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◆冷戦 Hidegháború
<戦史FAQ目次
(画像掲示板より引用)
目次
【質問】 冷戦時代を背景にした仮想戦記で,オススメを教えてください.
【質問】 東欧にとっては「ソ連による平和」にも効用はあったのですか?
【質問】 「日本を徹底的に打ち砕いた結果,アメリカが日本からぶん盗ったもの… それは日本が中国・満州・朝鮮で長年背負ってきた「共産主義との対決」という重荷だけだった!(小林よしのり)」のですか?
【質問】 冷戦とは,今までの歴史上になかったような形の緊張状態であったのか?
【質問】 フランクリン・ルーズベルトが第二次世界大戦後に目指していたものとは何か?
【質問】 冷戦におけるアメリカ・ソ連の目標とは具体的に何なのか?
【質問】 アメリカの対ソ連政策と目標はどのようなものだったのか?
【質問】 第二次大戦後,どうして資本主義陣営は一致団結できたのか?
【質問】 第二次世界大戦終結直後のスターリンは,どのような構想を持っていたのか?
【質問】 そもそもWW2が起こらなければ,ソ連は勢力を拡張できたでしょうか?
【質問】 ソ連側から見て,戦後の推移はどのようなものだったのか?
【質問】 大戦終結直後から冷戦初期にかけて,なぜ東西は全面戦争にならなかったのでしょうか?
【質問】 ソ連時代,バルト三国や中央アジア諸国などにも,抵抗組織は存在したのでしょうか?
【質問】 日独韓の再軍備の際に,米軍は3国にそれぞれ何の戦車を何両供与したんでしょうか?
【質問】 東西ドイツがなぜ朝鮮のように戦争にならなかったのか,ご教授ください.
【質問】 社会主義や共産主義の国家ではなぜ,書記長や書記が国家元首なんですか?
【質問】 ソ連知らない学生に中ソ対立説明するのに,元々中国とロシアには領土的遺恨がございまして…という風に端折るのは,正確じゃないですよね…?
【質問】 ホッジャはスターリン批判に反発したのに,何故ソ連と対立したんですか?
◆◆ハンガリー動乱 →欧露別館へ
◆◆キューバ危機以降
【質問】 キューバ危機(1962年10月に発覚)が世界に与えた意味とは?
【質問】 キューバ危機において,何故ソ連海軍は米海軍に対抗できなかったのか?
【質問】 キューバ危機においてソ連の潜水艦乗員たちは,状況を逐一知らされていたのか?
【質問】 キューバから帰還後,ソ連潜水艦の乗員たちはどうなったか?
【質問】 キューバ危機の際のルメイ大将の主張は,軍事的には正しいのでしょうか?
【質問】 キューバ危機の後の米ソは,全面核戦争を避けるためにどのような政策を取ったのか?
【質問】 なぜデタント(緊張緩和)政策は継続しなかったのか?
【質問】 冷戦期の東側の縦深攻撃と,それに対処する西側について,何を読んでおくべきでしょうか?
【質問】 冷戦期,なぜ「集団安全保障」は機能しなかったのか?
【質問】 ソ連の脅威が叫ばれていた60年代の冷戦当時,自衛隊に緊張が走ったような事例が何か有ったでしょうか?
【質問】 米艦「ヨークタウン」が,クリヴァク型フリゲートのぶちかましを喰らった事件について教えてください.
【質問】 ベルリンの壁崩壊は,第一書記であるシャボウスキの勘違いが原因ということですか?
【質問】 冷戦の終わりは,日本の国力にどんな影響を及ぼしたか?
【質問】 「ベルリンの壁が崩壊した段階で,日本の安全保障政策は,米国協調から国連協調へ大転換されるべきであった」という見解は妥当なもの?
「You Tube」◆(2007/06/24)Будет ласковый дождь
「朝目新聞」●やる夫で学ぶ東西冷戦 (of 豚速(`・∞・´))
『アフター・ヴィクトリー』(G・ジョン・アイケンベリー著)
『アメリカ人のソ連観』(下村満子著,朝日文庫,1988.6)
『ソ連人のアメリカ観』(下村満子著,朝日文庫,1988.6)
それぞれ両国の政治家や文化人などにしたインタビューをまとめたもの.
冷戦当時の生の声(ソ連側は,公の場で出せる生の声かな? 個人の信じてる事を素直に語ってる率が高い印象を受けたけど.時代的にスターリン否定した後だし)が,割とそのまま載っていて面白い.
特に両者とも,相手の国が何を考えてるのか不安という意見が多かったのは,なるほどと思った.
が,日本人である自分の価値観は,やはりアメリカ寄りなようで,理屈ではともかく,感情的にはどうしてもアメリカ側に共感してしまう.
「ソ連は一度も他国を侵略した事がない」
とか言われちゃうともうね.
なんにせよ,冷戦という時代を振り返るのにふさわしい2冊.
------------軍事板,2010/12/28(火)
『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(米原万里著,角川文庫,2004.6)
著者は一頃,ロシア語同時通訳の第一人者として活躍したが,2006年56歳で逝去.
本書は著者の少女時代,プラハのソ連大使館付属学校在籍当時親交のあった,ギリシャ,ルーマニア,ユーゴスラビア出身の3人の少女との交遊と,東欧自由化後の再会を描いたエッセイ.
まぁ,著者も含め,各国共産党役員の子女と言う事で,著者や登場人物の言動や価値観は,軽妙洒脱な文体にも関わらず,若干の違和感を感じるが,当時,西側とは言え軍事政権下で言論の自由が無かったギリシャや,共産体制下でも封建社会の名残を留めたルーマニア,一方,党高官にもそれほど特権が与えられなかったユーゴスラビア,それぞれのお国柄と政権交代後の社会変化と影響を通し,国家や民族の意味(著者は所謂¨地球市民¨ではない)について考えさせてくれる好著.
なお,著者には本書の他にも,
『旅行者の食卓』『ロシアは今日も荒れ模様』といったロシア・東欧事情や,
同時通訳の視点から「言語」を語る『シモネッタ&ガセネッタ』
犬猫の生態を描いた『ヒトのオスは飼わないの?』
等の小品を残しており,軽妙洒脱ながらも博識ぶりを窺わせる優れたストーリーテラーであった.
つくづく早逝が悔やまれてならない.
――――――軍事板,2010/02/23(火)
『囚人のジレンマ フォン・ノイマンとゲームの理論』(ウィリアム・パウンドストーン著,青土社,1995.3)
読了.
ジョセフ・ナイ等,国際政治系の本で言及される「囚人のジレンマとゲーム」理論の発見者たる,フォン・ノイマンの生涯を扱った良書.
前半は主にフォン・ノイマンの生涯――読んだ本を一語一句記憶して,歴史学者の鼻を明かしたり,本の内容をすぐさま他の言語に翻訳したり,黎明期のコンピューターの計算速度をあっさり凌駕したりと,個々のエピソードが凄すぎる――を,後半は「囚人のジレンマ」をはじめとする,各種ゲーム理論の発見・研究や解説を,冷戦史と絡めて扱っている.
ゲーム理論に関しては,完全素人の自分にもわかりやすい解説で,結構簡単に内容が飲み込めるので,ゲーム理論の入門書としても,ちょうどいいかも.
何気にバートランド・ラッセルの,そのときそのときでは合理的かもしれない判断だけど,通してみると迷走しまくりな,対ソ問題での主張が面白かったり.
--------------軍事板,2011/02/19(土)
『第三次世界大戦 チームヤンキー出動』(ハロルド・コイル著,二見文庫,1988.12)
懐かしいな.
この本,英語の勉強のために原書と翻訳を突き合わせて読んだよ.
文法上の難読箇所は全て訳し落としてあった.
翻訳者の経歴は書いてなかったと思うが,よくこの程度の学力で翻訳できたものだと思ったね.
――――――軍事板,2010/03/20(土)
青文字:加筆改修部分
「国際紛争」(ジョゼフ・S・ナイ著,有斐閣,2005.4)
「ソフトパワー」(ジョゼフ・S・ナイ著,日経新聞社,2004.9)
「帝国の興亡」(ドミニク・リーベン著)
「無形化世界の力学と戦略」(長沼慎一郎著,通商産業研究社,1997.2)
「冷戦史」(松岡完/広瀬佳一/竹中佳彦編著,同文舘出版,2003.6)
「冷戦とは何だったのか」(ヴォイチェフ・マストニー著,柏書房,2000.3)
「ロング・ピース」(ジョン・L・ギャディス著,芦書房,2002.11)
「アメリカSF映画の系譜」(長谷川功一著,リム出版新社,2005.6)
【質問】
冷戦の開始とはいつからのことを言うのでしょうか?
ヤルタ会談からとかポツダム会談からとかチャーチルの「鉄のカーテン」演説からとか西ドイツ政府を米・英・仏が承認してからかなとか色々考えたのですが,どうもしっくりきません.
厳密に定義することが難しければ,もっとも一般的に支持されてる時期でかまいません.
【回答】
実質的には大戦中から始まってるともいえる.
もともと西側諸国は共産主義を(というか共産主義の蔓延を)憎悪し恐れていた.
より大きな脅威であるナチスドイツを倒すために,便宜上手を結んだだけ.
開戦前は,反共を掲げるナチスに一定の理解を示す政治家も多かった.
ドイツが片付けば敵対関係に戻るのは当然.
しかし一般的イメージの「冷戦」は,ソ連の原爆開発と配備から本格化してから.
ソヴィエトの原爆開発以前はアメリカが強すぎて,対立が表ざたにはならなかっただけ.
世界史板
青文字:加筆改修部分
アメリカはどうか知らないけど,西欧では第1次大戦後から共産主義への警戒心は強い.
第1次大戦後の東欧の独立国が,「防疫」よばわりされたぐらい.
それから,鉄のカーテン以東が完全に共産政権の手に落ちるのは40年代末だけど,これが知られるようになったのは最近のことらしい.
カラジチ ◆mWYugocC.c in 世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
冷戦時代を背景にした仮想戦記で,オススメを教えてください.
ちなみに「レッドアーミー侵攻せよ!」は,かなり以前に読みました.
【回答】
つ 【第三次世界大戦】ジョン・ハケット
現役の機甲部隊の少佐(当時)が,NATO軍の想定(ジョン・ハケット准将の「第3次世界大戦」は,当時のNATO想定の小説化)を基礎として描き上げた,中隊規模の戦術想定集ともいえるストーリーラインを持った小説(仮想戦記)
……と書いて興味を抱かないのであれば,スルーして良いです.
Lans ◆xHvvunznRc :軍事板,2011/07/01(金)
青文字:加筆改修部分
朝日ソノラマ新戦史シリーズ
ケネス・マクセイ 著/岩堂憲人 訳『第三次世界大戦
崩壊への道』
ソ連戦車師団vsカナダ軍機械化旅団戦闘群の,渋い戦いでおススメ.
著者は退役英陸軍少佐で,戦車部隊指揮官としてノルマンディー作戦に参加.
読後に「現代機甲戦」とか「ブーツ・アンド・サドルス」みたいなシミュレーションゲームがしたくなる.
変化球で,
エドワード・トーポリ「暗黒のクーデター」
反ゴルバチョフクーデターが成功しちまって(半ばまで)から数年,ソ連で一番怒らせちゃならん工場の連中が,遂に全員怒り狂って内戦勃発.
燃えるぜ.
簡単な英語でPDF物件って代物だが,Twilight:2000って昔のRPGがうpされてる.
http://www.sullivanhome.net/rpg/Twilight%202000%20rpg/
1997年,地球は核の炎に包まれた…
しかし,戦争を止めるべき米ソ首脳部が蒸発したのに加え,国内治安と流通が無茶苦茶になり,抑えつけられてきた周辺諸国が立ち上がって侵攻を始め…
そして2000年.戦いはまだ続いている…
…と言った設定なんだが,年表と資料集を読んでるだけでかなり楽しい.
上から2番目のディレクトリの 0504 U.S.Army
Vehicle Guideあたりが,とりあえずお勧め.
1番下のディレクトリの,
0519 Howling Wilderness (アメリカ国内事情一覧)
0528 Survivors Guide to the UK(英国),
2017 East Europe Sourcebook
あたりも.
これ,被曝設定があるから,日本語版なんて出るわけもなく……
実際,次期発売予定としてHJのカタログにも載ったんだが,被曝ルールが絶対問題になるってんで没になった.
戦闘ルールに歯ごたえがありすぎるというのは,当時から言われてたが.
確かあちらさんのファンタジー日本RPG「ランド・オブ・ニンジャ」のキャラクタークラスに,えた・ひにんが入ってるってんで大問題になって,発売中止になった直後じゃなかったかな.
差別的な取り上げ方じゃあ,なかったんだけどね.
忍者でプレイするには,被差別階級出身じゃないとダメとかそういう感じで(実際そういう出身の人が多かったみたいだし)
ただ,朝日新聞に酷い取り上げ方されて,回収されちゃった.
余談だが(俺も大昔のTACTICSのバックナンバーで見ただけなんだが),ドイツでの米ソ仮想戦車戦をSPIが作ったとき,舞台にされた街の市議会が抗議声明を出したことはある筈.
ヴュルツブルクだったかな.
同じシリーズで中ソ激突を描いた「奉天」の方は,特に何もなかったとか.
軍事板,2011/07/01(金)~07/03(日)
青文字:加筆改修部分
【質問】
冷戦の原因を作ったのは米ソどちらなのか?
【回答】
見方が幾つかあり,現段階ではどちらとも断定できないという.
以下引用.
冷戦の説明の仕方として,基本的に四つか五つの見方があることをここで紹介しておきます.
●traditionalism---ずばり,ソ連の拡大主義が冷戦の元になったとする立場.「ソ連悪玉論」もちろんアメリカ政府はこの立場.
●revisionism---アメリカこそが冷戦を作ったとする「アメリカ悪玉論」.基本的にマルクス主義や左翼の立場.最近ではこの見方が復活しつつあります.
●post-revisionism---アメリカ・ソ連ともに両方とも悪いとする,「米ソ悪玉論」.上の二つの見方の折衷的な見方.
●realism---国際政治の力学が冷戦を形作ったとする「米ソ権力闘争論」
●“internalist"---アメリカの政治における特殊性に原因をもとめる「アメリカの性質論」,スターリンをヒトラーに見立てたり,アメリカの文化がソ連と相容れなかったために冷戦が起こったという立場.
最後の立場はちょっと特殊ですが,とりあえずその上の四つの立場は学界ではけっこう市民権を得ているそうです.
例えば,traditionalismな見方としては以下のようなものがある.
この論文は
“Communist Bloc Expansion in the Early Cold War: Challenging Realism, Refuting Revisionism”〔PDFファイル〕
という題名で,著者はDouglas J. Macdonaldという人です.
どういう内容かというと,冷戦の原因は本当のところどうなのよ?ということです.
彼はこの論文で
「伝統主義的な見方(ソ連の拡大主義)がやはり正しいのだ!
共産主義のイデオロギーは,冷戦の形成に大きな役割を果たしたんだ!」
ということを主張したいわけです.
〔略〕
「新しい歴史的証拠が出てきてわかったのは,やっぱり冷戦初期にはソ連の拡大主義傾向があって,これが伝統的な見方が正しいことを確認した」
ということです.
余談だが,こういう長文の英語論文を読むときの攻略方法.
ある先生に面白いことを聞きました.文献を読む際にどうしても時間がない場合は,結論の部分だけ読め,ということです.
〔略〕
ところがこの論文はとにかく異常に長い.全部で36ページあります.
で,これを攻略するにはどうしたよいかというと,いきなりConclusionと書いてある,いわゆる「結論」の部分だけ一番先に読むのです.
このPDFファイルだと35ページ目,そして論文にあるページでは185ページにいきなり飛べばよいわけです.
すると,Conclusion というすぐ下の一段落の合計六行分に,この論文で主張したいことがすべて簡単に書かれていることがわかります.
もちろんすべての論文が,この論文のように結論のすぐ下に内容の要約がある,とは限りませんが・・・・.
また,ジョゼフ・S・ナイ教授は,
「冷戦を引き起こしたのは誰で,原因は何なのか?」
について,三つの主張を紹介している.
以下,彼の見方にしたがって
1.伝統主義者,
2.修正主義者,
3.ポスト修正主義者
のそれぞれの主張を上げてみると
1.伝統主義者
冷戦を起こしたのはソ連とスターリンである.
アメリカの外交が防衛的なのに対して,ソ連の外交は攻撃的であって,アメリカは徐々にソ連の脅威の本質に気づいた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
伝統主義者は何を論拠とするのか?
戦争終結直後に,アメリカは国際連合の下での,普遍的な世界秩序と安全保障を提案していた.
ソ連は国連を真剣には受け止めなかった.というのも,東ヨーロッパで勢力圏を拡張し支配することを望んでいたからである.
戦後アメリカは動員解除に踏み切ったが,ソ連は巨大な軍隊を東ヨーロッパに残した.
アメリカはソ連の利害を理解しており,たとえば,1945年にローズヴェルトとチャーチル,スターリンがヤルタで会談した際,アメリカはソ連の利害と協調しようと譲歩した,
しかし,スターリンはヤルタ協定を守らず,特にポーランドでの自由選挙を認めなかった.
また,イラン北部から撤退しなかったこと(圧力を受けて最終的には撤退したが),1948年にチェコスロバキア政府を簒奪したことで,1950年には,北朝鮮軍が韓国の国境を越えて侵攻したことで,ソ連の拡張主義は明らかになった.
2.修正主義者
冷戦はソ連よりも,むしろアメリカが始めた,
彼らの論拠は,第二次大戦集結時,世界はまだ二極化構造ではなく,ソ連はアメリカよりも遥かに弱体であったことにある.
アメリカが戦争中に国力を増強し,核兵器保有までしていたのに対し,ソ連は最大で3000万人もの人命を失い,工業生産は,1939年の半分でしかなかった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
1945年10月に,スターリンはアメリカの駐ソ大使アヴェレル・ハリマン(Averell Harriman)に対して,ソ連は国内の被害を修復するために内向きになるであろう,と語っていた.
修正主義者に言わせれば,さらに戦後すぐのスターリンの対外的行動は,極めて控えめであった.
中国では,スターリンは毛沢東率いる共産党が権力を把握しないように牽制した.
ギリシャの内戦でも,彼はギリシャ共産党を牽制した.
それに彼はハンガリーやチェコスロヴァキア,フィンランドでも非共産主義政権の存在を許したのである.
また,修正主義者の主張は,二つの主張があり,どちらかを重視する傾向にある.
・第一レベルは1945年4月のルーズヴェルトの死,また,それに伴う,ハリー・トルーマンの大統領就任.
以下,ナイ教授の文章を引用.
1945年5月に,アメリカは武器貸与法による戦時援助をあまりにもにわかに中止したため,ソ連の港に向かった船舶は養生で引き返さなければならなくなったほどである.
1945年7月にベルリン近郊で開かれたポツダム会談では,トルーマンは原子爆弾[の開発]に言及して,スターリンを威嚇しようとした.
また,政府内を中道左派から右派に作り変えていった.
ソ連との関係改善を主張していたヘンリー・ウォーレス農務長官を解任し,強硬な反共主義者であるジェームズ・フォレスタルを登用するなど,政府を反共主義へ作り変えていった.
・第二レベルは,そもそもアメリカ資本主義に問題があったというもの.
以下,ナイ教授の文章を引用.
たとえば,ガブリエル・コルコ(Gabriel Kolko)とジョイス・コルコ(Joyce Kolko)夫妻やウィリアム・A・ウィリアムズ(Willam A Williams)らは,アメリカ経済が拡張主義を求めたのであり,アメリカは民主主義ではなく,資本主義にとって,世界を安全なものにしようと企てたのだ,と論じる.
アメリカの経済的覇権は,自立的な経済圏を構築するかもしれないいかなる国も許容できなかった.
対外貿易なしには再び世界大恐慌が発生するかもしれないので,アメリカの指導者たちは1930年代の繰り返しを恐れた.
ヨーロッパ援助のためのマーシャル・プランは,単なるアメリカ経済の拡張の手段に過ぎなかった.
東欧での勢力圏に対する脅威とみなして,ソ連がこれを拒否するのは正しかった.
アメリカが門戸解放をいつでも謳うのは,自らがそこに入り込もうとする手段とする主張.
3.ポスト修正主義者
ルイス・キャディスなどによると,戦後のバランス・オブ・パワーでの二極化構造のために,冷戦は不可避・もしくはほとんど不可避であり,誰かに責めを帰するのは間違っているという主張.
第二次世界大戦前には,7つの大国による多極化構造があったが,第二次世界大戦の結果,米ソという2つの超大国しか残らなかったという二極化構造に加え,ヨーロッパ諸国は弱体化しており,米ソにとっての真空地帯が生まれた.
両者は対立する運命にあり,非難すべき対象を見出すのは無益だという考え方.
以下,ナイ教授の文章を引用.
戦争終結に際して,米ソは異なった目標を抱いていた.
ソ連は目に見える所有,つまり領土を求めてた.
アメリカは目に見えない環境的な目標を持っていた.アメリカは世界政治の全体的な文脈に興味を抱いていたのである.
アメリカがグローバルな国連システムを推進したのに対して,ソ連が東欧での勢力圏の強化を求めた結時,[前者の]環境的目標と[後者の]所有的目標は衝突した.
だが,こうしたスタイルの相違から,アメリカが聖人ぶっていると感じる必要はない,とポスト修正主義者は指摘する.というのも,アメリカは国際連合から利益を得ながら,同盟国の多数の支持を期待できることから,国連に強く拘束されることはなかったからである.
ソ連は東ヨーロッパに勢力圏を持っていたかもしれないが,アメリカもまた西半球と西ヨーロッパに勢力圏を持っていた.
修正主義者の説くような経済的決定論ではなく,無政府状態のシステムで国家が陥る伝統的な安全保障のディレンマのゆえに,米ソが拡張に向かうのは必然であった.
(中略)
1945年にスターリンがユーゴスラヴィアの指導者ミロバン・デュラス(Milovan Djilas)に語った言葉を引用する
『この戦争は過去になかったものだ.ある土地を占領したら,占領側は必ず自分の社会体制を押し付けるのだ』 換言すれば,イデオロギー的に二極化した世界では,国家は安全を確保するために,自国と同様の社会体制を軍事力で強要するのである.
ただ,ポスト修正主義者のルイス・キャディスは,冷戦の終結に伴ってソ連の公文書資料の公開に伴い,ソ連に超大国間対立の原因が大きいという見方にかわっており,この論争はまだまだ続きそうではある.
何を信頼するかは,各人にゆだねられているということを,ナイ教授は言いたいのかもしれない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
スターリン
(画像掲示板より引用)
【質問 kérdés】
以下引用文にあるように,東欧にとっては「ソ連による平和」にも効用はあったのですか?
------------
東欧諸国って,戦前には国境紛争も絶えず,戦後最初にやったことも国内外国人・異民族の排除だった.
ドイツ人(14世紀以来混住)どころか,自国にとって異民族となるポーランド人やチェコ人,マジャール人を相互に追放するカオスだった.
それを安定させたという意味で,実態は武力の威圧,経済的収奪を伴う「ソビエトのくびき」だったわけだけれども.「ソ連による平和」にもある種の効用はあったわけだ.
文谷数重「隅田金属日誌」,2010.8.2
------------
【回答 válasz】
「平和」の定義次第になります.
この言葉には客観定義が存在しませんので,好き勝手にこの言葉を使う人も出てきます.
「ターリバーン時代のアフガーンは,犯罪も少なく平和だった」
だの,
「ポル・ポト時代のカンボジアはアジア的優しさに満ちている」
だの,
「北朝鮮は地上の楽園」
だのといったプロパガンダ・トークと同じで,いかにその主張が胡散臭くとも,客観的証拠をもって否定するのは案外難しいものです.
そこで,冷戦時代の東欧との比較対象として,実際に「ソ連による平和」が無くなった現代東欧と当時とを比べてみましょう.
確かに,冷戦時代に比べ,民族間の緊張は高まっているように見えます.
たとえば,東欧各国でロマ憎悪や反ユダヤ主義が甦り,ブルガリア人ではムスリム「ポマク」への襲撃も起こり,チェコとスロヴァキアは分離してしまいました.
しかしこれらは,冷戦時代には解消されていた問題だったのではなく,単に強権を以って表面上「問題などない」ことにしていただけです.
例えば冷戦時代のポーランドでは反シオニスト・キャンペーンが行われましたし,ブルガリアのジフコフはムスリムに対し,強制的な同化政策を採っておりました.
少なくとも冷戦後,かつて旧ソ連圏にあった東欧地域では,民族間の緊張またはそれ以外を理由とする武力紛争が起きてはおりませんが,冷戦時代には少なくとも2度の武力紛争が起きています.
ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)とチェコ事件です.
ハンガリー革命では死者2700人,他に20万人が難民となって国外に逃れています.
また,ポズナン事件でもソ連軍は軍事介入直前だったと言われています.
加えて東欧各国では,政治的な理由による大量の逮捕・処刑・獄死者が発生しています.
ハンガリーでは10人に一人以上の割合で逮捕者が出たほどです.
こうした状態を「平和」と強弁するのは無理があります.
冷戦後に起きた例外的な武力紛争としては,ユーゴ内戦やモルドヴァ内戦があります
(ウクライナ内戦は事実上,ロシアによる侵略なので,ここでは考察の対象外とします)
が,ユーゴスラヴィアは冷戦時代,ソ連圏内にはありませんでした.
また,冷戦時代にはモルドヴァはルーマニアの領土であり,そのルーマニアはソ連圏の中にあっては最もソ連との距離を置いている国でした.
…おやおや,文谷の主張とは真逆ではありませんか.
控え目に申しましても,2010年にもなって
>「ソ連による平和」にもある種の効用はあった
などと書いているのは,あまりにもモノを知らないように思われます.
【参考ページ】
ジョゼフ・ロスチャイルド『現代東欧史』(共同通信社,1999)
mixi, 2017.3.23
【質問】
以下の記述は本当ですか?
――――――
日本を徹底的に打ち砕いた結果,アメリカが日本からぶん盗ったもの…
それは日本が中国・満州・朝鮮で長年背負ってきた「共産主義との対決」という重荷だけだった!
そのためにアメリカは,朝鮮戦争,そして悪夢のベトナム戦争を戦わざるを得なくなってしまったのである.
――――――小林よしのり「戦争論」3(2003/7),p.249-250
【回答】
いくつか疑問,ないしは問題があります.
まず日本が共産主義と対決していたと言えるかどうかには,疑問があります.
満州でソ連と対峙していたのは,それが別に共産主義との対決だったからではなく,北進論という陸軍の戦略に沿ったものであることは,帝国国防方針などを見れば明瞭です.
中国大陸では,共産軍と戦っている蒋介石軍を日本軍は攻撃して,国共合作に至らしめているという点では,むしろ日本は結果的に共産党軍を利したとすら言えるでしょう.
戦前の朝鮮半島に関しては,「共産主義と日本が対決していた」というお話自体が初耳ですな.
立花隆の『日本共産党の研究』によりますと,日本国内(戦前は朝鮮半島も日本領だったことは,今更言うまでもないでしょう)での共産主義者の活動は,昭和10年代までにほぼ壊滅していたと言っていいほど退潮しています.
まさかとは思いますが,小林よしのりは金日成神話を真に受けていたりはしませんよね?
次に朝鮮戦争やヴェトナム戦争の勃発原因ですが,アメリカの戦後国家戦略のミスという要素も少なからずあります
(特にヴェトナムに関し,特に反米というわけでもなかったホーチミンをいたずらに敵視するというミス)
ので,
「日本の重荷をぶん盗った」
とする表現は,少なからず不適当であるといえるでしょう.
【質問】
冷戦とは,今までの歴史上になかったような形の緊張状態であったのか?
【回答】
「お互いの確実な破滅」という要素を除けば,今までの歴史上のバランス・オブ・パワー(均衡勢力)型の形態の一つ.
ただ,アメリカがソ連にとった対抗政策は「抑止」と「封じ込め」の二つに大別され,それもまた,歴史上にはよくあったこと.
1.抑止
抑止は,自らの力の示威によって,相手に攻撃を思いとどまらせること.
要は,軍備を整えたり,同盟を組んだり,威嚇したりして敵の攻撃を事前に思いとどまらせる政策.
ただ,「核兵器」という要素が,「威嚇」の意味合いを非常に重たいものにした.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「核兵器の出現にともない,超大国は攻撃を受けたあとに防衛によって敵を拒絶するよりも,威嚇によって敵を事前に思いとどまらせることに,ますます依存していった.
冷戦期の抑止は核抑止という究極の問題に結びついていたが,やはりバランス・オブ・パワー[均衡勢力]の論理の延長線上にあった.
核の脅威による抑止は,相手が利益を得て,バランス・オブ・パワーを乱すのを阻止するために超大国が試みた一手段でえあった.
後に見るように,抑止はしばしば米ソ間の緊張を高め,抑止が機能したと証明するのは容易ではない.
見せ掛けの因果関係に騙される危険は常にある.
もし,ある教授が授業中に象が現れないようにしていると言えば,本当に象が現れない限り,それを反証することは困難である.
こうした主張には反実仮想を用いることが出来る.象が教室に現れる可能性がどれほどあるのか?」
核による戦争抑止が「本当に戦争を防いできたのか?」という命題は,一見簡単に証明できそうだが,本気で証明しようとおもったら,かなり深い考察が必要かもしれない.
2.封じ込め
これは,自らの体制(冷戦の西側で言えば,自由経済体制・自由貿易体制)を促進するために,相手の政策を「封じ込める」という考え,ソ連共産党を封じ込めるという,アメリカ特定の政策であり,方法として,プロバガンダ戦や,経済的なブロック化により,相手の経済発展を止めようとするやり方もある.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「名前は別にしても,抑止と同時に冷戦に端を発するわけではない.
何世紀にも渡って,封じ込めは外交政策の主要な道具であった.
18世紀には,ヨーロッパの保守的な君主国はフランス革命のもたらした自由と平等というイデオロギーを封じ込めようとした.
それ以前にも,反宗教改革でカトリック教会は 宗教改革とマルチン・ルター(Martin Luther)の思想の伝播を封じ込めようとした.
封じ込めの形態はさまざまである.攻撃的なものもあれば防衛的なものもある.
戦争や同盟の形を借りた軍事力の場合もあれば,通商ブロックや制裁と言った経済力の場合もある.
そして,理念や価値を促進する形でソフト・パワーを用いることも出来る.
冷戦期を通じてアメリカは,共産主義封じ込めという壮大な政策と,ソ連封じ込めという限定的な政策の間を揺れ動いたのである」
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
お気に入りの本で冷戦について書いているので引用.
(・ω・)< なんで冷戦でソ連は勝てなかったのですか?
(--)< 理由は2つ.
1.経済において資本主義陣営の方が優れいていた
2.資本主義国が共産主義者の予想に反して団結した
以下引用
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西側が冷戦で敗北する可能性はおそらく三つあった.第一に,社会主義の支持者が信じていたよういに,富の蓄積と分配で社会主義のほうが資本主義よりも優れていることが分かった場合である.
(略)
たとえば,もしグローバルな資本主義経済が一九三〇年代のような破局に再び直面でもすれば,たとえ社会主義がまだ成功への道半ばといったところでも将来有望に見えただろう.
しかし,一九四五年以降の数十年間に,ソ連のライバルである資本主義大国の富が未曾有の規模で増加したのだった.
ソ連の敵国における富と相対的な団結が,冷戦でソ連が勝利しえた第二の可能性をくじいてしまった.
レーニンの帝国主義理論は,国際関係の本質に迫るソ連の理論の源泉であった.
それは,主な資本主義国は市場や労働力,さらには資本の投下先にふさわしい領土をめぐって戦争を避けられない,と見なしている.
(略)
一九三〇年代には,事態はレーニンの予言通りになるかにみえた.
「持たざる」資本主義国(ドイツ,イタリア,日本)は,いち早く広大な領土を手中に収めていたライバル(イギリス,フランス,オランダ,アメリカ)に取って代わろうと企てていた.
続いて起きた戦争によって,グローバルな資本主義体制は著しく弱まり,ソ連の相対的な地位や国際的な立場も一九四一年から四五年にかけて劇的に高まった.
おまけに東ヨーロッパと中国も社会主義陣営に加わった.
次なる課題は,資本主義国が新たな内戦を再開するのを座して待つことであった.
ところが一九四五年以降,そのようなことは起こらず,イギリスからアメリカへのグローバルなリーダーシップの移行が平和的に,しかも歴史的基準に照らせば,驚くべき親善関係のなかで行われた.
ソ連という共通の脅威の存在が,このようなプロセスを実現したのである.
一九一四年以前や一九三〇年代の世界と比べて,資本主義諸国はアメリカのリーダーシップの下で大きな連帯と協力を示した.
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(--)<また実際に戦争による衝突にならず,ソ連に冷徹な外交のできる指導者が現れなかったことも原因です.
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冷戦でソ連が勝利する,おそらくもうひとつの可能性があった.
あるロシア人将校は,一九三〇年代と四〇年代の出来事を振り返り,次のように述べた.
「第三帝国のナチスのイデオロギー,専制的な独裁体制は,西側のブルジョワ民主主義よりも優れていた.
しかし,東方でナチスの体制は同じような,おそらくより組織された〔ソビエト〕体制に直面したため,ファシズムは銃火をもってしても,その試練に耐えられなかった.
……民主主義的な権力の制度は,多くの人民にとっていくら魅力的に写ろうと,公然たる武力紛争で専制的な独裁体制と対峙する試練に耐えられないのである.」
しかし,民主主義の本当の試練はおそらく,実際の戦争というはっきりした状況ではなく,微妙で水面下で行われることもあったソ連と西側の長期にわたる地政学的,イデオロギー的競争として始まったのであり,それは戦後数十年間も続いた.
(略)
アメリカは孤立主義を求める気分が強く,倫理的,政治的に当然と見なしてきた国内の前提を外部世界に当てはめようとした.
したがって,たとえばヒトラーやスターリン,あるいはパーマストンやビスマルクといったヨーロッパの伝統的政治家が行ったような,冷静な地政学的アプローチや戦術の変更などは明らかにできなかった.
しかし,一九五三年以降のソ連指導部はついに,ヒトラー,スターリンのどちらの後継国でもないことを示した.
ソ連指導部による対外政策の運営はマキャベリ的であったが,成功したとはいえず,かたやアメリカの政策運営も,民主主義の面で数十年にわたる冷戦期に西側の悲観的なタカ派が考えていたほどナイーブでもなかった.
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ドミニク・リーベン「帝国の興亡(上)」p155より
手元に本はありませんが,G・ジョン・アイケンベリー教授も「自由貿易体制」をつくりあげたことと,NATOや日米同盟などの,一元的な安全保障体制にアメリカを引き入れたことが,大きな対ソ連の武器になったといっています.
これは日記でも書きましたが,元々,アメリカの覇権を求めたのはアメリカ自身ではなく,ヨーロッパや日本だったんですよね.
その,「欧州がアメリカの覇権を求めた」についてのソース,および,アメリカは欧州から手を引きたがっていたというソースを・・.
英国当局者が憂慮していたのは,米国が欧州に圧倒的な派遣プレゼンスを構えることではなかった.
彼らは「米国が孤立主義の立場に戻ることをどうすれば防ぐことができるか?」に意を用いていたのだ.
ガディスは次のように述べている.
「英国の懸念の対象は,米国の拡張主義ではなく,米国の孤立主義だった.
英国は『どうすればそうした拡張主義的傾向を強化できるだろうか?』の検討に多くの時間を割いたのだ」
英国やその他の欧州各国は,第一次世界大戦の時にそうであったように,戦後安全保障の協力と平和維持についての米国構想に前向きの反応を示した.
二人の歴史家が述べている通り,
「戦間期には米国は世界情勢に関与することを怠った.そのときのことを反省し,今回は,米国構想によって米国が世界情勢に関与するよう拘束される理由がありさえすれば」
というのが条件になっていた.
G・ジョン・アイケンベリー教授「アフター・ヴィクトリー」208-209ページより引用
次にアメリカでつが・・・「マンドクセから,復興はさせるけど,その後はおまいらが働いてねー」というスタンスでした.
第二次世界大戦直後に米国が行った対欧州支援の狙いの一つは,米国が欧州から手を引くことができるよう,欧州がその環境を整えるのを手伝うことだった.
この構想は,ジョージ・ケナンのような当局者の考えの中にはっきり現れていた.
同時に,この構想は,欧州を「第三の勢力」に育てること,欧州統合を米国が支援することとも繋がっていた.
マーシャル・プランは当初,四年間だけ実施することになっていた.
その後は,欧州諸国が自らの手で復興を行うと予定されていた.
マーシャル計画の初代実施責任者だったポール・ホフマンは
「我々の構想は,欧州を自立させ,我々は欧州から身を引くことだった」
と語っている.
NATO条約が調印された1949年,米当局者の多くは,この条約を「移行的な条約」とみなした.彼らは,この9条約が欧州諸国にとっての励ましや支援となり,その結果,欧州が,経済,政治,安全保障の各分野でそれまで以上に統一された諸制度を確立するように期待したのだ.
「アフター・ヴィクトリー」,217ページより引用
双方の狙いは「相手の制度内への固定化」であり,枠組み作りです.
双方の思惑は違えど,目的は合致していたわけですね.
NATO軍
(画像掲示板より引用)
【質問】
冷戦は不可避だったのか?
【回答】
冷戦自体は不可避であっただろうが,深刻化することは避けられた可能性は大いにある.
第二次世界大戦による,ヨーロッパの衰弱によって,力の真空地帯が生まれたことから,力の二極化現象は避けられないだろうが,一番の問題は,双方がイデオロギー的な対立を煽ったことだろう.
スターリンは,共産主義を喧伝し,ナショナリズムに訴え,国内を統制する手段として,資本主義を非難したが,アメリカも,トルーマンが共産主義の脅威を過大に誇張した.
これは,お互いの陣営の結束を固める上で有用であったが,同時に,対立の深刻化を招いた.
しかし,この戦略が別の時期に行われていたら,対立は深化しなかったであろうと,ナイ教授は指摘する.
以下,ナイ教授の文章を引用.
皮肉にも,ある時期の戦略が別の時期に用いられていれば,対立の深度は緩和されたかもしれない.
たとえば,もしアメリカがケナンの助言に従って,1945-1947年により確固たる反応を示していれば,また,1947年―1950年により実際的な交渉と意思疎通を図っていれば,冷戦は1950年代初頭のような深みには至らなかったかもしれないのである.
ドイツに対する宥和と協調と同じく,実際に取られた正確は逆だったが.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
米ソの相違点は具体的にどのようなものか?
【回答】
これに関しては,構成主義(コンストラクティズム)の視点から見るとわかりやすい.
・ソ連
そもそも,ソ連の前進たるロシアの時代から「絶対主義」という強権政治を重視する政治体制である.
以下,ナイ教授の文章を引用.
ロシアの政治文化は,民主主義よりも絶対主義を重視した.
強い指導者願望や無政府状態への教授(ロシアは巨大で扱いにくい大陸国家であって,無政府状態と国内の反対が帝国を解体しかねないという恐怖が深刻であった),侵略の恐怖(何世紀にもわたって,ロシアは近隣諸国を侵略し,また侵略されてきた,地理的に脆弱な大陸国家であった,
後発性についての不安と恥じらい(ピョートル大帝 〈Peter the Great〉以来,ロシアは国際競争に活力を持っていることを証明しようとし続けてきた),そして秘密性(ロシア人の生活の貧しい部分を隠蔽しようとする願い)などによるものである.
さらに,共産主義体制は個人の権利ではなく階級を,公正の基盤に据えた.
個人や社会の適切な役割は,支配に向かうプロレタリアートまたは労働階級に導かれるべきものであった.というのも,それが歴史の流れとみなされたからである.
こういう伝統的なロシアの性質が,対外的な拡張主義を生み,秘密主義で硬直的な外交政策を取らせることになったのは興味深い.
ソ連の強みとはこの「強権」であり,その成果は,1939年にヒトラーと秘密条約を結んだことなどに現れている.
スターリンは官僚や世論に気を使う必要がなかった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
英仏がスターリンと交渉すべきか否かでまだ混乱しているうちに,彼にはヒトラーとの条約に飛びつくだけの自由裁量があった.
しかし,これと表裏をなすのも明らかで,1941年にヒトラーがソ連を攻撃した時,スターリンはヒトラーがそのようなことをするとは信じられず,1週間にわたって深い鬱状態に陥ってしまった.
その結果,戦争の初期状態で,ソ連の防衛体制は壊滅的な打撃を受けたのである.
・アメリカ
ソ連とは対照的で「自由主義・多元主義・権力の分立を重視し,技術力と経済力で拡張を行った,侵略の恐怖によらず,その大半の歴史において,弱小の近隣国家を侵略しながら,自らは,大西洋・太平洋,さらにイギリスの海軍に守られながら,孤立を保つことができた.
秘密主義とも基本的には無縁で,極めて開放的だった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
政府文書は,しばしば数日または数週間のうちに報道された.
公正に関する階級的偏向とは無縁に,個人の公正がすこぶる重視された.
こうした政治文化からその外交政策は道義主義かつ開放的で,内向と外向の間を振幅しがちであった.
そのため,アメリカの外交政策のプロセスはしばしば無定見で,一見して一貫性に欠けた.
だが,やはり表裏をなすものがあった.
開放性と多元主義という強みが,しばしばアメリカをより深刻な誤りから救ってきたのである.
そういうわけで,米ソがお互いを誤解したのは,不思議でもなんでもない.
1940年代にルーズベルトとトルーマンがスターリンと対応した対比において,それは現れている.
冷戦期において,お互いがお互いを理解するのは,こういう側面から見ても非常に困難であった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
冷戦期にアメリカ人がソ連を理解するのは困難であった.というのも,ソ連はブラックボックスのようだったからである.アメリカの指導者たちは,ブラックボックスの出入力は理解できても,内部で何が起こっているのかはわからなかった.
アメリカ人もまた,ソ連を混乱させた.
アメリカは規則性のない騒音を奏でる機械のようなものであり,あまりにもうるさい雑音を奏でるので,真意を明確に聞き取ることが困難であった.
あまりにも多くの人々があまりにも多くのことを語ったのである.
そのため,ソ連はしばしば,アメリカが真に望んでいるのかを誤解したのである.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
冷戦におけるアメリカ・ソ連の目標とは具体的に何なのか?
【回答】
アメリカが「枠組み」などに見られる「システム構築」を目指したのに対して,ソ連は直接的な「領土拡張」を目指した.
ヤルタ会談に見られるように,ソ連はドイツ・ポーランドという領土拡張という,具体的な目標を持つ傾向にあった.
これに対してアメリカは,ルーズベルトが目指したように「国際連合」と「自由貿易体制」という「体制の構築」を目指した.
余談だが,チャーチルは,アメリカがヨーロッパから撤退することを考えて,フランスを復興させ,対ソ連に対するバランス・オブ・パワーの維持に利用することを望んだ.
スターリンの目標は,伝統的な帝国主義的なものであり,ヒトラーとの密約で得た利益を維持することを考えていた.
スターリンは,ピョートル大帝的なものを望んだのかもしれない.
これに対するアメリカの見方として,ナイ教授は以下のように述べている.
ソ連は,ヒトラーと同様に世界支配を望む拡張主義者だ,と考えたアメリカ人もあった.
他方,ソ連は基本的に安全保障を重視しているのであり,その拡張主義は防御的なものだ,と論じる向きもあった.
2つの点で,ソ連の拡張主義はヒトラーと異なっていた,
第一に,ソ連は好戦主義的ではなかった,ソ連は戦争を望んでいなかったのである.
ヒトラーはポーランドに侵攻した際,彼がファシズムの栄光のために望んだ戦争の代わりに,第二のミュンヘン会談[戦争回避のための英仏による妥協]が提案されるのではないかと恐れた.
第二の相違は,ソ連は注意深い機会主義者であって,無謀に冒険主義的ではなかった点である.
冒険主義は共産主義に対する罪とみなされていた.というのも,それは歴史の軌道を逸脱させてしまうかもしれないからである.
冷戦期を通じて,ソ連は決してヒトラーのように好戦的でも無謀でもなかった
しかしながら,完全に防御的とも言えない.
「防御的な拡張主義」を説明する例として,19世紀のイギリスの例をナイ教授は挙げている.
以下,ナイ教授の文章を引用.
19世紀にイギリスは,本来はインドへの海洋路を防衛する目的でエジプトに侵攻した.
エジプトを獲得すると,イギリスはエジプトを防衛するために,スーダンを獲得しなければならないと考え,次いでスーダンを防衛するためにウガンダを領有すべきだと考えた.
そしてウガンダを獲得した後にイギリスは,ウガンダ防衛のために鉄道を建設すべく,ケニアを領有したのである.
安全保障のディレンマは拡張に次ぐ拡張を正当化しがちであり,食べ続けるうちに食欲は増進するのである.
また,ソ連はこれに加え「労働者の解放」というイデオロギー上の動機があり,これがさらに拡張を正当化することになった.
ソ連は拡張主義だったが,慎重で機会主義者でもあった.
これは私見だが,イギリスの例を見ても,植民地体制は,やはり「維持コスト」が膨大になりすぎると思うな.
「自由貿易体制」に移行したのは,歴史の必然かもしれない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
短すぎてさしたる参考にもなりませんが,同様の記述は他の本でもありますね.
ロシアには国境の防衛線となる天然の要害も,凍結することのない海岸線も存在しない.そこで,イワン4世を初めとする皇帝たちはもちろん,帝政崩壊後の共産党までもが,安全と交易路を求めて領土拡張政策を推し進めていくことになる.
デビット・ウォーンズ著「ロシア皇帝歴代誌」p41
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