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◆◆◆ Bataan Death March
<◆◆フィリピン攻略戦1942
<◆アジア&太平洋戦域・目次
<第2次大戦FAQ

http://ghostofbataan.com/bataan/page3a.html


 【質問】
「いわゆる『バタアン死の行進』は,米兵の体力がなかっただけで,日本軍側に責任はない.
 同じ距離を日本兵は装備背負ったままこなしてるんだから.
 飯だって同じもん食わせてたろうし」
という話を聞きましたが,本当ですか?

 【回答】
 立場や見方によって様々な回答があるため,熟読した上で各自で判断されたし.

 (a) フィリピンの教科書的回答.

 間違いです.捕虜には食糧も水も与えられないまま,無慈悲にも銃剣で刺されたり殴打されたりしながら,無理矢理歩かされました.⇒more

 (b) 「ニューズ・ウィーク」('44年2月7日号)的回答

 正しくない.
 ワシンシンで公開された陸海軍の記録によって,消すことのできない種族的蛮行の事実が明るみに出た.日本人の礼儀正しさや,古風で趣のある風景の神話は崩れ去った.
 アメリカ中が怒りで歯ぎしりをしている.⇒more

 (c) レスター・テニー博士(アリゾナ州立大学名誉教授,「バタアン死の行進」を生き延びた一人)的回答.

 エゴの産物で日本軍は自ら厄介を抱えておきながら,移動計画はまるで価値のないものだった.
 命令は日本語で発せられ,たちどころに反応しないと,捕虜は殴られ,突き飛ばされ,銃剣で突かれ,撃たれた.
 私達人間に対する同情心も気遣いもなく,葬儀もせず,――日本軍は私達を動物のように扱った.
 私達への扱いがどのようで,どれだけそれが続くか,もっと早くに知っていたら,最後の一人までバタアンで戦い,できるだけ多くの敵を道連れにしただろう.⇒more

 (c2) ディモン・ゴーズ Damon Gause的回答

 日本兵は,捕虜を船で運ぶこともできたのに,市内を引き回すために捕虜を歩かせた.
 振り返るだけで暴行を受け,落伍した捕虜は溝に蹴り込まれた.
 彼らを助けようとしたフィリピン人は発砲され,追い払われた. ⇒more

 (d) 「世界戦争犯罪事典」的回答+

 行進はやむを得ずの処置であり,それ自体には問題はない.
 捕虜への侮蔑から,日本兵が捕虜への暴行などを行ったのは事実であり,それに関して責任を問われるのは当然だが,連合軍側の同様ケースについては何ら処罰がされておらず,戦後の連合軍側の措置は,甚だしく不公平.⇒more

 (d2) 日本軍側現場指揮官的回答

 裁判の誤りである.

 いったい米比軍は持てる弾を撃ち尽くし,持てる食糧を食い尽くすまでは頑強に抵抗し,これが尽きれば平然として手を上げる.降伏すれば,その時から日本軍は我々を給養する義務があると嘯いている.
 虫のよい考えである.

  米比軍がこの捕虜の移動を『死の行進』と言うならば,〔その戦闘においての〕戦勝国たる日本軍の移動は『超死の行進』だ.現に捕虜群と並列して進む日本軍の姿を見よ.重い装具をつけて,喘ぎながら進んでいるではないか.貴様らに散々撃たれ,肉体的にも精神的にも言語に絶する苦難に耐えた日本軍だ.できれば背負える背嚢も貴様らに負わせてやりたいぐらいだ.貴様らを軽装で行軍させるのが,むしろ慈悲だと思え,と言いたい.
 勝った軍が,負けた軍以上の苦しみを味わわねばならん理由はないのだ.⇒more

 (d3) 日本軍師団参謀長的回答.

 第一に,捕虜の数があまり多数ぎて〔原文ママ〕給養力を著しく超過したことである.
 第二の原因は,彼らが糧食を殆ど保有していなかったことである.
 第3の理由は,彼らの間に熱帯性マラリヤ,赤痢の流行があったことで,これが戦闘後引き続き行われた護送行軍の疲労で,さらに激発したのではないか.
 以上3つの原因の内,第1と第3は不可抗力であり,第2は,捕虜となった以上あなた任せという彼ら一流の安易な考えから出たもので,これはむしろ彼らの側に責任があったのではないか.⇒more

 (d4) 京都新聞社的回答

 決して捕虜を虐待したのではない。 
 彼らはトラックで移動するのを常としており、つまり機械化された軍隊と、徒歩行軍を常としていた日本兵との軍隊間の違いが、そこにあった.
 彼らをそのままにしておけば、対岸のコレヒドール島要塞からの砲撃とマラリアによって、彼らは、そのほとんどが全滅したのであろう。
 その意味では『死の行進』ではなく、逆に『生への行進』であった.
 護送作業のなかで、個々の日本兵は投降兵たちへの救助の手をさしのべたが,一方,日本兵の遺品をつけた一部の米軍将兵が、戦友の死を悼《いた》む日本軍の護送隊兵士によって、銃床で殴《なぐ》りつけられたのも事実であった。⇒more

 (d5) 本間雅晴将軍本人の回答

 私は『死の行進』というような言葉は終戦まで全然知らなかったのです.
 当時我が軍は,糧秣,武器,弾薬,医療器具,薬品,救急車等におきまして,殆ど絶望に近いまでに欠乏いたしておりました.
 私が司令官としてとりました態度は,我が軍の従来の慣習と貧困という事実に鑑み,我が軍と同様に取り扱ったのであります.
 部下が独断で刺殺,惨殺,掠奪したという事実は,私には報告がなかったので終戦まで知らなかったのです.
 私は早く申しますなれば,形を整えるだけのロボット司令官に過ぎませんでした.第14方面軍司令部は東京にあったわけです.⇒more

 (e) ハンプトン・サイズ Hampton Sides 的回答

 全く責任がないとは言えない.
 この悲劇は.過誤,知識不足,文化間に生じた誤解,うだるような暑さ,そして帝国陸軍の規律の乱れが混ざり合って生じたものだった.
 バターン防衛軍司令官,キング将軍は捕虜移送用に多数の車両を用意したが,日本軍はそれを拒み,それらは大砲輸送に用いられた.
 捕虜輸送計画には欠陥があったが,そうと判明してからも,それが修正されることはなかった.
 混乱の中,日本兵による暴力が蔓延した.文化的な様々な誤解が,それを生む引き金となった.
 それにまた,日本軍も食糧・医療事情が悪かった.⇒more

-------------------以下詳述-----------------

 (a) フィリピンの教科書的回答.

 間違いです.捕虜には食糧も水も与えられないまま,無慈悲にも銃剣で刺されたり殴打されたりしながら,無理矢理に歩かされました.

 (a1) 高校生向け教科書,グレコリオ・F. サイデ & ソニア M. サイデ共著『Philippine History』より.

「1942年1月初めに,バタアン戦が始まりました.本間将軍の指揮下の日本の侵略軍は,極東米軍の守備軍を攻撃,守備軍は果敢な戦意を振るって交戦し,日夜,毎週毎週,戦いは激しく続きました.
 米比連合軍は絶望的な戦況に直面します.空軍と海軍の支援が得られず,食糧,医薬品や武器弾薬の欠乏に悩まされました.
 バタアンの絶望的戦況に鑑み,ルーズベルト大統領はケソン大統領に対し,米国に来るよう電報を送りました.ルーズベルト大統領の要請を聞いて,ケソン大統領は家族と戦時内閣閣僚と共に,1942年2月20日の夜にコレヒドールを密かに潜水艦で離れ,日本軍封鎖線を潜り,パナイへ至り,次いでネグロスを経由し,ミンダナオに到着しました.
 〔略〕
 バタアンの暗澹たる抗戦の日々が続く最中,ルーズベルト大統領はマッカーサー将軍に対してオーストラリアへ移動し,南西太平洋地域の指揮を執るようにと要請し,したがってマッカーサー将軍とその幕僚は,1942年3月11日に2隻の快速哨戒魚雷艇に分乗し,コレヒドールを離れ,無事にミンダナオに到着しました.3月17日にオーストラリア到着後,直ちに将軍は次の声明を発しました.
『私は難局を切り抜けてここまで来た.私は必ず戻ってくるであろう』

 マッカーサー将軍の後を受け,ジョナサン・M・ウェインライト将軍が米比連合軍の指揮を執ることになりました.在極東米軍USAFFEは,在比米軍 USIPへと編成変更されました.
 〔略〕
 勇敢な米比連合軍兵士は,疲労し,病に冒され,空腹であったにも関わらず,ライオンのように戦いました.彼らの果敢な抗戦によって,日本の征服日程が狂い,その結果,日本軍のオーストラリアへの侵攻が食い止められました.
 しかし,バタアン守備隊がもはや戦えなくなるときが来ます.飢えと疾病が彼らを無力にし,それに加えて武器弾薬が殆ど消耗してしまったのです.
 これ以上の抗戦は無駄だと知り,何千人もの人命を救おうと,バタアン軍司令官エドワード・P・キング将軍は1942年4月9日に降伏しました.
 〔略〕
 7万以上のフィリピンと米軍の兵士,および16人の将軍(フィリピン人将軍を6名含む)がバタアンで降伏しました.日本軍は文明時代の戦争行為に関するあらゆるルールを踏みにじって,無力な捕虜を家畜のように群集させ,そして貴重品を略奪しました.
 間もなく,文明社会に衝撃を与えた悪名高い『死の行進』が訪れました.飢え,渇き,病み,疲労しきった捕虜達は,バタアン州マリベレスからパンパンガ州サン・フェルナンドまで無理矢理に行進させられました.彼らには食糧も水も与えられませんでした.何百人にも及ぶ,既に歩き続けることができない苦難の人々は,残酷な日本の警備兵に,無慈悲にも銃剣で刺されたり殴打されたりしました.
 サン・フェルナンドでは,鉄道の箱型貨車に放りこまれてタルラック州カパスまで連行され,そこでは密集収容されました.途中で,貨車の中で窒息する者が多く出ました.

 (a2) 高校生向け教科書,フェリシタス T. レオガルド,ヴィセント R. レオガルド,M. R. ジャコボ編「A History of the Philippines」より.

「日本人は〔マニラ占領後〕,バタアンで身を固めるUSAFFEをすぐに攻撃しました.早い勝利を確信した本間将軍は,1月上旬にバタアンの比米軍に対して攻撃を開始しました.紙上では,USAFFEの状況は絶望的でした.この何度も戦争を重ねてきた日本人部隊の大群を迎え撃つのは,数で劣り,その殆どが充分な軍事訓練を受けたことがなく,戦闘を経験したことのないフィリピン人とアメリカ人の軍隊でした.
 日本人には尽きることない食糧と弾薬の供給がありました.彼らは完全な制空権を持っていました.
 したがって,日本人はUSAFFEが彼らの攻撃を跳ね返したとき,とても驚きました.何度も何度も,日本人は守備軍によって酷い打撃を受けて撃退されました.
 〔略〕
 フィリピンにおけるUSAFFEの最後の崩壊を予期したルーズベルト大統領は,ケソン大統領に合衆国へ来るよう無線を送りました.ケソンはこれからの暗い日々の間,国民を援助するつもりでいました.しかし彼は,敵に捕らえられた場合の容易ならぬ結果に気付きました.それは彼の政府の崩壊と,日本人に対する継続的な抵抗を鼓舞する指導者がいなくなってしまうことを意味しています.
 そこでケソン大統領は,家族と政府高官と共に,1942年2月20日,コレヒドールから避難しました.〔略〕
 ジョナサン・ウェインライト将軍は,フィリピンにおける比米軍の司令官に任命されました.彼は,自分の指揮下にある軍を調査しました.彼はバタアンに七万人の比米部隊を持っていましたが,戦闘部隊は本の一部だけでした.
 彼に立ち向かうのは,本間将軍の率いる25万人近くからなる,非常に装備された〔原文ママ〕陸軍でした.日本人は,このときには既に東アジア全土が陥落していたので,フィリピンでの攻撃に専念することができました.
 〔略〕
 1942年4月3日,本間将軍は戦争が始まって以来,日本人がとった最大の攻撃をバタアンに浴びせました.
 もはや抵抗することができないと見たバタアン軍の司令官キング将軍は,1942年4月9日,遂にめった切りにされ,疲れ切ったバタアンの部隊を引き渡しました.」
 バタアンの約3万6000人のフィリピン人とアメリカ人の兵士は,武器を捨てました.飢えと渇きと疲労と病で衰弱した戦争の捕虜達は,バタアン州マリベレスからパンパンガ州サン・フェルナンドまでの道のりを歩くことを強いられました.もはや歩くことのできなくなった者は,冷酷な日本人警護に,残酷にも銃剣で突かれたり打たれたりして殺されました.
 生き残った者達は牛のように貨物車に詰め込まれ,鉄道でサン・フェルナンドからタルラック州カパスの強制収容所まで運ばれました.
 戦争のこの悲惨な出来事は,『死の行進』として歴史に残りました」

 以上,佐藤義朗編「フィリピンの歴史教科書から見た日本」(明石書店)より引用.
 ただし,本書翻訳者の一人,後藤直三によれば,時代の流れの中で,「一部に次のようなコメントがあり,かつてとニュアンスが異なる形で日本に対する見方が変わってきた」とし,バタアン死の行進について,

 なぜ,日本軍は足手まといの米比連合軍敗残グループ,および住民を連行したのか?放置しておけば,後の悪名を轟かすことはなかったのに《米軍が置き去りにするという罪を作り,それを日本軍が"戦時"国際法に則って対応したことが,後に非難されるとは》理解しにくい.捕虜保護のための連行のおかげで,米軍がバタアンに再び攻略作戦を遂行した際に,《一部民間人を含めた》フィリピン側の犠牲者数が少なかったはずだ.その上,連行された捕虜がタルラック州カパスの収容施設に入れられた際,米軍側捕虜は
『我々は統治者であって,いずれフィリピンを解放する立場にある』
と豪語し,フィリピン赤十字メンバーの一部と結託して,救援物資を横流ししたために,収容者の内,フィリピン側死亡者数が米軍側より上回った事実も否定できない」

と,そのコメントをあとがきにおいて記している.

 (b) 「ニューズ・ウィーク」('44年2月7日号)的回答

 正しくない.
 ワシンシンで公開された陸海軍の記録によって、消すことのできない種族的蛮行の事実が明るみに出た。日本人の礼儀正しさや、古風で趣のある風景の神話は崩れ去った。
 アメリカ中が怒りで歯ぎしりをしている。

「アメリカ中が怒りで歯ぎしりをしている。このニュースを最初に耳にしたとき、人々は連合国側の捕虜に対する日本人の蛮行に身震いした。先週アメリカ人が抱いた感情は、今次大戦中にわが国が経験したことのないほど激しい怒りだった。
 その怒りは、ワシントンとロンドンの両政府がそれぞれ発表した声明の行間に溢れている。 苦々しい思いでハル国務長官は日本人を「悪魔ども」と呼びその極悪非道ぶりを激しく非難した。
 献血をし、公債を買い、赤十字への寄付を済ませた女性たちは、敵を攻撃する新たな方法を見付けようとして、うずうずしていた。 彼女らの息子や夫の多くはバターン半島の「死の行進」を強いられた兵士なのである。
 以下に,名誉なき国家である日本がとった不名誉な行動に関するアメリカ陸海軍の公式記録を掲げる。日本人の礼儀正しさや、古風で趣のある風景の神話は崩れ去った。
 ワシンシンで先週公開された陸海軍の記録によって、消すことのできない種族的蛮行の事実が明るみに出た。ダイス中佐は「死の行進」の状況を次のように説明している。
「一人の日本兵がやって来て私の水筒を取り上げ、水を馬にやって水筒を投げ捨ててしまった。 我々は銃剣で突き殺されたフィリピン人のそばを通り過ぎた。殺されて間もない兵士たちの死体が 道端に横たわり、その多くは日本軍のトラックによって轢かれペチャンコになっていた。
 4月12日の午前3時に、連中はわれわれを2百人ほど収容できる有刺鉄線で囲った場所に追い 込んだ。われわれは総勢千2百人ほどで横たわる隙間もなかった。人間の汚物とウジがあらゆるところに満ちていた。
 その日は一日中、『太陽による処置』の名の拷問にかけられた。何の覆いもなく、照りつける太陽の下で一日中座らせられる。水は与えられない。 喉の渇きは強烈だった。多くの者が発狂し、死ぬ者も出た。 日本人は弱ったり狂乱状態になった者を引き摺り出した。
 フィリピン人とアメリカ人の各3人が、まだ生きている間に埋められた」
 〔略〕

http://homepage3.nifty.com/time-trek/longdays/wartime/wartime24.html

 (c) レスター・テニー (テネンバーグ) Lester I. Tenney 的回答

 エゴの産物で日本軍は自ら厄介を抱えておきながら,移動計画はまるで価値のないものだった.
 命令は日本語で発せられ,たちどころに反応しないと,捕虜は殴られ,突き飛ばされ,銃剣で突かれ,あるいは撃たれた.
 私達人間に対する同情心も気遣いもなく,葬儀もせず,――日本軍は私達を動物のように扱った.
 私達への扱いがどのようで,どれだけそれが続くか,もっと早くに知っていたら,最後の一人までバタアンで戦い,できるだけ多くの敵を道連れにしただろう.

「私達にとって不運だったのは,捕虜に対する日本軍の移動計画は,3つの仮定に基づいており,それら全てが全く価値のない仮説だったことである.
 第1に,日本軍は,2万5千〜3万5千人がバタアンにいるものと推測していた.ジャングルに逃げ込んだり,コレヒドールへ向かった者もいたから正確な数は分からないが,実際には約10万5千人がいた.
 第2に,日本軍は,敵軍兵士が良好な健康状態にあり,強行軍を大した水も食糧もなしに耐えられると想定していた.現実はまさに正反対だった.
 最後に,私達は,日本軍は私達の退避行については完全な計画があり,何をすべきで,どうすべきか分かっているものと想定していた.だが実際には,日本兵は自分達が何をすべきかを知らなかった.

 バタアンの地図を見れば,日本軍は大量の手間を省けたことが,すぐに分かる.日本軍が,少数の警戒部隊を配置して,あとは私達を放っておくだけで,私達は飢え,やがて降伏する他なかったろう.この作戦なら,日本軍は,オーストラリアの征服と東南アジア全域の領土を統治するという,自分たちの夢の達成のため,2ヶ月も早く有利なスタートを切ることができたはずだ.
 しかしながら,日本のエゴは,フィリピンの米軍は戦闘に撒けた十事実を明白にしなくては気が済まなかった.そこで彼らは,8万人もの規律のとれない病人の捕虜と,同時に2万5千人の民間人の取り扱いという問題に,直面しなくてはならなかったのだ.

 命令は日本語で発せられ,たちどころに反応しないと,捕虜は殴られ,突き飛ばされ,銃剣で突かれ,あるいは撃たれた.
 行進の途中で休むことは許されず,排尿さえズボンを履いたまま歩きながらするしかなかった.疲労や失神で歩けなくなった捕虜は殺害された.
 バタアン周辺には,水が流れ出ている井戸が沢山あったが,日本軍は,私達捕虜に水を与えることについて,きちんとした決まりがなかった.水飲みを許す見張りもいたが,水を飲んだ者を殺害する見張りもいた.
 私達人間に対する同情心も気遣いもなく,葬儀もせず,――日本軍は私達を動物のように扱った.何もしていない捕虜が,単なる気まぐれで殺害されるケースも続発した.

 私達への扱いがどのようで,どれだけそれが続くか,もっと早くに知っていたら,最後の一人までバタアンで戦い,できるだけ多くの敵を道連れにしただろう.

(「バターン 遠い道のりの先に」梨の木舎,'03,P.80-97,抜粋要約)

 また,こちらも参照されたし ⇒http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~kg068502/kokuchi/2002oct/kouen.html

 (c2) ディモン・ゴーズ Damon Gause(フィリピンから辛くも逃れた陸軍パイロット)的回答

 日本兵は,捕虜を船で運ぶこともできたのに,市内を引き回すために捕虜を歩かせた.
 振り返るだけで暴行を受け,落伍した捕虜は溝に蹴り込まれた.
 彼らを助けようとしたフィリピン人は発砲され,追い払われた.

「彼らは1週間前にプエルトプリンセサの日本軍の収容所を脱走したばかりだった.〔略〕海兵隊員が質問に答えて,これまでどうやって過ごしてきたかを語ってくれた.

『5月6日の後,日本軍は我々を10日ほどコレヒドールに留め置きましてね,貨物船に屑鉄を積み込む作業をさせたんです.それから,我々を輸送船に押し込んで,湾の向こうのパラナケに運びました.
 そこで船から浜に下ろされたんですが,うだるような日でね,熱帯の太陽に炙られましたよ.
 それでも,奴らに押されたり小突かれたりして,なんとか縦隊の格好を作って,マニラに向かって歩き始めました.
 十何km歩いて,デューイ・ブールヴァードを通ってピリピッド監獄に着きました.
 次の5,6日はそこに置かれました.
 日本軍は我々を船で監獄まで運ぶこともできたんですが,そうしないで市内を引き回して大満足でしたよ.
 奴らは,マニラの市民が征服者と捕虜を拍手喝さいで迎えるだろうと思ってたんです.
 でも,私はルート沿いのどこでも歓声一つ聞きませんでした.いや,どちらかと言うと葬式の行列みたいでしたよ.
 日本軍の警備兵は,やたらに大声で命令したり,飢えて疲れて打ちのめされた捕虜をいたぶったりしました.自分達が支配者だということを見せつけようとしましてね.何十人もの捕虜が,熱病に罹っている者が殆どでしたが,列から落伍して,道端の溝に蹴り込まれました.後で拾い上げられたけれど,そのときはそのまま置き去りにされました.

 するとフィリピン人達が家から走り出てきて,苦しんでいる者に水や煙草や食べ物を与えようとしたんです.
 ところが日本兵は,そういうフィリピン人めがけて,少なくともその方向に発砲して,脅して追い払うんですから.
 捕虜は降り返って見ようとしただけでも,蹴られたり,ビンタを食らったりしました.喋ろうものなら,殺されかねなかったな.いや,日本兵はその気でしたよ.

 コレヒドールに残ったアメリカ人は,医者と看護婦と衛生兵だけでした.病院に収容されていた,何千人もの病人や怪我人の世話をしようとしてたんです.
 日本軍が島を占領した日,3人のアメリカ人と一人のフィリピン人看護婦が,一緒に海の中に入っていきました.私はそれを見ました.でも,そのときはよく考えてもみないで,安全なところへ泳いで逃げようとしているのだと決め込みました.
 実はそうじゃなくて,彼女達は溺れ死のうとしてたんですね.野蛮な日本兵の暴行に耐えるよりは,っていうんで』」

(D. Gause「敵中漂流 The War Journal of Major Damon "Rocky" Gause」 '00,P. 188-190)

 (d) 「世界戦争犯罪事典」(秦郁彦、佐瀬昌盛、常石敬一監修:文藝春秋社刊)的回答

 行進はやむを得ずの処置であり,それ自体には問題はない.
 捕虜への侮蔑から,日本兵が捕虜への暴行などを行ったのは事実であり,それに関して責任を問われるのは当然だが,連合軍側の同様ケースについては何ら処罰がされておらず,戦後の連合軍側の措置は,甚だしく不公平.

(事実関係)

 1941.12.22に本間中将の指揮する第十四軍(第十六、四八師団基幹)主力がルソン島のリンガエン湾と、ラモン湾に上陸し、首都マニラ近辺での会戦を予期して進撃したが、MacArthurはマニラ周辺での会戦を避けて、バターン半島に撤退。
 これにより、マニラは無欠占領されたが、米比軍撃滅は果たせず。
 以後は、残敵掃討作戦と見なし、第四八師団と第五飛行集団は南方の他戦場に転用。
 代わって、警備兵団として編成された第六五旅団を第十四軍に編入。

 第六五旅団はバターン半島攻撃を命じられ、1942.1.9に攻撃を開始したが頓挫。
 急遽、第十六師団を投じたが、これにも失敗。
 このため、陸軍は封鎖案を検討するも、米極東軍の健闘を賞賛する宣伝効果を封じるためにも,戦力を増強して本格対決することとし、第四師団基幹の諸部隊と重砲隊、航空部隊を増派。
 1942.4.3に総攻撃を開始し、4.9に米比軍は降伏する。

 ここで、第一の齟齬が生じている。
陸軍は、米比軍の戦力を4万〜4万5000と見積もっていたが、実際は、米兵1万、比律賓兵6万2000、更に民間人が2万6000も立てこもっていた。

 この10万近い大量の捕虜と住民を、作戦地域内、しかも食糧の少ないバターン半島には収容できないと判断し、捕虜はオドンネル収容所、住民は解放、或いはオラニ難民区へ収容することとした。
 捕虜輸送の総責任者は、第三野戦輸送司令官河根少将、現場責任者は、第六一兵站地区隊長の平野大佐。
 1942.4.10〜11に、捕虜はマリバレスとバガックを出発。
 バランガに集合した後、100〜200名のグループで、徒歩行進で50km先の南サンフェルナンドを目指す。
 途中のオラニで、米兵と比律賓兵に分けられ、サンフェルナンドからカパスまで40kmは列車輸送、カパスからオドンネル収容所までの13kmは徒歩で行進(※)している。

 ※Geneva捕虜条約第七条では、捕虜の徒歩移動は原則として、一日20km以内と規定。

 この徒歩行進、列車輸送に於いて、
 1. 長期密林生活に起因する栄養失調とマラリア、赤痢などによる衰弱。
 2. 炎天下の長距離徒歩行進による疲労
 3. 護送役の日本兵による虐待行為
などにより、米兵600名、比律賓兵1万人が移動中に死亡、収容所に於いても、米兵1600名、比律賓兵1万6000名以上死亡(※※)。

(※※)東京裁判での起訴状では、米兵1600名、比律賓兵1万名の死亡が認定。

  この多数の死亡の原因は、捕虜に対して日本軍が十分な食糧と休養、医薬品を与えず、炎天下に長距離を歩行させ、疾病、疲労のため行進に遅れる者には殴打、刺殺、銃殺、生埋めなどの残虐行為を加えたためであるとして、本間雅晴中将は、1946年4月3日銃殺刑(バターン他フィリピン各地で、日本軍将兵に残虐行為および重大犯罪を犯すことを許し、指揮官としての義務を怠ったという判決による),河根少将、平野大佐も死刑、オドンネル収容所長だった恒吉大尉は終身刑となった。

 この件が初めて世に知られたのは脱走捕虜がゲリラの手引きでフィリピンを脱出し、MacArthurに報告が行ったのが最初。
 彼はこれを日本軍の暴虐行為の証として発表しようとしたが、欧州戦線を重視する米政府によって、発表を差し止め、米政府は1942.12.23に、在スイス国特命全権公使を通じて、日本の外務大臣宛に書簡を送り、バターン捕虜の虐待と死亡について抗議した後、1944.2.5に同じくスイス公使を通じて、外務大臣宛に書簡を送り、捕虜虐待の具体例を挙げて抗議している。
 日本政府は、1944.4.24に外務大臣から在スイス国特命全権公使宛の書簡を送り、
 1. 投降捕虜が予想外に多く、
 2. その健康状態、食糧事情も悪く、
 3. 当時の戦況から徒歩による捕虜の移送はやむを得ない処置である。
 4. 捕虜虐待については、調査した範囲ではその事実が無かった。
と、回答している。

(事件の原因を考察)

1. 第14軍は作戦準備と砲撃戦の被害を避け、更に食糧が乏しくしかもマラリア発生地であるバターン半島内に多数の捕虜を留めておくのは不適切として、中部ルソンの収容所に捕虜を移送した
 捕虜条約の第七条では、捕虜の危険地域からの後送を命じている。
 つまり、この措置自体は正しい。

2. 米比軍の降伏が意外に早く、予想外に多数の捕虜が出たため、給養、衛生、輸送、収容施設などの準備が不十分であった。

  第14軍自体は、第一次バターン戦に失敗しており、これを攻略するために全力を挙げて第二次攻撃の準備を行なっていたため、捕虜の受入準備をする余裕がなく、しかもあれだけの抵抗をされたので、降伏まで一ヶ月は掛かるものとして判断していたので、その後、僅か一週間で降伏するとは夢にも思わなかった。
  しかも、その総数は先に述べた様に、当初予想4万人を遙かに超える7万人に達した。

  戦闘中の治安不安定、交通途絶などのため、食糧の集積と輸送が捗らず、日本軍自身の食糧も減量されていたため、必然的に捕虜の食糧も減量、特に肉類、野菜類といった副食物は不足したため、栄養が不足したのは確かである。
 また、給水も不足し、捕虜に苦痛を与えることになった。
 但し、行進中は炊き出しを実施し、護送の日本兵も捕虜と同じ食事をしている上、敵味方も同じ苦労をしている。

 次に衛生面であるが、日本軍の衛生部隊の編成・装備は貧弱で、医薬品、特に抗マラリア薬は少なく、日本軍自身にも多数のマラリア患者が発生し、捕虜患者まで行き渡らなかった。
 また、第4、第16師団の野戦病院と、第75、76、96、11、6の各兵站病院が開設されていたものの、いずれも日本兵で満杯であり、捕虜患者を収容する余裕がなかった。

 更に輸送面では、第3野戦輸送司令官の指揮下に独立自動車大隊三個、独立自動車中隊三個があったが、コレヒドール作戦の準備、第16師団の南部ルソン、第65旅団の北部ルソンへの転進に伴う軍需品輸送に使用され、捕虜輸送には200台のトラックしか回せなかった。

 3. 日本軍と米比軍の文化の違い。

 日本軍では移動手段として徒歩が当たり前であったが、米比軍は車輌移動が原則で、徒歩行進には不慣れ。

 4. 米比軍の健康状態

 米比軍自体が投降時既に栄養不良で、マラリア、赤痢などに罹病するなど、平均して健康状態が不良であった。
 特に、物資不足の状況下で、三ヶ月余りもバターン半島に立て籠った米比軍の作戦自体が拙劣なものであった。

5. 日本軍の捕虜に関する蔑視概念の存在

 「戦陣訓」が遍く浸透している日本兵が、恥じる様子もなく捕虜になった米比軍将兵に対し、侮蔑の感情を持つ事が、殴打などの暴行や残虐行為を行なった根本であり、意図的、組織的に行なわれたものではないにせよ、多くの死者が発生したのは事実である。

 んでね〜、更に蛇足の話だけど、連合軍でも同じ様な話があった訳で。
 これは、だ〜れも責任を問われていないんだな。

 1942年8月、日本軍はナウル島をオーシャン島を占領し、海軍第67警備隊として、前者に4000名、後者に500名の守備隊を置いた。
 1944年から連合軍の封鎖により衰弱死するものが増えたが、1945年初めまでは何とか現地栽培の南瓜、椰子の樹液で持ち堪えていた。

 1945年9月、豪州軍第一軍が両島を再占領することになり、ファウロ群島の常設収容所完成まで、ブーゲンビル島トロキナの仮収容所に捕虜を移送することにした。
 9月20日、ナウルからの日本兵約2000名はトロキナで下船し、仮収容所までの10mile(16km)を徒歩で移動、翌日には同じく、1250名が到着し、徒歩で移動。
 但し、彼らは栄養失調と赤痢などの疾病で弱っていた上、行軍に不慣れな者ばかりであり、その上、気温は摂氏35〜38度もあった。
 しかも、各列の後尾には、豪州の警備兵が付いていて、行軍速度を緩めることを許さず、水も殆ど与えられずにいた。
 このため、恐らく50名前後が熱射病で死亡しており、その上、護衛(!)の豪州兵に時計、万年筆を奪われたものも居た。
 例えば、河が流れているのを見つけた先頭集団が、「水だ!」と叫ぶと、豪州軍将校等は足で水をかき回して泥水にした上、銃で威嚇して一滴の水も飲ませなかった、とか。
 最後のナウルからの700名、オーシャン島からの513名は10月8日に到着。この組も、12名が死亡している(豪州警備隊第9大隊部隊日誌)。

 ちなみに、豪州軍第二軍団から発せられた命令は、第一隊の移送はトラックで行なう事になっていたが、翌日には歩行に変更され、第一隊の惨状があったにも関わらず、第二隊も同じ方式で行なわれた。

 更に、悲劇は続く。
 ナウル、オーシャン両島には、マラリア菌は無かったため、免疫力は無く、抗マラリア薬のアテブリン、キニーネ等の予防薬剤は携行していなかった。
 10月末に、常設収容所に移送された際、この地は既にマラリアが猖獗を極め、しかも、一緒に収容されたのがマラリアに感染していたが、免疫力を持っていた、ブーゲンビルの守備隊であり、ナウル、オーシャン両島守備隊の生残りは多数感染している。

で、だ。
 このマラリアが猖獗を極めた地で、さぞかし、連合軍の将兵は慈愛に満ちた懸命なる看護やら、抗マラリア薬を支給して、彼らを死の淵から救う…わきゃない。
 彼らはそれを持っていたにも関わらず、支給していない。ものが無かったからではなく、支給しなかった訳。
 その結果、豪州陸軍司令部医務局長の報告書に依れば、
「799名の日本軍捕虜たちは、医療班と共に1945年10月30日と31日に、マラリアのないナウルから、ファウロへと送り込まれた。トロキナの仮収容所に暫く居てからの移動であった。
 最初のマラリア患者は、11月8日に発生、殆ど全員が感染し、4週間で530名が発病。
 ファウロ移動から35日後の12月5日には、212件の死亡(死亡率26.5%)が確認されている。」
 この報告は4400名のうちの799名だけの数字で尚かつ、12月5日までの死亡報告であって、豪州軍第七大隊の部隊日誌には、12月9日までの一週間で164名の死亡、12月最終週でも46名が記録されている。
 ナウル守備隊で600名以上がこれによって死亡、オーシャン島守備隊は2ヶ月で78名が死亡している。

眠い人◆ikaJHtf2

 フランスの空挺部隊といえばディエン・ビエン・フーでの死闘がある。
 戦闘降下といった活躍はよく知られているが、結局は降伏してしまった。
 余談ながら、この戦闘で、重傷者は空輸が認められたものの、他の兵士は歩いて捕虜収容所まで行かされた。約8000人の捕虜は、この時に3000人ほどまで減ったという。まさにベトナム版の「死の行進」であった。
 いうまでもなく、モータニゼーションが進んでいないベトナムにトラックを裂く余力がなかったためだが、後の対アメリカのベトナム戦争で、北ベトナムが負けていたなら、この時の司令官”ホー・グエン・ザップ”将軍は太平洋戦争初期の「バターン死の行進」の責任者本間中将みたいに死刑になっていたかもしれない。
 「勝てば官軍」とはまさに名言であろう。

(from 「MAT49」 in 「福住兵器工廠」)

 (d2) 日本軍側現地指揮官的回答

 「バタアン死の行進」は,日本軍将兵の目にはどのように映ったであろうか.
 141連隊長,今井武夫大佐の話から伝えよう.

「私達は米比軍捕虜約6万人と前後しながら,同じ道を北方へ進んだのです.
 捕虜は数人の日本軍兵士に引率され,着の身着のままの軽装で,飯盒と炊事用具だけをぶら下げて,延々と続いていました.
 疲れれば道端に横たわり,争って木陰と水を求め,勝手に炊事を始めるなど,規律もなかったのですが,暢気と言えば暢気なものでした.
 それを横目で見ながら進んでいる我々は,背嚢を背に,小銃を肩にした20kgの完全装備で,隊伍を整えての行軍でした.
 正直言って,捕虜の自由な行動が羨ましかったぐらいでしたね.

 戦後,米軍から,これがバタアン死の行進と聞かされ,私も横浜軍事裁判所に連日召喚されて調べられました.初めは,米軍は他方面の行軍と間違えているのではないかと考えたほどで,このときの行軍を指したものだとは思ってもみなかったですね」

 142連隊副官,藤田相吉大尉の,「死の行進」についての感想もある.

「国道15号線は南サンフェルナンドからバタアン半島の東岸を,マニラ湾を包むように走る.舗装してないが,幅30mの道は,半島突端マリベレスまで延びている.
 この本道に出て,米比軍捕虜が黙々と北上する姿を見た.先頭も後尾も霞んで見えないほど夥しい数だ.
 彼らは腰に水筒を一つぶら下げているだけだが,いかにも憔悴している.
 道路上に大柄の米兵が,うつぶして倒れているのもある.
 どの顔も不遜なやけっぱちな面構えだ.
 彼等の護衛に任じる部隊は,我が吉沢支隊の第1大隊だ.出発に当たって兵団直轄となったのは,この任務のためであったのか.
 護衛兵は,およそ20mの距離で,兵2人を彼らの右側に配置している.護衛兵の先頭は第1中隊の斎藤一少尉だ.
 日米の兵は話ができないから,ただ黙々と進んでいく.

 後日,バタアン半島死の行進として悪名高く,本間軍司令官が銃殺刑に処せられた罪科の一つに挙げられたそれが,この米比軍捕虜の大移動だ.
 しかし,それは裁判の誤りである.
 米比軍がこの捕虜の移動を『死の行進』と言うならば,〔その戦闘においての〕戦勝国たる日本軍の移動は『超死の行進』だ.

 かくて捕虜の大行進は,中部ルソンのオードネルに向かう.
 いったい米比軍は持てる弾を撃ち尽くし,持てる食糧を食い尽くすまでは頑強に抵抗し,これが尽きれば平然として手を上げる.降伏すれば,その時から日本軍は我々を給養する義務があると嘯いている.
 虫のよい考えである.
 国際条約があったとしても,日本軍はかくも多数の捕虜がジャングルの中から出るとは予想もしていない.
 したがって,糧食や医療の材料も輸送の機関も収容所の準備もないのだ.なぜ糧秣の余裕のあるうちに降伏しないのか,と言いたい.

 コレヒドールの敵はまだ降伏していないではないか.
 しかも現に捕虜群と並列して進む日本軍の姿を見よ.重い装具をつけて,喘ぎながら進んでいるではないか.貴様らに散々撃たれ,肉体的にも精神的にも言語に絶する苦難に耐えた日本軍だ.できれば背負える背嚢も貴様らに負わせてやりたいぐらいだ.貴様らを軽装で行軍させるのが,むしろ慈悲だと思え,と言いたい.
 勝った軍が,負けた軍以上の苦しみを味わわねばならん理由はないのだ」

(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.262-264)

 (d3) 日本軍師団参謀長的回答

 当時の吉田茂登彦・第4師団参謀長は,次のように寄せた.

「第4師団は第2次バタアン攻略戦で主攻撃を担当,米比軍約7万をあたかも袋の鼠のように捕虜とした.
 しかし,その直後コレヒドール要塞攻略の新任務に就いたので,捕虜の処理には直接関与しなかったので,当時の実情は関与しなかったので,今,的確な判断を下すことは困難であるが,攻略直後実見した一般状況に基づき,一,二,考察を加えてみたい.

 第一に,捕虜の数があまり多数ぎて〔原文ママ〕給養力を著しく超過したことである.
 捕虜の数は約7万(うち米人は10%)であった.
 当時バタアン半島突端にあった我が兵力は,第4師団が大部分で,1万を多く出でなかった.
 それにも拘らず給養は甚だ粗悪不足勝で,これに関して師団と軍との間に物議を生じたことさえあった.
 この上7万という人数を給養することは不可能に近かったと思われる.

 第二の原因は,彼らが糧食を殆ど保有していなかったことである.
 戦場の後方地帯はまるで清掃したようで,我々の見た範囲では殆ど一物も残していなかった.彼らの多くは装備を放棄し,極言すれば水筒1本を腰にぶら下げているに過ぎなかった.
 これはコレヒドール要塞がさらに抗戦を続けることになっていたので,残った軍需品はできるだけ同要塞に運んだのではなかろうか.
 このような大軍が降伏後直ちに収容され,給養や医療が間髪を入れず実施されることは,如何に誠意と努力をもってしても困難であろう.

 第3の理由は,彼らの間に熱帯性マラリヤ,赤痢の流行があったことで,これが戦闘後引き続き行われた護送行軍の疲労で,さらに激発したのではないか.
 このことはリール河口付近に残置してあった野戦病院の患者中に多数この種の患者があったことと,戦闘終了直後,第4師団内に熱帯性マラリヤが爆発的に発生し,多数の犠牲者を出したことでも証明しうることである.

 以上3つの原因の内,第1と第3は不可抗力であり,第2は,捕虜となった以上あなた任せという彼ら一流の安易な考えから出たもので,これはむしろ彼らの側に責任があったのではないか.
 今次大戦中,欧州のような交通至便,物資豊富な戦場でおいてさえ,数万の捕虜が一度に捕獲された場合,水も与えられず1週間も放置された例もあったことを聞いている.
 したがって,この事件を全部,日本軍,特に本間将軍らの責任に帰したことは,余りにも酷にすぎ,誠にお気の毒に堪えないところである.

(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.64-65)

 (d4) 京都新聞社的回答

 バターン半島に現出した米比軍捕虜の大部隊に対して、日本軍の試みた護送方法をめぐって、米国は、その「非道さ」をラジオの電波に乗せ、全世界に向けて「死の行進」として宣伝し続けた。
 事実、多くの捕虜たちが炎天下の徒歩行進によって路上に倒れ、そのまま息絶えて行った。

 この捕虜移送の実態に関して比島派遣第十四軍参謀長和知鷹二少将は以下のごとく記述している。
「元来、バターン半島はマラリアのはびこる地帯であった。それだけに敵、味方ともマラリアにかかり、その他にもデング熱や赤痢に倒れる者もみられ、まったく疲れていた。バターンの捕虜は合計で八万人に近かった。彼らは一月から四月まで、ほぼ三ヵ月半もの間、バターンの山中にひそんでいたため、ほとんどがマラリア、その他の患者になっていた。その彼らを後方にさげねばならなかった。なぜならば、軍には、まだコレヒドール島攻略が残っていたからである」

「捕虜は、第一線から徒歩でサンフェルナンドへ送られた。護送する日本兵も一緒に歩いた。水筒ひとつの捕虜に比べて、日本兵は背嚢を背負い、銃をかついで歩いた。全行程六十数キロ余。捕虜たちは、それを四日、ないし五日間で歩いたのだから牛の歩くに似た行軍であった。疲れ切っていたからである。南国とはいえ、夜になると肌《はだ》寒くなる。日本兵は、たき火をして炊《た》き出しをし、彼らに食事を与え、それから自分らも食べた」

「できうるならばトラックで輸送すべきであったろう。しかし、貧弱な日本軍にそれだけのトラックのあるはずもなかった。次期作戦、すなわちコレヒドール攻略準備にもトラックは事欠く実情であった。決して彼らを虐待したのではない。むろん、道中でバタバタと彼らは倒れた。それは、しかし、マラリア患者が大部分だった。さらに、もうひとつ、付け加えれば、彼らはトラックに乗せられて移動することを常としており、徒歩行軍になれていなかった。つまり、機械化された軍隊と、そうでない軍隊との違いであった。」

「あわせて繰り返して言うが、決して彼らを虐待したのではない。
 もし、これを『死の行進』とするならば、同じく『死の行進』をした護送役の日本兵に、その労苦を聞くがよい」
との主張は、この間の事情を説明して、あまりある言葉といえよう。

 さらに、この一点については、大戦中に海軍担当記者として、かつ、戦後は著名な軍事評論家として知られた伊藤正徳氏が、その著書のなかに残した記述――
「彼らをそのままにしておけば、対岸のコレヒドール島要塞からの砲撃とマラリアによって、彼らは、そのほとんどが全滅したのであろう。その意味では『死の行進』ではなく、逆に『生への行進』であった」
との一文も、日本軍側からみたバターン半島の捕虜護送への評価として、真実を衝《つ》いた指摘でもあった。

 こうした護送作業のなかで、個々の日本兵は自らの発揮し得るぎりぎりの極限まで、敗者、すなわち投降兵たちへの救助の手をさしのべていた。
 第十六師団防疫給水部の一兵士、西田政一上等兵はいう。
「私の目の前にも、何百人の捕虜たちが行進していた。よく見ると、彼らの靴《くつ》は破れ、半分、はだしのような状態でノロノロと歩いていた。
 彼らの頭上からは炎熱の太陽が照りつけていた。
 彼らは口々に『ウォーテル、ウォーテル』と口走っていた。
 はじめのうちは、それが、なにをいっているのかわからなかったが『ウォーター』、すなわち水を求めているのだと思い、私は飯盒のふたに清水をくみ、彼らに飲ました。
 そのとき、真赤に陽《ひ》焼けした顔の米軍兵士が、涙を浮かべて『サンキュー』という言葉を繰り返していた」

 こうした日本兵の行為に泣いて感謝する米軍将兵のいた半面、彼らのなかには一部ではあったが、日本兵の用いる帯革をしめている者の姿もあった。帯革とは、日本軍の将校が用いていた革バンドの一種であり、それをつけている投降兵のいたことは、彼らが三ヵ月余の密林戦のなかで、射殺した日本兵の死体からこれを略奪し、着用していることを物語っていた。
 無神経というべきなのか、平気で日本兵の遺品をつけた一部の米軍将兵が、戦友の死を悼《いた》む日本軍の護送隊兵士によって、銃床で殴《なぐ》りつけられたのも事実であった。すでに戦いは終わっており、もはや銃火を交えることのない彼我両軍の間ではあったが、それでもなお、勝者と敗者の間には、百余日にわたった過酷な戦闘による憎しみが噴き出す光景が尾を引いたのであった。

 この間にも、米国側では、バターン半島における米比軍捕虜の処遇は「明らかに、組織的計画による虐殺行為である」との宣伝を繰り返し伝えていた。比島派遣第十四軍にとっての不幸は、この米国側の宣伝がまったくの偽りであり、終始、捕虜への待遇は完全であった――と反論できなかった一点にあった。

 それどころか、当時は秘匿されたまま、表面には出なかった命令の一部に「投降した米比軍捕虜は、これを射殺せよ」との指示が流されていた事実が明らかにされたことであった。このことは、戦後に刊行された児島襄著「太平洋戦争」(上巻)の「バターン半島攻略戦」に簡略ではあるが触れられている。
 彼の記述によると――
「バターン戦をいろどる不快事は、一部参謀の越権行為であった。今井大佐(歩兵第百四十一連隊長)の記録によれば、四月九日午前十一時ごろ、バターンの米比軍降伏に喜んでいると、第六十五旅団司令部から電話で、米比軍の投降兵を射殺せよ、という命令を伝えてきた。大本営命令だ、という。
 今井大佐は、ことは重大なので書面による命令を要求したが、のちに知ったところによると、これは辻政信中佐(大本営参謀)が各部隊にふれまわったもので、本間中将(比島派遣第十四軍司令官)は全然、知らなかった。
 今井大佐と同じく慎重に考慮して、この命令の真偽を確かめた部隊もあったが、なかには、異議に及ばず、捕虜を殺害した部隊もあった」
 彼はそのように記している。

 もしも、この命令が正式の軍命令として全軍に伝達されていた場合は、バターン半島においては銃火の止んだ直後から、史上、まれにみる大虐殺の光景が現出されたものと予想される。
 しかし、その命令の内容が、あまりにも残虐な行為であったため、ことの真偽は事前に発覚し、七万余の投降兵の集団大虐殺という、史上、その例をみない惨劇は未然に防がれたのであった。

 こうした秘匿事例をも織り込んだなかで、バターン半島の投降米比軍の列は最終行進地点のオドンネルに到達した。
 これらの捕虜に対して、比島派遣第十四軍参謀長和知鷹二少将は
「オドンネル捕虜収容所にたどりついてから、気がゆるんだのか、そこで息を引きとった捕虜が多かった。
 私は、この情報に接し、心から気の毒に思った。
 そして、本間軍司令官の代理としてオドンネル収容所にかけつけ、無名戦士の墓に花輪を捧げ、日本軍としてのせめてもの供養をした」
と回想記を残している。

(京都新聞社編著、久津間保治執筆「防人の詩 : 悲運の京都兵団証言録」,
京都新聞社,1976, p.373-380)

 (d5) 本間雅晴将軍本人の回答

 私は『死の行進』というような言葉は終戦まで全然知らなかったのです.
 当時我が軍は,糧秣,武器,弾薬,医療器具,薬品,救急車等におきまして,殆ど絶望に近いまでに欠乏いたしておりました.
 私が司令官としてとりました態度は,我が軍の従来の慣習と貧困という事実に鑑み,我が軍と同様に取り扱ったのであります.
 部下が独断で刺殺,惨殺,掠奪したという事実は,私には報告がなかったので終戦まで知らなかったのです.
 私は早く申しますなれば,形を整えるだけのロボット司令官に過ぎませんでした.第14方面軍司令部は東京にあったわけです.

 浄土宗正覚寺住職,森田正覚※によれば,本間は死刑執行前,米軍大尉とのやり取りの中で,次のように述べたという.

「私は『死の行進』というような言葉は終戦まで全然知らなかったのです.それほど私は迂闊だったのです.司令官としてね.
 バタアン,コレヒドールの帰国の俘虜をサンフェルナンドまで歩行させたことを,あなた方は『死の行進』と言っているのです.

 当時の日本の軍隊は,甚だ遺憾なことではありますが,充分に貴国のように機械化されておらず,また,日本歩兵の本分はあくまで歩行するということにあったのです.
 大陸の戦闘におきましても,敵の施設を利用する以外はみな歩いていたのです.
 快速部隊というような勇ましい表現が新聞や雑誌等に用いられ,国民の血を沸かしていましたが,これも種を明かせば,1時間5キロか6キロほどの速力で走っていたに過ぎません.全く原始的な快速部隊でありました.

 当時,日本軍はバタアン・コレヒドール作戦で勝ったとはいうものの,辛うじて勝ったというに過ぎませんでした.あの戦闘があんなに長引いたのも,全くお話にならなかったほど装備が劣悪であったからであります.
 しかし,日本軍は何の不平も不満も抱くことなく,徒歩で炎天下をサンフェルナンドに向かって進撃いたしました.
 日本軍だって自動車が豊富にあれば乗りたかったでしょうし,また,乗せてもやりたかったのです.
 しかし,今申しました通りで,仕方がありませんでした.
 そこで日本の例に倣い,俘虜諸君にも歩いてもらいました.

 起訴状によりますと,
『米国兵1万5百名,比島兵74800名の俘虜全員は,交通機関が利用できるにも関わらず,バタアンからサンフェルナンドまで60キロから120キロを強制的に行進させられた.
 これら米比人を烈日の照りつける中を行進させた事は,野蛮極まる拷問≠ナある』
と言われていますが,当たらざること甚だしいのであります.
 なるほど日頃歩き慣れない俘虜諸君にとって,炎天下の行進は定めし苦しかったであろうということは,じゅうぶん察しがつくのでありますが,野蛮極まる拷問≠ニ言われたり,バタアンの死の行進≠ニ言われるほど大袈裟なものではなかったはずです.

 私はこの裁判に対して,私の偏見かもしれませんが,貴国の裁判官は最後まで,勝ち誇った勝利者の側に立って,何の斟酌も加えることなく裁かれたとしか受け取れません.
 私は裁判官たるものは,公正な裁判を行うためには,ある程度敗者の立場にも立って慎重に考えるべきであったと思います.
 あなた方米国人は,その当時の我が軍の真状及び我が軍の慣習というものを良く知っておられず,あなた方の規範をそのまま我が軍に当て嵌めて事を断じられたのであります.

 当時我が軍は,糧秣,武器,弾薬,医療器具,薬品,救急車等におきまして,殆ど絶望に近いまでに欠乏いたしておりました.
 我が軍が勝利を得たとはいうものの,満身創痍の辛勝で,立ち直ることさえ危ぶまれていたくらいです.
 もし新手の敵の援軍が現れていたならば,見るも哀れな惨状を呈したことでありましょう.
 こんなことを申しますとお恥ずかしい次第ですが,その当時,我が軍自体にさえ食わせる糧秣はなく,負傷者を処置する色々な医療器械は不足し,患者に与える薬品にも事欠く不自由を忍んでいました.
 勝利者たるわが軍でさえ,まさに内部的崩壊の危機に晒されていたというそんな悲惨な時も時,我が軍門に降り,我が軍に保護を求めてきた8万5千の俘虜諸君をいったいどうすることができたでしょう.

 私達は乏しいながらも最善を尽くしました.起訴状にあるように,故意に患者に対して衣服,食料,薬品を与えず,餓死せしめたというようなことは曲解も甚だしいと言わざるを得ません.

 さらに不幸なことには,当時の我が第14方面軍におきましては,健康体の者,僅かに全体の約2割に過ぎず,約5万の患者がいました.その大部分はマラリヤに冒され,赤痢にかかっていました.
 その他の者は食糧――わけても主食の欠乏による脚気にかかっていました.
 健康体の者と言えども,極度の栄養失調により,物の役に立つ者は数えるほどしかいませんでした.
 このような状態にあって俘虜諸君の要求に応ずるということは,極めて至難なことでありました.察して頂きたいと思います.

 もちろん,私は降伏した米軍に何ら特別の措置はとらず,部下に一任していた事は事実です.
 部下が独断で刺殺,惨殺,掠奪したという事実は,私には報告がなかったので終戦まで知らなかったのです.
 責任回避などしようと思いませんが,また常軌を逸した兵があったという事を否定する理由は持っていませんが,1万2百名の米人,1万6千人の比人が死亡,または行方不明になったということは,どうしても信ずる事はできません.
 私が意識的に俘虜虐待をやったと思われていますけれども,決してそういう卑劣な行為はしていないのであります.それほど私は冷酷な,非人間的な男ではありません.
 俘虜の待遇を部下に一任し,一部兇暴な部下が俘虜諸君を侮辱し,殺害した事はもちろん私の責任であります.衷心よりお詫び申し上げます.

 私が司令官としてとりました態度は,我が軍の従来の慣習と貧困という事実に鑑み,我が軍と同様に取り扱ったのであります.
 もし我が軍に諸事万端充分な設備が整っていましたならば,こんな結果にはならなかったでしょう.
 決して故意にやったわけではないということを認識してください.

 昨年,私に逮捕状が出たとき,私は郷里佐渡に参っていまして,ラジオ放送を聞きませんでした.
 その翌朝,港で新潟県知事差し回しの自動車の中で初めて私の罪状を知って,私自身驚いたくらいです.
 死の行進(デス・マーチ)≠ネんて,いったい誰がつけたのでしょう.

 非武装宣言後のマニラ攻撃も私の部下がやったのではなく,台湾を基地とする海軍機によってなされたものであり,その他一切のアトロシテー(残虐行為)は,教養低い兵隊が自らの獣欲を満たさんがため遂行したものであったと思います.
 私はアトロシテーを承認もしなかったし,命令も下していません.
 そして,かかる行為を厳禁し,防止するあらゆる手段を講じていました.
 我が軍隊の質が低下していた事は事実です.
 これらの事実は数千万言を費やして謝罪いたしましてもお許し頂く事はできないと思います.

 この大きな原因の一つは,私の不徳は申すまでもありませんが,軍の幕僚,高級将校が私を無視して,独断専行したからであります.
 私の軍の首脳部は,私の意思によって決定されたものではなく,大本営が勝手に選んで付けたものでありました.私には自分の幕僚の任免権さえなかったのであります.
 私は上からも下からも信頼されない司令官でありました.私は早く申しますなれば,司令官のない軍団などというものはありませんから,形を整えるだけのロボット司令官に過ぎませんでした.陸軍部内において軟弱なる親英米派として耐えず白眼視されていた私は,部下にさえ裏切られたのです.
 彼らは私の命令に従わず,大本営の直接命令によって動いていたのであります.第14方面軍司令部は東京にあったわけです.

 己の欲せざる戦争に,好ましからざる幕僚を率いて遠く外地の戦場に赴かねばならなかった私は,無念でありました.
 自分の意思によって闘う事が許されないというような哀れな司令官がかつてあったでしょうか」

 ※明治40年2月9日生.日中戦争に一兵士として応召された後,昭和19年5月,再応召されてフィリピンに出征.終戦と共に,マニラ郊外の日本人俘虜収容所に入る.
 昭和21年3月,米軍命令により,比島戦犯関係の教誨師兼通訳となる.
 昭和21年12月末,復員.
 昭和48年8月11日,病没.

(森田正覚著,佐藤喜徳編「ロスバニオス刑場の流星群」,
芙蓉書房,1981/9/25, p.203-208)

 (e) ハンプトン・サイズ Hampton Sides 的回答

 全く責任がないとは言えない.
 この悲劇は.過誤,知識不足,文化間に生じた誤解,うだるような暑さ,そして帝国陸軍の規律の乱れが混ざり合って生じたものだった.
 バターン司令官のキング将軍は捕虜移送用に多数の車両を用意したが,日本軍はそれを拒み,それらは大砲輸送に用いられた.
 捕虜輸送計画には欠陥があったが,そうと判明してからも,それが修正されることはなかった.
 混乱の中,日本兵による暴力が蔓延した.文化的な様々な誤解が,それを生む引き金となった.
 それにまた,日本軍も食糧・医療事情が悪かった.

 日本軍と交渉すべく北に向かっていたキング将軍は,さらに一つ難問を抱えていた.部下の大部分は衰弱し,日本軍がどこへ連れて行くとしても,徒歩では歩けそうにない.キングが書き残したように,
『飲まず食わずで包囲され続けた部下の体調では,長距離を歩くのはまず無理だろう』
 キングはそれを見越して,日本軍が捕虜を北に輸送する場合に備え,かなりの数のアメリカ軍車両と十分なガソリンを用意しておいた.敗軍の将が部下を輸送して欲しいと勝者に申し出るのは前代未聞のことだったが,キングは何としても本間将軍に提案を受け入れてもらいたかった.日本軍に,そんな大仕事を成し遂げるだけの車両があるとは思えなかったのだ――もしあれば,日本軍はとうにそれを利用していたに違いない.
 〔略〕
 〔略〕日本軍防衛線を超えた彼らを,一人の日本兵がラマオ近くの農家へ丁重に案内した.〔略〕 ほどなく,黒いキャデラックが農家の前に止まり,本間将軍の高級参謀である,背の低い,顰め面の中山源夫大佐が現れた.バランガにいる本間は,キングをウェーンライト将軍の代理人としか見ておらず,階級が下の者とは交渉できないと言って,会談への出席を拒否したのだ.
 中山は,キング将軍とウェーンライト将軍との関係に面食らい,キングの降伏がどういうものかを量りかねた.バターンとコレヒドールとは切り離して考えてほしいというキングの言い分が,よく理解できなかった.例え地理的に離れていても,一つの軍隊の中には2つの指揮系統は存在しないというのが,日本軍の考え方だったのだ.
 とにかくウェーンライトが来るまでは,本間将軍はいかなる降伏の話し合いにも応じないと中山は言った.キングは中山をどうにか説得し,非公式ながらも停戦の約束を取りつけた.
 さらにキングは,部下の体調を説明し,アメリカ軍兵士とフィリピン軍兵士をジュネーブ協定に基づいて扱うことを強く望んだ.また,日本軍の監視下でアメリカ軍のトラックを使い,捕虜を本間の望む所へ運びたいと申し出た.
 中山は,それらの申し出をきっぱりと断り
,キングからのどんな条件も申し出も,本間は聞き入れないだろうと断言した――ウェーンライトが席上に現れるまでは.
 キングが,部下の身の安全を重ねて要求すると,中山はそれをぶっきらぼうに遮り,
『大日本帝国陸軍は野蛮人ではない』
と言った.
 キングは己の無力を悟った.会談の最中にも,日本軍の砲弾の音が聞こえた.無意味な交渉を引き延ばしている間にも,部下が次々と死んでいく.無条件降伏以外,道はない.
 彼は,剣の代わりに45口径のピストルを取りだし,机の上に置いた.12時30分.
 バターンは陥落した.エドワード・キング将軍は帝国陸軍の手に落ちたのだ.

 〔略〕
 しかし概して,少なくとも最初の内は,警護兵はそれほど残酷ではなかった.
 それどころか殆どの兵士は,見事な礼儀正しさと自制心を備えていた.
 バターンでの戦闘は,彼らにしても楽ではなかったのだ.日本兵もまた衰弱し,病気にかかり,飢えていた.その大部分は,日本の霧深い稲田と棚田から送り出されてきたばかりの17,8歳の少年兵だった.皆怯えているようだった.銃は持っていても,悪意に満ちた敵に包囲されているのだ※2.〔略〕
 〔略〕
 遅々として進まない捕虜の歩みに,日本兵は怒りを覚えつつあった.さらに甲高い大きな声で檄を飛ばし,より頻繁に鋼の剣をちらつかせて命令するようになった.
 〔略〕
 戦車と兵員輸送用トラックが,群集を掻き分けて進んで行く.多くの日本兵は通り掛かりに,トラックの上で笑みを浮かべてアメリカ兵に手を振ったが,中には名前が分からないのをいいことに手を伸ばして,無警戒の捕虜の頭を竹棒で叩いたり,いきなり銃床で殴る者もいた.
『彼らに何をされるか分からなかった』とエイブラハム.『我々の無事を祈ってくれる兵士もいたが,復讐だけを望んでいる兵士もいた』
 カブカーベン,ラマオ,そしてリマイの村村を行進している間に,底知れぬ混乱はさらに激しさを増した.軍律はたちどころに崩れていった.公式の命令・訓示も,いかなる類のものであれ,歩兵までは上手く伝わらなかった.復讐心が熱病の如く路上に蔓延した.4ヵ月近く戦ってきた敵に面と向かい合い,日本兵は勝者特有の軽蔑心に燃えた.彼らはこれほど長く持ち堪えたアメリカ人を憎み(東京は,数ヶ月前にバターンが落ちることを期待していた),これほどあっさり降伏したアメリカ兵を憎んだ(武士道において,降伏は真の兵士の尊厳に背くものなのだ).
 今や捕虜は数マイルに渡って散らばり,それぞれの警護兵が自分の思い通りにできること,つまり,この状況では全能の神であることを承知していた.
 〔具体的残虐行為は引用元の本を参照されたし〕
 だが,その残酷さにも関わらず,それは行進の最初から意図されたものではなかった.蛮行は概ね,混乱※3と人種間の憎しみが深まりゆく中で,少しずつ増えていった.過誤,知識不足,文化間に生じた誤解,うだるような暑さ,そして帝国陸軍の規律の乱れが混ざり合い,悲劇の下地を作り上げたのだ.後にアメリカのメディアが『バターン死の行進』と名づけた事件(当時の捕虜は,それを合えて控え目に『ハイキング』と呼んだ)は,当初から企てられたのではなく,致命的欠陥を持つ計画から生まれた混沌がもたらしたものだった.
 最初の避難計画が現状からかけ離れていたにも関わらず,日本軍は新たな事実を考慮に入れようとはしなかった.信じられないことに,捕虜の数は当初の計算より六万人も多く,フィリピン・アメリカ軍兵士の健康状態と体力も予想外に落ちていた.
 これを踏まえ,日本軍は直ちに兵站作業を見直すべきだった.車両,食糧,病院を増やし,そして何よりも,移動時間がもっと必要だった.
 しかし日本軍は,それが十分可能だったにも関わらず,ミスが見つかっても計画を変えようとはしなかった.命令は最終的なもので,それに口を挟むことは,命令を下した士官の知性を侮辱するものだという儒教文化に深く染まった日本軍参謀は,戦闘時の大胆さに比べ,咄嗟の判断力に欠けていた.本間将軍にバターンの抜き差しならない状況を伝える代わりに,参謀達は最初の支給量と時刻表に拘り続けたのである.後には破滅が待ち構えているだけだった.
 アメリカ軍車両を使って捕虜を収容所へ運ぶというキング将軍の提案を,日本軍は断じて受け入れようとしなかった.また,降伏前日,使えるものは全て壊さねばならないと誤解したアメリカ兵によって完全に破壊されたトラックも多かった.
 結局,アメリカ軍車両の殆どは軍事用に没収され,バターン南部に日本軍の大砲を輸送するのに使用された.実のところ,日本軍は余り機械化されておらず,兵士の大部分を歩兵が占めていた.それは自ら望んだことでもあり,必要に迫られてのことでもあった.というのも,日本は圧倒的に石油が不足しており,国外からも殆ど手に入らなかったからだ.〔略〕
 だからアメリカ軍よりも,遥かに行進訓練を重視した.安い豊富なガソリンに恵まれ,車両に大きく依存していたアメリカ軍の兵士よりも,日本兵は長距離を早く,しかも休まずに歩くことができた.2つの軍隊のこの大きな違いが,適切な行進距離という概念に深い亀裂をもたらした.日本軍は,例え飢えて病に苦しむフィリピン・アメリカ軍の兵士達であれ,帝国陸軍の行進に着いて来られるものと思っていたーーここにもまた,悲劇の芽があったのだ.
 日本軍と捕虜との遭遇に大きく影響した文化的相違は,他にもあった.2つの軍隊は,体罰に関して全く異なる立場をとっていた.ビンタは長い間,日本軍の規律を守るための常套手段だった――一切の疑問を許さず,何の説明もないまま,上官は部下を殴った.僅かな階級の違いが致命的だった.誰が殴り,誰が殴られるかということが,それで決まったのだ.
 この組織化された暴力によって抑圧されてきた兵士が,急に異国の,しかも無力な捕虜を監督するという,総悪くもない立場に就いたとき,何が起きるかは明白だった.ある者にとって,殴りたいという誘惑は耐え難いものだった.そしてまたある者にとって,殴ることは始まりに過ぎなかった.

 帝国陸軍兵の大多数が飢えに苦しみ,捕虜の体を蝕んでいたのと同じ病気に蝕まれていたのも事実だった.アメリカ兵ほどではないにしても,多くの日本兵が憔悴と,戦闘による疲労の色を滲ませていた.
『我々は皆飢えていた』と,帝国陸軍第14軍兵としてバターンで戦ったサナダシロウは振り返る.『干魚のペーストと漬物,食べるものはそれだけだった.アメリカ兵が持っていたような缶詰は,我々にとって贅沢品だった.日本兵よりも明らかに食事に恵まれているアメリカ兵もいた』
 公の方針として,帝国陸軍は自軍兵士の食事を極端に切り詰めた.補給係将校は味噌と米という基本食料品だけを僅かに与え,足りないカロリーは徴発したり盗んだりして補わせた.このように,アメリカ兵捕虜から携帯食料や水筒を奪っていたのは,単に弱者をいたぶっていたわけではなかったのだ――それは実際に,帝国陸軍の命令だった.
 そして,既に痩せ衰えていたアメリカ兵達は,さらに貧しい食糧で生き延びねばならなかった.自軍の兵士さえまともに食べさせられない軍隊が,どうして7万8千人もの捕虜に十分な食糧を与えられただろうか?

 〔略〕

 日本軍警護兵は気まぐれで,行動が予測できなかった.一人一人が様々な苛立ちを抱え,別々の基準に従い,程度の異なる奴隷制を捕虜に要求した.ある兵士を激怒させた行動が,別の兵士には気付かれなかった.朝には厳しく罰せられた行為が,午後には無気味な笑みと共に迎えられた.暴力はでたらめに飛んで来た.
 しかし,全てがでたらめというわけではなかった.次第に2,3の傾向が明らかになってきた.
 一つは捕虜の背丈に関することだ.大男に体罰が集まり出したのだ.〔略〕そんな見方が捕虜の間では広まっていた.
 殆どの警護兵は,これまで西洋人を見たことがなく,最も背の高い捕虜を殴りつけることで,優越感に浸っていた.少なくとも,大柄な者は群衆の中で目立ち,警護兵の怒りの的になりやすかった.
 〔略〕アメリカ兵捕虜は所持品を念入りに確かめ,どんなに小さくとも"Made in Japan"の文字が入っているものは捨てる必要があった.警護兵は一も二もなく,これらの品々を日本兵の死体から奪ったものだと考えるのだ.〔略〕戦利品と,例えばアメリカ兵が戦前,マニラのデパートで買い求めた日本製の手鏡などと一緒くたにした.大日本製造という印の入った品物を持っていただけで,多くのアメリカ兵が処罰され,殺される者もいた.
 行進はオリオンからピラー,アブカイへと進み,ようやくバターン州を抜けた.曲がりくねった道路の先々で,フィリピン人が様々な形で同情を示してくれた.〔略〕 これらのプレゼントを黙認する日本兵もいたが,大抵それは許されなかった.そんなふうに堂々とアメリカ軍に行為を示すフィリピン人に腹を立て,殺そうとした警護兵もいた.

 〔略〕

 パンパンガ州にある砂糖黍圧搾機の町サンフェルナンドで,捕虜達は列車の駅に連行され,狭軌の線路沿いに,百人ずつのグループに集められた.有蓋貨車は丸一日太陽に焼かれ,光沢のある車体から,どんよりした熱波が立ち昇っている.
 警護兵は車両の扉を開け,銃剣を振って捕虜達に入るよう合図した.〔略〕
 日本兵は押し,突つき,次から次へと捕虜を詰め込んでいった.そしてもはや限界と見るや,さらに捕虜を10人ばかり連れてきて,銃尻を使って無理矢理押し入れた.〔略〕 車内の温度は華氏120度かそれ以上.〔略〕 気絶しても倒れるスペースすらなかった.〔略〕
 数時間後にようやく列車が止まり,扉が軋みつつ開いた.〔略〕12人ほどの捕虜が,二度と出てくることはなかった.汚物の中で大の字になり,呼吸は既に止まっていた.
 〔略〕
 日本兵はエイブラハムのグループを駅のそばの空き地に連れて行き,1時間以上炎天下に曝し続けた.アメリカ兵はこの拷問を『太陽責め』と呼んだ.エイブラハムの警護兵は日陰を探そうともしなかった.列車に揺られ,弱り果てていた捕虜にとって,この灼熱の太陽は止めの一撃だった.暑さにやられ,バタバタと捕虜が倒れていった.
 ようやくまた整列して西へ歩いた.行進はまだ終わっていなかった.〔略〕 道路脇に水の入った容器が置いてあったが,捕虜が口をつける前に,決まって日本兵がそれを蹴り倒した.
 数時間後,一行はなだらかな丘の上に辿り着いた.埃っぽい熱気の中,貧弱な有刺鉄線に囲まれた,600エーカーもの宿営地が目の前にあった.〔略〕
 オードネル収容所は,アメリカ兵の長い旅路の中で,別の地獄へ行くまでの間収容される,一時的な拘置所だった.捕虜は大抵50日ほどしかそこにいなかった.
 それでもオードネルは大多数の捕虜にとって,最も恐ろしい戦争体験となった.
 〔後略〕

『ゴースト・ソルジャーズ』(光文社,2003.3)

 ※この優越感に関し,火野葦平は次のように描写している.

捕虜百人か2百人かに1人の割合で,日本兵がつき添つてゐるのだが,彼の顏はくすぐつたさうな當惑に滿たされてゐる.勝利の快感が彼を滿足させてゐるにちがゐないが,彼は,今度こそはお目にかかると思つたアメリカ兵が,あまりにも莫大の數で,自分がその洪水の中に流されてゐる木片ででもあるやうなのが,なんとなく照れくさいのである.
 彼は米兵の肩くらゐまでしかない.おまけに,陽に灼け,軍服も帽子も埃と汗でぼろぼろ,軍靴も口をあけてぱくついてゐる.すこしも汚れてゐない米兵の垢拔けした服裝の中にまじると,まるで,乞食だ.
 しかし,彼は今や勝利者として絶對の權力を持つてゐる.巨大漢の群集は矮小な日本兵の自由になる.
 危險な優越感がかういふときに人間を歪めるのである.
 戰爭の中には正義も人道もありはしない.ただ強弱と勝敗があるだけだ.
 それは絶對のものであつて,戰場のデカダニズムの最大の要素となる.
「おい,歩け歩け」
といふとき,1等兵は將軍のやうな氣持だ.

(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.49)

 ※2 この怯えについては,宣伝班員として従軍した尾崎士郎も,次のように記している.

 銃を肩にした監視兵が,2〜3百人の俘虜に対して1人くらいの割合でついてくるが,俘虜はみんな黙々として歩きながら隊列を乱すまいと努力しているらしい.
 これが,昨日まで最後の勝利を信じて戦っていた男たちだとはどうしても思えなかった.
 一瞬の変化の中に彼らは希望を失い,全ての過去の思い出から絶縁して,ただ,肉体の動いていく方向に向かって,生きているという事実だけを頼りに歩いているのである.
 アメリカ兵達はみんな年も若く,健康で,まだ十分戦えそうな恰好をしている.彼らは何故戦わなかったのであろうか.
 私は彼らの中に身を置いて考えなければいられないほど不甲斐なさを感じた.

 リマイ〔地名〕の手前で自動車を降りると,私達はたちまち俘虜の渦の中に巻き込まれた.若い「同盟」の記者が急に真顔になって私を振り返った.
「尾崎さん,武器を持っているのはあなただけですよ.こいつ達が暴れ出したら,あなたの軍刀だけが頼りですからね」
 この冗談を軽く受け流しながら,しかし,かすかな不安は誰の心にもこびりついていた.
 西海岸の一角と,オリオン山の側面では,まだ敵の残留部隊が抵抗を続けているのだ.砲声は途切れ途切れに響いてくる.
 まったく,考えようによっては,平気でこんなところを歩いているのが不思議なくらいである.

「戦記 バタアン半島」,圭文館,1962/12/30,P.133-134)

 ※3 日本兵がどのように混乱していたかは,火野葦平の次の一文に窺える.

 マリベレスの町に入ると,なほも捕虜の大群がうごめいてゐた.
 私はもう彼等を見ることに,一種の嫌悪感をおぼえた.倦怠感であつたかも知れない.
 後から後から引きも切らぬ敵兵に,兵隊も辟易したらしい.捕虜の方はどうすればよいかわからぬので,指示を仰ぐために,日本兵を見つけると近づく.すると,兵隊は,困つたやうな怒つたやうな顔で,
「もう知らんわ.お前たち,勝手にせえ」
と叫んで,逃げだして行つた.彼もどうしたらよいのか知らないのである.

(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.51-52)

 (z) 当サイトによる文献調査において,なお不明な点

 以上の幾つかに,「捕虜が予想外に多かった」ことが,悲劇を招いた一因として上げられているが,実はそうでなかったことを示すような記述もある.
 以下引用.

「〔第1次バタアン戦失敗後,〕第14軍司令部では1942/2/10,大本営に次のような報告を行い,指示を仰いだ.
『敵はオリオン付近よりサマット山北麓を経てバガック付近に渡る線を第一線とし,大密林地帯において多大の日数と労力を費やし,縦深ある築城地帯を構成し,各般の施設を完備している.
 そして,その前線に比島国防軍6,7個師団を置き〔強調,引用者〕,その後方に米軍部隊を配置し,その砲は約百門を算し(相当数の15cm級加農砲を含む),その豊富な弾薬と観測施設とを利用し,要所に対し,的確な標定をもって昼夜を分たず砲撃を実施し,我が第一線及び後方部隊の行動を著しく妨害しつつあり』
〔以下略〕」

(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.53-54,抜粋要約)

 また,第1次バタアン戦前から,「米軍は3個師団が損害を蒙っていない」と日本軍が観察している(佐藤徳太郎・第14軍参謀の記述参照).
 この第14軍司令部報告書では比島国防軍と,米軍部隊とを区別して勘定しているようであるから,これを合算すると,9〜10個師団がいると見ていたことになる.
 仮に,「比島国防軍6〜7個師団」の中にこの米軍3個師団が含まれているとしても,他に砲兵や後方支援部隊もいるわけだから,少なめに見積もっても約10万にはなる.そのように第14軍司令部では見ていたことになる.

 敗北とは大雑把に言って,戦闘で兵力の3割が失われたときであるから,これが仮に全部戦死だとしても,7万人の捕虜が出る計算になる.
 「フィリピン・アメリカ軍の投降兵をせいぜい2万5千人程度と見ていた」なんてことにはならない,と愚考するが……???

 この点について,どんなささやかな手がかりでもかまわないので,どなたかご教示いただければ幸いである.


 【質問】
 当初の予定では,バタアン半島の捕虜移送の段取りはどのようなものだったのか?

 【回答】
 ジョン・トーランド著「But Not In Shame」によれば,次のようなものだったという.

「捕虜達を,マリベレスから約40km離れたバランガで集合させる.
 バランガまでは徒歩を基本とする.
 それぞれのバランガまでの距離は,次の通り.
・バガック周辺にいる米比軍第91師団は24km
・バタアン半島中央部にいる米比軍第11師団は約1km
・オリオン辺りにいる米比軍第31師団は約8km
である.
 マリベレス周辺にいる米比軍第57師団が一番長く歩かなければならないが,捕虜達にとってそれほど困難な距離でもない.

 その間,食糧は与えなくても,それぞれの割り当てで賄える.

 バランガからサン・フェルナンドまでは,トラック200台を何度も往復させる.
 サン・フェルナンドからは列車でカパスまで行き,そこから収容所までは12kmあまりなので徒歩行進させる.

 食事は,日本軍が食べている物と同じ物を,バランガ,オラーニ,ルバオ,サン・フェルナンドで与える.

 病人や負傷者は,約1000人を収容できるバランガとサン・フェルナンドの病院に入れる.
 また,応急救護所や休憩所は,状況が許す限り快適なものを,道路沿いに設置する」

 ハンプトン・サイズ『ゴースト・ソルジャーズ』(光文社,'03年)には,この計画が立てられるまでの経緯が述べられている.
 それによれば,以下のようなものだったという.

 〔略〕 南のバターンに部隊を進軍させるには,投降したアメリカ兵とフィリピン兵を動かさなければならない.その大半は歩くことができず,人間の瓦礫のように砲火線上の障害物となっている.彼らが集められた半島の南西端こそが,コレヒドール攻撃に最適の場所だった.
 常に慎重な本間は,進軍の遅さを東京に叱咤され,一刻も早く島への砲撃を開始せよという巨大なプレッシャーに曝されていた.加えて,コレヒドールのウェーンライトが降伏を拒んでいるとなれば,バターンの捕虜は直ちに移動させなければならない――つまり次の行動に移れるよう,舞台から降りてもらうのだ.

 本間将軍は,撤退に関するこの大問題に1ヶ月前から気付いており,その解決策を有能な将校達に考えさせた.
 3月28日に,そのアイディアが披露された.紙上では,計画は理に叶い,人道的に思えた.捕虜はバターン先端から75マイル北にある,フィリピン軍の訓練施設だったオードネル収容所に収監される.バターンのイースト・ロードを通り,カブカーベン,ラマオ,リマイ,オリオン,ピラー,バランガ,オラーニ,ルバオを越えてサンフェルナンドで汽車に乗り,収容所手前のカパスに向かう.比較的丈夫な捕虜は歩くことになるが,決して無理な距離ではない――1日平均10マイル以内.食糧と救護所を用意し,病人は数百台の車両で輸送する.2棟の野戦病院が設置され,それぞれ千人が収容可能である.

 しかしながら,計画には2つの致命的な欠陥があった.それはアメリカ軍の降伏の数日後にようやく判明した.
 1つ目は,将校達が,投降する捕虜の数を大幅に低く見積もっていたことだ.本間の参謀は包囲攻撃の初期段階で,敵軍勢力を杜撰に調べた報告書に基づき,フィリピン・アメリカ軍の投降兵をせいぜい2万5千人程度と見ていた.
 しかし実際には,軍属も含めて10万人近かった.撤退計画に関するあらゆる兵站要素――食糧,水,避難所,そして車両の配分――が完全に誤った計算に従って立てられていたのだ.

 本間はすぐに,この数字が現実とかけ離れていることを察した.
『戻って計算をやり直せ』
 彼は部下にぶっきらぼうに言った.
 そして新たに弾き出された人数は約4万,それでもなお現実と6万人の開きがあった.

 2つ目の重大な欠陥は,本間の参謀が,捕虜の健康状態と体力を極めて楽観的に捉えていた事だった.
 計算では,ルソン部隊の70%以上は,オードネル収容所まで楽に歩いていけるはずだった.参謀達はフィリピン・アメリカ軍の飢えと病気の程度を全く理解していなかったのだ.
『我々は,守備隊の食糧事情の貧しさに殆ど気付いていなかった』本間は後に語る.『しかし少なくとも食糧に関して言えば,ルソン部隊はさらに数ヶ月は戦えるだろうと判断していた』

 全体的に見て,本間はその計画を気に入ったようだった.目の前のコレヒドール攻略のことしか頭にはなかったものの(『どうすればあの難攻不落の要塞を短期間で落とせるか.それが最大の関心事であった』と彼は語っている),本間にとって捕虜を適切に扱うことは重要事項だった.
 本間はアメリカ兵とフィリピン兵の捕虜を,ジュネーブ条約に則った『友愛の精神』と,見落とされがちだが,帝国陸軍の高潔な理念に従って扱うよう,将校達に命じた.
 東京の陸軍省は,日本兵が敵軍の手に落ちることを厳しく戒めていたが,天皇陛下自身は外国人捕虜を『不運な人々』と考え,『最大限の慈愛と優しさ』をもって接するよう指示していることを,本間は知っていた.

 1904年から1905年にかけて行われた日露戦争で,帝国陸軍は捕虜を丁重に扱ったことから,内外に広く賞賛された.
 1904年に制定された『俘虜取扱規則』には,はっきりと慈愛の精神が示されている――俘虜は博愛の心を以て之を取扱ひ,決して侮辱虐待を加ふべからず.
 本間は少なくとも理論的には,このような言葉を信条としていた.自由主義者,そして国際派と言われるほど,同情心に満ちた将軍だったのだ.
 同世代の優れた軍略家と比較すると,本間は繊細な気分屋で,人目を引く立派な容貌の持ち主だった.180cm余の体躯は,当時の日本人としては間違いなく大男である.
 数世紀に渡って稲作を営んできた中流階級の地主の息子だった彼は、投獄された作家,司祭,そして政治家の流刑地として歴史的に有名な,本州西岸の佐渡島で生まれ育った.若い頃は能に夢中になり,出世を脅かすほどに恥も外聞もなく愛人を代え続けた.最初の妻を溺愛したが,彼女が不義を働いたと知り,離婚した.
 本間の行動は常に議論を呼び,かなり常軌を逸していた.そして酒癖の悪さと,外見は美しいが社会的に好ましくない女性との野放図な恋愛沙汰によって,彼の経歴は傷つけられた.
 本間の職責は実に多様で,1930年代半ばには陸軍省新聞班に籍を置き,日本の優れた作家,画家,そして劇作家を世話した.ずば抜けて知的な上に道義に篤く,少々女々しい人物、というのが友人の評である.本間と親交の深かった著名な小説家,今日出海(こんひでみ)は,この威風堂々たる将軍を,『生来の司令官』と書いている.
 しかし本間は,不幸にも武士道精神を備えた根っからの耽美主義者という自己矛盾を抱えていた.戦闘中にも写生と作詩に励んでいた彼は,『人文将軍』と呼ばれていた.

 本間将軍がフィリピン・アメリカ軍を攻撃するよう命じられたことは,ある意味皮肉だった.本間は民主主義者で,西欧かぶれであることを公言し,それによって東条英機とも犬猿の仲だった.
 本間は英語に堪能だった.アメリカに旅行したことがあり,アメリカ映画が大好きだった.数年に渡ってオックスフォードで学び,イギリス部隊と共にヨーロッパとアジアを見て周り,親英派を自負していた.〔略〕
 1930年代に祖国を席巻した熱狂的国粋主義を公然と批判し,何年もの間中道主義を貫き通して戦争を迎えた.
 報道によると彼は1938年,南京へ赴き,日本軍占領下で行われた残虐行為を詳細に記録して,現地の司令官を厳しく非難した――その勇気ある態度が,日本軍での立場を悪くしたといわれている.

 本間に悲劇的な欠点があるとしたら,それは内省的になり過ぎた際に――一度や二度のことではない――命令の細部をなおざりにして,厄介な責任や詳細の分析を部下に押し付けたことだろう.仲間は彼を『机上の天才』と呼んだ.計画の段階で,戦略の微妙な問題点を本能的に掴み取ることはできるが,流動的な現実の戦闘にはついていけないのだ.
 文人将軍は夢想家であり,心ここにあらずの楽観主義者だった.本間が捕虜に対して同情的だったとしても,実際に捕虜を収容所に運ぶ将校や下士官という数えきれないほどの部下達に,強い態度でそれを伝えられたかどうかは疑問である.

 「しかしながら,計画は滞りなく実行できなかった」と,ルポライター鷹沢のり子は述べる.
 以下引用.

 北部ルソンのバギオ市のフィリピン軍学校を卒業して,第3師団の中隊長をしていたゴンザレスさん(当時25歳)は言う.
「私達は多くがマラリアや赤痢にかかっていた.私達は病気だった.
 だからもし,私達が健康であれば『死の行進』にはならなかった.私達は若かった.フィリピン兵の殆どが20代だった.
 どんなに健康でも,4月の約110kmの行進は苦痛ではあろうが,『死の行進』にはならなかったに違いない.
 また,私達は栄養失調でもあった.
 私達は病気だったが,もし充分な食糧が与えられていれば,『死の行進』にはならなかった」

(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.20-21)

 ゴンザレスさんは,バタアン半島でのフィリピン兵達の様子を次のように語った.
「戦場では屋根は木の葉と空でした.ときには木によりかかって寝ました.毛布もなかった.
 山の中ですから,夜になると寒く,体を丸めて寝るしかありません.
 戦場で負傷した兵を運ぶ担架もないのです.木の蔓で作りました.
 病人を診てくれる医者もいません.夜になって寝て,次の朝にはもう死んでいるというのもしばしばでした.
 しかし死体を葬ることもなく,そのまま残して移動しました」
「戦場での生活は,特に食糧事情が悪かった.
 主にお粥を食べていました.
 ときどき鮭缶やミルクがあるときもあった.
 しかし4月には,お粥さえありませんでした.
 マンゴーの木々の若葉を取って食べた.市民から貰った動物も殺して食べた」
「しかも非衛生的でした.
 我々が持っていた薬はヨードだけです.私は水を飲むとき,必ずヨードを使っていた.水筒に数滴落として飲みました.
 味はよくなかったけれど,ヨードがなかったら兵士はもっと死んでいたでしょう」
「そういう状態で4月9日が来たのです.
 こんなことで,どうしてサン・フェルナンドまで歩けるでしょう.
 バランガまでさえも辛い行進でした」

(同 p.22)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.


 【質問】
 捕虜達はトラック輸送されることはなかったのか?

 【回答】
 ルポライター,鷹沢のり子によれば,実際にトラック輸送された捕虜はいたという.
 以下引用.

 スタンレー・フォーク著「Bataan : The March of Death」によれば,ある米比軍少佐が率いる400名のアメリカ兵捕虜達は,バランガから日本軍のトラックに乗せられ,途中で停車することもなく,オードネル収容所まで運ばれたとあり,他にトラックで移送されたフィリピン人捕虜達もいたと書かれている.
 バタアン「死の行進」経験者達に私が話を聞いたときにも,
「バランガからトラックに乗せられてオードネル収容所まで行った」
という人がいた.戦争中,古いタイヤや銃の弾丸などを集める仕事をしていたフローレンティノ・デ・ギアさん(当時22歳)だ.
 彼は軍服を着ていたので,兵に間違えられ,マリベレスに近いラマオで捕まった.
 身体検査をされて,妻の写真と1000ペソの大金を入れていた財布を盗られた.
 ディナルピハンまで歩いて一夜を明かし,次の日にバランガに着いた.
 そこからトラックに乗せられて,オードネル収容所まで運ばれている.
 ギアさんによれば,トラック1台に60人ほどが乗せられ,同時に10台のトラックが出発したという.
 その後も引き続きトラック輸送が行われたかどうかは,彼の話だけでは定かではないが,日本軍が最初に立てたトラック輸送案は,僅かな捕虜達にではあるが,実行されている.
 前出の「Bataan : The March of Death」(バターン:死の行進)によれば,約1万名の捕虜達が移送されたとある.

(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.76-77)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.


 【質問】
「『飲まず食わずで包囲され続けた部下の体調では,長距離を歩くのはまず無理だろう』
 キングはそれを見越して,日本軍が捕虜を北に輸送する場合に備え,かなりの数のアメリカ軍車両と十分なガソリンを用意しておいた」
「〔キングは〕日本軍の監視下でアメリカ軍のトラックを使い,捕虜を本間の望む所へ運びたいと申し出た.
 中山は,それらの申し出をきっぱりと断り,キングからのどんな条件も申し出も,本間は聞き入れないだろうと断言した」
「アメリカ軍車両を使って捕虜を収容所へ運ぶというキング将軍の提案を,日本軍は断じて受け入れようとしなかった.
 また,降伏前日,使えるものは全て壊さねばならないと誤解したアメリカ兵によって完全に破壊されたトラックも多かった.
 結局,アメリカ軍車両の殆どは軍事用に没収され,バターン南部に日本軍の大砲を輸送するのに使用された」
という記述が『ゴースト・ソルジャーズ』(ハンプトン・サイズ著,光文社,2003.3)に見られるが,これは事実なのか?

 【回答】
 仮にこの話が本当であるとするならば,日本側関係者の
「俘虜を自動車輸送したくても,それは不可能だった」
という主張が崩れるが,しかし日本側の類書には,このキング提案についての記述は一切見られない.

 米比軍の遺棄車両については,以下のような記述を当サイトではこれまでに発見している.

[quote]

 無數の自動車が道いつぱいに遺棄されてあつた.
 動くのは少數であつた.

[/quote]
―――火野葦平著『バタアン死の行進』」(小説朝日社,1952/10/5), P.50
[quote]

 自動車廠はマニラ市内のマニラ・ホテルに隣接した旧フォード工場に倉庫,組立,補給部門が使用することになった.
 当時,廠内の広場には各地から集めた車両が何千台と野ざらしにされ,それを修理,整備し,国防色に塗り替えて各部隊に支給したものだが,乗用車を半分に切って今の半トラックにしたり,ライトバンにしたりした.
 当時の比島ではライトバンは良家の女中が市場の買い物ぐらいに使っていたようだ.

[/quote]
―――岡島竹司 in 『比島に散った野戦自動車廠の記録』(比島派遣野戦自動車廠戦友会,開発社,1989/8/15),p.30

[quote]

 昭和17年もなかばを過ぎ比島も完全攻略なり,修理班はバターン半島の戦場整理を命ぜられ,半島の小さい町ラマオに駐留,米軍捕虜を使っての自動車の収集,解体,発送と大活躍だ.

[/quote]
―――野上春雄 in 同,p.32

 したがって少なくとも多数の車両が修理可能な程度には遺されていたが,それ以外の点については現状では判断する材料がない.

 一方,上掲『比島に散った野戦自動車廠の記録』のp.21&24には,こんな記述もある.
 第2次バタアン戦において,マリベレス西海岸迂回上陸の準備には,上陸地点より約4kmの陸上を兵の担送によって軍需品輸送をしなければならず,その集積に困難をきたしていたという.
 そのとき第22野戦自動車廠デナルピアン支廠出張所長平塚少尉は,彼我第一線陣地の中間の山の山腹に米軍自動車が数両遺棄してあるのを知り,夜陰に乗じて兵員数名と共に工具を携行し,遺棄自動車を修理.
 途中敵陣地に察知されて銃砲火を浴びせてきたが,屈せずに修理作業を完了して2両を運転して持ち帰り,この車両により軍需品輸送が容易・迅速に可能となったという.

 もしハンプトン・サイズが述べているように,
「アメリカ軍車両の殆どは軍事用に没収され,バターン南部に日本軍の大砲を輸送するのに使用された」
が事実だと仮定すると,上記のような軍需品輸送困難な事態が生じるとは考えにくい.
 ゆえにこの仮定には矛盾が生じる.

 こうした点を勘案すると,キングの勘違いか,履行されなかった命令か,「死の行進」を招いたことになる降伏を決めた自己に対する批判をかわす方便だったか,その他様々なことが考えられもするのだが.

 この点について,どんなささやかな手がかりでもかまわないので,どなたかご教示いただければ幸いである.

 なお余談だが,平塚少尉は本間司令官より昭和17年7月,賞詞を授与されたが,昭和19年10月下旬,レイテ島タクロバン出張所全員と共に玉砕したという…….


 【質問】
 いつ捕虜達を徒歩で移動させることになったのか?

 【回答】
 少なくとも1942/4/5には,命令が「徒歩をもって移動させよ」に変わっていたことが,「行進」の指揮隊長,平野庫太郎大佐(絞首刑)の軍事裁判での供述書から判明している.
 以下,彼の供述書の部分を引用.

「昭和17年3月末頃,河根少将からの電話で,バターン陥落が近く,5万人ほどの捕虜を収容する場所が必要だと告げられた.
 捕虜の輸送を命じられたのは昭和17年4月5日である.
 命令は次のようなものだったと記憶している.

1. 捕虜は徒歩をもって移動させよ.
2. 行進はグループに分けて行う.
3. 1日の行進は5里から6里ぐらいにすること.
4. 行進途中で食事や休憩の場所を設けること.

 自分は,河根少将からのこの命令書を部下に伝えるとき,次のような事を付け加えたのを覚えている.

1. 暑いので,捕虜を十分に休憩させ,水を与えること.
2. 病人や負傷兵の取り扱いには特に気をつけること.
3. 逃亡兵にはきをつけること.
4. 輸送はできる限り迅速に行うこと.……」

(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.77-78)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.


 【珍説】
 さて実際にこの行進〔バタアン死の行進〕で死者が出たのか.出たとしても直接原因は心臓発作か,てんかんの類だろう.アメリカ政府に正確なところ回答を求めたい.
 何が死の行進なのか.現地はマニラから日帰りできる.ぜひ足を伸ばしていただきたい.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.121)

 【事実】
 健康な人間にとっては日帰りできても,飢えて病気の兵隊にとってはそうでないことは,言うまでもありません.
「一月から四月まで、ほぼ三ヵ月半もの間、バターンの山中にひそんでいたため、ほとんどがマラリア、その他の患者になっていた」(京都新聞社編著、久津間保治執筆「防人の詩 : 悲運の京都兵団証言録」,京都新聞社,1976, p.373)
というのが,捕虜の実情でした.


 【珍説】
 交通安全は自動車時ことばかり思いがちだが,歩いていても様々な災難が考えられる.
 お伊勢参りも修験道の山伏も,三々五々目的地までひたすら歩き続けた.
 この捕虜たちは集団であるだけに心強い.歩き疲れても助け手はいくらでもいる.全員に疲労が及べば行軍は続けられないし,沿道の住民は総出で手伝うだろう.
 旅には助け合いが欠かせない.旅は道連れ,世は情である.疲れ切った兵士が通りかかって,助けない住民がいるだろうか.数々の美談がサンフェルナンドやその近郊に伝えられていなければならない.
 その前に,行き倒れを葬った墓の残されているはずだ.

 〔略〕

 死の行進だと難癖をつけられたバターンの捕虜輸送作戦は,手に余る大量の捕虜を一時も早く安全な安定した環境に置くため,秩序を維持する最善の方法であり,見事に達成されたのだ.
 これは戦史に例を見ない偉業であり,日本軍の快挙と言うべきではないか.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.202-203)

 【事実】
 捕虜達の証言によれば,足を止めれば殺されるため,落伍者をやむなく見捨てていったそうです.
 また,別項でも述べられているように,捕虜を助けようとした住民の中には,日本兵に殴られたり殺されたりした者もいましたから,無闇に助けるわけにはいかなかったでしょう.
 住民の援助については,日本兵は黙認したり,そうでなかったりと対応がまちまちでした.手に余る捕虜を抱え込まざるをえなかったことによる混乱が,そのような形で出たわけです.


 【珍説】
 古より,人は歩き続けた
 〔略〕
 だから人が道行きをするのは,原則として徒歩だった.
 標準歩行速度は1km15分,1時間で4kmである.休憩時間を入れて1日14時間で,50kmは人の歩行の限界というべきだ.
 〔略〕
 ところが,バターンの行進は1日平均15km,通常の速度なら3時間半で済んでしまう.ゆっくり歩いても半日ではないか.いくら熱帯であっても,過酷な距離だとは思えない.
 よほど急峻な地形密林の難路であっても,切り開く苦労は先頭集団だけではないか.
 1万7千人も失われたのなら,道を埋め尽くすほどの死体が発生する.そんな状態で移動を強行できるのか.いくら強行軍でも,倒れた人は葬って進むものだ.戦闘中でさえ見捨てはしない.
 時間の余裕は十分あった.介抱しなければならない人が数人出れば,行進は止まっただろう.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.151-152)

 【事実】
 状況が悪化している場合には脱落者は見捨てられ,倒れた人はそのまま白骨になろうが放置,という例は,日本軍の中でも普通に見られたことです.「白骨街道」などは有名ですな.
 

「○○○だったはずだ!」
ではなく,
「事実として●●●ということがあった」
でなければ,反証にはなりませんな.


 【珍説】
 行軍に落伍する者が出たとしても,初日から平均して出ることはない.マラソンでもウォークでも,前半に棄権するのはアクシデントである.
 4日行程で集中するのは80〜90%歩いた付近だろう.
 ゴールに近くなると,また元気が出るものだ.
 ところが死者行方不明者は1万7千人と言われたり,2万1千人と言われたり,そのあたりはまったく無責任なのだ.人の命を軽んじていなければ,そんな根拠のない話はできない.

 それでは大量の落伍者が出た情景を思い描いてみよう.
 一人倒れれば,それを助けて介抱するには2人は必要だ.1mに一人ずつ並べたなら17km,道を覆い尽くして行進は完全に止まってしまう.
 だいいち,落伍はしても,暫く休憩すれば後からついて行ける.途中に救護所はあっても満員だろうが,よほどのことでない限り,息を引き取ることはない.
 1日15kmなら,炎暑を避けて早朝か夕涼みの時間に歩いても,比較的短時間で労せずに歩ける.
 彼らの荷物は水筒一つであった.
 気の毒なのは日本兵.40kg近い装具に銃剣つけて一刻の油断も許されない.
 捕虜のほうは間違いなく気楽であった.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.175-176)

 ところで1日15kmは,老人にとってさえ疲れるほどの距離ではない.
 兵の若者達の中には中年の将校も混じっていたかもしれない.健康状態,栄養状態には個人差があったと考えられる.
 それにしても,休息を禁じたり罰したりするわけはない.回復しないほど消耗したりするだろうか.
 いくら個人差があっても,ひきつけでも起こさない限り,少し休憩すれば元気を取り戻す程度の行軍ではなかったか.

(同,p.185-186)

 【事実】
 マラソンやウォークと一緒にするのは,論理展開上いい加減としか言いようがありませんな.
 また,捕虜達は炎天下に歩かされているというのに,「炎暑を避けて」という文言が出て来る事も不可解でなりません.
 勝手な休息など許されなかったのも,すでに別項目で述べられている通りです.


 【珍説】
 「死の行進」は42年4月のことである.
 43年10月10日,ロンドンにおいて万国赤十字極東捕虜局のキング委員は,
「日本の捕虜収容所では,今だかつて虐待行為は見られず,捕虜は十分に待遇されている」
と述べている.被抑留者親族会議における報告である.
 さすれば名高い「バターンの行進」はどうなったんだ!

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.152)

 【事実】
 キングが知らなかっただけでしょ.赤十字には査察権限などありませんから.
 ちなみにバタアン死の行進さえ,米国民に知られるようになったのは1944年2月に報道があってからです.


 【質問】
 カブカーベンのマリベレス第2病院の患者が,バタアン死の行進に参加させられたのは何故か?

 【回答】
 コレヒドール要塞からの砲撃に晒されていたため.
 以下,ソース.

 マラリアでカブカーベンの第2病院に入院し,その後,病院の職員として働いていたアーサー・ロベルト伍長は,マニラ法廷で次のような証言をした.
「日本軍はコレヒドール島を攻撃するために,第2病院の周りに大砲を備えつけた.
 患者たちはコレヒドール島からの砲撃に晒され,数発の砲弾が病棟に当たった.
 日本軍兵士は,
『病院を出て,北に向かって行進するように』
と命令した.
 患者達を考慮することなどない.手足や指の切断をしたり,または骨折をしてギプスをつけた負傷兵もいた.
 日本兵はフィリピン兵に
『ギプスを取って行進せよ』
とも命じた.病人のギプスをとって歩かせた日本兵もいた」

 第2病院の患者達には,まさに「死の行進」だった.
 スタンレー・フォーク著「Bataan : The March of Death」には次のように書かれている.
「患者達は病院を出ると,バタアン半島南部から来る捕虜の長い列に加わった.
 ある者は一時凌ぎに,木の枝を松葉杖の代わりにして,びっこを引きながら歩いていた.
 またある者はよろけながらも,緩くなった包帯をしっかりと掴んでいた.
 僅かな人が食料と水を持っていた.
 弱い患者は道端に倒れ,日本兵は日本刀〔原文ママ〕で斬りつけ,銃弾を浴びせた」

 日本軍兵士達は,病院の食糧・乗り物・医療品や器具などを奪った.食糧の中では特に果物ジュースとミルクに興味を示した.
 病院に残されたものは,黴のついた米,塩の塊,それに僅かな医療器具だけだった.

(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.35-36)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.


 【珍説】
 バターン半島で降伏した米・フィリピン軍に相当数の民間人が伴ったと言われている.一説に4万1千人,一説に2万8千人.集計したとしても、時と所によって違ってくる.
 〔略〕
 軍は最大の消費者団体であり,巨大なマーケットである.そして,とびきり支払いが鷹揚なのだ.
 商品などは客が納得しさえすれば何でもよい.荷物はいらない,身一つでもできる商売もある.
 酒と女と歌とギャンブルは大っぴら.取り締まりの厳しいのは麻薬と性病.それも風紀と規律は弛緩していた.
 もともとフィリピンの風土は女無しでは夜も明けぬ.何ヵ月も禁欲させるわけにはいかないのだ.

 マリベレスに追い詰められた米・フィリピン軍は,多数の「からゆきさん」を含む民間人を伴っていた.
 最後の拠点にあった軍需物資も,あいにく砲撃で殆ど焼失してしまった.
 ただでさえ圧倒的多数の捕虜,それも首一つ図体の大きい兵士達ばかりではなく,民間人までも世話をかける.この地域で戦いの巻き添えになった哀れな人達ならまだしも,マニラから着いてきた余計者だと日本兵には映った.事実その通りだ.
 何もこの行進が死の行進なら,死出の旅のお伴をすることになる.慰安婦の殉死があったのか.そんな麗しい美談は一切語られていない.

 日本軍は捕虜の将官も特別扱いしなかった代わりに,民間人が例え売春婦でも差別はしなかった.困った時はお互い様だ.一緒に空きっ腹を抱えてサンフェルナンドへ辿り着いたのだ.
 捕虜の行進についていった民間人に犠牲者が出たという話はなかった.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.203-205)

 【事実】
 フィリピン・パブか何かと間違っておられるようですな.
 カトリック教の国であり,女系家族の国であるフィリピン人を,まるで馬鹿にしているわけで,そういった侮蔑が当時の日本兵にもあり,それが捕虜への暴行に繋がったことは想像に難くありません.

 なお,「世界戦争犯罪事典」(秦郁彦、佐瀬昌盛、常石敬一監修:文藝春秋社刊)によれば,住民は現地で解放されております.
 常識的に考えましても,「ただでさえ圧倒的多数の捕虜,それも首一つ図体の大きい兵士達ばかりで」これを持て余しているところに,さらに民間人を同行させる理由が見当たりません.「一緒に空きっ腹を抱えてサンフェルナンドへ辿り着」なきゃならん理由は,日本軍の側にも民間人の側にもありません.
 したがって,民間人に犠牲者が出るはずが最初からありません.


 【珍説】
 〔バタアン死の行進の〕4日の間に脱走する機会はいくらでもあった.日本軍はむしろそれを望んでいた.人数が減ってくれれば負担が減るのだ.使役するにもおいそれと仕事は見つからない.保護するだけで当分はタダ飯を食わせなければならない.

 だいいち,日本兵はフィリピン兵を敵だとは最初から思っていなかったんだ.
 植民地を解放する目的で戦ったんだから,どうぞお逃げなさいといわんばかりだった.
 4日立ってもアメリカ兵1200人,フィリピン兵1万6千人しか減っていなかった.内心もっと逃げてほしかった.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.121)

 途中に救護所を設けて衛生兵を配置した.もとより絶対数が足りないのだから行き届きはしないけれど,倒れた捕虜を放置するようなことはしない.
 医療の濃度は日本とアメリカでは差があって当然,日本式の介抱で贅沢は言わせない.見方によれば乱暴だったかもしれない.

 炊き出しは,別途にあり合わせのコンデンス・ミルクをぶち込んだ粥が役に立った.腹の足しにはならなくても,疲れた体にこの上ない滋養になった.

(同,p.166)

 あっけなく降伏した敵を軽蔑はしても,恨んではいなかった.フィリピン兵などは初めから敵とは思っていなかった.
 おおっぴらに逃げろとはいえなくても,逃げてくれればこちらは助かるのである.
 だから隙を作って追跡はしなかった.逃亡兵が出ても,処罰されることもなかった.

(同,p.167)

 【事実】
 脱走はおろか,歩みを止めただけでも斬られたり撃たれたりしたという証言が多いです.
 捕虜は大半が栄養失調で水もなく,病気にもかかっていたわけですから,逃げてもすぐに捕まってしまいます.そのために,脱走のチャンスを狙っていたが,体力不足で果たせなかったというのが真相でしょう.


 【質問】
 捕虜に対し,水は十分に与えられたのか?

 【回答】
 不充分だったどころか,捕虜が水を飲む事を禁じた事例が多数発生している.
 以下ソース.

 弱りきった捕虜達が欲しがったものは水だった.
 ルバオ周辺は水田が多く,掘抜き井戸も散在していた.
 しかし捕虜達は,日本軍監視兵の支持に従わなければ水は飲めない.
 ある者は日本軍警備兵の目を盗んで飲んだ.また,ある者は見つかって銃の柄で小突かれている.運の悪い者は刺殺・銃殺された.

 〔略〕アリステオ・フェラーレンさん(当時25歳・米比軍第91師団)は,日本兵の目を盗んでサトウキビ畑の掘抜き井戸の水を一度だけ飲んだ.
「沿道にある掘抜き井戸から,水が惜しみなく流れているのです.
 私はどうにも我慢ができませんでした.バガックから歩かされて,それまで全く水を飲んでいなかったのですから.
 日本兵が見ていないのを知り,井戸まで走って行きました.
 手ですくって数回ガブガブと飲みました.
 もっと飲みたかったのですが,日本兵に見つかると殺されかねませんので,すぐに列に引き返しました.
 これで私は生き延びることができたと思っています.
 あんなに水が美味しかったことはなかった.体中に染み渡るようでした」

 また,米比軍第2師団に所属していたジョン・ボール大佐(米人)は,ルバオからサン・フェルナンドの間で起きた出来事を,マニラ法廷で次のように証言している.
「あるフィリピン人捕虜が歩くのが遅くなって,どんどん離れていきました.周りの者達は言い続けた.
『起きろよ.早く.日本兵が来るぞ』
 しかし彼は起き上がれなかった.意識が朦朧としていたのでしょう.
 辺りの水田の掘抜き井戸からは,水が流れていました.
 彼は井戸を見ると走り出した.
 日本軍警備兵は,水を飲んでいる彼を殴り続けました.彼は立てなくなった.動くこともできないという状態でした.
 すると日本兵は日本刀を出して,彼の肩胛骨の間を刺したのです」

 私が会った元兵士は,
「日本兵がせめて水さえ自由に飲ませてくれていたら,死なずに済んだ捕虜はかなりいた」と言う.「暑い4月に水が飲めないのは,拷問を受けているようなものだ.日本兵はあまりにフィリピンの気候に無頓着だったのではないか」
と,彼は続けた.

 ルバオにある倉庫に集められた捕虜達の中には,掘抜き井戸から流れる水を水筒に入れようとして並んでいる時に,機関銃で撃たれて死亡した者達がいた.
 フィリピン偵察隊に属していたフィリッペ・マニンゴ中尉は,その時の様子をマニラ法廷で次のように語っている.
「4月14日頃でした.ほぼ150人のアメリカ人とフィリピン人捕虜達が水筒に水を入れるのを日本兵に許されました.
 ところが彼らが水を入れている最中に,日本兵達は捕虜をめがけて射撃を始めたのです.
 殆どが死にました.負傷した捕虜達は,死ぬまでほっておかれました」

(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
水の件については類書にも多く同様の記述があり,信頼性には問題ないようだが.


 【珍説】
 〔鷹沢〕氏は,オードネル収容所にいたアメリカ人捕虜の一文(サミュエル・モーディ著「Reprieve from Hell 地獄からの逃避」)を引用して語らせる.
「(飯を)ひしゃくですくって手のひらに入れられた.……ウジが飯の間を這っている.ウジを取り出している捕虜もいた.……だが,中のほうからまたウジが現れると,彼は飯を床に捨ててしまった.ある者は泣いた」
 飯にウジが沸くか.蝿は暖かい飯に卵を生まない.飯は炊いたらすぐ配るものだ.ウジが沸くまで何日も待たせるのか.それとも別のところでウジを養殖して飯に配合したとでも言うのか.
 氏は百人分の食事さえ準備した体験はないのだろう.数万人の給食がどれほど大変なことか,分かってたまるか!

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.212)

 【事実】
 つまり三好は,数万人分の米飯を暖かい内にその数万人に配布可能と考えておられるようですが,それには控え目に見て数千もの炊飯機器が必要でしょう.
 捕虜人数の見積もりが甘かった日本軍に,それだけの用意があったとは到底思えませんが.
 同じ機器で炊飯を何度も行い,炊けた米飯は保管しておいたと考えるほうが自然であり,最初に炊いていたほうの米飯の保管状態が悪く,蛆が発生したとしても不思議ではありませんな.
 日本軍における食料の衛生管理がどんなにお粗末だったかは,別項を参照してください.


 【質問】
 「バタアン死の行進」の途中,生き埋めにされた捕虜がいたというのは本当か?

 【回答】
 ルポライター鷹沢のり子は,そのように報告している.
 以下引用.

 バランガにやっと辿りついた捕虜達に与えられたのは,「おにぎりが1つ」だった.
 それでは約40kmを歩いてきた捕虜達には残酷である.
 隠していた金銭を取られずに持っていた捕虜達は,収容所前にいたフィリピン市民から米を買った.
「ここで米を炊いてはいけない」
と,日本軍から命令が出されていても,何人もが米を炊いて食べた.
 前述〔当時47歳,米比軍曹長〕のジェームス・バルダサレさんは,3カップ分の米を炊いて食べた.
 運悪く,その中の2人が日本軍に見つかった.
 命令に背いたという理由で,彼らは生き埋めにされた.

 バランガで生き埋めにされたのは,2人だけではなかった.
 別の場所で7名が埋められている.マリベレスから行進してきた捕虜達だ.
 彼らは衰弱しきっていた.回復の見こみがない状態だった.
 4月14日,日本軍軍曹達は,衰弱した7人の捕虜達を防空壕に埋めた.
 バルダサレさんが証言しているのは次の通りである.
「バランガには市民達が使っていた防空壕があった.
 日本兵は弱った捕虜達をそこまで行進させた.
 日本兵は私達に,フィリピン人兵士を防空壕に押し込めるように命令した.
 それから私達は,彼らを生きたまま埋めた.
 捕虜の顔辺りまで土がかぶったとき,一人がいきなり立ち上がって言った.
『私は生きている.ただ衰弱しているだけだ.私に必要なのは水だ』
 しかし私達は助け出すことはできず,日本軍兵士に命令されて彼に土を被せた」

 他の例も挙げよう.
「数人のアメリカ人とフィリピン人捕虜達が,穴を掘るように命令された.
 日本兵は後ろで,刀を持って見張っていた.
 掘られた穴に6人の死体が投げ込まれた.1人のアメリカ人と4人のフィリピン人はまだ生きていた.
 1人がなんとか立ちあがり,憐れみを訴えるように両腕を伸ばした.そして両手を上げたまま叫んだ.というよりも,『アゥ! アゥ!』と唸り続けた.
 すると,日本兵の一人が彼の顔を蹴った.
 彼はその場に沈み込んでしまった.
 何もできなかった.
 日本兵は土を埋めるように命令した」

 バランガで生き埋めにされた捕虜はまだいる.
 4月19日のことであった.ホーマー・マーチン大尉(米人)は,マニラ法廷で次のように証言している.
「バランガにいるときに,10人ほどのフィリピン人兵士の病気が非常に悪化しました.長い道のりを歩いてきた過労と赤痢が原因でした.
 彼らは用を足した後,立つことすらできずに,便所の前に横たわっていました.
 日本軍の警備兵が,アメリカの下士官を数人ほど選び,どこかへ行きましたが,下士官達は戻ってくると,10人のフィリピン人兵士たちを連れて行きました.
 暫くして下士官達が,何が起きたのかを話してくれたのです」
 下士官達の話は,次のような内容であった.
 下士官達は日本兵からシャベルを渡され,長い溝を掘るように指示された.
 溝掘りが済むと,日本兵は重病のフィリピン人兵士達を連れて来るように言い,まだ生きている彼らを溝の中に運び入れた.
 日本兵は下士官に,フィリピン人兵士の意識がなくなるまで頭を殴れと命じた.
 拒むと,今度は下士官達に,溝に土を被せるように命令した.
 背くこともできずに,10人のフィリピン人兵士達に土を被せた.
 まだ体力が残っていたフィリピン人兵士が,溝の中から起き上がろうとした.
 下士官は土を被せることができなくなった.
 それを見た日本兵が,日本刀〔原文ママ〕を持ち出して,起きあがろうとするフィリピン人兵士を切りつけた.
 そして,下士官に土を埋めさせた.

(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.52-54)

 ただ,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものであり,週刊金曜日のカラーは,とにかくなんでもかんでも「日本軍が悪い」ということにしたがる傾向があることから,このソースだけで判断する事は避けたい.
 例え「生き残りの証言」であっても,安易な信用が禁物なのは,南京虐殺問題や慰安婦問題に見られる通り.


 【珍説】
 〔バタアン死の行進は,〕深い恨みの敵兵だが,その生命を守るための移動だったのだ.
 途中で酔狂にも「捕虜を生き埋めにした」だと.見てきたようなことを〔鷹沢のり子は〕書いている.
 いくらノロノロの行軍でも,人を埋める穴を掘るには,歩きながらできるものではない.
 指宿の浜辺じゃあるまいし,埋めてもらう人が気持ち良さそうに寝そべってくれるか.目撃者といわず見物人が大勢足を止めて行軍にならない.
 歩かないと食にありつけないのに,何と言う道草をするのか.

 鷹沢氏に聞こえたほど噂が伝わったのなら,戦犯で取り上げないはずはない.
 ところが東京裁判でもマニラBC級でも,「生き埋め」などは一切なかった.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.165)

 【事実】
 動けないほど弱っていた捕虜を生き埋めにしたといわれておりますので,三好の言われることはいい加減な難癖でしかありません.
 鷹沢本に不審点がないわけではないのですが,このような低次元な反論では,かえって鷹沢本の宣伝にしかなりませんので,ご注意ください.

 また,「生き埋め」という表現を用いた訴因は,確かに比島地区裁判の中には見られませんが,「俘虜虐待殺害」「比人虐待殺害」といった訴因は多く見ることができます.その中に「生き埋め」も含まれていると見るのが自然でしょう.
 極東軍事裁判も,公正さの上では非常に問題が多いのですが,だからといって虐待殺害があった事実までが消えるわけではありません.


*

 【珍説】
 捕虜輸送という困難な任務に従事している部隊は,住民が水や食べ物を援助するのは歓迎する.彼らは犯罪者の囚人ではない.刑罰のために歩かせているわけではないのだ.
「水を差し出したら,水筒を奪って馬に与えた」
「オレンジを取り上げてタイヤで潰した」
 鷹沢氏はそれを信じるがゆえに採用している.氏は兵の立場にいたら,そうしたのだろう.そこまで底意地が悪い人なのだろう.
 そんな陰険な行為をすれば,人々の反感を買い,日本軍全体の信頼を踏み躙り,今後の軍政を困難にすることは明らかであるのに,氏はその行為を是認しているのだ.
 当時の純情な兵は,我々の近い身内だったのだ.鷹沢氏の祖父兄にも行軍や関係者もいたはずだ.もしそれが祖父であっても,何の躊躇いもなくそう言いきることができるのか.

(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.184)

 【事実】
 個人攻撃に走るのは.詭弁の特徴の一つですな.
 鷹沢本に不審点がないわけではないのですが,そのような低次元な反論では,かえって鷹沢本の宣伝にしかなりません.
 ハンプトン・サイズによれば,これは「米兵に行為を示す者への怒り」から出た態度であると説明されています.
 最初の内,「見事な礼儀正しさと自制心を備えていた」日本兵も,「遅々として進まない捕虜の歩みに,怒りを覚えつつあった」わけで,怒りが飛び火したとしても何ら不思議ではありません.
 それに,混乱した状況下にあって,今後の軍政を心配するほど余裕があった兵士が,そんなにいるとも考えられないのですが.


 【質問】
 バタアン攻略戦後,捕虜に対する虐殺命令を,辻ーん(辻政信)が出したというのは本当ですか?

 【回答】
 ほぼ事実と見て間違いない.

 森山康平やハンプトン・サイズによれば,事件の経緯は,おおよそ次のようになる.

「辻はシンガポール攻略の後,参謀本部勤務となったが,作戦指導という立場で,第2次バターン攻略戦が始まる前からやってきていたのである.虐殺命令は,辻が各部隊の司令部を回って口頭で出した『私物命令』だった.
 第141連隊長,今井武夫大佐は,キング少将降伏翌日の4月10日,旅団本部(第56旅団)の参謀から直接,名指しの電話を受け,捕虜の一律射殺の『大本営命令』を受けた.今井は事の重大さに驚き,命令を書面で貰いたいとしていったん電話を切り,今井部隊が連れていた捕虜数百名を急いで武装解除し,マニラ街道を北上するよう指示して釈放してしまった.
 今井は,そんな乱暴な命令を大本営が下すはずがないし,したがって命令の書面は来ないだろうとは思ってはいたが,万一,命令書が届いても,射殺すべき捕虜がいないという状況を作ったのだった.
 また,同じく第65旅団の第142連帯副官だった藤田相吉大尉は,やはり旅団本部の参謀から捕虜射殺の命令を電話で受け,その場で連隊長に伝達する事を拒否したと記録している.藤田は,
『私を軍法会議にかけてください』
と叫んで電話を切ったが,1時間後に同じ参謀から命令取り消しの電話が入った.
 しかし今井によると,この命令のまま,多数の捕虜を射殺した部隊もあった(以上,今井・藤田の項は御田『バターン戦による』)」

(『マレー・シンガポール作戦』フットワーク出版,'91,P.268-270)

「バターンを包囲していた最期の数週間,杉山〔元・陸軍参謀総長〕は本間〔雅晴将軍〕のもたつきに業を煮やし,信頼する中佐をルソンに派遣して,本間の部隊に潜り込ませた.
 全権を委任されたこの奇妙なスパイは,辻政信という,ラスプーチンのように特異な人物だった.太平洋戦争の忌わしい伝説の一つとして,気性の激しい,眼鏡をかけた辻中佐は,帝国陸軍内で,その階級を遥かに超える権限を備えていた.何か問題が起きるたびに,杉山は自分の目と耳,時には殺し屋として辻を派遣した.
 辻は,魔法の力で死を逃れることもできると吹聴し,本間のように礼節を弁えた戦士には軽蔑されていたが,自分に絶対の忠誠を誓い,あらゆる命令に従う若い将校を配下に抱えていた.彼らには『作戦の神様』と呼ばれていた.
 辻は『アジア人のためのアジア』というスローガンを掲げ,東洋を支配する事は日本の使命であると主張した.もしかしたら辻ほど,人種間の憎しみを煽り,大和民族の純血と優秀さを信じていた将校はいなかったかもしれない.彼が現れるところには必ず残虐行為が付き纏った.5千人以上の中国人が,辻一人のせいで命を落としたといわれている.辻は,闘争心を高めるために,敵の肉を食らう事を勧めた――墜落死した連合軍パイロットの肝臓を食べたこともあるらしい.
 辻に関する話の多くは神話めいていたが,戦士として天才であることに異論はなかった.その圧倒的なカリスマ性と,自分は常に正しかったという事実を後ろ盾に,辻は,無難に任務をこなしているはずの上官を好き勝手に非難し,叱責した.
 彼の出現は,佐官達にとって恐怖の的だった.辻は杉山の代理であり,辻が来るということは,参謀総長が不満であるということを意味していたのだ.
 〔略〕
 辻がバターン半島に現れた頃に蛮行が発生し,数十人の捕虜が殺害されたという報告もある.日本人歴史家の村上兵衛は,辻があるとき,部下の前で捕虜の扱い方を実践してみせたと記述している.
〈辻は言った.『この調子でやるんだ』〉と,兵衛は記す.〈いきなり彼は拳銃を抜き,捕虜の一人を撃ち殺した〉
 〔バターンの米軍の〕幸福の数日後,本間の忠実な部下である今井武夫大佐は,怪しい$l物からの軍用電話を受け取った.受話器の相手は曖昧に師団参謀≠名乗り,即刻『投降者を全員射殺すべし』と今井に命じた.
 そんな命令を本間が下すはずがないと今井は考え,その指令はどこから来たのかと尋ねた.
 すると,この命令は大本営から直接来たもので,厳格に従わねばならないという答えが返ってきた.
 今井は激怒して受話器を切った.
 現実に大量処刑が行われることを恐れ,今井は非常処置を取った.最近投降してきた千人ほどのアメリカ兵とフィリピン兵捕虜を解放するよう部下に命じたのだ.捕虜はジャングルの中に放たれ,バターンに展開する日本軍に捕まらないよう,適切な逃走路を教えられた.
 その怪しい将校は,同じ『全員処刑』命令を,軍用電話で生田少将にも伝えた.生田もまた,命令が本間の本部から来たものではないと確信して,それに取り合わなかった.
 一日中,その偽指令が戦場指揮官の間を駆け巡った.
 犯人は辻しかいないと思われたが,彼の罪が立証されることはなかった.
 生田が疑ったとおり,命令は正規のものではなかった.本間は全く関知していなかったのだ.
『残念なことに,』とイギリスの軍事歴史家,アーサー・スインソン卿は記している.『辻の異常な性格を理解していなかった将校は,彼の命令通りに実行した』」

(ハンプトン・サイズ著『ゴースト・ソルジャーズ』光文社,'03,P.114-116)

 今日出海の証言は,おそらく伝聞だが,もっと臨場感がある.

 この時バタアンの南端まで占領したある部隊の参謀が,生田部隊長に面会に来た.
「軍司令部参謀部からの命令で,捕虜を秘密裏に殺せと言ってきたのですが,こちらの部隊にも伝達して,実施するように言われて来ました」
 生田司令官は苦々しげに,
「それはご苦労.しかし本隊にはそんな命令は来ておらんが……」
「ですから,こちらでも実施するようにということで……」
「それは誰が言った?」
「大本営から参ったT参謀の伝言であります」
「強いて実施しなければならぬのなら,命令書が来てからやる.T参謀の意見はただ聞いたことにして置こう」
「すると実施せぬ方針ですね」
「それは答える限りではない」
「わが方に多大の損害を与え,4ヵ月近くも苦戦を舐めさせた憎むべき敵をかばうおつもりですか」
「一度降伏したものはもはや敵ではない」
「いや,それは戦争が済んだ時の事であります.現在は緒戦にすぎません.マッカーサーは南方へ逃亡しました.彼は再起を期して去ったのであります.
 T参謀は,国際法なぞは欧米の得手勝手な法律であって,かかる法律を作った欧米的精神に対して戦いを挑んでいるのだから,国際法の適用は認めんと言っていました.
 従って捕虜はことごとく抹殺してもこれを収容する必要なしとまで極論しております」

(今日出海「悲劇の将軍」,中公文庫,1988/10/10,p.140-142)

 なお,この記述は,その場に居合わせた神保中佐からの伝聞と推測される.


 【質問】
 パンティンガン川の虐殺とは?

 【回答】
 バタアン死の行進の最中に,パンティンガン川岸で行われた,日本軍による虐殺行為.
 同地のコンクリート製記念碑によれば,
「1942年4月12日頃,パンティンガン川のほとりで,ほぼ400人の将校および士官であるフィリピン人捕虜の一団を刺殺・銃殺・斬首によって殺害」
したとされており,マニラにおける戦争裁判では,本間雅晴中将に対する,バタアン死の行進に関する11事例の中の一つとなっている.

 この虐殺の生き残り,ペドロ・フェリックス(当時29歳)によれば,以下の通り.

 フェリックスの連隊1500名は,投降後,緑色のトラック約20台に乗せられた.
 乗りきれなかった者達は,バランガに向けて行進した.
 フェリックスさん達はトラックでパンティンガン川まで来た.
 この川は,バタアン半島の南部に位置しているマリベレス山からの支流で,タリサイ川へと合流して,半島の沿岸,バランガ市周辺からマニラ湾に流れ出る.
 川は,橋が壊れていたために渡れなかった.
 全員がその日は川の土手に寝て,次の朝,橋の修理をさせられた.

 修理を終えたところへ,日本軍の立派な車が着いた.ある日本兵が,彼が第14軍第65旅団の奈良中将だと教えてくれた.日本軍の将校達も一緒だった.
 フェリクスさん達は,
「そのまま行進しろ」
と命令された.
 何があるのか分からないままに,川の土手を歩いた.
 一時間ほど歩いたところで,日本兵が「止まれ」と命令した.
 そのとき,日本人将校が叫んだ.
「気を付け! 佐官以上は手を上げろ」
 中佐以上はいなかった.3人の少佐が手を上げた.
 次いで尉官も手を上げさせられた.フェリックスさんは大尉だった.
「2等兵と市民はバランガへ向けて歩け」
と言われた.
 そのとき,ある少佐が,
「私の祖母は日本人です」
と申し出た.
 日本兵は,
「一緒に歩いて行け」
と別扱いにした.彼はとっさの嘘で危機を逃れた.

 数人の日本兵が,丸めた電話線を持って現れた.数十人が繋がれるような長さに切ってある.
 これから殺されるのだと思った.バタアン半島が陥落した時,生きていられるとは思わなかったから,静かな気持ちだった.

 日本兵達はフィリピン人捕虜を3つのグループに分けて,それぞれを離れさせた.
 約30人から35人ほどを後ろ手にして一列に繋いだ.アメリカ兵達は別に繋がれる.約20名ほどいた.
 彼らは日本兵に,
「私達は降参したんだから,こんなことをしてはいけないんだ.なぜなんだ」
と怒っていたが,日本兵は答えなかった.
「日本兵の電話線の結び方はヘタクソだ」
「俺達はこんな結び方はしない」
などと言い合っていた.
 彼らは別の場所に連れていかれたので,虐殺されたかどうかは定かでない.

 ある兵が,
「何故こんなことになるのですか? 私の母は日本人です」
と通訳に言った.名前を聞いて,通訳は日本兵に告げた.
 しかし,
「残念ですが……」
と,通訳はその兵に言った.彼の母は本当に日本人だった.
 繋がれなかったフィリピン人少佐もいた.2人は体が衰弱しきっていた.
 彼らが銃殺されたことは後で知る.
 フェリックス大尉は端に繋がれた.
 それからフェリックス大尉達は,再び歩くように言われた.
 少し歩いてから,軍服を着ていない日本人が,タガログ語で「止まれ!」「座れ!」と命令した.
 4列が1グループとされた.フェリックス大尉は1列目の左端だった.
 他の2グループは,別方向に歩かされた.後に彼らの悲痛な叫び声を聞いたので,それほど離れていなかったと考えられる.

 夕方になる少し前だ.
 周りには木々が茂っていた.
「残念だが,こうならざるを得なかった.あなた方と戦ってから,私達は部下をずいぶん亡くした.
 諸君らがもっと早く降参していれば,こんなことにはならなかった.
 これがあなた方の運命だ.
 今,欲しいものがあれば言いなさい.さしあげよう」
 タバコが欲しいと言った兵がいる.日本兵は口に咥えさせて火をつけた.
 水を欲しがった兵が何人かいる.フェリックス大尉も水を要求した.だが,「水はない」と言われて望みは叶えられなかった.

 日本兵達は日本刀〔原文ママ.以下同〕を抜いた.
 フェリックス大尉は通訳に頼んだ.
「殺すなら,前から拳銃で撃ってくれと頼んでくれませんか.うしろから刀で切られるのはいやです」
「申し訳ないが,それはできない」
と,通訳は答えた.
 これから何が起こるのかは誰にも分かっていた.
 日本兵達は日本刀を持って列の後ろに立ち,右から順番に兵の首を刎ねていった.刎ねきれなかった兵もいる.何度も日本刀で刺されて,苦しそうに呻き声を上げた兵もいた.フェリックス大尉は,右に繋がれた兵の首が2つ落ちたのを見た.
 次はフェリックス大尉の番だ.彼の場合は首を刎ねられずに,いきなり刺された.何人もの首を刎ねていたので,日本兵は疲れていたのかもしれない.右脇腹を続けて2回刺された.日本刀が体を突き抜けた.刀が抜き取られると,フェリックス大尉は前かがみになった.
 今度は肩胛骨の下を2回刺された.
 どういう拍子にか,右隣のハシント少尉の足が大尉の首筋に乗っかった.痛みにもがいている内に,足がかぶさってきたと思われる.その内に彼は動かなくなった.
 フェリックス大尉は,そのまま声を出さないように唇を固く閉じた.
 日本兵達は,手をかけた兵士達の間を動き回っていた.呻き声を上げて,再び刺された兵もいる.
 大尉は,死んだと思われたようだ.大尉は神に祈った.
「神様,もし,私を殺したいのなら,静かに死なせてください.
 もし生きていて欲しいと思われるのなら,強い力をお与えください」
 前屈みになった姿勢で,「もう,このまま死にたい」と思い,地面に鼻をつけて息をせずにいた.自殺しようとしたが,死ぬことはできなかった.
 これは神が「生き長らえよ」と言っているのだと,大尉は思った.
 それからは,生きていることが日本兵に分からないように動かないでいた.
 隣の兵の足が首にかかっているおかげで,フェリックス大尉は日本兵の目から隠れることができたのだ.

 その内に日本兵達の気配がなくなった.
 それでも暫く動かなかった.
 数時間は経っただろう.
〔略〕大尉は電話線を噛み始めた.ゆっくりと,しかし絶え間なく噛み続けた.やっと噛み切る事ができたのは2〜3時間後だ.長い時間に感じられた.使い過ぎた顎が他人のもののようだった.

(鷹沢のり子=ルポライター「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.60-65)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.

 そして大尉は,他の生存者達と合流,日本兵から逃げ回りながら,辛うじて帰宅する事ができた,という.

 なお,これの主犯はやっぱり辻ーんらしい.


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