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<第二次大戦FAQ


 【link】

Hungarian Armor Identification Guide|German Daggers

Tanks!>Hungary(アーカイブ)


 【質問】
 WW2ハンガリーの装甲車輌について教えてください.


 【回答】
 マジャルの場合は,最初はオーストリアの影響,次いでイタリアの影響が強く,小銃などの主要装備はオーストリアから導入しています.
(周辺諸国と折り合いが悪くてチェコなどの装備が買えなかった).
 周辺諸国と折り合いが悪いので,その装備は出来るだけ国産化する方針が立てられ,マンフレート・ヴァイスと言う日本の三菱重工みたいな一種の国策会社で生産が行われてます.

 戦車については,まず,1935年にイタリアのL3軽戦車を導入して35Mとして国産化,これは150両が導入されました.
 主力戦車となったのは,スウェーデンが開発したランズベルク社のL-60軽戦車を,38Mとして輸入品のA20が80両,国産品のB20が110両引き渡されました.
 これは,独ソ戦の結果80両に対して火力増強が行われています.
 また,対空戦車型が開発されました.

 その後,新型主力戦車としてチェコのシュコダが開発したT-21中戦車を元に,40M/41Mが開発され,40mmボフォース対戦車砲を備えた型が280両,75mm榴弾砲搭載の火力支援型が140両.
 このほか,長砲身75mm砲を備えた型がありましたが試作に終わりました.
 41Mについては,この車台を元に突撃砲型が開発され,70両程度が生産されました.

 装甲車としては,英国のアルヴィス装甲車の発展型を導入し(設計者がマジャル人だったので),100両程度を生産しています.

 このほか,損耗補充用にドイツから38(t)戦車,4号戦車などが導入されています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2005/11/13(日)
青文字:加筆改修部分



 【質問】
 東部戦線で戦ったのだから,せめてT34 に対抗できる程度の火力を持つ車両か対戦車砲はないのかなぁ?と思ったものですが,上記を見ると,トゥランが少々マシな程度で,ずいぶん寒いものなんですね……

 【回答】
 基本的に,東欧各国はソ連相手に戦争をする予定はなかった訳です.
 マジャールなんか,大戦に参加するか否かで,首相がピストル自殺しています.とりあえず,ドイツの尻馬に乗っかってソ連に侵攻した時点では,未だボロが出なかった訳ですが,ソ連が反攻作戦に出たときに,ブルガリアを除く東欧各国とも大損害を出して撤退しています.

 それで補充されたのが,ドイツ軍が使った中古とか故買品でして.
 国産戦車が製造できたマジャールは随分恵まれている方なのです.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 : 軍事板,2005/11/20(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 独ソ戦初期におけるハンガリー軍の装甲戦力は?

 【回答】
 当初,東部戦線へのハンガリー軍の派兵は限定的なもので,
・第1快速軍団
・第1山岳旅団
・第8国境警備旅団
を主力とする「カルパチア軍集団」のみがガリツィア地方に侵攻.
 このうち第1快速軍団のみがウクライナ方面へ進撃した.

 これら部隊の中で,
第1山岳旅団付属の偵察装甲車小隊が,チャバ装甲車×5輌
 第1快速軍団麾下の
第1騎兵旅団にトルディ軽戦車×5,CV35豆戦車×22
第1自動車化旅団にトルディ軽戦車×18,CV35豆戦車×6,チャバ装甲車×14
第2自動車化旅団も同数
 その他各種部隊併せ,戦車141,装甲車41を有していたという.

 10月までに第1快速軍団はドネツ地方まで進出するが,その代償として,器材の8割を失うこととなった.

 【参考ページ】
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.96
http://www.niehorster.org/015_hungary/41-06-27/_carpathian.html
http://www.avalanchepress.com/AmbivalentHungary.php
http://www.operationbarbarossa.net/hungarian-forces-operation-barbarossa-june-july-1941/
http://www.operationbarbarossa.net/the-book/volume-iv-the-finnish-rumanian-hungarian-slovakian-and-italian-forces-on-the-east-front-in-1941/
http://operationbarbarossa.net/wp-content/uploads/2014/06/TOE-Hun-1st-Mtn-Brigade-June-41.pdf

カルパチア軍集団の編制(1941.6.27)
(こちらより引用)

ウクライナにおけるハンガリー軍のCV35(1941年)
正面に描かれた虎に注目
第1自動車化旅団第10自転車偵察大隊または第2自動車化旅団第12自転車偵察大隊に属する車輌である
同大隊にはCV35を6両有する1個戦車小隊が配属されていた
こちらより引用)

mixi, 2017.2.2


 【質問】
 ブラウ作戦頃のハンガリー軍の装甲戦力は?

 【回答】
 1942年春,その前の冬季戦で戦力を大きく消耗したドイツ軍は,やむなくイタリア,ハンガリー,ルーマニアなどの同盟国の兵力で穴埋めをすることにした.
 ハンガリーはヒトラーから圧力をかけられ,第2軍,約20万人を派遣した.
 後方担当とすることと兵器供与がヒトラーから約束されたが,どちらも空手形で,コーカサス方面の攻勢に参加させられ,戦力の15%をハンガリー第2軍は失うこととなった.

 1942.7.1時点で,第2軍には装甲戦力は第1装甲野戦師団一つあるのみで,残りは軽歩兵師団が殆ど.
 第1装甲野戦師団は,
第30装甲連隊にトルディが3輌,IV号F2型が11輌,チェコ製軽戦車Pz38(t)が30輌
第1自動車化支援連隊にPz38(t)が6輌,IV号F2型が2輌
第51対空砲大隊にニムロード自走対空砲×6輌,トルディ×6輌
そして第1装甲騎兵大隊にトルディ×18輌,チャバ×14輌.スコープドック無し
等といった状況.

 これが作戦中止(1942年10月)後の12月になると,
第30装甲連隊にトルディ×9輌,IV号F1型×8輌,IV号F2型×8輌,Pz38(t)×41輌
第190突撃砲大隊にIII号突撃砲×32
第559装甲猟兵大隊に対戦車自走砲マーダーIII×12
第700装甲戦隊にPz38(t)×50,ただしこのうち33輌は修理中
となっていた.

 こうして観ると分かるように,殆どが軽戦車の類であり,ソ連軍の強力な戦車の大群に対峙するには,依然としてかなり心許無い戦力だった.
 そして事実そうなった.

 【参考ページ】
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.97
http://www.niehorster.org/015_hungary/42-07-01/army_02.html

ハンガリー軍のPz38(t)の車列
後方に「ニムロード」,さらに後方には「ラーバ」トラックその他の車輌が見える
密集している上に綺麗に並び過ぎているので,ちょっと宣伝写真臭いが
こちらより引用)

Pz38(t)を牽引するスチュアートM3軽戦車
M3はロシアでハンガリー軍に鹵獲されたもの
こちらより引用)

mixi, 2017.2.3


 【質問】
 ハンガリー軍の突撃砲大隊について,簡単に教えてください.
Kérem, mondja könnyen meg az magyar rohamlöveg zászlóaljokot.

 【回答】
 ドン河戦線におけるハンガリー第2軍壊滅の主原因が,対戦車火力の貧弱さにあることは明らかだった.
 そこでハンガリー軍では,手っ取り早く対戦車火力を増強するための方策として,突撃砲を生産することとし,それに合わせて独立突撃砲大隊の編成を始めた.
 1943.10.1のことである.
 国産のズリーニは,工場が爆撃されるなどして生産が進まなかったが,ドイツからIII号突撃砲やヘッツァーの供与を受け,7個大隊をもってビルニッツァー・エルネー Billnitzer Ernö 少将指揮する「ビルニッツァー戦闘団」を編成.
 1944年11月から,ブダペシュト東方における防衛戦に投入された.
 8.25にはルーマニアが連合国側に寝返って参戦し,ソ連軍はルーマニア軍と共にハンガリーへ侵入していたからである.

▼(ただし
https://live.warthunder.com/post/558388/en/
によれは,ヘッツァー配備は1944年12月.
 第16,20,25突撃砲大隊に配備されたが,定数を満たしていたのは第20大隊だけで,他は9両しか配備されなかった.
 なお,第25大隊はハンガリー国外で訓練を受けた後に,最前線に投入されたという)▲

 ちなみにビルニッツァーという苗字は綴りから考えてドイツ系の名前っぽいので,ドイツっぽいカタカナを当てておく.
 フィウメ出身だそうだが…

 1945年1月現在,ビルニッツァー戦闘団は
兵員2,000
対戦車砲×8
突撃砲各型合計×30
トルディII×4
トゥランM43×2
パンター×1
ニムロード×2~3
を有していたという.
 その後,ブダペシュト包囲戦において,6個大隊までが全滅.
 部隊残余はドイツ軍と共に後退し,「春の目覚め」作戦にも参加したという.

 ビルニッツァーは戦後,対独協力者として1950年代に刑務所送りとなり,10年間も服役した.
 ラーコシのやりそうなことである.

 【参考ページ】
高橋慶史『ラスト・オブ・カンプフグルッペ』III(大日本絵画,2012), p.104-122
http://memoir44.hu/cikkek/waldemar_lenz_ormester_tortenete_billnitzer_erno_tabornokrol
https://live.warthunder.com/post/558388/en/

ズリーニ突撃砲の残骸
1945年晩秋撮影

およびその出典
当方未入手
ネットオークションとか超怖い

白十字が確認できるヘッツァーとしては唯一の写真
faq190219hz

(こちらより引用)

mixi, 2017.2.3


 【質問 kérdés】
 ボジョキ・ヤーノシュ Bozsoki János とは?

 【回答 válasz】
 1918.4.4生まれ.
 第2軍に所属して対ソ戦線で戦い,1943年,コロタイクにて負傷.
 その後,突撃砲大隊に転属し,少尉昇進.
 1944年9月,トランシルヴァニアのトルダにて,ズリーニィ6両を率い,T-34を18両撃破して,トルダを解囲.
 同年10.12,上記の戦功により金敢闘勲章を授与.中尉昇進.
 1956年,ハンガリー革命後にスイスに亡命.
 エリコン社で対戦車ミサイルの開発に関わる.
 1999年死去.

 詳しくは
https://togetter.com/li/1324264
参照.

1枚目:肖像写真
(図表番号 faq190301bz, こちらより引用)

2枚目:トゥルダの戦いにおける,夕暮れ時のハンガリー戦闘車輌の発射災
(図表番号 faq190611bf, こちらより引用)

mixi, 2019.3.26


▼ 【質問】
 ハンガリー軍戦車兵の軍装は?
 第二次大戦ハンガリー軍戦車兵の軍装は?
Milyen ruhák a magyar honvédség harckocsi katonák viselettek a második világháborúban?

 【回答】
 コットン地のカーキ色オーバーオールの上に,革製のウェストコートを着用.
 サイドキャップには,ナショナル・カラーが用いられた帽章を佩用.
 画像1のカラーの人物を参照.
 というか,この箱絵,カラーの人物は下掲参考文献のイラストそのまんまなんだが,著作権は大丈夫か?

 画像1は模型箱絵だが,クリス・マクナブ『世界の軍装図鑑』(創元社,2014)のイラストそのまんま.
 著作権は大丈夫か?
 さて,この例ではコットン地のカーキ色オーバーオールの上に,革製のウェストコートを着用.
 サイドキャップには,ナショナル・カラーが用いられた帽章を佩用.

 画像2はツーピースのレザー・ジャケット.
 画像右では,ジャケットはズボンの中に入れられている.
 通常,乗員が着用したスタイルがこちら.
 この制服はバイク乗員にも支給されたが,概して不評だった.
 重くて戦車からの出入りが難しかったためだ.

 代わりに戦車乗員に好まれたのは,エンジニア用のカバーオールだった.⇒画像3
 ハンガリー軍では2種類のカバーオールが用いられた.
 チェコのカーキ色のもの(左)とグレーのハンガリーのもの(右).▲

▼ これはベイズ・スリーヴ付きの革ベスト
こちらより引用)
 本来は機械化部隊や対空自走砲乗員のためのものだったが,それ以外の兵科や空軍でもすぐに使われるようになった.
 将軍さえこれを着ていた.
 なお,ジャケットの襟がコートの襟に引っ張られる危険があるため,襟章は着かなかった.

 36.M 皮コート 36.M saválló bőrkabát は,正式には装甲科または化学戦部隊だけが着用することができた特殊制服だが,実際には他の兵科の将校もそれを着ていた.
こちらより引用)▲

▼ 戦車帽はイタリア式の緩衝材入り革ヘルメット.ネック・プロテクターつき.
 ハンガリー戦車隊の初期には,イタリア戦車(フィアット3000やカルロ・ヴェローチェCV35)が輸入された影響からか,イタリア軍の「コルデッリノ」軍服そっくりなものを着ている戦車兵も見られる.
 画像2左端や画像3参照.

 戦車帽はイタリア式の緩衝材入り革ヘルメット.ネック・プロテクターつき(画像4左端)
 また,こちらの画像5では,左から1人目~3人目の戦車兵は,無線機を内蔵した39.Mヘルメットを着用し,4人目~右端の兵士は,無線機のない37.Mヘルメットを着用している.
 この戦車帽はイタリアのM35ヘルメットのコピー.
 39.Mヘルメットと37.Mヘルメットの違いは,額廻りのパーツ.
 37.Mではこのパーツが管状,39.Mでは帯状となっている.

 初期のヘルメットでは,この画像6のように2本または3本のレザーチューブが取り付けられた革製のものもあった.
 チューブは頭を保護するもの.
 CV-35乗員だけがこれを着用していた.
 39.M戦車帽が出回った後でも,このヘルメットはまだ使用されていた.▲

 それが東部戦線に従軍するにつれ,ドイツ軍やソ連軍の影響を受けるようになる.
 たとえば画像4中央の兵は,ソ連型戦車帽を被り,ドイツ軍の「パンツァー・ユニフォーム」と同じものを着用している.
▼(ソ連型戦車帽については後述)▲
 襟章のみハンガリー陸軍固有のスタイル.

▼ また,これ(画像7)は42.M(1942年制式)ツーピース・ユニフォームだが,ドイツ軍のものの影響を受けていることが見た目からも分かる.
 色はスモーク・グレー.
 この新しい制服は戦車兵からは好評だったという.

 画像8は,ソ連軍の戦車帽を真似,試験的に作られたもの.
 42.M制服と共に支給される予定だったが,何らかの理由により中止となった.▲

 第二次大戦後にはソ連式になることも含め,その辺はお約束の展開と言えるんじゃないかな?

▼ なお,「ニムロード」対空自走砲の乗員の場合,操縦手のみ戦車兵と同じ制服を着用したが,車長を含めてそれ以外の兵士は標準的な制服を着用した.

画像1
(模型箱絵)

画像2
(模型箱絵)

画像3
(こちらより引用)

 【参考ページ】
クリス・マクナブ『世界の軍装図鑑』(創元社,2014)
http://live.warthunder.com/post/374708/en/(画像2~3 & 5~8の引用元も同じ)
http://live.warthunder.com/post/405623/en/

mixi, 2016.6.27
2017.2.17改訂
2017.3.20追記

 画像3のFiat3000の白黒写真は1930年代のイタリア軍で,イタリア戦車本の表紙に使われていました(^ ^;

よしぞうmaro' in mixi,2016年06月27日
青文字:加筆改修部分

 ご指摘ありがとうございます.
 訂正させていただきました.

編者,2016.6.28

 除革コート姿
https://jp.pinterest.com/pin/435723332676564492/

https://jp.pinterest.com/pin/289778557255295795/
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https://jp.pinterest.com/pin/312718767851296367/

左がドイツ,右がハンガリー
http://www.ww2incolor.com/hungary/2+Hungarian+Colonel+and+Germans_+Galicia_+1944BBB.html

4号戦車(ドイツ軍の国籍マークのまま)とハンガリー兵
http://www.ww2incolor.com/hungary/1+Panzer+IV_+to+Hungary_+May_+1944.html

http://wio.ru/tank/for3/cv35hung.jpg

http://wio.ru/tank/for3/cv35hung.jpg

http://i.imgur.com/LFToBgO.png

 ハンガリーのFIAT3000の写真は,どうもこんなものしかないみたいです.
http://i268.photobucket.com/albums/jj24/romsits/Fiat%203000/95qqQqG_zpsnxcdmmxc.png

 これ,ハンガリー軍の車体なのか悩んでます.
 搭乗員はイタリア兵のようなのですが,車体の番号がHで始まるハンガリーのもののようにも思えます.
http://s268.photobucket.com/user/romsits/media/Fiat%203000/FIAT_zps6tkw9vzm.jpg.html

ギシュクラ in mixi,2016年06月27日~06月29日


 【質問】
 ハンガリー軍が保有していた外国製装甲車輌について,3行以上で教えてください.

 【回答】

・LT vz.35
 ルノーFT-17っぽい外見のシュコダ社製軽戦車.37mm砲搭載.
 1939年,第一次ウィーン裁定により,スロバキア南部とカルパティア・ルテニア南部がハンガリーに割譲された際の紛争により2両を鹵獲.
 ただし1両は対戦車砲により大破した状態だったが,ドイツの統制下にあったシュコダに命じ,2両とも修理・再整備させた.

▼ 両車ともハンガリー軍の登録番号を与えられ(1H-406と1H-407),1943年まで訓練用に使われた.
 その後の消息は不明.
 その後の消息は不明だが,うち1両が破壊されて遺棄されているのが,ブダペシュト包囲戦後にソ連軍によって撮られている.

ハンガリー憲兵に警備されているLT vz. 35(1939.3.14)
(図表番号 faq190212lt,こちらより引用)

ブダペシュト包囲戦に参加したと思われるLT vz.35
ソ連軍のブダペシュト戦における報告書の,22ページ目に貼付された写真
(図表番号 faq190601lt,こちらより引用)

2輌の内,単色塗装の方(シュコダの登録番号は13673と判明している)は砲塔の武装が全て無い.
 ブダペシュトで撃破されたLTvz.35は特徴から判断して13673号車じゃないのかと推測している.
でも非武装の軽戦車を何に使ったのか…?
まさかT-34/85やIS-2にぶつける訳はないから,牽引用途としか考えられない.
https://mobile.twitter.com/Nasikandar_/status/1134854617823453186?p=v

・LT vz.38
 チェコのČKD社製の軽戦車だが,ドイツ軍によって使われたことによりPzKpfw 38(t)という名称のほうが通りがよい.
 バルバロッサ作戦で戦車部隊にも大損害を受けたハンガリー軍へ,ドイツから108両が譲渡された.
 だがこれらもスターリングラードの戦いで大損害を受け,生き残った22両は訓練部隊行き.

・Pz Jag 38(t) 「ヘッツァー」
 1944年10月~45年1月にかけ,▼100両がハンガリー軍に提供.75~150両がハンガリー軍に提供された.
 また,ハンガリー国内でも75両が生産された…と書いてあるように読めるが,編者の誤訳かもしれん.

・マルデルIII Marder III
 38(t)戦車ベースのドイツの対戦車自走砲.
 詳細は不明だが,ハンガリー軍に属するマルダーIIIM型の写真が1枚だけ残されている.
 この写真からは1943年,ロシアで使用されていることが推測でき,そうであるならば占領地の治安部隊の所属と考えられる.

ハンガリー軍所属のマルダーIII M型
(画像番号 faq190504mr,こちらより引用)▲

・LK II
 ホイペットっぽい外見の,ドイツの軽戦車.37mm砲搭載.
 戦後の再軍備制限時期に,民兵によって密輸入された,らしい.
 ただ,ドイツでも試作車輌2両しか完成していないことから,もしかしたら同型のスウェーデン製Strv m/21だったのかもしれない.
 保管状態が悪く,1930年代に廃車.

 別項参照

・PzKpfw I(1号戦車)
▼ 1934年に技術研究のため,1台を輸入.
 また,1941~42年にかけ,ハンガリー陸軍第1戦車師団に22両がドイツから提供された.
 第1戦車師団が東部戦線に送られたからだが,これでソ連軍と戦えとか,あんたは鬼か.

 1937年,ライセンス生産に向けた試験のため,1台を輸入.
 しかし試験結果は不合格で,その後,ハンガリー陸軍参謀本部はスウェーデンが・ランズベルク社のL-60軽戦車のライセンス生産権を輸入した.
 また,1941~42年にかけ,ハンガリー陸軍第1戦車師団に22両がドイツから提供され,訓練に使用された.

図表番号faq190226pz1~pz1-2:
ハンガリー軍の1号戦車

現存する写真はこの2枚だけだという
こちらおよびこちらより引用)▲

・Marder II
 2号戦車ベースのドイツの対戦車自走砲.
 ハンガリーには1942年の終わりに,ドイツから5両が貸与され,ドイツ軍のマーキングをつけたまま,ハンガリー第2軍第1装甲師団に配備.
 乗員もハンガリー兵だった.
 1943年の退却戦の後,2両のみがハンガリーに帰還.
 1両はドイツ軍に返還されたが,もう1両はトルディ対戦車自走砲の手本とされ,その砲もトルディ対戦車砲試作車に搭載.
 しかしその試作車は性能不十分と判定され,試作車の砲はマルダーIIに戻され,そのマルダーIIもドイツ軍に返還された.

1942~43年の冬季,ハンガリー第2軍に所属するマルダーII
(図表番号faq190502mr,こちらより引用)

・PzKpfw III(3号戦車)
 ソ連軍のT-34戦車に「トゥラーン」戦車では歯が立たなかったため,それより強力な戦車の提供をハンガリーはドイツに申請.
 しかし譲渡された年は既に1943年と,3号戦車でももはや厳しい戦局で…
▼ まず1942年秋,ハンガリー第2軍第1装甲師団に3号戦車N型10両と3号突撃砲D型10両が貸与された.
 この戦車の乗員はドイツ兵だったが,機械保守はハンガリー軍が担当した.
 次に1943年8月,ハンガリーはドイツから3号戦車17両を受領.
 これらの戦車は全てハンガリー軍の登録番号を付与され,その殆どが第1装甲師団に編入された.
 また,第1フサール師団も1943年以降,3号戦車3両を保有していたとする記録もあるが,他方で1944年以降は同師団にはのToldiとTurán戦車だけが装備されていたと記録されているので,1944年は全ての3号は第1装甲師団配備となったのかもしれない.
 1944年9月の記録では,3号戦車11両がハンガリー軍第1装甲師団に配備されたが,その後の戦闘で撃破されたという.

 なお,1943年8月に3号戦車1両,登録番号1H-874がハンガリー軍事技術研究所に送られて試験が行われている.
 しかし技術官達は,この車輌の国産化には賛成しなかったという.

1枚目:試験が行われた1H-874号車
(図表番号 faq190222pz:引用元はこちら)▲

2枚目:ハンガリー第2軍所属の3号戦車N型
(図表番号 faq190430pz,こちらより引用)

・StuG III(3号突撃砲)
▼ まず1942年秋,ハンガリー第2軍第1装甲師団に3号戦車N型10両と3号突撃砲D型10両が貸与.▲
 次いでハンガリーに供与されたのは最終生産型のG型.
 「低価格なのに戦力になる!」とハンガリー軍には好評で,「ズリーニ」や駆逐戦車型「タシュ」開発の一つのきっかけに.

・PzKpfw IV(4号戦車)
 3号戦車と同じ経緯で,各型合計84両をドイツから貰い受ける.
 全部中古品だったけど,贅沢は言えない.
 1942年7月からハンガリー軍に配備され始めるが,1943年初頭からのソ連軍の大攻勢,および修理部品不足や整備不良により,数両を残して東部戦線の露と消えた.

写真2枚目(図表番号faq190119pz)
第1自動車化歩兵旅団の支援を受け,ドン川のUryv-Pokrovkaから西西南西に向かって進軍中の,
ハンガリー第2軍第30戦車連隊の4号戦車F型とPz.Kpfw.38(t) 型.1942年夏

(こちらより引用)

・PzKpfw VI(6号戦車)「タイガーI」
 ハンガリー軍は少数を受領.
 詳しくは別項にて.

・Carro Veloce CV35
 イタリア製のタンケッテ.
 1935年8月~1936年3月に151両を輸入.
 非武装状態でハンガリーに輸入され,ハンガリー国産の34/37M 8mm機銃を装備された.
 バルバロッサ作戦開始当時,数の上では主力クラス.
 しかし,本家イタリア軍ですら独ソ戦にこれを持ち込んで大損害を受けているのに,ハンガリーのこれがそうならないはずがないわけで…
 詳しくは別項参照.

・FIAT 3000B
 ルノーFT-17をマイナーチェンジした,イタリア製の軽戦車.
 研究のために5両輸入.
 非武装状態で買ってきて,シュワルツロゼ Schwarzlose 機銃をハンガリー国内でとりつけた.
 比較検討の結果,CV35を制式採用することに決め,こちらは没に.
 詳しくは別項参照

・Char léger modèle 1935 H
 おふらんす,オチキス社の軽戦車ざんす.
 1942年,ウクライナにおける戦役の最中,砲塔の無いH35/H39タイプをドイツ軍から11両(15両という説もあり)を譲り受けて,戦闘に使用したざんす.

・SOMUA S35
 おふらんす,ソミュア社の騎兵戦車ざんす.
 ハンガリー軍は1942年,ウクライナにおける戦役の最中,2両をドイツ軍から譲り受け,▼H-034とH-035という登録番号を付与.
 第101独立戦車大隊の指揮車として▲戦闘に使用したざんす.
 最後はガソリンも修理部品もなくなって,1944年8月頃に爆破処分されたざんす.

ハンガリー第101独立戦車大隊所属のS35
おそらく1944年,ポーランドのヴィシニチ Wiśniczにて
これはハンガリー軍のS35としては,現在知られている限り唯一の写真
(図表番号faq190311sm,こちらより引用)▲

・35R(f)4.7cm対戦車自走砲(t) 4.7cm Pak(t) auf PzKpfw 35R(f)
 ルノーR35戦車を改造したドイツ軍車輌.
 1942年夏,ハンガリー軍第2軍の内,東部戦線の占領地域保安部隊にドイツから譲渡されたが,その数は不明.

ハンガリー第2軍所属の35R(f)4.7cm対戦車自走砲(t)
(図表番号 faq190510pz,こちらより引用)▲

・ヴァレンタイン戦車 Valentine harckocsi
 英国のいわゆる「歩兵戦車」.
 ハンガリー軍は,ソ連軍にレンドリースされていた車輌を1941年または42年に1両鹵獲.
 技術的検査を受けたが,その後は消息不明.

ひっくり返っている鹵獲車輌の引き起こし作業
(図表番号 faq190428vl2~5,こちらより引用)

1枚目:ヴァレンタインを検査するハンガリー軍将校
(図表番号 faq190428vl,こちらより引用)

2枚目:ヴァレンタインを検査するフサール
(図表番号 faq190428vl8,こちらより引用)

3~4枚目:記念写真?
(図表番号 faq190428vl6&7,こちらより引用)▲

・M3中戦車 M3 közepes harckocsi
 アメリカの中戦車.
 ハンガリー軍は1943年,これを東部戦線で鹵獲したが,詳細不明.

鹵獲されたM3
(図表番号 faq190506m3,こちらより引用)▲

・M3A1「スチュアート」
 アメリカ製の軽戦車.
 ソ連へレンドリースされたもののうち,ごく少数をハンガリー軍は鹵獲して使用した.
 詳しくは別項参照

 【参考ページ】
https://live.warthunder.com/post/553799/en/
Tanks!>Hungary(アーカイブ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/LT-35
https://live.warthunder.com/post/558702/en/
https://ja.wikipedia.org/wiki/LT-38
https://hu.wikipedia.org/wiki/LT_vz._38
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1920_f_j_h_l.html
https://hu.wikipedia.org/wiki/LK%E2%80%93II
https://live.warthunder.com/post/557632/en/
https://live.warthunder.com/post/557022/en/
https://hu.wikipedia.org/wiki/Panzerkampfwagen_IV
https://hu.wikipedia.org/wiki/Panzerkampfwagen_I
https://live.warthunder.com/post/557017/en/
https://live.warthunder.com/post/557012/en/
https://hu.wikipedia.org/wiki/Jagdpanzer_38(t)_Hetzer
https://live.warthunder.com/post/558388/en/
https://hu.wikipedia.org/wiki/L3_(kisharckocsi)
https://it.wikipedia.org/wiki/CV33
https://hu.wikipedia.org/wiki/Fiat_3000
https://hu.wikipedia.org/wiki/Hotchkiss_H35
https://hu.wikipedia.org/wiki/Somua_S35
https://live.warthunder.com/post/556797/en/
https://ja.wikipedia.org/wiki/OA_vz.30
https://live.warthunder.com/post/558679/en/
https://live.warthunder.com/post/553799/en/
https://live.warthunder.com/post/556076/en/
https://live.warthunder.com/post/599019/en/
https://live.warthunder.com/post/705140/en/

専門書籍表紙

mixi, 2016.4.29

 ハンガリーが輸入したものとしてはフィアット3000という,ルノーのコピーみたいな戦車があります.

 捕獲戦車というとフランス戦車をドイツから供給されてます.

 T-34は,砲塔にハンガリーの国旗カラーのバンドを描いた個体の写真を見たことがありますが,恒常的に運用した訳ではないでしょうね.

ギシュクラ in mixi, 2016.4.29

 御指摘ありがとうございます.
 追加いたしました.

2016.4.29

▼  Csaba Becze著の『Magyar Steei』より,外国製の装甲車輌のハンガリーでの使用状況について.
(ただし,この本は古いので,近年の研究成果は反映されていません)

●1935年から1945年の間に購入・供給された車輌

Ansaldo CV-35(Carro Veloce CV35)
 1935~36年に152両導入.
 うち1台はCV-33.
 また1台は火炎放射器装備バージョン.

1号戦車A型
 1937年に1両,1942年に1両

1号戦車B型
 1942年に8両

Marder2自走砲
 1942年に5両

T-38G
 チェコ製の38(t)戦車のG型
 1942年に108両

3号戦車N型
 1942年に10両

3号戦車M型
 1944年に10両から12両

4号戦車F1型(短砲身のF型)
 1942年に22両

4号戦車F2型・G型(最近はF2型とは呼ばないらしいです)
 1942年に10両

写真1枚目(図表番号faq190403pz)
側面にハンガリー軍記章をつけた4号戦車G型
1945年5~6月,オーストリアにて英軍が撮影
第2装甲師団所属の車輌と思われる
ハンガリーに供与された戦車の殆どは,ドイツ軍のマークを付けたままだったので,ハンガリー軍記章を付けている写真は希少
(こちらより引用)

 また,
https://live.warthunder.com/post/558371/en/
によれば1942年8月,ハンガリー軍は損害補充のため,ドイツから10両のF2型を受領.
1H-834, 1H-835 1H-836, 1H-854, 1H-859, 1H-860, 1H-861, 1H-862, 1H-863,1H-864
という登録番号が付与された.
 しかし1943年の冬季戦において,ソ連軍により全車撃破されたという.

図表番号faq190221f2
ハンガリー第2軍第1装甲師団に所属したF2型
(こちらより引用)

4号戦車H型
 1944年に最大で52両(~52と表記なので,多くて52両かと思います)
 1945年に最大で20両(同)

4号戦車J型
 https://live.warthunder.com/post/516541/en/
 によれば,1945年1月~3月,ヴェールテシュ Vértes 丘陵で撮られたと思しき写真が一枚存在.
(図表番号faq190330pz)
 おそらくハンガリー第2装甲師団所属で,砲塔後部にハンガリーの国章が描かれている.
 ハンガリーに供与された戦車の殆どは,元々のドイツ軍マークがついたまま使われたので,ハンガリーの国章が描かれているものは珍しいという.

5号戦車G型(パンター)
 1944年に7両(5両+2両との表記)
 1945年にも供給されたらしいですが,台数は不明.

ハンガリー軍のパンター
(図表番号faq190405pz)
1944年9月1日にトランシルヴァニアにて,ハンガリー第2装甲師団に供与された最初の5両のうちの1両
(こちらより引用)

6号戦車E型(ティーガー1)
 1944年に10両

3号突撃砲G型
 1944年に50両

T-34を撃破した,第7突撃砲大隊所属の3号突撃砲
1944年10月,ハンガリー平原
faq190121st
(こちらより引用)

ヘッツァー
 1944年・1945年に最大で75両(~75と表記)

Hotcikiss H-35・H-39
 1942年に15両

Somua S-35
 1942年に2両

L-160
 1938年に1両

L-62
 1939年に1両

●ポーランドがドイツとソ連に敗北した際にハンガリー領に逃れてきた車輌(1939年9月)

TK-3/TKS
 1939年に15~20両
(https://live.warthunder.com/post/558659/en/
によれば,逃れてきたのはTK-3×9両,TKS×7両)


 これらは主に訓練用に使用されたとのこと.
(TKSを空軍が飛行場の牽引用途に使っている写真が,同書に出ています)

Renault R35
 1939年の3両

▼ また,
https://live.warthunder.com/post/556782/en/
によれば,ポーランドから避難してきたR35戦車3両がハンガリーに譲渡.
 その車輌のポーランド軍での登録番号は
50-947
50-971
51-004.
 ハンガリー軍に編入されると,これらは新しい登録番号に変えられた.
1H-390
1H-393
1H-394.
 暫く訓練用に使われた後,ウクライナにおける枢軸軍占領地域の警備部隊に配備.
 その後の消息は不明だという.

図表番号faq190228rn
ハンガリー軍のルノーR35戦車
ウクライナで1941~42年の間に使用されたハンガリー軍マークがついている
(上述ページより引用)

●チェコスロバキアとの国境紛争で捕獲した車輌

T-11/LT vz.35
 1939年に2両(35(t)戦車)

 これらは訓練用車輌として使用

●ソビエト軍からの捕獲車輌

・KhTZ-16
 農業トラクターを改造した,ソ連の即席装甲車輌.
 1941~42年の間に,ハンガリー軍は45mm対戦車砲搭載型のKhTZ-16を1両鹵獲したが,その後の消息は不明.

鹵獲されたKhTZ-16
(図表番号 faq190518kh,こちらより引用)

T-26およびBT-7
 1941年から1942年に6両以上
(なんでT-26とBT-7が一緒の扱いなのかは不明)

 なお,
https://live.warthunder.com/post/561384/en/
https://live.warthunder.com/post/561379/en/
によれば,ハンガリー軍は1941年から42年にかけてT-26,BT-5およびBT-7を鹵獲しているが総数不明.
 全て訓練用となったという.
 T-26の一両は映画にも登場している.

図1:砲塔上部ハッチ,および運転席ハッチの向かって左側に,三色のハンガリー国旗が描かれているBT-7
図2:鹵獲兵器展示会におけるBT-7
faq190205bt
faq190205bt7

(図1:こちらより引用,図2:こちらより引用)

T-27豆戦車 T-27 kisharckocsi
 1941年から1942年に最大10両を鹵獲.
https://live.warthunder.com/post/558403/en/
によれば,ハンガリー軍のマーキングをつけてH-024~H-033の登録番号を付与され,前線で牽引車輌として使用された後,訓練用にとハンガリー本国に送られた.

鹵獲T-27
(図表番号faq190514t27,こちらより引用)

T-28
 ソ連の中戦車.
 ハンガリー軍は1941年に1両鹵獲.
 ハンガリー軍車輌としての登録番号H-037を付与され,訓練に使用された.

鹵獲T-28
正面装甲にはハンガリー軍記章の変種である,赤白緑の縦縞の3色が描かれている
(図表番号faq190531t28,こちらより引用)

T34/76 & T34/85
 1941年から1945年までに10両以上

https://live.warthunder.com/post/516749/en/
によれば,1944年には少数が戦闘に投入されたという.

写真1枚目(図表番号faq190407t34)
ハンガリー軍で運用されているT-34
こちらより引用)

写真2枚目(図表番号faq190209t34)
戦車連隊本部への道路標識代わりにされているT-34
1942年,ドン川
砲塔には帯状にハンガリー国旗の3色が描かれている.
砲身からはメイス(戦棍)と矢印の看板が垂れ下がっている.
このメイスはハンガリー第2軍の第1野戦装甲師団第30戦車連隊の記章.
こちらより引用)

T-38
 ソ連の水陸両用偵察戦車.
 唯一残る写真によれば,1941~42年の間に少なくとも1両のT-38をハンガリー軍は鹵獲.
 師団司令部付兵站部隊の兵科記号が車体に描かれていることから,牽引車として使用されたと推測されるが,詳細は不明.

唯一残る鹵獲T-38の写真
(図表番号 faq190524t38,こちらより引用)

T-40
 ソ連の水陸両用偵察戦車.
 1942年に少なくとも1両をハンガリー軍は鹵獲.
 第2軍において最初は偵察車輌,後に牽引車として使用されたと推測されるが,詳細は不明.

鹵獲T-40の唯一残っている写真
(図表番号faq190520t40,こちらより引用)

T-70
 ソ連の軽戦車.
 この写真(図表番号faq190526t70,こちらより引用)では砲塔を外し,運転席のハッチは柱とガラスとを使って,開いた位置で固定し,原動機に改造されている.
 ハンガリー兵の軍帽のまびさしの色合いから判断すると,1943~44年頃に撮られたもので,おそらくはドイツから譲渡された車輌.
 なお,ミッキーマウスの部隊章は,鹵獲前にこの車輌が属していたソ連軍の部隊の記章.

M3スチュアート
 1942年に4両

 ソビエト軍の車輌については正確な鹵獲数は不明とのこと.

ギシュクラ in mixi,2016年05月06日
青文字:加筆改修部分

 ハンガリーのフィアット3000
http://www.network54.com/Forum/47207/thread/1436427080/last-1436509638/View+Thread

ギシュクラ in mixi,2016年05月06日


 【質問 kérdés】
 ハンガリーに輸入されたLK II軽戦車について教えてください.
Kérem, mondja meg az LKII könnyűharckocsikt, akit importált Magyarországra.

 【回答 válasz】
 LK II(Leichte Kampfwagen II,すなわち軽戦闘車輌IIの略称)は,第一次大戦末期にドイツで開発された軽戦車である.
Az LK II (rövidítés, feloldva Leichte Kampfwagen II, könnyű harcjármű) német fejlesztésű könnyűharckocsi volt az első világháború végén.

(四面図 Négyoldalú kilátása)

(図1 1.illusztrációja)

 戦後,スウェーデン政府はLK IIの設計図に10万クローナを払い,製造されていたこの戦車の一部(10台)がスウェーデンに移送され,ストリッツヴァグン Stridsvagn m/21となった.
A háború után a svéd kormány 100 000 svéd koronát fizetett az LK II terveiért, így a legyártott harckocsik egy része (10 darab) Svédországba került, ahol átalakítva Stridsvagn m/21 néven gyártották.
 どうやらこれと似たようなことをハンガリーもやったらしい.
Nyilvánvalóan valami ehhez hasonló dolgokat tett Magyarország.

 不審な船が1920年上旬,ハンガリーに到着していた.
Valamikor a 20-as évek elején titokzatos szállítmány érkezett Magyarországra.
 車両14両が(協商国側の注意を免れるべく)書類上は農業用トラクターとして到着し,ほぼすぐに姿を消したので,警戒はされなかった.
A 14 jármű, amely (az antant figyelmét kijátszandó) papíron mezőgazdasági vontatóként szerepelt, szinte azon nyomban eltűnt az éber tekintetek elől.
 最も可能性の高いシナリオであるエーデル・ミクローシュの説によれば,1920年春に到着した2両のLK IIが試験された後に,残りの12両はドイツ軍の廃兵器の中から,おそらくは壊れかけのものをハンガリーに持ってきたという.
A legvalószínűbb forgatókönyv, Éder Miklós elmélete szerint, az első két LK-II-es 1920 tavaszán, a többi 12 db pedig a mintapéldányok kipróbálását követően került az országba a német hadsereg leszerelési anyagából, valószínűleg darabokban.
 そして,スウェーデンがこの一件の仲介者の役割を果たした可能性もある.
És felmerülhet a svédek, mint közvetítők szerepe is az ügyben.

 平和条約署名後,戦車所持は違法となったが,軍がそれを喜んで手放すはずもなく,代わりにそれらを20年代には人気のあった軍事スポーツ,いわゆる「隠匿」に参加した.
A békediktátum aláírását követően a harckocsik birtoklása illegálissá vált, a honvédség azonban nem volt hajlandó lemondani róluk, ehelyett benevezte őket a 20-as évek népszerű katonai sportjába, az ún."rejtésbe".
 分解された車輌の部品は数年間,最高機密として田舎の農場に隠され,装甲部分は鉄道の貨車に載せられてハンガリー国内を行ったり来たりした.
Az elkövetkező években a szétszerelt járművek alkatrészei a legnagyobb titokban vidéki tanyákon lettek elrejtve, míg a páncélzatok pl. egy időben vasúti tehervagonokban utaztak ide-oda az országban.
 そうやって数年間隠されていた車輌によって1928年,第1戦闘車輌大隊が設立されたが,稼働していたのは6両だけだった;
Az 1928-ban megalakult 1. harckocsiszázadot a következő években azokkal a járművekkel látták el, ezekből azonban végül csak 6 db lett üzemképes;
 他の8両は恐らく隠匿されていた間に壊れてしまったのだろう.
a többi nyolc talán a rejtés alatt ment tönkre.
 この原因は,埃っぽい低地溝や鉄道の側線の迷路といった悪環境下にあったことによる腐食もしくは一部部品の紛失で,技術試験部門は不足部品の図面を作ることができなかった.
Hogy ennek a mostoha viszonyok között kialakult korrózió volt az oka, avagy egyes alkatrészek még az őket rejtegetők elől is végleg eltűntek a poros alföldi földutak és a vasúti mellékvágányok útvesztőjében, nem tudni, mindenesetre a Technikai Kísérleti Osztály elkészítette a hiányzó elemek műszaki rajzait.

 トリアノン平和条約の規約では,ハンガリーは当時まだ戦車を保有することはできなかったため,車輌番号は"V"(牽引車)名義のものが付与され,それにローマ数字がついた.
Mivel a trianoni békediktátum rendelkezései szerint Magyarország továbbra sem rendelkezhetett harckocsikkal, a járművek az eredeti "V" (vontató) elnevezést viselték, emellett pedig római számokkal látták el őket.
 記録によれば1号車にはV-12,他にはV-14, V-11, V-7, V-6,そしてV-3という数字が与えられた.
A nyilvántartás szerinti V-12 lett az I. számú harckocsi, a többi számot sorban a korábbi V-14, V-11, V-7, V-6 és V-3 kapta.
 また,戦車保有禁止条項をすり抜けるため,大隊は警察訓練学校 (RUISK)の麾下にあったが,一部の装甲車輌の運用については軍にも許可されていた.
Ugyancsak a tiltás miatt a század a Rendőrújonc Iskola (RUISK) keretein belül működött, karhatalmi célokra ugyanis engedélyezve volt néhány páncélgépjármű üzemben tartása.
 到着時には非武装だった車体には8mm 7/12 M. シュワルツローゼ機関銃がとりつけられた.
Az amúgy fegyvertelenül érkezett harckocsikat a rendszeresített 8 mm-es 7/12 M. Schwarzlose géppuskával szerelték fel.

(写真1:RUISKの部隊におけるLK II / 1.fénykép: LK II a RUISK állományában)

 最終的には1930年,戦車隊が訓練用として5両,包括的な教導用として1両を引き継いだが,新型車輌を導入することが明白と思われるほど,それらは絶望的なまでに時代遅れになっており,技術的に当てにならなくなっていた.
Végül 1930-ban vehette át a harckocsialosztály az öt gyakorló és egy oktató feladatkörű harckocsit, de azok ekkorra már olyan reménytelenül elavultak, műszakilag pedig megbízhatatlanok lettek, hogy elodázhatatlanná vált egy új típus beszerzése.
 その年,ハンガリーは新しい同盟者イタリアに,(依然として秘密裏に)戦車を発注した.
Még ebben az évben Magyarország (továbbra is titokban) harckocsikat rendelt, ezúttal azonban már az új szövetségestől, Olaszországtól.
 フィアット3000Bの到着により,1931年からLK IIは徐々に退役し,1933年までにはそれらは全てスクラップ場送りとなった.
A FIAT 3000B-ek beérkeztével 1931-től fokozatosan kivonták LK II-et a szolgálatból és 1933-ra mind az ócskavastelepekre kerültek.
 その砲塔の幾つかは装甲列車に据えられ,その装甲板は数年にわたって実標的となったが,その後,徐々に姿を消した.
Tornyaik közül néhány páncélvonatokra került, páncéllemezeik pedig még pár évig lőkísérletek céltárgyaiként szerepeltek, majd lassan azok is eltűntek.

 1939年のことである.
 エルケーニターボルの村の第2騎兵旅団軽戦車大隊に新たに赴任した,とある退屈した兵士が,新居の中を探検し始めた.
 するとすぐに,板で塞がれた放置された小屋を見つけ,さらにそこには不可解なことに未知の戦車があった.
1939-ben a frissen Örkénytáborba helyezett 2. lovasdandár könnyűharckocsi századának néhány unatkozó katonája felfedező útra indult új otthonában, ahol csakhamar egy elhagyatott, bedeszkázott fészerre bukkantak, abban pedig egy titokzatos, ismeretlen harckocsira.
 彼らも彼らの直属の上官もこの型の車輌を知らず,メーセイ大尉も疎かった.
Sem ők, sem a kiérkező közvetlen felettesük nem ismerte fel a jármű típusát, nem úgy az élelmes Mészöly százados.
 この型の戦車は何年も前に軍から退役し,もはや軍には一台も存在しないという知らせを受け,兵站上のLKの状況についてのこの発見を隠すよう暗に求められた.
A felfedezést elhallgatva csendben utánajárt a hadbiztosságon az LK-k sorsának, ahol azt a tájékoztatást kapta, hogy ezt a típust évekkel ezelőtt kiselejtezte a honvédség, így már nem létezik belőlük egy darab sem.
 おそらく1920年に試験が行われた2両のうち1両で,その後この1台は隠され,(立ち会った者達が死去するか退職するかした後)単に忘れ去られたものだろう.
Talán egyike volt az 1920-ban kipróbálásra érkezett két járműnek, amit azután egy darabban rejtettek el és (az egykori szemtanúk halálát vagy nyugdíjazását követően) egyszerűen elfelejtettek.
 この情報により,メーセイ大隊の将兵たちは良心が咎めることもなく,ハンガリーのLK唯一の生き残りをスクラップとして売却し,それで得たカネで今度は軽戦車大隊のポットの数を充足させたということぢゃ.
Ezen információ birtokában azután Mészöly százados és emberei nyugodt lelkiismerettel szétbontották és ócskavasként eladták az egyetlen megmaradt magyar LK-t, a befolyt összeggel pedig a könnyűharckocsi század kasszáját gyarapították.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://militiahungarorum.roncskutatas.hu/1867_f_j_h_s_l.html ※図式1 & 写真1引用元
http://magyartank.gportal.hu/gindex.php?pg=36090352&nid=6458397
https://www.jobbikit.hu/vilagunk/tortenelem/biro-adam-pancelos-fegyvernem-megteremtesenek-kezdetei-magyar-kiralyi-honvedsegben
ビーロー・アーダーム他『 A Magyar Királyi Honvédség külföldi gyartású páncélos harcjáművei 1920-1945』(Petit Military könyvek) ※四面図引用元

mixi, 2017.12.7


 【質問 kérdés】
 ハンガリーが輸入したフィアット 3000軽戦車について教えてください.
Kérem, mondja meg az könnyűharckocsi FIAT 3000-ekről, amit Magyarország importált.

 【回答 válasz】
 1930年夏,ハンガリーはトリノの工場にフィアット3000B軽戦車を5輌注文したが,ライセンス購入・生産を期してのことだった.
Magyarország 1930 nyarán öt darab Fiat 3000B könnyű harckocsit rendelt a torinói gyártól a licencvásárlás utáni sorozatgyártás reményével.

1枚目:FIAT 3000B 三面図
(図表番号faq190225fa,こちらより引用)

 軍備制限をごまかしつつ,その5輌は全て1931年に到着した.
A hadfelszerelési korlátozás kijátszásával mind az 5 darab 1931-ben megérkezett.
 それらは農業機械部品という名目で分解箱詰めされ,秘密を守られた.
Ezek szétszedett állapotban ládákba csomagolva mezőgazdasági gépalkatrészként a legnagyobb titokban jöttek.
 組立はイタリアの専門家の助けを借りて,ハイマーシュケールにて完了.
Az összeszerelést Hajmáskéren olasz szakemberek segítségével oldották meg.
 試運転はハイマーシュケール近郊の隠れ谷で実施された.
A próbaüzemeket a Hajmáskér melletti Hideg-völgyben végezték.
 砲塔の装甲開口部は当初,金属板で塞がれていたが,後に取り除かれ,07/12M シュワルツローゼ8mm液冷機関銃が装備された.
A torony elején található fegyverzet nyílásokat kezdetben fémlappal lezárták de később ezeket eltávolították és egy 8 mm -es 07/12M Schwarzlose folyadékhűtéses géppuskát szereltek be.

 公式にはFiat 3000 B戦車はRUISK(新警察学校)に配備され,そこで戦車実験隊が創設された.
A hivatalosan is Fiat 3000 B jelű harckocsi a RUISK (Rendőr-újonciskola) állományába került ahol felállítottak egy kísérleti harckocsi századot.

2枚目:RUISK-ben FIAT3000B
(図表番号faq170531mg83f)

 戦車5両全てにキー文字が割り振られたが,その登録番号は順に以下の通り:
Mind az öt harckocsit betűjellel jelölték pedig ezek nyilvántartási számokat takartak:
A - 12. sz., B - 8. sz., C - 9.sz., D - 10. sz.,E - 11. sz.,
 ジェールのハンガリー車輌&機械工場において150両がライセンス生産される予定だったが,技術が陳腐化していたこと,アンサルドのタンケッテが制式化されたことにより,これは実現しなかった.
Ebből akartak gyártani 150 darabot licencvásárlás alapján a győri Magyar Waggon-és Gépgyárban, de a technika elavultsága és az Ansald kis harckocsik rendszeresítése miatt erre már nem került sor.

 その後,1939年に退役するまで,訓練目的で使用.
Ezt követően az 1939-es hadrendből való kivonásig kiképzési célokra használták.
 これらはRUISKの運転教習車として働いた.
Ezek a RUISK gyakorlójárműveiként funkcionáltak.
 1939年以降も(装甲を外して)車体に足場を取り付け,教育用として使用されたが,1942年廃車.
1939-től a kiselejtezett harckocsik alvázait (a védőpáncélzattól megfosztva) oktatócélra még tovább használták, 1942-ben kiselejtezték őket.

 それ以降のこれら戦車の運命を辿ることは難しい.
Ezek a harckocsik további sorsa nehezen rekonstruálható.
 ボンハルト・アッティラ博士の研究資料によれば,1943年,1台のフィアット戦車がオラーラーポシュ(現在のルーマニア領ラプシュ)の練兵場において標的として使用されたという.
Dr. Bonhardt Attila forráskutatása alapján az egyik Fiat harckocsit céltárgynak használták az Oláhlápos ( románul : Lăpuş )-i katonai gyakorlótéren 1943-ban.
 2010年,彼はヴァールパロタにおいてフィアット戦車の残骸を発見.
2010-ben bukkant rá egy kilőtt Fiat harckocsi maradványaira Várpalotán.
 この調査に参加したHM (軍事史博物館)の研究家達は,地中から約1.5tの残骸を回収した.
A roncskutatók a kutatómunkába bekapcsolódó HM Hadtörténeti Intézet és Múzeum munkatársaival mintegy másfél tonnányi roncsot emeltek ki a földből.
 残骸は良好な状態が保たれており,一部には元の塗装も残っていた.
A roncsok állapota jó megtartású volt, egyes elemeken az eredeti festés nyoma is látható volt.
 カカシュ・クリシュトーフ(エエトヴェシュ・ロラーンド地質学研究所)の助けを借りて,2011年に現地調査が行われた.
Kakas Kristóf (Eötvös Loránd Geofizikai Intézet) segítségével geofizikai felmérésre is sor került a lelőhelyen 2011 során.
 調査の目的はその戦車内部の知られざる部分を探すことだった.
A felmérés célja a harckocsi újabb elemeit rejtő beásások felkutatása volt.
 現地調査と地質学的調査によれば,1944年に訓練において発砲されており,残骸の一部は射爆場またはその近辺に埋められていた.
A terepi munkálatok és a geofizikai felmérés alapján feltételezhető, hogy a harckocsit 1944-ben, gyakorlatozás során lőtték szét, és a roncsok egy részét a kilövés helyén vagy annak térségében eltemették.
 発見された残骸の内,装甲と車体の部分だけは特定できたが,エンジン部品は発見されなかった.
A talált roncsdarabok között kizárólag a páncélzat és a futómű elemei voltak azonosíthatóak, motoralkatrész nem került elő.
 2013年5月,発掘された残骸はセグレードにある倉庫に一時的に残骸が保管され,477kgの遺物が博物館に残された.
2013 májusában került sor az átmenetileg egy ceglédi raktárban elhelyezett roncsok átválogatására, majd mintegy 477 kg-nyi harckocsi-maradvány Múzeumba szállítására.
 フィアットのエンブレムのある(車軸の)動輪,履帯の一部,転輪,そして砲塔後部のターレットリンクと上部装甲板の一部が選択され,ブダエルシュ通りの博物館の収集庫に置かれたのだった.
A szelektálást követően az egyik hátsó Fiat-emblémás csillagkerék (tengellyel), a lánctalp összefüggő részei, a futógörgők, a páncéltorony (szegecselt) orrlemeze, a torony egybefüggő nagyobb egysége került a Múzeum Budaörsi úti objektumában kialakított gyűjteményi raktárba.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://www.network54.com/Forum/47207/thread/1436427080/last-1436509638/View+Thread
http://magyartank.gportal.hu/gindex.php?pg=36409831&nid=6527769
http://www.honvedelem.hu/container/files/attachments/60356/haditechnika_2016_1.pdf
http://www.militaria.hu/uploads/files/93794300_1449584181.pdf ※残骸写真引用元(図表番号faq171118fa3 - 6)
ビーロー・アーダーム他『 A Magyar Királyi Honvédség külföldi gyartású páncélos harcjáművei 1920-1945』(Petit Military könyvek) ※faq170531mg83f 引用元

 一部訳語について,よしぞう氏にご教示いただきました.
 お礼申し上げます.

mixi, 2017.11.23


 【質問】
 ハンガリー軍で使用されたタンケッテCV35と,イタリア軍のCV35との違いを教えてください.

 【回答】
 ハンガリーに輸入されたアンサルド Ansaldo CV35(Carro Veloce CV35)は非武装状態でハンガリーに持ち込まれ,ハンガリー国内において独自の武装がなされた.
 主砲は 8 mm 1934/37.M(別名34.AM)ゲバウエル Gebauer 機関銃×2.
 これは当時ブダペシュト在住のオーストリア人技師フランツ・ゲバウアー Franz Gebauer (1888–1958)が開発したもので,偵察機用の7.92mmゲバウエル機銃 1934.MをCV-35搭載用に改修した.
 この機銃を横に2つ並べ,一つのターレットに収めたが,このターレットは上下に可動した.
 また,45両には箱型の指揮官用キューポラを屋根に設置.
 そのため,本家カルロ・ヴェローチェよりも車高が若干高くなった.

 このページは模型の改造パーツ・キットだが,異なる部分がよく分かるだろう.
http://store.shopping.yahoo.co.jp/miniature-park/tb-35048.html

 少なくとも,クロアチア軍や中華民国軍のCV35よりは,ずっと識別し易くなってございやす.

 【参考ページ】
http://forum.warthunder.com/index.php?/user/292258-hebime/?tab=reputation&app_tab=forums&type=received&st=45
http://milpas.cc/rifles/ZFiles/Rifles%20of/Hungary/Hungary%201897-1950/Machine%20Guns/GEBAUER%20Machine%20Guns,%201918-45/Gebauer%20Machine%20Gun%201918.M.htm
http://ftr.wot-news.com/2014/07/30/on-the-hungarian-35m-ansaldo-and-wot/

34/37.Mゲバウエル機銃
ゲバウエル機銃を2丁装備した状態のターレット
上下可動するためのスリットに注意
こちらより引用)

指揮官用キューポラ(向かって右側)のあるアンサルドCV35
こちらより引用)

mixi, 2016.5.11

 『マジャールスチール』によると,クビンカの個体はイタリア軍の塗装をされてますが,1944年から45年の間にハンガリーでソ連軍が捕獲したものだそうです.
 ハンガリー軍のCV35のうち45両が,この手のキューポラ付きとのこと.
 これがクビンカの個体ですね.
http://tank-photographs.s3-website-eu-west-1.amazonaws.com/l3-35m-tankette-italy.jpg

 現役当時のCV35の写真
http://i.imgur.com/aTpp6aB.jpg
http://i.imgur.com/tTD63CN.jpg

ギシュクラ in mixi,2016年05月13日

 また,
https://live.warthunder.com/post/523936/en/
によれば,クビンカの車輌はソ連軍が1945年,ハンガリーのピリシュチャバ Piliscsaba にて鹵獲したもの.
 1段高い指揮官用キューポラを持つ指揮戦車型で,ハンガリー軍での登録番号はH-153だったという.

2019.3.15


 【質問 kérdés】
 いつCV-35はハンガリーに輸入されたの?
Mikor CV-35-eket Magyar importált?

 【回答 válasz】
 ハンガリーがイタリアに68両のCV-35を発注したのは1935年.
1935-ben magyar Olaszországba 68 darab CV35-et rendelt el.
 最初のタンケッテは1935年9月,ハイマーシュケール Hajmáskér の街に到着した.
Az első kisharckocsi 1936 szeptemberében érkezett Hajmáskérre.
 ここには軍事拠点として全盛期だった数十年に渡り,航空機格納庫,乗馬学校,屠殺場を含む,様々な性格の建物が並んでいる.
Sok különböző funkciójú épület sorakozott itt azokban az évtizedekben, amikor az itteni katonai tábor a fénykorát élte: szerepelt ezek között léghajógarázs, lovarda és vágóhíd is.
 また,1945まで街には,平均従業員数800~900人の軍需工場もあった.
A községben 1945-ig hadiüzem is működött, 8-900 fős átlagos dolgozói létszámmal.
 ちなみに最初の輸出時,理由をカバーするため,納品書の上では「トラクター」と呼ばれていた.
Egyébként, az első szállítmánynál fedési okokból traktornak nevezték a szállítóleveleken.

 1936年3月に品物が到着した後,さらに82台が発注され,それらは12月まで到着した.
A szállítmányok beérkezése után 1936 márciusában további 82 darabot rendeltünk, amelyek az év decemberéig meg is érkeztek.

 タンケッテの到着とその場所は,以下のようになる:
A kisharckocsik beérkezése és helye a következő.:

 1935    ハイマーシュケール Hajmáskér  1両  
  12 〃   4両  
  12  11   20両
 ※17台はエンジン不調
17db motor szétfagyott
 1936  22   16両  
  1 25   不調のものと交換するためのエンジン20台
20 db motor a szétfagyottak pótlására
 
  2 14   23両  
  3 16   4両  
  8  10両  
  9  エルケーニターボル Örkénytábor   28両  
  10 15   ハイマーシュケール Hajmáskér   18両  
  10  15   エルケーニターボル Örkénytábor   14両  
  12  ハイマーシュケール Hajmáskér  12両  

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://karosszektabornok.blog.hu/2014/07/10/125_az_ansaldo_ii_az_ansaldok_magyaroroszagon
https://hu.wikipedia.org/wiki/Hajm%C3%A1sk%C3%A9r

mixi, 2017.11.16


 【質問】
 ハンガリー軍におけるCV-35の戦歴は?
Milyen háborús karrierjek az CV-35 voltak a Magyar Honvédségben?

 【回答】
 タンケッテの利点は言うまでもなく比較的安価なことである.
 第一次大戦や大恐慌の痛手を受けたハンガリーが,軍備再建に当たってこれを選択したのは,まずは妥当な判断と言えた.
 手っ取り早く数を揃えることができ,隊列を組ませて軍事プレゼンスを誇示するにはうってつけの車輌だった.
 ドイツやソ連の戦車に比べれば頼りないが,第一次大戦後のハンガリーの外交政策は,強国の間をうまく立ち回って,トリアノン条約を無効化し,喪失した「歴史的ハンガリー」の失地回復を図ることが,ほぼ一貫した方針であって,強国と事を構える予定は無かった.
 ハンガリーにとって最も武力衝突の可能性が高い仮想敵国はルーマニアだが,同国の戦車戦力は当時,ハンガリーと似たり寄ったりなので問題は無かった.
(ただ一つの問題は,訓練中に故障が多発したことだった)

 1938年8月時点のタンケッテ配備先;
 括弧内は指揮戦車の数

1. gépkocsizó dandár felderítő zászlóalj (Budapest) 22 (6) db
第1機械化旅団偵察大隊(ブダペシュト),22(6)輌

2. gépkocsizó dandár felderítő zászlóalj (Kassa) 18 (6) db
第2機械化旅団偵察大隊(コシツェ),18(6)輌

1. lovas dandár kisharckocsi század (Nyíregyháza) 18 (6) db
第1騎兵旅団タンケッテ中隊(ニーレジハーザ),18(6)輌

2. lovas dandár kisharckocsi század (Cegléd) 18 (6) db
第2騎兵旅団タンケッテ中隊(ツェグレード),18(6)輌

9. kerékpáros zászlóalj kisharckocsi szakasz (Jászberény) 6 (2) db
第9自転車大隊タンケッテ小隊(ヤースレベーニ),6(2)輌

10. kerékpáros zászlóalj kisharckocsi szakasz (Budapest) 6 (2) db
第10自転車大隊タンケッテ小隊(ブダペシュト),6(2)輌

11. kerékpáros zászlóalj kisharckocsi szakasz (Rétság) 6 (2) db
第11自転車大隊タンケッテ小隊(レーツァーグ),6(2)輌

12. kerékpáros zászlóalj kisharckocsi szakasz (Munkács) 6 (2) db
第12自転車大隊タンケッテ小隊(ムンカーチ),6(2)輌

13. kerékpáros zászlóalj kisharckocsi szakasz (Nyírbátor) 6 (2) db
第13自転車大隊タンケッテ小隊(ニールバートル),6(2)輌

14. kerékpáros zászlóalj kisharckocsi szakasz (Nagyszöllős) 6 (2) db
第14自転車大隊タンケッテ小隊(ナジセレーシュ),6(2)輌

15. kerékpáros zászlóalj kisharckocsi szakasz (kiskunhallas) 6 (2) db
第15自転車大隊タンケッテ小隊(キシュクンハラシュ),6(2)輌

16. kerékpáros zászlóalj kisharckocsi szakasz (Szeged) 6 (2) db
第16自転車大隊タンケッテ小隊(セゲド),6(2)輌

101. vegyiharc zászlóalj (Piliscsaba) 9 (0) db
第101化学兵器大隊(ピリシュチャバ),9(0)輌

Ludovika Akadémia (Budapest) 7 (2) db
ルドヴィカ陸軍士官学校(ブダペシュト),7(2)輌

Haditechnikai Intézet (Budapest) 5 (1) db
軍事研究所(ブダペシュト),5(1)輌

Csapattisztképző Iskola (Jutas) 5 (2) db
下士官訓練学校(Jutas)5(2)輌

 そんなわけで,直接大きな戦火を交えない時代には,ハンガリー軍のCV-35は大変活躍した.

 1938年11月,チェコスロヴァキア解体により,ザカルパチア地方がハンガリーに割譲された時,CV-35の戦車隊は同地に乗り込んだ.
 以下の写真は,Khustの街を進むCV-35の車列.
faq170208cv.jpg
faq170208cv2.jpg
こちらより引用)
 ちなみにKhustは現在,ウクライナ領となっている.

 1940年,ヒトラーの第二次ミュンヘン裁定により,北トランシルヴァニアがルーマニアからハンガリーへと割譲させられた時も,やはりCV-35戦車隊は同地に乗り込んだ.
faq170208cv3.jpg
こちらより引用)
 タンケッテでも割譲地住民に対してデモンストレーションするには,軍事専門家以外になら十分な効果があっただろう.

 だが,ヒトラーはハンガリーの「食い逃げ」を許さなかった.
 ドイツ軍のユーゴスラヴィア侵攻に際してヒトラーは,ドイツ軍のハンガリー領内通過とハンガリー軍の参戦を要求してきた.
 ヒトラーからの圧力に抗しきれるはずも無い.
 ここにハンガリーの外交戦略は破綻し,予定に無かった戦争に足を踏み入れることになる.
 ハンガリーの参戦前夜,テレキ・パール首相は自殺をするが,それは単に良心が咎めたからだけではあるまい.
 参戦はハンガリー自身の自殺だった.

 CV-35はバルバロッサ作戦に駆り出されることになった.
 数の上では当時のハンガリー軍の主力戦車だったからだ.
 だが,T-34やKV-1,KV-2といったソ連の強力な戦車の前にはひとたまりもなかった.
 CV-35とトルディ軽戦車が主力の第1快速軍団は,器材の8割を喪失.
 CV-35も38両を喪失した.

 生き残ったCV-35は前線から引き揚げられ,訓練用となった.
 また,10両が憲兵隊に回された.
 1942年には10両がクロアチア軍へ譲渡され,1943年にはさらに10両が憲兵隊へ渡された.
 ハンガリーに併合された旧ユーゴスラヴィア領にもパルチザンがいないわけではなかったから,同地の治安維持任務にも装甲車輌は必要だった.

 だが,それも穏やかな余生とはならなかった.
 1944年9月,ソ連軍が東南部国境を越えてハンガリー領内に侵攻してきたためだ.
 祖国防衛のため,微力でも戦力になりそうなものは全て駆り出された.
 予備保管兵器として倉庫に眠っていた第一次大戦時代の機関銃まで引っ張り出したくらいだ.
 CV-35は再び苛烈な最前線へ送られ,殆どが生き残らなかった.

 現在,生き残ったハンガリー軍のCV-35は,ソ連軍に鹵獲されてクビンカ戦車博物館に展示されている1両,そして,ベオグラードの軍事博物館に展示されている1両のみである.

 【参考ページ】
南塚信吾『図説 ハンガリーの歴史』(河出書房新社,2012), p.109-110
http://live.warthunder.com/post/237729/en/
http://live.warthunder.com/post/553294/en/
http://live.warthunder.com/post/553306/en/
http://karosszektabornok.blog.hu/2014/07/10/125_az_ansaldo_ii_az_ansaldok_magyaroroszagon

mixi, 2017.2.9
を加筆改修

 ベオグラードのカレンメグダン要塞に展示されている個体は,元ハンガリー軍の車両です.
 『マジャールスチール』によると,1942年にハンガリーからクロアチア軍に譲渡された車両だそうです.

(図表番号faq190409cv35)
(こちらより引用)

ギシュクラ in mixi,2016年05月11日~05月13日


 【質問 kérdés】
 WW2ハンガリー軍のタンケッテ・トランスポータについて教えてください.
Kérem, mondja meg a magyar kisharckocsi szállítmányozójaról a második világháborúban.

 【回答 válasz】
 ハンガリー軍のCV-35には故障が頻発した.
A magyar honvéd CV-35-ei gyakran lebomltak.
 集中的な訓練によって摩耗した上に,緊迫する国際情勢の中,イタリアからの予備部品供給がますます不安定になったためだ.
 軍はハンガリーの企業に予備部品製造を依頼したが,品質はイタリア製には及ばなかった.
 そのため,イタリア軍のCV-35の航続距離は100~200kmだったが,ハンガリー軍のそれは5~20kmでしかなかった.

 イタリアも問題は認識していたようで,彼ら自身の経験にもとづいてトランスポータ配備を繰り返し提案した.
 ハンガリー軍上層部も最後にようやくそれを受け入れ,2.5tフォード・トラックを軍に配備した.
(写真1)
(写真2)
(写真3)
 また,マンフレート・ヴァイス社やジェール Győr のハンガリー車輌&機械工場に対してもトランスポータを発注した.

 だが,戦時消耗によってCV-35の数が減ると,トランスポータ発注も取り消しになり,製造されたものは軍には配備されなかったとさ.

 【参考ページ Referencia Oldal】
http://karosszektabornok.blog.hu/2014/07/10/125_az_ansaldo_ii_az_ansaldok_magyaroroszagon ※写真1~3引用元

mixi, 2017.11.9


 【質問 kérdés】
 ハンガリーに鹵獲されたM3A1「スチュアート」軽戦車について教えてください.
Kérem, mondja meg az M3A1 "Stuart" könnyű harckocsi, amit a magyar fogott el.

 【回答 válasz】
Az 1941 és 1942 augusztusa között épült 5811 M3A1 harckocsiból 1676 darabot a Szovjetunióba szállítottak.
Fényképek tanúsága szerint 1942-ben 3 db M3A1 típus a magyar hadsereg zsákmánya lett.
A sértetlen harckocsikat magyar hadijellel látták el.
Technikai átvizsgálásuk után műszaki-mentő harckocsiként vontatási célokra alkalmazták. (2 .ábra)
Egy darab rendszáma ismert: 1H-402.
 1941年から1942年の間に生産されたM3A1戦車5811両の内,1676両がソ連に送られた.
 写真が指し示すところによれば,1942年に3両のM3A1型をハンガリー軍は鹵獲している.
 無傷だった戦車には,ハンガリー軍所属を示すマークをつけられた.
 技術検査後,それらは機械力で手助けする牽引車として使用された(図2)
 1両の通し番号が判明している:1H-402

※ Csaba Becze『Magyar Steei』によれば4両.

 【参考ページ Referencia Oldal】
ビーロー・アダム他『Magyar Királyi Honvédség külföldi gyártású páncélos harcjárművei』(Petit real könyvkiadó, 2006), p.71-72 ※図1引用元
http://forum.index.hu/Article/showArticle?go=38884198&t=9010902 ※図2-3引用元

(図1) M3A1三面図
(図3) 側面写真

ハンガリー軍の記章と第1偵察大隊の部隊マークが描かれた鹵獲スチュアート軽戦車
faq190123st

立っているハンガリー兵のブーツから推して,写真は1943~1944年の撮影
(こちらより引用)

mixi, 2018.4.24

 【質問】
 ハンガリーに送られた38(t)って一部,機銃が付いて無かったりしたようだけど…?

 【回答】
 ハンガリー軍38(t)の中で車載機銃外しているのは指揮官車だったはず.
 ただ,ドイツは無線外してハンガリーに送ってるみたいだから,元々指揮車だったが,単純に機銃足らない通常型になってしまっようだ.
 アーマーの枢軸軍特集のハンガリー軍情景の38(t)がそのタイプだった.
 アーマーの枢軸軍特集...もう15年くらい前だ.

 ハンガリーが保有してた38(t)の内,通常型が何台,元指揮車は何台って不明.

模型板,2012/04/02(月)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 ハンガリー軍の兵器の資料を見ていたとき,パールドゥチ重戦車とティングリシュ重戦車言う戦車を発見したんですが,どう見てもドイツ軍のパンター戦車とティーガー戦車にしか見えないんですが・・.
 当時のハンガリーって,パンターやティーガーを生産できるほどの工業力ってあるんですかね?
 それとも,やはりドイツ軍がハンガリー軍に給与したのでしょうか?

アンチネスク : 軍事板,2003/08/16
青文字:加筆改修部分

 【回答】
 アーマーモデリング誌12号に,ハンガリーで運用されたティーガーIの記事がありますた.
 ハンガリーの軍事雑誌に掲載されてたらしい同記事を抜粋すると,

・1944年4月以降,消耗したハンガリー第2機甲師団の第3戦車連隊第I大隊に対し10両が配属された.
(他にも中古のIV号戦車12両,III号突撃砲10両が配属,整備用具・予備部品はなし!)
 これらのティーガーIはティーガーIIに装備改編する第503重戦車大隊の中古品だった.
 訓練も503大隊の兵員が教育に当たった.

・ティーガーは前述第I大隊の第2・第3中隊を構成した.

・訓練完了後,ティーガーは小隊単位でハンガリー第24歩兵師団の各大隊戦区に分散配置された.
 一週間の戦闘で損害皆無で十分な戦果をあげた後,大隊に復帰した.

・ハンガリー第1軍機動予備として防御戦闘に従事,結局バックアップの不備により7両が放棄ないし事故で失われ,残りの3両は後送された.

 とりあえずライセンス生産ではないです.
 ハンガリー人もティーガーの攻撃力,防御力は絶賛しているようでした.

軍事板,2003/08/16
青文字:加筆改修部分

ハンガリー軍のティーガー
faq181223tg.jpg
faq181223tg2.jpg
(こちらより引用)


 【質問 kérdés】
 ハンガリー戦車道の歴史を述べよ(3点)

 【回答 válasz】
 ハンガリー戦車道の起源は,1920年のトリアノン条約まで遡る.
 この条約により,軍備としての戦車の保有を禁じられたハンガリーは,あの手この手で条約の抜け道を探し求めた.
 一つは国家憲兵隊による「警察用装甲車」の保有.
 一つはスウェーデンやイタリアからの,農業用トラクター名義での密輸入.
 最後の一つが,高等教育機関におけるモーター・スポーツという名目による,模型戦車を用いた戦車の運用研究だった.

 後に「キンダーパンツァー kinderpanzer」と呼ばれるようになるそれは,本物の戦車のスケール・ダウン模型で,初期のそれは装甲もないどころか合板製.
 動力は電動,または自転車のような足漕ぎだった.
 参考までに,第二次大戦後の東ドイツの例を,以下の動画に見ることができる.
https://www.youtube.com/watch?v=h9fpNcnlNIk&t=5s

 しかし再軍備の動きが水面下で活発になると,実弾を発砲できない以外は,サイズも装甲も動力も本物の戦車に近づいていった.
 そればかりか,密輸されたLK-IIやフィアット3000B等の本物の戦車も,当時既に旧式化していたので,フランツ=リスト・テクノ専門学校,コルヴィヌス経済大学,キニジ・パール国防大学,そして世界最古の工科大学であるマリア・テレジア工科大学などにあった戦車道クラブに払い下げられている.
(学校名は全て仮名)

 ただ,本物の国軍でさえ戦車戦力が貧弱な国情下では,必然的に戦車道クラブの戦車戦力もそれ以下であり,世界恐慌による経済的打撃とも相まって,各クラブとも数の上の主力は依然として足漕ぎの一人乗りベニヤ板戦車.
 その中に菱形戦車かタンケッテが1~2両混ざっていれば御の字だった.
 これでは世界各国の強豪クラブとの互角な戦いは到底望めない.

 そこで各クラブとも戦車対戦車で正面からぶつかることを避け,奇襲や夜襲での戦いを主たる戦術とするようになった.
 戦車は主として装備・人員の運搬車としての役割を果たし,搭乗員は戦闘工兵さながらに地雷や路肩爆弾を設置.
 あるいは樹木や建物の上から火炎瓶を投擲しては,すぐに姿をくらますというヒット・エンド・ランに徹した.
 夜襲をかけて敵戦車を奪う,敵戦車の燃料タンクに砂糖をぶち込む,ガソリン缶をこっそり軽油缶ととりかえる,戦車砲の砲口から砲弾をさかまさに突っ込んでおく等は常套手段.
 地下鉄入り口を落とし穴代わりとして使う戦術や,石畳に絹布を敷き,その上に石鹸水を散布して敵戦車を滑らせ,操縦不能になった敵戦車同士を衝突させる等の戦術も開発された.

 ハンガリー戦車道が独特であると言われるのは,このように戦車道クラブでありながら対戦車道を駆使した戦いを行うためである.

 第二次大戦後,ラーコシ首班の共産主義政権となると,教育制度もソ連のものが輸入された.
 スターリンのやることは全て忠実に真似るのが,ラーコシらスターリン主義者のやりかただった.
 ソ連のピオニール,コムソモールと同様の少年団が組織され,子供たちはそこで軍事教練を受け,「西欧を憎み,米国との闘いに命を捧げる」と誓った子供達には,特別課目(手製ガソリン爆弾による米国戦車破壊法)が教え込まれた.

 かくて,ますます対戦車道に磨きがかかる一方,戦車道クラブは戦前と大差ない状況が続いた.
 ソ連はハンガリーを信用していなかったため,ハンガリー国軍すらまだ装備はT-34が主力だった.
 また,戦前戦中の全てを否定する共産主義政権にとっては,戦時中のハンガリー戦車,トルディ,トゥラーンなどを戦車道クラブが保有するなどもっての外だった.
 ラーコシの失政による経済的打撃とも相まって,各クラブとも数の上の主力は依然として足漕ぎの一人乗りベニヤ板戦車.
 その中にBT戦車かT-70戦車が1~2両混ざっていれば御の字だった.
 これでは世界各国の強豪クラブとの互角な戦いは到底望めない.
 そこで各クラブとも戦車対戦車で正面からぶつかることを避け,(以下同文)

 そのハンガリー流戦車道の実力がいかんなく発揮されたのが,ハンガリー1956年革命(ハンガリー動乱)である.
 学生たちはブダペシュトの市街戦において,数多くのソ連軍T-34戦車を撃破した.
(さすがにT-54の大群には歯が立たなかったが)
 ソ連流の少年団での軍事教練が,ソ連戦車撃破に役立ったとは皮肉な話である.

 その後,社会の締め付けは幾分緩和され,各戦車道クラブはトルディ,トゥラーンなどを保有できるようになった.
 冷戦後は,実際の第二次大戦中の王国軍の保有割合以上に,各クラブにおけるそれら戦車の占める割合が多くなっている.
(大戦中,数の上ではCV-35がハンガリー軍の主力だった)
 今日では,ストラウスラーV-4水陸両用戦車(ブダペシュト・ホンヴェードHK Budapest Honvéd Harckocsi Klub 所属)やタシュ重戦車(パクシMSE Paksi Motorsportegyesület 等が保有)など,大戦中には実戦配備されることのなかった車輌を装備しているクラブも見られる.

 しかし,火力ではやはり各国の強豪クラブにかなわない.
 そこで各クラブとも戦車対戦車で正面からぶつかることを避け,(以下同文)

 中でも,敵校の戦車の中にT-34などあると,
「戦車狩りじゃああああ!」
などと士気が大いに高揚する様子が,youtube動画などからも見て取れる.
 サイドカーに対戦車ライフルを搭載した対戦車バイクを主力とする,些か本末転倒気味のクラブ・チーム「アッチラ Miskolci Attila Kör 」さえ存在する.

 ちなみに,日本語に「サシで勝負」という言葉があるが,これは「T-34(サシ)1台に対して人間1人が,1対1で勝負をつける」ハンガリー流戦車道が,日本に伝わると共に広まった言葉である.

 【参考ページ Referencia Oldal】
吉川和馬・斎木楠生・長万部(おしゃまんべ)いなさく他編『世界の対戦車拳』(民明書房,1998)

2018.4.1
※これはエイプリル・フール用のネタです


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