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諜報FAQ目次


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 【質問】
 第二次大戦中の,日本・ポーランドの情報協力関係はどんなものだったか?

 【回答】
 情報分野での日本とポーランドの協力は,20年代初頭に始まっており,濃淡の差はあったものの,戦争終了まで続いた.

 1930年代半ば以降,日本は東欧の状況に鑑み,パリ,ベルリン,ワルシャワの大使館武官部を強化してソ連情報を収集することになった.
 日本はポーランドの協力の下,ヨーロッパ北東部をカヴァーする情報網を築き上げた.
 その中心はストックホルムにあり,中心人物は小野寺信武官だった.アメリカのヒレル・レヴィンが,「ヨーロッパ抜群の情報専門家」と呼んだ男である.

 この情報機関の指令により,杉原千畝はカウナスに領事館を開設した.ドイツがケーニヒスベルクの日本領事館開設に同意しなかったための代替地だった.
 杉原が受けた訓令は,ドイツ軍がソ連に侵攻するか否かを探れというものだった.

 外務省では,杉原はヘルシンキで短期間,公使代理の職にあった他は,単なる書記官・翻訳官に過ぎなかったため,当初この人事に首を傾げた.
 他方参謀本部は,カウナスでの情報活動をできるだけ目立たない形で進めることを要求していたので,外務省としても上級職の外交官を派遣することには抵抗があった.

 杉原は周到に関係を築き上げていたので,すぐ情報活動を始めることができた.前の赴任地,ヘルシンキでポーランドの地下運動関係者とのコネを作り上げていたのである.
 その中にヤン・ペレツ少尉ことスタニスワフ・ダスキエヴィッツと,ボレスワフ・ロツイキがいた.2人はミヒャル・リュビオコフスキイことR大佐の秘密グループに属していた.
 R大佐はポーランドの軍情報機関の指導的人物で,杉原の貴重な情報提供者となる.
 彼に近い連絡役は,ジェルジ・クンセヴィッツ大尉ことアルフォンス・ヤクビアニッチ,別名クーバで,これも杉原の任務にとって重要な人物となる.
 杉原は領事の地位を利用して,彼らに日本や満州国の旅券を発給してこれに報い,後には通過査証を発給して,ポーランド系ユダヤ人の逃走を可能にすることとなる.
 ポーランドの情報機関にとっては,杉原に軍事情報を供与する見返りとして,日本の外交ルートでロンドンの亡命政府との安定した連絡を確保することが重要だった.

 しかし,カウナスの領事館は1940/4/29閉鎖.
 杉原は1941年9月,プラハに赴任.
 その後の1941/3/6,彼はケーニヒスベルクに着任.
 両地での主たる任務も,ドイツ軍とソ連軍の動向を探ることだった.
 杉原はここでもポーランド情報機関と協力した.
 その何人かは彼の仲介で,ベルリンの満州国大使館または日本大使館から満州国の,時には日本の旅券まで手に入れた.
 ゲシュタポは,彼らから見ると胡散臭い杉原の同行を観察していたが,手が出せるわけではなかった.
 しかしドイツ側にとっては,ポーランドのスパイが日本に協力しているだけでなく,敵国であるイギリスにあるポーランドの亡命政権にも情報を送っていることが気に入らなかった.

 ケーニヒスベルクはナチスの牙城だった.
 東プロイセンの首都であるこの街の市長は,SSの北東地域本部長でもあったが,カウナスの公使館から杉原についての情報を入手していた.
 彼は,杉原が情報活動をしていることにつき外務省に抗議したが,杉原のほうは1941年6月初め,とっくにドイツ軍の大規模な集中と物資輸送について東京に報告済みだった.

 6/22,バルバロッサ作戦開始.
 ポーランド協力者は定期的に領事館を訪れ,最新情報をもたらす.
 しかし外務省は,これら情報には懐疑的だった.
 戦争が進むにつれて,杉原の行動の自由も狭められる.ゲシュタポは,彼は外交官であるよりはスパイだと見ており,追い出そうとする.
 翌年9月,東部戦線の状況のために領事館は閉鎖され,ドイツ側は目的を達する.

 なお,1941年12月以降,形式的には日本はポーランドと戦争状態にあったにも関わらず,複数のポーランドの暗号専門家が終戦まで関東軍に勤務していた.

 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.135-136, 140-142, 151-153を参照されたし.

消印所沢

▼ また,杉原千畝の,ロシア語で書かれた未公刊報告書には,以下の記述があります.

――――――
「大島浩中将は(中略),ドイツ軍が本当にソ連に侵攻するかどうかの確証を掴みたがっていた.
 要するに,日本陸軍参謀本部は関東軍,即ち満洲に駐留していた日本軍の最精鋭部隊を出来るだけ早く,ソ満国境から南太平洋諸島へ転身させることを望んでおり,ドイツ軍による西方からの電撃的な対ソ攻撃に,並々ならぬ関心を持っていたと言う訳である.
 ドイツ軍出撃の日時を迅速かつ正確に特定すること――,これが公使の主たる任務であった.
 それで私は,何故参謀本部が外務省に対して,カウナスの公館開設をあれほど強く要請したのか,合点がいったのであった.
 日本人居住者も居ないカウナスの領事となってみて,私は国境付近のドイツ軍の集結状況を参謀本部と外務省に伝える事が我が使命であると自覚したのである」
――――――

 で,杉原千畝は,ヘルシンキ在住の女性ジャーナリスト,リラ・リシツィンと通じて,その従姉妹にあたるゾフィア・コグノヴィツカの息子タデウッシュ・コグノヴィツキに近付きます.
 彼は,武装闘争同盟(ZWZ)のカウナス地区司令部メンバーで,ヴィンツェンティ・フションシュチェコフ中佐(ZWZカウナス管区軍事司令部副司令官)の最も密接な協力者の一人であり,杉原との関係を利用して,武装闘争同盟の報告書を外交ルートでポーランド亡命政府に送る様に成りました.

 ついでに,1939年8月の独ソ不可侵条約締結まで,駐ポーランドの酒匂大使は,駐ドイツの大島大使と協同して,日独伊三国同盟にポーランドを加入させようと工作を続けています.
 これは有田外相も承認の上の行動だったみたいです.

 後,1935年にポーランド側が主導してグディーニアに日本の名誉領事館を置いています.
 その交換条件に日本側は,マウォポルスカ東部のルヴフに領事館を設置する事を計画していました.
 この領事館は,対ソ情報の収集と言う特別任務を課されたものでしたが,何故か途中でこの動きは跡絶え,実際に設置されたのは1939年8月の事で,第二次大戦勃発とソ連の西ウクライナ地区の占領で,結局は反故にされています.

 因みに,この地域の公使は比較的短期の駐在でしたが,これは中東欧諸国の事情に通暁した人材の育成が覚束なかった為と言うことです.

 以上,『日本・ポーランド関係史』(エヴァ・パワシュ=ルトコフスカ,アンジェイ・T・ロメル共著:彩流社刊)からのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」,2009年08月23日 23:17
青文字:加筆改修部分

▼ 以下詳細:

 日本の仮想敵国と言えば,陸軍ではロシア,そしてソ連でした.
 日露戦争の際には,ロシアの情報を手に入れる為,そして,国内に動乱を起こさせる為,様々な工作を行っています.
 特に,明石元二郎大佐が行った工作は有名です.

 山縣有朋の英断で当時の金で100万円を支給された明石大佐は,その豊富な資金を反帝政ロシアのグループにばらまき,それによってロシア国内での攪乱やサボタージュが発生しました.
 この資金の一部は,ロシアから独立を図っていた欧州地域,特にフィンランドやポーランドの反政府勢力にも支給されました.
 ポーランドでは,社会党が750丁の拳銃を始めとする武器弾薬の購入に,こうした資金が投入されていますし,社会党の指導者であった後の大統領ピウスツキ等が密かに日本を訪問したりしています.

 日本とポーランドとの関係は,この様な人と人との結びつきによるもの,特に外交関係と言うよりも,軍事関係の密接さが濃いものでした.

 第一次世界大戦後,ポーランドはソ連,ドイツ,オーストリアの領土を組み合わせて独立を果たします.
 日本との外交関係が立ち上がっていない段階の1919年6月から,陸軍参謀本部は,山脇正隆大尉を代表として派遣していました.
 陸軍省は,仮想敵であるソ連に近く,しかも日露戦争以来協力関係に有るポーランドに,外務省より早く人を派遣していたのです.
 この為,山脇大尉は軍事使節と言う本来の任務に加えて,政治外交の領域にまで踏み込み,外務省に情報を送るという仕事をこなしていました.

 山脇大尉は,1905年に陸軍士官学校を卒業し,1914年には陸軍大学校を卒業して,1916年には教育総監部に配属されていた謂わばエリート士官でした.
 1917年には日露間で同盟が結ばれた関係で,ロシアに派遣されペトログラードで軍事研究と語学研修に従事しますが,革命の勃発でロシアに留まることが出来ず,帰国を余儀なくされます.
 帰国後は再び教育総監部での任務に就いていたのですが,ロシアの西方でロシア情勢の監察に好適な場所に「腰を据える」様にとの命令があり,再び欧州へと旅立ちます.

 そして山脇大尉が選んだのがポーランドでした.
 その理由は3つあり,
1つはポーランドは当時の日本社会では,福島安正がシベリア単騎騎馬横断の前に,ポーランド騎馬横断を行い,ポーランドという地域の実態についても詳細に報告しており,その分割の悲劇が人口に膾炙して判官贔屓の日本人に,かなり人気があったこと,
2つ目は自分自身がロシアでポーランド人と接した際に受けた印象,
最後に,長年に亘って抑圧されたり分割による民族のアイデンティティ崩壊の危険に晒されながらも,自らの言語と文化を守り抜いていること,それは子供の躾や親子関係がまともだからに違いないと思ったからと後に述懐しています.

 山脇大尉は最初にパリに赴き,丁度パリで開催されていた講和会議のポーランド代表,パデレフスキに会い,また,ピウスツキのライバルでもあるドモフスキとも会うことが出来ました.
 この代表団にポーランド行きの招待状と許可証を貰って,オーストリア経由でポーランドに入った訳です.

 当時,ポーランドの指導者は,日本にも行って児玉源太郎とも親しく話をしたピウスツキでした.
 ほどなく山脇大尉はピウスツキに会う機会を与えられ,互いに親密で打ち解けた間柄となっています.
 また,山脇大尉はポーランドの民間人とも積極的に交際していましたが,1921年5月16日,漸く駐ポーランド公使館付陸軍武官に就任しました.

 この時には外交官よりもポーランドの指導層にも食い込み,ソ連問題の専門家を中心とする軍人の交換や,日本軍将校に対する暗号法の伝授などを含む参謀本部間の協力関係の構築に奔走していました.
 また,ポーランドとソ連が戦争した際,赤軍の攻勢で首都ワルシャワも陥落寸前となった際には,外交公館を総て避難させた後も独りポーランドの軍司令部に戻り,ピウスツキの側にいて,1920年8月にヴィスワ河畔で行われたソ連軍とポーランド軍の戦闘を,オブザーバとして具に見学する事を許されていました.
 因みに,「ヴィスワ河の奇跡」と呼ばれた戦闘で息を吹き返したポーランド軍は,再び一気に攻勢に出て行き,国土を回復することが出来たのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/04 23:56
青文字:加筆改修部分

 さて,日本陸軍からポーランド公使館駐在武官として送り込まれたのは,先述の山脇大尉に始まり,岡部直三郎,樋口季一郎,鈴木重康と言ったメンバーです.
 何れも陸軍大学校を卒業しており,岡部直三郎は後に陸軍大学校の教官にもなっています.
 樋口季一郎は,参謀本部から朝鮮軍の参謀となりましたし,鈴木重康も中国に駐在した後,陸大で教鞭を執り,樋口の後釜としてポーランドに送り込まれ,バルト三国大使館の武官も兼ねていました.

 こうした駐在武官の尽力により,1923年,日本軍将校の訓練という名目で,ポーランド軍参謀本部からヤン・コヴァレフスキが来日します.
 コヴァレフスキは,ソ連の暗号解読については屈指の専門家であり,1920年に勃発したポーランド・ソヴィエト戦争の際にも,ソヴィエト赤軍や政府の暗号解読を行ってポーランド軍や政府を助けました.

 日本にとって,これは初めて本格的に行ったCOMINT講習です.
 通信を傍受して暗号を解読したり,通信数の統計分析をして情報を収集するCOMINTは,海軍では「通信諜報」と言う統一名称を使用しましたが,陸軍では「科学諜報(科諜)」,「無線諜報」,「特種情報(特情)」と言った擁護を用いています.
 日本がこうした分野に手を染めたのは,無線よりももっと後の事で,1921年になります.
 この年,陸軍省,海軍省,外務省,逓信省の四省連号暗号解読研究会が外務省電信課分室として発足しました.

 ただ,コヴァレフスキが来日するまでは,全くの独学で,模索する状態でした.
 コヴァレフスキは,1月22日から3月末までの約3ヶ月間,「通信講習会」と言う秘匿名の下に,参謀本部第二部と第三部の将官達に対し,ソ連の暗号解読についての集中講義を行い,また,暗号に関する知識として,欧州で活動する各国の諜報員が用いていた暗号法の一般原則についての講習も行われました.

 コヴァレフスキの来日は,今まで独学且つ模索状態にあった日本のCOMINT技術を飛躍的に向上させると言う結果をもたらし,この成果によりコヴァレフスキへは日本政府から勲五等旭日章を贈られました.
 そして,参謀本部はポーランド軍との協力関係の推進を決定し,1925年以降,日本軍将校が研修の為,定期的にポーランドに派遣されることになりました.
 派遣された将校達は,その機会に暗号に関する理論的知識を深めるだけで無く,ソ連の暗号解読を行う為の実地訓練を受けることになります.

 因みに,こうした知識の蓄積と並行して,陸軍では,1923年6月より参謀本部構内に傍受所を開設し,長波の傍受を開始しました.
 その設置目的は,「東洋及欧米ニ於ケル大無線電信所ノ通信状況並ニ其通信ヲ傍受シ」,「無線諜報ニ関スル研究ヲ開ク」為で,保守,受信は陸軍無線電信調査委員会が担当し,通信手2名が後退で傍受に当たり,運用は参謀本部第八課が行いました.
 丁度,9月1日に関東大震災が発生したのですが,その際には欧米方面の情報収集に迫られ,9月下旬から10月上旬にかけて参謀本部構内に高さ約25メートルの木柱を立ててアンテナを設置し,米国太平洋岸と欧州大無線局を傍受していました.
 その後,陸軍無線電信調査委員会が行っていた業務は,電信第1聯隊が引き継ぎましたが,間もなくこの傍受業務は中止になっています.

 話を戻して,ポーランドへは1922年から,参謀交流の魁として,既に笠原幸雄が駐在しており,1925年後半からは河辺虎四郎がやって来ています.
 河辺は当時砲兵隊の若手将校で,最初はロシア語を学んでいましたが,ポーランド語の研修も実施しています.
 1923年には清水規矩,1926年には百武晴吉が1年間,工藤勝彦が9ヶ月間ポーランドで訓練を受けており,1929年には酒井直次と大久保俊次郎が数ヶ月の予定でポーランドに送られ,グルジョンツに駐屯していた第26槍騎兵連隊に配属されていました.

 また,プシェミシルの第10管区司令部からポーランド陸軍参謀本部第2部に送られた報告に依れば,1926年5月29日に,陸軍大学校教官の塚田攻少佐等3名の将校がゴルリツェからプシェミシルに入り,世界の戦史を纏める為の資料収集のため,プシェミシルの幾つかの要塞を訪れた他,1920年のワルシャワ戦役の戦跡,ウッチとゴルリツェ近郊にある第1次世界大戦の戦場跡も隈無く調べ,地図や然るべき史料を入手しています.
 なお,この時には百武少佐や工藤大尉も同行しています.

 更に,1929年前半には松井石根と七夫の兄弟が,冨永恭次少佐と共にポーランドを訪れ,数日間の滞在中に,国防省と参謀本部の手配で,第1軽騎兵連隊と第1騎馬砲兵師団を訪問しています.
 こうした各種訪問を経て,参謀本部では,ワルシャワがソ連情報の収集拠点として打って付けであると言う結論に達し,実際にモスクワのポーランド公使館付武官補佐であったグルージェン大尉にその受け入れを示唆して,大尉はそれを参謀本部第2部長に電報で知らせています.

 計画では,1929年秋からソ連のモスクワ駐在武官の人員を削減してワルシャワ駐在武官を増員する予定で,冨永自身がそのポストに就任する予定でした.

 その後,1929年後半にはバラノヴィチェの第26槍騎兵連隊を馬場正郎少佐,前田正美少佐,山本務少佐が訪問しており,11月12〜18日にかけては,久村種樹大佐,安達十九中佐と言う化学戦専門部隊の将校がトランジットの名目でポーランドに滞在しています.
 後者は,国防省軍備局化学部で毒ガス戦に於ける国土防衛というテーマで意見を交換し,国立化学研究所と等ドムの防毒用具工場も訪れています.

 この様に,1920年代は主に日本からポーランドにエース級の人材が送り込まれ,ソ連と直接刃を交えた軍の幹部と活発な交流を行っていました.

 ただ,ポーランドから日本への人材派遣は,それほど活発ではありませんでした.
 一応,1920年から1921年にかけてP.アレクサンドロヴィチ大佐,1921年1月にはV.バルツェル中尉が補佐になっていましたが,彼らの主要な任務は,広大なシベリアに置き去りにされていた,ポーランド人主体の第5シベリア師団の撤退支援であり,それが完了した後は,4年間に渡って駐在武官不在の状態が続き,1925年にイェンジェイェヴィチ中佐がやっと駐在武官に任命されました.

 このイェンジェイェヴィチ中佐は,参謀本部でロシア研究をしていたロシア専門家で,赤軍の組織や配置,動員体制,輸送,連絡系統,経済状態と言った赤軍の内部事情からソヴィエト国内の政治状況や人事に至るまで知り尽くしていた人物でした.

 そして,中佐に対して東京で親身に世話を焼いたのが,前述の山脇大佐でした.
 山脇は日本に戻ると参謀本部の情報部に籍を置いており,イェンジェイェヴィチ中佐も良くこの情報部を訪れて意見交換をしていたりします.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/05 23:26

 さて,ポーランドから来日した駐在武官で,実質的に活動を開始したのは,1925年5月28日に東京に着任したイェンジェイェヴィチ中佐が最初でした.
 中佐は,日本の初代駐在武官である山脇大佐と親しく付き合っていました.

 そして,1週間に1度の割合で,山脇大佐の所属する情報部と会合を持ち,双方の持っている情報を検討していくことにしました.

 実際に情報を付き合わせてみると,主要部隊の配置に始まり,戦時や平時の主要部隊の戦闘隊形,補給,動員,連絡,装備,防空と言った問題について,双方に明らかな食い違いが出て来ました.
 この為,こうした情報が正しいのか否か,情報源を照合すると言った地道な作業が必要となります.

 この時期,ポーランドが日本に何を期待していたかについて,イェンジェイェヴィチ中佐がポーランド軍参謀本部第二部東方班宛に送った報告書が残されています.
 その報告書には下記の様に書かれていました.

------------
 日本に赴任する際,私に課せられた任務の1つは,シベリアに諜報機関を設置することが如何に困難かを知らしめることであった.
 日本軍参謀本部で指導した後,私は以下の様な実態を確認した.

1. 日本軍参謀本部はシベリアでは直接には諜報活動を行っていない.
  そもそも,中央から諜報員を1人も派遣していない.
  その役割を担っているのは哈爾浜の軍事使節であり,これは参謀本部の支部と言う性格を持っている.
2. この軍事使節は情報提供者を使って諜報活動を行っているが,使節が収集している情報の量は扨措き,情報の質は大いに改善の余地がある.
3. 然るに,日本軍参謀本部は,出処を異にするシベリア情報,即ち西方諸国(ベルリン,ワルシャワ,場合によってはバルト諸国)にいる駐在武官とは別のルートからの情報に多大な関心を示している.
(中略)
5. 日本はバイカル湖以西では諜報活動を行っていない.
  私としては,哈爾浜に当方独自の諜報機関を設置するのは現段階では不可能と確信するに至った.

 然るに,将来に於ける情報活動と言う事で言えば,

a. 東シベリアに関する良質且つ正確な情報入手の第一歩としては,彼の地の日本諜報網を利用することであろう.
  日本軍参謀本部第五課(欧米課)長の異動があった為,12月に新任の課長と一連の話し合いを開始するつもりである.
  これが私の満洲旅行の成果と言う事になろう.
  ポーランド側がロシア西部国境に関する情報を常時,日本に提供するのであれば,日本側にはその見返りとしてシベリアに関する実質的なエキスパートになって貰わねばならないことを提案してみるつもりである.
  目下の所,此の点では未だ未だ検討の余地有りというのが実情である.
b. この作業の第2段階は,バイカル線以西に於ける日本の諜報活動を利用することであろう.
  日本人の人員をその隅々に配置することは到底不可能であるから,ロシア人の中に適当な情報提供者を見つけ出さなければならない.
  これら2つの方策は直接には,あくまで統治に於ける私の職務上の献言から発しているのであって,情報の相互交換に関する日本軍参謀本部との特別な協定に則って行うべきものでは無い.
  参謀本部は私との夏の会合の際,既に,我々が第1級の資料を揃え,喜んで彼らの役に立とうとしているとの感触を持っている筈である.
c. これに対し,ロシア西部及び中央部に於ける日本人との協力は全く新しい局面であろう.
  これは共同出資による諜報活動という形が考えられるが,日本軍参謀本部にしてみれば,私がこちらで惜しみ惜しみ小出しにしているデータをもっと大量に入手出来ると言う訳だ.
  そればかりではなく,彼らの諜報員もロシア内部に入り込みやすくなるであろうし,場合によっては日本人自身が,近い将来ロシアと通商関係を結ぶ予定の日本企業に拠点を置くことも出来る.
  日本の諜報機関は極めて慎重で控えめである.
  参謀本部の決定に関するこの最後の問題に関して言うなら,私はワルシャワで樋口少佐とこれを実施すべきだ,と考える.
  仮にこれに関するイニシアティブが樋口少佐の側から発せられた場合,参謀本部の然るべき指示があれば,私は当地の当該筋に働きかけてみるつもりである.
d. 幸先良く始まった日本軍参謀本部との一般的な情報交換は,今後も続くと思われる.
  そこで,私が日本側かより多くの情報を引き出せる様,具体的な質問をこちらに送られたい.
------------

 こうした熱心なアプローチをポーランド側がしようとしているにも関わらず,樋口少佐の方は戦術の方には関心を向けるものの,ソ連情報の入手に関する関心は然程無いと言う印象を,ポーランド参謀本部第二部の側に与えていたようです.
 実際に樋口少佐は,第二部とは関わりない独自の動きをしていたみたいですね.
 但し,情報交換については,定期的に行っていた様です.

 また,イェンジェイェヴィチ中佐は駐在武官として,日本陸軍の大演習にも参加しています.
 1926年11月16日〜19日にかけて佐賀市近郊で行われた演習の視察報告が残っています.

------------
 大砲や近代兵器を備えた歩兵師団の行動を視察.
 この種の演習は日本初のものである.
 指揮官も兵士もこれまで,この様な大量の新型兵器の同時使用に関しては適切な訓練を行っていなかったのである.

 1926年の演習は,日本軍将校の能力の高さを知らしめる機会となった.
 どの将校も日本軍が採用している戦術に非常に熟達している.
 日本軍の演習は一種の国民的行事であり,何千何万という人々が演習場に押し寄せる.
 今年も又,東京から急行で34時間もかかる佐賀に,首相を始めとする政府要人,衆議院及び貴族院の議員,皇族,多くの一般人が参集した.
 摂政殿下は,天皇陛下の健康状態の故に出席出来ず,閑院宮殿下が代理を務めた.
 臨席の皇族方の中には,折に触れポーランド訪問を懐かしがっておられる朝香宮殿下の顔も見えた.

 出席した外国人駐在武官は次の通り.
 フランス,イタリア,ソ連,英国(将校2名が同行),米国(左同),メキシコ,中国,ペルー,ポーランド.

 1926年の演習は,日本では初めて軍の示威という目的に利用された.
 専門家としてこの作戦の指揮に当たったのは,元ポーランド駐在武官の山脇正隆中佐であった.
 この目的の為,既に1年前から,近代戦とは何たるかを一般大衆に知らしめる為の特別な戦争映画の上映準備が進められた.
 様々な演習の場面を組み合わせて,極単純なストーリー展開になっている.
 主役を演じたのは,嘗て日本の軍事使節団団長としてワルシャワに滞在し,ポーランドの第二等ポーランド復興章を授けられた第1師団長の和田亀治将軍である.

 矢張り宣伝の為に,戦況報告を民間人に配布すると言ったことも為された.
 佐賀県内の15都市では,進行状況が示された巨大なパネルが吊り下げられた.
 この様な日本軍のやり方は非常に興味深く,我が軍に応用し得る.
------------

 次の大演習は,1927年11月14〜19日,名古屋,瀬戸,犬山で行われました.
 この報告も,彼は行っています.

------------
 今回の演習は,新天皇自らが指揮を執った初の演習であり,日本の軍事演習の歴史に於いては異例のものとなった.
 恐らくそれが原因で,事前の準備が隅々まで行き届きすぎ,各部隊の司令官が殆どイニシアティブを発揮すること無く,作戦行動という観点からすると,その意義が著しく損なわれることになった.
 演習の組織全体も又,令によって特別なる注目に値する.
 スケジュールには寸分の隙も無く,あらゆる状況が細部の1つ1つまで考え抜かれていた.
 これら総てが,外国人駐在武官を驚嘆させた.
 駐在武官及び副官の13名と中国人将校の一行は,演習の間中,車か馬を自由に使用して,希望した場所には大抵同行することが出来た.
------------

 なお,イェンジェイェヴィチ中佐は大演習だけで無く,普通は駐在武官が招待されない,小規模な舞台の演習に招かれています.

 この様に,イェンジェイェヴィチ中佐の時代は,参謀本部との協力関係は至って順調であり,中佐の東京勤務が終了する際には,宇垣一成陸相の推挙で,勲三等瑞宝章を贈呈すると共に,参謀本部総長は16世紀の銘刀を彼に送っています.

 1928年秋,イェンジェイェヴィチ中佐は東京駐在武官のポストを解かれ,代わって第1旅団第5連隊所属のヘンルィク・ライヒマン=フローヤル少佐に引き継ぎ,また下級駐在武官というポストが新設され,それにはイェジ・クウォポトフスキ中尉が就任しました.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/06 23:41

 1920年代にある程度活発になっていたポーランドとの交流は,1930年代の前半,満洲や中国問題を巡って両国関係が一時ぎくしゃくしていた関係もあり,余り活発では無かったのですが,1930年代後半にドイツとソ連の力が復活してくると言う状態になってくると,欧州情勢が緊迫の度を増してくるのと並行して再び発展します.

 日本陸軍参謀本部としては,従来からのソ連と共に新たに復活してきたドイツ,それに中国に権益を持っている英国やフランスなどその他欧州諸国の動向も見据え,東と西を見ることが出来,古くから両国軍との関係を築いていたワルシャワに,欧州諜報網の拠点を作る案を持っていました.

 そこで一時的に,駐在武官補佐又は軍事顧問という名目で文官の人員を増やしました.
 また,実習生も以前よりも頻繁に送り込まれ,知見を広めたり言語の勉強をするだけで無く,武官事務所の仕事を手伝う様になります.
 更に情報の収集も任務の1つでした.

 1930年代日本側の駐在武官は,先ず参謀本部第2部ロシア班に勤務し,1923〜25年まで関東軍司令部付満洲里機関長を務めた後,1926〜27年に駐モスクワ駐在武官補佐となった泰彦三郎が1930年6月から1932年12月にかけて任務に就きました.
 因みに,ポーランド公使館付駐在武官となった最初の1年間は,バルト三国の駐在武官も兼任していました.

 1932年12月から1934年3月までは陸軍軍務局勤務の後,1927〜29年にポーランドとソ連で奨学金を得て留学をしていた柳田元三が就任しました.
 彼は,ルーマニアと兼任する駐在武官に任命されています.

 1934年3月から1935年12月までは,再び山脇正隆大佐が就任しました.
 彼は,1922年にポーランドから帰国した後,歩兵第22聯隊に勤務し,1931年には大隊長から聯隊長に昇格しました.
 更に参謀本部で諜報任務に就き,1929年には参謀本部課長,1930年には教育総監部第1課長となって,1932年8月からポーランド赴任までは教育総監部長となりました.

 山脇大佐の後を襲ったのは沢田茂で,彼も参謀本部からウラジオストク派遣軍司令付のオムスク及びウラジオストク諜報機関に勤務し,その後は陸軍大学で教鞭を執ったり,1922〜24年まではギリシャの駐在武官,他に聯隊長や在哈爾浜特務機関長も務めています.
 沢田は,1936年から1938年3月まで勤務し,その後は上田昌雄中佐が任命されました.

 上田中佐は,戦前最後のポーランド駐在武官で,1940年3月にワルシャワから召喚されるまでワルシャワで過ごしました.
 彼も参謀本部でキャリアを積んだ後,1930年3月から1年余の間,満洲里の特務機関長を務め,そこから研修の名目でイランに派遣され,1936〜38年までは関東軍参謀部に派遣されています.

 こうした駐在武官を筆頭に,1930年代には長期短期含めて数十名の将校と下士官がポーランドを訪れていました.

 その内,対ソ暗号技術の研究を目的に派遣されたのが,深井英一大尉と櫻井信太大尉の2名です.
 彼らは1935年8月22日から1936年6月1日まで,ポーランド軍参謀本部第2部暗号班で研修を受け,1930年夏には寺田済一大尉がクラクフの第2航空連隊で2ヶ月の訓練を受けていますが,こちらはもっと長く滞在していた可能性もあります.

 1934年11月20日には3名の日本軍将校がヤブウォンナの機甲師団と第2橋梁大隊を訪問し,更にラズィミン,1920年のワルシャワ戦役の戦跡を訪れています.

 この様に中央軍事資料館の『外国将校ポーランド滞在予定者一覧(抄)』には,1935年に49名,1936年に15名,1937年に22名の日本軍将校がポーランドの様々な場所を訪れています.
 例えば,1936年6月には砲兵監部,歩兵監部と騎兵連隊を駐在武官補の大谷修中佐が訪問しています.
 大谷中佐は,その前にも機甲兵監部やPZLを訪問した事が有ります.
 この大谷中佐に同行して,荒尾興功大尉,深井大尉,櫻井大尉が訪問していますし,7月には荒尾大尉の要請に応え,ポーランド軍参謀本部は,先にリャザンでのソ連軍戦車部隊の演習に参加してから来る日本陸軍少佐に7月20日〜9月15日まで機甲部隊での研修許可を与えていますし,モスクワの西村少佐がワルシャワを訪問した際にも荒尾大尉は,7月13〜15日にかけてのレンベルトゥフ歩兵監部への訪問許可を願い出ています.

 この西村少佐と言うのは,1935年5月から1937年1月まで日本大使館の駐在武官室に勤務していた西村敏雄と思われます.
 彼こそは,1940年8月にストックホルム駐在武官として,ポーランド軍参謀本部第2部のミハウ・リビコフスキ少佐を日本大使館の駐在武官に雇い入れた人物だったのです.
 つまり,欧州に於ける日本陸軍のスパイマスターの1人でした.

 もう1つ,1937年9月には在リガ日本大使館付武官の小野寺信少佐がヴィリニュスを訪れています.
 この小野寺少佐も,西村少佐の後を継ぎ,スウェーデンを中心とした日本陸軍の諜報網をリビコフスキと共に作り上げた人物です.

 この他,水野桂三少佐が1936年6月,レンベルトゥフ歩兵監部を訪問しています.
 そして,7月2日から8月29日までヴィエルコポルスカ歩兵第58連隊で演習に参加しています.
 当初,水野少佐は山脇大佐を通じて1935年3月にオストルフ・マゾヴィエツカの歩兵士官学校への入校を希望しますが,研修を断られ,学校訪問のみとされています.
 それに代わり,山脇大佐は今度は水野少佐を,東部辺境のもっと大きな街での歩兵連隊での研修許可を要請しました.
 ただ,今回は参謀本部が許可を出しているにも関わらず,水野少佐は何も実習を行っていません.

 1936年5月,今度は沢田駐在武官がポーランド軍参謀本部長に対し,水野少佐を将校研鑽システム及び士官候補生,予備役の教育法の研鑽を目的に,歩兵監部訪問許可を求め,更に第58連隊での演習も行っています.
 ただ,58連隊での演習参加は表向きの目的に過ぎず,実際には東部国境地域での諜報活動にあったと考えられています.

 更に1937年12月10日から13日にかけて,日本とポーランド両国の参謀本部の代表者会議が開かれています.
 この席上では,平時に於けるソ連軍の配備に関する知識の点検,戦時に於ける動員体制と鉄道輸送能力の分析にあり,日本側の出席者は沢田駐在武官,動員問題専門家でこの時期偶々ワルシャワに滞在していた二見秋三郎中佐,鉄道問題専門家でソ連領内に於ける諜報活動の指揮に当たっていたモスクワ駐在武官室秘書の広瀬四郎少佐,ソ連軍の研究に従事していた参謀本部の武田功中佐,ワルシャワ駐在武官室の林三郎大尉で,ポーランド側からは参謀本部第2部長のタデウシュ・ペウチンスキ大佐,第2部第4課長のイグナツィ・バナチ少佐,ロシア班班長のヴィンツェンティ・ボンキェヴィチ少佐,第2部のヴウォイジミエシュ・ミズギェル=ホイナツキ少佐,ロマン・ゴンドレフスキ少佐でした.

 ポーランド駐在の日本軍代表の最も重要な任務は,依然として対ソ情報の入手と暗号技術向上でした.
 その任務を負っていたのが駐在武官であり,中でも活発に活動していたのが山脇と沢田の両駐在武官です.
 2名はその地位を利用して日本外務省の対ポーランド政策を後押ししようとしていました.
 例えば,沢田がポーランド外務省で国際連盟総会に於ける日本支持や,ポーランドの防共協定加入の約束を取り付けようとしていたのがその証左です.

 取り分け,山脇大佐は重要な役割を果たしていました.
 山脇の御陰で,日本陸軍部内にはポーランド贔屓が相当数いて,日本に駐在するポーランド軍事代表は必ずと言って良い程好待遇を受けました.
 山脇はポーランド問題の専門家として,日本とポーランドの協力に関する公式,非公式の会合や会談に参加しています.

 因みに,山脇は帰国後も順調に昇進を続け,1939年には陸軍省次官に上り詰めますが,その際,ドイツとポーランドの関係が怪しくなった際に,仲介役を引き受けようともしていました.
 ただ,彼が出した条件は誇り高いポーランドにとっては少しく屈辱的なものであり,残念ながら受け容れられる状況にはなかったのですが…

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/07 22:10

 さて,1930年代の日本とポーランドの軍事協力では,日本のみならずポーランド側からも様々な人々が来日しています.
 1930年代の駐在武官は,ヘンリク・ライヒマン=フロヤル少佐に始まり,1931年にアントニ・シルサルチク大尉が着任し,1935年1月からはアントニ・プシビルスキ少佐,最後が1938年からイエジ・レヴィトゥ中佐となっています.

 アントニ・シルサルチク大尉は,1917年に二重帝国軍に入隊したのですが,1918年にポーランド軍に移籍,1920年にはリトアニア・ベラルーシ戦線の歩兵第6師団参謀将校となり,ヴォウィンに転属となりました.
 1925年に日本の陸軍大学に当たる2年制のワルシャワ軍事大学を卒業すると,参謀本部付属付将校として参謀本部第3部に配属となります.
 1926年からはフランス語,英語,イタリア語の通訳としてポーランド軍学術出版所に転属,更に1930年から参謀本部第2部に所属してこの間に日本語を学んでいました.

 1930年3月に日本駐在武官助手として来日し,残りの期間を駐在武官代理として活動します.
 因みに,この人は武士道や日本軍人の精神教育への関心が深く,報告書には屡々軍人勅諭を含む『歩兵操典』,『軍歌集』,戦争短編小説や兵士達が詠んだ詩歌などがあったりし,後にこれらの史料に基づいていくつかの論文を書き,軍の機関誌に発表しています.

 日本駐在武官の任務として,例年11月に行われる陸軍特別軍事演習に参加すると言うものがあります.
 シルサルチク大尉は,1930年以来毎年その演習に参加しています.
 1934年11月11〜14日にかけて栃木,熊谷,前橋で行われた演習に関する参謀本部第2部宛の報告では,次の様に書いています.

 外国人将校は例年より多かった.
 約20名の満洲軍将校以外に,米国軍将校4名,ソ連軍将校が4名もいたからである.
 今回,外国人オブザーバーは兵士も装備も撮影の許可が下りなかった.
 全体的な印象として,5度の特別演習への参加を通じて,日本陸軍の装備,技術水準には絶えざる向上が認められる.
 勿論,後任の武官達もこの特別演習に参加しました.

 後任のプシブルスキ少佐は1935年1月20日にワルシャワを発ち,モスクワ,哈爾浜,新京,釜山を経由して2月初旬に東京に到着しました.

 プシブルスキ少佐は,着任の挨拶を済ませ,陸海軍の幹部達と良好な関係を築いた後,8月2日から16日にかけて北海道から樺太まで渡り,仙台,青森,札幌,旭川,稚内,豊原などを訪れ,岐路には室蘭,弘前,秋田にも立ち寄っています.
 この旅の目的は,日本軍部隊に対する表敬訪問と地方実情を探ることでした.
 この時に訪問した部隊は,仙台の野砲兵第2聯隊,旭川の歩兵第27聯隊,野砲兵第8聯隊でしたが,行く先々で非常に丁寧な歓迎を受けた反面,公開演習は非常に控えめであり,且つ,軍近代化に対応する再編作業の真っ最中で,その件に関する質問は総て拒否されています.
 これは久留米の戦車隊や大刀洗航空隊を訪問した1936年5月8〜12日でも同様であり,この頃から,対外的に軍として情報を発信することが少なくなって来ていることが伺えます.

 概ねプシブルスキ少佐は,陸軍参謀本部と良好な関係を保っていたのですが,その関係が途絶したのは,1937年7月に起きた日中戦争の勃発でした.
 参謀本部の幹部が外国人駐在武官と接触するのを止めた為です.
 しかし,ポーランドが日本の軍事行動に関し国際連盟総会で調停役を果たす可能性が浮上すると,日本のポーランドに対する態度が軟化し,プシブルスキ少佐との関係が復活します.

 1937年10月,少佐は上海など中国戦線の視察に参加しました.
 彼がソ連の専門家だったことから,中国とソ連の間の軍事協力関係の状況を探る上で参謀本部に多大な貢献をなし得ると目されていた為です.

 その後,日本はドイツとの関係を急速に深めていきます.
 当初はそれを容認していたポーランドも,1939年にドイツがポーランドに侵攻し,1940年に枢軸側に加わると,その態度が微妙に変化していき,少しずつ慎重さを増していきました.
 戦前最後の駐在武官であるイェジ・レヴィトゥ中佐は,日本軍に関する報告を殆ど参謀本部第2部に送らなくなり,第2次世界大戦勃発時は,大使館の人員削減に伴い,リトアニアからのポーランド人難民に関する業務に加わっていました.

 1939年9月1日,ドイツはポーランドに宣戦を布告します.

 9月5日にはワルシャワにあった政府,国家機関,外国公館の緊急避難が開始されます.
 在外公館の女性と子供はソ連国境近くのストウプツェに避難し,政府などはワルシャワ東南160kmの地点にある小都市ナウェンチュフに行き,現在はウクライナの領土となっているクシェミェニェツに移動.
 9月14日にはルーマニア国境のクティに移動し,更に在外公館の要員には,ザレシュチキへの移動を薦めました.
 結局,在外公館の要員達はザレシュチキを経由してこれも現在はウクライナの領土となっているルーマニアのチェルナウツィに向かい,更に首都ブカレストに移動しました.
 9月16日にはソ連が東方からポーランドを攻撃した為,政府は9月18日未明にルーマニアに入りました.

 1940年1月初頭まで,駐ポーランドの日本大使館は機能を維持していましたが,その廃止は正式には1941年10月4日の駐日ポーランド使節団に対する日本政府の認可取り消しによるものです.
 しかし,駐日ポーランド大使館はまだその機能を維持し,両国政府間の遣り取りを仲介していました.

 因みに,日本政府は1939年9月4日の欧州に於ける開戦への対応として,5日に外務省を通じて東京の各国外交団の責任者に覚書を手渡しています.
 それに依れば,日本はこの戦争に参戦するつもりが無い事,中国問題の解決に全力を注ぐ所存である事が記されていました.
 また,自らの立場上,窮地に陥る様な事態を回避する為,欧州の交戦国に対しては,日本の占領下にあった中国領土から部隊を引き揚げるようにとの勧告も出しています.
 9月28日には新外相に就任した野村吉三郎がポーランドのロメル大使に対し,日本政府の欧州大戦不介入の原則に関わりなく,ポーランドに対する日本国民の心からの親愛の情には些かの変化も無いことを保障しています.
 10月6日,ルーマニアに退避したモシチツキ大統領が,ドイツの圧力を受けたルーマニア政府によって収容所に監禁された為,パリに亡命していたラチキェヴィチ上院議長を後継大統領に任命し,9月30日にはシコルスキ将軍を首相にする亡命政府がパリに成立した事をロメル大使が連絡した際,谷正之外務次官から心配されたエピソードもあったりします.

 何故,日本がポーランド政府との関係維持に心を配ったかと言えば,先ず第1の要因は共産主義に対抗するに際し,欧州に於いてポーランドが果たしうる役割を承知していたからであり,もう1つの要因は,ドイツが日本との防共協定に反してソ連と不可侵条約を締結した事により,ドイツそのものを信頼しなくなっていたからでもあります.
 この為,ドイツ側からの再三の圧力にも関わらず,ポーランド大使館は閉鎖されなかったのです.

 因みにこの時期,ポーランドのロメル大使は,正装で高輪の赤穂浪士の墓を詣でています.
 これは彼らこそが何年も雌伏して敵を討つと言う事をした「忠君愛国」の象徴であり,自らの約束,誓い,名誉ある勤めを果たす誠実さの象徴としてロメルが見ていたからに他なりません.
 つまり,これはドイツに占領されながらも国外で尚も雌伏して復讐の機会を待つポーランドに擬えたものです.
 そして,その墓前に捧げた花輪には,「貴方方『ロウニン』が示した忠誠心を称えて.ポーランドを代表して」と言う言葉を添えていました.
 勿論そこには,
「他の同盟国は最近,この忠誠心を守っていないでは無いか」
と言う無言のメッセージが偲ばせてあったのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/08 23:34

 さて,ポーランドの国は消滅しました.
 しかし,パリ,次いでロンドンに亡命政権が樹立され,ポーランドの在外公館はその亡命政権を代表する存在となっています.
 一方,枢軸国であり,ドイツと同盟関係にある筈の日本の場合,大使館が接収される可能性があり,東京ではその様な噂が流れて,一時は大使館員達が治外法権を楯に抵抗しようとしていました.
 幸い,1941年秋まで日本はポーランドに対し友好的な態度を崩しておらず,接収の話は立ち消えになりました.
 有田八郎,松岡洋右の2代の外務大臣は,ロメル大使に対し,ポーランドの現在の情勢に同情を示していました.

 ポーランドに対する日本の態度が変化したのは,ドイツの対ソ攻撃が始まった1941年6月以降であり,それを契機にドイツから東京のポーランド大使館を閉鎖せよという圧力が強まっていきます.
 日本は公式にドイツ側に立って,日独伊三国同盟の決定を確認せざるを得ず,それは取りも直さず,欧州新秩序の形成に於けるドイツの主導権を認めることを意味していました.
 ポーランドの国土は完全にドイツの占領下に置かれ,ドイツはポーランドという国そのものを欧州の地図から消し去ろうとしていました.

 一方,日本は大東亜共栄圏の新秩序形成と対米英戦争の遂行に際してドイツの支持を確保する為,ドイツの欧州政策を支持せざるを得ませんでした.
 1941年7月30日,ソ連と亡命ポーランド政府間で対独共闘に関する協定が締結されると,日本はいよいよ同盟国であるドイツへの支持表明を避けて通れなくなりました.
 ポーランドは長年の仇敵であるソ連との同盟に転じ,日本の同盟国であるドイツにとっては敵対陣営となりました.

 結局,10月1日,日本の外務省は,現下の情勢により在ポーランド日本大使館を廃止し,駐日ポーランド大使及び大使館員,在大阪及び在横浜名誉領事の使命は終了したものとして認可を取り下げるという通達を出しました.

 ただ,外務次官は追加声明として,
「日本政府は両国間の友好関係に鑑み,大使館閉鎖に要する時間を考慮し,10月中は公的行事及び宮中儀礼の関連を除く従来の外交特権を保障する」
と述べ,更に,大きな痛みを以て日本政府の決定を伝達すること,今般の戦争がかくも不快なる状況を齎したと申し添えています.
 また,日本政府も国民もポーランド国民に対して大いなる同情を寄せており,赤十字社を通じてと言う事になろうが,支援を送る意向であるとも述べています.

 そして実際,ロメルが東京を去る際には,既に国交が存在しなくなっていたにも関わらず,天皇皇后両陛下の御名代が餞別を贈った上,外交関係者や他の日本人と共に大使達を駅頭で見送ってくれたりすらしたのです.

 ポーランド大使館員の大部分は,ロメル大使やその家族と共に1941年10月26日に東京を発ち,長崎を経由して上海に向かいました.
 出国者名簿には,ロメル一家5名の他,
イエジ・レヴィトゥ大佐,
カロル・スタニシェフスキ秘書官,その妻と2名の息子,
領事部職員のフリデリク・タバチンスキ一家3名,
大使館員のステファン・ロマーネク,クリスティーナ・ヤウォヴィエツカ,ユリア・コッカコフスカ,
家庭教師のマリア・ルビシュ
が含まれていました.
 残ったアレクサンデル・ピスコル通信班長とヴワディスワフ・ルンツェヴィチ社会部長は,第二陣で出発する予定でした.

 東京残留組は,
立教大学で教鞭を執っていたボレスワフ・シュチェシニャク一家3名,
通訳として働いていた学生のカロル・アントニェヴィチ,
記録係のスタニスワフ・カスプシク夫妻,ミェチスワフ・ザパシニク夫妻とその母親
でした.
 因みに,シュチェシニャクは,出国前のロメル大使と密約を交わし,上海で亡命ポーランド政府の政府特使として活動をしていたロメルに定期的に報告を送っています.

 つまり,シュチェシニャクは,日本に於けるポーランド政府の非公式な外交代表であり,在日ポーランド人の代表としても活動していました.
 大使館が消滅しても,未だ未だポーランドの火種は消えなかったのです.
 1941年12月8日,日本は真珠湾や香港,ビルマなどを攻撃することで連合国と対峙する事になり,ポーランドは12月11日,米英と共に宣戦を布告しましたが,宣戦布告が行われた一方で軍部の諜報員の仲介で非公式に日本とポーランドとの間の関係が続いていたりするのです.

 シュチェシニャクはその後,1942年7月30日に交換船で日本を離れますが,その後もフランチェスコ会修道院の修道士達は戦争中も日本で活動を続けています.
 有名な「ゼノ神父」と呼ばれたゼノン・ジェブロフスキ神父達がそれです.
 細い糸ではありますが,日本とポーランドは戦時中も繋がっていたのです.

 ところで,ポーランド大使館には,ナチスドイツの宣伝戦に対抗する組織がありました.
 これは,ドイツのポーランド侵攻の翌日である1939年9月2日から大使館閉鎖までの1941年10月23日まで活動していた「極東ポーランド通信班」と呼ばれる組織です.
 この組織はドイツの反ポーランド宣伝戦に対抗するものであり,また,東京をプロパガンダの拠点として,ポーランド人が住んでいた満州や中国に情報を送る2つの側面がありました.

 極東ポーランド通信班の正式名称は「大使館通信班」で,通信班長は「ポーランド電信電話局」の特派員として活動し,ポーランド・ペンクラブの会員でもあったアレクサンデル・ピスコルでした.
 他に大使館の業務もしていたポーランドと英語の通訳1名,日本語と英語の通訳2名とタイピスト2名です.

 主な通信班の仕事は,日本の新聞に適切な情報を提供したり,広範な宣伝を行う事でしたが,一方で,ポーランドの国益に関わる問題が日本の各紙でどの様に報じられているかを調査,記録する任務も帯びていました.
 また,同胞への情報提供として,1940年1月に極東地域のポーランド公館及び居住者向けの週刊誌『広報』を創刊し,11月からは月刊の英語版と日本語版も発行されています.

 前者の情報提供の為,ピスコル班長は毎日日本人記者との会見を行い,可能な限り情報やコメントを提供すると共に,通信局では,哈爾浜や上海にも送られていた日本の新聞向けの英語,日本語の資料を作成していました.

 ピスコルはまた,具体的な依頼に応じてポーランドに関する記事も執筆していました.
 1939年9月から1940年6月までだけで,日本の出版物に570もの記事が掲載され,約400の資料が提供されました.
 この数は,1940年6月以降,ドイツからの圧力が高まると減っていき,1940年6月から1941年10月には掲載記事は108,資料提供は73に減っています.
 この他,10数冊のポーランド語書籍を日本語に翻訳し,ポーランドに関する小冊子がいくつかの言語で出版されていました.

 設置当初の活動では,開戦によるポーランドへの関心の増大,判官贔屓の日本人のポーランド人への同情,ヒトラーへの反発(独ソ不可侵条約の締結による一連の日本人の不信)により,日本ではドイツの宣伝戦に対するポーランドの立場は揺るぎない状態でした.

 ポーランドの消滅により,一端その関心は低下しますが,ソ連とフィンランド間の冬戦争の勃発により,欧州に対する日本の関心が再び高まり,独ソの立場に及ぼす影響という観点から,ポーランドへの関心が再び高まっていきます.
 その関心の低下を突いて,日本へのドイツのプロパガンダが浸透しつつある時期でした.
 英仏は,日本政府から大使館以外の広報機関を東京に設置する許可を得ることが出来ませんでしたから,ポーランドの通信班は連合国にとっても貴重な存在でした.

 勿論,ドイツとしては日本の世論がポーランドに同情的なのを不快に思っていました.
 特に,ドイツはポーランド問題は解決済みであると言う姿勢を貫いていましたから,日本も同盟国なのであるから,同様の態度を示すべきであると考えていました.
 この為,再三再四に亘ってドイツは日本政府に抗議を申し入れます.

 例えば,ワルシャワでのドイツ軍による破壊行為が報道された時には,ドイツ大使館の代表が日本の外務省に対して公然と介入しようとしたりもしています.
 ただ,この報道はポーランド側から出たのでは無く,日本の外務省報道局から発せられた情報で,その情報源は酒匂秀一大使の報告書だったりします.
 酒匂大使は占領ドイツ軍の許可を得て,日本大使館の本拠地とそこに留まっていた大使館補助員達の様子を見にワルシャワを訪れたのです.

 日本の新聞は未だ概ねポーランドに好意的でしたが,その新聞のドイツ特派員達が中心となって,ポーランドに敵対する行動を取っていたと言います.

 しかし,読売新聞の様に,「戦前のポーランド」と言う写真展の開催を企画し,宣伝してくれた報道機関もありました.
 この写真展は1939年12月から1940年2月末までに,全国の県庁所在地を中心とする57都市で公開するというもので,これは大好評を博し,読売新聞社は開催期間を2ヶ月延長し,中部や南日本の都市での追加開催も決定しています.

 日本での記事も,ポーランド軍,その編成,訓練,愛国心,海軍と空軍,フランスや英国に於けるポーランド人の活躍,連合国との協力関係などの詳細記事が掲載される様になりました.
 また,立教大学,早稲田大学,明治大学などの諸大学でも広報活動が行われています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/09 23:15

 さて,第二次世界大戦中の日本とポーランドの協力関係は,1941年までの駐日ポーランド大使館に於ける宣伝戦を除けば,両国諜報機関の代表者達の活動にほぼ限定されました.
 その拠点は当初,1940年8月にバルト三国がソ連に併合されるまではリトアニアのカウナスにありましたが,それ以後はスウェーデンのストックホルムに移されました.
 とは言え,日本とポーランドの諜報員達は,ケーニヒスベルクやベルリンでも活動しています.

 元々,ポーランドと日本の関係はソ連に対する諜報と言う側面での協力関係が成り立っていたのですが,その後のナチスドイツによる東方への領土拡張の動きが活発化するにつれて,ポーランドとドイツとの関係は目に見えて悪化していきます.
 1939年8月23日に行われた独ソ不可侵条約の締結は,そのポーランドに対する最後の警告と言えるものでした.

 しかし,日本にとってはドイツが行ったソ連との不可侵条約の締結は,ドイツの背信行為であり,1936年に締結した日独伊防共協定の破棄と受け取りました.
 こうした状況下では,最早日本政府は同盟国とその情報を信用せず,ソ連のみならずドイツをも十分に観察出来る新しい在外公館の設置を決定します.
 こうして選ばれた地点が,リトアニアのカウナスでした.

 直後に,ポーランドに対するドイツの侵攻が始まり,17日にはソ連がポーランドの東部国境を越え,ヴィルノを含む東部地域を占領します.
 そこに駐屯していたポーランド軍部隊はリトアニア国境を越え,コウォトヴォ,ビルシュタヌィ,ポウォンガなどの収容所に抑留されます.
 そして,そこから亡命政府軍に加わる為に脱走する兵士が出始めると,全国的にその救援の為のネットワークが作られていきました.

 その中心人物の1人がルドヴィク・フリンツェヴィチです.
 彼は大戦前既に,参謀本部第2部の命令を受けてリトアニアでポーランドの諜報組織である「ヴィエジュバ(柳)」を結成し,その指揮を執っていました.
 開戦時にはポーランドのカウナス駐在武官であるレオン・ミトキェヴィチ大佐と接触し,救援網を更に拡大せよとの指令を受けます.
 その主たる任務になるはずだったのが,収容所からの救出と元軍人達への支援であり,彼らが何よりも優先したのは,西欧諸国のビザを取得し,リガやタリン,ヘルシンキを経由して,西欧,主にスウェーデンに脱出させることでした.

 フリンツェヴィチはその時を回想して,こう書いています.

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 収容所からの軍人の救出は続いた.
 衣類や金,身分証明書を手配し,精鋭をスウェーデンやその先へ送り出す必要があった.
 私の役割は,コウォトヴォとビルシュタヌィの収容所からの救出とヴィルニュス,グロドノ支部の配属将校の世話であった.
 20名程,或いはもっと多かったかも知れない.
 未だ記憶に焼き付いているその名は,スタニスワフ・ラウレントフスキ,ブルハルト・ドゥ・ラ・トゥール,そしてリビコフスキも含まれていた.
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 ところで,10月末,コウォトヴォ収容所からも参謀本部第2部グロドノ支部付将校レシェク・ダシュキェヴィチ中尉が脱出し,12月末,既にカウナスにいた「クバ」ことアルフォンス・ヤクビャニェツ大尉と協力関係を結んでいます.

 ヤクビャニェツ大尉はオストルフ・コモルフの士官学校を卒業後,ヴィリニュスの第5歩兵連隊,国境防備軍に勤務し,短期間であるがヴィエルコポルスカの第58歩兵連隊にも派遣されていました.
 フリンツェヴィチの証言では,ヤクビャニェツ大尉はその後1935年に参謀本部第2部グロドノ支部の配属将校となり,主に東プロイセンでの諜報網の拡大に取り組んでいました.

 なお,10月初旬にポーランドは消滅しましたが,この時何千人もの避難民と軍人の新たな波がリトアニアとの国境を越えました.
 4万人に及ぶ避難民の流入は,この小国に様々な問題を引き起こしたものの,概ね受け入れ体制は良好でした.
 ただ,10月10日,ソ連政府はヴィリニュスを含む旧ポーランド領をリトアニアに返還したリトアニア・ソ連条約に対する抗議として,フランチシェク・ハルヴァト公使,公使付武官ミトキェヴィチ大佐を始めとするカウナス駐在のポーランド公使館員は10月15日にリトアニアから退去しました.

以 後,この難民問題は,英国の臨時代理公使プレストンと仏公使館付武官ピション中尉に引き継がれ,それをポーランドの諜報員達が支援することになります.
 その後間もなく,ポーランドの諜報員達はカウナスに新設された日本領事館,厳密に言えば,杉原千畝領事代理にまでその協力関係を拡げていくことになります.

 杉原千畝と言えば,「6,000人の命のビザ」を発給した当事者として日本でも知られていますが,1919年に外務省留学生試験に合格した後,外務省ロシア語留学生として哈爾浜に渡り,1920年には朝鮮京城府竜山歩兵第79聯隊9中隊に志願兵として入営.
 少尉の肩書きを得て1922年に哈爾浜に戻り,日本領事館の手伝いをしながら日露協会学校(後のハルピン学院)特修課に通学,その後は外務省書記生を経て日本領事館に任用されます.
 その後はソ連専門家として頭角を現し,ソ連との一連の政府間交渉に加わり,1934年には満州国外交部理事官,政務局ロシア課長兼計画課長に任命されます.
 1935年に外務省本省勤務の後,1937年に二等書記官兼通訳として在ヘルシンキ日本公使館に赴任し,10月には酒匂秀一公使が駐ポーランド大使に転出した為,臨時代理公使を務める事になり,カウナス領事になるまでヘルシンキに滞在しました.

 杉原は,カウナスに於ける自らの任務に就いてこう記しています.

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 大島浩中将は,(中略)ドイツ軍が本当にソ連に侵攻するかどうかの確証を掴みたがっていた.
 要するに,日本陸軍参謀本部は関東軍,即ち満洲に駐留していた日本軍の最精鋭部隊を出来るだけ早くソ満国境から南太平洋諸島へ転進させることを望んでおり,ドイツ軍による西方からの電撃的な対ソ攻撃に並々ならぬ関心を持っていたという訳である.
 ドイツ軍出撃の日時を迅速且つ正確に特定すること…これが公使の主たる任務であった.
 それで私は,何故参謀本部が外務省に対してカウナスの公館開設をあれほど強く要請したのが合点がいったのであった.
 日本人居住者もいないカウナスの領事となってみて,私は国境付近のドイツ軍の集結状況を参謀本部と外務省に伝えることが我が使命であると自覚したのである.
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 そこで,杉原はヘルシンキ在住の女性ジャーナリスト,リラ・リシツィンを通じてその従姉妹にあたるゾフィア・コグノヴィツカの息子タデウシュ・コグノヴィツキに近付きます.
 コグノヴィツキは当時武装闘争同盟(ZWZ)カウナス地区司令部のメンバーで,「ヴィンツェンティ」ことヴィンツェンティ・フションシュチェフスキ大佐(1940年秋から武装闘争同盟カウナス管区軍事司令部副司令官)の最も緊密な協力者の1人であり,日本領事との関係を利用して,武装闘争同盟の報告書を外交ルートに乗せてポーランド亡命政府に送る様になります.

 コグノヴィツキを通じて杉原は「ヴィエジュバ」の指揮官フリンツェヴィチとも会うチャンスを得ました.
 フリンツェヴィチがその時の様子をこう書き留めています.

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 スウェーデン公使館付武官スカンセ邸だったか,米国領事マクガウン邸だったかは覚えていないが,その社交パーティに杉原も来ていて,「ボーイを1人探しているのだが,誰か紹介してもらえまいか」と声を掛けているのが聞こえた.
 私はとっさに,このチャンスを利用して誰かを杉原邸に潜入させ,日本領事館内部とその周辺の動きを探ることが出来たら,と言う考えがひらめいた.
 何となれば,リトアニアにはそれまでその様な領事館は存在しせず,と言うより,そんな領事館は必要が無かったからである.
 私はスカンセを通じて,ポーランド人で誠実且つ素性の確かな人物としてロジンスキの名前を出し,ロジンスキには,杉原邸に入ったら全身を耳にしろ,と言っておいた.
 事は私の思惑通りに運んだ.
 領事館開設が日本の諜報機関の出先機関を合法的に設置する手立てである事は,私が見ても一目瞭然だった.
 ドイツ側がケーニヒスベルクへの領事館開設に同意しなかった為,代わりにカウナスが選ばれたのである.
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 この様に,杉原とポーランドの諜報員達との関係が構築されました.
 杉原は,ポーランドの諜報員を通じてポーランドとリトアニア国内の情報を入手し,一方で,諜報員の身元がばれそうで,彼らが危機になると,その都度,領事館職員としての身分を保障する日本の公用旅券を発給し,彼らの保護を図る様にしていました.
 実はそれがユダヤ人のヴィザ発給に繋がっていったりするのですが.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/10 22:42


 【質問】
 リトアニアでは,日本・ポーランドは諜報活動において,どのような協力をしていたのか?

 【回答】

 さて,ポーランドと日本との間には,「日本便」と呼ばれるものがありました.
 これは,ポーランドの地下組織や諜報機関がリトアニアから西欧,西欧からリトアニア,更にワルシャワに郵便を送るルートです.
 これにはリトアニア経由でベルリン〜モスクワ〜東京を往復する,日本のクーリエが利用されたのです.

 1940年夏,既にソ連に併合された後のリトアニアでは,同時に2つの秘密諜報網が活動していました.
 1つは先述のルドヴィク・フリンツェヴィチ率いる参謀本部第2部の諜報グループ「ヴィエジュバ」であり,これにはコンスタンティ・ブトレル,アンジェイ・ヤヌシャフスキ,ヤン・モントヴィウなどのメンバーがいました.
 もう1つの諜報網は,当時ヴィルニュス地区「E」監察局と呼ばれていた国内軍武装闘争同盟カウナス支部であり,実質的な指揮官は監察局参謀部長ヴィンツェンティ・フションシュチェフスキ騎兵大尉でした.
 彼は別名をヤニュシュ・マルコフスキ,更にクルックなどの変名を使ってもいます.
 この他,タデウシュ・コグノヴィツキ,エリク・ブズィンスキなどが武装闘争同盟に加わっています.

 「日本便」の作戦を指示したのはフションシュチェフスキで,実際に担当したのはブズィンスキでした.
 ブズィンスキは回想で以下の様に書いています.

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 1940年初秋,マルコフスキが中々エキゾチックなある作戦の実施計画を準備する様私に命じた.
 作戦の概要は次の様なものだった.
 2,3週間おきにベルリンから在ドイツ日本大使館の外交クーリエが日本へ向かう.
 ルートはリトアニアを経由する.
 クーリエはベルリン駐在の諜報員であるヤクビャニェツ大尉から渡された小包を携えていくはずである.
 小包にはロンドンから武装闘争同盟ヴィルノ地区支部への郵便物,資金などが入っている.
 そして,リトアニア駐留ソ連軍の動き…これは東京の日本陸軍参謀本部が大いに関心を持っているのだ…と言った種々の情報を詰め込んだ小包を,ヴィルニュス側でも誰かが準備する.
 つまり,我が領土を通過する際,この2つの小包を「すれ違いざま」に交換すると言う事だ.

 そこでマルコフスキは,クーリエのリトアニア通過時に小包を交換するという作戦を綿密に検討する様,私に命じた.
 通過日時の連絡については既に手筈が整っていたが,誰がやったのかは判らない.
 リトアニア在住の…勿論,我が諜報組織に所属する…ドイツ系の名字を持つある婦人宛に,ベルリンから葉書が来る(因みに,1940年にはドイツ〜ソ連領リトアニア間の郵便物は検閲こそあるものの,ほぼ正常に配達されていた).
 「愛する伯母さんへ」…その後は家族の間の取り留めの無い話題が書かれ,結びは…ドイツ式の敬具である「ハイル・ヒトラー!あなたのミナ」(或いは「ではまた,イルマ」)….

 この内容の中で日付だけが本当だった.
 その丁度2週間後に,クーリエがベルリン〜モスクワ間を走る横断列車で国境を通過するのだ.
 その様な列車は1日に1本しか無かった.
 作戦開始当初は,ケーニヒスベルク〜カウナス〜ヴィルニュスを結ぶ本線を運行していたが,後には更に東へ行く様になった.
 ドイツ側国境はアイトクーネン,リトアニア側国境はヴィルバリスだった.
 列車はカウナスまでは標準軌を走っていたが,それより東のリトアニア領とポーランド領の鉄道路線は,鉄道員達が「正教にお乗り換え」等と陰口を叩いていた様に,ロシア式の広軌となっていた.
 つまり,乗客はカウナス駅でわざわざロシアの車輌に乗り換えなくてはならなかったのである.

 「愛する伯母さん」から最初の合図を受け取る前に,私は可能性を見極める為2度程全コースを走ってみた.

 私達が東洋人であるその相手との接触方法についての指示を受けていたことも,此処に書き添えておかねばなるまい.
 その人物も,こちら側の受け渡し役も,真珠の付いたネクタイピンをネクタイに留めるのである.
 それから合い言葉も,クーリエが話せるというロシア語で予め決めておいた.

 その打ち合わせから数日後,一人の老婦人がヴィルニュスからカウナスへやって来た.
 それが例の「愛する伯母さん」自身だとは誰が思うだろうか.
 ベルリンからは,日にちを指定してある葉書が届いていた.
 女は「日出ずる国」に送る小包も携えていた.

 我々の実行グループは,4人のメンバーからなっていた.
 1人は受け渡し役で,2人目はその補助役,そして3人目はその中みも知れぬ包みをバッグに忍ばせ,いよいよ交換するという瞬間に私に手渡す若い女だ.
 3人とも一等車の「ふかふか」の客車に相応しいエレガントな服装をする事になっていた.
 4人目のメンバーは,前の晩から国境のヴィエジュボウドゥフへ行っていた.
 彼の任務はカウナス行きの列車が確かに通過したか,クーリエが乗車しているか,そして真珠を付けているかを確認する事であった.
 彼は確認の合図として,列車がカウナス駅に入線する際,帽子を被って,開いている窓から顔を突き出すことになっていた.
 もし帽子を被らずに頭だけ出したら,それは,日本人が乗っていないから帰れ,と言う意味だった.

 私は初めて包みを交換した時のことを鮮明に覚えている.
 我々はモスクワ行きの特急列車に分乗し,国境からの列車が到着するのを待っていた.
 私のとなりのコンパートメントにダデウシュ・コグノヴィツキ,別のコンパートメントにヤンカ・ズダノヴィチュヴナがいた.
 ベルリンからの汽車が汽笛と共にプラットホームのもう片方の線路に入ってきた.
 我等の諜報員ルク・コンチャが頭に帽子を乗せて,戦闘車両の窓から文字通りぶら下がっている.
 乗客達が続々とホームに降りてくる.
 こちらの列車に乗り込んでくる人々は,実に国際色豊かに見えた.
 確かにいる!
 2人の日本人が.
 2人とも同じ様に黒いコートを着て,黒い帽子を被り,中身の詰まった革製の大きな書類鞄を持っている.
 1人が鶏の卵の様な真珠を付けている.

 幸運なことに,2人は私の車輌に乗り込んできた.
 何と,その同じ車輌にコンパートメントを予約していたのである.
 間もなく列車は動きだし,私は通路に出て真珠のネクタイピンを付けた.
 乗客は疎らで,車輌の最後部には私服警官と覚しき輩が立ち,通路の様子を観察している.
 クーリエの乗っているコンパートメントの側を通りかかると,1人は何かに読みふけり,もう1人は眠ったふりをしているが,通路の方を伺っているのが見て取れる.
 私は自分のネクタイと真珠が見える様に彼の方に身体を向け,出て来るなという合図にかぶりを振って見せた.
 彼は理解し,身動き1つしない.
 私は自分のコンパートメントに戻り,ヤキモキしながら座っていた.

 そうこうする内に汽車は既にパレモナス駅を過ぎ,平原を全速力で走っている.
 カウナスからヴィルニュスまでほんの100キロ程だから余り時間が無い.
 再び通路に出てみると,例の輩は相変わらず立っているが,何かに苛立っている様な様子で足踏みをしている.
 やがて,どうにも堪えきれなくなったらしい.
 案の定!彼は車輌の奥にある例の場所に姿を消したのである.
 急いで日本人のコンパートメントの前を行ったり来たりしながら,首を縦に振ってみせると,直ぐ様1人が出て来た.
 私達は窓際に隣り合って立ち,囁き声で合い言葉を交わした.
 彼が背広の裾を抑えているのが見える.
 多分そこに,私達宛の何かを隠し持っているのであろう.
 兎に角今は一刻も早く隣の車輌に移らなくてはならない.
 有り難いことに,我等の見張り番が姿を消した便所とは反対側だ.
 私は駆け出したいのをぐっと堪える.
 ヤンカは連結部の直ぐ向こうに立っている.
 私はもう1度振り返る.
 誰もいない.
 彼女から包みを受け取って,元の車輌に戻る.
 日本人がこちらに向かって歩いてくる.
 私達はほんの一瞬,肩を寄せてすれ違う.
 交換は無事完了だ.
 ものの20秒も掛からなかった.
 私は何事も無かった様に隣の車輌に戻る.
 待っていたヤンカがつつみを受け取り,自分のコンパートメントに帰る.
 何とも,すんなり事が運んだものだ.

 ヴィルニュスでは,約束の場所で全員が落ち合った.
 マルコフスキが我々を待っており,他に2人,年配の男がいた.
 その2人が包みを開け,手紙の仕分けをし,緑がかった100ドル札を数えていたのを覚えている.
 1万5,000ドル程あった.
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 因みに,このスパイ映画顔負けの作戦は,これ以外に3度ほど成功しています.
 ただ,何処からか情報が漏れたのか,4回目の受け渡し役に指名されたヤン・モントヴィウは尾行されていることに気づき,どうにか包みの交換を終えて急行列車から飛び降りて追っ手をまきました.
 それ以来,このルートによる連絡は発覚の恐れが出て来た為,断念せざるを得ませんでした.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/13 23:07
青文字:加筆改修部分

 1940年夏,ソ連がバルト諸国を併合した後,日本はカウナスとリガの自国公館を閉鎖します.
 カウナスの杉原千畝は8月24日にヤクビャニェツ大尉とダシュキェヴィチ中尉を日本の公用旅券でベルリンに脱出させ,9月1日に自身は出発しました.
 一方,リガには恐らく1939年10月に,ミハウ・リビコフスキ少佐が姿を現します.

 リビコフスキはリトアニアのヴォドクティ近郊で生まれ,1918年にポーランド軍に入隊,ポーランド・ソヴィエト戦争での激戦の1つ,ラズィミンの戦闘に参加し,この時の活躍に対して軍功十字勲章を贈られます.
 1932年に陸軍大学校を卒業し,ポーランド軍参謀本部第2部ドイツ研究所に配属されます.
 大戦前夜には対ドイツ諜報活動の専門機関である「ドイツ課」の課長となり,開戦後はパリ,ヘルシンキを経由してバルト諸国に潜入.
 リガでポーランド公使館付武官(公使館閉鎖後はストックホルム駐在武官)をしていた上官のプジェスクフィンスキ大佐の仲介により,日本公使館付武官の小野打寛(おのうち・ひろし)中佐と接触します.
 その後,小野打中佐と杉原領事の御陰で,リビコフスキは在ベルリン満州国公使館が発給した満州国のパスポートを入手することが出来ました.

 リビコフスキはラトヴィア人商人ヤコブソンとしてベルリンに赴き,満州生まれの白系ロシア人ペーター・イワノフとしてリガに戻りました.
 1940年8月にリガにある日本の駐在武官室が閉鎖された後,小野打中佐は参謀本部から正式の駐在武官としてストックホルムへ転勤を命ぜられ,1939年11月から臨時のストックホルム駐在武官を務めていた西村敏雄中佐の後任となり,西村中佐はフィンランド駐在武官となります.
 小野打中佐はリビコフスキをストックホルムに同行させましたが,冬戦争勃発により一端西村中佐がフィンランドを脱出し,1940年9月に再び小野打中佐がフィンランドの駐在武官として送り込み,西村中佐がスウェーデンの駐在武官となりました.

 此の後,リビコフスキは西村中佐と協力関係を持ち,この関係は1941年1月に小野寺信少佐がスウェーデンに赴任するまで続くことになります.

 ストックホルムではもう1つ,1940年1月から西村中佐の援助でヴァツワフ・ギレヴィチ率いるポーランド軍参謀本部第2部の諜報機関「北方」が活動を開始しました.
 西村中佐とギレヴィチは軍事情報を交換し,西村中佐の方はポーランド人とロンドン亡命政府との連絡を取り持ったりもしていました.

 リビコフスキ少佐は,カウナスに短期滞在中の1939年秋,ヤクビャニェツ大尉,ダシュキェヴィチ中尉と連絡を取り,関係を築きますが,1940年9月に3人は再びストックホルムで落合い,そこで協力関係の原則を定めました.

 その話し合いの結果,日本の協力で得たパスポートの入手で開けたチャンスを活かし,ドイツに戻って諜報活動を継続すべきだという結論に達し,日本との協力関係を続けることにしました.
 ヤクビャニェツ大尉はベルリンを拠点とする事になり,ダシュキェヴィチ中尉は杉原と共にプラハまで同行することになりました.
 この機関は「G機関」と名付けられ,ダシュキェヴィチ中尉は人を食ったことに,「ヘルマン・ゲーリング」と言う偽名で活動することになります.

 G機関の任務は軍事,軍事産業,経済,政治,ポーランド人の戦争捕虜収容所との連絡と捕虜収容所の所在地の特定,場合によって本国との連絡と多岐に亘っていました.
 収集した情報は,ダシュキェヴィチ中尉からヤクビャニェツ大尉に送り,そこから日本のクーリエ便に載せてベルリンからストックホルムに送られることになっていました.
 ただ,そのクーリエ便は不定期だったことから,最新情報を的確に送る事が出来なかったのが弱点でした.

 ヤクビャニェツ大尉は表向き,ベルリンの日本大使館駐在武官室に通訳として雇われていることになっていたのですが,実際にはポーランド参謀本部第2部が大戦前にドイツ国内に築いた広範囲な諜報網の指揮を執っていました.
 勿論,ドイツ側もポーランドの諜報機関を警戒し,しかも日本が欧州で諜報活動を行うのは容易ではなく,しかも,必要だったのは軍の動向というドイツ側の詳細な計画だった為,日本はその情報と引き替えに,ポーランド諜報機関の連絡将校をドイツ,バルト諸国,スカンディナビア諸国の日本公館に匿い,ポーランド側がこれら公館の外交クーリエを使って,諜報活動報告書を諜報機関の拠点であり,集合地点であるストックホルムに送れる様に取り計らうと言う条件を受け容れたのです.

 ダシュキェヴィチ中尉はリビコフスキの決定に従って,杉原と一緒にプラハへ行き,1941年3月には,プラハから更にケーニヒスベルクへ赴きます.
 杉原は大島駐ドイツ大使の指示を受けて在カウナス領事館と同様の総領事館をケーニヒスベルクに開設し,独ソ両軍の動向に関する情報の収集に当たることになります.
 当時,1940年10月のモロトフ外相のベルリン訪問後,諜報員が独ソ開戦不可避との情報を送ってきた為です.

 杉原とダシュキェヴィチ中尉は,ケーニヒスベルクへの途次ベルリンに立ち寄り,ダシュキェヴィチ中尉はそこでヤクビャニェツ大尉と会い,元ポーランド銀行カウナス支店長で諜報グループ「ヴィエジュバ」のメンバーでもあるコンスタンティ・ブトレルと知り合います.
 ブトレルは自分の部下であるリトアニア出身の地主スタニスワフ・コスコを杉原の使用人としてはどうかという提案を行いました.

 コスコはリトアニア人の地主でしたが,妻はグダンスク司教の姪でグダンスクや東プロイセンのドイツ人に顔が広かった事から,仕事面では彼女の協力が得られる筈でした.
 因みに,このコスコ一家は,杉原が去った後,ドイツ人に捕らえられ,スパイとして処刑されています.

 ケーニヒスベルク到着後,ダシュキェヴィチ中尉は諜報活動を組織します.
 先ずは現地で最も信頼の置ける協力者で情報提供者でもあったコスコを活動に引き入れました.
 情報は杉原にも伝える様にしましたが,杉原は,
「秘書の佐藤に気をつけろ」
とダシュキェヴィチ中尉に言いました.
 単に秘書が上司の諜報活動の事を知らなかったからなのか,秘書に関する何らかの情報を持っていたからなのかはよく判りませんが….
 こうして,ケーニヒスベルクでの諜報活動が開始され,ドイツの対ソ連準備に関する情報が日増しに増えていきました.

 そんなある日,彼らは1つの計画を行います.
 ダシュキェヴィチ中尉の回想録によれば,この時はこんなことをしています.

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 クライペダまで自動車で行って,そこから国境地帯を通ってケーニヒスベルクに戻る.
 1941年5月中旬のことである.
 実際,この時期には東プロイセン領内の軍の動きが非常に活発で,明らかに何らかの作戦準備が行われていることを物語っていた.
 そうこうする内,我々は領事館が監視下に置かれている事実を突き止めた.
 ドイツ側は領事館の向い側の地下に監視用の部屋まで用意していたばかりか,我々が車で街へ出掛ける時にも,車で尾行していたのである.

 領事は初め,クライペダ行きを躊躇っていたが,ある日遂に意を決し,領事,佐藤秘書官,私の3人で出掛ける事にした.
 行きはリトアニア人運転手が運転していくが,町外れに出たら,杉原領事が自分で運転することになっていた.
 杉原は出発前に,もし尾行されたら,ドイツ人が我々の車を停めるように仕向けるかも知れないから,それに備えて証拠となるようなものは一切携行しないように,と佐藤に聞こえぬよう私に耳打ちした.
 クライペダへ向かっている時,尾行されているという気配は何も感じなかったが,クライペダを出て暫くすると,1台の乗用車が付いてくることに気がついた.
 国境沿いの道を走っていた時だ.
 領事は急ブレーキを掛けて車を止め,道を譲って我々の車を追い越させようとした.
 思惑は外れ,こちらの意図に気づいた後続の車は,急ハンドルを切って道路脇の森へ逸れていったが,悪路の為直ぐ立ち往生する羽目になった.

 我々は森に入って食事を始めた.
 彼らは停車したまま,車の点検をしていた.
 そんなことを延々繰り返した.

 我々は地図を頼りに延々と国境地帯を走りながら,森の中にはガソリン貯蔵庫や戦車,夥しい数の様々な箱,軍の歩哨所があって,アスファルトの道路が通っているにも関わらず,森への立入を禁ずる標識が道路の彼方此方に立っていることを確認した.
 この遠出から戻った後,杉原領事と佐藤秘書官は一晩中,翌朝打電する暗号電報の作成にかかり切りとなり,翌日視察内容をストックホルムに打電しました.
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 一方,ダシュキェヴィチ中尉も2,3日後にベルリンに赴く杉原領事に独自の詳しい報告書を託し,ヤクビャニェツ大尉に渡すよう依頼し,それをストックホルムに転送するよう,ヤクビャニェツ大尉に私信を送っています.

 この様な大胆な杉原の活動は勿論,ドイツ側の監視をくぐり抜けることが出来ませんでした.
 ドイツ外務省とゲシュタポは,杉原の行動を監視し,逐一上層部への報告を受けていました.
 杉原に関しては,1941年春にケーニヒスベルク市長も報告しており,領事の活動が,日独友好関係の妨げになっていると,その中に記しています.
 また,ドイツの公安局長ハイドリッヒも1941年8月7日付のリッベントロップ宛報告書で杉原の活動に書いており,ドイツ側は,杉原を「好ましからざる人物」として領事館から召還するよう日本の外務省に圧力を掛けています.

 結局,1941年秋,在ケーニヒスベルク日本領事館は閉鎖され,杉原はブカレストに転任となりました.
 ダシュキェヴィチ中尉はこの時に杉原と別れましたが,その後,ケーニヒスベルクを去ったようです.

 なお,ポーランドがドイツに築いた諜報網の内,特にベルリンの諜報網は1942年7月初めに解体に追い込まれました.
 1942年7月6日夜半から7日未明に掛けて,先ずヤクビャニェツ大尉とその最も密接な協力者で,満州国公使館にてメイドとして働いていたサビーナ・ワピンスカが逮捕されました.
 因みに,在ドイツ満州国公使館はポーランドと日本の諜報機関の最も重要な連絡拠点で,星野一郎の偽名で活動していた秋草俊が参事官兼ワルシャワ総領事として管轄下に置いていました.

 これが発覚したのはヤクビャニェツ大尉自身の弱さでした.
 大尉は無類の女好きで,リトアニアから逃れてきたマルティンクス大尉と言う人物の妻と不倫関係にあり,それに嫉妬したマルティンクスがそれをゲシュタポに密告した為です.
 ダシュキェヴィチ中尉は,ベルリンを訪れる度にヤクビャニェツ大尉を諫めましたが,受け容れられませんでした.
 もう1つ異説があり,マルティンクス大尉はゲシュタポに命じられてヤクビャニェツ大尉の監視を行っていたと言うのもあります.

 更に,発覚のもう1つの原因は,ワルシャワの諜報組織のメンバーが不用意にクーリエのベルリン行きについて話をしていたのを,ドイツのスパイが盗聴したことでした.
 クーリエは満州国公使館内で諜報員と接触した後,ティアガルテンへ赴き,そこでシェレンベルクの陣頭指揮によって行動していた部下の手で逮捕されたのでした.

 これが発覚したことにより,大島大使はドイツとの関係悪化を憂慮し,ドイツに於けるポーランドと日本との諜報に関する協力関係は終局を迎えることになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2,2012/04/14 23:07


 【質問】
 カウナスの日本領事館には,ゲシュタポのスパイはいたのか?

 【回答】
 グッジェというドイツ系リトアニア人がそうだった.
 これは戦後ポーランドで発見された,情報機関の記録にあった.

 彼は領事関係書類の処理ができる唯一の職員だったため,杉原の通訳を務めていた.
 「杉原リスト」に1225番で登録されているユダヤ人学生モシェ・ズプニクの記憶によると,グッジェは自分はナチ主義者だが,ナチスのユダヤ政策には反対だと述べたという.
 ズプニクはタルムード学院の300人の学生の一人で,何日か領事館に座り込んだが,グッジェはいつも好意的,協力的だったという.

 奇妙な話ではあるが,情報専門家の杉原は,グッジェの素性は知っていたであろうし,また,意図的に領事館に潜り込まされた可能性もある.
 ゲシュタポはカウナスでの杉原の行動については細大洩らさず承知していたのだ.

 詳しくは,H. E. マウル著「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」(芙蓉書房出版,2004/1/20),p.145-147を参照されたし.


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