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<第二次大戦FAQ


 【link】

Hungarian Armor Identification Guide|German Daggers

Tanks!>Hungary(アーカイブ)


 【質問】
 独ソ戦初期におけるハンガリー軍の装甲戦力は?

 【回答】
 当初,東部戦線へのハンガリー軍の派兵は限定的なもので,
・第1快速軍団
・第1山岳旅団
・第8国境警備旅団
を主力とする「カルパチア軍集団」のみがガリツィア地方に侵攻.
 このうち第1快速軍団のみがウクライナ方面へ進撃した.

 これら部隊の中で,
第1山岳旅団付属の偵察装甲車小隊が,チャバ装甲車×5輌
 第1快速軍団麾下の
第1騎兵旅団にトルディ軽戦車×5,CV35豆戦車×22
第1自動車化旅団にトルディ軽戦車×18,CV35豆戦車×6,チャバ装甲車×14
第2自動車化旅団も同数
 その他各種部隊併せ,戦車141,装甲車41を有していたという.

 10月までに第1快速軍団はドネツ地方まで進出するが,その代償として,器材の8割を失うこととなった.

 【参考ページ】
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.96
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-06-27/_carpathian.html
http://www.avalanchepress.com/AmbivalentHungary.php
http://www.operationbarbarossa.net/hungarian-forces-operation-barbarossa-june-july-1941/
http://www.operationbarbarossa.net/the-book/volume-iv-the-finnish-rumanian-hungarian-slovakian-and-italian-forces-on-the-east-front-in-1941/
http://operationbarbarossa.net/wp-content/uploads/2014/06/TOE-Hun-1st-Mtn-Brigade-June-41.pdf

1枚目:ウクライナにおけるハンガリー軍のCV35(1941年)
正面に描かれた虎に注目
第1自動車化旅団第10自転車偵察大隊または第2自動車化旅団第12自転車偵察大隊に属する車輌
同大隊にはCV35を6両有する1個戦車小隊が配属されていた
(図表No. faq170201cv,こちらより引用)

2枚目:歩兵の支援を受けながら前進する38.Mトルディ(IIの派生型)
1941年,ウクライナ
(図表No. faq191124tr,こちらより引用)

3枚目:カルパチア軍集団の編制(1941.6.27)
(図表No. faq170201cr,こちらより引用)

mixi, 2017.2.2


 【質問】
 ブラウ作戦頃のハンガリー軍の装甲戦力は?

 【回答】
 1942年春,その前の冬季戦で戦力を大きく消耗したドイツ軍は,やむなくイタリア,ハンガリー,ルーマニアなどの同盟国の兵力で穴埋めをすることにした.
 ハンガリーはヒトラーから圧力をかけられ,第2軍,約20万人を派遣した.
 後方担当とすることと兵器供与がヒトラーから約束されたが,どちらも空手形で,コーカサス方面の攻勢に参加させられ,戦力の15%をハンガリー第2軍は失うこととなった.

 1942.7.1時点で,第2軍には装甲戦力は第1装甲野戦師団一つあるのみで,残りは軽歩兵師団が殆ど.
 第1装甲野戦師団は,
第30装甲連隊にトルディが3輌,IV号F2型が11輌,チェコ製軽戦車Pz38(t)が30輌
第1自動車化支援連隊にPz38(t)が6輌,IV号F2型が2輌
第51対空砲大隊にニムロード自走対空砲×6輌,トルディ×6輌
そして第1装甲騎兵大隊にトルディ×18輌,チャバ×14輌.スコープドック無し
等といった状況.

 これが作戦中止(1942年10月)後の12月になると,
第30装甲連隊にトルディ×9輌,IV号F1型×8輌,IV号F2型×8輌,Pz38(t)×41輌
第190突撃砲大隊にIII号突撃砲×32
第559装甲猟兵大隊に対戦車自走砲マーダーIII×12
第700装甲戦隊にPz38(t)×50,ただしこのうち33輌は修理中
となっていた.

 こうして観ると分かるように,殆どが軽戦車の類であり,ソ連軍の強力な戦車の大群に対峙するには,依然としてかなり心許無い戦力だった.
 そして事実そうなった.

 【参考ページ】
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.97
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-07-01/army_02.html

ハンガリー軍のPz38(t)の車列
後方に「ニムロード」,さらに後方には「ラーバ」トラックその他の車輌が見える
密集している上に綺麗に並び過ぎているので,ちょっと宣伝写真臭いが
こちらより引用)

Pz38(t)を牽引するスチュアートM3軽戦車
M3はロシアでハンガリー軍に鹵獲されたもの
こちらより引用)

mixi, 2017.2.3


 【質問】
 ハンガリー軍の突撃砲大隊について,簡単に教えてください.
Kérem, mondja könnyen meg az magyar rohamlöveg zászlóaljokot.

 【回答】
 ドン河戦線におけるハンガリー第2軍壊滅の主原因が,対戦車火力の貧弱さにあることは明らかだった.
 そこでハンガリー軍では,手っ取り早く対戦車火力を増強するための方策として,突撃砲を生産することとし,それに合わせて独立突撃砲大隊の編成を始めた.
 1943.10.1のことである.
 国産のズリーニは,工場が爆撃されるなどして生産が進まなかったが,ドイツからIII号突撃砲やヘッツァーの供与を受け,7個大隊をもってビルニッツァー・エルネー Billnitzer Ernö 少将指揮する「ビルニッツァー戦闘団」を編成.
 1944年11月から,ブダペシュト東方における防衛戦に投入された.
 8.25にはルーマニアが連合国側に寝返って参戦し,ソ連軍はルーマニア軍と共にハンガリーへ侵入していたからである.

▼(ただし
https://live.warthunder.com/post/558388/en/
によれは,ヘッツァー配備は1944年12月.
 第16,20,25突撃砲大隊に配備されたが,定数を満たしていたのは第20大隊だけで,他は9両しか配備されなかった.
 なお,第25大隊はハンガリー国外で訓練を受けた後に,最前線に投入されたという)▲

 ちなみにビルニッツァーという苗字は綴りから考えてドイツ系の名前っぽいので,ドイツっぽいカタカナを当てておく.
 フィウメ出身だそうだが…

 1945年1月現在,ビルニッツァー戦闘団は
兵員2,000
対戦車砲×8
突撃砲各型合計×30
トルディII×4
トゥランM43×2
パンター×1
ニムロード×2~3
を有していたという.
 その後,ブダペシュト包囲戦において,6個大隊までが全滅.
 部隊残余はドイツ軍と共に後退し,「春の目覚め」作戦にも参加したという.

 ビルニッツァーは戦後,対独協力者として1950年代に刑務所送りとなり,10年間も服役した.
 ラーコシのやりそうなことである.

 【参考ページ】
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.104-122
http://memoir44.hu/cikkek/waldemar_lenz_ormester_tortenete_billnitzer_erno_tabornokrol
https://live.warthunder.com/post/558388/en/

ズリーニ突撃砲の残骸
1945年晩秋撮影

およびその出典
当方未入手
ネットオークションとか超怖い

白十字が確認できるヘッツァーとしては唯一の写真
faq190219hz

(こちらより引用)

mixi, 2017.2.3

 第7突撃砲大隊はハンガリー南部の戦いで突撃砲全部損失した後,ビルニッツァ戦闘団に配備されてるけど,何故か翌年3/1付で形式不明AFVを10輌持ってたのは謎.
 包囲戦脱出できた可能性も無くはないが.
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1340492102413664256

 跨乗した多数の歩兵と共に出撃するハンガリー軍のⅢ号突撃砲.
 シュルツェンに大きく700番台の番号を付けた第7突撃砲大隊の所属で,同大隊は全車Ⅲ突を受領していた.
 撮影時期は恐らくルーマニアとの国境付近での防衛戦を展開した44年9~10月頃.
 動画はいつものMagyar Világhíradóより.
 第7突撃砲大隊の動く姿が見られるのは感激モノだが,纏まったハンガリー装甲部隊がニュースリールに登場するのはこれが最後だった筈・・・
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1340486272171687936
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1340481068181254146

 装備車両や戦歴が不明な割に,揃って捧げ銃の写真はある第13突撃砲大隊.
 やっぱりズリーニィやヘッツァー無しの歩兵のみで戦ったのか…
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1346463436352327680

 一応は訓練用に2輌だけトゥラーン41.M装備し,残りが歩兵としてセンテシュで戦った後はビルニッツァ戦闘団に加わった――ぐらいかなあ,分かりそうなのは.
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1346487774241718273

 第25突撃砲大隊も実際はPak40装備の戦車猟兵中隊でしたね.
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1346489298938302465

2021.1.9

 ハンガリー第7突撃砲大隊のルーマニア国境付近での戦闘はラストオブカンプフグルッペⅢでも紹介されたが,同大隊の戦果が実際にもっと少ない事など,ハンガリーの情報源とはいくつか異なっていたらしい.
 戦死した第2中隊長ケーセギ・バルナバーシュ搭乗車以下Ⅲ突8輌を失ったチャナードパロタの戦闘では,実際に被弾または炎上は内3輌だけ.
 中隊長車撃破のパニックで乗員が逃げ出していた3輌は無傷だった・・・等.
 夜間の戦闘だった為,赤軍も同大隊のⅢ突をパンターやティーガーと誤認していたとか.
https://t.co/9Y9vBbBBUd?amp=1

マーノシュ in twitter,2021.10.26
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1452990292240609285
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1452997428450402319


▼ 【質問】
 ハンガリー軍戦車兵の軍装は?
 第二次大戦ハンガリー軍戦車兵の軍装は?
Milyen ruhák a magyar honvédség harckocsi katonák viselettek a második világháborúban?

 【回答】
 コットン地のカーキ色オーバーオールの上に,革製のウェストコートを着用.
 サイドキャップには,ナショナル・カラーが用いられた帽章を佩用.
 画像1のカラーの人物を参照.
 というか,この箱絵,カラーの人物は下掲参考文献のイラストそのまんまなんだが,著作権は大丈夫か?

 画像1は模型箱絵だが,クリス・マクナブ『世界の軍装図鑑』(創元社,2014)のイラストそのまんま.
 著作権は大丈夫か?
 さて,この例ではコットン地のカーキ色オーバーオールの上に,革製のウェストコートを着用.
 サイドキャップには,ナショナル・カラーが用いられた帽章を佩用.

 画像2はツーピースのレザー・ジャケット.
 画像右では,ジャケットはズボンの中に入れられている.
 通常,乗員が着用したスタイルがこちら.
 この制服はバイク乗員にも支給されたが,概して不評だった.
 重くて戦車からの出入りが難しかったためだ.

 代わりに戦車乗員に好まれたのは,エンジニア用のカバーオールだった.⇒画像3
 ハンガリー軍では2種類のカバーオールが用いられた.
 チェコのカーキ色のもの(左)とグレーのハンガリーのもの(右).▲

▼ これはベイズ・スリーヴ付きの革ベスト
こちらより引用)
 本来は機械化部隊や対空自走砲乗員のためのものだったが,それ以外の兵科や空軍でもすぐに使われるようになった.
 将軍さえこれを着ていた.
 なお,ジャケットの襟がコートの襟に引っ張られる危険があるため,襟章は着かなかった.

 36.M 皮コート 36.M saválló bőrkabát は,正式には装甲科または化学戦部隊だけが着用することができた特殊制服だが,実際には他の兵科の将校もそれを着ていた.
こちらより引用)▲

▼ 戦車帽はイタリア式の緩衝材入り革ヘルメット.ネック・プロテクターつき.
 ハンガリー戦車隊の初期には,イタリア戦車(フィアット3000やカルロ・ヴェローチェCV35)が輸入された影響からか,イタリア軍の「コルデッリノ」軍服そっくりなものを着ている戦車兵も見られる.
 画像2左端や画像3参照.

 戦車帽はイタリア式の緩衝材入り革ヘルメット.ネック・プロテクターつき(画像4左端)
 また,こちらの画像5では,左から1人目~3人目の戦車兵は,無線機を内蔵した39.Mヘルメットを着用し,4人目~右端の兵士は,無線機のない37.Mヘルメットを着用している.
 この戦車帽はイタリアのM35ヘルメットのコピー.
 39.Mヘルメットと37.Mヘルメットの違いは,額廻りのパーツ.
 37.Mではこのパーツが管状,39.Mでは帯状となっている.

 初期のヘルメットでは,この画像6のように2本または3本のレザーチューブが取り付けられた革製のものもあった.
 チューブは頭を保護するもの.
 CV-35乗員だけがこれを着用していた.
 39.M戦車帽が出回った後でも,このヘルメットはまだ使用されていた.▲

 それが東部戦線に従軍するにつれ,ドイツ軍やソ連軍の影響を受けるようになる.
 たとえば画像4中央の兵は,ソ連型戦車帽を被り,ドイツ軍の「パンツァー・ユニフォーム」と同じものを着用している.
▼(ソ連型戦車帽については後述)▲
 襟章のみハンガリー陸軍固有のスタイル.

▼ また,これ(画像7)は42.M(1942年制式)ツーピース・ユニフォームだが,ドイツ軍のものの影響を受けていることが見た目からも分かる.
 色はスモーク・グレー.
 この新しい制服は戦車兵からは好評だったという.

 画像8は,ソ連軍の戦車帽を真似,試験的に作られたもの.
 42.M制服と共に支給される予定だったが,何らかの理由により中止となった.▲

 第二次大戦後にはソ連式になることも含め,その辺はお約束の展開と言えるんじゃないかな?

▼ なお,「ニムロード」対空自走砲の乗員の場合,操縦手のみ戦車兵と同じ制服を着用したが,車長を含めてそれ以外の兵士は標準的な制服を着用した.

画像1
(模型箱絵)

画像2
(模型箱絵)

画像3
(こちらより引用)

 【参考ページ】
クリス・マクナブ『世界の軍装図鑑』(創元社,2014)
http://live.warthunder.com/post/374708/en/(画像2~3 & 5~8の引用元も同じ)
http://live.warthunder.com/post/405623/en/

mixi, 2016.6.27
2017.2.17改訂
2017.3.20追記

 画像3のFiat3000の白黒写真は1930年代のイタリア軍で,イタリア戦車本の表紙に使われていました(^ ^;

よしぞうmaro' in mixi,2016年06月27日
青文字:加筆改修部分

 ご指摘ありがとうございます.
 訂正させていただきました.

編者,2016.6.28

 除革コート姿
https://jp.pinterest.com/pin/435723332676564492/

https://jp.pinterest.com/pin/289778557255295795/
https://jp.pinterest.com/pin/435723332676564503/
https://jp.pinterest.com/pin/289778557255295846/
https://jp.pinterest.com/pin/312718767851296367/

左がドイツ,右がハンガリー
http://www.ww2incolor.com/hungary/2+Hungarian+Colonel+and+Germans_+Galicia_+1944BBB.html

4号戦車(ドイツ軍の国籍マークのまま)とハンガリー兵
http://www.ww2incolor.com/hungary/1+Panzer+IV_+to+Hungary_+May_+1944.html

http://wio.ru/tank/for3/cv35hung.jpg

http://wio.ru/tank/for3/cv35hung.jpg

http://i.imgur.com/LFToBgO.png

 ハンガリーのFIAT3000の写真は,どうもこんなものしかないみたいです.
http://i268.photobucket.com/albums/jj24/romsits/Fiat%203000/95qqQqG_zpsnxcdmmxc.png

 これ,ハンガリー軍の車体なのか悩んでます.
 搭乗員はイタリア兵のようなのですが,車体の番号がHで始まるハンガリーのもののようにも思えます.
http://s268.photobucket.com/user/romsits/media/Fiat%203000/FIAT_zps6tkw9vzm.jpg.html

ギシュクラ in mixi,2016年06月27日~06月29日


 【質問】
 ハンガリー軍が保有していた外国製装甲車輌について,3行以上で教えてください.

 【回答】

・LT vz.35
 ルノーFT-17っぽい外見のシュコダ社製軽戦車.37mm砲搭載.
 1939年,第一次ウィーン裁定により,スロバキア南部とカルパティア・ルテニア南部がハンガリーに割譲された際の紛争により2両を鹵獲.
 ただし1両は対戦車砲により大破した状態だったが,ドイツの統制下にあったシュコダに命じ,2両とも修理・再整備させた.

▼ 両車ともハンガリー軍の登録番号を与えられ(1H-406と1H-407),1943年まで訓練用に使われた.
 その後の消息は不明.
 その後の消息は不明だが,うち1両が破壊されて遺棄されているのが,ブダペシュト包囲戦後にソ連軍によって撮られている.

ハンガリー憲兵に警備されている,鹵獲直後のLT vz. 35(1939.3.14)
(図表番号 faq190212lt,こちらより引用)

上記と同じものだが,より鮮明な写真
左側面のOVM留具下の他に,後部左端のフェンダー真横にも被弾痕が確認できる
(図No. faq221022lt,こちらより引用)

1枚目:同上
(図No. faq221022lt2)
2枚目:やはり鹵獲直後と思われるLT vz. 35
上記とは別の車体
(図No. faq221022lt3)

ブダペシュト包囲戦に参加したと思われるLT vz.35
ソ連軍のブダペシュト戦における報告書の,22ページ目に貼付された写真
(図表番号 faq190601lt,こちらより引用)

2輌の内,単色塗装の方(シュコダの登録番号は13673と判明している)は砲塔の武装が全て無い.
 ブダペシュトで撃破されたLTvz.35は特徴から判断して13673号車じゃないのかと推測している.
でも非武装の軽戦車を何に使ったのか…?
まさかT-34/85やIS-2にぶつける訳はないから,牽引用途としか考えられない.
https://mobile.twitter.com/Nasikandar_/status/1134854617823453186?p=v

ブダペシュト包囲戦後に撮影されたLT vz.35
(図表番号 faq200126lt)

・LT vz.38
 別項参照.

・Pz Jag 38(t) 「ヘッツァー」
 1944年10月~45年1月にかけ,▼100両がハンガリー軍に提供.75~150両がハンガリー軍に提供された.
 また,ハンガリー国内でも75両が生産された…と書いてあるように読めるが,編者の誤訳かもしれん.

・マルデルIII Marder III
 38(t)戦車ベースのドイツの対戦車自走砲.
 詳細は不明だが,ハンガリー軍に属するマルダーIIIM型の写真が1枚だけ残されている.
 この写真からは1943年,ロシアで使用されていることが推測でき,そうであるならば占領地の治安部隊の所属と考えられる.

ハンガリー軍所属のマルダーIII M型
(画像番号 faq190504mr,こちらより引用)▲

・LK II
 ホイペットっぽい外見の,ドイツの軽戦車.37mm砲搭載.
 戦後の再軍備制限時期に,民兵によって密輸入された,らしい.
 ただ,ドイツでも試作車輌2両しか完成していないことから,もしかしたら同型のスウェーデン製Strv m/21だったのかもしれない.
 保管状態が悪く,1930年代に廃車.

 別項参照

・PzKpfw I(1号戦車)
▼ 1934年に技術研究のため,1台を輸入.
 また,1941~42年にかけ,ハンガリー陸軍第1戦車師団に22両がドイツから提供された.
 第1戦車師団が東部戦線に送られたからだが,これでソ連軍と戦えとか,あんたは鬼か.

 1937年,ライセンス生産に向けた試験のため,1台を輸入.
 しかし試験結果は不合格で,その後,ハンガリー陸軍参謀本部はスウェーデンが・ランズベルク社のL-60軽戦車のライセンス生産権を輸入した.
 また,1941~42年にかけ,ハンガリー陸軍第1戦車師団に22両がドイツから提供され,訓練に使用された.

ハンガリー軍の1号戦車
現存する写真はこの2枚だけだという
(図表番号faq190226pz1~pz1-2,こちらおよびこちらより引用)▲

・Marder II
 2号戦車ベースのドイツの対戦車自走砲.
 ハンガリーには1942年の終わりに,ドイツから5両が貸与され,ドイツ軍のマーキングをつけたまま,ハンガリー第2軍第1装甲師団に配備.
 乗員もハンガリー兵だった.
 1943年の退却戦の後,2両のみがハンガリーに帰還.
 1両はドイツ軍に返還されたが,もう1両はトルディ対戦車自走砲の手本とされ,その砲もトルディ対戦車砲試作車に搭載.
 しかしその試作車は性能不十分と判定され,試作車の砲はマルダーIIに戻され,そのマルダーIIもドイツ軍に返還された.

1942~43年の冬季,ハンガリー第2軍に所属するマルダーII
(図表番号faq190502mr,こちらより引用)

・PzKpfw III(3号戦車)
 ソ連軍のT-34戦車に「トゥラーン」戦車では歯が立たなかったため,それより強力な戦車の提供をハンガリーはドイツに申請.
 しかし譲渡された年は既に1943年と,3号戦車でももはや厳しい戦局で…
▼ まず1942年秋,ハンガリー第2軍第1装甲師団に3号戦車N型10両と3号突撃砲D型10両が貸与された.
 この戦車の乗員はドイツ兵だったが,機械保守はハンガリー軍が担当した.
 次に1943年8月,ハンガリーはドイツから3号戦車17両を受領.
 これらの戦車は全てハンガリー軍の登録番号を付与され,その殆どが第1装甲師団に編入された.
 また,第1フサール師団も1943年以降,3号戦車3両を保有していたとする記録もあるが,他方で1944年以降は同師団にはのToldiとTurán戦車だけが装備されていたと記録されているので,1944年は全ての3号は第1装甲師団配備となったのかもしれない.
 1944年9月の記録では,3号戦車11両がハンガリー軍第1装甲師団に配備されたが,その後の戦闘で撃破されたという.

 なお,1943年8月に3号戦車1両,登録番号1H-874がハンガリー軍事技術研究所に送られて試験が行われている.
 しかし技術官達は,この車輌の国産化には賛成しなかったという.

1枚目:試験が行われた1H-874号車
(図表番号 faq190222pz:引用元はこちら)▲

2枚目:ハンガリー第2軍所属の3号戦車N型
(図表番号 faq190430pz,こちらより引用)

・StuG III(3号突撃砲)
 まず1942年秋,ハンガリー第2軍第1装甲師団に3号戦車N型10両と3号突撃砲D型10両が貸与.
 次いでハンガリーに供与されたのは最終生産型のG型.
 最初に貸与されたのはD型10両で,次いで最終生産型のG型を提供さる.
https://www.facebook.com/1580549015526531/photos/a.1580880838826682/2620785361502886/?type=3&theater
によれば,
A 2. páncéloshadosztály 10 db kapott Galiciában, 1944 nyarán és a 7. rohamtüzérosztályt szerelték fel StuG III rohamlövegekkel, 40 db kaptak 1944 őszén.
 第2装甲師団は1944年の夏にガリチアで10両を受領して,第7突撃砲大隊に配備.
 1944年秋には40両を受領したという.▲
 「低価格なのに戦力になる!」とハンガリー軍には好評で,「ズリーニ」や駆逐戦車型「タシュ」開発の一つのきっかけに.

第7大隊の3号突撃砲
(図No.faq200420st1~4,こちらより引用)

・PzKpfw IV(4号戦車)
 3号戦車と同じ経緯で,各型合計84両をドイツから貰い受ける.
 全部中古品だったけど,贅沢は言えない.
 1942年7月からハンガリー軍に配備され始めるが,1943年初頭からのソ連軍の大攻勢,および修理部品不足や整備不良により,数両を残して東部戦線の露と消えた.

写真2枚目(図表番号faq190119pz)
第1自動車化歩兵旅団の支援を受け,ドン川のUryv-Pokrovkaから西西南西に向かって進軍中の,
ハンガリー第2軍第30戦車連隊の4号戦車F型とPz.Kpfw.38(t) 型.1942年夏

(こちらより引用)

・PzKpfw VI(6号戦車)「タイガーI」
 ハンガリー軍は少数を受領.
 詳しくは別項にて.

・Carro Veloce CV35
 イタリア製のタンケッテ.
 1935年8月~1936年3月に151両を輸入.
 非武装状態でハンガリーに輸入され,ハンガリー国産の34/37M 8mm機銃を装備された.
 バルバロッサ作戦開始当時,数の上では主力クラス.
 しかし,本家イタリア軍ですら独ソ戦にこれを持ち込んで大損害を受けているのに,ハンガリーのこれがそうならないはずがないわけで…
 詳しくは別項参照.

・FIAT 3000B
 ルノーFT-17をマイナーチェンジした,イタリア製の軽戦車.
 研究のために5両輸入.
 非武装状態で買ってきて,シュワルツロゼ Schwarzlose 機銃をハンガリー国内でとりつけた.
 比較検討の結果,CV35を制式採用することに決め,こちらは没に.
 詳しくは別項参照

・Char léger modèle 1935 H
 おふらんす,オチキス社の軽戦車ざんす.
 1942年,ウクライナにおける戦役の最中,砲塔の無いH35/H39タイプをドイツ軍から11両(15両という説もあり)を譲り受けて,戦闘に使用したざんす.

・SOMUA S35
 おふらんす,ソミュア社の騎兵戦車ざんす.
 ハンガリー軍は1942年,ウクライナにおける戦役の最中,2両をドイツ軍から譲り受け,▼H-034とH-035という登録番号を付与.
 第101独立戦車大隊の指揮車として▲戦闘に使用したざんす.
 最後はガソリンも修理部品もなくなって,1944年8月頃に爆破処分されたざんす.

ハンガリー第101独立戦車大隊所属のS35
おそらく1944年,ポーランドのヴィシニチ Wiśniczにて
これはハンガリー軍のS35としては,現在知られている限り唯一の写真
(図表番号faq190311sm,こちらより引用)▲

・35R(f)4.7cm対戦車自走砲(t) 4.7cm Pak(t) auf PzKpfw 35R(f)
 ルノーR35戦車を改造したドイツ軍車輌.
 1942年夏,ハンガリー軍第2軍の内,東部戦線の占領地域保安部隊にドイツから譲渡されたが,その数は不明.

ハンガリー第2軍所属の35R(f)4.7cm対戦車自走砲(t)
(図表番号 faq190510pz,こちらより引用)▲

1942年東部戦線におけるハンガリー軍のR35(f)
(動画)

占領地域保安部隊のR35(f)
おそらく1942年にウクライナで撮られた写真
同上
おそらく同一車輌
(図No. faq211107rn1~6,twitterより引用)

▼ランズベルク Landsverk L-60 Ö

 L-60はアイルランドへの輸出用として製作されたスウェーデン製軽戦車.
 L-60 Öはオーストリアへの輸出型で,1936年に最初の1両がオーストリアへ納入されたが,それきりで同国は導入せず.
 その後,1937年に同モデルをハンガリーが1両輸入して試験.
 翌年にはライセンス生産権も購入し,トルディ戦車の原型となった.▲

1937年,オーストリアで試験中のL-60 Ö
(図No.faq200504ln,こちらより引用)

ハンガリーへの輸出型のL-60 Ö
(図No.faq200504ln,こちらより引用)

・ヴァレンタイン戦車 Valentine harckocsi
 英国のいわゆる「歩兵戦車」.
 ハンガリー軍は,ソ連軍にレンドリースされていた車輌を1941年または42年に1両鹵獲.
 技術的検査を受けたが,その後は消息不明.

ひっくり返っている鹵獲車輌の引き起こし作業
(図表番号 faq190428vl2~5,こちらより引用)

1枚目:ヴァレンタインを検査するハンガリー軍将校
(図表番号 faq190428vl,こちらより引用)

2枚目:ヴァレンタインを検査するフサール
(図表番号 faq190428vl8,こちらより引用)

3~4枚目:記念写真?
(図表番号 faq190428vl6&7,こちらより引用)▲

ハンガリー軍の国章が描かれたヴァレンタイン戦車
(図表番号 faq210408vl)

・M3中戦車 M3 közepes harckocsi
 アメリカの中戦車.
 ハンガリー軍は1943年,これを東部戦線で鹵獲したが,詳細不明.

鹵獲されたM3
(図表番号 faq190506m3,こちらより引用)▲

・M3A1「スチュアート」
 アメリカ製の軽戦車.
 ソ連へレンドリースされたもののうち,ごく少数をハンガリー軍は鹵獲して使用した.
 詳しくは別項参照

 【参考ページ】
https://live.warthunder.com/post/553799/en/
Tanks!>Hungary(アーカイブ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/LT-35
https://live.warthunder.com/post/558702/en/
https://ja.wikipedia.org/wiki/LT-38
https://hu.wikipedia.org/wiki/LT_vz._38
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_j_h_l.html
https://hu.wikipedia.org/wiki/LK%E2%80%93II
https://live.warthunder.com/post/557632/en/
https://live.warthunder.com/post/557022/en/
https://hu.wikipedia.org/wiki/Panzerkampfwagen_IV
https://hu.wikipedia.org/wiki/Panzerkampfwagen_I
https://live.warthunder.com/post/557017/en/
https://live.warthunder.com/post/557012/en/
https://hu.wikipedia.org/wiki/Jagdpanzer_38(t)_Hetzer
https://live.warthunder.com/post/558388/en/
https://hu.wikipedia.org/wiki/L3_(kisharckocsi)
https://it.wikipedia.org/wiki/CV33
https://hu.wikipedia.org/wiki/Fiat_3000
https://hu.wikipedia.org/wiki/Hotchkiss_H35
https://hu.wikipedia.org/wiki/Somua_S35
https://live.warthunder.com/post/556797/en/
https://ja.wikipedia.org/wiki/OA_vz.30
https://live.warthunder.com/post/558679/en/
https://live.warthunder.com/post/553799/en/
https://live.warthunder.com/post/556076/en/
https://live.warthunder.com/post/599019/en/
https://live.warthunder.com/post/705140/en/

専門書籍表紙

mixi, 2016.4.29

 ハンガリーが輸入したものとしてはフィアット3000という,ルノーのコピーみたいな戦車があります.

 捕獲戦車というとフランス戦車をドイツから供給されてます.

 T-34は,砲塔にハンガリーの国旗カラーのバンドを描いた個体の写真を見たことがありますが,恒常的に運用した訳ではないでしょうね.

ギシュクラ in mixi, 2016.4.29

 御指摘ありがとうございます.
 追加いたしました.

2016.4.29

▼  Csaba Becze著の『Magyar Steei』より,外国製の装甲車輌のハンガリーでの使用状況について.
(ただし,この本は古いので,近年の研究成果は反映されていません)

●1935年から1945年の間に購入・供給された車輌

Ansaldo CV-35(Carro Veloce CV35)
 1935~36年に152両導入.
 うち1台はCV-33.
 また1台は火炎放射器装備バージョン.

1号戦車A型
 1937年に1両,1942年に1両

1号戦車B型
 1942年に8両

Marder2自走砲
 1942年に5両

T-38G
 チェコ製の38(t)戦車のG型
 1942年に108両

3号戦車N型
 1942年に10両

3号戦車M型
 1944年に10両から12両

4号戦車F1型(短砲身のF型)
 1942年に22両

4号F1型に試乗するホルティ・ミクローシュ
(図No. faq200125f1a~b,twitterより引用)

4号戦車F2型・G型(最近はF2型とは呼ばないらしいです)
 1942年に10両

写真1枚目(図表番号faq190403pz)
側面にハンガリー軍記章をつけた4号戦車G型
1945年5~6月,オーストリアにて英軍が撮影
第2装甲師団所属の車輌と思われる
ハンガリーに供与された戦車の殆どは,ドイツ軍のマークを付けたままだったので,ハンガリー軍記章を付けている写真は希少
(こちらより引用)

 また,
https://live.warthunder.com/post/558371/en/
によれば1942年8月,ハンガリー軍は損害補充のため,ドイツから10両のF2型を受領.
1H-834, 1H-835 1H-836, 1H-854, 1H-859, 1H-860, 1H-861, 1H-862, 1H-863,1H-864
という登録番号が付与された.
 しかし1943年の冬季戦において,ソ連軍により全車撃破されたという.

図表番号faq190221f2
ハンガリー第2軍第1装甲師団に所属したF2型
(こちらより引用)

4号戦車H型
 1944年に最大で52両(~52と表記なので,多くて52両かと思います)
 1945年に最大で20両(同)

4号戦車J型
 https://live.warthunder.com/post/516541/en/
 によれば,1945年1月~3月,ヴェールテシュ Vértes 丘陵で撮られたと思しき写真が一枚存在.
(図表番号faq190330pz)
 おそらくハンガリー第2装甲師団所属で,砲塔後部にハンガリーの国章が描かれている.
 ハンガリーに供与された戦車の殆どは,元々のドイツ軍マークがついたまま使われたので,ハンガリーの国章が描かれているものは珍しいという.

5号戦車G型(パンター)
 1944年に7両(5両+2両との表記)
 1945年にも供給されたらしいですが,台数は不明.
 一方,
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1228531507989336065
によれば,
・44年夏に5輌供与
・ルーマニアの寝返り後,元はルーマニア向けだった10~12輌(全車D型?)をハンガリーのほうへ供与
・45年1月にドイツ前線部隊から第2戦車師団に2輌提供
されたという.

ハンガリー軍のパンター
(図表番号faq190405pz)
1944年9月1日にトランシルヴァニアにて
ハンガリー第2装甲師団に供与された最初の5両のうちの1両
(こちらより引用)

6号戦車E型(ティーガー1)
 1944年に10両

3号突撃砲G型
 1944年に50両

T-34を撃破した,第7突撃砲大隊所属の3号突撃砲
1944年10月,ハンガリー平原
(図No. faq190121st, こちらより引用)

ヘッツァー
 1944年・1945年に最大で75両(~75と表記)

Hotcikiss H-35・H-39
 1942年に15両

Somua S-35
 1942年に2両

L-160
 1938年に1両

L-62
 1939年に1両

●ポーランドがドイツとソ連に敗北した際にハンガリー領に逃れてきた車輌(1939年9月)

TK-3/TKS
 1939年に15~20両
(https://live.warthunder.com/post/558659/en/
によれば,逃れてきたのはTK-3×9両,TKS×7両)


 これらは主に訓練用に使用されたとのこと.
(TKSを空軍が飛行場の牽引用途に使っている写真が,同書に出ています)

Renault R35
 1939年の3両

▼ また,
https://live.warthunder.com/post/556782/en/
によれば,ポーランドから避難してきたR35戦車3両がハンガリーに譲渡.
 その車輌のポーランド軍での登録番号は
50-947
50-971
51-004.
 ハンガリー軍に編入されると,これらは新しい登録番号に変えられた.
1H-390
1H-393
1H-394.
 暫く訓練用に使われた後,ウクライナにおける枢軸軍占領地域の警備部隊に配備.
 その後の消息は不明だという.

図表番号faq190228rn
ハンガリー軍のルノーR35戦車
ウクライナで1941~42年の間に使用されたハンガリー軍マークがついている
(上述ページより引用)

●チェコスロバキアとの国境紛争で捕獲した車輌

T-11/LT vz.35
 1939年に2両(35(t)戦車)

 これらは訓練用車輌として使用

●ソビエト軍からの捕獲車輌

・KhTZ-16
 農業トラクターを改造した,ソ連の即席装甲車輌.
 1941~42年の間に,ハンガリー軍は45mm対戦車砲搭載型のKhTZ-16を1両鹵獲したが,その後の消息は不明.

鹵獲されたKhTZ-16
(図表番号 faq190518kh,こちらより引用)

T-26およびBT-7
 1941年から1942年に6両以上
(なんでT-26とBT-7が一緒の扱いなのかは不明)

 なお,
https://live.warthunder.com/post/561384/en/
https://live.warthunder.com/post/561379/en/
によれば,ハンガリー軍は1941年から42年にかけてT-26,BT-5およびBT-7を鹵獲しているが総数不明.
 全て訓練用となったという.
 T-26の一両は映画にも登場している.

図1:砲塔上部ハッチ,および運転席ハッチの向かって左側に,三色のハンガリー国旗が描かれているBT-7
図2:鹵獲兵器展示会におけるBT-7
faq190205bt
faq190205bt7

(図1:こちらより引用,図2:こちらより引用)

T-27豆戦車 T-27 kisharckocsi
 1941年から1942年に最大10両を鹵獲.
https://live.warthunder.com/post/558403/en/
によれば,ハンガリー軍のマーキングをつけてH-024~H-033の登録番号を付与され,前線で牽引車輌として使用された後,訓練用にとハンガリー本国に送られた.

鹵獲T-27
(図表番号faq190514t27,こちらより引用)

T-28
 ソ連の中戦車.
 ハンガリー軍は1941年に1両鹵獲.
 ハンガリー軍車輌としての登録番号H-037を付与され,訓練に使用された.

鹵獲T-28
正面装甲にはハンガリー軍記章の変種である,赤白緑の縦縞の3色が描かれている
(図表番号faq190531t28,こちらより引用)

T34/76 & T34/85
 1941年から1945年までに10両以上

https://live.warthunder.com/post/516749/en/
によれば,1944年には少数が戦闘に投入されたという.

写真1枚目(図表番号faq190407t34)
ハンガリー軍で運用されているT-34
こちらより引用)

写真2枚目(図表番号faq190209t34)
戦車連隊本部への道路標識代わりにされているT-34
1942年,ドン川
砲塔には帯状にハンガリー国旗の3色が描かれている.
砲身からはメイス(戦棍)と矢印の看板が垂れ下がっている.
このメイスはハンガリー第2軍の第1野戦装甲師団第30戦車連隊の記章.
こちらより引用)

T-38
 ソ連の水陸両用偵察戦車.
 唯一残る写真によれば,1941~42年の間に少なくとも1両のT-38をハンガリー軍は鹵獲.
 師団司令部付兵站部隊の兵科記号が車体に描かれていることから,牽引車として使用されたと推測されるが,詳細は不明.

唯一残る鹵獲T-38の写真
(図表番号 faq190524t38,こちらより引用)

T-40
 ソ連の水陸両用偵察戦車.
 1942年に少なくとも1両をハンガリー軍は鹵獲.
 第2軍において最初は偵察車輌,後に牽引車として使用されたと推測されるが,詳細は不明.

鹵獲T-40の唯一残っている写真
(図表番号faq190520t40,こちらより引用)

T-70
 ソ連の軽戦車.
 この写真(図表番号faq190526t70,こちらより引用)では砲塔を外し,運転席のハッチは柱とガラスとを使って,開いた位置で固定し,原動機に改造されている.
 ハンガリー兵の軍帽のまびさしの色合いから判断すると,1943~44年頃に撮られたもので,おそらくはドイツから譲渡された車輌.
 なお,ミッキーマウスの部隊章は,鹵獲前にこの車輌が属していたソ連軍の部隊の記章.

M3スチュアート
 1942年に4両

 ソビエト軍の車輌については正確な鹵獲数は不明とのこと.

ギシュクラ in mixi,2016年05月06日
青文字:加筆改修部分

 ハンガリーのフィアット3000
http://www.network54.com/Forum/47207/thread/1436427080/last-1436509638/View+Thread

ギシュクラ in mixi,2016年05月06日


 【質問 kérdés】
 ハンガリー軍戦車の国章について教えてください.
Kérem, mondja meg a harckocsijön nemzeti emblémáról.

 【回答 válasz】
 再軍備宣言後,装甲部隊の部隊章は1938年には登場していたが,国章はそれより遅く,1940年の北トランシルヴァニア進駐において初めて登場.
 緑の十字架を赤色で囲って円形にしたものと,よりシンプルな,「マルタ十字」に似た十字形の2種類があり,1940年はその2種類を併用した.

 緑十字タイプの国章は
円の直径 500または350mm
緑のクロスアームの幅 70 / 50mm
白いクロスアームの幅(合計) 240 / 170mm

 一方,マルタ十字は
幅600または300mm
最も広いポイントでのクロスアームの幅200 / 100mm
最も狭いポイントでのクロスアームの幅100 / 50mm
中心円の直径200 / 100mm

 マルタ十字の色は何種類かあるが,基本的にはハンガリー国旗の赤・白・緑をモチーフにした配色となっている.

 なお,第2騎兵旅団装甲大隊のトルディ戦車のみ,複十字 Kettős kereszt を国章として試用している.
 これはハンガリー王国の紋章の総主教十字に由来するもので,トルディ戦車の後部およびエンジン・デッキに,緑楕円内に収まる赤色の複十字が描かれた.

 1941年のユーゴスラヴィア侵攻時には,緑の十字架を赤色で囲って円形にしたもの以外に,緑の十字架を赤色で囲って八角形にしたものが登場.
 どちらも使用された.

 1941年型緑十字のサイズは
幅/高さ 500mm
緑のクロスアームの幅 80mm
緑のクロスアームに対する白いセクションのエッジの幅 80mm

 公式には1941年のバルバロッサ作戦時には八角形型のものだけとなり,1942年11月もしくは1943年以降,黒い四角の中に白十字とデザイン一新した.
 それまでのエンブレムは「まるで射的のマークだ」と評判が悪かったらしい.

 この新しい国章のサイズは,
正方形の幅 800/400 / 320mm
十字架の幅 680/340 / 280mm
クロスアームの幅 200/100 / 80mm
正方形の角からクロスアームまでの長さ 60/30 / 20mm

 以後,1945年までこれを使い続けることになる.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://thearmoredpatrol.com/2017/03/01/possible-hungarian-emblems-insignias-and-colors-for-world-of-tanks/
http://ritastatusreport.blogspot.com/2015/09/about-hungarian-emblems-insignias-and.html
http://www.zimmerit.com/zimmeritpedia/UNGHERIA_sez_1.html
https://live.warthunder.com/post/477637/en/
https://web.archive.org/web/20180805053833/http://thehonvedhungarianarmedforces.blogspot.com:80/2013/04/the-development-of-hungarian-military.html

種類一覧
説明文はgoogle翻訳機能により日本語変換
(図No.faq210127ne,こちらより引用)

1枚目:1940年の国章
(図No.faq210127ne,こちらより引用)

2枚目:1941年,ユーゴスラビア侵攻時
(図No.faq210127ne2,こちらより引用)

3枚目:1941年,バルバロッサ作戦以降
(図No.faq210127ne3,こちらより引用)

4枚目:1943~45年
(図No.faq210127ne4,こちらより引用)

複十字
(図No.faq210130ne1~2,こちらより引用,原出典 Hadtörténeti Múzeum Fotóarchivum)

2021.1.29

 ハンガリーAFVの国籍マークは42年頃が混在のピークじゃないかな・・・.
 後期の白十字導入の頃に東部戦線のⅣ号Fは八角形の3色十字で,マルタ十字型描いたトルディもまだ当時残ってる.
https://mobile.twitter.com/Nasikandar_/status/1355165383221624833

 まあ,通達したからと言ってすぐに前線部隊が対応できるわけではないでしょうね.
https://mobile.twitter.com/KCin_Tokorozawa/status/1355166038439067652

 早々とお役御免になった35.Mも,塗り替えされずに包囲戦突っ込まれたりしてましたね
https://twitter.com/Nasikandar_/status/1355172068250116096


 【質問 kérdés】
 ハンガリーに輸入されたLK II軽戦車について教えてください.
Kérem, mondja meg az LKII könnyűharckocsikt, akit importált Magyarországra.

 【回答 válasz】
 LK II(Leichte Kampfwagen II,すなわち軽戦闘車輌IIの略称)は,第一次大戦末期にドイツで開発された軽戦車である.
Az LK II (rövidítés, feloldva Leichte Kampfwagen II, könnyű harcjármű) német fejlesztésű könnyűharckocsi volt az első világháború végén.

 戦後,スウェーデン政府はLK IIの設計図に10万クローナを払い,製造されていたこの戦車の一部(10台)がスウェーデンに移送され,ストリッツヴァグン Stridsvagn m/21となった.
A háború után a svéd kormány 100 000 svéd koronát fizetett az LK II terveiért, így a legyártott harckocsik egy része (10 darab) Svédországba került, ahol átalakítva Stridsvagn m/21 néven gyártották.
 どうやらこれと似たようなことをハンガリーもやったらしい.
Nyilvánvalóan valami ehhez hasonló dolgokat tett Magyarország.

 不審な船が1920年上旬,ハンガリーに到着していた.
Valamikor a 20-as évek elején titokzatos szállítmány érkezett Magyarországra.
 車両14両が(協商国側の注意を免れるべく)書類上は農業用トラクターとして到着し,ほぼすぐに姿を消したので,警戒はされなかった.
A 14 jármű, amely (az antant figyelmét kijátszandó) papíron mezőgazdasági vontatóként szerepelt, szinte azon nyomban eltűnt az éber tekintetek elől.
 最も可能性の高いシナリオであるエーデル・ミクローシュの説によれば,1920年春に到着した2両のLK IIが試験された後に,残りの12両はドイツ軍の廃兵器の中から,おそらくは壊れかけのものをハンガリーに持ってきたという.
A legvalószínűbb forgatókönyv, Éder Miklós elmélete szerint, az első két LK-II-es 1920 tavaszán, a többi 12 db pedig a mintapéldányok kipróbálását követően került az országba a német hadsereg leszerelési anyagából, valószínűleg darabokban.
 そして,スウェーデンがこの一件の仲介者の役割を果たした可能性もある.
És felmerülhet a svédek, mint közvetítők szerepe is az ügyben.

 平和条約署名後,戦車所持は違法となったが,軍がそれを喜んで手放すはずもなく,代わりにそれらを20年代には人気のあった軍事スポーツ,いわゆる「隠匿」に参加した.
A békediktátum aláírását követően a harckocsik birtoklása illegálissá vált, a honvédség azonban nem volt hajlandó lemondani róluk, ehelyett benevezte őket a 20-as évek népszerű katonai sportjába, az ún."rejtésbe".
 分解された車輌の部品は数年間,最高機密として田舎の農場に隠され,装甲部分は鉄道の貨車に載せられてハンガリー国内を行ったり来たりした.
Az elkövetkező években a szétszerelt járművek alkatrészei a legnagyobb titokban vidéki tanyákon lettek elrejtve, míg a páncélzatok pl. egy időben vasúti tehervagonokban utaztak ide-oda az országban.
 そうやって数年間隠されていた車輌によって1928年,第1戦闘車輌大隊が設立されたが,稼働していたのは6両だけだった;
Az 1928-ban megalakult 1. harckocsiszázadot a következő években azokkal a járművekkel látták el, ezekből azonban végül csak 6 db lett üzemképes;
 他の8両は恐らく隠匿されていた間に壊れてしまったのだろう.
a többi nyolc talán a rejtés alatt ment tönkre.
 この原因は,埃っぽい低地溝や鉄道の側線の迷路といった悪環境下にあったことによる腐食もしくは一部部品の紛失で,技術試験部門は不足部品の図面を作ることができなかった.
Hogy ennek a mostoha viszonyok között kialakult korrózió volt az oka, avagy egyes alkatrészek még az őket rejtegetők elől is végleg eltűntek a poros alföldi földutak és a vasúti mellékvágányok útvesztőjében, nem tudni, mindenesetre a Technikai Kísérleti Osztály elkészítette a hiányzó elemek műszaki rajzait.

 トリアノン平和条約の規約では,ハンガリーは当時まだ戦車を保有することはできなかったため,車輌番号は"V"(牽引車)名義のものが付与され,それにローマ数字がついた.
Mivel a trianoni békediktátum rendelkezései szerint Magyarország továbbra sem rendelkezhetett harckocsikkal, a járművek az eredeti "V" (vontató) elnevezést viselték, emellett pedig római számokkal látták el őket.
 記録によれば1号車にはV-12,他にはV-14, V-11, V-7, V-6,そしてV-3という数字が与えられた.
A nyilvántartás szerinti V-12 lett az I. számú harckocsi, a többi számot sorban a korábbi V-14, V-11, V-7, V-6 és V-3 kapta.
 また,戦車保有禁止条項をすり抜けるため,大隊は警察訓練学校 (RUISK)の麾下にあったが,一部の装甲車輌の運用については軍にも許可されていた.
Ugyancsak a tiltás miatt a század a Rendőrújonc Iskola (RUISK) keretein belül működött, karhatalmi célokra ugyanis engedélyezve volt néhány páncélgépjármű üzemben tartása.
 到着時には非武装だった車体には8mm 7/12 M. シュワルツローゼ機関銃がとりつけられた.
Az amúgy fegyvertelenül érkezett harckocsikat a rendszeresített 8 mm-es 7/12 M. Schwarzlose géppuskával szerelték fel.

 最終的には1930年,戦車隊が訓練用として5両,包括的な教導用として1両を引き継いだが,新型車輌を導入することが明白と思われるほど,それらは絶望的なまでに時代遅れになっており,技術的に当てにならなくなっていた.
Végül 1930-ban vehette át a harckocsialosztály az öt gyakorló és egy oktató feladatkörű harckocsit, de azok ekkorra már olyan reménytelenül elavultak, műszakilag pedig megbízhatatlanok lettek, hogy elodázhatatlanná vált egy új típus beszerzése.
 その年,ハンガリーは新しい同盟者イタリアに,(依然として秘密裏に)戦車を発注した.
Még ebben az évben Magyarország (továbbra is titokban) harckocsikat rendelt, ezúttal azonban már az új szövetségestől, Olaszországtól.
 フィアット3000Bの到着により,1931年からLK IIは徐々に退役し,1933年までにはそれらは全てスクラップ場送りとなった.
A FIAT 3000B-ek beérkeztével 1931-től fokozatosan kivonták LK II-et a szolgálatból és 1933-ra mind az ócskavastelepekre kerültek.
 その砲塔の幾つかは装甲列車に据えられ,その装甲板は数年にわたって実標的となったが,その後,徐々に姿を消した.
Tornyaik közül néhány páncélvonatokra került, páncéllemezeik pedig még pár évig lőkísérletek céltárgyaiként szerepeltek, majd lassan azok is eltűntek.

 1939年のことである.
 エルケーニターボルの村の第2騎兵旅団軽戦車大隊に新たに赴任した,とある退屈した兵士が,新居の中を探検し始めた.
 するとすぐに,板で塞がれた放置された小屋を見つけ,さらにそこには不可解なことに未知の戦車があった.
1939-ben a frissen Örkénytáborba helyezett 2. lovasdandár könnyűharckocsi századának néhány unatkozó katonája felfedező útra indult új otthonában, ahol csakhamar egy elhagyatott, bedeszkázott fészerre bukkantak, abban pedig egy titokzatos, ismeretlen harckocsira.
 彼らも彼らの直属の上官もこの型の車輌を知らず,メーセイ大尉も疎かった.
Sem ők, sem a kiérkező közvetlen felettesük nem ismerte fel a jármű típusát, nem úgy az élelmes Mészöly százados.
 この型の戦車は何年も前に軍から退役し,もはや軍には一台も存在しないという知らせを受け,兵站上のLKの状況についてのこの発見を隠すよう暗に求められた.
A felfedezést elhallgatva csendben utánajárt a hadbiztosságon az LK-k sorsának, ahol azt a tájékoztatást kapta, hogy ezt a típust évekkel ezelőtt kiselejtezte a honvédség, így már nem létezik belőlük egy darab sem.
 おそらく1920年に試験が行われた2両のうち1両で,その後この1台は隠され,(立ち会った者達が死去するか退職するかした後)単に忘れ去られたものだろう.
Talán egyike volt az 1920-ban kipróbálásra érkezett két járműnek, amit azután egy darabban rejtettek el és (az egykori szemtanúk halálát vagy nyugdíjazását követően) egyszerűen elfelejtettek.
 この情報により,メーセイ大隊の将兵たちは良心が咎めることもなく,ハンガリーのLK唯一の生き残りをスクラップとして売却し,それで得たカネで今度は軽戦車大隊のポットの数を充足させたということぢゃ.
Ezen információ birtokában azután Mészöly százados és emberei nyugodt lelkiismerettel szétbontották és ócskavasként eladták az egyetlen megmaradt magyar LK-t, a befolyt összeggel pedig a könnyűharckocsi század kasszáját gyarapították.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1867_f_j_h_s_l.html
http://magyartank.gportal.hu/gindex.php?pg=36090352&nid=6458397
https://www.jobbikit.hu/vilagunk/tortenelem/biro-adam-pancelos-fegyvernem-megteremtesenek-kezdetei-magyar-kiralyi-honvedsegben
ビーロー・アーダーム他『 A Magyar Királyi Honvédség külföldi gyartású páncélos harcjáművei 1920-1945』(Petit Military könyvek)

1枚目:四面図 Négyoldalú kilátása
(図No.faq170531mg116,『 A Magyar Királyi Honvédség külföldi gyartású páncélos harcjáművei 1920-1945』より引用)

2枚目:側面イラスト
(図No.faq171129lk2,こちらより引用)

3枚目:RUISKの部隊における LK II
LK II a RUISK állományában
(図No.faq171129lk,『 A Magyar Királyi Honvédség külföldi gyartású páncélos harcjáművei 1920-1945』より引用)

4枚目:出動準備を整えたLKIIとFIAT3000B
(図No.faq200817lk,こちらより引用)

mixi, 2017.12.7
2020.8.17,図4追加


 【質問 kérdés】
 ハンガリーに鹵獲されたM3A1「スチュアート」軽戦車について教えてください.
Kérem, mondja meg az M3A1 "Stuart" könnyű harckocsi, amit a magyar fogott el.

 【回答 válasz】
Az 1941 és 1942 augusztusa között épült 5811 M3A1 harckocsiból 1676 darabot a Szovjetunióba szállítottak.
Fényképek tanúsága szerint 1942-ben 3 db M3A1 típus a magyar hadsereg zsákmánya lett.
A sértetlen harckocsikat magyar hadijellel látták el.
Technikai átvizsgálásuk után műszaki-mentő harckocsiként vontatási célokra alkalmazták. (2 .ábra)
Egy darab rendszáma ismert: 1H-402.
 1941年から1942年の間に生産されたM3A1戦車5811両の内,1676両がソ連に送られた.
 写真が指し示すところによれば,1942年に3両のM3A1型をハンガリー軍は鹵獲している.
 無傷だった戦車には,ハンガリー軍所属を示すマークをつけられた.
 技術検査後,それらは機械力で手助けする牽引車として使用された(図2)
 1両の通し番号が判明している:1H-402

※ Csaba Becze『Magyar Steei』によれば4両.

 【参考ページ Referencia Oldal】
ビーロー・アダム他『Magyar Királyi Honvédség külföldi gyártású páncélos harcjárművei』(Petit real könyvkiadó, 2006), p.71-72 ※図1引用元
http://forum.index.hu/Article/showArticle?go=38884198&t=9010902 ※図2-3引用元

(図1) M3A1三面図
(図3) 側面写真

ハンガリー軍の記章と第1偵察大隊の部隊マークが描かれた鹵獲スチュアート軽戦車
faq190123st

立っているハンガリー兵のブーツから推して,写真は1943~1944年の撮影
(こちらより引用)

mixi, 2018.4.24

赤軍のレンドリースM3スチュアートを鹵獲したハンガリー軍の映像
少なくとも3輌確認でき,砲塔内で操作する兵士や37mm砲弾が映っている.

マーノシュ @Nasikandar_ in twitter, 2020.10.8


 【質問 kérdés】
 ハンガリー軍のLT vz.38について教えてください.
Kérem, mondja meg a magyyar király honvéd LT vz.38-oiről

 【回答 válasz】
 LT vz.38はチェコのČKD社製の軽戦車だが,ドイツ軍によって使われたことにより,PzKpfw 38(t)という名称のほうが通りがよい.
 バルバロッサ作戦で戦車部隊にも大損害を受けたハンガリー軍へ,ドイツから108両が譲渡された.
 だがこれらもスターリングラードの戦いで大損害を受け,生き残った22両は訓練部隊行き.

***

 東部戦線に派遣された「快速軍団」が,車輌の80%を失って1941年11月に本国に帰還した後,ハンガリー軍参謀本部ではこれを再建するにあたり,2個装甲師団に改編する事とした.
 これを「フバII」計画と呼称.

 一方,ドイツからはそれら部隊を早く東部戦線へ送るよう矢の催促だったが,部隊に配属する戦闘車輌が不足していた.
 そこでドイツは戦車その他をハンガリーに供与.
 Pz.38(t)は何度かに分けて108輌送られることになった.
 最後の3両が届いたのは1942年11月のことである.
 このうち38輌は,無線機(Pz.38(t)標準装備のFu2無線受信機とFu5送信機)を備える代わり,機銃1基を減らした指揮車型だった.

 1941.11.4,将校38人,乗組員120人がヴュンスドルフ Wünsdorf に派遣され,8週間の訓練を受けた.
 その後,彼らはエステルゴムで再編成中の第1装甲師団に移動.
 1942年5月,ブラウ作戦参加のため,ハンガリー第2軍は出動したが,Pz.38(t)×89輌,4号戦車×22輌(これらは第30戦車連隊に割り当てられた),ハンガリー国産の戦闘車輌×54輌などから成る第1装甲師団が東部戦線に派遣されたのは6月になった.
 これは燃料と輸送車輌の遅れによる.

 第1装甲師団が最初に配備されたのは,ドン川の西岸にあるStorozhevoye地域のUryv-Pokrovka.
 ソ連軍第130戦車旅団によって防衛されている橋頭堡の粉砕が初任務となった.
 ハンガリー軍の攻撃は7月18日に開始.
 ハンガリー軍のIV号戦車はなんとかソ連軍T-34を撃破し,Pz.38(t)にも軽装甲のM3スチュアート戦車相手なら撃破するチャンスはあった.

 橋頭堡は最終的に午後までに破壊され,ソ連軍戦車21輌が撃破された.
 これらの大部分はIV号戦車の戦果で,ニムロードが戦車6輌撃破,Pz.38(t)の戦果は3両にすぎなかった.
 橋頭保からの撤退中,ソ連軍戦車の喪失は35両に上り,うち少なくとも4両のM3軽戦車がハンガリー軍に鹵獲された.
 ハンガリーの損失Pz.38(t)×2輌が損傷したのみ.
 鹵獲M3のうち1輌を評価のためにハンガリーに送り,残り3両を損傷したPz.38(t)牽引に使用した.

 7月末までに,ハンガリー軍はソ連軍第261戦車大隊と第260戦車大隊(どちらも第130戦車旅団に所属)と対峙.
 ソ連軍第260戦車大隊(第130戦車旅団の一部)の戦争日記によれば1942年8月9日,同部隊にはT-34×3,M3スチュアート軽戦車×3,T-60×15があったという.
 18:00までに同大隊のT-34×3が,ミギネボ村を守るために派遣された.

 8月10日,第1装甲師団の一部がソトロジェヴォエの戦いに参加した.
 同日午前5時30分,この戦いは激しい砲撃で始まった.
 9:00,枢軸軍は戦車27輌を投入して攻撃したが,攻撃準備が不十分だったため,16輌を失って撤退.
 ハンガリー軍のPz.38(t)は10輌撃破され,そのうち3輌は回収もできなかった.
 一方,ソ連軍第260戦車大隊の損失は報告されていない.
 この3輌は8月10日~11日の夜に,ソ連軍第260戦車大隊に鹵獲された.
 その後,枢軸軍はStorozhevoyeの丘186,6へ前進し,複数回の戦車歩兵共同攻撃を行ったが,撃退された.
 ソ連軍第260戦車大隊は第24自動車化歩兵旅団麾下としてティッチハ(オティチハ)集落の西にある森の,南西部の地域を防衛していたが,交戦により敵戦車1輌を撃破し,1輌を炎上させ,敵兵25人を死傷させたと報告している.

 この後,第1装甲師団はコロトヤク市付近におけるハンガリー軍の防衛戦を支援.
 8月15日,ソ連軍と交戦し,M3スチュアート×3輌,T-60×3輌,ソ連軍が鹵獲・使用していたPz.38(t)×1輌を撃破.
 T-34×1輌を損傷させた.
 一方ハンガリー軍もIV号戦車とPz.38(t)少なくとも3輌を喪失.
 うちPz.38(t)の1両は,ソ連軍のV. Panganis軍曹によって撃破された.
 彼は45 mm対戦車砲が破壊された後,対戦車手榴弾をいくつか持って戦車の下に飛び込み,自爆したのだった.

 その日の終わりまでにさらに2両のソ連軍戦車が撃破.
 対してPz.38(t)×輌を喪失したが,うち1輌はT-34によって,2輌はドイツ軍の対戦車兵器による同士射ちだった.
 コロトヤクをめぐる激戦の結果,翌日までにハンガリー軍の損失はPz.38(t)×55輌,IV号戦車×15輌に増えた.
 このうち,35輌程度が修理可能だった.
 損害が増加したため,第1装甲師団は最終的にコロトヤクから撤退した.

 ドイツ軍はハンガリー人に,7.5cm長砲身砲を搭載したIV号戦車F2型×4輌を供与.
 8月末の第1装甲師団の総戦力は,Pz.38(t)×85輌前後,IV号戦車×22輌,および少なくとも5輌のトルディ戦車だった.

 9月9日より,第1装甲師団はUryv-Korotoyak周辺のソ連軍の陣地を攻撃.
 攻撃はドイツ軍第168歩兵師団と第201突撃砲大隊によって支援されたが,ソ連軍陣地は防御十分だったため,攻撃は捗らなかった.
 ハンガリー軍の戦車大隊は,T-34戦車によって防衛されたソトロジェヴォエのソ連軍陣地への攻撃を支援するために派遣された.
 戦闘中に,ツィズマディア・ヤーノシュ Csizmadia Janos軍曹が指揮するPz.38(t)が,ドイツ軍の後方陣地を攻撃していたT-34に遭遇.
 軍曹は迅速に反応し,近距離でT-34に発砲した.
 同車の3.7cm徹甲弾は,T-34の後部装甲を貫通し,T-34は爆発.
 Pz.38(t)の貧弱な主砲がT-34を破壊した希少な例の一つとなった.
 この成功に勇気づけられたツィズマディア軍曹は,その日の終わりまでに,手榴弾で2つの敵の掩蔽壕を破壊しただけでなく,少なくとも30人の士気喪失したソ連兵を捕らえることができた.
 この行動により,彼は敢闘銀章(大)を授与された.

 2日間の激戦の末の9/11,枢軸軍はソトロジェヴォエ全体を占領した一方,ハンガリー軍はPz.38(t)をさらに2輌喪失.
 次いで枢軸軍は,オティチハ集落のソ連軍防御陣地を攻撃した.
 同集落はソ連第6軍の作戦区域内にあり,防御が強すぎたため,最初の攻撃は撃退され,多くのハンガリー戦車が損傷したり,活動停止したりした.
 翌日,枢軸国軍は別方向から攻撃.
 ソ連軍の重掩蔽壕は3.7cm砲にビクともしなかったため,乗組員は手榴弾を使用してこれらの掩蔽壕を破壊すること度々だった.
 攻撃は最後には成功し,ドイツ軍第168歩兵師団がそこに防御陣地を設置.
 しかしソ連軍はKV-1およびT-34戦車に支援され,反撃を行った.
 ハンガリー軍戦車はこの反撃に応戦するよう命じられた.
 しかしハンガリー戦車の3.7cm砲は抗力が殆どなく,戦闘は一方的な結果となった.
 その日の終わりまでに,ハンガリー軍は大きな損害を受け,戦闘可能な戦車はPz.38(t)×22輌とIV号戦車×4輌だけだった.
 対するソ連軍はT-34×8輌を失い,KV-1×2輌が損傷した.
 9月14~16日のソ連軍の反撃はすべて撃退され,合計18輌のT-34と6輌のKV-1を喪失した.
 一方9月16日には,ハンガリー軍の第30戦車連隊の稼働戦車は,Pz.38(t)×12,IV号戦車×2のみとなっていた.

 消耗したハンガリー軍に対し,1942年10月までにドイツ軍はIII号戦車N型×10輌,N戦車と6台のIV号戦車(F2型とG型)×6輌を供与.
 ハンガリー軍装甲部隊とソ連軍との次の大きな戦闘は,10月19日にソトロジェヴォエの近くで発生し,ハンガリー軍戦車はソ連軍戦車4輌を撃破した.

 そしてその日以降,消耗したハンガリー軍第1装甲師団は休息と再編成のため,最前線から引き抜かれて予備戦力となった.
 1942年12月(9月説もあり),ドイツ軍はハンガリー軍にMarderII×5,少なくとも3輌のPanzer38(t)C型を供与.
 1943年初め,ハンガリー第1装甲師団はドイツ軍の直接指揮下に置かれ,クラマー Cramer 軍団に属した.
 ハンス・クラマー少将指揮する同軍団はハンガリー軍第1装甲師団の他
ドイツ軍第26歩兵師団,
第168歩兵師団,
独立第190突撃砲大隊
独立第700装甲大隊
を有していた.

 その当時の師団の装甲車輌は
III号N型×9
III号F2型およびG型×8
IV号戦車F1型×8
Pz.38(t)×41
マルダーII×5

 1943年1月12日にスターリングラードでソ連軍の反攻作戦が始まると,それから数日のうちにハンガリー第1装甲師団は壊滅.
 ハンガリー軍は大きな損失を出し,撤退を余儀なくされた.
 ソ連軍戦車はハンガリー戦車に混乱を引き起こした.
 Pz.38(t)はT-34戦車に,性能面で太刀打ちできなかった.
 ドイツ軍第700装甲大隊(Panzer 38(t)戦車を装備)も途中で引き抜かれた.

 その後,ソ連軍はハンガリー軍第12野戦砲兵連隊と交戦し,それを撃破したが,ソ連軍は戦車9両喪失.
 -20から-30°Cの気温もハンガリー軍に重大な損失を与えた.
 にもかかわらず,ソ連軍は戦車の大きな損失のため,攻撃を停止せざるを得なかった.

 ソ連軍の攻勢の間に,多くのPz.38(t)が故障と軍の全般的な燃料不足のため,自爆処分となった.
 たとえば第1装甲旅団だけでも,Pz.38(t)×17輌を爆破せねばならなくなった.

 ハンガリー第1装甲師団は,ドイツの第559戦車大隊の支援の下,アレクセイエフカ市(ドン川の西)取り戻すよう命じられた.
 攻撃は1943年1月18日に始まり,同市周辺の広い地域で戦闘が生起.
 激しい戦闘の後,アレクセイエフカを枢軸軍は占領した.

 翌日,ソ連軍は反撃を行ったが,T-34をマルダーIIによって,T-60をIV号戦車によって撃破された.
 にもかかわらず,枢軸軍はアレクセイエフカからの撤退を余儀なくされた.

  1943年1月21日,枢軸軍は再びアレクセイエフカ市の西部に侵入.
 だが第1装甲師団は撤退を余儀なくされ,1月25日にノーヴィオスコルに到着した.

 そこから2月初めまで,第1装甲師団は,前進するソ連軍との激戦を多く繰り広げた.
 コロチャ市周辺での戦闘中に,師団の最後のPz.38(t)を喪失.
 同車は弾薬なしの状況で,2輌のT-60と1輌のT-34に攻撃されたのだった.

 2月9日までに第1装甲師団はドネツ川に到達.
 最終的にハリコフまで後退した.
 大損害を被った同師団は最前線から引き抜かれた.
 そのとき,同師団で戦闘可能な戦闘車輌はマルダーII×2輌のみ.
 ハンガリーに帰国できた同師団の戦闘車輌はトルディ,ニムロード各3輌のみだった.

 1943~1945年,ハンガリー軍に残っているPz.38(t)×22輌は訓練に使用.
 そのうち何両かはハンガリー本土防衛戦で使用された可能性もあるが,もちろん到底ソ連軍戦車に太刀打ちできなかっただろうことは想像に難くない.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://tanks-encyclopedia.com/t-38-panzer-38t-in-hungarian-service/
https://hu.wikipedia.org/wiki/LT_vz._38

1~2枚目:東部戦線派遣前,エステルゴムの軍事野外演習におけるハンガリー第1装甲師団のPz.38(t)
奥の車列はニムロード自走砲
さらに奥にはトルディも数台見える
1942年,エステルゴム
(図No. faq220101lt1~2,こちらおよびこちらより引用)

3枚目:ロシア軍陣地を進むハンガリー第2軍第30戦車連隊のPz.38(t) Ausf.G
1942年夏,ドン河
(図No. faq220101lt3,こちらより引用)

4枚目:車体側面
1942年春
(図No. faq220101lt1~2,こちらより引用)

mixi, 2022.1.2

砲塔の3人はドイツ兵だが,乗ってるのはハンガリー軍38(t)という紛らわしいやつ
注意して観察すると,白十字の周囲に赤い縁取りがされている
(図No. faq220111lt,こちらより引用)

マーノシュ on twitter, 2021.12.2
青文字:加筆改修部分

同じ38(t)画像もう1枚あった
背後の車庫にハンガリー軍ナンバーのⅠ号戦車が停まっている
砲塔上に工具袋みたいなのもあるし,この3人から中で誰か整備指導でも受けてるんだろうか
(図No. faq220111lt2,こちらより引用)

マーノシュ on twitter, 2021.12.11
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハンガリーに送られた38(t)って一部,機銃が付いて無かったりしたようだけど…?

 【回答】
 ハンガリー軍38(t)の中で車載機銃外しているのは指揮官車だったはず.
 ただ,ドイツは無線外してハンガリーに送ってるみたいだから,元々指揮車だったが,単純に機銃足らない通常型になってしまっようだ.
 アーマーの枢軸軍特集のハンガリー軍情景の38(t)がそのタイプだった.
 アーマーの枢軸軍特集...もう15年くらい前だ.

 ハンガリーが保有してた38(t)の内,通常型が何台,元指揮車は何台って不明.

模型板,2012/04/02(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 ソ連軍に鹵獲されたpzkpfw 38(t)について教えてください.
Kérem, mondja meg a szovjet csapatok által elfogott pzkpfw 38(t)-ekről.

 【回答 válasz】
 1942.8.10~11,ソ連軍第130戦車旅団はハンガリー軍との戦闘後,少なくともPz.38(t)戦車×3を鹵獲.
 この3輌は38Tと呼称され,同旅団の第260戦車大隊に所属したが,実戦投入されたのは2輌だけだった.
 3輌目がどうなったかは不明だが,それは使用不能だったか,あるいは他の2輌のためのスペアパーツとなった可能性が高い.

+++

 1942年8月10日,同旅団の第261戦車大隊と第260戦車大隊は,ドン川の西岸にあるソトロジェヴォエ Storozhevoye において枢軸軍の攻撃を受けたが,枢軸軍の攻撃準備が不十分だったためにPz.38(t)×10輌が撃破され,そのうち3輌は回収もできなかった.
 この3輌を8月10日~11日の夜に,ソ連軍第260戦車大隊に鹵獲.
 11日までにこのうち2輌が修理されて,ソ連軍によって使われた.

 8月13日,第260戦車大隊には,以下の車輌があった.
T-34×3
M3スチュアート軽戦車×3
T-60×15
鹵獲Pz.38(t)×2(38Tと呼称された)

 8月14日,ソ連軍部隊は夜間移動でGoldayevka村の南西地域に集結するよう口頭で命令を受けた.
 任務は丘160,2 –ゴールダイエフカの方向に進撃することだった.
 その攻撃を担当する部隊は,T-34×1,M3×3,T-60×10,38T×2を有していた.

 翌8月15日5時,第260戦車大隊が作戦地域に到着し,偵察を行った.
 6:00に,大隊は車列を維持しながら丘160,2の方向に前進し始めた.
 大隊指揮官は,激しい戦闘の後,敵が対戦車砲4門,機関銃3門,迫撃砲2門,少なくとも25名の将兵を失ったと報告した.
 一方,第260大隊はT-60×2戦車が撃破.
 1輌は完全に焼失したが,もう1輌は回収,修理された.
 第260大隊は最終的には丘160,2を占領することができたが,歩兵の支援がなかったため,後に撤退を余儀なくされた.

 15:30,第2次攻撃開始.
 大隊の戦闘車輌戦力は
損傷したT-34×1,
M3×3,
T-60×8,
鹵獲38T×1
 大隊指揮官は攻撃の戦果を次のように報告した.
対戦車砲×2,
迫撃砲×2
車輌×3
最大100人の敵将兵.
 一方,ソ連軍の損失は,
M3×3(全て後に修理)
38T×1
T-60×1(戦場に遺棄)
 この攻撃では歩兵の支援があったにもかかわらず,丘160,2を占領できず,ソ連軍は後退した.
  18:00,大隊は戦闘から離脱.
 その日の戦闘日誌は,別の38Tが「撃破されて戦場に遺棄された」ことと,「T-60は前線での初撃には適さない」と強調していることが記されている.

 この情報は,第130戦車旅団の報告書で裏付けられる可能性がある.
 同報告書によると8月15日,第260戦車大隊は,7:00に始まったヒル160,2への最初の攻撃中に,運用中の38T戦車×2のうち1輌を喪失.
 2輌目の38Tは,同じ丘を奪還するために15:30に開始された,第二次攻撃中に喪失したという.
 8月15日の終わりに報告された敵の損失の合計は,
対戦車砲×12
車輌×3
迫撃砲×4,
機関銃×6,
160人以上の将兵
だったとしている.
 対するソ連軍の損失は併せて,
将兵5名戦死,
T-34×1に深刻な損傷
M3×3撃破
38T×2撃破
T-60×6撃破(そのうち3輌が炎上)
だったという.

 8月16日,第260戦車大隊にはT-34×5(ミゲネボに戦車×3)とT-60×12があった.
 これらの殆どは,前日の攻撃に参加していなかった.

 この日,第130戦車旅団の報告によると,第260戦車大隊は,残りの戦車から戦車中隊を編成.
 同中隊には,T-34×5,T-60×10,M3×3,38T×1があった.
 3日後,旅団にはまだ38Tが1輌残存していたが,砲塔に不具合を生じていたという.

 1942年9月21日付けのソ連軍第6軍の報告によると,1個の38T(以前は第260戦車大隊に属していた)が,ダビドフスカに駐屯していた第3防衛部隊(本質的には退却防止部隊)に割り当てられることになっていたという.
 合計すると,この地域に従事するソ連軍部隊は,ハンガリー軍から鹵獲した38T×3を運用していたことになる.
 そして第6軍の報告書では,第3督戦隊へ38T×1が供与された.

 【参考ページ Referencia Oldal】
https://tanks-encyclopedia.com/t-38-panzer-38t-in-hungarian-service/
https://hu.wikipedia.org/wiki/LT_vz._38

戦利品として貨車に載せられている鹵獲38T
1942年

(図No. faq220107lt,こちらより引用)

mixi, 2022.1.9


 【質問】
 ハンガリー軍の兵器の資料を見ていたとき,パールドゥチ重戦車とティングリシュ重戦車言う戦車を発見したんですが,どう見てもドイツ軍のパンター戦車とティーガー戦車にしか見えないんですが・・.
 当時のハンガリーって,パンターやティーガーを生産できるほどの工業力ってあるんですかね?
 それとも,やはりドイツ軍がハンガリー軍に給与したのでしょうか?

アンチネスク : 軍事板,2003/08/16
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 アーマーモデリング誌12号に,ハンガリーで運用されたティーガーIの記事がありますた.
 ハンガリーの軍事雑誌に掲載されてたらしい同記事を抜粋すると,

・1944年4月以降,消耗したハンガリー第2機甲師団の第3戦車連隊第I大隊に対し10両が配属された.
(他にも中古のIV号戦車12両,III号突撃砲10両が配属,整備用具・予備部品はなし!)
 これらのティーガーIはティーガーIIに装備改編する第503重戦車大隊の中古品だった.
 訓練も503大隊の兵員が教育に当たった.

・ティーガーは前述第I大隊の第2・第3中隊を構成した.

・訓練完了後,ティーガーは小隊単位でハンガリー第24歩兵師団の各大隊戦区に分散配置された.
 一週間の戦闘で損害皆無で十分な戦果をあげた後,大隊に復帰した.

・ハンガリー第1軍機動予備として防御戦闘に従事,結局バックアップの不備により7両が放棄ないし事故で失われ,残りの3両は後送された.

 とりあえずライセンス生産ではないです.
 ハンガリー人もティーガーの攻撃力,防御力は絶賛しているようでした.

ハンガリー軍のティーガー
(図No. faq181223tg1~2,こちらより引用)

軍事板,2003/08/16
青文字:加筆改修部分

西ウクライナで約1ヶ月弱という短期間だった割に,訓練中の洪虎はよく撮られている
(図No. faq220111tg,こちらより引用)

マーノシュ on twitter, 2022.1.7
青文字:加筆改修部分


 【質問 kérdés】
 ハンガリー戦車道の歴史を述べよ(3点)

 【回答 válasz】
 ハンガリー戦車道の起源は,1920年のトリアノン条約まで遡る.
 この条約により,軍備としての戦車の保有を禁じられたハンガリーは,あの手この手で条約の抜け道を探し求めた.
 一つは国家憲兵隊による「警察用装甲車」の保有.
 一つはスウェーデンやイタリアからの,農業用トラクター名義での密輸入.
 最後の一つが,高等教育機関におけるモーター・スポーツという名目による,模型戦車を用いた戦車の運用研究だった.

 後に「キンダーパンツァー kinderpanzer」と呼ばれるようになるそれは,本物の戦車のスケール・ダウン模型で,初期のそれは装甲もないどころか合板製.
 動力は電動,または自転車のような足漕ぎだった.
 参考までに,第二次大戦後の東ドイツの例を,以下の動画に見ることができる.
https://www.youtube.com/watch?v=h9fpNcnlNIk&t=5s

 しかし再軍備の動きが水面下で活発になると,実弾を発砲できない以外は,サイズも装甲も動力も本物の戦車に近づいていった.
 そればかりか,密輸されたLK-IIやフィアット3000B等の本物の戦車も,当時既に旧式化していたので,フランツ=リスト・テクノ専門学校,コルヴィヌス経済大学,キニジ・パール国防大学,そして世界最古の工科大学であるマリア・テレジア工科大学などにあった戦車道クラブに払い下げられている.
(学校名は全て仮名)

 ただ,本物の国軍でさえ戦車戦力が貧弱な国情下では,必然的に戦車道クラブの戦車戦力もそれ以下であり,世界恐慌による経済的打撃とも相まって,各クラブとも数の上の主力は依然として足漕ぎの一人乗りベニヤ板戦車.
 その中に菱形戦車かタンケッテが1~2両混ざっていれば御の字だった.
 これでは世界各国の強豪クラブとの互角な戦いは到底望めない.

 そこで各クラブとも戦車対戦車で正面からぶつかることを避け,奇襲や夜襲での戦いを主たる戦術とするようになった.
 戦車は主として装備・人員の運搬車としての役割を果たし,搭乗員は戦闘工兵さながらに地雷や路肩爆弾を設置.
 あるいは樹木や建物の上から火炎瓶を投擲しては,すぐに姿をくらますというヒット・エンド・ランに徹した.
 夜襲をかけて敵戦車を奪う,敵戦車の燃料タンクに砂糖をぶち込む,ガソリン缶をこっそり軽油缶ととりかえる,戦車砲の砲口から砲弾をさかまさに突っ込んでおく等は常套手段.
 地下鉄入り口を落とし穴代わりとして使う戦術や,石畳に絹布を敷き,その上に石鹸水を散布して敵戦車を滑らせ,操縦不能になった敵戦車同士を衝突させる等の戦術も開発された.

 ハンガリー戦車道が独特であると言われるのは,このように戦車道クラブでありながら対戦車道を駆使した戦いを行うためである.

 第二次大戦後,ラーコシ首班の共産主義政権となると,教育制度もソ連のものが輸入された.
 スターリンのやることは全て忠実に真似るのが,ラーコシらスターリン主義者のやりかただった.
 ソ連のピオニール,コムソモールと同様の少年団が組織され,子供たちはそこで軍事教練を受け,「西欧を憎み,米国との闘いに命を捧げる」と誓った子供達には,特別課目(手製ガソリン爆弾による米国戦車破壊法)が教え込まれた.

 かくて,ますます対戦車道に磨きがかかる一方,戦車道クラブは戦前と大差ない状況が続いた.
 ソ連はハンガリーを信用していなかったため,ハンガリー国軍すらまだ装備はT-34が主力だった.
 また,戦前戦中の全てを否定する共産主義政権にとっては,戦時中のハンガリー戦車,トルディ,トゥラーンなどを戦車道クラブが保有するなどもっての外だった.
 ラーコシの失政による経済的打撃とも相まって,各クラブとも数の上の主力は依然として足漕ぎの一人乗りベニヤ板戦車.
 その中にBT戦車かT-70戦車が1~2両混ざっていれば御の字だった.
 これでは世界各国の強豪クラブとの互角な戦いは到底望めない.
 そこで各クラブとも戦車対戦車で正面からぶつかることを避け,(以下同文)

 そのハンガリー流戦車道の実力がいかんなく発揮されたのが,ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)である.
 学生たちはブダペシュトの市街戦において,数多くのソ連軍T-34戦車を撃破した.
(さすがにT-54の大群には歯が立たなかったが)
 ソ連流の少年団での軍事教練が,ソ連戦車撃破に役立ったとは皮肉な話である.

 その後,社会の締め付けは幾分緩和され,各戦車道クラブはトルディ,トゥラーンなどを保有できるようになった.
 冷戦後は,実際の第二次大戦中の王国軍の保有割合以上に,各クラブにおけるそれら戦車の占める割合が多くなっている.
(大戦中,数の上ではCV-35がハンガリー軍の主力だった)
 今日では,ストラウスラーV-4水陸両用戦車(ブダペシュト・ホンヴェードHK Budapest Honvéd Harckocsi Klub 所属)やタシュ重戦車(パクシMSE Paksi Motorsportegyesület 等が保有)など,大戦中には実戦配備されることのなかった車輌を装備しているクラブも見られる.

 しかし,火力ではやはり各国の強豪クラブにかなわない.
 そこで各クラブとも戦車対戦車で正面からぶつかることを避け,(以下同文)

 中でも,敵校の戦車の中にT-34などあると,
「戦車狩りじゃああああ!」
などと士気が大いに高揚する様子が,youtube動画などからも見て取れる.
 サイドカーに対戦車ライフルを搭載した対戦車バイクを主力とする,些か本末転倒気味のクラブ・チーム「アッチラ Miskolci Attila Kör 」さえ存在する.

 ちなみに,日本語に「サシで勝負」という言葉があるが,これは「T-34(サシ)1台に対して人間1人が,1対1で勝負をつける」ハンガリー流戦車道が,日本に伝わると共に広まった言葉である.

 【参考ページ Referencia Oldal】
吉川和馬・斎木楠生・長万部(おしゃまんべ)いなさく他編『世界の対戦車拳』(民明書房,1998)

2018.4.1
※これはエイプリル・フール用のネタです

▼ 【追記】
 上記は,ガルパンにハンガリーがモチーフの学校が登場しない理由として,
「ハンガリー動乱(1956年革命)でのT-34の狩られっぷりから考えるに,ハンガリーでは戦車道より対戦車道が盛んである可能性が高い.
⇒両者は野球とクリケットのごとくルールが異なっているため,出場すらできないというのが理由に違いない」
という考察をもとにエイプリールフールのネタにしたものである.

 これまではこの「対戦車道」説が有力視されていたが,最近,新説が当方の頭の中に登場した.
 それは,
「ガルパンの世界線では,そもそもハンガリーは独立国ではないのではないか?」
という説である.

 実はハンガリー同様,国産戦車を有していながらスルーされている国がもう一ヶ国ある.
 チェコスロヴァキアである.
 Pz 38(t)は登場するにもかかわらず,チェコスロヴァキア・モチーフの学校はガルパンには皆無である.

 この2か国が共に登場しないからには,ガルパン世界の歴史では両国に共通する変事が生じているに違いない.
 その「両国に共通する変事」とは何か?

 両国は共通してオーストリア=ハンガリーの版図の一部であったことを思い起こされたい.
 つまりガルパン世界では第一次大戦後もオーストリア=ハンガリーが解体されず,政体のみ共和制に変えて存続した可能性が高い.

 実は史実でも,そういう構想はあった.
 「ドナウ連邦」構想と呼ばれるもので,諸民族の人々も,より高度な自治を望みこそすれ,独立までは望んでいない者も多かった.
 特にスロヴァキアは独立機運は低かったにも拘わらず,チェコの急進独立派に引きずられて独立したようなものだった.

 協商国も当初はハプスブルク帝国の解体までは望んでおらず,アメリカのウィルソン大統領が「民族自決」を言い出さなければ,解体されないままだった可能性が高い.

 さて,ドナウ連邦がガルパン世界にあったとすれば,その国防を担う戦車はどのようなものになっていただろうか?
 チェコという工業地帯を抱えるドナウ連邦なら,戦車を他国から輸入したりライセンス生産権を購入したりする必要もないので,シュコダ社のLT-35が主力となるだろう.
 よってCV35を輸入する必要もないし,トルディ戦車のライセンスを購入する必要もない.

 そしてアンシュルツによって,第二次大戦前の1938年にはドイツ第三帝国にオーストリアはドナウ連邦ごと吸収合併されてしまうので,その後のシュコダやハンガリーのヴァイス・マンフレート社,マーヴァグ社などの生産力は,独自開発の戦車ではなく,2号,3号,4号やパンターなどの生産に当てられることになるだろう

 つまり,史実では1938年以降に開発・生産が行われているトゥラーン,タシュ,ニムロード,ズリーニ等は,ガルパン世界では存在すらしていないのである.
 シュコダのLT-38も試作段階で終わりだろう.

 ハンガリーのみならずチェコスロヴァキアのスルーの理由をも説明できる,この「ドナウ連邦」説は,目下最有力と言っても過言ではないと思うのだが,皆様は如何お思いだろうか?▲

mixi, 2019.9.26


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