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◆陸戦関連
アジア・太平洋方面 目次
<第2次世界大戦FAQ

◆◆Link

硫黄島攻防戦

「関東軍」(中山隆志著,講談社文庫,2000.3)

「関東軍と極東ソ連軍」(林三郎著,芙蓉書房,1986)

「関東軍特殊部隊」(鈴木敏夫著,光人社文庫,2003.12)

国本戦車塾(WW2日本軍戦車)

帝國陸軍〜その制度と人事〜

むーのおもちゃ箱(WW2日本軍戦車)

陸軍造兵廠


◆◆組織・総記


 【質問】
 日中戦争の開始に関する本を読んで,いかに陸軍の対応が混迷していたかを知りました.
 このころの組織一覧表等で,わかりやすいHPや書籍があったら教えてください.
 そんじょそこらの官僚組織よりも複雑で混乱してしまいます.

 【回答】
 参謀本部は何度も改変してる上に,番号で表されてるので分かりにくい.

総長−次長のトップは変わらず.
部課長以下の主な改変

大正九年八月の改変
総務部長−庶務課長
      −第一課長(編成・動員)
第一部長−第二課長(作戦)
      −第三課長(要塞)
      −第四課長(演習)
第二部長−第五課長(欧米)
      −第六課長(支那)
第三部長−第七課長(鉄道船舶)
      −第八課長(通信)
第四部長−第九課長(内国戦史)
      −第十課長(外国戦史)


昭和十一年六月の石原莞爾による改変
総務部長−庶務課長
      −第一課長(演習)
第一部長−第二課長(戦争指導)
      −第三課長(作戦・編成・動員)
      −第四課長(防衛)
第二部長−第五課長(ロシア)
      −第六課長(欧米)
      −第七課長(支那)
第三部長−第八課長(鉄道船舶)
      −第九課長(通信)
第四部長−第十課長(戦史)
      −第十一課長(戦法)

昭和十二年十月の改変(石原失脚)
総務部長−庶務課長
      −第一課長(教育)
第一部長−第二課長(作戦)−戦争指導班
      −第三課長(編成・動員)
      −第四課長(防衛)
第二部長−第五課長(ロシア)
      −第六課長(欧米)
      −第七課長(支那)
      −第八課長(謀略)
第三部長−第九課長(鉄道船舶)
      −第十課長(通信)
第四部長−第十一課長(戦史)
      −第十二課長(戦法)


陸軍省 昭和十一年の官制
大臣−次官−
人事局長−補任課長
      −徴募課長
      −恩賞課長
軍務局長−軍事課長
      −軍務課長
兵務局長−兵務課長
      −防備課長
      −馬政課長
整備局長−戦備課長
      −整備課長
兵器局長−銃砲課長
      −機械課長
経理局 以下省略
医務局
法務局


同,昭和十四年の改変
人事局長−補任課長
      −恩賞課長
軍務局長−軍事課長
      −軍務課長
兵務局長−兵務課長
      −兵備課長
      −防衛課長
      −馬政課長
整備局長−戦備課長
      −交通課長
      −工政課長
      −資源課長
兵器局 以下変化なし
経理局
医務局
法務局

参考資料:陸海軍将官人事総覧,大東亜戦争全史の附表,陸軍省軍務局

追記
参謀本部作戦部長と第一部長は同義です.情報部長と第二部長も然り.
また参本の各課に関しても通称で書かれてることが多いです.
ex.作戦課長,欧米課長,支那課長

(世界史板)

陸軍省参謀本部


 【質問】
 第二次世界大戦の戦中には,徴兵されまくって膨大な数に膨れ上がってると思うのですが,戦前の,いわゆる平時にはどのぐらいの規模だったのでしょうか?
 太平洋戦争開始前だと,日中戦争の最中ということになって,戦時動員がかけられた状態になっていると思いますので,日中戦争前夜ぐらいの,あくまで「平時」の規模が知りたいです.

 【回答】
 支那事変直前の陸軍は常備17個師団
 うち,朝鮮軍に師団2
 台湾軍に歩兵連隊2
 支那駐屯軍に旅団1
 関東軍に師団4と独立守備隊が5
 内地に11個師団

 詳しくは
http://imperialarmy.hp.infoseek.co.jp/division/dantai.html
を参照されたし.


 【珍説】
 師団より大きな単位となると,軍団→軍→軍集団という順で,規模が大きくなる.
 ただし旧日本軍では,師団の上に軍(派遣軍とか方面軍と呼ばれた)があるだけで,軍団や軍集団は存在しなかった.
 資源が乏しく,それだけ多くの師団を常備する国力がなかったのだ.

林信吾著『反戦軍事学』,p.25

 【事実】
 旧日本軍に軍団が存在しないのは事実ですが,軍集団に相当する方面軍があります.
 欧米の軍隊で軍集団と言っているのを,旧日本軍は方面軍と呼称したわけです.
 師団→軍→方面軍が正解で,間違っても「軍=方面軍」ではありません.

モーグリ in FAQ BBS


 【質問】
 山梨軍縮とは?

 【回答】
 WW1戦後の恐慌・不況のため,軍事予算切り詰めのために行われた陸軍軍縮.
 山田朗によれば,その詳細は以下の通り.

 日本は,1920年以来の戦後恐慌・不況のため,国家の租税収入は次第に頭打ちとなり,軍事予算切り詰めが迫られることになった.

 ワシントン条約に基づく海軍予算圧縮に対応し,陸軍予算も削減を迫られ,建軍以来,初めての大規模な陸軍軍備の整理が行われることとなった.
 それが1922年8月の,加藤友三郎内閣の山梨半造陸相による陸軍軍縮である.

 陸軍軍人の定数を
将校2268人,
准士官以下5万7296人
馬1万3000頭
を減らした第1次山梨軍縮の特徴は,師団や歩兵連隊・騎兵連隊の数は変更せず,各連隊に所属する中隊を廃止(欠員状態)にして,
歩兵252個中隊
騎兵29個中隊
工兵7個中隊
輜重兵9個中隊
を削減した.
 また,連隊規模での削減(廃止)は,砲兵に限って行われ,一挙に
野砲兵6個連隊
山砲兵3個連隊
(砲兵101個中隊)
を廃止した.
 廃止された野砲兵2個連隊は,新たに野戦重砲兵連隊に,山砲兵2個連隊は,独立山砲兵連隊に改変されたが,陸軍全体の砲兵火力が低下したことは明らかだった.

 翌1923年4月にも,要塞・学校・官衙を整理対象とした,第2次の山梨軍縮が行われ,22・23両年度で経費4033万円余りを削減したとされた.

(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.102-103,抜粋要約)

 砲兵を削るところが,いかにも日本軍っぽいでつね.


 【質問】
 宇垣軍縮とは?

 【回答】
 山梨軍縮後も,1923年9月の関東大震災の影響もあり,さらに財政整理の必要に政府は迫られたため,1925年,加藤高明内閣の宇垣一茂陸相によって行われた軍縮.
 山田朗による解説では,その中身はおおよそ次の通り.

 山梨軍縮とは異なって,4個師団を丸ごと廃止するというやり方を取り,将兵定数3万3900人,馬定数6000等を削減.
 常設師団が21個から17個へと削減されたことに伴い,師団に所属する歩兵16個連隊,騎兵4個連隊,野砲兵4個連隊,工兵4個大隊,輜重兵4個大隊が一挙に削減された.

 1922‐25年の都合3回に渡る軍縮によって節約された経費を使って,戦車部隊や航空隊・高射砲部隊の新設を始めとする装備近代化・更新を行った.

 また,1927年に徴兵令を兵役法に陸軍は改定,在営年限(徴兵されて現役兵として服務する期間)を,2年6ヵ月から2年へと短縮した.
 これは,従来よりも短いサイクルで現役兵を予備役に編入することによって予備役兵力を増やし,戦時動員兵力増加を目指したもので,常設師団廃止に伴う動員兵力減少を補おうとする措置だった.

 さらに宇垣軍縮は,部隊廃止によって部署を失った現役将校,約2000人を,中学校以上の男子校に配置,「学校教練」を実施するきっかけとなった.

 したがって,宇垣軍縮には,第1次大戦後の世界の陸軍軍備の趨勢に対応して,陸軍の近代化を図り,併せて後の国家総動員体制の基礎を作ろうとした面があった.

 だが現実には,宇垣軍縮を機に,軍の機械化・近代化が多いに進展したわけではない.
 むしろ,軍の機械化・近代化の進展といった根本的なものというよりも,第1次大戦の教訓を全く無視することもできず,兵器・装備のある程度の更新を行ったもの,と言ったほうが実態に近いだろう.
 軍縮後も,1個師団当たりの砲兵密度は,日露開戦時よりも低下していたほどであり,しかも以前として安上がりの軽砲主義に貫かれていた.
 また,戦車にしても,1926年に独立1個中隊(戦車10両)が設置されたものの,28年までは全く拡大されず(戦史叢書99「陸軍軍戦備」 p.104),戦車そのものの国内生産数は,32年に至っても年間20両に過ぎなかった(東洋経済新報社編「昭和産業史」第1巻,p.568).
 航空隊にしてみても,1928年に至るも,軍縮後増設時の6個飛行大隊のままだった(「陸軍軍戦備」,p.104).

(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.103-109,抜粋要約)


 【質問】
 太平洋戦争時の日本陸軍兵士の数はどれくらいですか?

 【回答】
 太平洋戦争勃発時の動員兵力は全体で60個師団220万人(糧食250万人分),このうち南方作戦に投入したのは, 僅か13個師団30万人(糧食40万人分).
残りは,満州に24個師団120万人,中国に30個師団65万人に張り付いていた.
以降は以下の通り.

           内地    中国    満州    南方
1942年度末    50万人   68万人   70万人   50万人
1943年度末    70万人   68万人   60万人   92万人
1944年度末   121万人   80万人   46万人   163万人
1945年度末   278万人  120万人   78万人   164万人

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 旧陸軍は,機械化の必要性を重々承知しながらも,財政的な制約から断念したのでしょうか?
 それとも,決定的な破局を迎えるその時まで,白兵主義の優位を確信していたのですか?

 【回答】
 最近は「財政的な制約から断念」説が主流です.
 財政的理由から断念⇒精神主義的理由を後付け,という経緯.

 元々、日露戦争までの日本陸軍は、メッケルらドイツ陸軍の影響を受けて、ドイツ式火力主義、つまり、迅速に機動する小銃・砲兵火力集中によって相手を圧倒する考えを持っており、歩兵の白兵(銃剣)突撃に頼ることなく火力(銃砲弾の物量)で勝敗を決しようとする戦術思想が主流でした。
 その萌芽は、既に西南戦争後半の小銃火力の集中使用で見られています。

 ちなみに、1891年版歩兵操典は1888年のドイツ帝国陸軍のそれをコピーしたもので、1898年に日清戦争を受けて改訂されたものも、ほぼそれに沿っていました。

 で、日露戦争で欧米列強陸軍が得た戦訓としては、
 1. 重機関銃を陣地防御の要とする。
 2. 敵陣突破の決め手は榴弾砲、とくに15cm以上の榴弾砲、10cm以上の加濃砲といった重砲の集中使用にある
 3. 有刺鉄線の防御効果は絶大である。
と言うもので、各国は重機関銃、重砲の開発、大量配備に躍起となり、陸戦力の主力兵科となりました。

 ところが、当事者の日本陸軍が白兵主義、砲兵軽視になるのは、

 1.
 砲弾、小銃弾の欠乏により火力主義が貫徹出来なかった。
 開戦前の1903年から東京・大阪の両砲兵工廠で銃弾、砲弾の大量生産・備蓄と、開戦後の民間工場の動員による銃砲弾の大量生産をしたが、それでも追いつかない状態(南山の戦闘では2日で3万発の砲弾を使用したが、これは開戦前の半年分の消費量、砲弾生産量の三ヶ月分であり、旅順第一次総攻撃、遼陽攻略で完全に欠乏、得利寺の戦闘では小銃弾が底を尽く状態)であったこと。

 2.
 砲兵運用の根本的誤りで、平坦地の会戦でも要塞戦でも砲弾は榴散弾を多用したこと。
 消費された野山砲弾の弾種比率は、榴弾1に対し、榴散弾6であり、戦場からは榴弾補給を要請されていたが,陸軍中央はこれを黙殺し、前線は効果のない砲撃を行なわざるを得ず、結果として歩兵の大量犠牲を必要としたため、歩兵からの砲兵に対する不信感を決定的なものにした。

 3.
 ロシア陸軍は、フランスの影響を受けており、仏式白兵主義(強固な築城によって相手の火力をかわし、機を見て火力支援を得て相手に接近し、歩兵の白兵突撃で勝敗を決する)を用兵の基本理念としていて、屡々白兵戦を挑んできたこと.
 それに対する味方からの支援砲撃が、前述の通り効果が無く、ロシア兵の負傷率が比較的低い(ロシア側の砲弾による死傷率は14%程度だった)ことで、首脳部中に打撃力が予想外に低い砲兵への評価低下が植え付けられたこと。

 以上の三点があり、火力主義への不信感が芽生えました.
 加えて白兵突撃で日露戦争を「勝利」してしまったことで、「日本式戦法」が模索され始めました。

 そして、1909年の歩兵操典改訂、翌年の野砲兵操典、輜重兵操典、12年の騎兵操典へと進みます。
 1898年の歩兵操典では、「歩兵戦闘は火力を以て結晶することを常とす」と書かれ、更に、「多くの場合に於て、近距離より優勢なる射撃を決勝点に聚注する時は、突撃は敵兵既に去りたるか、若しくは僅に防支する陣地に向て行ふに過ぎさるものとす」と規定しているのに対し、1909年の歩兵操典改正理由書では、「歩兵の戦闘主義は白兵にして射撃は此の白兵を使用する為に敵に近接するの一手段なり,との主義を,改正操典にて明確に指示せられたり。
 我国古来の戦闘法は白兵主義にして,白兵使用は我国人独特の妙技なり。
 故に益々此の長所を発揮して白兵戦闘の熟達を図ることは我国民の性格に適し、将来の戦闘に対する妙決なれは,此の点に大いに力を作ること肝要なり」
としています。

 その後、第一次大戦の戦訓と軍縮の狭間で、ある程度の近代化を行ないます.
 が、これは、日本固有の地理的条件により、ロシア帝国崩壊後は、純軍事的に見て欧米の第一級陸軍部隊との大規模戦闘は生起し得ないこと。
 従って、欧米軍と同質の火力重視の武装を行なう切迫性に乏しく、陸軍内で対立が起きています。

 近代化路線派は、宇垣一成を頂点とする省部中枢の長州系軍政家と永田鉄山ら、日露戦争後に出てきた陸大出のエリート幕僚、但し、これらは装備の更新を漠然としか考えていない層から、欧米流国家総力戦を志向する層まで様々な層の寄せ集めで、平時の少数精鋭・戦時の大動員、ある程度の機械化のみ一致しているだけでした。

 現状維持派は、歩兵中心・白兵主義を徹底的に突き詰めるもので、常時多兵、速戦即決、白兵突撃万能を説く保守派でした。
 彼らは上原勇作、福田雅太郎ら旧薩摩閥の作戦家を糾合しつつ、長州閥優先の派閥人事で左遷された大陸出先軍の軍人、参謀本部第二部、隊付下級将校を中心に支持を集め、「貧乏所帯の日本が欧米流「長期消耗戦」を行なうことは出来ないと説き、近代化路線を「器械主義」、欧米模倣の「弊風」、「皇国の独自性の放棄」、「攻撃精神の衰退」、「国軍を顛覆せむと企図する」ものと非難していました。

 現状維持派は,軍縮による首切りに動揺した下級将校層の不満を利用して,宇垣一茂らの中枢部批判を展開,後の出先軍における「下剋上」の火種を撒き散らし,その極端な白兵主義思想は,長く陸軍の作戦思想に多大な影響を与えました.

 この路線・派閥対立の最中の1928年、統帥綱領が改定されます。
 これには、
「統帥の本旨は常に戦力を充実し,巧に之を敵軍に指向して,其の実勢就中其無形的威力を最高度に発揚するにあり、蓋輓近の物質的進歩著大なるものあるか故に,妄に其威力を軽視すへからずと雖「勝敗の主因は依然として精神的要素に存すること,古来渝る所なけれはなり」
 況や帝国軍にありては、寡少の兵数不足資材を以て尚能く叙上各般の要求を充足せしむへき場合,尠少らさるに於いてをや」
と有り、更に、1928年以降の歩兵操典などの改定に於て、その改正理由書には、
「我が将兵は陸軍の比類無き歴史と伝統とに思いを致し、益々忠君愛国の至誠を磨き、訓練の実行を重ね、上下互いに信頼し合って一体となり、かくて生ずべき必勝の信念を常に確保して、如何なる強敵に会しても恐るること無く勝利の一途に邁進しなければならぬ」
 と段々、精神主義が強調されていくようになります。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,
p.31-35 & 109-113,抜粋要約)


 【質問】
 日本軍は対連合軍の白兵戦には,どんな対策を立てていたのか?

 【回答】
 太平洋戦争開戦直後,帝国陸軍は勇猛果敢な白兵突撃を行い,各戦線で勝利を収めていました.
 白兵突撃が,今後も戦闘の勝敗を握る重要な鍵である捉えた日本陸軍は,捕虜たちに銃剣白兵の模擬戦をやらせ,連合軍側の銃剣技術の傾向と対策をたてようとしました.

 その研究結果を纏めたのが 大本営陸軍部戦訓報告第六号『米,英,加兵ノ白兵戦闘ニ関スル観察』 です.

 連合軍兵士の特徴として,

・防御が上手い.
・床尾板での打撃が巧み.
・相手が弱いと見たら,徹底的に叩く.
・英本国兵>カナダ兵>アメリカ兵,順で技量が優れている.
・前かがみになって肘の力だけで刺突する.
(そうすると,刺突の威力が弱くなるんだそうな)

が挙げられています.

 それの対策として,

・とにかく一撃で仕留めろ!
・最初の一撃で仕留められなければ,距離をとってから再度,刺突せよ!
・絶対,退いてはならない!
(米兵は相手が弱いと見ると,徹底的に叩くからねぇ)
・鍔迫り合い禁止!
(床尾板打撃を喰らいやすくなるから)
・一生懸命,練習しろ!
(なんか2000回ぐらい,刺突の訓練しても銃は壊れないんだそうな)

が挙げられています.

 まぁ,戦争後半になると,銃剣の出番は減ってしまうワケなんですが……

 それはそうと,この本によると,ワイド湾付近の戦闘で,ボクシングにて日本兵に挑みかかった連合軍兵士が居たそうです……
 なに? その範馬勇次郎.
 いや,マホメド・アライ?
 しかもJrの方? (w`;
 
(↓写真2枚目は,冊子に書いてあった,連合軍兵が銃剣を構えた図. 看護婦さんみたいで,なんか可愛い)


ベタ藤原 in mixi,2006年09月08日


 【質問】
 日本陸軍が歩兵中心・白兵主義を改めようと考え始めたのは,いつからか?

 【回答】
 山田朗によれば,1944年6月以降のマリアナ諸島を巡る一連の戦闘の後.

 陸軍が自信をもっていたサイパン島守備隊が,アメリカ軍の上陸部隊に対して水際での「決戦」を挑んで敗退し,3週間余りの戦闘で全滅した事は,陸軍にとって衝撃だった.

 陸軍中央は,それまで孤島やジャングルの戦闘で敗退して来たのは,補給を絶たれ,また,歩兵部隊の機動も自由にならないような,従来,陸軍が想定してこなかった戦場での戦闘だからだ,と解釈してきた.
 つまり,歩兵部隊とそれを支援する諸部隊が縦横に動ける広大な戦場ならば,対ソ作戦の応用問題であるので,陸軍の精鋭部隊が負けるわけがない,というのが陸軍の「強がり」だった.

 しかし,相当な広さを有するサイパン島でも完敗を喫し,次の「決戦」はフィリピン,場合によっては沖縄・台湾方面,本土への米軍来攻もありうるとの想定をせざるをえなくなった段階で,陸軍部内でも航空戦力の優先強化・砲兵火力の増強を求める声が強くなったのである.

(「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.209-210,抜粋要約)


 【質問】
 日中戦争期に,陸軍の装備の近代化・機械化が進んだのは何故か?

 【回答】
 他国陸軍(とりわけソ連軍)との競争から機械化を進めた点もある(重砲部隊増加など)が,むしろ,部隊の水脹れ状態による将兵の質の低下を補うため,ある程度の機械化を進めなければ,戦力を維持できないという面があった.
 したがって,その近代化・機械化は,世界の列強陸軍の大勢から見れば,それほどではなかった.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.173を参照.


 【質問】
 小林よしのりの「戦争論」に,
「日本陸軍は9割が歩兵」
とあったんですが、WW2当時、他国は何%くらいだったんでしょうか?
 また現在の米軍や自衛隊では?

 【回答】
 前提になるよしりんの数字がでたらめ。
 昭和15年7月の師団編制では、
師団定員8872人(うち88人が司令部要員)
歩兵団は6047人(うち32人が司令部要員)
 歩兵は3分の2強に過ぎません。

 ほかは
捜索連隊408人
野砲兵連隊1125人
工作連隊514人
輜重兵連隊644人
通信隊134人

鷂 ◆53cmjHPmWw in 軍事板

490 :名無し三等兵 :05/01/08 23:28:50 ID:???

小林大先生の頭の中では,歩いて移動する兵隊は全部歩兵なんでしょう

491 :名無し三等兵 :05/01/08 23:31:32 ID:N5jXb9j0

あ、何かそれだと余裕で9割以上な気がしてきた。

軍事板

▼ この珍説「日本陸軍の9割が歩兵」ですが,元ネタは三野正洋氏の「続・日本軍小失敗の研究」です.
 「戦争論」の参考文献に本書が記載されていることと,手持ちの文庫版に「歩兵9割説」の記述があることから三野氏が出典元なのは確実と思われます.

 「続・日本軍小失敗の研究」(文庫版)からこの珍説を抜粋します.

――――――

 また,陸軍の最大の戦闘単位である師団の数を見ていくと,
歩兵師団 170個
戦車師団 4個
高射砲師団 4個
(航空部隊をのぞく,昭和20年7月)
であるから,全体の95.5パーセントが歩兵であることがわかる.
 また配備人員から見ていくと,これはもっと多くなり,97.3パーセントとなる.
 いってみれば日本の陸軍とは,航空部隊を除けば,すべて歩兵だけの軍隊といってもおかしくない編成となっていた.

――――――三野正洋「続・日本軍小失敗の研究」p.26〜27

 トンデモです.
 三野氏は歩兵師団が全員歩兵で構成されていると本気で信じています.
 諸兵科連合の概念が全然理解できていません.
 しかも三野理論では,日本陸軍に砲兵や工兵や騎兵などは全然存在しないそうです.

モーグリ in FAQ BBS


 【質問】
 東条英機と石原莞爾は非常に仲が悪かったそうですが,何か因縁とか理由があるのですか?

 【回答】
 戦略方針の違いと,性格の不一致(笑)から.

 どちらも陸軍だから北進を睨んでいるのだが,東条は対中一撃論の流派で実際に支那事変に積極的だった.
 石原は対ソ予防戦争論の流派に近く,満蒙領有で北方対峙を考えた.
(彼には独自の世界最終戦争論の如き不思議な考えもあるのだが・・・)

 こうした戦略方針の違いが元々あった上に,石原が東条のメンツを潰すような言動,行動をしたため,両者の不仲は決定的になった.
 石原は生じ知恵が回るものだから,馬鹿が許せない.
 特に,そういうのが上司に来た時の口撃は苛烈.公然と悪口を言い,反抗的態度を取る.
 対する東条は人の好き嫌いが激しく,寛容と言う言葉から程遠く,喧嘩っ早い気質.

 そんな二人が関東軍で参謀長(東条),副参謀(石原)の直属関係になったら,その結果は言わずもがな.
 事実,この時に二人の仲は修復不可能なほどにまで悪化した.
 石原は「東条は頭が悪い」とか「東条上等兵」とか言いたい放題.

 ただ,その後に石原が身を引いたのは東条に睨まれたからではなく,健康上の理由から.昔から病弱だったんで.


 【質問】
 満州事変前後で陸大閥の一夕会や二葉会などが陸軍内の実権を握るのですが,彼らの出てくる前に中枢にあった薩摩閥(田中義一派の系統)と長州閥(上原勇作派の系統)はその後,いったいどうしていたんでしょうか?
 宇垣などは上原派に近かったのですが,何度か首相に推されていますよね?
 といっても陸軍では孤立していましたけど. 

 【回答】
 逆,逆.

 薩摩閥は陸軍内では元々そんなに大きくないし,長州閥は山縣の死んだのと,長州閥の専横を嫌った若手将校が一夕会を結成してこれに対抗しようとした為,,その後は急速に衰えてしまいました.
 一夕会結成の中心となったのが小畑敏四郎,岡村寧次,永田鉄山の三人です.
 ですが,小畑と永田の方針の違いからこの会は二つに分裂してしまいます.
 これが永田を旗頭とする統制派と,小畑を旗頭とする皇道派です.


 【質問】
 銃と片方の膝を地面に立てる、折だか屈だか、そんな感じの名前のポーズを知りませんか?

 【回答】
 あなたが聞かれた言葉は、たぶん『折敷』(おりしき)でしょう。
 旧軍の用語のひとつで、言われるように左膝を立て、右足はその内側に片あぐらの状態に曲げて倒し、尻を地面につけて座ります。
 銃は右手で持ち、床尾を地面につけて立てます。
 旧軍の「膝射」は、この折敷の姿勢のまま、銃を両手で構えて射撃する特異なものでした。

 これに対して米軍や自衛隊の「膝射」は、立てていないほうの足の膝とつま先を地面につき、尻を地面につけないで射撃するものであり、移動などで別の姿勢にすばやく移れる反面、射撃時の安定性で劣ります。

 なお,タミヤの1/35MMシリーズの日本兵セットに、折敷の姿勢のフィギュアがあります.


 【質問】
 第二次大戦中,日本兵が圧倒的不利な戦況でも玉砕覚悟で突撃してきたり,捕虜になるのを潔しとせずに自決してしまったりするので,米兵の間で「日本兵は死を全く恐れない理解不能な化け物」的なウワサが定着してしまい,兵が戦意を消失しないように,米軍は日本兵の遺品から,死に対する恐怖や望郷の想いなどを綴った日記を抜き出して英訳して兵に配り,日本兵も只の人間であると認識させた,という話を昔何かの雑学本で読んだのですが,事実でしょうか?
 あと,敵が「理解不能な化け物」であるほうが,「只の人間」よりも引き金を引きやすいと思うのですが・・・そんなことないですか? 

 【回答】
 多分,その雑学本とやらのネタになっているのは,この本だな.

 「普通の人間」と思わせようとしたのは確か.
 ただ,「理解不能な化け物」というよりも,「ジャングルで神出鬼没に現れるスーパーマン」的な日本兵像を打破するためだな.
 つまり,開戦当初の快進撃のお陰で出来上がっていた,「こいつらにはとてもかなわない」的な思い込みを払拭するためにやっていた.

 もっともそうした心理効果よりも,軍事情報の方がずっと重要だった.
 米軍は軍事情報を求めて,日本兵の個人的日記,書簡を片っ端から翻訳した.
 実際にここから多くの作戦情報などが得られ,日本を追い詰めるのに役立っている.

 ちなみに日本兵ってか日本人は日記形式で色々な事を書いてて,分析すると結構な情報になる,ってのは幕末あたりに日本に来た外人の共通認識らしい.
 しかも一般人なのに絵入りで詳細.
 アニメ文化の基礎だ(笑).


◆◆◆階級関連

 【質問】
 旧軍の将校相当官(軍医正とか薬剤正とか兵科将校とは違う階級の人)って軍人なんですか? それとも軍属?

 【回答】
 旧軍の歩兵や工兵など戦闘部隊の兵科を指揮する少尉以上を将校と呼びます。
 将校相当官は戦闘部隊以外の部隊、経理部、獣医部、軍楽部、衛生部(医者)など指揮担当する少尉相当以上の将校を呼びます
 「軍医正とか薬剤正とか」は奏任官で正式の軍人であり、軍医正、薬剤正は兵科将校の佐官に相当します。
 いわゆる軍医、薬剤官は尉官に相当します。


 【質問】
 旧陸軍において共に中将職である師団長と次官とでは,どちらが格が上の官職となるのでしょうか?
 中将の職域の幅がとても広くて興味深いです.

 【回答】
 師団長は親補職になります.すなわち,天皇自らが任命する 職ですので,大臣が任命する次官より格は上です.

 本来の中将は,勅任官で高等官一等(親任官は大将のみ)になります.
 なお,中将が親任官待遇となるのは,参謀総長,教育総監,師団長,東京警備司令官,軍司令官, 軍事参議官,侍従武官長の職にある場合です.
 それ以外の職では高等官一等になり,それには参謀次長,陸軍次官,軍参謀長なども含まれます.
 従って,師団長であった中将が,陸軍次官になると,親任官から高等官へと一種の格下げとなります.

 更に脱線して宮中席次になると,中将で師団長の場合は,第一階の第十五番目で公爵の上であり, 高等官一等の場合は第二階の第十九番で,侯爵の三つ上,貴族院副議長衆議院副議長の一つ上(師団長より席次は四つ下)になります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2他

http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rikukaigun6.html#陸軍次官
によれば,陸軍次官をやってから師団長って例もあれば,師団長をやってから陸軍次官って例もある.
 戦前は前者が多く,戦中は後者が多い.
 少将職から中将職に格上げされた次官と,師団増設で有り難味の無くなった師団長職って事だろう.


 【質問】
 陸軍士官になるには,どんなコースがあったのですか?

加藤保憲 in 帝都

 【回答】
 職業軍人で陸軍士官候補生を経る場合は20歳そこそこで少尉,24歳で中尉に進級します.

 第二のルートは,下士官から少尉候補者を採る場合ですが,例えば,20歳で召集を受け,2年現役を勤め,除隊時に上等兵で下士官適任証を受けた場合は,再招集時には下士官になります.
そこで優秀な成績を修めると,軍曹以上で試験によって少尉候補者となり,少尉に任官することが出来ます.

 第三のルートは,幹部候補生を経る場合で,中等学校の学校教練に合格した者は,召集時に二等兵で入営しますが,志願と試験で幹部候補生となり,2年間の訓練の後,見習士官を経て予備役少尉となり,平時には自己の職業に就き,戦時には召集を受けて軍務に服する制度でした.
 この幹部候補生は,日華事変までは中学校,農業学校,商業学校の卒業生が志したものルートでした.

眠い人◆gQikaJHtf2


 【質問】
 旧陸軍の少尉クラスの人間は、私生活においての生活水準はいかほどったのでしょうか?

 【回答】
 陸軍少尉の場合、年俸は850円で、恩給法13条では仮定棒給年額が160万円とされています。
 これは大学事務官、事務官補、関税官などより低く、判任官三等七級より高いものです。
 判任官は、技手、外務書記生、警務官補、裁判所書記、看守長、帝大助手、文部省直轄学校助教授、二等郵便局長、警部、警部補、消防士が軍人以外に挙げられます。
 これより下が判任官待遇で、小学校教諭、府県書記技手、三等郵便局長、巡査、鉄道手です。

 時代にもよるが、昭和の頃は独身男性としてはそれなり。
 社宅(営内居住)住まいで家賃無し、食費や雑費、購入した自弁の各種装具・軍刀などの月賦(購入時に一括で払える余裕があった場合は当然ない)、偕行社の会員費(?)、将校集会所運営費、当番の人件費などが主な支出。
(ただし将校としての威厳を保つため,電車の移動は一等車、外食は高級な洋食店で食べることを強いられた)
 なので、貯蓄さえ考えなければ相当遊べたらしい。

 これが結婚して、営内から出ると一変してかなり厳しくなる。
 中隊長の住んでいるのが裏通りの何かの店の貸間で、そこで奥さんが内職をしていたとか、粗末な身なりをしているので女中と間違えられたとか。
 しかも、部下ができると彼らに飯を奢ったりすることも多くなるから、更に苦しくなる。
 士官学校での将校ならまだいいかもしれないが、子沢山の兵隊上がりの将校なんか相当厳しかった。

 そうした苦しい懐を揶揄する言葉に
「貧乏少尉にやりくり中尉、やっとこ大尉」
「職工の奥様、士官のおかみさん」
というものがあったくらい。

 山本七平の日本陸軍ものや,光人社の「よもやま物語」シリーズ、海軍なら阿川弘之の「軍艦長門の生涯」が非常に参考になる。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)


 【質問】
 階級が上がるのは,どういうときですか?

 【回答】
 平時の場合,徴兵による現役兵役期間満了時に志願することで進級します.

 一応,兵隊の時の成績が余り悪くないというのも前提ですが,下士官必要数と,志願者数はほぼ同じであり,選抜の意味はありませんでした.
 もう一つ,除隊時に上等兵であれば,下士官適任証を受けた場合,再招集時に下士官となります.
また,幹部候補生で士官にならなかった場合は,下士官になります.

 平時に於いて下士官になるには,徴兵による現役兵期間満了時に志願する形が一般的です.
 しかしながら,現役兵期間の成績が参考にされますので,余り悪いと選抜されません.
(とは言え,平時に於いては,軍で必要とする下士官の数と,志願者の数はほぼ同数だったりしますが)

 1927〜38年に掛けては,歩兵,砲兵科の下士官候補者は,各地の陸軍教導学校で一年間,更に軍教育隊で教育しています.(それ以外の兵科は各種学校で教育)

 もう一つ,徴収期間が満了して上等兵として除隊する時,下士官適任証を受けていますと,再招集された場合に下士官として任官されます.

 また,幹部候補生になって将校にならない場合は,予備役下士官に任ぜられます.
 六週間現役制の場合,修了者は国民兵役に編入されますが,国民軍幹部適任証書が交付され,国民軍が編成された場合は,彼らを以て幹部(下士官以上)に充当します.

 後に日中戦争で下士官が足りなくなった1938年以降は,戦車,航空については少年飛行兵,少年戦車兵と言って,高等小学校卒業程度の15〜18歳の若者を二年間教育,後に兵長として隊付で勤務,一年で伍長としています.

 この制度は,通信,砲兵,防空でも採用され,陸軍通信学校で教育する少年通信兵,陸軍野戦砲兵学校,陸軍重砲兵学校,陸軍防空学校で教育する少年砲兵,少年防空兵がありました.

 1943年より,特別幹部候補生制度が出来,15〜20歳の者に一年半の教育を施して現役下士官とし,二年後に予備役とすることになり,飛行,船舶,兵技,通信,航技について募集しています.
 このほか,技術下士官は陸軍兵器学校生徒から,経理部下士官は経理部少年委託生徒から,憲兵下士官は憲兵上等兵(後に兵長)から昇進させることで対応しています.

 戦時には在隊期間が長くなって,伍長が兵長の昇進先となり,志願に拠らない下士官も多数生まれ,1938年に召集中の予備役軍曹,伍長で志願する者を現役とする措置が執られています.
 なお,下士官の進級の実役停年は,曹長二年,軍曹三年,伍長半年でしたが,1941年以降,曹長四年,軍曹二年,伍長一年となっています.

 基本的には椀の数で,長く勤めて成績不良でなく,或程度の学力があれば,志願することで進級は意外とすんなり行きます.

 将校になるには選抜試験,隊長の推薦などが必要になり,それに応じた教育を受ければ,上手くいけば将校への道が拓けます.

 なお,進級の実役停年というのが各階級毎にあります.

 志願して順調に進級していくと,大体22歳くらいで判任官(つまり下士官)となり,30歳代で,判任官最上級の特務曹長になることも可能です.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 旧陸軍では新兵(二等兵)が入ってくると,それまでの二等兵が一等兵になりますが,では,それまでの一等兵は自動的に上等兵になるのでしょうか?
 そのあたりが全く分かりません.
 下手をすると50,60歳になってもずっと一等兵,ということもあったのでしょうか?

 【回答】
 日華事変が拡大するまでは,普通の兵士は徴兵で二年で除隊ですから,上等兵に進級できる者はごく限られていました.
 上等兵に進級するためには,中隊長から指名を受け,上等兵特別教育を受ける必要がありました.
 しかし,その中でも不適格とされる者も多く,上等兵に進級できるのは10人に1人程度でした.

 ただし,戦争の激化により除隊即召集となる例がほとんどになったため,昭和13年に上等兵の上に「兵長」と言う階級を新設,古参兵の増加による進級に対応しています.

>下手をすると50,60歳になってもずっと一等兵,

 昭和18年でも兵役年限は45歳までですので….
 ただし昭和20年6月施行の義勇兵役法では,60歳まで義勇兵として徴兵可能でしたが.

(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)


 【質問】
 昭和の日本陸軍の将官は東条英機みたいに,大隊長や連隊長くらいまでは割と評判が良いのに,参謀本部の主要ポストとかに付くと魔法が掛かったように無能になるのには,何か原因があるのでしょうか?

 【回答】
 陸大が力を入れたのは,戦史,戦術,参謀要務であり,戦略やその他,軍事とは関係のない教養とかはかなり疎かにしている.
 そして海軍と違って,全人格教育の類を全く行なっていない.
 この辺が原因かと.
 こう言う教育を幼年学校〜陸大と青春時代を軍事一色で染め上げれば,牟田口や辻を代表とする,”人格破綻”,”政治的見識無し”の”作戦馬鹿”が量産される.
 良くも悪くも陸大は大隊長養成機関だったと言える.

 そして,陸大出身者が重用される硬直した人事制度が加われば,作戦馬鹿が大量に重要ポストに付くと言うシステムが出来上がる.
 その結果が,支那事変での独断の南京攻略や,仏印進駐.

 よく見ると,旧陸軍きっての頭脳と称される石原莞爾も,幼年学校出身者特有である”人格破綻”や”政治的見識無し”,のような兆候が多く見られる.

 ただ,これは東条自身が認めていることだが,
「2.・26事件が無ければ師団長止まりだった」
という東条に,過度の期待をするのはそもそも間違っている.

 この手のは軍人ではまま見かけるタイプなんじゃないかな.
「階層社会においては各人は,その能力のレベルを超えたところまで出世する」
 これをピーターの法則というんだそうだ.
 優秀だった(少なくともそう思われてた)はずなのに,高い地位になったとたんにあれあれ?ってなっちゃった人は結構いるでしょ.
 クレイグ・L・シモンズの「南北戦争」では,南軍のフッド将軍のことをこれの典型例と評してる.

 確かに,この時代の日本陸軍には特にいっぱいいるように感じるから,上述のいうような構造的な問題が,その傾向を助長しているんだろうね.

軍事板

 陸大では,議論の為の議論という癖を付けられ,戦術中心の教育を受けたから補給や戦争指導を軽視,作戦優先の発想を助長した.
 陸大は当初,参謀の養成を目的としてたが,いつの間にか高級指揮官の養成も目的に加わって,最後には何を養成するのか曖昧になってしまい,中途半端な参謀気取りの高級指揮官という化け物(馬鹿者)をどんどん生産してしまったんだから.

 単に軍人としてではなく,政治的にも文化的にもエリートだった人間(武士出身者)が指導部からいなくなって,平民出身で陸大上がりの軍事の専門家(ミリオタ)として台頭してきた,
 つまり政治音痴,外交音痴のマッチョ野郎が独断専行で作戦を進め政治に介入し始めたことこそが,日本の不幸の始まりだったんだよな.

 まぁ,それを許した政治がだらしないと言えばだらしなかったワケだけど.

 というワケで一億総ザンゲだな.

軍事板


◆◆◆教育制度

 【質問】
 (帝国陸軍の)幼年学校,陸軍士官学校の入試科目,教育内容がどういうものだったかをオンラインで調べたいのですが,海軍兵学校と違ってウェブではなかなか資料が見つからず,苦労しています.

 【回答】
 陸軍幼年学校は3年課程です.
 入学資格は,13歳以上15歳未満という年齢上の制限だけで,学歴上の制限はありません.
但し,その試験は(当時の)中学校1年程度の学力試験,即ち,国語,漢文,外国語,歴史,地理,数学,理科(地学・生物学)から出題されたみたいです.
 外国語試験は英語,フランス語,ドイツ語から選択されます.
 このため,高等小学校卒業程度の学力で幼年学校に入学するのは難しかった様です.
 辻ーんの様な例外は居ますが.

 教育内容は,基礎素養教育(普通の中学校教育に相当)が主であり,これに外国語の習得が加わります.
 外国語は,フランス語,ドイツ語,ロシア語のいずれかを選択するもので,英語はありませんでした.(昭和期にやっと英語と中国語が加わりますが)
 ちなみに,軍事知識の教育は,同年代の中学生が学校教練で学ぶものの方が豊富だったと言われています.

 幼年学校卒業,または中学校卒業した者は,その後,陸軍予科士官学校にて2年間教育を受けます.
 入学資格は幼年学校卒業生もしくは,中学校卒業程度の学力を有するもので,16〜20歳の者です.
 この試験内容は,中学校4年程度の学力試験で,国語,漢文,外国語,歴史,地理,数学,理科,公民から
出題されたようです.
 ちなみに,東北の中学校の例では,200名中,1935年までは,成績上位30番以内が入学出来,1936年には上位5,60番以内,1937年には更に増え,100番〜120番でも合格出来たそうです.

 陸軍予科士官学校では,国語及び漢文,外国語(英独仏露中のうちから一つ),歴史,数学,理科(物理,化学),地理及び地質,心理及び論理,公民(法制及び経済),図画の様な,高等学校高等科の科目と,教練,陣中勤務,射撃,剣術体操,柔道馬術,訓話,内務班指導及び検査などがありました.

 この過程を修了後,半年間の士官候補生勤務を経て,本科に進みます.
 陸軍士官学校では,戦術学,戦史,軍制学,兵器学,射撃学,航空学,築城学,交通学,測図学,馬学,衛生学,教育学,外国語,校内教練,校外教練,陣中勤務,射撃,剣術,体操,馬術,典範令,服務提要などのカリキュラムがあります.

 なお,教育学を履修するのは,軍隊教育の教育者として,彼等を養成する必要がある為であり,これは必須科目として,陸士から,東大教育学科に派遣される場合もありました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 旧陸軍の士官学校の予科とは何なのでしょうか?

 【回答】
 陸軍士官学校予科は大正九年(1920年)に設けられたもので,従来あった陸軍中央幼年学校を改称したものです.

 それ以前の士官への道は
*陸軍地方幼年学校(予科)→陸軍中央幼年学校(本科)→士官候補生→陸軍士官学校
*中学校(旧制)→士官候補生→陸軍士官学校
の二つがありました.

 しかし,この二つは互いに派閥を形成して幼年学校出が中学校出を差別し,また幼年学校出のほうが優遇される傾向が強くなりました.
 このため,これら二つのコースを統合するために中央幼年学校本科を廃止して,陸軍士官学校予科として幼年学校・中学校出身双方を入校させました.
これにより
*陸軍幼年学校/中学校4年修了→陸軍士官学校予科→士官候補生→陸軍士官学校本科
というコースが出来上がりました.

 残念ながら,幼年学校と中学校出身者の対立はその後も続いたようです.

 なお,昭和十三年には入校者の増加に伴い,陸軍士官学校予科を陸軍予科士官学校として陸軍士官学校から分離させています.

名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE


 【質問】
 第2次大戦の頃の陸軍学校の流れを教えてください.

 【回答】
 以下の通り.

4月:陸軍幼年学校入校.大体の人は旧制中学を1,2年で中退して入ります.
                       |
                       |期間は3年,3月卒業
                       ↓
4月:陸軍予科士官学校入校.ここで,中学を4年次まで終了或は卒業して
   陸士の試験を受験,合格した人も合流します.
                       |
                       |期間は2年,3月卒業
                       ↓
4月:予科を卒業して,士官候補生となり隊付を始めます.
                       |
                       |期間は6ヶ月
                       ↓
10月:陸軍士官学校or陸軍航空士官学校に入校
        |        |
        |        |
        ↓        ↓
          見習士官

 あくまでもこれは法令上の話で,実際は,戦争やら,廃止されてた地方の幼年学校の復活やらで,かなり変わってます.
 士官学校の期間は本来なら20ヶ月,航空士官学校は28ヶ月なんですが,短縮に次ぐ短縮で,むちゃくちゃです.


 【質問】
 旧日本陸軍の幼年学校について教えてください.これは,陸軍士官学校に入るための学校だったのですよね?
 とある本だと,陸軍幼年学校は陸軍士官学校予科に入るための学校で,陸軍士官学校予科は陸軍士官学校本科に入るため,と書いてありました.

 陸軍幼年学校は12歳から3年,陸軍士官学校は1年10ヶ月,そのあとは軍勤務,だと思っていたのですが……

 【回答】
 陸軍幼年学校は,1897年から1918年に掛けては,3年制の陸軍地方幼年学校(東京,仙台,名古屋,大阪,広島,熊本,後,1903年に東京は陸軍幼年学校予科となる)と,1年8ヶ月制の陸軍中央幼年学校がありました.
 これは中学校4年修了(修了年の9月から)で地方校に入り,次いで中央校に進学すると言うスキルパスを経ます.
 1920年に中央幼年学校は陸軍士官学校予科となり,軍縮の影響で,一旦東京以外の地方校は廃止となります.
 しかし,1936〜39年に地方校は復活し,三年制4月入学となりました.

 年齢的には,12歳は入学資格がありますが,直接尋常小学校卒業生は入学させず,実際には,13歳以上15歳未満という年齢制限を課しています.

 幼年学校を卒業すると,運が良ければ,陸軍士官学校予科進学となります.
 しかし,中学校→陸軍士官学校→陸軍大学校のスキルパスが優位にあったりします.

 幼年学校的なものは米国にもあります.
 映画にも何回かなっていると思いますので,探してみては如何でしょう.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

 一般的な例だと,中学一・二年で中退して幼年学校(地方幼年学校)にはいる.
 それくらいの学力がないと難しいい.
 中には高等小学校から行った人もいるけど.勉強しないでぶらぶらしてたらまず無理.

 幼年学校は軍縮とか軍拡とか軍の規模に合わせて数が調節されて,廃校されたり復活したりと思っとけば良いかと.
 で,幼年学校卒業者と中学から士官学校に受かった人たちが士官学校に入るんだけど,このときにまず士官学校の予科に入る.
 予科を昔は中央幼年学校といったというくらいの認識で,初めはの内はよいと思う.
 予科を出て半年位の間,実習みたいな感じで実戦部隊で見習いをして,それから士官学校の本科に入る.
 本科を出ると士官学校を卒業したことになって,見習い士官になる.

 陸軍大学というのは,もともと参謀養成の学校だったんだけど,そのうち,ここを出ないと出世がとても困難なようになっていって,高級指揮官の養成施設みたいになっていった.
 入れるのは限られた一部の人たちだけで,誰でも入れるところじゃない.


 【質問】
 祖父は,「大学行きたかったけど,陸軍士官学校に行った」そうなんだけど,そういう進路ってよくあったの?

 【回答】
 優秀だけど,家に大学に送ってやれるだけのお金のないときには,よくあったことらしい.

 たとえばウィキペディアによれば,

 海軍は徹底的な学力主義で,全員の席次が明らかになっていたが,陸軍士官学校では成績は非公表であった.
 士官学校の成績よりも,陸軍大学校に合格するか否かが,陸軍将校の一生を左右する重大問題であった.
 大体,上位2割以内でないと陸大の合格は困難であったようである.
 陸大卒は天保銭組と呼ばれ,参謀や中央の要職を歴任するが,無天は余程の勲功でもない限り,その殆どは軍人としての生涯を部隊勤務で終わる.
 後者の場合は,将官に進む割合はかなり低く,大佐から少佐,人によっては大尉で予備役になるものもいた.
 今の自衛隊とは異なり,陸軍将校には身分の保障は無いため,いつ予備役編入で,クビになるかわからない,実に不安定なものであった.

 それでも,わずか20歳そこそこで高等官になれる陸軍士官学校は魅力的で,全国の中学の秀才を集め,
「一高〔=現在の東大〕・海兵・陸士」
などと並び称されるほどであった.
 また,上級学校に進学できない貧しい家庭の子にとっては,無料で進学できる陸士は憧れの的であった.

 まあ,縁故も金も何もない人間が立身出世しようと思ったら,軍人になるのが一番手っ取り早い,と古来より言うし.

 なお,パウエル前国務長官はROTC出身.これは自衛隊における貸費学生+予備自衛官補みたいなもの.
 米軍はROTC出身者が幅をきかせてるっぽい.


 【質問】
 旧陸軍の幹部候補生制度について教えてください.

 【回答】
 旧陸軍の幹部候補生制度は本来、中学校の学校教練に合格した者が徴兵後に志願、受験して幹部候補生となり、2年間の訓練終了後に見習士官を経て予備役少尉となるというものであったようです。

 日華事変後になると、大学卒業者(当時は社会的エリート層)と言えども一兵卒として徴集される可能性が高くなってきたので、大学卒業者達の多くは、どうせ兵役に服する事になるのなら、上記の制度を利用して将校に成っておこうと考えたようです。
 元来、中学校(現在の高校)卒業者なども受験する試験であったので、彼ら大学卒業者にとってはそれほど難しいものでもなく、結果として大半の大学卒業者は少尉任官と同時に予備役編入、そして即日召集という形で軍務に就いたようです。

 また、昭和19年には「特別甲種幹部候補生制度」が制定されました。
 これは、速成士官を養成するための制度であり、学徒出陣者の多くはこの制度で少尉に任官していたようです。
 対象は大学、高等学校、専門学校に1年以上在学した者及び師範学校卒業者です。
 従来の幹部候補生制度との相違点は、採用と同時に伍長に任官し、その後予備役少尉となるという点です(従来の制度では、2等兵から始まる)。

 以上の各幹部候補生制度の陸軍内での位置付けとしては、とにかく戦時下で消耗の激しい下級将校(小隊長クラス)を十分に確保しておきたいという狙いも下で実施されていたようです。

(日本史板)


 【質問】
 陸軍経理学校について調べています.
 この方
http://www6.ocn.ne.jp/~futou/sub32.htm
は終戦近くの時に卒業された9期生らしいですが,陸軍経理学校はいつ開校されたんでしょうか?
 検索すると,大正から存在するらしいですが,終戦近くで9期生となると計算があいません.どうしてでしょうか?

 【回答】
 陸軍経理学校は,明治19年(1886年)に開校した陸軍軍吏学舎が元になっています.
 当初は初級経理部士官を養成するため,下士官から選抜された生徒を採用していましたが,明治23年(1890年)に陸軍経理学校と改称されてから高級経理官の養成を行うようになりました.

 陸軍経理学校の生徒は上記の通り,下士官や兵科の尉官から選抜されていました.
 しかし,明治36年〜大正11年までの19年間と,昭和11年以降敗戦までの10年間は一般から生徒(主計候補生)を募集しています.
 9期生ならおそらく昭和19年入学という事ではないかと.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE


 【質問】
 東條を始めとする日本陸軍の対米開戦支持派って,アメリカに留学経験とか行った経験ないのでしょうか?
 五十六のようにアメリカの強大な工業力を知っていれば,対米開戦という愚考を犯すことはなかったのでは?  

 【回答】
 いわゆる「バーデンバーデンの密約」に代表されるように,当時の陸軍では,ドイツに留学したメンバーが派閥として非常に大きな勢力を持っていました.
 当時の陸軍では,陸大を卒業した将校の多くが一度は,専修語学の国を対象とした外国出張の機会を与えられていました.
 帰国後も彼らは派閥を形成し,陸軍内部で大きな勢力を形成していきます.

 なお,英語専修の場合は英国が出張先に選ばれたようで,今村均大将と本間雅晴大将は大正7年に英国に出張しています.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE


◆◆◆参謀関連


 【質問】
 参謀長,総参謀長,参謀総長ってどう違うのですか?

 【回答】
 旧陸軍であれば,参謀総長は参謀本部の長.
 第1総軍・第2総軍・航空総軍・昭和17年9月30日までの関東軍は「参謀長」
 南方軍・支那派遣軍・防衛総司令部・昭和17年10月1日以降の関東軍は「総参謀長」


 【質問】
 よく軍事系の資料を漁ると,軍集団,軍,師団,連隊などを統べる指揮官の階級については書いてあります.
 一方,参謀や幕僚にてついて,たとえば聯隊規模の参謀はどのくらいの階級……というようなデータを纏めた資料は見た事がありません.
 参謀や幕僚の組織編成などについて,詳細を記述した書籍などはあるのでしょうか? 

 【回答】
 日本のものなら,日本近代史料研究会編「日本陸海軍の制度・組織・人事」(東京大学出版会,1979)に,主要部隊の参謀,中央機関の所属について書いていますし,世界のものは,一部ですが,秦郁彦編「世界諸国の制度・組織・人事1840-2000」(東京大学出版会,2001.12)に掲載されています.
 ちなみに,ここには,日本駐在大公使館付武官なんてのも掲載されています.

眠い人◆gQikaJHtf2

 ほかに,外山操・森松俊夫編著「帝国陸軍編制総覧」(芙蓉書房)あたりかと.
 あと,戦史叢書にも記載のある巻がある.

 参謀がいるのは師団以上(一部例外有り)で,軍司令部以上は隷下部隊の規模などにより異なり,師団では参謀長(概ね大佐,一部は少将または中佐)1名,参謀(中佐〜大尉)3名[一部は2名]

 戦史叢書「本土決戦準備<1-関東の防衛-」によれば,

第1・第2総軍司令部
 参謀長(大将・中将)1名,参謀副長(中将・少将)1名,参謀(大佐)2名,参謀(中佐・少佐)6名,参謀(少佐・大尉)4名

方面軍司令部(第5,第10〜第13,第15〜第17) ケは軍管区司令部との兼勤
 参謀長(中将・少将)1名,参謀副長(中将〜大佐)ケ1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名]

軍管区司令部(北部・台湾・東北・東部・東海・中部・西部・朝鮮) ケは方面軍司令部との兼勤
 参謀長(中将・少将)ケ1名,参謀副長(中将〜大佐)1名,参謀(中佐・少佐)6名[うちケ3名],参謀(少佐・大尉)4名[うちケ2名]

軍司令部(第50〜第58)
 参謀長(中将・少将)1名,参謀(大佐〜大尉)5名

師団司令部(近衛第3,第44,第72,第73,第81,第84,第93)
 参謀長(大佐)1名 参謀(中佐〜大尉)3名

師団司令部(第140,第142,第143,第151,第152,第157)
 参謀長(1名),参謀(3名)

師団司令部(第201,第202,第209,第214)
 参謀長(中佐)1名 参謀(少佐・大尉)2名

師団司令部(第221,第222,第224,第229,第234,第308,第316,第321,第322,第354,第355)
 参謀長(大佐・中佐)1名 参謀2名


 【質問】
 参謀本部の独立とは具体的にどういうことですか?
 あと,独立してるなら,中の人は陸軍省から出向扱いみたいにして参謀になるのですか?

 【回答】
 参謀本部の仕事は軍令…つまりすべての陸軍の作戦・行動を計画実行する機関であり,統帥権を持つ天皇の手足となって働くことが建前上の存在意義です.
 いわば,政府や議会から横槍を入れられることなく,建前上は天皇の意のままに陸軍作戦を考え実行できます.
 これが参謀本部の独立性.
 参謀本部は,永遠に「極東からロシア人を追放する」方法を考え続け,いつでも実行できるよう備える権利があります.
 そこで政府に対して「ここと同盟組め」「この装備をそろえる金をよこせ」「ここに基地を造らせろ」と,憲法にこだわらないで実現化の努力を続けることができます.

 これに対し,陸軍省は政府の一部であり,
「金がないんです.シベリアから撤兵します.ついでに師団も減らします」
とか
「イギリスと約束してるんです.ドイツと戦ってください」
とか,政府を代表して参謀本部と直談判できる立場にあります.

 参謀本部が陣取り合戦の夢を見られるのに対して,陸軍省は日本政府の陸軍担当として,予算や条約を第一にして日本という国家の利益と地位を守る責務があります.
 陸軍省が従うのは参謀本部のわがままではなく,第一に憲法,外務省が主導して他国と結んだ条約,そして国家予算の配分を守る義務を負っています.


 【質問】
 旧日本陸軍の参謀職を務めるには,「陰謀」「凶暴」「無謀」の3つのスキルを持ってないとなれないと聞いたのですが,本当でしょうか?

 【回答】
 それは戦前,参謀の本分を越えて,現地部隊を仕切ったり,政治的行動をとる参謀を揶揄した言葉.


◆◆◆◆辻〜ん(辻政信)

 【質問】
 辻政信(辻〜ん)って誰?

 【回答】
 辻政信といえば評価の分かれる人物評価として有名ではありますが,彼の来歴を簡単に紹介しますと,氏は陸軍幼年学校→陸軍士官→陸大と優秀なる成績で卒業し恩賜の軍刀も拝領しています.
 青年将校時代の彼の評判は概して良く,演習中にもヘタリ込む部下の小銃を代わりにもってやり,ひたすら走り続けたという逸話も残る恩情あるタフガイだったよーです.
 日支事変,ノモンハン,マレー,ニューギニア,ガダルカナルと大本営参謀として転戦し7度の戦傷を負い,その体には英米中ソの弾丸が埋まっていると自ら誇らしげに語っていたとか.
 第2次大戦中は大戦前半の活躍から,「作戦の神様」とまで呼ばれました.
 しかしその無謀とも受け取れる積極果敢さは,
「上官をも平気で面罵罵倒する」
「上官の命令もないまま独断専行」
等,軍関係者からは忌み嫌われることも多かったようです.
 後に彼は帰国してから本書を執筆,ベストセラーとなり,晴れて国会議員となりますが,1961年ラオス旅行中に謎の失踪を遂げてます.
 一説には現地の元日本兵に殺されたとも.

 その辻政信の著作『潜行三千里』(
 数年前,中野の古書店で確か千円.一見してレアものということは分かったんですが,光人社から再版――オリジナルと厳密には差異があるのか不明――もされてるし,大した価値は無いだろうと思いながらも,これも何かの縁だろうと思って購入しました.
 昭和32年,東都書房発行の一刷りであります.
 奥付はまだ検印が廃止されておらずちゃんと検印紙が付いてるのが,時代を感じさせますね.

 物語は2部構成となっており,終戦をタイで迎えた彼が英軍の進駐してくる前に軍隊を離れ,タイ国内の寺に僧侶に変装して潜り込み,後に重慶の国民党政府に赴く経緯を記した「国外編」,戦犯狩りのほとぼりが冷めて・・・いやもとい(笑)蒋介石政府に幻滅して日本に帰国してからを描く「国内編」に分かれております.

 文中からいくつか抜き出しますと,

「悪かった.
 自分でこの困難な作戦を完遂しようと自惚れていたが,思えばこの一年,あまりにも強引過ぎた.
 最善と信じたことでも,上官や第三者から見れば必ずしも善意のみにとらわれてはいない」

 ↑過去の所業を反省する辻さん.
 本人も煙たがれていたのは自覚していたようですが,気づくの遅すぎです^^;

(玉音放送後)「申し訳がない.私も太平洋戦争を主張した1人だ.
 その結果が民族を破局に・・・腹を切っておわびするのが武士道の教えだ.
 無条件に武装をとき,敵の命に従うことが陛下のお心である.
 再び信を失うような,どのような行動も許されない.
(中略)
 1人で大陸に潜り,アジアの中に民族の再建を図ろうとの決意を固める」

 ↑辻さん決意する.
 彼の潜伏は決してシンガポール占領時の華僑大量虐殺の関与を疑われてたり,,フィリピンでのバターン死の行進での捕虜殺害指示疑惑などで戦犯にかけられること確実だったからではありません!
 彼の逃避行は日中泰ひいては東亜のクサビとなり,欧米からのアジア諸国の独立を達成せんが為の崇高なる目的を完遂するためだったのです〜(棒読み).

 文中人称が省略されてるのに主語がいつのまにか切り替わっていたりと,読みづらい部分は多少ありますが,戦後ベストセラーとなった本だけあって,あくまで大冒険スペクタルアクション.
 結構読んでいてもハラハラドキドキさせられて楽しめますね.
 あくまでフィクションとしてならばね・・・^^;

 【追記】
 ネット検索してみると,な,なんとこの本,最安値でも22000円近くの値がついてました.
 売ったりするつもりはないですけど.
 まー,家宝にでもしますかね♪


ほっけ = うるふ in mixi,2008年01月04日22:38


 【質問】
 ノモンハンの敗戦の責任を取らされて,司令官とか部隊指揮官がことごとく予備役や自殺を強要されているのに,辻ーんがその後復活できたのは何で?

 【回答】
 辻ーんも責任をしっかり取らされていますよ.予備役とまでいかないけど左遷されてます.
 ただ,彼は陸大出でしかも将来,参謀本部の主要ポスト確実の恩賜の軍刀組でした.
 陸大閥は当時,大きな力を持っていたので,その辺の絡みから,それらの人々と比較したら彼の処罰は激甘になったのでしょうね.
 その辺は,クーデター騒ぎすら不問にする,身内に甘い陸軍の腐敗体質と言うか日本人の性質と言うか.

 辻の凋落と復活の経緯を書くと,彼はノモンハン事件の責を問われ1939年9月に第11軍司令部付を経て,支那派遣軍司令部付に飛ばされています.
 司令部付というのは正式な参謀と異なり,特定の業務を持たない閑職,ぶっちゃけ窓際族です.
 ここで東亜連盟運動を推進して一騒動を起こします.
 更に1940年8月に中佐に昇進し,「台湾軍研究部員」に転出します.当時の主戦場が大陸奥地に移りつつある事をみれば暇な所です.
 まぁ,大陸に置いておくと何するか分からんから,また飛ばされたのでしょう.
 戦争が大好きな辻はそこで,半年間に渡って南方作戦の研究・立案に熱中するのですが,今まで対ソ作戦を主眼としてきた日本陸軍は,南方作戦については白紙同然の状況でした.
 そのような背景もあって,辻は一躍南方通の評価を得ます.

 ところが天が辻の活躍を欲したのか,仏印進駐などで日米関係が急速に悪化.南方作戦が現実味を帯びてくると,一中佐ながら辻の書き上げた作戦計画書が,ほとんどそのまま採用される事になります.
 そして太平洋戦争が始まると,中央に戻っていた辻はマレー攻略を担当した山下奉文率いる第25軍の作戦主任参謀に抜擢されます.
 そこで辻は,69日間でシンガポール要塞までを攻略する神速ぶりを発揮し,参本作戦班長に転任します.
 その後の活躍ぶりは周知の事実と言う事で(笑).

ue◆WomMV0C2P.


 【質問】
 辻ーんの現役時代の評価はどうだったのでしょうか? 

 【回答】
 金沢連隊時代は兵や下士官からの評判も良く,後年,彼が議員として支持基盤となったほどです.
 また,連隊時代の上官であり,ノモンハン時,参謀長だった磯谷廉介は積極果敢な所を買っていたそうです.

 評価が真っ二つに分かれていたのは当時からで,東条英機は「将来,国軍の至宝たりうる人物」と絶賛している一方,青木重誠・第11軍参謀長は「協調性に欠け自我が強烈で,将来中央の要職には絶対に充用してはならない」と酷評しています.
 ヒデキに人を見る目が無いのは富永恭次,牟田口廉也,田中隆吉辺りが腹心なので今更ですが…

 また,太平洋戦争開戦時,マレー攻略を担当した「第25軍」(山下奉文)の参謀であり,辻の上官であった池谷半二郎は
「勇敢の一語につき,戦機を見破る眼は非凡であった.戦いのツボをよく心得ていた.
 不死身で戦争が好きで好きで堪らぬ男で,師団,軍参謀としてはうってつけ」
と評しています.
 そして後年,池谷は『ある作戦参謀の回想手記』において辻を「治世の能臣,乱世の奸雄」,と結論付けています.
 この辺が一番妥当な評価でしょう.

 因みに山下奉文の彼の評価は「こすい男」だそうです.

 さらに言えば,基本的に統制派からは好かれて,皇道派からは嫌われていました.
 彼もそう言った感じで選り好みしています.

軍事板

faq8d

 以下,辻〜んの人となりを伝える1エピソード.

 太平洋戦争末期,バンコク周辺で構築中のある陣地を軍司令官が視察することとなった.

 軍司令官はその構築中の陣地を見るなり,
「これで守れるわけないだろうが!」
と怒りだし,陣地の構築を指揮していた中隊長を,部下の面前で怒鳴り散らした.
「憲兵上がりで実戦経験のないお前に何が分かるか!」
 軍司令官は中隊長を睨みつけた.

 そこへ……

 汚れた三角巾で腕を釣り,血の跡も生々しい軍服を着た,我らが辻〜んが登場! (w`;

 辻〜んは軍司令官とその取り巻きを無視して一人,陣地の出来を褒め称え,
「これなら大丈夫だろう.軍司令にもよく言っておく,今日のことは悪く思わんでくれ」
と言ってその場を収め,颯爽と去っていった.

 そして,10日後.
 追加の工事が完成した時,中隊長の所へ辻〜んがやって来て,陣地の出来映えを褒めた後,大量のタバコを配って帰っていったのであった……


 
   ∧_∧   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  (・(・・)・U <  無駄に格好いいぞ! 辻〜ん!!
  /JベタJ   \__________

ベタ藤原 in mixi,2007年04月18日21:12


 【質問】
 辻政信参謀は最前線を視察して勇敢だった,とよく聞きますが、参謀が最前線を視察するのは,日本含めて各国でも珍しい事なのですか?

 【回答】
 本来,最前線に進出して状況を掌握し、指揮官に報告するのは参謀の職務。
 指揮官(上級部隊)の企図徹底のため、一段階下の司令部に行くのも職務。
 別段珍しくない。

 ただ、参謀勤務が官僚化すると、状況掌握を下級部隊からの報告のみに頼りがちになる。
 辻参謀の「視察」は、当たり前のことをやっているだけで、むしろ視察に行かない他の連中が異常。
 辻参謀の「視察」に伴う問題等は、周知のことと思うので割愛。


 【質問】
 辻ーんの地元での評判はどうなのでしょうか?

 【回答】
 参議院議員としての彼はかなり出来る方だったので,地元での評判はさほど悪くなかったりします.
 自衛隊の災害派遣の基礎を作ったのは辻だったりしますから.
 故に地元では辻批判はタブーだったりします.いや,マジで.

軍事板

地元にある,辻〜んの銅像

ベタ藤原 in mixi支隊


 【質問】
 辻政信って結局,最期はどうなったんですか?

 【回答】
 1961年(昭和36年),紛争を仲裁するとして単独で分け入ったラオス・ジャール平原で行方不明となった.
 虎に食べられた,もしくは戦犯を逃れた彼をイギリス軍が暗殺した,現地に残留した元日本兵によって殺害された,現地の共産勢力に処刑された,などの説もある.
 参議院議員(右写真はその当時)の職は,本人の消息が掴めないため,1965年の任期切れまでその議席は保たれていた.

日本史板


◆◆◆部隊各論

 【質問】
 旧日本陸軍は部隊番号をどのように呼んでいたのでしょうか?

 【回答】
 陸軍省への報告では,例えば
・第四百九(シヒャクク)連隊
・第四百十(ヨンヒャクジュウ)連隊
とバラバラだそうな.

 というのも,連隊の番号の読み方は,陛下から連隊旗が授けられるとき,陛下が勅語の中で何というかで決まるため.
 それを連隊旗手が聞き取って,読み方を陸軍省に報告した.
 中には,あがって聞きそびれる奴もいたらしい.


 【質問】
 日本陸軍の戦車連隊について教えて下さい。
 戦車の定数は何両で、戦車以外にどういった種類の車両が何両あったのでしょうか?

 【回答】
 1942年当時の戦車第一聯隊の定数は、

 連隊本部:九七式中戦車×2、九五式軽戦車×1
 第一中隊中隊本部:九五式軽戦車×1
   第一小隊〜第三小隊:九五式軽戦車×各3
 第二中隊中隊本部:九七式中戦車×1、九五式軽戦車×2
   第一小隊〜第三小隊:九七式中戦車×各3
 第三中隊、第四中隊は第二中隊と同じ

 合計して、九五式軽戦車×約20、九七式中戦車×32くらいでしょうか。
 これが時代が下ると、更に砲戦車中隊が1個増え、戦車の定数は77両となります。

 戦車師団の編成表上では、装軌車1,579両、装輪車875両。

 師団司令部:装軌車×35、装輪車×31
 旅団司令部:装軌車×10
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
 旅団司令部:装軌車×10
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
   戦車聯隊:装軌車×178、装輪車×26
 機動歩兵連隊:装軌車×222、装輪車×87
   歩兵大隊×3、歩兵砲中隊×1、整備中隊×1
 師団速射砲隊:装軌車×45、装輪車×87、機動47mm砲×18
   速射砲中隊×3、整備中隊×1
 師団捜索隊:装軌車×91、装輪車×12
   歩兵中隊×1、砲戦車中隊×1、整備中隊×1
 機動砲兵聯隊:装軌車×89、装輪車×73、九○式野砲×12、九一式重榴弾砲×24
   野砲大隊×1、榴弾砲大隊×2、整備中隊×1
 師団防空隊:装軌車×105、装輪車×63、八八式高射砲×8、九八式対空機関砲×24
   高射砲中隊×2、機関砲中隊×4、整備中隊×1
 師団工兵隊:装軌車×122、装輪車×50
 師団整備隊:装軌車×15、装輪車×152
 師団輜重隊:装軌車×100、装輪車×216

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 戦争末期の日本軍対戦車部隊の様相は?

 【回答】
 以下に一例を引用する.

「私は汗と埃にまみれて走っていた.
 足元には焼け落ちた屋根瓦が散乱していて,土煙が舞い上がった.
 汚い,破れたシャツ姿のこの一団は,兵隊と言うにはあまりにみじめな格好をしていた.

 終戦間近に召集を受けた私は,千葉県の柏の連隊に入隊すると,すぐその翌日,熊本へ回された.
 爆弾を持って戦車に肉薄攻撃する練習を,そこで毎日やらされていたのである.

 そんなある日,市街の焼け跡の整理に行って,熊本城の天守閣址へ登った帰途である.
 私は酔ったような気持ちで走っていた.魂を震撼させられた者の陶酔とでも言うべきものであろうか.
 ついさっき,私は見たのだ.輝く生命の姿を――.

 熊本城からの眺めは,庇護平野の彼方に,阿蘇の裾野が霞む広闊な眺望である.
 雄大な風景ではあるが,いつも旅をしていた私には,特に珍しい眺めという訳ではない.
 〔略〕
 あの風景が輝いて見えたのは,私に絵を描く望みも,生きる望みもなくなったからである.私の心が,この上もなく純粋になっていたからである.死を身近に,はっきり意識するときに,生の姿が強く心に映ったのに違いない.

 自然に心から親しみ,その生命感を掴んでいたはずの私であったのに,制作になると,題材の特異性,構図や色彩や技法の新しい工夫といったようなことに囚われて,最も大切なこと,素朴で根源的で感動的なもの,存在の生命に対する把握の緊張感がかけていたのではないか.そういうものを,前近代的な考え方であると否定することによって,新しい前進があると考えていたのではないか.
 また,制作する場合の私の心には,その作品によって,なんとかして展覧会で良い成績を挙げたいという願いがあった.
 商売に失敗した高齢の父,長い病中の母や弟というふうに,私の経済的な負担も大きかったから,私は人の注目を引き,世の中に出たいと思わないではいられなかった.
 友人は次々に画壇の寵児になり,流行作家と言われるようになっていったが,私は独り取り残され,焦りながらも襲い足取りで歩いていたのである.
 こんなふうだから,心が純粋になれるはずがなかったのである.

 そのときの気持ちをその場で分析し,秩序立って考えたわけではないが,だた,こう自分自身に言い聞かせたのは確かだ.
 もし万一,再び絵筆を取れる時が来たなら――おそらく,そんなときはもう来ないだろうが――私はこの感動を,今の気持ちで描こう.
 汗と埃にまみれて熊本市の焼け跡を走りながら,私の心は締めつけられる思いであった」

(東山魁夷 from 「日本の名随筆15 旅」,作品社,1983/9/25,P.18-20)


 【質問】
 旧日本陸軍に,現在の陸自武器科に相当する武器装備品の高段階整備をもっぱら行う部署はあったでしょうか?
 有ったとしたら,何と言う名称で呼ばれていたのでしょうか?

 とりあえず,旧軍に武器科は無かったようですし,旧軍輜重兵の任務と陸自武器科の任務は違うようでした.

 【回答】
 各師団には兵器勤務隊120名程度,くろがね4起1台,自動貨車8台,武器修理車1組,軽修理自動車1組で編成された部隊があります.
 此処で,各武器の修理を行うようになっています.
 装備を最も充実させた部隊では,材料廠というものを有しています.
 これは,そのまま修理工場というものです.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 旧日本軍の騎兵(実馬での)はいつごろまで存在したのでしょうか?(剣恒光 ◆yl213OWCWU)

 【回答】
 「戦車マガジン別冊 中国大陸の機械化戦争と兵器」によりますと,老河口作戦内におきまして,騎兵第4旅団が老河口飛行場占領のために投入され,1945/3/17,急襲により,飛行場占領に成功.
 その後,同市街の陣地にも攻撃をかけたが,これは成功せず,戦車,歩兵,砲兵の協力を得て,4/7,攻撃を再開,これを占領した,とのことです.

 すなわち,戦争末期まで存在した事は間違いありません.

(消印所沢 ◆z3kTlzXTZk)


 【質問】
 騎兵部隊になりたい場合は志願なのでしょうか? それとも身分が高い人?

 【回答】
 旧日本軍ならば,将校以上では志願が基本。下士官兵は本人の意志はあまり重視されない。
 身分は特に問われない。
 旧軍の場合は,身分や出自をとやかく言われるのは近衛師団くらいか。


 【質問】
 日本陸軍の獣医について教えてください.

 【回答】
 獣医部では陸軍で使用す主に軍馬の医療(稀に軍犬の医療も)を担当します.
 その任務は軍馬病毒予防,傷病馬の治療,馬事衛生一般に関する業務と,合わせて,食用獣の検査,蹄鉄に関する業務を取り扱います.
 1930年代,平時の陸軍では36,000頭,戦時になると70〜80万頭の馬が必要になるので,この任務は重要です.

 獣医部の将校担当官は,大学・専門学校獣医科卒業生を見習獣医として採用し,陸軍獣医学校で教育した後,二等または三等獣医に任命します.
 もう一つのスキルパスとして,上等蹄鉄工長(後,獣医務准尉)を実業学校令に基づく獣医学校に派遣し,卒業と共に,獣医師免許を得ることで三等獣医となるケースもありましたが,後に獣医師免許取得は不可能になりました.
 実業学校令に基づく獣医学校というのは,大体,尋常小学校卒業後に進学する形になるので,課程自体は大体が農業高校みたいなものだと思ってください.
 なので,医師としての専門性を有する技能を付与するのは問題有りとされたみたいです.

 実業学校での獣医師免許取得が不可能になったので,少尉候補者は,陸軍獣医学校で教育した後,獣医務准尉の上の階級としての獣医務少尉から獣医務大尉までの階級が出来ました.
 但し,彼等は,獣医師免許は持っていません.獣医師免許を持っていないので,医療行為は出来ません.
 主に彼等の業務としては,食用獣の検査,簡単な病気の治療や予防,それに一番重要な業務として,馬への蹄鉄を打つ業務があります.
 一種,人間を診る医者に対する看護師みたいなものを想定していただければ良いのではないでしょうか.

 最高位は獣医中将で以下,獣医少将,同大佐,同中佐,同少佐,同大尉,同中尉,同少尉が獣医師免許を持っている者で,獣医師免許のない者は,獣医務少尉,同中尉,同大尉までとなっています.
 以下,獣医師免許のない獣医務准尉,獣医務曹長,獣医務軍曹,獣医務伍長と続きます.

 余談ながら,大学以外の獣医師養成の専門学校としては,官立では帯広,私立では慶応義塾,麻布,日本,公立では山口県立,大阪府立,東京にありました.
 これらは高等農林学校に属するものです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2

従軍中の犬


 【質問】
 関東軍って日本陸軍内の一組織ですよね.
 なんで関東軍なんて特別な名称が付いてるんでしょうか?
 関東軍の守備範囲はどの辺りまでだったのでしょうか?

 【回答】
 まず,地方名を冠した軍は,関東軍だけではありません.朝鮮軍,台湾軍,支那派遣軍などがあります.
 「関東」というのは,一都六県の関東地方ではなく,山海関の東,すなわち旧満州を意味します.
 要するに,中国の関東地方に本拠地を置いているから,「関東」軍,というだけの名称です.

 関東軍は,日露戦争後,日本に経営権が移った南満州鉄道の警備のために編成された軍です.
 ちなみに当初の名称は満州駐箚軍,関東軍に改編されたのは大正8年です.
 関東軍の警備区域は,前述のように,満鉄沿線のみからスタートし,後に東三省(黒竜江省・吉林省・奉天省の総称)に拡大,満州事変後は熱河省もその勢力下に置いています.


 【質問】
 関東軍の対ソ作戦計画は,どのようなものだったか?

 【回答】
 1933年に作成された「年度作戦計画」では,当初より戦場をソ連領内に求め,まず満ソ国境東部(東安・牡丹江省方面)からソ連領に急速侵攻し,ウラディヴォストーク周辺の地上戦力・航空戦力を撃滅して後,それまで持久していた国境西部(大興安嶺・外蒙古方面)で攻勢に出,ソ連に決戦を強要,これを撃破して最終的にはバイカル湖方面に進撃する,というものだった.
 東正面の攻勢は,動員開始から約2ヵ月後に始まり,だいたい2ヵ月で完了することが見込まれていた.

 この,東正面での第1期会戦,西正面での第2期会戦(決戦),バイカル湖方面への進撃というパターンは,1936年度の作戦計画まで引き継がれた.

 1935年の対ソ作戦計画は,日本陸軍の「寡をもって衆をうつ」作戦の典型と言ってよい.
 まず,開戦すると全力を挙げて東正面で航空撃滅戦を実施して制空権を確保.
 その上で地上軍主力(10〜11個師団)は国境を突破して攻勢をとり,所在のソ連軍を撃破.
 その際,北正面(黒河方面)から支作戦(4個師団程度)を行い,国境線近くのシベリア鉄道を分断し,補給を妨害する(1935年度から)
 東正面の作戦成功後,そこから6個師団程度を西正面へ転用,新たに集中する増加兵力と合わせ,約18個師団を以ってソ連軍主力に決戦を挑み,これを撃破,バイカル湖付近まで進撃する,というシナリオだった.

 だが,関東軍の情勢判断によれば,ソ連軍主力は西正面から来攻することになっているのだから,もし最初の東正面の攻勢が失敗すれば,このシナリオは破綻し,全戦線崩壊を意味する.
 また,東正面の攻勢が成功するまで西正面で持久できるか,ここにも作戦計画の苦しい点があった.

 東西2正面での攻勢のパターンが崩れたのは,1937年度の対ソ作戦計画からである.
 西正面決戦は断念,東部決戦だけが志向されるようになった.
 東部では,大攻勢前の初動作戦が設定された.これは,あらかじめ国境地帯に展開させてある奇襲兵力によって,錐を揉むようにソ連側の国境拠点の弱点部分を突破,ソ連軍を撹乱し,ソ連軍に攻勢作戦を取らせないようにしておくことを狙った.
 そして,初動作戦が成功すれば,間髪を入れず主力攻勢(15個師団基幹)を行い,一挙に東正面のソ連軍を撃滅する,と言う作戦である.
 西正面では決戦は行わず,終始持久し,その後の進撃も断念された.兵力不足のためである.

 1937年度型の作戦計画はその後,北正面への攻勢案が台頭するなどの若干の変化はあるが,基本的には1940年度まで引き継がれた.

 極東ソ連軍強化に伴う既成の対ソ作戦計画の崩壊を恐れた陸軍は,1937年になると関東軍増強に乗り出す.
 この年,関東軍は従来の3個師団から2倍の6個師団へ増強.
 翌38年には8個師団,
 40年には12個師団
へと増え続けた.

 部隊配置も変化した.
 1937年までは,師団以上の戦略兵団は都市周辺に展開していたが,38年以降は,ソ連との国境付近へと移動した.1937年に国境隣接地区への師団配備が2個師団だったのに対し,38年には5個師団へと増えている.
 これは,関東軍が反満抗日勢力に対する武力弾圧を,基本的には独立守備隊・満州国軍・満州国警察などに任せ,自らは対ソ戦準備に専念し始めたことを意味している.
 また1938年には,8つの大規模な国境要塞が完成,師団とは別に約2万人の兵力が国境地帯の拠点に貼りつくことになった.
 西正面のハイラルと東正面の東寧・虎頭,北正面のアイグン要塞はとりわけ堅固なもので,3000〜6000人の守備隊を収容し,厚いところで3mのコンクリートで固められた永久陣地だった.
 東正面・北正面の国境要塞は防御だけではなく,攻勢作戦の拠点としての役割を担っており,24p榴弾砲・30cm榴弾砲といった,日本陸軍としては例外的な大型の遠距離重砲が備えつけられ,対ソ戦の初頭に専制的にソ連側施設・鉄道を破壊することを目指していた.

 この間,支那事変が起こり,戦線が拡大して,止めどもなく戦力が注ぎ込まれていたが,関東軍増強は続けられた.
 中国戦線では慢性的な兵力不足に日本軍は悩まされたが,関東軍からの大規模な兵力転用は考えられなかった.
 それどころか,日本陸軍は関東軍には,精鋭部隊と見なされていた伝統ある常設師団を優先配置し,中国戦線には急造した特設師団を送った.

 これは,陸軍がいかに対ソ戦準備を重視していたかを示している.

 航空戦力も東正面に集中配備されたが,戦力不足から,実際に対ソ戦を実施する際には,さらに海軍航空部隊の支援を受けることになっていた.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.159-163を参照されたし.


 【質問】
 去年死んだうちの祖父が、陸軍の第47連隊所属でノモンハンで重傷を負いながらも生き延びて帰ってきたんだけど、九州出身の兵士は陸軍の中で最強だったってほんと?
 じいちゃん、結構ぼけてたからなぁ。
 あと、東北出身兵は九州出身兵の次に強かったとか。

 【回答】
 攻撃の九州、防御の東北。九州では特に菊、龍兵団が有名。
 旧日本陸軍久留米第56師団が当時世界一強いと言われた竜兵団。
 光人社NF文庫の『菊と龍』は良かった。

(軍事板)


 【質問】
 一般に,上方の兵隊は弱いと言われ,
「またも負けたか八連隊,
 それでは勲章九連隊」
と,彼らを揶揄(8連隊は大阪,9連隊は京都)する言葉まであり,日露戦争以来,日本一弱いと評判だったが,大阪の第4師団,通称「淀兵団」は,本当に日本一弱い師団だったか?

 【回答】
 旧陸軍歩兵第八聯隊は“負け戦を経験していない”精 強な部隊であり、またも負けたか8連隊の俗謡はまったく根拠がない.

 明治維新後、それまで藩が独自に持っていた軍隊は日本国の軍隊として再編 成され、師団の前身である「鎮台」が置かれるようになりました。大阪に鎮台 が置かれたのは明治4年8月。俗謡にうたわれた歩兵第8聯隊(以降、8連隊 と表記)は、明治7年5月14日に編成を完結しています。
 当時、大阪鎮台以外の鎮台には士族出身者が多く定着していましたが、大阪 鎮台には士族出身者は少なく、町人・百姓出身者が大半を占めていました。

 創設間もない明治7年には「佐賀 の乱」に出動.
 明治10年に起こった西南戦争には、8連隊も動員されました。九州の各地 を転戦し、明治天皇から「勇戦劇闘ご嘉賞」の勅語を賜るほどの戦果を挙げています。
 ちなみにこれは全日本陸軍の歴史上空前絶後の快挙であって、後年、 軍司令官クラスが各部隊にしばしば授与した感状より遥かに価値の高いもの です。

 にも関わらず、どうもこの頃あたりか ら「またも負けたか8連隊」の俗謡が、民間から伝わり始めていました。  連隊の将校をはじめ下士官・兵達は、俗謡の悪宣伝を消すために猛訓練に明け暮れたことが連隊史にも残っており、その後第二次大戦の終戦に至るまでの戦歴をみても、部隊として戦闘に敗れたという記録はついに発見できないのです。

 唯一、負け戦とこじつけることのできる戦闘があったとすれば、後にも先に も西南戦争以外には見当たらないといわれています。薩摩隼人が白刃をかざし て斬り込んでくるのを目の当たりにしては、商人や町人出身の兵隊がたじろぐ のは、むしろ当然ではないでしょうか。当時九州・小倉に駐屯していた歩兵第 14連隊、すなわち乃木希典が率いる部隊でさえ軍旗を奪われているほどなの です。ことさら大阪の兵隊だけが「弱い」と非難される筋合いはないでしょう。
 結局「またも負けたか8連隊」の俗謡が発生した時期は、西南戦争の頃であ っただろうと推測されるだけで、決め手となる確証は得られていません。

(おきらく軍事研究会)

 この第4師団について,「現代史研究」第7集の中で,関幸輔は
「(前略)昭和14年7月,ノモンハンで日ソの激突が重大危機に陥り,逆上した関東軍が,北満国境駐屯の仙台,大阪両師団に応急動員下令,出動を命じたとき,仙台第2師団は勇躍出発,ハイラルより徒歩行軍4日間で現地到着,先遣部隊たる新発田16連隊の如きは,直ちに戦闘加入勇戦奮闘したのに反して,大阪第4師団は出動下令されるや急病人激増,何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し,怒った連隊長が医務室へ出向き,自ら軍医の診断に立ち合う始末.
 やっと出動部隊を編成したまではよいが,ハイラルから現地までの行軍では,大阪師団は1週間を要し,しかも落伍兵続出.
 現地にやっと先遣隊が到着したら,日ソ停戦協定成立.
 途端に元気が出た浪花っ子の面々,口々に戦闘に間に合わざりしを残念がり,落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰.帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった.
 (中略)
 太平洋戦争開始されるや,使い場がなく,結局大本営直轄の南方軍予備という名目で,上海付近でブラブラしながら待機.
 17年4月,フィリピン戦線で上陸以来苦戦する16D〔師団〕,65BS〔旅団〕を助けるため,5D, 18D, 21Dの精鋭師団の選抜歩兵連隊と共に増加派兵されることが下令されるや,今度こそ一巻の終わりと,青菜に塩の部隊は力なく上海からフィリピン戦線に向かったが,このときのバタアン第2次攻撃には,日本軍は強力なる砲兵団,航空部隊を準備し,本格的な立体攻撃を実施したため,大阪師団は軍主力の一翼となり,ビクビクしながら進む内に,弱り切った米比軍が勝手に白旗を掲げて降伏してくれ,またも停戦成立.
 始めての勝ち戦に有頂天になったおとぼけ師団の将兵は,まるで自分達でバタアンを占領したような大法螺を吹きまくり,郷里大阪では号外が出る大騒ぎになった(後略)」
と書いている.

 だが,昭和13年から14年にかけて第4師団長であった沢田茂(中将)は,これを
「全く根拠のない風説」と否定する.「ノモンハンへの動員令を受けたときは,広い地域に分散していたので,集合に時間がかかったのです.
 どの戦闘でも,第4師団は常に勇敢でした」
 バタアン第2次攻略戦の記録を見ても,第4師団は決して「ビクビクしながら」進んではいない.殊に4/5のサマット山,カボット台の戦闘では,敵の激しい砲撃を受けながら一歩も退かず,右翼隊,左翼隊の挟撃により,米比軍第21師団長・カピンピン将軍以下700名を捕虜にしている.

 軍司令官から一兵卒まで,皆「お国のために」戦うのだが,上級の軍人が純粋に国家を思うのに対し,兵隊は常に郷土を意識し,郷党に対して申し訳の立つ行動をしようと心がけた――と舞伝男は語っている.もしも卑怯な行為をしたり,捕虜になったりしたら,両親始め一族が町や村で人に顔向けもできなくなることを,兵達は極度に恐れた.
 また,金鵄勲章の手柄を立てれば,一族だけでなく,村や町の名誉とされた.
 このことから,都市部住民から徴兵された兵団は,そうでない兵団に比べて郷土意識が弱く,そのために相対的に弱兵となったのではないか.角田房子はそう想像している.

 また,大阪の兵団には,
「無益な犠牲を出すのは阿呆だ.不合理な戦闘は嫌だ」
という特殊体質があった――という説がある.
 第4師団はバタアン第2次攻略戦で勇戦し,武勲を立てたが,その合理性のためか,戦力はあまり低下しなかった.

 5/5,コレヒドール島へ向かう第一陣を出航地まで激励に来た本間は指揮官・佐藤源八大佐に,
「バタアン戦以来,貴隊の再三の奮戦には感謝している」
と,既にその武勲を称えている.
 そしてコレヒドール要塞攻略戦でも第4師団は勇戦,同要塞を13時間で降伏させることになった.

 詳しくは角田房子著「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」(中央公論社,1972/9/9), P.206-208を参照されたし.


 【質問】
 海軍陸戦隊についてですが
1.定員何名ですか?アバウトな数字でかまいませんので、教えてください
 また、何個大隊or中隊の編成ですか?
2.海軍には陸戦を教える学校があったのですか?それとも海兵団・海軍兵学校などでは
 一通り、陸上戦闘のことも教育するのですか?
3.陸戦隊に入ったら将来、艦艇の乗組員になることは出来ないの?
 (艦艇に乗り込む陸戦隊員除く)
4.日本海軍は所謂揚陸用艦艇って持ってたのですか?
5.根拠地隊は陸戦隊じゃないのですか?

 【回答】
 1. 昭和初期は,平時には艦固有の乗員として任務に就いています。
 訓練時には、戦艦等の大型間で一個中隊、巡洋艦で1から2個小隊、駆逐艦等の小型艦で1個分隊、戦隊ごとに大体1個大隊で艦隊内でこの大隊を集めて連合陸戦隊を編成していたようです。
 敵地上陸の際に艦に配備している小銃、機関銃を装備して陸戦隊になります。

 で、2.3に関しては、上述の通り、艦乗組時の任務の一部ですから,海兵などできっちり陸戦の教育も行ないます。

 昭和16年に館山砲術学校が開設され、ここに陸戦を専門とする砲術の練習生過程がおかれました.
 砲術学校では,対艦・対空砲術に加えて陸戦術も勉強します.高等科学生から専攻科学性に進んで陸戦を専攻し、陸軍に派遣されて教育を受ける場合もあり、そのときの専門術科は砲術ではなく陸戦になりました。
 ただし、陸戦が専門でも艦船への配置がなくなることは無かったようです。

 昭和7年内令第299号で海軍特別陸戦隊令が発令され、特別陸戦隊が出来ました。
 それによると、司令官(少将または大佐)・参謀のほか、機関長・軍医長・主計長・分隊長を置き、定員1,594名(または1,136名)で編成されました。

 太平洋戦争中には各地に特別陸戦隊が編成されましたが、例えば佐世保第6特別陸戦隊は、銃隊3個中隊、砲隊、高射砲隊、戦車隊を主とし、隊員は約1,500名で編成され、横須賀第7特別陸戦隊は、7個中隊、歩兵砲隊、速射砲隊を主とし、隊員は約1,900名でした。
 戦争末期には、乗る艦がない水兵を陸兵化し、各鎮守府に2隊以上の特別陸戦隊を新設、これらで、連合特別陸戦隊を編成します。
 この連合特別陸戦隊は、横須賀だけで6特別陸戦隊が編成され、兵力24,000名に及んでいます。

 4.に関しては、大発などを揚陸用艦艇と言うなら保有していたと言うべきでしょう。

 5.根拠地隊は陸戦隊の分遣隊と考えても差し支えないでしょう。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2,
「海軍オフィサー軍制物語」雨倉孝之
「海軍ジョンベラ軍制物語」雨倉孝之)

▼ 海軍省が昭和11年12月に発行した陸戦用参考書.
 敵前上陸から陣地構築や射撃,突撃まで詳しい解説があり,当時の海軍陸戦隊の戦法が推察出来ます.

 この戦法がこの教育後に行われた第二次上海事変で活かされたのでしょうか.
 射撃図も陸軍と異なり,水兵が射撃する図となっており,興味深い.

よしぞう(maro') in mixi,2006年07月03日01:21


 【質問】
 旧日本軍は「海兵隊」と「陸戦隊」とを別物としていたのでしょうか?

 明治初期,海軍に海兵隊があったそうです.その後陸戦隊が編制され,しばらくこの2組織は並行運用された.やがて海兵隊は解散したとの事です.

 疑問なのはすでに海兵隊が存在する中で陸戦隊を編制した事と,海兵隊を解散させて陸戦隊を存続させた事です.
 そのまま海兵隊を存続させる事は考えなかったのでしょうか?

 【回答】
 明治19年11月5日の海軍陸戦隊概則によるもので,単なる名称変更.


 【質問】
 旧日本軍はインドネシアの油田を空挺部隊で制圧したと聞いてますが,他国の空挺部隊と比べて武装・練度・戦術や運用などは見劣りしなかったのですか?

 【回答】
 パレンバンやメナドに降下した空挺部隊は,当時の陸海軍においても精鋭部隊だったことは間違いない.
 部隊の強弱を論じるのは無意味なので置くが,日本が大戦中に実施した空挺作戦は数えるほどしかない上, その規模も比較的小さい.

 ヨーロッパにおける,数個師団を降下させるような大規模空挺作戦は,その装備,部隊,航空機,あるいは戦術面でも実施は不可能だったろうし,またそんな機会も必要もなかった.
 その意味では,ヨーロッパ,特に米英の空挺部隊に比べ,武装や戦術,運用面で劣っていたのは否めない.
 まじめに取り組んでいたわけじゃないしね.

 パレンバン,メナドとマーケットガーデン作戦で検索してみるとよし.


 【質問】
 空挺部隊は,日本軍と米軍だとどっちが早く作ったんですか?
 また空挺部隊は,日米軍ともどういう扱いだったのですか?
 最後に,日本軍は41年実戦配備ということですが,空挺部隊員になる道のりを教えて下さい.

 【回答】
 米軍の空挺部隊は,確か1940年9月に一個大隊を編成していたかと記憶しています.
 なので,日本軍よりも早くに編成していますね.

 日本陸軍に於いての空挺部隊は,軍極秘扱いであり,編成の際には,陸軍の場合,「機動部隊要員」と言う名目で各部隊から優秀者を集めています.
 海軍に関しては,秘匿は特に進められていません.
 米軍に関しては,特に極秘扱いではないでしょうね.
 これも各部隊から選抜されて,空挺部隊に入隊していますので,エリート扱いではあります.

 空挺部隊の隊員になる訓練ですが,陸軍の場合,まず,陸軍の体操学校である,陸軍戸山学校に隊員が集められ,1ヶ月間地上での基礎訓練が行われました.
 ここでは関節の柔軟性を高め,筋肉を強靱にするなど,降下に必要な体力作り,運動神経の向上に主眼が置かれています.
 翌月に所沢の陸軍航空整備学校に移り,降下訓練を行い,実機を用いての降下も行っています.
 このほか,読売遊園地落下傘塔で,降下訓練も実施しています.

 基礎訓練終了後は,三方ヶ原に開設されていた,陸軍飛行学校付属挺進練習部に移り,本格的な降下訓練を開始.
 次いで,訓練の秘匿のために,満州の白城子に移駐しますが,最終的には新田原に移って降下訓練を続け,9月に編成を完了しています.

 ちなみに,海軍の方は館山で似たような訓練を行っていました.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 日本に宣伝部隊はあったか?

 【回答】
 「報道部」と呼ばれるものがあったが,大して役に立たなかった模様.
 以下,抜粋.

 ドイツの宣伝中隊(PK部隊)を真似て,同じ組織を急造したのはいいが,ドイツの宣伝中隊がどんな役割をしたのか部隊長自身知らぬのだから,大本営の編成案を首をひねっても考えつかぬ.
 〔フィリピンでは〕作家としては尾崎士郎に石坂洋次郎に私の3人きりで,空中から落とす宣伝ビラの文案を書けと言って,比島とは一体どんなところかも知らぬし,戦争を見物したこともなくては実際何を書いていいのか分かったものではない.
 画家や印刷技術者もいる.しかし画家は絵具も筆もない.印刷屋は印刷機械を持たぬ.
 つまり宣伝中隊を作ったものの,一切の資材がないのである.
 あの頃の軍部というものは恐ろしい権力を持って,国民を威圧したが,その内部に入ってみれば,あまりに膨張して,統一も秩序もなく,こんな宣伝中隊を思いつき,さっそくその組織をドイツの真似をして起案し,別の軍人が国家総動員法によって人民を必要な員数だけ徴用しても,末端には通じず,部隊長は任命されても「困ったなア」と首をかしげている始末で,かかる部隊が働く道具も揃えていない.
 万事軍機の秘密でこっそりやったから他の部隊は宣伝中隊ができたことも知らず,比島に勇壮な敵前上陸を敢行しても,邪魔になるばかりで,戦車や輸送車が通れば,「どいていろ」と怒鳴られ通しだった.
 兵士の邪魔になるのではこんな部隊は作っただけ無駄であり,実際何の働きもできず,まごまごしながら,一線部隊が戦争をして一村落を抜くと,その後からのこのこと入っていく始末で,戦争見物班とでも言えば適当な部隊だった.

(今日出海「悲劇の将軍」,中公文庫,1988/10/10,p.89-90,抜粋要約)

 同じ部隊にいた火野葦平の記述.

 さまざまに工夫され,立案され,洗煉された手法で作成された數十萬枚の傳單の内,敵兵の心臟を高鳴らせた數枚が,山海の珍味を山盛りにした,涎のたれさうな御馳走の寫眞であつたことを,私逹は知つてゐる.
「親愛なるフィリピン兵諸君よ,馬鹿な戰爭をやめて,すぐに投降するがよい.諸君のゐるところには,もはや暖い食べ物のひとかけらもないらしいが,こちら側にはこの寫眞でごらんのとほりの獻立がある.
 そして,諸君より少し早く投降して來た諸君の先輩逹が,この寫眞でごらんのとほり,御馳走をつつき,滿腹し,みる間に戰線内の疲勞を忘れて,健康を恢復しつつある」
 ――このビラをポケットの中に忍ばせて居つた捕虜が多かつたことを知つたとき,私逹は,戰爭の中でものものしく絶叫される思想の空虚さを痛感せずには居られなかつた.
 大東亞共榮圈の理念を説き,アジア民族の統一と,白色帝國主義との訣別とを,堂々と説き去り説き來つてゐるビラの類は,まつたく敵兵から相手にされず,反古となつて,靴で踏みにじられてゐた.美しい思想は泥にまみれてゐた.

(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.15)


 【質問】
 自分の爺さまは戦争中衛生兵をやってたらしいのですが,日本軍の衛生兵ってどんな事やってたんですか?

 【回答】
 病院に例えると、医者が軍医で看護士が衛生兵。
 衛生兵には大きく分けて、病院勤務と隊付があます。

 主に入営時に衛生兵となった人が病院勤務となりますが、病院勤務の衛生兵はまさに看護士で、病院では経理部を除いて大半が衛生兵であり、病院での業務の多くに携わります。

 隊付の衛生兵は一期の検閲が終わった後に衛生兵となった人が大半で,陸軍病院で基礎教育を受けて衛生兵となって原隊へ帰りそこで勤務します。
 これが、いわゆる映画とかで「メディーク」とか叫ばれてる人達です。

 歩兵の場合、大隊本部にいる軍医の一人が戦時には衛生下士官兵を率いて仮包帯所を開設し、衛生兵はそこにいるか、中隊の指揮班に数名いて、負傷者の救護にあたります。

 基本的に簡単な怪我などは自分で応急処置が出来るように教育を受けたそうですが、それが出来なかったり大怪我だったり薬や包帯がなかったりすると、「衛生兵、前へ」となって前線に出て手当てをするか、負傷者を引っ張って、担いで、あるいは担架で後方まで下げてこなくてはなりません。
 隊長の許可なしに兵隊が後方に下がると,敵前逃亡になるからです。

 また、こうした前線に出る衛生兵は包帯嚢という,治療用具の入った鞄のようなのを持っていました.
 これには包帯と消毒済み脱脂綿,ヨードチンキ,消毒薬やガーゼと三角巾が一組になった包帯包なんかが入っていました.眼鏡が入ってたとも聞いたことがあります。
 その中でもヨードチンキは「ヨーチン」と呼ばれ,衛生兵の別名になるほど有名でした.
 これは軍医の許可を得ずに使ってよかったので、ちょっとした擦り傷とかならヨーチンをつけて済ませたりもしました。
 また、平時ではヨーチンを使うぐらいしか能がないという蔑称としての意味もありました。

 それから、衛生下士官になると医療嚢を携帯したそうです。 こちらは中身までは知りません。

 このほかにも野戦病院とか兵站病院とかにも衛生兵はいるんですけど、長くなりすぎたので書きませんでした。

 【質問】
 携帯嚢にヨーチンの瓶いれといて割れないのか?
 というか当時のヨーチンの保存は瓶でしょ?
 軍医と違って最前線の衛生兵ですし,それに突撃大好きな日本兵でもあるし.
 突撃したら衛生兵も関係ないかw

 【回答】
 今調べなおしたけど、やっぱりヨードチンキは包帯嚢に入ってる。

 確かにビンというか、ガラス容器だったけど、ここの写真を見てみて.
http://www13.ocn.ne.jp/~seiroku/iyakuhin.html
 こんな風に大きな試験管に綿なんかで支えて入れて,割れないようにしていたようだ。
 もっとも,試験管のほうが割れないかまでは知らないけど。

 それと、衛生兵は通常小隊には配属されないから、突撃の機会は多分あなたが思ってるより少ないよ。
 【質問】
 ヨーチンは赤チンと同じものか?
 【回答】
 全く別の薬品です。
 ヨードチンキはヨウ素にヨウ化カリウム(ヨウ素=ヨードが名前の由来)を加えたエタノール溶液.
 赤チンの殺菌成分はマーキュロクロムの2%水溶液.
 赤チンは赤、ヨーチンは茶色。

 化学式:
ヨウ化カリウム>KI
マーキュロクロム>C20H8Br2HgNa2O6

 ちなみに,赤チンは水銀化合物を含むため,昭和48年から国内生産は停止され、現在販売されている赤チン(マーキュロクロム溶液)は海外生産品です。
 ヨードチンキは傷口の消毒のほか、うがい薬などに普通に使われています。

 ヨウ素系消毒殺菌剤のウガイ薬ではイソジンガーグルが有名。処方箋薬かつ売薬(モノは両方全く同一)
 ヨウ素系殺菌剤はいくつか種類が有ります。
・ポピドンヨード
 ヨウ素のままだと正常な組織に対する刺激、攻撃性が強いので、ヨウ素にある処理をする事によって刺激、攻撃性を弱めたもの。
 イソジンガーグル等のウガイ薬から外科等への消毒薬として使われる。

・ヨードチンキ:既出通り。ヨウ素とヨウ化カリウムのエタノール溶液。

・番外:手元にある『ジリパ』という外傷救急薬
 陸自在隊時に、私物の救急用として買った。
 20ccの小型のもので防水煙草入れに入れていた。1/4しか残って無い。
 成分はヨウ素のみで、溶剤はエタノールでなく水の模様。
 蛇足だが,自分は喉をやられた時、イソジンガーグル原液を数滴喉に垂らすというのを効果が有るのでやっているが,本当は記載通りに薄めてウガイする。
 傷口への消毒にも兼用しているが、それも使用方の範囲外。

 ヨウ素系消毒殺菌剤の殺菌剤は外科手術でも使われているそうです。
 献血に行くと、最初にアルコールで広範囲を消毒してから、針を刺すあたりに茶色いコイツを塗られます。

(キルロイ ◆dtIofpVHHg他 in FAQ BBS)


 【質問】
 陸軍病院の状況は?

 【回答】
 日本軍では日常的にビンタを使った制裁が行われたのは有名ですが,『従軍看護婦物語 日赤看護婦の見た中国戦線』(水井潔子・水井柱共著,光人社NF文庫,2007.10)によれば,病院でも例外ではなく,指示を守らなかった患者に衛生兵が制裁を加える事もあったそうです.
 また,著者も奉天の陸軍病院に出張した際,看護婦が下士官からビンタされる場面を目撃しています.

 ただ,婦長を務めた錦州陸軍病院錦西分院では,軍紀・風紀には厳しかったものの,分院長の性格もあってか,転送された患者からは「家庭的な雰囲気だ」言われるほど和やかだったそうです.

 しかし,それも敗戦を期に一変.
 病院からの移動命令や安東での生活など苦しい状況に追い込まれ,中国軍の命令でそれまで一緒だった仲間たちともバラバラになってしまいます.
(さらに帰国まで色々ありますが,とても書ききれません)

 さらにこの間,(御難を恐れて)看護婦としての経歴を隠して病院で患者の付添婦として働いています.

 また水井柱氏のエピローグによればこの時期,安東で両親を失った兄弟をを保護し続け,共に帰国を果たしています.

 帰国後も看護婦として働き,70歳を過ぎて日本赤十字社の国際救護の従軍看護婦に登録しています.
(本人にとって幸か不幸かはわかりませんが,オーダーが来る事は無かったそうです)
 この赤十字魂には頭を下げるしかありません.

グンジ in mixi,2007年12月31日13:15


 【質問】
 旧日本軍の従軍僧は,米軍の従軍牧師のような存在だったのか?

 【回答】
 否.単なる道具だったという.
 以下引用.

 日本軍の場合は,単なる「葬式専門の道具であった.僧などはおよそ笑うべき存在であった.唯神の道を宣布する神官ですら,単なる道具として利用されたに過ぎない.

 戦闘部隊はよく戦争の余暇に慰霊祭なるものを挙行した.
 職業柄も弁えず,身分不相応な太刀を手挟んだ従軍僧は,このときとばかりぐっと肩をいからして,三界の大導師然として,さももったいぶって儀式を執行した.
 日頃から軽視されていた従軍僧が得意になるのは,このときばかりであった.

 しかし部隊長も将兵も,彼が得意の鼻をうごめかすに足るほどの敬意を払ってはいなかった.また,慰霊祭自体にも深甚なる哀悼の意を表してもいなかった.
 これは単に,外に対する一つのジェスチュアに過ぎなかった.
 部隊長は敬虔にして思いやり深いということを,内外に誇示する一つの手段でしかなかった.
 たいていこういう場合,新聞記者は招待されていた.

 従軍僧は,真の使命を達成するために努力もしていなかった.大部分の使命は,戦線見学と,帰国してからの自己宣伝の素地を培うことであった」

(森田正覚=正覚寺住職,「ロスバニオス刑場の流星群」,
芙蓉書房,1981/9/25, p.91)


 【質問】
 日本は高砂族を生蛮と熟蛮で区別していましたが、義勇軍はどちらの出身になるんでしょうか?

 【回答】
 「生蕃(生番,生蛮)」とは漢族化していない台湾原住民諸種族の総称。生蛮とは同化されず、近代文明の恩恵を受けていない人々という意味です。
これに対して平野部の,漢族化している人々が「熟蕃(熟番)」です。彼らは通婚で混血していったものです。

 台湾では 漢民族>熟蕃>生蕃 といった具合に差別意識が根強くありました。
 これは清朝統治下時代に清朝に帰順していない「生蕃」に対して隔離政策を行っていたためです。

 しかし日本統治時代下では,同じ「臣民」ということで,差別用語として使われていた「生蕃」は「高砂」に、「熟蕃」は「平埔」に置き換えられてることになりました。

 昭和天皇が皇太子の時に台湾に来られて、
「こういう差別的な用語はやめ、高砂族にしたらどうか」
と言われたという話があるそうなので、日本統治時代もある程度の時期まで熟蛮と生蛮は使われていたようですが,改称後は,この呼称は日本の公文書で使われるほど徹底しています。

 高砂族と言っても10くらいの部族がいます。さらに平野部にも10くらいの部族がいました。
 日本のマルクス系の学者は、山岳族は平野から山に追い込まれた部族と書いていますが,それは違います。もともと山にいた部族です。

 「高砂義勇兵」は昔で言うところの「生蕃」出身で日本軍に義勇兵として参加、または徴兵されて参加された兵士達の総称ということになります。

軍事板&
http://home.att.ne.jp/red/dateasia/kako/taiwan56.htm

 【こーそり宣伝】
 高砂義勇兵の慰霊碑が撤去されようとしています。
 現在2ch内で保存運動が行われています。
http://www.takashago.com/ (フラッシュはjavaをonしないと見られません)

 なお大戦後は、台湾を統治した中華民国政府が、日本政府が名付けた「高砂」を嫌って「高山族」と改名.
 すなわち,名前の変移としては
「生番」→「生蕃」→「高砂」→「高山族(山地同胞)」


 【質問】
 満州皇帝の護衛をする日本人軍人はなんという部隊・役職に所属していたのか教えてください
 日本皇帝だったら、「近衛師団」がありますが、満州ではどうだったのでしょうか?

 【回答】
 満州国建国と同時に、執政身辺警護のために、蒙古人300名から為る「護軍」が編成され、
その後、1932年3月7日付で、吉林省警備軍より、精兵223名を以て「翊衛軍」が編成されています。
 前者は、執政府直轄の親衛隊、後者は軍から派遣されている正規軍です。
 この二重体制は、正規の警護を「翊衛軍」が、宮内府警衛処長の配下に儀仗隊として「護軍」が担当することで、表面上の解決を見ています。

 なお、「翊衛軍」は1934年4月1日に「禁衛歩兵団」となり、1936年には、歩兵四個連と、側衛警護の騎兵一個連、儀仗用の砲兵一個連からなる「禁衛隊」に改組されました。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 新四軍八路軍という名前の由来は?

 【回答】
1936年12月西安事件
1937年7月7日盧溝橋事件
     8月22日,国民政府軍事委員会は紅軍を
           国民革命軍第八路軍に改編すると宣言.
           八路軍は山西方面の第二野戦区で閻錫山の指揮下にあった.
           華中の紅軍は新四軍に改編され第三戦区に属した.

 八路軍の名の由来:一路軍,二路軍があるわけでないが,前回の国共合作時の北伐で,前期北伐(広東から武漢)で右路軍,中路軍,左路軍の三軍があり後期北伐(武漢から北京)作戦では四つの方面軍があり8の数字がでたようだ.
 新四軍は,武漢作戦で共産党員の多かった四軍が活躍したのでそれにならった.

(世界史板)


◆◆◆◆近衛師団関連

 【質問】
 旧日本陸軍に近衛師団ってあったじゃないですか?
 あれって,名称から察するに宮城を守備するのが目的の部隊だと思うんですが,もしかして守備範囲はもっと広くて帝都全体とかですか?
 それと,部隊の編成や装備・指揮系統なんかも,無印の師団とはやはり違いがあるんですか?

 【回答】
 基本的には宮城の守備.近衛騎兵聯隊は、鹵簿(天皇の行列)に列する任務もありました。
 編成・装備・指揮系統ともに通常の師団と同じ.
 ただし近衛師団は,兵器や軍装品は,優先的に新品をあてがわれていました.
 また,帽章のデザインが,一般部隊と若干異なります.

 同師団は,古くは日清戦争後の台湾平定作戦に駆り出され,日露戦争では,黒木大将の第一軍に所属して,朝鮮半島の鎮南浦から遼陽会戦,沙河会戦,奉天会戦に参加しています.

 日中戦争では,近衛第二師団(実はこちらの方が本来の近衛師団で,編成は第一師団より遙かに古い)は,近衛歩兵第一,第二聯隊と近衛野砲兵聯隊第三大隊を基幹に近衛混成旅団が編成されて,華南戦線に投入,翁英作戦,賓陽会戦に参加して,北部仏印進駐を行った後,本土に帰還.
 この他,1940年に師団全体に臨時動員が掛かり,漢口,広東方面を転戦,1941年7月に南部仏印に進駐しています.

 太平洋戦争では,山下大将の第25軍に属し,マレー,シンガポール攻略に参加,その後,蘭印スマトラ島での掃討作戦に参加後,警備に就いています.
 この他,第三聯隊はアンダマン諸島に移駐したりしていますが,最終的にスマトラ島各所で分散駐屯して敗戦を迎えています.

 近衛第一師団は終戦まで宮城の警護に当たり,師団長の森中将は,終戦の前日,終戦に反対する一部軍人の反乱により,斬殺されます.

 近衛第三師団は,米軍の本土上陸に備え,千葉県の九十九里海岸で陣地構築中,終戦を迎えました.

 近衛師団は,全国から選りすぐりの可成り優秀な人々を集めたため、他の師団では上等兵になれる人でも,近衛ではなかなか昇進出来ないことがあったそうです。
「一般の部隊では、一回教えて四分の一、二回教えてやっと半分、三回、四回教えてもやっと四分の三くらいしか覚えないが、近衛の兵隊は一回教えれば半分以上覚え、二回教えれば大体全部覚えたという」
と言う記述が、村上兵衛の「近衛聯隊旗」に書かれています。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2他)

 【質問】
 実際のところは,近衛兵の選抜にあたっては,各師団の精鋭を送ると元の師団が弱体化してしまうので,強からず弱からずと逝った兵士を送っていたので「最も平均値の高い師団」だったという話もあるが?

 【回答】
 各師団から近衛に選抜していたのは明治17年まで。
 18年以降は直接近衛に入隊するようになった。

「近衛の歩兵隊及び騎兵隊の兵員は、現役総員中体格良好、心許確実、品行方正にして、青年学校の課程または之と同等以上と認むる課程につき、陸軍大臣の定めたる程度の過程を修得したる者または修得すべき者を之に充つ」
兵役法第93条3項(打つのが面倒なのでカタカナ→ひらがなに)

「心許確実、品行方正にして資産中流以上。学力は高等小学校卒業以上で、青年学校本科または研究科に4年以上在学し、その課程において修身公民百時間、職業課程を含め二百五十時間、軍事教練課程三百五十時間以上を修得した者、または修得見込みの者で、家族を考慮する必要なく、かつ甲種に合格する見込みの者」
が,各市町村兵事課での近衛兵資格要員選定基準の一例.

 各市町村はこのような基準に基づいて,割り当ての2,3人を近衛兵要員として選出していた。
 上記基準をクリアするのは,その地方でも有数の優秀な青年で、近衛に選抜されることは,いわば国からお墨付きをもらうようなものだった。

+

 【質問】
 うちのじいさんから「昔は東京で大砲で時報してた」ってきいたんですがホントですか?
 どこの所属の砲兵でしょうか?

 【回答】
 東京では近衛野砲兵連隊に所属する禁闕守衛隊が担当していた。号砲手の人数は下士官一名、上等兵一名、兵六名。
(その他の都市ではそこの師団所属の砲兵が担当)
 明治4年に始まり、昭和の初めにサイレンにとって代られた。

 号砲がなくなってからは,近衛野砲兵連隊から形式的に二、三名配置されるだけになった。終戦までこれは続いた.
 また、用いることはなくなったが,号砲用の野砲は備え付けられており、派遣されていた号砲手の日課の一つにこれの手入れがあった。

(村上稔夫・村上兵衛共著「花の近衛兵よもやま物語」,光人社)

 今で言う〔江戸時代〕は、時間告知は各書にある寺院の鐘の音により告知されていました。(太陰暦採用)
日の出から日没までを6刻
日没から日の出までを6刻で
1刻ごとに鐘を鳴らす方式で、時間を告知していました。

 明治になって太陰暦から太陽暦の採用と同時に1日を24分割にする24時間法を採用します。
 このとき基準となった考え方が,きっちり24分割することです。
 これによって,日の出日の入りの時間に左右されない時間の観念が,初めて日本に導入されました。

 しかし、そんなことが一般庶民にすぐ浸透するわけでもありません。
 そこで、新しく発足した軍隊が時間の告知をすることになったんです。
 で、一番簡単な方法が大砲による告知.
 今は言いませんが、学校が土曜日半日あったときのことを〔半ドン〕と言っていましたがこれは〔半日でドンとなった大砲の音〕が起源になっています。
 今では時間の管理に対してそれほど思い入れはありませんが、18世紀以前は{時間を告知できるものが時の権力者}という考え方が洋の東西を問わずにあったことを考えると、軍が告知していたというのは偶然ではありません。

(通りすがりのあかいすい星 in FAQ BBS)


 【質問】
 私はこれまで皇宮警察は戦後誕生して、戦前の近衛部隊の任務を引き継いだのだと思っていました。
 しかし、どうやら皇宮警察自体は宮内省内に明治期から存在していたらしいと言う事を最近知りました。
 戦前は近衛と皇宮警察の2組織が警護任務についていたことになります。

 近衛兵の誕生が明治7年、皇宮警察の誕生は明治15年らいいです。
 皇宮警察が後から誕生していますが、近衛兵がある中でわざわざ後で皇宮警察を作ったのは何故でしょうか? 近衛兵の警備が不足なら,後にやったように近衛部隊の増員で対応できると思うのですが.

 【回答】
 竹橋事件でgoogle検索して見てください。
 最初、御親兵は薩摩、長州、土佐の士族が中心となって構成されていましたが、西南戦争で活躍したのに、論功行賞が行われなかったこと、あまつさえ、棒給が下げられたことに端を発し、一部の聯隊が反乱を起こしたのです。
 これが明治政府に与えた影響は大きく、憲兵設置、軍人勅諭の制定などが行われています。
 皇宮警察もこのような流れで設置されたと推定されます。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 戦前の皇宮警察と近衛兵との使い分け、棲み分けと言うのはどうなっていたのでしょうか? 任務の取り合いなどはなかったのでしょうか?

 【回答】
 禁闕守衛については近衛歩兵聯隊、鹵簿に列するのが近衛騎兵聯隊が中心で、禁闕守衛に関しては、警戒と儀仗が主な任務になります。

 この任務のため、皇城守衛隊が皇居内に設置され、正門儀仗隊として54名、賢所儀仗隊が25名、東宮御所守衛隊が若干名という体制で推移しています。

 それ以外の屋内警備、宮廷内消防などを管轄しているのが皇宮警察です。
(他にも一般の陸海軍部隊、警視庁、憲兵隊が宮城警衛を担当していますが)

 余談ですが、敗戦後の一時期、皇宮警察と近衛師団は統合され、禁衛府が設置されます。
 これは、皇宮警察部の他、皇宮衛視総隊本部の下、
第一皇宮衛士隊(旧近衛歩兵第一聯隊)、
特別儀仗隊(旧近衛騎兵聯隊)、
第二皇宮衛士隊(旧近衛歩兵第二聯隊)、
皇宮奏楽隊(旧陸軍戸山学校軍楽隊)
から成っていました。
 当然、こういう姑息な手が許されるわけもなく、1946年3月に解体されています。

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


◆◆◆◆輜重関連

 【質問】
 旧日本軍では、輜重部隊に対する差別があったというのは本当ですか?

 【回答】
 輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々・トンボも鳥のうち、なんて揶揄されるくらいに.

 西南戦争時に輜重軍夫として雇われたのがヤクザ達だったから、以来,評判が悪いんです。
 また、輜重輸卒は他兵科からの転属が主だったっので,『ダメな兵隊の吹き溜まり』と思われていました。

(軍事板)

 ただし,兵隊としては規格外だったからと言って,それがすなわち「優秀ではない」ということを意味するわけではないので,念のため.
 例えば次のような例がある.

 軍隊は,要領を旨とすべしとよく云われたが,木戸一郎なる兵は,この要領を地で示したような男であった.
 彼は福岡県築城出身で,私達と同じ輜重隊の召集兵であった.職業は何であったか,誰も的確に知らない.セールスマンと言えばそのようでもあるし,商売人にも見えるし,会社員とも思われる節も窺われるが,結局,彼の本職を探り得た戦友は一人もいなかった.
 実に愉快な男で,長い戦地生活を共にした私は,一度として彼の塞いだ顔を見たことがなかった.歩き方も飄々として,容貌は比人に似て色も浅黒く,一見,日本人離れした面白い顔をしていた.
 一(いっ)ちゃん,一(いっ)ちゃんと皆から親しまれ,飄逸な仕草と,ウィットに富んだ言動と,巧みな話術は苦しい軍隊生活の中でも常に爆笑を誘い,一陣の涼風に似た心地良い感情を戦友達に撒き散らしていた.

 私が彼と会ったのは,ダモルティス(フィリピン)に上陸して,お互いに裸同士で食糧や色々の梱包物を,海水に浸かり乍ら運搬しているときであった.
 私の教理は行橋市であったし,築城とは目と鼻の先の距離であったため,特に親しみを感じたためもある.
 彼はいつどういう風に上官に取り入ったかしらないが,裸の運搬兵が知らぬ間に制服を着用して小銃に着剣し,糧秣の監視員に成り済まし,ニヤッと私を横目で見て笑うのである.
 私達は皆,空腹で働いていたが,木戸二等兵は立哨しながら口をもぐもぐさせ,何やら食べている風であった.
「おい!」
と,私が呼ぶと彼は含み笑いをして,
「腹が減ったかい? ちょっと待っておれ」
と,気軽に天幕の中に入っていき,さも自分の店の菓子箱から菓子を持ち出すように梱包の箱を少しこじ開け,中から乾パンや携帯食料を持ってきてくれたのである.
 当時,糧秣の配給のうるさい頃である.判れば重営倉にもなりかねない泥棒行為であった.
 彼は梱包を帯剣で器用に抉じ開け,2,3個失敬してはまたもとの通り釘付けするのだが,その手際の良さ,速さは現代の鼠小僧のようであった.
「腹が減ったらいつでも来いよ.爆撃されれば元も子もなく吹っ飛んでしまうからなあ.遠慮するこたあないよ」
 そう言って私や他の者にも与え,自分も常時口を動かし,済ました顔で立哨していた.
〔略〕

 鶏を声も立てずに捕まえて食べる方法も,彼から教わった者である.左の掌に米粒を載せ,そっと差し出すと,鶏が首を伸ばしてくる.その首をギュッと握り締め,右手の帯剣で一気に首を切り落とし,皮と肉の間に人差指と中指を差し込み,皮を強引に引き裂くと,真白い丸裸の肉が手元に残って,そのまま丸焼きにするのである.
 その動作が,ものの1分とかからない早業であるから,恐れ入った次第である.これでは家の前でやられても,鶏の気付くに気付く者はない.

 やることなすことが人の意表を突く彼であったから,一ちゃんの呼び名もいつしか一郎兄(ニイ)と尊兄の愛称で戦友達から呼ばれるようになった.

 日本軍が大戦果を収め,コレヒドールが攻略され,私も一郎兄も他の部隊に転属されて別々に別れたが,一時平和となったマニラのパサイにある病馬廠で,奇しくもまた再会したのである.
 そのときは私は,馬の肥料の牧草集めに彼方此方と各地を走り回ったり,自給自足の畑の耕作に汗を流したり,病馬の手入れや夜の厩舎の見張り当番などをやったりして多忙であった.

 このように少しの暇もなく私達が働いていた時,彼は何の使役にも出ずに,兵舎の横の小屋を医務室と半分に仕切ってもらい,別格の個人部屋を持ち,悠然とタバコを吹かしながら皆の苦役を眺めていた.
 見ると,何と左右の腕にこれ見よがしに4,5個ずつの腕時計を嵌めているではないか.聞けば時計の修理を専門にやっているという.
 いつの間に,誰の許可で時計屋になったのか,初めて知った私は,驚くよりも唖然として言葉もなかった.彼に質すと,全然素人だよと平気で笑っているのだ.
 手先の器用さで,初め准尉の時計を頼まれ,簡単な捩子の修理をしたのが糸口であったが,時計の中を開けてみたこともない者達からすれば,優秀な修理工に思われたのであろう.また,一郎兄の大風呂敷にかかれば,准尉の心を誑かすことくらい朝飯前であったかもしれない.
 准尉の口利きで,曹長,班長と手当たり次第に時計を預かって,修理業を始めたのであった.
 そうなると,どこか静かな一室が欲しいと言い出したに違いない.
 で,医務室の中を区切ってもらい,そこを根城にしたのだ.

 兵士は動作所作が激しく乱暴だから,時計の狂う率も多い.1週間に一度の外出で,時計の修理を店に出す煩わしさが省け,その上,無料であるから皆が重宝にし,誰にも遠慮することもなく気の向くまま,時計を弄繰り回していれば良いのである.
 一度,彼のところに遊びに行った折,修理している手つきを見ると,お世辞にも上手とは思えなかった.
「本当に時計の修理をしたことがあるのか?」
と,私は不審に思って聞くと,
「やったことなんかあるもんかよ」
と,薄ら笑いをしている.
 呆れたのはそればかりではない.
 見ると,歯車の間にパッキンとして紙を挟んだりしている.
「おい,そんなことをしてよいのか?」
 私は真剣に聞いたが,
「はははは,これで暫くはうまく回るのだから,チョロイもんだよ.捩子の足らないのは,別の時計から失敬してさ,つまり要領だよ」
 誠に人を食った話である.
「すると,最後の一つか二つはいつも修理不能ではないか」
「そうなんだよ.後から持ってきた奴は,運が悪いんだよなあ,はははは」
と,呵々大笑している.なにをか言わんやである.

 夜の外出は将校でないとできないが,彼は私の制止も馬耳東風で,夜毎出かけていた.もちろん正門からでなく,裏の塀を乗り越えて闇に紛れていくわけで,比人の愛人に会うためであった.
 器用な男は行動だけでなく,語学にも通じるらしい.比人の彼女に教えられた彼は,立派に通訳ができるほど,タカログ語が堪能であった.軍服を脱いでちょっと惚けた顔で比島語を喋っていれば,誰も日本兵と思われないほどであった.

 兵隊の夜間外出は絶対禁止である.が,この規則も彼には通用しない.毎晩兵を乗り越えて出かけたが,そのときは愛人から貰った比人のシャツを着込み,ズボンも替え,ご丁寧に帽子まで被っていくのだった.
 長い間,彼の無断外出は私以外知る者がなかった.
 ある朝,私が彼の部屋に入ると,愛人から貰ってきたマンゴーをぱくつきながら,
「おい,昨晩はとうとう憲兵さんに捉ったよ,はははは」
と,他人事みたいに笑って驚かせたのであった.
「え? だから言わんことじゃない.いつかは露顕するぞと注意したろ」
「いや,まいったよ」
「それでどうした? よく無事で帰れたな」
「うん,それがまた傑作なんだ」
 彼の顔からは,当惑した影が微塵も窺われないから不思議な男である.
「重営倉だぞ」
 漫才しみたいな相手であるが,心底から心配したのだ.
「塀を乗り越えて百米も行ったところで,巡回中の二人の憲兵にばったり遭遇し,不意に呼び止められたので,俺もドキッとしたよ」
「そりゃ当前だろう.そしてどうした?」
「それがさ,おいと日本語で俺を呼ぶのだ.俺はとっさに知らんぷりをして,口笛を吹きながら,そのまま行き過ぎようとしたんだ」
「ふーん,心臓の強い奴じゃなあ」
 私は呆れて次の言葉を飲んだ.
 返事もせずに行き過ぎる不審な人物に腹を立てた憲兵2人は,
「おい! こら!」
と,馳足で走ってくるが早いか,一郎兄の後ろ首を掴んだと言う.
「もう万事休すと思ったよ.はははは」
 タバコにゆっくり火をつけて,美味しそうに煙を吐き出した.
「こら! お前は日本兵と違うのか?」
 憲兵は顔を突き出して怒鳴ったという.
 一郎兄の風貌も態度も比人と見紛う程よく似ており,一寸見だけは判別もできない男であった.
「ふふっ,憲兵の奴,ピリ(比人)にそっくりの俺の顔だけ見ても,自慢じゃないが判るものかよ」
「……」
「俺は糞度胸を決めてさ,タカログ語で
『マガンダンガビポ,マイニット』(こんばんは.何ですか? 暑いですね)
と言って,
『アコ,アイシサントス』(私の名前はサントスです)
『アコ,ヒンディ,コ,ナイインティン,ディハン』(私,わかりません)
と言ってやったんだ」
「……」
 憲兵も比島語を勉強しているが,愛人から教わっている彼のタカログ語は流暢で,面相も本物に負けないほどだから,誰が見ても判別はできるはずがない.
「すると憲兵さん,ポカンとしてさ,暫く俺の顔を穴の開くほど見つめていたが,
『此奴,本当のピリらしい』
と,2人で話し合い,よし,行けと,手を上げて放してくれたよ」
「よかったなあ」
 当の本人よりも私のほうが安堵したのである.
「この後の芝居が難しいんだ.余り急いではまた怪しまれるからさ,ペコと頭を下げて,
『ワラン,アヌマン,ポ』(どういたしまして)
『マラミン,サラマット』(ありがとうございます)
『パアラム』(さようなら)
と,続けて言ってやったら,(うん)と相槌を打って見送ってくれたよ」
「へえ!」
「もう大威張りさ,大手を振って彼女の処に行ったよ.
 しかし,掴まった時はさすがの俺もドキッとしたなあ」
 話とは裏腹に,一つも驚いている風もない一郎兄であった.

(泉桂吉〔元第16師団兵士〕,「比島への道」,
新風舎,2003/9/6, p.33-38,抜粋要約)

 こういう人材は,輜重隊より中野学校に入れた方がよかったんじゃ…….

輸送中の米俵


 【質問】
 日本陸軍についての質問です.
 「勤務隊(中隊)」と「輸卒隊」のちがいは何なのですか?
 どちらも「水上〜」「建設〜」等があり,一見,任務的には同様にも思えるのですが.

 【回答】
 勤務隊と言うと,師団にある兵器勤務隊と,大戦時に編成された臨時勤務隊があります.

 前者は,師団内に於ける兵器修理の為の組織で,それには兵士が所属していました.
 後者であれば,補給の望めない地区に派遣される師団や独立中隊などの自活の為に,鋤や鍬を持って,農地を切り開いたりする軍属の集団で,徴用された人が多かったみたいです.

 輸卒隊は,輜重兵部隊に配備され,駄馬や輓馬の馬の口を取る役割を持つ,輜重輸卒(1931年に輜重特務兵と改称)の集団のことです.
 その教育期間は2ヶ月で,その中身は徒歩,輓駄馬,梱包積載,陣中勤務からなっていました.
 彼らは戦時召集されて任務に就きますが,長期にわたることを想定せず,万年二等兵でしたが,板垣征四郎が陸軍大臣に就任した1937年に一等兵への進級が認められ,1939年にやっと輜重兵と改称されました.

 但し,正規の輜重兵とは武士と足軽のような関係で,輜重兵は長靴,長剣を帯びて馬に乗り,二等兵でも一個班15名の輸卒を統率するのに対し,輸卒はゲートルにゴボウ剣で馬の口を取る仕事をしていました.

 余談ながら,輸卒を統率する必要があるため,輜重兵は二等兵であっても,軍曹並みの指導力を必要としたそうです.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

 【質問】
 太平洋戦争時の軍直轄部隊などとして見られる「水上勤務中隊」というのは,前者に近い系列の,港湾設備や港湾配置船舶の整備運用をする兵士と考えてよいのでしょうか?
 それから大陸方面の一部師団指揮下に「建築輸卒隊」というのがありますが,これは,工兵の補助を行う「準」兵士集団ということでしょうか?
 【回答】
 ちょっとその辺に関する資料が不足しているのですが,特設水上勤務中隊の場合は,泊地や停泊場等の水上業務・桟橋等を管理するための兵站部隊です.
 桟橋の建設とか,物資の陸揚げ,小型舟艇の操船などを行っていたようですね.

 建築輸卒隊は,後方施設(野戦病院とか補給処などの)の建設,その施設(便所とか炊事所とか倉庫など)の建設,井戸の開削や復旧,後方補給路の補修,破壊橋梁の修理なども任務となっています.
 これは工兵そのものであり,その配下として,所謂,土方が配属されていたと言うことだと思います.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)


 【質問】
 旧日本陸軍では給食を作るのはどういう人達だったのでしょうか?
 陸自みたいに指揮官だけ専門職で,炊事作業は交代で兵が作っていたのか、それとも海空自みたいに専門の給食兵が当たっていたのか?
 旧海軍は主計科の人が専門で作っていたみたいですが。

 【回答】
 平時の炊事は現在の陸自とほぼ同じで,普通の兵隊を数ヶ月交代で炊事所に送り込む方式だった。
 ただ、一般的に成績の悪い兵隊が送りこまれる傾向にあったため、炊事所勤務兵の進級は遅めで、さらに実際はいったん炊事所に送り込まれると,なかなかその勤務から抜け出せなかったとか。

 もちろん役得もあり、調理後の一番いいところを味見と称して食べ放題だったり、つまみ食いもOKで,腹を空かしていた兵隊にはある意味天国のような場所。
 他に,教練にあまり出なくてもすむとか、炊事所勤務兵の間では「俺たちは落ちこぼれ」という意識からくる連帯があり、一種和気藹々としていて,私的制裁も他に比べ軽めだったとか。

▼ 昭和15年6月発行の,支那派遣軍荻洲部隊の戦場写真集「我殲滅譜」(非売品).
 昭和12年10月の上海戦線から江南追撃戦,徐州作戦と昭和14年8月までの戦場での歩みを写真で記録したもので,多くの興味深い情景写真が含まれまていました.

 左は野戦炊事の風景写真で,こういった資料もまた貴重です.

よしぞう(maro') in mixi,2006年07月03日01:21


 【質問】
 旧軍での炊事の最小単位は?

 【回答】
 中隊ごとの炊事にこだわってたようだが,個人の回顧録系の戦史を読むと,ソレすら出来ずに個人携行の生米を泥水(誇張だろうけど)で一日一回飯盒炊飯して味噌で食ってる.
 鶏,豚等が「現地調達」できる場合は罪悪感無く実行している.勿論,生で食ってるとは思えない.

 これは場所によってはほぼ常態化している.ネットですぐに探せる例だけでも

 私が老河口作戦中に何を食べていたのかほとんど記憶にない.
 出発の時5kgの米と携帯口糧として乾パン(3個)を携帯されられた.
 作戦中に正式に補給を受けたのはそのときとあと2〜3回であった.4か月以上にわたる作戦中の食糧のほ とんどが現地調達だったというわけであった.
http://www.geocities.jp/ktoyo2004/sub7..html

 炊事の単位が分隊であった記述も良く見受けられる.

 私の班には中国人が2人付いていてその人たちが主になって食事の準備をしてくれた.
 私たちは薪を探したり,副食物の材料を集めたり,出来た食事の配分に当たった.

 米は各人が携帯する米がら出すのだが古年次兵や下士官から先に出す事になっていた.荷物の負担が軽くなるからである.
 しかし,彼等は1kgは残していたようである.

(軍事板)

 なお,「飯盒炊飯」の,よりマニアックで正確な表現は「飯盒炊爨」になります.広辞苑の「飯盒」の項の用例では後者だけが載っています.

 ちなみに,Wikipediaの「飯盒」の項は軍事色が強く,なかなか参考になります.

(電脳遊星D@アウトドア好き in FAQ BBS)


 【質問】
 日本軍は,太平洋戦線での食料の衛生管理ってどうだったんでしょう?
 湿気の多い所で暑いし,大変そうですが.

 【回答】
 一言で言えば「劣悪」
 シベリア出兵などの経験もあり,寒冷地での食料研究は進んでいたが,南方での食料研究は進んでいなかった.
 おまけに,冷蔵庫も無い輸送船で運ばれるのだから,もうどうしようもない.
 箱詰めの塩鮭を送ったら,全く食べられなかった,なんて話も聞いた事がある.

 さらに,送られた食料はいったん糧秣集積所に集積して分配するのだが,倉庫も無く露天積みするから,スコールにやられたりで滅茶苦茶.
 かくて前線にとどくのは,かびて青くなったりコクゾウムシだらけの米.
 副食は粉味噌とわずかばかりの乾燥野菜と缶詰.それすらも事欠くありさま….

 その米を,インパールやニューギニアでは泥水や,下手すりゃ死体が浮かんでるような水たまりの水で炊いた.
 それも,1個小隊に米一掴みしかない重湯みたいな代物.
 「ドキュメント太平洋戦争」に,
「お,今日は米が三粒もある」
って喜んだという元兵士の証言があったな.


◆◆◆編成

 【質問】
 1940年以降,従来の歩兵4個連隊を基幹とする「4単位師団」が,歩兵3個連隊を基幹とする「3単位師団」へ改編されたのはなぜか?

 【回答】
 戦時編制では2万5千人にも及ぶ「4単位師団」では巨大になり過ぎ,実際の運用がやりにくいことや,1個師団当たりの砲兵火力・機械化の比重を高めることなどを狙って実施された.1個師団当たりの砲兵火力・車両数を増強するのではなく,歩兵の比重を減らすことにより,相対的に砲兵の比重を高めるやり方を取ったのである.
 また,4単位師団では,戦時編制にすると5千頭以上の馬を必要としたが,3単位師団では半数の2500頭前後となり,その代わり,自動車が約50両から約500両へと増加した.

 詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.172-173を参照.


 【質問】
 旧日本陸軍の連隊の編成は
連隊本部(直轄,軍旗,通信,連隊砲,速射砲の各中隊)と,
3コ歩兵大隊(4コ中隊,大隊砲中隊,機関銃中隊)
でよろしいですか? 

 あと,できれば,各中隊の兵力と連隊の総兵力を教えていただけませんか?
 時期は,まだ威勢の良かったころの太平洋戦争序盤としてお願いします.

 【回答】
 おおむねそれで良いけど『大隊砲中隊』は『大隊砲小隊』なぁ.

 人員は
連隊本部  175
通信中隊  130
連隊砲中隊 125
速射砲中隊 115
大隊本部  150
歩兵中隊  180
機関銃中隊 175
大隊砲小隊 55

 タネ本は米陸軍省編『日本陸軍便覧』(光人社,1998年4月)

(ベタ藤原 ◆RoMNjfnp0E)

 ただ,連隊本部は「連隊本部及び連隊行李」で中隊とは言わんし,連隊砲,速射砲中隊は「本部」とは言わん.
 軍旗ももちろん中隊じゃなくて,連隊本部に連隊旗手と軍旗衛兵が居る.


 【質問】
 連隊長と連隊区司令官との違いは何でしょうか?
 それと,連隊区司令官ってぶっちゃけ何をやる官職なのでしょうか?

 【回答】
 聯隊は一般に独立団体と言い,一つの兵営を構え,陸軍部隊組織のうち最も重要なものとされています.
 聯隊長は,一つの兵営の長として,その統率に当たり,日夜将校以下を訓練して精鋭な軍隊を教育し,聯隊の戦力を充実し,動員計画を完備する役職にある人のことを指し,歩兵聯隊長は概ね大佐,騎兵聯隊長は概ね中佐でありました.

 聯隊区司令部というのは,徴兵,動員,召集,在郷軍人の指導などを掌る機関として,大正12年勅令第267号聯隊区司令部令に基づき,全国各地に置かれていました.
 平時は師管(各師団の管轄範囲)を四つに分け,ほぼ歩兵聯隊の所在地または近接市に聯隊区司令部を設置しました.
 聯隊区司令部は,長を聯隊区司令官と言い,大佐クラスがなり,他に副官1名,部員数名,下士官2〜3名,属10数名で構成されていました.

 1941年に,北海道を除く1府県1聯隊区に再編成され,平時編制の聯隊区司令部は閉鎖し,臨時編制になる聯隊区司令部と,地区司令官が設置されました.
 聯隊区司令官と地区司令官は兼職として,六大都府県は中将,他は中少将が就きました.
 地区司令官は,師管区司令官に隷属し,隷下部隊を統率して地区の防衛にあたるものになります.

 なお,外地の在留邦人,在留軍人の服役関係事務については,関東軍,朝鮮軍,台湾軍司令官の下,各地に陸軍兵事部を置いて,これが聯隊区司令部と同様の任務に就いています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2


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