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◆◆◆異邦人・帰化者
<◆◆総記
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次世界大戦
(画像掲示板より引用)
「Togetter」◆(2015/08/13) 戦時下に東京にいた外国人達
『ぼくは日本兵だった』(J. B. ハリス著,旺文社,1986.8)
読了.
英国人の父と日本人の母を持つ,帰化日本人「平柳秀夫」の従軍記録.
帰化したにも関わらず,開戦直後は敵性外国人として拘留され,入営した後には,中隊内の古参兵からは,目立つ奴としてしごかれる.
他の隊へ伝令に出されれば,容貌が完全に白人のそれであるため,しばしばスパイと間違われ,日本と英国との思想や生活習慣の違いに戸惑った著者の青年期を,コメディタッチに綴る.
テーマ的に一歩間違えれば暗い内容になりがちなのを,ユーモア溢れる筆致で,明るく見せたのが印象的.
外国人の視点から見た旧陸軍の軍隊生活というのは,珍しいんじゃないだろうか?
個人的に印象に残ったのは,中支戦線で降伏した後の,日本兵に対する処遇.
対共産党の尖兵として転用したいのか,扱いが丁寧.
労務免除で一日中ダラダラしてるのかと思えば,娑婆にいたころの技能を活かして日用品や工芸品,果ては楽器まで自作する日本兵.
捕虜収容所が見本市と化す(笑
-----------------軍事板,2011/12/16(金)
【質問】
戦争中,日本国内にいた,連合国側の外国人・帰化人はどうなったのでしょうか?
【回答】
日本国内にいた,日本国籍を持つ欧米系外国人は,スパイの疑いがあるとして,憲兵による監視下に置かれていました.
かのグラバーの子息倉場富三郎や外交官寺崎英成の妻女(娘マリコの名が日米交渉の暗号に使われたのは有名)など,かなりひどい目にあったようです.
日本国籍を持たない外国人は,開戦と同時に拘束された後,日本と連合国が行った在留者相互交換により本国へ強制送還されました.
日英および日米の交換船は,合わせて4回,抑留者の交換を行っています.
名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE :軍事板,2004/09/09
青文字:加筆改修部分
日米第一次交換船で,米国のグルー駐日大使を始めとする,米国,カナダ,ブラジル,メキシコなど交戦国の外交官とその家族142名,宣教師,教師,新聞記者,実業家など一般人274名,更に便乗組で未だ中立だったチリの新聞記者5名が横浜から乗船.
香港で377名,サイゴンで米国領事など23名とタイを引き上げてきた駐タイ米国公使など91名を収容,
また,上海で米国人407名,カナダ人10名,エル・サルバドル人3名など計636名が乗船しています.
日英交換船は,日本本土,満州,中国,仏印,タイ,フィリピン在留の英国のクレーギー駐日英国大使を始めに英国大使館員79名,オーストラリア,ベルギー公使館員5名,エジプト,オランダ公使館員11名とマニラ駐在のオランダ外交官の息子3名,ノルウェー,ポーランドなどの大公使館・領事館員,一般在留民の一部1,800名,タイから送還の英国系住民114名を便乗させ,送還しています.
日米第二次交換船では,外国人135名(主に宣教師)を乗せて日本を出発し,上海で1,035名の送還者,香港で146名のそれ,フィリピンのSan
Fernandoで151名,サイゴンで33名が乗船しています.
なお,この時にチリの外交官も引き上げています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
例えば,最近亡くなった英会話教師J・B・ハリス氏の苦労話が残っている.
ハリス氏は父が英国人,母が日本人で,日本兵として従軍.
http://miyazaki.cool.ne.jp/keiji99/ARHAT/harisu/JBH.html
軍事板,2004/09/09
青文字:加筆改修部分
【質問】
大東亜戦争の際に故国に強制送還された外国人が住んでいた,日本での住居はどうなったのか?
【回答】
以下の証言によれば,戦時中は日本人の住居として使われ,戦後は,焼け残っていたものは占領軍の宿舎になったという.
――――――
〔大東亜戦争〕当時,我が家は,ちょうど根岸競馬場の向こう正面に当たる,〔横浜市〕中区滝之上にある小さな西洋館であった.
海と根岸の海岸線.
そこから白滝不動の石段を130段ほど登ったところに,ひとかたまりの西洋館の群れ.
それが滝之上で,まことに〝風光明媚〟という言葉がぴったりの場所だった.
〔略〕
戦いが激しくなるにつれ,そこに住む外国人達が帰国を余儀なくされ,その後に我々が住むことになったわけだ.
変な話だが,腰掛け型の便器のために,知り合いが来ると,使えない人はわざわざ離れにある和式の便所を利用する始末だった.
〔略〕
〔8月末,〕夏の日差しが暑い日の午後,軽機関銃を装備したジープに先導されて,第8軍司令官アイケルバーガー中将は,カーキ色のシボレーに4つ星をつけて〔横浜に〕颯爽と現れた.
怖いもの見たさで,生垣の後ろから息を殺して覗き見たのを,今でも鮮明に覚えている.
横浜で唯一焼け残った(焼け残したという説もある),しかも西洋館の立ち並ぶ滝之上に彼らは最初に進駐してきたのだ.
近所の大きい西洋館は全て接収され,将官達の宿舎にされた.
小さい我が家は接収からも免れたのだ.
世の中,何が幸いするかわからない.
――――――『いつだって青春 わが人生のホリプロ』(堀威夫著,小学館文庫,2005/7/1),p.9-12
こんな接収住居はいやだ
【質問】
第二次大戦時に,米国に在住していた日系人が強制収容所に 収容された事は有名ですが,米国在住の日本人の処遇は どの様な物だったんでしょうか?
【回答】
開戦後の外交官に関してなら,外務省のHPにこんな記事
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/ honsho/shiryo/reference/reference_07.html
がありますよ.
それによれば,交換協定に基いて互いに祖国へ帰還したそうです.
以下,引用.
――――――
Question 16
太平洋戦争期,外交官等の交換を目的として派遣された日米及び日英交換船に関する記録はありますか?
Answer
日米及び日英交換船に関する記録は,外務省記録「大東亜戦争関係一件 交戦国外交官其他ノ交換関係」に含まれています.
太平洋戦争の開戦直後から,外務省は敵国及び断交国にある官吏及び在留民の交換計画を研究し,中立国を通じてアメリカ及びイギリスと交渉した結果,1942年(昭和17年)5月,両国との間に外交官等の交換に関する協定が結ばれました.
これに基づき,日米交換船は,第1次(1942年6月から8月)と第二次(1943年9月から11月)の二度実施され,第1次帰還者は1421名,第2次帰還者は1517名にのぼりました.
また,日英交換船は,1942年7月から10月にかけて実施され,総計1742名が帰還しました.
交換に際しては,日本側からは浅間丸,竜田丸,鎌倉丸等が,交換地のロレンソ・マルケス(当時ポルトガル領.現在はモザンビークのマプート)に派遣されました.
――――――
軍事板,2006/06/03(土)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/06/03 (szombat)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
日系人はハワイとニューヨークの日系以外は確か収容所.
ハワイは数が多すぎる,多くの日系米兵を出した,数が多すぎて本土に輸送するのに手間,真珠湾攻撃で日本に対する敵愾心が強かったなどの理由で収容所には行かなかった.
ニューヨークのはちと事情が特殊で,医者とか高いレベルの人は戦争にも行かず普通に暮らした,
日本人は大体国外退去,つーか日本に送還,大西洋から喜望峰を回るコースをエンヤコラ.
二重国籍については,これが一般的かどうかは知らないが,こんな話をどこかで読んだことがある.
FBIがワッパを持ってやって来る.
車で護送途中に仲良くなって手錠外してレストランで食事,確かメニュはステーキ.
一応牢屋に入れる,同居人は人殺しの水夫とかスリなど六名.
取り調べで,日本に帰るかアメリカに残るか聞かれて「日本に帰る」を選択.
捕虜交換船で帰国.
「今年の徴兵検査にギリギリ間に合うよ」
そのまま徴兵検査の会場へ.
見事乙種合格,
以後広島の師団に勤務,その後被爆.
で,戦後アメリカへ.
大体どこも同じと思うよ.
軍事板,2006/06/03(土)
"2 csatornás" katonai BBS, 2006/06/03 (szombat)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
詳しくは,淡交社の「日本・欧米間戦時下の旅」という本を探して読んで下さいな.
1939~46年の日本と欧米諸国との人の往来が書かれています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/06/03(土)
Névtelen őrmester ◆Sgt/Z4fqbE : "2 csatornás" katonai BBS, 2006/06/03
(szombat)
青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész
+
【質問】
戦時中,ブラジルに移民していた日本人は,どんな境遇に遭ったか?
【回答】
戦前から,苛酷な労働により病死者,夜逃げが続出していたブラジル移民だが,戦時中は敵国人として迫害され,日本語での会話すら禁止されたという.
しかも敗戦後は,日本人会は「勝ち組」「負け組」に分裂し,極右「臣道連盟」によって「負け組」のリーダー16人が殺害されるという事件も起きている.
詳しくは『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.227を参照されたし.
【質問】
1927年に日本からアメリカに送られた「人形大使」はどうなったのか?
【回答】
日本から送られた人形は,58体のうち現在44体が残っています.
しかし,現在も何処かでほこりを被っていて未発見になっているものが幾つかありますし,このうち,何県の人形か分からなくなっているものも幾つかあります.
これは,長い間に博物館の展示物を入れ替えたときに,大したものではないと学芸員が判断したり,博物館の運営主体がよく調べもせずに外部に売りに出すことが有ったためです.
また,博物館に送られても,最初はその博物館が歴史や地理を展示する様な展示内容だったのに,後に自然史博物館に衣替えしてしまって,人形の展示は,その内容に相応しくないと,展示から外してしまったり,売却したり….
他にも二つの州に共同で所有するように,或いは二つの街で共同所有として,数ヶ月もしくは1年単位とかで交換していたのが,何時しか担当が変わってそのまま忘れ去られたり….
その中でも,日米で一番の違いは,人形に対する考え方です.
日本での人形と言うのは,武者人形とか雛人形なんかを思い浮かべても判るように,基本的に飾る為の人形です.
米国はそうではなく,抱いたり,触れたり,キスしたり,髪を弄ったりすることが多い.
なので,最初に展示されても,あちこちで触られて,手が黒ずんだり,頬に口紅が付いたりと言うケースが多発したそうな.
特に,手や顔の黒ずみには,日本側も苦慮したらしく,何度も対策方法を日本から送ったりしてます.
こうした過程で,壊れたり,汚れたのを米国風に修復したりとどんどん変わってしまったものがあったとか.
しかも,初期の頃は移動に次ぐ移動で,何時しか人形の台座と本体が切り離され,また,中には退色した衣装を交換したものもあったりして,引渡当初から取り違えが生じていたりします.
今,「ミス○○」と言われている人形のその殆どが元々その道府県,外地代表として送られたものかどうか…甚だ疑問符が付くらしい.
そんなこと言われても今更なんですけどね.
それでも,現在でもこれらの答礼人形は,健気に国際親善の使者として働いています.
「ミス徳島」はワシントン州で,日本文化紹介の一翼を担っていますし,ミズーリ州にあった「ミス兵庫」は,里帰りの直前に発生した阪神大震災の為に頓挫した里帰りの為の募金を,同地の日本人,米国人が共同で行い,その費用を賄ったりしています.
ちなみに,ミズーリ州には当時渋澤栄一氏の曾孫が住んでおられ,彼がその募金で中心的役割を果たしたそうな….
これも何かの縁かもしれませんね.
ノースカロライナ州にある「ミス香川」は,香川県にあるたった一体残った「青い目の人形」の里帰りがきっかけで,日本への里帰りを果たし,県内各地を巡った後,その人形と共に米国に答礼使節団を送ったりして,香川県とノースカロライナ州の交流は今でも続いています.
メリーランド州には「ミス広島」があります.
この人形は,1976年の米国建国200年祭に展示されたのですが,一人の日系婦人が人形を携えて単身来日,当時の広島県知事に修復を直訴したのがきっかけとなり,製作した東京の人形屋さんが判明.
当時,人形を送り出した人形屋さんの社長は未だ健在で,その人は涙を流して喜び,心を込めて修復したと言います.
ちなみに,この人形屋さんはその後も答礼人形を持ち込まれる度に採算を度外視して,きちんと修復を行っているそうです.
ケンタッキー州の「ミス富山」は,1937年に博物館を襲った大洪水で,足まで水に浸かり,そのまま地下倉庫に保管されて,そのまま忘れ去られ,洪水で消失したと言うのが定説になっていましたが,それがひょんなことから見つかります.
しかし,足は取れ,下着姿で,傷付いた状態.
これを修復するきっかけを作ったのが,富山が世界に誇る大企業である,吉田工業(YKK).
その支援と,ケンタッキーに進出していた日系企業の協力で修復と里帰りを行い,帰ってきてからも,ケンタッキー州内を2年間巡回展示していきました.
他にも,募金で修復のための里帰りを果たし,修復後,再び各地で展示され,そこから日米の草の根交流を始めているところも多くあります.
また,当時,答礼人形を米国に送る際に付けた手紙とか,絵などを書いた子供達の身元も判明し,彼らが修復後の里帰り展でその人形に会いに来ると言う話もあったりします.
しかし,身元が判明しているのに,今のところ里帰り出来ない人形が1体だけいます.
それは,コネチカット州にある「ミス朝鮮」.
この人形は,既に修復の話が具体化していたのですが,当時の「朝鮮」は外地でしたので,どの都道府県に里帰りさせるのか,と言う問題があって頓挫.
その後,修復里帰りの動きはありません.
人形には罪はないですし,生みの親より育ての親と言う言葉もあるのにね….
(ちなみに,今回の一連の話は,高岡美知子著『人形大使~もう一つの日米現代史~』(日経BP社,2004.3)を参考にしました.)
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
▼ 写真はノースカロライナ自然科学博物館で常設展示中の「ミス香川」.
調度品も揃っていて状態はよいです.
1941年当時のキャプション:
[quote]
“WHOM THE GODS WOULD DESTROY THEY FIRST MAKE MAD”.
The Japanese made an insane attack upon the American Territory of Hawaii on December 7, 1941.
With a grim determination we now are committed to stop for all time Japanese aggression. This has no bloodthirsty implications to destroy peoples as such. We still believe in peace and good--will, to live and let live.
Men, women, and children of Japan have this good--will but they have now been dominated by ruthless leaders. Proof of such latent good--will are the Friendship Doll Exhibits exchanged between children of the United States and Japan during 1926 and 1927 and shown-as here in Museums in both countries.
『神々は破壊しようとする者をまず狂わせる』(米国の詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローHenry Wadsworth Longfellowの言葉)
1941年12月7日,日本は米国領土ハワイに対して正気でない攻撃を加えた.
我々には冷徹な決意をもってこの日本の攻勢を止める必要がある.
これは我々が血に飢えて日本人を破滅させようとしている,という意味ではない.
我々は今でも平和と友好を信じているのだ.
我々が生きながらえ,彼らも生きながらえさせるという.
日本の老若男女にも同じ友好精神があるが,今は冷酷な指導者に支配されているのだ.
この目に見えない友好精神の証左が,1926年と1927年に日米の子供たちの間で交換され,両国の博物館で展示された人形親善大使展である.
[/quote]
現在(2008年)のキャプション;
[quote]
Miss Kagawa
1928. Miss Kagawa, one of 58 doll ambassadors of goodwill given to places in the United States by Japan, is received by North Carolina as a symbol of peace and friendship. She is the only Japanese Friendship Doll to remain on display throughout World War II.
ミス香川
1928年.日本から全米各地に贈られた58体の人形親善大使の一人であるミス香川は平和と友好の象徴としてノースカロライナが受け取りました.
彼女は第二次世界大戦を通して展示され続けた唯一の日本の人形親善大使です.
[/quote]
▲
【質問】
枢軸国側の外国人は国内で自由に行動できたのでしょうか?
【回答】
枢軸国住民は,関東なら軽井沢と富士五湖,箱根に分散して収容されていました.
関西なら六甲山山上が主な収容場所でした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi支隊
あちこち出歩くことは不可能で,何処に行くにも,憲兵,あるいは特高の尾行,または警官の尋問があったそうです.
精々,都市部の周辺,軽井沢,富士五湖くらいが関の山で,農村部などへの買い出しにも苦労したようです.
当然,要塞地帯や軍事施設周辺への出入りは不可能でした.
大戦中のドイツ人に関しては,光文社新書にその辺を詳しく書いた本がありますので,御覧になると良いでしょう.
今年出たので,まだ在庫はあると思います.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/11/09
青文字:加筆改修部分
以下,その暮らしの様子.
------------
日本は保護を名目として,一般外国人に軽井沢など指定の地域に疎開するように命令した.
シロタ夫妻も軽井沢に移動したが,その時期ははっきりわかっていない.おそらく1944年頃と考えられるだけである.44年まで,シロタは東京音楽学校に勤務をつづけていたからだ.
戦況が厳しくなる状況で,当時は国内旅行も警察の許可を必要として困難であり,外国人は事実上,軽井沢に閉じ込められた.
しかも憲兵隊まで軽井沢に出張してきた.
つまり一般外国人の軽井沢への疎開措置には,外国人を軟禁して管理する側面があった.
これはユダヤ人だけを対象とした措置ではなく,プロ野球選手のスタルヒンや画家のブブノワ夫妻のような白系露人,中立国のフランス人も軽井沢に移動を命じられた.
ただ,戦争末期にはドイツ人も道を歩いていると子供に石を投げられる状況で,軽井沢への移動により外国人を保護した面も否定できない.
避暑地として外国人に親しまれていた軽井沢は,公式に各国外交団や外国人が疎開するための指定地域だったのでより安全と見なされていて,そのために多くの日本の子供たちも疎開していた.
太平洋戦争最後の時期に,シロタを最も悩ませたのは軽井沢の冬の寒さだった.
〔略〕
夏の別荘は冬に暮らすようには造られていなかったから,冬には家の中がすべて凍りついてしまった.
「日本人は我々にわずかな燃料しか提供してくれませんでした.それを私たちはピアノがおいてあった居間で燃やしました」
シロタは食糧を捜して山に入り,庭で薪割りにいそしんだ.
アウグスティーネ夫人はピアニストの夫が慣れない力仕事をすることで手を壊してしまうことを恐れた.
後に,娘のベアテにいった.
「戦争とは,ピアニストに薪割りをさせることなのよ」
このころ,日本人と外国人の交際は禁止されていた.
しかしベアテさんの回想録には,浅間山の噴火でガラスが全部割れてしまったときには,ガラスを東京から持ってきて据え付けてくれた弟子もいた,とある.
藤田晴子のような弟子たちは苦労して軽井沢まで食料を運んだ.
日本人がすべて極端な排外主義に染まっていたわけではなく,また,すべての日本人が自分たちに貢献してくれた外国人を顧ないほど恩知らずでもなかった.
軽井沢で,寒さと並んでシロタたちを苦しめたのは不安だった.
憲兵隊が外国人の監視にあたり,1ヶ所に隔離されて,別に情報活動などできるはずもないのに,なぜか尾行や尋問がついたのだった.
ベアテさんの回想録には,鶏を追いかけていたアウグスティーネ夫人に,いつものように憲兵が質問に来た場面が描写されている.
「変ったことはないか? 手紙は来ないか」
気丈な夫人は,いいかえした.
「憲兵さん,いつも同じことばかりしないで,たまには変ったことをしたらどうですか.
あの枝に止まった鶏を降ろしてやってくださいな」
驚いたことに,憲兵は鶏を棒でつついてつれもどしてくれた.
民間の外国人に対する猜疑心も強まって,食料の買い出しでも外国人は警戒されて不利だった.
しかしときには,特別な幸運が舞い込むこともあった.
「あなたをどこかでみたことがある」
農民はしばらく首をかしげていて,それから笑って言った.
「ああ.これはあなただ」
そこにはシロタが東京で行ったコンサートのポスターが貼ってあった.洋楽の普及は軽井沢近辺の農村にまで及んでいたのだった.
こうしたひとがひそかにシロタに食料を売ってくれた.
------------山本尚志『日本を愛したユダヤ人ピアニスト レオ・シロタ』(毎日新聞社,2004.11.20),p.213
------------
そのころ〔終戦直前〕軽井沢では,アメリカ軍が上陸すれば,外国人は全員が殺害されると流言飛語が飛んでいた.
日本政府の措置よりも,周囲の住民のパニックのほうがシロタを苦しめた可能性が高い.
かれは「終戦がもう2週間遅ければ,全員が殺害されたでしょう」と語っている.
日本側が実際に虐殺を企てた証拠はない.
しかし〔画家のワルワーラ・〕ブブノワの回想にも同じ話があり,外国人はシロタを含めて真剣に心配していたようだ.
------------同,p.219
▼ そういえば 松本は音楽教育が盛んなんですよね.
ちなみに戦前私の祖母の妹が旧軽井沢の教会のそば,木造三階たてで お菓子屋を営んでいて,クッキーやらビスケットをドイツ人の家にまだ子供だった母が届けたそうです.
風船殿様 in mixi,2009年05月09日 23:23
▲
【関連リンク】
戦時中の在日ドイツ人カール・ユーハイムの生涯.
http://www.juchheim.co.jp/bibliothek/story/fl.html
【質問】
太平洋戦争中,日本にいたドイツ人の状況は?
【回答】
1945年当時,日本には3,000名前後のドイツ人が住んでいました.
今,日本に暮らしているドイツ人が4,000人程度ですから,ほぼ同数になります.
彼らの多くは,1947年2月と8月に米国の輸送船で,横須賀からBremenに送還されています.
ドイツ諸邦からの住民として初めて日本の地を踏んだのは,1855年のことで,アウグスト・リュードルフと言う商人が来日したのが最初(シーボルトはあくまでもオランダの人間と言う位置づけ).
1863年にプロイセンとの間で通商条約が締結され,1873年には御雇外国人とドイツ人商人によって,ドイツ東洋文化研究協会(OAG)が設立されています.
滞在ドイツ人の為に,1904年に横浜,1909年に神戸にドイツ人学校が設立されました.
横浜の学校は,1923年の関東大震災で壊滅しましたが,1933年に大森に「獨逸学園」が新たに完成し,関東居住のドイツ人たちはこの辺に住むようになりました.
第一次大戦の前後から貿易額は大きくなり,進出企業も多くなります.
今,日本でも有数の電機メーカーである,富士電機は,古河財閥の「ふ」とSiemensの「ジ」を取って設立された合弁会社だったり.
明治の頃は貿易商,時代は下って大正時代には,青島や南洋諸島などで抑留された捕虜が日本に住み着いた他,教育者,技術者,職人が日本に住むようになりました.
ドイツ語を教える旧制高校の教員たちの中にもドイツ人たちがいたりしています.
1926年に,第一次大戦で傷ついた日独関係を修復するために,Berlinに「独逸及び日本の精神的生活及び公的施設の相互的理解促進協会」が設立され,翌年には東京に「日独文化協会」が設立されます.
1933年には,京都に「独逸文化研究所」が作られました.
ちなみに,Berlinのそれは,アインシュタインやハーバーと言ったノーベル賞受賞者も設立に参加したりしています.
当初は非政治的な団体だったのですが,ナチスが政権を取ると,文化政策上の観点から,ユダヤ人や自由主義者の巣窟だったこの団体は排撃され,設立当初の人々が多く追放されてしまいます.
そして,政治が前面に出て来て,両国の親善関係促進のために,交換留学制度が作られました.
これにより,留学生の受け入れが始まりますが,Berlinの研究所での選考過程は極めて好い加減で,当初の人々を追放して後釜に座った党の幹部達は,日本語と中国語の違いすらわかってなかったそうな.
1939年から第二次大戦が始まると,各国にいたドイツ人は本国に引揚げることになります.
唯一のルートは,日本を経由してシベリア鉄道でソ連を通って本国に帰るものでした.
ところが,1941年6月に独ソ戦が勃発し,その帰国の道は絶たれます.
こうして,日本に残らざるを得ない人々がいました.
また,第一次大戦の混乱により,本国に見切りを付けて蘭印で警察官になったドイツ人もいましたし,その妻達も暮らしていました.
彼らは,1940年の本国の対蘭宣戦で忽ち抑留され,男はインドの捕虜収容所へ,女性達は蘭印の収容所に収容されました.
ところが,1941年12月,日本の対蘭宣戦で蘭印が占領されると彼女たちは日本軍によって,収容所から出され,日本に向かうことになりました.
更に,外交官,海軍軍人で日本に来航したものの,本国に帰れなくなった軍人達.
こうして,積もり積もって3,000名ほどのドイツ人が日本に滞在することになりました.
その大多数は東京,横浜,大阪,神戸と言った大都市に住んでいましたが,旧制高校の教員や宣教師達は,地方都市に散らばって住んでいます.
彼らは数人程度でも,小さなCommunityを形成したり,同じ同胞がいない場合は,欧州人を中心に付き合いをしています.
東京,横浜,大阪,神戸には其其ドイツ・クラブがあり,また,学術的な機関としてはドイツ東洋文化研究協会(OAG),先述の日独文化協会,独逸文化研究所がありましたが,これらの機関は,ナチスより一定の距離を置いていたので,反ナチス系のドイツ人でも或程度自由に出入りできていました.
避暑地としては,関東のドイツ人は,軽井沢,箱根,河口湖に行っており,疎開についても,これら三カ所に分散して居住しています.
ちなみに,蘭印からのドイツ人妻達の場合は,収入の宛が無かったので,大使館からの援助金で生活していました.
このため,大使館,または領事館から離れて生活することは無く,大使館の疎開に伴い,河口湖に大挙移住しています.
関西のドイツ人たちについては,主に六甲山の中腹の別荘が疎開先でした.
後に,ドイツが降伏すると,彼らを軟禁するための土地として,軽井沢,箱根,河口湖,六甲山中腹がそのまま用いられています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月23日21:14
ニーゲム大戸木さんの生活
太平洋戦争中のドイツ人達の食については,戦争初期は,普段通り,銀座や神戸のレストランで食事をしたり,パン屋からパンを取り寄せたりしていました.
日本のパンは,英国風のトーストするもので,ドイツ風の堅いパンではなく,地方に住んでいる人々は,長野に住んでいたドイツ人教師夫妻は,神戸からライ麦を取り寄せて自分で焼いたり,高知に住んでいたドイツ人教師は,神戸のフロインドリーブからパンを取り寄せたり,偶に神戸に赴いて食べに行ったりしていたそうです.
戦争が進んで,日本人でさえ食糧事情が逼迫してきた時点でも,基礎食品については,日本政府から配給を受けていて,飢えにまでは至っていません.
配給場所は東京の場合は,大使館にほど近い平河町のOAG会館で一人当りパンか米600gの配給がありました.
但し,肉は缶詰が多く,アルコール類は全く配給なし.
一方で,マグロの缶詰は結構手に入った様で,更にドイツの通商破壊艦が拿捕した連合国側の貨物船からの特別配給で,コンビーフ,ソーセージ,パイナップル缶,マーマレードなども手に入れる事がありました.
ラード,ヘットについては,箱根では毎週一缶,地方都市ではバケツ一杯の配給があり,また,ドイツ海軍は乗る艦が無くなった水兵達を陸に上げ,パン焼き釜を構えて自活していたそうです.
箱根の場合は強羅,河口湖,軽井沢,神戸にもそれぞれ配給所が出来ていました.
これらの配給物品は,日本人がそこまで輸送しますが,以後の配分はドイツ人達に任されています.
面白いことに,反ナチスのドイツ人にも,分け隔て無く配給は行われていました.
こうした配給品は,時に周辺地域の闇経済との交換物資としても機能し,新鮮野菜や卵,牛乳,果物をこうした形で手に入れています.
比較的恵まれた生活ではありますが,一番彼らが困ったのが靴で,材料入手もさることながら,職人が不足して日本で作ることが出来ない.
戦前はドイツの親戚などからシベリア鉄道経由で靴を送付して貰っていましたが,戦争中は鮫皮の靴などを履かざるを得なかったとか.
特に成長の早い子供の靴の入手は困難を伴い,乏しい布地を使って手作りの靴を作ったりしていました.
ドイツ人は地方都市にも入り込んでいますので,一般的に同盟国人として何処にでも行ける印象を受けますが,1941年12月8日の開戦時に「外国人ノ旅行等ニ関スル臨時措置令」が出され制限を受けます.
実質的には,1940年頃の総動員体制確立後は,例えドイツ人と雖も無闇に旅行できなくなり,鎌倉に行くのにさえ,許可を得る必要がありました.
例えば,横須賀は軍港で外国人出入り禁止,軍港近辺の写真撮影も出来なくなり,日本海も外国人が立ち入りを禁じられた場所で,駅を降りるや否や,警官に拘束され,問答無用に帰りの列車に乗せられたとか.
ただ,軽井沢から東京に出るとかについては,汽車が走っている限り,特に許可を得る必要は無かったようです.
情報については,当初はシベリア鉄道経由での郵便物受け渡しや電話が出来ていますが,独ソ戦開始後は中立国経由での郵便物受け渡しになり,それも無理になると,情報はドイツと日本の間で行われた無電によるニュース受信と短波放送が頼りになります.
愈,それも無理になってくると,NHKの短波放送では,個人宛のメッセージを受け付けて,それを発信することで,手紙の代わりにしていました.
ドイツ国内での戦いが始まると,もう全く本国と情報をやりとりする術は喪われます.
敗戦後,1945年末になって漸く,国際赤十字を通じて数十語程度のショート・レターと言う電信によって家族の消息がわかったりしたそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年02月24日21:34
【質問】
イタリア・ドイツは日本より先に降伏しましたが,日本の敗戦までの期間は,国内にいた伊・独人はどのように扱われたのでしょうか?
【回答】
東京周辺の枢軸国人については,軽井沢と富士五湖へ,関西近辺の枢軸国人は神戸山手・有馬近辺へと軟禁(移動の自由がないだけで,牢獄にぶち込まれることはない)されていました.
但し,反ナチと目された人間に関しては,大使館のSSが降伏後も,と言うか降伏後束縛が無くなり,日本の憲兵と協力して彼らを逮捕し,危うく空襲で焼き殺される所だった,と言うケースもあったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/11/09
青文字:加筆改修部分
【質問】
ドイツ降伏後,日本にいたドイツの大使はどうなったんですか?
【回答】
1942年にSorge事件でOttoが更迭されると,Joachim von Ribbentropの特使として,1940年に来日したHeinrich Schtarmarが大使に昇格します.
但し,ドイツ降伏後は大使館員にボイコットされ,実質上,河口湖ビューホテルで軟禁生活を送りました.
Joachim von RibbentropやらNazisに近い人物だった為,占領軍の到着直後に逮捕され,巣鴨拘置所で過ごした後,他の人々とは別に1946年に強制送還されました.
その他の外交官は,文化部にいたナチス党員が巣鴨に収容されますが,それ以外の人々は,1947年に二陣に分けて強制送還されました.
第一陣は,「好ましからざるドイツ人」が主体で,Nazisに関係したドイツ人,ドイツ系企業の役員,蘭印女子の一部が輸送船Marine Jumperで送還され,残りのドイツ人は第二陣の輸送船General Blackで送還されました.
外交官の殆どは,第二陣で送還されています.
更に,巣鴨で尋問されていた人々が20名程,1948年4月に空路で送還されています.
因みに,Schtarmarは,帰国後,Liechtensteinに移住し,其処で伯爵位を賜ったそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :2007/08/21(火)
青文字:加筆改修部分
【質問】
連合国側にも枢軸国側にも属さない外国人は,どのように扱われたのでしょうか?
【回答】
基本的に枢軸国側の外国人に対する扱いと同じで,監視対象であり,ある程度の干渉を受けたようです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/11/09
青文字:加筆改修部分
【質問】
支那人は監視対象に置かれていたのですか?
【回答】
汪兆銘政権を承認したことで,国内にいる中国人を敵国人に出来なくなったため,明確な監視対象にはなっていません.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2004/11/09
青文字:加筆改修部分
【質問】
戦前~終戦直後までの在日華僑の状況は?
【回答】
王監督お疲れ様でした.
巨人が一番憎たらしい頃の監督ですが,何処か憎めない人だった訳で,ムッシューと好一対.
アンチ巨人としても少し矛先が鈍ったような気がします.
…しかし,ホークスの次の監督は誰になるんやろ…秋山なのかな.
王監督も広義の華僑の一人な訳で,今日は華僑のお話なんぞ.
対華二十一カ条要求からこっち,日中間の情勢は不穏となりますが,華僑の人口は関東大震災で壊滅した横浜から移住してきた者も含め,神戸の華僑は5,000名余に膨れ上がり,大阪の華僑も1,000名余まで増えました.
1930年の人口は,神戸の華僑は6,243名,大阪の華僑は1,737名を数え,戦前のピークを記録します.
1931年に満州事変が発生すると多数の華僑が一旦故国に戻りますが,数値は間もなく元に戻り,1936年には同じくらいの人口まで戻りました.
しかし,1937年の盧溝橋事件を受け,華僑が一気に引揚げて,人口は再び激減しました.
この年の神戸の華僑は2,852名,大阪の華僑は864名になっています.
1941年になると,日本の傀儡とは言え,日本が承認した中華民国である汪精衛政権が南京に誕生し,再び渡来する者が増え,神戸の華僑は4,500名,大阪の華僑は1,800名を数えています.
しかし日本が太平洋戦争に突入すると,統制経済の強化で日華貿易は実績による割当制となって,華商の経営は不振となっていきます.
この為,経営規模の小さな華商は引揚げ帰国せざるを得なくなり,1942年末の神戸の華僑は4,088名,1943年末には3,856名となっていましたし,大阪も1942年末には900名前後だったのが,2ヶ月後の1943年2月には722名と,一気に減ってきています.
満州事変は,在神華僑に大打撃を与えていますが,華商と呼ばれる貿易商人達は,1937年までは未だ対応が出来ていました.
貿易は主に綿布,綿製品並びに雑貨類の輸出を主に,蘭印とタイ,シンガポール,南洋や香港を仕向地とし,総額の8割をこの地に充てていました.
残りは南米,中国本土,満州向けです.
貿易商の数は84の多きを数えますが,日中戦争の開始は,貿易に大打撃を与え,貿易商の数は32に減っています.
太平洋戦争が始まると第三国との貿易はほぼ途絶状態に陥り,零細な第三国貿易業者は,商工省の「貿易業整備要綱」による指導の下,整備統合して,全国で1,000名以上あった業者を300名に統合削減されました.
この内訳は,第三国貿易業者は134名,円域,つまり,関,満,中専門貿易業者が167名となっています.
しかし,此の「貿易業整備要綱」は,対象が日商,つまり,日本人商人だけの扱いであったため,在神華僑は大いに驚き,残存32業者から代表者を選んで,商工省や興亜院に猛運動し,遂に商工省から「外商と雖も華僑のみは日商に準ずる取り扱いを為す」と言う言質を得,1942年10月19日付で商工省と大蔵省の認可を得て,在神華僑貿易業者を統合し,神戸東亜貿易株式会社を設立します.
こちらについては,資本金20万円,発行株式数4,000株ですが,第三国との貿易が途絶している状況では,特に事業を行える状況にはありません.
とは言え,大東亜共栄圏の貿易に備え,物資集散地として大神戸港が整備される計画となっており,且つ,将来,平和になった際の貿易再開に備え,既得権益確保の為には,実績を保持する為にも此処は幽霊会社にしろ,会社組織を作っておく必要がありました.
一方,円ブロック向けの貿易に従事していた貿易業者は,1942年6月10日に興亜貿易株式会社を設立し,既に一体化を果たしていました.
当初は,日商との合併を勧告されていましたが,これに反対して,元々扱っていた陸海産物のうち,海産物の240万円の実績を日商側に譲り渡し,陸産物(椎茸とか寒天など)180万円の実績分を取り扱う商社として華僑のみによる会社を資本金20万円,発行株数4,000株で設立しました.
とは言え,1936年度まで華商が扱っていた輸出金額は7,500万円,それが1940年度になると1,900万円に急減したのですから如何に市場が狭まったかが判ります.
1937年7月7日,盧溝橋事件が勃発し,日本と中国との間に戦端が開かれます.
神戸にあった中国国民党神戸直属支部は,日本の軍事国情を調査の上,本国政府や党中央に通報している容疑が濃厚という理由で,同支部幹部楊寿彭を筆頭に44名を兵庫県警察部が検挙しました.
此の検挙は9月と12月の2度にわたるもので,何れも内務省の指示に依るものであり,取調べの結果,陸軍刑法違反4名(禁固6ヶ月1名,1ヶ月1名,起訴猶予1名,不起訴1名),諭旨送還19名であり,残りは容疑無しとして釈放されています.
1938年1月8日,在神華僑は北京に王克敏を首班とする新政府が成立したのを慶祝して,神阪中華会館で北京臨時政府成立援護大会を開催したのですが,直後の2月7日,中華民国駐神戸総領事館は,横浜,長崎と共に閉鎖されました.
次いで,南京に梁鴻志を首班とする維新政府が成立したので,4月2日,これを慶祝して南京維新政府設立祝賀大会を開催しました.
こうした運動の甲斐あってか,6月には中華民国臨時政府駐神戸僑務弁事処として,神戸の領事館は蘇り,青天白日旗に代わって五色旗が総領事館に翻ることとなりました.
弁事処長は,元中華民国駐神戸総領事だった王守善です.
因みに,青天白日満地紅国旗を掲げることを華僑が決めたのは,1927年10月2日,翌日雲仙から蒋介石が神戸を訪れ,宋子文夫妻と共に有馬ホテルに滞在し,神戸,大阪,奈良を訪ねて,東京を経て上海に戻り,12月に宋美齢と挙式を挙げました.
この日本旅行は,雲仙に逗留中の宋美齢母子に逢って,母堂に,彼女との婚約を認めてくれるように同意して貰う為の旅路でした.
それから僅か10年余で,神戸の華僑達は蒋介石を見捨て,新しい支配者に祝意を示したことになります.
その後,在神華僑有力者達は京都,大阪の在留民にも呼びかけ,新政権支持を表明,併せて在神華僑最高指導機関である神戸華僑新興会を組織し,7月30日に中華会館で発会式を挙げました.
1939年,英語だけが外国語ではないと言う意見が俄然台頭してきました.
過去の英語偏重に対し,独,仏,伊,西,または中国語への再認識が痛切に叫ばれ出した結果,私塾的な外国語教室が神戸の地でも目立って増えていきます.
他方,日中戦争の拡大で,占領地が拡大するに従い,軍人,民間人問わず中国に渡る者が増えてきた為,文部省では此の趨勢に対処しようと,新東亜建設を担う第二国民のため,全国中等学校,師範学校,実業学校に中国語を正科として採用することを決定しました.
神戸市内では,中国語を教授しているのは第一神港商業,第二第一神港商業,県商,第二県商,北神商業と言った実業学校から,滝川中学に迄及びました.
一方で,こんな人もいました.
元帝国サルベージ会社重役徳重三郎氏は,楠木正成が倒した敵兵を供養するために寄手塚を建立した故事に倣い,戦没中国将兵の迷魂を弔う為,自邸の芦屋町打出楠公社前に陣没中国将兵追悼碑を建立しています.
碑文は自ら創り,王守善中華民国駐神戸総領事の推薦で,大阪に在住している方子易(方洛)氏が添削の上,揮毫したもので,台石とも高さ8尺2寸の大きな碑でした.
未だこの頃は,官民とも余裕があった訳で.
当時,華商間の連絡機関として,出身地別の華僑連絡機関として,広東省出身者で作る広業公所,福建省出身者で作る福建公所,江蘇省,浙江省,江西省出身者で作る三江公所の3つに分かれていましたが,これらの機関は出身地方別に相対峙して相互間の意思疎通を欠き,ややもすると派閥対立の弊を醸し,在神華僑の輿論統一,円満な商業発展に差し支えがあるとして,また,日中戦争下,東亜全民族打って一丸とする,所謂新東亜建設の機に際会したとして,神戸華僑新興会は三公所を解消し,統合機関である神戸中華総商会を結成する事としました.
この際,基礎を強固にした上,法律上の保護を受ける為,社団法人化することとし,これを当局に申請して認められました.
1940年,汪精衛の重慶脱出により,中華民国国民政府が南京に誕生します.
3月30日,在阪神華僑は中華民国駐神戸総領事館主唱の下に,中華会館に於て中華民国国民政府南京還都慶祝大会を盛大に開催しました.
そして,秋には皇紀二千六百年記念式典が東京で開催されるのを機に,東亜大都市聯盟結成大会が開催されることになり,南京市長蔡培,天津市長温世珍らが来神しました.
1941年3月30日,中華民国神戸総領事館では,中華民国南京還都一周年を記念して,日華両国知名者を招き,祝賀パーティを催し,午後は中華同文学校にて阪神中華会館,神戸中華総商会,神戸華僑新興会,神戸中華倶楽部後援の下,慶祝遊芸会を実施しています.
こうして,時の権力に阿るようにして,彼等は生き抜いていった訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/23 22:00
1867年の兵庫開港に伴い,それまで長崎に滞留していた清国人商人が東上して兵庫や大阪に住むようになります.
また,欧米人の使用人や職人として,商人以外の清国人も兵庫や大阪にやってきます.
欧米人との間には不平等ながらも通商条約が結ばれ,彼等の扱いについても公使や領事の下で統制が取れていたりしましたし,不具合が発生した場合も,政府機関と彼等外交官との間で折衝が持たれ,それなりに秩序が維持されていました.
また,欧米人達は彼等の為に用意された居留地に居住し,その居留地内での治安は政府機関によって曲がりなりにも保証されていました.
しかし,清国人はそうではありません.
そもそも,1871年まで明治政府と清国との間には外交関係が無かった為,彼等は外国人でありながら特殊な地位である,「無条約国人」と言う扱いを受けていました.
彼等は,居留地共同上の事に参加同盟することが出来ず,従って保護もきちんとは与えられていなかったりしたのですが,一方で自由放任だった為に,日本人商人との間に様々な軋轢を生み出すと共に,居留地の周辺に家を構えて住むケースが多かった様です.
そのままでは不味いと言う事で,1869年12月に兵庫県外務局は,寄留清国人に対し,籍牌を授けることになりました.
この籍牌こそ,後の外国人登録証明書の始まりと言う訳です.
1870年,神奈川,大阪,兵庫の在留民を対象とする「支那人取締法」が公布され,神戸や大阪では清国人を雇って,彼等の取締をさせるようにしています.
1871年,漸く明治政府と清国政府との間に日清仮条約が締結され,外交関係が樹立されました.
仮条約が締結されたとは言え,清国の内政のゴタゴタもあって外交機関の設立は遅れ,1867年に米国,以後,英国,フランス,オランダ,デンマーク,ベルギー,スイス,イタリア,スペイン,ポルトガル,プロイセンなど列強各国が領事館を神戸に開設したのとは対照的に,清国理事府の設置は1878年にずれ込みました.
日清戦争により一旦閉鎖されますが,1896年には理事府を清国正領事府と名称を改め,1899年に治外法権が撤廃されるまで,在留民の保護や自国民に対する民刑事務の処理をも取り扱っています.
条約改正と共に,清国正領事府は,大清国領事館と改称されました.
1912年,清国が覆滅すると,中華民国領事館となり,1925年には中華民国総領事館となって,1926年に大坂に駐大阪弁事処が置かれています.
1938年,日中戦争の勃発に伴い,総領事館の閉鎖と館員の引揚げが行われますが,日本による傀儡政権の発足と共に,1938年7月に中華民国臨時政府駐神戸僑務弁事処が設置され,1940年の汪精衛の新生国民政府が樹立されると,8月には中華民国総領事館に復帰しました.
1941年12月8日,太平洋戦争が勃発.
在留華僑は他の外国人同様,旅行の立入許可等一定地域外への旅行は厳重な制限を受けることになります.
食糧物資は配給制となりますが,在留外国人には特別配給が行われ,在留華僑には新興会を通じて1人当り1ヶ月2合の食用油を配給しています.
しかし,戦況は悪化の一途を辿り,国内の人的資源も払底してきたので,1943年になると中国本土から炭礦,荷役労働者として兵庫県へ500名,後に1,000名の労務者が割り当てられました.
当初は,神戸港湾荷役会社へ大連福昌公司から500名,次いで,華北から500名が送られ,神戸港の荷役を担い,相生町の播磨造船所には,雑役夫として500名が雇用されました.
更に1944年になると,貿易は壊滅状態となり,華商の大多数が職を失いました.
この為,11月より新興会は県の斡旋で,市外(今は市内ですがその当時は市外でした)の深江にあった日東航空器工業株式会社に失職者を就職させる事とし,これを華僑増産隊と呼んで,老幼男女を問わず,その賃金は日給5円,1ヶ月働くと150円となって,別に特配として米4.5合(配給は2.5合)が支給されました.
この頃としては月給が良い方でしたので,結成当時93名の隊員は,1945年始めには165名に増えます.
しかし5月11日,B29による空襲に遭い,日東航空器工業株式会社は,隣接の川西航空機と共に爆撃されて多数の死者を出しました.
華僑増産隊も,死者18名,負傷者多数を出しています.
こうして,日本は敗戦を迎えますが,これで先ず蜂起したのが神戸港の港湾荷役に従事していた中国人達で,彼等は敗戦と同時に,海岸通り沿い倉庫から貯蔵物資の略奪を行い,外省人とされていた人々も,日本が敗戦したことで俄然立場が逆転し,それが行動となって現れたりしました.
中華民国そのものは戦勝国となり,彼等には警察力は及ばず,無秩序,無法状態を創り出しました.
進駐軍の治安維持にも,敗戦国の義理的なものでしかなく,白昼堂々,警察官が袋だたきにあって殺される事件も発生しています.
また,トア・ロードや三宮駅付近の焼け跡を不法占拠したり,高架下に屋台が作られ闇市が成立するなどの状態になっていました.
当時は,日本側は検挙は勿論,処罰も出来ず,日本の警察は占領軍に協力する形で,犯罪者の逮捕起訴が行われ,裁判は旧居留地の明石町に設置された軍律法廷で行われました.
これら第三国人犯罪者は,米軍裁判官の下で裁判が行われ,中国人や台湾人の場合は,代表部大阪弁事処長が公判のある度に陪席することになっていました.
1947年から在留外国人への規制を,外国人登録令の施行という形で実施し,1948年からは日本警察の体制も漸く整い,治安が強化されると密貿易の摘発も増えて遣りにくくなりました.
ただ,こうした連中は港湾荷役で連れて来られた連中や台湾出身者の食い詰め者に過ぎず,殆どの利に聡い連中,つまり,古くから日本に住んでいた華商達は,日本の独立回復までの7年間の間に才覚を駆使して,商売に励むことになります.
当初は,混乱状態が続いたので,不正規ルート,つまり,密輸が彼等の主な収入源となります.
最初は台湾から砂糖,香港からサッカリン,次いでモンサント,更にペニシリンが持ち込まれると言った具合で,甘味料や医薬品が密輸入の中心で,見返りとして海産物,紡織機部品などが密輸出されました.
しかし,進駐軍に後押しされた日本の警察の取締が暫時厳重となってきたことから,一般貿易商は逸速くこれに見切りを付け,1948年から正常な貿易が再開されるようになります.
また,彼等はドルの入手が容易な為,舶来品を売る店を開いて,闇市などで儲けた成金相手に繁盛することになりました.
1948年頃からパチンコが流行り始め,賭博心が強く駆引きの上手い華僑がこの商売に手を出しました.
更に新円切替えの際,中国人は対象外であった為,日本人から旧円を掻き集め,利鞘を取って莫大な利益を得る者もいたそうです.
ただ,戦前からいた三江出身者は,その後の国共内戦で脱落し,満州との河口貿易で稼いでいた河北省,山東省出身者もまた,満州帝国と共に没落の憂き目に遭いました.
広東省出身者も一部を除いて小型化し,代わって進出してきたのは,香港系と台湾系です.
福建省出身者は,伝統的に誠実で,商人道に徹している者が多く,戦後もかっちり生き延びています.
香港系は,協調性薄く,利潤追求に余念がないと言われます.
台湾系は,日本人的な性格を有し,大商社も比較的多いと言われています.
敗戦後は,戦前から居留していた在日外国人の保護管理は,GHQの極東委員会によって行われ,中国は極東委員会の一員として,別個東京に中華民国駐日代表団を設置し,大阪,長崎などに僑務処の分処を設置しました.
大阪に置かれた分処は,阪神を中心とする名古屋以西,四国を含む広島までの地方を管轄するものです.
これが1952年まで続き,日本が独立を回復すると,この組織は廃止され,再び中華民国領事館が設置されることになりました.
1949年,蒋介石は大陸を逐われ,毛沢東による新中国の建国が宣言されました.
台湾人の間には,2.28事件を契機に台湾独立の動きが強まり,1948年秋に台湾民主独立党が誕生し,日本に本部を置いて,国内では神戸など5カ所に支部が置かれました.
一方で新中国の成立に伴い,その同調者の活動が活発となり,在日華僑民主促進会神戸分会が設立されました.
彼等の中には教員が多く含まれ,こうした人々の中には,正規ルートではなく,密出国と言う形で,中国大陸に渡った者も多かったようです.
また,これに感化されて学生の中には,大陸への帰国を希望する者が増え,これを阻止しようとする父兄との間で悶着が起きるのも華僑の中で問題となっていました.
一方で,中国から密入国する者も絶えませんでした.
特に,「漢奸」とされた満州,華北,南京の各傀儡政府の役人達が国府からは追われ,或いは新中国からも追い打ちを食らって,行き場の無くなった人々が多くいたようです.
1950年,東京で,華僑の内,進歩的分子とされる人々が中心になって,華僑民報と言う雑誌を創刊します.
当初は隔週刊でしたが,これを週刊紙とする為,基金の募集をすることとなり,華僑民報神戸支局と留日華僑民主促進会神戸分会がこれに当りますが,朝鮮戦争の勃発で,共産主義勢力に対する弾圧が強められ,1951年9月,武装警官200余名が,東京の留日華僑民主促進会を襲い,同会機関紙華僑民報に関する書類の押収と,差し押さえを実施,連合国関係の言論機関初の弾圧として,華僑民報発刊を停止しました.
こうして,日本の占領は終わり,それと共に華僑の黄金時代も終わりを告げることになります.
…てか,おかしいなぁ,領事館警察の話を書こうとしていたのに,何故に華僑の戦後史になるんだろう.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/24 22:41
華中,特に上海方面に於ける理髪業と言うのは,風呂屋業,車夫と共に,戦前は揚州人,つまり江蘇省揚州出身者の専業となっていました.
神戸に於ては,揚州人ではなく,広東省梅県出身者の李安琳,李新琳が草分けで,前者は1870年に来日して外国人相手の理髪店を開業し,後者は1878年に来日して,支那床を開業しました.
清国人と言えば,辮髪が有名です.
これは丁髷と同じ様に,時々月代を剃り,調髪せねばなりませんでした.
この剃頭をする専門の剃頭店(床屋)は,明治の前半には極めて少なく,1~2軒有るくらいで,華僑でも有力者とか貿易商の場合は,自前で使用人や店員の中から剃頭出来る者を連れてきています.
彼等は,身の回りの世話とか,店の仕事をさせる傍ら,店員達の頭髪も剃ったりしている兼業者でした.
1891年,日本に北洋艦隊を率いて来日した丁汝昌提督にも,揚州人陳東宝と言う者が,剃頭的として従事していました.
彼はこの来日の際に艦を下りて,東京に居残り,1894年の日清戦争当時には神戸に流れて剃頭舗を開業しました.
この支那床は余り資本が無くても出来るので,剃頭に経験がある者は,平常雑用をして漸次小金が貯まった時点で,店員や使用人を辞めて,ささやかな店を出すのが一般的でした.
1904年当時には,最初の2軒と華中出身者3軒のみで全部で専門職は15~16名程度でしたが,1909年頃には倍増して約30名程度となり,1914年には更に増えて60名,しかし,辮髪は清国の消滅以後,消えてしまいました.
大正時代に入ると日本は好景気を謳歌し,安い給料の理髪職や洋服職に従事する者が無く,こうした内地の状況が大陸に伝わり,1919年~1923年まで当局の取締が緩慢なのに乗じて,中国人労働者が流れ込み,それに連れて理髪職のなり手も多くなっています.
ところが,1923年以降,日本の取締は厳重となり,更に満州事変,日中戦争と来て,太平洋戦争で止めを刺されました.
中国人理髪業が多くなかったのは,彼等が剃頭を主にやっていた事にあります.
とは言え,清国人の耳掃除,按摩,顔剃りは結構日本人にも受け,常連もいたそうです.
この当時の店の設備は殆ど無く,看板に整容館と書いたものを掲げ,屋内には?子(トンツ)と言う背凭れのない背の低い腰掛けと,洗面器に櫛(梳子),幅の広い中国剃刀(剃頭刀)さえあれば事足り,その後の洗髪設備とか美容器具,化粧品まで揃える必要はありませんでした.
その辮髪の剃頭ですが,剃頭刀で頭髪の中央部を残し,周囲を剃り落すだけです.
剃頭が終わると梳子で頭髪を梳き,雲脂取りである蓖子でフケを取って,刷子で毛並みを整え,打辮子(辮髪を編むこと)をします.
辮髪は長い程ハイカラであると言われ,若者は辮捻子の長いものを付けますが,老人はそれを余り付けません.
打辮子は,髪を三筋に分けて編み,通常木綿又は絹の辮線と称する打紐を髪に編み込みますが,この打紐にも決まりがあり,家に不幸がある際は白色,子供は赤色を使用することになっていました.
整髪料は,日本の場合は鬢付油などを用いますが,辮髪の場合は,?花水(パファシュイ)と称する黄楊の木を水に浸したものを頭髪油代わりに使用していました.
理髪業としてやっていくのは,この剃頭以外に先述の耳掃除である把耳朶と叩背は是非とも修得しなければならない技です.
耳掃除は,耳朶把子,つまり耳掻きで耳垢を取り,把耳朶刀で耳孔内の細かな毛を剃り,耳朶掃子(ぼんでん,耳掻きのふさふさの方)で耳垢を掃除するサービスです.
注文に応じて,更に鼻毛も剃ってくれます.
叩背は字の如く,叩き按摩ですね.
また,日本では余り流行らず,1代限りの技術になってしまいましたが,中国の風呂屋には内部に理髪処の設備があり,修脚と言うサービスもありました.
この修脚,別名を美爪術とも言い,伸びた爪は元より,肉に食い入った爪,格好の悪い爪を取るもので,この他,まめやたこの除去もやってくれます.
修脚には長方形の薄くて幅の広い皮刀,細長い剪脚刀と,片方にピンセットの着いた柑子刀の3種類の小刀を用い,巧みに爪の形を整え,まめやたこを削り取ります.
何故,日本では余り流行らず,彼の国で発達したかと言えば,日本人は素足,或いは足袋に草履ですが,中国人は幼時から鞋を履くので,よく足にまめやたこが出来,爪が肉に食い込むことが多いことからこうしたサービスが発達した訳です.
このサービスは欧米人も靴を履くことから,意外にも需要があったりしました.
まぁ,今のネイルサロンの原型でしょうかね.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/29 23:04
さて,今日は買辮について取り上げてみたり.
清国に欧米諸国の商社や銀行が進出して通商しようとした訳ですが,彼の国の商習慣は複雑で,言葉はてんで通じず,経済事情にも暗くて,余り活動が出来ませんでした.
で,彼等が取ったのが,その土地の物産事情,商慣習,取引商人の信用状態に通暁すると共に,彼等の言葉を解し,更に相当資産,信用のある清国人を雇い入れ,手数料と棒給を与え,一般中国人に対する取引を行わせて,その取引から生じる一切の責任を負わせると言う,一種の委託販売員の形式でした.
成功すれば,結構な額の報酬が入りますが,失敗すれば自己の損失は莫大となります.
彼等のことをポルトガル語で,Compradoreと言い,中国では一般に「買辮」と呼んでいます.
日本の地でも,中国商人との結節点維持の為,この買辮は活動しており,外国人経営の商社,銀行,汽船会社,貿易商社などに雇傭されていて,それぞれの異なった営業の種類によって多少の差異があります.
ただ,貿易商社,銀行と華商の間にあって,仲介業務として手数料を取り,双方の為に事務を代弁する事には変り有りません.
この買辮ですが,裸一貫では雇われません.
買辮になるには,相当の保証金を必要とするのみならず,相当の資産のある者を別に保証人に立てて,契約書に誓約しなければならないと言う高いハードルがあります.
もし,この買辮が詐欺は勿論,執務上の錯誤を起こしたとしても,保証金をその違約に充当すると共に,保証金が違約に達しなければ,保証人もまた連帯して賠償を取り立てられる可能性があったりします.
保証金の額は,相手外資の規模,業種,入社当時の経済状況などによって一定しませんが,日本での買辮は,大体1~10万円の範囲とされていました.
勿論,保証金とは言っても,預けっぱなしでは彼等もやる気が出ないでしょうから,その保証金には大体年率5分の利息が付けられていました.
彼等には他に雇傭主から一定額の給与も支払われますが,買辮の傭人は,買弁自身が自己の責任に於て雇傭し,給与を支給する者と,買辮の雇傭主が直接雇用し,買辮に付ける者の2種類に分かれています.
とは言え,外部から見たら,同じ様に見えたりする訳ですが,前者はCompradore
Shroffと言って,買辮の執務をする者で,雇傭主は直接指揮監督をしませんが,後者は雇傭主の業務をする者です.
まぁ,今のIT企業に於ける正社員と協力企業社員との関係に似ていますね.
銀行の買辮は,華商の信用調査,貸付,荷為替の割引などを行います.
これらの行為に対しては,買辮は,給与とは別に,8分の1%,つまり,1,000円に対し,12円50銭の手数料を取りますが,信用状発行に関しては,華商,銀行の双方から手数料を取ることが出来ます.
汽船会社の買辮は,主として現金収納を管掌し,他の買辮と同様に月給の支給を受けるほか,買弁の手を通じて為された会社船による華商積荷の運賃に対し,手数料を受ける事が出来ます.
従って,彼等は会社船の入港に先立ち,華商荷主に対して勉めて多量の積荷を確保する様に尽力する訳です.
買辮は華商荷主から5分の手数料を受け取りますが,会社側はそれとは別に若干の料金を荷主側にキックバックするようにしています.
但し,このキックバック分は,荷主よりもその荷物を保管していた倉庫業者,特にその倉庫番の方に渡ることが多かったりします.
勿論,荷主はそれを黙認していました.
即ち,実際に出荷作業は,荷主よりも商品を預かっていた倉庫番の方が担当しているので,買辮はそちらとの関係を深めておき,実際に出荷の際には倉庫番は,関係を深めていた買辮の会社の船を用いたので,それに対する御礼と言う意味でのキックバック分を倉庫番へ還元した訳です.
彼等が日本で活動を始めたのは明治初期の頃.
当初は清国にいた買辮が,血縁者を2~3名補助的に用いたに過ぎませんでした.
第一次大戦後には外資系の銀行や商社が日本に大量進出し,これらの銀行や会社は,多くの人手を要することとなり,1921年以降1927年前後までに激増して,1933年に買辮を含め,外国系銀行や会社に雇傭されている華僑は約500名に達していました.
此の大部分は広東系中国人で,福建系は横浜正金銀行で買辮をしていた王重山と言う人1人だけだったそうです.
彼等は太平洋戦争勃発に伴い,米英蘭など各国の会社や銀行を運営していた人々が,敵性国家居留民として本国に帰国,引揚げになった事で職を失い,大多数は本国に引揚げることとなります.
しかし,本国に引揚げても,戦後は人民中国の成立で彼等の仕事は完全に消滅してしまいました.
この買辮は,華僑の中でも最も特異な存在であり,その地位は貿易商と共に上位にあり,知的水準は高く,少なくとも本国の言葉の他,日本語と英語に通じ,収入は豊かでしたので,豪壮な邸宅を構えて生活していた者も少なくありませんでした.
勿論,こうした買辮がスポンサーになって辛亥革命の支援をする人もいたりしました.
将来に対する投資的なものかも知れませんが,この辺り,日本人とは違いますわな.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/09/30 22:58
▼ さて,明治以降の日本で,中国人の代表的な犯罪は,前にも書いたように賭博,阿片売買と吸引,金塊の密輸等が挙げられます.
阿片吸引は,神戸では居留地撤廃の1898年まで,居留地に隣接した雑居地,通称南京町辺りでは日常茶飯,堂々と行われており,生阿片は,入港する中国人船員から買入れ,この辺りで阿片膏に精製して密売(と言えるかどうかは判らないが)していました.
生阿片は,灰褐色の軟らかい塊状で,一見黒砂糖に似ています.
これに香料などを加え,味,香りを良くしたものが阿片膏です.
吸引方法は,阿片膏を煙管,無ければゴム管の先に付けた陶器の吸口に載せ,灯油でちりぢり焼いて,煙を煙管を通じて吸引するもので,臭いは乾燥した馬糞に似ているそうですが,悪臭と言う程では無かったそうな.
戦前は,阿片は吸引しても健康を損なうことが無く,神経を麻痺させる効能があることから,胃病,リウマチ,肺結核の鎮静剤として良く効くとされ,密かに吸引されていました.
1899年以後は当然違法で,密吸引者の検挙は大抵戸外に漂ってくる臭いで発覚するケースが多かったそうです.
昭和初期には,在神有力華商が自宅内に多量の生阿片を隠匿し,自家用として吸引して楽しんでいる所を検挙されるなど取締りが結構ありました.
こうした阿片吸引が下火となったのは,日中戦争から太平洋戦争で貿易が不振になっていったからと言うのが皮肉です.
第二次大戦後は,再び阿片を含む麻薬類の密輸が復活しました.
1950~51年頃には,覚醒剤の原材料である塩酸エフェドリンが香港から密輸入され,1955年に頂点に達しました.
警察当局ではこうした動きに対し,徹底的な掃討作戦を実施したので,覚醒剤は下火になりましたが,これに代わったのがヘロイン,モルヒネと言った精度の高い麻薬が入るようになり,外国船乗り組みの中国人船員や在留中国人が多数検挙されています.
こうした動きも,1960~61年が最盛期で,以後は中国人は犯罪の表舞台から姿を消し,代わって日本人暴力団の台頭となっていきます.
賭博は,中国人と切っても切り離せないものです.
中国人が好んでやっていた賭博には字花,白鴿票,番攤(四個四個とも言う)が主ですが,紙牌(カード),天九(ドミノ),排九(天九に用いる牌を用いる),大小(数の大小に賭けて勝負するもの),十三張(4人トランプ),そして,言わずと知れた麻雀があります.
1887年,南京町には清国人住居で賭場を開帳しているのが数軒あり,博徒を拿捕した所,1カ所で4~50名の多数に上ったそうですし,その頃には清国人に勧誘されて参加する日本人が増え,淳風良俗を紊すのは勿論,弊害が大きくなった為,日本側は清国理事府に照会し,清国人20名を退去させた記録もあります.
1903年,賭博行為禁止に関する布告が清国駐神戸領事呉仲賢の名で公布されていましたが,そんなに効果は無かったようですが,時代が進むに連れて日本側の取締り徹底も功を奏し,規模は小さくなって,精々が個人の娯楽程度に落ち着いてきました.
しかし,これまた太平洋戦争後,華僑は莫大な利益を上げる事になったことから,生活が豊かになり,しかも,日本人官憲の取締も緩くなったので再び金を掛けた賭博が行われる様になりました.
と言っても,白昼堂々行われるものではなく,同業組合,同郷人倶楽部,家庭内で行われる程度で…と言っても賭け金の相場は一夜で20~30万円(1950年代で)が普通で,時には300~400万円が動くこともあったと言います.
まぁ,日本人がこの賭けに手を出すのは例外中の例外で,大抵は華僑同士のものであり,破産し,1億円程度の損害を被っても,表向き平静を装い,何とかやっている者もいたりしたそうです.
最近でこそ,中国人による凶悪事件が跡を絶たない訳ですが,華僑の間では,殺人,傷害と言った凶悪犯罪を罪悪の最たるものとして軽蔑していました.
神戸で在留華人による殺人事件としては,1916年に中華同文学校教師が,親戚の貿易商の店員を殺害し,店のある海岸通り4丁目から山手の中国国民党支部辺りまで逃亡したが,捕縛されたと言うものがあります.
これは,この教師が親戚の地位を利用して手形を偽造して現金化することを目論見,店員を失踪させ(実際には殺害して),彼を犯人に仕立てようとした,何だか2時間ドラマにありそうなストーリーですが,死体を埋める為に穴を掘っていた所を発見,逃亡,捕縛されたと言うもの.
結局,彼は裁判の結果,無期懲役となり,網走監獄に送られましたが,その後の消息は不明だそうです.
戦後の犯罪は前に触れたように,密輸が主です.
例えば,台湾人による砂糖の密輸,大陸系中国人による香港方面からのペニシリンの密輸があります.
米軍基地からの軍需品,外国製品の横流しなどにも中国人が荷担することが多かったりしました.
こうした占領時期は,日本の警察は手出しが出来ませんでしたので,裁判は駐留軍による軍律法廷が,神戸市中央区明石町の大同ビル2階に設けられており,中国人の裁判がある毎に,中華民国駐日代表部大阪弁事処長が陪席して進められていました.
1952年に日本が主権を回復すると,奢侈品の密輸が多くなります.
1949年頃からスイス製男物時計や婦人用時計(南京虫と称された)が香港から続々持ち込まれ,1960年代には高度経済成長による生活の向上で,宝石ブームとなり,大量の宝石が密輸されることになります.
これと前後して,1955年頃からは金塊の密輸が盛んになり,1972年に自由化されるまでこれは続きました.
1967年には大量の宝石密輸が発覚したり,1.2トンの金塊を香港から密輸する事件が発覚したりしています.
後者の犯人には12億円の追徴金が課せられました.
凶悪犯罪は忌避された訳ですが,誘拐は結構ありました.
1872年,太政官達第五十五号で,清国人による日本人貧民の幼児を海外に売買を禁止する通達が出されています.
1883年頃には,清国人が幼児を誘拐すると言う風説があり,神戸市民を恐怖に陥れました.
兵庫西出町辺りでは,道場の剣客を夜警に当らせると言う騒ぎにまで成っています.
1903年になっても未だ,清国駐神戸領事が日本人幼児の誘拐について,厳重な禁止と処分の告示を華僑の密集地帯に張り出すケースがありました.
幼児だけでなく,婦女子の誘拐も結構ありました.
特に当局の手を焼かせたのは,福建省福州出身の呉服行商人と,浙江省温州出身の雨傘行商人でした.
福建省でも厦門方面出身者は,「紳商」と言われて商人道に徹している人々ですが,同じ商人でも福州出身者は,性質が狡猾,利欲に長けていると言われ,詐欺,窃盗,婦女誘拐など犯罪を重ねることが多かったそうです.
昭和初期に全国的に行われた万引き事件の殆どは,これら商人によって組織的に行われた犯行で,彼等の原籍は福建省福清県でした.
名前に合わず,この県の農村は生活程度が低く,このうちの南門外のものは海外の出稼ぎの内,8割が日本に,2割が南洋に行くと言われています.
この辺りの農村には,1村に必ず1~2名は誘拐されて渡航した日本人妻がいたそうです.
1931~32年に掛けて,日本人婦女を誘拐し,神戸港から国外に連れ去ろうとして出港間際に発見された邦人婦女子誘拐事件だけで4件に上りました.
彼等の手口は,農村に赴いて,婦女子に対し,大阪や神戸と言った大都市での華やかな生活を語り,彼女たちがそれに同調して,商人と共に神戸に行くと,彼等は凄んで脅迫,其の儘,船に乗せられて,福建に送られ,其処で農村に幾ばくかの費用で売られ,嫁や妾にさせられるものです.
こうした人たちは何人かは日本領事館に救出されたとは言え,昭和初期でも未だ数十名が残っていました.
其の昔,遊び惚けて暗くなって帰ってくると,親に「子捕りに攫われる」と脅されたそうですが,あながち嘘ではない話だったりする訳です.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/10 21:34
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ギャンブラー
(画像掲示板より引用)
【質問】
日中戦争勃発後,在京都の華僑はどうなったのか?
【回答】
さて,1937年7月の日中戦争勃発に伴い,京都の華僑達は半減しました.
その上,12月12日には日本各地にいた国民党員が一斉に検挙されました.
この一斉検挙では,全国で326名が逮捕され,その内37名は外諜活動及造言飛語の嫌疑で送検されたのですが,有罪判決を受けたのは僅かに10名でした.
他は,1938年の『外事警察概況』によると「具体的犯証無き為不起訴となりたり」とか,「其の他送致の程度に至らざるも反日意識を抱持し在留好ましからずと認め本国に送還したる者115名,容疑濃厚ならずして釈放したる者174名なり」となっています.
此の一斉検挙で捕まった京都の華僑は24名であり,党幹部2名,党員其の他関係者6名,同居者16名となっていました.
その内送還されたのは14名であり,1938年2月に米客船で送還されていました.
送還者14名中11名は理髪関係者であり,3名は呉服通信販売とメリヤス雑貨行商でした.
また,省別では1名が江蘇省である他は全員が福建省でした.
その中には,魏学銓や李孟鑑と言った華僑学校に積極的に関わった人々もいました.
この年,日本は汪兆銘を担ぎ出して,南京に傀儡政権を作り出し,華僑達に対しても圧力を加えて,その傀儡政権を支持し,自分たちの意のままになる僑団を各地に作らせました.
京都にも5月13日に,京都留日華僑聯合会が李秀卿会長の下に作られました.
因みに,神戸に出来た同様の組織である神戸華僑新興会については,企画院の『華僑の研究』に大凡次のように書かれています.
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本会は事変後華僑の大同団結を目的とし,主として兵庫兼外事課などの斡旋によって1938年7月30日設立された団体である.
在来の三公所の如く,出身地によって相互に対立するが如き民国人の偏狭なる弊風を打破し,将来神戸華僑の政治的経済的指導機関たらしめんとするものにして,政治的には今後臨時政府の有力なる支持団体となるべき神戸華僑唯一の統一的組織である.
現在会員数は53名にして,各省出身華僑のあらゆる職業の有力者を網羅しているが,会員中最も多い者は貿易商である.
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この神戸華僑新興会なる組織,役員は13名いましたが,会長や副会長を含む8名が日本国籍に帰化した人でした.
帰化については,1937年5月1日に内務省が各都道府県に通達した「外国人の帰化などの取扱に関する件」で書いているように,
「その帰化の動機純正にして真に皇化に浴し,日本人に同化せんとするの意思に出てたるものなること,従って帰化を以て国家の法益を害し或は取締若は制限を免れ或は自己の職業其の他に利せんとするものに非ざる事」
と,現在よりも非常に厳しい条件が付されています.
神戸の場合は,全国の在日華僑の内,4分の1を占めていましたから,有力者や上層部を巻き込んで一般の華僑に影響を及ぼす方法を採りましたが,人数が神戸の13分の1しかいない京都ではこうしたまどろっこしい方法を採らず,全華僑を根刮ぎ東本願寺の信徒にして国策に役立たせようとしました.
この為に作られた組織が仏教興亜会でした.
因みに,1939年12月末現在,京都の華僑の殆どは「三把刀」型,つまり,料理人,理髪関係,洋服仕立の3つの職種で構成されていました.
1939年2月23日午後1時,京都の殆どの華僑150名が東本願寺の表小書院に集合させられ,大師堂にて大谷勝信による帰敬式が執り行われ,信徒となりました.
午後3時から議事堂で大谷瑩誠が同席して京都仏教興亜会の発会式が開催され,宮城遙拝の後,大谷光暢法主の挨拶が代読され,安田宗務総長の式辞と来賓側から中岡第16師団長,鈴木知事,市村市長,安藤商工会議所会頭,王守善中華民国維新政府僑務弁事処長の祝事があり,華僑を代表して張福義京都華僑聯合会長の答辞がありました.
そして,式の後は張福義を座長に協議に移り,宣言,決議を可決するや緊急動議が出され,北京の臨時,南京の維新両政府並びに蒙疆自治連盟政府に対し激励の電報を打つ事を満場の拍手で可決し,役員名簿発表の後万歳三唱を以て閉会しました.
その後会場を枳殻邸に移して余興を楽しみました.
会長は安田力宗務会長,副会長は竹中茂丸,為郷世淳両参務であり,幹事と書記は日中1名ずつ,評議員7名は全員が中国人,参与8名,相談役1名は全員が日本人でした.
中国人の組織と言いながら,実態は日本人が牛耳る傀儡的な組織だった訳です.
5月になると皇軍戦没将士追弔会が開催され,6月には大阪仏教興亜会が,11月には神奈川県日華仏教会が大谷瑩潤を総裁に設立されました.
そして,こうした華僑組織を束ねる全日本華僑総会が具体化していきます.
因みに,1940年4月より東本願寺の日曜学校に,華僑を対象としたクラスを設ける事になり,留学生の劉国泰を教師に,究真,心光を助教として大谷和洋裁縫学校内に開設しました.
このクラスの教科は修身(公民科)と常識(中国語)であり,教科書は神戸の中華同文学校で使用中のものでした.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/16 23:06
青文字:加筆改修部分
【質問】
第二次大戦後,在京都の華僑はどうなったか?
【回答】
さて,1945年4月26日の天長節に,吉田山の北側のアパートに中国人留学生が,集団教育と言う名目で集められ,羽田亨京大総長がこの建物を光華寮と命名しました.
この建物が,後に長期に亘る裁判で有名になる寮となります.
この頃の寮は,「特高の犬共に番をされ…牢獄の如くそびえ立ったコンクリートの建物」だったと書かれています.
他に中国人用として吉田寮,「満州国」留学生用の卿雲寮の2箇所がありました.
戦後,京都華僑学校の先生は全員,これら3つの寮の出身者であり,また各地の華僑学校にも多くの教師を送り出し,日本の大学等で先生になった人もいれば,祖国で活躍した人も多数います.
8月15日,日本が無条件降伏すると,京都の華僑は日本各地の華僑と同じ様に,京都華僑聯合会を再編し,特高警察と関係の深かった役員を退け,それまで排除され,弾圧されていた愛国的な華僑が前面に出て人心の一新を図り,活発な運動を展開しました.
更に,今まで「帝国臣民」とされていた台湾省出身者と,「満州国」留学生もここに合流し,組織の活性化に貢献しました.
彼等は,戦時中に中止されていた普度勝会の復活,京都華僑学校の創立,中華料理組合の結成,京都華僑公墓の設立など,次々に華僑の生活を改善する活動を繰り広げました.
しかし,こうした活況は長く続かず,冷戦の進展,そして1949年に中華人民共和国が成立し,台湾へ中華民国政府が避難すると,日本の華僑は,中国大陸から追い出された中華民国政府の管理の下に置かれる事になりました.
そして,戦時中と同じく,台湾に近い人々が役職に就き,中華人民共和国を支持してきた人々を弾圧,或いは追放していきました.
その為,新中国を支持する人々は既存の組織に対抗して別組織を作るという状態が続きます.
各地の僑団や僑校,留学生寮で起きた事件は殆どが此の事に起因します.
京都でも新中国を支持する華僑新民主協会は京都華僑倶楽部,京都華僑聯誼会へと発展していきますが,華僑総会の主導権を巡る抗争は,最高裁で新中国派が勝利するまで22年もかかりました.
同じ様に,光華寮裁判も35年に亘って争われており,未だに終息していません.
因みに,京都の福建同郷会は,普度勝会を始め地元でも重要な役割を担っていますが,1961年に第1回旅日福建同郷懇親会を開催するなど全国的にもかなり活動が活発な同郷会です.
この同郷会では福建省の古黄檗に法堂を建立したり,大般若経の経典を寄贈するなど積極的に文化活動にも取り組んでいます.
現在の問題は,今まで京都に根を張り,地歩を徐々に徐々に築いてきた旧来から日本で暮らしていた老華僑と,日中国交正常化後,豊かさを求めて日本にやって来て,ただただ金を稼いで帰るだけと言う新華僑との関係です.
問題を起こすのは大抵が新華僑であり,その為に日本に今まで住んでいた老華僑にも影響が及ぶ事から,老華僑自体はどちらかと言えば,国籍をそのまま保持するよりは日本国籍を取得して中国のアイデンティティを維持しつつ,日本人として生活する方向に進んでいます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/08/17 23:01
青文字:加筆改修部分
【質問】
満州にはロシア革命で逃げてきたロマノフ王朝時代の貴族や,白系ロシア人が多くいましたが,ソ連の満州侵攻後,彼らはどうなったんでしょうか?
【回答】
海外に亡命したりソ連に帰国したり,ごく少数は日本に帰化したりと色々.
ソ連に帰った人々処刑されたり投獄されたりとひどい目にあった人たちも多いようだ.
たとえば関東軍の肝煎りで満州でファシズム政党を作った人物がいるが,戦後処刑されている.
元横綱大鵬の父親は樺太居住のウクライナ人だったが戦後反ソ宣伝容疑で数年投獄され,その後は博物館の守衛として余生を送った.
軍事板
また,満州国軍では白系ロシア人部隊もあり,対ソ連戦勃発の折には,ソ連軍に化けて敵地に潜入する特殊部隊の位置付けをされていた.
しかし満州侵攻と共に反乱を起こし,ソ連軍側に寝返っている.
まあ,傀儡軍にはありがちな話.
消印所沢
【質問】
戦前の在日朝鮮人に参政権はあったの?
【回答】
朝鮮の歴史で意外と知られていないのが,戦前の内地(日本本国内)に住む朝鮮人には日本人と同じように参政権があったことです.
1920年の衆議院選挙では,所定の納税者(租税3円以上)の朝鮮人が選挙権を行使しています.
そして1925年には普通選挙法が成立し,納税とは関係なく選挙権・被選挙権が与えられることになりました.
朴春琴は,1932年から42年までに実施された四回の衆議院議員選挙に東京4区で立候補し,うち32年と37年の二回当選しています.
在日では他に何名かが立候補していますが,落選となっています.
地方議会議員選挙でも立候補した在日はかなりの数にのぼり,当選も少なくありません.
選挙では有権者はハングルで投票することが認められていました.
1930(昭和5)年1月31日に内務省法令審議会はハングルの投票を有効としたのです.
ハングル投票が予想される選挙区の投票管理者には,諺文字(ハングルのこと)書が配布されました.
植民地の文字が宗主国の選挙で使用を認められたのは,世界植民地史上おそらく唯一ではないかと思います.
ちなみに,植民地朝鮮の学校体系においては教授用語は日本語であって,朝鮮語はあくまで非国語,外国語的な位置づけ.
つまり日本語が出来ず,朝鮮語しかできない,諺文で投票するような人は,日本の学校体系とは無関係なところで諺文を習得したと思わます.
朝鮮や台湾という植民地(当時は外地と呼ばれていました)に居住する者は,日本人でも参政権はありませんでした.
日本人も朝鮮・台湾人も内地に住む者だけに参政権があったということです.
つまり参政権において内外地の差別はありましたが,日本人と植民地人との間には同じ大日本帝国臣民として差別はなかったということです.
これはまた,在日も帝国臣民として運命を同じくした時代であったと言うことができます.
ちなみに,貴族院には朝鮮・台湾勅選議員も存在していました.
貴族院・朝鮮台湾勅選議員一覧
(水上攝提;みずかみ せってい by メール)
【質問】
戦前までの在日朝鮮人の政治的状況は?
【回答】
〔略〕
1920年代から在日朝鮮人の生活権擁護・要求運動に端を発して,三・一独立運動やロシア革命の影響もあり,在日朝鮮人学生,知識人の中にこうした動きに呼応する動きが出て来〔略〕ます.
朴烈などの無政府主義者間グループ,社会主義系統の北星会,一月会の結成に影響され,また,彼等の働きかけもあって,これまでの親睦会や民族団体に加え,労働者団体が結成されていきます.
1922年に東京で朝鮮労働同盟会が白武,李憲等によって創設されると,直ちに大阪でも同じ組織が作られ,この他,神奈川,神戸,福岡,山口でも組織され,1924年のメーデーデモには東京・大阪で参加しています.
1925年2月になると在日本朝鮮労働総同盟が結成され,資本家階級の抑圧と迫害に対し抵抗し,8時間労働,最低賃金の設定を目標に掲げていました.
この団体の動きは,朝鮮にも波及し,1927年に朝鮮で新幹会が結成されると,約200名が参加して東京支部,大阪支部が相次いで結成されます.
また,在日女性団体として,槿友会が結成されました.
1925年,朝鮮共産党が結成されると,1927年にはその日本総局が置かれることとなります.
但し,こうした動きはあくまでも地主階層の出身者で左翼思想に影響を受けた知識人が中心で,労働者をオルグするまでには至っていません.
また,共産主義運動に関しては,未だ国際主義の影響が強く,1928年のProfintern第4回大会で,植民地労働者は本国内で労働組合に参加することが決定され,その後のKominternもこの方針が認められた為に,在日本朝鮮労働総同盟は解散し,日本労働組合全国協議会(全協)に参加することになりました.
こうして在日朝鮮人労働者は,日本の産業別労働組合の組合員となり,同時に朝鮮人も日本共産党に参加し,その中には後に幹部となる金天海,金斗鎔等がおり,影響は1945年以後にも及びました.
この過程の中で,在日本朝鮮労働総同盟のピーク時である1928年には,3.3万人の組合員がいましたが,全協に参加したのは僅かに5,000人程度しかおらず,1935年には弾圧や運動の極左的な激しさに脱落する者が相次ぎ,300余名に落ち込んでいました.
全協に参加せず,独自の組合を維持したり,日本労働総同盟系の組合に参加する者も多く,独自の組合の代表的なものには,済州島と大阪の航路を持っていた東亜通航組合があります.
こうした労働組合は朝鮮人の労働条件改善に一定の成果を挙げていますが,官憲も激しい弾圧で応酬し,大規模発生の労働争議は出来なくなっていきました.
それでも,自然発生的な争議は屡々発生しています.
一方,この様な過激な労働運動と一線を画したものとして,朝鮮総督府官僚の丸山鶴吉,赤池濃等の指導で内鮮宥和を掲げる朴春琴等を中心に,1921年に相愛会と言う団体が作られました.
この団体は一応朝鮮人によって組織され,労働ブローカー的な役割を果たしていましたが,流石に裏で日本人が糸を引いているのが丸分かりなので,朝鮮人に支持されていませんでした.
話が飛びましたが,こうした背景の下,導入されたのが1925年の普通選挙法です.
これは,満25歳以上の男子であれば,軍人,華族の戸主,余程の貧乏人,一定の土地に1年間居住していない者以外は選挙権を与えるとしています.
即ち,欠格事項に該当しなければ,本土では朝鮮人にも選挙権が与えられた訳です(朝鮮本土や台湾本土の居住者は,1年以上直接国税15円以上を支払う人でないと選挙権が与えられていない).
在日朝鮮人の立候補は1927年に浜松市議会議員に幾人か立候補したのが最初です.
1932年の衆議院議員選挙では,東京四区から朴春琴が立候補して当選しました.
彼は,先に掲げた様に内鮮宥和を掲げていた相愛会に関わっており,朝鮮人の支持が無く,左翼的な労働運動と一線を画していましたが,意外に当選してしまい,彼の当選は他の在日朝鮮人に影響を与えています.
市会議員でも,尼崎市会議員に同じ宥和派の朴炳仁が当選しました.
確かに,彼等の票の多くは集住地区の票だったりしますが,それに加えて日本人の支持も得ての当選です.
左派系の朝鮮人立候補者もいましたが,彼等は落選しています.
1936年12月現在,全国で67名が立候補して21名が当選しています.
主に市会議員ですが,地域社会でも彼等の動きは無視出来なく成りつつありました.
但し選挙に於て,朝鮮人の棄権率は衆議院議員選挙で平均70%に達しています.
日本人の棄権率は20%程度ですから,その棄権率の高さが目に付きます.
これは朝鮮人の多くが,選挙に参加しても,自分たちの権利や利益を拡大するとは思われず投票しなかったこと,門司の判らないものがいた事などが挙げられます.
その後も朝鮮人の立候補者はいましたが,戦時体制が進み,大政翼賛会の体制になると,朝鮮人が独自に立候補することが出来なくなり,先の朴春琴も落選してしまいました.
〔略〕
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/22 21:40
【質問】
戦時体制下での,日本政府による在日朝鮮人管理政策について教えられたし.
【回答】
さて,1931年の満州事変から日本は戦争一色になっていきます.
当然,国内の引き締め策が必要となり,特に朝鮮人に対しては,1934年10月に「朝鮮人移住対策」の件を発表して,在日朝鮮人の基本方針とします.
この要旨は,朝鮮人の日本渡航を減少させ,其の分,満州渡航を促進すると言うものであり,第4項には在日朝鮮人対策が示されています.
その柱は,1つ目に「朝鮮人保護団体」の統一強化,2つ目に「朝鮮人密集地帯」の保安・衛生など生活改善,3つ目に朝鮮人の指導教化により,内地人に同化せしめる事でした.
それに先立つ1934年4月,大阪府に於てそのパイロットモデルとも言う「大阪府内鮮宥和事業調査会」が発足します.
構成は警察幹部を中心に,市役所,検事,協和会幹部,有力者などであり,彼等の討議の結論としては,朝鮮人団体のうち,優良団体は積極的に助成するが,不良団体に対しては警察取締りを厳重にすると言う事としています.
又,子供の教育については,朝鮮人のみの特別学級は作らない,1学級当りの朝鮮人の割合は40%以下とする,修身,国史,国語の授業に重点を置くと言う事も決められています.
集住地区には,生活改善組合を組織させ,10~30世帯を単位として生活改善組合を指導する指導員を置くこととし,その生活回線指導員の監督は所轄警察署に於て行うとしました.
つまり,警察が中心となって住民の隣組への組織化と,警察官に指導される指導員の設置が決まった訳で,生活改善組合は,生活改善組合矯風会と言う名称で発足し,その各々の会長は警察署長が就任しています.
表向き,この団体は大阪府内鮮協和会の一組織とされました.
因みに,内鮮協和会は,1923年9月に発生した関東大震災に於て,朝鮮人を多数虐殺した事件が切っ掛けで,彼等を暴徒化させない為に,「保護」を与えると言う名目で発足したもので,1924年5月に大阪,1925年に神奈川,兵庫にて発足していますが,設立当初は府県の財政支出があったものの,次第に少なくなって名目的な存在となっていたものを再び,看板の埃を払ってかけ直したものです.
この生活改善組合の事業は国旗掲揚,神社参拝,宮城遙拝と言ったものですが,警察が前面に出て来ての朝鮮人の直接管理が始まった訳です.
1935年になるとこの方針は拡大実践され,各警察署の矯風会は,精神作興(国旗掲揚など),風俗改善(和服奨励,日本式作法の講習),生活改善(冠婚葬祭の簡素化など),教育奨励(全員就学,寄留届の奨励),衛生改善(家庭内清潔など)を,成績表を作成して実践させます.
当初の目的であった内鮮宥和,保護救済と言う面は影を潜め,教化政策を前面に打ち出した訳です.
こうした大阪でのパイロットモデル試験を受け,予算5万円を計上して政府が直接朝鮮人管理政策に乗り出すことになりました.
この予算を用いて,主要都道府県に「協和事業」を普及させたのがその骨子となります.
そして,事前の調整を経て,1936年8月から6項目の協和事業実施要旨と項目を発表します.
内容は,在日朝鮮人の生活調査,国民精神の涵養,風俗・生活改善,保護救済,犯罪防止,国民宥和の促進と言う名目で,東京,大阪,神奈川,愛知,兵庫,山口,福岡に協和会が設立され,次第に各県に広がり活動が始まりますが,そのモデルは大阪の矯風会でした.
この組織は県組織の下部機構として,各警察署長を会長または支部長に,警部を副会長,副支部長に,常任幹事は特別高等警察課内鮮係長,この他特高係巡査部長,司法巡査部長,特高係巡査,派出所巡査を幹事として,朝鮮人有力者を指導員・補導員とし,朝鮮人は全て協和会会員に所属させていきます.
つまり,日本人は隣組や常会を活用して,国民の組織化を図り,これは市町村単位で構成されていきますが,朝鮮人は警察署単位での構成となり,市町村とは違った枠組みでの上意下達の統制が為されることになりました.
其の上,朝鮮人は賛助員と言う名目であり,幹事は全員日本人の警察機構関係者であるので,朝鮮人の意見が全く反映されないものです.
兵庫県協和会の場合,42支部,幹事205名(特高課員が主),指導員(朝鮮人)770名と言う体制でした.
朝鮮人指導員の資格は,日本語が堪能であること,事業を行ったり定職がある者の中から選ばれ,それまでの宥和或いは親睦団体,民族団体の責任者なども選ばれていますが,自主的なものではなく大概は指名でした.
1939年6月28日,神田の学士会館でこれら協和会の中央組織である中央協和会が設立されます.
この席には厚生・内務・拓務大臣が出席して事業計画を承認しています.
意外にも警察署単位にも関わらず,管轄は厚生省となり,初代理事長には内務官僚出身の貴族院議員である関屋貞三郎が就任しました.
役員には朝鮮総督府で治安を担当した政務総監,内務部長,南朝鮮総督が就任しています.
厚生省の担当官には,東北帝国大学で殖民政策学を学んだ武田行雄が就任し,彼は後に厚生省の職制上の初代協和官に就任しています.
更に下部組織を構成する地方委員は,各府県の社会課長と特高課長が名を連ね,全く警察権力の統制下に朝鮮人を置こうとした訳です.
この中央協和会の設立趣旨は,在日朝鮮人対策は元より,国家総動員法成立に伴う朝鮮人の日本国内への動員を実施する為のものでもありました.
即ち,協和会の役割を,日本人が兵役で生産現場から多数抜けた部分を補充する為に,朝鮮人を以て充填し,彼等の増加に対処する為にも,彼等を皇民として訓練する必要がありましたし,逃亡防止やストライキ防止などの争議に対する阻止装置として働く事も期待されています.
因みに,在日朝鮮人達にとって,「協和会」と言う言葉は「憎悪」と同義語だったと言います.
その協和会の仕事は,1つは朝鮮人を監視する治安対策組織としての面,もう1つは戦争協力に必要な朝鮮人の日本人化(=皇民化)を推進することでした.
皇民化政策の具体的な例としては,先ず生活改善と言う名目で行われたものがあります.
衣の部分では,在日朝鮮人女性に和服着用を奨め,着付け教室,朝鮮服の改造教室が実施されています.
この結果,協和会の会合には和服での出席が慣例となり,和服を着ようとしない年配の女性に対する対策が考えられたりしました.
食では,食事は日本式に食べることが奨励され,味噌汁の作り方講習会が各地で実施されています.
又,濁酒の密造取締りも集住地区内で盛んに行われていました.
更に,食事に付随して日本の伝統行事である雛祭り,節句の祝い方講習会まで行われていたり.
日本語教育では,『協和国語読本』が作成されて,広範に配布されると共に,国語講習会が各地で開催され,中には強制連行労働者の現場でも開催されています.
最も頻繁に行われていたのが神社の参拝で,伊勢神宮や出雲大社への参拝も中には行われましたが,大抵は近在の神社へ日を決めて参拝を行かされ,その際には神社の清掃奉仕が行われています.
この中には,何度神社に参拝したかを数字で表し,競争させる協和会もありました.
又,各個別の朝鮮人の家に神棚を設置させようとして,簡易の神棚を配布した協和会支部もありましたが,神棚の何たるかが理解出来ない状態で行われたので,適当な所に放置されたり,神棚の前に鍋や釜が置かれるなど,藪蛇となったケースもありました.
物質的なものとしては,日本人と同じく,国防献金,飛行機献納などの寄付の割当強要や,貯金の義務づけがあり,日本人の4割から6割程度の賃金にも関わらず,日本人並みに献金が要求されていました.
更に,日本人と同様に軍人遺家族の田畑等への勤労奉仕にも行かねば成らず,これまた協和会支部や分会の総出で行わねばならない作業でした.
食糧が不足してくると,協和会支部で独自に開墾も行われますが,出来た作物は「皇恩」に報いる為に寄付させられています.
精神的なものとしては,神社参拝と同じく,宮城遙拝,国旗掲揚,万歳三唱,国歌斉唱などが行われると共に,「皇国臣民の誓詞」というものを暗唱させられ,機会ある毎に覚えさせられたりしています.
治安対策的な側面として最大の業務は,協和会会員証の交付です.
これは,1940年から発行が開始され,写真が添付され,本籍,現住所が確認できるようになっており,会員全員が持ち,就労時,列車乗車中の検査,帰国時,配給の時には必ず提示が義務づけられ,日本人と区別する為の身分証明書としての性格を持ったものです.
また,朝鮮人の場合,土木作業員の様に工事現場を流れ歩く人々も多く,彼等をきちんと把握する必要がありました.
特に,軍属動員,徴用には必須であり,協和会にはこうした人々の人口動態把握が重要な業務でした.
協和会会員証に加え,彼等が半島に一時帰鮮する場合には,帰鮮証明を発行するのも協和会の仕事でした.
これは不正渡航を防ぐことと,朝鮮からの不穏思想の持ち主を阻止する狙いもありました.
帰国する彼等に帰国理由を聞いたり,再渡航の理由を確認するのは治安対策にも有効でした.
1940年の創氏改名も,協和会が活用されました.
特に,受付は警察署に作られた窓口で行われていたので,その指示は協和会を通じて行われています.
但し,名前を変えても,本籍・戸籍移動の自由はなかったので,簡単に朝鮮人であることの区別が出来ています.
朝鮮人徴用にも勿論関わっていますし,日本人出征兵士の見送りにも,彼等が動員される事もありました.
但し,出征兵士の見送りは協和会として行くのか,隣組として行くのか極めて曖昧な部分もあったようです.
1944年からは朝鮮人徴兵が開始されますが,戸籍整備や寄留届の準備は市町村役場で実施されたものの,適令朝鮮人の調査は協和会が担当し,徴兵手続きも協和会が実施し,市町村は全面的に協和会に委任して業務が行われています.
こうして,警察による統制が極めて強力な装置が完成した様に見えますが,朝鮮人達は強かな面もありました.
当初は,特高からの上意下達に唯々諾々と従っていましたが,言葉の通じない人々に対する指示を行う関係上,相対的に指導員の力が強くなり,場合によっては指導員の意見が通ることも屡々起きています.
勿論,日本人の力は相対的に強かった訳ですが,中にはこうした力関係の逆転により,日本人社会よりも集住地区の方が自由だった場合もありました.
日本語を幾ら押し付けても,朝鮮人の集住地区には頑なに朝鮮語を守る年寄りがおり,更に太平洋戦争による労働力不足で朝鮮人達の賃金も上がり,半島との往復も盛んで,生活必需物資もそれなりに手に入り,夜になると表向き禁止されているマッカリが出て,キムチが振る舞われ,朝鮮語の歌が出て深夜まで盛り上がると言う地区も,都市部を中心にあった様です.
一方で学齢期の子供達は,皇民化政策をまともに受けていました.
1944年の在日朝鮮人児童の数は20万人であり,二世達は民族のidentityである言語を再度学び直さねばなりませんでした.
日本の敗色が濃くなると,政府と朝鮮総督府,台湾総督府は朝鮮人,台湾人の協力を取り付ける為,11月4日に「朝鮮及び台湾住民の処遇改善に関する件」を閣議決定して,渡航制限を撤廃するなど一連の規制緩和策を行い,協和会は興生会と名称を変更しましたが,その基本機能には変化無く,その機能は特高警察が廃止される1945年10月4日のGHQからの特高警察廃止令に至るまで維持され続けていました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/10/23 22:36
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