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◆◆◆フィリピン攻略戦,1942
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ひたぶるに バタアン攻めたる 砲撃の
そのいさをしの なかに君あり
(斉藤茂吉 from 中山富久著「放列」,
目黒書店,1943/4/25,P.1)
【質問】
日本軍のフィリピン上陸作戦は順調だったか?
【回答】
緒戦で米軍航空兵力が壊滅していていたため,爆撃による輸送船の損害は,大成丸1隻に留まった.
ただ,波浪が荒かったために,作業に停滞をきたしている.
以下,上陸当日の模様を,その目で見た記録から.
午後,上甲板から双眼鏡で見ると,白い州の上にいる兵隊の数が増えている.潮流が変わり,波浪荒くして上陸困難なるよし.トラックと戦車を降ろすことができないそうである.
既に8時に上陸を完了すべきところを,3時半になるも未だ僅かに3分の1の兵員を揚陸せしめたるのみ.
一同不安の意しきりに動く.もし敵の空軍に実力あらば,200余艘の内,大半は傷つけられたるならん.
〔略〕
今日の揚陸作業は,午前中に,風波荒きため舟艇20艘擱坐し,使用不可能となれり.
これが戦争なのだ,と誰かが言っている.順当にいっては面白くない,などと呑気な言説の吐けるのも,戦闘に余裕を生じているからであろう.
〔略〕
夕食後,階下にて上甲板から帰ってきた大塚准尉に会う.(大塚君は輸送の責任者である)
〔略〕
奇襲上陸は全て満点,ただ,遺憾に堪えざることは揚陸作業のうまくゆかざることのみ.トラック,自動車の海中に顛覆するもの多し.
〔略〕
(尾崎士郎「戦記 バタアン半島」,圭文館,1962/12/30,P.12-13)
【質問】
米比軍内部において,フィリピン兵と米兵の立場は対等だったか?
【回答】
全くそうではなかった.
まず,給料からして格差があった.
彼〔捕虜〕から,米軍の給料を聞いた.
3等兵21ドル,2等兵30ドル,1等兵36ドル,伍長54ドル,軍曹60ドル,等々々.
ところが比島兵の方は同階級でもずつと待遇が悪いらしい.
兵卒は14ペソ,伍長になつても22ペソ.
對等ではないのである.
(火野葦平「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.36-37)
最前線においては,フィリピン兵は常に米兵の前に立たされた.
「おれたちの敵は,いつたい,誰なのか?」
フィリピン上陸部隊を捉へて離さなかつたこの疑問と當惑とが,戰場の中で,さまざまの滑稽をつくりだした.
小休止や,露營の夜など,
「アメリカと戰爭しとるといふのに,アメリカ兵は一人も,眼にあたらんぢやないか」
「戰死者でも,捕虜でも,みんなフィリピン兵だ.どうも變だな」
兵隊がさういふ會話をとりかはすのは,日ごとの習慣といつてよかつた.
(火野葦平「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.16)
その〔避難民の〕列が通りすぎると,今度は住民兵の〔捕虜の〕一隊が現れた.
住民兵の中には手足に包帯した者が多く,顔にも生々しい傷痕の残っている奴がいる.彼らはアメリカ軍に欺かれて,最後まで第一線を守っていたのだ.
眼の色にはまだ長い戦闘の興奮がチラチラと動いている.
(尾崎士郎「戦記 バタアン半島」,圭文館,1962/12/30,P.134)
〔1942/4/7,〕やがて,ジャングルの奧に,奇妙なざわめきが聞こえた.一團の敵兵たちが近づゐて來る.10人ほどのフィリピン兵が1人のアメリカ兵を縛し,こづきまはしながらやつて來るのであつた.
大兵のアメリカ將校は大尉の肩章をつけてゐた.彼は不愉快さうに澁面を作つてゐた.
ちょび髭を生やした先頭のフィリピン兵は,けそけそした態度で,私たちの前まで來ると,報告した.
「これはアメリカの督戰隊長です.こいつがはれわれを前線に出して,うしろから督戰するので,われわれは仕方なしに戰はねばならなかつた.
われわれが食ふや食はずであつても,こいつはちつとも同情してくれん.……こんなものも」と,彼は米兵のポケットから,攜帶口糧の罐詰を引き出して,「自分たちばかりで食べて,われわれに一度もくれたことがなかつた」
さういひながら,その罐詰をこぢあけ,仇討のやうにむしやむしやと食べはじめた.
(火野葦平「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.-45)
さらに捕虜収容所においても不平等があったという.
連行された捕虜がタルラック州カパスの収容施設に入れられた際,米軍側捕虜は
『我々は統治者であって,いずれフィリピンを解放する立場にある』
と豪語し,フィリピン赤十字メンバーの一部と結託して,救援物資を横流ししたために,収容者の内,フィリピン側死亡者数が米軍側より上回った事実も否定できない.
(佐藤義朗編「フィリピンの歴史教科書から見た日本」,明石書店)
【質問】
当時の米比軍兵士達の,マッカーサーについての評価は?
【回答】
ルポライター,鷹沢のり子によれば,
「あくまで信じている派と物笑いにする派に分かれた」
という.
以下引用.
信用していない兵士は,例えばマッカーサーを冗談のネタにして笑っている.彼がオーストラリアに逃げる前のことだ.
「Bataan Uncensored(批判されていないバタアン)」の著者であるアメリカ人アーネスト・ミラー少佐が,ある部隊を訪れると,数人のアメリカ兵士達が歌詞を手に歌い,歌い終わると笑い合っていた.
誰が作った歌詞かは分からない.
著者は,バタアンにいる兵士達の状況を的確に表していると書いている.
彼らは「リパブリック賛歌」のふしで歌っていた.
「防空壕のマッカーサはー 岩の上で震えながら寝そべっている
爆撃はないし 不意討ちもない
防空壕のマッカーサーは バタアンで一番美味い物を食べている
彼の軍隊は飢えているのに
防空壕のマッカーサーは 臆病じゃない
ただ用心深いのだ 怖いわけじゃない
彼はフランクリンがくれた星を大切に守っているんだ
4つ星なんて,バタアンの食べ物のように少ないからね
だから彼の軍隊は飢えているんだ
防空壕のマッカーサーは 船に乗って逃げる用意ができた
大波が押し寄せてくる海を越えて
日本軍がバタアンで猛攻撃を加えたからだ
だから彼の軍隊は飢えで死にそうさ
俺達はずっと一所懸命に戦ってきた
ずっと戦いは続くって教えられたからね
リンガエン湾からバタアンの丘に至るまで
そして俺達は,防空壕のマッカーサーが逃げた後も戦い続けなければならないんだ
これからも俺達は飢え死にしそうになるだろう
(コーラス)
防空壕から出てきなよ,ダグ
出てこいよ,隠れ家から
フランクリンに送ってやれよ,嬉しい頼りを
俺の軍隊は飢え死にしそうだと」
(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.16-17)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
【質問】
太平洋戦争中のガダルカナル島で,日本軍はアメリカ軍の機関銃に向かって銃剣突撃したそうですが,そこで疑問に思ったのですが,太平洋戦争序盤のフィリピン戦でアメリカ軍をどうやって降伏に追い込んだのでしょうか?
ガダルカナルでの戦い方を見てると不可能なような気がするのですが?
【回答】
フィリピン戦では,日本軍もわりと豊富な戦車・火砲や航空機を使っていました.
ガダルカナルでの突撃は,状況判断の誤りと貧弱な補給能力からとった方法で,それほど好んでやったものでもなく,言われるほどには馬鹿な手でもないです.
また,フィリピンでは,アメリカ兵の正規部隊は少なく,主力は装備・練度に劣る現地人兵士でした.
なおフィリピン戦でも,第一次バターン戦では,陸上戦では米軍はとっととコレヒドールとバターン半島に撤退.
そこに篭って防御が十分,物資もまだ余裕があったのに対し,日本側は砲兵が不足した第二線級の部隊だったため,日本側が敗北しています.
その後,航空機や重砲を大量投入した第二次攻略戦で勝利しました.
バタアン半島の米比軍は,食料・弾薬が切れて降伏.
コレヒドール島は周囲から砲撃で降伏させました.(また,こちらも食糧も不足した)
軍事板●初心者歓迎 スレ立てる前に此処で質問を 507
青文字:加筆改修部分
コレヒドール要塞の砲台(だったかな?)
【質問】
なぜ米比軍はバタアン半島へ退却したのか?
【回答】
最初からそういう計画であった.
マッカーサーは初めから,マニラ周辺地区では日本軍とは決戦はしない計画だった.
バタアン半島は自然の要塞であり,そこに入り,強固な陣地に拠れば,半年や1年は抵抗し続けることができると考えられた.
その間に本国からの救援部隊が到着し,日本軍を攻撃するという計画だった.
(中村八朗「雄魂! フィリピン・レイテ」,学研,1972,p.41 & 57,抜粋要約)
しかしハンプトン・サイズによれば,そこに誤算があったという.
〔ルソン島への〕攻撃開始後の2日間,フィリピン防衛を指揮していたダグラス・マッカーサーは,ちょっとした徘徊症に陥っていた.文字通り誰の目にも触れず,マニラ・ホテルのスイート・ルームに篭ったまま,何の対応も示せなかった.
ようやく姿を見せた彼は,気の進まぬ様子で,数年がかりで作り上げた『オレンジ計画』という防衛戦略を披露した.作戦は華々しく,かつ迅速に実行に移された.マニラは『無防備都市』を宣言し,火力に優るアメリカは,組織的に都市周辺部から撤退し,本間率いる帝国陸軍第14軍の猛攻に備えて,バターン半島に集結した.〔略〕道なきジャングルと,マニラ湾に突き出す険しい火山の岬からなるバターン半島は,長引く防衛線には最適の場所だった.
バターンは確かに最適の場所だった.しかしそれは,追い詰められた守備隊が,食糧と軍事物資の補給を外部から受けられるという条件づきでの話だった.オレンジ計画では,海軍が太平洋を越えて助けに来てくれるまで,陸軍はバターンで持ち堪えればよかった.
だがもちろん海軍は存在しない.太平洋艦隊はパール・ハーバーで事実上壊滅したのだ.日本の封鎖網を突破する軍艦がなければ,マニラ湾手前の半島先端にある,バターンとコレヒドールという強固な要塞に物資を届けることは,まず不可能だった.
防衛戦はすぐに,無慈悲な消耗戦へと姿を変えた――その戦争は,ある兵士曰く,『補給のない消費』だった.
〔略〕兵士は大地の先端に取り残され,1日15オンスにも満たない食糧と,古くは第1次大戦時の錆びついた武器で戦わねばならなかった.
ワシントンの陸軍省は国民を安心させるため,手遅れになる前に,大規模かつ,より大胆な作戦を実行する予定だった.
しかし1941年のクリスマスにはバターンを見捨てていた.ルーズベルト大統領は,遠く離れた2つの前線に戦力を注ぐよりも,ヨーロッパに物資を集中することにしたのだ.戦争に勝つための基本戦略にも見放され,辺境のバターンは消えゆく運命にあった.
12月末,ルーズベルト大統領と陸軍省長官ヘンリー・スティムソンは,誠に遺憾ながらフィリピンを諦めたことをチャーチルに伝えた.スティムソンの言葉として後に有名になった,血も涙もない一言だ.
『人には死なねばならないときがある』
しかし,包囲されてから4ヵ月間は,食糧・弾薬と薬がまだ輸送中であるという噂が絶えなかった.ルーズベルトは守れるはずもないと知りながら,多くの約束を口にした.あるときはラジオでフィリピン国民に,『使える船は全て』ルソン島に向かっていると言った.さらにマッカーサーに対しても,
『配備中の全艦が太平洋南西に直行中であり,必ずや敵を打ち破るだろう』
という,希望に満ちた知らせを送った.
マッカーサはーはルーズベルトのペテンの被害者であり,偽りの希望の発信源でもあった――彼は,陸軍省から送られてきた極秘情報を,非現実的なほど楽観的に捉えていたのだ.マッカーサーは間違いなくワシントンに裏切られたと感じていたが,同時に,病的とも言える楽観主義に溺れていた.
最も大袈裟な援軍の約束は1月15日,マッカーサー自身が公式声明として発表し,それは普段の彼らしからぬ散文体で書かれていた.
『もうすぐ援軍が来る』そう彼は断言した.『数千人の兵士と数百機の飛行機が急派された.日本軍を途中で撃破する必要上,到着の正確な日時は分からない.我が軍はそれまで絶対に持ち堪えなくてはならない.これ以上の退却は不可能である.物資は十分にあり,必死の防御が敵を打ち負かすだろう.もはや勇気と意思の問題だ.逃げる者は命を落とす.だが戦う者は自分自身と祖国を救うだろう.バターンの全兵士は各自持ち場を離れず,あらゆる攻撃を防いでもらいたい』
(「ゴースト・ソルジャーズ」光文社,'03)
【珍説】
マニラは無防備都市となり,交換船で一部は帰国したものの,大部分が残され,その残留米国民6百人は戦後,アンソニー・ダマト教授を代理人に立て,アメリカ政府に抗議した.
「我々を危険な囮にしたのだな」
と.
政府は苦しい答弁をした.ビザを発給できなかった事情は一切認められなかった.政府は渋々,故意に発給を遅らせたことを認め,
「あなたがたがいるのを知ったら,おそらく日本軍は攻撃を躊躇うのではないかと思った」
と釈明している.
交戦時の掠奪暴行は常識のようなもの,アメリカ政府は日本軍に在留米人家族を襲わせて宣伝に使う予定だった.東洋人には珍しい,白人の衣裳・家具装身具.
ところが日本軍は全く品物にも女にも手出しをしなかったのだ.
アメリカ政府は,この不発に終わった企みを白状するわけがない.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.131-132)
マニラ市に防衛施設は作らなかった.初めから首都を防衛する考えはなかったので放棄とも言えない.倉庫は殆ど空にされた.
無防備都市を宣言すれば,敵は平穏裡に進駐してくると信じてよいのか.その期待は多分に一方的なものであり,勝者が紳士的でなければ謗りを受け,非難を受けるだけのことである.どのように悲惨な結果になろうとも,その責任は市民を守る義務を放棄した防衛軍のものである.
しかし,だらしない兵士や国民を奮い起こさせるには,怒りと恨みをかき立てることが最大の効果を及ぼす.
マッカーサーは,6百人に及ぶ在留アメリカ人のパスポート申請を握り潰し,市内に置いてきぼりにして退却した.
たびたび社交の席でマッカーサーは多くの居留民と親しく交わった.彼らは支配階級であり,ハイソサエティーなのである.
その重要人物達を見捨てることは,予定の行動だった.
南部方面軍のパーカーズ中将が,北部担当のウェンライト少将と合流するや,パンパンガ河の唯一の国道橋カルムヒット橋は爆破され,後を追っていた市民は切り捨てられた.日本軍の追撃も阻まれた.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.156)
【事実】
マニラ陰謀論というのは初めて目にしました(苦笑).
他所で述べられている通り,「マニラを放棄して,増援が来るまでバタアンで持久」がアメリカの当初からの計画です.すなわち,「そうしたほうが作戦上有利だから」マニラを明け渡したに過ぎません.
もし米比軍が持久を考えていなかったなら,市街戦に持ち込んで日本軍を消耗させる戦術をとったかもしれません.
また,これがもしアメリカによる陰謀の企てであるとするなら,日本軍がバタアンに退却する米比軍を追わず,必ずマニラを目指すことを察知していたことになります.
すなわちそれは,土橋部隊などが追撃を主張しても第14軍司令部はこれを拒絶することまで,米比軍は見抜いていたということを意味しますが,そんな物凄い神通力がマッカーサーなどにあったとは思えませんね.
【質問】
バタアン半島へ退却中の米比軍を,なぜ日本軍は追撃しなかったのか?
【回答】
マニラ攻略を日本軍は主目的としており,これに全力を傾けたかったため.
また,本間雅晴将軍始め,幕僚の大部分がバタアン半島について認識不足だったため.
以下引用.
大正末期からフィリピン調査をした前田正実の提唱により,昭和4年度の作戦計画からは,
「もし米軍がバタアンの陣地に逃げ込む状況においては,マニラに向かい求心的に進撃する方法を堅持しつつ,敵軍が要塞に入るに先だって捕捉撃滅する」
という原則に基づいて指導されてきた.
これは昭和12年まで付記されたが,16年の開戦時には削られていた.
したがって,第25軍がシンガポール攻略で作戦目的を完遂するのと同じく,第14軍の目的もマニラ攻略で終わっていた.
これに関し,瀬島大本営参謀は,戦史室著「比島攻略作戦」の中で,こう述べている.
「元来,マニラ攻略は,その内外に及ぼす影響が極めて大きく,戦争指導上の価値は非常に重視された.
加えるに,敵情判断もまた,北部ルソンで決戦が生起するとの判断が支配的であった.
したがって,第14軍の任務を,敵の主力撃破とするか,マニラ攻略という土地の攻略とするかが問題となったが,結局マニラ攻略を主目的とされた.
しかし作戦経過予想を,米比軍主力との決戦,次いでマニラ攻略と完全に決めていたわけではなく,ある程度,米比軍のバタアン退却も判断していた.
その場合の作戦指導要領は,当時の状況により相当に差異があるので,作戦要領には遂に記述されなかった.
思えば昭和16年11月3日頃,私が「第14軍作戦要領(案)」の決裁を受けるため,杉山参謀総長のもとへ行った時,総長は
『バタアンのことを書いておく必要はないか?』
と質された.
そこで私は,
『書かなくてもよいと思います』
とお答えすると,総長は不承知のような顔をしつつ,決裁された次第である」
現地部隊においては,敵大部隊がカルンピット橋を経て西進中との情報を掴んだ秋山航空主任参謀は,軍主力をバタアン半島へ突進させ,退却中の米比軍を捕捉すべきだ――と,強く主張した.
また,土橋部隊からも,米比軍の退路遮断のため,カルンピット橋爆撃の意見具申がなされた.
だが,参謀長・前田正実中将を始め参謀の大部分が「マニラ攻略に全力を傾注する」案を支持した.マニラ攻略直前に,主力たる土橋部隊から有力な兵力を割く事の危険を説く彼らは,マニラの無防備都市宣言後も,なお敵の有力な残兵がマニラ周辺を防守していると判断していた.
前田は大正14年から3年半,大尉時代に電気器具商に化けてフィリピンに潜入し,諸種調査に当たった,陸軍きっての比島通で,敵がバタアンに立て篭もって抵抗するであろうことを早くから予測していた.
開戦前,10月始めに陸軍大学で行われた兵棋演習で,当時既に14軍参謀長と予定されていた前田は,
「比島作戦目標はマニラ市の占領にあるか,敵野戦軍主力撃滅にあるか.米西戦争の例に徴しても,米比軍がバタアン半島に退避する公算があるが,この場合の作戦に関してはいかに考えているか」
と,大本営と南方軍の意向を質している.
前田の質問に対し,南方軍総参謀副長に予定されていた青木重誠少将は,南方軍の意見として,
「もし作戦経過中,米比軍がバタアンに退避すれば,それはマニラ攻略後の戡定作戦としてゆっくり処理してもらいたい.
とにかくマニラは政軍略関係から速やかに攻略する必要があり,海軍もこれを熱望している」
と答えた.
11月20日の南方要域攻略に関する南方軍命令によっても,首都マニラの迅速攻略が第14軍の使命とされた.
開戦前にここまで十分に駄目押ししてあった前田は,12月27-8日,米比軍バタアン退却がいよいよ明白となっても,迷うことなく「全力を挙げてマニラ攻略」を主張したのであろう.
高級参謀・中山源夫(もとお,当時大佐,のち少将)は戦後,次のように語っている.
「空中捜索により,米比軍の大部隊がバタアンに向かい退却中であることは知っていたが,当時は,敵がバタアンを経てさらに海路他方面に転進するであろうとの判断が強く,バタアンに立て篭もって抵抗を試みるであろうとの判断は重視されなかった」
「もし米比軍がバタアンへ退却するならば,どしどし退却させたがよい.それだけマニラの占領が楽になる.退却を阻止して,『窮鼠かえって猫を噛む』ようなことをさせるのは策を得たものではないとの考えであった」
また,本間を始め幕僚の大部分がバタアン半島について認識不足であり,これを軽視したことが,「マニラ攻略に全力傾注」の決定を生んだ一因であったが,これも「ドロなわ」であった陸軍の比島攻略準備が原因している.
14軍作戦参謀であった佐藤徳太郎(中佐)は戦史室著「比島攻略作戦」の中に,
「参謀本部編纂の膨大な比島兵要地誌にも,バタアンの価値については一言半句の記述なく,また20万分の1兵要地誌図でも,その兵要価値はもとより,一般的地勢についても甚だはっきりしなかった」
と書いている.
これは14軍がバタアン攻撃を開始した後に,大きな障害となった.
(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,
中央公論社,1972/9/9, P.158-161,抜粋要約)
【質問】
米比軍のバタアン撤退を,日本軍は全く放置したのか?
【回答】
阻止行動には動いたが,その任務に就けること可能な兵力が過少だったため,それに失敗した.
以下ソース.
「バタアン撤退を日本軍第14軍が明白に認識したのが,1941/12/29.ここで,第14軍の作戦方針の誤りが決定的のものとなったわけである.
しかし第14軍は,今更作戦を変更するわけにいかず,同日午後4時,第48師団に
「カバナツアンの敵を撃破し,一気にマニラへ前進せよ」
と命ずると共に,同師団上島支隊に対し,速やかにタルラックを攻略してエンゼルス方面に前進せよと命令した.
マニラ本道上の要衝タルラックを抜かれて南下されると,バタアン方面への逃げ口を米比軍は封じられることになる.
この上島支隊は,元々連隊の兵力を有する相当有力なものであったが,所属部隊が各方面に転用され,この時は歩兵2大隊と野砲兵2中隊に過ぎなかった.
しかし危急の今,全兵力を集結する暇はなかった.部隊は直ちにカルメンからタルラックへ進撃した.
しかしウェーンライト軍は,ここに戦車十数両と砲兵を配して頑強な抵抗を始め,上島支隊の進撃を阻んだ.
第14軍は,タルラック攻略に協力させるため,歩兵,山砲兵各1大隊から成る菅野支隊を,クラベラからタルラックへ急行させた.
だが途中,ラパス東方で橋が爆破されたため,ついに前進を阻まれてしまった.
上島支隊は,本道上の橋梁が爆破されているので,間道を辿りながら昼夜兼行の進撃を続け,上島支隊長自ら陣頭に立って銃砲火の真っ只中に突入し,31日,タルラックを攻略.
しかし上島大佐は,敵弾で戦死してしまう.
米比軍にとっては,退路を遮断されては一大事である.
そこで,虎の子として温存されていた戦車部隊を米比軍は繰り出して防戦に努め,日本軍は一時撤退.
その隙を見て,米戦車部隊はカルンピット橋を渡ってパンパンガ州へ退避.時に1月1日午前2時半.
他の部隊もこれに続き,殿軍の歩兵部隊は,日本軍の砲火を浴びながら同5時に橋を渡る.
ウェーンライト司令官は橋の爆破命令を下そうとしたが,爆破任務を持つ工兵の1小隊が,対岸に取り残されていると判明.
爆破命令は6時15分まで延ばされたが,その小隊からは何の連絡もない.
もはや全軍を救うために猶予はならじと,彼は爆破を命じた.
鉄橋もコンクリート橋も,轟音と共に爆破.
それは日本軍の戦闘部隊が対岸へ突進すると同時だった.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.42-43,抜粋要約)
【質問】
カルンピット橋を破壊すれば,米比軍のバタアン半島退却を阻止できたが,では,破壊は可能だったか?
【回答】
困難だっただろうと考えられる.
以下,ソース.
橋を破壊するには,日本軍工兵隊が橋に爆薬を仕掛けて爆破するか,飛行機で爆弾を投下命中させるしかないが,27日時点で,日本軍の最先端はまだウミンガンの線である.
ウミンガン→カルンピットは,図上直線距離でも約120kmあり,とても一気に進出できる距離ではない.
工兵隊による爆破は不可能である.
では,飛行機で爆破するのはどうか?
第14軍は,
「航空機で橋を破壊するのは困難な作業である」
として,最後まで橋の爆破を命令していない.
カルンピット橋付近には米比軍の高射砲陣地が当然あるであろうし,命中弾を与えることは困難と判断したためである.
結局,カルンピット橋を爆破したのは米比軍自身だった.17年1月1日午前6時15分,最後の米比軍が橋を渡ってバタアン半島に逃げ込んだ直後のことであった.もちろん日本軍に使用させないためである.
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,
1978/6/10, p.109-110,抜粋要約)
SASのような特殊部隊がいれば…….
【質問】
第1次バタアン戦の主力,第65旅団はどのような装備・兵力だったか?
【回答】
各連隊は普通の連隊より1個大隊少ない2個大隊編成.
しかも大隊は,小銃中隊も1個中隊少なかった.
兵力も約二千人で,普通連隊の半分.
その代わり,連隊には通信と野砲兵が各1中隊,連隊砲が1小隊配属されるという,その頃の歩兵連隊としては異色の諸兵混合部隊で,新旧兵器の寄せ集めといったところだったという.
以下抜粋要約.
65旅団は昭和16年10月8日,軍令陸甲第76号により,中国・四国地方の召集兵を集め,第65独立歩兵団を基幹として臨時編成された.秘匿名は「夏」部隊.
旅団長は奈良晃中将.
参謀長はいないが,参謀は2人いた.鷲見一男中佐と都渡正義少佐である.
141連隊長,今井武夫大佐(のち少将)の話.
「福山市にあった西部第63部隊で,広島・香川・高知など各県の予備役将兵を集めて作ったのが141連隊で,昭和16年9月10日,宮中に参内して新しい軍旗を親授されました.
当時陸軍は,万一開戦となった場合に備えて,新しい軍の編成や部隊の動員を準備中でした.
141連隊や,65旅団を構成する122連隊(松山編成),142連隊(松枝編成)も同じ目的で作られたもので,基本的には開戦後,戦闘部隊が海外に派兵された後,内地に留まって警備する留守部隊となるはずだったのです.
8月上旬,中国から帰って福山市に赴任する時,上京して陸軍省に挨拶に行ったところ,兵務局長の田中(隆吉)少将や補佐課長の那須大佐などから,
『君は海外勤務が長かったから,今度は海外派兵の予定はないよ.福山には家族を連れて行ったほうがよい』
と言われたものです.8月上旬の時点では,65旅団を海外に派遣するつもりは陸軍省にはなかった,ということですね.
それが1ヵ月ほど経って9月下旬になると雲行きが怪しくなり,全く様子が変わって,65旅団は外地に出征と一転したのですが,それでも戦闘部隊として出征するのではなかったのです.第一線の作戦部隊が上陸に成功して進撃した場合,その後方占領地の治安警備を担当するのだ,と聞かされていました.
141連隊だけでなく,122も142も同じだったのですが,名称こそ歩兵部隊ですが,2個大隊編成でした.普通3個大隊で1個連隊を編成するわけですから,1個大隊少ないわけです.
しかも大隊は,小銃3中隊に機関銃1中隊です.小銃中隊も1個中隊少ないのです.
兵力も約二千人で,普通連隊の半分ですね.
その代わり,連隊には通信と野砲兵が各1中隊,連隊砲が1小隊配属され,連隊本部には馬が10頭とトラックが15両ありました.
その頃の歩兵連隊としては異色の諸兵混合部隊で,新旧兵器の寄せ集めといったところですね.
122連隊,142連隊,それに141連隊を合わせたものに,工兵が1個大隊ついて,輜重隊がないという,まあいびつな旅団でした.
従来の例によりますと,普通『歩兵第65旅団』とか『混成第65旅団』と交渉したのですが,65旅団には『歩兵』とか『混成』とかいう文字がつかないで,単に65旅団,と言っていました.
私は連隊長として,装備を少しでも優秀にしようと思い,中央に色々と希望条件を要請したのですが,いずれもナシのつぶてで,何の回答もなかったですね.
考えてみると,日本の兵器廠は空っぽだったんですね.支那事変が始まって4年も経っているし,この上大東亜戦争を始めるために大兵力を動員したわけですから,警備部隊となると,まあ寄せ集めの兵器で間に合わせておけ,というわけだったのでしょう」
141連隊第2大隊第6中隊,木曾武雄少尉(のち大尉)の話.
「何でも足りない旅団で,普通4個分隊で1個小隊なんですが,うちは3個分隊で1個小隊でしたね.
まあ三流の部隊だったんです.
したがって兵器も足りないし人員も足りない.
戦闘のときも,よその部隊から武器を借りてきて戦ったりしたものなんです.
今でも覚えているんですが,1個小隊は60人でしたよ.
3個小隊と指揮班がついて1個中隊を構成していましたが,総人員210人でしたね.
軽機関銃も擲弾筒もみんな少ない部隊でしたなあ」
141連隊第1機関銃中隊長,松岡勝三中尉の話.
「現役兵が非常に少なく,支那事変で戦争を体験したことのある将兵もまた少なかったのも特色でしたね.
私は第1機関銃中隊長で,戦争体験は中国であったが,将校の中に私と同じような戦闘体験を持った者は希でした.弾の下をくぐったことがないわけです.
私の中隊に例をとると,3分の2は召集兵で,現役は3分の1ぐらいだったでしょうか.
兵隊で戦闘体験を持っている者も3分の1ぐらいでしたね.
連隊長は今井武夫大佐ですが,この方はエリート・コースを歩いてきた人で,中国戦線にいても,和平工作などばかりやってきた.文治型の連隊長ですから,実戦の経験はないわけです.
将校の中では,ほんとに数えるほどしか実戦経験を持った者はいない.
若い現役の将校もいたが,これが歩兵操典通りの戦闘指揮をやり,犠牲者ばかり多く出した,ということだってあったのです.
141連隊は変な編成でしたね.
機関銃中隊の中に大隊砲小隊があったのです.
そして連隊の中に野砲兵中隊がありました.
野砲兵は独立しているのが普通で,例えば第5師団には野砲兵第5連隊というのが独立した単位で編成されていたものです.
それなのに,65旅団では連隊の中に野砲兵中隊が混在していました.
確か38式野砲が1個中隊4門ありましたね.
122連隊も142連隊も同じ編成ですから,およそ戦闘するには不向きな部隊だったと思います」
それは旅団工兵隊も同じようなものだった.
65旅団工兵若林高行中尉(のち大尉)の話.
「65旅団工兵隊は,広島市にあった工兵5連隊の補充隊で,16年11月8日に編成されたのですが,堀池芳馬少佐を隊長に小隊長4人,隊付将校4人で,総人員は200人程度だったと記憶しています.
4個小隊で1個大隊を編成した,単独の旅団工兵隊でした.1個大隊だけの工兵隊というわけです.
隊付将校というのは,副官と兵器係,軍医,主計といったところですが,計9人の将校の内,再度の招集者が8人で,現役は私1人という陣容でした.兵隊も召集兵が多かったですね」
歩兵122連隊の編成官僚は16年11月1日.
基幹となったのは,中支で活躍した,40師団隷下の234連隊の留守部隊で,松山市が本拠地.
連隊長は渡辺裕之助大佐.第1大隊長は柳瀬少佐,第2大隊長は志摩少佐であった.
松枝編成の142連隊も,松山122連隊も,隠密の中で編成され,ひっそりと台湾へ向かっている.福山編成の141連隊と,まるで様子が違っていた.
言ってみれば寄せ集めの部隊だったが,16年11月6日,65旅団は本間雅晴中将の第14軍の戦闘序列に入れられた.第14軍の指揮下で戦闘する,という取り決めである.
そのため召集兵をさらに集めることになり,兵庫・鹿児島・宮崎・徳島・愛媛の各県から900人掻き集めた.
これで,定員6417人だったのが,約7300人の部隊になった.
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.42-55)
【質問】
バタアン攻略開始直前の1941/1/2夜,第5飛行集団はタイ方面に,第48師団は蘭印作戦に,なぜ南方軍は転用したのか?
【回答】
当初の大本営の作戦計画で定められたことではあったが,当時,第14軍は,残りの兵力で攻略することも,それほど困難ではないと考え,それが大本営や南方軍の考えにも影響した.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.46-47,抜粋要約)
+
【質問】
第1次バタアン攻略は,なぜ失敗したのか?
【回答】
情報不足のまま,バタアンの米比軍を甘く見ていたため.
第14軍主力の第48師団と第5飛行集団の他方面への転用は,開戦前から予定されていたが,南方作戦開始後の順調な戦況により,1月1日,ジャワ攻略開始時期が急に早められ,第48師団の乗船日も,3月8日の予定が2月3日と繰り上げられた.
第14軍がこの通知を受け経ったのは,マニラ占領とほぼ同時期だった.バタアン攻略にかかろうとするときに,兵数,戦闘力共に過半に当たる主力を引き抜かれることは,14軍にとって致命的だったが,14軍司令官,本間雅晴中将の1月4日の日誌には,
「少し早すぎるが致し方あるまい」
と書かれている.
彼の人柄を知る同期生の一人,藤井貴一は,
「軍人は与えられた条件に不服を唱えず,その中でベストを尽くすべきだ――というのが本間さんの態度だった」
と語っている.
土橋師団は,転戦ぎりぎりの日まで「押せる線まで押そう」とバタアンへの道を進んだが,カルンピット付近のパンパンガ河は川幅約150m,水深は10m近く.道路橋,鉄道橋共完全に破壊されていて,渡河は僅かな鉄舟による他なく,渡河に2日半を費やした.
バタアンの敵は,マニラ占領までに日本軍が遭遇した米比軍とは比較にならない頑強な抵抗を示し,その内にジャワ転戦の日が来て,1月8日に第65旅団と交代(14軍のもう一つの師団,第16師団は各所に分散中だった).
同旅団(歩兵5大隊,野砲2中隊基幹)は,警備部隊として編成された第二線兵団で,老兵が多く,装備も極めて貧弱.
しかし旅団長,奈良晃中将も同旅団の連隊長以下もかねがね第一線に出る事を希望していたので,彼らはこの新任務に満足だった.
奈良中将の戦後の回想によると,台湾への出発の途中,岩国に出頭を命じられ,本間軍司令官から,
「君のところは第二線兵団として警備担当の予定であるから宜しく」
と言われている.
しかし部下の連隊長が,第一線に出たい希望が強いものだから,台湾での作戦会議の際,
「旅団の素質が悪いので大したことはできませんが,機会があれば是非大一線で使っていただきたい」
と,重ねて本間軍司令官に希望したという.
そのためではあるまいが,65旅団がリンガエンに上陸し,1/1マビラオ泊地に着いた時,林義秀第14軍参謀副長(少将)から,
「軍の作戦は順調に進捗しているが,米比軍の相当兵力はバタアン半島に退却中である.
48師団の転用はまだはっきりしないが,65旅団に早く出てもらって,バタアンを攻撃してもらわねばならない」
と申し渡され,初めて旅団が第一線に立つことになったのを知った,と語っている.
奈良旅団長が本間軍司令官に,
「警備部隊だが第一線に出して欲しい」
と言ったのは,あるいは奈良旅団長個人の願望だった可能性が強い.
「兵隊だから戦闘してみたい」
といった,漠然とした意識はあっただろうが,第一線で通用する戦力でないことは,当の連隊長が一番よく知っていたはずだからである.
勇み足的な発言であったろう.戦闘師団でないことは,65旅団将兵全員が承知していたはずである.
この辺り,個人となっている関係者が多く,真相の確かめようはない.
さて,当時の第141連隊長,今井武夫(大佐.後,中将)は,炎天下に220kmの強行軍中,
「急げよ,グズグズしているとバタアンの米比軍が白旗を上げてしまって,武勲を立てる暇がなくなるぞ」
という言葉が伝わってきたことを今も記憶している.
当時の軍は,これほどバタアン半島の敵を見くびっていた.
土橋メモ1/8付に曰く,
「奈良中将は極めて状況を楽観し訳なくバタアンが取れるように言う.私は陸大の同期の誼(よしみ)で率直に警告した.例のヨボヨボの老兵隊で編成,装備も二等或は三等の兵団を以て易々と取れるように思っては大きな誤算を来すであろう.私は敵がバタアンで強く抵抗すると信じているので,サンフェルナンド以降の敵の抵抗が侮り難いことを縷々述べ,油断は大禁物だと強調するのだが,奈良中将の軽視観は動かぬらしく見えた」
1/7,第14軍高級参謀・中山源夫大佐は奈良旅団長に,
「現在の状況は追撃であり,米比軍の兵力は1〜2万程度であるから,すぐに攻撃されたい」
と連絡した.バタアンには本格的な防禦陣地などなく,応急の防備を急いで固めつつある――というのは日本側の一方的な観測だが,その頃これが14軍の固定観念になっていた.
奈良は中山参謀の意見に従い,旅団兵力が揃うのも待たず,直ちに攻撃開始.220kmの行軍※に疲れ切った将兵は,休む暇も与えられず,戦闘に全く役立たない,20万分の1の怪しげな地図のために,敵の陣地はおろか,どの道がどこに通じているかも分からぬまま,ただ敵を求めて前進した.
(※65旅団野戦病院命令の1/7午後5時ダウにて発令の内容に,
「蔵楽上等兵外1名は自動貨車1両をもってタルラック兵站病院に到り,第141連隊入院患者の輸送に任ずべし」
というのがある.落伍者が相当にいた,ということである)
65旅団141連隊長,今井武夫大佐の話.
「半島全体が熱帯のジャングルに覆われた天然の一大要塞で,平素米比軍は演習場としていたところだったんですね.これも後で分かったのですが,約1万5千人の米軍と6万5千人のフィリピン軍,それに2万6千人の避難民が逃げ込んでいたのですね.
私達が軍から得た命令では,2万人の米比軍がいるから,これを追撃せよ,ということだったのです.
考えてみると『追撃せよ』というのは変な話で,軍の常識にはありません.『追撃』とは,それまで交戦していた敵が逃げ出したときに使用する言葉で,正確には『攻撃せよ』でなければならないものなのです.
見たこともない敵を追撃するなんて前代未聞でしたよ.
攻撃命令というのなら,ちゃんと敵情を偵察し,勝てる作戦を立てて,それから行動に移ることができますが,追撃命令ですからそんな余裕はない.やっと第一線に着いた我々に追撃命令を出すのは,第14軍の参謀の不見識なんですね.
参謀の態度から,
『お前達に手柄を分けてやるんだから,早く進め』
といったような言外のムードが感じられたものでした.中国戦線と同じだ,と思っていたんですね.
バタアン半島に逃げ込んだ米比軍を小馬鹿にしていた証拠で,これは完全に第14軍司令部のミスです.
実はバタアン戦では,65旅団としては言いたいことが沢山あるんです.
いずれ証言の機会があると思いますが,全く第14軍の作戦指導は子供の戦争ごっこのようなことをやったのです.
このことははっきりさせておかないと,戦死した戦友に相済まないですからね.
ついでに言いますと,あの激烈な大戦闘の最中に,65旅団だけを残し,飛行機も,重砲も,48師団も引揚げてしまい,
『65旅団は戦が鈍い.いっそ援軍なしでやらせたほうが効果が上がるだろう』
などと嘯いていたんですからね,第14軍の司令部は.重砲を引揚げて後方で演習をやらせていたんですよ.
バタアン戦はにっちもさっちもいかなくなって,結局大変な動員をし,5月になってやっと終了したわけですが,全く最初の頃は米比軍を小馬鹿にしていてやられたんです.
65旅団がのろまだったわけでは決してないんです」
旅団長は重点をナチブ山麓と平地の境に置き,一挙に米比軍陣地を突破,バランガ平地に進出しようと企図.
だが密林地帯に妨げられて前進は困難を極め,米比軍の抵抗も堅く,また予想外に優勢で,特に砲兵力はナチブ山の有利な観測所を利用して猛威を振るった.
本間日誌,1/11付,
「夕刻帰って来た佐藤参謀の報告によると,奈良兵団第一線は一つ手前の敵陣地に終日引っかかっていて,敵の15サンチ加農に痛めつけられている由,がっかりした.武智大佐,初陣に道を誤り松原大隊を除き我第二線の位置に舞い戻って好機を逸し樹功のいい機会を失った.駄目な奴だ」
同12日付.
「奈良兵団の戦況進捗せず,膠着せるが如く,憤慨の至りだ.優勢な兵力を持っていて何をしているか」
警備部隊である奈良兵団を指して「優勢な兵力」と言うほど,敵を軽視していた.
1/13,奈良兵団は,第9連隊(2個中隊欠)をナチブ陣地側背に進出させようとするが,ジャングルに阻まれ難航.補給も困難となり,空中投下によるごく僅かな補給を受けながら,1/19にはなんとかバランガ西北方の高地へ進出し,側背を脅かす態勢がとれるが,米比軍は一時動揺したのみ.すぐに態勢を立て直して反撃し,奈良兵団の戦闘は頓挫.
1/24,奈良兵団は平地からの攻撃と見せかけ,山岳地帯から夜陰に乗じてナチブ陣地を奇襲.25日にはようやくこれを突破.
しかし,サマット山を中心とした陣地の前に,再び攻撃は頓挫する.
「65旅団戦闘詳報」による,1/9〜24までの死傷者数は.戦闘参加が
旅団司令部,将校20名,准士官以下136名.
122連隊以下3個連隊とも,将校64名,准士官以下1855名
に対し,
戦死 | 戦傷 | |
旅団司令部 | 将校なし,准士官以下1 | 将校2,准士官以下9 |
122連隊 | 将校2,准士官以下33 | 将校2,准士官以下71 |
141連隊 | 将校8,准士官以下328 | 将校12,准士官以下352 |
142連隊 | 将校13,准士官以下213 | 将校14,准士官以下373 |
配属部隊 | 将校3,准士官以下90 | 将校10,准士官以下278 |
ようやく,第16師団から抽出した増援が送られる.
16日,オロンガポに集結した木村支隊(木村直樹少将)は,先遣隊を追って,駄馬の交通すら許さない険阻な西海岸沿いの道を南下.しやしやがて一面の湿地帯となり,満潮時は腰まで没する泥海となって重材料などの運搬は難渋を極める.車両や砲は筏で対岸のクビ岬に揚げ,先遣隊が突入したモロンへ.
2隊に分かれ,敵を挟撃する態勢でマウパンに向かうも,敵は兵力を増して攻撃は進捗せず.
木村少将は,指揮下にある発動艇で一部兵力を海上から敵背後に進出させ,バガック周辺で米比軍を一挙包囲,全滅させようと企図.
22日夜,歩兵第20連隊第2大隊主力を基幹とする部隊は,恒広成良中佐指揮の下,カイボボ岬目指して出航.
だが暗夜と潮流のため,上陸地点を誤認.23日未明,目的地より南のキナウアン岬付近に上陸,優勢な米比軍に包囲さる.この隊の一部が,さらに南方のロンゴスカワヤン岬に上陸,全滅したことは,バタアン作戦終了後に確認されている.
第16師団参謀長,渡部三郎大佐の回想記.
「恒広大隊の舟艇機動が気軽に行われ,上陸したら直ちに所望の戦果を挙げて敵を覆滅し得るような判断の下に派遣されたらしいので,
『恒広大隊はどこへ上陸したのか,その上陸点へ行ける自信があるか』
と質問したが,船舶部隊指揮官は,
『1/22夜,カイボボ岬に向かって発進したが,途中の潮流が激しくて流され,現地付近の岬はどれも同じように見えて識別することも難しく,時も経ったので,思いきって海岸に達着して恒広大隊を揚げて帰ってきた.
その地点へ案内することは全然,自信もない』
と言うのであった.
私は愕然とせざるを得なかった」
30日,恒広大隊からの連絡途絶.他に,第20連隊主力も米比軍第一線内に孤立して苦戦.
2/1,窮余の策として,木村大隊を夜陰に乗じて恒広大隊上陸海岸に向かわせるも,木村大隊は恒広大隊の位置を確認できず,カナス岬南方入り江に,砲火と敵機の掃射を冒して強行上陸,ようやく先遣第1中隊と合流.
しかし,戦車を伴う米比軍の攻撃を受けた木村大隊は,上陸地点近くで死傷者多数を出し,恒広大隊との連絡に務める余裕なし.大隊には対戦車兵器もなく,将兵は地雷を抱いて戦車に肉薄.
2/7朝,師団司令部は両大隊に撤退準備を電命したが,これが受領されたかは不明.
同日夕,両大隊救援収容のため,有力な舟艇群が現地付近に向かうも,敵猛射と水雷艇の攻撃を受けながらの捜索の甲斐なく,友軍を発見できぬまま帰還.
翌8日夜,再度の救援行で,海岸近くに集まっていた重傷者34名収容.
この間,航空隊も両大隊位置確認と戦闘状況偵察のための努力を続けるも,ジャングルに遮られて目的を達しえず.
9日,木村大隊は兵力約200で逆襲,戦線突破.主力と思われる約80人が北方へ脱出.しかし,主抵抗線南方1.6kmで発見され,米比軍によって掃討さる.
10日,木村大隊長,「泳げる者は脱出して,この状況を本隊に伝えよ」と言い残して戦死.
11日,各中隊長は残存部隊を集め,「受傷して歩行適わずは自決せよ.生きて恥を晒す勿れ.死して護国の鬼とならん」と訓示後,敵陣突入,玉砕.
恒広大隊の最後については,生存者皆無のため日本側記録なし.米軍側記録によれば,米比軍が恒広大隊を完全に沈黙させたのは2/8だという.
1/22,天皇はバタアン半島の戦況について杉山参謀総長に質問.これを契機として,中央に第14軍の兵力増加を図る機運が生まれ,それが現地からの苦しい報告に促進されて次第に具体化していく.
当時,恒広,木村両大隊のほかにも,密林に呑み込まれたまま消息を絶った隊は,バタアン半島の各所にあり,第一線部隊の死傷者は日増しに増加.例えば今井武夫指揮の第141連隊は,1/9-24までで戦死約350人,負傷約400人を出し,将兵の疲労はその極みに達して戦力は半減以下となっている.
1/29,第14軍は,これまでの見通しの甘さを認めた「敵情判断及作戦方針等ノ件報告」を大本営と南方軍に提出.
2/8,サンフェルナンドの戦闘司令所に,本間司令官は全幕僚を集め,作戦会議.この夕刻,
「一時態勢を整理し,増援兵力到着を待って後図を策する」
と採決.
このとき,第14軍には予備兵力は皆無となっていた.
(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,中央公論社,
1972/9/9, P.169-182,抜粋要約)
(中村八朗「雄魂! フィリピン・レイテ」,学研,
1972,p.76-77 & 86-87,抜粋要約)
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,
1978/6/10, p.77-79, 89-91, 200, 214,抜粋要約)
ちなみに,木村大隊の状況が比較的よく分かっているのは,伝令を出したためだった.
以下引用.
はじめは5名の兵隊がカナス岬から夜の海に飛び込んだのであるが,モロンへ到着したのは坂本といふ兵長一人であつた.
幾日かかつたのか,意識朦朧としてゐて,口もきけず,歩くこともできず,死體も同然であつた.
彼は夜と晝とを海と空の色とで鑑別しながら,身體をつつく魚のために,わづかに氣力をとりもどしてゐたのであつた.
なんといふ魚か,足に吸ひつく.
それをむしりとつて食べ,人事不省におちいりかけると,また次の一匹が來る.
彼は蘇生して友軍の兵隊の顏を見た瞬間,げらげらと笑ひ出して、とめ度がなかつたといふことである.
(火野葦平「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5, P.34)
第65旅団第141連隊長・今井武夫は角田房子のインタビューに対し,以下のように述べる.
「敵がバタアン半島へ撤退中と知った時点で,これを追撃すべきだった.追わなかったのがおかしい.
マニラは,南方から迫りつつあった第16師団を主力として攻撃すればいいではないか.
私なら,米軍が公表した無防備都市宣言を信じるし,また,宣言のあるなしに関わらず,大部隊がバタアン半島へ撤退しつつある事は確かなのだから,これを追撃する.
あのときの14軍は,なぜ臨機応変の処置が取れなかったものか.
もし敵の防禦が整わぬ内に突っ込んでいれば,ずっとうまくいったと思う.
せめてカルンピット橋をいち早く爆破していたら,多くの投降者が出ただろうに…….
そうすれば,バタアン半島全体を簡単に占領できたろう――などと甘いことは言わないが,しかし,多くの犠牲を出しただけで終わった第1次攻撃のようなヘマはしないで済んだはずだ.
頭から敵をなめてかかったのが,間違いの元だった.みすみす米比軍をバタアンへ入れてしまって,敵情をろくに調べもせず,後から上陸した我々に『追撃,追撃』」と無線で命令してきた.
それがあれほどの犠牲を出した原因だった」
また,第14軍の作戦主任参謀だった牧達夫は,「昭和史の天皇」の中で次のように語る.
「私は殆どの責任は大本営にあると思う.初めの方針で,まずマニラを取り,それからバタアンをやると決めておいて,さて予定通りマニラを取り,バタアンにとりかかろうというところで,肝心の兵力を半分も引き抜いてしまった.
それなのに,その責任を本間さんに負わしめ,まず前田さんを罷免したのですからね(後略)」
稲葉正夫,
「前田正実参謀長を始め,幕僚は皆,優秀な人物揃いだった.山下奉文の25軍,今井均の16軍の幕僚と比べて,決して遜色のない顔触れだ.
だが,バタアンは,まずマニラを占領せよと命じられたことに,あまりにも拘り過ぎたミスであったと思う.
兵力は2個師団しかないのだから,マニラ占領前に土橋師団の全力をバタアンへ向ける決心がつかなかったのは当然で,これを責めるのは酷だ.敵が無防備都市宣言をしたからといって,マニラ周辺に強敵がいないという保証はない.
だから主力をマニラへ向けたのはいいが,しかしその際,一部を割いてバタアンへ撤退する敵を追い,敵情を探る手当てが遅れた.これが大きなミスだった.
また,香港,シンガポールとも陣地攻撃だったが,堅固な野戦陣地と言えばバタアンだけだ.これを不用意に攻撃したのは,2番目の大きなミスだった」
本間の同期生・舞伝男,
「マニラを占領せよと命じられ,そればかりを思い詰めていた者が,その先入観を変えるのは,容易なことではなかろう.
戦争というものも,敵情が良く分かれば,こんな優しいものはない.
だが,その敵情が容易に分からないのが戦争なのだ.前線には色々な情報が集まるが,そのどれが正しいかの判断は難しい.
また,未知の土地では,大部隊はなかなか機敏には動かぬ.右へ進めていた師団を,急に左へ行かせようとしても,簡単には実行できないものだ.
敵の首都であるマニラの占領には重要な意味があるし,また,そう命じられてもいるのだから,本間君が全力を傾注したのは当然だろう.
バタアンがうまくいかないからと,現地の指揮官である本間君を責める前に,マニラという土地の占領を命じた大本営や南方軍が反省すべきではなかったか.私は兵站専門だが,ビルマ作戦なども,中央の人々は真面目に考えたのだろうかと首を傾げるほど,いい加減な点があった」
(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,中央公論社,1972/9/9, P.191-195,抜粋要約)
【質問】
なぜ第14軍は,バタアン半島の米比軍を過少評価したのか?
【回答】
第一線からの報告を鵜呑みにし,戦果報告に対して厳格な審査を加えることを忘れたため.
佐藤徳太郎・第14軍参謀が昭和21年頃,復員局で書いた「フィリピンにおける作戦」の中に,「なぜ米比軍をバタアン半島へ容易に退却せしめしや」という長文の考察があり,この中には次のような告白がある.
「作戦開始後における状況判断の誤謬について.
第一線兵団からの報告によると,敵の11師団,71師団,91師団の大部分は,上陸後の戦闘で壊滅したはずであった.敵の41師団,51師団も潰乱し,その中の少数が辛うじてバタアン半島に退却したものと報告されていた.
従って,バタアン半島にある比較的損傷を蒙っていない兵団は,開戦直前にザンバレス州にあった31師団(マリベレスへ移動),リンガエン湾にあって,逐次後退した21師団およびアメリカ師団(31連隊,41連隊,57連隊基幹)の計3個師団と推定せられ,我が情報参謀が万全を尽くして判断したその総兵力は4万ないし4万5千人に過ぎないと考えられていた(私は2-3万人と観察していた).
日本軍の通弊として,第一線部隊がその戦功を誇示するため,しばしば過大な報告をすることはよく承知していた.
しかし希望的観測に陥り易い戦場の常として,我々はこの第一線からの報告を鵜呑みにし,厳格な審査を加えることを忘れていた.
敵の大部分がバタアン半島に向かいつつあることが明らかになった時点でも,なお軽く考えていた」
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.129-130,抜粋要約)
要するに「台湾沖航空戦の幻の戦果」と同じパターン.
【質問】
第65旅団支援の重砲兵部隊は,なぜ大損害を受けたか?
【回答】
重砲兵部隊はバランガ西方地区から支援砲撃を行ったが,その重砲陣地は,米比軍の重砲部隊演習場の標的のあった場所に設営されていた.
このため,旅団の第141・第42両連隊の幹部将校は殆ど全部戦死傷,部隊も1個中隊の人員が60名ぐらいになるほど大損害を受けたのである.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.53,抜粋要約)
【質問】
なぜ木村支隊は,苦戦を強いられている第65旅団主力方面である東海岸ではなく,作戦の順調に進んでいる西海岸へ投入されたのか?
【回答】
奈良65旅団長の面子を考えた上での処置であったという.
それというのも,奈良旅団長は,独力でバタアン半島を攻略する,と広言していた.他連隊の助けは要らない,という軍人らしい思い上がりである.
奈良旅団長は1/13夜,次のような大見得を切った報告を打電している.
「旅団の戦闘指導は軌道に乗り順調に進捗,本夜2000進撃命令を下達せり.
予定の期日(1/20.この日は本間軍司令官の誕生日だった)には若干遅延することあるも,必ずご期待に添うべきをもってご安心を乞う」
この報告を受けた第14軍司令部は,20連隊を65旅団主力方面――東海岸に並列して使用するのは,奈良旅団長の立場を失わせることになる,と判断した.
何度も言うように敵を過少評価していた証拠で,この辺りの軍内の動きを見ていると,日本軍は全く無能に思える.
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.209-210,抜粋要約)
【質問】
第16師団第9連隊はなぜ進出が遅れたのか?
【回答】
9連隊は地形を誤ってジャングルの中で迷子になったため.
そのため食糧欠乏し,戦わずして戦力を酷く消耗している.
141連隊長,今井武夫大佐の話.
「〔略〕
うちの連隊の右方を前進した,武智大佐の指揮する歩兵9連隊は,部隊全部がジャングルの中をさまよって,行方が分からず,約10日間,全く消息を絶っていました.上級司令部の空中偵察や空中補給の努力も徒労に終わったのでした.
この連隊はバタアン攻撃当初,方向を失って,一端ムラウィンに兵力を結集した後,改めて右側支隊となって前面の敵の左側背を回り,我が連隊の第一線近く,サリアン河谷を東南に下って攻撃するはずだったのです.
ところが9連隊は地形を誤り,19日には,遥か敵後方のアボアボ河に到着していたのです」
65旅団将兵の9連隊に対する批判はかなり激しいものがあり,「敵のいない所ばかりを歩いていた」と極言する将兵は多い.
9連隊側から言えば,ジャングルの大きさに呑み込まれ,苦労の毎日だった,という事で,事実食糧に欠乏し,戦わずして戦力消耗が酷かったのである.今井大佐の回想によると,9連隊の連絡将校とで会った時,最初に食糧の有無を質問された,という.
また,9連隊は昔から「京都の公家さん部隊」と言われ,戦いには不向きと見られていた.
ただし,「65旅団戦闘詳報」には,
「特に迂回隊(9連隊)は,敵中深く突進し,後方補給路を閉塞せられたるため,地上補給不能となり,20日頃より食糧欠乏し,所在の水牛を屠り,草根を掘りて飢餓をしのぐ有り様にして,一部空中投下を実施せるも,その要求を充すを得ず」
と書かれ,行方不明になったことなど全く触れていない.
これは一説によると,9連隊長武智大佐と65旅団長奈良中将とは,陸軍士官学校の同期生だったため,奈良中将が武智大佐を庇って「事件」にしなかったという.
実際は,詳報に見るような綺麗事ではなかったのである.
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.197-199,抜粋要約)
【回答】
評価は分かれる.
本間の駐英武官時代から親交のあった辰巳栄一の言葉を信じるならば,
「指揮官としての本間さんの能力は,高く評価されていました.
昭和9年に私と交代して駐英武官になった菅波一郎さんが,
『将官演習旅行の本間さんの成績は抜群だった』
と語っていました.これは参謀次長が統裁官となって行う,非常に厳しい試験です.
実戦の指揮官としての能力は,27師団長として参加した武漢後略戦の武勲が証明しています」
(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,中央公論社,1972/9/9, P.193-194)
一方,御田重宝は次のように述べる.
「本間さんとか黒田〔重徳中将,本間の後任の第14軍司令官〕さんについて調べてみると,平時の陸軍官僚としては成功なさった方かもしれませんが,どうも戦争中の軍人としてはふさわしくなかったような印象を受けますね」
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.285,抜粋要約)
【質問】
第14軍参謀長,前田正実が第一次バタアン戦後に事実上更迭(2/20付で西部軍司令部に転補.その10ヶ月後に予備役編入)されたのは,本間雅晴司令官の意思に反して前田がマニラの軍政に専念したため,2人の仲が不仲だったから,という説があるが?
【回答】
信憑性は殆どない.
本間の日記には,
「前田のマニラに在る事は私の承認を得ている事でもあり,又前田でなければ行政委員会の工作など困難な事情もあったので此事も若松少将にはよく説明しておいたのだが,バタアンの作戦がうまくいかぬのでこんな事になったのだと思う.むしろ私の責任である.私を更迭すべきであったと思う.何とも気の毒に堪えぬ」
とあり,不仲とは到底思えない.
また辰巳栄一も,
「前田さんは待命後の本間さんを度々東京の家に訪れ,食事を共にして語り合っている.二人の間に感情の対立など全くなかった」
と語っている.
では前田はなぜ解任されたか?
これはやはり,本間の日記にもあるように,バタアン戦線が膠着状態に陥っているときも軍政に専念し,主にマニラにいたためと思われる.前田のこの行動は,軍政部長である第14軍参謀副長・林義秀ともスレる結果となっている.
飯島穣(中将)は,
「私が軍司令官なら,あのような苦戦の最中に,参謀長が戦闘指令所を留守にするなど絶対に許さぬ」
と語っている.
また,前田参謀長と牧達夫作戦主任参謀は共に,米比軍の食糧事情の苦しさが明白になってきたことにより,「バタアン封鎖,ビサヤ先攻」を主張していたが,前田と共に牧も転出させられる.
前田の後任,和知鷹二少将(のち中将)は,本間の台湾軍司令官時代の参謀長だが,在サイゴンの南方軍総司令部で和知は,塚田総参謀長から「全力でバタアン攻略」を強力に指導されている.
そして和知参謀長着任後,本間と第14軍は「バタアン封鎖,ビサヤ先攻」案を撤回し,第2次バタアン攻略準備に没頭することになるのである.
ところで,なぜ前田は軍政に没入したのか?
林義秀の談話によれば,前田はマニラ軍政に乗り出したとき,
「バタアンの作戦はそう難しいこともないから,高級参謀の中山君に任せておいていい」
と言っている.
また,牧参謀は後に,
「前田さんはフィリピン全般の事を考え,7000もの島からなるこの国を統治するには,2個師団ぐらいの兵力ではどうにもならない.まずフィリピン人自身に安定した政権を作らせ,その力を借りる他はない.バタアン半島は口を塞いで閉じこめておき,その間に政権を作ろう――と考えておられたのでしょう」
と想像している.
終始バタアン攻略に積極性を示さなかった前田の真意はどこにあったのか? 彼が故人となった今,知る術(すべ)はない.
(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,中央公論社,1972/9/9, P.181-184,抜粋要約)
【質問】
なぜ第2次バタアン攻略戦は簡単に成功したのか?
【回答】
入念過ぎる日本軍の準備と,米比軍の食糧不足,要人脱出からくる士気低下による.
第14軍では,米比軍はマリベレス周辺に複郭陣地を築き,コレヒドール要塞と連携して頑強な抵抗を試みるだろうと予想し,最後の陣地帯では,日露戦争の旅順要塞のような至難な要塞攻撃を強いられるであろうと覚悟,どううまく運んでも4月末まではかかるだろうと考えていた.
一方,増援も到着.第14軍に対する増援部隊は,第4師団,第5師団の歩兵1個連隊,第18師団の歩兵1個連隊,第21師団の歩兵1個連隊基幹,独立山砲1個連隊,独立重砲兵1個中隊(機械化24榴),重砲兵1個連隊(24榴),飛行第60戦隊(重爆),同第62戦隊(同).
第1次攻略不成功の原因の一つが特殊地形に対する訓練不足であった事を痛感していた軍は,これらの部隊到着後は,過酷なまでの現地訓練を実施した.
第17年4月3日,神武天皇祭りを期して,第2次バタアン攻撃は開始された.
この日,24cm榴弾砲9門を始め,15榴25門,15加農砲8門などの重砲を含めて,300門に近い,75mm以上の砲が一斉に火を吹いた.
指揮は,「砲兵の神様」と言われ,後,重砲校長を勤めた北島麒子雄(きねお)中将が当たり,射撃の名手と謳われた橋本博光大佐も加わって,陸軍砲術最高の陣容.
午前9時,軍砲兵隊はまず効力射準備射撃を開始,次いで10時から1330まで第1次攻撃準備射撃,1400-1500まで第2次攻撃準備射撃を行い,これに第22飛行団の爆撃が伴った.
歩兵の攻撃に先立ち,敵砲兵とサマット山西北麓の敵陣地は殆ど完全に制圧された.
砲兵と航空部隊のこれほど強力な支援による攻撃は,日本陸軍の戦史には希である.
砲撃中止後の1500,第65旅団,第4旅団は全線一斉に前進開始.たちまちティアウエル河の敵前渡河に成功,敵第一線陣地に突入.
同日夕刻にはパンチンガン河右岸からタリサイ河左岸の線まで進出.
この有利な進展を見て,軍は予定変更,戦機を捉えて夜に入っても攻撃続行,一挙に敵の第1陣地帯突破を図る.
4日1700,サマット山方面の敵主抵抗線突破.
5日1300,第4師団,サマット山頂占領するも,カボット台方面からの砲撃により死傷続出.激戦が夕刻まで続く.
夜に入っても,カボット台はまだ敵が維持するも,サマット山付近一帯の敵第一陣地帯の突破を完了.
6日,永野支隊,カボット台近くに進出して攻撃に参加.
同1700,第4師団,同台地奪取.
なお同日,第4師団配属の戦車第7連隊長,園田晟之助大佐,砲撃を受けて戦死.
7日,軍砲兵,サマット山北東麓に進出.
8日1800,第65旅団今井連隊,リマイ山頂を占領.
同日,空中偵察により,東海岸方面,西海岸方面とも,敵部隊が南へ退却中であること,マリベレス湾,シシマン湾,カムカーベン沖に敵艦船多数集結中を察知.
9日早朝より,第一線各部隊は追撃戦に.
16師団はラマオ河の線へ進出,ラマオからマリベレスへの道に沿って敗走する米比軍を急追,その先遣部隊はマリベレス突入.
この頃より,各地に投降者,続々と現る.
同日0600,永野支隊がカブカーベンへ追撃途中,「降伏の用意がある」とする,キング少将からの軍使と遭遇.
支隊長,永野亀一郎少将は,キング少将自身が出頭して無条件降伏するよう通告する一方,軍に幕僚派遣を要請,再度カブカーベンへ.
1100頃,ラマオでキング少将,永野支隊に投降.バタアンの米比軍の組織的抵抗,ここに終わる.
(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,中央公論社,1972/9/9, P.184-191,抜粋要約)
このように,米比軍が早々に降伏してしまった理由は,前田参謀長らが察知していたように,米比軍の食糧・医薬品の欠乏にあった(ハンプトン・サイズ「ゴースト・ソルジャーズ」白水社)という.ディモン・ゴーズの手記「敵中漂流」には,バタアン戦の比較的初期でさえ,あの手この手で食糧調達に苦心する前線部隊の様子が描かれている.
また,京都新聞社編著、久津間保治執筆「防人の詩
: 悲運の京都兵団証言録」(京都新聞社,1976)のp.356-360によれば,米軍の情況はいかのように記述されている.
「比島派遣第十四軍が、大規模な動員を完了した三月下旬、バターン半島内の米比軍将兵は、極度の食糧不足に悩まされていた。
バターン戦の始まる前、比島防衛最山局司令官マッカーサー将軍の幕僚たちの手による作戦計画――"オレンジ計画"によれば同半島には四万三千人の防衛兵力を配し、約半力年間にわたって無補給の状況下にあっても、進攻してくるであろう日本軍を迎撃することの可能な戦備を整えていた。
しかし、バターン半島に集結した米比防衛軍の兵力は当初計画の二倍、九個師団、八万人に達し、この予定外の兵力は、日本軍のルソン島進攻速度のはやすぎたことから、いずれも最後の防衛拠点と目された同半島内に向けて、各方面から撤退、集結してきた将兵たちであった。
加えて、二万四千人の避難民がこれら防衛軍と一緒に同半島に流入し、百八十日間の長期戦闘を予想して集積されていた食糧は急速に不足しはじめていた。
このため、米比防衛軍にあってはバターン半島要塞地帯への食糧補給が急務とされ、海上補給の計画が準備されたが、この補給作戦に成功したのは米アジア艦隊潜水艦二隻による三十五トンの食糧輸送一回のみであった。
この補給量は所在部隊のわずか半日分の割り当て分にしかならず、しかも、米比防衛軍にあっては、すでに将兵たちへの食糧支給は、当初予定の半定量に削減されていた。
ただ、一月中旬から開始された日本軍のバターン半島攻撃が続いていた当時は、なお、防衛軍将兵の士気も高く、かつ、豊富な累積弾量によって各地で善戦をみていたが、ちょうど二月中旬以降から三月下旬にかけて、日本軍側があまりの損害に驚くとともに、その攻撃が一時的にも中止されたことが、防衛軍側を予想以上の苦境に追い込むこととなった。
それは、日本軍側にとってみれば、第十四軍参謀長らの更迭劇にみられるような軍内部の作戦指導をめぐる混乱が、最前線での攻撃を頓座させることになったわけだったが、事実上、一ヵ月半におよぶ持久戦のなかに置かれた米比防衛軍にとっては、食糧補給皆無の状況下に、それは実質的な封鎖作戦に追い込まれたことを意味していた。
こうした事態のなかで、米比防衛軍の将兵間に食糧の分配をめぐって不穏な空気がみられはじめていた。特に米食を好む比島兵のなかには、バターン半島に集積された食糧の多くが米兵嗜《し》好の肉食かん詰めであったことも不満を誘発させる一因となり、上級将校と兵士たちの間の分配争いに加えて米兵対比島兵の間に深刻な対立が生じようとしていた。
〔略〕
ちょうどそのとき、彼らの士気低落に一段と拍車をかける出来事が発生した。
それは、バターン半島の南方四キロの洋上にあって「東洋のジブラルタル」と呼称されたコレヒドール島要塞内にあった比島防衛軍最高司令官マッカーサー将軍の脱出、逃走であった。J・D・バークレー海軍大尉の指揮する魚雷艇は三月十二日、マッカーサー将軍とその家族、およびロックウェル海軍少将ら十五人を同島要塞から艇内に移し、夜間の洋上を南航するなかでミンダナオ島の北岸、マカハラー湾に向けて脱出したのであった。
マッカーサー将軍とその家族らはさらにミンダナオ島北岸からB17長距離重爆撃機二機に分乗し、濠州に向けて逃走し、同時に、彼は脱出の寸前、比島の全米陸海軍部隊の指揮をジョネーサン・ウェインライト少将に移譲、同少将はマッカーサー将軍の脱出寸前に陸軍中将に昇進させられることになった。
さらに、マッカーサー将軍の脱出に先立って、米アジア艦隊潜水艦「トラウト」は、同島に秘蔵されていた金塊を搬出.
また、同じくコレヒドール島の沖合の海底に沈底して機会を待っていた潜水艦「スォード・フィッシュ」も夜陰に乗じて浮上し、マヌエル・ケソン比大統領とその家族、さらには比島軍の高級将官らを艦内に収容してコレヒドール島要塞から脱出したのであった。
こうした一連の指揮官とその家族の脱出は、バターン半島で抵抗中の米比防衛軍将兵に強い衝撃と、言い知れぬ失望感を与えずにはおかなかった。
バターン半島には、なお、防衛軍の拠る縦深陣地内に日本軍の進攻を粉砕するに足るだけの弾薬が集積されており、彼らは最高指揮官の勇気ある指揮と、窮乏状態に追い込まれたままの食糧の補給さえ実施されるなら、さらに抗戦を続ける意思を秘めていた。
しかし、最高指揮官の脱出と、依然、無補給のままの食糧在庫の窮乏は、ついにバターン半島南部山岳一帯の堅塁に拠る防衛軍の内部に、日一日と急速な厭《えん》戦心理を伝播《ぱ》させて行った。
このため、バターン半島の南部山岳要塞内の各隊間には「あるだけの砲弾を撃て。あとは投降したらよい」といったプラグマティックな心理と判断が、急速に台頭し、ひろがりつつあった。
かつて、サマット山麓北面のカポット台陣地を肉薄攻撃した歩兵第九連隊第十中隊、高橋弘蔵上等兵によると――
『彼ら米比防衛軍の一線陣地というのか、彼らの前面三十メートルほどの地点まで自分たちは接近していた。
しかし、それ以上は近寄れなかった。火網の激しさが、自分たちの前進を阻止したのであった。
それなのに、彼らのいる壕内からはギターの音や、軽音楽のジャズが流れていた。
不思議な気持ちがした。
だが、あとになって、わかったのだが、彼らは三交代か、四交代で、撃つ任務にあるものは徹底的に撃つ、任務を離れたものは、その時間だけギターを弾いて楽しんでいたのでした。
それほどに彼らは戦争というものを割り切って考える一面があったのです』
事実、一月の末、日本軍がサマット山麓カポット台を白兵攻撃した当時、彼らは、よい意味でのプラグマティスト(合理主義者)として、前面に迫る日本兵をくぎづけにしたまま、なお、余裕を秘めた陣内光景をみせていた。
しかし、それから一ヵ月半、いや二ヵ月後に火蓋の切られようとする日本軍の第二次攻撃前においては彼らの国民性ともいえるプラグマティックな思考姿勢が,
『「集積されただけの弾薬を撃ちつくしたら、戦闘は、そのときをもって終わりにする』
という、すでに投降を前提とした心理面での急変を醸成していたのであった」
また,ルポライター鷹沢のり子の調べたところによれば,米比軍の食糧事情は次の通りだったという.
マッカーサー司令官は,10万人の兵が1ヵ月食べられるだけしか割り当てなかった.
1942年1月には,1日分の食糧を半分にした.アメリカ兵1018グラム,フィリピン兵905グラム.
それでも間に合わず,1ヵ月後にはアメリカ兵・フィリピン兵双方とも783グラム,3月に入ると424グラムに減らしている.
米や缶詰などを含んだ数量であろう.
ちなみに,バタアン半島での戦争に,予想以上の時間と兵力を必要とした日本軍もまた,2月には既に食糧を切り詰めなければならなかった.
1日,米566グラムとなっている.
(「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.21)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
ただし,本書内でそのソースは示されていない.
さらに,当時,カナカオ米海軍病院外科部長だったカレイ・M・スミスは,次のように述べている.
「12月27日,マニラが解放都市を宣言してから,軍はバタアンとコレヒドールに多量の食糧を持って撤退した.
〔略〕
その上,半島で,米,バナナ,パイナップルがかなり獲れた.
その年4月9日のバタアン降伏の時まで,軍は,マニラから前もって持ってきた食糧とバタアン半島で獲れた食べ物,コレヒドールからの貯蔵食糧とで生きていかなければならなかった.
肉は水牛,騾馬,騎兵馬を殺して供給された.
初めの数週間は,絶えず前線で戦っていたにしては,かなりよく食べることができた.
戦いの後半になると,食糧の供給が減少し始め,多くの隊が1〜2日間,食べ物無しで済ませることが何回もあった.
1日分の量も,せいぜい普通の軍用食の半分であった.
バタアン陥落の時までには,多くの兵士が脚気とその他の栄養不足による兆候を表していた.
全員がめっきり体重を減らしていた.
バタアン陥落から,5月7日のコレヒドール陥落までの期間中,コレヒドール防衛隊員は,普通の軍用食の半分の量を1日2食支給されていた.
この食事は事実上,全部缶詰食品だった.
コレヒドール陥落のときまでに,補給部の倉庫には,内輪に見積もっても6週間分の食糧があった.
これらの食糧は日本軍の手に落ちた.
コレヒドール陥落後,幾日も多くの捕虜が,日本船に積み込む作業をした.
こうして,その食糧はもはやアメリカ人の口には入らないものとなった」
(from 「1億人の昭和史 日本の戦史」8,毎日新聞社,1978/12/25, p.68)
本国からの救援(マッカーサーは,救援が来ないことが分かっていたにも関わらず,『救援は来る』と言い続けた)を米比軍は当てにして,最初の内は食料配分見通しが甘かったことを窺わせる.
それでも,141連隊大隊砲小隊長,山口清少尉の回想によれば,ナチブ山麓における攻防戦の頃,
「敵が放置して逃げた食糧を見ると,デラックスな缶詰類が沢山ありました.食糧不足といっても日本軍とは比較にならないわけです.我々は乾パンでしたからね」
(御田重宝「バターン戦」,現代史出版会/徳間書店,1978/6/10, p.189)
とあるように,「食糧不足」という認識でも,日米で雲泥の差があった.
また,尾崎士郎の記述の中に
然し,待機の陣形を保つと言いながら,味方の攻撃が一日弛めば一日だけ敵の陣容は確固不抜なものに変わることは言うまでもない.
これに加えてビザヤ,ミンダナオ諸島は今なお敵の勢力下にあって,約4師団の傷つかざる兵力がここに隊備を整えているだけではない,千トン以上の艦船約20隻が絶えずバタアン近海に出没して,巧みに食糧を輸送している.
もちろん当時の我が海軍兵力をもってしては,これらを撃砕するというわけにはいかぬ.
比島作戦の前途は,かくの如き経路の下に,極めて困難ある状態に立至ったのである.
(「戦記 バタアン半島」,圭文館,1962/12/30,P.248)
とあることから,おそらく日本軍は米比軍の食糧事情を,そんなに悪いとは思っていなかった模様.
艦船云々から推測するに,米比軍側の噂を,おそらく捕虜経由で日本軍が真に受けてしまったのではないかと思わせる.
ハンプトン・サイズ「ゴースト・ソルジャーズ」によれば,当時,次のような噂がいたとされている.
しかし,包囲されてから4ヵ月間は,食糧・弾薬と薬がまだ輸送中であるという噂が絶えなかった.
ルーズベルトは守れるはずもないと知りながら,多くの約束を口にした.あるときはラジオでフィリピン国民に,『使える船は全て』ルソン島に向かっていると言った.さらにマッカーサーに対しても,
『配備中の全艦が太平洋南西に直行中であり,必ずや敵を打ち破るだろう』
という,希望に満ちた知らせを送った.
実際には米比軍への物資輸送は,潜水艦を使って1度だけ行われたに過ぎない.
この認識の差が,後のバタアン死の行進の一因となる.
まあ,大雑把に日:米の戦力比を1:1とすれば,アバロンヒルのボード・ゲーム風に見て,ジャングル効果で1:2,砲兵・航空支援によってこれが逆転して3:1,米比軍の末期的補給不足により5:1となって,戦闘結果はDE(防御側壊滅),というところだろうか.
【質問】
第二次バタアン戦には,なぜ日本海軍航空隊も加わったのか?
【回答】
バターン半島の攻略が予想以上に遅滞し、ために、海軍にあってはマニラ湾口に突出する同半島の地形的状況をも加えて、三ヵ月も前に占領したマニラ港の使用もまったく不可能な事態に陥っていたことから。
このことは、南方作戦の戦域の拡大する日本海軍にあって、大補給基地の活用が不能な状況を意味し、海軍部内においても、バターン半島攻略戦への関心は急速に高まりつつあった。
その強い関心の結果として、海軍側にあっても、新しく再開されるバターン半島の攻略戦には海軍航空隊の投入をもって臨むことを陸軍側に伝え、ここに第二次バターン攻略戦は日本軍にとって陸海軍航空隊の大編隊による反復強襲と、重砲兵部隊の強力な火力の集中をもって幕をあけ、その後に、歩兵部隊の白兵突撃を決行するという、立体進攻作戦が実施されることになったのであった。
(京都新聞社編著、久津間保治執筆「防人の詩
: 悲運の京都兵団証言録」,
京都新聞社,1976,p.350-356,抜粋要約)
【質問】
最も強固な防衛線と予測されるサマット山の北麓中央部から西側にかけての米比軍防衛線を,日本軍はどう突破したか?
【回答】
決死隊をもって米比防衛線の間隙を強行突破し、三キロないし四キロ奥地に捜索拠点を占領,その後,主力が攻撃するという,一種の浸透戦術によって突破した.
第4師団長北野憲造中将は、掌握する三個連隊の歩兵連隊のうち、サマット山突撃部隊に「黒潮連隊」の精兵第六十一連隊を配し、同じく中央部から東側の山麓攻撃部隊として第八連隊の展開を命じ、第三十七連隊のみは予備隊として、これを残しておく布陣を命じた。
この総攻撃に先立つ五日前、サマット山の北方前面に展開していた第四師団第六十一連隊においては、連隊長佐藤源八大佐が第一大隊長井上良夫少佐を呼び、特に「総攻撃の開始に先がけて、決死隊をもって米比防衛線の間隙を強行突破し、三キロないし四キロ奥地に捜索拠点を占領せよ」と命じた。
捜索拠点とは、総攻撃の開始前、敵情を知るための前進拠点を確保することを意味し、敵中深く潜入する決死的な任務であった。
井上第一大隊長は、この決死的な任務を第三中隊第一小隊長村田広久少尉に命じた。
この任務を命じられた村田少尉は、そのときの状況と、自らの胸中を克明に記した陣中手帖を保管している。
「三月二十八日午前十時、連隊本部に第一大隊長とともに呼ばる。四月三日の総攻撃を開始するに先立ち、村田少尉の指揮する二個分隊をもって、本夜半、隠密に敵中深く前進し、捜索拠点を占領し、以後の部隊の総攻撃の突破口をつくり、その作戦を容易ならしむべしとの命を受く。
この間、敵砲兵の猛烈なる砲撃音にて、命令の伝達も聞きがたき状況なり」
「直ちに小隊の位置に戻り、二個分隊より十三名を選抜す。
同時に、昼なお暗き密林内での暗夜行動に備え、全員、白布を肩に着す。
午後六時より行動を開始し、午後八時以降は磁石によりての前進を続ける。
ニキロ余の前進をはたしたるとき、突如、敵の砲弾、濃密に我を包む。前進、意のごとくならず。
午後十時ごろより、我、先頭に立ち、二、三十メートルほど腹ばいのまま前進し、敵影のなきことを確認したるのち、兵たちに追尾前進を命ず。
このような方法にて、さらに敵中一キロを前進す。
暗夜にして企図秘匿のため、さながらシャクトリ虫のごとき前進を繰り返す」
「二十九日午前零時前――突如、後方にて敵兵の激しきざわめき声を耳にす。
瞬間、考えたるに、予と行動をともにしつつありし連絡下士官の二人は、敵の散兵線を彼我ともに気付かずして通り抜けたるが、予の後方に位置したる部下と敵兵との間に、双方、不意に、その行動と位置、発覚せるもののごとし。
予は直ちに突進を決意し『突撃に進めッ』と命じ、ちょうど予と、部下の中間位に構築されたる敵陣地に突進す。
この攻防は彼我ともに突発なるものにて、予の眼前に立つ敵兵はあまりの至近のため拳銃を発射す。
予は、眼前の敵兵二人を斬《き》り、刺傷し、掩壕に迫る。
敵壕は内より機関銃の猛射を開始、これに対して予は拳銃にてその銃眼に応射す。
その直後の予は頭部を巨大な丸太棒にて痛打されたる感とともに、その身体は三メートルほど吹き飛ばされ、強烈な衝撃とともに地表にたたきつけらる。敵弾、予の頭部に命中せるものなり」
村田少尉はその場に昏倒した。
しかし、彼我の激しい銃声が彼の意識を回復させた。彼は、再びたちあがるや、再度、大声で下命した。
「突撃に進めッ」
同時に自らも白刃をかざし前面の陣地に斬り込んだ。
「このとき、予の軍刀は血潮に濡れ、異常なまでに刃こぼれせり。
示後、調べたる敵兵力、一個小隊、遺棄死体二、捕獲兵器小銃三、機銃二、弾薬一千発、弾帯十六。付近に敵の残したる血痕、血なまぐさく残り、その惨状を知る」
「かくて友軍陣地より、夜間四時間、敵中突破して重要拠点を占拠し、敵中深く友軍総攻撃の足がかりをつくる。
これ、バターン作戦主攻撃部隊として、最初の重要拠点なり。
とき、二十九日午前零時二十分なり。
直ちに中隊長、および大隊長に報告す。三時間余にして中隊長、ならびに小隊主力来たる。
この戦闘による決死隊兵士の負傷五名。無念なり」
彼は、そのように記録している。
(京都新聞社編著、久津間保治執筆「防人の詩
: 悲運の京都兵団証言録」,
京都新聞社,1976,p.356-360,抜粋要約)
【質問】
全線にわたって崩壊したとみられた米比防衛軍の戦線の中、サマット山の北麓に構築されたカポット台の防衛主陣地だけが戦意を維持できたのは何故か?
【回答】
降伏の意志を表示しなかった、というよりも、この台地一帯に築城された堅固な防衛陣地を、日本軍の三兵団とも攻撃することを避け、いわば「置きざり」にしたかたちのなかにあったため。
というのも、この台地に構築された強固な縦深陣地を真正面から攻撃することは、いたずらに損害を大きくするだけに過ぎないとの軍首脳の判断があったからに他ならなかった。
このため、サマット山北麓のカポット台地のみは、サマット山の山頂、さらには山腹の全域を占拠、制圧した後、この台地のみを孤立化させ,改めて南方にそびえる山頂から陣地背面を攻撃する作戦が立案されていた。
しかし、この作戦の決行をあまりに遅滞した場合、すでにサマット山の南麓まで進出している三兵団の主力が、カポット台地に拠る米比軍によって、逆に背後を脅かされる危険性も、同時に憂慮されてきた。
このため軍は、総攻撃開始後四日目の四月六日、強力な戦車隊を伴った第四師団の一個連隊に命じてカポット台の米比軍防衛陣地への攻撃開始を命じた。
それは、ちょうど二ヵ月前、第十六師団歩兵第九連隊が、文字通りの白兵突撃によって陣地前面まで肉薄し、多大の死傷者を残して敗退したときの戦況と比べて、あまりにも大きな隔絶をみせた攻撃であった。
すなわち、カポット台の米比防衛軍陣地は、四日前からの日本軍野戦重砲陣の猛砲撃にさらされ、さらに上空からは日本軍航空隊の反復爆撃が執ようなまでに繰り返されたため、銃座の大半は粉砕され、加えて、その後の歩兵攻撃には戦車隊まで動員した日本軍の攻勢となっていた。
このカポット台攻撃に出動した戦車隊は、園田晟之助大佐指揮下の戦車第七連隊の精鋭であった。
戦車第七連隊は、開戦直後のルソン島上陸作戦においてリンガエン湾に上陸し、その後はルソン島中央部の平原を一路、南下してマニラ市に向けて急進撃に移り、マニラ占領後、一時的に同市の防衛任務についていたが、第二次総攻撃の開始にあたってバターン半島に進出していた。
そして、カポット台の米比防衛軍陣地攻撃の命を受けるや、直ちに園田大佐の陣頭指揮下、同陣地に肉薄したが、堅塁を誇るカポット台の米比防衛軍は、なお、残余の砲台から猛烈な砲火をもって迎撃に転じ、園田大佐は同戦闘の砲撃戦によって戦死する状況となった。
しかし正面からの攻撃を避けた第四師団は東方からの迂回側面攻撃によって同台地に迫り、ついに食糧の極度に窮乏した陣内生活で疲労し切っていた米比軍の抵抗を排除し、同日夕刻、日本軍の進出前線より、はるか後方に取り残されるように孤立化していたカポット台一帯の制圧を完了したのであった。
(京都新聞社編著、久津間保治執筆「防人の詩
: 悲運の京都兵団証言録」,
京都新聞社,1976, p.363-366)
【質問】
バタアンの司令官,キング将軍に,降伏の権限は本来なかった,というのは本当か?
【回答】
本当.バタアンの降伏は,キング将軍の独断によるものだった.
彼の立場については,以下のような記述がある.
降伏に際してキング将軍が何より心残りだったのは,それが公的に認められていない事だった.彼の言う『不名誉な決断』を下すに当たり,上官の許可を得ていなかったのだ.事実,彼らは頑として反対していた――仮に許可を求めたとしても,首を縦には振らなかっただろう.バターンは降伏してはならないとマッカーサーは明言していた.
無事にメルボルンの司令室に逃げ込んだ彼は,陸軍参謀長ジョージ・C・マーシャルに無線で伝えた.
『いかなる状況,いかなる状態にあっても,降伏は断じて許されない……もしバターンが陥落するような場合は,戦場で一人でも多くの敵兵を道連れにするように』
痩せっぽちのウェーンライトも,この立場を崩さなかった.ルーズベルト大統領には,
『アメリカ兵と食糧と弾薬が残っている限り,フィリピンで戦い続けます』
と誓った.
だからその朝,降伏すると聞いた瞬間,すぐさまキングと連絡を取り,それを思い留まらせようとした.
しかしキングは,電話と無線の届かない場所にいた.ウェーンライト〔ジョナサン,コレヒドール島守備軍司令官〕はマッカーサーに伝えている.
『キングの行動を許可せず,降伏しないよう指示しましたが,もはや変更できない,既に行動を起こしたとのことでした』
キング将軍が部下を思って独断で降伏を決めたことは,様々な意味で勇気ある行動だった.彼は命令違反のかどで,戦後,軍法会議にかけられる恐れがあった.
しかし彼はあくまでも,それは単独の判断によるものであり,上官であるウェーンライトとマッカーサーとマーシャルには,『いかなる責任もない』と主張した.
(ハンプトン・サイズ「ゴースト・ソルジャーズ」光文社,'03)
【質問】
バタアンの米比軍は,なぜコレヒドール要塞内に撤退しなかったのか?
【回答】
物理的に不可能だった.
確かにコレヒドール島要塞内にあった比島防衛軍最高司令官J・ウェインライト中将は、4月8日朝、戦線の崩壊を救う唯一の方途として「バターン半島からの撤退」を決意し、バターン戦線にあるE・キング少将と、その幕僚に「撤退」命令を発していた。それは、決して「降伏」命令ではなかった。
しかし,同半島の最南端にあるマリベレス市周辺と、さらには、その西方にひろがる密林地帯への撤退――そして、同地帯での抗戦継続の命令は、すでに極度の糧秣不足に悩まされ続けていた米比軍にとって,机上の作戦指令としか映じなかった。
まして、マリベレス市からコレヒドール島への撤退は、終日、その頭上を覆う日本軍航空隊の大編隊によって不可能であった。
この日本軍航空隊による空爆の激しさは総攻撃開始日、4月3日の計749個にのぼる爆弾投下以来、翌4日814個、5日850個……と日を追うにつれて激しさを増し、4月8日までの六日間に、米比防衛軍の頭上に降りそそいだ爆弾は、実に総計、3427個の驚異的な投弾量に達していた。
撤退命令に従ってコレヒドール島要塞まで移動したのは、マリベレス港に駐留していたわずかの海軍将兵と若干の偵察部隊のみで、地理的にも狭小なコレヒドール島にバターン南部戦線に展開していた米比軍の大部隊を収容することなど、到底、考えられないことでもあった。
(京都新聞社編著、久津間保治執筆「防人の詩
: 悲運の京都兵団証言録」,
京都新聞社,1976, p.363-369)
【質問】
コレヒドール要塞が,たった13時間で陥落したのは何故か?
【回答】
ある意味,ワシントン条約のせい.
同要塞は,スペイン統治時代からマニラ防御の外郭線として構築されていた.
フィリピンがアメリカに割譲されてからは大規模な建設計画が進められ,1914年に完成した.
しかしそれは,当時の最強力の軍艦による海上からの攻撃に対抗する目的で設計されたもので,その後の軍用航空機の発達は,この要塞の防御力を著しく低下させた.
しかし1922年のワシントン海軍条約が,要塞の増加と既設工事の改修を禁止したため,アメリカは,対空兵器の陣地とマリンタ・トンネルの開鑿以外何もできなかった.
こうしてコレヒドール要塞は,空と陸からの攻撃に弱いという欠点を持ったまま,日米開戦を迎えた.
そして,バタアン半島を日本軍に占領されてからは側面掩護を失い,砲爆撃に晒され,最後に決死の第4師団上陸によって陥落した.
(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,中央公論社,1972/9/9, P.210)
【珍説】
海軍次官出のルーズベルトが,真珠湾に戦艦を並べ立てて罠を仕掛けたように,工兵出のマッカーサーは,バターンのサマット山麓に三重の恒久陣地を作らせた.
これは万が一の時のための避難設備ではない.日本軍の進退を奪って長期釘付けにする念入りな計画だったのである.万一に備えるなら,こんな大規模にはならない.
必ず戦争を起こさせ,日本軍をここへ誘い込む筋道だったのだ.
〔略〕
お話を作ることが大好きなアメリカは,この卑劣な戦いぶりを記念像に残している.
日本軍は敵の謀略に見事に引っかかったのだが,戦いぶりは凄まじかった.
バターンの陣地は,オーストラリアに逃げたマッカーサーが帰ってくるまで十分持ち堪える計算だったが,僅か18日の攻防でバラバラに降伏したのだ.
一通り撃ち合いをすれば兵士に義務を果たしたとする民主主義国の軍隊の考え方には,純朴な日本兵は唖然とするばかりだ.
〔略〕
物質文明と精神文明が四つに組み合った戦いだった.
彼らはここで6ヵ月を持久するように,豊富な軍需物資を備蓄していた.
攻撃側が30%の損害を出したら,守備側は最後の一兵まで戦うべきだ.まあそれは言葉のアヤとして,それにしても半数以上が倒れるまで戦うのは当然だ.
(三好誠著「戦争プロパガンダの嘘を暴く」,展転社,2005/4/1,p.197-198)
【事実】
万一どころか,当時の日本軍は高い脅威であった以上,それに備えるのは当たり前のことですが.
また,規模の大小は,「必ず戦争を起こさせ,ここへ誘い込む筋道」になることの証拠には全くなりません.
さらに,三好は「兵力の3割が失われれば全滅」という軍事上の常識もご存じないようですし,バタアンの米比軍が,第2次攻撃の結果,短期間で降伏したのは食料不足にあったこともご存じないようです.
一般的に言って,陰謀論は無知に起因することが多いのですが,三好もその例外ではないようです.
【質問】
フィリピン占領後,抗日ゲリラが蔓延ったのは何故か?
【回答】
当時の第14軍参謀長・和知鷹二はこう語る.
「コレヒドール攻略後,軍は比島に散在する米比連合のゲリラ隊に対し,間髪を入れず徹底的に戡定作戦を決行すべきであったのに,部隊転進や移動交代に忙殺されて,真剣な粛清工作を行う余裕がなかった.
ゲリラ隊はこの空白に乗じ,密かに相互の連絡網を作り上げて,治安擾乱に乗り出した」
南方軍が南方作戦完了を宣したのと同じ5月18日,大本営陸軍部はポートモレスビー,フィジー,サモア,ニューカレドニアを攻略するため,第17軍の戦闘序列を令した.
この中にはミンダナオの攻略に任じていた川口,川村支隊も含まれていた.
(角田房子「いっさい夢にござ候 本間雅晴中将伝」,中央公論社,
1972/9/9, P.214-215,抜粋要約)
【質問】
当時のフィリピンの対日感情は?
【回答】
悪かった.
以下は,米軍がミンドロ島に上陸した頃の話.
「比島人は完全に日本人から離反して,街では昼間の内は冷たい反目で済んでいるが,夜は拳銃乱射の街と化していた.だから6時以後の日本人の通行は禁止されている」
(今日出海「悲劇の将軍」,中公文庫,1988/10/10,p.179-180).
また,こんな証言もある.
ネグロス島を訪れた前述〔綿花農業指導員の菅原宏一は,同じ書〔戦中比島嘱託日誌〕の中で,〔略〕市内を歩いて次のように感じる.
「バコロッド上陸第一歩に感じた事は,刺すような市民の目の冷たさであった.マニラ上陸以来,ここの市民の目ほど,冷たい敵意に満ちた無気味な目に接したことは,かつてなかった.
それは底深い情況の悪さを直感させるに充分な目であった」
実際に,
「ある農場では,苦心惨憺やっと植付けを終えて雨にも恵まれ,出芽も順調に,やれ嬉しやと拝みたい気持ちで農場へ行ってみると,一夜の裡に馬鍬ですっかり農場は掘り起こされ,若芽はちぎれちぎれに七花八裂,その惨澹たる狼藉の跡に立って,悲憤の涙を飲みながら,再び植付けを開始した」
例を,菅原は聞いている.
(鷹沢のり子=ルポライター,「バターン『死の行進』を歩く」,筑摩書房,1995/7/5, P.166)
※なお,本書は「週刊金曜日」の連載(1994年7〜8月)を纏めたものにつき,その点は留意されたし.
さらに,以下は戦後の話になるが,やはり今日出海が,軍事裁判の証人としてマニラに渡ったときのフィリピン人の対日感情を,このように記述している.
「飛行機に群がる比島人の群集は,日本人が到着したとなると,怒号悪罵が渦巻き,武装MPが一人に2,3人ずつ体をかばうように護衛しなければ,自動車へ乗ることもできぬ有り様だった.
〔略〕
町の中心を離れたパサイのあたりに焼け残った民家があり,そこが日本人証人の宿舎だった.
ここに我々が滞在していることが知れると,道行く人は老若男女を問わず「バカヤロー」と罵って通る.
銃を持ったMPが6名,昼夜の別なく護衛しても,石ころが飛んでくることがあった.
これでは散歩はおろか,中庭へ出て外の空気も自由に吸えぬ.ていのいい監禁の状態だった」
(同 p.99-100)
この理由については,次のような説明がある.
米国の植民地的統治の結果,比島は全く米国経済に依存して1人立ちのできないようになっていた.
マニラアサ,コプラ,砂糖,煙草,木材などは有り余って輸出していたが,主食の米は戦前でも輸入せねばならなかった.日常消費物資は全く米国その他外国の輸入によって賄われていた.
このため,日本軍が比島を占領し,外国との取引を絶ち,日本からも日常生活物資を供給できないとなれば,消費国比島はたちまちこれら物資の困窮を来たさざるを得なかった.
そうなれば,日本の軍政より米国の統治時代が良かったと思われるのは,人情の常である.
彼らが,
「スペインは教会を与え,米国は道路・学校を与えた.日本は一体何を与えるのか」
という,一つの流行言葉を作ったのは無理はなかった.
民族独立という精神的夢も,現実の苦しい生活の前には価値はなかった.
それも,日本の戦果が赫々たる昭和17年時代は,日本に対して期待もかけられた.
ところが昭和18年になって日本の旗色が悪くなると,比島人の対日依存の気持ちも揺らいできた.
日本軍は米国からの誘惑を退けるため,比島人の短波ラジオの聴取を禁止し,流言蜚語を取り締まり,一方,軍機関新聞・ラジオその他の宣伝啓蒙を行ったが,真実を隠すことは不可能であった.
その根源は,マッカーサーが比島各地に点在させたゲリラで,これは日本にとって戦局が悪化するにつれて雪達磨式に大きくなり,我が守備隊が血眼になって捜索しても人跡未踏の辺地に隠れ,また,反日的な民衆の中に紛れて根絶できず,遂にレイテ戦に至って米国に呼応して立ち上がったのであった.
そして,これは戦後,大統領となったマニュエル・ロハスまで繋がっていたのである.
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.81-82,抜粋要約)
これほどまでフィリピン民衆をゲリラに追いやったのは,根本は日本の貧しさであった.
第14軍司令官の最高顧問から大使となった村田省蔵氏が,日々に比島人が日本から離反していくのを見て,
「こんなに日本が物資不足で比島人の困窮を見てやれなくては,政治も何もあったものではない」
と嘆いたのも無理はなかった.
(同 P.86)
【質問】
サクダル党とは?
【回答】
別名「ガナップ党」
フィリピンに戦前から存在していた政治団体.
後,反日ゲリラ掃討のための武装勢力となる.
ラモス党首は元国会議員.親日派の首領だったが,戦前に捕縛されて長い牢獄生活を送り,日本軍のコレヒドール要塞占領により解放.
しかし,あまりに頑固で,あまりに長い牢獄生活を送っていたため,一般のフィリピン人とは意識のずれができていて使いものにならず,フィリピン人にも嫌われ,ラウレル政権樹立時にも遠ざけられていた.
党員は一種の農奴で,不公平な扱いをされていた者ばかりで,それだけ根強い復讐心と強固な団結力を持っていた.
日本の海軍将校が,彼らの特殊位置に着眼,ゲリラの猖獗に備えてガナップの利用を思いついた。
マニラ郊外に本部を設けて武装させ,これを猛訓練してゲリラを摘発させ,見つけ次第,殺害するよう訓教した.
かつて日劇の文芸部におり,李香蘭と親しかった児玉君が,ガナップ最高幹部※になり,機関銃や小銃でゲリラと遭遇戦を演じ,本職の軍人よりも颯爽たる戦争末期の英雄だった.
ガナップは日本軍の給与を受け、武器弾薬はおろか,トラックまで持ち,道なき山野を猿のように馳駆することにかけては現地人も及ばぬ修練を積んでいた.
(今日出海「悲劇の将軍」,中公文庫,1988/10/10,p.36-37,抜粋要約)
※佐藤少佐が隊長で,報道部にいた児玉英水君が総務ということで,組織は着々と進められた.(同 P.182)
一方,マニラ海軍警備隊司令・犬塚惟重の寄書によれば,このように説明されている.
「ベニグノ・ラモスの父親カタリノ・ラモスは,対スペイン革命時代,ボニファッショのカチプナン結社に加わり,革命軍の一兵士として奮戦した勇士であった.
常に,
『今の若い者は腰抜けだ.俺達は竹槍とボロ(蕃刀)で戦ったものだ』
と豪語激励したという.
また,母親ベニグナ・パンクレオン・ラモスも,特志看護婦として革命戦線に参加した女丈夫であった.
ケソンがフィリピン上院議長時代,ラモスは書記として目をかけられ,前途有望の官吏であった.
しかし,1930年3月,マニラ北部中学の反米ストライキ事件をきっかけに,反対陣営の急先鋒となる.
この事件は一米人女教師が,生徒を芋食人種,猿と呼んだことから起こったのだが,これは常にフィリピン人を黒ん坊の子とか,泥棒の子とか,蔑視の言葉を口にしていたのに憤慨しており,遂にこれが爆発したのだった.
当時フィリピンにおいて,ようやく民族的自覚が起こり,米国人の唯我独尊敵態度に対し,反発する機運が醸成されていたので,事件は直ちに新聞・雑誌に取り上げられ,官公吏,大学生などもこれに加わり,物情騒然となった.
この時ケソンは,教育界の首脳の要請で事件解決に乗り出したが,彼は,
『一校内の出来事に官公吏は介入するべからず.やりたい者は辞職してやれ』
と言明し,この一喝で事件もどうやら下火となった.
しかしラモス書記は,
『こんなに一般の注目を引いているときにこそ,米人の比島人に対する態度を糾弾し,反省を促すべきだ.
ケソンの談話は,米人の横暴をいっそうのさばらせるばかりだ』
と言ってケソンと衝突,6月25日に官界から飛び出した.
彼は30日には『サクダル』という週刊紙を発行し,完全即時絶対独立,人頭税・地租改廃,高級官吏の減俸,下級者の優遇,比島人の比島を標榜して,大衆と共に戦う運動の火蓋を切った.
その綱領の中に,特にナショナリスタ党の独裁政治の排撃,腐敗政治の粛正,地主資本家の搾取からの解放を叫んでいる点は,ケソン陣営内にいて実情を知った結果から出たものとして重視すべきである.
当時,ナショナリスタ党はようやく政治の要衝を握り,新聞界をも支配していたため,一般大衆は世論に訴えるにも手掛かりがなかった.
そこで,ラモスのサクダル紙は,最初の5千部から忽ち4万部に跳ね上がった.
比島経済界は当時,不況が深刻化し,共産党がこれに乗じてパンパンガ州一帯で蠢動し始めていた.
ナショナリスタ党はさっそくこれと結びつけ,サクダリストを共産主義者と決め付け,1932年,極左分子検挙に乗じて,サクダル紙を発売禁止し,ラモスに罰金を科し,弾圧の暴挙に出た.
彼が親日に踏み切った原因も,彼が渡米して米国朝野の人士に接した結果,米国は自由主義を唱えながら有色人種を差別待遇している実情を知り,また,比島独立も,政界財界の利害関係から,真の独立は不可能なこと,満州事変で一部の米人は対日戦を呼号しているが,日本の実力を恐れて実行しない※※ことを知り,
『世界史上,他国を独立させ,自国を焦土としても完遂を決意した国は,日本より他にない』
と感激して人々に語ったものであった.
サクダル党は,彼が米国から帰った直後に,18州から党員がマニラに集って結成された.
1934年5月の総選挙でサクダル党は下院議員3名,州知事1名,助役1名,町村長数名を獲得,政府与党の強力な弾圧や買収に屈しない,下層大衆の意気を示した.
ことにケソンの出身地タバヤス州でも下院議員が当選した事は,全く驚異であった.
日本の援助なしでは比島の完全独立は不可能だと確信したラモスは,同年12月来日して,荒木,松井,林,末次(海),東条などの将星,頭山満,松本君平,本田熊太郎,高石大毎社長ら朝野の名士を歴訪,憂国の心情を吐露し,援助を懇請した.
筆者も翌年夏頃,松本君平氏(政友会代議士,アジア青年連盟総裁)から面接を懇請されたが,特に1個連隊分の武器供与が主目的であったのには面食らった.
これは熱血漢なるラモスの面目躍如たるもので,筆者もこれを撤回させるのに大骨を折った.
筆者は,当時大亜細亜協会その他の関係で同じ仲間であった参謀本部第8課長影佐中佐とも連絡協力して,ともかくも慰撫自重させたのであった.
調べてみると,比島政府からラモスは共産党員として手配され,尾行されている始末であったので,筆者は実情を警視庁外事課長に説明,サクダルのラモスをもじった桜田茂助という表札を,その自宅に掲げさせたものだった.
当時,サクダル党員の一部は,ケソン派のお手盛りの比島独立法案が米国の紐付き法案だと憤慨し,1935年10月,その国民投票妨害の実力行使から政府軍警と衝突,山に立て篭もっていた.
これは,党幹部の統制に服しない地方の出来事ではあったが,政府はこれを口実に大弾圧を加え,サクダル党の下院議員は失脚し,同党は壊滅に瀕したので,ラモスの武器要請となったものである.
昭和12年10月,日比谷公会堂における東洋民族大会で,ラモスは比島代表として,日本朝野の援助懇請に熱弁を振るった.
こうしてラモスの在日活動は目立つに至り,ケソン一派はその声望が比島の一般民の間に拡大して行くのを恐れ,翌年7月,ケソンは病気療養を口実に日本を訪れ,人を介してラモスと,横浜に入港した乗船の『エンプレス・オブ・ジャパン』で会見するよう申し込んだ.
これは明らかに,ケソンがラモスを懐柔して,帰国を進めんとしたものであった.
会見の結果,ラモスは身柄保証の確約を得たので,壊滅に瀕していたサクダル党勢を挽回すべく,同年9月,帰国した.
ところが,その乗船がマニラに入港するや税関船が待ちうけ,彼をビリビッド刑務所に拉致し,
『政治運動をなさざること,サクダルという党名の使用禁止』
を誓約させられ,法定補償金を積んで釈放された.
ラモスは直ちにルネタ公園に至り,彼の帰国を待ち受けて集合待機していたサクダル党員に迎えられたが,簡単に
『4年間の在日亡命生活の後,帰国した我輩を待つものは刑務所だったが,我が国が待つものは自由である』
と,婉曲に政治運動を更新する態度を党員に告げ,党名をガナップ党と改めることにした.これはタガログ語で,完成するとか,その時に望みうる最大限の達成を期するという意味であると説明されている.
旧名のサクダルは,請願または告訴するという意味である.
昭和13年(1938年)9月,ガナップ党は幹部会を開き,各地方に遊説を開始した.
その時の党が発行した小冊子に,新発足の党の趣旨を,次のように書いている.
『我が同胞は協力一致して,強固なる独立比島を育成すべく,また,刻下の国際情勢緊迫に対処すべし.
そのためにはまず国内産業を起こし,国民全般の厚生施設を起こし,青年訓練を実施し国防に任ぜしめ,国語を制定し,選挙法を改正して政府と国民との連絡を密にすべし』
文中,暗に日米断交の際は党員は日本側に立ち,完全独立を完遂する決意が見られる.
このため,ケソンも懸念して,彼に行動中止をしばしば勧告したが,ラモスはこれを拒否し続けた.
そこでケソンも遂に懐柔工作を断念,翌14年12月7日,反乱罪の名目でラモスは15年の刑を言い渡され,ビリビッドに投獄された.
大東亜戦争勃発直前の10月6日,当時モンテンルパ刑務所で服役中のラモスは突然マラカニアン官邸に呼び出され,ケソン大統領から,
『日本が米国と開戦すれば,どうすればよいか?』
と意見を求められた.
彼は,
『フィリピンはどんな手段をとっても,このような戦争に介入してはならない』
と答えたが,さらに追究されたので,
『米国が宣戦を布告したら,同時に比島は独立を宣言し,所要の手段をとれ』
と答えたところ,ケソンは,
『日本は米国に勝ち味はない.両方の板挟みになったら,いっそう苦境に陥るだろう』
と言って物別れとなった.
12月8日開戦と共に,ラモスに対する迫害は増大し,同日検挙された腹心の党員パウロ・カパら数名と共に殴打されたりした.
同24日,米国のバタアン方面への撤退と共に,ラモス以下十数名のガナップ党幹部はコレヒドール島へ移送され,1月1日,バタアン半島のリットル・バキオ付近に移された後,転々として各所に移された.
これはケソンらが,彼を日本軍に奪取されれば,彼の対日協力が徹底的であり,親米反日派は決定的打撃を蒙ることを熟知して,恐怖していた確証である.
4月9日,バタアン半島の米比軍の降伏で釈放されたラモスは,高橋参謀の好意でマニラに帰った.
彼は直ちに軍当局に出頭して好意を謝し,金500ペソを恤兵金として献金方を申し出,一方,党員を糾合して日本軍に協力すべく,当時交通機関が麻痺状態にあったのに,万難を排して各地方党員に指令した.
これより先,日本軍がリンガエンに上陸するや,ガナップ党員は,ラモすらの日本頼るべしの永年の主張に,日本軍の来るのを待ち焦がれている状態であった.
当時,比島人は米側の宣伝で山中に逃避していたが,ガナップ党員は進んで軍当局に出頭して,隠匿武器の押収,糧食の調達運搬,空家提供,間道案内,ゲリラ討伐に協力していたが,この指令でラモス健在を知り,その激励で党員の協力はいっそう活発になった.
ところが,このガナップ党の活動に対して親米分子が対抗し始め,日本軍の威令の行われない地方で,党員で殺害拉致された者が千名にも及んだ.
当時,ガナップ党員の一部は,遊撃隊員や密偵として武器を交付されていたので,この親米分子に対し,自然,報復手段に出た.
こうして比島民同士討ちとなり,これは対比島人政策上,悪影響があるというので,これらより全部武器を取り上げたところ,これがまた親米分子のガナップ党非難の口実を与えることとなった.
やがて比島の治安が改善し,ガナップ党の協力を切実に必要としない時代となり,一方,軍当局の交代で,上陸作戦当時の実情を知らない当事者が多くなるに及んで,親米分子の離間中傷工作が力を得て,ガナップ党の大切より細瑾が問題にされるようになり,遂には党の全面的敬遠という事態に立ち至った事は,痛ましい限りであった.
昭和17年12月4日,軍政命令で日本における翼賛政治を模して一国一党を実施することになり,カリバビ(新比島奉仕団)が新たに結成されると共に,ガナップ党は解消してこれに吸収され,ラモスは宣伝情報部長に任ぜられて各地を遊説し,主旨徹底に尽力した.
しかし執拗な中傷離間工作に災いされ,遂に翌年6月,ラモスは無任所に左遷されてしまった.
これは筆者がマニラ着任から約4ヶ月後のことであった.
この間,ガナップ党が海軍警備地内の治安維持に協力した事実は,実に多大であった.
ことにキャビテ軍港地域ではガナップ党員の諜報網を張り,党員を補助兵員に採用して巡察に当たらせたので,ゲリラ分子の潜入は完全に防がれ,流血事件も皆無であった.
筆者はラモスと共に,主な町村の住民を街頭に集め,宣撫演説を行ったが,その際,同氏の熱弁は今なお耳底にある感がある」
(「比島戰記」,日比慰霊会,1958/3/12, P.241-246,抜粋要約)
※※はあくまでラモスの見方.
また,後者は中立的立場ではないので,その点も留意されたし.