁止.
西ドイツ政府は柏葉をあしらった新しいデザインの鉄十字章を作って授与者に配布した.
リボンで首からかけ,制服の詰襟の剣先の間に着用するのが本来だが,いろいろバリエーションがある.
詳しくは
http://www.diggerhistory.info/pages-medals/iron_cross.htm
を参照されたし.
【質問】
大戦中期までのドイツ軍の東部戦線・北アフリカ戦線での苦難は,補給(物資輸送)の困難さに原因があった・・・と言っても過言ではありませんが,運べなかっただけで,ドイツ本国では十分な数の弾薬・燃料などが生産できていたんでしょうか?
1942年前後の話でお願いします.
【回答】
当然,生産も限られていた.武器の生産ピークが1944年なのは有名な話.
民需品も軽視してはならないというヒトラーの政策から,民需から軍需(総力戦体制)への転換も遅れたし.
石油はそもそも,ソ連から大量に輸入してたのが無くなっているわけだし.
ゴムなんかも開戦直後から貴重品だし.
運搬手段も乏しけりゃ,生産量も不足していたってこと.
【質問】
シュペーアが軍需相になる前は,ドイツの兵器生産は非効率だったそうですが,何がどう非効率だったのでしょうか?
そしてシュペーアは,どういうふうに効率よくしていったんでしょうか?
【回答】
中公文庫から再刊されたシュペーア回想録「第三帝国の神殿にて」あたりを読んだ方が早いと思うが・・・・
兵器の種類の統廃合,
効率的なリソース分配,
企業や工場の持つ自由度拡大,
官僚組織の改革,
女性労働者や外国人労働者(捕虜含む,これで有罪確定)の増加,
etcetc・・・
まあ,特にアクロバティックなことをやったわけではない(褒め言葉).
むしろ,ヒトラーとの個人的な繋がりがあったために,他の党幹部から比較的文句を付けられずに改革を断行できたことが大きな要因.
<シュペーアの解説>
アルベルト・シュペーア
青年建築家のアルベルト・シュペーアは,ヒトラー率いる第三帝国の軍需大臣に抜擢され,ナチス・ドイツで第二の権力をもつ男といわれ,ヒトラーの一番のお気に入りとされていました.
ニュールンベルク裁判で死刑をまぬかれた彼は,戦犯刑務所で二十年の刑期をつとめあげて出所すると,回想録を執筆,ベストセラー作家として一生を終えましたとさ.
取材要らずの,効率的な執筆活動ぶりである.
軍事板
ドイツの軍需産業に於て,シュペーアの功績は計り知れないものがあります.
特に生産性向上の為の数々の方策を行って,ドイツの軍需産業の生産を飛躍的に増大させました.
その生産性向上の為には,各社バラバラにやっていたのでは効率が悪く,「統制」を導入しなければなりませんが,その統制実施の為には,各種の現状把握,つまり各種統計が必要になってきます.
しかし,現在でもISO認証の獲得には非常な手間と時間と書類が必要で,現業を圧迫してしまう例が多々あるわけで(確かにISOは必要なのかも知れませんが,ISO9001なんかみたいに,本当に企業経営に必要なものなのおかどうかと言うことを考えることがあります),こういった煩瑣な書類作成を省略すべく,統計資料収集の効率化を軍需省は考えることになる訳です.
その方策は,統計資料収集経路を統合すること,各種統計に関する書類様式を統一すること,機械簿記の統一採用,会計関係の計算方式の単純化と回数の減少の4つになります.
まず,各種統計の収集は,国防軍総司令部,各軍,各省,各統制機関がバラバラ,内容も重複している上に,書式も異なっていると誠に非効率な状態でした.
この統計資料作成を,地方では軍需監督庁,中央では国防軍総司令部に一元化しました.
次いで,書式の統一化で,収集資料の種類や報告事項は減らした上,標準書式と付属計算書式を定めました.
機械簿記については,収集した資料の迅速な集計と分析が出来るようにしたものです.
ドイツでは元来,ホーレリスの機械簿記を採用していたので,これを発展させ,コード体系を統制して数字化しました.
このコードは3組の数字から組成され,最初の数字が所在経済集団名,次の数字が所在地区名,最後の数字が会社名を表します.
例えば,002501012は,0(甲経済集団所属),0250(ベルリン中央地区所在),1012(A器具製造会社)と言った具合.
また,商品番号も3組の数字からなり,最初の数字が品種,次が品目名称,最後で使用材料を表すようになります.
例えば,6836242は,68(金属製品),362(懐中目覚時計),42(時計側ステンレス鋼製)とか.
このほか,各軍では器材番号が使用されています.
空軍の場合,211となると2が整備局第二課管掌,1が戦闘機,1が甲型,てな感じ.
陸軍は通し番号みたいな感じで,67はGoliathになります.
更に企業簿記についても,それを統一出来るように,約230項目を数値化しています.
例えば,000なら更地,020なら営業什器中の乗用車,042なら特許権,081は法定積立金,452は営業税,442は事務用品費と言った具合.
最後の会計関係の計算の単純化と回数減は,主に賃金算定業務で行われました.
従来は,各人の所得に応じて,勤労所得税,勤労所得戦時付加税,市民税,養老年金保険,健康保険,失業保険掛け金の他,ドイツ労働戦線の会費,冬期救済寄付金の引去りと希望者には戦時据置預金の引去りがあり,これらの天引き金は様々な形式があり,納付先も様々だったりする訳で,しかも,これに残業とか労働条件の緩和などのファクターがあったりして,賃金算定には非常な負荷が掛かっていました.
しかも,職人の場合は週給だし….
これを,8週間から5週間に1回の支払とした賃金清算週期延長令を発布し,計算回数を減らします.
但し,これでは工員の生活に差支えるので,週給は概算払いという形を取って,8週間とか5週間後に正規の課徴金を徴収すると言う風な感じの運用です.
更に,控除項目は統合され単純化する方向に進み,所得税,戦時付加税,市民税は勤労所得税に統合して,税率を改正して一本化し,納付先も税務署一カ所とした他,年金保険,健康保険,失業保険も統合して疾病互助会に統一し,此処に各種保健機能を集約することにしました.
加えて,これらの税金と掛け金は各種の場合を想定して作表したものを企業や官庁に配布し,一々計算する必要がないようにしています.
HOI2で,各種統計作業機とかを研究するのがありましたが,こんな部分に裏打ちされたものなんですね(ぉ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
参考文献は,技術関係の老舗である山海堂の産業能率増進叢書「ドイツの航空機工業」です.
著者は,飯島正義陸軍大佐.
1944年5月20日に初版が発行.
私の手元にあるのは,11月20日に発行された第三版(出版会承認260324号,5000部)のもので,定価5円20銭に特別行為税26銭が付加された本です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【質問】
第二次大戦中のドイツ軍に,黒人〔原文ママ〕の兵士はいたのでしょうか?
konnbaru by mailform
【回答】
いなかったでしょう.
なぜならアフリカ系はナチスにとっては迫害の対象でしたから.
具体的な迫害の中身については以下引用.
原ソースがはっきりしていますので,信頼性の点では特に問題はないでしょう.
――――――
3 ナチの黒人迫害
20世紀までに,ドイツはアフリカにいくつか植民地を持つに至っており,ドイツ領東アフリカではドイツ人医師達が遺伝学的な実験を住民に対して行ったという指摘がしばしばなされています.
当然,アフリカ人のドイツ本国への若干の流入がありました.
また,第一次世界大戦でドイツが敗れると,フランスがラインラントを占領しますが,フランス領のアフリカ人も多数占領軍に交じっていました.
このため,ドイツの女性との間に数百人の混血児が生まれます.
ヒットラーは『わが闘争』の中で,彼らのことを「ラインラント私生児達(Bastards)」と呼んでいます.
ナチスが政権をとると,1937年までにアフリカ人との混血児はことごとく断種・不妊手術を施されます.
先の大戦が始まるまでには大部分の黒人や上記混血児は逃亡しますが,残った人々は全員収容所送りになり虐殺されました.
(以上,
http://observer.guardian.co.uk/world/story/0,,2170159,00.html
(9月17日アクセス)による.)
――――――太田述正コラム#2118(2007.10.11)
▼ これがユダヤ人ならば,戸籍などを偽れば外見上の見分けがつかなくてバレない,ということもありえたでしょうが,アフリカ系なら外見上,比較的容易に見分けがつきますので,ドイツ軍の中に潜伏できた可能性は,ほとんどゼロに等しかったでしょう.
消印所沢
もっとも以下のリンクや画像からも分かる通り,見た目が限りなくアフリカ系に近い兵士は,いることはいた.
彼らは"Arabien"とあるように,「アラブ人」とカテゴライズされた模様.
「アラブ人」と「アフリカ人」との微妙な「差異」については,別項を参照されたし.
Freies Arabien
Free Arabian Troops
http://photospalestine.free.fr/arabe_armee_allemande_1.jpg

http://www.warantiques.com/images/442_war_freies_arabiens_arabes_armee_allemande_2.jpg

ttp://desertwar.vif2.ru/Soedin/arab11.jpg

軍事板
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
ドイツでは女性を労働力としてはどのように活用したのですか?
【回答】
ドイツの場合は,平時から17〜25歳までの女性を,アルバイトデーンストという勤労奉仕隊に召集し,国民としての団体訓練を受け(どちらかというと不純異性交遊の温床という話もあったりするのですが),社会的事業に労力を提供する形を取っていましたが,大戦3年目の1941年に漸く,総動員体制下の戦争補助労働力として動員されることになりました.
これは,1941年7月29日公布の「女子青年勤労奉仕隊の戦時服務に関する総統兼首相告示」が根拠となり,勤労奉仕隊に召集された女子青年は,その終了後更に半年間戦争補助勤務に服務することになったものです.
その仕事の範囲は,国防軍(陸海空軍)の各所役所並びに官庁に於ける事務,または,病院及び社会的事業所に於ける仕事の援助,または,救援を必要とする家庭,特に子女多き家庭への家事援助とされています.
女子挺身隊の服務指導,監督については,内務省の勤労指導官が行いますが,勤労奉仕隊に関しては,予めアルバイトデーンストの地方指導書に申込み,同所はその仕事の状況を確かめた上で所要の人員を配属し,使用方針と待遇に関しての指導を企業などの使用者側に行います.
これらは日本と同様に労働雇用関係ではありません.
但し,仕事に関しては,勤務場所の服務規程,懲罰規程の提要を受け,アルバイトデーンストの服務者に適用されている秘密厳守の義務,結婚許可,内職実施許可も適用されます.
彼女たちの勤務時間は週51時間まででありますが,一方で緊急且つやむを得ない事由がある場合は,服務者は代償を要求することなく,所定時間以上働かねばならない義務があります.
ただ,徴用の女工の場合は,週56時間までとなっており,それよりは緩めに設定されています.
休みは許可制で,半年に5日の休暇を取ることが出来ます.
しかし,これも自由に休めるものではなく,勤労奉仕隊地方指導所から通告があって,使用者が初めて与える形.
別の日に休む場合は,その使用者の責任者の許可が必要になります.
また,家庭の補助任務に就いている場合は,一般女中と同じ待遇が適用されると言うことになっています.
使用者としては,勤務間の食事と宿舎を用意する必要があります.
一方で雇用関係にありませんから,給料は支払われず,代りに一日0.5マルクの小遣いと,1マルクの被服補償費が支払われる形になります.
とは言え,病気や怪我の場合を考慮して社会保険関係の支払いは行われています.
1943年2月には,労働就職全権受命者から,申告義務令,即ち,「戦時任務に対する男女の申告義務に関する法令」が公布され,女子挺身隊以外の女性も申告によって徴用されるケースが出てきました.
これは,
(1) 16〜65歳までの男子,17〜45歳までの女子に対して,労働局の調査に基づき,緊急の必要がある場合,国防任務nため召集される.
(2) 労働局は,男女を召集した後,各個人についての技能と個人的事情を調査し,それぞれ国防に関係のある任務を振分ける.
この際,個人は自分の身辺事情を申し出ること.
(3) 婦人に対する調査は慎重に実施し,その服務地はなるべく現在の居住地とする.
(4) 徴用除外者は以下の通り.
a. 既に重要産業部門で1週48時間以上勤労している男女
b. 本業として農業あるいは公共事業に従事している男女
c. 5人以上の従業員を持つ独立の経営主
d. 16歳以上の男子,17歳以上の女子で公認学校に通学
e. 外国人または聖職者
f. 妊産婦,5歳以下の幼児1名,6〜14歳の児童2名以上を育てている母親
逆に,徴用される者は,
a. 子供の居ない者
b. 15歳以上の子供が居る者
c. 6〜14歳の子供が1名しか居ない者
の順番になっています.
つまり,子供を産むのなら仕事に行かなくても良いよ,と言うものです.「産めよ殖やせよ」ってことですね.
徴用された場合は,1日最大8時間,週最大56時間の労働時間勤務します.
但し,家庭を持つ主婦については,家事の処理,健康保全,能率向上の面から,家庭労働日を制定し,週48時間勤務の場合は,本人の希望で自由時間を設けています.
こうした主婦の社会進出を支援するために,女子青年団による家庭生活補助(買い物の手助けとか裁縫など)を導入したり,洗濯業や婦人服仕立業の優先取扱特典を与えたり,午後5時まで勤務する場合は,買物特別取扱証明書を交付し,登録商店に商品を取り置きさせると言った配慮を示していますし,野菜や果物などは職場で優先配給販売を行ったり,工場の門前に販売所を設置して,消費生活物資を販売したりと言うこともしています.
泥縄の日本式よりは,平時の体制が整っていた分,円滑に行ったのかもしれませんね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
ドイツ軍の元帥について説明をお願いします.権限 階級 担当部隊(中将なら師団長)
.
また上級大将なども一緒にお願いします.
【回答】
ドイツ軍の場合,戦時に顕著な功績を上げた大将に与えられるとされています.
(ただし,ブロンベルクは1936年にヒトラーに元帥に任命されていますが)
元帥は生涯現役とされ,死ぬまで軍の名簿にその名前が記載されるものとされていました.
特典として秘書と当番兵がつけられ,運転手付きの乗用車を与えられました.
また,その地位を示すものとして元帥杖が与えられました.
ドイツ軍の上級大将Generaloberstに関しては,米軍では自軍の大将に相当するものとして理解しており,同様に大将Generalは中将,中将Generalleutnantは少将に,少将Generalmajorは准将にそれぞれ相当すると解釈していました.
(あくまでも米軍の解釈なので,ドイツ側の実際の呼称や運用とは違いますが)
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
◆◆◆戦後
【質問】
「ラートブルフの原則」とは?
【回答】
「実定法は多少とも正義感に反する場合でも,それに従わねばならないが,正義との距離があまりに耐え難い場合は,正義に立場を譲らねばならない」とする原則.
1946年にラートブルフが論文として発表,第3帝国の国家犯罪を裁く根拠となった.
以下引用.
さらには,「実定法は多少とも正義感に反する場合でも,それに従わねばならないが,正義との距離があまりに耐え難い場合は,正義に立場を譲らねばならない」といった内容の,いわゆるラートブルフの原則が〔旧東ドイツの国家犯罪を裁く裁判に〕採用された.
法哲学者ラートブルフは,ナチ支配下では合法的であった第3帝国の犯罪を裁く根拠となるこうした考え方を,1946年の「法的不正義と超法規的正義」という論文で記している.
三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.169
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし
【質問】
終戦後,連合軍の捕虜となったドイツ兵100万人が,連合軍側の虐待などにより死亡したという説の真偽はどうなのでしょうか?
【回答】
戦闘中,もしくは占領の混乱時,しかも,数カ国に分割占領されている状況においては,本当にそうだったのか,良く判らない謎と言うのが結構あったりします.
ドイツの「消えた100万人」についても同じ事が言える訳で.
ドイツ国内に連合国軍が攻め込むと,武装解除した軍人や党機関の人間などの処遇が問題になります.
1944年11月からそうした人々を,一時的に抑留するケースが発生しだしています.
連合国軍欧州軍最高司令部で抑留が見込まれていた員数と,実際に行われていた員数は正確には判らりません.
1944年12月に同司令部のG2が見込んでいたのは,19.8万名でしたが,G5では,43万人と見積もっていました.
米国の歴史家Friedmanは,1945年の拘引者数を13.5万人としています.
1948年6月8日にA.ザイドルは,こうしたドイツ人の数を100万人と予想しています.
但し,フランスで懲罰的な建設作業に携わっていた70万人については,この数には入っていません.
1944年9月16日付の「対敵情報指令」の付属文書Bでは,ゲシュタポ,SD隊員,警察署長と部長,治安及び公安警察隊長,警察役職者,親衛隊と警察の上級指揮官,武装親衛隊とナチス党下部機関・関係団体指導者,高級官僚,特別な全国機関の構成員などが抑留対象者として挙げられ,ゼルナーによれば,その数は22.2万人に上る予定でした.
米軍占領地域においては,こうした抑留者は,旧収容所に収容され,オーベツウルゼルとシュヴェービッシュ・ハルが最も悪名の高い収容所とされています.
このほか,ケルン,レマーゲン,ヴュルツブルク,ハイルブロン,ダッハウ,レーゲンスブルクなど40カ所で収容されたほか,「全国労働奉仕隊」や「ヒトラーユーゲント」の隊舎,軍演習場,強制収容所,休業中の工場も活用されました.
しかしながら,そこに対する給養は最悪に近く,栄養失調による浮腫に掛かったり,中には餓死する人々も出ることがありました.
但し,こうした死亡者は,行方不明とか損失などとして扱われ,その数は明確にはなっていません.
そこで,100万名の死亡者が出たと言う話に繋がっていきます.
とは言え,戦争世代の人々へのアンケート調査では,回答者1127名中,抑留経験者は628名で,抑留期間は平均30ヶ月,その釈放証明書によると,拘引理由の大多数は,ナチ「同調者」とされています.
そのアンケートでは457名が甚だしい虐待を受けたことを,479名には後遺症が残ったとあります.
この対象者の版数以上は,下級職員,職人,鉄道員,主婦,労働者だったそうです.
こうした抑留者達は,収容所審問部で審理が終わり次第,数日,数ヶ月,数年後に釈放されましたが,逮捕と抑留は間違いだったと申し渡されることも多かったとか.
フランス軍占領地域でも,問答無用の逮捕が可能とされ,フランス将兵の殺害には,重罪が予告されていました.
ジンゲン・アム・ホーエントヴィールの市長は,連合国将兵が暗殺された場合用に,地元名望家30名を,銃殺要員として指定しなければなりませんでしたし,ユーバリンゲンでは,住民がフランス将兵に発砲もしくは将兵を襲撃した場合,50人の市民の射殺と,周辺地域の焼き払いを宣告されていました.
フランス軍政府ハンドブックの第90項では,反抗的ドイツ人,ナチ党員の疑いのある者は全て問答無用で拘引出来ることになっており,数千の人が街頭で拘引され,拷問を受けています.
こうした実数は把握出来ていません.
当のフランス軍自体,拘引したのに逮捕者の氏名を登録することすら有りませんでした.
また,収容所での拷問も日常茶飯ですが,上記の状態であったが為に,死者の数は正確には把握されていません.
1960年代に「旧占領軍拘留者協会」によって,拘引された人々の数が1945年夏現在で,20万人プラスマイナス25%と推定され,1949年夏でも5,000人が収容所に入れられていました.
うち,女性は10%.
また,1945年10月から47年3月にかけて,軍政府によって,20万人の書類が調べられ,127名の戦争犯罪人が逮捕,3981名のナチ党員が拘留され,8.75万件の制裁措置が申し渡されています.
眠い人◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月22日
【質問】
上記に関する,現存する資料には,どんなものがあるのでしょうか?
【回答】
米兵によるダッハウ収容所員の処刑(1945.4.29:329〜500名殺害)
→ 米陸軍省法務局によって記録,写真ならびに映画撮影が行なわれている.
(参考文献)
Howard A. Buechner "The Hour of the Avenger(1986)
Nerin E. Gun "The Day of the Americans"(1966)
スウェーデンによるドイツ兵士のソ連への引渡(1945.12:2,522名)
→ スウェーデン軍将兵はこの移送命令を拒否,国家警察が輸送に当たる.
(参考文献)
パウル・カレル著『捕虜』(学研,2001.11)
チェコに於けるドイツ兵の虐殺
→ ミレシャウに於けるチェコ人の残虐行為が記録に残る.
1990年代,殺された将兵の集団墓穴が発見され,個人の写真が報道され,明らかとなる.
米仏による強制収容所の転用(1945.:200万人).
→ 平均30ヶ月の抑留.釈放証明書の存在など.
(参考文献)
ジェームス・バクー著『消えた百万人 ドイツ人捕虜収容所,死のキャンプへの道』(光人社,1993.11)
Charles Lincoln "Auf Befehl der Militarregierung"(1965)など
(ただし『消えた百万人』については,捕虜に関する統計のOther Losses(その他減耗)には,すぐに釈放されたヒトラー・ユーゲント隊員などが含まれていることを無視しているという批判があるとのこと.
英語版ウィキペディア参照)
デンマークのドイツ兵捕虜による地雷除去作業(1945.5〜10:死者250名,重傷250名)
→ 英軍将校による命令により,リンデマン将軍の個人的責任で,地雷除去作業を命令.
(参考文献)
Helge Hagemann "Under Tvang"(1998)
などなど.
捕虜虐待に関しては,『世界戦争犯罪事典』(秦郁彦,佐瀬昌盛,常石敬一監修:文藝春秋社,2002.8)から参考文献を抽出しています.
この本自体は,変にソースが偏っている訳でもなく,欧州関係については,ドイツ軍事史研究所のHorst Boog元所長,ドイツ連邦軍将校で,戦史研究家のFlorian Berberich氏,米国の元司法長官Ramsey Clark氏などドイツ,オーストリア,旧ユーゴ,米国など様々な立場の将軍,提督から,医学者,歴史関係,政治関係の研究所研究員,歴史家,大学教授,法学者,文筆業,教育学者など様々な階層の人々がその編纂に関わっているもので,かなり資料的価値が高いと判断してます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
ドイツ人捕虜も,シベリア抑留日本兵と同じように土木作業をやらされたりしたの?
【回答】
ドイツ人捕虜の場合,1941〜49年まで,大規模工業施設や炭坑の建設および再建,鉄道・道路の建設,橋梁の建設,暖房・ガス管の敷設,都市住宅および労働者共同住宅の建設などに従事しています.
これらドイツ人捕虜が建設したのは,ウクライナのコルホーズ建設,ドンバス炭坑の再建,レニングラードの石炭供給,世界最大の水力発電所,モスクワの地下鉄,運河,モスクワのディナモ・スタジアム,東シベリアのゴルドベルク工場,原爆研究所まで,多岐にわたっています.
捕虜を監督するGUPVI(ソ連捕虜抑留者問題管理総局)の収入は111億ルーブル,経費支出は133億ルーブルで,赤字ではありましたが,その後のソ連経済に対する価値は何倍にもなります.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
戦後のソ連抑留時にいわゆる思想転向をして,国家人民軍やシュタージで高官に就いたドイツ捕虜で,名前や経歴がわかる人物がいれば教えてください
【回答】
一番有名なのはスターリングラードで捕虜になったパウルス元帥.
戦後は東ドイツ軍の再建に関わり,「赤いプロシア軍の父」と呼ばれた.
あとはスターリングラードで捕虜となり,戦後NVAの将官になったヴィルヘルム・アダム大佐とかアルノ・フォン・レンスキー少将とか.
その他,戦後NVAに入った元国防軍軍人たちは以下を参照
http://www.axishistory.com/index.php?id=5706
階級はNVAでの最終,カッコ内は国防軍時代のもの.
【質問】
日本と違って,独では大戦中の軍人も堂々と顕彰されており,国民からの敬意も払われていると聞きますが,国防軍ではなく,武装SSの在籍者も同様なのでしょうか?
【回答】
旧SS隊員は差別されていました.なにせ戦後も国防軍の元兵士とは違って,軍人恩給や年金が支給されなかったし.ヨッヘン・パイパーが戦後釈放された後,迫害を受けてドイツに住むことが出来ず,やむなくフランスに移り住んだのも知られた話.
1949年に成立したボン基本法(旧西ドイツの暫定憲法)131条では,
「ドイツ敗北後,公職追放された官吏,扶助を貰えなくなった軍人の新補償法を今後定める」
としていますが,この「軍人」の定義には,武装SS隊員は入っていませんでした.
1950年,その矛盾を排すべく,尉官級の元武装SS将校によって,「互助会」というのがローカル的に作られ,武装SSの戦友会組織として1951年10月には,全国176の支部を持つ一大圧力団体と化し,ドイツ軍人同盟,ドイツ軍人防衛同盟,降下部隊兵士同盟,ドイツ・アフリカ軍団連盟,自動車部隊組織,グロース・ドイッチュランド伝統共同体,鉄兜団の軍人団体で構成された全国退役軍人組織「ドイツ軍人同盟」に参加しています.パウル・ハウサーも「旧武装SS隊員相互扶助協会」の中心になって活躍しました.
1952年12月,建国以来首相となっていたAdenauerは連邦議会でこう演説しています.
「『あらゆる』軍組織に勤めた全ての国民が立派に戦ったのであり,ドイツ軍人の誉れと偉大な功績は,我が国に於いて生き続けるものである」
1953年には,カナダ軍捕虜の殺害の罪で無期刑を受けていたKurt
Meyerと英軍刑務所で面会(後に14年に減刑し,1954年9月に釈放)し,1954年8月30日には議会で,武装SSの名誉回復宣言を行なっています.
ただ,この段階で131条の適用は為されず,その対象になったのは,兵役義務法と引き替えに自由民主党の対案と社会民主党の支援で,1961年6月に,特務部隊に10年以上勤務した者で,勤務内容は軍役相当に限るとされた人々でした.
なお,「国民からの敬意」とありますが,オットー・カリウス氏の手記では,戦後旧軍人に対して国民が敬意を払ってくれないと愚痴ってます.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)
【質問】
現代のドイツで,WW2のドイツ軍を格好よく描く行為は犯罪となる,と聞いたことがありますが,事実ですか?
また,一等自営業氏(軍事板における小林源文氏の呼称)の劇画漫画『黒騎士物語』をドイツに持ち込むと没収される,というのも事実でしょうか?
【回答】
それはデマです.
さるミリタリー・ショップの女子店員が,ブラウンの服に小林源文の漫画を携行して,何度もドイツに逝っております.
蛇足ですが,そのミリタリー・ショップ主宰で,「ドイツ軍の軍装でロンメルの墓参りに逝くツアー」が企画され実際に実行されましたが,このときはさすがに入国出来ませんでした.
【質問】
現在のドイツ国内では,WWUの軍装を着ると捕まりますか? ナチスものは法律で禁止されてるとか聞いたもので.
【回答】
理由があれば捕まらない.
ドイツのリエナクターはちゃんとドイツ軍やってます.
一方で,ネオナチならば,ドイツ連邦軍の格好だろうが,米軍の格好だろうが,ナポレオン軍の格好だろうが捕まります.
理由は,彼らが制服を着る行為がナチ的なため….
ちなみに,S○Gという業者が江利香クラブという店名だったころに
「ナチスドイツ軍の軍装でロンメル将軍の墓参りに逝くツアー」
を敢行したことがあったが,参加者全員がドイツで入国拒否されたことがあるそうな.
また,ネット時代に入ると,フランスで,アメリカのヤフーのオークション・サイトでの旧ナチス・ドイツ商品販売が違法とされたケースもある.
以下引用.
サイバースペースのボーダーレス性を如実に示す事件が具体的に発生しています.
アメリカのヤフーのオークション・サイトで旧ナチス・ドイツの商品が販売されたケースです.
アメリカ国内では違法ではありませんでしたが,フランス国内では旧ナチス・ドイツの商品を販売することは違法とされていました.
2000年に,フランスの裁判所は,アメリカのヤフーのオークション・サイトでの旧ナチス・ドイツ商品の販売を中止することを命じました.
しかしながら,フランスの裁判所の判決は,フランスの主権の及ぶ範囲であるフランス国内でのみ執行することができるのであり,フランスの国境を越えてアメリカ国内で執行して,ヤフー本社のオークション・サイトでの旧ナチス・ドイツ商品の販売を中止することまでが可能かどうかという点が争点になりました.
〔略〕
さらに2001年11月には,逆にアメリカの連邦裁判所が,このヤフー事件について判決を下しています.連邦裁は,フランス裁判所の判決をアメリカ国内で執行することは,アメリカ合衆国憲法修正1条の「表現の自由」を侵害することを理由として,フランス裁判所の判決をアメリカ国内で執行することを認めませんでした.
加えて連邦裁は,米ヤフー社は,その子会社であるフランス・ヤフー社を持っているので,そのフランス子会社がサイトの利用を防止するために誠実な努力をしていれば,米ヤフー社は,法的な制約を受けることはないと判断しました.
刑事事件については,アメリカの連邦裁は,フランス裁判所の判決をアメリカで執行することを認めませんでしたが,フランスでアメリカ・ヤフー社を被告とする民事訴訟の手続きが開始される場合には,事情が異なるでしょう.
つまり米ヤフー社は,その子会社であるフランス・ヤフー社(つまり資産)をフランスに持っているからです.
牧野和夫著「インターネットの法律相談 全訂版」(学陽書房,2005.8.15),p.313
コスプレ?

【質問】
ドイツでは,ナチスについて語ることそのものが犯罪とされているそうですが,てことは,第二次大戦時の兵器について語ることも犯罪なのですか?
ヤークトティーガーはどうしたとか,「フォッケウルフは強い!」とか,そうしたことまで犯罪になりますか?
【回答】
ちょいと違う.
要するに,「公共の場でナチスを賛美する行為を行う」ことが取り締まりの対象になっているわけであって,決して戦争を語っていけないと言うことではない.
ドイツにも戦争博物館はいくつもあるし,兵器も展示されている.田宮のプラモも売ってるし,リネアクターだっているよ.
一方,ナチス式の敬礼をするとそのまま警察に連行される.
それと,当時のSSの制服を所持しているだけでも逮捕対象.
だからネオナチですら,しょっ引かれるのが嫌で表立ってはやりません.
簡単に言うと,ドイツでは「ナチス関係には研究対象としてしか関わっちゃダメ」.
その他の全ての事由が処罰対象になります.
【質問】
ドイツでは,戦死したナチスを弔った記念碑とかが問題になったりしないのですか?
ドイツにも戦死者を弔う施設はありますよね?
そこにナチスは入ってないって事ですか?
【回答】
ナチス党員でも分け隔てなく埋葬されている.さすがに,ヒットラーとかアイヒマンやゲッペルスや,一般親衛隊(アルゲマイネ)は別ですが,戦死した武装親衛隊員は国防軍の兵士と同じ扱い.
ただ,ドイツの戦没者墓地は1万箇所以上あり.「まとめて弔う施設」は存在しない.
それ以前に,軍人の戦死者のみを一カ所で「祀る」感覚はヨーロッパにはない.
ヨーロッパは個人で宗教がバラバラだから,同じキリスト教でもカトリック,プロテスタントと細かいし.
ヨーロッパの記念碑は軍人市民問わずに戦争の犠牲者を「記念(想い起こす)」ためのもの.
ホロコーストのメモリアルはあっても,そこに犠牲のユダヤ人が「祀られている」とは誰も考えない.ただの記念碑.
欧州的価値観で考えると,靖国はかなり特殊.
なお,
「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」
内には
「平成14年11月18日(月)に「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会(第7回)」において内閣府が配布した資料「諸外国の主要な戦没者追悼施設について」(PDFファイル)
があるので,これも参照し,各自で判断されたい.
これは小泉内閣時代の内閣による文章であり,その党派性や,おそらく実際の作成に関わった官僚の解釈によるゆがみ・誤解は否定できませんが,この種のものについて考える際,大いに参考になるものと考えます.
【質問】
来年春頃ドイツに行く予定です.
鉄十字勲章のレプリカを購入予定ですが,販売している都市 店など知っている方は教えて下さい.
旅の中心は,ベルリンです.
【回答】
おそらく30年位前の話ですが….
故・佐貫亦男先生によると,ベルリンのヴィーラント街に「ORDENS-SAMMLUNG」と言う店があって,勲章を専門に扱う店だったそうな.
で,新品の騎士十字章なんかも売っていて,先生は剣付柏葉騎士十字章を5.000円(当時の価格)ほどで買い求められたそうです.
店主に注文すればブルーマックスやダイヤモンド剣付柏葉騎士十字章もレプリカとして作ると言われたとか.
ただし,此処で販売されている騎士十字章は1957年に制定されたもので,中央の鈎十字が柏の葉(1813年版の鉄十字章のデザインに准ずる)
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
ドイツは個人に対する戦後賠償は行ったのか?
【回答】
東西ドイツ統一によって,法的には個人による賠償請求が可能になったため,かつての強制労働者から,未払い給料の補償や慰謝料を請求する訴訟が次々と起こされた.
また,アメリカのクラス・アクション(集団訴訟)が脅威であったため,外交交渉の結果,集団訴訟を放棄させる代わりに基金が創設され,その基金から賠償金が支払われたという.
以下引用.
戦時中,主として東欧の占領地域から非常に多くの人々が強制的に連行されて,ドイツの企業や農村で働かされていた.
その数は労働者760万,戦争捕虜と強制収容所の囚人を合わせると900万に及ぶ.
法的関係は明白である.
奴隷労働はすでに第2帝政時代に禁止され,奴隷の保持は場合によっては死刑とされていた.
また,1899年のハーグ陸戦規定で,占領地の市民の強制労働は禁止されていた.
だが,ドイツはすでに第1次大戦で条約を無視した.
条約無視は第2次大戦では常軌を逸し,ドイツ国民の生活必需品と軍需物資の製造のために強制連行された労働者は,劣悪な条件の下,事実上無給で働かされていた.
そのため,終戦直前までドイツ市民の生活水準に耐え難い低下はなかった.
飢えと買い出しに人々が苦労するようになったのは,戦争が終わってからである.
戦後の西ドイツは,こうした外国人労働者への補償を原則として行っていなかった.補償問題は,ドイツ問題の最終解決となる平和条約が締結されてからのこととして,先送りされていた.
だが,統一に関する90年9月の2プラス4条約は,最終的な平和条約に代わるとされたため,それによって個人賠償の権利が発生したという解釈が生まれた.
実際にハンガリー人,ルーマニア人,そしてイスラエル在住のユダヤ人など,かつての強制労働者からドイツの裁判所に,未払い給料の補償や慰謝料を請求する訴訟が次々と起こされた.
紆余曲折は省略するが,最終的には連邦憲法裁判所が96年に,
「再統一の結果,平和条約の欠如は補償問題を逃げるための口実にはなりえない」
という主旨の判決を出した.
また,この判決では,ドイツ企業で働かされた被害者が,該当企業ではなく,ドイツ政府を相手取って裁判を起こすのは,「国際法に抵触しない」として訴訟権も認められた.
200万を越える生存者がいる以上,膨大な数の訴訟が予想された.
同時に外圧も激しくなった.
なによりもアメリカの司法制度にある,いわゆるクラス・アクション(集団訴訟)が脅威であった.
この制度は,戦後アメリカに移住した被害者が集団で,特定の国や外国の企業を相手取ってアメリカの裁判所に補償を訴えることを可能としていた.
幾つかのドイツ企業に対して,クラス・アクションによる裁判が起こされていた.
被害企業の責任が認められれば,当該企業の在米資産を差し押さえられかねない.企業にとっては一大事である.
いや,裁判を起こされているだけで,その企業のイメージは壊滅的な打撃を被る.
また,法的手段とは別に,アメリカの一般世論でもドイツ製品の不買運動が始まりかけていた.ベンツやBMWが売れなくなったら大変である.
国内世論と外圧の両方の追い風を受けて,98年に成立した者民党と緑の党の連立政権は,この問題に正面から立ち向かい,主としてアメリカ政府および訴訟を支える弁護士事務所などとの交渉を始めた.
難交渉の末,今後アメリカはそうしたクラス・アクションに基く請求権を発生させないという確約と引き換えに,ドイツは「政治的・道義的・歴史的責任」を認め,2000年7月に「記憶・責任・未来」という名の財団を発足させる法律が連邦議会で承認された.
財団の飢饉は,連邦政府と産業界(一部アメリカのユダヤ人補償業界も)が半々に出資した100億マルク(7000億円)とされた.
一応これで一件落着と思われたが,実際の資金拠出となるとどこも渋るのは人情で,当初は産業界から思ったように集まらなかった.
ところが,資金集めが始まってほぼ半年たった2001年3月,集まりの悪さを理由にアメリカ最高裁のある裁判官がクラス・アクションを再受理する方向の発言をした.
すると,1週間で残りの大部分が集まり,支払い開始の見通しが出てきた.まさに「現金なものである」.
そして,同年7月には一人当たり最大1万5千マルクを限度とする補償金の支払いが,とりあえず申請の出ている120万人に対して始まった.
こうして,国家次元では90年10月3日に終わった第2次大戦の戦後処理が,対個人の次元でも,つまり本当の意味でようやく終結したのである.戦争が終わって56年が経っていた.
国から個人へ――国際法の主体の拡大
全体としてみると,額が巨大なため,交渉の過程ではドイツ政府も企業も渋る局面があったが,歴史的責任はとらないわけにいかない,という一般世論の力は,経済的利害を越えるのに大きく貢献した.
今後,クラス・アクションは起こさせないという確約をアメリカ政府から取るのは,ドイツ企業の当然の自己防衛であろう.
また,飢饉への寄付はできるだけ低く押さえたいのも,企業としては当然の「エゴイズム」である.
現代社会では,そうした利害は避けられない.
利害を無視して,変に道徳を持ち出しても解決はおぼつかない.
そのことを承知の上で,なんとか法的かつ道義的に解決にもっていける制度を関係者および世論が模索した結果が,先のような政府と産業界の折半出資による基金という制度である.
三島憲一著「現代ドイツ」(岩波新書,2006.2.21),p.174-178
ただし,ソースとしては信頼性にやや難があるので,
その点は留意されたし
【珍説】
「もうすでに,ナチスドイツは日本に比べればそれほど悪くなかった,というように世界的な認識が変わりつつある.」
「バルト諸国とポーランドは,ユダヤ教徒への迫害と虐殺に,自国民も荷担していたことを認めた.
スイス政府は...謝罪した.
カトリックの総本山ローマ教会でさえ...遺憾の意を表明した.
つまり,キリスト教の西欧は,戦後半世紀以上にわたって戦前戦中のユダヤ人迫害の罪をナチスだけに着せて,口を拭ってきたことを不正義だったとしてとうとう反省して見せたのである.」
「こうした贖罪意識がすでに浸透しているために,今年8月,ドイツのノーベル賞作家ギュンター・グラス氏が,自伝でナチスの武装親衛隊に入隊した過去を公表したが,それで抗議運動が盛り上がるどころか好意的な反応が広がる結果になっている.」
【事実】
グラスに関しては,実際には各方面で抗議が沸き起こりました.
というか,こういうことが話題になる,何年もたってドイツ以外も謝罪させられるということ自体,ナチスの悪行が人々の間からまだまだ忘れられていないことを,明白に証明していると思うのですが.
それ以外にも愉快なコラムてんこ盛り.
もうタイトルだけでお腹いっぱい↓
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/5562/column/column-menu.html
「核兵器は手段で目的は半島無血統一」(06/10/14)
(貞秀士防衛研究所主任研究官を「さすがと言うべきだろう」と持ち上げてます.類友類友.)
「戦艦大和の悪弊受け継ぐ自民党憲法案」(05/10/30)
(すごい取り合わせだ.「大和ホテル」と「戦車のロールスロイス(74式以降の戦車)」という言葉を使ってみたかっただけのような.)
「潘事務総長を出した韓違い?」(07/02/27)
(駄洒落かよ)
全体的に床屋政談系雑学薀蓄派電波男という感じですね.
コラムをまとめた本を出版するとのこと.
売れちゃうんだろうな.
ちなみに大学では合衆国憲法を教えているそうです.