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◆◆キューバ危機以降 Kubai Rakétaválság
<◆冷戦 目次
<戦史FAQ目次
(画像掲示板より引用)
「VOR」◆(2012/10/18)第三次世界大戦の開始を告げるケネディ大統領の演説草案発見
『核時計零時1分前 キューバ危機13日間のカウントダウン』(マイケル・ドブズ著,日本放送出版協会,2010.1)
読了.
マイケル・ドブスはWPのジャーナリストで国務省担当記者を務めたほか,ワルシャワ,モスクワ,パリ支局長を歴任した人.
この本を一言で言えば,1962年10月に起きたキューバ危機を,その発端から終焉まで時系列に追ったドキュメンタリー.
この事件に関して,今までは,米国側の資料,特にロバート・ケネディの回顧録などが一次資料として名高いもので,ケネディ大統領の果断さが強調されたり,ロバート・ケネディなど米国側が常にハト派なのに対し,フルシチョフを始めとするソ連側が強欲に書かれたりしているし,ソ連貨物船と米海軍の駆逐艦との,一触即発のドラマなどが人口に膾炙してきた.
しかしドブスは,国務省や国防総省の一次資料を手始めに,丁度,崩壊したソ連側の資料,モスクワ支局長であった人脈を生かして,キューバに駐屯していたソ連側の将軍や兵士などへのインタビューや,ソ連海軍の潜水艦と商船の乗組員とのインタビューなどを丹念に行い,キューバ政府の資料は利用できなかったものの,彼の国での現地調査を通じて,何が起きたのか,何があって,何が行われたのかを追究していく.
その結果,従来言われていた様に,ソ連はミサイルは運び込んだものの,核弾頭は別の船に積まれていたので,装着できなかったと言う説は覆され,実際にソ連はミサイルの核弾頭を持ち込んでおり,それを装着する手はずも整っていたと言うことが判明した他,従来言われていたIRBMだけでなく,NATOで言うところのスカッド・ミサイルも持込み,臨戦態勢が整っており,これにも核弾頭が装着されていたり,更には米国のグアンタナモ基地とその沖合に向けて,地対艦ミサイルが配備されており,これも核弾頭が装備されていたという.
また,CIAの分析官の能力の低さと言うか,固定概念の強さと言うか,米国の尺度で物事を見てしまい,ソ連の尺度でものが見れなかったので,キューバに於けるソ連軍兵力を過小評価したほか,核戦力,核弾頭の正確な保管所も,これはソ連側が偶然そうしたからではあるが,見落としてしまっていた.
ついでに非正規戦でも,キューバのカストロを排除するのに,様々な手を試みながら,全て失敗に終わっていたのだが,こうした非正規戦によるカストロ打倒を声高に主張していたのは,実は「ハト派」として言われていたロバート・ケネディだったりする.
国防総省の方も似たり寄ったりで,陸海空それぞれの軍内でも,全く連携が取れておらず,好き勝手な主張をして,政府側と対立する…
特に,『博士の異常な愛情』のモデルであるカーチス・ルメイなんかは,最も強硬派….
偵察機をキューバに飛ばし,カストロを徴発するほか,ソ連に向けての核戦争をも辞さない構えを見せたり.
こうしてエスカレーションが起きていき,すんでの所で米ソによる核戦争が勃発しかねない所まで行った.
それは大統領と書記長の鉄の意志によって阻止された訳では無く,偶然に次ぐ偶然が重なった為に過ぎない.
例えば,米国側は虎の子のICBMであるミニットマンをソ連に向けていたが,その発射手順は後のものとは比べものにならず,只即応体制を重視する余り,発射がたった1人の判断に委ねられてしまっていたし,キューバで破壊活動を行い,それを契機に米軍が介入すると言う手はずも整っていた.
また,キューバでは重大な危機が生じていたにも関わらず,ソ連側で牽制のための核実験が行われたために,その試料を採取するためにCIAがU2を飛ばし,それが方位を見失ってソ連領空奥深くに入り込んだ事件も遭った.
ソ連側も,潜水艦がキューバに向けて航行していて,それを米海軍が模擬爆雷で攻撃して強制浮上させると言う事をしたのだが,限界に来ていた潜水艦の艦内では,艦長が米国の対潜空母艦隊に向けて,核魚雷を発射しようと思い詰めた所まで行っていた.
本当に,「シビリアン・コントロールって何?」状態だったりする訳で.
いずれも,現場がちょっと暴走しただけで,世界が吹っ飛ぶ可能性があった訳で,その危機が収束したのも,ケネディがキューバ侵攻のテレビ演説をすると言うKGBの誤情報が元で,フルシチョフが撤退を決断すると言う,従来とは全く逆の事実があったりする.
冗談抜きで背筋が寒くなる話で,良くこれだけの取材を出来たなぁ,と言うのが感想.
また,この成功体験が,逆にケネディを中心とする政権の担当者を増長させ,後にベトナムの泥沼にはまり込むきっかけを作ったとする分析は,今までの通説には無かったもので,新鮮な驚きだった.
------------眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/04/28 23:51
青文字:加筆改修部分
トム・クランシーの初期作に嵌っていた身としては,並行して進む個々の物語が,結末に向かって一気に収斂していく様が,なんとも言えず面白かったですわ.
来年はキューバ危機50周年らしいが,この手の新事実が盛り込まれた書籍なんかが,期待できるのかな.
仮に出たとしてやはり当事国での出版だろうから,邦訳されるのは数年後になりそうだけど・・・
――――――軍事板,2011/06/18(土)
【質問 kérdés】
キューバ危機って何?
Mi az Kubai rakétaválság?
【回答 válasz】
キューバ危機は,1962年10月から11月にかけてキューバに核ミサイル基地の建設が明らかになったことから,米ソが対立して緊張が高まり,全面核戦争寸前まで達した国際事件.
1962年10月22日,ケネディ大統領はソ連がキューバに中距離ミサイル基地を建設中であることを発表して,その撤去を要求.
米艦艇183隻,軍用機1190機の動員によるキューバ海上封鎖に対し,ソ連が譲歩して米国がキューバを攻撃しないことを条件にミサイルを撤去して,衝突は回避された.
【参考ページ Referencia Oldal】
https://kotobank.jp/word/キューバ危機
http://web.iss.u-tokyo.ac.jp/crisis/essay/1962.html
http://www.y-history.net/appendix/wh1602-055.html
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/4715
【ぐんじさんぎょう】,2017/12/7 20:00
を加筆改修
【質問】
キューバ危機の後の米ソは,全面核戦争を避けるためにどのような政策を取ったのか?
【回答】
相互にコミュニケーションをとったり,核実験を制限する条約を結ぶなど,お互いに歩み寄り,ある程度の緊張緩和を作り出した.
コミュニケーション手段として,ワシントンとモスクワの直通電話を可能にする「ホットライン」が出来たし,大気圏での核実験を制限する条約が結ばれた.
また,ケネディはソ連との貿易を拡大する用意があることをソ連に伝え,それによってデタントが進んだと言える.
ただ,1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると,核戦争の恐怖が再び高まった
ナイ教授曰く,
1980年から1985年の「小さな冷戦」の間に,戦略兵器制限に関する対話が滞り,レトリックが激しくなり,軍事予算と核兵器の数が増大した.レーガン大統領は核戦争に言及し,平和団体は核兵器の凍結と最終的な廃棄を訴えた.
この不安が高まる中で,一つの疑問が出たきた
「核抑止は道義的なのか?」
という問題である.
戦争の正当性を満たすには,特定の条件を満たさなければならない,自衛行為は正当だとみなされるが,その手段と結果も重要な要因である.
手段については,戦闘員と非戦闘員の区別が必要だし,結果についても,目的と手段の釣り合いがある程度取れていなければならない.
核戦争は,果たして「戦争の正当性」を主張できるのか?
それについて,ナイ教授は以下のように述べている.
核戦争は正戦論のモデルに適うのであろうか?
技術面では適う可能性がある.砲弾や爆雷のような低エネルギーの核兵器は,レーダー・システムや潜水艦,海上の艦船,あるいは地中深くの掩蔽壕に対して使用できるかもしれない.
この場合,戦闘員と非戦闘員の区別が可能で,影響は比較的限定されるからである.
そこで戦闘が止むなら,正戦論を核戦争に適用することができるであろう.
しかし,戦闘はそこで止むであろうか? あるいは拡大するであろうか?
拡大は最も深刻な危険を伴う.というのも,何億もの生命や地球の運命と引き換えにできるものなど存在しないからである.
冷戦期には,「死よりも赤[共産主義]のほうがましだ」と応えるものがいた.
しかし,これでは問題の設定に難点がある.そこで大災害につながるような小さな冒険を冒すことは正当化できるのか,という問題を考えてみよう.
キューバ・ミサイル危機では,ケネディ大統領は通常戦力による戦争の可能性を3割程度に見積もっていた,と考えられている.
核戦争に拡大する可能性もわずかながらあった.
彼がこのような危険を冒すことは正当化できたであろうか反実仮想にうよる推察をしてみよう.
もしケネディがキューバで核戦争の危険を冒そうとしていなければ,フルシチョフはより危険なことをしようとしたであろうか?
ソ連の成功がその後の核危機につながったり,ベルリンやパナマ運河などを巡って大規模な戦争につながったりしていたらどうなったであろうか?
おそらく,核兵器は冷戦が熱戦へと変わるのを防ぐ上で重要な役割を果たした.
今回をまとめると
1. 米ソともに,核戦争を避けるべく方策を練り,お互いに条約を結ぶことで緊張緩和したり,逆に軍事侵攻が元で,再び緊張状態になったりした.
2. 核兵器は「特定の戦場」で使用するのであれば,まだ正当性は主張できる可能性はあるものの,その後に全面的な核戦争を生み出す可能性があるので,道義的な意味でも,能力的な意味でも「使えない兵器」である.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【関連リンク】
「原田義昭blog」:「キューバ危機」と文書公開
【質問】
キューバ危機(1962年10月に発覚)が世界に与えた意味とは?
【回答】
「核兵器の意味」が決定付けられた.
「核兵器」の重要性は,その「保有数」ではなく「保有すること」にあることが,最も認識されたと言ってもいい.
事実,当時,アメリカは,ソ連よりも核兵器数では大幅に上回っていた.
それは,ソ連がアメリカを狙えるICBMが当時20発しかなかったということを,ケネディが知らなかったのもあるが,それでは,比較的脆弱であったソ連のミサイル基地を先制攻撃しなかったか?,という理由の説明にはならない.
決定的な理由は,もし一発でもミサイルが生き残れば,アメリカの都市へ攻撃されるかもしれないと言う恐怖であり,それがアメリカに先制攻撃を思いとどまらせたのである.
ケネディ・フルシチョフともに,自らの合理的な(と信じた)戦略と計算が,自らの手を離れるのを懸念した.
フルシチョフは,後にケネディに宛てた書簡でこう述べている.
「われわれは,戦争と言う結び目のあるロープの両側を引く時には注意しなければならない.」
ナイ教授は,これから25年後にフロリダで開かれた会議で,ケネディ大統領の国家安全保障会議・執行委員との会談した.
以下,ナイ教授の証言.
当事者の間で,最も目を引く相違は,各自が危険を冒す用意の違いであった.
これはつまり,各自が核戦争の可能性をどのようにとらえていたかにかかわっている.
ケネディ政権の国防長官だったロバート・マクナマラ(Robert McNamara)は,危機が展開するにつれて用心深くなっていた.
彼は,キューバ・ミサイル危機での核戦争の確率は2%だと考えていた.
財務長官だったダグラス・ディロン(Douglas Delillon)は,核戦争の危険性はほぼないと考えていた.
彼は状況が核戦争に拡大するとは考えていなかったため,マクナマラよりも強硬に当たり,危険を冒す用意があった.
統合参謀本部議長のマックスウェル・テイラー(Maxwell Taylor)将軍もまた,核戦争の危険は低いと考えており,アメリカがキューバ・ミサイル危機でソ連をあまりにも簡単に放免したことを嘆いた.
彼はアメリカはもっと強硬に対応すべきであり,キューバのフィデル・カストロ議長(Fidel Castro)議長の追放を求めるべきだと考えていた.
テイラー将軍は,『私は彼らを窮地に陥れることが出来ると確信しており,最終結果について憂慮したことはなかった』と語った.
しかし,不測の事態という可能性がケネディ大統領にのしかかり,彼は非常に慎重な立場を取った.
実際,彼は側近の一部が望んだよりも慎重であった.
この逸話の教訓は,わずかな核抑止でも十分だということである.
キューバ・ミサイル危機で核抑止が重要であったのは明らかである.
だが,全てを「核抑止」で片付けるには,曖昧さが残る.
一般的には,アメリカがキューバ危機で勝利したと言うコンセンサス(合意)があったことが挙げられるが,「どの程度」「なぜ」勝利したのかについては,説明が必要だろう.
これは,以下の三つにまとめられる.
1. アメリカが核保有数で優勢だったこと.
これによって,ソ連が降参したという見方.
2. 米ソの相対的な利害関係がマッチしたこと.
アメリカにとって,キューバは,言わば裏庭のようなものだが,ソ連にとってははるか離れた場所での賭け事だった.
ゆえに,アメリカにとってキューバはソ連にとってのキューバよりもより大きな利害関係があった.
それが次の第三の要素の実行に踏み切らせた.
3.通常戦力の投入
アメリカはキューバへの海上封鎖を行ったし,通常戦力による侵攻の可能性も示唆した.
アメリカにとって,キューバは重要な場所であるがゆえに,通常戦力を投入する余地が大きく,心理的な重圧をソ連に掛けることができた.
また,最終的には,アメリカが妥協したことも大きかった.
アメリカはキューバ危機に際して
1.空爆
2.締め出し(ミサイルを撤去するために,海上封鎖を行う)
3.取引(トルコよりミサイルを撤去する)
の3つの選択肢があったが,アメリカは3.を選択した.
これについて,ナイ教授は次のような見解を示している.
トルコから老朽化したミサイルを撤去するというアメリカの暗黙の約束が,当時考えられていたよりも恐らく重要であった.
キューバ危機において核抑止が重要であり,核と言う要因がケネディの思考には明らかに影響していた.と結論付けることができる,
他方,核兵器の保有数は,わずか数発の核兵器でも大惨事を招くと言う恐怖心ほど重要ではなかったのである.
今回のまとめとしては
1.核兵器の持つ意味が決定付けられた.
2.トルコのミサイル撤去の例に見られるとおり,宥和政策は政策の一つであり,害悪ではない.
また,2.は,ソフトパワーの活用法の一つと言えるかも知れない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
キューバ危機において,何故ソ連海軍は米海軍に対抗できなかったのか?
【回答】
原潜は故障続きで間に合わず,在来型潜水艦は騒音が大きくてSOSUSシステムに捕捉されてしまったため.
以下引用.
1962年のキューバ危機では,ソ連のSSNは故障続きで間に合わなかった.
そこで,在来型のフォックストロット Foxtrot 型潜水艦4隻に核魚雷を搭載して,キューバに向かうミサイル搬送船の護衛をさせたのである.
当時フルシチョフは,弾道ミサイル・中距離爆撃機・機甲歩兵師団を秘密裏にキューバに配置するという大胆な作戦を開始していた.
その一環としてソ連海軍は,通常動力の弾道ミサイル潜水艦ゴルフ Golf 型7隻をハバナ西にあるマリエル港に配備し,恒久作戦基地にする事を企図した.
フルシチョフはまた,従来の巡洋艦を破棄してミサイル原子力潜水艦部隊へと転換するよう,新しく就任した海軍総司令官ゴルシコフに強く求めていた.
しかし,いざキューバ危機になってみると,キューバに向かう船団を護衛しうる足の長い護衛艦がいなかったのである.
当時のソ連海軍はいまだ沿岸海軍の域を出ていないことが分かる.
さらに米海軍は,SOSUSシステム(広域海底固定音響探知システム)は端緒についたばかりであったが,有名なGIUKギャップ(スコットランド,アイスランド,グリーンランドの間の狭隘水域)を通過する,騒音が大きいフォックストロット型の行動を捕捉することができた.
その情報によって対潜哨戒機P2Vが追跡を始め,ソ連潜水艦がキューバから500浬の封鎖線に入る前にASWハンター・グループのS2F対潜機に捕捉され,対潜駆逐艦の連続捕捉を受けてやむなく浮上し,追い返される羽目になった.
この経緯はピーター・ハクソーゼンの「対潜海域」(原書房)に詳しい.
「キューバ危機」の研究で有名なG.アリソンの「決定の本質」には,米政府内の官僚政治モデルの意思決定を構築しているが,ソ連崩壊に伴う新しい資料によって,シー・パワーの格差という「決定の本質」があった事を示している.
キューバ危機の結末は,海軍力の優れたほうが外交に勝つという,昔からの教訓を示したものだった.
フルシチョフは米ソの海軍力の差をまざまざと見せつけられ,明かな敗北を取るか,撤退と外交上の失敗をとるかの選択を迫られ,結局,キューバ危機のミサイル基地撤去に同意せざるをえなくなった.
この後,ソ連海軍は休息に,原潜を中心とする海軍力を増強していく.
1967年には涙滴型SSNのヴィクター VictorⅠ型,射程1,600浬のSS-N-6ミサイルを搭載するSSBNヤンキー Yankee 型などを登場させた.
これらSSBNの出現は,米海軍のASWに深刻な影響をもたらし,戦時にはソ連潜水艦基地を直接核攻撃するしかないと考えられていた.
(橋本金平〔元一等海佐〕 from 「世界の艦船」2004年10月号,p.70-71)
【質問】
キューバ危機においてソ連の潜水艦乗員たちは,状況を逐一知らされていたのか?
【回答】
ほとんど知らされなかった.
当時の艦長の一人によれば,そこで彼は通信室から部下を追い出し,「ボイス・オブ・アメリカ」の放送を聞いたという.
そこで初めて,JFKによってキューバ封鎖命令が出されたことを知ったという.
ヒストリー・チャンネル『10月の震撼;キューバ危機の真実』参照.
【質問】
キューバから帰還後,ソ連潜水艦の乗員たちはどうなったか?
【回答】
暫くの間,上陸を許されず,「なぜ浮上したのか?」を執拗に追及された.
彼らには何の褒賞も与えられなかった.
また,潜水艦部隊指揮官は更迭された.
彼は作戦には反対していたのだが…….
ヒストリー・チャンネル『10月の震撼;キューバ危機の真実』参照.
【質問】
「13デイズ」という映画をこの前テレビで観て,米空軍のルメイ大将が戦争を始めたがっている軍人という描かれ方をしていました.
しかしながら,冷静に批評的にこの映画を観てみるとルメイ大将の主張は常に,軍事的には正しいと思えるのですがいかがでしょうか?
米空軍のいつでも攻撃できるという意思表示がなければ,キューバからのミサイル撤去はなかったように思えます.
【回答】
ルメィは「意思表示」ではなく「本当にやるしかない」と考えていたようなので,適切どころではない.
もっともその辺は,後世だから言えるってのがあるけど.
キューバ危機の一番の問題は,米ソの間で危機に対する認識が思いきりズレていた
*米:あんなちっぽけな島の為に全面戦争なんかする訳がない,強く出れば引くだろうし
妥協を引き出したいための強情(のフリ)だろう
*ソ:ここで引いたらせっかく支配下においた衛星国家の離反を呼ぶ.例え核戦争になろうと
引く事はできない.それで全面戦争になるならやるしかない
のに,お互いに
「相手も同じ事を考えているはずだ」
と思ってたこと.
土壇場でフルシチョフが引いてくれたからよかったようなものの,あのまま強硬路線を続けたら,確実に戦争になっただろう.
ソビエトの戦略ロケット軍は先制攻撃体勢に入ってたし,もしアメリカがキューバ及び援キューバ船団に実力を行使したら,アメリカの出方を待たず,即座に全面先制攻撃するつもりだった.
何故なら,「アメリカもそうするはずだ」とソビエトは信じていたから.
それを水面下の政治接触で
「そんなことは考えていないから,全面戦争だけは回避したい」
というケネディの意思を伝えたからこそ,戦争は回避できたのであって,そうした努力をしないまま,強硬的な態度だけを取り続けていたら,ソビエトは確実に全面先制核攻撃に打って出てきただろう.
純軍事的に正しい,ということは必ずしも現実の最適解を意味しない.
特に,「戦争やむなし」と考え始めてる相手に,「こちらもいつでも攻撃できる」という態度を示すことは,
「やれるもんならやってみろ」
と言ってるのに等しい.
そこで相手が
「じゃあやってやる」
と考えたら一巻の終わり.
「やれるもんならやってみろ,どうせできない事はわかっているけどな~」
ということを確信できた時のみ,
「いつでもこっちから戦争に訴えられるんだぞ,ゴルァ!」
という脅しは意味を持つ.
「できる」上に「やればお前も瀕死にできるぞ」という相手に強硬オプションを選択するのは,ただのオバカさん.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
なぜデタント(緊張緩和)政策は継続しなかったのか?
【回答】
デタントの効果が過剰に吹聴されたことと,ソ連の軍拡,ソ連の第三世界への介入などが原因.
以下,ナイ教授の文章を引用.
1970年代の3つの潮流がデタントを蝕んだ.
1つはソ連の軍拡である.ソ連が毎年4%国防予算を増額し,とりわけ,投射量の大きい新型ミサイルを追加配備したことが,アメリカの軍当局者を脅かした.
第二は,アンゴラ,エチオピア,アフガニスタンへのソ連の介入である.
ソ連は自身が歴史における「力の相関関係」の変化と呼ぶものによって,これが正当化されると考えた.
歴史はマルクス=レーニン主義が予見した方向に動いているというわけである.
第三はアメリカの国内政治の変化であり,民主党支持勢力を引き裂く右傾化である.
ソ連の行動とアメリカの政治潮流の相互作用の結果,冷戦は続いており,デタントは持続しないという見方が固まった.
ただ,1980年代における,対立再燃では,1950代とは,少し様子が違ったようだ.
ナイ教授は以下のようにその違いを述べる.
ロナルド・レーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と呼んだが,彼ですら軍備管理を追及した.
貿易,特に穀物貿易の増大があり,米ソ間では恒常的な接触がはかられていた.
2つの超大国は,相手に対する行動で,ある種の慎重なルールさえ発展させていたのである.
直接戦争を避け,核兵器の使用を避け,軍備と核兵器管理の議論を積み重ねるというものである.
1980年代の冷戦は,1950年代のそれとは異なっていたのである.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
補足だけど,このあたりの経緯は,同教授の「ソフトパワー」(日経新聞社,2004.9)にも詳しい記述があります.
「国際紛争」は難解な部類な本だと思うけど,「ソフトパワー」の方はスラスラ読めるので,かなりお奨めです.
【質問】
「封じ込め」って何?
【回答】
(・ω・)<「1.ジョージ・ケナンの「封じ込め」が成功した.」とありますが,「封じ込め」とは?
(ーー)<「封じ込め」っていうのは,方法がいくつかあるんでつが,要は,相手を「特定の場所とか物に縛り付ける」ということでつ.
(・ω・)<特定の場所,とはこの場合何を指すのですか?
(ーー)<「特定のもの」…イデオロギーとか思想.
「場所」…直接的に領地.
(ーー)<「これ以上,こっからでてくんな!」「こっからは俺様のもんだ!」ってことっす.
(・ω・)<要するに「アカどもは自分の領域で大人しくしとけ」
「言いたいことがあるならココ(資本主義陣営のテリトリー)じゃなく,自分の日記帳にでも書いとけ,な?」
って事ですか?
(ーー)<でつね.
【質問】
冷戦期,なぜ「集団安全保障」は機能しなかったのか?
【回答】
冷戦におけるイデオロギーの対立が,多国間同士のコンセンサスを阻害し,「侵略」の定義についての合意ができなかったという理由が大きい.
「侵略」と一言にいっても,「秘密の浸透工作」と「実際に軍隊を動かして国境を侵犯する」の対比をどう均衡させるべきか?
これについて,ナイ教授は,1956年のエジプトへのイスラエル侵攻を上げている.
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1956年にイスラエルはエジプトの非公然のゲリラ攻撃に悩まされていた.
しかし,国境を越えたのはイスラエル軍であった.
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また,冷戦期には「侵略」の定義については,東西いずれの陣営側から見るかで「侵略」の定義が異なるため,ほとんど合意がなされることはなかった.
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冷戦のどちら側につくかで,誰が最初の侵略者であるかについて,異なる見方が取られた.
冷戦時代,20年にわたって国連の委員長は侵略の定義を試みてきた.
しかし,ここで生み出された規則はあまり役に立つものではなかった.侵略行為が列挙された跡に,安保理が侵略にあたるその他の行為を決定できるという但書がついていたからである.
さらに,実際に武力が行使されても,安保理には侵略があったという宣言をしないという選択も残されていた.
国連に関して言えば,安保理が認定したときのみに侵略が行われたということになったのである.
すべては安保理のコンセンサス[合意]にかかっていた.
しかし,冷戦中にはコンセンサスがほとんどなかったのである.
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こうして,集団安全保障が行き詰ったために生まれた考えが,国連安保理による「予防外交」と「平和維持」という概念だった.
「侵略」行為を認定し,懲罰するのが,集団安全保障の基本的な考えだが,その代わり,国連が独自部隊を召集し,交戦国の間に割って入ろうという考えだ.
1956年のスエズ危機に際して,ダグ・ハマーショルドと,レスター・ビアソンが行った提案がモデルとなり,その後,何度も行われた.
冷戦により,集団安全保障のドクトリン(WW1の国際連盟の経験で修正されたもの)が実行不可能になったが,国際的部隊の投入で,交戦当事国同士を引き離そうとする試みが行われるようになったのである.
集団安全保障は,ある国が一線を越えた行為をすれば,他のすべての国が団結して,この行為を抑止することになっている.
これに対して,「予防外交」と「平和維持」は,ある国が一線を越えたら,国連が介入し,どちらが正しく,どちらが間違っているかを決めずに,当事者をとりあえず引き離そうと言うのである.
冷戦の最中には,国連維持活動の基本原則として,小国の軍隊をこれに当てて,米ソの軍隊は,原則として当てないこという形が定着した.
大国同士を直接的に紛争に関与させないためだ.
「予防外交」と「平和維持」は重要な革新であり,現在も意義深い役割を担っている.
だが,これは「集団安全保障」とは違う.
あくまで「平和を維持するため」の活動であり,「戦争を予防するための外交」である.
以上を纏めると,
・冷戦期には,集団安全保障はほとんど機能しなかった.
・冷戦期は,東西の対立から「侵略」の定義についても,決定的なコンセンサスを得られなかった.
・「平和維持活動」と「予防外交」という国連の活動概念が生まれたが,これは「集団安全保障」とは異なる.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
冷戦期における,核兵器の意味は?
【回答】
いくつかの要素がある上,時代とともに変化しているので,纏めるのはかなり煩雑だが,以下に説明.
1.米ソの膠着状態を生み出す原因
イデオロギー的な米ソの対立が,核兵器による「お互いの脅迫」によって,膠着状態を生み出した.
以下,ナイ教授の文章を引用.
ソ連は,国連がアメリカに依存しすぎているとして信頼していなかった.
アメリカはヨーロッパを人質に取られていると思っていたので,ソ連は協力を強制することができなかった.
アメリカが核攻撃の脅しを掛けても,ソ連は通常戦力でヨーロッパに侵攻することができたのである.
その結果,膠着状態に陥った.核兵器の革命的な物理的破壊力も,当初は無政府状態での国家の行動様式を変化させるには十分ではなかった.
2.水爆の登場と,運搬プラットフォームの進化(ICBMの登場)によるMAD(相互破壊確証)の確立.
1952年に水素爆弾が誕生すると,単一の爆弾が持つ威力が飛躍的に向上し,その破壊力は飛躍的に向上した.
ソ連が1961年に爆発させた60メガトンの水爆は,WW2で使用された全火薬量の20倍もあり,単一の兵器が圧倒的な破壊力を持ちうることを証明した.
また,水爆の開発により,核兵器の小型化が可能になり,運搬する手段を飛躍的に進化させた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
初期の原爆を搭載するためのシステムは,爆弾が巨大化し,より多くのスペースが必要になるのに合わせて巨大化していた.
B-36爆撃機はエンジンを8発搭載した大型航空機で,巨大な格納庫に爆弾を一つ搭載できた.
そのような破壊力が弾道ミサイルの弾頭に搭載されるようになると,B-36であれば8時間かかるところを,わずか30分で大陸間核戦争が勃発することになった.
また,これにより「戦争の意味」を劇的に変化させた.
三たび,ナイ教授の文章を引用したい.
戦争はもはや,単に他の手段による政治の延長ではなくなった.
19世紀の戦争哲学者,カール・フォン・クラウゼヴィッツ(Karl Von Clausewits)は,戦争は政治的行動であり,全面戦争は不合理であると述べた,
核兵器の持つ巨大な破壊力は,軍事的な手段と国家が追求する事実上全ての政治的目的の間に不均衡をもたらした.
この目的と手段の乖離は,ほとんどの状況で究極の兵器の使用に麻痺状態を生み出した.
1945年以来,核兵器は使用されていないため,核兵器が役に立つとみなす考えには限界がある.
それはあまりにも強力で,あまりにも採算が取れないからである.
まとめとしては
1.核兵器によって,米ソの睨み合いが生まれた.
2.水爆の登場と,それを運ぶ手段が飛躍的に進化し,核戦争勃発のハードルが下がったため,逆にお互いの破滅の恐れから「核戦争は採算がとれない」という考えが確立した.
というところかな?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
核が作り出した「恐怖の均衡」の効果とは?
【回答】
軽率な軍事行動が取れなくなったことにより,核保有国同士での直接的な衝突がなくなった.(ただし,地域紛争・代理戦争は増えたが)
米ソは,イデオロギーの違いがあったにもかかわらず,その行動は慎重であり,これは19世紀型のバランス・オブ・パワーを想起させる.
両国は,核戦争を避けるために,コミュニケーションを取りあった.
しかし,それと同時に,かつて欧州が歩兵や大砲の数を競っていたように,米ソ両国も,核開発・保有数増加によって,相手より優位に立とうともしていた.
この核による「恐怖の均衡」は,2極構造であるという特徴をもつ.
ネオリアリストのケネス・ウォルツは,二極構造はコミュニケーションと推測が容易であり,特に安定していると述べたが,これは,その欠点を見逃している.
ナイ教授は以下のように指摘する.
二極構造は柔軟さを欠き,ヴェトナム戦争のような周辺戦争の重要性を高める.
これまで,一般的には2極構造は侵食されるか暴発するかのどちらかであると考えられてきた.ならば,なぜ第二次世界大戦後に二極構造は暴発しなかったのであろうか? 恐らく核兵器の生み出した慎重さが原因であり,ウォルツが完全な二極体制に見出した安定性は,字際は核兵器が生み出したのであろう.
まさにこの核の恐怖が未来を映し出す「水晶玉効果」となって,安定を生み出す一因になったのかもしれない,
1914年8月に,ドイツ,オーストリア=ハンガリーの皇帝たちが水晶玉を通して1918年を見ていたならば,彼らは自らが帝位を追われ,帝国が解体され,何百万人もの臣民が殺害される後継を目のあたりにしたことだろう.それでも彼らは1914年に戦争したであろうか? 恐らくしなかったであろう.
核兵器の物理的な影響に関する知識は,1945年以後の政治家に水晶玉を与える効果をもたらしたのであろう.
核兵器の生み出す破壊力を正当化するほどの政治的な理由はほとんどないため,彼らは大きな危険を冒そうとはしなかったのであろう.
もちろん,水晶玉は偶然や誤算によって砕けてしまうこともあるが,このような類推によって,二極構造と核兵器の組み合わせが近代国家制度の成立以来,最長の大国間の平和を生み出した原因を知ることができる.
(これまでの最長記録は,1871年から,1914年の間であった)
「冷戦」は二極化構造だからではなく,核兵器の存在による「恐怖の均衡」がその平和に(かりそめだとしても)大きく貢献したと言うところかな?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
冷戦期における核抑止の問題点は?
【回答】
核兵器の「何」が決定的な抑止力となったか説明が困難であること.
もちろん「利害計算」という合理的な説明は出来るが,それは従来のバランス・オブ・パワーの発展に過ぎない.
しかし,あえて以下にまとめてみる.
まず,核抑止の具体的な説明について,ナイ教授は以下の様に述べている.
核抑止は,「もし君が攻撃するなら,私はその攻撃を防ぐことが出来ないかもしれないが,君が先に攻撃を仕掛けようと思わないくらいに強力に報復することができる」という論理である.
このように核兵器は古い概念に新たな性格を付け加えたのである.
ただ,政治学者ジョン・ミューラーは,核兵器は重要ではなく,冷戦が直接的な戦争を防いだのではないと主張する.
彼によると,ヨーロッパがWW1の惨禍から,政策手段としての戦争を避けようとしていて,平和の原因は少なくとも先進国の間では,戦争の脅威認識が深まったためで,ヒトラーはWW1の教訓を学ばない人格異常者だと主張した.
たしかに,WW2後も,こうした「厭戦気分」が蔓延したのは事実だ.
だた,大部分の識者は,WW3の回避に核兵器が大きく貢献したと考えている.
核の持つ「破壊力」という名前の水晶玉を通して,核兵器のもたらすものを見たことによって,米ソともに慎重となり,ベルリン・キューバ・ヴェトナム・朝鮮・中東で,危機が制御不可能のレベルまでに到達することはなかったと考えることができる.
このように思考していくと,いくつかの疑問が生まれる.
一体,核兵器の「何」が抑止として働いたのだろうか?
軍事力による抑止力には,相手に損害を与える「能力」と「使用される」という「確実性」が必要となる.
核兵器の持つ「能力」は万人が認めるところだが,確実性はケースバイケース,つまり利害次第と言える.
以下,ナイ教授の文章を引用.
例えば,核兵器への報復としてアメリカがモスクワを爆撃すると威嚇した場合,確実性は恐らく高い.
しかし,ソ連がアフガニスタンから撤退しないからと言って,1980年にアメリカがモスクワを爆撃すると威嚇したとすればどうであろうか.
アメリカは明らかにその能力を持っていたが,利害関係が少なく,ソ連もただちにワシントンに報復できたので,核攻撃の確実性はない.つまり,抑止は能力だけではなく確実性にも関係があるのである.
この「確実性」という問題は「自国を守る場合」と「同盟国を守る場合の核の傘」とで区別をつける必要がある.
この「区別」について,ナイ教授は以下のように主張している.
たとえば,アメリカは核抑止によって,ソ連のアフガニスタン侵攻を阻止できなかったが,アメリカは冷戦が続いた40年の間,ソ連が西欧のNATO加盟国を侵攻すれば核兵器を使うと威嚇していた.
したがって,核の傘と戦争回避を巡る核兵器の影響を考えるためには,状況が深刻な重大な危機に目を向けなければならない.
歴史を調べれば,核兵器に関する抑止について,有益な思考を進めることも可能だ.(理由を説明するのには不完全ではあるが)
たとえば,1945-1949年の間は,アメリカが核兵器を独占していたが,使用することはなかった.
相互確証破壊が成立する以前でも,何らかの自制が働いていたのである.
その理由としては
1.核兵器の保有数が少なかった
2.核兵器に関する知識が少なかったこと
3.ソ連がヨーロッパに大規模侵攻するかもしれないと恐れていた
等が挙げられる.
つまり「相互抑止」が成り立っていない場合でも,核を使用しない可能性はある.
1950年には米ソともに核を保有するに至り,朝鮮戦争という危機によって,核の使用を考える事態が起こった.
しかしながら,核兵器は,朝鮮戦争の時にも,1954年・1958年に中国が台湾に軍事侵攻を行った時も使用されなかった.
朝鮮戦争の場合,核兵器の使用によって,中国を食い止めることができるか不鮮明で,ソ連がどういう反応を示すのかも読めなかった.
もしかしたら,核兵器の使用がお互いをエスカレートさせて,ソ連が同盟国である中国を助けるために,核兵器を使用するかもしれないと考えた.
(この二国の仲ってのは,決して良くない・・・つーより,宿敵だと思うが,アメリカは当時,共産主義はまとまっていると思っていた.)
だから,アメリカは核保有数では優位に立っていたものの,朝鮮・中国以外を巻き込んだ大規模な戦争に発展する危険性を考慮し,核兵器の使用を控えた.
もう一つ挙げると,「倫理観」と「世論」というファクターがある.
ナイ教授は,次のようにこのファクターを説明する.
1950年代には,アメリカ政府による核兵器使用に伴う犠牲者の推定数が膨大であったため,核兵器の使用という考えは隅に追いやられていた.
核兵器の使用という問いに対し,アイゼンハワー大統領は
「われわれは10年の内に二度も,このような恐ろしい兵器をアジアの人々に対して使うことは出来ない,神にかけて!」
と答えた.
1950年代にアメリカはソ連よりも多くの核兵器を保有していたが,さまざまな要素が重なって,アメリカ人にその使用を思いとどまらせたのである.
「核抑止」とは,一見単純にみえて,色々なアクターが絡むので,単にその「破壊力」にのみ注目するのは,賢明とは言えない・・・というのが,今回のまとめかな?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
なぜ「冷戦」は「熱戦」に発展しなかったのか?
【回答】
「採算が取れない」という損益収支論が最も合理的な説明だろうが,それにも複雑なそれぞれの背景があり,単純化するのは危険だと思う.
以下に5つの理由をあげてみると.
1.核兵器自体の技術発展とMAD(相互破壊確証)の成立.
水爆の開発は,核弾頭の小型化を可能にし,ICBM(大陸間弾道弾)を出現させ,ボタン一つで「世界文明の破滅」を可能にした.
さらに,これを「お互い」がもつことにより,互いの完全なる破滅という,今までにない状態を作り出した.
「お互いの破滅」を避けるため,核兵器を使用しなかった.
2.戦争のあり方の変化
核兵器時代には,戦争という行為は,あまりにも破滅的すぎ,今までのように「全面戦争」に訴えることは,非常にリスクが高い行為であった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
冷戦期に,ベルリン危機,キューバ・ミサイル危機,そして1970年代初めの中東危機は,戦争と同様の機能を果たし,軍事力における真の力の相関関係を示す機会となった.
要は,この危機で核兵器が使用されなかったことで,核兵器の使用ハードルが非常に高いことが分ったってことかな?
3.核による「恐怖による阻止」という戦略が非常に大きな鍵を握るようになったこと.
相手の攻撃を阻止するために,あらかじめ軍事力を整備し,相手へ「大きな脅威」を与えることが,死活的な重要問題となった,
つまり「戦争が始まってから戦力を整備する」という戦略が不可能となってしまった,
これは,明らかにWW2までとは異なる.
ナイ教授,曰く,
「第二次世界大戦では,アメリカは開戦後の動員と漸進的に戦争体制を整備する能力に依存していたが,この動員と言う手段は,数時間で終了する核戦争ではもはや機能しなくなった」
4.米ソの間に,核戦争を避けるための,事実上の連携ができたこと.
米ソという超大国間には,イデオロギーの相違という大きな壁があったが,共通する重要な案件について,利害が一致した.
「核戦争の回避」である.
冷戦期に,色々な代理戦争や,周辺諸国の対立があったものの,決して直接的に双方が対峙することはなかった.
そして,双方が「勢力圏」を設定することによっても直接的な対峙を避けた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
双方は勢力圏を設定した.
1950年代にアメリカは東欧の共産主義に対する巻き返しを唱えていたが,実際は,1956年にハンガリーがソ連の支配に反乱したときも,アメリカは核戦争の恐れがあるため介入しなかった.
同様に,キューバを除き,ソ連も西半球への介入には比較的慎重であった.
両国は,核兵器不使用と言う規範の確率に固執したのである,
両超大国はコミュニケーションをとるようになった.
キューバ危機の後,ワシントンとモスクワは,米ソの指導者が即座に連絡を取れるようにホットラインが設置された.
技術の発展が,2極構造での指導者間のコミュニケーションをより柔軟かつ個人的にし,危機における協力をより容易にしたのである.
両国は1963年の部分的核実験禁止条約を皮切りに,多数の軍備管理条約に調印した.
軍事管理交渉は,核に関する制度の安定を協議する場となった.
5.当局者が道義的な意味からも,その破壊力からも「核兵器は使用不能」と判断したこと.
以下,ナイ教授の文章を引用.
実際,1960年代の後半には,技術者や科学者は,水爆がもたらす正当化不能の結果を生むこと無しに,アメリカがヴェトナムや湾岸戦争で,あるいはソ連がアフタにスタンで使用できたであろう核弾頭の小型化に苦心するようになっていた.
しかし,米ソ両国は小型の核弾頭の使用を差し控え,代わりにナパーム弾や焼夷弾などの多種多様な通常兵器を選んだ.
その理由の一つは,たとえどれだけ通常兵器に類似していようと,いかなんる核兵器の使用も全面核戦争への扉を開くと考えられ,そのような危険は受け入れられないものであったからである.
しかし,もう一つ別の理由がある.
アメリカが広島に初めて原爆を投下して以来,核兵器は非道義的で,戦争で許容される範囲を超えているという感覚が染み付いていた.
このような規範的な抑制は測りがたいものであるが,明らかに核兵器をめぐる議論に欠かせないものであり,国家が核兵器の使用をためらう理由の一つであった.
つまり技術的・道義的・政治的ないずれの理由からも「核兵器」は使用できない兵器となったということ.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
冷戦期の東側の縦深攻撃と,それに対処する西側について勉強することになったのですが,「機甲戦の理論と歴史」あたりを読んでおくべきでしょうか?
『ソ連地上軍』は,Amazonで中古をみたら7000円級で,手を出しづらくて.
【回答】
勉強の意味が解らないけど,気になる或は読むだけなら図書館の利用を.
で,「これは手元に」と思えたら,購入してみては?
「機甲戦の理論と歴史」はお勧め.
「ソ連地上軍」そんな値段になったんだ…
軍事板,2012/03/30(金)
青文字:加筆改修部分
「機甲戦の理論と歴史」も今後,高騰する可能性もあると思いますので,買えるのなら,今のうちに買っておいた方が吉かと.
軍事理論系は発行数も少ないので,必ず高騰するとまでは言いませんが,どうしても高騰しやすい傾向が…
つか,現代戦略思想の系譜48kてなんだよ,うがー
「ソ連地上軍」が入手困難な場合,限定的な代用として,
「写真集 ソ連地上軍」(ジャパンミリタリーレビュー=軍事研究編集部)
があります.
名前こそ写真集ですが,実際は1/3程が写真で,あとはドクトリンや編制・装備の写真付き解説になっており,「ソ連地上軍」(原書房)の簡易版ともいえると思います.
(ただし運用は概要のみで,ソ連地上軍のように各部隊毎に詳細という訳でなないです)
また,もっと大まかな概要でよければ,
歴史群像アーカイブVol3「ミリタリー基礎知識II 現代戦術への道」(学研)
が判りやすいです.
(ドクトリンのみに限るならば,同じ学研の「ソヴィエト赤軍興亡史I~III」よりは,こちらをお勧め)
さらに,洋書でよければ下記がお勧め.
「Strategy」 Alexander Andreyevich Svechin
(赤軍が全縦深同時打撃や作戦術に傾倒していく最初の第一歩の連続作戦理論の萌芽)
「Soviet Military Operational Art: In Pursuit
of Deep Battle」 David M.Glanz
(作戦術の視点から,ソ連軍の全縦深同時打撃を具体的な想定例を含み解説)
後,細かい部分では怪しい所もありますが,ソ連軍の基本的な考え方なら,
「ザ・ソ連軍」「続 ザ・ソ連軍」スヴォーロフ(原書房)
も参考になると思います.
うらー
Lans ◆xHvvunznRc :軍事板,2012/03/30(金)
青文字:加筆改修部分
ちなみにUKのほうが早い.
一週間で送ってくる.
http://www.amazon.co.uk/Strategy-Aleksandr-A-Svechin/dp/1879944332
軍事板,2012/03/30(金)
青文字:加筆改修部分
米国機甲部隊の指揮官が書いた本でも良ければ,熱砂の進軍があります.
ベトナム戦争時の機甲部隊や,冷戦時の西ドイツ駐留軍,湾岸戦争の機甲部隊がわかります.
突撃兵 ◆hpJg4qOM9M :軍事板,2012/03/30(金)
青文字:加筆改修部分
『熱砂の進軍』は,米軍が作戦術を見出す一連の経過を説明する,良い本だと私も思います.
ただ,フランクス中将が書いたというより,フランクス中将に密接取材したトム・クランシーが書いた,もしくは代筆くらいに考えた方がいいかも.
Lans ◆xHvvunznRc :軍事板,2012/03/30(金)
青文字:加筆改修部分
東側の縦深攻撃に対する,米軍の大規模なエアランドバトルの実例として,「湾岸戦争大戦車戦」(河津幸英)もお勧め.
ただし河津の本は,データ部分はいいんですが,政治関連の余計な熱さが苦手.
軍事板,2012/03/30(金)
青文字:加筆改修部分
また,湾岸戦争(多国籍軍の介入後)は,イラク側が防御に入っていたため,厳密には縦深攻撃に対するエアランドバトルと言うよりも,縦深攻撃に対抗する為に作られたエアランドバトルが,逆にソ連型縦深防御に対し,縦深攻撃を行った例,と考えた方が良いのではないかと思います.
Lans ◆xHvvunznRc :軍事板,2012/03/30(金)
青文字:加筆改修部分
【質問】
『世界が燃えつきる日』って何?
【回答】
『世界が燃えつきる日 Damnation Alley』は、核戦争後の世界(?)を描いた1977年のアメリカ映画。
原作がロジャー・ゼラズニイのSF小説『地獄のハイウェイ』だとは,今の今まで知らなんだ.
映画冒頭,殆ど何の説明も無く,ある日いきなり核戦争が起こって,地球は焼け野原.
核ミサイル基地のシェルター内にいて助かった主人公達は,『ランドマスター』と呼ばれる万能特殊車両に乗り,巨大サソリや人食いゴキブリの群れを掻い潜り,人類が生き残っている街を目指すのだった…
『はだしのゲン』に出てくるような苦しんでいる被曝者が,一人も出てこないじゃないか,とか,何でそんな短期間に,突然変異を生物種単位で起しているの?,とか,核戦争をウィルス感染に,害虫をゾンビに変えると,物語の骨幹は殆ど『バイオハザード』だな,何年経っても考えることは同じだな,などと,大人げないツッコミをしてはいけない.
アメ公の,当時の核戦争観が,ある意味で良く分かる映画.
【参考ページ】
http://en.wikipedia.org/wiki/Damnation_Alley_(film)
「ランドマスター」
ちなみにこちらは,2012年にロシアで開発された,万能特殊車両
【ぐんじさんぎょう】,2012/10/07 20:00
を加筆改修
【質問】
質問です.
最近,中国の空母だの,単なるドンガラが飛行しただけの殲20だののせいで,「中国と戦争になる!!」と騒ぐ与太郎が多いんですが,
「そんなもんより,ソ連の脅威が叫ばれていた60年代の冷戦の時分の方が,よっぽど緊張感は上だろ」
と思っております.
その時期に何があったのかと言えば,U-2の撃墜とかキューバ危機とか,ベトナム戦争だとか,もう少し下がってベレンコ中尉の亡命とか色々と思い出される訳ですが.
ただ,具体的に「日本に及ぶ危機」は何か有ったのかな?と思うと思いつきません.
ソ連の北海道上陸に怯えていたとかいう話は聞きますが,では具体的な軍事上の動きは何か有ったんだろうか・・・と.
たとえば戦力の国境付近への移動とか,自衛隊に緊張が走ったような事例が当時に何か有ったんでしょうか?
2011年01月22日 00:31 千里独行
【回答】
70年代なら,例えば,北方領土の国後島の空軍基地に当時最新鋭機だったMIG-23が配備された時とか,ミンスクの回航の時とか,200海里水域の設定問題とかありますね.
60年代にはどちらかと言えば,ソ連のミサイルと中国の水爆が脅威だったのではないでしょうか.
サハリンには数カ所ソ連のミサイル基地が設置されていましたし.
一方,米国の施政権下にあった沖縄には,メースBが中国向けに長いこと配備されていましたっけ.
2011年01月29日 22:55 眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
タイコンデロガ級の「ヨークタウン」が,クリヴァク型フリゲートにぶちかましを喰らっている画像を見つけました.
で,コレについて自分なりに調べてみたのですが,1988/12/12,黒海に於いてソ連(当時)側が意図的にやった,という事くらいしか分かりませんでした.
(恥ずかしながら自分,英語力が乏しいもので…)
そこで.
○どういう経緯もしくは意図で衝突したのか
○それぞれどのくらいの損傷を受けたのか
○事件はその後どう解決されたのか
ご存知の方がおられましたら,詳細をご教授ください.
【回答】
ソ連艦による米艦体当たり事件は1988年2月12日に相次いで発生した.
ひとつはクリヴァクⅠ型駆逐艦ベザヴェトヌイのミサイル巡洋艦タイコンテロガへの体当たり.
もうひとつはミルカⅡ型警備艦824号のスプルーアンス級駆逐艦キャロンへの体当たり.
2隻の米艦は国際法上の「無害通航権」を主張し,ソ連領海内を航行中だったが,これを不当とするソ連側が体当たりで応えたもの.
ちなみに領海内における軍艦の「無害通航権」は,一般には認められていない.
ヨークタウンの軽微な損傷(左舷係船こうの損傷,外舷こすれ)のみで大事には至らなかったのは,ソ連側が兵装を使用せず,船体による針路規制という警備活動に徹したため,といわれる.
「世界の艦船」1988年6月号には当時の写真が掲載されており,衝突直前にもかかわらず,艦上で冷静に見ている双方の乗員も写っている.
【質問】
冷戦はいつ,そして,なぜ終結したのか?
【回答】
1989年11月,ソ連が東ドイツを支援せず,民衆による歓喜に満ちたベルリンの壁が破壊された時,冷戦が終結したといえる.
冷戦が終結した原因はいくつかあり,それが絡み合った結果と言える.
1.ジョージ・ケナンの「封じ込め」が成功した.
これについて,ナイ教授は次のように説明する.
第二次世界大戦後の直後にジョージ・ケナンは,アメリカがソ連の拡張を阻止できれば,そのイデオロギーの影響力が強まる見込みはなく,ソ連の共産主義は次第に限界を迎えるであろう,と主張した.
新たな思想が生まれ,人々は共産主義が将来の趨勢ではなく,歴史にも見放されたものであると理解するのであろう,というのである.
大局的にみればケナンは正しかった.アメリカの軍事力がソ連の拡大を抑止する一方で,アメリカの文化や価値,理念がソ連のイデオロギーを融解させたのである.
しかし,これでは「冷戦の終結時期」を説明できないし,なぜあれだけ長く続いたのか,また,デタントと緊張緩和が繰り返されたのかを説明できない.
そこで,もう一つの要因として指摘されるのが,
2.ソ連の過剰拡張
例えば歴史家のポール・ケネディは,あまりにも拡張しすぎて,内部から弱体化したと主張している.
それによれば,ソ連は経済力の1/4以上を外交・防衛につぎ込んでいて,あまりにも膨張しすぎていたという.
ただ,ソ連は大国間戦争で敗北したわけでも弱体化したわけでもない.
そこで出てくるのが,第三の見方
3.1980年代のアメリカの軍拡がソ連を屈服させた
ただ,ロナルド・レーガンの政策は,ソ連に過剰拡張を取らせたのは事実だが,根本的な問題の回答にはならない.
なぜなら,それまでのアメリカの軍備増強ではそうならなかったからである.
そこで,出てくるのが「人間」の要素である.
この「人間」とは,ミハイル・ゴルバチョフである.
ゴルバチョフはそもそも,共産主義の「改革」を目指したのであって「崩壊」を目指したわけではなかった.
だが,ゴルバチョフの「改革」とは,ボトムアップ式の改革だった.
ゴルバチョフは,当時の進行していた不況を克服するため,国民を統制しようと試みた.
しかし,統制では,問題解決にならなかったため「ペレストロイカ」(改革)という構想を持ち出したが,これは官僚の抵抗があり,トップダウン式の改革を行うことができなかった.
そこで,官僚に圧力を加えるため「グラスノチ」(公開)という民主化政策を行った.
国家の現状に対して,国民の不満を公にすることにより,官僚に圧力を加えて,ペレストロイカを実行しようとしたのである.
だがこれは,意図しない結果をもたらしたようだ.
以下,ナイ教授の文章を引用.
グラスノチと民主化によって,国民が自らの考えを主張し,それを投票で決するようになると,多くの国民は次のように主張した.
『われわれは脱出したい.
ソ連の国民に将来はない.
この国は帝国主義国家であり,この帝国はわれわれのいるべき場所ではない.』
と.ゴルバチョフがソ連解体の歯止めを外し,1991年8月の保守派のクーデタが失敗した後は,この方向性は一層明らかになった.
1991年12月には,ソ連は崩壊していた.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
4 名前: 自営業 投稿日: 2000/07/30(日) 05:07
私は冷戦の復活を望んでいます.
10年前,社会主義国がどんどん崩壊したとき,マジに佐藤君とソビエト大使館に行って
「根性なし! 大悪魔は何処に行った!」
とデモしようかと語り合いました.
本当に困ってます.
でも,ロシアはすでに侵攻してます.
私は見たのです.
ロシアン・パブにルーマニアンと共に侵略してました.
私は今後も内偵を続ける誓いを立てました.
【質問】
マルタ会談の会談場所は?
【回答】
1989年12月2日~3日に掛けて地中海のマルタ島で行われた「マルタ会談」
会談は,ソヴィエト連邦最高会議幹部会議長ミハイル・ゴルバチョフと,アメリカ合衆国大統領
ジョージ・H・W・ブッシュとの間で行われ,会談場所としてソ連客船「マクシム・ゴーリキー」が使われました.
この会談で,ソ米首脳は,1945年以来続いてきた東西冷戦の終結を宣言しました.
上記の通り,会談は,客船「マクシム・ゴーリキー」で行われたのですが,実は当初,ソ連側は,会談場所として,黒海艦隊のロケット巡洋艦スラヴァ(現モスクワ)を提供していました.
当然,スラヴァも,マルタ島まで行きました.
一方アメリカ側は,第6艦隊のミサイル巡洋艦ベルナップを提供しました.
しかし結局,スラヴァでもベルナップでも会談は行われませんでした.
写真は,1989年11月29日の「スラヴァ」です.
1枚目は,米ミサイル巡洋艦ベルナップから撮影されたスラヴァ.
2枚目は,アメリカ海軍将兵を迎えるスラヴァ艦上のソ連海軍水兵.
3枚目は,スラヴァ艦上のソ連・アメリカ海軍将兵です.
白い帽子がアメリカ海軍将校,それ以外はソ連海軍将校です.
Небесный бытьネベスニィ・ビィチ~ロシア・ソ連海軍~
2008/12/28(日) 午前 9:57
【質問】
「汎ヨーロッパ・ピクニック」って何?
【回答】
「汎ヨーロッパ・ピクニック Páneurópai piknik,Paneuropäisches Picknick)とは,1989.8.19,オーストリア・ブルゲンラント州に食い込むハンガリー領ショプロンで開かれた政治集会で,これには西ドイツへの亡命を求める1000人程の東ドイツ市民が参加.
そして彼らは一斉にハンガリー・オーストリア国境を越え,亡命を果たしました.
この時ハンガリーは,同盟国である東独政府の抗議にも関らず,西側へ出国させました.
これがきっかけとなって,東独政府はベルリンの壁を開放せざるをえなくなり,東独の崩壊へと繋がりました.
東独が崩壊することで,チェコスロヴァキアではビロード革命が勃発し(こっちはだから,ハンガリーとは違って本物の革命ですね),チェコの共産党政権が倒れ,その影響でルーマニアでハンガリー人牧師のテーケイ・ラースロー師弾圧事件の絡みでティミショワラ(テメシュヴァール)の虐殺事件が起こり,最終的にはチャウシェスク体制が崩壊し,ブルガリアにも波及し....
ソ連東欧圏の崩壊の条件を造ったのはゴルバチョフでしたが,実際にそのドミノの一突きをしたのがハンガリーでした.
ハンガリーが同盟国東独の市民の亡命を認めざるをえなかったのは,ハンガリーが国際難民条約に社会主義国としては唯一加盟していたからで,条約の履行義務があったからです.
では,なぜハンガリー政府が難民条約に加盟せざるをえなかったのかと言えば,それはルーマニアから大量の同胞の難民がハンガリーに亡命してきており,ハンガリー系住民の母国としては彼らを保護せざるをえなかったからです.
で,なぜルーマニアから大量の亡命者が発生したかと言えば,血迷った独裁者チャウシェスクが,トランシルヴァニア全土を更地にして,ハンガリー人の歴史的・文化的遺産を抹殺しようとしたからでした.
ソ連東欧圏崩壊の直接の切っ掛けは,だからトランシルヴァニアのハンガリー系住民弾圧問題に端を発していたのでした.
日本では全然報道されていないけれども....
しい坊 : 世界史板,2001/09/30
青文字:加筆改修部分
【質問】
ベルリンの壁崩壊は,第一書記であるシャボウスキの勘違いが原因ということですか?
【回答】
元々,彼はクレンツから旅行自由化に関する発表の紙切れを渡された時,良く読んでいませんでした.
で,その紙には,「何時から」と言う部分が書かれていませんでした.
其処で咄嗟に
「私の知る限りでは,今すぐに,です」
と言う言葉が口を突いて出た,としています.
Rhetoricの問題ではありますが,東ドイツにおいては,「即刻」と言う意味には取られていませんでした.
ただ,彼の発言だけで,ベルリンの壁崩壊に繋がった訳ではありませんよ.
【質問】
冷戦後の世界はどのように見るべきか?
【回答】
・リアリストもリベラリストのアプローチもそれぞれ限界があり,冷戦後の世界秩序を単一では説明不可能.
・冷戦時には,集団安全保障は二極化(冷戦化)によって阻まれた.
・湾岸戦争では,集団安全保障のアプローチが成功したといえるが,同時にその欠陥も露呈してしまった.
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「冷戦後の世界」とは独特のカテゴリーに属すると見るべきだろう.
コンストラクヴィストは,機械的な極と極との対立という見方は硬直に過ぎると主張している.
パワーは多元的となり,構造は複雑になり,国家はますます様々なパワーの侵食を受けるようになる.
このように,複雑さを増す世界では,単純な軍事力を通じての「バランス・オブ・パワー」によってのみ構成されるわけがない.
また,リアリストの世界秩序観は,確かに必要だし重要だが,十分ではない.
これについて,ナイ教授は以下のように述べている.
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リアリストの世界秩序観は必要ではあるが,十分ではない.
なぜなら,世界をウェストファリア体制から次第に遠ざけてきた長期的社会変化を考慮しないからである.
1648年にヨーロッパ諸国は,30年にわたり宗教をめぐって分裂した後にウェストファリア条約を結び,事実上,統治者が国民の好みに関係なくその国家の宗教を決めることで合意した.
秩序は国民の主権ではなく,国家の主権に基づいていた.
中身が空(から)のビリヤードボールのように取り扱われた国家間の機械的なバランスの維持は,その後の数世紀の間に高まったナショナリズムと民主的な参加によって侵食されたが,国家主権の規範は維持された.
今日では,国境を越えるコミュニケーション,移民,経済的相互依存の急速な高まりによって,伝統的な概念の崩壊に拍車がかかり,規範と現実のギャップが広がっている.
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そして,ナイは前は完全に「非現実的」と言われたリベラルのアプローチがそれなりの妥当性を得てきていると主張している.
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このような変化によって,諸国家だけではなく諸国民からなる世界社会と,軍事力だけでなく価値観や制度に基づく秩序を主張するリベラルの考え方が,妥当性を帯びるようになっている.
イマニュエル・カントの民主主義による平和的連邦の提案のような,かつてはありえない理想主義と見なされていたリベラルの考え方が,今では突拍子もないものではなくなり,政治学者は自由民主主義同士が戦争した例がない事を論じるに至った.
たとえば,ドイツ統一がもたらす影響を巡る議論では,ヨーロッパが[過去のような]未来へ回帰すると考えるリアリストの予測よりも,新しいドイツが民主的でEUという制度を通じて西ヨーロッパの近隣諸国に結び付けられている,と強調するリベラルの予測の方が高かった.
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※
この「民主主義国家同市は戦争した例がない」というのは誤りだろう.
ナイ自身,1章でアテネとスパルタの戦争例を挙げている.(スパルタが民主主義国家だったかは異論がでるにせよ)
また,探せば「民主主義国家同士の戦争」の例を挙げることはそんなに難しくないだろう.
さらに,このようなリベラルのアプローチは全く新しいものでもないし,全ての国に当てはまるわけじゃない.(アフリカの内戦国に「世界連邦を!」といったところで,全く無意味だし)
冷戦秩序下でも,規範と制度が存在することはしたが,限定的な役割しか果たさなかった.
WW2中ルーズベルト,チャーチル,スターリンは,パワーの多極化を想定して,国連で5大国が拒否権を維持しつつ,集団安全保障と小国への不可侵を成立させようとした.
しなしながら,当人たちの意思とは無関係に(もしくは想像を超えて)二極化が進行した結果,この「ウィルソン主義的なアプローチ」は頓挫してしまった.
これについて,ナイ教授は以下のように述べている.
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両大国はお互いのイニシアチブに対して,拒否権を発動したために,国連は侵略の排除というよりは,停戦監視のために平和維持軍を駐留させるという,より小さな役割しか果たす事が出来なくなった.
ソ連のパワーが低下し,国連の集団安全保障構想を1990-1991年にはイラクに適用する上で,クレムリンがアメリカと協力するという新たな方針を打ち出したが,それは新しい世界秩序の到来というよりは,1945年に発行するはずであったリベラル制度の一部が再現されたに過ぎなかった.
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しかしながら,湾岸戦争では「多国間合意による集団安全保障」という,まさしくウィルソン的なアプローチが機能し,リベラル・アプローチは1局面的には復活した.
だが,それと同時に,そのアプローチの欠陥を露呈したとナイ教授は分析している.
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国連憲章に謳われる集団安全保障構想は国家中心的で,国境を超える場合には適用されるが,内戦には適用されない.
リベラルは民主主義と民族自決の原則を盾にこの問題を避けようとしてきた.
すなわち,自国内で保護されたいのか否かを,その国内の民族に決めさせようとしてきたのである.
しかし,すでに見てきたように,民族自決とは見た目ほど単純なものではない.
誰が誰に自決権を与えるのか?
今日の世界では,単一民族からなる国家は10%以下である.
人口の75%を1つの民族が占める国家は半数でしかない.
旧ソ連圏の国家の大部分は,多数のマイノリティ〔少数民族〕をかかえ,また多くの国々が境界線を巡って争っている.
50数カ国からなるアフリカでは,およそ1000の民族が国境内,あるいは国境を超えてひしめき合っている.
カナダでは,ケベックのフランス語を話す多数派が特別な地位を要求し,中にはカナダからの独立を扇動するものもいる.
一度このような他民族・多元語国家で問題が起きると,解決を見るのは困難になる.
このような世界では,地方自治と国際的な少数民族の権利の拡大はある程度望めるにしろ,無制限の民族自決への支持は,膨大な世界無秩序を生み出す事になるだろう.
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詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第9章を参照されたし.
【質問】
冷戦の終わりは,日本の国力にどんな影響を及ぼしたか?
【回答】
冷戦時代は日本を共産主義の防波堤と位置付ける米国が,さまざまな便宜を図り,かつ,国際社会でも庇護を与えていたが,そうした「恵まれた国際環境」が,冷戦の崩壊と中国のグローバル化の中で消滅したという.
以下引用.
――――――
戦後の高度経済成長はもちろん日本人の努力もあるにはあったが,それ以上に,東西の冷戦構造の中で,世界の支配者アメリカ様が,日本を共産主義の防波堤と位置づけて下さり,その結果,アメリカと言う巨大市場を日本の工業のためにかなり鷹揚に開放してくださり,アメリカの先端技術を金さえ払えば幾らでも売ってくださり,その過程で日本がかなりえげつないことをして欧州が立腹しても「東西冷戦の大義」のため欧州を黙らせ,日本の国際社会への復帰を全面支援して下さったことが日本の高度成長実現に非常に大きく貢献したことも,〔『政局から政策へ』(飯尾潤著,NTT出版,2008.3)に〕きちんと書いてある.
上記の「恵まれた国際環境」が,冷戦の崩壊と中国のグローバル化の中で消滅したという指摘も考えさせられる.
それまでは,日本はアジアの唯一の先進国として,いわば文字通り「アジアのゲートウエイ」であって,日本は東西を結ぶ結節点に位置するという大変有利な立場に位置していたわけだが,これが冷戦の崩壊で消滅し,欧米諸国は日本の頭越しに大規模にアジア,特に中国と直接結びつくようになったというわけである.
これはバスコダガマの喜望峰ルートの発見が地中海貿易を独占していたヴェネツィア帝国の存立基盤を根底から揺さぶったことに似て,日本の将来に大きな影を落とすことになりうる事態である.
――――――塩津計 in 『BK1』,2008/05/16 21:03:20(リンク切れ)
もっとも,米国が日本にさまざまな便宜を与えて支えた背景には,米軍が基地を設置する上で絶好のロケーションが日本にあったため,という指摘もある.
【質問】
以下の見解は妥当なもの?
――――――
遅くとも,ベルリンの壁が崩壊した1989年11月の段階で,日本の安全保障政策は,大転換されるべきであった.
米国の極東政策と協調すべく,米軍の補完勢力たる自衛隊を漸次強化していく,ということをやめ,国連を通じて,冷戦終結以後の世界秩序の再構築に貢献するために,日本に何ができるかを,真剣に考えるべきであった.
――――――林信吾著『反戦軍事学』,p.219
【回答】
>米軍の補完勢力たる自衛隊
という決め付けに,まず首を傾げたくなるんだが,本筋ではないのでとりあえずそれは置いておいて……
ある程度の転換がなされる必要はあっただろうし,そして実際にある程度の転換も試みられているようだが,それがどうして「米国から国連へシフトせよ」ということになるのか,さっぱり分からん.
米国にとって代われるほど,そんなに国連が頼りになる組織なのか?
国連決議一つとっても,まさに常任理事国,特に大国の意向に振り回され,決議が出るまでに非常に時間がかかる.
こんなことでは,仮に日本が国連を頼りにしたとすると,決議が出るまでに有事は終わっているだろうし,大国の国益が日本の国益に優先されかねない.
最悪の場合,経済制裁だけでお茶を濁される場合だってある.
ナイ教授も言うように,「国連に対して,過度の期待をすることも,完全に無視することも賢明ではない」んだが,安全保障政策上,同盟国としての米国代わりになるなどと考えるのは,国連への過度の期待そのものだね.
しかも,国連シフトへの目的が,「冷戦終結以後の世界秩序の再構築に貢献するため」と,自国の安全保障戦略がどこかへ行ってしまっている.
これじゃ,ダメでしょう.
国家をボランティアと同列に考えられても困るんだよね.
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