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Net Bunker」(2010/07/19)◆超映画批評『樺太1945年夏 氷雪の門』70点(100点満点中)

「YouTube」:敗戦の詔勅 (玉音放送) 〜完全版〜

開戦と終戦

玉音放送の内容

音声(2194kb)

●書籍

『八月十五日の神話 〜終戦記念日のメディア学〜』を読書中,『池上彰の戦争を考えるSP』をBGMに<「そっと××」◆(2010/08/15)

『有末機関長の手記 終戦秘史』(有末精三著,芙蓉書房出版,1987.11)

『終戦日記』(大佛次郎著,文春文庫,2007.7)

 単なる流行歴史物の作家かと思っていたのですが,意外に菊池寛みたいな存在だったのですね.

 吉田茂とか岸信介と言った外交官や官僚,政治家,新聞記者,軍人から,笹川良一とか児玉誉士夫と言った連中まで,その日記の中には出て来ます.
 そりゃ,こんな連中と絡んでいるのだから,敗戦直前まで何だかんだ言っても,毎日晩酌が出来る筈ですわな.

 原爆についても,いち早くその存在を知り,原爆の原理とか被害の実相などもその日記に書いていたりするので,彼方此方にアンテナを張っていたのでしょう.
 また,ポツダム宣言受諾についても,新聞記者や岸信介などから情報を入手し,人心安定の為に,何度も新聞に投稿したりしています.

 戦後は戦後で,東久邇宮内閣の内閣顧問なんかにも就いています.
 その中でも彼が注力したのは,東京六大学野球の復活.
 戦後直ぐに,大部分の人々が虚脱している中,精力的に動き回っているのが印象的です.

 とは言え,宮様内閣は10月に退陣すると,結局彼も政治の世界から身を引き,その後は小説作りに没頭する訳ですが.

 巻末には,作品を読んだ子供達に宛てた書簡が掲載されています.
 子供であっても,感想文を送ってくる子供達にはとても優しい小父さんで,その手紙は慈愛に溢れています.

 尤も,日記を書くと言うのは余程暇がある人でないと,あの当時は難しいと思いますけれどもね.
 なかなか読み応えのある本でした.

――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月21日

「終戦秘史」(下村海南著,講談社学術文庫,1985.8)

『第2次大戦に勝者なし』(A. C. ウェデマイヤー著,講談社学術文庫,1997.7)

『「大日本帝国」崩壊 東アジアの1945年』(加藤聖文著,中公新書,2009.7)

『〈敗戦〉と日本人』(保阪正康著,ちくま文庫,2006.9)


 【質問】
 日本軍はマリアナ沖海戦で破れ,サイパン,テニアン,グァムが落ちた時点で何故,降伏し講和条約を結ぶような政策をとらなかったのですか?
 調べたところでは,B-29の存在は知られており,この敗退で本土空襲に晒されるのは明白だったそうですし,無駄な戦いや犠牲を避ける意味でも,この辺りで講和を結ぶべきだったと思うんですが.

 【回答】
 連合国側の事情を言えば,ウェデマイヤー著「第2次大戦に勝者なし」(講談社学術文庫,1997.7)によればチャーチルとルーズベルトが無能だったから.
 無条件降伏など要求しなかったら早期講和が可能だったはずであり,ソ連の牽制にもなって冷戦そのものもなかったはずだとしている.
 ナポレオン戦争と第一次世界大戦を比べても,民主主義は戦争には強いが,戦争の理性的解決には不向きだとわかる.
 激高した民衆がいかに困ったものかは日露戦役で経験ずみ.

 もっとも,米国側にしても,フィリピン等の植民地を押さえられた状態での講和を受け入れるのは困難でしょう.

 一方,日本側の事情を言えば,講和と言うのは負けている側から切り出す場合,それ相応に不利な条件となるのは当然ですし,国民は未だ日本が勝っていると信じ込まされており,更にさほど大規模な戦闘を経験していない陸軍が講和を受け入れるとは考えられませんでした.
 「日本」と簡単に一言で言っても,意思決定に国内の複数の組織や人間の考えが絡んできて,単純に決定を下せるものではありません.

 その後の戦いの惨禍や犠牲が結局は空しかったという考え方は,全て戦後に生きる我々だからこそ可能なものであり,それをもって,
「あの時戦いをやめていれば」
と軽々に考えるのは,後世に生きる我々の傲慢と言えるかも知れません.

     〃〃∩  _, ,_
     ⊂⌒( `Д´) < ヤダヤダ!無条件降伏ヤダ〜!武装解除ヤダヤダ!
       `ヽ_つ ⊂ノ    料亭に行けなくなるのヤダヤダ〜!
                ジタバタ
      _, ,_
     (`Д´ ∩ < 本土決戦やらないとじゃないと,ヤダヤダ!
     ⊂   (     陸軍負けていないのに,無条件降伏ヤダ〜!
       ヽ∩ つ  ジタバタ
         〃〃
             (ヨ
    〃〃∩  _, ,_ ノノ キィィィ 海軍だけ降伏しる!陸軍降伏ヤダ〜!!
     ⊂⌒(#`Д´)illi   < ヤダヤダヤダヤダヤダヤダ!!
       `ヽ_つ⌒ヽ(ヨ) (     ヤダヤダヤダヤダヤダヤダ!!
            ⌒Y⌒ ドンドン

       ∩  _, ,_
     ⊂⌒( * ゚∀゚) <天皇制存続なら降伏イイ!
       `ヽ_つ ⊂ノ

          _
         ,:': : : : ヽ
        iュ: : : :ィュ:i} 無条件じゃないだろ,コラッ!
        |:i: : :-:i::i/
         /イニ.ソノi
      // - /:/.}!       i})ポン!
        iハ__イ:f. |____、 /
     /    ,r|. |‐┴〆   _,、_ '⌒☆
     !ニニ= -イ__|. |     ∩`ロ´)叩かれるのヤダ〜!
      |_ヽ ヽ厂 二i¬,   (_-、 C
    / ハ_i´ト、二_ノ r- }     i_ノノ
     ̄ └'――┴‐'´


 【質問】
 終戦直前の,皇室資産隠匿工作について教えてください.

 【回答】
 これはアメリカ人ジャーナリストポール・マニングなどが主張しているもので,マニングの『米従軍記者の見た昭和天皇』によれば,1944年1月,敗戦の可能性が濃いと聞いた天皇と,木戸幸一内大臣は,金塊を連合軍の手の届かない場所に保管すれば,戦後の皇室の安定に繋がるだろうと考えたという.
 木戸は,皇室財産保全を第一に考え,主な銀行幹部を集めた会議を開催した.
 そして国内に保管されていた金塊を売却,その利益を連合軍の手が届かないスイスなどの第三国に送金したという.

 徳本栄一郎によれば,これは英外交文書と一致するため,信頼性は高いという.

 そして糸井重里が発掘番組を(うそ)

 【参考ページ】
『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5),p.162-163

【ぐんじさんぎょう】,2010/07/31 21:00
を加筆改修

 その金塊等皇室資産も宮内省が管理し,戦後は大蔵省(現財務省)が管理したとか.
 北海道にある土地も,湿地などの原野で,やはり宮内省管理,戦後は国土庁(現内閣府)が管理していました.
 猪瀬直樹さんの本に書かれていましたね.

バルセロニスタの一人 in mixi,2010年07月23日 21:37

 【余談】
 これは(笑)
 見てはいけないものを発掘してしまったような気がする(笑)

 例のブログ市長の日記です.
 空白には「天皇」を補って読んでください.

――――――
2007/06/07 (木)   について考える 1

 〔略〕
 しかし,その右翼構成員の間でさえ「   家はユダヤ教徒だ」という情報が広がっている.
 洗脳システムにほころびが出始めている証拠だ.

 そうであっても立ち直る見込みのない,無能そして国賊的日本政府のていたらくは,殺人総合商社アメリカの商売の成功を示すものである.

 1900年初頭から   の命令の下,
「海外に行けば良い仕事があり,豊かな生活が出来る」
という宣伝が,日本全国で大々的に行われた.

 日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は   言葉を信じた.

    によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人.

 こうして日本人女性の「販売業者」として   一族が蓄積した財産は,第2次大戦後,日本に進駐してきた米軍GHQの財務調査官により調査され,当時の金額で1億ドルを超えると記録されている.

   はヒトラーに請願し,ナチス・ヒトラーの口座の中に「   裕仁」のセクションを作ってもらい,そこに   一族の蓄財を隠していた.

   とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり,ナチスと   は一体であった.
(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館).

 1924年,米国は「排日移民法」という法律を成立させる.
 日米関係はまだ険悪ではなく,日本から余りに多数の若い女性が,「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し,それを禁止した法律であった.
 日本人女性をだまし,売春婦として米国に「売却」する   の売春ビジネス=移民を米国が禁止した,それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと   自身が独白しているのである.
――――――

 オナカイッパイを通り越して逆流してきた(笑)
 障害者差別の記事があったとかどうとか,マスコミはブログ市長を熱心に攻撃するのに,この天皇批判のエントリをマスコミがスルーしているのは,がちの陰謀.

2010年03月11日 03:54,バグってハニー

 そういえばこの間,2月11日に橿原神宮へ右翼ウォッチングに行ったところ,「双頭の鷲」と「菊紋」を重ねた街宣車がありました.
 もしかしてこれって…!

2010年03月11日 05:43,ヨシフ

 この人,確か大室寅之祐=明治天皇説を信じてたはず(笑)

2010年03月11日 09:17,島の人

以上,「軍事板常見問題 mixi別館」より
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 終戦間際,良子皇后から赤十字に対して行われた巨額寄付について教えられたし.

 【回答】
 1945年4月,日本政府から赤十字国際委員会に対し,良子皇后が1千万スイスフランの寄付をしたいとの申し入れがあり,終戦数日前,焼け野原の東京において,国際赤十字代表団と日本政府との間で手続きが完了した.
 しかし終戦時,連合国との協議の結果,スイス当局がこの寄付のあった銀行口座を凍結.
 英国政府は,「この資金は英国政府が日本領の英国人戦争捕虜の救援用に送った資金であり,英国に返還するのが筋」だとして政治問題化したという.

 1千万スイスフランは邦貨で十数億円分.「うまい棒」千数百万本分.

 【参考ページ】
『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5),p.158-160

【ぐんじさんぎょう】,2010/08/02 21:00
を加筆改修

 うまい棒,最近マーボ味が出たよ〜

ベタ藤原 in mixi,2010年07月25日 09:54

 せんせー,では「んまい棒」に換算すると,どのくらいの量ですか?

ぎんなんそう in mixi,2010年07月25日 12:48

「それはズラに聞け.
 あと,大西,関係ないけどお前は廊下に立ってろ」

銀八先生

 江戸東京博物館にうまいモングッズが売ってました.いいのか?

koz@ in mixi,2010年07月25日 11:33

 50万円あったら,サングラスを買うか,うまい棒を買うか,議論したことある・・・
 自転車ロードレース実況で.

赤の9番 in mixi,2010年07月25日 14:41

「天皇家の財産隠しの証拠だ!!11!」
って誰かが言い出すに,うまい棒1本.

 当たったら,有明のお祭り参加時にでもお渡しするということで(をい

あっとさせぼ in mixi,2010年07月25日 10:08

 金持っている人はもっているということなんですよね.

風船 in mixi,2010年07月25日 21:39

 しかし同書によると,その関係資料が閲覧禁止,もしくは破棄されているという話だったと思いますが,いったいどんな決着がされたのか気になるところです.

寄星蟲 in mixi,2010年07月26日 19:40


 【質問】
 皇室財産隠匿工作に対し,GHQはどう対応したか?

 【回答】
 終戦直後,GHQは皇室財産の詳細情報を求めたが,空襲で行方不明などと説明された.
 マッカーサーは,隠匿工作について承知していたが,彼には他にやることがたくさんあり,また,日本再建も優先事項の一つだったため,それを無視した.
 実際,隠匿財産は戦後日本の再建にとって,大いに役立ったという.

 【参考ページ】
『英国機密ファイルの昭和天皇』(徳本栄一郎著,新潮社,2007.5),p.163

【ぐんじさんぎょう】,2010/08/15 21:10
を加筆改修


 【質問】
 戦争を終結させる為には原爆投下しか無かったのですか?

 【回答】
「敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シ・・・」
 終戦の詔勅で明確に指摘してるのは,2個の原爆だ.
 それだけの効果を与えていたことは否定のしようがないだろう.

(呉の床屋)

 しかし,仮に原爆がなかったとしても,昭和20年12月頃になったら餓死者がゴロゴロ発生し,継戦は事実上不可能になっていたろうというのが,当時の日本の政府調査の見解.
 米の配給量を必要最低限以下に減らしても足りないという計算だった.

▼ 『本土決戦』(学研,2007.9)によれば一例として
国民生活:
 地方財政は昭和12〜19年で二倍になったが,物価は三倍になり事実上縮小.
 さらに財源・物資・労力の不足が水路整備や道路舗装計画が頓挫.道路事情の悪化が流通の阻害を招き,自給自足生活を強いられ,国民生活がさらに低下.

[quote]

 米空軍のカーチス・ルメイ少将は「日本を石器時代にする」といきまいていたが,無理をせずとも日本の生活水準は弥生時代程度に退化しかねなかったのである.」
(P.154)

[/quote]

グンジ in mixi,2007年12月31日14:30▲


 【質問】
 ソ連を仲介とする,日本の和平工作について教えられたし.

 【回答】
 さて,1943年後半になると,日本政府も漸く目が覚めてきます.
 今まで,「バスに乗り遅れるな!」とばかりに,勢いで英米との戦闘に入り込んだのは良いのですが,終結の方法を全く考えずに来たので,イタリアが脱落し,ドイツの継戦能力も怪し事が判明すると,「バスに…」派は一気に蒼白となり,何も考えられなくなってしまいました.
 そこで,今まで脇に追いやられていた人々が蠢動し始めた訳です.

 外務省では,それが重光外相でした.
 重光外相の構想は,前にも陸軍が検討し,結局は断念した様に,日本をしてドイツとソ連の戦争を終結せしめ,それに乗じて日ソ関係を修復して,ソ連に恩を売り,彼の国を仲介に,米国,英国との戦闘に終止符を打つ事でした.

 こうした問題を話し合う為,ソ連と西欧諸国に特使を派遣しようと考えた重光外相は,早速特使派遣についての調整を佐藤大使に訓令しました.
 この訓電を受けた佐藤大使は,即座に始めから出来ない相談であると考えたのですが,重光外相が国内で苦闘している事を察して,兎に角動いてみる事にしました.

 9月10日,佐藤大使はモロトフ外相に会いにクレムリンを訪れ,モロトフ外相に対し,日本政府は在ソ大使の努力を強化し,且つ日ソ関係についてソ連政府に対する正確な以降を伝達する目的を持って,日本政府を代表する重要人物を派遣したい意向であり,特使はモスクワでソ連政府との間に意見の交換を行った上で,トルコ経由西欧に赴く予定となっている.
 ついては,ソ連政府はこの特使に対して旅行の便宜供与を応諾されるであろうかどうかを確認し,補足説明として,特使はモスクワで意見交換の上は,事情視察の為西欧に赴き通過各国の重要人物と会見する事となるであろうが,帰国時には再びソ連政府との間に会談の機会を持つ事となると述べた上,この特使派遣についての申し入れは,イタリア崩壊とは特に関係がない事を強調したいと述べています.

 これに対しモロトフ外相は,特使派遣の具体的目的と特使の性質について質問してきた為,佐藤大使は,訓令の内容は申し入れ通りであるとしながらも,個人的見解として,特使が佐藤大使自身がソ連政府に対して採ってきた方針を基調とする事は明らかで,特使が西欧訪問後モロトフ外相と会見する場合には,モロトフ外相と特使との間に日ソ双方の為に興味ある話題について話し合うであろうと考えていると答えています.

 しかし,モロトフは更にこの申し出には何ら具体案が含まれていないとして,特使の目的は専ら日ソ関係に特化するのか,それ以外にも何か関係するのであるのか,と更に質問を重ねてきます.

 これに対し佐藤大使は,特使は西欧訪問を希望しており,その訪問後,モロトフ外相との意見交換を希望する為,その会談の対象は日ソ間の利益に関する多数の問題に触れる事になろうし,同時に日ソ両国に共通の現在の問題にも触れる事となるべく,かつ我々の為に利害関係を有する西欧の問題にも触れる事になるであろうと述べ,特使の取り扱うべき問題は日ソ関係だけでなく,広範囲にわたるものであると説明していました.

 では,と,モロトフ外相は,具体的に特使がソ連との交戦国に赴くのかどうかを尋ねてきます.
 佐藤大使は,その交戦国が日本の同盟国である以上,同国に赴く事は大いにあり得る事であるが,これが独り日本だけの利益を図るものではないとし,特使の目的は佐藤大使の補完にあり,その西洋旅行も又,現在の日ソ関係の増進の目的を逸脱する様な使命を課せられ得るはずはないものと解される点からも,明白であると答えました.
 また,佐藤大使は,もし,特使に対し何らかの注文があるのであれば,あらかじめ相談に乗っても良いと答えています.

 9月13日,早くもソ連側は回答を寄せてきました.
 その結果,これはソ連とその交戦国との間に休戦,もしくは講和の素地準備の為の仲介を為さんとする試みと見做すものであり,ソ連政府は日本政府の平和的努力を多とするものであり,他の事態であれば,ソ連政府はその試みを歓迎する事であろうが,現時点では,ソ連政府はヒトラー・ドイツ及びその欧州に於ける同盟国との休戦もしくは講和の可能性は全くないものと見做していると回答し,9月10日に申し入れた佐藤大使の提案は受諾し得ないとした訳で,佐藤大使の当初の予想通り,ソ連は日本的にこの虫の良い提案に乗ってきませんでした.

 因みにこの提案については,クルスク敗退後にリッベントロップ外相が重光提案に興味を示し,覚書にしてヒトラーに提案しています.
 ヒトラーはこの覚書を無碍にせず,暫し沈思黙考しましたが,ヒトラーの答えも,ソ連は恐らくその日本案には乗ってこないだろうと言うものでした.
 ただ,9月23日にゲッベルス宣伝相との会談で,モスクワと交渉を始める事がどれだけ適切であろうかと述べ,意見を交わした事が,ゲッベルス日記に書かれています.
 この時の結論も,結局ソ連は和平に同意するはずはないであろうと言うものでした.

 歴史にIfはありませんが,もし,この時にスターリンやモロトフが特使派遣を受入れていれば,もし,ヒトラーとの和議に応じていたとすれば,日本はこれほどまでにズタボロにはされずに済んだかも知れません.
 まぁ,国内で血をいくらか見たかも知れませんが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/11/22 23:31

▼ 何か足掻けば足掻くほど,泥沼に入っていく様な感じです.
 せめて下が主体的に動いてくれれば,こちらも少しは楽出来るのですが,業者に総てお任せという態度を取っているので,その孔をこちらが埋めねばなりません.
 結局,全然,こちらの想定通りに進まず,ストレスばかりが溜まっていきます.
 しかも,今日は靴底がペロンと剥がれたのが見つかったし….

 ああ,避暑にでも行きたい気分です.

 さて,逃避したいと思ったのは,独り私だけではありません.
 1945年の日本も,あわよくば泥沼から抜け出したいと足掻いていました.
 しかし,様々な人間が好き勝手に動いたので,結局,総ての工作が上手くいきませんでした.
 しかも,一番頼るべきでは無い相手に頼ったのが,総ての間違いの元でした.

 1945年4月,既に欧州での戦闘は終局を迎えつつあり,ソ連は4月末にベルリンに突入しました.
 4月29日,通り1つ1つを挟んだ戦闘の末,ベルリンの国会議事堂には赤旗が翻り,ヒトラーは自殺します.
 そして,5月8日には政府も力尽きて無条件降伏し,ドイツ第三帝国は崩壊しました.

 こうなると,全世界を相手に戦っているのは,独り日本だけとなります.
 4月には米軍が沖縄に上陸し,本土に刻一刻と迫り来る状況になりました.

 こうした中,ソ連はドイツ降伏前後から続々と部隊を後方に返し始め,相当の兵力と武器とを,シベリア鉄道を通じて東へ東へと輸送する様になり,それはシベリア鉄農の旅行者の話でも明らかな事実であり,軍事専門家の眼からすれば,これは正に憂慮すべき状況でした.

 この国難にありながら,1945年4月5日,小磯内閣は在任9ヶ月余にして総辞職し,7日に鈴木内閣が誕生します.
 今や戦争は現実を直視する限り,日本に利のないことは誰の目にも明らかでした.
 そこで,各種の「終戦工作」なるものが行われることになります.

 ソ連側資料に依れば,既に2月15日の時点で,哈爾浜駐在の宮川船夫総領事が,古い知人と言う事でマリク大使を訪問して会談したが,その際宮川は,権威あり説得力のある国際活動家が調停者として,総ての国に戦争の停止を要求すべき時が到来したと為し,そうした権威ある活動家としてはソ連の首脳以外に無く,もしソ連の首脳が提案するならばヒトラーも戦争を停止すべく,ルーズベルトもチャーチルもその提案に反対しないであろうとの見解を述べたと記録されています.
 また,3月4日には,日魯漁業のロシア領水産組合長であった田中丸祐厚がマリク大使を訪問の上,ソ連だけが効果的に戦争の停止と平和を呼びかけ得る国であると繰返し述べ,3月21日に再度訪問した時にも,前述の案について重光外相に何らかの提案をしなかったかとマリクに執拗に質問しています.

 因みに,宮川総領事は日本に於てソ連の事情に精通した第一人者であり,田中丸祐厚は広田元首相と関係の深い人であったが故に,ソ連側はこの両人のアプローチを以て,対ソ瀬踏み工作と見做したようです.

 欧州では,重光外相と東郷外相の両外相の執務時期,スウェーデンのバッゲ公使が自発的に和平斡旋の労を執ることを各々の外相に申入れ,それを是としたと言う記録が,各外相の回想録に記されています.
 しかし,最終的には5月25日,在スウェーデンの岡本公使がバッゲに対し,調査の必要があるので回答には相当期日を要する旨伝え,この交渉は事実上打ち切りとなってしまい,これ以上の進展はありませんでした.

 また,スイスでは藤村芳朗海軍武官が,4月下旬から6月にかけて,米国の在欧ダレス機関と接触しながら極秘裏に和平の瀬踏みを行うも,海軍首脳部の反対に遭って沙汰止みとなったとされています.

 6月頃からは岡本清福陸軍武官が中心となって,在バーゼル国際決済銀行理事の北村孝治郎氏,同じく同銀行為替部長の吉村侃氏等により,人を介して矢張りダレス機関に対し和平工作を進め,加瀬公使をも交えて東京に請訓したものの,東京がこれに反応を示さず,これまたチャンネルは切断されました.

 一方,東京では,河辺参謀次長が東郷外相を往訪し,ソ連の参戦防止について懇望する所があり,小沢軍令部次長からも同様の申し出があり,更に梅津参謀総長からも同様の申入れがありました.
 東郷外相としては,ソ連の参戦阻止の交渉の如きは既に時機を逸したことと認めながらも,戦争終結の観点からソ連との関係に対処しなければならないものとみて,終戦工作の意図を固めるに至ります.

 5月中旬,鈴木首相,東郷外相,阿南陸相,米内海相,梅津参謀総長,及川軍令部総長が出席して再考戦争指導会議が開催され,対ソ問題が討議されます.
 会議では種々の議論がありましたが,結論としては,まずソ連の対日参戦防止に努め,進んで好意的中立を獲得し,延いては戦争の終結に関し我が方に有利な仲介を為さしめる目的を持って,速やかに日ソ両国間の話し合いを開始することにありました.
 他の交渉が尽く潰えたのは,よりによって,日本の政治指導部が,一番警戒を要すべきソ連に目を向けたからに他なりません.

 こうして東郷外相は,その決定に基づき,対ソ交渉開始に乗り出します.
 その第1段階として,広田弘毅元首相に対して,マリクソ連大使との交渉を委嘱します.
 広田元首相は,6月3日夕,箱根強羅ホテルにマリク大使を訪問して会談しますが,この会談は,此の後幾度も重ねて開催されるに至ります.

 広田は交渉の席上,先ず今次の大戦に当たって,日ソ両国が干戈を交えるに至らなかったことを幸いとし,日本としては変転する事態に於てアジアの安全を希望し,アジアに於て大なる部分を領有するソ連に,その安全の基礎を見出すものであることを述べましたが,マリクも今次戦争中平和の事態に於て任務の遂行しうることを喜ぶ旨を答えました.
 しかしマリクは,日本には外国筋の影響を受けた諸勢力があり,殊に軍人及び政治家中にそれがあって,日ソ国交上悪影響を与えてきたことを指摘します.
 これに対し,広田は,現在に於ては自分の知っている多くの者は対露提携論者であること,及び過去に於ても伊藤博文,後藤新平の如き親善論者があったことを説き,自分もその流れを汲むものの一人であることを述べました.

 4日,マリクは広田を夕食に招待しましたが,その席上で広田から,ソ連は戦後復興に努力し,又欧州に於ては失地を回復した上,隣国との関係改善に意を用いているものとみられる所,当方に於ても同趣旨の考えを有することと思考されるが,日ソ両国間には中立条約が遵守されているので何ら懸念する要は無いにしても,後1年で期限満了するに付き将来のことを考える必要があり,その期限内にでも日ソ友好関係を増進したい意向なのでその形式などを目下研究中の所,それに対するソ連政府の大体の意向なりとも承知したい旨を述べます.

 それに対しマリクは,アジアの安全問題については昨日日本側方針の大要を承知したが,日ソ華三国関係に関する具体的形式は如何するつもりかと言う質問を投げかけます.

 広田は,日中間には現在戦争が行われている関係もあり,中国の事については目下の所明瞭な事を言い得ないが,少なくとも日ソ間については従来存在した友好関係を一層推進していき,中国に対しても同一の考えを有する国家として,暫時参加方を誘導したいと考えていると答えています.

 次いでマリクは,ソ連に於ては終始一貫平和政策を遂行してきたいにも関わらず,ドイツの如き国家が存在した為独ソ開戦となった次第で,当方殊に日本に対しても同様平和政策を以て努力してきたにも関わらず,反対勢力が強かった結果所期の成果を挙げるに至らず,従って一種の割りきれない感情乃至後味を残し,自ずから不信任及び安全欠如の感を与えることとなった所,これを払拭するについて如何なる具体的方法を考慮しているか問うてきました.

 広田は,暫時日本に於てもソ連の態度を正解するものが多くなってきたので,この機会にかねての念願である日ソ関係の根本的改善に乗り出したい意向で,ソ連側の意向をも聴取の上その方向に運ぶべく,又ソ連がサンフランシスコ会議に於てインドなどの独立を主張している点なども,結局東方に於て日本が遂行しつつある所と軌を一にする次第であるから,これらの点をも加味し,相当長期間に亘って日ソ間に平和関係の持続するが如き方途を立てたいと述べ,我が方として条約など形式の如何は問う所でも無いと言い添えました.

 マリクは,それに対し,この意見は私見か,日本政府の意向であるかを尋ねます.

 広田は,この意見は日本政府及び国民の意向であると諒解されたいと述べました.

 マリクは,昨日と本日の両日の会談で,日本側の意向を大体承知したので,しかと研究の上試験を開陳することとしたく,若干時日を戴きたいと述べます.

 広田は尚も,根本の考えは両国間に長期に亘り相互に不安の無い国交を維持する基礎を立てたいことに他ならないのであり,この考えさえ決定すれば,他の枝葉末節の問題は自ずから解決を見出し得べく,現在こそは根本問題解決上絶好の機会であると考えられるばかりで無く,外務省は勿論政府全体としてもその機であるのを幸いとして乗り出したものであると述べました.
 そして,この問題に関して,ソ連政府の早急の回答を希望しましたが,マリクは充分研究の要がある為,早くても来週初めとなろうと述べました.

 そして,馬鹿正直にそれを信じた広田は,翌週末まで待った挙げ句,会見の申し出が無かったので,6月17日,マリクを食事に招待しようとします.
 しかし,マリクはそれを多忙によりとして断りました.
 窮した日本側は,6月24日午後にマリクの下に広田を遣り,前回の申し出に対するソ連側の意向を質問しますが,マリクは前回に対する態度をがらりと変え,広田の提案は抽象的であるから,これに対する具体的見解を承知した上で,本件会談を本国政府に報告すると繰返すのみであり,とりつく島もありませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/18 23:19
青文字:加筆改修部分

 さて,広田とマリクの終戦工作は,順調に滑り出したかに見えましたが,直ぐにマリクが広田と会わなくなり,頓挫してしまいます.
 終戦を焦る政府首脳部は,広田に対し,マリクから回答を得る様に命じ,6月24日,漸く広田・マリク会談が実現しました.

 しかし,マリクは前回の態度を翻し,広田の提案には具体的なものが何も無い,と突き放しました.
 そこで広田は,従来の日ソ関係に鑑み,国交改善の障害となる虞のある諸問題を解決しようとするものであるが,満洲ソ連間の経済的及び政治的関係に関するソ連側の要望については,我が方に於て充分考慮する用意があり,また中国に対する日ソ両国の考え方は一致していると考えられるので,腹蔵無き態度を定めうるものと思考され,なおまた,南方熱帯圏に対するソ連の経済的希望についても,充分考慮する用意があると説きます.

 これに対し,マリクは,日ソ関係の直接関係から生じる諸問題については暫く待つこととするも,他の点については具体的な意向を承知した上でなくては本国政府に報告し得ないとして一蹴しようとします.

 広田は,自分の述べた意味をその通り解釈すれば,話し合いによって解決し得ないものは無いと考えられ,日本側としても相当の用意があるが,ソ連側がそれに対しどの程度に満足するかについて,大体の意向を知りたいと答えました.

 つまり,ソ連は日本に対しどの様な権益を提供する用意があるかが判らないと突っぱね,日本はソ連に対し,ソ連側の意向を聞かなければ,具体的な議論には入れないとし,話し合いは平行線に終わります.

 6月29日,広田は東郷外相と打ち合わせした上,再びマリクをソ連大使館に往訪し,会談しました.

 今回は広田から口火を切り,大使の言い分を政府当局に伝えたこと,それに対する回答を行う旨を語り,なるべく速やかに日本の提議に応じる様希望する旨を前提して話に入りました.

 広田は1通の書き物を示します.
 これには,先ずこうありました.

――――――
 日ソ間に鞏固なる永続的親善関係を樹立し,東亜の恒久的平和維持に協力する事とし,これが為日ソ両国間に東亜に於ける平和維持に関する相互支持,並に両国間に於ける不侵略関係を設定すべき協定を締結するものとす.
――――――

 これが前文で,次いで,将来の両国関係,満州国又はその他に関する我が方の意向として,次の様に書いています.

――――――
1. 満州国の中立化(大東亜戦争終了後我が方は撤兵し,日ソ両国に於て満州国の主権及び領土の尊重並びに内政不干渉を約す)を約して差支無し.
2. 漁業権を石油の供給あれば解決することとして差支無し.
3. その他ソ連の希望する諸案件についても論議すること差支無し.
――――――

 広田はこれらの諸提案について,大至急回答を得たいと申し入れました.

 これについてマリクは,東亜の範囲,大東亜戦争の終結時期,漁業権と石油の関係について質問を発し,広田からはそれを説明した為,マリクはこの提案を本国政府に伝達すると約束しました.

 因みに,マリクはスウェーデンで日米和平交渉が行われていると言う情報があると述べたのですが,広田はこれを否定し,日本としては将来何事に於ても先ずソ連と話す意向であると伝えました.

 こうして会談を終えたのですが,その後,広田の再三の申入れにも関わらず,マリクは病気と称して会談に応じませんでした.
 結局,7月13日,広田の見舞い申入れを以て事実上中絶となります.
 その間,ソ連大使館員が,安東政務局長に対して,広田からの申入れは,伝書使便に託して本国政府に送付したと伝えてきましたが,ソ連側が鯉に回答を引き延ばそうとしているのは最早疑いようのない事実となっていました.

 既に,ヤルタ会談で対日参戦の条件を連合国各国が取り決めていたので,ソ連の態度は不可解ではありません.
 外交は騙し騙されで,騙された方が負けですからね.
 因みに,ソ連側の資料では,広田・マリク会談を,「広田の無駄口」と一蹴しています.
 幾ら元首相とは言え,既に広田は国家の公式ポストを占めていないので,単なる個人としてしか見ていなかった訳です.

 しかし,東郷外相は尚もソ連ルートを諦めていませんでした.
 広田工作が不調に終わったことで,東郷外相は,近衛文麿を対ソ特使として派遣する事とし,7月7日に鈴木首相の同意を取り付けると,軽井沢に近衛を訪ねて面談してきました.
 7月10日,最高戦争指導会議の構成員会議の席上で特使派遣が決定し,12日に近衛が宮中に召され,特派使節として訪ソすることを天皇から命じられます.
 この時の近衛の考えでは,ソ連首脳と会談の結果決定した事項は,会見地から直接天皇に電報して裁可を仰ぐ意図を持っていたと言います.

 12日夜,東郷外相はモスクワに訓電を送付しましたが,その要旨は,今度のポツダム会議開催前に,ソ連側に対し終戦に関する親書を近衛公に携行させ,モスクワに派遣される陛下の御内意をモロトフに伝えてソ連側の同意を取り付ける事,並びに,特使がソ連首脳部のモスクワ出発前にモスクワに到着するのが不可能であるならば,帰来後なるべく速やかにソ連首脳部と会談せしめたいので,ソ連側飛行機を満洲里又は斉斉哈爾まで派遣する様に依頼すること,の2つを申し入れる様に命じていました.

 これより先,モスクワには既に中華民国の宋子文外交部長が訪れており,スターリンとも会談を重ねている状況であり,ソ連の対日参戦も近いとの観測が流れ,又スターリンやモロトフ等の政府首脳は,三国会談の為に近くモスクワを出発するとの状勢であったことから,東郷外相は兎に角,近衛派遣の問題とは別に,対ソ関係に関する我が方の意向をモロトフの出発前に同人に伝え,ソ連側をして日本側の意図する所に誘導するよう,大使に訓令した訳です.

 宋子文訪ソの報に接した7月10日,佐藤大使はロゾフスキー代理を往訪し,日本で行われてきた広田・マリク会談に対するソ連側の意向と,宋子文訪ソの関係について質問しましたが,ロゾフスキーはその2つには何ら関係性が無い事,そして,日本側の提案は未だ十分に審議していないことを答えました.
 11日に佐藤大使は,今度はモロトフを訪れ,同様の質問を繰返しましたが,宋子文訪ソについては尚会談が継続中で有ることを答え,広田・マリク会談については,簡単な報告しか届いておらず,日本側の具体的意図が不明であり,詳報に接さないと回答が出来ないと答えました.
 これに対し,佐藤大使は,要するに日本政府の意図する所は,日ソ間に於ける永続的親善関係の樹立,東亜に於ける恒久的平和維持に関する協力であって,その目的の為両国間に何らか協定を遂げ,又なし得れば両国不侵略協定にも及ばんとするものであると述べ,日本政府としてはこれらの目的達成を容易ならしめる為,満州国の中立化,戦後の撤兵,日ソ両国による主権の尊重及び不可侵の保障を提議するものであり,更に日本政府に於てはソ連政府の提起することあるべきその他の諸問題についても検討しようと言うもので,これはソ連側でも今直ちに諒解困難では無いはずであり,ソ連側に於てその基礎の上で意見交換に同意なら,広田氏なり佐藤なりに速やかに回答を得られたい説きます.
 これを聞いても,モロトフの回答は,日本案を慎重研究の上で意見を決定すべきであると言う意見を変えませんでした.

 7月12日,佐藤大使は,前記の訓電を接受しました.
 それにはこうありました.

――――――
 天皇陛下に於かせられては,今次戦争が交戦各国を通じ,国民の参加と犠牲とを日々増大せしめつつあるをご心痛あらせられ,戦争が速やかに終結せられんことを念願せられおる次第なるが,大東亜戦争に於て米英が無条件降伏を固執する限り,帝国は祖国の名誉と生存の為一切を挙げて戦い抜く外無く,これが為彼我交戦国民の流血を大ならしむるは真に不本意にして,人類の幸福の為,なるべく速やかに平和の克復せられんことを希望せらる.
――――――

 これを受けて早速佐藤大使はモロトフに会見を申し込みましたが,モロトフは都合が付きかねるので,ロゾフスキーに用件を伝える様に回答されました.

 そこで,13日午後,佐藤大使はロゾフスキーに面会し,前述の天皇陛下の思し召しをロシア語に認めたものと,モロトフ宛の近衛公派遣に対するソ連政府の同意を求めて便宜供与を依頼する極秘親書を提示し,至急モロトフに転交される様に依頼しました.
 更に佐藤大使は,今回の特派使節の性格について説明しています.
 即ちこの特派使節は,従来再三モロトフ外相に申し入れた特使とは全然趣を異にし,今回は特に天皇陛下の御内意によって派遣されるものであるので,ソ連政府に於て特に含み置かれたい旨を申し添えました.
 同時に日本政府に於ては,この問題に対するソ連政府の主義上の同意だけでも速やかに承知したいので,なし得ればモロトフ外相のモスクワ出発前に回答を得たく,又特派使節はソ連首脳部のモスクワ帰還次第速やかに会見したいので,その様に取計らわれる様希望しました.

 これに対しロゾフスキーは佐藤大使の提示文書に目を通した上で,日本皇帝のメッセージはソ連政府の何人に宛てられたものかと質問してきました.
 大使は,今回の申入れは陛下の御内意を伝えようとする主旨のものである為,特に宛名人を指定してはいないが,ソ連の首班であるカリーニン氏,人民委員会議議長スターリン氏,モロトフ氏に伝えられたい旨を答えます.

 それに対しロゾフスキーは,日本政府に於て急いでいる次第は諒解したので,ご希望に添う様回答を促進したいが,ただソ連首脳部の一部は,今夜中にも出発の筈なので,モロトフ出発前に回答することは事実上不可能であろうと述べたので,そこで大使は直接ベルリンと電話ででも連絡の上返事を寄せられる様希望した所,ロゾフスキーは当然その様に取計らうこととすべく,何れにしても貴大使の書面は直ちにモロトフに交付すると約束しました.
 しかし,その日夜遅くなって,ソ連外務部のゲネラーロフ日本課長から,ロゾフスキーの伝言として,「スターリン及びモロトフ出発の結果,ソ連側回答は遅延するであろうから了承願いたい」との電話がかかってきました.

 その後,7月18日になってロゾフスキーから佐藤大使宛てに親展書簡が送られてきました.

――――――
尊敬する大使殿
 本官は,7月13日付書簡及び日本皇帝のメッセージを受領したことを,此処に確認いたします.
 ソヴィエト政府の名により,本官は日本皇帝のメッセージ中に述べられた思し召しは一般的形式を有し,何ら具体的提議を包含していないことについて,貴大使の注意を喚起するの光栄を有します.
 ソヴィエト政府にとって,特派使節・近衛文麿公爵の使命が何れにあるやも不明瞭であります.
 右によって,ソヴィエト政府は日本皇帝のメッセージについて,又7月13日付貴簡中に述べられた特派使節・近衛公爵についても,何ら確たる回答を為すことは不可能であります.
 本官は,此処に貴大使に向かって敬意を表します.
――――――

 ソ連に特使を受容れる意図は,さらさらありませんでした.
 しかし東郷外相は,なおも空しい努力を続けるのです.
 それを受けた佐藤大使の胸中は,如何ばかりだったのでしょうかね.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/20 22:13
青文字:加筆改修部分

 さて,1945年7月18日,ソ連側は日本の特使派遣を明確に断ってきます.
 それでも,東京からは空しい努力を続け,7月21日に下記の様な訓令が尚も発せられました.

――――――
 近衛特派使節の使命は大御心を体し,ソ連政府の尽力によって戦争を終結せしめる様依頼し,これに関する具体的意図を開陳すると共に,戦時及び戦後を通じ,帝国外交の基本たるべき日ソ間協力関係の樹立に関する事項を商議することにある事を説明し,ソ連側の同意を求めよ
――――――

 この訓電は発信が21日ですが,何らかの事情で7月25日になって到着します.

 この日,佐藤大使はロゾフスキー代理に対して,訓電の主旨を申し入れると共に,更に天皇陛下が特に政府に命じて近衛使節を派遣しようとするのは,偏に彼我交戦によるこれ以上の流血の惨事を差し止めんとする御希望に出でたもので,特使は右について,ソ連政府に対し日本側の具体的意図を開陳し,ソ連側の考慮を煩わさんとするものであると付言しました.

 これに対しロゾフスキーは,大使の申し出は正に重要なので書き物にして頂きたいと述べた上,日本政府は米英との戦争終結の為,ソ連政府の斡旋を求めるのかと念を押しました.
 大使はその通りで有ると答えましたが,ロゾフスキーは近衛氏の齎す具体的提議成る物が,戦争終結に関するものか,或いは日ソ関係強化増進に関するものか,いずれのものかと質問します.
 大使は,その双方に関係あるものと諒解する旨述べると共に,本日の申入れを書き物にして差出すのは訓令を逸脱することなれど,大使限りの取計らいとして,これを送付することを約束しました.
 最後に大使は,この書き物は真に極秘として取り扱われる様要望し,ロゾフスキーもそれを了としましたが,実際にはこの申し出は,既にソ連政府から米英政府に対し,ポツダム会議の席上総て知らせたので,日本の動きは全く筒抜けだったりします.

 結局,近衛特使派遣問題は,此処でやっと戦争終結の為に行う事であると明らかにされましたが,ソ連側は近衛の受け入れを拒むとも言わず,また斡旋を引き受けるとも言わず,問題を引き延ばすだけでした.

 後日,とある批評家によって,
「ソ連は1945年7月以降,日本を,釣り針に掛った魚の様に弄んだ」
と書かれましたが,それも已んぬる哉,と言った状態でした.

 ところで,佐藤大使は7月20日に,長文の電報を打っています.
 それは下記の様なもので,正に佐藤大使の真情を吐露したものとなっています.

――――――
 今や帝国は,正に文字通り攻防の岐路に立てり.
 このまま交戦を続行せんか,国民は尽忠報国の誠を尽して安んじて瞑すべきも,国そのものは滅亡に瀕すべし.
 最後まで大東亜戦の大義名分に忠実なるは可なるも,社稷を滅ぼして尚名分を明らかにせんとするは無意味にして,国家の存立はあらゆる犠牲を忍びてもこれを護持せざるべからず.
 満州事変以来,日本は権道を踏み来たり大東亜戦に至り,遂に自己の力以上の大戦に突入せり.
 その結果,今や本州さえ蹂躙せられんとする危険に直面し,最早確たる成算無きに至れる以上,早きに及んで決意し,干戈を収めて国家国民を救うことは為政者の責務なりと信ず.
 勿論既に和議を求める以上,講和条件に如何なるものなりやはドイツの例を見てほぼ察知せらるる所にして,国民は長期に亘り敵国の重圧に喘がざるを得ず,しかしながら国家の命脈はこれによりて継がるべく,かくして数十年の後,再び以前の繁栄を回復するを得べけん.
 政府も正に此路を選ぶべく,斯くして一日も早く聖上の御軫念を安んじ奉らんことを,切願して止まず.
――――――

 日本という国の外交の余りにもお粗末な対応の結果が,この状態になったのは,今も昔も変わらないのでは無いのかなぁ,と思ってみたり.

 そうこうしているうちに7月26日,ポツダム宣言が発せられました.
 宣言は7月27日朝に日本でも聴取され,直ちに外務当局で研究されます.
 殊にその宣言の内容が,ドイツ降伏の場合と趣を異にする点について,特に注意を払われましたが,総てはその日の内に最高戦争指導会議の構成員会議にも,また閣議にもそれぞれ東郷外相から報告され,検討されました.
 ただ,この宣言にはソ連が加わっていなかったので,現に交渉中のソ連からの回答を待つことにし,宣言に対する諾否を決めないまま事態の推移を見る方針を採りました.

 しかし,7月28日,鈴木首相が記者会見にて,「この宣言を黙殺するのみ」と答えた言葉が,やがて対外的には宣言を拒否したものとして伝えられてしまった訳です.

 ソ連との関係では,7月25日に申し入れた和平斡旋についての特使について先方から何の返事もなかったので,止むなく返事を督促することにしました.
 7月30日夕刻,佐藤大使はロゾフスキーを訪問し,改めて日本側の希望を説明すると共に,ソ連側の回答を督促します.

 しかし,ロゾフスキーは,スターリンもモロトフもベルリン滞在中で,回答の運びに至らないと回答します.
 そこで,佐藤大使は27日に発表されたポツダム宣言に言及し,この宣言では米英中三国が日本に対して無条件降伏を強いており,我が方としては到底問題と為しえないが,ただかかる形式を避けうるならば,日本は自国の名誉と存立が保障される限り,極めて広範な妥協的態度を以て戦争終結を希望するである故に,ソ連政府の斡旋を依頼するものであり,その点スターリンの深甚な考慮を求めたい旨申し入れました.
 ロゾフスキーは,本日中にも貴大使の依頼をモロトフに伝達する様努力すると答えたので,大使は近衛特使の権限は広範である故に,ソ連側の注文乃至支持についても,広範な権限を持ってソ連側と会談しうることも話します.

 また,大使は米英中三国の共同宣言は日本政府の希望であるソ連政府の斡旋を妨害するのでは無いか,と虞れるので,その様な妨害を排す為にも,ソ連側で適当な考慮を払う様期待することを力説しましたが,ソ連側からは何の言質を得ることも出来ませんでした.

 8月2日,東郷外相からは佐藤大使に対して,刻下の急務はソ連をして特派使節の派遣に同意させることにあるので,何とかして使節の受容れに熱意を起こさせ,これを受諾させる為に努力されたいと言う,悲鳴の様な訓電が送られてきました.

 この為,改めて佐藤大使は,8月4日にモロトフとの面談を申入れますが,6日にモロトフがモスクワに帰ってきたことを知ったので,早速会見を申し入れました.
 翌7日,モロトフはモスクワ時間で8日午後8時(日本時間では8月9日午前2時)に会見する旨回答してきましたが,暫くして,先方の都合で,午後5時(日本時間では8月8日午後11時)に改めたい旨を電話してきました.
 日本としても,少しでも早くに越したことは無いので,それに同意しました.

 そして,最後の鉄槌が下されることになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/22 23:05

 8月8日午後5時,日本時間で午後11時になります.
 この時間を選んだのは,ソ連軍が満洲に雪崩れ込むのが極東時間で8月9日午前0時であり,その侵入直前に宣戦布告を行う必要があったからです.

 佐藤大使がモロトフと対峙して座に就くや否や,モロトフは開口一番,「大使よ!」と呼びかけ,「本日はソ連政府の命により貴大使に政府の通告をお伝えする」と言いながら,手にした文書を読み上げました.

 それにはこう書いてあります.

------------------
 第1点,米英中三国の提示した日本軍対の無条件降伏の要求を日本は拒否したことによって,日本政府のソ連に対する調停斡旋の提案はあらゆる基礎を失った.
 第2点,日本の降伏拒否に鑑み,対日戦に参加することを提案すた連合国への義務に従って,ソ連政府は7月26日の連合国宣言に参加する.
 第3点,ソ連政府はかかる政策こそ各国民をこれ以上の犠牲と苦難とから救い,日本人をしてドイツの無条件降伏御嘗めた危険と破壊とを回避させうる唯一の手段と思考する.
-----------------

 佐藤大使は直ちに,「日本人を危険と破壊から救うというならば,戦争しないにしくはないではないか」と反論しますが,モロトフは,
「どうか宣言の全体から,その意味を理解されたい」
と述べるだけでした.
 これに対し,佐藤大使は次の様に述べました.

-------------------
 過去3年間,私は中立条約を維持する事によって日ソ間の平和を維持すべく,懸命の努力を払ってきたものである.
 しかし今,ソ連政府の宣言を聞くに及んで深い遺憾の意を表せざるを得ない.
 ただ,ソ連政府が一度決意をした以上,最早平和維持の努力の余地は残されていない.
 これまで幾度か訪れて見慣れたこの部屋もこれが最後となった.
 長い困難な時期を通じ,幸いにして貴大臣から寄せられた厚遇に対しては,深く謝意を表したい.
------------------

 モロトフも,「お言葉を謝する」と言い,
「貴大使及びマリクが,平和維持に真剣に努力を払われたことを,自分も良く認めている」
と述べ,更に,ソ連は大使の処遇については,侮辱を与える様なことはしないであろうと述べました.

 最後に佐藤大使は,戦争状態に入る時間を「8月9日」からとするのは,「8月8日は平和状態であり,9日から戦争状態という意味か」と特に念を押しました.
 モロトフは,「その通り」と答え,大使がこのソ連の通告を外交電文として本国に伝えなくてはならないが,ソ連政府は電報送達を認めるかと尋ねた所,
「差支えない,
 大使に対しては平文でも暗号でも電報発送を許すであろう.
 尤も,この宣戦布告は,マリク駐日大使からも日本政府へ伝達せしめる」
と述べました.
 別れ際,モロトフは,
「戦争は早急に終わるであろう」
と意味深な事を言ったのですが,大使は
「戦争は早く終わらせるにしくはない」
と,受け流す様に答えました.

 帰りの車中,佐藤大使は
「とうとう来るべきものが来たね」
と言う言葉を残しています.
 既に,此の事あるを予期していたのでしょう.

 この日の夕べ,日本大使館では一切の文書を焼却して,活動を停止しました.
 但し,宣戦布告だけは政府に伝える必要があるので,宣戦布告分を訳し,電報文を作り,タイプを叩いたのですが,結局この電文は,日本に届いていなかったそうです.

 その日の夕刻,国家保安部員が大使館に乗り込み,大使に対し,居留日本人全部が館内に居住する様申し渡していきました.
 館内に居住していたロシア人使用人も,別れを告げて去り,日本人と結婚して未亡人となっていたタイピストのロシア夫人は,その母を一子を伴って自殺したそうです.
 こうして,大使館の人々や報道機関の人間は軟禁状態となりました.

 一方,東京では8月9日未明にソ連軍が満州国に侵攻したことが知らされましたが,その午前中にマリク大使が東郷外相に面会の要請がありました.
 8月10日11時15分,東郷外相はマリクを引見しますが,大使はソ連政府の訓令によるとして,宣戦布告文を読み上げました.
 東郷外相は,マリクに対して次の主旨を述べました.

------------------
 ソ連政府の宣言はこれを了承する.
 我が方に於ては,ソ連との間に長期間に亘る友好関係を樹立する為,6月始め以来広田元総理を通じて話し合いを行い,また7月中旬には人類を戦争の惨禍から救う為,戦争終結の兵科の大御心に従い,その趣をソ連政府に伝え,かつ日ソ関係の強化と戦争終結に関する交渉を為す為特使の派遣を申し入れたが,未だに回答が無かった次第である.
 我が方としては,戦争終結斡旋に関するソ連政府の回答を待って,米英中三国共同宣言に対する我が方の態度の決定に資したい考えであった訳である.
 ソ連側に於ては,三国共同宣言は帝国政府によって拒否されたものと見做しているが,ソ連政府が日本側に対してこれを確かめる方法も採らず,拒否したものと判定されたことは軽率であるのは勿論,我が方に対して何らの回答も為さずに突如国交を断絶し,戦争を開始することは不可解であるばかりでなく,東洋に於ける将来の事態から考えるも甚だ如何である.
------------------

 これに対しマリクは,貴大臣陳述の総てのことに対するソ連側の回答は,ソ連政府の宣言中に包含されているので,それ以上に何ら付言すべき事は無いと言うだけでありました.
 更に東郷外相は,ソ連の措置が不可解且つ遺憾なことは,やがて世界歴史がこれを裁判するであろうから,今その論議は差し控えると述べましたが,マリク大使は,歴史は公平な侵犯者であり,歴史の必然性は不可避で有ると答えました.

 最後に,東郷外相は,日本政府がポツダム宣言を受諾したことについて,次の通りマリクに伝えました.

------------------
 帝国政府は,去月26日米英中三国首脳者により決定され,その後ソ連政府の参加した対本邦共同宣言に挙げられた条件中には,天皇の統治者としての大権を変更せんとする要求を包含しおらざる事の諒解の下に,右宣言を受諾する.
 従って帝国政府はソ連政府が右の諒解に誤りなき旨,速やかに正確な意思を表明されんことを希望する
------------------

とし,ソ連政府に対してもスウェーデン政府を通じて通告の手続きを取ったことを伝え,マリクからも本国政府に電報するよう希望しました.
 これに対し,マリクは,自分としては右申し出を受理する権限を有しないが,自分の個人的責任に於て,右を本国政府へ伝達する上に何ら困難のないことを条件として,これを伝達することに同意すると答えました.

 こうして,日ソ関係は途絶するに至りました.
 もう少し,日本がソ連での情報収集に意を払っていたら,本国外務省がもう少し度量を見せていたら,等々,転換点は色々とあったでしょうが,結局,今も昔も外務省の中の人の無能さと言うのは,余り変わっていないのかも知れません.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2011/08/23


 【質問】
 安江仙弘大佐による和平工作とは,どのような内容のものだったのか?

 【回答】
 安江のユダヤ人コネクションを活用したもので,日本軍部から短波でワシントンに連絡するよう要求されるところまで行ったが,秦彦三郎中将の横槍で関係者は皆他に転出させられ,頓挫したという.

 以下引用.

 かねてから安江は石原〔莞爾〕に早期和平を説き,その方法として彼が苦心して築き上げたユダヤ人や回教徒とのコネクションを考えていたのである.
 石原も和平工作について,「安江の方法より他にはない」と言っていた.
 工作は〔サイパン陥落直後,〕直ちに着手された.
 しかし,陸軍の方は敗戦意識が全くない上,中央は「聖戦貫徹」で固まった若手の佐官クラスが押さえていたから,和平工作など「とんでもない話」であった.
 したがって,行動は隠密であることを要した.

 そのため安江は東京に言ったとき,堂々と常宿の帝国ホテルに泊ったが,そのあとは信州松本の宝栄寺に先祖代々の墓参りを済ませてから,これも父仙政(のりまさ)以来の常宿の浅間温泉の小柳旅館に泊って想を練り,さらに高田(現上越市)の妻の実家に数日間滞在していた.

 〔略〕

 和平工作は,米国政府と重慶の国民政府の両方に対して行われた.
 対米工作については,それを手伝った寺村銓太郎の証言がある.
 彼は石原の門下生で,ハルビンで旅館を経営していた.身長1メートル85センチ,かつて大相撲の解説者だった元大関天龍に風貌,体格ともにそっくりの日本人ばなれした人物であった.
 石原と安江の連絡役を務めた彼は,安江の対米工作を戦後行われた安江の慰霊祭で弔辞の形で発表し,参会者を驚かした.
 その主要部分を引用すると,
 たまたま昭和19年の終わり,太平洋戦争も敗戦の断末魔となったので,ここに共に謀り,某国某ユダヤ人会某有力者に日米和平斡旋を尽力してくれるよう諮(はか)り,その賛成を得て翌20年3月には効果現れ,
「日本が南方および中国大陸から一兵残さず引揚げるなら,米国は満州だけは日本の占領にまかす」
という意見がワシントンにあるから,日本軍部から短波でワシントンに連絡せられよとの事でしたから,私は一人で3月に上京し,同志石原莞爾兄と謀り,阿南惟幾(あなみこれちか)も陸軍大臣として梅津参謀総長をも協力せしめ,東京の連絡は陸軍省軍務局長永井八津次少将,新京の連絡は関東軍参謀副長池田純久中将として,関東軍の短波でワシントンに連絡する事とし,某国有力者の録音を吹き込ませ,いよいよ連絡せんとする際,池田中将から,
「中央の空気が変わったから一時見合わせてほしい」
とて,再三迫ったが
「暫く待ってくれ.善処する」
との事で待機した.
 しかるに,間もなく秦彦三郎が参謀長としてやって来た.
 安江兄も私も秦氏とは意見の対立がかねてあり,精神も異なっているから,これは秦中将の邪魔と察し,また陸軍大臣に掛合ったが,相変らず
「一寸待ってくれ」
との事で,当時飛行機は無し,中央との連絡は取れず,池田中将やその他これに参画せし関東軍の幕僚も俄に他に転出したので2人は如何ともし難く,ついに手を引き運命にまかせた.
 折角の日米和平工作も水泡に帰した次第です.
 安江がどんなルートを使って和平工作をしたかは,それまでの対米和解工作の経緯を見れば自ずから明らかである.
 当時,彼は大連の自宅にあったビクターの蓄音機にレコードをかけて演奏時間を計っていたことがあり,これは米国へのメッセージを吹き込むためのテストであったことは間違いない.

 この工作開始時は米英ソによる対独戦処理と,ソ連の対日参戦を決めたヤルタ会談の前であり,ポツダム会談よりは半年以上も前であったのだから,政府が安江工作に乗っていれば,原爆も広島・長崎に落とされず,そして事実上の無条件降伏にいたることもなかったであろう.

安江弘夫著大連特務機関と幻のユダヤ国家(八幡書店,1989/8),p.233-235

 ただ,安江はユダヤ人コネクションの力を過大評価していたきらいがあるから,仮にワシントンと連絡がついたとしても,和平工作がどこまで進展したかは未知数だろう.


 【質問】
 ポツダム宣言って何?

 【回答】
 ポツダム宣言 The Potsdam Declaration は1945.7.26,ポツダム会談での合意に基づいて,米英中の首脳が日本に対し,「全日本軍の無条件降伏」等を求めた,13条から成る宣言.
 1945.8.9には,対日参戦によりソ連もこれに加わって4カ国共同宣言となった.
 1945.8.14,日本政府は宣言受諾を駐スイス及びスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告し,9.2,米戦艦ミズーリの甲板上での降伏文書調印により,宣言は法的効果を持つこととなった.

 作詞作曲はさだまさし(うそ)

 【参考ページ】
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/potudamusenngenn.htm
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%DD%A5%C4%A5%C0%A5%E0%C0%EB%B8%C0
http://kenbunden.net/constitution/files/shiryou_ver002/09_071129_a.pdf
http://ww41.tiki.ne.jp/~yt737/potudamu.htm
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80/

【ぐんじさんぎょう】,2010/09/22 23:01
を加筆改修

 ポツダム宣言の結果,連合国軍最高司令官が関白を兼務し,日本を占領下に置かれた日本を管理することとなった(嘘)

ぎんなんそう in mixi,2010年09月10日 22:38

 昨日,ポツダム宣言受諾したんです.ポツダム宣言.
 そしたら御前会議が,軍人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです.
 で,よく見たらなんか垂れ幕下がってて,【覚悟】本土決戦【完了】,とか書いてあるんです.
 もうね,アホかと.馬鹿かと.
 お前らな,無条件降伏如きで,普段来てない御前会議に来てんじゃねーよ,ボケが.
 本土決戦かよ,資源も無いのに.
 なんか親子連れとかもいるし.一家4人で本土決戦か.おめでてーな.
 よーしパパ鬼畜米英をやっつけちゃうぞー,とか言ってるの.もう見てらんない.
 お前らな,俺は天皇なんだからその席空けろと.
 無条件降伏ってのはな,もっと陰鬱としてるべきなんだよ.
 Uの字テーブルの向かいに座った奴全員の,切腹が始まってもおかしくない,介錯するか,されるか,そんな雰囲気がいいんじゃねーか.
 国粋主義者は,すっこんでろ.

 で,やっと座れたかと思ったら,隣の奴が,まだ松代地下本営がある,とか言ってるんです.
 そこでまたぶち切れですよ.
 あのな,徹底抗戦なんてきょうび流行んねーんだよ.ボケが.
 得意げな顔して何が,まだ松代地下本営がある,だ.
 お前は本当に徹底抗戦をしたいのかと問いたい.問い詰めたい.小1時間問い詰めたい.
 お前,徹底抗戦のポーズしたいだけちゃうんかと.
 アジア通の俺から言わせてもらえば今後,アジア小国の運命はやっぱり,代理戦争,これだね.
 米ソに国が操られて内戦.これが今後のトレンド.
 代理戦争ってのは武器が多めに用意してもらえる.
 そん代わり犠牲が多い.これ.
 で,それに傀儡政権.これ最強.
 しかしこれを続けると,次から国連に入れてもらえないかもしれないという危険も伴う,諸刃の剣.
 素人にはお薦め出来ない.
 まあ,お前ら日本人は,耐えがたきを耐え,忍びがたきを忍びなさいってこった.

ベタ藤原 in mixi,「軍事板常見問題 mixi別館」
2006年11月21日 23:31


 【質問】
 ポツダム宣言を受諾するか否かの御前会議で,最終的に昭和天皇自らが受諾を決めたそうですが,そのとき
「朕はどうなってもいい」
と言ったのは本当ですか?

 【回答】
 本当.
 下村海南著『終戦秘史』(講談社学術文庫,1985.8)によれば,次のように述べたという.

(前略)
 自分はいかになろうとも,万民の命は助けたい.
 この上戦争を続けては結局,我が邦はまたく焦土となり,万民にこれ以上苦悩を嘗めさせることは私としてはじつに忍び難い.祖宗の霊にお応えできない.
 和平の手段によるとしても,素より先方の遣り方に全幅の信頼をおきがたいもは当然であるが,日本がまったく無くなるという結果にくらべて,少しでも種子が残りさえすれば,さらにまた復興という光明も考えられる.
(中略)
 この際,私としてなすべきことがあれば何でもいとわない.
 国民に呼びかけることがよければ,私はいつでもマイクの前にも立つ.
 一般国民には今まで何も知らせずにいたのであるから,突然この決定を聞く場合動揺も甚だしかろう.
 陸海軍将兵にはさらに動揺も大きいであろう.
 この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが,どうか私の気持ちをよく理解して,陸海軍大臣は共に努力し,よく治まるようにして貰いたい.
 必要あらば自分が親しく説き諭してもかまわない.
 この際証書を出す必要もあろうから,政府は早速その起案をしてもらいたい.

 【質問】
 大東亜戦争終戦の際,日本は天皇陛下の命の保障を条件に降伏したと聞いたけど,ポツダム宣言内に天皇の命の保障を行う旨の分が無い様なのですが・・・ 命の保障を条件に降伏ってのはうそですか?

 【回答】
 ウソっていうか,そのへん複雑なんですよ.

日本側「天皇制は維持できるんならポツダム宣言を受領するよ」
連合国「天皇および政府の国家権限は連合国最高司令官にsubject toされるものとする」

日本・外務省「subject toは「制限の元におかれる」だよ.天皇制維持はOK,さあ調印しようぜ」
日本・陸軍省「subject toは「隷属する」だ!天皇制は維持できない!徹底抗戦だ!」

 まあ,なんとかなったのですが,「天皇制の保証」があったのかなかったのかは微妙な所です.
 外務省の絶妙な訳はともかく,subject toってのはわりと強い言い方ですので,
「保証はされてはいなかった」
というのが実際でしょう.

 一応ダレスを通じて保証めいたものはありましたが,天皇を処分しようとする親中派もいて,完全にアメリカ内部がまとまってたわけではありません.
 グルーなんかが必死で頑張ってくれたおかげで,なんとかなったけどね.


 【質問】
 叔父が玉音放送を聞いた時(当時,小学生),勘違いして
「天皇陛下が勝利のために,わざわざ励ましの言葉を述べられているのだ」
と感激したそうですが,市町村レベルでは,「終戦の詔勅」はどの時点で,どの程度の関係者に事前に通達されていたのですか?

 【回答】
 「流言・投書の太平洋戦争」と言う本をご一読ください.
 基本的には,前日のラジオ放送で,「重大放送」が有ると言うことは国民に知らしめられていました.
 また,当日朝のニュースでは,天皇陛下が直々にマイクの前に立つと言うことを知らせています.

 また,政府はポツダム宣言受諾決定の直後から敗戦後の治安と秩序維持のため,取締まり方針を策定し,8月14日には,その最終方針を全国に通達しています.
 そこには,
「廟議決定の方針を曲解し又は異議を唱え,或いはこれに矛盾するが如きもの」,
「政府の態度,方針,時局を誹謗するが如きもの妄りに既往の戦争責任者の追求」
等の言動が抑圧対象となり,右翼,左翼関係者,朝鮮人に対する視察を強化するよう求めています.

 更に新聞社に対しても,新聞の配達は玉音放送の後に行うように厳重に指導されていました.

 ちなみに,空襲を受けた地域とそうでない地域では,国民の時局の受け止め方に温度差が非常にあり,地方の代議士などでは,政府の弱腰を批判する発言をしています.
 確か,米国戦略爆撃調査団の世論調査では,日本国民の25%が,戦争には勝つと考えていたそうです.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 阿南陸相が最期に「米内を斬れ」と言ったのは本当ですか?
 酔っていたとも聞いたんですが,どうなんですか?

 【回答】
 陸軍省軍務課員の竹下中佐の証言によるもの.
 竹下中佐は,陸相に決起を要請するために陸相官邸に出向いたが,阿南陸相の決意の固さに説得を断念,陸相の最後を看取った.
 「米内を斬れ」は自刃前の中佐との雑談の中で出てきた言葉.
 ちなみに中佐が出向く前に,陸相は別の部下達と酒を酌み交わしていたので,酔っていたことは事実だが,泥酔していたわけではない.

 自分が読んだのは「日本のいちばん長い日」(半藤 一利著,文芸春秋)だが,こういう本もでているので読んでみるといいかも.
「『昭和』を振り回した男たち」

 また,以下の本では,阿南が斬れといってもおかしくない,といった論を展開しています.何かの参考になれば・・・
 まあ,海軍さんも酷いよ,ということで.

「米内光政と山本五十六は愚将だった〜海軍善玉論の虚妄を糺す」
著者:三村文男|出版社:テーミス|発行年月:2002年 07月

(HN「橙海地方」 in FAQ BBS他)


 【質問】
 太平洋戦争終戦時に近衛師団と厚木航空隊で反乱が起きたのは有名ですが,ほかに大規模な部隊で反乱・決起行動を行った例というのはあるのでしょうか?

 【回答】
 有名なところでは,佐々木武雄大尉が率いた「国民新風隊」がありますね.
 横浜警備隊の隊長だった佐々木予備大尉は,終戦の動きを聞いて首相官邸を襲う計画を立てましたが,彼の上官はかねてから彼の不審な動きを警戒していたために,彼の部下はほとんどその計画に賛同せず,やむを得ずわずかな兵と,勤労動員に来ていた学生その他の民間人と共に,首相官邸と鈴木首相私邸に重油をまき放火,鈴木邸が全焼しています.

 その後,彼らはいったんは憲兵隊に出頭したものの,原部隊での監視が妥当として帰された後に逃亡しています.
 ところが民間人グループは警視庁に引き渡されてしまい,裁かれて実刑判決をうけて服役しました.
 佐々木大尉は憲兵隊や警察に追われたものの,逃亡に成功.
 放火の時効まで逃げ切って,後に大山量士を名乗り,「亜細亜友の会」の理事長を務めています.

 映画の「日本の一番長い日」に出てくる放火事件が,この事件です.
 天本英世のエキセントリックな演技は見ものでしたね.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 比較的組織的な例としては,茨城県水戸の教導航空通信師団の例があります.

 陸軍航空通信学校を部隊風の編制に切り替えた師団で,そのうちの教導通信第二隊の学生100人が,16日夜に師団司令部などを襲撃し将校若干を殺傷.
 翌17日に中隊長の一人(少佐)が指導して,学生400人を集めて武装させ1個大隊を編成.
 水戸駅で列車をハイジャック,東京へ向かって上野駅手前で下車し,上野公園を占拠しました.

 その後,近衛師団の決起組などと連絡を取ろうとし,廃帝・皇太子即位なんて檄を飛ばしたり.
16日夜,司令部襲撃.
17日朝,決起部隊編成,列車ハイジャック.
同日昼,上野公園を占拠.
19日昼,航空本部が最後通牒.
同日夜,石原参謀殺害.強硬派幹部殺害・自決.
20日朝,水戸へ撤収.
20日昼〜25日,幹部4人が自決.航空本部からの派遣将校により秩序回復.

 どうも突発的行動だったようで,近衛師団がとっくに鎮圧されていたことを知らなかったようです.
 かえって近衛師団決起騒ぎの関係者である石原参謀が,説得に派遣されてきています.

 航空本部の説得も受け,恭順派が多数になるのですが,一部に強硬派が残っており,石原参謀を射殺.
 その射殺犯は恭順派によりその場で斬殺.
 残る強硬派も自決して,反乱部隊は水戸へ帰還しました.

 その後,大隊を指揮した少佐はじめ反乱に関与した幹部3人は,自決勧告を受けて自決.
 中心人物が全員死亡するという悲惨な結末になり,今でも事件の詳細は不明です.
 なお師団長は,玉音放送直後に不穏な空気の部隊を捨てて単身上京してしまっており,司令部襲撃の際の難は逃れていますが,重謹慎15日の懲罰処分を受けています.

◆yoOjLET6cE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 終戦時のクーデター未遂事件について質問です.
 阿南陸相は結局クーデター派の黒幕だったのでしょうか?
 それとも,あれは青年将校の暴発で,阿南陸相は関係無かったのでしょうか?

 【回答】
 ナンセンス.侍従武官経験もある阿南は陛下の聖断に逆らうような人間ではない.

 8月14日には軍上層部は戦争終結で固まっていた.
 この時点で軍上層部VS軍務省青年将校の図式になった.
 たしかに阿南陸相をクーデターの黒幕とする説も有るけど根拠薄弱で,怪しい陰謀論の域を出ない.

 そもそも阿南は「軍人は政治にかかわってはならない」という信念を持っていた.
 だから派閥にも属さず,一時期は閑職である幼年学校の校長に押しやられていた.

 その時に起きたのが2・26事件だが,阿南は全校生徒を集め
「農民の救済を唱え政治の改革を叫ばんとする者は,まず軍服を脱ぎ,しかる後に行え」
と訓示している.
 そんな阿南がクーデターの首謀者なんてちょっと考えにくいのだが,

 青年将校たちがクーデター計画をぶち上げたとき,あえて反対しなかったことや(下手に対立するより上手く手懐けようと考えていたとされている),終戦時自決した事(死人に口なし),そして終戦後の陸軍悪玉論の雰囲気の中で(実際は海軍も強硬派は多く居た),
「阿南は最後まで徹底抗戦を諦めていなかった」
とか,ヒドイ物になると
「実は阿南は米軍と通じていて,天皇の首を差し出す代わりに,クーデター一派による戦後政権樹立を目論み,自分は独裁者として君臨するつもりだった」
と言うような,ワケが分からんトンデモ陰謀論が出てくるようになった.

(日本史板)


 【質問】
 宮城事件首謀者の
椎崎中佐
畑中少佐
古賀少佐
らの出身地・略歴をどなたかビッグイボンヌ.

 【回答】
 宮城事件の椎崎二郎中佐なら
和歌山県出身
陸士45期(昭和8年7月11日卒業)
陸大53期
昭和8年7月11日 陸士卒業
昭和8年10月20日 歩兵少尉
昭和16年6月28日 第23軍参謀
昭和17年7月1日 第1方面軍参謀
昭和19年9月5日 陸軍省軍務局課員(軍務課)
昭和20年4月23日 兼大本営陸軍部参謀(第4部第12課)
昭和20年6月10日 中佐
昭和20年8月15日 自決

軍事板,2007/09/28(金)
青文字:加筆改修部分

 畑中健二少佐は, 京都府船井郡高原村出身.
陸士46期,陸大59期
野砲兵一聯隊附,野戦部隊参謀,陸軍省兵務局課員を経て,軍務局軍務課員
(内政班)兼大本営参謀

1934年6月 陸軍士官学校卒業
1938年6月11日 陸軍大学校入校
1940年6月17日 陸軍大学校卒業
1944年8月    軍務局軍務課員

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2007/09/28(金)
青文字:加筆改修部分

▼ ちなみに秦郁彦によれば,天皇による終戦の「聖断」に対し,クーデターや反乱によって徹底交戦を貫こうとした陸軍中堅将校団の多くは,平泉澄・東大教授の直弟子だったという.
 平泉は皇国史観で著名だったが,その思想は単なる天皇尊崇ではなく,「現天皇が天皇制本来の伝統に照らして誤ちをおかしたと判断されるときは,死をもって諌言すべきだ」という過激思想だったという.
(のちに靖国神社宮司としてA級戦犯合祀を実行した松平永芳(ながよし)も,平泉の影響を受けているという)

 詳しくは『現代史の対決』(秦郁彦著,文藝春秋,2003.1.10),p.271を参照されたし.▲


 【質問】
 終戦の日の日本の様子は?

 【回答】
 日本中が息をひそめていたかのように静まり返っていた,との証言がある.
 以下引用.

――――――
 やがて終戦の日が来た.
 あの日の空が異様なまでに青く晴れていたことを何人もの人が書き,語っている.
 福岡の空も雲一つなく,飛行機の影が全く見えないのが不思議だった.
 音のない世界にいるようで,日本中が息をひそめていたような印象が残っている.

――――――『サザエさんの東京物語』(長谷川洋子著,朝日出版社,2008.4.30),p.61

 【質問】
 昭和帝の玉音放送は,日本全土に満州朝鮮台湾で放送されましたが,世界のそのほかの地域では放送されたのですか?

 【回答】
 いわゆる玉音放送はラジオによる放送ですから,ラジオ放送が届く範囲で受信できました.
 つまり,日本国内の通常のラジオ放送と同時に短波放送が行われたのであって 国外向け(一応は東亜向けとなっていましたが)の放送は別に「満州朝鮮台湾」に限定して行ったわけではありません.
 また,この放送は通常時の放送出力10kwを60kwに一時的に増大して実施されているので,かなりの遠距離でも受信できています.
 実際に,すべての日本人が受信したわけではありませんが,ベトナムなど東南アジアの現地部隊やブラジルの移民なども受信したという記録がありますから,事実上,事前に重要放送があるというアナウンスを受けていれば,短波放送は世界中に届いていたと考えられます.

世界史板


 【質問】
 戦中の情報について.
 アメリカの株式市場の動向(缶詰会社や薬品会社の株価)が情報になったそうですが,日本で終戦を投資家が一般より早く知ったというのを聞いたことがあるんですが,それに関しての著作や記述を教えて下さい.

島の人

 【回答】
 う〜ん,確か清沢冽の暗黒日記に該当の記述があったような気がしますが,思い出せませんね.
 後,ヘトヘト…じゃなかった野村證券40年史に,日本の株式市場についても触れられていて,『社史に見る太平洋戦争』にこんな記述があります.

――――――
P.202

 もっとも,敗北が決定的となるとともに,株式市場では注目すべき現象が現われた.
 すなわち,七月半ばごろから軍需株売り,民需株買いの人気が台頭し始めた.
 その後の事態の変化も,こうした人気を挫折せしめえず,時にはそのために市況が強調に転じることさえあった.
 いわば,民需株を中心として,株式市場は掉尾の一振を示したと言える.
――――――

 因みに,株式市場は1945年8月10日まで立会が為されていました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 似たような話なら.米国の市場ではなく,日本の市場の話なんですが.
『戦争・戦略情報パズル』(柳内伸作著,1990年1月31日)

一問一答形式のライトな本です.ノベルズとかの大きさです.
で,

------------------------------------
p.73

問17 敗色の濃い大日本帝国で繊維株が急騰した.このことを情報参謀はどのように読み取ったか

p.74
答17 日本政府の中枢が終戦をどのような形で迎えるかを検討し始めていると察知した

p.75
問18 東京大空襲の直後に大変動が起きた株式市場だが,このとき実際にどんな株が買われていたか

p.76
答18 紡績・船舶・セメント・食品・興業などの,いわゆる平和産業株が買われていた
(中略)
株価は半年先の敗戦予測を掲げたのである.
------------------------------------

 参考文献とか書いてないので,更なる元ネタがあるかどうかはわかりません…

ゆきかぜまる

以上,「軍事板常見問題 mixi支隊」より


 【質問】
 玉音放送の後に宇垣纏が特攻に飛び立ちましたが, 降伏決定後に自殺的攻撃を続けたケースは多かったのですか?

 【回答】
 多かった少なかったの定義は不明ですが,実家に帰るのに飛行機を飛ばしたら,燃料切れや故障で墜落したり,自爆したりするケースはありました.
 後,自殺したりとか….

 但し,対ソ戦を除けば組織的な特攻はしていません.

 こういう混乱があったので,日本の陸海軍とも隠すのに必死でした.
 海軍は特に,厚木基地の叛乱を陸軍に知らせることもなく,司令を解任したり,人をやったり,高松宮に厚木基地に電話掛けさせたり……と,あらゆることをやっています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


 【珍説】
 ポツダム宣言降伏条件を提示している.日本はドイツとは違い,有条件降伏である.東京裁判が国際法無視の報復儀式だったことは,今や世界中の法学者の常識だが,これはポツダム宣言の降伏条件にも違反した無法行為であった.

(小林よしのり『新ゴーマニズム宣言2 テロリアンナイト』 P.66)

 今や東京裁判が国際法無視の報復儀式だったことは,世界中の法学者の常識だが,これは「ポツダム宣言」の降伏条件にも違反した無法行為であった.

 そもそも日本の知識人やマスコミは,どういうわけか必ず,
「第2次世界大戦で日本は連合国に"無条件降伏"した」
と書く.
 まったく歴史に対して無知なのだ.
 日本は無条件降伏≠ネどしていない!

 ミズーリ号での調印は実は「有条件降伏」なのだ!
 日本は「ポツダム宣言」を受諾して降伏した.そのポツダム宣言には
「吾等ノ条件ハ左ノ如シ」
と,ちゃんと降伏条件を提示している.

(同「戦争論」3,P. 55-56,どちらも太字は原文ママ)

 【事実】

▼ 軍への無条件降伏となっていますが,日本とドイツの国家の無条件降伏を定めたカイロ宣言の履行も,ポツダム宣言にあることから,やはり日本は国家の無条件降伏を受け入れた事にはなるでしょう.

バルセロニスタの一人 in mixi,2010年09月10日 21:48

 むじょうけん-こうふく 【無条件降伏】
(1)交戦中の軍隊・艦隊または国が,兵員・兵器などの一切を無条件で敵にゆだねて降伏すること.
(2)交戦国の一方が一定の降伏条件を無条件に受諾して降伏すること.

 日本は,何らの譲歩も得ることなく,ポツダム宣言Potsdam Proclamation の降伏条件を「無条件に受諾して」おり,無条件降伏以外の何物でもありません.
 現に最高裁判所も「世人周知のごとく,わが国はポツダム宣言を受諾し,降伏文書に調印して,連合国に対して無条件降伏をした」という言い方をしていますし(政令201号事件.最大判昭和28年4月8日刑集7巻4号775頁).(なお参照.「憲法五十年の運用 I」(有斐閣)76頁)
 ただし,上記判例は一方で「連合国最高司令官は,降伏条項を実施するため適当と認める措置をとる権限を有し,この限りにおいてわが国の統治の権限は連合国最高司令官の制限の下に置かれることとなつた」としており,これによれば,連合国最高司令官の権限はポツダム宣言および降伏文書の条件を実施するための,いわば限定的なものとなります.

 したがって,日本国の降伏も厳密に言えば「条件付き降伏」であるという解釈も可能ですし,現に「日本の」法学者の通説はこれです.
 この説にしたがえば,
(1)ポツダム宣言は一種の休戦条約でいわば国家間の契約であり,
(2)その受諾によって日本国は法的主体性(主権)を完全に喪失したわけではなく,ただ日本国政府の権限はポツダム宣言・降伏文書の「条件」およびそれらを実施する連合国軍最高司令官の権限のもとに制限される,
ということになります.

 ただし,アメリカ側の考えはそうではなかったようで,このことはJCS1380/6「連合国最高司令官の権限に関する通達」に示されてます.
 この文書では「…日本政府の統治権限は最高司令官としての貴官の支配下におかれる.連合国と日本国との関係は,契約的基礎の上にあるのではなく,日本の連合国に対する無条件降伏を基礎とするものである.」としています.
 実際,例えば,GHQが日本と中立国との外交権を接収するという命令を発した際,日本側は降伏条件の範囲外であると抵抗しますが,結局は接収されます.

 日本はドイツとは違い,基本的には間接統治で占領管理が進められましたが,結局のところ,例えば日本国憲法制定過程で見られるように,GHQの権力は絶大でしたし,占領政策も連合国(アメリカ)の意に沿うように実施されました.
 極端に言えば,占領下における日本の主権者はマッカーサーであるという言い方も出来るわけです.

 このようなことを見るかぎり,実際には日本が無条件降伏したわけではない,という言い方は,やはりいまいち説得力に欠けると思われます.

 仮に日本が「条件付き降伏」であったとしても,例えば戦犯の処罰などは降伏「条件」でああったことは,その第10条に,「 われらは,日本人を民族として奴隷化しようとし又は国民として滅亡させようとする意図を有するものではないが,われらの俘虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える」と明記されている通りです.

降伏文書調印式


 【質問】
 イタリアが第2次大戦の戦勝国として,日本が降伏の調印式をした戦艦「ミズーリ」の上に来てたって本当ですか?

 【回答】
 イタリアは戦勝国とは言えません..
 終戦直前にイタリア内でファシスト党政権を倒したことから,「敗戦」したのは「ファシスト・イタリア」であり,それを倒したイタリアは「戦勝国」だ,ということになってはいますが,ソ連に1億ドル,アルバニアに5000万ドル,エチオピアに2500万ドル,ギリシャに1億5000万ドル,ユーゴスラビアに1億2500万ドルの賠償金を支払い,全ての海外植民地を失い,トリエステは1953年まで連合国の占領下に置かれるなど,実質的には敗戦国扱いでした.
 「ミズーリ」の調印式に代表を送った連合国は,合衆国,中華民国,大英帝国,ソビエト連邦,オーストラリア連邦,カナダ連邦,フランス共和国,オランダ王国,ニュージーランド自治領の9カ国で,イタリア王国は含まれていません.

(永遠の青 ◆V9k1yZSe4M in 世界史板)

調印の瞬間


 【珍説】
 日本は,敗戦の後にも「無秩序」は現れなかった.
 それは当り前だ.
 日本は「解放」されたのではない.
 もともと戦前からあった自由や民主主義や豊かさを取り戻すべく,直ちに自ら「秩序」を求めただけなのだ.
 そのために天皇の存在はかなり大きかった. 

(小林よしのり「戦争論」3, p.91)

 【事実】
 小林は,
「米軍は力でイラクに秩序を作ることはできない」
「『公』のないイラクでは秩序維持のために,サダム・フセインのような独裁者は必要悪だった」
と結論したいがために,このようなことを言っているわけですが(でも,独裁者って『力で(独裁者好みの)秩序を作っている』の典型なんでは?),これは結論ありきで事実を歪曲している典型のように思われます.

 まず,イラクで戦後に無秩序状態が現れたのは,サダム政権上層部の全員逃亡によって政府機能そのものが麻痺したからであり,治安維持組織が残っていた終戦直後の日本と安直に比較することはできません.

 また,一時的にでも治安維持組織がなくなった場合には,日本においても「無秩序」が現れています.

 例えば米軍上陸当時の沖縄では,秩序が崩壊し,現役の陸軍士官が守るべき住民に自決を強要するなどしています.

 また例えば大空襲直後の東京では,リアル「火垂るの墓」を体験した世代の方によれば,空襲が終わった直後は火事場泥棒やカッパライが横行し,近隣から応援の警察が来るとパタッと止まったそうです.

 終戦直後,銃殺のデマなどが流れて統制がとれなくなった部隊から幹部・隊員が物資を奪って逃げ出したりした例もあります(厚木,九州など).そういった部隊のいたところでは,幹部・隊員の逃亡により警備力すらなくなってしまい,付近の住民がそういった基地に侵入して物資を盗んでいったこともあるそうです.
 逆に最後までしっかり統制がとれていた部隊では,そのようなことはなかったそうです.

 さらに,遡って関東大震災では,東京は朝鮮人虐殺や火事場泥棒が横行する無法地帯と化しました.デマで無辜の人をリンチにかける市民のどこに「公」の心があるのかと,聞きたいものです.

 そもそも,空襲/空爆直後ならまだしも,政府(警察)機能と通信機能が生きている限り,無秩序状態は長続きはしません.
 しかも戦争末期のアメリカは,交渉相手を焼死させない為と「戦後処理」を容易にする為に,ご丁寧にもそう言うところは爆撃目標から外していました.
 関東大震災では,両方が麻痺してしまったわけですね.

 どこの国,どの民族でも,一時的にせよそういった真空状態が発生した場合には,似たようなことは起こりえます.
 日本の終戦時はこの程度で済んだが,イラクの場合はもっと大規模にそれが発生した,というだけの話なのです.

(軍事板出張スレッド in コヴァ板)


 【質問】
 終戦直後の日本の薬物状況は?

 【回答】
 1945年8月15日.
 この日,日本は連合国と正式に停戦します.
 最終的に,9月に無条件降伏をする訳ですが,大戦中,日本は軍資金を得る為に,中国や満州だけでなく,蘭印,ビルマで阿片を売り,タイにも阿片を供給していました.
 こうした場所で少なからぬ軍人,軍属,民間人が阿片やヘロイン,モルヒネの密売に携わっていたりします.
 彼らが引揚げる際,なけなしの荷物と共に,こうした薬を荷物に忍び入れて戻る可能性もありました.

 しかも,大陸での生産だけでなく,内地と朝鮮で阿片の大増産を行い,内地では蒙疆から大量の阿片を輸入し,これらの阿片は内地の製薬会社で,ヘロイン,モルヒネの原料として供給されました.
 阿片は,戦時統制経済下に於いて,「大東亜共栄圏」内交易の重要戦略物資であり,モルヒネ,ヘロイン,コカインなどは企画院の物資動員計画の「医薬品製品別計画(需給計画)に基づき,陸軍,海軍,満州,支那大陸,内地,朝鮮と配当されていきましたが,意外にも陸海軍の医薬用の需要は少なく,内地配当の民需分が多かったりします.

 これはどういうことかと言えば,内地から外地への自由な輸出が,相変わらず民間ベースで続いていたと言う事になります.
 ヘロイン,モルヒネは満州では専売品でしたが,日本から持ち込まれた輸入モルヒネは,丸公価格で「自由」に売られていました.
 ところが敗戦になり,これら製薬会社手持ちのヘロイン,モルヒネも行き場を失います.

 また,戦略物資入手の為,陸海軍が独自で保有していた阿片,麻薬も,敗戦時,生阿片が52,722kg,粗製モルヒネ2,844kg,蘇生コカイン35kg,コカ葉17,000kg,エクゴニン195kgに達していました.
 これも放っておけば,闇に流れてしまいます.

 日本に於いては先に見た様に,阿片の取締は厳しかったのですが,麻薬に対しては1920年の「「モルヒネ」「コカイン」及其ノ塩類ノ取締ニ関スル件」,1930年の内務省令「麻薬取締規則」で,輸出入と製造を許可制に,販売を届け出制にしましたが,規制は極めて甘いものでした.
 これを厳しくすれば,忽ち輸出に支障を来す事になった為です.

 こんな甘い状態でも,内務省衛生局の統計では,内地の中毒者は2,000名位で,其の殆どが分娩後の痛み止めや,月経痛に塩酸モルヒネを用いたのが習癖になった女性に見られる程度で,ヘロインやコカイン中毒は全くと言っていいほど無かったと言います.

 ところが,行き場を失った麻薬や阿片が,虚脱状態に陥った日本社会に出回ると,社会に悪影響を及ぼしかねなくなった訳で,厚生省は慌てて対策を打ちます.
 先ず1945年11月,占領軍の勧告に従い,ヘロイン及びその製剤の所有等の禁止と没収,麻薬原料の栽培製造輸出入を禁止,1946年3月には陸海軍保有の阿片,麻薬類の保管移転の厚生省令を出し,出回りにストップを掛けます.

 但し,医薬品としての使用を禁止する訳に行かないので,阿片と併せ,麻薬の製剤,販売,授与,使用を厳しく規制する為に,「麻薬取締規則」が1946年6月に作られました.

 此の後,それらの取締規定が整理され,国際的に見ても極めて厳格な「麻薬取締法」が1948年7月に制定され,各都道府県に麻薬取締員を配置する制度も出来ました.

 こうした対策のお陰で,日本社会に麻薬や阿片が蔓延する事を防ぐ事が出来ましたが,次に新たな問題として浮上してきたのは,覚醒剤の濫用です.
 覚醒剤は,戦争中に生産増強や戦意高揚の為と称して,飛行機の搭乗員や軍需工場の工員達の深夜作業に,ヒロポンを使わせたのが蔓延の始まりです.

 阿片やヘロイン,コカインについては国際的に見ても厳格な規制を敷いたのに,何故か覚醒剤については1951年まで何等規制を行わず,大日本製薬のヒロポン,武田製薬のセドリン,塩野義製薬のパーテンなどの乱売や濫用を招き,一時150万人とも言われる乱用者が生まれました.
 1951年6月に漸く「覚せい剤取締法」が制定され,警視庁統計では1953年度の覚せい剤取締法違反の検挙者が8,677名(うち製造違反242名,所持その他8,435名),1954年の検挙者は55,000名に達し,ピークを迎えます.
 これ以後,一旦減少し,1958年に検挙者数が271名に減り,覚醒剤封じ込めは成功したかに見えました.

 しかし,これは覚せい剤取締法の施行でヒロポン取引が地下に潜り,所謂第三国人による海外からの原料密輸ルートと結びついた,暴力団の格好の資金源となり,それが1954年の大検挙で壊滅,ヒロポンの需要家である乱用者と,供給元の暴力団が共に麻薬の転換を図っていった為,再び麻薬の方が盛り返してきます.
 これは1948年7月の「麻薬取締法」が占領下の立法で,国内での製剤,販売,使用には厳しかったのに対し,国外からの組織的密輸入と是と結んだ悪質事犯への対応に,弱点があったからです.

 この為,1953年3月には新しく「麻薬取締法」を制定し,従来の都道府県配置の麻薬取締員とは別に,厚生省に150名の麻薬取締官を配置し,密輸・密売の組織的な悪質事犯に機動的に対処する体制を整えていますが,密輸ヘロインによる中毒者の激増は防げませんでした.
 ヒロポン乱用者が激減した1958年以降,麻薬の新規中毒者は2,000名を超え,1962年には確認された中毒者が4万名に達し,常用者の推計が20万名に達しました.

 因みに,新しい「麻薬取締法」で検挙された人の数は,1953年度が256名に対し,1962年には2,418名とほぼ10倍になっています.

 余談ながら,1963年に封切られた黒澤明監督の『天国と地獄』という映画には,横浜の夜のドヤ街を彷徨する中毒者の群れを実写した場面がありました.
 これは横浜で供給が途切れて,ヘロインを求め蝟集する現象があり,それを現場に行って撮ったものだそうです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2010/09/15 22:47


 【質問】
 敗戦直後,第三国人の悪逆非道があったというのは本当?

 【回答】
 どうやら本当である模様.
 以下は体験談.

 親父のガキの頃,男の大人が戦地から帰ってきてない敗戦当時、 第三国人の悪逆非道で地元民がかなり泣かされたそうな.

 だが数年して大人達が戦地から帰ってくると状況は一変,
 デカイ顔してた朝鮮人やシナ人は,血の気の多い元兵士達によって片っ端からぼこられて,勿論連中も人数集めて抵抗したけど,そいつらも目立つ奴からゲリラ戦っぽくやられて(実際死人が出たそうな),ついには,駅前に無断に立てられてた連中の建物に火をつけられ全焼.
 犯人探しをするヤツは確実に闇討ちされて,とうとう地元から駆逐できたそうな.

 だから,現在もうちの地元に朝鮮人の噂すらない.

生活板

 以下の証言は,もっと生々しい.

酸鼻をきわめる地獄絵図

 その日〔1945/8/15〕のうちに神戸は修羅場と変貌した.
 敗戦の報に呆然自失する市民とは対照的に,これまで苛酷な労働で軍部から抑圧されてきた朝鮮人,中国人たちの一部は欣喜雀躍し,掠奪,報復の火蓋を切ったのである.
 その日の午後7時.
 徒党を組んだ一団は国鉄深川駅構内の貨車を襲って配給物資を強奪.
 これを皮切りに市内随所で襲撃略奪事件が起こり,一般市民の不安もたかまった.
 終戦当時,国内には強制連行された〔原文ママ〕人を含めて朝鮮人,中国人は2百万人以上いたが,とくに兵庫に多く,昭和18年の時点でも13万5千人,全体の7%強を占め,大阪,東京に次ぐ3位という数であった.

 終戦直後の神戸の闇市は,国鉄三宮駅高架下で1個5円の饅頭が中国人の手で売り出されたのが始まりといわれている.
 1個5円といえば,当時の米1升の公定価格と同じ値段である.
 だが,飢えた市民はこれを争って買った.
 これをきっかけに彼らを主とする闇市が三宮,新開地,湊川,大正筋,長田など神戸市内に17ヵ所もひらかれ,20年10月には国鉄三宮駅の高架から神戸駅北東に至るまで,えんえん2kmにおよぶ日本一の長い闇市が生まれていた(神戸市『神戸市史』第3集).
 闇市に出回った物資の大半は軍の隠匿物資といわれた.
 そこにはなんでもあった.
 1日わずか2合1勺(330g)の配給米さえ欠配するという深刻な食糧難で餓死者は続出し,市民はあらゆる物を金に替え,争って闇市で高い食糧を求めた.
 当時,サラリーマンの月収は5,6百円.
 これに対して闇値は公定価格の3,40倍で,翌年夏には150倍を超えるものもザラ(読売新聞社刊『神戸開港百年』)であり,『朝日年鑑』の昭和22年版によれば,大阪の闇値は中程度でさえも白米一升(1.4kg)80円,麦40円,メリケン粉1貫目(3.75kg)240円,砂糖1斤(600g)150円と記録されている.

 彼らは闇市を掌握して巨大な利益をあげ,徒党を組んでは瓦礫と焦土の神戸の街を闊歩していた.
 通りすがりの通行人の目つきが気に入らぬといっては難癖をつけ,無線飲食をし,白昼の路上で見境なく集団で婦女子にいたずらする.
 善良な市民は恐怖のどん底に叩き込まれた.
 こうした不良分子は旧日本軍の陸海軍の飛行服を好んで身につけていた.
 袖に腕章をつけ,半長靴をはき,純白の絹のマフラーを首に巻きつけ,肩で風を切って街をのし歩いた.
 腰には拳銃をさげ,白い包帯を巻きつけた鉄パイプを引っさげた彼らの略奪,暴行には目にあまるものがあった.

 〔略〕

 さらにこれにくわえて一部の悪質な米兵の暴行も目にあまった.
 戦時中,神戸市内には脇浜小学校はじめ6ヵ所の捕虜収容所があったが,解放されたその捕虜の一部は民家に侵入して拳銃をつきつけ,泣き叫ぶ婦女子を襲った.
 白昼強盗も横行した.
 9月25日,米軍第6軍33師団,1万7千人が神戸へ進駐してくると治安はさらに悪化し,制止にはいる警官は袋叩きにあう.
 終戦直後の神戸は,まさに酸鼻をきわめる地獄絵図だった.

白昼横行する婦女暴行

 彼らの暴虐を見聞きするごとに,わたしは怒りにふるえていた.
 彼らを制止し,阻止する者は一人としていないのだ.

 昭和20年8月末,わたしは所用の帰途,女の悲鳴を聞いた.
 人通りも少ない東山病院の裏手である.
 白熱の太陽がきなくさい焼け跡に照り付けていた.
 一瞬,ぎくりと立ち止まり,悲鳴の上がる方角に走った.
 途中で,4,5歳の女の子が泣きながら夢中で駆け寄ってきた.
「どないしたんや」
「おかあちゃんが,おかあちゃんが」
 少女はわたしに泣きじゃくりながらしがみつく.
 この世のものとは思えぬ女の悲鳴が聞こえ続けていた.
「ここにいるんやで,ええな」
 わたしは少女をその場において一目散に走った.
 少女の母親は木立のなかで数人の男に犯されていた.飛行服姿の男たちだった.
 彼らは不適な薄ら笑いで女の手足を押さえつけ,一人がその上に乗っている.
 女はひたすら絶叫していた.
<――汚ねえ……>
 うめくと,わたしは遮二無二彼らに突進していった.
 得物を探す余裕はない.あるのは彼らへの憎悪だけだ.
 彼らがはっと身構えたときわたしは一人の男を蹴り上げ,女の上に乗っていた男の襟がみをつかんで引き摺り下ろし,男の目の中に5本の指を突き刺していた.
 17のときにおぼえたあの必殺技が,無意識に出ていたのだ.
 バラケツどもを震撼させたこの必殺技は,あまりにも危険すぎてめったにはつかわなかったのだが,わたしは無我夢中でこの技をふるっていた.
 男の両眼からポタポタと鮮血がしたたり,男は視力を失ってのたうちまわる.
 つぎの一人も首を小脇にはさんで締め付けておいて,容赦なく指を突き立て,眼球を抉り出す.
「ぎゃーっ」
 動物的な悲鳴をあげて,男の顔面はみるみる血だるまとなっていった.
 残る男は恐怖に顔面を醜く歪ませ,拳銃も鉄パイプもその場に置き去りにしたまま夢中で逃げだしていた.
 女はぼろきれのように仰向けになったまま放心していた.
「しっかりするんや,おい,わかるか」
 抱き起こして揺り動かしても,うつろに瞳孔をひらいたまま,突然,けたたましい笑いをあげる.
 山の手の,良家の人妻であろう,美貌であった.
 引きちぎられたモンペと,哄笑が無惨であった.
<――許せん.これはぜったいに許せんのや>
 彼女の哄笑と,遠くからじっとこちらを凝視して立ちすくんでいる少女の姿を見たとき,わたしの血ははげしく燃えたぎっていた.
 このままでいいのか.
 いいはずはない.
 彼らの報復をおそれてだれもやらんというならば,わたし一人でも連中のまえに立ちふさがってみせよう.
 わたしには許せないのだ.やつらの悪虐非道〔原文ママ〕さが.
 置き去りにしていった拳銃をわたしは懐にねじこんだ.
 ずっしりと重い,その拳銃の感触が,闘志を奮い立たせた.

単身乗り込む

 わたしは拳銃を懐に単身,神戸の闇市へと乗り出していった.
 闇市は彼らの本拠である.
 争うならば堂々と,土俵の真ん中で雌雄を決する.
 それがわたしの主義だ.
 彼らは常に集団を組んで行動する.
 同士的結合が強く,仲間の一人がいさかいを起こすとどこからともなく,いっせいにとびだしてくる.
 その本拠へ,あえていさかいを求めてわたしは乗り込んだ.
 むろん命の保証はない.わたしは初めから命を投げ出しているのだ.
 彼らを相手に,わたしは毎日,いさかいを起こして歩いた.
 肩が触れた,と難癖をつけられても一歩も退かぬ.
〈わいが,わいが〉
という気持ちがある.
 存分に蹴散らして,行く手をはばむ者は容赦しない.
 日本人が彼らに痛めつけられていると,気持ちより先に体がぱっと飛び出していく.
 1週間もたたぬうちに,わたしは当然,命をつけ狙われるようになっていた.
 同時にわたしにも,かねて彼らの横暴に憤激していた連中が,一人,二人,三人と味方になって集まり,わたしを中心に結束しだしていた.
 〔略〕

田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.147-152

 〔略〕
 すでに警察は無力化し,神戸は死の街であった.
 腕章をつけ,拳銃や鉄パイプで武装した男たちが我が物顔で横行し,略奪物資による闇市の拡張,あいつぐ一般市民への暴行事件に警察は弱弱しく目をそらす.
 もはや神戸は,われわれの手で街を自衛しなければ,生命,財産さえ危ない極限状態に陥っていった.
 わたしは吉川〔勇次〕をつれて,暴行脅迫されている同胞を彼らの手から救出して歩いてみたものの,それは焼け石に水だ.イタチごっこである.
 そんな姑息な手段では,彼らを自省させることはできないことを,わたしは思い知った.
 ゲリラ作戦では埒があかぬ.
 まず拠点をつくって,ブルドーザーで一挙に駆逐することを考えたのだ.
 少々荒療治だが,これも万やむをえない手段だ.
 わたしがやらなければ,いったいだれがやるというのだ.
 わたしの目は迷うことなく新開地に向いていた.
 新開地は先代以来の縄張りである.
 その新開地も彼らの土足に蹂躙され,白昼から堂々とデン助賭博がひらかれ,その数は百軒から百五十軒にも及んでいた.
 彼らは通行人を強引に誘い込んで,イカサマと脅迫とで容赦なく金品をむしりとる.
 さからえば丸裸にされて袋叩きにあう.

 〔略〕

 わたしはまず,新開地から彼らを締め出すことを決意した.
 新開地を皮切りに,彼らの最大の拠点である三宮でまっこうから対決しようとしたのである.
 一人,二人,三人……と,わたしの周囲に集まってくる気鋭の同士がわたしを奮い立たせ,わたしの背後にある市民たちの大きな声援が,わたしを決断させた.
 警察も行為的に私たちを迎えてくれるようになっていた.
 新開地へ乗り込んだわたしは彼らを蹴散らし,デン助賭博台をかたっぱしからぶちこわして歩いた.
 すでにわたしの顔は,彼らの間に知れ渡っていた.
 潮の引くようにわたしの行く手で人波がまっぷたつに割れる.
 が,すぐに怒号と罵声をあげて,わっと彼らがなだれこもうとする.
 それを睨(ね)めつけておいて,委細構わず賭博台をつぎつぎに蹴飛ばし,ぶちこわす.
 彼らは足をすくませた.
 わたしに寄り添って,吉川が手榴弾の安全弁を口にくわえたまま,油断なく彼らを牽制していた.
 彼らがなだれこんでくれば,吉川はいつでも手榴弾を発火させ,投げつける構えだ.
 わたしが賭博台をぶち壊しながら進むと,吉川も怠りなく彼らを睨みつけながら進み,不敵にわたしに無駄口を叩いていた.
「親分,死なばもろともや.親分と二人で地獄へ行くよりも,一人でも多くやつらを道連れにしてやれば,そのほうが冥途の旅もにぎやかでええわ.なァ,親分」
「ほんまや.それだけ神戸も住みよくなるというもんや.
 ――ええか,きょうから新開地でのデン助賭博はこの田岡が許さん.わかったら失せろ!」
 わたしの一喝に,彼らは復讐心に燃えた目を向けながらあとずさっていった.
 〔略〕

同,p.160-162

 著者をして命を棄てるという覚悟をさせるほど,彼らの横暴が酷かった,ということを論証するため,
また,その抗争の激しさを論証するため,
あえて長めに引用した.

 上記引用文章は,泣ける.

▼ ちなみに上記引用と同様の記述は,『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.26-29にも見られる.
 以下にその一部を引用する.

――――――
 神戸市街は,昭和20年3月と6月の2度にわたるB-29の無差別爆撃で,主要劇場のことごとくが焼失したが,復興のテンポは,予想以上に早かった.
 20年末には早くも三宮映画劇場,三宮映画館が再開され,21年に入ると相生座,元町映画館,阪急会館,日活キネマ,キネマクラブなどが相次いで営業を始めた.

 当時,神戸市内には,山口組のほか中山組,大嶋組,本多会,五島組が戦前からの勢力として根を張り,尼崎に笠谷組,西宮に松本組,中村組があったが,それらを合計しても8団体,5百人に過ぎなかった.

 それにひきかえ,在日外国人アウトローと新興グレン隊の跳梁は凄まじかった.
 3日に一つグレン隊が生まれる――と言われたほどで,6,7人の小グループから,50人,60人単位の集団が,三宮・新開地をハイエナのように餌食を求めて徘徊していた.
 たがいの眼と眼がからみあえば,
「おどりゃ,ガンつけやがったな」
 たちまち喧嘩が始まり,血しぶきが飛んだ.
 三宮のヤミ市には,ピストルの貸し屋≠ワで出現した.
 戦前からの伝統的な博徒,テキヤ組織は後方に押しやられ,系統のはっきりしないグレン隊が暴れまわっていた.
 新開地はとくにひどく,グレン隊見本市の観さえあった.
 劇場や映画館は,ひどいときは,3分の1近い座席を彼らが占拠した.
 高級酒場やダンスホールの客は,ヤミ成金かグレン隊だった.

 戦争中,日本の警察は中国人や台湾人,朝鮮人にひどい弾圧を加えた.
 敗戦後,その報復に警察官が彼らから狙われた.
 昭和21年2月には,生田署の岡政雄巡査部長が彼らの事務所に拉致され,殴る蹴るの暴行を加えられて死亡.
 4月にも須磨署の佐藤進巡査が3人組の強盗にピストルで撃たれて死んだ.

 米兵による暴力事件も頻発した.
 神戸に進駐したのは米第6軍33師団,1万7千人だったが,酒に酔った若いGIがよくトラブルを起こしたのである.
 そういうときも日本の警察は,手出しできなかった.
 敗戦国の悲しさであった.

――――――

 同書はあとがきにもあるように,田岡一雄のほか,永田貞雄,林正之助など複数の人物のインタビューから書かれており,客観性の点でも比較的問題は少ないものと愚考する.▲

▼ 羽振りも良かったらしい.
 以下は先代・林家正蔵の証言より.

――――――
 あの,戦後にね,三国人がバカな儲け方をしたんで,みんな舶来の隆としたセビロを着ていたもんですよ.
(終戦が8月だから,ちょうど儲かった暮れから春にかけて……)三つ揃いでね.
 ちっとも似合わない!

 普通の日本のインテリのひとがね,カァキ色の服を着たりね.
 徳川夢声なんぞ,軍隊のドタ靴を履いていましたよ.……鋲だらけの.
「この靴が日本から消える自分には,生活は豊富になる!」
って,冗談をいっていたが,ほんとうにそうなったものね!

――――――『林家正蔵随談』(麻生芳伸編,青蛙房,1967.6.20),p.127



 【質問】
 三国人の横暴に対し,警察は何をしていたのか?

 【回答】
 まったくの無力,何もできなかった,という.
 逆に警察官が襲われたり,警察署が襲撃されたりする有様だったという.

 以下引用.
 〔略〕
 警官が駆けつけても手も足もでない.
「おれたちは戦勝国民だ.敗戦国の日本人がなにをいうか」
 警官は小突きまわされ,サーベルはへし曲げられ,街は暴漢の跳梁に無警察状態だ.

 〔略〕
 〔新開地では,〕警官がきても彼らは歯牙にかけず賭博を開帳し続ける.
 不遜であり不敵である.
 なまじ警官が咎めだてすれば,たちまち暴徒は集団をつくって警官を小突きまわし,殴る蹴るの暴行をくわえる.
 〔略〕
 昭和21年2月,神戸生田署の岡正雄巡査部長が彼らに拉致されて暴行殺害され,同年4月,須磨署佐藤進巡査部長がやはり彼らの手によって射殺された.
 そればかりではない.
 警察の威信を根底からくつがえす不祥事さえもちあがった.
 すなわち彼ら3百余人は兵庫警察署を襲撃し,署長はじめ幹部署員たちを人質として電話指令交換室を占拠したのである.
 さらに彼らは水上警察署を急襲して,留置されていた同胞全員を釈放し,水上署の全監房は彼らの手によって開放されるという事態にまで発展した.
 自分たちは戦勝国民だ,ということを楯に,彼らはやりたい放題のことをやり,その非道,無法は目にあまるものがあった.
 彼らの不遜な行動は,市民の激しい憎しみを集めた.
 それを嘲笑うように,彼らは神戸市の全警察署を襲撃する計画まですすめるに至ったのである.
 警察当局は顔色を失った.
 治安の維持より警察そのものを守ることが急務であった.
 警察は,わたしに助っ人の依頼を申し入れてきたのである.
 すなわち,当時,湊川温泉内に設置されていた兵庫警察署の署長は,本書襲撃に備えて,署員だけでこれを迎撃する力なしと判断し,国警本部長,警察幹部一同,神戸市長と鳩首,緊急会議を開いた結果,同署長はわたしに兵庫署警護の応援を求めてきたのである.
「どうやろ,田岡はん.力になってもらえんやろうか」
 署長は額に脂汗をにじませていた.
 わたしは敗戦国の警察の無力に憤りと嘆きを感じながら,この申し出を受けて立った.
 神戸の治安維持,市民の安全のため,みんな一丸となって彼らの暴力を排除せねばならなかったのだ.

 佐々木組組長・佐々木道雄は当時の状況を「山口組時報」の連載手記「かくされた真実」のなかで,こう回想している.
 ――山口組組員は勇躍団結し兵庫署の警備と署員の人命を保護するため,兵庫警察署に昼夜をわかたずたてこもるとともに,同署の受け持ち区域の神戸新開地に山口組自警団を結成,「花月劇場」をその事務所にした.
 兵庫署内部の警備について,彼ら戦勝国民に襲撃された場合,全署員は重要書類を持ってただちに裏口より避難し,あとは山口組組員がこの迎撃に当たり,同署の屋上から数本のドラム缶に重油をいっぱい詰め,これを落下させるとともに,さらに手榴弾3箱,約40個を投下し,彼らを大量に殺傷させ,相手がひるむすきに山口組抜刀隊による決死隊が日本刀や拳銃を持って殴りこむという,戦闘作戦計画が警察幹部との間でなされたのである.
 今思えば心寒い国際問題であるが,所詮,みずからの手では治安維持は不可能であり,毒をもって毒を制するという市および警察当局の考えであったろう.
 そこで警察幹部署員は組員各位に清酒を振舞ったうえで,相手を殺傷した場合は,その罪を問わず,裁判所の裏口より釈放することを確約.
 捕虜にだけはならないよう注意し,殺傷したときは奨励金,ならびに見舞い金を与えることを申し述べ,多いに山口組組員の士気を鼓舞したのだった.

 こうして一同,部署についたが,結局,兵庫署に対する襲撃はおこなわれなかった.
 これは山口組の気力に屈したのか,はたまた彼らのうち一部知識人の警告によるものであろうか.
 兵庫署襲撃事件は未然に防がれ,治安当局のメンツはかろうじて保たれたのである――.

 現在ではとうてい考えられぬことであろうが,当時はそれほど警察は戦勝国民に対して無力だったのである.
 その暴虐非道に対して身を挺して楯となり,防波堤となったのは全国のやくざであった.
 その例は昭和21年7月に東京・新橋で起こった松田組との抗争事件をはじめ,渋谷署襲撃事件,浜松事件,熱海事件などがある.
 こうした動きは全国に広がり,神戸もまたその例に漏れなかった.
 われわれが率先して治安を守らねばならぬ時代だったのだ.

 〔略〕

田岡一雄著『山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間書店,2006.10),p.148〜167

 余談だが,のちに兵庫県警は昭和40年代から,国の後ろ盾を得て山口組壊滅作戦を展開し,著者は窮地に陥る.
 皮肉としか言いようがない.



 【反論】
 以前から気になっていたのですが,この設問と回答は,いわゆる在日外国人 韓国朝鮮や中国人への偏見が酷い〔中略〕ようです.

 最初の回答は匿名の人間の それも身内からの伝聞ですけど 裏取れてるんですか?
 取れるわけ無いですよね.
 それをあえて解答に選ぶ理由は?

>酸鼻をきわめる地獄絵図

 2番目の回答ですが,いわゆる広域暴力団 ぶっちゃけマフィアのボスの武勇伝であり 自分の人生の正当化に過ぎません.
 どれだけ信憑性があるのでしょうか?

,『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10)を持ち出してますが,この著者もいわゆる第三国人と愚連隊の区別はつけていて 愚連隊の暴行が引用のほとんどを占めています.

閻魔さくや in FAQ BBS,2011/8/10(水) 14:49
青文字:加筆改修部分

 【再反論】
 全般的な話にとどめますが.

 直江津駅リンチ殺人事件や浅草米兵暴行事件などが有名ですが,他にも配給の不正受給や密造酒にまつわる事件の数々など,第三国人の悪逆非道ぶりは歴史的事実です.

 その部分はお間違えの無いようにお願いいたします.

日雇い労働者 in FAQ BBS,2011/8/18(木) 21:33
青文字:加筆改修部分

 さて,反論者のご主旨は,「ソースがヤクザの証言では信用できん」ということのようでございますので,このほど別のソースを発掘してきました.

 思うにこれは,特定の民族固有の問題ではなく,
「警察権の及ばない/及びにくい集団や地域ができちゃったら,どこだろうと無法地帯化するよね」
という,制度欠陥のほうの問題ではないかと.

名前:閻魔さくや 日付:2011/8/19(金) 1:23
>当時は日本人の愚連隊などの暴虐も酷かった

という事実も,制度欠陥によって警察権の及ばない/及びにくい地域ができていたことを証明するかと存じます.
 いざというときは,そのような地域に逃げ込むことによって追っ手を逃れ,暴虐を繰り返す日本人もいたということですね.

 そもそも「第三国人」という言葉自体,決して特定の民族のことを指すのではなく,そうした警察権のグレーゾーンにある人々を指すGHQ用語です.
 今日ではマスコミによってしばしば誤用されておりますが,せめてこの場では,誤用は避けるべきでしょう.
 そのような誤用は,かえって事実関係の認識を誤らせ,ひいては差別を助長することになるかと愚考いたします.

 では,以下ソース(前半)を.
―――――――
 恐れられた情勢の急変は,昭和20年の12月に起こった.
 終戦後,微妙な動きを見せながらも,比較的安定していた犯罪事情は,凶悪犯罪,特に集団強盗事件の激増という形で噴出したのである.
 9月7件,10月5件,11月17件にとどまっていた強盗事件が,12月には一挙に130件に跳ね上がった.
 神戸市内・阪神間では,毎日少なくて2,3件,多いときには7,8件の凶悪犯罪発生が,新聞に報道された.
[中略]

 犯罪の手口も,過去における強盗とは一変した.
 従来の強窃盗は多く単独犯であり,かりに複数でも数人を超えることは稀であった.
 ところが10人ないし数十人という大集団による強奪事件が,相次いで発生し始めたのである.

 アメリカのギャング映画もどきの事件は,まず神戸で発生した.
 昭和20年11月17日の夜,元町6丁目の神戸市第4砂糖配給所が,5,60名の一団に襲われて,砂糖4350斤(261キロ)を強奪された.
 それから10日後,三田署管内の有馬軍高平村(三田市)で砂糖を収納していた倉庫が,拳銃・日本刀などを所持し,トラック2台で乗りつけた19人組の強盗団に襲われた.
 これらの事件はいずれも検挙することができたが,高平村事件の犯人グループは,逮捕した12月7日までの間に,10件もの集団強盗を働いていたことが判明したし,一方,この事件は凶悪犯が,都市部から郡部へと拡大していく現象のさきがけをなした.

 こうして我が国犯罪史上最悪の年といわれる昭和21年を迎えたのである.
 昭和21年は殺人事件も倍増したが,強盗事件にあっては,何と前年の6倍を越えるすさまじい状況を呈した.
 図表・第67[転載省略]をご覧願いたい.
 同表に言う凶悪犯とは,殺人・強盗・放火をさすが,1月から5月までの間は県下平均で1日5件,神戸・阪神間では毎夜4件もの凶悪犯罪が発生した勘定になる.
 無論,この数字の中には集団強盗事件も含まれている.
[中略]
 時には一署の管内で2組の集団強盗事件が同時発生し,あるいは軒並みの8軒が同一強盗団に相次いで襲われ,さらには1軒の家が1年に4回も強盗被害にかかるという,常識では考えられないようなことも起こった.
 まさに百鬼夜行の世の中である.

[中略]
 このように,強窃盗を問わず,その徒党化と凶悪化が,戦後犯罪における最大の特徴であった.

第三国人をめぐって

 さて,以上見てきた強窃盗団は,三宮自由市場と深いかかわりを持っていた.
 自由市場の実態は闇市であり,さらには泥棒市場としての側面を持っていたことは,すでに述べた.
 その自由市場に大きな勢力を張っていたのが,中国人・台湾人・朝鮮人などのいわゆる第三国人であった.
 彼らは戦勝国意識を誇示するため,腕章を付けて行動し,敗戦国日本の警察権行使を認めようとしなかった.
 連合国の占領政策が具体化しない段階における,日本警察の持つ捜査権の不明確さと,日本警察官の敗戦国意識が影響して,その取締りの徹底を期しえず,残念ながら一時期,同地区は無警察状態に陥った.

[中略]

 こうした,いわば無重力状態の中で,第三国人の不法行為が相次いだ.
 そのまず第一は,華工(中国人労務者)による幾つかの事件である.
 中国人労務者の実態については,221ページで触れたが,終戦直後の8月20日の夜,約800人の中国人労務者が,戦勝国民としての生活権擁護を理由に,海岸通の三井倉庫に侵入し,米・砂糖などを強奪して以来,今夜のごとく倉庫を襲い,あげくの果てには水上署ならびに警察部外事課に乱入の上,暴力を揮うに至った.
 他方,逆に相生市内では播磨造船所で,中国人労務者の無法ぶりに激しい憤怒を抱いていた刑余者が,些細なことから中国人労務者3人を殺害するという事件も怒っている.

 しかし,この中国人労務者問題は間もなく解決し,第三国人問題は日本人・朝鮮人・台湾人による混成犯罪者集団対策に絞られ,特に三社相互間の角遂に発する構想は,治安上もっとも重視しなければ成らない問題となった.
 ところが残念ながら当時,警察の権威は地に落ち,三宮自由市場は無法をほしいままにしていた.

 そうした中で,警察にとり極めて不名誉な事件が突発した.
 昭和20年12月24日の夜半,僅かな時間とはいえ,生田警察署が暴徒に占領されたのである.
 この事件は生田署が,岡山県警察部の捜査に協力したことが発端となっている.
 同書では,岡山市内で発生した7人組の拳銃強盗犯人を追って,神戸に出張してきた岡山県の捜査員に協力した.
 ところが午後9時ごろ,「岡山の刑事を出せ」と叫びながら,突然乱入してきた,50人を越える朝鮮人の一団が,拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き,署内の捜索を始めた.
 岡山の捜査員は幸い,脱出に成功したが,暴徒は電話線を切断し,外部との連絡手段を絶ってしまった.
 急を聞いて進駐軍MPがジープで駆けつけ,事態はようやくにして収拾し得たが,この事件は無法者集団を増長させる結果をもたらした.

 1月9日,生田署が三宮ガード下でハッタリ賭博団を検挙した際,又も3.40人の朝鮮人が署内に乱入し,犯人を奪還しようとしたのである.
 しかし同署では,断固これを制圧し,MPと協力して首謀者と見られる3名を検挙した.

 心無い一部の第三国人の無法ぶりは,市民に取り恐怖の的であったが,一方,こうした非道は許せないと息巻く侠客団体をはじめとする既存団体との間に,しばしば争闘事件が繰り返された.
 昭和20年11月26日に長田署管内で,日・鮮青年間に殺傷事件が発生したのに続いて,昭和21年元旦には,またまた中谷組と朝鮮人連盟西神戸支部員ら100人が,入り乱れての乱闘を演じ,11日には尼崎で,神農会と朝鮮人連盟間の乱闘事件が発生,2月3日夜には生田署管内で,密輸米をめぐって,大阪と神戸の両朝鮮人連盟間に抗争事件が起こった他,小規模の衝突は数え切れない有様であった.

 こうした情勢は,その後も一向に改善の兆しを見せないのみか,警察官にも犠牲者が出るに至った.
 2月28日,生田署の岡政雄警部補(当時巡査部長)が,北長狭通の台湾省民会青年隊事務所で,数名の者から殴る蹴るの暴行を受けて人事不省となり,手当ての甲斐もなく絶命したのである.

 事態は朝鮮人連盟と台湾省民会青年隊との,対立抗争に発展した.
 4月4日の夜,両団体の急進分子が,阪急ガード下の立退き問題から対峙し,相互にその事務所を襲って拳銃を乱射した.
 この事件は,在神進駐軍当局の出動により,一応鎮まったものの,翌5日には朝鮮人連盟東神戸支部情報部長,原泉こと洪順永ほか1名が,何者かに灘区篠原の大谷山山麓へ連行の上,射殺されたのである.

―――――――『兵庫県警察史 昭和編』(兵庫県警察本部著,1975)p.442-449

―――――――
 こうした情勢の中で,市民の中に,我々の生活は我々自身の手で守ろうという声が高まり,各地区に自警組織を持とうとする動きが始まった.
 警察では警防団・町内会などを母体とする自衛組織の育成策をとったが,こうした地域団体とは別に,朝鮮人団体・侠客団体・露天商その他の業者団体などが組織した自警団も数多く,その動きは多彩であった.
 次にその一端を,『神戸新聞』の記事により紹介しよう.

昭20.12.22 生田署管内では中国・台湾・朝鮮の各青年が,相生町4丁目の派出所を詰め所として,神戸駅以西の警戒に当たった.
昭21. 1.21 番町自警団は,集団強盗20数件を検挙した.
昭21. 1.29 明石で金波虎組と呼ぶ自警組織が誕生した.
昭21. 2. 1 長田区二葉町に西神戸自警団が発足した.
昭21. 2.15 洲本で,もと力士・侠客などが憂洲組を結成した.
昭21. 2.23 湊川新開地に,山口組幹部を団長とする自警団が発足した.
昭21. 2.23 灘自警団が誕生,強窃盗4件を検挙.
昭21. 4.03 西宮に義研団が結成された.

 これらはいずれも,警察力の不足をカバーするため,積極的な活躍ぶりを示したが,やがて一部に自警団の行き過ぎが問題となり,自警団の看板を掲げた,街の狼的組織が生まれ,自警団員による窃盗その他の犯罪が発生し,あるいはまた既に述べたように,これらの組織相互間の争闘事件が発生したのである.
 そしてその争いの原因は,第三国人対日本人という形から,次第に利権を巡るものに変化していった.
 すなわち,反社会集団としての暴力団化であるが,これらについては後述する.

―――――――『兵庫県警察史 昭和編』(兵庫県警察本部著,1975)p.460-461
 これを上述の,田岡氏の著述と比較しますと,
田岡氏「警察署は我々が護った」
兵庫県警「進駐軍に護ってもらった」
という点のみ不一致があるようですが,それ以外はおおむね一致するようです.
(たとえ田岡氏証言が事実だとしても,警察はその面子ゆえ,事実だとは決して認めないでしょう)
 したがいまして,田岡氏の著述にも平均的な信頼性を与えても良いのではないかと.

 また,「証言だけだから」ダメだというのであれば,一次資料の否定につながるのではないでしょうか?
 反論としては非常に弱いかと存じます.

 さらに,
>いわゆる広域暴力団 ぶっちゃけマフィアのボスの武勇伝であり 自分の人生の正当化に過ぎません.
と断定しておられますが,この断定の根拠は何でしょうか?
 もちろん,バイアスがかかっている可能性は捨てきれませんが,すなわちそれによって即,全否定というのもいかがなものかと存じます.
 本項につきましては,引用された文の他,松本清張も同様のことを書いていたような記憶がございますし,さらにまた,以下のような事例もございますので,全否定は困難かと存じます.
【質問】 戦後直後,神戸朝鮮人学校事件などの朝鮮人学校騒乱事件は何故起こったのか?
【質問】 生田警察署襲撃事件って何?
【質問】 王子朝鮮人学校事件って何?
【質問】 富坂警察署襲撃事件って何?
 他にも多数の事例が存在するようです.
 詳しくは,各都道府県警察の警察史を見る必要がありますが.

 ところで,兵庫県警史では当時の山口組について,以下のように評価・分析しております.
 ―――――――
県下の暴力地図と山口組

 終戦を迎えた頃,県下のヤクザはまだ鳴りを潜めていたが,三宮に闇市が生まれるとともに,次第に生気を取り戻し始めた.
 闇市の成立とその実態については,つぶさに眺めてきたので省略するが,各地に発生した闇市は,集団的形態を取るにつれて,そこには幾つもの勢力分布が生じ,利権を巡る争いが起こり始めた.
 このため警察では,既存のテキ屋団体(神農会・露友会)を母体とする自治組織の育成を図ったのである.
 当時,県下の治安情勢は極めて悪く,凶悪犯罪が続発していたため,これらの自治組織は,警察の補助機関としての自警団を編成した.
 こうした自警団は当初,良く警察力の不足をカバーしたが,やがて利権を巡る組織相互間の争闘事件を引き起こし,急速に反社会団体としての性格を強めていった.

 他方,露天商とは別に,港湾荷役や建設工事の下請けないし人夫供給業兼用心棒を業とする博徒集団があった.
 終戦当時この種の集団としては,
神戸の山口組・中山組・大島組・本多会・五島組,
尼崎の笠谷組,
西宮の松本組・中村組
の8団体,その構成員は約500人であった.
 この種の集団の多くは戦時中,何らかの形で一部政界とつながりを持ち,憂国団体を自称していた.
 こうした動きは戦後にもあり,神戸では昭和20年11月に大日本三色国政民治青年党神戸支部が結成され,翌21年2月には,その後援の下に,山長五島組河崎一男を会長,南谷組南谷順三を神戸支部長とする兵庫県復興同盟が発足した.
 同党の言う三色とは,太陽の真実感,大地の自由律,海洋の平等性を意味する赤・黄・青を指すが,その主張とは裏腹に,同党は隠退蔵物資の摘発を巡り,日本共産党と摩擦を繰り返し,間もなく政治団体としての性格を失ってしまった.

 こうして戦後における暴力団の勢力地図は,急速に塗り替えられていき,組の組織を模倣し強窃盗,恐喝などを常習とする不良グループ,所謂愚連隊を加え,昭和23年には75団体,その構成員は約2000人に達したのである.
 本件では昭和21年に49人,翌22年には107人の暴力犯を検挙しているが,その手口を見ると,昭和21年当時は主として,自警団を背景とした無銭飲食であったのが,22年には尼崎の高木組,神戸の五島組,明石の佃組の場合に見られるように,縄張り内の善良な業者に,挨拶料を要求するという,典型的な暴力団化傾向を示している.
 そして,その凶暴化原因の一つに,戦後の激しいインフレ高進により,資金確保に狂奔せざるを得なかったことが挙げられる.
 こうした状況下で,前掲の博徒親分子分の制度に関するGHQ指令が発せられ,警察はその取締りを強化したのであり,その状況は図表102のとおりである[図表省略]

 ところが,暴力団を巡る情勢は,この頃から急速に変化した.
 まずその第一は,競馬・競輪の登場であり,特に爆発的人気を呼んだ競輪は,暴力団にとって最も魅力ある資金源となった.
[中略]
 これらの組は,1開催期間(6日間)ごとに30万円程度の警備収入を得たほか,場内ならびに周辺の予想屋・売店などの営業権を,自己の縄張りとしたのである.
 神戸権輪状では,やや立遅れた山口組が,強引に割り込もうとしたことから,昭和24年10月には,山口組系の地道組と西海組との間に,血で血を洗う抗争事件が発生しているし,同年6月,鳴尾競輪場開場第1日目に起こった,県下初の競輪場騒動も,当時,鳴尾村警察長であった宮崎三治が,
「今にして思えばあの騒動は,鳴尾競輪場警備の利権を竹田組にさらわれた森岡が,腹いせに仕組んだ計画的なものであったようだ」
と当時を振り返っているが,場内警備という正業?のみで満足せぬ彼らは,選手をその支配下に入れ,あるいはこれを脅して,八百長レースをやらせようとするに至るのである.

 彼らが次に目を付けた資金源は,パチンコ・ブームであった.
 これを自己の縄張りの中に入れるとともに,目抜き通りのパチンコ屋は多く,暴力団の経営するところとなった.
 いや,それにもまして彼らが目を血走らせたのは,景品買いをその支配下に入れ,あるいは自ら経営することであった.
 景品タバコは暴力団の手を経て,客とパチンコ屋の間を何回も往復した.
 このほか,公娼廃止後の密売春婦を操り,その上前をはねる徒輩もあるなど,彼らはありとあらゆる方法で,資金稼ぎに狂奔したのである.
 このほか賭博開帳,あるいは街頭のハッタリ賭博など,彼らのいわば伝統的な収入源が確保されていたことは,言うまでもない.

 ところがこうした中において,神戸の山口組3代目・田岡一雄のやり方は,いささか他の暴力団と違っていた.
 彼はその資金源を非合法分野のみに頼らず,興行界ならびに港湾荷役業界への進出と,その勢力扶植を狙ったのである.
 狭い神戸市内で,しかも限られた利権を巡り,力関係の均衡を意識しながら,縄張りの維持拡大にしのぎを削っているヤクザの世界にあって,それは確かに異色のものといえ,昭和30年代に田岡をして,全国制覇の野望を持たしめた組織力と資金源は,こうして形成されたのである.

 [中略]
 現在の田岡一雄が3代目組長を襲名したのは,昭和21年7月のことで,同月30日,須磨の延命軒で3代目の襲名披露宴を張った.
 田岡は3代目を襲名するに先立って,資本金10万円の土木建築請負業株式会社山口組を設立し,代表取締役に納まっているが,同社が実際に土建業をやったという事実は無い.
 襲名後,田岡は湊川神社前の八千代劇場で,虎造・勝太郎・雲月など一流・大家出演の襲名披露名人浪曲大会を開催し,純益金を戦災孤児ならびに欠食児童救済金に充てた.
 戦後の混乱と荒廃の中で,いち早く復興した神戸新開地の興行街に,用心棒などで出入りしていた山口組は,2代目による芸能界へのつながりをもとに,次第にその勢力を扶植していき,神戸で出演する芸能人は,必ず山口組へ挨拶するまでになった.
 田岡は広沢虎造や伊丹秀子らと共に各地を巡業する一方,昭和23年には神戸福原の関西劇場で浪曲大会を興行し,さらに同年,笠置シズ子の物真似から一躍人気者になった,11歳の天才少女美空ひばりに目をかけ,これを後援した.

 田岡はこうして,興行界での地位を不動のものとした後,初代以来の地盤である港湾荷役業界への進出を図った.
 昭和23年6月,GHQは覚書を発し,港湾労務における親分子分の関係を否定したが,進駐軍指示による港湾荷役システムになじめず,現状に不満を持つ業者が,昭和4年に港洞会を結成したとき,田岡は推されて会長となった.
 ところが同会の下請け再開期待は,早くも翌25年に実現した.
 その理由は,朝鮮戦争の勃発である.
 こうして田岡は,「港の六人衆」の一人として業界に進出し,港湾運送事業として新しく設けられた船内荷役の下請け独占を狙って,昭和27年に港湾荷役協議会を結成し,昭和31年には全国港湾荷役振興会の設立に参加,神戸港の荷役業界に羽振りをきかせ,同年の港湾労働争議に当たり,
「神戸港に赤旗は立てさせない」
と豪語するまでに至った.

 こうして,神戸における興行界・港湾業界に強大な勢力を張った山口組は,昭和29年ごろから全国へ勢力を拡大させるために行動し始めた.
 その動きは当然,他の団体への圧力となり,組の命運をかけた激しい集団抗争事件を巻き起こし,市民を恐怖のどん底に陥れた.
 本県警察の総力を挙げての山口組壊滅作戦は,こうした状況下に展開されたのである.

―――――――同,p.644-648
 これを『山口組三代目 田岡一雄自伝』の記述と比較しますに,概ね食い違い部分は事実関係にはなく,事実に対する解釈の違いというレベルにとどまっています.

>名前:閻魔さくや 日付:2011/9/16(金) 0:32
>マフィア・ボスの回顧録ですが 彼自身の武勇伝ですので,誇張や歪曲などの可能性が大きいのではないでしょうか?

との御懸念をお持ちのようですが,少なくとも当方の見た限りでは,誇張や歪曲は発見できませんでしたので,もしそのような誇張・歪曲を発見なされた場合は,論拠を添えてご一報いただければ幸いです.

in FAQ BBS,2011/8/28(日) 17:21
in mixi,2011年10月19日01:24
in mixi,2011年10月24日02:05
を加筆・改修


 【質問】
 生田警察署襲撃事件って何?

 【回答】
 1945年12月24日午後9時頃,50名を超える朝鮮人の暴徒が,「岡山の刑事を出せ」と叫びながら,兵庫県神戸市中央区にある生田警察署署内に侵入し,署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した事件.
 これ以前,岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており,強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張,この捜査員に生田署が協力したことが,暴徒の襲撃の動機.
 その後,事件を聞きつけた進駐軍の部隊により,暴動は鎮圧された.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/生田警察署襲撃事件

【ぐんじさんぎょう】,2011/09/17 20:20
を加筆改修


 【質問】
 王子朝鮮人学校事件って何?

 【回答】
 1951年,蒲田警察署が,東京都北区の都立朝鮮人中高等学校(今の東京朝鮮中高級学校)を家宅捜索したことがきっかけで起きた騒擾事件.
 同年3/7,同校での抗議集会の最中,学校外にいた群集が警察隊に対して投石,唐辛子粉の噴霧,暴行を行い,警官28人が重軽傷.
 警視庁は,遂に群集を強制的に解散させることを決断,群集が煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗する中,警官隊は午後2時50分までに群集全員を校外に排除した.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/王子朝鮮人学校事件

【ぐんじさんぎょう】,2011/09/14 20:30
を加筆改修


 【質問】
 富坂警察署襲撃事件って何?

 【回答】
 1946年1月3日正午過ぎ,東京都小石川区(現・文京区)の警視庁富坂警察署に,トラック2台に分乗した朝鮮人,約80人がやってきて署内に乱入,留置中の在日朝鮮人の即時釈放を要求し,警察官たちを暴行した事件.
 それに先立つ1945年12月30日,富坂警察署は,管内で発生していた連続拳銃強盗事件の容疑者として,在日朝鮮人3人を逮捕していた.
 襲撃者たちは留置場から容疑者を連れ出し,富坂警察署の前を通りかかったトラックを奪って逃走.
 その後の捜査でも,襲撃者たちの検挙には至らなかった.

 【参考ページ】
http://ja.wikipedia.org/wiki/富坂警察署襲撃事件

【ぐんじさんぎょう】,2011/09/19 20:50
を加筆改修


 【質問】
 終戦直後の満州の行政はどうなっていたのか?

 【回答】
 北原白秋が作詞し,山田耕筰が作曲した童謡「ペチカ」は,元々,南満洲教育会が音楽教材用に制作を依頼したもので,哈爾浜の長い冬の夜がモチーフになっていました.

 当時,満洲は理想に燃えた人々が多く渡り(一方で食い詰めた農民や過激派も渡った訳ですが),左寄りの人物さえも受け入れる土地でありました.
 例えば,満鉄付属地の学校要員養成機関として満洲教育専門学校を設立した責任者の満鉄地方部学務課長保々隆矣は,国定教科書を「珍品」と決めつけ,教育勅語の文字だけに捕らわれた道徳教育,政治教育の欠如,水準の低い師範教育も批判して憚らない人物でした.

 斯うした人々がいた為に,都市部には歯科診療室を備えた学校が幾つもあり,栄養士による給食の実施,養護学級の設置など,先進的な取組みを行い,日本が戦後,漸く取り入れた学校教育の取組みより遙かに先を行っていた訳です.

 しかし元はと言えば,満洲は他人の土地に強引に押入って打ち立てた幻の国家であった訳で,1945年8月9日にソ連が侵攻すると呆気なく崩壊してしまいました.

 そのソ連,8月14日に中華民国との間で,対日戦遂行に関する相互援助,単独不休戦・不講和,日本の再侵略措置の防止措置を共同で実施,相互の主権と領土の尊重を骨子とする中ソ友好同盟条約を調印します.
 その結果,ソ連は中華民国に,外蒙古の現状維持,大連港国際化とソ連の海軍基地としての旅順口の租借権回復,中ソ合同会社での東支鉄道と南満州鉄道の共同経営,満洲の中華民国の主権を認める代り,ソ連の優先的利益の擁護を認めさせる事に成功します.

 本来,ソ連は日本降伏後3週間以内に東三省から撤兵を開始し,3ヶ月以内に撤退を完了する事になっていました.
 即ち,南部満洲から11月14日まで,中部からは20日まで,12月3日に満洲全域から撤退するスケジュールになっていました.
 ところが,実際には1946年4月迄居座り続け,シベリアに在留邦人を多く送り込むと共に,各地で賠償と言う名目の略奪を行います.

 先ず,新京の満洲中央銀行の金庫から旧満州国の満銀券7億円,有価証券75億円,金塊36kg,白金31kg,銀塊66kg,ダイヤモンド3,705カラットを持ち出したのを始め,各地の金融機関から現金,有価証券,貴金属類を根こそぎにした他,郵便局も接収され,旧満州国の切手を押収しました.

 その他,アメリカのポーレー委員会の調査では,電力産業71%,炭砿付属施設90%,鉄道施設80%,機械工業75%,液体燃料工業50%,化学工業50%,洋炭工業50%,非鉄金属工業75%,繊維工業75%,パルプ工業30%,電信電話20%以上の各施設が被害を受けて破壊されたか,ソ連による撤去で持ち去られたもので,被害総額は当時のレート,1ドル4円20銭に換算して8億9,350万ドルに達しました.

 お陰で郵便切手などは存在せず,郵便料金収納済の消印を押す事で郵便局は対応したりしています.
 流石に満洲元号は使われず,民国歴に戻しましたが.

 これら切手類はソ連が満洲から撤退した後も,ソ連が租借していた旧関東州に持ち込まれ,現地接収の日本切手と共に加刷して使用されていたりします.

 この地域では,ソ連が撤退後に入った国府軍によって中国郵政の権威は取り戻していました.
 中国郵政では,東北地域で流通する切手として,日本占領時代に,北京で印刷された日本軍占領地域用切手を没収してそれに充てる事にしていました.
 但し,その切手には「限東北貼用」と言う加刷と満洲中央銀行券に対応した額面を加刷していました.

 これは,東三省では依然として満洲中央銀行券(満洲国幣)が略奪を受けつつも,最も信用のおける通貨として通用しており,中華民国幣(法幣)との間に大きな為替差があった為です.
 この為替差は,1946年2月で満洲国幣1円に対し法幣13円に達しています.
 この為,中国本土の切手を其の儘持ち込む事は新たな投機対象となってしまいますから,加刷を行った訳です.
 その満洲国幣は,1947年の国府中央銀行が発行した東北流通券に交換されて流通されるまで有効でした.

 本来は国府政府としても,日本占領時代の切手を使いたくはなく,香港で製造された新しい切手を使用するつもりだったのですが,期日までに香港製が間に合わず,急遽日本占領時代の切手を使用したものです.
 香港製のものは1946年3月から使用され始めましたが,切手の配給量が非常に少なかった為,日本占領時代の切手に加刷したものも並行して使用されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月01日


 【質問】
 戦後直後,日本人民労働組合の,満州日本人社会の支配ぶりは,どんなものだったか?

 【回答】
 同胞いじめを繰り返したため,共産党の信用を落とす結果になった.
 当時,大連在住の安江弘夫は,以下のように述べている.

 〔コズロフ中将の警備司令官就任後,〕野坂参三の率いる日本人民解放連盟のメンバーが主力となって組織された日本人民労働組合が,唯一の認められた機関として日本人社会を支配するようになった.
 そして,日本人民の解放でなく締め付けにかかり,青年層に対しては地区毎に講師が来て共産主義教育を行ったが,なにぶん日本最高とも思われる生活レベルで育ち,教育程度も高いので,講師は馬鹿にされるだけであった.

 この組合幹部の中には,満鉄調査部出身の石堂清倫のような「インテリで良心的なマルクス教徒」もいたが,レベルの低い連中も多く,彼らはソ連軍の具体的な指令もないのに,人民裁判などの手段で同胞いじめを繰り返した.
 そのため彼らの悪名は高く,後に引き上げが始まると,引揚船や上陸港の引揚者掩護局の収容所の中で,逆に彼らが彼らの言う人民たちから吊るし上げられ報復されることになり,大連からの引揚者に関する限り,共産党は全くその信用を落とした.

 だいたい,大連で日本人が悲惨な目に遭っている最中の21年1月26日に,野坂参三は日比谷公会堂で,
「満州の残留法人は中国共産党,ソ連の庇護の下に,生活不安もなく,安全に暮らしている」と演説しているのである.
 彼は国籍を取り間違えていたとしか考えられない.

(安江弘夫「大連特務機関と幻のユダヤ国家」,八幡書店,1989/8,p.246-247)


 【質問】
 イラク戦争およびその後の統治を見て思ったんですが,日本では敗戦後,スムーズに武装解除できたのは何故ですか?
 また,敗戦後,進駐軍に対するゲリラ行為ってあったんですか?

 【回答】
 日本では,最高指導者である天皇陛下の名で国民に降伏が宣言され,それで(心中の問題はあれど)みんなが「敗戦」を受け入れたから.
 それと,イラクと違って大日本帝国の行政組織は健在で,そういう意味では市民の生活にも軍事力の制御にも変化はなかった.
 イラクがあんな状態になっちゃってるのは,政府首脳がみんな逃げて,無政府状態になっちゃった所が大きい.

 日本軍人で「マッカーサーを殺してやる!」と叫んでた人は少数いたが,実行した(できた)人はいなかった.
 上述のように,軍人も国民も「敗戦・占領」という事態にある程度は納得していたことと,進駐してきた米軍が,日本人が思っていたのに比べると遥かに紳士的で,食料の提供など”いい面”をもたらしてくれたから.

 もちろん進駐軍兵士による犯罪は結構あったけど,
「旧軍に比べればずっといい人達かもしれない.それに,生活も戦時中よりずっとマシになったし」
と国民は思ったので.

 そういったメリット感をほとんど与えることが出来なかったのが,アメリカのイラク占領統治の大きな失敗.

 なお,進駐軍の軍用車のガソリンタンクに角砂糖を入れるか,マフラーに石を詰めてエンコさせるのが,地域的に流行.
 また,一部の武道家達がMPを闇討ちするなど,イタズラ程度のイヤガラセはしたそうだ.


 【質問】
 日本が降伏した後,何故アメリカは旧日本軍の兵器のほとんどを,廃棄又は処分したのでしょうか?

 【回答】
 調査する少数の武器以外,必要ないから.

 日本が再び軍備を必要としたら,作りすぎて有り余ってる自国の兵器をやればいいんだし.
 自分の国の同盟国になるなら,規格の違う兵器を装備されてると援助がし辛いしな.

 一応,旧日本軍の小銃の一部は,朝鮮戦争によって廻って来る兵器が足りないので,米軍規格に改造されて自衛隊でも使われた.
 でもそのほとんどが戦争末期の粗悪品だった上,元より強力な弾薬を使うために破損事故が多く,すぐにお蔵入りに.
 一部は韓国向けに廻されたが,やはりすぐ壊れるので「こんなもん使えん」と引き揚げられた.

軍事板
青文字:加筆改修部分

 刀だけは取り返したが,持ち主不明が多くて法案で所有権破棄させ,全国の博物館に配った.
 これを赤羽刀という.

剣恒光@Free Tibet ◆yl213OWCWU in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本の敗戦時に,接収した戦車や航空機にガソリンをかけて燃やす映像をよく見ますが,鍋等の生活必需品に再利用はできなかったんでしょうか?

 【回答】
 沈没した戦艦などは引き揚げ,その鋼材は有効活用されています.
 航空機に関しては,外地の一部(仏印とか中国とかインドネシアなど)では,残置機材を活用して自軍の装備に組み込んだ例もありました.

 但し,航空機に関しては,8月24日18時以降の飛行を禁じる勅令が出され,耐空証明も返上することになったため,飛行が出来なくなりました.
 更に進駐した米軍の基準によると,日本の基地設備は狭く,そのスペースを拡張するために航空機を破壊することになり,Bulldozerや焼却処分を行ったので,日本はアンタッチャブルだったものもあります.

 ちなみに,戦後の軍需工場はその余剰資材を利用して民需転換を図っており,例えば,中島の太田工場では航空機用ジュラルミンを利用してバスのボディを作ったり,電車の車体を作ったりしていました.
 電車の車体については,腐食が激しく,殆ど使用しないうちに廃車となりました.
 また,川西の様に,鍋や釜をジュラルミンで作って糊口を凌いだ例もありますし,日野の相模工場の様に,戦車の車体を利用して,トラクターを作ったり,トレーラーバスを作った例もあります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 因みに,航空用ジュラルミンは一般的なアルミ合金と比較すると特殊なので,スクラップとして引き取った場合の地金としての価値はほぼゼロだそうです.

戦後,棄却のために集積された航空機


 【質問】
 戦後の日本で,あまり米軍に対する「抵抗運動」が少なかったのは,日本全体が戦意喪失するほどボコボコにやられたことも関係しているのですか?

 【回答】
 それもありますが,アメリカが「戦勝国にして征服者」にしてはかなり寛大な条件で日本を扱った,というのもあります.アメリカ軍が聖人君子というわけではありませんでしたが,ドイツの敗戦の有様とか,あるいは赤軍@ベルリンのような,なんでもありの惨状などに比べればマシだったのは確かですから.

 日本の場合,ポツダム宣言を受けいれ,海軍では大海令・陸軍では大陸命という,全軍に対する最重要命令を出し,戦闘を停止するように厳命し,それらはほぼ守られました.
(宇垣中将が米艦に特攻をかけたり,坂井三郎氏が迎撃で戦闘をしていますが,後者は正当なものなので例外です)

 米軍が日本に進駐するにあたり,道路では日本兵が警備に当たっていたほどですので,抵抗運動は国内においては無かったと言ってもよいでしょう.
(背を向けるという,ちょっと大人気無いことはしていますが)

 玉音放送を阻止し継戦・玉砕しようとした動きもありますが,これらは封じられました.
 天皇という絶対的な政治的・精神的権威が存在し,500の言うように行政統治機構が生きていた事が,抵抗運動を封じ,速やかな占領行政への移管と主権・独立回復につながったと言えます.

軍事板

▼ また,以下のような話もある.

――――――
 戦後,高等工業学校の同窓会があったとき,スパイ養成の学校で訓練を受けた同級生の一人が,終戦後も何ヶ月か,進駐軍攻撃の計画を,仲間と共に練っていた話をしたことがある.
 近頃イラクのテロに関するニュースを聞くたびに,思い出している.

――――――『新原子炉お節介学入門』(柴田俊一著,一宮事務所,2005.3.25),p.332-333

 【関連リンク】
大海令とは
http://www.h2.dion.ne.jp/~sws6225/kairei/daikai.html

七氏 in FAQ BBS

横須賀海軍工廠の鍵の引渡し


 【質問】
 「おろか者の碑」は,「太平洋戦争の勝利をあくまで信じていた人たちが,敗戦後,反省のために建立したもの」?

 以下引用.

----------------
 これは太平洋戦争の勝利をあくまで信じていた人たちが,敗戦後,反省のために建立したもので,碑面には次の七音絶句が刻まれている.
 上州人無智亦無才
 剛毅木訥易被欺
 唯以正直接万人
 至誠依神期勝利

 これを大雑把に和訳すれば,こんなふうになるだろう.
「上州人は無智で無才.
 頑固で,ぶっきらぼうで,人に騙され易い.
 誰に対しても,ただもう正直に接している.
 誠意を尽くせば,神風が吹いて,勝つだろうとばかり思っていた」

――山口正二著『聞書き五代目古今亭今輔』(青蛙房(せいあぼう),2003/7/5),p.62-63

 【回答】
 これは高崎市宮元町の頼政神社にある,内村鑑三の『上州人』の漢詩碑のことではないでしょうか?
 内村鑑三は1930年に亡くなっていますので,そもそもこの詩は太平洋戦争とは関係ないものだと思うのですが.
 一方,吾妻郡中之条町にある,おろかもの之碑(これが正式な名称のようです)の碑文は以下の通りです.

 昭和十二年七月七日ノ支那事変ハツイニ昭和十六年十二月八日大東亜戦争トナル日本ノ運命ヲ決スル危機ニ際シ我々ハ当時ノ職務上或イハ一方的委嘱状ニヨッテ一律ニソレゾレ大政翼賛会翼賛壮年団在郷軍人会ノ郡町村責任者トナッタガ敗戦後占領政策ニヨリ其ノ職ニ在ッタ者ハスベテ戦争犯罪人トシテ昭和二十二年二月ヨリ一切ノ公職カラ追放サレタ本意ナキ罪人ハ互ニソノ愚直ヲ笑イ合ッタ昭和二十六年八月全員解除サレルヤあづま会ヲ設立シテ今日モナオ旧交ヲ持シ郷土吾妻ノタメニ聊ノ報恩ヲ期シテイル創立十周年ニ際シおろかものノ実在ヲ後世ニ伝エ再ビコノ過チヲ侵スコトナキヲ願イ卑名ヲ下記ニ連ネテ碑ヲ立テル

昭和三十六年十二月八日
あづま会建立

というわけで,勝利を信じていた人々がいたというわけではないようです.

 出典は以下のサイトより.
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/shimin14shishahabunnretu.htm
 碑文の全文,とあるのでまず間違いはないのでは,と思います.
 当人が見てきたわけではないのでアレですけれども……

SPR in FAQ BBS


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