m

AA

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップページへ戻る

◆◆日本降伏関連
<◆通史
アジア・太平洋方面
<第2次世界大戦FAQ


 【Link】

「YouTube」:敗戦の詔勅 (玉音放送) 〜完全版〜

開戦と終戦

玉音放送の内容

音声(2194kb)

「有末機関長の手記 終戦秘史」(有末精三著,芙蓉書房出版,1987.11)

『終戦日記』(大佛次郎著,文春文庫,2007.7)

 単なる流行歴史物の作家かと思っていたのですが,意外に菊池寛みたいな存在だったのですね.

 吉田茂とか岸信介と言った外交官や官僚,政治家,新聞記者,軍人から,笹川良一とか児玉誉士夫と言った連中まで,その日記の中には出て来ます.
 そりゃ,こんな連中と絡んでいるのだから,敗戦直前まで何だかんだ言っても,毎日晩酌が出来る筈ですわな.

 原爆についても,いち早くその存在を知り,原爆の原理とか被害の実相などもその日記に書いていたりするので,彼方此方にアンテナを張っていたのでしょう.
 また,ポツダム宣言受諾についても,新聞記者や岸信介などから情報を入手し,人心安定の為に,何度も新聞に投稿したりしています.

 戦後は戦後で,東久邇宮内閣の内閣顧問なんかにも就いています.
 その中でも彼が注力したのは,東京六大学野球の復活.
 戦後直ぐに,大部分の人々が虚脱している中,精力的に動き回っているのが印象的です.

 とは言え,宮様内閣は10月に退陣すると,結局彼も政治の世界から身を引き,その後は小説作りに没頭する訳ですが.

 巻末には,作品を読んだ子供達に宛てた書簡が掲載されています.
 子供であっても,感想文を送ってくる子供達にはとても優しい小父さんで,その手紙は慈愛に溢れています.

 尤も,日記を書くと言うのは余程暇がある人でないと,あの当時は難しいと思いますけれどもね.
 なかなか読み応えのある本でした.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月21日

「終戦秘史」(下村海南著,講談社学術文庫,1985.8)

『第2次大戦に勝者なし』(A. C. ウェデマイヤー著,講談社学術文庫,1997.7)

『本土決戦』(学研,2007.9)

「戦争は,それを終わらせるにも犠牲を求める恐ろしい行為なのである.」(P.137)
 太平洋戦争末期,米軍の本土上陸を迎え撃つ為,残された戦力と国力を根こそぎ動員して策定された「決号作戦」.
 陸海軍の作戦準備とその間おこなわれた終戦工作,そして当時の日本の国力や「大東亜共栄圏」に関する考察などを纏めた一冊.

 興味深い話が多くて面白いのですが,読んでて夢も希望も無くなる話でもありまして.(「虚構戦記研究読本」とタメを張れます)

 P.122に陸軍の特殊攻撃機「剣」のイラストと,TBMアベンジャーをベースにした早期警戒機とボルティモア級重巡,九州で小銃の代替品として民間人に配布した木製のボウガンの写真が,一緒に紹介されてるのですが,もうねなんというかね.
「鹵獲ウォッカか機械洗浄用エタノール持って来い!オットー満タンだ!」
わははははははははははははは(壊笑).

戦争末期の実態や終戦工作の実態,戦争を終わらせる事の難しさを知ることのできる,お勧めの一冊です.

―――グンジ in mixi,2007年12月31日14:30
絶版のときは↓

 【質問】
 日本軍はマリアナ沖海戦で破れ,サイパン,テニアン,グァムが落ちた時点で何故,降伏し講和条約を結ぶような政策をとらなかったのですか?
 調べたところでは,B-29の存在は知られており,この敗退で本土空襲に晒されるのは明白だったそうですし,無駄な戦いや犠牲を避ける意味でも,この辺りで講和を結ぶべきだったと思うんですが.

 【回答】
 連合国側の事情を言えば,ウェデマイヤー著「第2次大戦に勝者なし」(講談社学術文庫,1997.7)によればチャーチルとルーズベルトが無能だったから.
 無条件降伏など要求しなかったら早期講和が可能だったはずであり,ソ連の牽制にもなって冷戦そのものもなかったはずだとしている.
 ナポレオン戦争と第一次世界大戦を比べても,民主主義は戦争には強いが,戦争の理性的解決には不向きだとわかる.
 激高した民衆がいかに困ったものかは日露戦役で経験ずみ.

 もっとも,米国側にしても,フィリピン等の植民地を押さえられた状態での講和を受け入れるのは困難でしょう.

 一方,日本側の事情を言えば,講和と言うのは負けている側から切り出す場合,それ相応に不利な条件となるのは当然ですし,国民は未だ日本が勝っていると信じ込まされており,更にさほど大規模な戦闘を経験していない陸軍が講和を受け入れるとは考えられませんでした.
 「日本」と簡単に一言で言っても,意思決定に国内の複数の組織や人間の考えが絡んできて,単純に決定を下せるものではありません.

 その後の戦いの惨禍や犠牲が結局は空しかったという考え方は,全て戦後に生きる我々だからこそ可能なものであり,それをもって,
「あの時戦いをやめていれば」
と軽々に考えるのは,後世に生きる我々の傲慢と言えるかも知れません.

     〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ!無条件降伏ヤダ〜!武装解除ヤダヤダ!
       `ヽ_つ ⊂ノ    料亭に行けなくなるのヤダヤダ〜!
                ジタバタ
      _, ,_
     (`Д´ ∩ < 本土決戦やらないとじゃないと,ヤダヤダ!
     ⊂   (     陸軍負けていないのに,無条件降伏ヤダ〜!
       ヽ∩ つ  ジタバタ
         〃〃
             (ヨ
    〃〃∩  _, ,_ ノノ キィィィ 海軍だけ降伏しる!陸軍降伏ヤダ〜!!
     ⊂⌒(#`Д´)illi   < ヤダヤダヤダヤダヤダヤダ!!
       `ヽ_つ⌒ヽ(ヨ) (     ヤダヤダヤダヤダヤダヤダ!!
            ⌒Y⌒ ドンドン

       ∩  _, ,_
     ⊂⌒( * ゚∀゚) <天皇制存続なら降伏イイ!
       `ヽ_つ ⊂ノ

          _
         ,:': : : : ヽ
        iュ: : : :ィュ:i} 無条件じゃないだろ,コラッ!
        |:i: : :-:i::i/
         /イニ.ソノi
      // - /:/.}!       i})ポン!
        iハ__イ:f. |____、 /
     /    ,r|. |‐┴〆   _,、_ '⌒☆
     !ニニ= -イ__|. |     ∩`ロ´)叩かれるのヤダ〜!
      |_ヽ ヽ厂 二i¬,   (_-、 C
    / ハ_i´ト、二_ノ r- }     i_ノノ
     ̄ └'――┴‐'´


 【質問】
 もし日本がその時に降伏しないで本土決戦の道を選んでいたら,もっと有利な条件で講和ができたのでは?
 理由は
 日本は更なる原爆投下を恐れてたけど,実際には3発目の原爆はまだ無かった.
 シナ大陸には100万を超える帝国陸軍がいたので,本土に退却して戦えた.
 ソ連の参戦については最強の関東軍がいたので殲滅できる.
 実際に占守島ではソ連軍を殲滅して上陸を許さなかった.
 日本本土については来たる本土決戦に備えて各地で要塞化して陣地を築いてた.
 近衛師団などの最精鋭部隊も無傷で残ってた.
 国民の戦争に対する士気も高かった.

 【回答】
 近衛師団は一部をフィリピンへ送っている.
 関東軍も,中核部隊と装備は本土と南方へ送ってしまっていたので,戦闘力は形骸化していた.
 実際問題,満州戦ではごく一部の部隊以外,一日で蹴散らされて終わっている.
 日本本土の要塞化も,資材不足,時間不足で不十分だった.
 多くの本土防衛部隊は,根こそぎ動員で集めたロートルなどで,装備も劣悪だった.
 国民にも,食糧その他の不足から厭戦ムードは高まっていた.

 もし本土決戦を行っていたら,米軍には莫大な損害を与えられたかもしれない.
 その代わり,それは九州や関東等の失陥と引き換えだ.
 北海道は最善でも半分はソビエト占領域になっているだろうし,それこそ京都も含めて日本からは「都市」は全て消滅しているだろう.
 既に原爆の3発目は用意されてるし,残りも生産中で,数ヶ月でかなりの原爆がそろう公算だった.
 原爆が落ちなくても,首都とその周辺は瓦礫とクレーターの原っぱと化してるだろうし,何より「国民」のうちどれくらいが生き残っているやら・・・と言う状況になる.
 工業地帯と商業地域はほぼ消滅し,農地も荒れ果てて塩も自前では作れない.
 はたしてそんな国が講和に成功したところで,その後どうなるのか?

 君が戦後の日本の繁栄を肯定するなら,上記のような様相をどう考える?

 「日本本土決戦はなかった.
 なくて幸いだった.
 もしあったのなら,あなたも私も今ここにいなかったかもしれない」

「本土決戦はなかった
なくて幸せだった
もし起きていたら
私もそしてあなたもいなかったかもしれない…」

 −小林源文−

軍事板
k in FAQ BBS(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 本土決戦では日本軍はどんな作戦を立てていたのか?

 【回答】
 『本土決戦』(学研,2007.9)によれば,決号作戦において,それぞれ
●陸軍:
 水際防御を放棄して,沿岸部の丘陵地帯に主抵抗陣地を設けて砲爆撃を凌ぎ,内陸進出を阻みながら重砲による砲撃で,敵の消耗と上陸拠点の設定を妨害(橋頭堡破壊射撃).
 この間に背後の攻勢準備築城地帯に,砲兵を伴う打撃部隊を結集.
 砲兵の支援の下,一気に海岸に突入する.
●海軍:
 全ての戦闘を特攻で行うことを基本とし,実用機のみならず練習機や特攻専用機による特攻攻撃で,上陸船団や機動部隊を攻撃.
 さらに洋上では,潜水艦部隊による攻撃(人間魚雷「回天」による攻撃を含む)や,泊地では特殊潜航艇や震洋,伏龍などの特攻戦隊による特攻攻撃および軽快艦艇による夜襲.
 陸上戦力としては陸戦隊を増強.
 他に護衛総隊は,日本海の対潜哨戒や掃海に重点を置き,航路保護に全力を尽くす.
とあります.

 が,陸軍では
・劣悪な道路事情(打撃部隊の速やかな集結が望めない)
・砲兵の劣勢(観測通信能力が低く,射撃に効果が望めない)
・沖縄戦などの戦訓(上陸されてしまえば航空観測と長距離重砲によって全縦深が制圧される.決号作戦は硫黄島,沖縄戦の前に策定された)
などの理由で,結局は水際防御に回帰してしまいます.
(水際防御なら,歩兵同士の戦いに持ち込める可能性が無くも無い)

 また海軍は海軍で,特攻戦隊の指揮官同士で装備を奪い合っており,そもそも上層部が終戦工作に関わっており,決戦準備も「表向きのポーズ」でしかありませんでした.

 さらに陸海軍ともに軍紀・風紀の低下が凄まじく,それが水際防御への回帰の理由(部隊へのカンフル剤)や徹底抗戦派への説得材料になっています.(P.20〜31,84〜106)

グンジ in mixi,2007年12月31日14:30


 【質問】
 天皇の首都脱出用地下トンネルは実在したのか?

 【回答】
 しません.
 かつて郵便地下鉄があったトンネルが,噂などによって誤って伝えられたと思われます.

***

 2007年は地下鉄開業80周年でした.
 ところが,日本最初の地下鉄は,それより遡る事12年前に存在していたりします.
 尤も,人を運ぶものではありませんでしたが.

 1908年から,首都に相応しい玄関口として建設が開始された東京駅は,1914年12月20日に開業しました.
 その東京駅に運ばれてくる郵便物は,今の東京中央郵便局の中にかつて存在していた東京鉄道郵便局で扱われることになっていた為,東京駅と東京鉄道郵便局構内を結ぶ地下鉄道を,1914年8月に建設開始し,1915年5月23日に開通させた訳です.

 この地下鉄道は,郵袋を搭載した三輪車を貨車に直接載せ,電気機関車の牽引によって運んだものです.
 線路は複線,架線集電による本格的な設備を整えた電気鉄道でした.

 機関車の数は5両で,1号車〜5号車と名前が振られており,集電は4号機だけパンタグラフ,残りの機関車はビューゲルに似た:装置が取付けられていました.

 この郵便地下鉄は,画期的な設備だったのですが,その設備を軍需に転用する為,1940年に廃止し,施設を撤去してしまいました.

 しかし,このトンネルの一部区間,丸の内南口から八重洲南口の手前までの区間は,今でも駅職員専用通路若しくは車椅子利用者の専用通路として整備,利用されています.
 この部分は,通称「赤煉瓦通路」と呼ばれ,高さ,幅とも5m,イギリス積で作られた蒲鉾形断面煉瓦のトンネルで,東京駅の真下に位置しています.
 残念ながら,赤煉瓦駅舎の丸の内南口から東京中央郵便局の地下区間や,東京中央郵便局の地下に設けられたプラットフォームは完全に埋められ,痕跡が無くなっています.

 この地下鉄道の存在が,後に様々な憶測を呼び,未だに天皇の脱出用経路だとか,ソ連並みの秘密の地下鉄があるとか言われている訳です.
 因みに,東京中央郵便局の地下ホームについては,埋められたと言われているだけで,本当にそうなのかは実は良く判っていなかったりするのですがね.

 だからって,陰謀論,イクナイ

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008年01月12日20:57


 【質問】
 松代大本営計画の始まりは?

 【回答】
 別項では宮内省側からの玉体御動座の計画について触れた訳ですが,松代大本営計画の出発点は,これとは全く違う,軍の視点で考えられた計画でした.

 1942年以後,「絶対国防圏」が設定され,其処を突破されたら,東京を含む大都市への空襲は避けられない情勢になります.

 1944年,陸軍省軍事課予算班にいた井田正孝陸軍少佐は,熟考の挙げ句,東京への空襲が始まると大本営は真っ先に狙われるであろう,指揮系統を守る為には,大本営を安全な所に移すのが一番であると言う結論に達し,陸軍次官,富永恭次の所に建言書を持って行きました.

 陸軍省の軍事課予算班と言う部署は,軍事予算の大綱を立案する部署ですが,同時に軍事施設の計画立案も担当している所でもありました.
 大本営の安全確保は,彼の職掌でありましたので,彼が建言書を認めた訳です.
 但し大本営の移転と言う事は,同時に天皇陛下の御動座も行われるという事になります.
 それ故,彼は熟考を繰り返したと言います.

 彼の建言書には,大本営の移転場所としては,八王子もしくは浅川方面が適当とされていました.
 彼の考えでは,この辺りは山がちで,地下施設も造りやすく,東京に近いと言う理由での選択でした.

 こうして彼の苦心の作は,富永次官に説明する機会を与えられたのですが,「考えておこう」の一言で,其の儘捨て置かれ,長く留め置かれています.

 漸く彼の提案が受容れられたのは,冬が来て,春が去り,夏に懸ろうという5月のこと.
 戦局が緊迫化すると共に,彼の建言書は日の目を見て,大本営移転計画の採用が決まりました.
 但し,井田少佐の提案した,八王子,浅川方面案については,富永次官は却下します.
 八王子は山の中には違いないが土地が狭い.大本営の機能を全て収納するのであれば,もっと広い用地,例えば信州辺りが適当ではないか,と言う訳です.

 富永次官は,命令系統を飛ばして直接井田少佐に極秘命令を与え,信州での適地捜しを行わせる事にしました.

 井田少佐は参謀本部の地図を出すと,適地の検討を行いました.
 本来,こうした仕事は築城本部が担当する仕事ですが,彼等は,前線,特に島嶼部に派遣され,要塞や防御陣地造りに当っており,築城本部に有為の人材は全くと言っていい程居なかったので,結局,築城本部は宛てにならず,井田少佐は,兵務局防衛課の黒崎貞明少佐と,兵務局建築課の鎌田隆男建技中佐の2名に協力を求める事になります.

 黒崎少佐は,井田少佐の同期(陸士45期)であり,防衛課の職務は国内防衛が主任務で,非常事態の際は戒厳令を発令する部署です.
 また,防衛課は憲兵隊の人事行政権にも関与しており,防諜上からも有利でした.
 更に,井田少佐と黒崎少佐は親友だった事もあります.
 一方の鎌田建技中佐は,東大工学部出身の建築の専門家であり,部内の信用も厚く,口も堅いと言う事で仲間に引き入れる事にしたもの.

 彼等三人は信州の地図を詳細に検討しますが,地誌が実際に判らないと言う事で,隠密に現地視察をすることとなります.
 当然,軍服は脱いで,地方人の格好をし,混雑する三等車に乗り,長野に向かいます.
 長野で下車した三人は,憲兵隊に顔が利く,黒崎少佐の地位を利用して,長野憲兵隊に赴き,その隊長を誤魔化して木炭車を1台借り受け,移転地捜しを本格的に行う事になります.

 当時考えられていた大本営の最低限の条件は以下の様なものでした.

 1. 大本営は,宮殿も含め,空襲に備え地下に設ける必要がある. 
即ち,岩盤の固い所が望ましい.
 2. 大本営には連絡の為に,鉄道と通信施設が必要だが,これらが空襲で分断されても良い様に,付近に飛行場を確保する必要がある.
 既設のものがあれば,それを流用するが,無ければ用地の確保が必要となる.
 3. 本土空襲による建設物資供給の停滞や輸送路の途絶などが予想され,工事の進行をスムースに行う必要があるので,難工事となって時間を掛けるのは許されない.
 4. 天皇陛下の御動座が必要なので,周辺の環境にも配慮を払う必要がある.
彼等は,諏訪盆地から天龍川に沿って南下し,飯田まで下っていな地方を駆け巡り,今度は松本から上高地まで足を伸ばします.

 上高地は適地ではあったのですが,用地確保と地理的に不便すぎ,物資の輸送に困難を来すと言う理由で不採用となり,1週間の予定もどんどん日が過ぎていきました.
 善光寺付近は市街地に近すぎて,機密保持の観点から難点を抱えました.

 そして,万策尽きたかと思った際に,彼等が思い出したのが,戦国時代戦略の要衝であった川中島でした.
 彼等は,その川中島周辺に最後の望みを繋げ,松代に向かいました.
 そこで,彼等が見たのは,松代町南西に聳える象山であり,此処に露出する岩の状態も申し分ない.
 彼等は,期待を掛けて,更に地誌を検討する事になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/12 23:46

 3人は,長野の松代に大本営の移転地を見つけた訳ですが,象山を中心にして,大本営と政府機関を其処に,行在所を隣の白鳥山に,又は皆神山に,通信隊を何処に置くかなど種々検討しました.
 実際に大本営が移るとすれば,大本営,参謀本部要員,天皇陛下と皇族方,宮内省の要員,政府関係者,天皇御動座ならば,近衛師団も移転.
 そうなると,人員は1万人を越える.
 単身で移る人も少ないから,家族用の住居も必要.
 それに食糧や武器弾薬を保管する設備,通信設備,航空隊の基地…
 揃えるものは一杯ありましたが,それを報告書にして井田少佐は,富永次官に報告しました.
 富永次官は,引き続き,彼等に調査を命じます.

 陸軍築城本部は開店休業の状態で,1944年12月には解散となっていた為,それに代わって地質調査などや建築見積もりを行ったのが,トンネル工事に通じていた運輸通信省鉄道総局でした.
 彼等は戦前から戦中のある一時期まで,東京〜下関に弾丸列車を走らせる計画を持っており,それによって蓄積したノウハウが大きなものになっていた為です.

 移転計画は,陸軍省から運輸通信省に内密に持ち込まれ,担当になった鉄道監稲葉通彦氏が,井田少佐,鎌田建技中佐の案内で,1944年夏,現地に避暑客を装って調査を行います.
 その結果,象山は岩質は固く,掘りにくい.
 その代わり頑丈なものが出来ると言うお墨付きを得る事が出来ました.

 こうして,計画は計画段階から実行段階に移りました.
 陸軍省建築課の鎌田建技中佐と,伊藤節三建技少佐などの面々が,地方人に化して,長野に向かいました.
 伊藤節三建技少佐は,東大工学部の後輩で,彼等を中心に設計作業に当る事になりました.
 間もなく,鎌田建技中佐は,課長代理に昇進し,業務多忙となった為,設計は伊藤建技少佐を中心に行われる事になります.

 7月中旬,伊藤建技少佐は,設計書を完成させ,兵務局長に提出しました.
 兵務局長は,大本営の移転に関わる事だからと,陸相にお伺いを立てる事になりました.

 その陸相,メモ魔,上等兵などと陰口をたたかれていた東条英機です.

 元々の井田少佐の構想では,大本営と政府機関を象山に,行在所を皆神山に造ることになっていました.
 しかし設計段階では,象山の地質が固く,工事が難航することが予想されたことから,大本営は皆神山に,象山は政府機関だけとし,それも掘削するトンネルは2本だけなので,最小限の政府機能だけを移転させる事にして,大本営の移転を優先し,政府機関は,大本営移転後にゆっくり考えようとします.

 これに東条はカチンと来ました.

 君,これはどう言うことなんだ?
 今度の計画は単に軍の移転を目的としたものじゃない!
 日本の政府が東京から松代へ移すことを目的としたものだ.
 我が国は軍政下に有る訳ではない.政府も一緒に移るのだ!
 大本営や行在所は書いてあるが,政府が無いじゃないか.直ぐ書き直し給え!
 丁度,時期はサイパン島の失陥があり,東条総理が約束していた絶対国防圏が崩壊し,重臣の間で東条打倒の動きが活発化.
 東条総理への国民の人気もいよいよ下降線を辿っていました.
 こうした中で,出て来た大本営移転案.
 これに政府機関がないのが,更に火に油を注いだ訳です.

 結局,伊藤建技少佐は再設計を余儀なくされたのですが,その数日後,やり直しを命じた当の東条英機は失脚してしまいました.

 もう少し待っていれば,松代大本営の姿は変っていたのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/13 23:38


 【質問】
 松代大本営って,施設は文字通りオール地下ですか?
 地上部分は一切なし?

 【回答】
 地上施設もたくさんあった.
 天皇陛下はじめ皇族の居住区は,普段は地上にあった.

軍事板

▼ 戦後の1947年10月12〜14日,昭和天皇は長野県を巡幸されました.
 この時,善光寺裏の展望台に立たれた陛下は,当時の長野県知事林虎雄に,「戦争中,この付近に『ムダ穴』を掘ったそうだが…」とご下問になったとか.
 『ムダ穴』と言うのは,陸軍が,海軍や内務省,宮内省はおろか,天皇陛下にも極秘で進めた「マ計画」,つまり,松代大本営の事です.

 その建設に関しては,労務動員の話の後で追々触れていくとして,1945年8月15日現在,象山の地下壕は90%完成していました.
 大本営の移転は,当初計画では7月15日から徐々に移転し,8月15日移転完了の予定でした.
 1945年4月中旬から陸軍大臣と参謀総長が殆ど同時に大本営移転準備命令を出し,これに応じて物資を長野に移集積すると共に,各部署でも移転が準備されることになりました.
 この為に,国土防衛軍の組織変更を行った際,各地の師団は師管区司令部となっていたのが,長野だけ新たに師管区司令部が設置されることになりました.

 8月15日には,昭和天皇も松代の地に御動座申上げる予定だったそうです.
 まぁ,昭和天皇にはその意志が無かったと言われ,だからこそ,冒頭の『ムダ穴』発言に繋がったのですが.

 結局,7月15日の移転準備は直前に中止されました.
 大本営だけが東京を棄て,信州の山の中に逃げ込む訳にいかないと言う至極まっとうな判断.

 5月中旬,東部軍経理部長の渦川正義中将が用地買収や地元民の全面協力を求める為,松代を訪れた際,ごく少数の地元有力者,即ち,町長,警察署長,郵便局長などに,
「松代の地下壕には『尊いお方』が来られ,松代は『大本営町』と町名が変り,警察は『大本営警察署』,郵便局は『大本営郵便局』になる」
と説明が為されました.

 6月16日には,阿南惟幾陸軍大臣が,陸軍省軍事課長荒尾大佐,建築課長吉田大佐を伴って飛行機で長野入りし,長野市管区司令官平林盛人中将と共に松代を訪れています.
 その際,平林中将は,硫黄島で玉砕した栗林忠通大将の出身地について話します.
 奇しくも栗林忠通大将の出身地と言うのは,その松代大本営が築かれた埴科郡西条村宇欠にあります.
 この時,阿南陸相は,感慨深げにその風景を見入った後,
「栗林君は松代の出身と聞いたが,あの部隊長がどうやって自決したのだろう.
 ピストルか,それとも自刃だろうかね」
と独りごちたそうな.
 そして,視察が終わって洞窟から出て来た時,
「平林君,陛下がこの大本営や御座所を使用なさることなく戦争が終われば結構だがね.
 そのとき,私共はかくまで準備しました,と言って,一度陛下の行幸をお願いすることですね」
と言われたと言う.

 前者の言葉と言い,後者の言葉と言い,非常に意味深な言葉だった様な気がします.

 更にもう一度,敗戦直前に阿南陸相は松代を訪れています.
 但し,敗戦の混乱で正確な時期は判っていません.
 ただ,8月に入って4日か5日頃と言われています.
 今度も上田まで空路で入りますが,今回はお忍びの視察だったので,出迎えは建設部隊責任者の加藤建技少佐だけ.
 阿南陸相の服装も,国民服に赤い長靴を履き,真っ白なハンチングを被っていたそうな.
 彼は上田から松代まで木炭車に乗って行きますが,その際,阿南陸相は加藤少佐に,
「諸君には大変御苦労を掛けたが,どうやら松代のこの施設は,使用する必要が無くなるかも知れないね」
と述べたと言います.

 徹底抗戦派と言われていた彼が,こんな言葉を述べるのは,実は彼は非戦派だったと言えるのではないかと思ってみたり.
 その言葉を裏付ける様に,8月12日,政府機関の移転に関する最終打ち合わせが松代で行われることになっていましたが,その会議は急遽中止となります.
 そして15日には玉音放送,6月に「ピストルか自刃か」と言っていた阿南陸相は自刃を選び,初期の混乱を除けば,何事もなく日本は降伏することになりました.

 長野に進駐した進駐軍は逸速く松代大本営を抑えますが,この施設は既に集積した物資と共に人っ子一人とてなく,「皇居」とて例外ではなく,調度品や建具は持ち去られ,廃屋同然の施設と化していました.
 その建設の為に二束三文で借り上げた土地や建物には借り上げ料が支払われ,強制的に買い取られた土地や建物に関しては,買い上げ値段の45〜55%で払い下げられました.
 しかし筒井地区の4軒だけは,既に建物が跡形もなく取り壊されたので,戻ることが出来ませんでした.
 また,強制的に買い取られた家も,屋根だけ残して中は随分手が入れられていたそうです.

 一方,半島から徴募されてきた朝鮮人労務者は2,000人程いました.
 工事を担当した西松組は,彼等を一刻も早く帰そうと県庁始め官庁の間を奔走しますが,一向に埒があかず,遂には職員を新潟,下関,博多に派遣,漁船から何から使えそうな船をヤミ船として手配し,冬までに帰国させる手筈を整えます.
 因みに彼等には,1年間の労働手当の他,250円ずつを帰国支度金と言う名目で支払ったそうですが,実際に支払われたのかは記録が残っていません.
 こうした誠意が伝わったのか,松代では日本人労務者達と朝鮮人労務者は互いに手を握り合いながら,
「良い時代になったらまた松代で会おう」
と言って別れ,トラブル一つ無く残務処理が終わったと言います.
 ただ100人程は,戦前から日本に渡り,既に帰国する場所とて無かったので,残留しています.

 この松代大本営が国民の前に公表されたのは,1945年10月26日,信濃毎日新聞の報道に依るもので,27日には読売報知が全国紙として報道しました.
 当時は2頁のタブロイドなのに,その1面半分を使ったスクープ記事でした.
 この記事は,海を渡って海外でも反響を呼び,各国の東京特派員は挙ってその記事を配信,Matsushiroの名は世界に響き渡りました.

 こうして国民の前に姿を現した松代大本営ですが,戦後,大蔵省はその扱いに苦慮しました.
 それこそ「ムダ穴」だったからです.

 最初に松代に駆けつけた米軍将校曰く,「マッシュルームの栽培に適している」と言ったそうな.

 その頃,屋代中学で教員をしていた長谷川五作と言う人がいました.
 彼は,長野師範卒業後に小学校教員となり,小学校時代には蚕や野菜を材料にメンデルの法則を証明したり,玉蜀黍,鷺苔,卯木などの交配で突然変異の研究に勤しんだりしました.
 その後,中学校教員の免許を取得し,中学の先生となります.
 そして,鳩,狸,山椒魚,馬などの動物のメンデリズムの研究や超電波の生物細胞に及ぼす研究などを行い,1923年からは茸の人工栽培に取りかかり,1931年に榎茸の瓶栽培に成功するも,農民達には冷笑され,軍部からは睨まれる有様でした.

 しかし敗戦後,彼は松代大本営の「ムダ穴」に着目します.
 これは榎茸栽培に理想的な場所で,早速村民を説得し,この地下壕暗室で松代,西条などの農民を指導しました.
 その甲斐あって,長野県特産課もこれに着目,農家の副業として積極的に栽培を奨励,指導し,1953年には23トンの榎茸を産出し,これは冬の農閑期での現金収入の道を見出すものとして,奥信濃の飯山,中野地方の農民に歓迎されました.
 10年後には500トンの生産を挙げ,冬期の出稼ぎを一掃しました.
 因みにこの榎茸,最初は「なめたけ」と呼ばれていましたが,長野県特産課長の清水雅敏が「えのきだけ」と命名して売り出しました.
 正にこの榎茸,大本営の落とし子だったりします.

 もう一つ,大本営の落とし子がありました.

 当時長野測候所長の北沢貞雄が,この施設を知り,地震観測所として活用することを中央気象台長の藤原咲平に進言したのです.

 藤原咲平は,諏訪の出身で松代の事情にも詳しく,松代が本州中央部に位置し,太平洋や日本海からも遠く,鉄道,自動車,工場などの雑新藤も少なく,地球物理学的な精密観測を行うのに適していると判断,更に山頂から100m下の地下に東西南北縦横に刳貫いた地下坑道は,絶好の観測場所と考えました.
 彼は,「日本はもとより,他国の為に役立ち,戦争で全世界から『村八分』にされている日本が再び国際社会の一員として見直して貰えることになるかも知れない」と考え,松代に調査団を派遣しました.

 1946年4月25日,調査団一行は松代に向かいました.
 中央気象台地震課長の鷺坂清信,地殻物理研究室長井上宇胤と職員諏訪彰の3人の調査団は,北沢と共に西条村役場を訪れ,地元関係者の案内で地下坑道や坑外のT号室など皇居予定地を見て回りました.
 この調査の結果,松代の坑道は坑道壁が堅固で崩れにくく,湧水も乏しく,一年を通じて乾燥し,ほぼ恒温恒湿であると条件を満たしており,藤原台長と,総務部長の和達清天は,監督官庁の運輸省を説得し,大蔵省と掛け合って,1947年5月1日,大本営跡は「中央気象台松代分室」となり,1949年6月に「地震観測所」となりました.

 当初はウィーヘルト地震計,ガリチン地震計,1トン長周期地震計,短周期上下動地震計と地殻変動測器で観測が行われていましたが,1957年,地球観測年と言う事で,ペニオフ地震計が設けられました.
 これにより一躍,松代は国際級の地震観測所としてクローズアップされ,米国は1965年,沿岸測地局の世界標準地震計(WWSS)を松代に設置し,日本唯一の国際協力地震観測点として歪地震計の観測も開始されました.
 こうして松代の地は,国内はもとより,海外の小さな地震でも観測出来る能力を持ち,折からの地下核実験の地震波探知にも成果を上げています.

 一方,この地は1965年8月3日から「松代群発地震」の震源地として有名になりました.

 1980年までにこの観測拠点では,723,188回の地震を隈無く観測し,地震予知の原動力ともなりました.

 当時の松代町長中村兼治カは,
「物,金より地震の学問,研究が欲しい」
と言って,中央の陳情のたびに力説.
 当時も今も,地方自治体の首長は政府から金やハコモノを持ってくるのが仕事と言われているのに,こうした姿勢は中央でも支持を呼び,また,当時の佐藤栄作首相の胸に響き,1967年2月6日,地震観測所内の旧大本営宮内省舎予定地だったV号舎に松代地震センターが設置されました.

 戦時中の「ムダ穴」は,戦後,様々な成果を上げた訳です.
 今の「ムダ穴」ならぬ,無駄な「ハコモノ」は一体どんな成果を挙げているのでしょうか?

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/06 21:55

 そう言えば,松代大本営の仮行在所の建築に携わったのは,陸軍工兵なんかだったのですが,その中心に居たのは何と一等兵だったそうです.
 その一等兵,当時,東京大学工学部助教授を務めていた人で,1943年に二等兵として召集を受け,近衛工兵第2部隊に配属されたのですが,珍しく「鉄砲担がせるより専門分野で使った方が国の為」として,硫黄島進出前に外されて靖国神社地下宮建設工事の担当になったそうです.

 でもって,松代に配属されたのですが,其処の工事主任の大尉は東大の6年後輩で,答案の採点をした学生で,着任当日から大尉に「先生,先生」と呼ばれ,彼を中心に建設工事が回っていたそうな.

 適材適所なのか何なのかわかんなくなりますね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/06 22:05


 【質問】
 松代大本営の工事は,どのように行われたのか?

 【回答】
 前に東条「陸相」に突き返された結果,再設計を実施し,松代大本営案は,東条内閣辞職後1ヶ月後に,杉山陸相に再提出することになりました.
 その概要は,当初案に比べると相当規模が大きくなります.

 工事地区としては「イ」〜「ト」まで7地区に分かれます.
 「イ地区」は,象山を中心とした所で,山に東西に20本の隧道(本坑)を掘削し,これを5本の連絡坑で結ぶものであり,この中には政府機関1万人を収容します.
 「ロ地区」は,象山の南東,白鳥山に3〜5本の本坑を南北に貫通させ,これを6本の連絡坑で結ぶもので,この中には大本営を収容し,本坑奥深くに御前会議用の部屋を作ります.
 行在所は東寄りの山腹にはめ込み式に設置し,その一部を露出させて3棟建築し,これらは何れも地下道で連絡させます.
 収容人員は,宮内省,大本営合わせて2,000人.
 「ハ地区」は白鳥山の東北方にある皆神山に東西2本の本坑を貫通させ,此処には皇族方をお迎えする.
 「ニ地区」「ホ地区」は,松城町から北東20kmの雁田山,鎌田山の山麓に設置し,この場所は燃料庫とする.
 「ヘ地区」には,雁田山,鎌田山と並ぶ臥竜山に軍通信隊の隧道を設ける.
 「ト地区」は象山の西2kmの妻女山に一般政府機関を含めた通信センターの為の隧道を設ける.

 この設計案が杉山陸相によって承認され,東部軍司令官藤江恵輔大将に施工命令が出され,計画が動き始めます.
 開始は1944年夏の終わり,工事総括は東部軍ですが,実施は地下施設と言う事で,鉄道トンネル工事にノウハウを持つ運輸通信省が担当する事となります.

 東部軍は,経理部が工事担当となり,部長の渦川正義中将が,現場責任者として加藤幸夫建技少佐を任命,運輸通信省は,地下建設本部を設置し,本部長は鉄道総局長官の堀木謙三が兼務,本部次長には稲葉通彦が就任し,新丹那トンネルを建設していた熱海中央施設部が,そっくり松代に派遣されることになります.

 先ず,用地買収の手続きに入り,9月初旬に現地に入り数日で,約100名の地主を招集して軍の言い値で買収を通告.
 これは3,000人に及ぶ建設労務者の為の飯場用地で,10月初旬から早くも工事に入ります.
 建設は,東部軍所属の2個中隊200名,これに大工,左官,鳶職で構成される勤労報国隊が支援しました.
 この飯場を短期間で,米軍の目に触れることなく,資材を出来るだけ少なくする,と言う3つの条件を満たす工法が考えられました.
 松代大本営を設計した伊藤節三が思い出したのが,1943年に彼が発表していた三角兵舎です.

 三角兵舎というのは,骨組みは2本の柱を合掌式に組み合わせ,接点をボルトで締め付けただけのもの.
 これを地面の上に何組も並べ,骨組みと骨組みとの間に板を張る.
 これで,板と壁が一瞬のうちに出来ると言う寸法.
 内部は,中央の地面を縦に掘り伸ばし,其処を通路とし,両側を居住区とするものです.
 この掘った土を其の儘屋根に被せることにより,適度なカムフラージュとなり,米軍機の目を誤魔化せる….
 しかも,信州の厳しい冬には,屋根に少しの隙間もないので,僅かな採暖で保温効果を上げることが出来るので,寒冷地に向く工法とされています.
 元々,この三角兵舎は原始時代の日本で培われていた「天地根元造」と言うのと考え方は同じで,アッツ島を占領した際に野戦用に使用し,関東軍兵舎に採用されたもので,伊藤はこの功績で,1943年に陸軍技術有効章を受けています.

 こうして,飯場建築は2個中隊により,2ヶ月の工期の予定が僅かに1ヶ月と言う短期間で作り上げられました.
 飯場は,白鳥山麓の西条村に78棟(6,750m^2),皆神山東南方の豊栄村に30棟(2,201m^2),象山西方の清野村に135棟(10,400m^2)が作られています.

 建設部隊は,鉄道総局熱海建設隊の技術部隊100名がそっくり振り向けられ,手足となる建設作業員は,大手建築会社で鉄道工事部門を持っている会社を統制する為に作られていた鉄道建設工業を通じて,西松組に大本営工事を割り当てました.
 西松組は,内務省からの受注工事であった岩手県猿ヶ石ダム工事の労務者を松代に振り向けることとなり,職員,作業場の組頭130人に,朝鮮人労務者約500名,その家族約50名が飯場に入りました.
 因みに,この朝鮮人労務者は,後の強制徴募ではなく,自ら進んで日本に来た人々で,工事のエキスパートとなっていた人々.
 それでも,この大工事に足りない為,朝鮮から徴用労務者を先ず,2,000人,最終的に7,000人に達する労務者を朝鮮半島から富山経由で,松代に送り込んでいます.
 よく問題になる朝鮮人労務者問題というのは,この徴用労務者が発端になります.
 元々は「募集」−「官斡旋」と言う形式で本人了承の上,送り込んでいたのですが,その頃になると,必要数には間に合わず,最終手段として「徴用令発動」を実施します.

 この人集めの手段として,寝込みを襲ったり,田畑で働いているのをトラックに乗せたりして集団を仕立て,内地に送り込んだのが問題となっている訳です.

 10月に作業員が飯場に入りますが,この地域には未だに電灯線すら来ておらず,電灯線が来たのは1月後の11月中旬で,中部配電が象山と妻目山の山間に仮変電所を設け,35,000ボルトの高圧線を引き込んで,全長4kmの送電線を飯場や工事現場に引き込んでやっと機械類が使える様になります.
 その機械についても,無尽蔵である訳が無く,しかも,極秘工事なので,内容が説明出来ず転用もままならない状況.
 それでも,100馬力級コンプレッサーを20台ばかりかき集めます.
 とは言え,これが全てメーカーが違う為,寸法が異なり,部品が間に合わず,パイプ類は直径が違うので其の儘連結出来ない…正に無い無い尽しな訳ですが,部品類は国鉄長野工機部に日参して何とか作り出して貰い,パイプ類は細いのを束にするなどの創意工夫でなんとか使用できるようにしました.

 こうして,コンプレッサーの他,削岩機306,送気送水管4,400m,オイルファーネス16,加熱炉1,ポンプ3,巻揚げ機4,枕木2万石….
 つまり,機材で山をぶち抜くのは不可能であり,そうなると人力に頼る他は無かったのです.

 1944年11月11日,松代大本営工事の発破第1号が掛けられ,想像を絶する工事がスタートしました.
 以後,1夜で数百発の発破が鳴り響き,牛は乳を出さなくなり,鶏は卵を産まず,周辺の住民も不眠に苦しみ,人家の壁や土蔵の壁には大音響で亀裂が生じる程だったそうです.
 この発破は直径7分(約20mm)のものを2〜8本繋いで爆破させたものだけに,その音は「ハラまで響く」ものでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/08/18 21:14

 大本営工事ですが「イ」〜「ト」までの7地区の工事の内,「イ」「ロ」「ハ」の3地区の工事が優先的に行われました.
 作業員は,鉄道総局の松代建設隊と,西松組,朝鮮人労務者に加え,毎日,県内の勤労報国隊200人が参加し,総勢3,000名体制で行われました.
 作業は,3交代制を採り,1番方は7時から15時までの8時間,2番方は15時から23時,3番方は23時から翌日の7時まで….
 50年前の隣国や最近の某北方の隣国を笑えません.
 つい,63年前は日本でもこんな状態だったのですから.

 「イ」地区は,象山に掘削され,政府機関,NHK,電話交換センターが収容される予定でした.
 「ロ」地区は,白鳥山で,大本営を設置し,その奥に天皇の御座所を設ける.
 「ハ」地区は,皆神山で,当初計画では皇族方の住居となる予定でしたが,地盤が軟弱で食料庫に変更されました.

 作業員の割当としては,最も地盤が固く難工事が予想される「イ」地区に,総人員の60%を投入し,残りは,「ロ」地区に25%,「ハ」地区に15%を割り当てました.

 この山腹に穿たれたトンネルは,碁盤の目状に張り巡らされ,地図を持たずに中に入ると,先ず元の出入口に戻るのは不可能とされているほどの迷路でした.

 鉄道のトンネルと違うのは,鉄道のトンネルは入口があれば出口があるものですが,このトンネルは出口のないトンネルです.
 つまり,爆撃に遭って,入口に爆弾を落とされた場合,爆風が奥の壁に跳ね返って被害を拡大させる可能性がありました.
 そこで,その爆風を別の方向に逃がし,被害を最小限にさせる為に取られたのが,爆風坑の設置です.
 爆風坑は,山腹に弓形の半円を描いた様な穴を堀り,弓を握る部分から奥に向かって本坑を掘ると言うもので,片方の入口に爆弾が落ちても,その爆風は弓状に半円が描かれた爆風坑を通って,一方の口に吹き抜け,本坑に入ることは有りません.
 この爆風坑は全ての入口に設置されており,本坑の入口は,その中に入った所に作られていました.

 因みに,本土決戦で作られた様々な洞窟陣地も同じ様な工法が採られています.

 当初は,爆風坑を掘ってその後で本坑と言う工法でしたが,掘った岩石を運び出す上からも不便であり,結局,先ずは本坑を造り,本坑が出来上がった所で,爆風坑の外側の坑道部分を埋めてしまうと言う工法に切り替え,能率を上げることにしました.
 また,爆風坑からは,本坑が何本も放射状に穿たれ,本坑と本坑の間に連絡坑が掘られました.
 象山にはその入口だけで20カ所も掘られています.
 この中には政府機関が入る予定ですが,12省1院2局の政府機関を其の儘入れるのは不可能で,陸海軍省以外の10省を4省くらいまでに削減する行政改革の上,詰め込むことになっていました.

 本坑は20m間隔で東西に20本,本坑と本坑を結ぶ連絡坑は5m間隔で5本が掘られています.
 本坑の20本の内,16本は約200m,残り4本は約280mに及びます.
 本坑の幅は4m,天井は円弧形で,中央の一番高い所で2.7m,低い両端で2mもあり,小型車なら2台がすれ違うことが出来,総延長は約7,500mに達します.
 そして,その広さは約26,000m^2になり,大体東京ドーム2個くらいになるでしょうか.

 この工事を統括する為に,坑中には事務所が設置され,この場所から工事指令が流される様になります.
 また,工事進行後は,戻るのが大変なので,事務所内に宿泊施設が整えられました.

 象山だけではなく,白鳥山,皆神山合計では,本坑は31本で7,380m,連絡坑は17本で3,060m,爆風坑は15本で994m,後で埋められる捨導坑は31本で1,635m,総延長94本で16,069mに達します.
 大体,この長さだけでは,北陸線の北陸トンネルや上越線新清水トンネルに匹敵するくらいの長さです.
 北陸トンネルや大清水トンネルは,戦後のしかも,30〜40年くらい経った時点に開通したトンネルで,機械化も為されているのですが,完成までに2〜3年懸っています.
 しかし,松代のトンネル群は個々の長さは短いと言え,満足な機械力もなく,殆ど人海戦術で掘ったトンネルであり,これを10ヶ月で掘ったのは,正に,「苔の一念岩をも通す」でしょうか.

 その工事で掘り出した岩石は144,400m^3,有効床面積43,000m^2に達します.
 有効床面積というのは,天井上に被さっている土の厚さが30m以上の部分を指します.

 掘削工事は西松組が担当でした.
 しかし,1日平均1〜1.5mと言う掘削距離でした.

 そこで,1945年3月以降,熱海の東京鉄道教習所の生徒130名を動員します.
 この鉄道教習所と言うのは国鉄技術陣の養成機関で,俗に「国鉄トンネル学校」と呼ばれており,属しているのは高等小学校を出て国鉄に入った15〜18歳までの少年達でした.
 西松組とは知恵も体力も熟練度も全く比較にならない訳ですが,彼等は自分たちの学業と実習が一気に体得出来ると大張り切り.
 その作業ぶりは,西松組の労務者をも上回り,1日平均4〜5mと言う工事箇所が続出しました.
 この能率の良さに,作業現場は目を見張り,生徒には生徒同士で作業をさせ,生徒対抗の掘削コンクールを実施して作業を鼓舞します.
 その結果,1等の組は何と1日の掘削距離が12〜13mと言う,正に破格の記録を樹立したのです.

 こうした彼等の奮闘の甲斐あって,第1期工事の地下壕掘削工事は,「イ」「ロ」「ハ」地区で4月にはほぼ完成します.
 その掘削総延長は,13,069m.
 僅か5ヶ月での掘削工事であり,この掘削工事に動員された労力は延べ36万人に達し,正に人海戦術の賜物でもありました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2, 2008/08/19 21:34

▼ さて,4月にトンネルが曲がりなりにも完成する1945年3月23日,杉山陸相の名前で,東部軍司令官田中静壱に対して,「陸亜密第二四七四号,松代倉庫新設工事」が命令されます.
 建設場所は白鳥山の「ロ」地区で,陸軍省の計画通り,
1.天皇・皇后両陛下,
2.皇太后,皇太子,内親王殿下,
3.秩父宮,高松宮,三笠宮
の三宮の宮殿を建てることになります.
 後に計画は変更され,1. 天皇,2. 皇后,3. 宮内省となりました.

 この「倉庫」,工事実施部隊から東部軍経理部に届けられた資材要求の命令書には,「倉庫一棟,但し,檜の柾」と記されていました.
 勿論,これは本当の「倉庫」ではなく,皇居であることは間違いなかったりします.
 問題の「倉庫」は,白鳥山の南麓に建てられるもので,3つの「倉庫」は片側を山腹に露出しているが,大部分は山の中にはめ込み,其処から地下道が山の中奥深くに延びている様にしています.
 その「倉庫」は,東から天皇・皇后両陛下の御座所,皇太后,皇太子,内親王の御座所,三宮家の御座所となっていました.
 この工事だけは,鉄道関係者や西松組の手を使わず,軍の直轄工事となり,加藤建技少佐を工事長として,以下198名が従事し,吉田栄一建技大尉が工事主任で,部隊は工事班と庶務班,経営班と作業中隊が2個と言う体制でした.

 当然,この工事は極秘中の極秘であり,本土決戦では天皇の御座所の場所を知られてはならない.
 と言う訳で,西条村の入組,筒井両地区の全村立ち退きが要請されました.
 知事を通じての村長への協力要請は4月4日,村長としては大本営を作ることまでは知っていましたが,天皇の御動座が計画されている事までは知りません.
 4月5日,村民を西条国民学校に集め,立ち退きを通告します.

 正に,この立ち退きは住民達にとって青天の霹靂とも言うべき話でした.
 その範囲は,西条村山林全部602町歩(約600ha)の立入禁止,田畑67町2反歩,宅地199坪(約657m^2),家屋は入組,筒井130世帯全部の立ち退き,筒井地区20戸は1週間以内の立ち退き,入組110戸は月末までに転出,なお,現状は其の儘とし,建物は勿論,庭木,庭石などは一切手を付けてはならぬ,と言うもの.

 翌日から村長以下全職員による両地区の立ち退き先斡旋に走り回りました.
 立ち退き対象者は,親戚を頼って村外に出て行くか,村内の農家に間借りをするほか有りません.
 全戸の空き部屋,離れのある家,蚕室の空いている家,それでも足りなければ,隣の松代町,清野村,豊栄村の協力を仰ぐしかありませんでした.

 更に翌日には軍経理部の担当者がやってきて家屋の買収査定を始めました.
 立ち退き民家については,家具,調度,一人当り畳3枚までの持ち出しが可能とされました.
 村民は,村長に詰め寄りますが,村長も迂闊なことは口に出せず,遂に諦めた村民達は,「栗林中将が硫黄島で玉砕し,村が立ち退き,これで日本も仕舞いだな」と言いつつ引揚げたそうです.
 因みに,栗林中将はこの西条村の出身で,20日前に硫黄島で玉砕していました.

 この支払いは西条国民学校に於て,現金にて支払われました.
 普通,こうした接収の場合は,国債などで支払うのが多いのですが,流石に生活のこともあるというので,現金の手渡しとなりました.
 これらの現金は,国庫から出され,三菱信託銀行を通じて,松代に運ばれました.
 大蔵省の要請で本店の職員が長野に赴き,支払事務に当ったそうです.
 これが縁で,三菱信託銀行は長野に支店を開設することになりますが,その開設日は,1945年8月20日で敗戦の5日後になります.

 因みに,その後,こうした不具合の無い様にと言うべきか,民有地に於ける軍事施設の建設,部隊の駐屯などを合法化するべく,3月27日に公布された軍事特別措置法が沿岸地域から日本全域に拡大されています.

 買収,立退き後,周辺は有刺鉄線を張り巡らし,入口には衛兵所を設置,銃剣付小銃を構えた衛兵を24時間張り付かせたりしています.
 気のせいか,軍は既に民衆を恐れているかの様でもあり….

 しかし,この地を通らなければ,更に奥地にある入組地区の桑畑へ行けません.
 其処は買収から免れた土地でした.
 交渉の結果,結局,この地に行く為に軍は鑑札を発行し,その鑑札を持つものだけが中の通行を許されることになります.
 とは言え,警戒は厳重を極め,風呂敷包みの中の雨具から,空になった弁当箱,大八車に積んだ桑の葉の中に至るまで,トコトン調べられたそうです.

 それにしても,本土決戦なんぞを叫ぶ軍が,民衆を味方に付けていない状況に陥っている時点で,本土決戦なんかがまともに出来たのでしょうかね.
 それとも,単なる壮大なフェイクだったのでしょうか.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/20 22:03

 住民を追い出したその土地に軍は何を作ったか,と言えば,完全に壊されたのは4棟だけで,残りの約100軒は,屋根だけ其の儘にして,内部だけそっくり改造しました.
 用途は,大本営幕僚達の宿舎です.
 建物を新しくしてしまうと,この場所に大規模な何かを作ろうとしている,と,連合軍が見抜いてしまうのを恐れての事でした.

「松代の山の中に何が出来るのか」.
 噂が噂を呼び,その度に尾鰭が付いて増幅されていきました.
 大本営だ,いや,学習院が来るらしい,いやいや,新兵器の爆弾貯蔵庫だ(実際,大糸線の中土〜小滝の未成区間は完成間際だったのがレールを取り外して,鉄橋も架台を残して撤去され,トンネル内には爆弾が貯蔵されていたそうな)….

 此処に何が出来るのか,長野県の憲兵隊ですら知りませんでした.
 其処で,工事現場に駆けつけ,工事主任の吉田建技大尉と直談判に及びました.
 しかし,これは軍極秘の工事であり,例え憲兵隊と雖も明かすことが出来ないと突っぱねます.
 すると,憲兵達は,
「労務者は工事現場に自由に出入りしているにも関わらず,我々憲兵隊が現場に入れない.
 どう言う理由で我々が入れないのか,その点はっきりさせて貰おう」
と凄みましたが,吉田建技大尉は,こんな言葉で憲兵の横槍を撥ね付けたそうです.

「労務者は出入り出来るが憲兵は入れないと言うが,当方では労務者は人間とは見ていない.
 言い方は悪いが,あれは『機械』に過ぎない.
 だが,憲兵は『人間』だ.
 人間は口を利く.
 だから言えないのだ」
 方便なら良いですけど,本音だったら空恐ろしい気がします.

 この計画は陸軍のほんの一部しか知りません.

 海軍がこの計画を知ったのは,1945年4月の事でした.
 軍令部次長の小澤治三郎中将は参謀本部次長の河辺虎四郎中将を訪ね,事実を正しました.
 河辺中将は,既に計画は進んでおり,海軍の部屋も出来ていると答えました.
 末期のこの期に及んでも,こんな状態で本土決戦が戦えるのか,と言う気がしますが…
 兎も角,小澤中将は憤慨し,「海軍は松代には入らない」と見得を切って帰りました.
 とは言いつつ,実際には狐と狸の化かし合い.
 沖縄玉砕と共に,本土決戦を考えざるを得なくなり,6月から第300設営隊を長野県に派遣して,長野西方の小市に1,000人収容の参謀本部壕の建設に入りました.
 こちらは100mほどトンネルを掘った所で敗戦になっています.
 なお,もう一つの候補地として,奈良の大和基地近辺が考慮されていたそうな.

 1945年5月25日,空襲の炎が皇居に延焼し,宮城,大宮御所などがB29の爆撃で焼失しました.
 この報を聞いた松代の工事現場では,最早完成まで間に合わないかも知れないと言う事で,急ぎ,西条村筒井の松代皇居の隣に,仮行在所を作ることになりました.
 工事は5月下旬から開始され,新築では間に合わない為,立ち退かせた個人宅を改築し,456m^2の瓦葺き平屋に新しく300m^2を増築して結びつけ,外装は大和板張りと言う昔の木造校舎か,村役場の様な外観でした.

 地元では菊の紋章の目撃談もあり,「学習院が移ってくる」と言う噂が流れました.
 もっけの幸いとばかり,軍当局者は肯定も否定もしませんでした.
 この建物はW号舎と呼ばれ,敗戦後は戦災孤児の収容所「恵愛学院」となり,その任を終えた後は養護施設として1979年まで使われていたそうです.
 更に,皇太子が来ていると言う噂も,8月11日(新聞に日光疎開中の皇太子殿下の写真が掲載された)まで根強く残っていました.

 時に,このW号舎,外観は完成したものの,内装工事で行き詰まります.
 軍の人間達は,現人神がどの様にお風呂に入られるのか,便所はどうされているのか,判らなかった為です.
 此処に至って漸く陸軍当局は宮内省にお伺いを立てました.
 それに依れば,風呂は普通の木桶だが焚口は付けないと言うもの(湯は別で沸かして,それを桶に汲入れる為),便所は少し広めでよいとのことでした.

 松代皇居の建物はT号舎からX号舎までありました.
 W号舎は仮行在所でしたが,
T号舎は天皇・侍従・侍従武官室,
U号舎は皇后室,
V号舎は天皇・皇后御在所・会議室,
X号舎が宮内省・事務室・会議室で,
W号舎は普通の家屋敷,V号舎が地下室,それ以外は半地下式の建物でした.

 T,U,X号舎は白鳥山の南麓の山腹に嵌め込む様に造られ,屋根は山の樹木に覆われていて,南に面した窓の部分のみ山の斜面に露出して,上空から見る限り,建物は一切判りませんでした.

 T号舎は筒井地区の一番奥の建物で,鉄筋コンクリート造りの平屋建て.長さ65m,幅8mで,広さは457m^2.
 当初は天皇,皇后両陛下用で設計されましたが,途中で天皇陛下のみの住居となりました.
 間取りは東から倉庫,二間続きの和室,洋間の書斎,拝謁の間などがあり,和室の奥の間は15畳で床の間と押し入れでこの部分が天皇陛下の寝室でした.
 天井は竿縁天井で,天井板は秋田杉を砂で磨いて木目を出したもの.
 襖は銀地に菊花模様を地紋で散らした鳥の子紙ですが,これは特製ではなく既製品だったそうです.
 廊下は山側に設けられ,部屋は窓際のみ.
 U号舎への階段と地下室を結ぶ階段の角の部屋は,侍従と侍従武官室に充てられています.

 U号舎は,長さ約100m,幅8mで,広さは731m^2.
 当初皇太后,皇太子,内親王用でしたが,皇后専用となりました.
 中央に日本間がありこの部分が皇后の寝室となっていました.
 因みに,皇太后は,皇居の松代移転後は善光寺温泉にお連れする予定だったりします.

 X号舎は,三宮家用でしたが,宮内省事務室,会議室となりました.
 構造は全く同じで,長さ75m,幅8mですが,山麓に沿って建てられた為,くの字型に曲がっていました.
 屈曲部は,地下坑道と結ぶ階段が造られ,西側に宮内大臣,内大臣,侍従長,侍従武官長の部屋が用意されました.

 警戒警報が発令されると,天皇陛下はT号舎から,皇后陛下はU号舎からそれぞれ階段を伝って地下式のV号舎に避難します.
 階段は途中で合流し,V号舎に通じていました.
 V号舎の天井は半円形で最高所で4.5m,幅9m,長さ45m,床面積約400m^2の建物.
 コンクリート造りですが,内部は秋田杉や檜材で内装しています.
 部屋は6室で,天皇,皇后両陛下が1室づつ用い,残りは会議室となっています.

 これらの造営工事には朝鮮人労務者は一切充てられず,200名の作業部隊,県下から集められた大工や左官,地元の女学生を交えた翼賛壮年団を中心とする勤労報国隊が充てられました.
 大工や左官から見れば,内装用として平時でも中々お目にかかれない貴重品の檜材,柾目の秋田杉などを目にすると,相当な貴人が入る場所であるとピンと来たそうです.
 T号舎の日本間には,床の間の他,付書院も設けられた書院造りで,欄間には彫刻が施されていたそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/21 22:39

▼ 松代大本営が宮中に伝わったのは,1945年4月頃の事,侍従武官と侍従が御文庫で雑談していた時に,その侍従武官がうっかり口を滑らせてしまった事が発端でした.
 この時,天皇陛下の耳には入らなかったものの,侍従から女官に伝わり,女官の間では誰一人としてその存在を知らない者は居ないと言う状態になっていました.

 侍従長の藤田尚徳の耳に入ったのが5月末のこと.
 彼はその話を女官から聞きました.
 因みに,その頃には天皇陛下はその話を御存知でした.
 女官から皇后陛下に伝わり,皇后陛下から天皇陛下に伝わったと言う訳です.

 一番情報の伝わるのが遅かったのが,藤田侍従長と松平宮相でした.
 松平宮相は,早速天皇陛下に奏上すると,「直ぐに現地を見てくる様に」と言われたそうです.
 当時,小磯内閣から鈴木貫太郎が首相となり,彼は木戸内大臣を通じて御上の意向を確かめ,陛下のお考えが,「帝都固守」であることを知ると,6月6日の最高戦闘指導会議で,本土決戦の基本要綱に「帝都固守」を盛り込もうとします.
 陸軍としては,その方針を是認されてしまうと,徹底抗戦が出来なくなる,ひいては帝都を退去して松代に籠もると言う作戦が不可能となる,と言う訳で,この方針に徹底的に反対します.
 この時,鈴木首相は一旦引き下がりますが,翌日の閣議で,再び「帝都固守」を持ち出し,閣議でこれを了承させ,「帝都固守」の大原則を決めてしまいました.

 陸軍が宮内省から松代視察を申し入れられたのは,丁度そんな折.
 分の悪い陸軍は,それを撥ね付ける訳にもいかず,仕方なしに了承する羽目になりました.

 6月13日,宮内省の加藤進総務課長と小倉康次侍従が,松代の生みの親とも言うべき大本営参謀井田中佐(1944年10月に第10方面軍に情報参謀として転出したが,5月末で大本営に再度栄転)と共に,松代の大本営を視察することになりました.
 一通り,この施設を廻った後,小倉侍従は一言,井田中佐に尋ねます.
「賢所はどちらに用意されたのですか?」

 基本的に天皇陛下の御動座の際には,三種の神器をも持ち出す必要があります.
 このうち,草薙剣,勾玉は天皇の寝所の側に置かねばなりません.
 一方,八咫鏡は賢所のご神体として奉安しなければならなかったのですが,宮内省の人間にとっては基本中の基本である事が,部外者である井田中佐には知る由もなく,井田中佐は狼狽したと言います.
 当然のことながら,賢所どころか,神殿,皇霊殿を含む宮中三殿の設置場所すら決めておらず,井田中佐は取り敢ず,内心の動揺を抑え,「近くの山に造ることになっております」と答えてその場を取り繕ったそうです.

 賢所の構造から何から,これは軍人の手には負えません.
 其処で,皇室関係の建築の本を東京から取り寄せ,設計に当ったのが,東大工学部助教授で日本建築史の権威者であるにも関わらず,何故か1943年に二等兵として召集を受けてしまった関野克と言う人です.
 彼は招集後,近衛工兵部隊に配属され,硫黄島に出動することになっていましたが,偶々,「鉄砲担がせるより専門分野で使った方が国のため」と,陸軍の中でも常識のある人の意見が通り,出航直前に要員から外され,靖国神社地下宮建設指揮を命じられました.
 1945年3月から,松代大本営のマ(三・二三)工事部隊に組込まれ,松代に赴くことになりますが,その後,昇進で一等兵になったものの,階級としてはただの一等兵です.

 しかし,工事主任の吉田栄一建技大尉は東大の6年後輩で,答案の採点までされた関係とあって,吉田建技大尉,そして,加藤幸夫建技少佐以下,工事部隊全員から「先生」と呼ばれ,尊敬され,しかも,工事が彼を中心に廻っていたと言う,何だかなぁ,状態になっていたりします.

 それは扨措き,関野「一等兵」は宮中三殿の設計に入ると共に,これらを収納するトンネル工事指導のため,東大の武藤清教授,梅村魁助教授を招聘し,意見を聞くことになりました.
 彼等の意見では,賢所にいくら爆風よけのトンネルを掘っても,何度も爆撃を受けると結局被害を受ける.
 これを防ぐには,ジグザグ型にトンネルを掘り,一番奥に賢所を設けるのがよいとされ,賢所の設置はX号舎の向かいにある弘法山中腹と決まり,7月始めに起工式が行われました.

 今まで大規模な起工式を執り行ったことのないこの工事ですが,此処で初めて起工式を本格的に執り行った訳です.
 作業は,軍,勤労報国隊など意見が色々出ましたが,最終的に熱海の鉄道教習所にいる生徒130名に任されることになりました.

 そして,工事開始.
 先ずは道路を山の中腹まで付ける工事を行い,これに20日余掛かりました.
 道路工事が完了して,山に発破を入れ,坑口を切付けた所で敗戦となり,工事は中止されました.

 こうして,この場所は幻の賢所となった訳です.

 もう一つ,政府,大本営の必要施設として,通信施設の建設があります.
 6月中旬,本土決戦に伴う総軍体制の中で編成された第4通信隊約1,000名が松代に移駐しました.
 普通の通信隊の規模は約300名程度なので,正にその3倍となる巨大な部隊でした.
 この部隊は軍の無線連絡だけでなく,政府やNHKと言った通信機関の連絡も統括する部隊です.
 軍の無線は,国内各地の各総軍との連絡だけでなく,海外のシンガポール,ラバウル,新京,北京,漢口と言った残存各部隊との連絡,更にドイツ(5月までは未だ生きていた)や欧州在外公館との連絡も可能な強力な通信機能が必要とされました.

 よって,受信所は象山の地下壕に設置し,アンテナは妻女山山麓に設置することとなり,5月10日には清野村妻女山地区の買収が行われました.
 送信所については,指揮命令系統の攪乱を狙って,真っ先に攻撃目標となる事が考慮されて,堅固な地下壕が必須であり,方々を探した結果,松代北東20kmにある須坂町の鎌田山に掘られていた燃料基地用の地下壕を流用し,此処に強力な送信機を備え,アンテナは鎌田山に設置することとなります.

 鎌田山の地下壕は,元々燃料基地用だったので,素掘りのものでした.
 そこで,通信隊自ら仕上げ工事を行い,送信機の設置が可能な様にしました.
 通信機は出力1kw,2kw,5kwのものが東京から運ばれ,須坂の農業倉庫で組立てたものを搬入しました.
 送信アンテナは,長距離の通信をする関係上,高さが4〜50mに達するものを4〜50本並べる必要がありました.
 山は丁度,松林で敵の目を誤魔化す事が出来る状況でした…が,方向探知器とかがあれば,一発でバレたでしょうね.
 通信隊ではアンテナの設置準備を進めていましたが,結局最後まで周波数の割当が無く,アンテナを屹立させることが出来ませんでした.

 また,既に触れましたが,有線ケーブルの設置も行う予定で工事予算を取得していました.

 この様に,象山を中心とする工事は可成りの進捗率まで進んだ訳ですが,当の天皇陛下自身,移られる気は毛頭無かったと言われています.
 8月15日,玉音放送が流れた後,この地を襲ったのは,統制の崩壊と言うものでした.

 長野に集積されていた軍の物資は,武装解除後に復員する将校や兵士達の手によって山分けにされ持ち去られます.
 建設労働者達も,残り物を巡って暗闘を繰り返し,2ヶ月後にこの地を訪れた人は,その荒廃ぶりに驚いたと言います.

 一体,こうまでして守りたかったのは何だったのか,虚しさだけが残ります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2008/08/22 22:13


 【質問】
 戦争を終結させる為には原爆投下しか無かったのですか?

 【回答】
「敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シ・・・」
 終戦の詔勅で明確に指摘してるのは,2個の原爆だ.
 それだけの効果を与えていたことは否定のしようがないだろう.

(呉の床屋)

 しかし,仮に原爆がなかったとしても,昭和20年12月頃になったら餓死者がゴロゴロ発生し,継戦は事実上不可能になっていたろうというのが,当時の日本の政府調査の見解.
 米の配給量を必要最低限以下に減らしても足りないという計算だった.

▼ 『本土決戦』(学研,2007.9)によれば一例として
国民生活:
 地方財政は昭和12〜19年で二倍になったが,物価は三倍になり事実上縮小.
 さらに財源・物資・労力の不足が水路整備や道路舗装計画が頓挫.道路事情の悪化が流通の阻害を招き,自給自足生活を強いられ,国民生活がさらに低下.

[quote]

 米空軍のカーチス・ルメイ少将は「日本を石器時代にする」といきまいていたが,無理をせずとも日本の生活水準は弥生時代程度に退化しかねなかったのである.」
(P.154)

[/quote]

グンジ in mixi,2007年12月31日14:30▲


 【質問】
 安江仙弘大佐による和平工作とは,どのような内容のものだったのか?

 【回答】
 安江のユダヤ人コネクションを活用したもので,日本軍部から短波でワシントンに連絡するよう要求されるところまで行ったが,秦彦三郎中将の横槍で関係者は皆他に転出させられ,頓挫したという.

 以下引用.

 かねてから安江は石原〔莞爾〕に早期和平を説き,その方法として彼が苦心して築き上げたユダヤ人や回教徒とのコネクションを考えていたのである.
 石原も和平工作について,「安江の方法より他にはない」と言っていた.
 工作は〔サイパン陥落直後,〕直ちに着手された.
 しかし,陸軍の方は敗戦意識が全くない上,中央は「聖戦貫徹」で固まった若手の佐官クラスが押さえていたから,和平工作など「とんでもない話」であった.
 したがって,行動は隠密であることを要した.

 そのため安江は東京に言ったとき,堂々と常宿の帝国ホテルに泊ったが,そのあとは信州松本の宝栄寺に先祖代々の墓参りを済ませてから,これも父仙政(のりまさ)以来の常宿の浅間温泉の小柳旅館に泊って想を練り,さらに高田(現上越市)の妻の実家に数日間滞在していた.

 〔略〕

 和平工作は,米国政府と重慶の国民政府の両方に対して行われた.
 対米工作については,それを手伝った寺村銓太郎の証言がある.
 彼は石原の門下生で,ハルビンで旅館を経営していた.身長1メートル85センチ,かつて大相撲の解説者だった元大関天龍に風貌,体格ともにそっくりの日本人ばなれした人物であった.
 石原と安江の連絡役を務めた彼は,安江の対米工作を戦後行われた安江の慰霊祭で弔辞の形で発表し,参会者を驚かした.
 その主要部分を引用すると,
 たまたま昭和19年の終わり,太平洋戦争も敗戦の断末魔となったので,ここに共に謀り,某国某ユダヤ人会某有力者に日米和平斡旋を尽力してくれるよう諮(はか)り,その賛成を得て翌20年3月には効果現れ,
「日本が南方および中国大陸から一兵残さず引揚げるなら,米国は満州だけは日本の占領にまかす」
という意見がワシントンにあるから,日本軍部から短波でワシントンに連絡せられよとの事でしたから,私は一人で3月に上京し,同志石原莞爾兄と謀り,阿南惟幾(あなみこれちか)も陸軍大臣として梅津参謀総長をも協力せしめ,東京の連絡は陸軍省軍務局長永井八津次少将,新京の連絡は関東軍参謀副長池田純久中将として,関東軍の短波でワシントンに連絡する事とし,某国有力者の録音を吹き込ませ,いよいよ連絡せんとする際,池田中将から,
「中央の空気が変わったから一時見合わせてほしい」
とて,再三迫ったが
「暫く待ってくれ.善処する」
との事で待機した.
 しかるに,間もなく秦彦三郎が参謀長としてやって来た.
 安江兄も私も秦氏とは意見の対立がかねてあり,精神も異なっているから,これは秦中将の邪魔と察し,また陸軍大臣に掛合ったが,相変らず
「一寸待ってくれ」
との事で,当時飛行機は無し,中央との連絡は取れず,池田中将やその他これに参画せし関東軍の幕僚も俄に他に転出したので2人は如何ともし難く,ついに手を引き運命にまかせた.
 折角の日米和平工作も水泡に帰した次第です.
 安江がどんなルートを使って和平工作をしたかは,それまでの対米和解工作の経緯を見れば自ずから明らかである.
 当時,彼は大連の自宅にあったビクターの蓄音機にレコードをかけて演奏時間を計っていたことがあり,これは米国へのメッセージを吹き込むためのテストであったことは間違いない.

 この工作開始時は米英ソによる対独戦処理と,ソ連の対日参戦を決めたヤルタ会談の前であり,ポツダム会談よりは半年以上も前であったのだから,政府が安江工作に乗っていれば,原爆も広島・長崎に落とされず,そして事実上の無条件降伏にいたることもなかったであろう.

安江弘夫著大連特務機関と幻のユダヤ国家(八幡書店,1989/8),p.233-235

 ただ,安江はユダヤ人コネクションの力を過大評価していたきらいがあるから,仮にワシントンと連絡がついたとしても,和平工作がどこまで進展したかは未知数だろう.


 【質問】
 よく外国人(特にドイツ人とイギリス人)に,
「なんで日本は本土決戦やらなかったの?」と怪訝そうに聞かれるのですが,私もよく分かりません.なぜでしょう?
 聞いてくる向こう側にも悪意はなさそうなんですが,
「有史来,本土に敵を一兵も上陸させぬまま無条件降伏したのは日本だけだ.
 カミカゼまでやっておいて,あんなあっけない降参の仕方は理解できない」
と言われます.

 【回答】
 ポツダム宣言受諾による戦争の終結に関しては,いろいろと複雑な要素が絡んでくるんですが,幾つかかいつまんで話すと
*B-29その他の爆撃と潜水艦による海上封鎖で,日本国内は流通が麻痺し,軍事物資や食料などほとんどの生産活動が停止寸前だったこと.
(つまり,本土決戦は非常に困難で,45年秋には餓死者すら出る可能性があった)
*東条英機の失脚により,早期講和による天皇制の維持を主体に考える勢力が台頭し始めたこと.
*ソ連が日ソ中立条約を破棄して満州に侵攻したこと.

 特に,ソ連参戦は非常に大きなファクターになります.
 サイパン陥落による絶対国防圏崩壊の後,政府内では国体護持(天皇制維持)がプライマリーな命題になりますが,陸軍中央にはソ連を仲介とした和平工作案があり,これによる条件付きの講和を考えていました.
 しかし,ソ連参戦よりすべての工作は無に帰し,陸軍強硬派も折れることになって,ポツダム宣言受諾やむなしとして降伏を決定したわけです.

 外国の人には,この「天皇制維持が最重要課題であった」ということは理解しにくいかもしれませんね.

 そもそも第一次世界大戦において,ドイツは自国内を戦場にしないまま降伏しています.
 よって,本土決戦をやらずに降伏した国は有史以来日本だけ,などということはないのではないか,と思います.

 もちろん「無条件降伏」は,基本的には第二次世界大戦における降伏の形態ですから,この用語と「有史以来」という言い方はなかなか両立させにくい部分もあると思います.

 本国領土を戦場とせずに敗北した国家ということであれば,ベトナム戦争のアメリカ,アフガン戦争のソ連などなど枚挙にいとまがありません.


 【質問】
 太平洋戦争でどうしてアメリカは日本の希望通りの一億総玉砕をさせなかったんですか?

 【回答】
>日本の希望通り

 まずこれが間違い.
 戦争末期の日本の上層部の意図は有条件降伏を勝ち得るまでの継戦派と,無条件降伏を呑んでも終戦にしたい講和派に分かれていた.
 が,両派とも可能ならば有条件の方が望ましかったのはいうまでもない.
 それが可能だったかどうかは別として.

 一方,アメリカの上層部は政治的にも自由が利く無条件降伏を強いる方針で,ほぼ固まっていたといってよい.
 アメリカにとってみれば日本の敗北は必至だったので,わざわざ妥協してもメリットがなかった訳だ.

 で,アメリカとしては勝ちが決まっている以上,余計な消耗や政治的な負い目を背負いたくない.
 民族浄化が目的の戦争だった訳でも無し,もし日本が無条件降伏してくれる事になったなら,それ以上の戦いは無意味でしかないからな.

 また,本土での地上戦になれば,連合軍側にも多大な死傷者が出ることが予想されたからでしょう.
 米軍で多くの死傷者が出れば,大統領選挙にも影響するでしょうし.
 少なくとも政権を吹っ飛ばす程度に世論が沸騰する危険は十分にある.
 なんだかんだ言ってもホワイトハウスだってわが身が一番可愛い.

 さらに,戦後の米ソ対立をすでに視野に入れており,日本を懐柔して共産勢力への防壁,つまり衛星国家にしようとしていた.

 他に,
*アメリカも財政的に苦しい状況になっていた
*ソビエトも日本本土に上陸して,ソビエトの領域を確保される恐れがあった
*仮に本土決戦の結果日本の政体が崩壊した場合,ソビエトが主導した共産主義革命が起きる可能性がある
という恐れもあった.

軍事板


 【質問】
 ポツダム宣言を受諾するか否かの御前会議で,最終的に昭和天皇自らが受諾を決めたそうですが,そのとき
「朕はどうなってもいい」
と言ったのは本当ですか?

 【回答】
 本当.
 下村海南著『終戦秘史』(講談社学術文庫,1985.8)によれば,次のように述べたという.

(前略)
 自分はいかになろうとも,万民の命は助けたい.
 この上戦争を続けては結局,我が邦はまたく焦土となり,万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてはじつに忍び難い.祖宗の霊にお応えできない.
 和平の手段によるとしても,素より先方の遣り方に全幅の信頼をおきがたいもは当然であるが,日本がまったく無くなるという結果にくらべて,少しでも種子が残りさえすれば,さらにまた復興という光明も考えられる.
(中略)
 この際,私としてなすべきことがあれば何でもいとわない.
 国民に呼びかけることがよければ,私はいつでもマイクの前にも立つ.
 一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから,突然この決定を聞く場合動揺も甚だしかろう.
 陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう.
 この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが,どうか私の気持ちをよく理解して,陸海軍大臣は共に努力し,よく治まるようにして貰いたい.
 必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない.
 この際証書を出す必要もあろうから,政府は早速その起案をしてもらいたい.

 【質問】
 大東亜戦争終戦の際,日本は天皇陛下の命の保障を条件に降伏したと聞いたけど,ポツダム宣言内に天皇の命の保障を行う旨の分が無い様なのですが・・・ 命の保障を条件に降伏ってのはうそですか?

 【回答】
 ウソっていうか,そのへん複雑なんですよ.

日本側「天皇制は維持できるんならポツダム宣言を受領するよ」
連合国「天皇および政府の国家権限は連合国最高司令官にsubject toされるものとする」

日本・外務省「subject toは「制限の元におかれる」だよ.天皇制維持はOK,さあ調印しようぜ」
日本・陸軍省「subject toは「隷属する」だ!天皇制は維持できない!徹底抗戦だ!」

 まあ,なんとかなったのですが,「天皇制の保証」があったのかなかったのかは微妙な所です.
 外務省の絶妙な訳はともかく,subject toってのはわりと強い言い方ですので,
「保証はされてはいなかった」
というのが実際でしょう.

 一応ダレスを通じて保証めいたものはありましたが,天皇を処分しようとする親中派もいて,完全にアメリカ内部がまとまってたわけではありません.
 グルーなんかが必死で頑張ってくれたおかげで,なんとかなったけどね.


 【質問】
 叔父が玉音放送を聞いた時(当時,小学生),勘違いして
「天皇陛下が勝利のために,わざわざ励ましの言葉を述べられているのだ」
と感激したそうですが,市町村レベルでは,「終戦の詔勅」はどの時点で,どの程度の関係者に事前に通達されていたのですか?

 【回答】
 「流言・投書の太平洋戦争」と言う本をご一読ください.
 基本的には,前日のラジオ放送で,「重大放送」が有ると言うことは国民に知らしめられていました.
 また,当日朝のニュースでは,天皇陛下が直々にマイクの前に立つと言うことを知らせています.

 また,政府はポツダム宣言受諾決定の直後から敗戦後の治安と秩序維持のため,取締まり方針を策定し,8月14日には,その最終方針を全国に通達しています.
 そこには,
「廟議決定の方針を曲解し又は異議を唱え,或いはこれに矛盾するが如きもの」,
「政府の態度,方針,時局を誹謗するが如きもの妄りに既往の戦争責任者の追求」
等の言動が抑圧対象となり,右翼,左翼関係者,朝鮮人に対する視察を強化するよう求めています.

 更に新聞社に対しても,新聞の配達は玉音放送の後に行うように厳重に指導されていました.

 ちなみに,空襲を受けた地域とそうでない地域では,国民の時局の受け止め方に温度差が非常にあり,地方の代議士などでは,政府の弱腰を批判する発言をしています.
 確か,米国戦略爆撃調査団の世論調査では,日本国民の25%が,戦争には勝つと考えていたそうです.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 阿南陸相が最期に「米内を斬れ」と言ったのは本当ですか?
 酔っていたとも聞いたんですが,どうなんですか?

 【回答】
 陸軍省軍務課員の竹下中佐の証言によるもの.
 竹下中佐は,陸相に決起を要請するために陸相官邸に出向いたが,阿南陸相の決意の固さに説得を断念,陸相の最後を看取った.
 「米内を斬れ」は自刃前の中佐との雑談の中で出てきた言葉.
 ちなみに中佐が出向く前に,陸相は別の部下達と酒を酌み交わしていたので,酔っていたことは事実だが,泥酔していたわけではない.

 自分が読んだのは「日本のいちばん長い日」(半藤 一利著,文芸春秋)だが,こういう本もでているので読んでみるといいかも.
「『昭和』を振り回した男たち」

 また,以下の本では,阿南が斬れといってもおかしくない,といった論を展開しています.何かの参考になれば・・・
 まあ,海軍さんも酷いよ,ということで.

「米内光政と山本五十六は愚将だった〜海軍善玉論の虚妄を糺す」
著者:三村文男|出版社:テーミス|発行年月:2002年 07月

(HN「橙海地方」 in FAQ BBS他)


 【質問】
 終戦時のクーデター未遂事件について質問です.
 阿南陸相は結局クーデター派の黒幕だったのでしょうか?
 それとも,あれは青年将校の暴発で,阿南陸相は関係無かったのでしょうか?

 【回答】
 ナンセンス.侍従武官経験もある阿南は陛下の聖断に逆らうような人間ではない.

 8月14日には軍上層部は戦争終結で固まっていた.
 この時点で軍上層部VS軍務省青年将校の図式になった.
 たしかに阿南陸相をクーデターの黒幕とする説も有るけど根拠薄弱で,怪しい陰謀論の域を出ない.

 そもそも阿南は「軍人は政治にかかわってはならない」という信念を持っていた.
 だから派閥にも属さず,一時期は閑職である幼年学校の校長に押しやられていた.

 その時に起きたのが2・26事件だが,阿南は全校生徒を集め
「農民の救済を唱え政治の改革を叫ばんとする者は,まず軍服を脱ぎ,しかる後に行え」
と訓示している.
 そんな阿南がクーデターの首謀者なんてちょっと考えにくいのだが,

 青年将校たちがクーデター計画をぶち上げたとき,あえて反対しなかったことや(下手に対立するより上手く手懐けようと考えていたとされている),終戦時自決した事(死人に口なし),そして終戦後の陸軍悪玉論の雰囲気の中で(実際は海軍も強硬派は多く居た),
「阿南は最後まで徹底抗戦を諦めていなかった」
とか,ヒドイ物になると
「実は阿南は米軍と通じていて,天皇の首を差し出す代わりに,クーデター一派による戦後政権樹立を目論み,自分は独裁者として君臨するつもりだった」
と言うような,ワケが分からんトンデモ陰謀論が出てくるようになった.

(日本史板)


 【質問】
 終戦の日の日本の様子は?

 【回答】
 日本中が息をひそめていたかのように静まり返っていた,との証言がある.
 以下引用.

――――――
 やがて終戦の日が来た.
 あの日の空が異様なまでに青く晴れていたことを何人もの人が書き,語っている.
 福岡の空も雲一つなく,飛行機の影が全く見えないのが不思議だった.
 音のない世界にいるようで,日本中が息をひそめていたような印象が残っている.

――――――『サザエさんの東京物語』(長谷川洋子著,朝日出版社,2008.4.30),p.61

 【質問】
 昭和帝の玉音放送は,日本全土に満州朝鮮台湾で放送されましたが,世界のそのほかの地域では放送されたのですか?

 【回答】
 いわゆる玉音放送はラジオによる放送ですから,ラジオ放送が届く範囲で受信できました.
 つまり,日本国内の通常のラジオ放送と同時に短波放送が行われたのであって 国外向け(一応は東亜向けとなっていましたが)の放送は別に「満州朝鮮台湾」に限定して行ったわけではありません.
 また,この放送は通常時の放送出力10kwを60kwに一時的に増大して実施されているので,かなりの遠距離でも受信できています.
 実際に,すべての日本人が受信したわけではありませんが,ベトナムなど東南アジアの現地部隊やブラジルの移民なども受信したという記録がありますから,事実上,事前に重要放送があるというアナウンスを受けていれば,短波放送は世界中に届いていたと考えられます.

世界史板


 【質問】
 戦中の情報について.
 アメリカの株式市場の動向(缶詰会社や薬品会社の株価)が情報になったそうですが,日本で終戦を投資家が一般より早く知ったというのを聞いたことがあるんですが,それに関しての著作や記述を教えて下さい.

島の人

 【回答】
 う〜ん,確か清沢冽の暗黒日記に該当の記述があったような気がしますが,思い出せませんね.
 後,ヘトヘト…じゃなかった野村證券40年史に,日本の株式市場についても触れられていて,『社史に見る太平洋戦争』にこんな記述があります.

――――――
P.202

 もっとも,敗北が決定的となるとともに,株式市場では注目すべき現象が現われた.
 すなわち,七月半ばごろから軍需株売り,民需株買いの人気が台頭し始めた.
 その後の事態の変化も,こうした人気を挫折せしめえず,時にはそのために市況が強調に転じることさえあった.
 いわば,民需株を中心として,株式市場は掉尾の一振を示したと言える.
――――――

 因みに,株式市場は1945年8月10日まで立会が為されていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 似たような話なら.米国の市場ではなく,日本の市場の話なんですが.
『戦争・戦略情報パズル』(柳内伸作著,1990年1月31日)

一問一答形式のライトな本です.ノベルズとかの大きさです.
で,

------------------------------------
p.73

問17 敗色の濃い大日本帝国で繊維株が急騰した.このことを情報参謀はどのように読み取ったか

p.74
答17 日本政府の中枢が終戦をどのような形で迎えるかを検討し始めていると察知した

p.75
問18 東京大空襲の直後に大変動が起きた株式市場だが,このとき実際にどんな株が買われていたか

p.76
答18 紡績・船舶・セメント・食品・興業などの,いわゆる平和産業株が買われていた
(中略)
株価は半年先の敗戦予測を掲げたのである.
------------------------------------

 参考文献とか書いてないので,更なる元ネタがあるかどうかはわかりません…

ゆきかぜまる

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より


 【質問】
 玉音放送の後に宇垣纏が特攻に飛び立ちましたが, 降伏決定後に自殺的攻撃を続けたケースは多かったのですか?

 【回答】
 多かった少なかったの定義は不明ですが,実家に帰るのに飛行機を飛ばしたら,燃料切れや故障で墜落したり,自爆したりするケースはありました.
 後,自殺したりとか….

 但し,対ソ戦を除けば組織的な特攻はしていません.

 こういう混乱があったので,日本の陸海軍とも隠すのに必死でした.
 海軍は特に,厚木基地の叛乱を陸軍に知らせることもなく,司令を解任したり,人をやったり,高松宮に厚木基地に電話掛けさせたり……と,あらゆることをやっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【珍説】
 ポツダム宣言降伏条件を提示している.日本はドイツとは違い,有条件降伏である.東京裁判が国際法無視の報復儀式だったことは,今や世界中の法学者の常識だが,これはポツダム宣言の降伏条件にも違反した無法行為であった.

(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言2 テロリアンナイト』 P.66)

 今や東京裁判が国際法無視の報復儀式だったことは,世界中の法学者の常識だが,これは「ポツダム宣言」の降伏条件にも違反した無法行為であった.

 そもそも日本の知識人やマスコミは,どういうわけか必ず,
「第2次世界大戦で日本は連合国に"無条件降伏"した」
と書く.
 まったく歴史に対して無知なのだ.
 日本は無条件降伏≠ネどしていない!

 ミズーリ号での調印は実は「有条件降伏」なのだ!
 日本は「ポツダム宣言」を受諾して降伏した.そのポツダム宣言には
「吾等ノ条件ハ左ノ如シ」
と,ちゃんと降伏条件を提示している.

(同「戦争論」3,P. 55-56,どちらも太字は原文ママ)

 【事実】
 むじょうけん-こうふく 【無条件降伏】
(1)交戦中の軍隊・艦隊または国が,兵員・兵器などの一切を無条件で敵にゆだねて降伏すること.
(2)交戦国の一方が一定の降伏条件を無条件に受諾して降伏すること.

 日本は,何らの譲歩も得ることなく,ポツダム宣言Potsdam Proclamation の降伏条件を「無条件に受諾して」おり,無条件降伏以外の何物でもありません.
 現に最高裁判所も「世人周知のごとく,わが国はポツダム宣言を受諾し,降伏文書に調印して,連合国に対して無条件降伏をした」という言い方をしていますし(政令201号事件.最大判昭和28年4月8日刑集7巻4号775頁).(なお参照.「憲法五十年の運用 I」(有斐閣)76頁)
 ただし,上記判例は一方で「連合国最高司令官は,降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる権限を有し,この限りにおいてわが国の統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれることとなつた」としており,これによれば,連合国最高司令官の権限はポツダム宣言および降伏文書の条件を実施するための,いわば限定的なものとなります.

 したがって,日本国の降伏も厳密に言えば「条件付き降伏」であるという解釈も可能ですし,現に「日本の」法学者の通説はこれです.
 この説にしたがえば,
(1)ポツダム宣言は一種の休戦条約でいわば国家間の契約であり,
(2)その受諾によって日本国は法的主体性(主権)を完全に喪失したわけではなく,ただ日本国政府の権限はポツダム宣言・降伏文書の「条件」およびそれらを実施する連合国軍最高司令官の権限のもとに制限される,
ということになります.

 ただし,アメリカ側の考えはそうではなかったようで,このことはJCS1380/6「連合国最高司令官の権限に関する通達」に示されてます.
 この文書では「…日本政府の統治権限は最高司令官としての貴官の支配下におかれる.連合国と日本国との関係は,契約的基礎の上にあるのではなく,日本の連合国に対する無条件降伏を基礎とするものである.」としています.
 実際,例えば,GHQが日本と中立国との外交権を接収するという命令を発した際,日本側は降伏条件の範囲外であると抵抗しますが,結局は接収されます.

 日本はドイツとは違い,基本的には間接統治で占領管理が進められましたが,結局のところ,例えば日本国憲法制定過程で見られるように,GHQの権力は絶大でしたし,占領政策も連合国(アメリカ)の意に沿うように実施されました.
 極端に言えば,占領下における日本の主権者はマッカーサーであるという言い方も出来るわけです.

 このようなことを見るかぎり,実際には日本が無条件降伏したわけではない,という言い方は,やはりいまいち説得力に欠けると思われます.

 仮に日本が「条件付き降伏」であったとしても,例えば戦犯の処罰などは降伏「条件」でああったことは,その第10条に,「 われらは,日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようとする意図を有するものではないが,われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える」と明記されている通りです.

降伏文書調印式


 【質問】
 イタリアが第2次大戦の戦勝国として,日本が降伏の調印式をした戦艦「ミズーリ」の上に来てたって本当ですか?

 【回答】
 イタリアは戦勝国とは言えません..
 終戦直前にイタリア内でファシスト党政権を倒したことから,「敗戦」したのは「ファシスト・イタリア」であり,それを倒したイタリアは「戦勝国」だ,ということになってはいますが,ソ連に1億ドル,アルバニアに5000万ドル,エチオピアに2500万ドル,ギリシャに1億5000万ドル,ユーゴスラビアに1億2500万ドルの賠償金を支払い,全ての海外植民地を失い,トリエステは1953年まで連合国の占領下に置かれるなど,実質的には敗戦国扱いでした.
 「ミズーリ」の調印式に代表を送った連合国は,合衆国,中華民国,大英帝国,ソビエト連邦,オーストラリア連邦,カナダ連邦,フランス共和国,オランダ王国,ニュージーランド自治領の9カ国で,イタリア王国は含まれていません.

(永遠の青 ◆V9k1yZSe4M in 世界史板)

調印の瞬間


 【珍説】
 日本は,敗戦の後にも「無秩序」は現れなかった.
 それは当り前だ.
 日本は「解放」されたのではない.
 もともと戦前からあった自由や民主主義や豊かさを取り戻すべく,直ちに自ら「秩序」を求めただけなのだ.
 そのために天皇の存在はかなり大きかった. 

(小林よしのり「戦争論」3, p.91)

 【事実】
 小林は,
「米軍は力でイラクに秩序を作ることはできない」
「『公』のないイラクでは秩序維持のために,サダム・フセインのような独裁者は必要悪だった」
と結論したいがために,このようなことを言っているわけですが(でも,独裁者って『力で(独裁者好みの)秩序を作っている』の典型なんでは?),これは結論ありきで事実を歪曲している典型のように思われます.

 まず,イラクで戦後に無秩序状態が現れたのは,サダム政権上層部の全員逃亡によって政府機能そのものが麻痺したからであり,治安維持組織が残っていた終戦直後の日本と安直に比較することはできません.

 また,一時的にでも治安維持組織がなくなった場合には,日本においても「無秩序」が現れています.

 例えば米軍上陸当時の沖縄では,秩序が崩壊し,現役の陸軍士官が守るべき住民に自決を強要するなどしています.

 また例えば大空襲直後の東京では,リアル「火垂るの墓」を体験した世代の方によれば,空襲が終わった直後は火事場泥棒やカッパライが横行し,近隣から応援の警察が来るとパタッと止まったそうです.

 終戦直後,銃殺のデマなどが流れて統制がとれなくなった部隊から幹部・隊員が物資を奪って逃げ出したりした例もあります(厚木,九州など).そういった部隊のいたところでは,幹部・隊員の逃亡により警備力すらなくなってしまい,付近の住民がそういった基地に侵入して物資を盗んでいったこともあるそうです.
 逆に最後までしっかり統制がとれていた部隊では,そのようなことはなかったそうです.

 さらに,遡って関東大震災では,東京は朝鮮人虐殺や火事場泥棒が横行する無法地帯と化しました.デマで無辜の人をリンチにかける市民のどこに「公」の心があるのかと,聞きたいものです.

 そもそも,空襲/空爆直後ならまだしも,政府(警察)機能と通信機能が生きている限り,無秩序状態は長続きはしません.
 しかも戦争末期のアメリカは,交渉相手を焼死させない為と「戦後処理」を容易にする為に,ご丁寧にもそう言うところは爆撃目標から外していました.
 関東大震災では,両方が麻痺してしまったわけですね.

 どこの国,どの民族でも,一時的にせよそういった真空状態が発生した場合には,似たようなことは起こりえます.
 日本の終戦時はこの程度で済んだが,イラクの場合はもっと大規模にそれが発生した,というだけの話なのです.

(軍事板出張スレッド in コヴァ板)


 【質問】
 敗戦直後,第三国人の悪逆非道があったというのは本当?

 【回答】
 どうやら本当である模様.
 以下は体験談.

 親父のガキの頃,男の大人が戦地から帰ってきてない敗戦当時、 第三国人の悪逆非道で地元民がかなり泣かされたそうな.

 だが数年して大人達が戦地から帰ってくると状況は一変,
 デカイ顔してた朝鮮人やシナ人は,血の気の多い元兵士達によって片っ端からぼこられて,勿論連中も人数集めて抵抗したけど,そいつらも目立つ奴からゲリラ戦っぽくやられて(実際死人が出たそうな),ついには,駅前に無断に立てられてた連中の建物に火をつけられ全焼.
 犯人探しをするヤツは確実に闇討ちされて,とうとう地元から駆逐できたそうな.

 だから,現在もうちの地元に朝鮮人の噂すらない.

生活板

 以下の証言は,もっと生々しい.

酸鼻をきわめる地獄絵図

 その日〔1945/8/15〕のうちに神戸は修羅場と変貌した.
 敗戦の報に呆然自失する市民とは対照的に,これまで苛酷な労働で軍部から抑圧されてきた朝鮮人,中国人たちの一部は欣喜雀躍し,掠奪,報復の火蓋を切ったのである.
 その日の午後7時.
 徒党を組んだ一団は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪.
 これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件が起こり,一般市民の不安もたかまった.
 終戦当時,国内には強制連行された〔原文ママ〕人を含めて朝鮮人,中国人は2百万人以上いたが,とくに兵庫に多く,昭和18年の時点でも13万5千人,全体の7%強を占め,大阪,東京に次ぐ3位という数であった.

 終戦直後の神戸の闇市は,国鉄三宮駅高架下で1個5円の饅頭が中国人の手で売り出されたのが始まりといわれている.
 1個5円といえば,当時の米1升の公定価格と同じ値段である.
 だが,飢えた市民はこれを争って買った.
 これをきっかけに彼らを主とする闇市が三宮,新開地,湊川,大正筋,長田など神戸市内に17ヵ所もひらかれ,20年10月には国鉄三宮駅の高架から神戸駅北東に至るまで,えんえん2kmにおよぶ日本一の長い闇市が生まれていた(神戸市『神戸市史』第3集).
 闇市に出回った物資の大半は軍の隠匿物資といわれた.
 そこにはなんでもあった.
 1日わずか2合1勺(330g)の配給米さえ欠配するという深刻な食糧難で餓死者は続出し,市民はあらゆる物を金に替え,争って闇市で高い食糧を求めた.
 当時,サラリーマンの月収は5,6百円.
 これに対して闇値は公定価格の3,40倍で,翌年夏には150倍を超えるものもザラ(読売新聞社刊『神戸開港百年』)であり,『朝日年鑑』の昭和22年版によれば,大阪の闇値は中程度でさえも白米一升(1.4kg)80円,麦40円,メリケン粉1貫目(3.75kg)240円,砂糖1斤(600g)150円と記録されている.

 彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ,徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた.
 通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難癖をつけ,無線飲食をし,白昼の路上で見境なく集団で婦女子にいたずらする.
 善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた.
 こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた.
 袖に腕章をつけ,半長靴をはき,純白の絹のマフラーを首に巻きつけ,肩で風を切って街をのし歩いた.
 腰には拳銃をさげ,白い包帯を巻きつけた鉄パイプを引っさげた彼らの略奪,暴行には目にあまるものがあった.

 〔略〕

 さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった.
 戦時中,神戸市内には脇浜小学校はじめ6ヵ所の捕虜収容所があったが,解放されたその捕虜の一部は民家に侵入して拳銃をつきつけ,泣き叫ぶ婦女子を襲った.
 白昼強盗も横行した.
 9月25日,米軍第6軍33師団,1万7千人が神戸へ進駐してくると治安はさらに悪化し,制止にはいる警官は袋叩きにあう.
 終戦直後の神戸は,まさに酸鼻をきわめる地獄絵図だった.

白昼横行する婦女暴行

 彼らの暴虐を見聞きするごとに,わたしは怒りにふるえていた.
 彼らを制止し,阻止する者は一人としていないのだ.

 昭和20年8月末,わたしは所用の帰途,女の悲鳴を聞いた.
 人通りも少ない東山病院の裏手である.
 白熱の太陽がきなくさい焼け跡に照り付けていた.
 一瞬,ぎくりと立ち止まり,悲鳴の上がる方角に走った.
 途中で,4,5歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた.
「どないしたんや」
「おかあちゃんが,おかあちゃんが」
 少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく.
 この世のものとは思えぬ女の悲鳴が聞こえ続けていた.
「ここにいるんやで,ええな」
 わたしは少女をその場において一目散に走った.
 少女の母親は木立のなかで数人の男に犯されていた.飛行服姿の男たちだった.
 彼らは不適な薄ら笑いで女の手足を押さえつけ,一人がその上に乗っている.
 女はひたすら絶叫していた.
<――汚ねえ……>
 うめくと,わたしは遮二無二彼らに突進していった.
 得物を探す余裕はない.あるのは彼らへの憎悪だけだ.
 彼らがはっと身構えたときわたしは一人の男を蹴り上げ,女の上に乗っていた男の襟がみをつかんで引き摺り下ろし,男の目の中に5本の指を突き刺していた.
 17のときにおぼえたあの必殺技が,無意識に出ていたのだ.
 バラケツどもを震撼させたこの必殺技は,あまりにも危険すぎてめったにはつかわなかったのだが,わたしは無我夢中でこの技をふるっていた.
 男の両眼からポタポタと鮮血がしたたり,男は視力を失ってのたうちまわる.
 つぎの一人も首を小脇にはさんで締め付けておいて,容赦なく指を突き立て,眼球を抉り出す.
「ぎゃーっ」
 動物的な悲鳴をあげて,男の顔面はみるみる血だるまとなっていった.
 残る男は恐怖に顔面を醜く歪ませ,拳銃も鉄パイプもその場に置き去りにしたまま夢中で逃げだしていた.
 女はぼろきれのように仰向けになったまま放心していた.
「しっかりするんや,おい,わかるか」
 抱き起こして揺り動かしても,うつろに瞳孔をひらいたまま,突然,けたたましい笑いをあげる.
 山の手の,良家の人妻であろう,美貌であった.
 引きちぎられたモンペと,哄笑が無惨であった.
<――許せん.これはぜったいに許せんのや>
 彼女の哄笑と,遠くからじっとこちらを凝視して立ちすくんでいる少女の姿を見たとき,わたしの血ははげしく燃えたぎっていた.
 このままでいいのか.
 いいはずはない.
 彼らの報復をおそれてだれもやらんというならば,わたし一人でも連中のまえに立ちふさがってみせよう.
 わたしには許せないのだ.やつらの悪虐非道〔原文ママ〕さが.
 置き去りにしていった拳銃をわたしは懐にねじこんだ.
 ずっしりと重い,その拳銃の感触が,闘志を奮い立たせた.

単身乗り込む

 わたしは拳銃を懐に単身,神戸の闇市へと乗り出していった.
 闇市は彼らの本拠である.
 争うならば堂々と,土俵の真ん中で雌雄を決する.
 それがわたしの主義だ.
 彼らは常に集団を組んで行動する.
 同士的結合が強く,仲間の一人がいさかいを起こすとどこからともなく,いっせいにとびだしてくる.
 その本拠へ,あえていさかいを求めてわたしは乗り込んだ.
 むろん命の保証はない.わたしは初めから命を投げ出しているのだ.
 彼らを相手に,わたしは毎日,いさかいを起こして歩いた.
 肩が触れた,と難癖をつけられても一歩も退かぬ.
〈わいが,わいが〉
という気持ちがある.
 存分に蹴散らして,行く手をはばむ者は容赦しない.
 日本人が彼らに痛めつけられていると,気持ちより先に体がぱっと飛び出していく.
 1週間もたたぬうちに,わたしは当然,命をつけ狙われるようになっていた.
 同時にわたしにも,かねて彼らの横暴に憤激していた連中が,一人,二人,三人と味方になって集まり,わたしを中心に結束しだしていた.
 〔略〕

田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.147-152

 〔略〕
 すでに警察は無力化し,神戸は死の街であった.
 腕章をつけ,拳銃や鉄パイプで武装した男たちが我が物顔で横行し,略奪物資による闇市の拡張,あいつぐ一般市民への暴行事件に警察は弱弱しく目をそらす.
 もはや神戸は,われわれの手で街を自衛しなければ,生命,財産さえ危ない極限状態に陥っていった.
 わたしは吉川〔勇次〕をつれて,暴行脅迫されている同胞を彼らの手から救出して歩いてみたものの,それは焼け石に水だ.イタチごっこである.
 そんな姑息な手段では,彼らを自省させることはできないことを,わたしは思い知った.
 ゲリラ作戦では埒があかぬ.
 まず拠点をつくって,ブルドーザーで一挙に駆逐することを考えたのだ.
 少々荒療治だが,これも万やむをえない手段だ.
 わたしがやらなければ,いったいだれがやるというのだ.
 わたしの目は迷うことなく新開地に向いていた.
 新開地は先代以来の縄張りである.
 その新開地も彼らの土足に蹂躙され,白昼から堂々とデン助賭博がひらかれ,その数は百軒から百五十軒にも及んでいた.
 彼らは通行人を強引に誘い込んで,イカサマと脅迫とで容赦なく金品をむしりとる.
 さからえば丸裸にされて袋叩きにあう.

 〔略〕

 わたしはまず,新開地から彼らを締め出すことを決意した.
 新開地を皮切りに,彼らの最大の拠点である三宮でまっこうから対決しようとしたのである.
 一人,二人,三人……と,わたしの周囲に集まってくる気鋭の同士がわたしを奮い立たせ,わたしの背後にある市民たちの大きな声援が,わたしを決断させた.
 警察も行為的に私たちを迎えてくれるようになっていた.
 新開地へ乗り込んだわたしは彼らを蹴散らし,デン助賭博台をかたっぱしからぶちこわして歩いた.
 すでにわたしの顔は,彼らの間に知れ渡っていた.
 潮の引くようにわたしの行く手で人波がまっぷたつに割れる.
 が,すぐに怒号と罵声をあげて,わっと彼らがなだれこもうとする.
 それを睨(ね)めつけておいて,委細構わず賭博台をつぎつぎに蹴飛ばし,ぶちこわす.
 彼らは足をすくませた.
 わたしに寄り添って,吉川が手榴弾の安全弁を口にくわえたまま,油断なく彼らを牽制していた.
 彼らがなだれこんでくれば,吉川はいつでも手榴弾を発火させ,投げつける構えだ.
 わたしが賭博台をぶち壊しながら進むと,吉川も怠りなく彼らを睨みつけながら進み,不敵にわたしに無駄口を叩いていた.
「親分,死なばもろともや.親分と二人で地獄へ行くよりも,一人でも多くやつらを道連れにしてやれば,そのほうが冥途の旅もにぎやかでええわ.なァ,親分」
「ほんまや.それだけ神戸も住みよくなるというもんや.
 ――ええか,きょうから新開地でのデン助賭博はこの田岡が許さん.わかったら失せろ!」
 わたしの一喝に,彼らは復讐心に燃えた目を向けながらあとずさっていった.
 〔略〕

同,p.160-162

 著者をして命を棄てるという覚悟をさせるほど,彼らの横暴が酷かった,ということを論証するため,
また,その抗争の激しさを論証するため,
あえて長めに引用した.

 上記引用文章は,泣ける.

▼ ちなみに上記引用と同様の記述は,『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.26-29にも見られる.
 以下にその一部を引用する.

――――――
 神戸市街は,昭和20年3月と6月の2度にわたるB-29の無差別爆撃で,主要劇場のことごとくが焼失したが,復興のテンポは,予想以上に早かった.
 20年末には早くも三宮映画劇場,三宮映画館が再開され,21年に入ると相生座,元町映画館,阪急会館,日活キネマ,キネマクラブなどが相次いで営業を始めた.

 当時,神戸市内には,山口組のほか中山組,大嶋組,本多会,五島組が戦前からの勢力として根を張り,尼崎に笠谷組,西宮に松本組,中村組があったが,それらを合計しても8団体,5百人に過ぎなかった.

 それにひきかえ,在日外国人アウトローと新興グレン隊の跳梁は凄まじかった.
 3日に一つグレン隊が生まれる――と言われたほどで,6,7人の小グループから,50人,60人単位の集団が,三宮・新開地をハイエナのように餌食を求めて徘徊していた.
 たがいの眼と眼がからみあえば,
「おどりゃ,ガンつけやがったな」
 たちまち喧嘩が始まり,血しぶきが飛んだ.
 三宮のヤミ市には,ピストルの貸し屋≠ワで出現した.
 戦前からの伝統的な博徒,テキヤ組織は後方に押しやられ,系統のはっきりしないグレン隊が暴れまわっていた.
 新開地はとくにひどく,グレン隊見本市の観さえあった.
 劇場や映画館は,ひどいときは,3分の1近い座席を彼らが占拠した.
 高級酒場やダンスホールの客は,ヤミ成金かグレン隊だった.

 戦争中,日本の警察は中国人や台湾人,朝鮮人にひどい弾圧を加えた.
 敗戦後,その報復に警察官が彼らから狙われた.
 昭和21年2月には,生田署の岡政雄巡査部長が彼らの事務所に拉致され,殴る蹴るの暴行を加えられて死亡.
 4月にも須磨署の佐藤進巡査が3人組の強盗にピストルで撃たれて死んだ.

 米兵による暴力事件も頻発した.
 神戸に進駐したのは米第6軍33師団,1万7千人だったが,酒に酔った若いGIがよくトラブルを起こしたのである.
 そういうときも日本の警察は,手出しできなかった.
 敗戦国の悲しさであった.

――――――

 同書はあとがきにもあるように,田岡一雄のほか,永田貞雄,林正之助など複数の人物のインタビューから書かれており,客観性の点でも比較的問題は少ないものと愚考する.▲

▼ 羽振りも良かったらしい.
 以下は先代・林家正蔵の証言より.

――――――
 あの,戦後にね,三国人がバカな儲け方をしたんで,みんな舶来の隆としたセビロを着ていたもんですよ.
(終戦が8月だから,ちょうど儲かった暮れから春にかけて……)三つ揃いでね.
 ちっとも似合わない!

 普通の日本のインテリのひとがね,カァキ色の服を着たりね.
 徳川夢声なんぞ,軍隊のドタ靴を履いていましたよ.……鋲だらけの.
「この靴が日本から消える自分には,生活は豊富になる!」
って,冗談をいっていたが,ほんとうにそうなったものね!

――――――『林家正蔵随談』(麻生芳伸編,青蛙房,1967.6.20),p.127



 【質問】
 三国人の横暴に対し,警察は何をしていたのか?

 【回答】
 まったくの無力,何もできなかった,という.
 逆に警察官が襲われたり,警察署が襲撃されたりする有様だったという.

 以下引用.
 〔略〕
 警官が駆けつけても手も足もでない.
「おれたちは戦勝国民だ.敗戦国の日本人がなにをいうか」
 警官は小突きまわされ,サーベルはへし曲げられ,街は暴漢の跳梁に無警察状態だ.

 〔略〕
 〔新開地では,〕警官がきても彼らは歯牙にかけず賭博を開帳し続ける.
 不遜であり不敵である.
 なまじ警官が咎めだてすれば,たちまち暴徒は集団をつくって警官を小突きまわし,殴る蹴るの暴行をくわえる.
 〔略〕
 昭和21年2月,神戸生田署の岡正雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され,同年4月,須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された.
 そればかりではない.
 警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった.
 すなわち彼ら3百余人は兵庫警察署を襲撃し,署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである.
 さらに彼らは水上警察署を急襲して,留置されていた同胞全員を釈放し,水上署の全監房は彼らの手によって開放されるという事態にまで発展した.
 自分たちは戦勝国民だ,ということを楯に,彼らはやりたい放題のことをやり,その非道,無法は目にあまるものがあった.
 彼らの不遜な行動は,市民の激しい憎しみを集めた.
 それを嘲笑うように,彼らは神戸市の全警察署を襲撃する計画まですすめるに至ったのである.
 警察当局は顔色を失った.
 治安の維持より警察そのものを守ることが急務であった.
 警察は,わたしに助っ人の依頼を申し入れてきたのである.
 すなわち,当時,湊川温泉内に設置されていた兵庫警察署の署長は,本書襲撃に備えて,署員だけでこれを迎撃する力なしと判断し,国警本部長,警察幹部一同,神戸市長と鳩首,緊急会議を開いた結果,同署長はわたしに兵庫署警護の応援を求めてきたのである.
「どうやろ,田岡はん.力になってもらえんやろうか」
 署長は額に脂汗をにじませていた.
 わたしは敗戦国の警察の無力に憤りと嘆きを感じながら,この申し出を受けて立った.
 神戸の治安維持,市民の安全のため,みんな一丸となって彼らの暴力を排除せねばならなかったのだ.

 佐々木組組長・佐々木道雄は当時の状況を「山口組時報」の連載手記「かくされた真実」のなかで,こう回想している.
 ――山口組組員は勇躍団結し兵庫署の警備と署員の人命を保護するため,兵庫警察署に昼夜をわかたずたてこもるとともに,同署の受け持ち区域の神戸新開地に山口組自警団を結成,「花月劇場」をその事務所にした.
 兵庫署内部の警備について,彼ら戦勝国民に襲撃された場合,全署員は重要書類を持ってただちに裏口より避難し,あとは山口組組員がこの迎撃に当たり,同署の屋上から数本のドラム缶に重油をいっぱい詰め,これを落下させるとともに,さらに手榴弾3箱,約40個を投下し,彼らを大量に殺傷させ,相手がひるむすきに山口組抜刀隊による決死隊が日本刀や拳銃を持って殴りこむという,戦闘作戦計画が警察幹部との間でなされたのである.
 今思えば心寒い国際問題であるが,所詮,みずからの手では治安維持は不可能であり,毒をもって毒を制するという市および警察当局の考えであったろう.
 そこで警察幹部署員は組員各位に清酒を振舞ったうえで,相手を殺傷した場合は,その罪を問わず,裁判所の裏口より釈放することを確約.
 捕虜にだけはならないよう注意し,殺傷したときは奨励金,ならびに見舞い金を与えることを申し述べ,多いに山口組組員の士気を鼓舞したのだった.

 こうして一同,部署についたが,結局,兵庫署に対する襲撃はおこなわれなかった.
 これは山口組の気力に屈したのか,はたまた彼らのうち一部知識人の警告によるものであろうか.
 兵庫署襲撃事件は未然に防がれ,治安当局のメンツはかろうじて保たれたのである――.

 現在ではとうてい考えられぬことであろうが,当時はそれほど警察は戦勝国民に対して無力だったのである.
 その暴虐非道に対して身を挺して楯となり,防波堤となったのは全国のやくざであった.
 その例は昭和21年7月に東京・新橋で起こった松田組との抗争事件をはじめ,渋谷署襲撃事件,浜松事件,熱海事件などがある.
 こうした動きは全国に広がり,神戸もまたその例に漏れなかった.
 われわれが率先して治安を守らねばならぬ時代だったのだ.

 〔略〕

田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.148〜167

 余談だが,のちに兵庫県警は昭和40年代から,国の後ろ盾を得て山口組壊滅作戦を展開し,著者は窮地に陥る.
 皮肉としか言いようがない.

 【質問】
 終戦直後の満州の行政はどうなっていたのか?

 【回答】
 北原白秋が作詞し,山田耕筰が作曲した童謡「ペチカ」は,元々,南満洲教育会が音楽教材用に制作を依頼したもので,哈爾浜の長い冬の夜がモチーフになっていました.

 当時,満洲は理想に燃えた人々が多く渡り(一方で食い詰めた農民や過激派も渡った訳ですが),左寄りの人物さえも受け入れる土地でありました.
 例えば,満鉄付属地の学校要員養成機関として満洲教育専門学校を設立した責任者の満鉄地方部学務課長保々隆矣は,国定教科書を「珍品」と決めつけ,教育勅語の文字だけに捕らわれた道徳教育,政治教育の欠如,水準の低い師範教育も批判して憚らない人物でした.

 斯うした人々がいた為に,都市部には歯科診療室を備えた学校が幾つもあり,栄養士による給食の実施,養護学級の設置など,先進的な取組みを行い,日本が戦後,漸く取り入れた学校教育の取組みより遙かに先を行っていた訳です.

 しかし元はと言えば,満洲は他人の土地に強引に押入って打ち立てた幻の国家であった訳で,1945年8月9日にソ連が侵攻すると呆気なく崩壊してしまいました.

 そのソ連,8月14日に中華民国との間で,対日戦遂行に関する相互援助,単独不休戦・不講和,日本の再侵略措置の防止措置を共同で実施,相互の主権と領土の尊重を骨子とする中ソ友好同盟条約を調印します.
 その結果,ソ連は中華民国に,外蒙古の現状維持,大連港国際化とソ連の海軍基地としての旅順口の租借権回復,中ソ合同会社での東支鉄道と南満州鉄道の共同経営,満洲の中華民国の主権を認める代り,ソ連の優先的利益の擁護を認めさせる事に成功します.

 本来,ソ連は日本降伏後3週間以内に東三省から撤兵を開始し,3ヶ月以内に撤退を完了する事になっていました.
 即ち,南部満洲から11月14日まで,中部からは20日まで,12月3日に満洲全域から撤退するスケジュールになっていました.
 ところが,実際には1946年4月迄居座り続け,シベリアに在留邦人を多く送り込むと共に,各地で賠償と言う名目の略奪を行います.

 先ず,新京の満洲中央銀行の金庫から旧満州国の満銀券7億円,有価証券75億円,金塊36kg,白金31kg,銀塊66kg,ダイヤモンド3,705カラットを持ち出したのを始め,各地の金融機関から現金,有価証券,貴金属類を根こそぎにした他,郵便局も接収され,旧満州国の切手を押収しました.

 その他,アメリカのポーレー委員会の調査では,電力産業71%,炭砿付属施設90%,鉄道施設80%,機械工業75%,液体燃料工業50%,化学工業50%,洋炭工業50%,非鉄金属工業75%,繊維工業75%,パルプ工業30%,電信電話20%以上の各施設が被害を受けて破壊されたか,ソ連による撤去で持ち去られたもので,被害総額は当時のレート,1ドル4円20銭に換算して8億9,350万ドルに達しました.

 お陰で郵便切手などは存在せず,郵便料金収納済の消印を押す事で郵便局は対応したりしています.
 流石に満洲元号は使われず,民国歴に戻しましたが.

 これら切手類はソ連が満洲から撤退した後も,ソ連が租借していた旧関東州に持ち込まれ,現地接収の日本切手と共に加刷して使用されていたりします.

 この地域では,ソ連が撤退後に入った国府軍によって中国郵政の権威は取り戻していました.
 中国郵政では,東北地域で流通する切手として,日本占領時代に,北京で印刷された日本軍占領地域用切手を没収してそれに充てる事にしていました.
 但し,その切手には「限東北貼用」と言う加刷と満洲中央銀行券に対応した額面を加刷していました.

 これは,東三省では依然として満洲中央銀行券(満洲国幣)が略奪を受けつつも,最も信用のおける通貨として通用しており,中華民国幣(法幣)との間に大きな為替差があった為です.
 この為替差は,1946年2月で満洲国幣1円に対し法幣13円に達しています.
 この為,中国本土の切手を其の儘持ち込む事は新たな投機対象となってしまいますから,加刷を行った訳です.
 その満洲国幣は,1947年の国府中央銀行が発行した東北流通券に交換されて流通されるまで有効でした.

 本来は国府政府としても,日本占領時代の切手を使いたくはなく,香港で製造された新しい切手を使用するつもりだったのですが,期日までに香港製が間に合わず,急遽日本占領時代の切手を使用したものです.
 香港製のものは1946年3月から使用され始めましたが,切手の配給量が非常に少なかった為,日本占領時代の切手に加刷したものも並行して使用されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月01日


 【質問】
 戦後直後,日本人民労働組合の,満州日本人社会の支配ぶりは,どんなものだったか?

 【回答】
 同胞いじめを繰り返したため,共産党の信用を落とす結果になった.
 当時,大連在住の安江弘夫は,以下のように述べている.

 〔コズロフ中将の警備司令官就任後,〕野坂参三の率いる日本人民解放連盟のメンバーが主力となって組織された日本人民労働組合が,唯一の認められた機関として日本人社会を支配するようになった.
 そして,日本人民の解放でなく締め付けにかかり,青年層に対しては地区毎に講師が来て共産主義教育を行ったが,なにぶん日本最高とも思われる生活レベルで育ち,教育程度も高いので,講師は馬鹿にされるだけであった.

 この組合幹部の中には,満鉄調査部出身の石堂清倫のような「インテリで良心的なマルクス教徒」もいたが,レベルの低い連中も多く,彼らはソ連軍の具体的な指令もないのに,人民裁判などの手段で同胞いじめを繰り返した.
 そのため彼らの悪名は高く,後に引き上げが始まると,引揚船や上陸港の引揚者掩護局の収容所の中で,逆に彼らが彼らの言う人民たちから吊るし上げられ報復されることになり,大連からの引揚者に関する限り,共産党は全くその信用を落とした.

 だいたい,大連で日本人が悲惨な目に遭っている最中の21年1月26日に,野坂参三は日比谷公会堂で,
「満州の残留法人は中国共産党,ソ連の庇護の下に,生活不安もなく,安全に暮らしている」と演説しているのである.
 彼は国籍を取り間違えていたとしか考えられない.

(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,八幡書店,1989/8,p.246-247)


 【質問】
 イラク戦争およびその後の統治を見て思ったんですが,日本では敗戦後,スムーズに武装解除できたのは何故ですか?
 また,敗戦後,進駐軍に対するゲリラ行為ってあったんですか?

 【回答】
 日本では,最高指導者である天皇陛下の名で国民に降伏が宣言され,それで(心中の問題はあれど)みんなが「敗戦」を受け入れたから.
 それと,イラクと違って大日本帝国の行政組織は健在で,そういう意味では市民の生活にも軍事力の制御にも変化はなかった.
 イラクがあんな状態になっちゃってるのは,政府首脳がみんな逃げて,無政府状態になっちゃった所が大きい.

 日本軍人で「マッカーサーを殺してやる!」と叫んでた人は少数いたが,実行した(できた)人はいなかった.
 上述のように,軍人も国民も「敗戦・占領」という事態にある程度は納得していたことと,進駐してきた米軍が,日本人が思っていたのに比べると遥かに紳士的で,食料の提供など”いい面”をもたらしてくれたから.

 もちろん進駐軍兵士による犯罪は結構あったけど,
「旧軍に比べればずっといい人達かもしれない.それに,生活も戦時中よりずっとマシになったし」
と国民は思ったので.

 そういったメリット感をほとんど与えることが出来なかったのが,アメリカのイラク占領統治の大きな失敗.

 なお,進駐軍の軍用車のガソリンタンクに角砂糖を入れるか,マフラーに石を詰めてエンコさせるのが,地域的に流行.
 また,一部の武道家達がMPを闇討ちするなど,イタズラ程度のイヤガラセはしたそうだ.


 【質問】
 日本の敗戦時に,接収した戦車や航空機にガソリンをかけて燃やす映像をよく見ますが,鍋等の生活必需品に再利用はできなかったんでしょうか?

 【回答】
 沈没した戦艦などは引き揚げ,その鋼材は有効活用されています.
 航空機に関しては,外地の一部(仏印とか中国とかインドネシアなど)では,残置機材を活用して自軍の装備に組み込んだ例もありました.

 但し,航空機に関しては,8月24日18時以降の飛行を禁じる勅令が出され,耐空証明も返上することになったため,飛行が出来なくなりました.
 更に進駐した米軍の基準によると,日本の基地設備は狭く,そのスペースを拡張するために航空機を破壊することになり,Bulldozerや焼却処分を行ったので,日本はアンタッチャブルだったものもあります.

 ちなみに,戦後の軍需工場はその余剰資材を利用して民需転換を図っており,例えば,中島の太田工場では航空機用ジュラルミンを利用してバスのボディを作ったり,電車の車体を作ったりしていました.
 電車の車体については,腐食が激しく,殆ど使用しないうちに廃車となりました.
 また,川西の様に,鍋や釜をジュラルミンで作って糊口を凌いだ例もありますし,日野の相模工場の様に,戦車の車体を利用して,トラクターを作ったり,トレーラーバスを作った例もあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 因みに,航空用ジュラルミンは一般的なアルミ合金と比較すると特殊なので,スクラップとして引き取った場合の地金としての価値はほぼゼロだそうです.

戦後,棄却のために集積された航空機


 【質問】
 戦後の日本で,あまり米軍に対する「抵抗運動」が少なかったのは,日本全体が戦意喪失するほどボコボコにやられたことも関係しているのですか?

 【回答】
 それもありますが,アメリカが「戦勝国にして征服者」にしてはかなり寛大な条件で日本を扱った,というのもあります.アメリカ軍が聖人君子というわけではありませんでしたが,ドイツの敗戦の有様とか,あるいは赤軍@ベルリンのような,なんでもありの惨状などに比べればマシだったのは確かですから.

 日本の場合,ポツダム宣言を受けいれ,海軍では大海令・陸軍では大陸命という,全軍に対する最重要命令を出し,戦闘を停止するように厳命し,それらはほぼ守られました.
(宇垣中将が米艦に特攻をかけたり,坂井三郎氏が迎撃で戦闘をしていますが,後者は正当なものなので例外です)

 米軍が日本に進駐するにあたり,道路では日本兵が警備に当たっていたほどですので,抵抗運動は国内においては無かったと言ってもよいでしょう.
(背を向けるという,ちょっと大人気無いことはしていますが)

 玉音放送を阻止し継戦・玉砕しようとした動きもありますが,これらは封じられました.
 天皇という絶対的な政治的・精神的権威が存在し,500の言うように行政統治機構が生きていた事が,抵抗運動を封じ,速やかな占領行政への移管と主権・独立回復につながったと言えます.

軍事板

 【関連リンク】
大海令とは
http://www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/kairei/daikai.html

七氏 in FAQ BBS

横須賀海軍工廠の鍵の引渡し


 【質問】
 「おろか者の碑」は,「太平洋戦争の勝利をあくまで信じていた人たちが,敗戦後,反省のために建立したもの」?

 以下引用.

----------------
 これは太平洋戦争の勝利をあくまで信じていた人たちが,敗戦後,反省のために建立したもので,碑面には次の七音絶句が刻まれている.
 上州人無智亦無才
 剛毅木訥易被欺
 唯以正直接万人
 至誠依神期勝利

 これを大雑把に和訳すれば,こんなふうになるだろう.
「上州人は無智で無才.
 頑固で,ぶっきらぼうで,人に騙され易い.
 誰に対しても,ただもう正直に接している.
 誠意を尽くせば,神風が吹いて,勝つだろうとばかり思っていた」

――山口正二著『聞書き五代目古今亭今輔』(青蛙房(せいあぼう),2003/7/5),p.62-63

 【回答】
 これは高崎市宮元町の頼政神社にある,内村鑑三の『上州人』の漢詩碑のことではないでしょうか?
 内村鑑三は1930年に亡くなっていますので,そもそもこの詩は太平洋戦争とは関係ないものだと思うのですが.
 一方,吾妻郡中之条町にある,おろかもの之碑(これが正式な名称のようです)の碑文は以下の通りです.

 昭和十二年七月七日ノ支那事変ハツイニ昭和十六年十二月八日大東亜戦争トナル日本ノ運命ヲ決スル危機ニ際シ我々ハ当時ノ職務上或イハ一方的委嘱状ニヨッテ一律ニソレゾレ大政翼賛会翼賛壮年団在郷軍人会ノ郡町村責任者トナッタガ敗戦後占領政策ニヨリ其ノ職ニ在ッタ者ハスベテ戦争犯罪人トシテ昭和二十二年二月ヨリ一切ノ公職カラ追放サレタ本意ナキ罪人ハ互ニソノ愚直ヲ笑イ合ッタ昭和二十六年八月全員解除サレルヤあづま会ヲ設立シテ今日モナオ旧交ヲ持シ郷土吾妻ノタメニ聊ノ報恩ヲ期シテイル創立十周年ニ際シおろかものノ実在ヲ後世ニ伝エ再ビコノ過チヲ侵スコトナキヲ願イ卑名ヲ下記ニ連ネテ碑ヲ立テル

昭和三十六年十二月八日
あづま会建立

というわけで,勝利を信じていた人々がいたというわけではないようです.

 出典は以下のサイトより.
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/shimin14shishahabunnretu.htm
 碑文の全文,とあるのでまず間違いはないのでは,と思います.
 当人が見てきたわけではないのでアレですけれども……

SPR in FAQ BBS


目次へ戻る

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップページへ戻る