c
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ
◆◆◆終戦直後の混乱 Zavart a háború után közvetlenül
<◆◆通史 目次
<◆太平洋・インド洋方面 目次
<第二次世界大戦FAQ
「神保町系オタオタ日記」■(2005-12-11) [古本]『ある法学者の軌跡』(川島武宜著)から
>日本軍の全面降伏の直後,米軍が上陸してくるまでの短い期間に,企画院という戦時中の官庁の所蔵していた書籍が古本屋の店頭にあらわれましたが
『〈敗戦〉と日本人』(保阪正康著,ちくま文庫,2006.9)
【珍説】
日本は,敗戦の後にも「無秩序」は現れなかった.
それは当り前だ.
日本は「解放」されたのではない.
もともと戦前からあった自由や民主主義や豊かさを取り戻すべく,直ちに自ら「秩序」を求めただけなのだ.
そのために天皇の存在はかなり大きかった.
(小林よしのり「戦争論」3, p.91)
【事実】
小林は,
「米軍は力でイラクに秩序を作ることはできない」
「『公』のないイラクでは秩序維持のために,サダム・フセインのような独裁者は必要悪だった」
と結論したいがために,このようなことを言っているわけですが(でも,独裁者って『力で(独裁者好みの)秩序を作っている』の典型なんでは?),これは結論ありきで事実を歪曲している典型のように思われます.
まず,イラクで戦後に無秩序状態が現れたのは,サダム政権上層部の全員逃亡によって政府機能そのものが麻痺したからであり,治安維持組織が残っていた終戦直後の日本と安直に比較することはできません.
また,一時的にでも治安維持組織がなくなった場合には,日本においても「無秩序」が現れています.
例えば米軍上陸当時の沖縄では,秩序が崩壊し,現役の陸軍士官が守るべき住民に自決を強要するなどしています.
また例えば大空襲直後の東京では,リアル「火垂るの墓」を体験した世代の方によれば,空襲が終わった直後は火事場泥棒やカッパライが横行し,近隣から応援の警察が来るとパタッと止まったそうです.
終戦直後,銃殺のデマなどが流れて統制がとれなくなった部隊から幹部・隊員が物資を奪って逃げ出したりした例もあります(厚木,九州など).そういった部隊のいたところでは,幹部・隊員の逃亡により警備力すらなくなってしまい,付近の住民がそういった基地に侵入して物資を盗んでいったこともあるそうです.
逆に最後までしっかり統制がとれていた部隊では,そのようなことはなかったそうです.
さらに,遡って関東大震災では,東京は朝鮮人虐殺や火事場泥棒が横行する無法地帯と化しました.デマで無辜の人をリンチにかける市民のどこに「公」の心があるのかと,聞きたいものです.
そもそも,空襲/空爆直後ならまだしも,政府(警察)機能と通信機能が生きている限り,無秩序状態は長続きはしません.
しかも戦争末期のアメリカは,交渉相手を焼死させない為と「戦後処理」を容易にする為に,ご丁寧にもそう言うところは爆撃目標から外していました.
関東大震災では,両方が麻痺してしまったわけですね.
どこの国,どの民族でも,一時的にせよそういった真空状態が発生した場合には,似たようなことは起こりえます.
日本の終戦時はこの程度で済んだが,イラクの場合はもっと大規模にそれが発生した,というだけの話なのです.
【質問】
敗戦直後,第三国人の悪逆非道があったというのは本当?
【回答】
どうやら本当である模様.
以下は体験談.
――――――
親父のガキの頃,男の大人が戦地から帰ってきてない敗戦当時、 第三国人の悪逆非道で地元民がかなり泣かされたそうな.
だが数年して大人達が戦地から帰ってくると状況は一変,
デカイ顔してた朝鮮人やシナ人は,血の気の多い元兵士達によって片っ端からぼこられて,勿論連中も人数集めて抵抗したけど,そいつらも目立つ奴からゲリラ戦っぽくやられて(実際死人が出たそうな),ついには,駅前に無断に立てられてた連中の建物に火をつけられ全焼.
犯人探しをするヤツは確実に闇討ちされて,とうとう地元から駆逐できたそうな.
だから,現在もうちの地元に朝鮮人の噂すらない.
――――――生活板
以下の証言は,もっと生々しい.
――――――
酸鼻をきわめる地獄絵図
その日〔1945/8/15〕のうちに神戸は修羅場と変貌した.
敗戦の報に呆然自失する市民とは対照的に,これまで苛酷な労働で軍部から抑圧されてきた朝鮮人,中国人たちの一部は欣喜雀躍し,掠奪,報復の火蓋を切ったのである.
その日の午後7時.
徒党を組んだ一団は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪.
これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件が起こり,一般市民の不安もたかまった.
終戦当時,国内には強制連行された〔原文ママ〕人を含めて朝鮮人,中国人は2百万人以上いたが,とくに兵庫に多く,昭和18年の時点でも13万5千人,全体の7%強を占め,大阪,東京に次ぐ3位という数であった.
終戦直後の神戸の闇市は,国鉄三宮駅高架下で1個5円の饅頭が中国人の手で売り出されたのが始まりといわれている.
1個5円といえば,当時の米1升の公定価格と同じ値段である.
だが,飢えた市民はこれを争って買った.
これをきっかけに彼らを主とする闇市が三宮,新開地,湊川,大正筋,長田など神戸市内に17ヵ所もひらかれ,20年10月には国鉄三宮駅の高架から神戸駅北東に至るまで,えんえん2kmにおよぶ日本一の長い闇市が生まれていた(神戸市『神戸市史』第3集).
闇市に出回った物資の大半は軍の隠匿物資といわれた.
そこにはなんでもあった.
1日わずか2合1勺(330g)の配給米さえ欠配するという深刻な食糧難で餓死者は続出し,市民はあらゆる物を金に替え,争って闇市で高い食糧を求めた.
当時,サラリーマンの月収は5,6百円.
これに対して闇値は公定価格の3,40倍で,翌年夏には150倍を超えるものもザラ(読売新聞社刊『神戸開港百年』)であり,『朝日年鑑』の昭和22年版によれば,大阪の闇値は中程度でさえも白米一升(1.4kg)80円,麦40円,メリケン粉1貫目(3.75kg)240円,砂糖1斤(600g)150円と記録されている.
彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ,徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた.
通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難癖をつけ,無線飲食をし,白昼の路上で見境なく集団で婦女子にいたずらする.
善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた.
こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた.
袖に腕章をつけ,半長靴をはき,純白の絹のマフラーを首に巻きつけ,肩で風を切って街をのし歩いた.
腰には拳銃をさげ,白い包帯を巻きつけた鉄パイプを引っさげた彼らの略奪,暴行には目にあまるものがあった.
〔略〕
さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった.
戦時中,神戸市内には脇浜小学校はじめ6ヵ所の捕虜収容所があったが,解放されたその捕虜の一部は民家に侵入して拳銃をつきつけ,泣き叫ぶ婦女子を襲った.
白昼強盗も横行した.
9月25日,米軍第6軍33師団,1万7千人が神戸へ進駐してくると治安はさらに悪化し,制止にはいる警官は袋叩きにあう.
終戦直後の神戸は,まさに酸鼻をきわめる地獄絵図だった.
白昼横行する婦女暴行
彼らの暴虐を見聞きするごとに,わたしは怒りにふるえていた.
彼らを制止し,阻止する者は一人としていないのだ.
昭和20年8月末,わたしは所用の帰途,女の悲鳴を聞いた.
人通りも少ない東山病院の裏手である.
白熱の太陽がきなくさい焼け跡に照り付けていた.
一瞬,ぎくりと立ち止まり,悲鳴の上がる方角に走った.
途中で,4,5歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた.
「どないしたんや」
「おかあちゃんが,おかあちゃんが」
少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく.
この世のものとは思えぬ女の悲鳴が聞こえ続けていた.
「ここにいるんやで,ええな」
わたしは少女をその場において一目散に走った.
少女の母親は木立のなかで数人の男に犯されていた.飛行服姿の男たちだった.
彼らは不適な薄ら笑いで女の手足を押さえつけ,一人がその上に乗っている.
女はひたすら絶叫していた.
<――汚ねえ……>
うめくと,わたしは遮二無二彼らに突進していった.
得物を探す余裕はない.あるのは彼らへの憎悪だけだ.
彼らがはっと身構えたときわたしは一人の男を蹴り上げ,女の上に乗っていた男の襟がみをつかんで引き摺り下ろし,男の目の中に5本の指を突き刺していた.
17のときにおぼえたあの必殺技が,無意識に出ていたのだ.
バラケツどもを震撼させたこの必殺技は,あまりにも危険すぎてめったにはつかわなかったのだが,わたしは無我夢中でこの技をふるっていた.
男の両眼からポタポタと鮮血がしたたり,男は視力を失ってのたうちまわる.
つぎの一人も首を小脇にはさんで締め付けておいて,容赦なく指を突き立て,眼球を抉り出す.
「ぎゃーっ」
動物的な悲鳴をあげて,男の顔面はみるみる血だるまとなっていった.
残る男は恐怖に顔面を醜く歪ませ,拳銃も鉄パイプもその場に置き去りにしたまま夢中で逃げだしていた.
女はぼろきれのように仰向けになったまま放心していた.
「しっかりするんや,おい,わかるか」
抱き起こして揺り動かしても,うつろに瞳孔をひらいたまま,突然,けたたましい笑いをあげる.
山の手の,良家の人妻であろう,美貌であった.
引きちぎられたモンペと,哄笑が無惨であった.
<――許せん.これはぜったいに許せんのや>
彼女の哄笑と,遠くからじっとこちらを凝視して立ちすくんでいる少女の姿を見たとき,わたしの血ははげしく燃えたぎっていた.
このままでいいのか.
いいはずはない.
彼らの報復をおそれてだれもやらんというならば,わたし一人でも連中のまえに立ちふさがってみせよう.
わたしには許せないのだ.やつらの悪虐非道〔原文ママ〕さが.
置き去りにしていった拳銃をわたしは懐にねじこんだ.
ずっしりと重い,その拳銃の感触が,闘志を奮い立たせた.
単身乗り込む
わたしは拳銃を懐に単身,神戸の闇市へと乗り出していった.
闇市は彼らの本拠である.
争うならば堂々と,土俵の真ん中で雌雄を決する.
それがわたしの主義だ.
彼らは常に集団を組んで行動する.
同士的結合が強く,仲間の一人がいさかいを起こすとどこからともなく,いっせいにとびだしてくる.
その本拠へ,あえていさかいを求めてわたしは乗り込んだ.
むろん命の保証はない.わたしは初めから命を投げ出しているのだ.
彼らを相手に,わたしは毎日,いさかいを起こして歩いた.
肩が触れた,と難癖をつけられても一歩も退かぬ.
〈わいが,わいが〉
という気持ちがある.
存分に蹴散らして,行く手をはばむ者は容赦しない.
日本人が彼らに痛めつけられていると,気持ちより先に体がぱっと飛び出していく.
1週間もたたぬうちに,わたしは当然,命をつけ狙われるようになっていた.
同時にわたしにも,かねて彼らの横暴に憤激していた連中が,一人,二人,三人と味方になって集まり,わたしを中心に結束しだしていた.
〔略〕
――――――田岡一雄『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.147-152
――――――
〔略〕
すでに警察は無力化し,神戸は死の街であった.
腕章をつけ,拳銃や鉄パイプで武装した男たちが我が物顔で横行し,略奪物資による闇市の拡張,あいつぐ一般市民への暴行事件に警察は弱弱しく目をそらす.
もはや神戸は,われわれの手で街を自衛しなければ,生命,財産さえ危ない極限状態に陥っていった.
わたしは吉川〔勇次〕をつれて,暴行脅迫されている同胞を彼らの手から救出して歩いてみたものの,それは焼け石に水だ.イタチごっこである.
そんな姑息な手段では,彼らを自省させることはできないことを,わたしは思い知った.
ゲリラ作戦では埒があかぬ.
まず拠点をつくって,ブルドーザーで一挙に駆逐することを考えたのだ.
少々荒療治だが,これも万やむをえない手段だ.
わたしがやらなければ,いったいだれがやるというのだ.
わたしの目は迷うことなく新開地に向いていた.
新開地は先代以来の縄張りである.
その新開地も彼らの土足に蹂躙され,白昼から堂々とデン助賭博がひらかれ,その数は百軒から百五十軒にも及んでいた.
彼らは通行人を強引に誘い込んで,イカサマと脅迫とで容赦なく金品をむしりとる.
さからえば丸裸にされて袋叩きにあう.
〔略〕
わたしはまず,新開地から彼らを締め出すことを決意した.
新開地を皮切りに,彼らの最大の拠点である三宮でまっこうから対決しようとしたのである.
一人,二人,三人……と,わたしの周囲に集まってくる気鋭の同士がわたしを奮い立たせ,わたしの背後にある市民たちの大きな声援が,わたしを決断させた.
警察も行為的に私たちを迎えてくれるようになっていた.
新開地へ乗り込んだわたしは彼らを蹴散らし,デン助賭博台をかたっぱしからぶちこわして歩いた.
すでにわたしの顔は,彼らの間に知れ渡っていた.
潮の引くようにわたしの行く手で人波がまっぷたつに割れる.
が,すぐに怒号と罵声をあげて,わっと彼らがなだれこもうとする.
それを睨(ね)めつけておいて,委細構わず賭博台をつぎつぎに蹴飛ばし,ぶちこわす.
彼らは足をすくませた.
わたしに寄り添って,吉川が手榴弾の安全弁を口にくわえたまま,油断なく彼らを牽制していた.
彼らがなだれこんでくれば,吉川はいつでも手榴弾を発火させ,投げつける構えだ.
わたしが賭博台をぶち壊しながら進むと,吉川も怠りなく彼らを睨みつけながら進み,不敵にわたしに無駄口を叩いていた.
「親分,死なばもろともや.親分と二人で地獄へ行くよりも,一人でも多くやつらを道連れにしてやれば,そのほうが冥途の旅もにぎやかでええわ.なァ,親分」
「ほんまや.それだけ神戸も住みよくなるというもんや.
――ええか,きょうから新開地でのデン助賭博はこの田岡が許さん.わかったら失せろ!」
わたしの一喝に,彼らは復讐心に燃えた目を向けながらあとずさっていった.
〔略〕
――――――同,p.160-162
著者をして命を棄てるという覚悟をさせるほど,彼らの横暴が酷かった,ということを論証するため,
また,その抗争の激しさを論証するため,
あえて長めに引用した.
上記引用文章は,泣ける.
▼ ちなみに上記引用と同様の記述は,『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.26-29にも見られる.
以下にその一部を引用する.
――――――
神戸市街は,昭和20年3月と6月の2度にわたるB-29の無差別爆撃で,主要劇場のことごとくが焼失したが,復興のテンポは,予想以上に早かった.
20年末には早くも三宮映画劇場,三宮映画館が再開され,21年に入ると相生座,元町映画館,阪急会館,日活キネマ,キネマクラブなどが相次いで営業を始めた.
当時,神戸市内には,山口組のほか中山組,大嶋組,本多会,五島組が戦前からの勢力として根を張り,尼崎に笠谷組,西宮に松本組,中村組があったが,それらを合計しても8団体,5百人に過ぎなかった.
それにひきかえ,在日外国人アウトローと新興グレン隊の跳梁は凄まじかった.
3日に一つグレン隊が生まれる――と言われたほどで,6,7人の小グループから,50人,60人単位の集団が,三宮・新開地をハイエナのように餌食を求めて徘徊していた.
たがいの眼と眼がからみあえば,
「おどりゃ,ガンつけやがったな」
たちまち喧嘩が始まり,血しぶきが飛んだ.
三宮のヤミ市には,ピストルの〝貸し屋〟まで出現した.
戦前からの伝統的な博徒,テキヤ組織は後方に押しやられ,系統のはっきりしないグレン隊が暴れまわっていた.
新開地はとくにひどく,グレン隊見本市の観さえあった.
劇場や映画館は,ひどいときは,3分の1近い座席を彼らが占拠した.
高級酒場やダンスホールの客は,ヤミ成金かグレン隊だった.
戦争中,日本の警察は中国人や台湾人,朝鮮人にひどい弾圧を加えた.
敗戦後,その報復に警察官が彼らから狙われた.
昭和21年2月には,生田署の岡政雄巡査部長が彼らの事務所に拉致され,殴る蹴るの暴行を加えられて死亡.
4月にも須磨署の佐藤進巡査が3人組の強盗にピストルで撃たれて死んだ.
米兵による暴力事件も頻発した.
神戸に進駐したのは米第6軍33師団,1万7千人だったが,酒に酔った若いGIがよくトラブルを起こしたのである.
そういうときも日本の警察は,手出しできなかった.
敗戦国の悲しさであった.
――――――
同書はあとがきにもあるように,田岡一雄(文中敬称略,他も同じ),永田貞雄,林正之助など複数の人物のインタビューから書かれており,客観性の点でも比較的問題は少ないものと愚考する.▲
▼ 羽振りも良かったらしい.
以下は先代・林家正蔵の証言より.
――――――
あの,戦後にね,三国人がバカな儲け方をしたんで,みんな舶来の隆としたセビロを着ていたもんですよ.
(終戦が8月だから,ちょうど儲かった暮れから春にかけて……)三つ揃いでね.
ちっとも似合わない!
普通の日本のインテリのひとがね,カァキ色の服を着たりね.
徳川夢声なんぞ,軍隊のドタ靴を履いていましたよ.……鋲だらけの.
「この靴が日本から消える時分には,生活は豊富になる!」
って,冗談をいっていたが,ほんとうにそうなったものね!
――――――『林家正蔵随談』(麻生芳伸編,青蛙房,1967.6.20),p.127
▲
【質問】
三国人の横暴に対し,警察は何をしていたのか?
【回答】
まったくの無力,何もできなかった,という.
逆に警察官が襲われたり,警察署が襲撃されたりする有様だったという.
以下引用.
――――――
〔略〕
警官が駆けつけても手も足もでない.
「おれたちは戦勝国民だ.敗戦国の日本人がなにをいうか」
警官は小突きまわされ,サーベルはへし曲げられ,街は暴漢の跳梁に無警察状態だ.
〔略〕
〔新開地では,〕警官がきても彼らは歯牙にかけず賭博を開帳し続ける.
不遜であり不敵である.
なまじ警官が咎めだてすれば,たちまち暴徒は集団をつくって警官を小突きまわし,殴る蹴るの暴行をくわえる.
〔略〕
昭和21年2月,神戸生田署の岡正雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され,同年4月,須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された.
そればかりではない.
警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった.
すなわち彼ら3百余人は兵庫警察署を襲撃し,署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである.
さらに彼らは水上警察署を急襲して,留置されていた同胞全員を釈放し,水上署の全監房は彼らの手によって開放されるという事態にまで発展した.
自分たちは戦勝国民だ,ということを楯に,彼らはやりたい放題のことをやり,その非道,無法は目にあまるものがあった.
彼らの不遜な行動は,市民の激しい憎しみを集めた.
それを嘲笑うように,彼らは神戸市の全警察署を襲撃する計画まですすめるに至ったのである.
警察当局は顔色を失った.
治安の維持より警察そのものを守ることが急務であった.
警察は,わたしに助っ人の依頼を申し入れてきたのである.
すなわち,当時,湊川温泉内に設置されていた兵庫警察署の署長は,本書襲撃に備えて,署員だけでこれを迎撃する力なしと判断し,国警本部長,警察幹部一同,神戸市長と鳩首,緊急会議を開いた結果,同署長はわたしに兵庫署警護の応援を求めてきたのである.
「どうやろ,田岡はん.力になってもらえんやろうか」
署長は額に脂汗をにじませていた.
わたしは敗戦国の警察の無力に憤りと嘆きを感じながら,この申し出を受けて立った.
神戸の治安維持,市民の安全のため,みんな一丸となって彼らの暴力を排除せねばならなかったのだ.
佐々木組組長・佐々木道雄は当時の状況を「山口組時報」の連載手記「かくされた真実」のなかで,こう回想している.
――山口組組員は勇躍団結し兵庫署の警備と署員の人命を保護するため,兵庫警察署に昼夜をわかたずたてこもるとともに,同署の受け持ち区域の神戸新開地に山口組自警団を結成,「花月劇場」をその事務所にした.
兵庫署内部の警備について,彼ら戦勝国民に襲撃された場合,全署員は重要書類を持ってただちに裏口より避難し,あとは山口組組員がこの迎撃に当たり,同署の屋上から数本のドラム缶に重油をいっぱい詰め,これを落下させるとともに,さらに手榴弾3箱,約40個を投下し,彼らを大量に殺傷させ,相手がひるむすきに山口組抜刀隊による決死隊が日本刀や拳銃を持って殴りこむという,戦闘作戦計画が警察幹部との間でなされたのである.
今思えば心寒い国際問題であるが,所詮,みずからの手では治安維持は不可能であり,毒をもって毒を制するという市および警察当局の考えであったろう.
そこで警察幹部署員は組員各位に清酒を振舞ったうえで,相手を殺傷した場合は,その罪を問わず,裁判所の裏口より釈放することを確約.
捕虜にだけはならないよう注意し,殺傷したときは奨励金,ならびに見舞い金を与えることを申し述べ,多いに山口組組員の士気を鼓舞したのだった.
こうして一同,部署についたが,結局,兵庫署に対する襲撃はおこなわれなかった.
これは山口組の気力に屈したのか,はたまた彼らのうち一部知識人の警告によるものであろうか.
兵庫署襲撃事件は未然に防がれ,治安当局のメンツはかろうじて保たれたのである――.
現在ではとうてい考えられぬことであろうが,当時はそれほど警察は戦勝国民に対して無力だったのである.
その暴虐非道に対して身を挺して楯となり,防波堤となったのは全国のやくざであった.
その例は昭和21年7月に東京・新橋で起こった松田組との抗争事件をはじめ,渋谷署襲撃事件,浜松事件,熱海事件などがある.
こうした動きは全国に広がり,神戸もまたその例に漏れなかった.
われわれが率先して治安を守らねばならぬ時代だったのだ.
〔略〕
――――――田岡一雄『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.148~167
余談だが,のちに兵庫県警は昭和40年代から,国の後ろ盾を得て山口組壊滅作戦を展開し,著者は窮地に陥る.
皮肉としか言いようがない.
【反論】
以前から気になっていたのですが,この設問と回答は,いわゆる在日外国人 韓国朝鮮や中国人への偏見が酷い〔中略〕ようです.
最初の回答は匿名の人間の それも身内からの伝聞ですけど 裏取れてるんですか?
取れるわけ無いですよね.
それをあえて解答に選ぶ理由は?
>酸鼻をきわめる地獄絵図
2番目の回答ですが,いわゆる広域暴力団 ぶっちゃけマフィアのボスの武勇伝であり 自分の人生の正当化に過ぎません.
どれだけ信憑性があるのでしょうか?
,『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10)を持ち出してますが,この著者もいわゆる第三国人と愚連隊の区別はつけていて 愚連隊の暴行が引用のほとんどを占めています.
閻魔さくや in FAQ BBS,2011/8/10(水) 14:49
青文字:加筆改修部分
【再反論】
全般的な話にとどめますが.
直江津駅リンチ殺人事件や浅草米兵暴行事件などが有名ですが,他にも配給の不正受給や密造酒にまつわる事件の数々など,第三国人の悪逆非道ぶりは歴史的事実です.
その部分はお間違えの無いようにお願いいたします.
日雇い労働者 in FAQ BBS,2011/8/18(木) 21:33
青文字:加筆改修部分
さて,反論者のご主旨は,「ソースがヤクザの証言では信用できん」ということのようでございますので,このほど別のソースを発掘してきました.
思うにこれは,特定の民族固有の問題ではなく,
「警察権の及ばない/及びにくい集団や地域ができちゃったら,どこだろうと無法地帯化するよね」
という,制度欠陥のほうの問題ではないかと.
>名前:閻魔さくや 日付:2011/8/19(金) 1:23
>当時は日本人の愚連隊などの暴虐も酷かった
という事実も,制度欠陥によって警察権の及ばない/及びにくい地域ができていたことを証明するかと存じます.
いざというときは,そのような地域に逃げ込むことによって追っ手を逃れ,暴虐を繰り返す日本人もいたということですね.
そもそも「第三国人」という言葉自体,決して特定の民族のことを指すのではなく,そうした警察権のグレーゾーンにある人々を指すGHQ用語です.
今日ではマスコミによってしばしば誤用されておりますが,せめてこの場では,誤用は避けるべきでしょう.
そのような誤用は,かえって事実関係の認識を誤らせ,ひいては差別を助長することになるかと愚考いたします.
では,以下ソース(前半)を.
―――――――
恐れられた情勢の急変は,昭和20年の12月に起こった.
終戦後,微妙な動きを見せながらも,比較的安定していた犯罪事情は,凶悪犯罪,特に集団強盗事件の激増という形で噴出したのである.
9月7件,10月5件,11月17件にとどまっていた強盗事件が,12月には一挙に130件に跳ね上がった.
神戸市内・阪神間では,毎日少なくて2,3件,多いときには7,8件の凶悪犯罪発生が,新聞に報道された.
[中略]
犯罪の手口も,過去における強盗とは一変した.
従来の強窃盗は多く単独犯であり,かりに複数でも数人を超えることは稀であった.
ところが10人ないし数十人という大集団による強奪事件が,相次いで発生し始めたのである.
アメリカのギャング映画もどきの事件は,まず神戸で発生した.
昭和20年11月17日の夜,元町6丁目の神戸市第4砂糖配給所が,5,60名の一団に襲われて,砂糖4350斤(261キロ)を強奪された.
それから10日後,三田署管内の有馬軍高平村(三田市)で砂糖を収納していた倉庫が,拳銃・日本刀などを所持し,トラック2台で乗りつけた19人組の強盗団に襲われた.
これらの事件はいずれも検挙することができたが,高平村事件の犯人グループは,逮捕した12月7日までの間に,10件もの集団強盗を働いていたことが判明したし,一方,この事件は凶悪犯が,都市部から郡部へと拡大していく現象のさきがけをなした.
こうして我が国犯罪史上最悪の年といわれる昭和21年を迎えたのである.
昭和21年は殺人事件も倍増したが,強盗事件にあっては,何と前年の6倍を越えるすさまじい状況を呈した.
図表・第67[転載省略]をご覧願いたい.
同表に言う凶悪犯とは,殺人・強盗・放火をさすが,1月から5月までの間は県下平均で1日5件,神戸・阪神間では毎夜4件もの凶悪犯罪が発生した勘定になる.
無論,この数字の中には集団強盗事件も含まれている.
[中略]
時には一署の管内で2組の集団強盗事件が同時発生し,あるいは軒並みの8軒が同一強盗団に相次いで襲われ,さらには1軒の家が1年に4回も強盗被害にかかるという,常識では考えられないようなことも起こった.
まさに百鬼夜行の世の中である.
[中略]
このように,強窃盗を問わず,その徒党化と凶悪化が,戦後犯罪における最大の特徴であった.
第三国人をめぐって
さて,以上見てきた強窃盗団は,三宮自由市場と深いかかわりを持っていた.
自由市場の実態は闇市であり,さらには泥棒市場としての側面を持っていたことは,すでに述べた.
その自由市場に大きな勢力を張っていたのが,中国人・台湾人・朝鮮人などのいわゆる第三国人であった.
彼らは戦勝国意識を誇示するため,腕章を付けて行動し,敗戦国日本の警察権行使を認めようとしなかった.
連合国の占領政策が具体化しない段階における,日本警察の持つ捜査権の不明確さと,日本警察官の敗戦国意識が影響して,その取締りの徹底を期しえず,残念ながら一時期,同地区は無警察状態に陥った.
[中略]
こうした,いわば無重力状態の中で,第三国人の不法行為が相次いだ.
そのまず第一は,華工(中国人労務者)による幾つかの事件である.
中国人労務者の実態については,221ページで触れたが,終戦直後の8月20日の夜,約800人の中国人労務者が,戦勝国民としての生活権擁護を理由に,海岸通の三井倉庫に侵入し,米・砂糖などを強奪して以来,今夜のごとく倉庫を襲い,あげくの果てには水上署ならびに警察部外事課に乱入の上,暴力を揮うに至った.
他方,逆に相生市内では播磨造船所で,中国人労務者の無法ぶりに激しい憤怒を抱いていた刑余者が,些細なことから中国人労務者3人を殺害するという事件も怒っている.
しかし,この中国人労務者問題は間もなく解決し,第三国人問題は日本人・朝鮮人・台湾人による混成犯罪者集団対策に絞られ,特に三社相互間の角遂に発する構想は,治安上もっとも重視しなければ成らない問題となった.
ところが残念ながら当時,警察の権威は地に落ち,三宮自由市場は無法をほしいままにしていた.
そうした中で,警察にとり極めて不名誉な事件が突発した.
昭和20年12月24日の夜半,僅かな時間とはいえ,生田警察署が暴徒に占領されたのである.
この事件は生田署が,岡山県警察部の捜査に協力したことが発端となっている.
同書では,岡山市内で発生した7人組の拳銃強盗犯人を追って,神戸に出張してきた岡山県の捜査員に協力した.
ところが午後9時ごろ,「岡山の刑事を出せ」と叫びながら,突然乱入してきた,50人を越える朝鮮人の一団が,拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き,署内の捜索を始めた.
岡山の捜査員は幸い,脱出に成功したが,暴徒は電話線を切断し,外部との連絡手段を絶ってしまった.
急を聞いて進駐軍MPがジープで駆けつけ,事態はようやくにして収拾し得たが,この事件は無法者集団を増長させる結果をもたらした.
1月9日,生田署が三宮ガード下でハッタリ賭博団を検挙した際,又も3.40人の朝鮮人が署内に乱入し,犯人を奪還しようとしたのである.
しかし同署では,断固これを制圧し,MPと協力して首謀者と見られる3名を検挙した.
心無い一部の第三国人の無法ぶりは,市民に取り恐怖の的であったが,一方,こうした非道は許せないと息巻く侠客団体をはじめとする既存団体との間に,しばしば争闘事件が繰り返された.
昭和20年11月26日に長田署管内で,日・鮮青年間に殺傷事件が発生したのに続いて,昭和21年元旦には,またまた中谷組と朝鮮人連盟西神戸支部員ら100人が,入り乱れての乱闘を演じ,11日には尼崎で,神農会と朝鮮人連盟間の乱闘事件が発生,2月3日夜には生田署管内で,密輸米をめぐって,大阪と神戸の両朝鮮人連盟間に抗争事件が起こった他,小規模の衝突は数え切れない有様であった.
こうした情勢は,その後も一向に改善の兆しを見せないのみか,警察官にも犠牲者が出るに至った.
2月28日,生田署の岡政雄警部補(当時巡査部長)が,北長狭通の台湾省民会青年隊事務所で,数名の者から殴る蹴るの暴行を受けて人事不省となり,手当ての甲斐もなく絶命したのである.
事態は朝鮮人連盟と台湾省民会青年隊との,対立抗争に発展した.
4月4日の夜,両団体の急進分子が,阪急ガード下の立退き問題から対峙し,相互にその事務所を襲って拳銃を乱射した.
この事件は,在神進駐軍当局の出動により,一応鎮まったものの,翌5日には朝鮮人連盟東神戸支部情報部長,原泉こと洪順永ほか1名が,何者かに灘区篠原の大谷山山麓へ連行の上,射殺されたのである.
―――――――『兵庫県警察史 昭和編』(兵庫県警察本部著,1975)p.442-449
―――――――
こうした情勢の中で,市民の中に,我々の生活は我々自身の手で守ろうという声が高まり,各地区に自警組織を持とうとする動きが始まった.
警察では警防団・町内会などを母体とする自衛組織の育成策をとったが,こうした地域団体とは別に,朝鮮人団体・侠客団体・露天商その他の業者団体などが組織した自警団も数多く,その動きは多彩であった.
次にその一端を,『神戸新聞』の記事により紹介しよう.
昭20.12.22 生田署管内では中国・台湾・朝鮮の各青年が,相生町4丁目の派出所を詰め所として,神戸駅以西の警戒に当たった.
昭21. 1.21 番町自警団は,集団強盗20数件を検挙した.
昭21. 1.29 明石で金波虎組と呼ぶ自警組織が誕生した.
昭21. 2. 1 長田区二葉町に西神戸自警団が発足した.
昭21. 2.15 洲本で,もと力士・侠客などが憂洲組を結成した.
昭21. 2.23 湊川新開地に,山口組幹部を団長とする自警団が発足した.
昭21. 2.23 灘自警団が誕生,強窃盗4件を検挙.
昭21. 4.03 西宮に義研団が結成された.
これらはいずれも,警察力の不足をカバーするため,積極的な活躍ぶりを示したが,やがて一部に自警団の行き過ぎが問題となり,自警団の看板を掲げた,街の狼的組織が生まれ,自警団員による窃盗その他の犯罪が発生し,あるいはまた既に述べたように,これらの組織相互間の争闘事件が発生したのである.
そしてその争いの原因は,第三国人対日本人という形から,次第に利権を巡るものに変化していった.
すなわち,反社会集団としての暴力団化であるが,これらについては後述する.
―――――――『兵庫県警察史 昭和編』(兵庫県警察本部著,1975)p.460-461
これを上述の,田岡氏の著述と比較しますと,
田岡氏「警察署は我々が護った」
兵庫県警「進駐軍に護ってもらった」
という点のみ不一致があるようですが,それ以外はおおむね一致するようです.
(たとえ田岡氏証言が事実だとしても,警察はその面子ゆえ,事実だとは決して認めないでしょう)
したがいまして,田岡氏の著述にも平均的な信頼性を与えても良いのではないかと.
また,「証言だけだから」ダメだというのであれば,一次資料の否定につながるのではないでしょうか?
反論としては非常に弱いかと存じます.
さらに,
>いわゆる広域暴力団 ぶっちゃけマフィアのボスの武勇伝であり 自分の人生の正当化に過ぎません.
と断定しておられますが,この断定の根拠は何でしょうか?
もちろん,バイアスがかかっている可能性は捨てきれませんが,すなわちそれによって即,全否定というのもいかがなものかと存じます.
本項につきましては,引用された文の他,松本清張も同様のことを書いていたような記憶がございますし,さらにまた,以下のような事例もございますので,全否定は困難かと存じます.
【質問】 戦後直後,神戸朝鮮人学校事件などの朝鮮人学校騒乱事件は何故起こったのか?
【質問】 生田警察署襲撃事件って何?
【質問】 王子朝鮮人学校事件って何?
【質問】 富坂警察署襲撃事件って何?
他にも多数の事例が存在するようです.
詳しくは,各都道府県警察の警察史を見る必要がありますが.
ところで,兵庫県警史では当時の山口組について,以下のように評価・分析しております.
―――――――
県下の暴力地図と山口組
終戦を迎えた頃,県下のヤクザはまだ鳴りを潜めていたが,三宮に闇市が生まれるとともに,次第に生気を取り戻し始めた.
闇市の成立とその実態については,つぶさに眺めてきたので省略するが,各地に発生した闇市は,集団的形態を取るにつれて,そこには幾つもの勢力分布が生じ,利権を巡る争いが起こり始めた.
このため警察では,既存のテキ屋団体(神農会・露友会)を母体とする自治組織の育成を図ったのである.
当時,県下の治安情勢は極めて悪く,凶悪犯罪が続発していたため,これらの自治組織は,警察の補助機関としての自警団を編成した.
こうした自警団は当初,良く警察力の不足をカバーしたが,やがて利権を巡る組織相互間の争闘事件を引き起こし,急速に反社会団体としての性格を強めていった.
他方,露天商とは別に,港湾荷役や建設工事の下請けないし人夫供給業兼用心棒を業とする博徒集団があった.
終戦当時この種の集団としては,
神戸の山口組・中山組・大島組・本多会・五島組,
尼崎の笠谷組,
西宮の松本組・中村組
の8団体,その構成員は約500人であった.
この種の集団の多くは戦時中,何らかの形で一部政界とつながりを持ち,憂国団体を自称していた.
こうした動きは戦後にもあり,神戸では昭和20年11月に大日本三色国政民治青年党神戸支部が結成され,翌21年2月には,その後援の下に,山長五島組河崎一男を会長,南谷組南谷順三を神戸支部長とする兵庫県復興同盟が発足した.
同党の言う三色とは,太陽の真実感,大地の自由律,海洋の平等性を意味する赤・黄・青を指すが,その主張とは裏腹に,同党は隠退蔵物資の摘発を巡り,日本共産党と摩擦を繰り返し,間もなく政治団体としての性格を失ってしまった.
こうして戦後における暴力団の勢力地図は,急速に塗り替えられていき,組の組織を模倣し強窃盗,恐喝などを常習とする不良グループ,所謂愚連隊を加え,昭和23年には75団体,その構成員は約2000人に達したのである.
本件では昭和21年に49人,翌22年には107人の暴力犯を検挙しているが,その手口を見ると,昭和21年当時は主として,自警団を背景とした無銭飲食であったのが,22年には尼崎の高木組,神戸の五島組,明石の佃組の場合に見られるように,縄張り内の善良な業者に,挨拶料を要求するという,典型的な暴力団化傾向を示している.
そして,その凶暴化原因の一つに,戦後の激しいインフレ高進により,資金確保に狂奔せざるを得なかったことが挙げられる.
こうした状況下で,前掲の博徒親分子分の制度に関するGHQ指令が発せられ,警察はその取締りを強化したのであり,その状況は図表102のとおりである[図表省略]
ところが,暴力団を巡る情勢は,この頃から急速に変化した.
まずその第一は,競馬・競輪の登場であり,特に爆発的人気を呼んだ競輪は,暴力団にとって最も魅力ある資金源となった.
[中略]
これらの組は,1開催期間(6日間)ごとに30万円程度の警備収入を得たほか,場内ならびに周辺の予想屋・売店などの営業権を,自己の縄張りとしたのである.
神戸権輪状では,やや立遅れた山口組が,強引に割り込もうとしたことから,昭和24年10月には,山口組系の地道組と西海組との間に,血で血を洗う抗争事件が発生しているし,同年6月,鳴尾競輪場開場第1日目に起こった,県下初の競輪場騒動も,当時,鳴尾村警察長であった宮崎三治が,
「今にして思えばあの騒動は,鳴尾競輪場警備の利権を竹田組にさらわれた森岡が,腹いせに仕組んだ計画的なものであったようだ」
と当時を振り返っているが,場内警備という正業?のみで満足せぬ彼らは,選手をその支配下に入れ,あるいはこれを脅して,八百長レースをやらせようとするに至るのである.
彼らが次に目を付けた資金源は,パチンコ・ブームであった.
これを自己の縄張りの中に入れるとともに,目抜き通りのパチンコ屋は多く,暴力団の経営するところとなった.
いや,それにもまして彼らが目を血走らせたのは,景品買いをその支配下に入れ,あるいは自ら経営することであった.
景品タバコは暴力団の手を経て,客とパチンコ屋の間を何回も往復した.
このほか,公娼廃止後の密売春婦を操り,その上前をはねる徒輩もあるなど,彼らはありとあらゆる方法で,資金稼ぎに狂奔したのである.
このほか賭博開帳,あるいは街頭のハッタリ賭博など,彼らのいわば伝統的な収入源が確保されていたことは,言うまでもない.
ところがこうした中において,神戸の山口組3代目・田岡一雄のやり方は,いささか他の暴力団と違っていた.
彼はその資金源を非合法分野のみに頼らず,興行界ならびに港湾荷役業界への進出と,その勢力扶植を狙ったのである.
狭い神戸市内で,しかも限られた利権を巡り,力関係の均衡を意識しながら,縄張りの維持拡大にしのぎを削っているヤクザの世界にあって,それは確かに異色のものといえ,昭和30年代に田岡をして,全国制覇の野望を持たしめた組織力と資金源は,こうして形成されたのである.
[中略]
現在の田岡一雄が3代目組長を襲名したのは,昭和21年7月のことで,同月30日,須磨の延命軒で3代目の襲名披露宴を張った.
田岡は3代目を襲名するに先立って,資本金10万円の土木建築請負業株式会社山口組を設立し,代表取締役に納まっているが,同社が実際に土建業をやったという事実は無い.
襲名後,田岡は湊川神社前の八千代劇場で,虎造・勝太郎・雲月など一流・大家出演の襲名披露名人浪曲大会を開催し,純益金を戦災孤児ならびに欠食児童救済金に充てた.
戦後の混乱と荒廃の中で,いち早く復興した神戸新開地の興行街に,用心棒などで出入りしていた山口組は,2代目による芸能界へのつながりをもとに,次第にその勢力を扶植していき,神戸で出演する芸能人は,必ず山口組へ挨拶するまでになった.
田岡は広沢虎造や伊丹秀子らと共に各地を巡業する一方,昭和23年には神戸福原の関西劇場で浪曲大会を興行し,さらに同年,笠置シズ子の物真似から一躍人気者になった,11歳の天才少女美空ひばりに目をかけ,これを後援した.
田岡はこうして,興行界での地位を不動のものとした後,初代以来の地盤である港湾荷役業界への進出を図った.
昭和23年6月,GHQは覚書を発し,港湾労務における親分子分の関係を否定したが,進駐軍指示による港湾荷役システムになじめず,現状に不満を持つ業者が,昭和4年に港洞会を結成したとき,田岡は推されて会長となった.
ところが同会の下請け再開期待は,早くも翌25年に実現した.
その理由は,朝鮮戦争の勃発である.
こうして田岡は,「港の六人衆」の一人として業界に進出し,港湾運送事業として新しく設けられた船内荷役の下請け独占を狙って,昭和27年に港湾荷役協議会を結成し,昭和31年には全国港湾荷役振興会の設立に参加,神戸港の荷役業界に羽振りをきかせ,同年の港湾労働争議に当たり,
「神戸港に赤旗は立てさせない」
と豪語するまでに至った.
こうして,神戸における興行界・港湾業界に強大な勢力を張った山口組は,昭和29年ごろから全国へ勢力を拡大させるために行動し始めた.
その動きは当然,他の団体への圧力となり,組の命運をかけた激しい集団抗争事件を巻き起こし,市民を恐怖のどん底に陥れた.
本県警察の総力を挙げての山口組壊滅作戦は,こうした状況下に展開されたのである.
―――――――同,p.644-648
これを『山口組三代目 田岡一雄自伝』の記述と比較しますに,概ね食い違い部分は事実関係にはなく,事実に対する解釈の違いというレベルにとどまっています.
>名前:閻魔さくや 日付:2011/9/16(金) 0:32
>マフィア・ボスの回顧録ですが 彼自身の武勇伝ですので,誇張や歪曲などの可能性が大きいのではないでしょうか?
との御懸念をお持ちのようですが,少なくとも当方の見た限りでは,誇張や歪曲は発見できませんでしたので,もしそのような誇張・歪曲を発見なされた場合は,論拠を添えてご一報いただければ幸いです.
in FAQ BBS,2011/8/28(日) 17:21
in mixi,2011年10月19日01:24
in mixi,2011年10月24日02:05
を加筆・改修
【質問】
生田警察署襲撃事件って何?
【回答】
1945年12月24日午後9時頃,50名を超える朝鮮人の暴徒が,「岡山の刑事を出せ」と叫びながら,兵庫県神戸市中央区にある生田警察署署内に侵入し,署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した事件.
これ以前,岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており,強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張,この捜査員に生田署が協力したことが,暴徒の襲撃の動機.
その後,事件を聞きつけた進駐軍の部隊により,暴動は鎮圧された.
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/生田警察署襲撃事件
【ぐんじさんぎょう】,2011/09/17 20:20
を加筆改修
【質問】
王子朝鮮人学校事件って何?
【回答】
1951年,蒲田警察署が,東京都北区の都立朝鮮人中高等学校(今の東京朝鮮中高級学校)を家宅捜索したことがきっかけで起きた騒擾事件.
同年3/7,同校での抗議集会の最中,学校外にいた群集が警察隊に対して投石,唐辛子粉の噴霧,暴行を行い,警官28人が重軽傷.
警視庁は,遂に群集を強制的に解散させることを決断,群集が煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗する中,警官隊は午後2時50分までに群集全員を校外に排除した.
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/王子朝鮮人学校事件
【ぐんじさんぎょう】,2011/09/14 20:30
を加筆改修
【質問】
富坂警察署襲撃事件って何?
【回答】
1946年1月3日正午過ぎ,東京都小石川区(現・文京区)の警視庁富坂警察署に,トラック2台に分乗した朝鮮人,約80人がやってきて署内に乱入,留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求し,警察官たちを暴行した事件.
それに先立つ1945年12月30日,富坂警察署は,管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者として,在日朝鮮人3人を逮捕していた.
襲撃者たちは留置場から容疑者を連れ出し,富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走.
その後の捜査でも,襲撃者たちの検挙には至らなかった.
【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/富坂警察署襲撃事件
【ぐんじさんぎょう】,2011/09/19 20:50
を加筆改修
【質問】
終戦直後の朝鮮人密航問題について教えられたし.
【回答】
1945年8月15日,日本が無条件降伏した事で,日本にいた朝鮮人達は微妙な位置に立つ事になります.
その為,1945年から日本が独立を果たす1952年までの間に,大戦中に徴用されて日本に送られた多くの朝鮮人達――その数は140万人に達します――が,朝鮮半島に帰還しました.
しかし,そうした徴用以前から,例えば鉄道建設工事やダムや道路などの土木工事の建設労働者として,また,工場労働者として日本にやって来,日本に生活基盤を築いていた人々は日本を離れがたく,鶴橋などに代表される様なコリアタウンを築いて居住を続けていきました.
一方で,戦時中や戦後に一旦朝鮮半島に戻った人々の中は,戦後の朝鮮半島を巡る政治的・経済的混乱や治安の悪化に愛想を尽かして,再び故地である日本に渡ろうとした人もいました.
彼等は朝鮮半島からの合法的渡航手段が無かった事から,「密航」と言う手段で日本に入って来ましたが,そのうち,見つかって検束され,強制退去させられた者は,1946年~1950年の5年間で実に40,000名に達しました.
因みに,戦前に「不正渡航」した人々の数は,毎年1,000~2,000名程度だったので,その数はかなりの数に上ります.
この様な「密航」は,1946年初頭から目立つようになり,密輸への警戒感などから占領軍当局もこれを問題視するに至ります.
1946年3月の指令で,帰国者による占領軍の許可を得ない渡航は禁止となり,「密航」以外の方法でしか渡航するしかありませんでした.
占領当局による強制送還は,コレラ流行を理由に「密航」の取締を定めた1946年6月12日のSCAPIN1015,「不法入国の抑圧に関する覚書」で明文化されましたが,既に5月頃から,捕捉された者は朝鮮人帰還者の送り出し指定港でも有った京都府の舞鶴,山口県の仙崎,福岡県の博多,長崎県の佐世保から強制送還され始めていました.
舞鶴を除くこれらの地域では,地理的な関係上,海上や水際で検挙される「密航者」の数が多く,特に対岸に朝鮮半島がある対馬での検挙者数が非常に多かったりします.
つまり,最初期の強制送還は,捕捉された件の指定港から帰還輸送と並行して行われていた訳です.
しかし,8月末から,摘発された「密航者」は,占領軍の命令によって総て佐世保の針尾収容所へ逓送され,そこから送還される体制へと移行しました.
例えば博多では,目の前から釜山への帰還船が出航しているのにも関わらず,わざわざ佐世保に海路移送してから強制送還されていたのです.
送還業務を一手に担う事になった佐世保引揚援護局では,1946年6月,帰還者や引揚者を収容する建物の1つの棟を改造して「密航者」のみを収容する施設を準備すると同時に,彼等の警備を主務とする針尾警備隊が長崎県警察によって設けられました.
この時の改造は,応急的に内部を改造して8室に区切り,各室の板壁と正面出入口には,1寸角材を以て,留置場のような格子を設けると言うもので,勿論その理由は逃走防止でした.
この収容棟は,他に3棟有った帰還朝鮮人用の宿舎とは完全に分かたれ,外出も出来ず,「密航者」が一般の帰還者との接触を執る事も許されませんでした.
そして,脱走については警察による徹底的な捜索が行われました.
実際の帰国,送還は同じ船で行われたのですが,その扱いについては食事の内容にまで差異を設けていたと言います.
つまり,「密航者」は空間的に隔離された状態にあり,かつその存在自体が合法的に帰還する朝鮮人達から完全に分離されていました.
まさしく,故国を脱した者は出発国の国家主権の外部にあると共に,到着国でも「不法入国者」という形で合法的待罪の外国人から外部化されていたのです.
当時の針尾警備隊隊長の日誌にはこうあります.
------------
1946年9月18日水曜 晴天
本日当地の自分たちの直属米軍指揮官の異動あり.
指揮官からは次の通り命令があった.
1. 9,11,12号舎の密航者を送り出した後は,12号舎のみを密航者専用とし,残りは沖縄の引揚者用に充当する.
12号舎は鉄条網を二重にし,照明を良くして警戒に便ならしむる.
(中略)
3. 逃亡する者,暴動する者は勝手に殺して良い.
聯隊長の権限を君に与える.(後略)
------------
実際に逃亡者が殺害された訳では無いですが,少なくとも占領軍統治下での日本の警察の立場を考えると,少なくとも方の枠外での処遇が可能と認識されていた様です.
因みに,当時の職員の回想の中には,こんなのもあります.
------------
(密航者数を報告する日報作成時)たかが1~2名間違っても判りはするまい.
また判ったとしても,そう喧しくはあるまい.
そう高を括っていたら,それこそ大間違い.
よろず,正確な米軍であるから,些かの誤りがあっても釈放してくれない.
この報告の内容に誤りがあると,今後間違えたら調整責任者を第12号の密航収容宿舎に入れると言うので,青くならざるを得なかった.
------------
つまり,朝鮮人の「密航者」に対する扱いがどんなものかと言うのがよく判る内容と言えます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/16 23:14
青文字:加筆改修部分
【質問】
外国人登録令とは?
【回答】
1947年5月,勅令として外国人登録令が公布されます.
これは,在日朝鮮人を「みなし外国人」として登録させ管理するだけで無く,「密航」の取締を意図していたものでした.
この外国人登録令に基づく登録手続きは,当初は朝鮮人連盟の反対に遭い,登録は進みませんでしたが,外国人登録令の規定を柔軟に適用すると言う占領当局と日本政府の懐柔もあって,最終的に約53万人が登録に応じました.
これにより,在日朝鮮人内部には正規の滞在者とそれ以外という区分が生まれ,それと同時に,登録証の有無を根拠に,「密航者」を発見・送還できる体制が整う事になりました.
ところが,登録実施当初は,この判断基準が充分に効力を持って機能しうるとは考えられていませんでした.
例えば大阪府では,登録証が二重に発給されるケースがあったほか,当局では相当数の登録証が売買されていると見込んでいました.
更に登録の一部が朝鮮人連盟支部を通じて行われた事も影響して,「密航」の露見という意味での外国人登録令の実効性は疑問視されていました.
こうした懸念に対し,占領軍と日本政府は登録証の有無という境界を明瞭にすることに躍起になっていきます.
例えば京都府では,1948年8月の配給用米穀通帳の切替を機に,外国人登録証と米穀通帳の照合作業が行われることになりました.
しかし,占領軍の施策として,都市部での食糧不足の対応として,「都市転入制限政策」が行われており,引揚者を除き都市への転入者は正規の手続きによって米穀通帳を得ることが出来ませんでした.
そうした転入者は,「無籍者」と呼ばれましたが,この中には勿論朝鮮人も含まれていました.
従って,終戦後も引き続き日本国内にいた朝鮮人であっても,「密航者」と見做される可能性があったのです.
その一方で,登録証の確認作業は帰還予定者をも対象としていました.
占領当局は,1947年12月の段階で,帰還者が「再び日本に密航する便を与える」事の無いように,外国人登録証の他偽造された証明書類を遺漏無く回収する命令を出していました.
佐世保引揚げ援護局では,朝鮮人帰還者の所持している外国人登録証の回収に当たって,下記の様な措置を執っています.
------------
(登録証を)一時当局に保管して,照合を行い,更に証明書そのものを入念に点検する事にした.
従って記載事項の相違,割印の不明瞭,写真張替の形跡のある場合などには,発行市区町村長に照会し,その回答を待って,送還(=帰還)の手続きをした.
------------
更に興味深いのは,偽造の登録証を保った帰還者は「不正帰国者」と見做されていた点です.
此の場合の取扱はどうなっていたのかは不明ですが,少なくとも帰還者でも合法・非合法の区分を設けていた訳です.
こうしたことから,「密航」の認定や送還の具体的実践に際しては,外国人登録令がその運用上,実際の「密航者」の捕捉のみを目的としていた訳ではありませんでした.
つまり,外国人登録令は,「密航」取締の延長線上で,在日朝鮮人を確実に管理できる者とそうでない者を峻別し,後者を法外の位置へと追いやる機能を有していました.
しかも,前述のようにこれには実際の「密航者」だけでなく,合法的滞在者すらその方向へ持っていくケースすらありました.
即ち,占領期の在日朝鮮人は総て,問題含みの登録制度に異議無く恭順するか,さもなければ法外の処遇に晒される存在に二分される形になっていきました.
1952年,日本の独立に伴い,外国人登録令は外国人登録法に改正されました.
この際,指紋押捺強制が盛り込まれましたが,これは在日朝鮮人の「外国人化」,即ち,国籍剥奪の面が強調されていきました.
今までは,ある意味日本人,ある意味外国人と言うダブルスタンダードだったのが,独立を機に一元化された訳です.
その一面と共に,この法律は,今までの外国人登録令の延長線上にあるものとして,在日朝鮮人内部に分断を作り出し,以て彼等を従属させると言う面もあったと考えられます.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/11/17 22:28
青文字:加筆改修部分
【質問】
終戦直後の日本の薬物状況は?
【回答】
1945年8月15日.
この日,日本は連合国と正式に停戦します.
最終的に,9月に無条件降伏をする訳ですが,大戦中,日本は軍資金を得る為に,中国や満州だけでなく,蘭印,ビルマで阿片を売り,タイにも阿片を供給していました.
こうした場所で少なからぬ軍人,軍属,民間人が阿片やヘロイン,モルヒネの密売に携わっていたりします.
彼らが引揚げる際,なけなしの荷物と共に,こうした薬を荷物に忍び入れて戻る可能性もありました.
しかも,大陸での生産だけでなく,内地と朝鮮で阿片の大増産を行い,内地では蒙疆から大量の阿片を輸入し,これらの阿片は内地の製薬会社で,ヘロイン,モルヒネの原料として供給されました.
阿片は,戦時統制経済下に於いて,「大東亜共栄圏」内交易の重要戦略物資であり,モルヒネ,ヘロイン,コカインなどは企画院の物資動員計画の「医薬品製品別計画(需給計画)に基づき,陸軍,海軍,満州,支那大陸,内地,朝鮮と配当されていきましたが,意外にも陸海軍の医薬用の需要は少なく,内地配当の民需分が多かったりします.
これはどういうことかと言えば,内地から外地への自由な輸出が,相変わらず民間ベースで続いていたと言う事になります.
ヘロイン,モルヒネは満州では専売品でしたが,日本から持ち込まれた輸入モルヒネは,丸公価格で「自由」に売られていました.
ところが敗戦になり,これら製薬会社手持ちのヘロイン,モルヒネも行き場を失います.
また,戦略物資入手の為,陸海軍が独自で保有していた阿片,麻薬も,敗戦時,生阿片が52,722kg,粗製モルヒネ2,844kg,蘇生コカイン35kg,コカ葉17,000kg,エクゴニン195kgに達していました.
これも放っておけば,闇に流れてしまいます.
日本に於いては先に見た様に,阿片の取締は厳しかったのですが,麻薬に対しては1920年の「「モルヒネ」「コカイン」及其ノ塩類ノ取締ニ関スル件」,1930年の内務省令「麻薬取締規則」で,輸出入と製造を許可制に,販売を届け出制にしましたが,規制は極めて甘いものでした.
これを厳しくすれば,忽ち輸出に支障を来す事になった為です.
こんな甘い状態でも,内務省衛生局の統計では,内地の中毒者は2,000名位で,其の殆どが分娩後の痛み止めや,月経痛に塩酸モルヒネを用いたのが習癖になった女性に見られる程度で,ヘロインやコカイン中毒は全くと言っていいほど無かったと言います.
ところが,行き場を失った麻薬や阿片が,虚脱状態に陥った日本社会に出回ると,社会に悪影響を及ぼしかねなくなった訳で,厚生省は慌てて対策を打ちます.
先ず1945年11月,占領軍の勧告に従い,ヘロイン及びその製剤の所有等の禁止と没収,麻薬原料の栽培製造輸出入を禁止,1946年3月には陸海軍保有の阿片,麻薬類の保管移転の厚生省令を出し,出回りにストップを掛けます.
但し,医薬品としての使用を禁止する訳に行かないので,阿片と併せ,麻薬の製剤,販売,授与,使用を厳しく規制する為に,「麻薬取締規則」が1946年6月に作られました.
此の後,それらの取締規定が整理され,国際的に見ても極めて厳格な「麻薬取締法」が1948年7月に制定され,各都道府県に麻薬取締員を配置する制度も出来ました.
こうした対策のお陰で,日本社会に麻薬や阿片が蔓延する事を防ぐ事が出来ましたが,次に新たな問題として浮上してきたのは,覚醒剤の濫用です.
覚醒剤は,戦争中に生産増強や戦意高揚の為と称して,飛行機の搭乗員や軍需工場の工員達の深夜作業に,ヒロポンを使わせたのが蔓延の始まりです.
阿片やヘロイン,コカインについては国際的に見ても厳格な規制を敷いたのに,何故か覚醒剤については1951年まで何等規制を行わず,大日本製薬のヒロポン,武田製薬のセドリン,塩野義製薬のパーテンなどの乱売や濫用を招き,一時150万人とも言われる乱用者が生まれました.
1951年6月に漸く「覚せい剤取締法」が制定され,警視庁統計では1953年度の覚せい剤取締法違反の検挙者が8,677名(うち製造違反242名,所持その他8,435名),1954年の検挙者は55,000名に達し,ピークを迎えます.
これ以後,一旦減少し,1958年に検挙者数が271名に減り,覚醒剤封じ込めは成功したかに見えました.
しかし,これは覚せい剤取締法の施行でヒロポン取引が地下に潜り,所謂第三国人による海外からの原料密輸ルートと結びついた,暴力団の格好の資金源となり,それが1954年の大検挙で壊滅,ヒロポンの需要家である乱用者と,供給元の暴力団が共に麻薬の転換を図っていった為,再び麻薬の方が盛り返してきます.
これは1948年7月の「麻薬取締法」が占領下の立法で,国内での製剤,販売,使用には厳しかったのに対し,国外からの組織的密輸入と是と結んだ悪質事犯への対応に,弱点があったからです.
この為,1953年3月には新しく「麻薬取締法」を制定し,従来の都道府県配置の麻薬取締員とは別に,厚生省に150名の麻薬取締官を配置し,密輸・密売の組織的な悪質事犯に機動的に対処する体制を整えていますが,密輸ヘロインによる中毒者の激増は防げませんでした.
ヒロポン乱用者が激減した1958年以降,麻薬の新規中毒者は2,000名を超え,1962年には確認された中毒者が4万名に達し,常用者の推計が20万名に達しました.
因みに,新しい「麻薬取締法」で検挙された人の数は,1953年度が256名に対し,1962年には2,418名とほぼ10倍になっています.
余談ながら,1963年に封切られた黒澤明監督の『天国と地獄』という映画には,横浜の夜のドヤ街を彷徨する中毒者の群れを実写した場面がありました.
これは横浜で供給が途切れて,ヘロインを求め蝟集する現象があり,それを現場に行って撮ったものだそうです.
眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/15 22:47
【質問】
終戦直後の満州の行政はどうなっていたのか?
【回答】
北原白秋が作詞し,山田耕筰が作曲した童謡「ペチカ」は,元々,南満洲教育会が音楽教材用に制作を依頼したもので,哈爾浜の長い冬の夜がモチーフになっていました.
当時,満洲は理想に燃えた人々が多く渡り(一方で食い詰めた農民や過激派も渡った訳ですが),左寄りの人物さえも受け入れる土地でありました.
例えば,満鉄付属地の学校要員養成機関として満洲教育専門学校を設立した責任者の満鉄地方部学務課長保々隆矣は,国定教科書を「珍品」と決めつけ,教育勅語の文字だけに捕らわれた道徳教育,政治教育の欠如,水準の低い師範教育も批判して憚らない人物でした.
斯うした人々がいた為に,都市部には歯科診療室を備えた学校が幾つもあり,栄養士による給食の実施,養護学級の設置など,先進的な取組みを行い,日本が戦後,漸く取り入れた学校教育の取組みより遙かに先を行っていた訳です.
しかし元はと言えば,満洲は他人の土地に強引に押入って打ち立てた幻の国家であった訳で,1945年8月9日にソ連が侵攻すると呆気なく崩壊してしまいました.
そのソ連,8月14日に中華民国との間で,対日戦遂行に関する相互援助,単独不休戦・不講和,日本の再侵略措置の防止措置を共同で実施,相互の主権と領土の尊重を骨子とする中ソ友好同盟条約を調印します.
その結果,ソ連は中華民国に,外蒙古の現状維持,大連港国際化とソ連の海軍基地としての旅順口の租借権回復,中ソ合同会社での東支鉄道と南満州鉄道の共同経営,満洲の中華民国の主権を認める代り,ソ連の優先的利益の擁護を認めさせる事に成功します.
本来,ソ連は日本降伏後3週間以内に東三省から撤兵を開始し,3ヶ月以内に撤退を完了する事になっていました.
即ち,南部満洲から11月14日まで,中部からは20日まで,12月3日に満洲全域から撤退するスケジュールになっていました.
ところが,実際には1946年4月迄居座り続け,シベリアに在留邦人を多く送り込むと共に,各地で賠償と言う名目の略奪を行います.
先ず,新京の満洲中央銀行の金庫から旧満州国の満銀券7億円,有価証券75億円,金塊36kg,白金31kg,銀塊66kg,ダイヤモンド3,705カラットを持ち出したのを始め,各地の金融機関から現金,有価証券,貴金属類を根こそぎにした他,郵便局も接収され,旧満州国の切手を押収しました.
その他,アメリカのポーレー委員会の調査では,電力産業71%,炭砿付属施設90%,鉄道施設80%,機械工業75%,液体燃料工業50%,化学工業50%,洋炭工業50%,非鉄金属工業75%,繊維工業75%,パルプ工業30%,電信電話20%以上の各施設が被害を受けて破壊されたか,ソ連による撤去で持ち去られたもので,被害総額は当時のレート,1ドル4円20銭に換算して8億9,350万ドルに達しました.
お陰で郵便切手などは存在せず,郵便料金収納済の消印を押す事で郵便局は対応したりしています.
流石に満洲元号は使われず,民国歴に戻しましたが.
これら切手類はソ連が満洲から撤退した後も,ソ連が租借していた旧関東州に持ち込まれ,現地接収の日本切手と共に加刷して使用されていたりします.
この地域では,ソ連が撤退後に入った国府軍によって中国郵政の権威は取り戻していました.
中国郵政では,東北地域で流通する切手として,日本占領時代に,北京で印刷された日本軍占領地域用切手を没収してそれに充てる事にしていました.
但し,その切手には「限東北貼用」と言う加刷と満洲中央銀行券に対応した額面を加刷していました.
これは,東三省では依然として満洲中央銀行券(満洲国幣)が略奪を受けつつも,最も信用のおける通貨として通用しており,中華民国幣(法幣)との間に大きな為替差があった為です.
この為替差は,1946年2月で満洲国幣1円に対し法幣13円に達しています.
この為,中国本土の切手を其の儘持ち込む事は新たな投機対象となってしまいますから,加刷を行った訳です.
その満洲国幣は,1947年の国府中央銀行が発行した東北流通券に交換されて流通されるまで有効でした.
本来は国府政府としても,日本占領時代の切手を使いたくはなく,香港で製造された新しい切手を使用するつもりだったのですが,期日までに香港製が間に合わず,急遽日本占領時代の切手を使用したものです.
香港製のものは1946年3月から使用され始めましたが,切手の配給量が非常に少なかった為,日本占領時代の切手に加刷したものも並行して使用されています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月01日
【質問】
戦後直後,日本人民労働組合の,満州日本人社会の支配ぶりは,どんなものだったか?
【回答】
同胞いじめを繰り返したため,共産党の信用を落とす結果になった.
当時,大連在住の安江弘夫は,以下のように述べている.
〔コズロフ中将の警備司令官就任後,〕野坂参三の率いる日本人民解放連盟のメンバーが主力となって組織された日本人民労働組合が,唯一の認められた機関として日本人社会を支配するようになった.
そして,日本人民の解放でなく締め付けにかかり,青年層に対しては地区毎に講師が来て共産主義教育を行ったが,なにぶん日本最高とも思われる生活レベルで育ち,教育程度も高いので,講師は馬鹿にされるだけであった.
この組合幹部の中には,満鉄調査部出身の石堂清倫のような「インテリで良心的なマルクス教徒」もいたが,レベルの低い連中も多く,彼らはソ連軍の具体的な指令もないのに,人民裁判などの手段で同胞いじめを繰り返した.
そのため彼らの悪名は高く,後に引き上げが始まると,引揚船や上陸港の引揚者掩護局の収容所の中で,逆に彼らが彼らの言う人民たちから吊るし上げられ報復されることになり,大連からの引揚者に関する限り,共産党は全くその信用を落とした.
だいたい,大連で日本人が悲惨な目に遭っている最中の21年1月26日に,野坂参三は日比谷公会堂で,
「満州の残留法人は中国共産党,ソ連の庇護の下に,生活不安もなく,安全に暮らしている」と演説しているのである.
彼は国籍を取り間違えていたとしか考えられない.
(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,八幡書店,1989/8,p.246-247)
【質問】
戦後の日本で,あまり米軍に対する「抵抗運動」が少なかったのは,日本全体が戦意喪失するほどボコボコにやられたことも関係しているのですか?
【回答】
それもありますが,アメリカが「戦勝国にして征服者」にしてはかなり寛大な条件で日本を扱った,というのもあります.
アメリカ軍が聖人君子というわけではありませんでしたが,ドイツの敗戦の有様とか,あるいは赤軍@ベルリンのような,なんでもありの惨状などに比べればマシだったのは確かですから.
日本の場合,ポツダム宣言を受けいれ,海軍では大海令・陸軍では大陸命という,全軍に対する最重要命令を出し,戦闘を停止するように厳命し,それらはほぼ守られました.
(宇垣中将が米艦に特攻をかけたり,坂井三郎氏が迎撃で戦闘をしていますが,後者は正当なものなので例外です)
米軍が日本に進駐するにあたり,道路では日本兵が警備に当たっていたほどですので,抵抗運動は国内においては無かったと言ってもよいでしょう.
(背を向けるという,ちょっと大人気無いことはしていますが)
玉音放送を阻止し継戦・玉砕しようとした動きもありますが,これらは封じられました.
天皇という絶対的な政治的・精神的権威が存在し,行政統治機構が生きていた事が,抵抗運動を封じ,速やかな占領行政への移管と主権・独立回復につながったと言えます.
▼ なお,以下のような話もある.
――――――
戦後,高等工業学校の同窓会があったとき,スパイ養成の学校で訓練を受けた同級生の一人が,終戦後も何ヶ月か,進駐軍攻撃の計画を,仲間と共に練っていた話をしたことがある.
近頃イラクのテロに関するニュースを聞くたびに,思い出している.
――――――『新原子炉お節介学入門』(柴田俊一著,一宮事務所,2005.3.25),p.332-333
▲
軍事板,2004/10/28
青文字:加筆改修部分
【関連リンク】
大海令とは
http://www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/kairei/daikai.html
横須賀海軍工廠の鍵の引渡し
(画像掲示板より引用)
【質問】
北白川宮擁立工作って何?
【回答】
昭和20年8月,御前会議において,ポツダム宣言受諾決定後の市ヶ谷台陸軍省に,中野学校の日下部少佐他一名が呼ばれ,軍務局軍事課員椎崎二郎中佐他から,皇統継続のため,皇族を連合国の追及の及ばぬ地方にお隠し申し上げ,他日皇室復活の暁に御擁立申し上げるための布石とするべしという趣旨の指示を受けました.
椎崎中佐はその夜,近衛第1師団長森毅中将を殺害し,その偽命令捏造によって近衛歩兵第2連隊をして,宮内省ならびに禁中に侵入せしめる,いわゆる終戦叛乱事件に連座して自決したとされるのですが,日下部少佐らはそのまま準備を進め,昭和15年,満州張家口にて駐蒙軍参謀として,御年31歳で薨去された北白川宮永久王の陸士,陸大同期である,陸軍省の広瀬少佐と協議,永久王の長男である道久王(8歳)を,新潟県六日市町の翼賛壮年団幹部で,地元で今成食品というハム加工肉工場を経営する,今成拓三という人物に預けるべく交渉しようということになり,トラック一台に各種野営装備まで積んで出発することになりました.
しかし,途中増水でトラックを断念するなどしたのち,上越線で日下部少佐らは8月24日,六日市町の今成宅にたどりつきます.
しかし,少佐らをここで思わぬ出来事が待ち構えていたのでありました.
→【バー・モウ亡命工作】につづく
ゆずこせう in mixi,2011年11月23日09:02
青文字:加筆改修部分
【質問】
バー・モウ亡命工作って何?
【回答】
中野学校の日下部少佐らが,市ヶ谷で皇統護持の問題で,雁首付き合わせて作戦を立てています時,はるか離れたビルマのモールメンで,厄介事が発生していました.
1941年暮れにビルマに日本軍が侵攻,その後うちたてたビルマ独立政府の首班,バー・モウがここモールメンに,日本の石井射太郎大使とともに,連合軍と独立政府から寝返ったアウンサンの反ファシスト人民自由連盟に追われて,疎開してきておりました.
が,すでに日本がポツダム宣言を受諾,降伏するという話は彼らの耳にも入り,バー・モウ以下は捕えられた場合,戦犯として死刑も免れないと,かつて大東亜会議での東條英樹首相の約束を盾に,日本への亡命を要求したのでありました.
日本政府としては,降伏し占領下にある以上,亡命者をかくまうということは危険が大きく,来日は構わないが,連合国にしれた場合引き渡しを拒むことができないと回答しましたが,ビルマ派遣軍など現地が強硬にプッシュ.
ついにバンコクを離れる最後の日本機に,バー・モウ一人を同乗させ,8月25日に立川飛行場に降ろしたのです.
来た以上は追い返すこともままならず,外務省はすぐに内密に,帝国ホテルに宿を手配し,「満州国の大学教授『東先生』」という名目で収容することになりました.
さて,その次です.
いつまでもGHQ(第一生命ビル)の目の前にかくまうわけにもいかず,どこか目立たぬ地方に,と物色していた時,丁度やはり亡命していたフィリピンのラウレル大統領一行の食糧手配をしてくれた,新潟六日市町の今成拓三氏の名前が浮かんだのです.
外務省の石井事務官が8月25日,立川にバー・モウが到着した当日,六日市の自宅に今成を訪問し趣旨と要請を行いましたが,その前日日下部少佐らが一足早く,北白川若宮の御動座の趣旨を聞いたばかり,さすがに今成氏も困惑して,いったんはバー・モウの件を断ってしまいます.
しかし,人伝手にこのことを聞いた日下部少佐は,今成氏と交渉.
大東亜理想のためにともに奔走した異国の偉人を,見殺しにするのもどうか,この件も皇統護持と同格の重要事ではないのか,経費その他で不安ならば,すべて中野学校で面倒をみる,どちらも義挙であろうと説き,バーモウも迎え入れることとしました.
ついで少佐らは鳩首相談し,北白川宮の件を『本丸』,バーモウのほうを『東」とし,『本丸』があくまで主であり,『東』の遂行上『本丸』には累をおよばさぬことなどを決め,まずはすでに緊急にかくまうことの必要なバーモウの潜伏先として,今成が懇意にしていた隣村石打の真言宗智山派の古刹薬照寺の住職土田覚常を頼ることとしました.
実はこのときすでに,北白川宮護持のほうは,陸軍省自体が混乱状態,また,降伏から講和条約に向けてのGHQとの交渉で,当面天皇制についてはこれを廃する意図が,かれらにも無さそうだということも明らかになってきていたため,自然に立ち消えの方向に進んでいたんですが.
こうして,バーモウがやはり東先生に身をやつして,六日市駅に到着.
翌々日,今成邸から薬照寺に夜中,オート三輪で送り届けられることとなったのです.
ゆずこせう in mixi,2011年11月23日12:49
青文字:加筆改修部分
薬照寺にやってきたバー・モウを今成らは,当時入手難なシャンパンやらインドカレーやらで歓迎し,彼を痛く感激させたと言われます.
また,地元石打村の元村長でやはり青年団つながり,埼玉で牧畜で成功した,資産家にして名士の今泉隆平も加わって,土地の青年団や復員兵たちと,なにくれなく面倒を見ていきます.
実はバー・モウを引き取るにあたり,今成は外務省の北澤参事官と暗号の取り決めをしていました.中央でたとえば連合国側の詮議で動きがあった場合,最悪亡命が露見した場合には,今成の会社宛に『ハムツカヌ,ハムオクレ』の電報を打つことになっていました.
今成はそれから毎晩,いつ『ハムオクレ』が届くかと,まんじりともせぬ夜を過ごしていくことになりました.
飢餓の発生も伝えられた失意の秋を越え,年明けて1月6日,北澤参事官は連合国司令部の英代表部に呼び出されます.
バンコクに逃れたのち,英軍によって拘留されたバー・モウ夫人の自供をもとに,彼が北澤とともに日本行の飛行機に乗ったことを突き止めたのです.
北澤は外務省幹部に報告,ただちに甲斐政務課長が現地に赴くことになりました.
今成氏や,東京から雪の中やってきた甲斐政務課長らは,自首するようにバー・モウを説得しました.
しかし,バー・モウは首を縦に振りません.
まず満州経由でソ連に逃亡させよと言い,次にどこでもいいから独断で出奔するから見逃してくれと言います.
しかしそんなことを,占領下日本で許す者はいません.
ようやく3日間の猶予を設けて熟考ということになり,一方甲斐課長は本省に暗号で指示を仰ぎました.
回答が「ハムイラヌ」なら逃亡を見逃す.「ハムオクレ」なら逃亡せず東京に出頭させよ.
回答は「ハムオクレ」でした.
3日後,さすがにバーモウは出頭を宜としました.
1月12日,六日市駅頭で万歳に送られたバー・モウは東京に着,
翌日,甲斐,今成に名に付き添われて,GHQの建物に向かい,そのまま英代表部のある部屋に一人で消えて行きました.
外務省にとっても日下部少佐らにとっても一応,この亡命劇の幕は下りたと思えました.
しかし翌日,北澤,甲斐両名は外務省からMPに連行されてしまいます.
一方,『東』が一段落し,『本丸』に再度注力するべく上京した日下部少佐は,14日,帰ってきた六日市駅頭で逮捕されてしまいます.
その他の陸軍関係者も,それから10日間の間に次々と,MPに検挙されていったのです.
英軍代表部のフィッギス少佐に尋問された日下部少佐は,『本丸』とは何か,『東』とはだれか,組織を書けと詰め寄られ,バー・モウが全てを自供したのだと悟ります.
実はバー・モウは出頭するとすぐに,フィッギス少佐に日本には陸軍を主体とする,狂信的な反連合国抵抗組織が作られており,占領軍に武装反攻することを企てている,自分はその組織に半年間拉致監禁されていた,政争に敗れた自分を,本国に帰して早々に処断するよりも,まずこの由々しき事態の捜査を完了するまで,日本にとどめ置いた方が賢明ではないかと主張していたのです.
これは爆弾でした.
なぜこんなことをバーモウが言ったのか.
すでに英国政府はアウンサンの独立組織とは,ビルマ独立に向けての話し合いを進めており,その中で戦犯の処断にはこだわらないという感触を得ていました.
これを彼も察し,独立に近づくほど延命に有利になると考えたのだろうということ,あるいは,大東亜会議での東條首相の約束とは裏腹に,日本の陸軍省が自分の逃亡に関しては,打って変わって冷淡な態度であったことへの意趣返し,という説もあります.
結局,民間人の今成,北白川宮大妃とも知人で,『本丸』工作の主体広瀬,を含む9名が巣鴨に放り込まれて取り調べを受けました.
このとき,使用された経費に関しても追及されたと言われますが,これについては今でも何が判明したのか分かっていません.
しかし,バーモウのいう反GHQ組織と言うものの,具体的な内容がほとんどないという結果が,占領軍を落胆させたのか昭和21年8月2日,
バー・モウは英軍に引き渡されて空路ラングーン(今はヤンゴン)に送還されます.
日本側9名も一時は北澤,甲斐,日下部の3名が戦犯として,シンガポール送致と言われて色めき立ちましたが,その後7月終わりに,9名全員がトラックに乗せられて釈放され,今事件については今後口外無用という引導を渡されたということです.
北白川宮工作はその後,当の道久王が臣籍に降下してしまい,結局沙汰やみなりました.
また,今成氏の会社は今も六日市町に,今成食堂製麺部として残っています.
今泉隆平はその後も統合された南魚沼市長を勤めるなどし,平成9年まで生存しましたが,没後その遺産である藤田嗣詞の「突撃」など絵画の名品の数々をあの薬照寺に,自分が外遊して集めた南方の文物を市に寄付し,市では2002年に今泉記念館として公開してきました.
もっとも,現在は改装工事中で新装公開は2013年の予定とのことです.
ゆずこせう in mixi,2011年11月23日19:29
【質問】
「おろか者の碑」は,「太平洋戦争の勝利をあくまで信じていた人たちが,敗戦後,反省のために建立したもの」?
以下引用.
----------------
これは太平洋戦争の勝利をあくまで信じていた人たちが,敗戦後,反省のために建立したもので,碑面には次の七音絶句が刻まれている.
上州人無智亦無才
剛毅木訥易被欺
唯以正直接万人
至誠依神期勝利
これを大雑把に和訳すれば,こんなふうになるだろう.
「上州人は無智で無才.
頑固で,ぶっきらぼうで,人に騙され易い.
誰に対しても,ただもう正直に接している.
誠意を尽くせば,神風が吹いて,勝つだろうとばかり思っていた」
――山口正二著『聞書き五代目古今亭今輔』(青蛙房(せいあぼう),2003/7/5),p.62-63
【回答】
これは高崎市宮元町の頼政神社にある,内村鑑三の『上州人』の漢詩碑のことではないでしょうか?
内村鑑三は1930年に亡くなっていますので,そもそもこの詩は太平洋戦争とは関係ないものだと思うのですが.
一方,吾妻郡中之条町にある,おろかもの之碑(これが正式な名称のようです)の碑文は以下の通りです.
昭和十二年七月七日ノ支那事変ハツイニ昭和十六年十二月八日大東亜戦争トナル日本ノ運命ヲ決スル危機ニ際シ我々ハ当時ノ職務上或イハ一方的委嘱状ニヨッテ一律ニソレゾレ大政翼賛会翼賛壮年団在郷軍人会ノ郡町村責任者トナッタガ敗戦後占領政策ニヨリ其ノ職ニ在ッタ者ハスベテ戦争犯罪人トシテ昭和二十二年二月ヨリ一切ノ公職カラ追放サレタ本意ナキ罪人ハ互ニソノ愚直ヲ笑イ合ッタ昭和二十六年八月全員解除サレルヤあづま会ヲ設立シテ今日モナオ旧交ヲ持シ郷土吾妻ノタメニ聊ノ報恩ヲ期シテイル創立十周年ニ際シおろかものノ実在ヲ後世ニ伝エ再ビコノ過チヲ侵スコトナキヲ願イ卑名ヲ下記ニ連ネテ碑ヲ立テル
昭和三十六年十二月八日
あづま会建立
というわけで,勝利を信じていた人々がいたというわけではないようです.
出典は以下のサイトより.
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/shimin14shishahabunnretu.htm
碑文の全文,とあるのでまず間違いはないのでは,と思います.
当人が見てきたわけではないのでアレですけれども……
「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ サイト・マップへ