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(画像掲示板より引用)
◆◆◆総記
「朝目新聞」●(2009/12/16) ワイマール拳法って強いの? (of VIPPERな俺)(リンク切れ ⇒ アーカイブ)
●書籍
『回想の第三帝国 反ヒトラー派将校の証言1932‐1945』 (アレクサンダー・シュタールベルク著,平凡社,1995)
食用油工場の御曹司で,従兄に反ヒトラー将校の大物,ヘニング・フォン・トレスコウを持ち,戦争後半は反ヒトラー派の連絡係りとして,マンシュタインの副官となった人物の回顧録です.
上巻は,反ナチ学生として,ゲッべルスを野次ったらゲッべルスに怒られた話や,パーペン首相の秘書として働いてた時,ヒトラーがパーペンの元を訪れた際,ヒトラーの外套のポケットの中に拳銃が2丁入っていたのを見たり,ナチから逃れる為,国防軍に入り,ポーランド,フランス,ソ連を転戦した時の話などが書かれています.
下巻では,従兄の思惑によりマンシュタインの副官となり,マンシュタインのあまり知られてない一面……モーツアルトが好きだったり,いざとなったら,ヒトラーが自分を最高司令官に任命するものと信じてたり,戦争末期農場を買おうとしたり,7月20日のヒトラー暗殺事件を著者から事前に教えられ,アリバイ作りの為に旅行に出掛けたり……が書かれあり,マンシュタイン好きの方には,一読をお勧めしたい本であります.
この本にちょこっとだけ,シュペアーが出てくるのですが,シュペアーって格好良いよな! うん(笑
------------ ベタ藤原 ◆MNjfnp0E :軍事板,2002/07/06
青文字:加筆改修部分
WW2 German FAQ|軍事板常見問題 第二次大戦別館
に,以下リンク
『消えた国,追われた人々 東プロシアの旅』(池内紀著,筑摩書房,2019)
ちくま文庫で去年刊行されたものです.
普通,私は文学やエッセイは回避する方なのですが,その前にカリーニングラードについての本を買っていたので,手に取ってみてパラパラ読んだら面白そうだったので買ったもの.
期待に違わず,面白い本でした.
そもそも,池内紀さんはドイツ文学者でもあり,ドイツ人の作家の翻訳なんかも手がけています.
最近では特にギュンター・グラスの作品を積極的に翻訳していました.
ギュンター・グラスは,日本では映画にもなった『ブリキの太鼓』で有名ですが,『蟹の横歩き』と言う本を翻訳する際に,その舞台となった地を旅行させて欲しいと言う条件を付けたのが,この作品が生まれる切っ掛けになりました.
『蟹の横歩き』と言う本は,第2次世界大戦中ドイツは加害者だけで無く,被害者でもあると言う側面を浮き彫りにした作品で,刊行当時随分とドイツ国内で問題にされたものです.
その作品の舞台である東プロイセンを旅して,色々と見聞きしたことがこの作品の基になっています.
プロイセンと言えば,世界史ではドイツ統一の原動力となった国ですが,そもそもがベルリンからバルト海,そして更に東に発展していった国でした.
この為,東の方には彼等の故地とも言うべき地域が存在しています.
第1次世界大戦でドイツが敗れると,ポーランドが独立し,プロイセンの国土は大きく削られますが,ドイツ人が多い地域は飛地である東プロイセンという名称で残されました.
ただ,ポーランドは海への出口を確保するため,沿岸地方を要求して特にダンツィヒを希望しますが,国連の裁定でダンツィヒは曖昧な自由都市というものになり,ポーランドは別にグダンスクという都市を作り上げます.
また,メーメル地方はリトアニアとの係争地になりました.
ドイツは国土を分断された結果,その土地を回収する運動が活発になり,遂にはヒトラーという独裁者を誕生させた訳です.
ヒトラーはルール地方の復帰を皮切りに,オーストリアを併合し,ズデーテン地方,そしてチェコを併合し,次にポーランドに狙いを定め,プロイセンの故地の返還を求めます.
ポーランドはそれを蹴飛ばしたため,ドイツ海軍の戦艦がヴィスワ河河口の要塞を砲撃し第2次大戦が始まりました.
そのポーランドは数週間の抵抗で占領され,遂に東プロイセンは本土と陸続きになります.
そうした中,更なる東方への拡大を見越して,ヒトラーはソ連に狙いを定め,東プロイセンに「狼の巣」と言う地下司令部をつくり,ソ連と戦端を開きます.
しかし,モスクワ手前で力尽き,後はソ連を始めとする連合国の圧倒的物量に跳ね返され,遂には東プロイセンへの侵攻,更に本土戦へと移っていきます.
グラスの『ブリキの太鼓』は第2次大戦勃発時のダンツィヒを舞台に描いた物語,そして『蟹の横歩き』は第2次大戦が終焉を迎えつつあったダンツィヒを舞台に描いた物語でした.
作者は此の地を縦横無尽に逍遙し,グラスが作品を書いた背景を考え,また東プロイセンの各地に足跡を印した人々について思いを馳せています.
第2次世界大戦末期から戦後に掛けて,これらの地はソ連が入り込み,ドイツ人は容赦なく着の身着のままで追い立てられました.
また,ポーランドは西に大きくずれ,ソ連領となった地に住んでいたポーランド人もまた着の身着のままで故地から追い立てられ,ドイツ人を追い立てた地域に定住しています.
ソ連が崩壊し,東欧が開放されると,今度は元々住んでいたドイツ人達が,立退きは不当であるという主張をし始め,一斉に不動産引き渡し運動を始めました.
そんな中,グラスは戦争末期に起きた世界最大の海難事故である「グストロフ号沈没」を題材に本を描いた訳です.
今までドイツ人は加害者であり,特に東方で家財や家族を失った被害者は置き去りにされていました.
グラスはその流れに一石を投じたのです.
こうした背景をよく知りたいと,池内さんは彼の地を旅したのでは無いかと思ったりして.
こんな僻地(と言ったら失礼ですが)でも,ケーニヒスベルクにはカントという優れた哲学者が学問をしていましたし,コペルニクスも此の地で教会の仕事をしていました.
意外に学問が発展していたりします.
また圧巻なのは日本人でも訪れた人が少ないであろう「狼の巣」の見聞録です.
当時の独裁者とそれを排除しようとした暗殺者たちに思いを馳せ,ここがどんな地だったかを肌で体験していたりするのです.
地元を訪れた人ならではのエピソードは軍ヲタでも一読の価値があります.
文庫なので手軽に読めるのも魅力ですし,これを読んでからグラスの作品も読みたいなぁと思えるようになりました.
ま,何時のことになるか分かりませんがね.
------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2020-03-12
『戦時下のベルリン 空襲と窮乏の生活1939-45』(ロジャー・ムーアハウス著, 白水社,2012/11/22)
『第三帝国の神殿にて ナチス軍需相の証言』 (アルベルト・シュペーア著,中公文庫,2001/7)
ふと目について買ってきた.
今読んでいる最中で,どこかで見た文章だなと思ったのだけど,溥儀の「我が半生」と文体,視点がそっくりに思える.
(単なるデジャブだと思うけど)
戦争犯罪人として長く刑務所に入った人って,やっぱりこんな感じになっていくんだろうか.
------------ 眠い人 ◆ikaJHtf2 :軍事板,2002/04/02
ちょっとした偶然で党大管区本部の設計をする事になり,それがキッカケで,第三帝国の建築物の設計を手がけるようになり,トート博士の死後,最も適任であると云う事で,トート機関の主任になり,最後は,軍需大臣として手腕を振るった,シュペーアの男の一代記です.
ヒトラーと云う,偉くワガママな友人を持ったばっかりに,それに振りまわされる苦労.
でも,ベルリンと云う街を自分の思い通りに改造出来る楽しさ.
ナチ領袖の無益な縄張り争いに対する憤慨,等が綴られています.
崩壊していく帝国と,追い詰められて行く友人ヒトラー.彼との友情と,帝国が崩壊しても残るドイツと云う国への思いの中で苦悩し,最後の最後でヒトラーを裏切り,ネロ命令の無効化に奔走する様には,胸熱くするものがありました.
ま,それに付随して出てくる「殺人光線」や「ヒトラーがトーチカを設計した話」には笑わせていただきましたが(^^;
国家元首ではない,一個人としてのヒトラー像が,この本では主に書かれているのですが,な~んか,そんなに幸せそうではない気がします.
------------ ベタ藤原 ◆MNjfnp0E :軍事板,2002/07/06
『東京のハーケンクロイツ 東アジアに生きたドイツ人の軌跡』(中村綾乃著,白水社,2010.10)
表題と中身があっていない.
どちらかと言えば,1890年代にドイツが膠州湾に租借地を獲得してからの,植民ドイツ人の話.
第1次大戦に敗戦した後,勃興したナチズムに対して,東アジアに居住していたドイツ人社会がどう対応していったかを書いているもので,日本国内の話よりも,上海に於けるドイツ人社会の考察が中心.
まぁ,日本国内のドイツ人社会については結構,様々な本が出ているからね.
日本では,マイジンガーが常に目を光らせていたので,本国に迎合する部分が大きかったが,上海ではそのコスモポリタンな雰囲気から,ナチズムとは一定の距離を置いた動きとなっている.
例えば,中華民国に配慮した,上海ドイツ人学校のカリキュラムなどは興味深い.
強いて言えば,満州のドイツ人社会や戦後の中国に於けるドイツ人社会について触れて欲しかったが,まぁ,これは資料もないであろうから,無い物ねだりであろうか.
――――――眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板,2010/11/18(木)
『秘密警察 ゲシュタポ』(E.クランクショウ著,図書出版社,1972)
1000円で入手.
いちいち皮肉っぽいな,ライミー.
SS/SD関連では,ハインツ・ヘーネの「ドクロの結社」以上のモノってないね.
ちなみにこの本のなかで,ドブノでの大量処刑の際のエピソード,
「黒髪のすらりとした少女を私はよく憶えています.
『23歳!』
私の前を通り過ぎるとき彼女は自分を指さして,言いました.
(ニュルンベルグの証言者) 」
はスティーヴン・ハンターの「魔弾」(新潮文庫)にも出てきたと思われ.
------------軍事板,2002/10/12
青文字:加筆改修部分
『野戦郵便から読み解く「ふつうのドイツ兵」 第二次世界大戦末期に於けるイデオロギーと主体性』(小野寺拓也著,山川出版,2012)
5月のちくま文芸文庫から『普通の人々』と言う本が出されていました.
これは,第2次世界大戦中のドイツ軍において,徴兵された所謂「普通の人々」が,ホロコーストなどの非人道的行為に何故従事したのかと言う研究を著した本だったと記憶していますが,こちらもこうした研究に触発された研究書です.
あくまでも研究書なので,光人社NF文庫的な読み物の類とは異なります.
ただ,『普通の人々』は単一論的な論理で全てを説明しようとしたところに無理があり,それを巡って大論争が起きていました.
元々のこの辺の研究では,ヒトラーを頂点にしたナチスの上意下達の体制がこうした大虐殺を引き起こしたと言う「意図派」と,これではヒトラーが悪いで終わり,周囲のエリート層の関与が見えなくなるので,イデオロギーに拘泥せず,多頭制支配や政策決定の累積的急進化に基づく過程を記したのが「機能派」と言う2つの対立軸がありました.
しかし,『普通の人々』では文字通り,こうした問題をめぐり,市井の人々の思想はどうだったのか,と言う両派の間隙を突いたものであり,両派はこれに十分に対応出来なかった事から,第三の視点が出てきます.
この本では,そうした第三の視点から問題を明らかにしようとしたものであり,その題材を庶民である徴兵された兵士達の野戦郵便に求めました.
ドイツには各地に図書館の一部や博物館の一部に文書館と言うものがあり,それぞれで庶民の手紙などの寄贈を受けているそうです.
その中で第2次世界大戦中に発せられた野戦郵便の総数は約30万通に上るそうですが,当時往き来していた野戦郵便の総数300~400億通からするとかなり少ない数です.
しかも,あからさまなナチス礼賛などの手紙は寄贈時に取り除かれていることでしょうから,そう言う意味ではちょっと偏った感じも受けます.
ただ,野戦郵便の実物と,ベルリン・ドキュメント・センターの国家社会主義労働者党の党員記録が確認した人を照合して,党員,非党員であることを確かめ,また,階級は将校では無く下士官以下とすることでより庶民階級に近い兵士達の手紙を研究の母数として抽出しています.
また時代は敗戦に向う1944年以降を扱っていて,当時の撤退戦において,兵士達がどう言ったことを考えていたかなどを抽出しようとしています.
しかしながら,サンプルとして抽出した研究対象のうち,擲弾兵は20%に過ぎず,一番多いのは通信兵や無線兵と言った通信兵科の人々で,その他も工兵や衛生兵と言った特殊兵科の人々が殆どになっています.
彼等は,擲弾兵として配属された兵士よりもかなりインテリ層に近い人々なので,勢い手紙についてもその知識的偏りが見られ,所謂「庶民」とは異なります.
この辺を割り引いて読まないと,もしかしたらこの本を読み誤るかも知れません.
こうした手紙の研究から読み取れるのは,先ずサンプルの殆どが特殊兵科の兵士たちなので,粗野な一般兵科の連中とは反りが合わないとか,一種のエリート意識を持っていると言う事.
擲弾兵になった人はその辺の資料が少ないし,手紙を書いても文書館に寄託するような人々ではないでしょうから,実際の庶民とは少し毛色が違うのかなぁ,と.
教育の無い連中に対しては,同じドイツ人でも批判的なのですが,それが現地人に対する略奪については悪びれることなく書いていたりする.
一方で,これだけの負け戦では国家元首にも批判が集中しそうなのですが,結構末期まで,兵士達はヒトラーに期待を寄せているのが意外です.
その分,他のエリート達(党やヒムラーやらゲッベルスやらの政府指導層や指揮官など)に対する不満は高いのですが.
この辺,今の日本と似ているような気がしないでも無い.
また,反ユダヤ感情やドイツ人優先主義があるのかと言えば,古くからの刷り込みの所為か,ユダヤ人はもとより,ドイツ民族以外の外国人(特にスラブ人やイタリア人)に対する蔑みが見られます.
しかし特段ユダヤ人について,排他的な感情は余り見受けられず,ドイツ民族以外への蔑みが全体を通して同じ様に有るだけに思えます.
まあ,そうした手紙は意図的に排除して寄贈しているかも知れませんけど.
対象が限定されているので,全体を割り引いて読む必要もありますが,総じて面白い研究書だったように思えます.
これが日本だと,先ず手紙が残っていないし,それを保管する機関も無い,また国家文書も意図的に廃棄されてしまったので付き合わせも出来ません.
人々のオーラルヒストリーは,時が経つにつれて美談化しがちですから,今から太平洋戦争を総括すると言う事が難しいと思います.
こうした研究は,欧米諸国でしか成立し得ないのでしょうねぇ.
------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2019-10-15
『我が足を信じて 極寒のシベリアを脱出,故国に生還した男の物語』(ヨーゼフ・マルティン・バウアー著,文芸社,2012.5)
【質問】
アーヴィングの著作はどうですか?
歴史修正主義の烙印押されましたけど.
【回答】
手元にあるドイツ公刊戦史の『Das Deutsche
Reich und der Zweite Weltkrieg』を,数冊見てみたけど,デビッド・アービングの「ヒトラーの戦争」とか「ロンメル」「ドイツ空軍の悲劇」なんかは,参考文献に挙がっているね.
あと,ジョン・キーガンやゴードン・グレイグは,アーヴィングのこと高く評価してるよ.
無論ホロコースト否定論には与してないけど.
ゴードン・クレイグの間違はドイツ外交史の大家で,『軍事力と現代外交』の著者の一人.
『狐の足跡』にはネオナチ的な記述は無いし,『ヒトラーの戦争』にしても,メインテーマはヒトラーの戦争指導であって,ホロコースト関連の記述は全体的には少ない.
▼ 「ヒトラーの戦争」も一読の価値あり.▲
ホロコーストがらみの箇所は真に受けない方がいいけど,戦争指導の経過や,有名な軍人の態度についての記述は興味深い.
後,注意が必要なのは「独ソ戦は予防戦争だった」という文脈の部分かな.
(スヴォーロフとホフマンの著書が邦訳されれば,予防戦争説について,より詳しく知ることが出来るんだけどな.守屋さんに頑張って翻訳して欲しい)
下のブログで,この本の書評が出ている.
http://ona.blog.so-net.ne.jp/
「だから信頼できる」
なんて短絡的に主張する気はないけど,信憑性や史学会の評価を判断する材料のひとつにはなるんじゃないか.
最近は
「この本はダメだとわざわざ触れるために参考文献に使うこともある」
なんていう,根拠不明で無理矢理な解釈して噛み付くヘンな人もいるから,うっかりしたことは書けないけどね(笑)
▼ 【追記 utóirat】
その後,アーヴィング対ペンギンブックス・リップシュタット裁判において,アーヴィングは意図的に反ユダヤ・プロパガンダを流布する反ユダヤ主義者であることが確定した.
彼の著書はその信条に基いてヒトラー無罪論を展開しており,都合の悪い資料は歪曲解釈する,それもできなければ無視するという手法を頻繁に繰り返していた.
上に出ている『ヒトラーの戦争』も,そのような悪質な手法で書かれているという.
詳しくは
リップシュタット『否定と肯定』(ハーパーコリンズ・ ジャパン,2017)
を参照されたし.
これではどんな豊富な資料に基づいていても,その著作は一読の価値もないと言わざるを得ない.
どこにどんな歪曲が潜んでいるか分からないからである.▲
軍事板,2010/02/23(火)~03/29(月)
&軍事板,2010/05/12(水)(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
【反論】
そりゃまぁ,アーヴィングの所業が明らかになって,裁判で負ける前だからねぇ.
また,ネオナチの手口って幾通りもあって,たとえば
・ヒトラー暗殺に関ったロンメルを誹謗することで,ロンメル英雄伝をクズしていく
・ヒトラー暗殺にロンメルは関与していなかった,と主張することで,ヒトラー暗殺に関った人々が英雄だった,という印象を少しでも薄めるべく力を尽くす
こうした戦略の下,たとえばロンメルの行動一切について細かな歴史改変(ねつ造とも言う)を積み重ねていくのが,正しいネオナチの姿勢な訳だ.
アーヴィングの場合,欧米の研究者が,彼の著作を徹底解析して,どこを改変してネオナチにとって都合のいい記述にしているか,解析している人もいるらしい.
軍事板,2010/02/23(火)
青文字:加筆改修部分
▼
また,「将軍たちの戦い」「狐の足跡」(ハヤカワ)についてもそうなんですが,どうもアーヴィングは裏を取らずに断定する悪い癖が感じられます.
例えば「将軍たちの戦い」で,
「ブラッドレーはパットンを嫌っていたからウルトラ情報を漏らしてやらなかった」
と書いてあるところがありますが,ウインターボーサムの「ウルトラ・シークレット」によると,ドイツの捕虜になるかもしれない最前線には行かない,という誓約ができない人にはイギリス軍情報部がウルトラ情報を教えなかったんだそうですね.
パットンなんかまさに教えてもらえない口でしょう.
第7軍司令官ドルマン大将の死が自殺であったことを参謀長から聞き出したり,いい素材は個々にはつかんでいるんですけどね.それを憶測とごちゃまぜにして書いているのが惜しまれます.
どろんぱ:軍事板,2001/02/04(日)
青文字:加筆改修部分
▲
【再反論】
アーさんはナチシンパなのは社会の常識なんだから,それを考慮して読めばいい,それだけだ.
つうか,書かれていることを鵜呑みにするなんて,ただの馬鹿.
軍事板,2010/02/23(火)~03/29(月)
青文字:加筆改修部分
▼
キーガンもクレイグも,アーヴィングの問題点は完全に理解した上で,特定の領域に限定して著作の価値を認めている.
しかも,2人がアーヴィングを評価するコメントしたのは,アーヴィングがホロコースト否定論者になり,例のリップシュタットとの裁判に負けた後のこと.
にもかかわらず,ホロコースト否定論には無論与しないながらも,高く評価してるわけだ.
書評的見地から述べると,アーヴィング『ヒトラーの戦争』は,ヒトラーとホロコーストの関係に関する箇所は信憑性に疑問符がつく.
しかし,ヒトラーとドイツ軍人との戦争中の関係に関する論考は,「ドイツ国防軍潔白神話」の検証に寄与する面があるから,今でも一読の価値はあると思う.
特に,著名なドイツ軍人の戦後の日記改竄などを暴いている点は重要.
結局,書評スレッド的な結論は,
「どんな本でも鵜呑みにせず注意して読む」
という当たり前の話に落ち着く.
誤りが無い本なんて無いし,少しでも間違いがあっただけで全否定したら,まともな本はこの世に一冊も存在しないことになる.
【再々反論】
ただねえ,信憑性に疑問符がつく本って,
「他は腐ってないから安全だろう」
という検証をやるのに,手間がうんとかかるのよ.
たとえるなら,毒入り餃子みたいなモノで,ロットの一部に毒が入っているけど,他は安全だよ,という一部の言葉を鵜呑みに,そいつをおまえさんは食えるのか?ということと同じなんだけどねえ.
おまえさんは「食える」と言っているわけだ.
でも,それで「食えない」と言っている人たちを責めるのは,お門違いってもんだよ.
ネオナチ確定で,一部の国からは「我が国に入るな,このネオナチのキチガイ」呼ばわりされている男の本を,わざわざ取り上げて「その一部は有益だ」といっても,そんな奴の本から孫引きするより,もっとまともな研究者の本から引っ張ったほうがいいのでは?という話もまた真実だろう.
これまたたとえ話で恐縮だが,オウムの信者が書いた宗教書があって,
「アサハラのことを書いたところは,オウム信者特有のデンパが全開でクソだが,一部に面白い主張があるから全面的にそれを引こう」
と,孫引きを熱心に勧める人がいたら……
私はとりあえず
「それよりはもっとマシな本から引かないか?」
と助言はするね.
▲
▼
「ジョン・キーガンが高く評価してる」と言う点にしても,キーガンが,アーヴィングの書いた本の資料の「どの部分を」 評価し,キーガンの目で「この部分は正しい」とする部分を正しく抜き出す力なわけで,そこがきちんと明らかにならないと「キーガンがほめた」というだけで我々が使うのは恐すぎるよ.
たとえるならさ.凄腕のF1ドライバーが,ある車種のある部分を誉めたとして,その情報の子細がわからぬままその車に飛びつくことがあまり賢明ではない
(自分では乗りこなせない車種に特攻してしまう危険性)
のと似たようなものというか.
キーガンを引くなら,やはり「キーガンがどの部分を評価し」「少なくともその部分は安全」と見なしたのか?,まで踏みこまないと,知らない人は「アーヴィングは全部安全」と,迂闊な早とちりをしちゃうかもしれないよ.
個人的には,裁判所が四万ポンド支払えと命じた人を信用する気持ちはあまり起きない.
この世に歴史家がアーヴィング一人しかいないのならやむなく読むかも知れないけど,他にもっとましな人たちがいるよねえ.
▲
▼
カレルなんぞ引いているのは,「毒をきちんと除ける知識を持ったベテランふぐ調理人」くらい.
それを素人にも勧める馬鹿がいるから問題になる.
【再々々反論】
「おまえら素人は毒を除く知識ないんだから,あの著者の本読むな」
とか言われても・・
軍事板,2010/05/07(金)~05/08(土)
&軍事板,2010/05/12(水)(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
▲
【質問】
ワイマール共和国は共和制なのに,なぜDeutsches
Reich と名乗っているのか?
【回答】
Reichは「帝国」という意味だけでなく,単に「国」をも意味するのではなかったでしょうか.
皇帝を戴く国ではないヴァイマル共和国の軍隊はReichs
Wehrだし.
Deutsches Reich(ドイツ国)は1871年から1945年までのドイツ語の国名であり,帝政ドイツ,ワイマール共和国,ナチス・ドイツの三つの時代に区分されます.
ですから上述のとおり,Reichは必ずしも君主国を指すものではありません.
ソースはウィキペディア「ドイツ国」ですが,英語版,ドイツ語版もそうなっているので間違いはないでしょう.
【質問】
ドイツにおける鉄十字の変遷を教えてください.
日本語版ウィキペディアを見ると,現代ドイツは鉄十字とも縁を切ったようですが.
【回答】
それは鉄十字を黒十字と混同していると思われます.
鉄十字はプロイセン王国以来,ナチス・ドイツ時代も通して軍隊のシンボルとしての使用が続いているのに対して,国籍標識としての黒十字は1918年に航空機に初めて使用された後,第二次世界大戦で航空機・戦車・車両に幅広く用いられたものの,戦後は廃れた,ということになっているみたいです.
ソースは英語版Wikipedia「Iron Cross」.
実は「黒十字は1918年に航空機に初めて使用された」というのは「Iron
Cross」ではソースが付いていないのですが,ただ国防軍は黒十字(バルケンクロイツ,直線だけで構成される)で,今の連邦軍では曲線的,末広がりの鉄十字というのは写真なんかでいつも見ているわけで,大丈夫かなあと.
「Luftstreitkräfte」(WWI中のドイツ空軍)の項でも1918年からバルケンクロイツだと書いてありますし.
白地に黒の十字であるドイツの鉄十字意匠は,遡ると中世のTeuton騎士団の騎士団旗に行き着きます.
元々,欧州に於て四角い旗に十字と言う意匠が定着したのは,十字軍の旗から始まって,
1188年のFrance王Philip-August,
England王HenryII,
Flanders伯Philip
が取り決めを結び,旗に表示する十字の色を一定にする事にしたのが最初と言われています.
Franceは白地に赤十字,
Englandは赤地に白十字,
Flandersは白地に緑十字
として制定され,
1277年にEnglandが旗の地色と十字模様の色を逆転させて白地に赤十字となり,
Franceは1375年に逆に赤地に白十字になり,更に青地に白十字に変更されています.
時代は下って,1867年に北ドイツ連邦がPrussia主導の下に作られますが,この時にBismarckが制定したのが,1848~51年にPrussiaの海運大臣が推し進めた国旗案にあった赤・白・黒の横三色旗で,国民に対しては赤と白はHanza諸都市,黒と白がPrussiaを指すと説明され,国王Wilhelmに対しては,黒と白はPrussiaを,赤と白がBrandenburgを指すと説明して,なし崩し的に国旗にされました.
その海軍旗は,黒・白・赤を旗の右上にカントンとして表示し,白地に黒線と白線で縁取りされた黒十字の中央にPrussiaの鷲が描かれたものとなりました.
白地に黒十字は,Teuton騎士団の象徴から拝借し,且つ,陸軍の兵士や海軍の水兵達の軍功章の代表的な紋章である鉄十字を組み合わせた物です.
これは1872年のドイツ帝国成立後もそのまま用いられ,第一次大戦が終わるまで使用されました.
20世紀に入ると航空機が登場します.
陸軍には1910年に,海軍には1912年に航空機が配備されました.
1912年,陸海軍機には,自国を表す標章を付けねば識別が付きませんから,当初は翼に黒い帯状の線を引いて識別していました.
1914年9月28日から陸軍の機体には,俗に言う黒のMalta十字が,胴体,垂直尾翼,主翼上下に付きました.
一方,海軍の機体には,方向舵と主翼に,海軍旗と同じ真っ直ぐの黒十字の意匠が塗装され,これは1915年まで使用されています.
1915年に陸海軍機とも,黒のMalta十字に意匠統一され,一時的に真っ直ぐな黒十字は姿を消します.
1918年4月18日になると塗装の簡素化から,曲線のあるMalta十字は中止となり,真っ直ぐな所謂Balkan十字に変更されます.
但しBavaria王国所属機については,胴体に白縁付き黒十字を描き,方向舵は全面黒となっていました.
第一次大戦でドイツが敗北し,航空機の保有は禁じられることになります.
また帝政も崩壊した為,その国旗も黒・白・赤の横三色旗から現在と同じ,黒・赤・金の横三色旗が1866年以来復活します.
勢い,Balkan十字は消滅しますが,1933年にHitlerが政権を獲ると復活します.
但し,1933~36年までは垂直尾翼には鉤十字ではなく,Hindenburgに配慮してHitlerが復活させた黒・白・赤の横三色旗の旧国旗が使用されていました.
赤地に白丸鉤十字の国家社会主義労働党旗は,並行して国旗として用いられた形です.
1935年に国家社会主義労働党旗が国旗に採用されると,再軍備した空軍の機体には,Malta十字に加え,垂直尾翼に今までの黒・白・赤の旧国旗に変わって,鉤十字旗が描かれる様になります.
赤地が目立ちすぎると言うので,それが本格的に消されたのが1940年以降で,以後1945年まで,Variation色々なBalkan十字が使用される事となります.
大戦が済んで,再び敗れたドイツは4カ国+αの占領下に置かれることになりますが,航空兵力が復活したのは,1950年にソ連占領地区に於て,人民警察航空隊が作られてからです.
この時は,未だ公式には占領下ですので,旗の公式掲揚は禁じられ,1949年に漸く,Weimar時代と同じく,国旗の意匠は東西とも黒・赤・金の横三色旗に戻ります.
因みに,1945~49年の民用船舶意匠旗は万国船舶信号書のC旗の末端部に三角の切り込みを付けた青・白・赤・白・青の横線旗が使用されています.
また,Franceの支配下に置かれたSaar地方については,旗竿側から青と赤の縦二色旗に白十字が描かれたFrance国旗に似た旗が1956年まで使用されていました.
余談は兎も角,警察航空隊の飛行機には,黒・赤・金が三色分かれて菱形の中に描かれていました.
その後,1955年以降,ソ連占領地区と米英仏其の他占領地区に分かれてドイツは独立しますが,ドイツ民主共和国の空軍には,人民警察航空隊と同じ意匠が描かれます.
しかし,同じ国旗だと見分けが付かない為,民主共和国側は連邦共和国の抗議を押し切って,1959年に中央に国章が描く様になりました.
ディバイダーと麦と槌の例の物で,これが空軍標章にも適用されます.
一方,ドイツ連邦共和国のそれは,1955年に制定されますが,1918年初頭以来のMalta十字を採用し,方向舵に国旗を描いていました.
飛行機というのは船舶から色々取り入れた部分が多かったりします.
Germanyの航空機徽章と言うのも,最初は海軍旗から取り入れた訳で,実際に直線の黒十字が使われたのは,1912年以降になったりする訳です.
【参考文献】
1967年刊のAircraft Markings of the World
1912-1967(英国Harleyford刊/Bruce Robertson)
1998年刊のMiritary Aircraft Insignia of
the World(米国Naval Institute Press刊/John
Cochrane&Stuart Elliott著)
後者はAnnapolisにあるので,米海軍関係の出版局か何かか,と.
Teuton騎士団の騎士団旗とドイツ国旗の話は,『世界旗章図鑑』(ホイットニー・スミス他著,平凡社,1977.6)を参照しました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年08月15日22:15
【質問】
ドイツ軍と聞くと逆卍と鉄十字が思い浮かぶのですが,この二つ,どう意味が違うのですか?
【回答】
鉄十字=ドイツの国籍標識
鍵十字=ドイツ社会主義労働者党の標識.
逆まんじ(卍)のマークは「ハーケンクロイツ(鉤十字)」と呼び,ナチス(国家社会主義労働党)のシンボルマーク.
源はサンスクリットの「スヴァステカ」という吉祥の印.
「鉄十字(アイゼンクロイツ)」は「バルカンクロイツ」と並んで使われるドイツの国家標識で,ドイツ国家のシンボル.
源はプロイセン王国の紋章で,さらに源を辿ると中世ドイツ騎士団の掲げていた紋章.
余談だが,卍はペンタグラム(☆)やヘクサグラム(イスラエルのダビデの星)と並ぶ人類最古のシンボルの一つで,幸運や神秘的な力をあらわしている.
古くからヨーロッパの貴族や教会などが家紋などに用いていたが,ナチが使ったために邪悪な意味がついてしまった.
たとえばフィンランド空軍は青い鉤十字を国家記章としていたが,これは空軍の育ての親であるスウェーデンのローゼン家の幸運のシンボルを採用したもので,ナチとは無関係.
アメリカのある州兵師団もかつて,地元先住民のシンボルであるオレンジに赤い鉤十字のマークを師団記章に用いていたが,開戦直前に別なものに替えている.
軍事板
Finlandの他に,Latviaも軍の機体の国籍表記にスワスチカを用いていました.
こちらは,Finlandと違って深紅の卍です.
但し,海軍が唯一保有していた Fairy Seal水上偵察機は,黒い逆さ卍になっていました(時期によって深紅だったり).
1941~44年に復活したLatvia空軍の機体も,尾翼に白い四角地に逆さ卍を描いています.
参考
http://www.nationalflaggen.de/flags-of-the-world/flags/lv%5Eair.html#1918
http://www.insigniamag.com/afs005.html
http://www.insigniamag.com/indan.html
ラトビア空軍のスワスチカ
(こちらより引用)
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
【質問】
あのチョビ髭野郎には愛想が尽きました.ドイツから出て行くにはどうしたらいいですか?
ルドルフ・ヘス
【回答】
とりあえず,中立国の誰かに成り済ますことが必要です.
スペイン語が出来るのなら中南米の人に,ポルトガル語が出来るのならブラジルの人に,アジア系ならタイとか日系とか中国系とか….
英語とフランス語しか出来ない人はご愁傷様….
で,出て行くルートは,1940年までなら主に4つありました.
一つは北ルート,
何らかの方法でSwedenに出国し,其処から何らかの伝手を頼って新大陸への乗船券を手に入れ,伝手の影響力を駆使して滞在先のビザを発給して貰い,2~3ヶ月に1度の新大陸行便船(貨物船)に乗れればOKです.
但し,トロンヘイムでドイツ軍の検査が行われます.
そこで疑われてはいけません.
なお,米国行は非常に人気が高く,その乗船券を巡る争いは熾烈ですので,出来れば南米経由の方が良いでしょう.
なお,間違われて撃沈,あるいは触雷で沈没と言うケースが稀にありますので,それに当たったらご愁傷様.
他に,滅多なことでは席が空きませんが,外交官とブリテン島の政府中枢に伝手があれば,航空機でひとっ飛びと言う方法もあります.
これも,Mosquito出現までは危なく,撃墜される場合もある諸刃の剣です.
南なら,Italy経由での出国が可能,但し,1940年夏以降は不可になりますが….
此処で何らかの方法で日本の船を探し出して乗り込むことが出来れば,安全にアジア方面に逃走することが出来ます.
これも,Swissのビザが必要になりますが,度胸を据えていけば,Austria周りでItalyに入国することでクリア出来ます.
勿論,触雷とかの危険はありますがね.
Greeceから便船を得てEgyptに渡ると言う手もありますが,其処に至るには,Magyar,Yugoslavia,Greeceと三カ国のビザが必要になりますので,素人にはお勧めできません.
西ならば,Franceさえクリア出来れば,Spainを経由して其処から便船を見つけて出国するか,更にPortugalに渡って其処から出国と言うことが出来ます.
このルートは,一番安全で便船の数も多かったりするのですが,如何せん,国内体制がネックで,共産主義者,共和派,反体制派などの思想の持ち主,お尋ね者は,利用できません.
下手をすれば,銃殺隊の前に引き出され,出国することも適わないかも.
東は,1941年6月までなら,旧PolandからMoskvaを経てシベリア鉄道経由で,満洲里に至り,日本を経由してアメリカに出国,もしくは,上海に渡ると言うもの.
香港に出られさえすれば,アメリカでもインドでもお好きな場所に行けるでしょう.
但し,お国がソ連を承認していなければ,その国のビザを取ることが出来ませんので要注意です(ビザなし渡航が可能な地域を除く).
それと,食べ物に注意しないと,偶に外交行嚢を抱えた外交官に毒や睡眠薬を盛られたりします.
ちなみに,1941年6月以降になると,東欧を通って,Turkeyに出国,其処からBakuを経由してKazakhなどの中央アジアを通り,シベリアからシベリア鉄道に乗ってと言うルートが推奨です.
さあ,あなたはどのルートを選びますか?
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2006年09月20日
▼ 地下ルートの場合,連合軍にとって重要な人物は,フランスからレジスタンスの支援で直接,イギリスに向かわせたりしている.
夜間,飛行機や小船,場合によっては潜水艦で回収した.
連合軍がフランスに上陸して,前線がドイツに迫るに従い,逆にドイツからの脱出は困難になったという.
かのフォン=ブラウンが連合軍に投降するため,偽の命令書を駆使した話は結構有名.
また,カトリック教会(いわゆるヴァチカン)は反共意識が強かったので,無名を問わず,多数のナチ党関係者がカトリック教会のネットワークを利用して欧州外に逃れた.
南米の親独国家に逃れて潜伏した人が多いのは,よく知られているところ.
アイヒマンはアルゼンチンで逮捕されてるし,メンゲレはブラジルで死んだとされている.
ルートはフランコ支配下のスペインを経由していたと思う.
尚,戦争中はドイツ国民であっても,国内の長距離移動は制限されていた.
ドイツ人だからドイツの占領地域には交通費さえ払えばノーチェックで渡航できる,なんて事はなかった.▲
「国家元首になる ⇒ ベルリンを蹂躙される
⇒ 偽者を自殺させて敵を欺き,その隙にUボートで南極のヒミツキチへ」
というルート希望(アドルフ)
【質問】
「贋LIFE」って何?
【回答】
ナチスがプロパガンダのために作ってバラまいた,「LIFE」誌のニセモノ.
本物
ニセ物
「おいジョー,今週のLIFEが落ちてるぜ」
「そりゃいいや,開いてみろよ」
さて,中身は…?
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq55g02a03.jpg
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq55g02a04.jpg
……死体写真で一杯です.
(グロ画像注意)
(グロ画像注意)
小ネタっつーか底意地の悪いブツがたくさん.
これを作った担当者は絶対ヤバい.
(グロ画像注意)
(グロ画像注意)
背表紙(ややグロ)
『ナチスの発明』って本がありましたけど,いわゆる「精神的ブラクラ」もナチスの発明だったとは意外….
いや,さもありなん?
おあとが宜しいようで.
【質問】
ベルリン陥落時の日本側の駐独大使は誰で,陥落後にどうなったのですか?
【回答】
駐独大使は,最後まで大島浩.
彼は,4月14日朝ににベルリンからザルツブルグの南方70kmにあるバドガシュタインに向けて避難.
ちなみに此処はアルプス要塞の近くで,早くからドイツによって大使館関係者の避難先に指定されていた.
同行は,長井亜歴山商務参事官,内田藤雄一等書記官,前田陽一外交官補,小松光彦陸軍少将,小島秀雄海軍少将,彼等は駐在武官,甲谷悦雄駐在武官補佐官(陸軍大佐),古森善五郎吸収医学専門学校教授などで,15台の自動車で大使館を出発.
5月11日にバドガシュタインは米軍の占領下に置かれ,大使は米軍に連行.
7月1日に大使ら主な人々33名は,ザルツブルグから空路,ルアーブルへ移送.
7月4日に輸送船ウェストポイント号で大西洋を横断し,11日にニューヨークに到着.
午後10時15分発の飛行機でワシントンに連行され,ポトマック河畔の第1142陸軍捕虜収容所に収容され,尋問を受け,8月8日からは,ペンシルベニア州ベッドフォードに大使一行6名は移送され,引き続き尋問.
11月16日,メリーランド州カンバーランドから,大陸を横断し,シアトルの移民収容所へ.
11月23日,米海軍輸送船ゼネラル・ランドール号に乗船し,12月6日に日本着.
ちなみに大島は,12月16日に大森収容所に拘留され,東京裁判で終身刑となる.
余談だが,ヴァイオリニストの諏訪根自子は大島大使夫人の私設秘書をしていた.
一方,駐独公使は,松嶋鹿夫.
彼は,ベルリンから北東に90km行ったプレンツラウから更に南西に12kmのクレヒレンドルフに避難し,大使館分館を開設.
クレヒレンドルフは,4月26日にソ連軍に占領されたが,当時はまだ日ソ間に戦闘状態は生じていなかったので,大使館分館の保護を要請(但し,その夜に自動車1台,トランク80個をソ連兵に掠奪されたが).
4月29日に内務省人民委員部部隊による残留事情取り調べを受けた後,ソ連政府訓令によって,モスクワへの連行が決定し,5月4日にモスクワに到着後,日本大使館に引き渡され,事情聴取の後,5月6日,寝台車でモスクワを出発し,16日に満洲里に到着.
なお,ベルリンの日本大使館には,河原畯一郎参事官,新関欽哉三等書記官,杉浦徳,兼松武,吉野文六,中根正巳各外交官補,間片英彦電信官,曽木隆輝二等通訳官,真田為市,大瀧孝義各外務書記生が残留.
4月21日より大使館にて籠城開始.
当日は10名に,大使館の雇員夫妻と料理人,湯本武雄大蔵省財務官,佐藤克郎横浜正金銀行ベルリン支店副支配人など5名合流.
4月25日に,守山義雄朝日新聞ベルリン支局長,原良夫同支局員合流.
5月18日,国境警備隊のソ連軍大佐が大使館を訪れ,4時間以内の出発を申し入れ.
リヒテンベルク駅より,他の邦人122名と合流し,ソ連を経て帰国の途につく.
◆◆◆ドイツの戦争方針
【質問】
1939年にソ連と独ソ不可侵条約を締結
同年のポーランド侵攻に始まり6月にはパリを占領→イギリスにも攻撃
上陸できないまま1941年にソ連に侵攻
とありますが,なんでいきなりソ連にドイツは侵攻したんでしょうか?
「イギリスとソ連に挟み撃ちになる→ドイツ兵力分散→まずい」
と思うのですが…
【回答】
イギリスに侵攻するのは不可能になったが,かといってイギリスに即座に反撃をしてくるような力があるわけでもなく(少なくともドイツはそう判断した),それならば西への侵攻が行き詰まったなら東へ…
ということで次の標的はソビエトに定められた.
まぁ,ヒトラーは実際にはイギリス本土へ上陸するつもりなど無く,バトル・オブ・ブリテンは講和条約を結ばせる為の圧力をかけるのが目的だった,とか,背後を攻撃されないようにソビエトと不可侵条約を結びはしたが,ロシアの植民地化はヒトラーの,というかドイツの歴史的目標だったので,必ずソビエトには攻め込むつもりだった,とか色々あるけど,端折って説明すると上のようになる.
んで,なんで1941年にソビエトを攻撃したかというと,ドイツは石油資源のかなりの量をソビエトに頼っていたのだけど(あとはルーマニアから),ソビエトはドイツへの石油供給を渋り始め(ドイツが欧州を制覇する可能性が薄れてきたので,ドイツよりも連合国側に石油を供給した方が得なのでは?と考え初めた),このままだとドイツの必要石油量が確保できなくなるか,さもなければ石油価格の高騰で経済が破綻する可能性が出て来た為.
それならば,まだ備蓄量が充分あるうちに・・・ということで1941年の開戦となった.
さして「いきなり」というわけでもなく,一応ソビエトもドイツとの戦争の可能性が急激に上昇し始めたことには気づきつつあって,主に東欧(ルーマニア,ハンガリー)方面を主正面とした先制攻撃計画が構想されたりはしていた.
そんなこともあって,ソビエトは前線部隊にドイツ軍に対して挑発と取られる行動を取ったり,またドイツ軍の挑発行動に応じたりしないようにとの厳命を出していて(ドイツに「先に手を出したのはソビエトだ」と条約破棄の口実を与えるので),それが開戦初日に徹底的に奇襲される原因になる.
スターリンは実際にドイツ政府内の極秘情報まで全部知ってて,バルバロッサの開戦日まで知っていたのに,「ここで対独戦争はしたくない」という自分勝手な思いだけで情報を全部無視してたことが明らかになってる.
独裁者の独善なのさ.
【質問】
独ソ戦はどうあがいてもドイツは勝てないと言う結論がでていますが,
絶対勝てないという意見はドイツの首脳陣にはなかったのですか?
【回答】
ヒトラーはそうは思っていなかった.
ドイツ軍首脳陣は
「開戦するにはまだ早い,もっと戦力を整えてから……」と考えていたが,権力者がやるといった以上
,やらないと言う選択肢はない.
ただドイツ軍首脳部も戦争を楽観視していた傾向があり,「勝てないかもしれんが和平には持ちこめるだろう」的な認識の甘さがあった.
結局電撃戦による初戦の大勝利で,
「なんだ,やれば出来るじゃん」
ということになり,後は惰性で物事が進んだ.
ポーランド,フランスそしてバルカン諸国.これだけ電撃戦が成功して慢心しない人は皆無かと
.
独ソ戦では,33個師団では足りないとして,同盟諸国の増援を頼ったがこれが又なぁ…….
同盟国の兵力計算の算定にも甘さが有る(これは側近参謀の責任)
【質問】
なぜドイツは負けたのか?
【回答】
ドイツ軍は,「戦争とは早食い競争だ」と思って始めた.
ソ連軍は,「戦争とは大食い競争だ」と思って受けて立った.
イギリス軍は,平時からどんな不味い物でも平気で食っていた.
アメリカ軍は,他の連中が食えなくなるまで料理を作り続けて勝った.
グルメなイタリア軍は,そもそも参戦したのが間違いだった.
初期の独ソ戦において,狭軌の貨物・機関車が足りていれば,モスクワをおとせた.
ヒ総統がグ将軍に,キエフに進撃させたのも補給が続かないと判断されたから.
ヒ総統がレニングラードを重視したのも補給を輸送船で行おうと考えたフシもある.
結局,補給ですね,敗因は
しかも,モスクワ落としたってソ連は降伏しなかっただろう.
退却を繰り返し,敵の補給線が伸びきったところで攻勢に移るというのは,ロシアのお家芸みたいなもんだし.
当のドイツ軍人であるクラウゼヴィッツは,「戦争論」の中で,
「広大な領土を持つ国の征服は困難である」
「首都やある地方を失っても最終的な勝利を得る可能性はある」
と述べている.
これはクラウゼヴィッツがナポレオンのロシア遠征のときに,ロシア軍側に参加して得た教訓だ.
独ソ戦といい,日中戦といい,結局この通りになった.
【質問】
仮定の話で恐縮ですが.
ナチス・ドイツの大きな敗因は二正面作戦を強いられたことだと思いますが,では,対西側または対ソ連のどちらか一方に戦線を絞れていたら,第二次大戦の帰趨はどうなっていたでしょうか?
特に,ドイツ人は「真の敵はあくまでソ連であり,,西欧とは和解できる筈だ」と考えていましたので,対英早期講和→対ソ戦に全力傾注,という流れは「不可能ではなかった」のではないかと….
まあ,チャーチルが居る限り講和は難しいでしょうが,例えば,ダンケルクで英陸軍を一網打尽にしておればあるいは?…という気がしましたので.
【回答】
ニ正面が敗因と言われますが,どちらか一方面のみでも負けたと思います.
西方で考えると,ドイツ海軍は空母一隻も保有してません.
建造中ではありましたが完成してません.
空母の制空権なくして大西洋の制海権は有り得ません.
潜水艦は作りましたが,これは空母よりコストが安く,貧乏性ゆえに悪い方向にコストパフォーマンスを考えた結果でしょう.
では対ソ侵攻一本槍では?と考えますと,当時のドイツの人口は7~八千万です.
一千万の兵力の動員は無理です.
片やソビエト連邦は約二億プラスで,開戦後まもなく総力戦体制に入ってます.
ドイツの総力戦体制は43年からで,41年から敗戦まで予備の補充兵力不足に悩まされ,西方の戦線がなくても予備兵力の不足で自然崩壊したでしょう.
最終結論でいいますと,ドイツの人口が3億で,工業水準と大量生産体制が米国並みだったら勝ってたかも知れません.
一等自営業 ◆JYO8gZHKO. :軍事板,2004/09/18
青文字:加筆改修部分
ところで,二正面作戦を強いられたと質問者は言うが,西部戦線も東部戦線も,ドイツ側から戦端を開いているんだが.
軍事板,2004/09/18
青文字:加筆改修部分
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