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目次


サダム・フセイン語録

サダム・フセインおよびイラク国営メディアからの引用集

2002年10月18日

下記の日本語文書は仮翻訳で、正文は英文です.

 長年にわたり、サダム・フセインとその政権は、イラクの国営メディアを利用して、嘘の情報を広め、近隣諸国と世界を脅かしてきた.これまでの主な出来事に関するサダム・フセインおよびイラク国営メディアの発言の一部を以下に引用する.これは、10年以上に及ぶ脅威のパターンを示すものである.

湾岸戦争(1991年2月)  

  「 われわれはどこまでも、常に(米国人を)追い続ける.いかなる鋼鉄の高層ビルも、彼らを真実の炎から守ることはできない」   サダム・フセイン、バグダッド・ラジオ、1991年2月8日  (国営)

  「(米国は、)アラブおよびイスラムのムジャヒディン(イスラム聖戦士)、そして世界中の誠実な闘争者による作戦や爆破から逃れることはできない」   国営イラク通信、1991年1月30日 (国営)

 「ブッシュおよびその共犯者に残されているのは、自分たちの犯罪に自らが責任があることを認めることである.彼らが公職を去り、忘れられた存在となろうとも、イラク国民は彼らを追及する.彼らが、アラブ人にとって復讐とは何かを理解するならば、われわれの意図を必ず理解するだろう」   バグダッド・ラジオ、1991年2月6日 (国営)

 「イラクの子ども、女性、老人は皆、復讐の方法を知っている・・・.彼らは、いかに長い年月がかかろうとも、流された純粋な血に対する報復を実行する」   バグダッド国内通信、1991年2月15日 (国営)

クウェートに対するイラク軍の結集(1994年10月) 

  「(米国は、)イラク国民一人一人がミサイルとなり、他の国や都市へ飛んでいけるということの意味を理解しているのだろうか?」   サダム・フセイン、1994年9月29日

 「国民が集団的な死の淵に到達したとき、彼らは全ての人々に死をもたらすことができる・・・」   アルジュムフリア紙、1994年10月4日 (国営紙)

 「われわれの攻撃の手は、(米国、英国、サウジアラビアが)何が起きたのかを意識する間もなく、彼らを襲う」   アルカディシャ紙、1994年10月6日 (国営紙)

  「われわれが絶望の一瞬に発射する化学兵器は、何十万もの人々に死をもたらすことができる」   アルクッズ・アルアラビ紙、1994年10月12日 (国営紙)

国連大量破壊兵器廃棄特別委員会 (UNSCOM) 報告書発表(1995年4月10日) 

 「イラクの選択肢は、限られてはいるが、存在する・・・.イラクの現状は、手負いの虎のようなものである.その一撃は、たとえそれが最後の一撃であっても、痛烈なものであり得る・・・」   アルクッズ・アルアラビ紙、1995年6月9日 (国営紙)

コバールタワー爆破事件(1996年6月25日)

  「(米国は、)サウジアラビアに送る棺桶の数を増やすべきである.今後何が起きるか、誰にもわからないからである」   サダム・フセイン、イラク・ラジオ、1996年6月27日

「砂漠の狐」作戦(1998年12月) 

 「(他のアラブ諸国が)誤った道を進み続けるならば、われわれは彼らの首にジハードの剣を振り下ろすべきである、いや、そうしなければならない・・・」   サダム・フセイン、1999年1月5日

 「アラブとアラブ湾の息子たちよ、外国人に対して反乱せよ・・・.自らの尊厳、聖地、安全、利益、そして崇高な価値のために復讐せよ」 サダム・フセイン、1999年1月5日

 「(サウジアラビア人とクウェート人の)血は、たいまつに火をつけ、芳香を放つ植物を育て、自由と抵抗と勝利の木に水を与える」   サダム・フセイン、イラク・ラジオ、1999年1月26日

 「イラク国民に対するこの卑劣な侵略戦争に追従者として関与し続ける者は、この侵略行為には大きな代償が伴うことを認識しなければならない」   サダム・フセイン、1999年2月16日

 「今必要なのは、米国と英国の国益に強力な打撃を与えることである.これらの打撃は、彼らの国益が言葉だけでなく行為によっても実際に脅かされていることを、彼らに実感させるだけの強力な打撃であるべきである」  アルカディシャ紙、1999年2月27日 (国営紙)

米軍駆逐艦コール爆破事件、2000年10月12日 

 「(イラク国民は、)あらゆる分野において、あらゆる手段を使って、闘争とジハードを強化すべきである」 イラク・テレビ、2000年10月22日 (国営) 9月11日同時多発テロ事件  「米国は、その指導者らが世界にまいた種から育った作物のとげを収穫しているのである」   サダム・フセイン、2001年9月12日


* 【追記】

http://www.memri.jp/bin/articles.cgi?ID=SP324110




緊急報告シリーズ - No. 3241




Oct/9/2010 No.3241

ムスリムの女王はなぜ歴史から消えたのか




インドのウエブサイトmuslimindia.inの最近の記事は,ムスリムの女王たち━過去数世紀にわたってムスリム世界のさまざまな地域を支配したムスリムの女王たち━の存在が否認されていることを取り上げた.筆者はこう主張する.さまざまな,とりわけインドとパキスタンのイスラム教専従者の正統的なイスラム解釈は,ムスリムの女王たちの大半が今や歴史から忘れられてしまったことを意味する,と.




「消えたムスリム女性統治者の秘密」と題されたこの記事は,モロッコの社会学者ファーティマ・メルニシ(Fatima Mernissi)の著作『イスラムの忘れられた女王たち』の論評記事で,筆者はライハナア・ハサン(Raihanaa Hassan).記事は最初に(インドの)デリーを本拠地とする雑誌「国家と世界(Nation and the World)」に発表され,後にインドのムスリム・ウエブサイトmuslimindia.inに掲載された.




記事はこう述べる.「女性ムスリムの統治者の総数は20人に上る.それなのに,なぜ,彼女らの大半が,われわれの歴史書から消え,彼女らの存在そのものが否定されているのか.頑固な保守主義の(イスラム)正統派は彼女らの存命中に彼女たちの多く(の統治)に反対した.しかも,この反対は彼女らの死後も彼女らを追及し,彼女らを(人々の)記憶から消し去ったのではないか」と.




以下は,この記事の一部抜粋である.※1




女性ムスリムの統治者の総数は20人に上る.それなのに,なぜ,彼女らの大半が,われわれの歴史書から消え,彼女らの存在そのものが否定されているのか.




「1988年ベナジール・ブット(Benazir Bhutto)がパキスタンの首相になった時,怒りの声が挙がった.反対者たちは(イスラム)正統派神学者の助けを得て,彼女の首相就任が非イスラム的であり,『本性に反する』と非難.加えて『622年から1988年にかけ,女性がムスリム国家を支配したことはない』と語った.モロッコの作家で,社会学者のファーティマ・メルニシは,この発言の正確さを検証した.彼女があたったのはイブン・バツータ(Ibn Batuta)とイブン・ハルドウン(Ibn Khaldun)からスタンリー・レーン・プール(Stanley Lane-Poole)(Encyclopedia of Islam)に至る探険家,学者,歴史家の著作だった.メルニシが(その著作)『イスラムの忘れられた女王たち』で明らかにした発見によると,11世紀から17世紀にかけて存在したムスリムの女王たちは少なくとも17人に上るという.




「メルニシは(女性統治者)リストをムスリムの主権者の基準━その名前が,モスクの金曜礼拝フトバ(説教)で表明され,また,その統治期間中に鋳造された硬貨に刻まれる━を満たす女性統治者に限定する.(これら女性統治者の中で)比較的よく知られているのは,13世紀のマムルーク(トルコの奴隷)王朝の2人の女王である.もちろんのこと,うち1人は,デリー・スルタン国のラディーア・スルターナ(Razia Sultana)である.ラディーアの父親は彼女の器量が母親違いの兄弟3人に比べて大きいと認め,後継者に指名した.もう1人はエジプトの賢明なスルターナ・シャジャラトル・ドッル(Sultana Shajaratul-Durr)で,彼女は十字軍戦争の際フランス軍を打ち負かし,国王ルイ14世を捕虜にした.




「しかし11世紀にイエメンを夫と共同統治したアラブ人女王2人のことを聞いたことのある人は数少ない.(彼女の同時代人が,この時代の最も有名で強力な女性の1人と述べている)アズマ・ビント・シハブ・アル・スラヒイヤ(Asma bint Shihab Al-Sulahyya)と彼女の義理の娘アルワ(Arwa)である.2人は『サイエダ・アル・フッラ(Syeda al-Hurra)』の称号で呼ばれた.また,モンゴル朝の女王たちも同様のほとんど書かれていない.だが,モンゴル朝はこれら女性たちに敬意を払い,イブン・バツータを驚かせている.(1256年から1340年にかけ)少なくとも6人の女王が今日のイラクとイランのさまざまな土侯国を統治した.彼女たちは,キルマンKirmanのクトゥルグKutlugh(トゥルカンTurkanとしても知られる),ハトゥンKhatun,シーラーズを首都としたアブシュ・ハトゥンAbsh Khatun,(ペルシャの)ルリスタンLuristanのダウラト・ハトゥンDawlat Khatun,及びイラクのサティ・ベクSati Bekとマリカ・ティンドゥMalika Tinduである.




「この後,モルジブでは1347年から1388年の40年間,ムスリムの女王3人が継続して統治にあたった.うちスルターナ・ハディージャ(Sultana Khadija)が33年間統治し,次いでスルターナ・ミリアムSultana Myriam,スルターナ・ファーティマSultana Fatimaが統治した.インドネシアで最初のムスリム王国が樹立された地域アチェ(Atjeh)では,17世紀(1641年から1699年まで),女王4人(スルターナ・タジュル・イスラームSultanas Tajul Islam,ヌールル・アーラムNurul Alam,イナーヤト・シャーInayat Shah,カマラト・シャーKamalat Shah)が,反対者たちが彼女たち(の統治)に反対するファトワ(イスラム法判定)を得たにもかかわらず,継続して統治した.




「メルニシ以外の専門家の中では,1679 年から1681年にかけ中央アジアのカシム(qasim)を支配したモンゴル人の7人目の女王スルターナ・ファーティマ・ベグム(Sultana Fatima Begum)を挙げる人がいる.彼女は,ロシア人にはスルターナ・サイイドブナ(Sultana Sayyidovna)の名前で知られている.さらに,アフリカのサハラ南部のムスリム女王12人を挙げる人もいる.マリのマンサ・スレイマン(Mansa Suleiman)の1番目の妻カサ・・・と,西アフリカの著名な征服者で戦士女王ザウザウ(Zauzau)のアミーナ(Amina)などだ.




「女性ムスリムの統治者の総数は20人に上る.それなのに,なぜ,彼女らの大半が,われわれの歴史書から消え,彼女らの存在そのものが否定されているのか.頑固な保守主義の(イスラムの)正統派は彼女らの存命中に彼女たちの多く(の統治)に反対した.だが,この反対は彼女らの死後も彼女らを追及し,記憶から消し去ったのではないか」




女性が公職に就くことへの反対は,見たところ,1つのハディース(預言者の言辞)に由来する・・・同ハディースは『ものごとを女性の手にゆだねる国家は決して繁栄しない』と言う




「女性が公職に就くことへの反対は,表面上は1つのハディース(預言者の言辞)に由来する・・・預言者(彼に平安あれ)は『ものごとを女性の手に委ねる国家は決して繁栄しない』と言ったと伝えられる.(もっとも)このハディースに関する神学者たちの解釈は異なる.一部神学者は,女性たちを全ての公共義務に近づけないとする.一部は,女性たちが,判事を含めた公共の職務を持つことを認めるとする.少数ではあるものの,女性が国家の長になる権利を認める学者すらいる.他には,預言者・・・がこの発言を行ったのは,ペルシャ人がホスローの娘を自分たちの支配者に任命したのがきっかけと指摘する.これらの人々は,したがって,この発言で預言者は特定の1人の女性に言及していたわけで,女性一般に言及したわけではないと主張する.(なお,預言者・・・は,改宗を勧める預言者の手紙をホスローが破った後,同王朝の終焉を預言していた).




「メルニシは『ベールと男性エリート』の中で,このハディースの信頼性に疑問を投げかけている.彼女はその根拠として,こう指摘する.このハディースの語り手アブー・バクラー(Abu Bakrah)は以前奴隷だった人物で,イスラム改宗後に享受する自由と財産を危うくすることを恐れ,預言者の死後25年,(第4代正統カリフ)アリー(Ali)が『ラクダの戦い』で(預言者が寵愛した夫人)アーイシャ(Ayesha)を破った後,アリーの愛顧を得ようと切望して,預言者の発言を都合よく思い出したのではないか,と.このほか,アブー・バクラーは(第2代正統カリフ)オマルの統治期,過った証言を広めたことで鞭打ちの罰を受けた人物でもある.




「預言者・・・は支持者に対し,預言者が話したとされる発言で,コーランの啓示を侵す発言はなんであれ拒否するよう告げたが,(問題の)ハディースは,コーランのシバの女王に関する説明(コーラン27章)に反しているように見える.というのも,この説明には,シバの女王の統治が禁じられていると示唆する箇所はないからだ.さらに,歴史自体が,このハディースの含意を認めない.というのも,幾人かの女性統治者の下で繁栄した国々があるからだ.例えば,エリザベス1世(Elizabeth 1)とヴィクトリア(Victoria)統治下のイングランド,ゴルダ・メイア(Golda meir)下のイスラエル,インディラ・ガンジー(Indira Ghandhi)下のインド,大帝エカチェリーナ(Catherine the Great)下のロシア,イザベル(Isabella)下のスペインなどだ.“後に歴史が論駁する”発言を預言者・・・が行うなんて,どうして考えられたのか.むろん,恐ろしい女性統治者も幾人かはいた.これらには,劣悪な行政官か悪いムスリム,あるいは,そのどちらでもあった.しかし,全く同じことが男性の国王たちについても言えることだ.




「さらに,このハディースを最も限定的に解釈するのは,女性は見られても,その声が聞かれてもいけない,いわんや公の職務に就いてはいけない,という見解に同意する者たちだ.文化の遅れた,(パキスタンの軍事独裁者)ジアウル・ハク(Ziaul Haq)の時代に,著名なアーリム(イスラム学者)が,女性は電話に出ることも,彼女たちのプルダ(婦人を男子から幕で隔離する慣習)を侵害しており,避けるべきだと宣言したことがある.こうした人々の態度には女性嫌悪症━数世紀にわたって文化的に鼓吹された強度の女性嫌悪症━が深く染み込んでいる.この強度の女性嫌悪症は,女性に対する尊敬と保護に関するコーランの命令を一種の投獄(命令)に,また,彼女たちの生活と同様,彼女たちの心を支配する許可証に変えた.




「数年前まで,ムスリムの一部家庭では(インドのイスラム学者)マウラーナ・アシュラフ・アリー・サンヴィ(Maulana Ashraf Ali Thanvi)の著書『バヒシュティ・ゼワル(Bahishti Zewar)(天国の装飾品)』を花嫁に贈る慣習があった.イスラムの信仰と祭儀に関する本で,とりわけ,両親の葬儀に参列する以外には,両親を訪ねるためでも嫁ぎ先から決して出てはいけないと女性に勧告している.一方で,この本は,女性たちに文字を知るよう促している.当初,読みの勉強を許されたのは,特権を持つ数少ない女性たちだった.しかし,文字を書く勉強は,彼女らがそのスキルを使ってラブレターを書くこという━最も恐ろしい事態━が起きないよう,決して許されなかった.




「たぶん,この考え方こそ,ムスリム女王をわれわれの歴史から消すことに責任があったのだろう.メルニシは女性たちに,自己防衛のため,自分自身の歴史を読み,歴史を再構築するよう,『過去に対するわれわれの無知が,今われわれに対して使われている.このため,われわれは行動を起こさねばならない.過去を読みなさい』と促す.こうして,『彼の』ストーリーに『彼女の』ストーリーを付け加えるためには,まず女性の教育が必要となる.そして,こうすることによってのみ,彼女たちは『歴史を読み』,自分自身を信ずることを学び,自分たちの才能を発展させ,━それが家庭内であれ,職場であれ,役所であれ━唯一神が彼女たちに与えた潜在可能性を実現することが出来る.その選択は彼女たちの,また彼女たちだけの選択であるべきだ」




注:

[1] [1]www.muslimindia.in , India, January 10, 2010.記事のテキストは,わかりやすくするため若干編集した.


http://www.bk1.jp/review/0000479520
http://www.bk1.jp/review/0000479520
日本を決定した百年 中公文庫
吉田 茂著
出版 : 中央公論新社
発行年月 : 1999.12

吉田茂という偉大な政治家の透徹した世界観を味わうことが出来る好著!薄い本だから,誰でも手に取ることが出来る.でも中身は濃く,重い.
塩津計
2009/11/10 9:27:01

本書が最初に出版されたのは昭和42年.もともとはエンサイクロペディア・ブリタニカが付録として出している補追年鑑に寄稿した英文に手を加えたものである.本文177ページ.付録部分をあわせても213ページの薄い本である.しかし中身は濃い.

内容は戦後復興がなった日本の元首相が,明治維新以来近代化の道を驀進した日本の過去100年の歴史を「マルクス主義という完全に間違った視点」に全く毒されない澄んだ目で振り返り,見直したものである.そこにははっとさせられるような鋭い視点がふんだんに盛り込まれている.

最初は「幣原外交」に対する吉田の厳しい批判である.幣原は一般には軍部と対立し,田中義一の武断外交と対置されて,平和外交を貫いた「正義の士」のように祭り上げられることが多いが,当時から実は評判の悪い人だった.吉田は幣原外交の欠陥を「中国のように(法秩序が崩壊し)混乱状態にある国に対して,文字どおり法律的な態度をとることには無理があった」とする.当時の満州は匪賊,馬賊も交えたシナ軍閥,満州軍閥が割拠する混乱の渦中にあり,そうした中で現地に進出した日本人はシナ人から「排日運動」という現在のインティファーダにも似た不当な圧迫を受け続けていた.英国政府などは,かかるシナの非合法な自国民圧迫については軍隊を派遣するなど断固たる措置を取って,シナに進出している自国民を保護したが,幣原はシナがあたかも日本や欧州同様の先進国であるかのごとき仮想空間と見立てて法律家のように望んだのである.現地では法律なんかどこ吹く風の権謀術数が横行していたにもかかわらずである.しかも幣原は三菱財閥に連なる大金持ちのエリートで庶民を馬鹿にし,十分な説明責任を果たそうとしなかった.こうした幣原の高踏的な傲慢さが,彼の外交が「原則的には正しかった」にもかかわらず,多くの反対者を持ち,後の軍部中心の満州政策(満州事変,満州国独立へとつながる)への道を開いたという指摘は重い.日貨排斥で満州に進出した庶民が塗炭の苦しみを味わっている中,大豪邸に住んで召使にかしずかれながらナイフとフォークをカチャカチャやってステーキをほお張っているような男に日本国民の共感を勝ち得ることは,土台無理だったのかも知れぬ.

戦前の日本社会に決定的なダメージを与えたのが世界大恐慌に端を発する絹の輸出の大暴落であったという指摘も重い.日本の農村は現金収入の多くを副業たる絹糸の輸出に頼っていた.それは主に米国に輸出され「絹の靴下」として女性用のストッキングなどにも多用されていたのだが,これが世界大恐慌で大幅に減少,日本の農村経済を事実上崩壊させた(当時,絹糸の輸出は日本の全輸出の35%を占めていたというのだから,今の自動車輸出よりその比重は高い!).しかし,これには,今でいうグローバリゼーションだけでは説明できない要因もあったことを諸君は知っておかねばならない.丁度この頃,米国のデュポン社がナイロン繊維の開発に成功し,それまで高嶺の花だった絹製の女性用ストッキングに代替する安価なナイロンストッキングの商品化に成功し,市場から日本製絹の靴下を急速に駆逐し始めたのである.大恐慌による購買力の低下に悩む米国の女性にとって,ナイロン製ストッキングの登場は天恵の慈雨であり技術革新の勝利であった.日本は過度に絹に依存しすぎ,技術開発に敗北したという側面も忘れてはならない.

しかしなんといっても本書の白眉は吉田茂の透徹した中国観であろう.吉田茂は英国派のエリートというイメージが濃いが,幼少期より徹底して漢籍を学び中国の古典に通暁した東洋的教養の人でもある.外交官になった後も長らく中国に駐在しシナ人の実態を潰させに観察し続けた人である.そういう背景もあるのであろう.随所に鋭いシナに対する観察が光る.例えば,戦後しばらくの間,毛沢東が支配する中国は「向ソ一辺倒」「中ソ一枚岩」などと中国共産党お得意の内容空疎な大宣伝をかましていたわけだが,いち早く吉田は「中国民族は本質的にソ連人と相容れざるものがある」と喝破している.そして返す刀で,「中国は古来妙な国で,東洋でいちばん優秀な民族でありながら,昔から世界の大勢に順応することができなくて,孤立もしくはひとりよがりの中華主義を発揮して,結局は孤立するという道をたどってきた.しかし,中国は現在の状態(大躍進政策や文化大革命で疲弊しきった超貧乏国家)のままでつづくということはありえないから,日本としてはこれを目の敵にするのではなく,よい方向に導くくらいの気持ちをもたなくてはならない.しかし中共のように,自分の国はいちばん偉いと思っているうぬぼれの強い国とつき合っていくことがむずかしいことはいうまでもない」.この吉田の指摘は,現在はもちろん未来永劫日本人が教訓として胸に刻むべき金言であるように思える.

そして吉田は,戦後の日本を「良き敗者(good loser)」と表現するのである.いつまでもうじうじと過去に拘泥せず,負けた以上きっぱりと敗北を受け入れて新たな再出発を期す.これが出来たからこそ,日本は奇跡の高度成長を実現できたのだという.戦後,アメリカの軍隊を日本に受け入れ,日米安保条約を結ぶことで日本は戦前,武力に訴えてでも獲得しようとした市場,技術,経済権益のほぼすべて(いや,それ以上のもの)を獲得することが出来た.それもこれもアメリカの軍隊を日本の国土に駐留させるという吉田の決断が基礎となっている.今,寺島実郎なる「平成の松岡洋右」が日米安保条約解消につながる「アメリカは日本から出て行け運動」を恥も外聞もなく展開し,良識ある人々の顰蹙を買っているが,こういう時だからこそ,戦後の日本外交のグランドデザインを描いた吉田茂の世界観を本書を読んで今一度噛み締めてみる必要があると思うものである.


* 【質問】
 アンリ・ベルグソンって誰?

 【回答】
 アンリ・ベルグソン Henri Bergson (1859〜1941)は,パリ生まれの哲学者.
 第1次世界大戦中,外交使節としてスペインとアメリカを訪問し,国際連盟の知的協力委員会の議長もつとめ,1927年にはノーベル文学賞も受賞した.
 だが,第2次世界大戦中の1941.1.4に,ドイツ軍占領下のパリで彼が死去したときは,葬儀もろくに行われたなかった.
 彼がユダヤ系だったから,というのが,その理由だった.


* 【追記】

http://www.bk1.jp/review/0000479742
http://www.bk1.jp/review/0000479742
塩津計
2009/11/19 9:05:36
評価 ( ★マーク )
★★★★★


テレビ局というものについて考えさせられる一冊である.以前,テレビ局の財務状況を調べていてびっくりしたことがある.
とにかく儲かっているのだ.
収入の大半は広告料だが,これから売上原価を差し引いた売上総利益はすごい.
ところがこれから人件費や交際費等の経費を差し引くと利益の金額は急速にしぼみ,企業にとって大事なはずの内部留保,借入金の返済,配当にはほとんど回らない.
ものすごく稼いでいるくせに,稼ぎの大半は従業員が分けあっているのだ.
平均給与もすべての職種(新人,女性,その他)あわせて1200万円を超えていたような記憶がある.

どうしてこんなにテレビ局が儲かるのか.
その秘密が本書の主題である「電波利権」にある.
放送業界,テレビ業界とは徹底的な規制産業で,その体質は「ジャーナリズム(という言葉)から想像されるイメージとは懸け離れた業界体質である.
むしろ土建業界のような官公需に依存した業界と体質は良く似ている」という指摘には,思わず笑った.
テレビ業界ではNHKを筆頭に政治部関係者が概して出世する.
なぜ政治部が出世するのか.それは政治を「報道」することではなく,「政治家=与党議員とコネをつくってつるむこと」で自分たちの会社を有利に運ぶのが政治部の仕事でもあるからで,こういう連中を「波取り記者」と呼ぶことは田中良紹『メディア裏支配』 にも書いてあった通りである.

テレビ業界の未来と序列化を形成したも田中角栄だったという指摘は,田中良紹氏の著作他でも読んだことがあるが,改めて角栄という政治家の優れた先見性,すごさを感じざるをえない.
テレビとは電波であり,電波とか国家が規制しなければならないシロモノであり,これは利権になるといち早く見抜き,地方出ている大量の免許申請をすべて認める一方,その系列化,談合化を配下におき,恩を売って,上納金を巻き上げるシステムを確立してしまう.ただ,角栄ほど勉強もせず産業の未来について先見性を持たないあ野中広務以下の角栄後継者は,テレビ産業の将来像はそっちのけでただただ旧来型の利権構造を墨守死守することばかりを己の仕事とわきまえて「辣腕」を振るったところに日本の悲劇があった.新技術も産業の未来像も理解できない老人支配が完成される中で,丁度,インターネット,デジタル技術など従来の産業構造を一変させる革命的技術革新が起きたことは,日本にとって二重の悲劇だった.

電波というものは土地と似ているという指摘も鋭い.
電波は土地と同様で,それだけでは何の価値も持たない無用の長物だが,これに技術革新が加わり,利用価値が出てくると,電波の価値は跳ね上がるのだという.電波ははじめラジオを軍事用をはじめとする通信でしか利用されていなかった.これに戦後テレビが加わるが,それでも電波に対する需要は大したことは無く,国が電波の利用権を配分しても,「権利はもっているが使えない」状態が長い間続いた.状況が一変するのが携帯電話が発明され爆発的に普及してからである.携帯電話とは,要するに小型の基地局を全国津々浦々に設置するのと同じで,それは既に配分されていた電波の隙間を利用することで辛うじて事業許可が出る程度の扱いだった.これに携帯電話事業者が殺到し,電波に対する需要が爆発的に拡大する.その時,膨大な周波数帯の利用権を確保していたのがテレビ局なのだが,テレビ局側は,当初何が起きているか分からず,分かった後も自分が持っている電波利用権をどう使っていいか答を出せないでいた.不満を募らせる携帯電話業界は政府に電波利用権の再配分を要求するが,これは既得権の侵害に当たるとしてテレビ局側は何とか持っている電波を手放すまいと必死の抵抗を始める.この時,テレビ局側が飛びついたのがNHKが営々20年こつこつと暖めてきたハイビジョン技術だった.ハイビジョンは従来のアナログに比べ膨大な周波数を使う.ハイビジョンを導入すれば,もはや「テレビ局は,持っている周波数を使わずに遊ばせている」という携帯電話業界の非難を撥ね付けることが出来る.事情は日本のみならずアメリカも同じで,NHKが開発した独自技術ハイビジョンは世界標準となるかに見えた.しかし,ここから話は逆転する.ひとつは自信過剰になったバブル期日本の謙虚さを欠いた傲慢な姿勢,もうひとつは「日本が世界を席巻する」という日本脅威論の高まりを利用したアメリカ側の一部勢力の巻き返しが功を奏し,「日本のハイビジョン技術を採用することはアメリカの安全保障を脅かす」という声がアメリカ議会で圧倒的な声となり,NHKが開発してきたアナログ式ハイビジョンを無力化するデジタルハイビジョンの開発をアメリカ自らが推進し,実用化してしまうのである.著者の池田氏は「この時既にテレビを製造していたのは日本メーカー以外ほとんどなかったのだからアメリカの動きなんか無視してどんどんアナログハイビジョンを実用化してしまえばよかった」というが,もう後の祭りである.
この時,状況を理解できず右往左往する当時の郵政省事務次官の姿は読んでいて本当に腹が立つ.

あとは諸君知っての通りだ.日本のNHKとメーカーが20年の歳月を費やして開発したアナログハイビジョンは全てムダとなり,ご存知デジタル放送のご時勢となった.しかし衛星放送なら多チャンネル化が可能で安いCSにするのが常識なのに,わざわざ多チャンネル化に向かないBSに拘ったのは日本のテレビ局がCM収入という既得権が多チャンネル化で希薄化されるのを恐れたからだという.またしなくても良い地上波まで莫大なコストをかけてデジタル化した最大の理由は,「山の中の炭焼き小屋」化することを恐れた地方の民放が政府自民党に強烈に働きかけたからだという.おかげで何らコスト回収の手段を確保できないにもかかわらず日本全国のテレビ局は1兆円以上の設備投資を強いられ,今,青息吐息に陥っているところが続出しているという

既得権を守りたい人たちが「弱者保護」「反米という排外主義感情」を利用して庶民をたばかる大キャンペーンをはり,これに騙された庶民が既得権者の振り付け宜しく騙されて踊り政治がこれを利用して政策を捻じ曲げ,結果として日本全体が損をするというおなじみのパターン.そろそろ弱者の皆さん,政治家のキャンペーンに騙されて利用されるのはやめにしませんか.弱者の皆さんを救う最善の道は弱肉強食を基本とする徹底した競争原理の貫徹なんですよ(笑.


* 【追記】

■シャーマン・ケント『歴史研究入門』要旨


・研究の最良の方法を論ずることは無益である.
研究者が各自自己流のものを伸ばすべきである.


・論文を書くのは,骸骨である筋書きに着物を着せることだ.


・歴史記述というものは,普通具体的な事件の単純な解明である.
その特徴は,明瞭に表現された観念が絶えず流れていくものでなければならない



・歴史は役立つ.
歴史を正確に書くということは,世間に奉仕する行為である.
ところがそれを正確に書くことは難しい.

・歴史の論文を書くことは,直接にものを知るという貴重な体験を得ることにな
る.



※分析メモ
どこの国の情報機関も「分析」手法を重視する.
そして,その方法は機密扱いとされる.
収集ももちろん大切だが,分析こそ情報の真骨頂といえる.
今後も分析について,発信していきたい.

◎国際インテリジェンス機密ファイル
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Fri, 22 Oct 2010 10:59:35 +0900 (JST)


* 【追記】

● ごあいさつ 
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こんにちは.渡部です.

戊辰東北戦争は,東軍方が西軍方にほとんどまともな抵抗もできず,壊滅させら
れた
ようなものです.その原因の第一は双方の武器の格差でしょうが,他にも重要な
理由
がありました.東軍方に主将的人物がいなかったことです.軍隊とはまず全軍の
統率者
がいて,その指揮のもとに一致団結して行動するのでなければ,有効な戦いはで
きま
せん.

もちろん,それくらいのことは当時の東軍方首脳部は認識しておりました.実際
に各藩
の代表者が集まってのその首脳会議(白石会盟)においては,それが真っ先に議
題に
なりました.ただし,その主将をどの藩から出すかがモンダイでした.東北列藩
の中
では最大藩である仙台からとなるのが順当なところでしょうが,それでは他藩は
みな
仙台藩の配下のようなかたちになり,プライドの高い米沢あたりが承知しません

かといって仙台以外では,その仙台が納得しません.

そこで,いっそ東北人でない方が良いではないかとの意見が出て,土方歳三が推
されま
した.土方はその当時,会津藩に寄留しており,鳥羽伏見で新政府軍と実際に戦
った
経験者ということもあり,オブザーバー的立場でその席に呼ばれていたのです.

土方も「全軍の兵権をそれがしにあずからせてくれるなら」と,乗り気になりま
した.
そのとき,二本松藩の代表者がこう言って反対しました.「弊藩はいまだかって
藩主
以外の人物に兵権をゆだねたことはない」.
それで土方東軍方総大将案は立ち消えになったと,『二本松藩史』は伝えており
ます

(渡部由輝)

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● 第三章・目指すは二本松(1)
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戊辰戦争で薩長がなぜあんなに強かったかは,意外に腑に落ちない点であるが,
西軍と東軍の軍事力格差について,それぞれが保有していた小銃,砲力を通じて
詳細に
比較分析してみたところ,戦力比は「単純比較で西軍は東軍の10倍」と推定す
るに
至った.そして戦力の高い武器を調達する経済力と科学技術力における東西の差

検討することで,薩長の強さには明確な裏づけがあったことを明らかにした.

そういう背景の下で,戊辰東北戦争の火蓋は斬って落とされた.
東軍最大の戦略的要衝「白河」の攻防戦では,緒戦では東軍が健闘したものの,
最終的には一方的屠殺に近い状態で西軍が勝利し,白河は陥ちた.
しかし二本松藩は,偶然にもこの被害から免れたのであった.


■鎮撫から征討へ

 東軍による白河奪回作戦がまだ続いている六月中旬,大総督府は従来の奥羽鎮
撫総督
府に代わり,新しく奥羽征討総督府を発足させた.奥羽はどうやら鎮撫では解決
しそう
もない.武力で討伐する以外にないと覚悟を定めたものと思われる.陣容は総督
兼参謀
が鷲尾隆聚侍従,参謀補助が板垣退助(土佐),伊地知正治(薩摩)であった.
前任者
の参謀の醍醐が少将だったのに対し,鷲尾はそれより位階的には一ランク下の侍
従であ
るから,新政府側もそろそろ,人材が払底してきたものと思われる.

 ただし参謀補助の板垣と伊地知は,鎮撫総督府で同じような地位(下参謀)に
あった
世良・大山よりははるかに適任であった.結果的にいえば,この二人の名将コン
ビによ
る作戦・統率の適切さが,戊辰東北戦争において西軍方にあれほどの圧勝をもた
らした
要因の一つといえる.『戊辰役戦史』の著者大山柏もこの二人の参謀には百点満
点をつ
けている.

 白河におかれた奥羽征討総督府の最終的目標は,もちろん会津である.その会
津も
含めて,六月中旬ころの福島地方における東西両軍の勢力的状況を,あらためて
整理し
てみよう.

 会津は四周を山に囲まれた盆地である.そこにいきなり大軍を送り込むわけに
はいか
ない.その大軍に対する物資・兵員の輸送路をまず確保しておく必要がある.そ
れは奥
州街道しかない.その奥州街道を二本松あたりまで西軍の勢力下におさめておけ
ば,
補給路になり,同時に会津への最大の応援藩である仙台・米沢の南下を食い止め
られ
る.というわけで,中間的目標として二本松制圧が定められた.すなわち,奥羽
征討軍
のとりあえずの目標は〈二本松〉とされた.

 だが,奥州街道をただ白河から二本松まで進撃しても,戦略的にはそれほど意
味は
ない.同時にその奥州街道の安全を脅かしそうな東軍の抵抗拠点も,いくつか奪
ってお
く必要がある.それは,(1)〈須賀川周辺〉,(2)〈棚倉〉,(3)〈平周
辺〉,
(4)〈三春〉の四カ所あった.(1)には白河戦争のときの東軍の残党軍が相
当てい
ど居座っており,(2)と(4)には中藩と堅固な城があった.(3)は奥州街
道から
は遠いが,そこにある良港平潟を確保しておくことが,海上からの補給基地とし
て重要
であるとみなされたからである.


■無視された須賀川軍団

 このうち,まず(1)の〈須賀川残党軍〉は無視された.それは当時の両軍の
軍事力
事情によるものでもあった.西軍の軍事力の最大の基盤は〈銃〉と〈砲〉である
.それ
における優位性が白河戦におけるあれほどの大勝の要因であった.その銃砲の優
位性を
生かせるのは遠距離,もしくは中距離での撃ち合いである.逆にいえば,近距離
での
接戦,特に刀槍による白兵戦は絶対に避ける必要がある.白兵戦になれば銃砲は
あまり
使えず,損害は兵数に逆比例する.その兵数は圧倒的に東軍の方が多かったから
であ
る.白河戦の最中から西軍の兵力は順次増強されており,その六月中旬の時点で
は一千
五百ほどになっていたが,須賀川軍団の方はその三倍もの四千〜五千は常にいた
(東軍
は一万と号していた).

 当時の須賀川は奥州街道有数の宿場町,参勤交代で往来する大名の本陣とされ
た大き
な旅館や豪商の邸宅,町屋などが立ち並ぶ商業都市であった.芭蕉が奥の細道へ
の旅の
途次,居心地が良すぎて十日も逗留したことでもわかるように,文化都市でもあ
った.
東軍方はその人家が密集した商町人街の駅亭(公的な宿泊施設)や大旅館などに
分宿し
ていた.そこに攻め入ることは市街戦,すなわち白兵戦が発生することは必至で
あると
想定されたためであった.

 結果をいうと,その須賀川無視作戦は成功した.白河の西軍部隊の一支隊は,
須賀川
軍団を横眼に見て,奥州街道に沿った脇街道を棚倉〜三春〜二本松と進撃して行
ったの
であるが,そのあいだ大きな戦いはほとんどしなかった.いくつかの小戦をした
だけ
で,全軍ほぼ無傷で二本松まで至れた.さらにその二本松が失陥したことにより
,白河
軍と合わせて奥州街道の前後から西軍に挟撃されるかたちになった須賀川軍団は
,ほと
んど戦わずして崩壊した.会津兵はそのまま西方へ去り,二本松・仙台兵は安達
太良山
麓の間道を通ったりしてやはり自領に逃げ帰り,自壊的に崩壊してしまった.

 なお,その須賀川軍団の最終的段階である七月初めには,同盟側を主導した仙
台藩は
藩主名代の坂英力まで送り込んでいる.四,五千もの大兵を擁していながらはか
ばかし
い戦果のない軍団にしびれを切らしたものと思われる.しかも,伊達家重代の銘
刀〈月
影〉を託してまでである.戦陣においてそれを帯びる将は,配下のいかなる者に
対して
も生殺与奪の大権を有するという,政宗以来の銘刀であった.だが,銘砲や銘銃
ならと
もかく,もはや〈刀〉などではいかんともしがたい時代になっていた.科学技術
力の
格差は,いかなる名将・勇将といえどどうにもならなかった.

 その科学技術力の格差の一つに,〈火薬の威力〉のモンダイもあったのではな
いか
と,私には思われる.そのことに関する確たる文献を眼にしたことがないから,
それは
あくまでも私の推測の域を出ないものであるが.

 火薬の正しい,ということは最も威力を発揮する混合比は,さきにのべたよう

硝石・硫黄・木炭それぞれ七五・一五・一〇であるが,東軍方はおそらくそれを
知らな
かった.戦国時代そのままの五〇・二五・二五の旧火薬を用いていた.それは新
火薬に
比べ,二重・三重の不利があった.まず爆発力の最大の基盤である硝石の割合が
少ない
ことにより,爆発のさいの威力があまり大きくならないことである.そのため,
同じよ
うな口径の砲で同じていどの大きさの榴弾を発射しても,東軍の砲弾は飛び散る
破片も
少なく,また跳弾の勢いそのものも小さかったりした.そのこともあり,東軍の
軽砲
五門と西軍の軽砲二門が砲撃合戦を行なったが,ほぼ互角であったとの記録もあ

(浅川の戦い).

 さらに,旧火薬は木炭の混合比が大きすぎた.新火薬に比べて二.五倍ほども
あっ
た.そのため,発射された瞬間,砲口からもうもうたる黒煙が噴出される.一瞬
,あた
りが見えなくなるくらい大量のものらしい.それが東軍方兵士の視界を奪い,行
動の不
自由性をもたらす.加えてその黒煙が絶好の標的となり,そこに砲弾を集中させ
られる
というさらなる不利益ももたらす.東軍方も新火薬の混合比を知っていたが,そ
れに
切り替える時間的・経済的余裕がなかったのかもしれないが,ともかく東西の軍
事力格
差の中に火薬の威力のモンダイもあったのではないかと,私は推測している.


■まず棚倉へ

 須賀川軍団が無視され,西軍の第一の攻撃目標は〈棚倉〉になった.白河にお
ける
奥羽征討軍約一五〇〇は兵力を二分し,棚倉には七百ほどを充て,板垣参謀自ら
がそれ
を率いた.以後,その部隊を板垣支隊と呼ぶことにする.白河にはもう一人の参
謀伊地
知が残余の八百とともに残留した.たびたび白河の奪還作戦を敢行しているその
眼前に
控える須賀川の大軍に対して,八百ていどの守備部隊とは大胆すぎる作戦のよう
である
が,伊地知は薩摩軍の指揮官として五月一日のその大勝を主導した者である.伊
地知と
大臼砲(それは重すぎて間道や脇街道を行く板垣支隊は携行できなかった),そ
れに
スナイドル・スペンサーがある限り,白河の守りは十分と,そのあたりは東軍の
戦力の
ほどを正確に見切っていたものと思われる.

 なお,その両部隊は連携を密にし,特に須賀川軍団に対する牽制的活動を盛ん

行なった.板垣支隊は脇海道を進軍しながら,ときおり本街道(奥州街道)にも
進出す
る構えを示し,白河残留軍も何度か須賀川軍団に小攻撃をかけたりした.須賀川
軍団は
結局,西軍方の三倍以上もの大兵を常に擁しながら,三か月ものあいだその周辺
を空し
く右往左往していたようなものであるが,それも彼我の武器の格差を身にしみて
思い
知らされていたためであることは,言うまでもない.

 当時,東西両軍の行動状況はほとんど,互いに知っていた.福島地方の浜通り
から
中通りにかけては高峻な山岳がないこともあり,脇道・間道・小道やらが縦横に
入り
組んでいた.それらは地元民はもちろんのこと,旅人・他郷人も往来自由であり
,細作
(スパイ)なども盛んに暗躍していた.板垣支隊は六月二十四日に進発したので
ある
が,その報はただちに棚倉側に伝わった.棚倉には東軍の守備部隊,仙台・相馬
・棚倉
兵ら七百ばかりがいた.ただ,その一週間ばかり前の六月十八日に,棚倉領であ
った
平潟港に西軍の増援部隊が到着していた.それに備えて棚倉の東軍は半分ほどの
守備兵
を平潟方面に派遣していた.残りの三百か四百ばかりは城を出て,白河から棚倉
に至る
街道を見下ろす金山という小高い丘の上に,守備陣をしいた.街道そのものを封
鎖して
正面から激突する姿勢を示せなかったのは,その棚倉軍の多くも白河戦の敗残兵

どうしても“腰が引けた対応”になってしまうのは,やむを得ないことだったの
かも
しれない.

 その及び腰の金山軍に対しても,板垣支隊はやはり無視的作戦をとった.金山
の麓を
通ったときはもちろん,山の上から撃たれた.が,それに対しても下からただ応
戦する
だけで,それ以上積極的には反撃せず,まっしぐらに棚倉城下に突入した.その
金山戦
では山上に位置する棚倉軍の方がはるかに有利であったはずであるが,兵卒の死
は棚倉
が十一,仙台が十七,相馬三であったのに対し,板垣支隊はゼロ.わずかに傷が
九名
ばかり出たにすぎなかった.ともかく,ゲベール・ミニエー(相馬・棚倉兵はゲ
ベール
や火縄銃が多かったものと思われる.仙台もそのころは火薬に不足をきたしてお
り,
銃砲を存分に活用できる状況ではなかったらしい)と,スナイドル・スペンサー
では
まともな戦いにはならない.

 棚倉城には守備部隊,というよりは女・子どもをも含む留守部隊五十名ほどし
かいな
かった.それらは西軍が城下に迫ると聞くや,城を焼いて退散した.結果として
,板垣
支隊は一兵も失わずして第二の目標である棚倉も手に入れられた.棚倉城も白河
城と
同じく,二本松藩代々の当主であった丹羽家が築いた名城の一つ.それもまた戊
辰の
戦火で焼かれてしまったことになる.


■いわき三藩も陥つ

 西軍の次なる目標は平藩三万石,泉藩二万石,湯長谷藩一万五千石の,いわゆ

〈いわき三藩〉であった.それらは各藩の石高をみてもわかるように,すべて小
藩で
あった.三藩兵合わせてもせいぜい数百かそこら,一千にはまずいかない.白河
におい
てわずか六五〇の寡勢で二千六百もの東軍を半日で壊滅させた西軍の実力からす
れば,
ほんの鎧袖一触と思われるかもしれないが,そうはならなかった.西軍方は白河
のとき
よりはるかに多い兵力であったにもかかわらず,一か月近くの日数を費やし,相
応の
人的損害を被ったあげく,ようやく陥落させることができた.

 西軍がそのように手間どった理由はいくつかあった.まず,いわき三藩攻めは
白河に
おかれた奥羽征討軍の担当とはされなかったことである.新しく編成された仙台
追討軍
がそれにあたった.それは当時の維新政府側の内部事情にもよるものであった.
その
六月下旬ころ,彰義隊戦争が決着(五月十五日)してから一か月あまり,戊辰戦
争の
大勢はすでに決していた.もはや戦況は東と西の対決ではなく,西が東をいかに
うまく
掃討するかの段階に入っていた.その掃討のバスに乗り遅れまいと,関東以南の
各藩が
争って従軍を志願していた.そのためもあり,その仙台追討軍には薩長土の兵が
あまり
多くなく,大村・備前・因幡・柳川など十いくつもの藩の連合軍であった.新参
藩の
兵備は東軍とそれほど変わらず,また近代戦には不慣れであったためもあり,迅
速かつ
有効な作戦行動ができなかったりした.

 さらにその兵備に関して,一部の戦線では東軍の方が優良だったりした.米沢
藩の
応援部隊が後装銃(スナイドルか?)を用いていたからである.後装銃のほとん
どは西
軍方が横浜で押さえて,東軍にはあまり行っていなかったはずであるが,当時は
情報の
伝達は今日のようにリアルタイム的ではなく,また遺漏のないものでもなかった
.米沢
藩の反新政府的行動は,横浜港における末端の係官にまではあまり伝わっていな
かった
もの思われる.そのようなドサクサに紛れての最新式銃の入手だったのかもしれ
ない
が,ともかくそれもあって,一部の戦線では東軍の方が優勢だったりした.

 なお,米沢藩は中通り方面,つまり白河戦争をも含む奥州街道沿いの戦線には
ほとん
ど兵を送っていない.それなのになぜ中通りからはるか遠い浜通りには出兵した
のかに
ついては,〈海〉のモンダイがあったためといわれている.米沢藩は当時,〈海
なし
藩〉の悲哀をおそらくは最も痛切に感じていた藩の一つであった.米沢藩の始祖
はいう
までもなく上杉謙信.その謙信の時代は越後平野全域から北陸地方までも含む百
二十万
石を領していた.〈海あり藩〉の利を十二分に享受していた.それが関ヶ原で対
応ミス
をして,海のない米沢盆地十五万石に押し込められた.一転して〈海なし藩〉の
辛酸を
存分に味わわされた.例の鷹山の改革が成功する前の藩主,九代重定の時代には
藩財政
の窮乏のあまり,領地返上とまで思いつめたといわれる.米沢藩としてはなにが
なんで
も海への出口を確保しておきたい,という事情もあってのいわき出兵であったと
いわれ
ている.

 加えて,仙台藩はそのいわき三藩のうち最も早く西軍に降伏しそうな泉・湯長
谷の
藩主一家を自領に抑留していた.人質にとっていたのである.その二藩兵はいく
ら戦力
的に弱くても,いやおうなしに戦わざるをえない.現代人の感覚からすればキタ
ナイと
思われるかもしれないが,当時はそれがむしろふつうのことであった.新政府側
も同様
なことをしている.関東以南の各藩のほとんどは無抵抗的に降参し,開城したの
である
が,そのさい藩主一家は城を出て自領内の寺院などに謹慎した.その監視部隊は
新政府
側が出していたから,それもやはり人質のようなものであった.戊辰では西軍の
兵備の
あまり優秀でない藩もそれなりに勇戦し,西軍圧勝の一因となったのであるが,
藩主を
人質にとられている以上,新政府側の心証を良くしておく必要があったのである


 西軍にはそのような増援部隊が続々と到着した.最終的には二十次ほども増派
が行な
われ,その数一万名にも達した.一方,東軍には仙台・米沢・相馬くらいしか援
兵はな
い.そのバランスが崩れだしたころ,戦況は一気に西方に傾いた.七月十三日の
平城
陥落を最後としていわき三藩も制圧された.


■秋田藩の〈裏崩れ〉

 板垣支隊が棚倉を占領し,いわきを仙台追討軍がまた攻めている七月初め,福
島から
遠く離れた秋田で,戊辰東北戦争全般の帰趨を左右した重大な事態が発生した.
秋田藩
の脱同盟,古い戦史書でいうところの〈裏崩れ〉の発生である.

 一つの連合軍,もしくは同盟軍において,後方部隊の方が前線で戦っている部
隊より
先に戦意をなくして撤退したり,相手側に通じたりすることである.それが発生
する
と,その連合的部隊は一挙に自壊的に崩壊してしまうといわれている.

 戊辰戦争においてもそれは同様であった.秋田藩の〈裏崩れ〉は,同盟側に次
のよう
なマイナス的作用をもたらし,戊辰東北戦争の終結を早めた要因ともなった.

(一) 秋田藩に隣接する庄内藩や盛岡藩が,その戦力を西軍方にではなく,当
面の
    敵になった秋田藩に向けなければならなくなった.

(二) 同盟各藩の間に,戦況の前途に対する疑念を抱かせ,新政府側にあくま
でも
    抵抗しようとする気運をそがせた.

 長期的にみれば,(二)のマイナス的作用が大きかったのかもしれない.仙台
・米沢
ら同盟を主導した大藩内の和平派(または親新政府派)を勢いづかせ,結果的に
その
二藩は藩境に西軍が迫るや,まだ戦力を十分に残した段階で降伏したのであるか
ら.

 ただ,短期的には(一)のマイナス的作用の,特に庄内藩の戦力を秋田方面に
向けさ
せたことが大きかった.庄内藩十四万石は,石高だけみれば中藩であるが,当時
は東北
はおろか全国でも有数の富裕藩であった.米・紅花など庄内平野の豊かな農産物

加え,藩内に良港酒田を抱えていたことによる交易収入が大きかったからである

江戸時代は蝦夷地の物産は北前船と呼ばれていた運搬船により,まず酒田に至り
,そこ
を中継基地としてさらに日本海を南下し,下関・大坂方面へと運ばれていたもの
であ
る.その荷の保管料・関税収入が莫大であった.

 庄内藩の裕福ぶりについてはこんな話が伝わっている.幕末から戊辰期,どの
藩でも
戦費のねん出に汲々していた.二本松藩では勘定奉行が爪に火をともすような節
約をし
て,ようやく四万五千両を調達し,それでどうにかしのいでいる.ところが庄内
藩で
は,その蝦夷地での交易などでうるおい,「本間さまには及びもないが,せめて
なりた
や殿様に」の俗謡で知られる本間家が幕末期,一手で七十万両を献金している.
二本松
藩のそのころの年間予算がだいたい七万両ていどであったと推測されるから,そ
の額の
大きさがわかる.本間家の献金はそれだけではなかった.庄内藩は結局,九月末
に新政
府側に降伏したのであるが,そのさいにもやはり七十万両を償金とするようにと
,藩当
局に差し出している(それは最終的には三十万両にまけてもらったといわれてい
る).

 ともかく,藩内に大商業資本を抱えていた庄内藩は,全国的にみても有数の富
裕藩で
あった.その潤沢な資金を惜しみなく投じ,戊辰期にはスナイドルやスペンサー
,さら
に外国製の大砲など,最新鋭の兵器を多数保有していた.他藩ならいくら金があ
っても
幕府の手前,それら最新式の兵器・武器は簡単には購入できないものであったが
,庄内
藩の始祖は徳川四天王の一人酒井忠次という生粋の譜代藩である.戊辰期には江
戸市中
取り締りの任にあたっていた.幕府にも誰にもはばかることなく近代的兵器を存
分に
備えられていたものと思われる.新政府側の攻撃の標的とされたのであるから,
頭を
下げて許してもらえる立場ではない.会津藩と同様,戦う以外にない,というわ
けで
戦意も旺盛であった.

 庄内藩は結局,その強大な軍事力を隣藩の秋田や新庄・天童にしか用いなかっ
たので
あるが,それら各藩との間に二十余度の戦いを行ない,一度も負けなかったとい
われ
る.秋田藩などは一時は城下にまで庄内軍に迫られ,落城の危機に陥っている(
折よく
そのさい会津藩が降伏したので,庄内藩も撤退した).ただし,そのようなかつ
ての
同盟軍内部の内訌は,新政府側にとっては重大なプラス的作用をもたらしたこと
はいう
までもない.


■桂太郎の功績

 ともあれ,秋田藩の裏崩れは,戊辰東北戦争全体の帰趨を左右する重要事であ
った.

 ただし,私も秋田人の一人である.〈裏崩れ〉などという,“裏切り”を連想
させる
ようなマイナス的表現は使いたくない.むしろ〈功績〉と言いたい.秋田藩のそ
の早い
時期での同盟離脱がなかったら,前記(一)(二)が発生せず,したがって東軍
方全藩
が会津・二本松のように,死力を尽くして西軍方と戦っていたのかもしれない.
事実,
そのころ東北に逃げてきていた上野輪王寺の宮(孝明天皇の義弟)を東武天皇と
して
擁立し,西の政権(朝廷)に対抗して東北独立政権を樹立しようとする動きも,
仙台藩
らの一部過激分子のあいだであったのであるから.

 当時の東西の軍事力格差からして,その企てが成功していた可能性はまずない

ただ,終戦までさらに二年,三年とかかり,国土は疲弊し,有為な人材の多くは
戦火に
斃れ,英・仏・露など諸外国に乗じられていたのかもしれない.そのような事態
に至る
ことを防げたという意味でも,秋田藩の早い時期での同盟離脱を,私は〈功績〉

言っておきたい.

 その秋田藩の同盟離脱に,一人の人物が重要な役割を果たしている.〈桂太郎
〉であ
る.

 秋田地方は,幕末のころの国学思想家平田篤胤の出身地であることからもわか
るよう
に,もともとは勤皇の気風が強い地である.ただ,秋田のような大藩は,思想的
に一つ
の勢力でまとまるということはまずない.藩内には佐幕派も相当おり,戊辰が始
まって
もその両派が深刻な争闘をくり返していた.

 七月はじめ,その両派が一堂に会し,最後の決着をつけようということになっ
た.
その席に桂も呼ばれた.桂はそのころ,奥羽鎮撫副総督沢為量の護衛隊長という
ような
立場で,長州兵百名あまりを率いて秋田に来ていた.佐幕派側の言い分の一つに
,桂の
配下にある長州兵の乱暴狼藉的行為もあったからである.仙台で世良修蔵が率い
ていた
長州兵と同様,秋田の歓楽街川反でも,その種風紀紊乱的行為が頻発していた.
純真な
(?)秋田人にしてみれば,王師がそんなことをするはずはない,ニセ官軍では
ない
か,薩長のならず者集団に違いない.そんな連中に従う道理はない,というよう
な主張
であった.

 その論拠に対し,桂はいちいち証拠をあげて論駁してみせた.調べてみると,
実際そ
うだった.桂の配下の兵は一切,そのような行為はしていなかった(官軍をかた
った
不逞の輩のしわざであった.当時,東北にはその種,官軍をかたって無銭飲食し
たりす
る徒輩が横行していた.ニセ宮様事件も発生していた(『近世日本国民史』))


 桂はさらに,現今の国際的情勢も説明した.欧米列強の進出が急を告げている
とき,
内戦などしている余裕はないとも説いた.それもあって,秋田藩は一気に勤皇に
決し,
同盟離脱に至ったのである.桂はそのとき,若干二十二歳であった.

 桂太郎が後年,なにものになったのかは語るまでもあるまい.日露戦争時の首
相であ
る.当時の首相は政治的地位としては今日よりはるかに軽いものだったが,それ
でも山
県有朋・伊藤博文・西園寺公望・大山巌ら,ウルサ型の郷党の先輩や維新の元勲

補佐・周旋し,近代日本最大の国難によく対処したことは,周知の事実である.


(以下次号)


(渡部由輝)


■著者へのお便りはこちらからどうぞ.⇒     
 http://okigunnji.com/s/watanabeyoshiki/


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● 二本松あれこれ (渡部由輝)
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■二本松藩の歴史(2)

■信長に最も信頼されていた武将・丹羽長秀

 本能寺の変のとき,丹羽長秀は織田家の有力武将のうち,光秀打倒の兵を興す
に最も
有利な立場にいた.にもかかわらず,そうはしなかった.できなかったという言
い方が
より正しいのかもしれないが.

 そもそも長秀は自ら積極果敢に事を起こそうとするタイプではなかった.いた
ずらに
逡巡しているうち,秀吉が例の〈中国大返し〉により,奇跡的にとって返してき
た.
以後の進展については語るまでもない.まず光秀を,さらに翌年には勝家をも討
ち果た
し,あれよあれよという間に秀吉の天下になってしまったことはいうまでもない


 そのあいだの秀吉と長秀との関係についていえば,それほど悪くなかったらし
い.
かつて後輩視していた秀吉の下風に立つことを喜ばず,晩年の長秀はおうおうに
して
楽しまなかったとしている書もあるが,それは俗説のようである.戦国武将とい
えど
みながみな,オレがオレがというタイプばかりでない.信長の旧臣の手による当
時に
関する第一級の資料といわれる(『信長公記』太田牛一)には,長秀については

名利にはあまりこだわらず,他人と事を構えるのを好まず,圭角の少ない人物,

いったふうに描かれている.

 それを最も的確に認識していたのは“人遣いの天才”信長ではなかったのか.
もしか
するとあの気難しやで猜疑心の強い信長が,数ある配下の中で人間的に最も信頼
を寄せ
ていたのは長秀だったのかもしれない.

 証拠がいくつかある.まず,長秀を自らの根拠地安土から至近距離の佐和山(
二十キ
ロほどしか離れていない)に住ませた.さらにその安土築城の采配を長秀にふる
わせ
た.居城の築造をまかせたということは,織田家の機密的事項を明かしたという
ことで
ある.よほどの信頼関係がなければなしうることではない.加えて娘の一人を長
秀の
嫡子長重に嫁がせた.信長一代の晴れの場,自らの天下布武がなされつつあるこ
とを
内外に宣言した天正九年(一五八一)二月の馬揃えでは,天皇はじめ貴顕百官居
並ぶ中
で,行列の先導をつとめたのは長秀の軍団であった.長秀をなにか気のおけない
弟分
(年齢は長秀が一歳下)かなにかのように遇していた,というふうにも見受けら
れる.


(以下次号)

おきらく軍事研究会,平成22年(2010年)10月22日(金)
☆ メルマガ紹介(まぐまぐ):< http://www.mag2.com/m/0000049253.html >


* 【追記】

What Went Wrong 「大量破壊兵器はなかった」 (ニューズウィーク日本版 2004年2月11日号 P.22)

ジョン・バリー(本誌軍事問題担当)
マーク・ホーゼンボール(ワシントン)

〔略〕
 当時の副首相タリク・アジズによれば,このころのフセインは小説のことしか頭になく,大量破壊兵器の話をしても,まさに気もそぞろという感じだったらしい.
 一方でフセインは,国連決議を甘くみていた.そして大量破壊兵器を搭載しないかぎり,長距離ミサイルの開発にはなんの問題もないと信じていた.それが誤りであることくらい,側近たちは承知していた.しかし,恐怖の独裁者に反論はできなかった.
 もっぱら空想の世界に生きていたフセインは,別の新兵器の開発も夢見ていたらしい.昨年のイラク戦争後に大量破壊兵器の調査団を率いたデービッド・ケイによれば,米軍のステルス戦闘爆撃機を撃墜するシステムだ.新兵器の研究を進めているという科学者や軍関係者に,フセインは「惜しみなく金をばらまいた」という.そんな研究の大半は,まったく実態のないものだったのだが.
〔略〕
 02年の「イラク関連国家情報活動評価報告」も,「イラクは国連の決議に従わず,大量破壊兵器計画を継続してきた」と結論づけていた.「生物兵器に重点」をおいているが,「大半の分析官」はイラクが「核兵器開発の再開をねらっていることを確信している」ともある.フランスやドイツも,当時はフセインが大量破壊兵器を保有していると信じていた.

「われわれはみな,おそらくまちがっていた」と,ケイは米上院軍事委員会の公聴会で証言した.〔略〕
 なぜこんなことになったのか.〔略〕
 米上院情報委員会はCIA(Central Intelligence Agency:米中央情報局)の大きな「判断ミス」を指摘している.ハイテク機器を過信し,現地に潜入して現地の人間から情報を集めるという基本を疎かにした,という批判もある.だが,それだけではない.
〔略〕
 CIA捜査官が,特定の結論を出すよう誘導された事実はあるのか.確かな証拠がないことを隠して,なぜCIAは断定的な結論を出したのか.
 共和党内には,CIAの情報が古すぎたせいだとする主張もある.フセインが過去に大量破壊兵器を開発していたのは事実だが,国連の査察団が引き揚げた98年以降に廃棄したのだろう,という論法だ.しかし本誌が得た情報では,98年段階ですでに二つの委員会が,イラクの大量破壊兵器について確たる証拠はないと報告している.
 その一つは,イラクの兵器計画に関する各種情報を検証した軍備管理・核拡散防止諮問委員会(ACNAB:Arms Control and Nonproliferation Advisory Board)だ.著名な科学者を中心とするメンバーは,CIAの資料を入手でき,情報分析官に問い合わせることも可能だった.
 本誌は当時の委員のうち3人に接触した.彼らによれば,イラクの大量破壊兵器に関するCIA情報は推測の域を出るものではなかった.「確かなものは何もなかった」と,ある委員は言う.「フセインは何か隠しているにちがいない,そうでなければ国民をこんなひどい目にあわせるはずがない.彼らの主張は,その程度のものだった」
 98年,もう一つの委員会を率いていたのは,ほかでもないドナルド・ラムズフェルドだった.議会に任命されたこの委員会は,敵性国家がアメリカを弾道ミサイルで攻撃してくる脅威を評価するよう求められていた.だが,ミサイルの弾頭に装備可能な大量破壊兵器に関する最新情報の再評価も行っている.そしてメンバーの一人によれば,「イラクの大量破壊兵器に関する判断はACNABの結論とほぼ同じだった」という.
 しかし,疑惑は残った.フセイン政権は湾岸戦争前に何トンもの炭疽菌やVX神経ガスなどを保有していたが,それを処分した記録を国連に提出していなかった.イラクが長年,国際社会を欺いてきたことを考えれば,何かを隠していることは明白に思えた.
 だが,この推論にも問題がある.炭疽菌やVXガスは劣化しやすいから,仮に残っていても効力を失っているはずだった.また95年に亡命したフセインの娘婿フセイン・カメル・ハッサン(大量破壊兵器開発の責任者だった)は,イラクが「すべての兵器や薬品」を破棄したと語っていた.
 大量破壊兵器がないのなら,すべてを堂々と見せればよかったではないか,という見方もある.だが独裁者にとって,真実や情報の透明性は最大の敵なのだ.
〔略〕
 国連査察団がイラクを離れると,査察団に工作員を潜り込ませていたCIAは,貴重な情報源を失った.最新の情報を入手できなくなったアメリカは,フセインの過去の記録を頼りに対イラク政策を考えるようになった.
 たとえばCIAのテネット長官は00年2月,直接の証拠はつかんでいないが,イラクが大量破壊兵器の開発を再開した「可能性は,過去の行動からすれば考えられる」と議会で語っている.
 それでもこのころは,イラクには兵器開発の「疑わしい意図」があるとしか考えられていなかった.だが2年後,CIAはイラクに大量破壊兵器の開発計画が実在すると主張するようになった.なぜこんなにも変わったのか.
〔略〕
 このころから,イラク人亡命者が大きな役割を演じるようになる.メディアが果たした役割も大きく,イラク国民会議(INC:Iraq National Congress)の働きかけで,イラクにおける兵器開発計画が報道されるようになった.CIAの分析官はこうした報道の信憑性を疑問視したが,国防総省の情報部門はホワイトハウスに伝えた.
 とはいえCIAも,新たな脅威を軽視するわけにはいかないと認識していた.9.11テロを防げなかった不手際をめぐって,批判にさらされていたからだ.
 しかしCIAは,あまり情報を公開しようとはしなかった.ようやく公開した情報も,すでに知られていたり,裏づけが乏しいものばかりだった.
 国連監視検証査察委員会(UNMOVIC:United Nations Monitoring, Verification and Inspection Commission)のハンス・ブリクス委員長がCIAから入手した情報は,誰もが知っている施設のリストだった.国防総省が建物の衛星写真を入手したときも,CIAは建物の内部に何があるかはわからないとつけ加えた.「私たちは事実でないことは言っていない.ただし,推測はした」と,CIAのある分析官は語っている.
 だとすれば,どこまでが推測で,なぜ推測で判断を下したのか.ここで,政治的な圧力が働いたのではないかという疑問がわいてくる.
 ブッシュ政権の高官が情報当局に圧力をかけた事実はないかもしれない.だが彼らは,国連の査察報告を軽視するなど,自分たちがどんな情報を欲しいのかを暗に示してきた.「ずっと大きな圧力を感じた」と,国務省の情報調査局(INR:Bureau of Intelligence and Research)の元分析官グレッグ・シールマンは言う.
 イラクの脅威を裏づけるためにアメリカが行った主張のなかで,とくに疑惑をもたれているのが02年の「イラク関連国家情報活動評価報告」だ.わずか3週間でまとめられ,イラク開戦決議が採択されるわずか10日前に議会に提出された.しかも,公表された部分は重要な脚注が削除されていた.
 またアメリカは,イラクが核開発を進めていた証拠として,アルミ管を国連に提出したことがあった.CIAが,遠心分離器で使用されるアルミ管だと分析していたものだ.だが今では,アメリカのエネルギー当局の専門家がその見解に激しく抗議していたことがわかっている.
 さらにコリン・パウエル国務長官は国連で,イラクが無人の飛行機に生物兵器を搭載する可能性があると指摘した.しかし昨年7月に空軍の情報専門家が,小型の無人機で生物兵器を散布するなどナンセンスと考えていたことが判明している.
 ディック・チェイニー副大統領はつい先日,イラクの大量破壊兵器開発計画の証拠として,トレーラー型の生物兵器研究施設が発見されたことを指摘した.だがこの施設が製造していたのは,気象観測気球用の水素とみられている.トレーラーで生物兵器を製造しているというCIAの見解は「早計で,恥ずかしい内容だ」と,ケイは証言している.
〔略〕
9.11テロ以降,「国民の生命を守るために必要なら」先制攻撃も辞さないとするブッシュ・ドクトリンが打ち出された.
 情報活動の信頼性が傷ついた今,そんなドクトリンは通用しない.アメリカが国連で,「ならず者国家」が攻撃を仕掛けてくる,その前に排除するべきだと訴えても,誰がそんな警告を信じるだろうか.
 もっと心配なのは,本当に危機が迫ったときに誰もアメリカを信じてくれなくなることだ.

(ニューズウィーク日本版 2004年2月11日号 P.22)


* 【追記】

The Tale of the Lying Defector CIAは騙されたのか (ニューズウィーク日本版 2004年2月18日号 P.16)

マーク・ホーゼンボール(ワシントン)
ジョン・バリー(本誌軍事問題担当)

 トレーラー型の可動式研究施設.CIA(Central Intelligence Agency:米中央情報局)にとっては,それがサダム・フセインが大量破壊兵器を開発していることの「決定的証拠」だった.昨年2月5日,コリン・パウエル米国務長官は国連安全保障理事会での演説で「情報源は,こうした施設を監督していたイラク人技術者だ」と,全世界に向かって述べた.
 CIAがこのトレーラーの情報を初めてつかんだのは2000年のこと.この年の国家安全保障会議で大量破壊兵器報告の責任者を務めたエリーサ・ハリスによれば,当時の報告書はそこまで詳細なものではなかったが,それでも「気になる」情報ではあった.イラクが生物兵器の製造・拡散計画の再開をめざしていることを示す証拠となりうるものだったからだ.
 翌01年には2人目の情報提供者が現れた.CIAはこの情報でほぼ見解を固めたが,01年後半の報告書ではまだ慎重な口調を崩さなかった.報告書には「イラク政府は継続して生物兵器計画の遂行をめざして」おり,「移動式の秘密施設の可能性」にまつわる懸念があるとだけ記されていた.
 さらに02年,亡命した「少佐」ら2人の情報提供者が出現.これが決め手となって,この年のCIAの「国家情報活動評価報告」では,イラクは「移動式施設を含む,生物兵器の本格的製造能力を確立した」という断定口調になった.
 「こうした施設に必要な技術的特徴に関し,われわれの情報源が提供したものは詳細で,非常に正確だった」と,パウエルは安保理の演説で述べた.イラク戦争後に怪しげなトレーラーが3台見つかったとき,CIAは情報が正しかったと大喜びしていた.

情報提供者を疑う警告

 あれから10カ月.かつて確実視されていたことは,すべて不確かなものになった.いまだに見つからない大量破壊兵器の謎も,トレーラー型施設に関する謎も深まるばかりだ.
 ジョージ・テネットCIA長官も先週,「トレーラーが生物兵器の製造設備だったのか,気象観測用の水素をつくる装置だったのか,われわれの間でも見解は一致していない」と認めた.最近まで大量破壊兵器の調査団を率いていたデービッド・ケイは,トレーラーは生物兵器の製造用ではなかったという見方を示している.
 そもそもなぜ,トレーラー型研究施設の情報が開戦を後押しする最有力の証拠の一つになったのか? 情報が憶測から「事実」へと変化したのはなぜなのか?
 その経緯は,提供される情報の不確かさや,米政府省庁間のコミュニケーション不足を示す具体例となるだろう.
 本誌が入手した情報によると,国防総省情報局(DIA:Defense Intelligence Agency)は02年5月の時点ですでに,「少佐」と呼ばれたイラク人情報提供者の信頼性を疑う警告を出していた.
 目下機密扱いの「情報提供者ブラックリスト」には,この「少佐」が「イラク国民会議(INC:Iraq National Congress)の指示を受けている」と記されているという.INCはイラクの反体制組織で,当時ホワイトハウスのタカ派にフセイン政権を早急に打倒するよう働きかけていた.

証言に頼りきったミス 

 この警告文書は,トレーラーの件がパウエル演説に盛り込まれる前から,DIAやCIAなどの情報機関で回覧されていたという.だが,各機関の情報分析用コンピュータ全体にこの情報が行き渡っていなかったため,パウエル演説の草稿を書いた分析官が当初の報告書の内容をそのまま使ってしまったと,当局者は説明する.
 側近によると,パウエルがこの「過ち」を知ったのはつい最近だ.しかも,パウエルが演説で触れた4人の情報提供者のうち,「少佐」以外に少なくとももう1人,信頼性に問題がある人物がいるらしい.
 根本的な問題は,CIAが情報提供者の証言に頼りきり,他の検証手段をほとんどもたなかったことだろう.トレーラー型施設に関する情報の「誇張」については,すでに上院情報特別委員会が調査を始めている.
 ジョージ・W・ブッシュ大統領が先週設置を表明した独立委員会でも,情報提供者の問題は取り上げられるだろう.委員会ではイラク関連情報の誤りとともに,なぜ情報機関が多くのミスを犯したかも検証されることになる.
 CIAは,最大の情報源である「イラク人技術者」にはINCとの関係がまったくなく,その証言は今でも信頼できるとしている.
 クルド人地域で発見されたトレーラーが,生物兵器の製造に使われていた可能性は否定されていないともいう.
 テネットは先週,CIAは正確な情報も多数つかんでいると述べた.だとしても,次の先制攻撃を正当化するには心もとない話だ.

(ニューズウィーク日本版 2004年2月18日号 P.16)


* 【追記】

北が韓国にサイバー攻撃,今年9200件に
(2010年10月29日19時34分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101029-OYT1T00865.htm
 【ソウル=仲川高志】北朝鮮が今年1月からこれまで韓国政府機関を狙って行ったとみられるサイバー攻撃が約9200件に達したことがわかった.

 韓国の情報機関,国家情報院が28日,国会の情報委員会で報告した.11月11〜12日にソウルで開かれる主要20か国・地域(G20)首脳会議の準備委員会ホームページも攻撃されたという.


* 【追記】

平和賞サイトにサイバー攻撃 台湾のアドレス経由
2010年10月27日,東京新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010102702000029.html
 【ロンドン=松井学】ノルウェー紙によると,同国の通信会社テレノールは二十六日,ノーベル平和賞を選考するノーベル賞委員会の事務局のウェブサイトがサイバー攻撃を受けたことを明らかにした.平和賞のサイトを閲覧すると「トロイの木馬」と呼ばれるスパイウエアに感染,データ消去やファイル流出の恐れがあった.

 サイバー攻撃は台湾の交通大学のアドレスを使用.ただ,ハッカーは追跡を逃れるため複数のコンピューターを経由させており,攻撃はほかの場所からの可能性がある.


* 【追記】

● 第三章・目指すは二本松(2)
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━━

火蓋が斬って落とされた戊辰東北戦争.

東軍最大の戦略的要衝「白河」の攻防戦では,緒戦では東軍が健闘したものの,
最終的には一方的屠殺に近い状態で西軍が勝利し,白河は陥ちた.

そのころ西軍は,奥羽征討軍の参謀補助を,板垣退助,伊地知正治という,
いずれも名将といって差し支えない人材へと交代させた.

とくに板垣は支隊を率い,
棚倉,いわき三藩を陥とし,最終目的である会津攻略に向け西軍を着実に前進さ
せる.
同時期に,西軍にとっては幸い,東軍にとっては痛恨のきわみとなる秋田藩の「
裏崩
れ」が起きた.

西軍最前線が二本松城下に迫るのは時間の問題となった.
西軍部隊は現在,二本松城に向けて進軍中である.


■三春は〈反盟〉した

 秋田藩の同盟離脱(七月三日)は,福島方面における戦局にも重大な影響をも
たらし
た.仙台・米沢ら,同盟を主導していた大藩が,それまで南方の福島方面にだけ
集中し
ていた兵力配備を,北方の秋田方面にもふり向ける必要が生じたことである.そ
れによ
って,北福島方面の二本松・三春周辺に,同盟側にしてみれば戦力的に空白,と
までは
いかないまでも,従来よりは薄弱的地帯が生まれた.

 その間隙を名戦略家・板垣退助は見逃さなかった.板垣率いる奥羽征討軍の一
支隊
は,六月二十六日に棚倉城を攻略して以来一か月近く,その地に居座っていたの
である
が,以上のような情勢の変化を見てとったのであろう.七月二十四日,四番目の
目標で
ある三春に向けて行動を開始した.

 板垣支隊の突然の来襲を受け,三春藩五万石は一戦もせずして降った.ただし
,多く
の戦史書には降伏とはしていない.〈反盟〉と記している.たんなる降伏や同盟
離脱に
とどまらず,以後はむしろ進んで同盟側の利に反する行為をしたという意味であ
る.降
伏してかつての敵に頤使される立場になっても,不承不承その役を果たすのがふ
つうな
ものであるが,三春藩はそうでなかった.むしろ欣喜雀躍として西軍の走狗とな
って
働いている.

 その最大の被害者は隣藩の二本松藩であった.まず,小野新町の戦いである.
そこは
三春藩の浜通り方面の最前線的防衛基地であった.三春藩兵に加え,二本松・仙
台の応
援部隊がそれぞれ五,六十名くらいずついた.自領の防衛線であるから,ふつう
は自藩
兵を最前線に配備し,応援兵はその後ろにおく.それが応援に来てくれた他藩者
に対す
る,ある種の仁義であった.

 ところが三春はそうはしなかった.自藩兵はむしろ第二線以下に控え,いわき
からの
西軍部隊が迫るや真っ先に逃げている.そのため第一線にいた仙台・二本松はそ
れぞれ
七名の死者を出したが,三春兵の死はゼロであった.それどころか三春兵はその
とき西
軍に呼応し,仙台・二本松兵に向けて発砲さえしたと伝えられる(『二本松藩史
』『仙
台戊辰史』).

 ついでにいうと,三春藩の戊辰における戦死者は一人もいない.同盟側全三十
一藩の
中で,死がゼロであったのは三春だけである.東軍に対しては徹底的に面従腹背
でい
き,無益な戦いなどはしない,いずれは西軍に加担するという全藩をあげての意
志統一
が,相当早い時期からできていたものと思われる.

 三春藩の反盟的行為,特に二本松藩に対するものはそれが序の口であった.隣
藩であ
るから,二本松の地理的地勢的状況,兵員の配備状況,兵備等を最も良く知って
いるの
は三春藩である.その情報をことごとく西軍に提供し,たんなる嚮導ではなく,
むしろ
先鋒となって二本松に攻め入った.戊辰東北戦争では二本松藩は割合的には会津
に次ぐ
人的損害を出したのであるが,その原因の一つは三春の反盟にあるといっても,
言い過
ぎではない.

 そのようなこともあり,戊辰以後,二本松と三春の関係は悪化した.「三春キ
ツネに
騙された」というような俗謡が二本松人のあいだで流行し,三春から嫁はもらう
な,と
まで言われたりした.“嫁”はともかくとして,二本松人の三春人に対する悪感
情は,
現代に至ってもそれほど変わっていないらしい.平成十七年の市町村大合併のさ
いも,
両者は合併していない.

 ただし,公平を期すため,当時の三春藩の立場についても言及しておこう.三
春藩の
当主は秋田氏である.名からも知られるとおり,元々は秋田市を中心としてその
あたり
一帯を領していた.二十万石はあったといわれている.だが,関ヶ原で対応ミス
をし
た.われ関せずと傍観していた.それが家康の怒りにふれ,三春五万石に移され
た.石
高を四分の一に減らされたうえ,海なし藩の辛酸もなめさせられた.秋田氏にす
れば理
不尽もはなはだしい.秋田氏は毛利や上杉のように,反徳川的行為はなにもして
いない
.それこそ「奥羽僻遠の地にして天下の形勢にうとい」ため,情勢の変遷をただ
見守っ
ていたにすぎない.それが悪いと言われたら立つ瀬がない.

 そのような徳川に対する積年の恨みもあり,三春は早くから勤皇であり,朝廷
に接触
していた.そもそも秋田など東北の裏日本一帯は京都文化圏である.秋田から江
戸まで
は陸路ではるばる二十日.そのあいだいくつもの藩境を越えなければならない.
北前船
で日本海を南下すればそのような煩わしさもなく,京都までは風向きによっては
陸路で
江戸に至るより早く行け,荷も大量に運べる.というわけで秋田地方には早い時
代から
京阪神の文物が入り込んでおり,往来も盛んであった.秋田の古い城下町角館は
小京都
と呼ばれているが,小江戸とはいわない.

 三春はその秋田にいた時代から,京都の特に大原家とのつながりがあったらし
い.
三春藩の幕末当時の家老秋田主税は,大原重徳を歌道の師とあおいでおり,その
ころひ
んぱんに大原家を訪れていたといわれる.三春から京都までは遠い.江戸より三
倍もの
距離があるのにである.ともかく三春藩には,意地でも江戸(徳川)なんぞに行
くもの
か,といった姿勢が見られる.

 大原重徳はいうまでもなく,徳川を倒した当事者の一人である.文久二年(一
八六
二)五月,攘夷の勅書を携え,島津久光と薩摩兵一千を従えて下向し,江戸城に
おいて
十四代将軍家茂に上座からそれを手渡した.それが徳川の権威を一気に失墜させ
,以後
天下に倒幕の気運を蔓延させた張本人である.秋田主税はその大原を通じ,戊辰
のかな
り早くから薩摩藩と接触していたらしい.平潟口からの海道軍二千あまりと板垣
支隊一
千の,合わせて三千数百の西軍が三春城下に迫ったとき,藩主秋田映季は十二歳
の幼
主.実権はすべて叔父であり家老であった主税が握っていたといえば,三春藩の
反盟の
事情についてはこれ以上のべるまでもあるまい.

 ともかく,三春は全くの無抵抗で西軍に降り,開城した.開城当日の七月二十
六日は
幼主映季と後見人主税はともに城門に控えて,西軍を迎え入れた.その態度は降
者のそ
れではなく,むしろ救世主の降臨を仰ぐようなものであったと伝えられる.


■二本松兵は虐殺された

 三春の次はいよいよ二本松である.その二本松侵攻にさいし,西軍は二方向か
らの進
撃を考えた.奥州街道上の宿場町本宮をまず奪い,そこを前進基地として南方か
ら攻め
上るのと,三春から脇街道をそのまま進軍して小浜に至り,そこから攻め寄せる
のとで
ある.本宮進撃作戦のことを先に語ろう.

 本宮進出にさきがけて,ある重要な小戦が行なわれた.「糠沢の戦い」という

ただし,戦いという形容は正しくない.“虐殺”といった方がより正しい.

 糠沢は三春から本宮に至る脇街道上の小集落である.二本松領のはずれであっ
たか
ら,二本松藩はそこを自領における最前線的防衛基地の一つとし,二小隊四十名
ばかり
をおいていた.それに対し,西軍の薩摩三小隊,長州一小隊の合わせて二百名ば
かり
が,二十七日の夜がまだ明けやらぬ午前三時か四時ころ,夜襲をしかけた.本隊
が進発
する前に敵の最前線部隊を掃討しておこうとしたのである.寝込みを襲われた二
本松兵
はほとんど全滅した.二十六名が戦死,というよりは発射速度の早いスペンサー
・スナ
イドルの一斉掃射を浴びて惨殺された.かろうじて逃げ還れた者はわずか十四名
にすぎ
なかった.地理不案内の地で薩長兵だけで夜襲はできない.事情を良く知る三春
兵の
嚮導によるものであることは,いうまでもない.

 なお,その糠沢の“虐殺”に関しては,次のような証言がある.語った人はそ
のとき
の薩摩藩士の一人で,後の海軍大将・常備艦隊司令長官(戦時には連合艦隊にな
る)も
つとめた日高壮之丞である.

 「(糠沢で)夜のまさに明けんとするころ不意打ちをしたところ,二本松勢は
ほとん
 ど全滅した.ところが一人だけ赤鞘の大小を帯びた二十二,三の勇士が,逃げ
ずに
 立ち向かってきたのが印象に残っている」

 その勇士の名は和田悦蔵という.和田は定府供番という身分であった.〈番〉
とは
二本松藩では第一線の戦闘員であることを意味する.糠沢隊には少年兵など補助
的兵士
もいた.和田も手傷くらいは負っていたろうが,彼らを守るため,戦闘員のプラ
イドに
かけて,逃げずに立ち向かったものと思われる.もちろん和田の名も,二本松藩
のその
糠沢における戦死者名簿に載っている.

 夜が明けてからは本格的な本宮侵攻作戦が開始された.それもやはり二本松兵
に対し
ては,一方的虐殺に近いものだった.三春から本宮に行くには,阿武隈川を越え
なけれ
ばならない.阿武隈は大河である.そのあたりでも川幅は一〇〇メートルを超え
,水深
も七,八尋(十二,三メートル)はあった.当時,二本松領の阿武隈川に橋はな
く,す
べて舟渡しであった.その渡し場の三春側対岸の高木地域には,二本松の守備部
隊やは
り五十名ばかりがいた.守備部隊は三春方面からの山道を降りてくる兵の群れを
見かけ
た.そのとき,糠沢の敗報はすでに伝わっていた.守備部隊はその敗兵と思った
.とこ
ろが近づいてみると,三春兵を先導とする西軍の大部隊であった.そこでもやは
り一方
的殺戮が行なわれ,二本松兵の死は三十五名を数えた.

 なお『二本松藩史』はこの二小戦の惨敗について,「索敵が不十分であった」
と指摘
しているが,そのとおりだったろう.前記,日高大将も「(二本松兵は)篝火を
焚いて
いたのに,兵あって兵なきがごとく」と,証言している.歩哨も不寝番もおかず
,全員
火のそばで寝込んでいたということである.二本松兵は一瞬の油断や判断ミスが
全隊の
壊滅につながるという,近代戦の怖さを知らなかった.知ったときはすでに手遅
れだっ
た.銃口がすぐ眼前に迫ってきていた.

 結局この日二十七日は,糠沢・高木地域だけで二本松兵の死は六十一名も数え
た.
一方の西軍にはそれまで死は一人も出ていない.正確な記録はないが,〈傷〉さ
えもお
そらく皆無ではなかったかと思われる.


■本宮失陥

 だが,次の段階の阿武隈渡河戦ではそうはいかなかった.西軍に初めての死者
が出
た.名もわかっている.美正貫一郎という土佐藩に属する甲州人であった.板垣
退助は
旧姓を“乾”といった.鳥羽伏見以前の土佐藩の記録にはすべて乾と出ている.
その乾
だったとき,退助は戊辰戦役に従軍するため,土佐兵を率いて大垣まで進撃して
きた.
そこで東海道を行く本隊(大総督府)からの分派というかたちで東山道総督府が
編成さ
れ,乾退助はその参謀とされた.

 東山道軍は甲府を経由することが予定されていた.乾の先祖はその甲州二十四
将の一
人で,板垣駿河守といった.信玄に従っていたが武田の滅亡後,遠州あたりで牢
々して
いるうち山内一豊と知り合い,そのまま土佐にまで来たものだった.その先祖の
地に入
るにあたり,乾は旧姓の板垣に名を改めた.美正はその板垣の名を慕い,甲州に
おける
勤皇の同志たちとともに断金隊を結成し,その隊長として西軍方に従軍していた
.真っ
先に川に飛び込み,対岸まで泳ぎ渡って舟を奪って来ようとした.その渡泳中を
狙い撃
たれて水中に没した.『仙台戊辰史』も『会津戊辰史』も『二本松藩史』も,撃
ったの
は自藩兵であるとしている.

 なお,断金隊に所属してその渡河作戦を嚮導していた三春藩士河野広中(自由
民権運
動の先駆者,後の衆議院議長)によれば,そのとき美正は指揮旗を背にして泳い
でいた
らしい.そんな目立つ格好をしておれば,狙われるのは当然である.西軍の方も
近代戦
にまだ慣れず,戦国の気風も相当に残っていた時代ということだろう.

 ただし,美正がそのように泳ぎ渡ろうとしたということは,味方の援護射撃が
それだ
け猛烈で,東軍方のそれはあまりなかったということである.美正に続く何人か
は無事
に対岸に達して舟を確保でき,兵員・物資などを渡すことができた.その渡河戦
におい
て西軍兵士の多くは銃を背にして泳ぎ,川の中からも発射したが,それもスナイ
ドル・
スペンサーだからできたものである.それら最新式銃の弾は金属製の薬莢弾であ
るか
ら,水に濡れても支障はない.一方,ミニエー・ゲベールのそれは固紙製で水に
弱く,
特に一部のゲベールは(火縄銃も)火薬と弾が別々になっており,火薬は今日に
おける
薬包のように一個ずつ和紙にくるまれたものであるから,銃が水に濡れたら発射
などで
きないものだった.ともかく,何度もいうように兵器の差,科学技術の格差はど
うにも
ならなかった.

 結局,西軍は本宮にもほとんど無血的に進出できた.本宮には二本松の守備部
隊四小
隊ばかりいたが,それらのうち半数ほどは対岸の高木地区に渡って西軍を迎え撃
とうと
して,すでに壊滅的損害を被っていた.会津・仙台の応援兵も多くなく,二本松
の残存
兵二小隊を合わせても有効な仰撃戦ができなかったためである.本宮の守備が手
薄であ
るという東軍方の事情も,西軍は三春兵から聞き知っていたものと思われる.

 ただし,本宮に残留していた二本松兵二小隊は,兵力・武器が圧倒的に劣勢で
あった
にもかかわらず,勇戦した.そのことは,その二小隊五,六十名のうち,死が二
十四名
も発生したことでもわかる.攻城戦ならともかく,野戦において一つの部隊の半
数ほど
が〈死〉とは,通常はありえないものである.この日二本松の本宮守備部隊は,
文字通
りの意味で全員玉砕を遂げた,といえる.

 それにしても,西軍の本宮進出は大胆不敵な作戦であった.戦理に反する行為
といっ
てよい.西軍方二千はそれにより,二本松城の守備兵一千ほどと,須賀川軍団四
,五千
という数倍もの敵軍に前後から挟撃されるかたちになった.腹背に敵を受けるな
ど,戦
理的には愚的作戦といえる.だが,戦理などとは兵器等が互角であったはじめて
成り
立つもの.それにこれほどの格差があってはどうにもならない.

 なお,腹背に敵を受けるとは須賀川軍団においても同様であった.須賀川から
郡山に
かけて三か月近く居座っていた会津・仙台・二本松らの連合軍も,西軍の白河残
留部隊
と本宮進出軍に,前後から挟撃されるかたちになった.それを最も脅威に感じて
いたの
は仙台兵であったろう.会津兵はそのまま西方へ帰れるが,仙台兵は奥州街道を
抑えら
れると,あとは安達太良山麓あたりの山道を敗残兵となって逃げ帰るしかない.
という
わけでその二十七日の夕方から翌日にかけて,仙台兵を主体とする須賀川軍団に
よる本
宮奪還作戦が敢行された.それは須賀川軍団にすれば最後のそして最大の組織的
戦闘の
ようなものだった.そういった東軍の意気込みもあり,本宮奪還戦では,西軍は
白河以
来最大の損害を出した.それは本宮が宿場町だったこともあり,西軍得意の遠距
離・中
距離での銃砲撃合戦に持ち込めず,市街戦や白兵戦も相当に発生したためらしい


 ただし,その二日にわたる本宮奪還戦が正確に何次にわたって行なわれたのか
は,
各藩の記録が錯綜としていてわからない.おそらく東軍が波状攻撃的に何度か襲
い,撃
退され,また襲来し,というようなことをくり返していたものと思われる.ここ
ではあ
るていど正確にわかっている〈死〉のみを記しておこう.西軍方は十名,東軍方
の仙台
は四十四名で,会津はわからない.それは死者が出ていないのではない.そもそ
も『会
津戊辰史』は自藩兵の死者数など細かくは記していない(他藩記はたいてい氏名
まで
出ているものである).会津藩は戊辰全体で二千五百余名もの死が出た.小戦に
おける
数十名ていどの死などいちいち書いていられない,ということなのだろう.

 なお,その須賀川軍団による本宮奪還戦では,二本松兵の死者は一人も出てい
ないよ
うである.二本松兵も六小隊二百名ばかりが須賀川軍団に派遣されていたが,そ
れらの
多くはその日二十七日と二十八日は,来るべき最終的決戦に備え,間道などを通
って
城下への道を急いでいたものと思われる.


■小浜進駐

 二本松侵攻作戦における西軍のもう一つの部隊,小浜支隊の進出はほとんど無
抵抗的
に行なわれた.小浜も二本松領の一小集落であったが,守備部隊などは特におか
れてい
なかったらしい.二本松藩当局も,その方面からの進撃はあまり予想はしていな
かった
ものと思われる.

 したがって小浜では二本松兵による組織的抵抗はなかったが,個人的なそれは
いくら
かあった.死も三名発生したといわれる.一人は和田玄説という医者であった.
藩から
苗字帯刀を許してもらっている責任上,西軍の小浜進出を注進に行こうとした.
監視兵
を避けて裏山あたりを登っているうち,スナイドルなんかで狙い撃たれたものら
しい.
他の二人は一般庶民であった.その日,七月二十七日は新暦では九月の中旬,秋
祭りの
当日であった.その祝い酒に酔い,「官軍がなんだ,オレが退治してやる」とか
なんと
か言って,槍を振りまわし,西軍兵士にからんだものらしい.見せしめのため射
殺され
たと伝えられる.

 その秋祭りに関して,こんな話も伝わっている.西軍の小浜進出は正午ころ,
ちょう
どそのとき,小浜集落のはずれにある諏訪神社から笛・太鼓の音が聞こえてきた
.それ
は三匹獅子舞というこの地方に古くから伝わる勇壮な踊りの伴奏曲であった.そ
れを聞
いた西軍兵士は二本松軍の襲来と勘違いし,今来たばかりの道を成田村(小浜の
南方三
キロほど)あたりまで一散に引き返して行ってしまった.あのあたりは低山に囲
まれた
盆地が多い.その盆地に入り込んでいるとき,周囲の山上から狙われたら逃げ場
のない
地形だからである.再び進駐してきた西軍の指揮官渡辺清(大村藩)は,小浜の
町役人
に「どうじゃ,官軍にも維盛にも劣らぬえらい大将がいるだろう」と,笑いなが
ら語り
かけたという(『岩代町史』).維盛とは富士川の戦いのおり,水鳥の羽音を源
氏方の
襲来と勘違いして逃げ去った平家方の総大将である.

 渡辺のそのような逸話でもわかるように,西軍の進駐は概して穏やかなものだ
ったら
しい.仙台の歓楽街をわがもの顔でのし歩いた奥羽鎮撫総督軍と違い,白河口の
征討軍
は一般に風紀は厳正なものだった.その白河において土佐藩の小隊長大石(岩崎
)弥太
郎は,「薩摩の連中が酒を飲んで騒いでいる.薩摩側の隊長に取り締まるように
言って
くれ」と,板垣に談じ込んでいる.ともかく,営内で飲酒することも禁止されて
いたの
である(ただしそれは通常時で,特別なことがあったときは許されていたらしい
が).
酒だけでなく,他の風紀紊乱的行為なども厳しく取り締まられていて,一般人に
対する
そのような行為もあまり発生しなかったらしい.やはり末端の兵士に至るまで,
〈王師〉という意識も相当にあったものと思われる.

 ただ,その小浜においては,乱暴狼藉とまではいかないまでも,民宿した家の
土蔵の
中で刀槍を振り回して柱などに傷つけたり,什器を壊したりと,それに近いよう
な行為
はいくらかあったと,前記『岩代町史』は伝えている.

 兵士とは戦雲とでもいうようなものを,敏感に察しとれる存在である.戦いの
場数を
踏むにつれて,来るべき戦場がどのようなものになるのかを事前に察知できたり
する.
小浜における板垣支隊は白河を出てから一か月以上,そのあいだまともな戦いは
ほとん
どしていない.死者などわずか三名しか出ていない.戦争というよりはただ行軍
の連続
のようなものだった.が,今度はそうはいかない.来るべき二本松戦は自軍か敵
軍かは
わからないが,ともかく大量の血が流されなくてはすみそうもないということを
,兵士
個々人が敏感に感じとれたがための気持ちの高ぶりもあっての,狼藉的行為では
なかっ
たのか.


■西軍城下に迫る

 本宮も小浜も二本松領である.藩境はすでに破られた.本宮から二本松まで十
キロ,
小浜からでは八キロしかない.ほんの二,三時間行程である.西軍方の大部隊は
すでに
城下に迫りつつあるといってよい.

 ここで,白河以来の二本松藩の死者数を整理してみよう.

・四月二十日      二名(白河城内)
・五月二十六日     二名(白河口)
・六月十二日     十一名(白河口)
・七月一日       四名(白河口)
・七月十六日      一名(棚倉)
・七月二十六日     七名(三春領小野新町)
・七月二十七日     九十名(二本松領糠沢・高木・本宮・小浜)

 合計一一七名.それは二本松藩の最大的動員可能数と思われる約二千名に対し
て,
およそ十八分の一にあたる.それは割合的に見れば決して少ない数ではない.二
本松人
のほとんどは,身内や知友に死者の一人や二人は出ていたことだろう.二本松藩
は何度
も言うように,奥羽鎮撫軍であれ征討軍であれ,新政府側の攻撃の主たる標的と
された
わけでは全くない.会津・庄内に対するたんなる応援藩にすぎない.それなのに
藩境が
破られて百名以上もの戦死を出し,藩士個々人にとっては自らの死も相当に意識
するま
で戦った.下世話な言い方をするならば,同盟に対する「義理は十分に果たした
」とい
える.そのあたりで降伏しても,とやかく言われる筋合いは全くなかった.

 げんに同じく応援的部隊であった他藩はそうしている.仙台は藩境が破られ,
死者八
四一名で降伏した.死者の割合は仙台藩の最大的動員可能数約三万名に対し,お
よそ三
十五分の一である.米沢は藩境が破られる以前,死者二八〇名,最大的動員可能
数約
六千名の二十二分の一ていどの段階で降伏した.

 だが,二本松藩だけはそうはしなかった.あくまでも降伏を拒否し,当時の表
現によ
れば闔国(こうこくー全藩)をあげて滅び尽くされるまで戦った.文字通りの意
味で,
城を枕に討ち死にするまで戦った.

 なぜ,二本松藩はそうしてまで戦わなければならなかったのか.

 次章においてそのことについて考えてみたい.



(以下次号)


(渡部由輝)


■著者へのお便りはこちらからどうぞ.⇒     
 http://okigunnji.com/s/watanabeyoshiki/


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● 二本松あれこれ (渡部由輝)
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■二本松藩の歴史(3)

■関ヶ原で対応ミスをして国を失った二代目

 丹羽家の二代目長重も,関ヶ原ではピンとはずれの対応をした.関ヶ原当時,
長重は
加賀小松で十二万石を領していた.父長秀の晩年は,その小松も含めて若狭・敦
賀にも
またがる百二十万石の大守であったから,それに比べれば十分の一に減らされて
いたこ
とになる.それをもって,秀吉が丹羽家に対してなにか含むところがあったとの
説もあ
るが,それは俗説のようである.当時は先祖代々の領地でもない限り,封土はだ
いたい
一代限りのものだった.襲封時(八五年)の長重は十五歳.秀吉は家康と長久手
で引き
分けたばかりで,天下の形勢はまだ流動的であった.十五やそこらの幼主に大封
を与え
ておく余裕はない.十二万石とはいえ,ともかく一城の主として残してくれたこ
とに,
私はむしろかつて自らを引き立ててくれた先輩の遺児に対する秀吉の厚遇ではな
いかと
考えている.

 関ヶ原では日本全国津々浦々の大小名ことごとくが,徳川・豊臣(石田三成)
のどち
らにつくかの選択を迫られたものである.目はしのきく者,時代の趨勢を見抜け
る者は
たいてい徳川方についた.が,長重はそうはしなかった.父,長秀以来の縁を考
えたの
かもしれない.豊臣方に旗幟を明らかにした.そのため,徳川方についた隣藩前
田利長
と小ぜりあいをした.その紛争もあって関ヶ原までは行かなかったが,戦後処分
で改易
とされた.武家の処分で蟄居よりは重く,切腹よりは軽い刑罰のことである.家
禄の
すべてを失い,一介の素浪人になり果てたわけである.

 ふつうならば,それで丹羽家は完全に歴史の表舞台から消えてしまうところで
ある
が,その危機を浅井三姉妹の末娘が救ってくれた.周知のように浅井長政の妻お
市の方
は信長の妹である.長政に嫁して三人の娘を生んだ.上から淀君・お初・お江で
ある.
淀君はいうまでもなく秀吉の側室となって秀頼を生んだ.お初は京極高次に嫁ぎ
,お江
は徳川秀忠の正室になった.長重の妻は信長の娘であるから,その二人は従姉妹
にあた
る.

 その縁で秀忠が二代将軍となった年の慶長八年(一六〇三),まず常陸の国(
茨城
県)古渡一万石に取り立てられた.さらに慶長二十一年には大坂の陣に従軍した
功もあ
り,同じく常陸で江戸崎一万石を加増され,ついで棚倉五万石(一六二二年),
白河十
万石(一六二七年)と,かつての一二〇万石に比べればほんの微々たるものでし
かない
が,太平の世としてはトントン拍子に出世していった.


(以下次号)

おきらく軍事研究会)
☆ メルマガ紹介(まぐまぐ):< http://www.mag2.com/m/0000049253.html
平成22年(2010年)10月29日(金)


* 【追記】

今朝の朝日新聞にシェールガスの記事が出ていて,図を交えながら易しく解説し
てあった.3,000mまで掘ってシェールの岩盤に到達
したところで,横穴を広げてその横穴から水圧と薬品注入で岩盤を破砕し,シェ
ールガスを孔に導く.私が注目したのは,その横穴の長
さである.図では約1kmで,恐らく円形の面のように配置するのだろう,結局
,1平方kmを単位に,ガス取り出し孔が地球上に分布
することになる,と理解する.

この1平方kmという面積は集約度が高いとは言えない,三峡ダムの流域に配置
すると,100万本の孔が必要になる,だから私は,
シェールガスというのは太陽光や風力のような面的なエネルギーに近いと考える
.朝日によると,地球上のシェールガスの包蔵量は,一
般的な天然ガスの50%にも相当する3200兆立方フィート(TCF)といわ
れていている.因みに,大発見といわれるミャンマー沖
のガス包蔵は,60TCFである.

莫大な量で,まさに世界のエネルギー地図を塗り替えるような話だが,私の言い
たいのは,集約度の低いエネルギーは環境問題を惹起す
る,シェールの岩盤を砕くときの薬品に問題があるような感じである.オバマ大
統領が,11月6日にインドを訪問する.インドが期待
しているのは,米国だけが持つシェールガスの技術をインドに移転する協定を期
待している.インドは2011年にもシェールガス探査
の入札に漕ぎ着けたいようだ.

【日刊 アジアのエネルギー最前線】パキスタンはブンジダムを中国に渡すのか
http://my.reset.jp/adachihayao/index.htm


* 【追記】
★「官邸は情報過疎地」 グループ会合で菅首相

・菅直人首相は2日昼,国会内で開かれた党内の支持議員グループの会合で
 「官邸は情報の過疎地.役所の情報ではない,皆さんの意見を遠慮なく私まで
 寄せてほしい」と述べ,政権運営への協力を訴えた.

 この日は約35人が参加.今後,隔週で定期会合を開くことを確認した.これで
 党内主要8グループのうち,旧社会党系を除く7グループが会合を定期化したことに
 なり,自民党並みの「派閥化」が一層進みそうだ.

 http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/101102/plc1011021521018-n1.htm


* 【追記】

■ハロルド・ニコルソン『外交』ポイント


・外交とは,交渉による国際関係の処理であり,大公使によってこれらの関係が
調整され処理される方法であり,外交官の職務あるいは技術である.

・交渉すなわち外交プロパーの術の必要が感じられたのは,ローマ帝国の後期に
おいてであった.
ビザンティン帝国の皇帝たちは,まったく巧妙にこの術を用いている.

・外交とは,独立国政府間における公的関係の処理に知性と機転とを適用するこ
とである.
(英国外交官アーネスト・サトウ)


・外交官の中でも最悪の部類は宣教師,狂信家そして法律家であり,最善なのは
道理をわきまえた,人情味のある懐疑家である.

・外交理論において主たる形成力であったのは,宗教ではなく,常識である.
人々が相互間の交渉において常識を用いることを初めて覚えたのは,貿易と通商
とを通じてであった.


・重要なものは,外交官職がつくり出すお互いの間の連帯感である.
各国の外交官たちもまた,ある種の連帯性を生み出し,彼らのすべてが尊重する
ある種の暗黙の基準を設けている.
ある国の外交機関で生涯を送った人は,他国の自分と同世代の職業外交官の大部
分に実際会ったことがあるか,聞き知っている者である.


・誠実さが理想的外交官にとって第一の要件であるとすれば,第二の要件は正確
さである.
ここで正確さというのは,単に知的な正しさばかりでなく道徳的な正しさも意味
する.

・「そしてとりわけ,あなたの仕事について興奮に身を任せてはならない」
(フランス外交官タレイラン)



※分析メモ
外交官は大変である.
複数の外国語をマスターし,国内の政策に精通し,外国の事情を理解しなければ
ならない.
そして,自らの教養を最大限に高め,その人間的魅力で対応することが求められ
る.
並大抵の覚悟がなければできないことである.
未来のために外務省のみなさん,頑張ってください.

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Wed, 3 Nov 2010 11:20:11 +0900 (JST)


* 【追記】

■三宅正樹『スターリンの対日情報工作』を読み解く


・クリヴィツキーとゾルゲは,スターリンのための情報収集にいずれも抜群の能
力を発揮した.


・リヒャルト・ゾルゲはドイツ人石油技師の父とロシア人の母の間に生まれた.
学生時代は歴史,文学,哲学,政治学の科目で成績優秀だった.

歴史の中で好きだったのは,フランス革命,ナポレオン戦争,ビスマルク時代だ
った.

第一次世界大戦にドイツ軍として参加,3度負傷する.
その後,共産主義に傾倒し,ソ連のスパイとなる.



・ドイツの駐日大使オイゲン・オットは,ゾルゲの日本をめぐる情報の分析力を
高く評価していた.
そのため,オットの私的顧問として,駐日ドイツ大使館に自由に出入りしていた

そこから,多くの極秘情報がソ連に漏れていた.
ドイツの対ソ参戦の情報もキャッチされモスクワへ報告されていたが,スターリ
ンは無視した.


・日本降伏後,GHQの中で諜報を担当した参謀第2部(G2)の部長ウィロビー少将
は,ゾルゲ事件の重要性に気付いてゾルゲの足跡を追及した人物として知られて
いる.

・スパイは決定的な証拠を残さないからこそスパイなのであって,クリヴィツキ
ーやゾルゲのようにスパイ活動のほとんどをすべてさらけ出したのは,極めてま
れなケースである.




※分析メモ

ロシアのメドベージェフ大統領が北方領土の国後島を訪問した.
これは強い指導力を演出するためといわれる.
しかし,本当の狙いは,北方領土周辺の資源であろう.
あの周辺には,ガス田,油田,メタンハイドレードなどの資源が眠っている可能
性があるといわれている.
そのため,ロシアは確実に実効支配を強化している.
返す気などさらさらないであろう.
今後の日本の外交戦略が問われる.

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Tue, 2 Nov 2010 13:13:01 +0900 (JST)


* 【追記】

ミャンマーの北部,イラワジ河上流のミトソネ水力ダムの住民移住が問題となっ
ている.1万人が強制的に移住させられる,電力は中国
に送られ,その報酬は軍事政権の将軍達のポケットに入ってしまう,と言ってい
る.それにしても11月7日に迫った選挙,少数民族の
武装グループへの対応はどうするのだろう,中国は軍事政権に徹底的な処理を要
求しているが,半年内に決定的な行動が起こされる,と
読んでいる.

【日刊 アジアのエネルギー最前線】タイはベトナムの原子力でどう動く
http://my.reset.jp/adachihayao/index.htm
Tue, 2 Nov 2010 12:50:15 +0900 (JST)

Dam Symbolizes Fears of Burma’s Ethnic Groups
Rob Bryan | November 01, 2010
http://www.thejakartaglobe.com/world/dam-symbolizes-fears-of-burmas-ethnic-groups/404396


* 【追記】

――――――
 イランでも,イスラム原理主義を信奉する学生・市民らが,79年にパーレビ王朝を打倒した後,亡命した国王一家の引渡しを求めて,米大使館を占拠.
 80年4月に,米軍は人質となった大使館員の救出作戦を試みたものの,特殊部隊を乗せたヘリコプターが,原因不明の墜落事故を起こし,失敗に終わる.
 当時はまだ,イスラム原理主義者が米国内で同時多発テロを起こす,などという事態は予想だにされていなかったが,問題の根は既に見られたわけだ.

――――――『日本人の選択 総選挙の戦後史』(林信吾&葛岡智恭著,平凡社,2007.6.11),p.146-147


* 【追記】

Sunset for Oil Business?

 石油は再生不可能な資源であり,やがて枯渇する日がやって来る.問題はそれが「いつか」である.石油枯渇分析センター(ODAC)は,今後10年以内に石油が不足すると予測している.枯渇時期を2004年とする専門家もいる.一方,国際エネルギー機関(IEA)は,2020年までは需要を優に満たす埋蔵量 があると主張している.エクソン・モービル社の首脳はさらに楽観的で,今後70年間にわたり十分な石油の供給があると言う.
 石油埋蔵量に関し正確な予測をした専門家は少ない.米経済予測・調査機関,DRI-WEFA社のマイケル・リンチ氏は正確な予測をした一人である.リンチ氏は最近の論文の中で,石油「採掘可能量 」は動的数値であり,インフラ,知識,技術動向に応じて増減すると述べている.すでに莫大な額の投資が行われており,今後の技術的進歩は期待できないとする意見がある一方,技術革新は始まったばかりで,石油採掘率(各油田における既知埋蔵量 と採掘量との比率)は現行の平均30〜35%から10年以内に50〜60%へ増加するとの楽観的な見方もある.
 必要な投資が行われた場合,今後20年間,世界の石油産出量が頭打ちになる懸念はないであろう,とIEAでは結論づけている.老朽化した油田に替わる新油田の開発と伸び続ける需要に対応するため,今後10年間で非OPEC(石油輸出国機構)産油国に対し一兆ドルの投資が必要と推定されている.

「エコノミスト・ジャパン」 2001 Nov. 03

Sunset for Oli Business?

It's a fact that oil is a non-renewal resource that will run out some day but the question is when. The Oil Depletion Analysis Centre (ODAC) estimates the shortage to occur in the next decade. Other experts say it will be as early as 2004. The International Energy Agency (IEA) claims there are enough reserves to meet demands comfortably until 2020. Even more positive is an oil executive at ExxonMobil who says that the world will have plenty of oil for another 70 years. One of the few oil forecasters who has got predictions right is Michael Lynch of DRI-WEFA, an economic consultancy. In a new paper, he concludes that "ultimately recoverable" oil is dynamic and is affected by infrastructure, knowledge and technology. Doomsayers say that there is not much more progress to be made technologically since billions have already been spent. Optimists think that technological revolution has just begun and the amount of oil brought to the surface can be increased from the current average of 30-35% to 50-60% within a decade. The IEA concludes that global oil production need not peak in two decades if necessary investments are made. The estimated outlay to replace old oil fields and meet the rising demand would be $1 trillion in non-OPEC countries over the next decade.

http://www.economist-japan.com/2001/20011103/cont_e02.html


石油は枯渇する?

はい,今回は『石油は枯渇する?』 というタイトルで,

ちょっと石油について考えてみましょう.^ー^


一般的に,

「石油はあと●●年で底をつく」

という意見を持つ方は多いです.^_^

実際いろんな団体や研究者が


「今のペースで石油を使いきれば〜〜」


というような発言をよくしています.

ただ,

石油が枯渇すると思っている経済学者は

おそらく一人もいません.(断言)


今日は珍しく断言してみました♪^▽^

その根拠は『希少性』という考え方です.


ちょっと考えてみましょうか.

上水道の整っている日本

「水を売ってあげるよ」

といわれたら,一体いくら払うでしょう?

多分100円も払う気になりませんよ.だって水道をひねれば

いくらでも水が得られますからね.^〜^

ところが,砂漠で一滴も水を持っていない人が,

「水を売ってあげるよ」

といわれたら,いくら払うでしょうか?

今度は多分1万円でも払う気になりますよ.^ー^

というより,正確に言えば

売る側も1万円くらいで売るでしょう.

なぜかというと,このときは「砂漠」という

「水が希少である」という条件なので,

売る側にとっても,買い手にとっても,すごく大切に思える,

言い換えればとても高価になっても良いと思えるのですよ.^―^:


この「水」を「石油」に換えて書いてみます.

石油がまだ豊富にあるとき

「石油を誰か買ってくれ〜.」

って言っても,多分安くしか売れません.

逆に,石油がほとんどなくなってしまったら,

多分非常に石油が高価になって

石油が豊富なときにくらべて,石油の消費量が格段に少なくなるでしょう.^_^:


さてさて,今回の話でわかると思うのですが,

「このままのペースで石油を消費すると〜〜」

というのは,現実的にはありえません.^〜^

石油が少なくなる

石油の希少性が増し,高くなる.

石油の消費量が減る

この流れをどんどん繰り返すわけですからね,

いつまでたっても多分石油はなくならないでしょう.^▽^:

ただ!

石油が無くなる可能性がある場合もあります.

それは

石油の価値が非常に低くなり,なおかつ

石油以外のもっと上質で安いエネルギーが開発されたとき


です.

ちょっと硬い文章なので,もっと簡単に言いますね♪^ー^

例えば

「太陽電池の性能が100倍になって,

しかも開発費が今の100分の1になって,

そのエネルギーは非常にクリーン♪」


こんなエネルギーが開発されたら,石油はもうダメです.^_^:

石油・・・環境被害すごい,値段が高め

この太陽電池・・・環境にクリーン♪値段が安い♪性能がよい♪

石油を使うメリットなんぞ,もうなくなってしまいます.^_^:


もしかしたら

「そんな電池開発されるわけないっしょ.^〜^:」

と思っている方もいらっしゃるかもしれませんが,

これはありえます.(自信あり)

石油の値段が高くなれば,やはりコストダウンのために

企業はもっと安価で安全なエネルギーを探すインセンティブをもちます.
※インセンティブ・・・そうしようとする気持ち

安価なエネルギーを作る競争がおきます.

結果的に石油よりも良いエネルギーが作られる可能性が高くなります.

結果的にどんなエネルギーを開発するかはわかりませんが,

多分,石油に代わる新エネルギーは近いウチに開発されるでしょう.^ー^

多分,「石油はあと○○年で底をつく」といっておられる方は,

本当に石油がなくなってしまう,とは思っていないのだと思います.

本当に言いたいことは

「人類が自然を奪いつくすことへの警告」

ではないでしょうかね.^_^

天然ガスを含む石油資源は,
これから先100年程度では枯渇しない

石油文明の次は何か
環境破壊の現石油文明から,豊かな自然の後期石油文明を経て

名城大学経済学部 槌田敦

【石油枯渇の恐怖】

 石油は人類の発見した最良の動力資源となったが,いずれ石油資源の枯渇でこの文明は消滅するという恐怖に人々は捕らえられた.そこで,石油が枯渇しても,この文明を維持するために石油代替エネルギーの開発が提案され,ただちに実行に移された.
 原発は,1960年代に『石油は30年で枯渇する』という理由で推進された.この30年という数字を可採年数というが,現在,すでに30年は過ぎ去ったのに石油は枯渇していない.そればかりか,石油を大量に消費したのにこの可採年数は逆に増えて43年になっている.
 可採年数とは,原油の確認埋蔵量を年間使用量で割った値である.確認埋蔵量の定義は,現在の技術と現在の価格で採油可能な量である.石油を使ったのに可採年数が増える理由は,採掘技術が向上したからである.
 ところで,価格は需要と供給の関係で決まる.石油を欲しいと思うと価格が上がり,蓋をしていた井戸から石油が出てくる.つまり確認埋蔵量とは,欲しいと思うと出てくる量であった.
 石油は当分枯渇しないだけでなく,そもそも原発は石油の代替ではなかった.それは,発電所の建設やウラン燃料の製造に石油を大量消費するからである.「石油を用いて石油代替エネルギーを生産する」ことは自己矛盾である.同様に,核融合発電も,仮に実現したとして,石油がなければ発電装置は作れないから,石油代替ではない.
 〔略〕

【利用の進む天然ガス】

 原油採掘のとき焼却廃棄していた石油天然ガスが,パイプラインや液化により運べるようになった.天然ガスによりガスタービン(ジェットエンジン)を回し,その余熱で蒸気タービンを回す発電方式も採用されて,天然ガスは重油,石炭を追い落とし,定置用動力源として利用されるようになった.
 この発電効率は50〜60%と高く,温排水をほとんど出さないし,公害も少ないから,都市の中に300万キロワット級の発電所を建設できるようになって,遠距離送電の必要がなくなった.しかも,効率をほとんど変えずに出力調整が可能で,高価で環境破壊となる揚水発電所も必要としない.
 サハリンには大量の天然ガスが存在し,これが海底パイプラインで日本各地に配給される日は近い.そして,日本の周辺の海底にはシャーベット状のメタンハイドレートの下に天然ガスが存在し,浜松沖と三陸沖で試掘に成功している.

 まとめると,天然ガスを含む石油資源はこれから先100年程度では枯渇しない.
 したがって,原発は高価でやっかいだから,日本を除く先進国では,原発の廃止は常識となっている.

【新エネルギー開発に補助金は無駄】

 原発を廃止する代わりに,太陽光や風力の利用が提案されている.しかし,風力の発電単価は15円程度で高価である.太陽光に至っては70〜100円で,とても実用にはならない.また,これらの発電は稼働率が10%程度で,しかも不安定なため,補助電力として同規模の別電源が必要となる.
 分散型の燃料電池に注目する人がいる.しかし,これには高価な触媒が必要で,耐用年数も未知数である.おそらくロータリーエンジンと同様に,実際に使用されてもあくまで趣味のエンジンということになろう.それに,用いる資源は石油や天然ガスであって,石油文明の範囲内である.
 ジメチルエーテル(CH3OCH3)が注目されている.これは常温でも6気圧で液体になる.長年の夢の石炭液化技術の再来であるが,通産省の補助金で開発研究されているので,実用化はおぼつかない.実用になるならこっそりと開発して特許を取り,大儲けできる筈だからである.
 そもそも補助金による開発は成功しない.その理由は,来年も補助金の欲しい研究者にとって,「成功しそうで成功しない開発」こそもっとも望ましい研究テーマだからである.核融合発電はその典型である.1950年代にはあと1O年で完成すると言っていたが,10年研究すると完成時期は10年伸びることになって,50年経過した現在では,あと50年で完成する,と言って巨額の研究費を稼いでいる.『砂漠の逃げ水』という人もいる.
 これに対して,内燃機関の技術革新は堅実である.ガスタービンの小型化やディーゼルエンジンの低公害化が進んでいる.そして,ピストン・シリンダー型のエンジンは,未だ機能の分離が不完全で,まだまだ効率改善の余地がある.さらに,このピストン・シリンダー型エンジンは効率の悪い内燃機関から効率のよい外燃機関へ改良することができるので,石油文明はさらに豊かになると思われる.
 石炭文明を支えた蒸気機関,石油文明を支えた内燃機関,これらはすべて自前で開発した.最近の内燃機関の開発では,環境対策の規制を次々と達成して儲けている.この儲かることが技術開発の基本である.
 新エネルギーの開発は,石油の枯渇が近づき,石油の価格が上昇してからでも十分に間に合う.そのようになれば,採算のとれた新エネルギーから順に実用になっていく.採算がとれないのに,補助金で開発しようとすることは無駄そのものである.

【炭酸ガス温暖化の脅しとその対策】

 この石油文明はこれまでの文明と違って環境破壊や汚染がすさまじい.古代文明は農地の生産性を失い没落するまでに長い年月がかかったが,この石油文明ではその成立からわずか50年で回復不可能とさえ考えられるまでに環境を劣化させた.
 ところで,人々は,環境がわずかに変化しても環境破壊と勘違いして,脅えている.その勘違いの例が,炭酸ガスによる温暖化騒動である(2).これは環境破壊でも環境汚染でもない.
 まず,その大気中炭酸ガス濃度と気温のどちらが原因でどちらが結果なのかを考えていない.事実は,炭酸ガス濃度の変化は気温の変化よりも半年遅れている.また,1991年のピナツボ火山の噴火で,地表に届く太陽光が減り,気温は2年間上がらなかった.そして,人間が炭酸ガスを出し続けたのに,炭酸ガス濃度はこの2年間増加していない.
 最近の温暖化は事実であるが,その原国は,活発化した太陽活動と熱帯と北極での対流圏大気の汚染に求めるべきである.炭酸ガス濃度の変化は,海洋表面からの炭酸ガスの出入りの温度効果として説明できる(2)
 したがって,炭素税や炭酸ガス排出権取引などは無意味な議論である.そして,排出権などという権利は存在しない.権利の根拠として特定年の実績を基準にするという方法は不正である.その年まで努力をせず,たれ流し放題にしていた国や企業に莫大な権利が与えられ,その年には公害対策をすませた国や企業には権利がないことになるからである.
 ところで,2℃程度高い気温を人類はすでに経験している.6〜7千年前にはその最高気温で,当時世界は古代文明,日本は縄文文明であった.この程度の温暖化はけっして悪いことではない.
 しかし,気温はこの6千年間長期下降傾向にある.そしてこの間にほぼ2千年ごとに小氷期があった.前回の高温期は2千年前だったから,現在が高温期で,まもなく低温期を迎える(2,p236〜239).その時,食糧枯渇の時代が始まることになる.

【砂漠化こそ最大の環境破壊】

 このような地球温暖化などで大騒ぎをしている間に,熱帯や温帯の森林や農耕可能な土地が人間による荒廃,すなわち砂漠化により失われている.世界の農地は寒帯だけになりそうである.
 ここで,気候が変わって寒冷化すれば,15℃以上の気温が3〜4ヵ月続かなければ穀物は実らないから,ただちに食糧枯渇の問題となり,飢饉の時代を迎えることになる.
 温帯や熱帯の放棄され砂漠化した元農地の回復は望めないし,回復するにしても時間がかかるから,これまでの歴史で見たように,北方民族の南下にともなうあつれきや戦争を経て,この石油文明は食糧を失い,終了する可能性が高いのである.

【砂漠化の原因は,穀物の過剰生産と自由貿易】

 ところで,なぜ,熱帯と温帯の農地が荒廃することになったのであろうか.それは,アメリカ,カナダ,ヨーロッパなど先進農業国において,石油を使用する科学技術農業により穀物を大量に生産したからである.思慮のない人々は,これにより人類は飢餓から救われたと考えた.
 しかし,穀物の過剰生産により,穀物価格は低迷した.アメリカでは農民はさらに生産量をあげようとして,農地を酷使し,結果としてさらに生産性が落ち,貧しい農民は価格競争から脱落して離農し,富んだ農民は別の農地を開拓した.まさに,ゴールドラッシュの農業版で,いかにアメリカの土地が広くても,農地はなくなってしまうにとになる.
 そこで,欧米各国は,余剰穀物を補助金付きの自由貿易で世界各地に安価に売り,国内価格との差額に補助金を支払うことにした.その理由は,欧米各国にとって穀物は戦略物資であり,農民の失業対策は重要政策だからである.
 世界の小麦輸出量は1億トン,約7億人分で,1996年の輸出上位6カ国は,アメリカ(31.7%),カナダ(16.8),オーストラリア〈14.8),フランス(14.8),ドイツ(4.3),イギリス(3.7)であった.この6カ国の合計は小麦輸出総量の86.1%となる.この外,大麦,とうもろこし,大豆でもこれらの国々が圧倒的な輸出をしている(世界国勢図会98/99).
 このため途上国の農業は価格競争にさらされて,農地は酷使され,栄養不足と塩化で生産性が低下する.結局,これらの農地を放棄し,森林を新しく焼畑にしてその栄養を利用することになる.しかし,これも酷使して,これらの農地は次々と放棄されていく.放棄された農地は栄養不足と塩化のため森林に戻ることはなく,土は風により飛ばされ,雨で流されて砂漠化する(3,pp116〜123,他)



引用文献
1)槌田敦『石油文明の次は何か』(1981年)農文協
2)槌田敦「C02温暖化脅威説は世紀の暴論」『地球温暖化への挑戦』(1999年)東洋経済新報社pp230〜244,pp251〜255
3)石弘之『地球環境報告』(1988年)岩波新書
4)槌田敦『エコロジー神語の功罪』(1998年)ほたる出版
5)スーザン・ジョージ『債務ブーメラン』(1995年)朝日選書
6)槌田敦『熱学外論−生命・環境を含む開放系の熱理論』(1992年)朝倉書店
7)槌田敦『持続可能性の条件−資源と廃棄物で社会の循環と自然の循環をつなぐ」名城商学1999年3月pp79〜108
8)加藤峰之,槌田敦「市場経済による無理のないリサイクルを」名城商学1999年11月pp113〜155

http://env01.cool.ne.jp/ss04/ss042/ss0421.htm

石油をめぐる攻防戦

国連で議論されているイラク問題の焦点は,表向きはフセイン政権が保有するとされる大量破壊兵器だ.しかし議論を戦わせている各国の本当の狙いは,イラクが抱える膨大な原油を巡る権益かもしれない.


原油確認埋蔵量トップ5(単位:億バレル)

サウジアラビア 2618
イラク 1125
アラブ首長国連邦 978
クェート 965
イラン 897

アメリカ(8位) 304


イラクの主な原油輸出先
(単位:バレル/日)

アメリカ 79万5000
フランス 9万7000
オランダ 9万6000
イタリア 8万0000
カナダ 7万7000
スペイン 5万2000


アメリカの原油輸入元
(単位:バレル/日)

サウジアラビア 170万0000
ベネズエラ 150万0000
ナイジェリア 88万4000
アルジェリア 27万8000
クウェート 25万0000

2001年のデータをもとに作成
資料:米エネルギー省, BRITISH PETROLEUM

ニューズウィーク日本版 2002年11月13日号 P.16

可採年数:
 ある年の確認可採埋蔵量(R:reserve)を,その年の生産量(P:production)で割った値のことで,通常R/Pで表されます.現状のままの生産量で,あと何年生産が可能であるかを表します.
 従って,新しく資源のある場所が発見されたり(Rが大きくなる),生産量が少なくなったりする(Pが小さくなる)とこの値は大きくなります. 

http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data6007.html


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