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青文字:加筆改修部分
 ただし,「である」「です」調の統一のため等の補正を除く.

※既に分類され,移動された項目を除く.


Kampfgruppe 44

目次


* 【追記】

◆もしも,の英会話入門[軍隊式英会話術] vol.123       Takashi Kato
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 さて本題です.今回の教材である潜水艦は隠密性が命です.広大な大洋の底を

数カ月も浮上せずに動き回る原子力潜水艦はほぼ発見不能です.敵から見れば,

つどこから攻撃されるか分らないわけですから,その行動を大きく制約されます


 潜水艦テキサスは,排水量7900トン.25ノットで航行できる攻撃型原子

潜水艦 (nuclear attack submarine) です.近距離目標に対してはマーク48型

雷 (Mark 48 torpedo) を,遠距離目標にはトマホーク巡航ミサイル (Tomahawk
cruise missile) を使用します.

 攻撃型潜水艦ですから,潜水艦発射弾道弾 (submarine launched ballistic
missile: SLBM) はありませんが,トマホークの射程は何千キロにも及び,ほぼ

世界のいかなる目標も攻撃できます.核弾頭 (nuclear warhead) も装備可能なの

,大きな抑止力を発揮します.



基本語彙(カタカナ表示は大雑把なものです)

Equipped with(イクウィップト ウィヅ)装備する
例)This car is equipped with a car navigation system
(この車はカーナビがついています)

Seek(スィーク)探す
例)hide-and-seek  かくれんぼ

Prey(プレイ)犠牲 餌食
注意)カタカナにすると play と区別できません.英語のLとRの発音を身につけ
る必要
があります.

He is so naive and an easy prey
(彼はナイーブでいいかもだ・騙されやすい)

Many civilians fell prey to suicide bombings
(多くの民間人が自爆テロの犠牲になった)

Cruise (クルーズ)ゆっくり進む 巡航する 船旅をする
応用)cruising speed 巡航速度
cruise missile 巡航ミサイル(亜音速で飛行機のように飛ぶミサイル


fire-and-forget(ファイアーアンドフォーゲット)撃ちっ放しの
応用)fire-and-forget missile 自動追尾ミサイル(撃ちっ放しで,母機が命中
まで誘導
する必要がないミサイル)

Landmass(ランドマス)陸塊  大陸


シナリオ (カウンターを00:20に合わせてください)

For short-range attacks on other ships, it is equipped with Mark 48
torpedoes.
A Mark 48 can reach a target over 5 miles away.
(近距離の艦船を攻撃するため,マーク48型魚雷を装備しています.これは5
マイル以上
離れた目標に到達できます)

But its most impressive thing is its guidance system. As it leaves the
launch
tube, a thin wire spins out physically linking the sub to the torpedo.
(もっとも凄い特徴はその誘導システムです.発射管を出ると,魚雷から細いワ
イヤーが伸
び潜水艦と魚雷を物理的に結び付けるのです)

As the torpedo seeks its prey, it's in constant contact with the fire
control
back on the sub feeding valuable intelligence through its guiding wire.
(魚雷は獲物を探す間も潜水艦の火器管制装置と連絡を保ち,誘導ワイヤーを通
じて大切な
情報を入力しつづけます)

If the sub is required to strike a long-range target, Texas is packed with
land
attack Tomahawk cruise missiles.
(遠距離目標を攻撃する必要が生じた場合のため,潜水艦テキサスは対地攻撃用
トマホーク
巡航ミサイルを積んでいます)

They are capable of reaching targets almost thousands miles away. The
Tomahawk
is essentially a fire-and-forget weapon and its range means that Texas is
capable
of attacking 75 percent of the world's land mass.
(これは数千マイルも離れた目標に達する能力があり,基本的に撃ちっ放しです
.トマホーク
の射程を持ってすれば,全大陸の75パーセントを攻撃できます)




英語一言アドバイス: require は「〜を必要とする・要求する」です.現在の外
交状況を考
えると,こんな使い方ができます.
If Japan wants an equal relationship with the U.S., Japan is required to
defend
the U.S. forces when they are attacked.
(日本がアメリカとの対等な関係を望むなら,米軍が攻撃されたとき彼らを守る
ことが必要だ)

Diplomacy requires strong will, patience and a long vision.
(外交は強固な意志と忍耐と長期的な展望を必要とする)



教材ビデオ:http://videos.howstuffworks.com/science/future-weapons-videos-playlist.htm?page=3#video-30691

潜水艦テキサス 参考サイト:http://navsource.org/archives/08/775/0877558.jpg


加藤喬

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Fri, 19 Nov 2010 09:01:58 +0900 (JST)


* 【追記】

国家の命運 新潮新書
薮中 三十二著
税込価格: \714 (本体 : \680)
出版 : 新潮社
サイズ : 18cm / 188p
ISBN : 978-4-10-610390-2
発行年月 : 2010.10

http://www.bk1.jp/review/0000488568
http://www.bk1.jp/review/0000488568
塩津計
2010/11/25 14:40:33
冒頭に薮中氏はかましている.「私は,外交インサイダーとしての立場を利して,個々の政治家について論評したり,暴露的レポートをお届けするつもりは毛頭ない.それは,一外交官としてのポリシーでもあるからだ」と.これは外務省の落ちこぼれが最近恥も外聞もなくメディア露出を決め込んで組織人としてあるまじき行動に出ていることへの痛烈な皮肉であろう.「外交インサイダーとしての立場を利して,個々の政治家について論評」は,おそらく外務省の落ちこぼれ1号天木直人のことを指しているのだろうし,「暴露的レポートをお届け」というのは,外務省の落ちこぼれ2号の佐藤優のことを指しているんだろう.本書は,いわば抗弁,反論することを封じられてきた外務省からの反撃の狼煙である.

外務省の中枢を歩んだエリート官僚による文章だけに内容は迫力に満ちている.

薮中さんは日本の外交の特色として以下の3点をあげている.「受け身の姿勢」「言い訳の姿勢」「小出しの姿勢」.日本では「もっと毅然たる外交を」という声が巷にあふれている.「NOと言える日本」など勇ましいタイトルの書物も人気を博したりしている.しかし,薮中さんは,こうした言論は,いわば頭の悪い国民に向けて発せられるガス抜き効果を狙ったものなのであって,いざとなると日本人自身が「毅然たる外交」に背を向けると喝破する.なぜ日本は堂々と自分の主張を行わないのか.それはカッコイイことを言えば,あらぬ逆ねじを食らって,必要以上の譲歩を迫られたとき,その用意も覚悟もないからだという.「お前が余計なことを言うから,米で譲歩を迫られたじゃないか.自動車産業のお蔭で農民が馬鹿を見るのか」と,こういう具合になるわけだ.日本社会の最大の欠陥が,ここに凝縮されている.日本人は,物事に優先順位をつけることが出来ない.何が一番重要で,何が重要でないかを判断することが出来ない.やろうとすると必ず起こるのが「強者の論理」「弱肉強食」という,例のアレだ.日本では全員がハッピーになる政策でなければ歓迎されない.というか,受け入れられない.自分で自分の政策に優先順位をつけられないのであれば外国と交渉なんか出来るわけがない.たかだかGDPの1.5%しかない農業なんか,本来日本にいらないのである.日本人は世界で一番競争力のあるトヨタやホンダの自動車を売って,そのお金で世界から食料を輸入することが「合理的」なのだが,こういうことを白昼堂々主張することが出来ない.出来にくい.大規模小売店法に関する規制だってそうだ.駅前商店街というのは,昭和30年代の消費行動を前提とした設計になっている.当時の日本人は三度三度の食事ごとに買い物をした.夕方に夕食で食べる分だけ買い物をした.だから買い物は買い物かごだけで済んだし,買い物は原則徒歩もしくは自転車ですんだ.いまは違う.昔は想像もしていなかった1リットル紙パック入り牛乳を三本も四本も買い,2リットル入りペットボトルのお茶を1ダースも買うようになった.こんな買い物,徒歩では出来ない.自動車がないと出来ない.ショッピングカードがないと出来ない.そうなると駅前商店街じゃ買い物なんか出来ない.大規模スーパーでドカンと買い物をして,駐車場に停めてある車に全部載せて自宅に帰るように出来ないと買い物なんか出来ない.だから消費者は駅前商店街に見切りをつけ,巨大スーパーの進出を歓迎したのだが,日本では商工族が邪魔をして大規模小売店法の改正が遅れた.これは時代の要請に合わなくなった駅前商店街の人々にとっては利益でも,日本全体からみれば明らかにおかしなことだった.もっと日本の消費者に合理的な買い物の機会が提供されてしかるべきだった.しかし日本の政府は「正しい選択」が出来ないでいた.だから外務省が「ガイアツ」を使って「正しい選択」を日本政府に迫る作戦を実行した.これがいまだに在日アメリカ大使館がそのホームページ上で公開している「年次改革要望書」の中身だ.これは日本自身による自作自演がその大宗を占めるものなのである.関岡英之,読んでるか?

しかし,これは何も日本政府に限った現象ではない.諸君の身の回りを見渡せば頻繁に起こっていることである.マンションの管理組合を見てみるがよい.理事長に大した権限は無く,司会進行役にすぎない.そして大規模修繕計画等ほとんど全員の利益になる事柄でも一部の少数のワガママが横車を押した途端,管理組合の審議はストップする.前に進めない.これが私たち日本人がつくってきた「社会」なのである.

薮中さんは日本と対照的な外交を展開する国として中国をあげる.中国外交の特色は「動じない」「言い訳しない」「相手を攻撃する」の3点だ.ただ日本のマスコミが言うほど中国の外交が「したたか」なのかというと,「そうではない」と薮中さんは断じる.自分の主張を強く出しすぎる結果,周囲から浮き上がり,嫌われ,孤立した揚句に自滅するケースが中国外交にはままあるというわけだ.最悪のケースが2009年12月にデンマークで行われた気候変動サミットだろう.中国は世界が苦労して漕ぎ着けようとした気候変動サミットの合意をぶち壊し世界を敵に回した.中国国内では「西欧の陰謀を打ち砕いた自主外交」という,いつか見たような拍手喝さいが巻き起こったが,気候変動サミットを契機にアメリカとEUは中国を敵視するようになったのは厳然たる事実だ.ダライラマにしても李登輝にしても,中国政府がシレっと無視していれば世界の誰も注目しなかっただろうに,中国が大騒ぎするものだから,世界は却って中国政府の姿勢に反対の意思表明をするようになる.今年のノーベル平和賞騒ぎも同じだろう.独りよがりで傍若無人な中国が世界中の人たちから嫌われ警戒されるようになった最大の原因は中国の外交姿勢にあるというわけだ.

海外からどう見られているかを気にしすぎるのも日本人の悪い癖だと薮中さんは言う.アメリカに対し毅然たる対応をしろと勇ましい声を出す奴に限って,年頭の大統領一般教書演説に日本への言及がないと,日本のマスコミはすぐに「ジャパンパッシング」「日本軽視」と大騒ぎを始める.じゃあ,同じ教書内でイギリスへの言及があったか,フランスへの言及があったか.無いのである.それで英仏のマスコミは自国軽視だと大騒ぎなんかしていないのである.日本のマスコミもきちんと冷静な己の目で世界を見る視点を養うべきだろう.


* 【追記】

◆もしも,の英会話入門[軍隊式英会話術] vol.124       Takashi Kato
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◆第124話 特別編《気まぐれ心旅》62
「ランド・ウォリアー─最新ハイテク防衛兵器(5)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 中国はヘリ搭載の艦艇を尖閣諸島に派遣したそうです.一方,メドベージェフ

ロシア大統領は菅首相との会談後,ツイッターで北方領土問題を「解決不能」と
書き込んだと聞いています.

 南と北から挟み撃ちにされた格好ですが,したたかな隣人相手に,なぜ日本は
一歩先んじる態度が打ち出せないのでしょう.
 菅首相の指導力欠如と内閣の機能不全はもちろんですが,日本人の深層心理に
も相手に強く出られない負い目のようなものを感じます.

 そんな中,「はやぶさ」が小惑星イトカワの物質を持ち帰って来ていたという
ニュースには感動しました.これは「世界一」を目指す志とそれを可能にする努
力があってこその偉業です.

 他国に先んじた快挙は,世界に誇っていいと思います.「二番じゃだめなんで
すか?」と国政を司る立場の人物が言うような風潮こそが,負い目の温床.これ
こそ仕分けで無くして欲しいものです.

 今日のテーマは歩兵 (infantry) です.
 歩兵というのは空軍(air force) や海軍 (navy) に比べると,かなり地味でハ
イテク兵器ともあまり縁のない兵科 (military branch) でした.コンピューター
の小型化とオンライン化によってこれが変わってきました.

 今回紹介するランド・ウォリアーというシステムは,歩兵をネットで繋ぎ,現
場で必要な情報をリアルタイムで提供するものです.各自の置かれた状況を大局
的に把握でき,また兵士間の連絡も密になりますので,戦闘能力 (combat
capabilities) が飛躍的に向上します.

 背中に背負う小型パソコンとヘルメットに内蔵されたスピーカーとマイク,そ
れに画像を目に投影するディスプレーからなっています.
 M4カービン銃 (M4 Carbine) にも光学照準器 (optical scope) とカメラが装
備されていて,銃が狙っているものをスクリーン上で見ることができます.

 壁の陰に隠れながら射撃する芸当もできる優れものです.一見してSF映画
「エイリアンズ」や「ユニバーサル・ソルジャー」に登場した未来歩兵の現実版
だと分かります.




基本語彙(カタカナ表示は大雑把なものです)

Infantry(インファントリー)歩兵
応用)light infantry 軽歩兵
    mechanized infantry 機械化歩兵
Weapon (ウェッポン)武器  兵器
Armor(アーマー)鎧 甲冑 装甲
Meet (ミート)会う(本文のように命令形で使うと人やものを紹介する際の
「こちらが<   >です」の意になる)
It matters(イット マターズ)重要である
応用)It doesn't matter much そんなことはあまり重要でない
One step ahead of(ワン ステップ アヘッド オブ)〜の先を行く 〜に先ん
じる



シナリオ (カウンターを00:00に合わせてください)

Since the beginning of time, the concept of infantry soldier pretty much
has not changed.
(有史の初めから,歩兵の概念はあまり変わっていません)

He is issued a weapon, armor, if he is lucky, he gets a helmet.
(歩兵は武器,鎧を支給され,運が良ければヘルメットをもらいました)

While the concept hasn't changed, it has evolved. Meet Land Warrior.
(概念は変わっていませんが,進化しました.これがランド・ウォリアーです)

It puts the state of the art technology right onto the soldier's body
pushing his formidable fighting capability to another level.
(最先端技術を兵士の身体に付け,恐るべき戦闘能力を新たなレベルまで押し上
げます)

Land Warrior is a network computerized system worn by the soldier.
(ランド・ウォリアーは兵士が身につけるコンピューター化されたネットワーク
システム
なのです)

Vital battlefield data is continuously transmitted straight to where it
matters
keeping him one step ahead of the enemy.
(重要な戦場のデータが,もっとも必要とされるところに直接伝達され,ランド
・ウォリ
アー装備の歩兵は敵に一歩先んじることができます)



英語一言アドバイス:One step head of は「〜の一歩先をいく」「に先んじる
」という
意味です.日本が生き延びる道を示すとき,こんな言い方が出来ます.

Japan can remain one step ahead of other countries by being #1 in science
and
technology.
(科学技術分野で一番であることで,日本は他国の一歩先を行くことができる)



動画サイト:
http://videos.howstuffworks.com/science/future-weapons-videos-playlist.htm?page=2#video-7116

上記のサイトが見られない場合は下を試してください.

http://dsc.discovery.com/videos/futureweapons-land-warrior.html


参考サイト(ロシア大統領の書き込み):http://twitter.com/KremlinRussia_E/status/3466246578245632


加藤喬

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Nov 2010 09:02:55 +0900 (JST)


* 【追記】

● ごあいさつ 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━

こんにちは.渡部です.

サンフランシスコ平和条約締結時(昭和25年)の首相吉田茂さんは,傲岸不遜
で有名
でした.国会では理屈に合わない質問をした野党議員を,演壇から「バカヤロウ
」と,
怒鳴りつけたりしたものです.

その吉田さんが首相時代,会津に遊説に行ったとき,白虎隊祭に招かれました.
ところ
が最後まで見ておれず,「つらすぎる」と途中で涙ぐみ,顔を伏せてしまったそ
うで
す.いくら時代が違うとはいえ,16,7の少年が,落城とともに自刃し果てる
演武な
ど,正視できなかったのでしょう.吉田さんの実父の竹内綱さんは,板垣退助の
配下の
土佐藩士として会津・二本松に攻め入ったはずですから,なおさらだったのかも
しれま
せん.

二本松少年隊の隊員たちの多くは,白虎隊士よりさらに3,4歳は若い,少年と
いうよ
りは“子どもたち”でした.その少年隊祭も毎年,命日にあたる7月29日の前
日に,
旧二本松城前の広場で行われております.二本松市の小学生による集団剣舞も披
露され
ます.
吉田さんはそれを見たことはないはずですが,もし見たならどのような反応を示
した
か,知りたいものです


(渡部由輝)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━
● 第五章・少年隊出陣(2)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━
二本松戦争最大の特徴は,約八十名からなる「二本松少年隊」の存在である.

城下まであと数時間の地点に西軍が到達した七月二十七日夜,二本松城の一劃に
藩の首脳部が集まり,「降伏」か「抗戦」かを決める「大書院会議」が行われた


藩論は『徹底抗戦』に決した.
それとともに,徴兵年齢は十八歳から十五歳(数え年)に引き下げられ,
満年齢十三歳からの従軍が可能となった.

少年隊士の多くは十三,四歳.今でいえば小学五,六年か中学一年生である.
そのような幼い戦士たちが一人や二人だけならまだしも,数十人単位で一隊を組
み,
藩の正規な部隊として戦ったという例は,わが国の戦史において他にはおそらく
ない.
世界的にも珍しいのではなかろうか.


■壊滅

 大壇という,二本松城下に至る奥州街道を見下ろす小高い丘の上に陣取ってい

少年隊は,七月二十九日の早朝八時ころから,西軍方大部隊と交戦的状態に至っ
た.
だが,開戦後,おそらく三〇分ほどで少年隊側は,軍隊用語でいえば完全に制圧
されて
しまった.そのときの状況を『二本松藩史』はこう伝えている.

 「(少年隊側がまず何発か砲弾を撃ったら),西軍方はただちに散開的隊形に
移り,
 大小砲を雨あられと撃ち出してきた」.そのため

 「余等の命と頼みたる弾除けの畳も散弾のため四分五裂して用をなさず,やむ
をえ
 ず,畑の中に全身を顕して猛烈に応戦せり.然れども砲弾の爆発に耐えがたく
,傍ら
 の竹藪の中に駈け入る」

 戊辰時,野戦用の塹壕式陣地はまだなく,だいたいは畳二枚を重ねて木々の間
に立て
かけて,胸壁としていたていどのものだった.当時の火縄銃やゲベール銃など滑
腔式銃
弾では,畳一枚を貫通できず,施条式のライフルでもミニエーなど前装銃では,
二枚を
重ねれば防げるものだったからである.だが,西軍のスナイドル銃弾や榴散弾の
威力
は,二本松側の想定の範囲をはるかに超えていたのである.

 ともかく,砲戦・銃戦に至ってまもなく,少年隊側は壊乱的状態に陥ってしま
った.
隊長木村の〈死〉がそれに追い打ちをかけた.木村は大柄であった.五尺七,八

(一七五センチていど)ほどあったと伝えられる.その体格で,おそらくは屹立
したま
ま指揮をとっていた.そこを狙い撃たれたらしい.腰のあたりを貫通されたとい
われ
る.西軍のスナイドル銃は七,八百メートルも有効射程距離があった.それを用
いた
狙撃兵もいた.西軍方兵士は,東軍は指揮官が斃されれば戦闘能力がほとんど失
われる
ということをよく知っていた.苦しい息の中で木村は「早く首を打て」とうなが
したと
いわれる.副隊長の二階堂が三太刀でようやく落したと伝えられる.

 その三〇分ほどの間での戦死者は,木村の他には奥田午之助(十五歳)だけだ
ったら
しいが,少年たちのほとんども,おそらく重軽傷を負っていた.西軍の榴弾・榴
散弾の
ためである.それらは空中で爆発したり,あるいは着弾して破裂したりすると破
片や
小銃弾が多数飛び散り,周囲の樹木や竹にぶっつかってカランコロンという音を
始終
立てていたと伝えられる.その林中を飛び散り回っている破片などは少年たちに
もつき
当たり,致命傷にこそならなくても相応の損傷はそれぞれ被っていたものと思わ
れる.

 砲が直撃弾を受けて使用不能的状態に陥っていたこともあり,二階堂の指揮の
もとに
少年たちは退却行動に移った.二階堂は少年隊の中では飛び抜けて年かさ(三十
三歳)
である.少年たちのお守役兼,藩当局との連絡官ということだったらしい.二階
堂残存
部隊が大壇口から山伝いに大隣寺あたりまで来たとき,城下にはすでに小浜から
の西軍
部隊が突入してきていた.その斥候部隊と遭遇し,おそらく先頭を歩いていたと
思われ
る二階堂が狙撃され,即死した.西軍の斥候部隊の先頭四名ほどは七連発のスペ
ンサー
銃を持っていた.今日の自動小銃にも相当するスペンサーと,発射するまで十い
くつも
の操作を必要とするミニエー銃とでは,まともな戦いにならない.同時に隊員の
岡山
篤次郎(十三歳)も撃たれ,倒れた.岡山はその場では死なず,人事不省になっ
て西軍
に捕われて野戦病院に収容され,そこで戦傷死した.


■敗残へ

 統率者がいなくなった少年隊士たちは,その場で二手に分かれた.会津へ至っ
て再起
をはかろうとする者と,城へ入って最後の抵抗を試みようとする者とである.正
確に
誰が会津組で誰が城組であったかはわからない.ただ,傷が深かった者はだいた
い城組
であったものと思われる.会津組の多くはそのまま山伝いに安達太良山麓を越え
,無事
に到着できたらしいが,城組はそうはいかなかった.城門に辿り着く前に,城下
に充満
していた西軍方兵士との間の白兵戦に至ったりしたからである.今日,語り伝え
られて
いる少年隊士たちの個人的勇戦,というよりは絶望的抵抗の多くは,そのときに
発生し
たものである.そのいくつかをあげておこう.

 高橋辰治(十三歳)
 二十九日の日暮れどき,西軍ばかりになった街中で,ある邸の前の堀から泥ま
みれ
 の少年がよたよたと這い上がってきた.そのまま刀を構えて西軍兵士の中に突
入し
 ていったが,たちまち斬り伏せられてしまった.

 高橋の場合,たまたまその邸内に潜んでいた下僕が目撃したため,最後の状況
が判明
したものであるが,他にもおそらくは同じようにして死に至った者は少なくなか
った.
木村隊では徳田鉄吉(十三歳)・遊佐辰弥(十三歳)・木村丈太郎(十四歳)・
大桶勝
十郎(十七歳),他隊では上崎鉄蔵(十六歳)・根来梶之助(十六歳)・小沢幾
弥(十
七歳)である.その七人も城門に至る前,その付近で斬られたり撃たれたりして
死んで
いるのが後に発見されている.高橋と同様,重傷を負った身で最後の絶望的抵抗
を試み
たのではなかったのか.

 なお,根来は大城代内藤四郎兵衛の息子(三男)であった.しかも,木村砲兵
隊の
所属ではなかった.さきにのべたように,少年兵たちで最も死亡率が高かったの
は木村
隊である.それ以外の隊では,老人部隊に配属された者は一人も死なず,一般部
隊で
も,少年兵の死者六名のうち三名は,二日前の糠沢での虐殺戦で発生したもので
あるか
ら,その二十九日の戦いではおよそ四十名のうち三名しか死んでいない.

 それはもちろん,配属された隊の指揮官が,彼らを危険の少ない部署に配置し
てくれ
たためであるが,根来も大城代の息子という身分もあり,そのように遇されたも
のと
思われる.そのため,配属された隊では死ななかった.それほどの重傷も負って
いなか
ったのではなかったのか.他の多くの少年兵と同様,会津へ至ろうとすればでき
たのか
もしれない.が,そうはしなかった.すでに砲焔に包まれていたであろう城に戻
ってき
た.父四郎兵衛が大城代,つまり二本松城の最高的管理責任者として,城が陥ち
たら
生きてはいない,との覚悟は当然,承知していたものと思われる.城に戻ってあ
らため
て父の死を知り,後を追っての自殺的戦死だったのかもしれない.実際,根来は
箕輪門
前に蝗集している西軍兵に対し,二本松側からの決死的斬り込み隊に加わっての
死で
あったと,伝えられている.

 そのような自殺的抵抗が効を奏した者もいた.

 成田才次郎(十四歳)
 重傷を負い,半ば意識もうろうとしながらも刀を抜いてフラフラと歩いていた

 西軍方兵士は狂人と思い道をあけた.
 そのスキを見て成田は隊長とおぼしき人物に突きかかった.油断していた隊長

 腰のあたりを突き刺され,そのまま二人折り重なって倒れた.

 隊長の名もわかっている.白井小四郎(三十一歳)という長州藩士であった.
白井は
その場で絶命したのであるが,いまわのきわにこう言ったという.「自分の不覚
であっ
た.その勇敢な少年を殺してはならぬ」.だが,そのときはもう遅かった.成田
も銃を
逆手に持った西軍兵士たちに撲殺されていた.

 白井小四郎のように,少年たちに情けをかけてきれた西軍の将兵は他にもいた

大壇口から退却しようとしたとき,目の前の藪から突然,数十人の西軍方兵士が
顔を
出した.副隊長の二階堂が少年たちをかばって刀を構え,隊長らしき人物とにら
み合っ
た.西兵たちの間から,「なんだ,子どもじゃないか」というような声がした.
銃を
擬していた西兵たちは次第に銃口を下ろしていった.隊長はこう口を開いた.

 「お主らようやったのう.隊長どんは戦死されたか.もうよい.早よう引き上
げる
  がよい」

 薩摩弁であったという.(『二本松少年隊』紺野庫治〈ふくしま文庫〉より)


 会津組の中でも同様な経験をした者もいた.木瀧幸三郎(十五歳)である.木
瀧は
両社山守備隊に属していたがやはり敗残し,会津に至ろうと城西の小道あたりを
潜行し
ていた.そのとき西軍方の隊長とおぼしき人物と突然,出くわした.隊長は「こ
のあた
りは官軍が多い.捕えられぬよう,早よう逃げよ」と,西兵のいない方向を教え
てくれ
た.


■老人と少年

 老人たちだって同様である.少年たちをかばってくれた.

 二本松戦争においては,少年兵だけでなく老人部隊も出陣した.二本松藩では
六十歳
になると隠居が認められ,だいたいは現役を退いていた.雅号を名乗ったり,現
在も
行なわれている名物の菊作りに励んだりし,悠々自適の生活をおくっていたらし
い.
それら老人たちも徹底抗戦と決まってからは,城と運命をともにしようと一隊二
十人ば
かりの集団を作り,二十八日あたりから城下に至る東方の関門,竹田門の警備に
あたっ
ていた.多くは先祖代々の鎧兜に身を固め,銃ではなく刀槍を主武器としていた
らし
い.その老人部隊にも十数人の少年兵が配属されていた.

 二十九日の夜が明けてきた.東方の阿武隈渡しのあたりから砲声が聞こえてき
た.
そのとき,老人たちは少年兵を集め,整列させた.そしてこう言った.

 「もうよい,これで帰るのだ」

 驚いて口々に抗議する少年たちに,こうさとした.

 「我らは生きていても先はない.城と運命をともにする.だが,その方らは違
う.
  先がある身だ.一度,死ぬ気になった経験は尊い.それを忘れず,生き残っ
て,
  これからの世の中のために尽くすのだ」

 老人隊に配属された少年兵の死者が一人もいないのは,このような事情による


 その竹田門を守って城とともに滅びていった老人たちの名もわかっている.雅
号の
ままあげておく.

  印旛似水      大関冬水
  菊池友巻      関 遊酔
  寺田遊水      浅岡静翁
  遠藤遊山      中村楽山
  玉造静養      遊佐孫九郎

 雅号でない人物が一人いるが,遊佐(六十九歳)はまだ現役であった.藩の剣
術指南
役で居合術の達人であったらしい.老人隊の相手をしたのは小浜から進撃してき
た西軍
部隊のうち,最後尾に位置していた備前藩兵だったらしい.備前藩は旧式のミニ
エー銃
を主武器としていた.それは阿武隈川渡渉のさい水に濡れ,使えなかった.その
ため
老人隊と同様,旧来の武器である刀で斬り結んだりし,相当な接戦も行なわれた
と伝え
られる(『備前藩記』).遊佐も存分に奮戦したものと思われる.


■顕彰と慰霊のあいだに

 本稿を取材中,二本松市でさまざまな立場の人から話をきいた.少年隊に関し
ては,
二通りの反応があった.無条件に,あるいは無邪気に賛美する人と,その反対的
立場の
人とである.

 大体は前者であった.二本松城址の周辺を歩きまわっているうち,方角を見失
い,
少年隊の墓のある大隣寺への道がわからなくなったことがあった.通りすがりの
老人に
道を尋ね,ついでに二本松戦争に関する質問をいくつかしたところ,実に嬉しそ
うに
答えてくれた.大隣寺の近くまでわざわざ案内してくれ,その道すがら,「(少
年隊
の)誰それはこうした」等々,話がとぎれることがなかった.

 一方,後者で印象に残る発言をしてくれた人もいた.二本松市の公的地位のそ
れも
要職にある人であった.口ぶりからして先祖は二本松藩士であらしかった.こう
言って
くれた.

 「会津は慰霊なのに,二本松は顕彰ですよ」

 白虎隊の碑文には慰霊と書かれているのに,少年隊の方は顕彰となっていると
いう
意味である.実際そうである.かつての二本松城,現在の県立霞ヶ城公園に建立
されて
いる少年隊の石碑にはこう大書されている.

 『二本松少年隊顕彰碑』

 氏はそれ以上多くは語ってくれなかったが,意とするところはわかった.慰霊
とは
ただ霊をとむらう,その行為に対する是非は問わない,ただし言外に,かわいそ
うなこ
とをした,あわれである,というふうな寓意を有し,御霊よ安らかに,というこ
とであ
るのに対し,顕彰とは称えることである.よくやった,見事であったと,その行
為を
積極的に評価することである.

 他藩者,外部の人間がそう言うのはかまわない.「忠烈今も香に残す」とでも
なんと
でも言ってかまわない.だが,二本松人はそれを言ってはいけない.刀も自分で
は抜け
ないような子どもまで戦場に出したのは,とりもなおさず,当時の大人たちがダ
ラしな
かったからである.至らなかったせいである.そのダラしなかった大人たちの後
裔にあ
たる二本松人だけは,少年隊の行為を賛美するようなことをしてはいけない,と
いうふ
うな意味であったことは,間違いないはずである.

 それに対し,外部者の一人である私は何も言うことはできなかった.ただ,だ
まって
聞いていただけであった.

 そのようにだまって聞いていたのは,そのときだけでなかった.少年隊関連の
取材の
さい,私は賛美者に対しても,反対的立場の人にも,自分自身の思いは全く伝え
なかっ
た.私自身,少年隊をどう評価してよいのか,考えがまとまっていないためでも
あっ
た.

 なんといっても十三,四歳の「戦士」とはムゴい.今日でいえば,小学校五,
六年
の“児童”である.いくら時代が違うとはいえ,前記,二本松市の要職にある人
では
ないが,「そんな子どもまで戦場に出すとは」という気持ちがある.

 が一方,こんなふうにも考えたりする.十三,四歳にもなれば,骨格はまだ幼
くても
背丈は母に並ぶくらいになっている.祖母はすでに追い越している.力も強くな
り,
女性たちに比べて自らが強者であるとの自覚も芽生えている.その強者の一人と
して,
必ずしも戦争に限ったことではないが,一家・一国の危難にさいしては,母・祖
母・姉
妹ら弱者を守るため,父や兄たちに伍して危険にも困難にも立ち向かうとの気概
を持っ
てむしろ当然,というよりは,そのような覚悟も持てないような柔弱な男児ばか
り多く
なっても困る,とも思ったりする.本稿を書きながらも,その両様の考えのあい
だを
揺れ動いている.


■大隣寺にて

 少年隊に関しては,そのように二様の対応のしかたのあいだを揺れ動くのは,
もしか
すると,当時の二本松藩首脳部も同様だったのかもしれない.

 少年隊が出動したその日,七月二十八日の昼ころになって突然,彼らに解散命
令が
出されたとの証言がある.語った人は少年隊生き残りの一人水野進(当時十四歳
)で,
実際にいったんは大壇の丘まで運び上げた砲車をまた引き下ろし,城まで戻ろう
とした
という記録があるから,それは間違いないものと思われる.

 ところが,その退却命令はほどなく取り消され,再度の出動となったものらし
い.
藩当局も,彼らを戦場に出すべきかどうか,迷っていたのではなかったのか.ま
ともな
判断力のある人間なら,彼らの姿・格好を見れば,こんな子どもまで落城の道連
れにし
てはいけない,と考えるのがむしろ自然である.そこで退去命令となった.だが
,木村
少年隊は大壇口では唯一の砲兵隊である.砲兵がいなくなって銃隊だけでは戦い
はでき
ない.砲隊とは第二線以下に位置し,その前には丹羽右近隊の銃隊がいるから,
それほ
ど危険ではないだろうというわけで退去命令の取り消しになったのかもしれない
(丹羽
右近隊から砲隊がいなくなっては困るとの抗議があったのかもしれない)などと
,私自
身,少年隊に関しては,この稿を書きながらも,さまざまな思いに揺れている.

 本稿の取材が一段落ついたあと,あらためて少年隊の墓のある大隣寺に行って
みた.
春晩い時期の小雨模様だったこともあり,草いきれでむんむんしていた.ウィー
クデイ
の暮れ方であった.代々の二本松藩主であった丹羽家の菩提寺でもあるその大隣
寺の境
内にいた小一時間ばかりのあいだ,人にはひとりも出会わなかった.少年隊士た
ちの墓
は中央に隊長・副隊長が位置し,その両側に七人ずつ,計十六基あった.隊長・
副隊長
を除いて,向かって右側から年齢の低い順に並んでいた.全員の墓石にくっきり
「戦
死」と刻まれていたのが印象的であった.

 〈死〉にはさまざまな形態がある.戦時における武人としては,昔は戦死が死
の最高
的形態であるとされていたものである.戦って敗れ,自死なら,自己満足的な死
にすぎ
ない.それによって相手には打撃も損害も与えられない.最後まで死力を尽くし

戦い,相手にもできうる限りの損傷を発生させ,それがかなわなかったらせめて
一発の
弾丸・砲弾でも消費させてこそ,武人としての最高的死である,と言う意味であ
る.

 そのことの是非を今日的感覚で論じてもはじまらない.一世紀半も昔のことな
のであ
る.ただ,代々の藩主とともに大隣寺に眠っている少年兵たちは,その戦時にお
ける
二本松武士としての責任をよく果たし,武人としての死の最高的形態であった『
戦死』
をとげたものであることは,間違いない.


(以下次号)


(渡部由輝)


■著者へのお便りはこちらからどうぞ.⇒     
 http://okigunnji.com/s/watanabeyoshiki/


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━━
● 二本松あれこれ (渡部由輝)
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■二本松藩の藩風(2)

●藩主殺害事件

 江戸時代全般を通じ,二本松藩では特に大きな事件は発生しなかった.伊達藩

ようなお家騒動も起こらなかったし,南部藩と津軽藩との家格争いのような,藩
政を
ゆるがすような隣藩とのもめごともなかった.

 よく知られているように現在の県立霞ヶ城公園,かつての二本松城の一劃には
大きな
花崗岩の自然石を用いた戒石銘碑がある.今は風雪にさらされて文字も判読しづ
らく
なっているが,次の十六文字が刻まれている.

 爾俸爾禄(なんじの俸やなんじの禄は)
 民膏民脂(民の脂であり汗のかたまりである)
 下民易虐(民衆を虐げるのは簡単だが)
 上天難欺(天を欺くことはできない)

 十世紀半ばころ,中国四川省に興った国家,後蜀の儒官であった黄庭堅の作で

二本松藩に仕えた儒者岩井田昨非が,享保十九年(一七三四)に建立したもので
ある.
そこは旧二本松城の通用門のあたりで,藩士は朝夕それを見ながら登下城してい
たもの
らしい.戒石銘碑のためばかりではないだろうが,領民に対する苛斂誅求的事件

あまり起こらず,したがって一揆的事態もあまり発生せず,藩全体としてはどち
らかと
いえば温順な気風であったらしい.

 その二本松藩において寛政八年(一七九八),藩主が家臣によって刺殺される
という
前代未聞の不祥事が勃発した.それは藩主が狂乱のあまり妊婦の腹を裂こうとし
たため
などと,猟奇的事件に仕立て上げられ,当時の江戸市民のうわさ話になったもの
である
が,『二本松藩史』によれば,真相はこのようなものであった.

  第七代藩主長貴公は生来英邁な質であった.ただ,そのころ藩政の運営がう
まく
  いかず,それを憂いておうおうとして楽しまず,酒色にまぎらわすことが多
々あっ
  た.家老の依包佳芳は度々諌めたがきかなかった.

  ある日,例によって奥女中たちを集めて朝方から酒宴を開いている長貴に諫
言し
  に行ったところ,「固いこと言うな,お前も飲め,肴をとらす」と言って炭
火を
  差し出された.

  依包はそれを掌で受け取り,「殿もどうぞ」と突き返した.その形相に驚い

  逃げ出した長貴を厠まで追いかけて行き,「お家のため,十万石のため」と
刺し
  殺し,その場で自らも切腹して果てた.


(以下次号)

おきらく軍事研究会)平成22年(2010年)11月26日(金)
☆ メルマガ紹介(まぐまぐ):< http://www.mag2.com/m/0000049253.html


* 【追記】

岸博幸氏は,竹中平蔵大臣の秘書官として構造改革を助けた人物である.

彼がいかに政界を動かしたのか見てみたい.


◆岸博幸『ブレインの戦術:政界を動かした秘書官のテクニック』要旨


・小さくていいから達成感と成功体験を積み重ねる.
ひとつの物事にのめり込むと,夢や目標が生まれて自然とそこに向かおうと動き
出す.
結果としてのめり込んだものの数だけ知識や人脈,経験を得ることができる.
実際,岸氏は10年くらいで,著作権,通信・放送,経済,財政,金融,北朝鮮
,エネルギーについては専門家並みに語れるようになった.


・「小事をしっかりとできない人間が,大事を成し遂げられるはずがない」
(牛尾治朗)


・少しでも関心を持ったことには,どんどん首を突っ込む.
意識して新しい人たちに会い,新しい知識を吸収する.


・竹中平蔵氏は大臣を務めた5年間,どんなにいぞがしい時でもどんなに疲れて
いても,毎日寝る前に必ず1時間は勉強していた.
さらに週末も勉強会,作戦会議,地方出張をこなしていたため,ゆっくり家で休
養することは皆無だった.
ここまでの努力があって,スタッフの用意した原稿を棒読みせずに,自分の言葉
で世間に語りかけることができた.
竹中さんの説明・弁論能力は自民党でも一目を置かれていた.


・説明能力を高めるコツは,最も簡潔さが要求される「説明資料は紙1枚,説明
は3分で」というプレゼンの練習から始めること.


・知識を増やす方法はそんなに難しくない.
ひとつは,それぞれの分野に詳しいとされる人の中から「この人は信頼できそう
だ」と思う人を探し,直接話を聞いたりその人が書いたものを読んだりして,そ
の教えを吸収すること.
もう一つは,それぞれの分野に関係する本を読みあさること.
2つを同時進行で一生懸命やれば,数か月で専門家並みの知識が身につくはず.


・情報のアンテナを高くする.
「流れ」を感じるために最も重要なことは,情報のアンテナを高くして,自分の
夢や理想に関連する最新情報が常に入るようにしておくこと.


・情報網の作り方.

一,人に対して最初から高い壁を作らず,会ってみて自分の目で判断すること.
会いたいと言ってきてくれる記者や関係者には必ず会い,30分は話すようにし
ている.
なるべくたくさんの人に会うことで,いろいろな情報を持っている人,同じ志を
持っている人,信頼できる人に出会える確率が高まる.

一,信頼できる人に自分がやりたいことを明確に説明する.

一,人付き合いの基本は「ギブ」の連続であるということ.
人や情報は宝です.
信頼できる人間関係や精度の高い情報を得るために時間や手間を惜しんではなら
ない.



・大事なことはとにかく自分から動けということ.
情報を得るためには自分からどんどん動きまわらなければならない.
オフィスに座り込んだままで,貴重な情報が入るはずもない.
面白いと思える情報に出会ったら即,やります,と手を挙げること.


・筆者は以下の方法で情報収集して世の中の流れを把握している.

一,新聞については主要6紙すべてをバーっとめくり,気になった記事だけを読
む.
雑誌については,経済誌4誌の目次に目を通し,気になったところを読む.
インターネットで海外の新聞などをチェックする.


・直感を信じる.
多くの人と情報交換を密にして,集めた情報を分析したうえで,直感というひら
めきに頼るようにする.


・人を動かすためには,カッコよさを貫くこと.
ブレない,信念を貫く,潔さ,優しさが重要.




※分析メモ

岸博幸氏は経済産業省退官後,さまざまな分野で活躍している.
通信分野の本も書いて,またコンテンツビジネスについての仕事もしている.
多数の分野で動けるには,やはり地道な情報収集がかかせない.
そこから大きくチャンスにつながるのだと感じた.

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Wed, 1 Dec 2010 10:05:52 +0900 (JST)


* 【質問】
 【回答】

◆もしも,の英会話入門[軍隊式英会話術] vol.126       Takashi Kato
◆第126話 特別編《気まぐれ心旅》64
「『戦場の王』砲兵部隊─最新ハイテク防衛兵器(7)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 12月1日,米韓軍事演習が終了しました.北朝鮮の砲撃を受けて急きょ行な

れたもので,横須賀を母港とする第7艦隊 (the U.S. 7th Fleet) の原子力空母

ョージ・ワシントン (nuclear powered aircraft carrier George Washington)
も参加しました.
 7000人以上の米韓軍将兵が連携し,圧倒的な軍事力を見せつけた演習に,

朝鮮首脳部は冷や汗ものだったでしょう.

 緊迫した状況下での力の誇示 (show of force) は一歩間違えると戦争になりか

ません.しかし,相手国の野心をくじく抑止力 (deterrence) となることも事実
です.
 砲撃から日を置かず行なわれた示威行動に,読者も米韓両国の強い決意を感じ
たの
ではないでしょうか.

 尖閣諸島は日本の領土だと主張する以上「国土は死守する」というぶれない決
意と
具体的行動が必要です.
 クリントン国務長官は尖閣諸島が日米安全保障条約 (U.S.-Japan Security
Treaty)
の範囲内だと述べましたが,これはアメリカが日本になり代わって領土を保全し
てく
れるということではありません.アメリカの若者たちが盟邦日本のために血を流
すな
ら,我々にも同等の覚悟が必要です.

 現在は防衛政策の基本である「専守防衛」(Exclusive Defense) の制約で,自
衛隊
は攻撃されるまで自衛することができません.一発食らうまで何もできないので
は,
ノーガードのボクサーも同じです.
「明日のジョー」みたいな天才ボクサーならそれも戦法になるのでしょうが,こ

では核爆弾を落とされるかもしれない国民はたまったものではありません.

 そればかりか,日本防衛のために展開してくれている米軍が攻撃されても「米
軍に
対する攻撃を自国に対する攻撃と見なす」集団的自衛権の行使ができないという
法解
釈のため,在日米軍基地や米海軍艦船を敵のミサイルから守ることもできないの
です.
 したがって,自衛隊が祖国防衛の任務を全うするための法的環境を整えること
,そ
して有事に米軍の防衛を行なうための法体制を整えることが急務です.

 集団的自衛権を行使する決意 (determination to exercise the right to
collective defense)
を内外に見せることが,対等な日米同盟の始まりです.

 では本題に移りましょう.
 今回は,戦争の歴史における野砲 (field artillery) の役割に焦点を当てます
.ビ
デオは56分の長いものですが,最後の部分だけ教材として使用します.投石機
(catapult)
から初歩的な榴弾砲 (howitzer),コンピューター制御のハイテク自走砲
(sophisticated
self-propelled gun) まで,貴重な映像が満載です.時間があれば全編を見るこ
とを
お勧めします.

 米軍では歩兵のことを「戦場の女王」(Queen of the Battle) と,そして砲兵
部隊の
ことを「戦場の王」(King of the Battle) と呼びます.逆さまではないかといぶ
かる
読者もいると思います.実はこれは,砲兵部隊が敵に対して最大の損害を与えら
れるこ
とから来ています.言い換えれば,砲兵は陸上戦闘部隊の中で,もっとも殺傷力
が大き
いのです.

 野砲の原形はカタパルトと呼ばれる「投石器」でした.城攻めに使われたもの
ですが,
石だけではなく,捕虜の首や疫病で死んだ動物の死体なども投げ込んだと言いま
す.心
理作戦 (psychological warfare) や生物兵器 (biological weapon) の先駆けで
あった
のかもしれません.
 石はやがて初歩的な爆弾へと進化していきましたが,中国で発明された火薬 (gun
power)
と,釣り鐘 (bell) を作るための鋳造技術の出会いが,本物の野砲のはじまりで
した.

 これ以降,野砲は射程 (range),精度 (accuracy),破壊力 (destructive power)

どの点で,たゆみない進歩を続け現代に至っています.



基本語彙(カタカナ表示は大雑把なものです)

artillery(アーティラリー)砲兵
range(レインジ)射程
accuracy(アキュラシー)精度
transform(トランスフォーム)変換する 変形する
kill zone(キル ゾーン)殺傷力圏



シナリオ (カウンターを53:05に合わせてください)

Artillery has been part of war for twenty five hundred years.
(野砲は2500年間,戦争の一部でした)

In that time, its range, accuracy, destructive power and technological
capabilities
have reached ever higher levels.
(この間,射程,精度,破壊力,そして技術的性能はより高い段階に達してきま
した)

Time and again, artillery has transformed the way battles were fought
moving the
gunner farther and farther from the kill zone and changing the dynamics of
war as
we know it.
(再三再四,野砲は砲手を殺傷圏からどんどん遠ざけ,われわれが知っているよ
うな戦争の力学
を変え,戦法を転換してきました)



英語一言アドバイス: 本文の最後に出てくるas we know it という表現は「私た
ちが知るような」
「今のような形で」という意味です.現状を描写するとき便利です.

America's hegemony, as we know it today, might not last too long.
(今日,われわれが知るようなアメリカ覇権はあまり長く続かないかもしれない

As China keeps growing economically and militarily, Japan's dominance in
Asia as we know
it today may change.
(中国が経済的,軍事的に成長を続けるに従い,アジアにおける今日のようなか
たちでの日本の優勢
は変わるかもしれない)
動画サイト:http://video.pbs.org/video/1496648468
加藤喬
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Fri, 10 Dec 2010 11:06:44 +0900 (JST)


* 【追記】

◆佐々淳行『わが記者会見のノウハウ』要旨


・非論理こそ交渉の現場
討論や交渉の場で威力を発揮するのは,理路整然とした三段論法でもなければ,
ドイツ観念論の弁証法でもない.
支離滅裂な「理外の理」だったり,感情論だったり,利益誘導や威嚇恫喝という
のが実状.


・詭弁術を見破って,対抗する手段を学ぶこともコンプライアンス・オフィサー
には必修科目.
国家や安全保障に関わる組織においては,幹部研修の課程の中で,実践的討論や
交渉術を組織的かつ系統的に訓練する科目が必要.


・平時における人間の闘いは「言葉の闘い」.
政治討論,外交交渉,法廷訴訟,テレビでのディベート,大衆運動のアジ演説,
商談,不平・不満・苦情処理のコンプライアンス,国会答弁,記者会見,夫婦喧
嘩など.
言葉の闘いでは,言葉は武器である.

・記者会見で嘘は禁物.

・言えないことは言えないという.

・知ったかぶりは禁物.

・ミスリード的相槌を慎む.

・逃げない,待たせない.
記者会見は,公人としてのリーダーの務め.

・マスコミの締め切り時間への配慮をする.
事件が大きければ大きいほど,締め切り時間直前の深夜の記者会見は,一触即発
,爆発寸前の危険な状況にあることを,危機管理責任者は肝に銘じておくこと.

・オフレコの活用.

・資料は先手を打って配布する.

・素直な陳謝.
明らかに当方に非のあるミスは,すぐに謝る.


※分析メモ
佐々淳行氏は,危機管理のプロ.
警察庁や安全保障の分野で危機管理を多く担当した.
同時にそれに対する記者会見,国会答弁は数千にのぼるという.
彼の実践的記者会見の方法を学びたい.
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Sun, 12 Dec 2010 13:48:57 +0900 (JST)


* 【追記】

●101212A Myanmar, bangkokpost.com
ミャンマーの核武装,米大使館の暴露,タイのアビシット首相が否定
Burma not nuclear, says Abhisit
http://www.bangkokpost.com/news/local/210882/burma-not-nuclear-says-abhisit
Prime Minister Abhisit Vejjajiva has dismissed claims in a leaked US cable
that Burma is building a nuclear programme with
help from North Korea. Association of Southeast Asian Nations,nuclear-free
region
,US embassy in Rangoon,WikiLeaks,
surface-to-air missiles,Minbu town in west-central Burma

ミャンマーの核武装について,ウイキリークスが米大使館の文書暴露,北朝鮮の
支援を受けていると.タイのアビシット首相がこれを否
定,ASEANは非核地域,あり得ない,誤報の原因は,北朝鮮からの地対空ミ
サイルを西部中央のミンブ基地構築を誤認と
http://bit.ly/hoW7Pq


* 【追記】

◆もしも,の英会話入門[軍隊式英会話術] vol.127       Takashi Kato
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━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

◆第127話 特別編《気まぐれ心旅》65
「『陸の軍艦』戦車─最新ハイテク防衛兵器(8)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



 DLIの同僚が「海の武士道(DVD Book)」(恵隆之介著,育鵬社)という本を薦
めてくれました.
 第二次世界大戦中,駆逐艦「雷」艦長,工藤俊作少佐が英国海軍将兵400名

りをジャワ島沖の海上から救出した実話が語られていました.

 戦闘中,漂流する生存者を助けるのは生易しいことではありません.速度を落

した艦船は敵の魚雷や艦砲射撃の絶好の的です.また,狭い船の上でのことです

ら,ただでさえ貴重な医療品,水,食糧を助け上げた傷病兵に与えることも考え

ければなりません.それが乗組員の倍近い人数の敵兵となれば,反乱を起こされ

可能性もあります.

 にもかかわらず,工藤少佐は「敵兵を救助せよ」の命令を下したのです.「敵

は言え,勇敢に戦って敗れた相手は敬い,フェアに扱う」という武士道の信念で
した.
 部下も敬愛する少佐の命令によく従い,溺れかけた英兵を助けるために夢中で

に飛び込んだ者もいたといいます.翌日,英海軍将兵はもよりの港に捕虜として

事送り届けられました.

 これほどの戦場の奇跡がなぜ戦後,日本人の間に広まらなかったのでしょうか

 それは工藤少佐が「どんな善行をしても,自ら語ってしまっては意味がなくな

てしまう」と考え,家族にさえ一言も話さなかったからです.真(まこと)の武

であったと言うべきでしょう.

 この話が世に出たのは,救助された英国海軍の元少尉,サムエル・フォール卿

「生きている間に,工藤少佐に一言お礼が言いたい」と2003年に日本を訪れ

のがきっかけでした.

 同胞が犯した過ちや欠点ばかりをあげつらい,問われるままに謝罪を繰り返す

虐史観が政府中枢にまではびこっています.そんな風潮のアンチテーゼとしても

価値ある本だと思います.

 では本題です.今回は戦場における機動力 (mobility) を取り上げます.
 機動力の追及は,古代のチェリオット(chariot: 二輪馬車)に始まり甲冑
(armor)
に身を包んだ中世の騎士 (knight) を経て,現代の主力戦車 (modern main battle
tank)
に結実しました.

 近代的な戦車の先駆けは,突撃する歩兵部隊の9割以上が戦死するという塹壕

(trench warfare) のこう着状態を打開すべく,時の英国海軍大臣チャーチルに

って提言された「陸の軍艦」(land battleship) だったと言われています.

 この進化過程で,より高いスピード (speed),防御力 (protection),火力 (fire
power) が戦場にもたらされました.より優れた陸上兵器を求め,人類は敏捷性
(agility) ,装甲 (armor),そして武器 (weapons) の完璧な組み合わせを探し

づけてきたのです.



基本語彙(カタカナ表示は大雑把なものです)

State of the art(ステート オブ ズィ アート)最新鋭の 最先端の

Pinnacle(ピナクル)頂点 絶頂

Mobility(モビリティ)機動性 運動性 流動性 

Agility(アジリティ)敏捷性 機敏性 すばしっこさ 早業

Firepower(ファイアパワー)火力



シナリオ (カウンター01:00に合わせてください)

A state of the art tank, armed, steel clad and on the move, the pinnacle
of
mobility of a 4000-year race to bring speed, protection and firepower to
the
battlefield.
(武装し,装甲され,疾走する最新鋭戦車.戦場にスピードと防御と火力をもた
らす四千
年にわたる競争の頂点です)

The quest for mobility produced many shockwaves.
(機動性の追及は多くの衝撃をもたらしました)

From the ancient chariot, to heavily armed cavalry and to the mighty
battle
tank, each step forward has caused an advantage to shift and an army to
adopt.
(古代のチェリオットから重武装の騎兵,そして主力戦車まで,各段階の進歩は
それまで
の優位を変化させ,軍隊にそれを受け入れさせてきました)

"This is the age of knight. He was virtually invincible"
(これは騎士の時代です.騎士は事実上,無敵でした)

Always it has been the hunt for a perfect formula of armor, agility and
weapons.
(いつも,装甲と敏捷性と兵器の理想の組み合わせを目指す狩でした)

The result has been creative and intimidating.
(その結果は創造性に満ち,また,威嚇的なものでした)


英語一言アドバイス:
state of the art は直訳すれば「芸術の域に達した」でしょう.意訳では「最
新鋭の」
とか「最新技術を駆使した」になります.

Japan must maintain state of the art science and technology to stay
competitive.
(競争力を維持するために,日本は最先端の科学技術を保たなければならない)
反対語に run of the mill があります.

Russia's Soyuz uses run of the mill technology but it works.
(ロシアのソユーズは普通のテクノロジーを使っていますが,ちゃんと働きます)

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* 【追記】

● もくじ
----------------------------------------------------------------------
◎ ごあいさつ:「二本松戦争には見本があった」
◎ 数学者が見た二本松戦史(14):
第七章・流亡(1)
■攻撃展開
■最強的部隊
■必死隊
■焼尽
■武士道の精髄
◎ 二本松あれこれ:
  ■二本松藩の藩風(5)
   ●正直の上になにかがつく
◎ 著者略歴
◎ 読者アンケート

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━
● ごあいさつ 
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━

こんにちは.渡部です.

戦国時代,南奥州を統一したのは伊達政宗です.その政宗軍が福島地方に攻め入
った
とき,古くからその地に勢力を張っていた豪族や小領主の多くは無抵抗的に,も
しくは
ほんの少しの抵抗をしただけで降伏したのですが,戊辰における二本松藩と同様
,圧倒
的に劣勢でありながら壊滅されるまで戦い抜いた一族がおりました.須賀川の二
階堂氏
です.

二階堂氏は鎌倉以来の名家でした.政宗がごとき成り上がり者に,一戦もせずし
て降る
のを潔しとしなかったのでしょう.もちろん戦いは政宗軍の圧勝に終わり,須賀
川城は
落ち,守兵六百あまりの多くは討ち死にしたと伝えられます.

そのさい,守兵たちはそれぞれ松明をかざして城に馳せ参じたと言われておりま
す.
その故事をしのび,毎年十一月の第二土曜日,旧須賀川城址において,「松明あ
かし」
と呼ばれる火祭りが行われております.それは日本三大火祭りの一つと称される
ほど,
勇壮なものです.

なお,二本松戦争のさい,少年隊の副隊長として子どもたちを守って戦死した二
階堂衛
守は,二本松藩の家老筋にあたる大谷家から,その須賀川(当時は白河領)の二
階堂家
に養子として入った人です.二階堂衛守も,先祖の名に恥じない戦いをしたと言
えるの
ではないでしょうか


(渡部由輝)

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● 第七章・流亡(1)
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二本松戦争は,わずかな時間で終結した.
攻撃の主体は薩摩藩であり,事実上ほぼ独力で二本松を落としたといって差し支
えな
い.城は東方から破られて落ち,焼尽し,家老丹羽一学以下,藩首脳部は自刃し
た.

敗北の過程で,たとえば必死隊などで見られた二本松武士の行動は,わが武士道

精髄といって差し支えないものだったといえる.


■脱出

 徹底抗戦と決まった七月二十七日,二本松城には三組の非戦闘員グループがい
た.
藩主長国夫妻とその幼い子女,前藩主長富の正室で長国には義母にあたる麗性院
とその
娘美子,長国の実母松尾氏(淨珠院)である.それぞれ侍女・侍臣・下僕などが
いるか
ら,合わせて二百人前後の大人数であったらしい.それらを安全地帯に避難させ
なけれ
ばならない.

 脱出は二十七日の昼あたりから始まっていたらしい.行き先はとりあえず城北
八キロ
ほどの寒村水原村であった.藩主夫人と四歳を頭とする三人の幼女たちが真っ先
で,
二人の尼公グループはどちらが先かはわからないが,翌二十八日の午前八時ころ
までに
は,女性軍の脱出はほぼ完了したらしい.最後まで渋る藩主長国を無理やり押し
込むよ
うにして駕籠に乗せ,竹田門を出発させたのは午前十時ころのことだったといわ
れてい
る.

 そのさい,長国一行に仙台兵一小隊ほどが同行したとの記録がある.警護のた
めとい
うよりは,“人質”の意味であったろう.二本松藩がもし西軍大部隊を前にして
おじけ
づいたりして降参したとする.その瞬間に,二本松と仙台は敵対的関係になる.
降参の
さいの手土産として,仙台兵の〈首〉を差し出すことも,十分に考えられる.実
際,
二十日ほど前,そのようなことがあった.秋田藩が同盟を離脱して新政府側と誼
を通じ
たが,そのあかしとして秋田に来ていた仙台藩の使節九人全員を殺害したのであ
る.
そうはさせじと,先手をうって藩主夫妻を“人質”にとったのである.

 その三グループは水原では小休止をとっただけで,二十八日のうちにさらに北
方十二
キロほどの小村庭坂まで逃れ,その日の宿をとった.翌二十九日は開戦当日であ
る.
庭坂からも砲声が聞こえたという.午前八時ころ,二本松城の方角に「黒煙の天
を焦が
す」(『二本松藩史』)のが見え,戦況が悪化していることを知った.ほどなく
早馬が
来て,落城が正式に伝えられた.あとは一路,米沢目指して落ち行くだけである
.現在
の奥羽本線が通っているあたりを,当時は福島から米沢に至る街道が通じていた

途中,標高六,七百メートルもの峠がいくつかある難路であった.大雨にたたら
れたり
しながら李平・板谷・大沢と小駅亭泊まりを重ね,米沢に着いたのは八月三日の
ことで
あった.

 その脱出行中,庭坂で一人の藩士の自刃があった.水野甚内という土倉奉行の
職にあ
る者であった.水野は城代に次ぐ城の管理責任者の一人として,おそらくは二十
九日当
日にも自決する覚悟でいた.だが,非戦闘員たちが無事に脱出するのを見届けて
から
と,その日まで延ばしていたものらしい.ただし,その日が正確にいつだったの
かはわ
かっていない.水野の自決死体は八月十日になって発見されたのであるから.水
野がそ
のようにすぐには発見されにくい場所で自決したのは,敗残と藩の消滅,夫や父
・息子
等の死でうちひしがれている女たちへの配慮のためでもあったろう.水野の死を
知った
なら,前途への希望を失いかけている藩士の家族たちが,連鎖反応的に同じよう
な行動
をとることも考えられる.事実,その逃避行中,板谷の宿ではともに夫の死を知
った軍
師小川兵助と用人丹羽新十郎の妻(その二人は姉妹)が,自殺未遂事件を惹き起
こして
いるのであるから.なお水野の名も,二本松藩の戦死者名簿には載っている.

 同じく非戦闘員である藩士の家族たちの避難先は二手に分かれた.藩主たちと
同行し
て米沢に行くグループと,知り合い等を頼って領内の村々に一時的に身を避けよ
うとす
る者である.いずれのグループも二十八日中には城下を離れたらしい.当時,須
賀川軍
団にいて自領に帰ろうとしてそれらを目撃したある仙台藩士は,「女・子どもも
大風呂
敷を背負ったりした避難者の群れが絶え間なく続いていた」と語っている.

 二本松落城と同時に米沢疎開を試みようとした集団は他にもいた.二本松の隣
藩であ
る福島藩三万石の城主とその家臣たちである.彼らもその二十九日当日,藩主板
倉勝尚
夫妻をはじめ,二本松藩と同様,藩士とその家族たちも隣藩の米沢に身を避けよ
うとし
た.ところが米沢藩は,藩主夫妻以外は受け入れを断った.米沢藩にしてみれば
,「二
本松は全藩あげて落城するまで戦い抜き,米沢の防波堤になってくれた.同盟の
義を
尽くしてくれた以上,こちらにもそれなりの返礼をする義務がある.オマエたち
はまだ
何も戦っていないのに面倒を見てくれとは虫が良すぎる」ということではなかっ
たの
か.

■母成峠

 城は陥ち,城主は領外に去った.だが,まだ降伏したわけではない.二十九日
以後も
二本松兵の戦闘行為は続いた.大規模なものは二度あった.

 はじめは八月十七日の,二本松奪還戦であった.二本松が失陥すれば自領が危
うくな
る仙台・米沢・会津兵が主体で,二本松藩の残存部隊十二,三小隊四〇〇名ばか
りに,
山形・上ノ山も加わり,全兵力は三千近くいたらしい.ただし,福島兵だけはい
なかっ
た.米沢藩に家族たちの避難を断られたことでヤル気をなくし,どこかでスネて
いたも
のと思われる.

 福島に集結したその三千近くは五隊に分かれた.奥州街道を南下する本隊と,
東方の
脇街道から一隊,西北方から二隊の合わせて四隊が,まず同時に二本松城下に殺
到す
る.それで二本松周辺に駐留している西軍兵を北方に引き寄せておき,その間隙
を衝い
て西方から会津兵を主体とするもう一つの隊が突入する,というふうな作戦だっ
たらし
い.だが戊辰当時,そんな複雑な作戦計画がうまくいくはずはない.〈同時に突
入〉が
モンダイであった.人馬以外の通信手段を持たなかった当時,別々の方向から,
しかも
間道やら山道やらを潜行するいくつもの部隊が,同地点に同時刻に到達できるわ
けはな
い.二本松まで首尾よく行き着けて戦端を開けたのは,奥州街道を行く本隊だけ
であっ
た.

 その本隊も,今の二本松市街の北の外れ,智恵子記念館を見下ろす高台あたり
に陣取
っていた西軍の監視部隊に追われ,仙台二十九,二本松五の死者を出して退散し
てい
る.一方,西軍方の死はゼロであったといえば,どのような戦況であったのかは
,説明
するまでもあるまい.例によって東軍方の銃砲弾はあまり届かないのに,西軍の
それは
十分に届く中・長距離での撃ち合いに終始したものだろう.なお,仙台兵の死の
ほとん
どは飛行隊と称していた山伏隊であったらしい(『仙台戊辰史』).彼らの主武
器は火
縄銃であった.そんな旧来の武器など気休めにもならない時代になっていること
を知ら
ず,それこそ“飛ぶが如く”突進してきて,空しく新式銃砲の餌食になったもの
と思わ
れる.

 落城後,二本松兵が参加したもう一つの戦いは,八月二十,二十一日にかけて
行なわ
れた母成峠攻防戦であった.母成峠(九七二メートル)道は当時,二本松から会
津に
至る主街道であった.そのあたりには会津と二本松残存部隊の連合軍が守備して
いた.
他に旧幕府残党軍も加わり,兵力は七百ばかりいた.その守備陣に対し,西軍の
会津突
入部隊二千〜三千が攻めかかったものである.

 何度も言うように,東西両軍の間にはきわめて大きな武器の格差があった.西
軍の銃
砲は性能においてまず優り,数量においてもたいていの戦線で東軍のそれを圧倒
してい
た.そのため,西軍は兵力が少なくても圧勝できたりした.母成峠戦ではその兵
力も
西方がはるかに多い.もはや通常の戦いではなく,残敵掃討戦のような段階に至
ってい
た.

 母成峠戦では実際,戦況はそのように推移した.武器の格差のうち,主として
砲の数
の差のためである.あのあたりは見晴らしの良い高原台地状地形である.砲力が
きわめ
て有効である.その砲は西軍は二十数門で臼砲もあったのに対し,東軍には五,
六門の
軽砲しかなく,しかもその一部は木砲であったらしい(『戊辰役戦史』).木砲
とは
読んで字のごとく丸太をくり抜いて砲身としたもので,たいていは一発しか撃て
ない.
一発でも発射すると砲身にひびが入ったりするからである.遠距離での砲撃合戦
で東軍
方の兵員の多くがまず死傷し,残存兵も有効射程距離の長いスナイドルによって
さらに
狙い撃ちされた.

 なお,その砲戦において東軍方は旧幕府伝習隊の残存兵らを率い,大鳥圭介が
指揮を
とっていた.大鳥は幕府時代,陸軍奉行の職にあり,当時わが国における砲術の
最高的
権威であった.江川砲兵塾の教官をつとめていたこともあり,そのころの教え子
の一人
が大山弥助(巌)であった.大山ももちろん,薩摩軍2番砲隊の指揮官としてそ
の母成
峠の攻防戦に参加している.かつての師弟が戦場であいまみえたのである(その
ことは
互いに知っていたものと思われる).だがいかに教官でも,武器の格差はいかん
ともし
がたい.戦いは弟子の側の一方的勝利に終わったことは言うまでもない.

 母成峠でも二本松藩は死者六名を出した.大鳥も戦後の回想記(『幕末実戦史
』)の
中で,伝習隊だけで死傷四十人近くと報じている.会津藩の損害は例によって(
『会津
戊辰史』)には何も記されていないのでわからないが,伝習隊より多かったこと
は間違
いない.一方,西軍の方は,死は一人もいなかった.

 母成峠を破った西軍はそのままの勢いで会津盆地に突入した.二本松から会津
若松ま
で六十キロほどある.その行程を三日で突破した.それは戦いながらの軍隊の進
撃速度
としては,驚異的優速と言ってよいものらしい.西軍の最高司令官板垣退助は,
「大小
便も行軍したまま垂れ流せ.違反した者は斬る」と命令したと伝えられる(『板
垣退助
君伝』).二十三日には若松に達し,鶴ヶ城は猛烈な砲撃を浴びせられた.西軍
の進撃
が早すぎたため,後方の飯盛山に取り残された白虎隊士十九名が,その砲焔を見
て落城
と思い,自刃を遂げたのはあまりにも有名である.

 母成峠戦を最後として,二本松藩の戦闘的行為は終了した.以後,二本松兵は
戊辰で
は一発も銃砲を撃っていないはずである.

■逃避行

 米沢に一時避難していた藩主一家は,以後も脱出してきたグループのまま,三
隊に分
かれて別行動をとった.米沢にそのまま留まる藩主夫妻たちと,仙台行きの淨珠
院グル
ープ,会津へ向かう麗性院グループである.前二者はそれぞれの避難先で比較的
平穏に
過ごせたらしいが,会津組の方はそうはいかなかった.周知のように,会津盆地
は八月
下旬から一か月近く,戦火に見舞われた.それに巻き込まれ,ときには死を意識
するほ
どの苦難を嘗めさせられた.会津組の行程を追ってみよう(『二本松藩史・麗性
院様随
行記』より).

 一行の人数は正確に九十三人であった.麗性院とその娘美子(美姫子ともいう
.当時
十九歳)の二人の貴人のための陸尺(駕籠かつぎ人夫),それぞれの付き人,警
護の家
臣,荷運びの従僕などを合わせると,それくらいの大人数になったらしい.

 米沢から会津までは桧原峠など,標高一〇〇〇メートル近いいくつかの峠を越
える
山道が通じている(現在はほとんど廃道になっているらしい).出発は八月十二
日で,
会津到着は十四日であった.古川御殿という城外の迎賓館に落ち着き,待遇はか
なり
良好だったらしい.会津藩にしてみれば,二本松はよく戦ってくれた.粗略には
できな
いということだったのかもしれない.

 ただし,その安寧も十日と続かなかった.前記したように,母成峠の守備陣が
二十一
日には早くも破られ,二十三日には西軍兵が若松城下に殺到してきた.それに呼
応し
て,中山口,日光口,越後口などからも,西軍部隊が大挙して押し寄せてきた.
会津若
松城下がいずれは戦火にまみえることはわかっていたはずなのに,こともあろう
にその
会津に避難するとは,などと思われるかもしれないが,それは歴史のすべてを知
ってい
る者の後講釈である.当時は西軍が二本松のあと会津・仙台・米沢のどちらを先
に攻め
るかは,当の西軍方将兵にもわかっていなかった.大総督府参謀の大村益次郎は
,戊辰
東北戦争に関してはよくいわれるように,「枝葉を刈って後,根幹を攻める」と
いうふ
うな作戦であったらしい.仙台・米沢・二本松など応援的藩をまず攻略し,その
あとで
本体である会津をじっくり攻める,ということである.

 だが,現地軍の司令官板垣と伊地知正治は実際に戦ってみて,おそらくは東軍
の弱さ
を肌で感じとれていたのではなかったのか.枝葉から刈るようなまだるっこいこ
となど
せずとも,いきなり根幹を攻めても大丈夫という感触を得られていたのではない
のか.
そのこともあっての,二本松からいきなりの会津突入であったものと思われる.

 そのようなわけで,八月下旬ころからは会津盆地には続々と西軍部隊が集結し
てき
た.若松城下の各地で小戦が行なわれだした.古川御殿の麗性院一行はさらなる
避難を
迫られた.行き先のあては特になかった.とにかく南方に行くしかなかった.米
沢藩の
ある北方ではなく,それとは逆の南方に避難先を求めたのは,当時の戦いにおけ
るある
事情のためであった.

 昔は城攻めにおいては攻城側は,四方全体を取り囲むようなことはせず,一方
向は
必ず開けておいたものである.勝利が確実視されている戦いでは特にそうであっ
た.大
坂夏の陣における家康も,賤ヶ岳で勝って北の庄まで攻め入った秀吉も,至近の
例では
彰義隊戦争における新政府軍も,そのようにしている.非戦闘員や戦意なき者を
逃がし
たりして,無駄な血を流させないようにするための,戦陣における一種の仁義の
ような
ものだった.中国の古い兵書には「王師は四囲を閉ざさず」とある.その王師を
意識し
ていた西軍も,北方を開けたら敵方の米沢に行かれたりして困る.南方だったら
西軍の
勢力圏であるから,どこに逃げられようとかまわない,ということで会津盆地の
南方
面,田島街道あたりには兵を配置しておかなかったのである.

 八月二十四日から,その田島街道への麗性院一行九十三名の逃避行が始まった
.行き
先のあてなどなく,戦火のおさまるまで,とりあえず今の芦ノ牧温泉あたりの山
間部を
彷徨するだけであった.自城が落ちるかどうかの瀬戸際にある会津藩は,もう守
っては
くれない.ろくな食物も得られず,ときには村人たちに邪魔者扱いにされ,落人
狩りの
デマに惑わされたりした.一時は全員自害の覚悟を迫られたりしたこともあった
らし
い.

 その一行は結局,二十八日にはまたもとの会津盆地の坂下町あたりに戻ってき
た.
その付近は縁戚藩の大垣藩が守備していたこともあったのだろう.以後もおそら
くは
その大垣兵の警護・嚮導のもとに,西軍兵が充満している会津盆地を無事通り抜
け,
二週間前に通った山道をまた辿り,途中大雨に降られて難渋したり,松明を灯し
て夜行
軍したり,裏磐梯あたりの山中で折りよく自藩の残存部隊に出くわして蘇生する
思いを
したりして,再び米沢に帰り着いたのは八月三十日のことだった.

■武装解除

 そのころ米沢藩では降伏工作がかなりのていど進んでいた.米沢藩にはもとも
と,
確たる戦争目的などあったわけではない.西軍方の正体・意図がわからない.と
りあえ
ず武備を整え,様子見でもしておこうとしているうち,ことの成り行きで戦端が
開かれ
てしまった.戦争になった以上あとには引けない.あわよくば藩祖謙信公当時の
旧領越
後平野を回復し,さらに関東方面にも進出し,といった野望を抱いたむきもあっ
たらし
いが,それが無理なことはよくわかってきた.

 となれば米沢藩には,これ以上戦いを継続する理由はない.都合が良いことに
,二本
松まで進出してきている西軍の最高司令官板垣は,縁戚藩の土佐藩士である.板
垣は立
場上,表面に出ることはあまりなかったらしいが,配下の土佐藩士谷守部(干城
)・片
岡健吉らを通じての降伏交渉が行なわれ,九月四日,米沢藩は正式に降伏した.
時を
同じくして米沢に寄留していた二本松藩首脳部も,降伏に向けての交渉を開始し
た.
以後は二本松藩の降伏交渉と,それからあとの推移だけを時系列的に追うことに
する.

  〈九月四日〉
 (二本松藩は)家老日野源太左衛門・用達梅原剛太左衛門・周旋方和田一を,
二本松
 の白河口総督府参謀局に派遣し,まず降伏の意志があることを告げた.

  〈九月五日〉
 その意志が認められ,参謀の渡辺清が会ってくれた.そのさい,以後の細かい
手続き
 等も教示された.

  〈九月九日〉
 いったん米沢に帰った日野らは,(渡辺参謀の教示に従い)藩主長国自筆の謝
罪文を
 持ち帰り,それを参謀局に提出した.日野らはそのまま二本松に留まって後命
を待っ
 た.

  〈九月十一日〉
 参謀局は二本松藩の重臣を呼び出し,藩の用達(外交官)梅原に次のような命
令を
 伝えた.

 「願いのすじは確かに聞き届けた.謝罪の実効を果たしてほしい.まずは軍隊
を武装
 解除し,武器類をすべて差し出すこと.さらに藩主は二本松に帰って領内の寺
院にで
 も謹慎し,後命を待つこと」

  〈九月十六日〉
 二本松に滞陣していた西軍部隊の一部が福島に進駐し,それに二本松兵一小隊
が組み
 入れられた.この日をもって二本松藩兵は西軍の指揮下に入ったことになる.
ある種
 の武装解除である.

  〈九月二十日〉
 藩主長国が十一日の訓令に従って二本松に帰り,丹羽家代々の菩提寺である大
隣寺に
 入って謹慎した.すなわち形式的には,藩主自らが謝罪の実効を果たすべく,
参謀局
 に出頭してきたことになる.

  〈九月二十二日〉
 それまで会津藩と共同して西軍に抵抗していた二本松藩の軍事総裁(最高司令
官)
 丹羽丹波が,自ら率いる残存部隊とともに米沢に入り,西軍部隊の監視のもと
に同地
 で謹慎することになった.これで二本松藩の兵士はすべて武装解除されたこと
にな
 る.

■降伏

 〈九月二十六日〉
 二本松城内などに残存していた,または藩士が個々に所持していた武器類の次
項のよ
うな目録を,参謀局に提出した.ただし,それらはいずれも藩当局の公的な武器
と思わ
れる.

  西洋小銃四五七挺(ハトロン弾一二五〇〇発つき)
  和銃一三二挺(早合一五〇発つき)
  長刀十二挺
  弓五張
  槍三五筋

 この目録を見ると,火縄銃(和銃)もまだ相当に使っていたようである.西洋
小銃の
方は藩内の鍛冶屋などで製造していたハトロン弾つきであるから,すべて前装式
のミニ
エーかゲベールであったものと思われる.後装式のスナイドルやスペンサーの弾
丸は,
今日のライフル銃のそれのように金属製の薬莢タイプであったから,当時わが国
ではど
の藩も自製はできず,輸入するしかなかった.早合(はやごう)とは,火縄銃に
おける
そのハトロン弾のようなもので,弾丸部・火薬部が一体となっていた(通常は別
々に
なっている).文字通り早く装填できる便利な弾であるが,技術的に製造が難し
いこと
もあり,一人につき二,三発くらいずつ,非常用として胸ポケットなどに入れて
おく
ものだった.

 目録には砲類は記されてないが,それらはだいたい戦場に遺棄され,西軍部隊
が鹵獲
品としていた.二本松戦争において西軍方ではほとんど一手に戦っていた薩摩側
の記録
には,次のように記されている.

  四斤山砲二門
  ボート砲一門
  和砲八門

 四斤山砲とは,砲を荷車形式の台車に積んで運搬できる口径八.六センチほど
の野戦
用砲で,重さにして四斤(一斤は一般には六〇〇グラムであるが,同砲はフラン
ス発祥
のため仏式に一斤を一キログラムとして計算するから,四キログラム)ほどの中
実弾も
榴弾も発射できる,その意味では重砲とまではいかないまでも,〈中砲〉くらい
の威力
は有する砲であった.この四斤山砲が二本松藩では最強力的武器であったろう.
ただ
し,西軍方の損害がごく軽微なものだったことから推察すると,それほど有効的
には
活用できなかったものと思われる.

 ボート砲とは読んで字のごとく,通常は上陸用舟艇のへさきに据え付けている
もの
で,上陸したさいは取り外して陸戦用兵器として活用できた.口径は小さく,せ
いぜい
四,五センチていどの軽砲というよりは小砲で,球形の中実弾くらいしか発射で
きず,
したがって威力もあまり大きなものではなかった.

 この二種だけが輸入ものの洋砲で,和砲についてはどのくらいの大きさであっ
たかは
わからないが,今日,旧二本松城前の広場にある少年隊の銅像に添えられている
砲を
見る限り,また当時の東軍方の科学技術の水準からして,口径せいぜい五,六セ
ンチて
いどの,やはり中実弾か小さな榴弾くらいしか発射できない〈軽砲〉ではなかっ
たかと
思われる.それ以上口径が大きな砲になると,装填する火薬の量が多くなり,そ
れだけ
発射のさいの衝撃も強烈になるから,砲身を通常の鉄(鋳鉄)ではなく鋼鉄にす
る必要
があり,それを製造できる技術は戊辰時,わが国では薩摩藩と佐賀藩にしかなか
った.

  〈九月二十六日〉
 西軍方の守山・高松の二藩兵が大隣寺に派遣され,長国ら藩主一家の警護にあ
たるこ
とになった.これで藩主の身柄が新政府側に完全に拘束されたことになる.藩兵
の武装
解除,武器類の目録提出とあいまって,この日をもって二本松藩は名目的にも実
質的に
も,総督府に降伏を果たしたといえる.

 以上みてきたように,当時の降伏に関する交渉はかなり面倒なものだった.し
たがっ
て二本松藩の正式な降伏日がいつであるかについては諸説がある.降伏の意志が
あるこ
とを通告したのが九月四日,藩主の謝罪文が提出されたのが九日,それが認めら
れたの
が十一日であるが,その三種の日付けのいずれかにするかは,定説のようなもの
はない
らしい.本書では一応,謝罪文が提出された「九月九日」としておく.


(以下次号)


(渡部由輝)


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● 二本松あれこれ (渡部由輝)
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■二本松藩の藩風(5)

●正直の上になにかがつく

 二本松藩は幕末時,京都警衛という多大の財政的負担を要する役目を,三度も
おおせ
つけられた.そんなときは大体,京都藩邸(松屋町にあった)の留守居役なんか
が,
そのスジに働きかけたりして,ときには袖の下を使ったりして手心を加えてもら
うもの
であるが,二本松人にはそのような才覚はあまり得手ではなかったものと思われ
る.
ついでにいうと,吉良上野介に賄賂を贈るのを拒否し,それがもとで刃傷事件を
引き
起こしたといわれる浅野内匠頭は,丹羽家の三代目当主光重の義弟(末妹の夫)
であ
る.

 さらにその警衛の人数にしても九八五人を連れてきている.京都藩邸から残り
の十五
人を補充して正確に一千名としていたらしい.それも要領が悪いといおうか,正
直の上
になにかがつくといおうか,二本松人らしい対応であった.

 警衛といっても,特に戦闘的行為などするわけではない.たんに定められた部
署に
兵を配置しておくだけである.その人数が正確に一千名であるかの確認など,お
そらく
なされなかったはずである.それがかりになされるようなときは,臨時に口入れ
屋か
ら,今でいえば派遣労働者でも雇い入れればすむ.というわけで他藩はたいてい
その
半分くらいの人数でお茶をにごしていたらしい.

 のちの話になるが,二本松藩は戊辰で新政府側に抵抗した罪により,十万石が
半分の
五万石に減らされた.そのさい,以上のような経緯でも持ち出し

 「弊藩は天正の昔,藩祖長秀が京洛の民政・治安に尽くした功により,当時の
正親町
天皇より良峯という由緒ある姓を賜って以来,勤皇の念を忘却したことなど一度
もな
い.げんに直近も藩主長国が,はるばる奥羽遠隔の地から両三度も上洛し,京師
の警衛
に尽力し,孝明天皇より親しく天杯を授けられている.(薩長などと違い)きの
うや
今日の勤皇ではない.戊辰など周囲の大藩に圧服させられての一時の気迷いにす
ぎな
い.減封などとんでもない.むしろ褒賞されてしかるべき」

とかなんとか言って,開き直るような根性も才覚も粘り腰もなかった.

 そんな二本松藩に降りかかってきた関ヶ原以来の大難が,戊辰東北戦争なので
ある.


(以下次号)

おきらく軍事研究会)
☆ メルマガ紹介(まぐまぐ):< http://www.mag2.com/m/0000049253.html
平成22年(2010年)12月17日(金)


* 【追記】

◆HRW報告書 イラン:性的マイノリティーへの差別と暴力
2010年12月21日
http://astand.asahi.com/magazine/middleeast/interview/2010122100008.html?iref=chumokuwww.asahi.com/food/news/TKY201012200246.html
◆ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)報告書
イラン:性的マイノリティーへの差別と暴力

差別的な法律や政策ゆえ,弱い立場の人びとに更なるリスク

日本語ニュースリリース:http://www.hrw.org/node/95146 

英語オリジナル:http://www.hrw.org/node/94980 

 (アムステルダム,2010年12月15日) −イランで生活する同性愛者などの性的マイノリティ(セクシュアル・マイノリティ)は,差別的な法律や政策により,嫌がらせや暴力はもちろん,死の危険にもさらされている,とヒューマン・ライツ・ウォッチは本日発表の報告書で指摘した.イランの性的マイノリティ,とりわけLGBT(レスビアン,ゲイ,バイセクシャル,トランスジェンダー)の人びとは,国家からも民間からも攻撃を受けている.性的マイノリティに危害を加えても処罰されないとの認識があることが理由の一つだ.

 報告書『葬られた世代:イランの性的マイノリティへの差別と暴力』(102ページ)は,100人以上のイラン人の証言に基づき,LGBTや,政府が認める社会的・宗教的規範に合致しない性行動やジェンダー表現を行う人びとが被っている差別や暴力についての調査記録.ヒューマン・ライツ・ウォッチはこうした人権侵害を,イラン政府による一般市民への人権侵害という観点から調査分析した.具体的には,恣意的な逮捕・拘禁,プライバシーの侵害,被拘禁者への虐待と拷問,正当な法的保護と公正裁判の保障の欠如などが挙げられる.

 ヒューマン・ライツ・ウォッチの中東局長サラ・リー・ウィットソンは「イランの性的マイノリティはあらゆる面で追い詰められている」と述べる.「こうした人びとを敵視する様々な法律があり,政府は公然と差別を行っている.性的マイノリティは,嫌がらせや虐待,暴力の被害に遭いやすい状況に置かれている.犯罪実行者側が,性的マイノリティを標的にしても処罰されないと思っているからだ.」

 イランの治安機関(警察のほか,強硬派の準軍事組織バスィージなど)が,差別的な法律に従い,同性愛者の疑いがあるとする人物に嫌がらせを行い,逮捕・拘束していることをヒューマン・ライツ・ウォッチは明らかにした.こうした嫌がらせ事件は公園や喫茶店で起こることが多い一方,ヒューマン・ライツ・ウォッチはまた,治安部隊が,規範に従わない性行動やジェンダー表現を行っていると見なす人物を拘束する目的で,家宅捜索やインターネットのウェブサイトの監視を行っている事例も明らかにしている.

 この報告書はまた,警察やバスィージが,公共の場や拘禁施設で,LGBTの人びとやLGBTと疑われた人びとを虐待し,場合によっては拷問したと伝えられる事例も明らかにしている.聞き取り調査を受けた人のうち複数が,治安機関職員による性的な暴行や拷問の被害にあったと訴えている.

 テヘラン郊外で喫茶店を営むゲイ男性のナヴィード(42)はヒューマン・ライツ・ウォッチに対し,2007年に2人の治安機関職員から受けた暴行を証言した.氏はこの2人が地元のバスィージの構成員であることを後に突き止めた.2人は氏が職場から出るところを拉致し,手錠をかけて氏の自宅に車で連行.氏を車外に突き落として殴打し,無理矢理家に入れて性的な暴行を行った.

 「[1人が]ペニスを私の口に押し込んだ」とナヴィードは述べた.「私は吐き,吐瀉物で身体が汚れた.すると2人は私を洗面所に引きずり込んで冷水を浴びせた.この間体中をひたすら殴られた.」

 氏は,この2人から別の家に連れて行かれ,悪臭のするゴキブリだらけの台所に監禁された様子を次のように話した.

 「[1人が]私を裸にした」と氏は述べた.「そして懐中電灯と棒で私を強かんした.この男は私を床に突き飛ばして強かんした.もう1人も加わった.」

 本報告書には性的マイノリティが犯罪容疑で訴追された際の,適正手続の違反などの深刻な人権侵害についても明らかにしている.合意の元で行われた同性間性交渉の嫌疑を掛けられた場合,公正な裁判を受けられる見込みはゼロに近い.裁判官は,ソドミー罪の審理では刑法が定める証拠認定の指針を無視し,拷問や過酷な精神的圧力で引き出された「自白」に依拠することが多い.イラン国内法と国際法では共に,こうして得られた証拠の採用は禁止されている.

 また裁判所は,ソドミー罪で起訴された被告に対して「慣習的な方法によって得られた裁判官の知識」のみを根拠に有罪判決を下すこともある.イラン刑法上のこの証拠認定規定により,裁判官は,根拠薄弱な状況証拠だけに依拠して,他の証拠が一切ない場合,または無罪を証明する証拠が存在する場合であっても,犯罪が起きたかどうかを判断することができる.

 イラン国内法の規定は,イラン政府の性的マイノリティに対する敵対的態度があらわれている.刑法では,伝統的な結婚関係の外で行われる性的関係がすべて犯罪とされる.同性による「犯罪行為」は,イスラーム法(シャリーア)が規定するハッド刑の対象となり,原告が神とされる.処罰は厳しい.刑法によれば,ソドミー罪は,裁判官が挿入行為を認定すれば死刑を科し得る.

 挿入行為がない男性間の性的関係については,2人に100回の鞭打ち刑が科されうる.4度有罪判決を受けると死刑もあり得る.女性間の性的関係にも同様の刑罰が適用される.

 刑法によれば,男性同士または女性同士が「淫欲を催して」キスすると最大60回の鞭打ち刑となる.「血縁関係にない」2人の男性が「必然性がないのに裸で同衾する」と最大99回の鞭打ち刑だ.一連のハッド刑によって性とジェンダーに関して規範に沿った行動が強制されており,例えば「不道徳な」または「退廃的な」集会を組織し,またはそれに参加することや,他人に「退廃的で」「わいせつな」行為を促すことが禁止されている.刑法ではまた,イラン国内法で不道徳とされる資料を作成,使用,配布することも犯罪とされる.LGBT関係のウェブサイトや文献なども対象となる.

 世界には,合意による同性間性行為に死刑を科すとする法律を持つ国が7つある.イラン以外の6カ国はモーリタニア,ナイジェリア,サウジアラビア,ソマリア,スーダンとイエメンだ.

 イランの新聞やメディアは,1979年のイラン革命以来,同性間の性行為への死刑判決に関しても多く報道してきた.既に処刑された人や現在死刑囚となっている人びとの圧倒的多数はソドミーにより有罪とされており,犯罪があったとされる当時18歳未満だった未成年者も存在する.イラン政府はこうした人びとの大半が強制ソドミーあるいは強かんにより起訴されていると主張する.

 イランではハッド刑の裁判は通常非公開で実施されるため,同性間性行為で起訴され,処刑された人びとのうちどの程度がLGBTなのか,またどの程度が合意による性行為に関するものだったのかを判断することは難しい.透明性が低いため,イラン政府が,実際には合意による同性間性行為を行った性的マイノリティを,強制ソドミーや強かんを行ったことにして有罪判決を下している可能性は否定できない,とヒューマン・ライツ・ウォッチは指摘する .

 「イランは合意による同性間性行為を死刑とする数少ない国の1つであるだけではない.未成年の時にソドミーを行ったとされた人びとにも死刑判決を下している」と前出のウィットソンは述べる.「イラン司法権は合意による性行為を理由として,あるいは事件当時未成年だった人びとに対して死刑判決を下すたびに,国際法上の義務に違反しているのだ.」

 子どもの権利条約と市民的及び政治的権利に関する国際規約(B規約)は,犯行当時18歳未満だった人びとに対する死刑を禁止している.イランが両条約に加盟したのは,後者については1975年,前者については1994年だ.

 中東では,イラン以外にも同性愛行為を犯罪として処罰している国があるのは事実であり,そうした国でも,性的マイノリティが深刻な人権侵害を被っている.しかし,イラン政府の性的マイノリティに対する立場は,実情(特に大都市)とあまりにかけ離れている.アフマディーネジャード大統領は2007年に「イランには同性愛者は存在しない」と宣言したが,LGBTとしての自己アイデンティティーを持つ何千人もの人たちが公的空間と私的空間の両方で交流を持ち,ペルシア語のブロゴスフィア(ブログ圏)の中の活気と反骨精神あふれるLGBTコミュニティを支えている.

 1979年以降,イラン政府は,今日のイランにおける性的指向とジェンダー・アイデンティティーに関する複雑な実情に対応するため,様々な政策を実行してきた.一見すると,政策の中には寛容なものもあるように思われる.たとえば政府はトランスジェンダーのイラン国民の存在を法的に認めた.ただし,性別適合手術(SRS)を受けることに同意することが条件とされる.またゲイ男性・トランスジェンダー男性・男性と性行為をする男性(MSM)は,自分たちがゲイかトランスジェンダーであることを証明できれば「行動障害」を理由にした兵役免除を申請することができる.

 確かに寛容な政策も存在し,その恩恵を受ける人もいる.だがこうした政策の究極の目的は行動を管理し,規範を強制することにあるとヒューマン・ライツ・ウォッチは指摘.一方で,性的マイノリティに更なる嫌がらせや虐待,恐喝,強要,拷問を強いる政策もある.

「イランの差別的な法律と政策を廃止することは,弱い立場に置かれた性的マイノリティを確実に保護する上で極めて重要だ」と前出のウィットソンは指摘.「イラン国内の性的マイノリティを攻撃する人びとは,被害者が,保護や司法的救済を求められないのをわかった上で実行に及んでいるのだ.」

■ヒューマン・ライツ・ウォッチのイラン政府に対する提言は以下のとおり.

▽合意による同性間性行為を犯罪として処罰するイスラーム刑法に基づくすべての法律や規則を廃止すること

▽合意による同性間性行為あるいは性的関係を理由とする,有罪判決と量刑判決を直ちにすべて取り消し,こうした理由で現在服役中の人びとを全員直ちに釈放すること

▽合意によるか,強制されたかを問わず,犯罪があったとされる時点で18才未満だった人びとに対するソドミー罪での死刑判決を,すべて直ちに取り消すこと

▽バスィージなどの治安部隊による,性的マイノリティへの政府関係者による嫌がらせや虐待,ジェンダーに基づく暴力を禁止し,こうした行動に関わる治安部隊の成員を捜査・訴追すること

▽性的マイノリティや,政府の定めた規範に従わない性的アイデンティティー,ジェンダー・アイデンティティーの持ち主を標的として,治安部隊が行う取締りやおとり捜査(インターネットによるおとり捜査作戦や家宅捜索)をすべてやめること

▽拘束中に治安部隊が行う性的マイノリティへの嫌がらせや虐待,拷問,性的暴行を禁止すること,またそのような行動に関わる治安部隊の成員を捜査・訴追すること

▽拷問や拷問の脅迫,その他の虐待によって得られたと思われる証言や自白について,すべての訴訟で使用を禁止すること

▽トランスジェンダーのイラン国民に対し,性別適合手術を受けた人びとへのホルモン療法など物理的・心理的支援への十分なアクセスを提供すること

ヒューマン・ライツ・ウォッチは,イラン以外の国々と国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に対し,弱い立場にあるLGBT難民と庇護申請者の権利を保護する政策と勧告を履行することも求めた.

過去数年にわたり,ヒューマン・ライツ・ウォッチは,オランダやスウェーデンなど各国で,イランに送還されると迫害を受けるという十分根拠のある恐れを抱いているイランのLGBTの人びとの送還を停止するため,複数回の介入を行ってきた.

●本報告書『葬られた世代:イランの性的マイノリティへの差別と暴力』はこちら:

http://www.hrw.org/node/94978

●ヒューマン・ライツ・ウォッチによるイランの情報の詳細(日本語)はこちら:

http://www.hrw.org/ja/middle-eastn-africa/iran


* 【追記】

 判断は人間の首から上の作業でよいが,決断は違います.全身全霊からのア

 クションです.
 
 
                   (伊藤 淳二 元カネボウ社長)


今回のテーマは【リーダーの条件】です.

 トップに立つ人は,なんでもいいから「決めること」です.それが一
 番.でも多くの人が間違うのは,「正しく決めよう」とか「みんなか
 ら賛同を得られるように」と考えることです.
 
 それをすると,とても時間がかかります.全員の賛同を得るなどとい
 うことは,不可能に近い.それよりも,7割の人が賛同してくれる,
 あるいは6割の人が賛同してくれることを決め,前に進むほうが良い
 のです.

 賛同してくれないかたには,他の会社/組織で仕事をしていただく,
 それが“正しい”のです.
 
 なんでも,世の中は,全員が賛成するということは,あり得ないの
 です.大勢の人がいる/多くの価値観があることが,正しい.
 
 それよりも小さな組織は,みんなが同じ方向を向いて仕事をすること
 が一番の早道だし,それを早く決めるのが,良いリーダーです.


 P.208 No.1242 【リーダーの条件】
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 人より早く気づき,それを他人に伝えることです.
 継続して人をときめかせることです.
 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
     
 阪急コミュニケーションズ『仕事ができる人の心得』より
◎「社長と幹部と社員のカン違い」から目を覚ませ!!
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⇒ http://archive.mag2.com/0000158168/index.html
Wed, 15 Dec 2010 08:18:57 +0900 (JST)


* 【追記】

こんにちは.渡部です.

新政府軍は戊辰戦争において,重要な戦いの多くは三方向作戦をとっております

正面からまず主力軍が攻撃し,相手軍の注意をそこに引きつけておき,その間隙

衝いて左右両側から準主力軍が攻めかかる,という戦法です.白河戦でも二本松
戦で
も,そうしております.
ただし,二本松戦では右翼軍の進出が早すぎたため,正面軍と合わせてその二方
面軍
だけで決着がつき,左翼軍(土佐隊)の出番はあまりなかったのですが.

それは以後,日本陸軍の伝統的作戦になり,日清・日露でもだいたいそのような
戦法で
戦っております.それは,その二本松戦において右翼軍を担当した薩摩隊砲隊の
指揮官
大山巌が,日清では第二軍の司令官,日露では満州派遣軍総司令官であったこと
からも
わかるように,日清・日露の将官クラスの多くは,戊辰東北戦争の経験者であっ
た,
という事情も関係していたものと思われます

(渡部由輝)

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● 第六章・落城(2)
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二本松攻防戦が始まった.前号では,二本松戦争序盤の戦いの推移を紹介した.
この戦いが約二時間で決着がつくという一方的内容になった主因のひとつは,農
兵隊
を指揮した三浦権太夫のような「戦意なき前線指揮官の存在」もあったと思われ
る.
一方で,二本松戦争最大の激戦となった「尼子台の戦い」で約1個小隊規模の決
死隊
を率いて西軍を苦しめた,小川兵助という人物もいた.

西軍は,いよいよ二本松城下になだれ込もうとしている.


■攻撃展開

 小浜側,本宮側とも最前線は破られた.西軍は二本松城を前にして全隊が横に
大きく
開く隊形,戦術用語でいえば攻撃展開の配置になれた.西軍方の記録はこのとき
のこと
を,「羽翼を開くが如し」(『備前藩記』)と形容している.

 それからは砲撃戦が行なわれ,西軍方はそれに相当な難戦を覚悟していたらし
い.
が,そうはならなかった.特に小浜支隊はそうであった.ほとんどまともな戦い
には
至らず,二本松側の守備部隊の多くは大壇口における少年隊と同様,ごく短時間
で制圧
されたものと思われる.

 その理由はさきにのべた三浦農兵隊の独断撤退によって,小浜支隊を勢いづか
せたこ
との他に,砲力の差もあったろう.何度もいうように,東軍方に重砲はなかった
.特に
二本松藩には重砲どころか軽砲も少なかった.西軍の作戦計画を表す軍配図には

二本松側に砲隊の印がしてあるが,それは西軍方の予測にすぎない.実際は半分
ほどの
隊にせいぜい一門ずつの軽砲しかなく,数門のまとまった砲を有する独立した砲
隊は
なかった(西軍が鹵獲した二本松側の兵器リストの中に砲は軽砲が十一門しかな
い).
少年隊の隊長木村はその必要性を藩当局に進言していたが,費用等の関係でそれ
はでき
なかったといわれる.

 西軍方が二本松側の戦力をなぜそのように過大に評価していたかはわからない

ただ,西軍首脳部にすれば,「官軍の軍事力が強大であることは二本松側も十分
にわか
っているはず.にもかかわらず抵抗しようとしている.それなりの戦力を具備し
ている
のだろう」,とでも考えていたのかもしれない.

 ともかく,西軍方の小浜支隊に対した二本松側守備部隊の組織的抵抗は,ごく
微弱な
ものだった.それらの多くは高田口から退却してきた高根三右衛門率いる二小隊
の残存
兵と,従来からその付近の三森町あたりにいた遊軍的部隊からの,応援兵でしか
なかっ
た.おそらく砲はなかったものと思われる.それら高根隊は愛宕山という,小浜
支隊を
見下ろせる高台に立てこもり,尼子台隊と同様,やはり決死的抵抗を試みたとい
われ
る.だが,小浜支隊にも小臼砲があった.軽砲だけでなく,榴散弾も発射できる
臼砲に
も一方的に撃ちまくられてまず,相当数が死傷させられた.隊長の高根も重傷を
負った
(高根はその傷がもとでその日のうちに死亡した).残兵もまたスナイドル・ス
ペンサ
ーによって,尼子台隊よりさらに短時間で制圧されたものと思われる.

 なおそのさい,高根隊が相当な善戦をしたように伝えている書もあるらしい.
だが,
本稿ではそのような見方はとらない.今日,『二本松少年隊』などと銘うった諸
書に
は,とかく少年隊や二本松側の肩を持ちすぎた,作為的記述が多すぎる.その愛
宕山の
戦いに関していえば,「(山に登ってくる西軍兵を山上から狙い撃ったら),だ
んぶく
ろ(西兵のこと)が次々と面白いように転げ落ちていった」というふうにである
.事実
はそうでなかったことは,愛宕山戦を含め,阿武隈川方面の戦いのほとんどを一
手に
受け持っていた小浜支隊における薩摩隊ではその二十九日,死はわずか二名しか
発生し
ていなかったことでも明らかである(その二名の名も『薩摩軍出軍戦状』には記
されて
いる).

 そもそも時間的にも,二本松側が組織的抵抗をする余裕などあまりなかった.
『黒羽
藩記』は,「先鋒が矛を交えてより城落ちるまで二時間」と伝えている.そのた
め「先
鋒以外は戦状を見ず」だったという.同じく本宮本隊に属し,黒羽藩よりさらに
後陣に
いた忍藩などは,「(自藩兵が行ったときは戦闘的行為はすでに終わっていたの
で)
特に記すことはない」と,二十九日の戦いについては何もふれていない.

 『黒羽藩記』が伝える先鋒戦とは尼子台戦,大壇口戦のいずれを意味するのか
はっき
りしないが,どちらであってもその地から城まで,ただ歩くだけで一時間はかか
る.
とすれば実質的戦闘行為は残る一時間ほどしかない.西軍の本宮本隊は尼子台・
大壇口
で少々遅滞したろうが,それ以外はほとんど歩みを止めることなく,行軍隊形そ
のまま
で城下を駆け抜けた,ようなものだったろう.城下に突入したのは小浜支隊が先

あったことははっきりしている.小浜支隊の進出路の供中口から城までも,ただ
歩くだ
けで一時間はかかる.小浜支隊の方は,進撃速度を遅らせるほどの抵抗さえあま
りな
かった,ということである.

 歴史関係書において,なによりもまず優先されるべきものは〈事実〉ではない
のか.
事実がまず根幹であり,それに対する解釈・感想・著者の思い入れなどは枝葉末
節事に
すぎない.どれほどの惨敗であろうと一方的敗戦だろうと,事実は事実としてそ
のまま
伝えるべきではないのか.その事実に作為を加えるのは歴史に対する冒涜ではな
いの
か.

 なお,本稿は主として西軍方の記録をもとにして二本松戦争を叙述している.
その方
がより事実(真実)に近いと思われるからだ.二本松側の資料の多くは当時の記
録その
ものではない.戊辰の少なくとも五十年後の回想記が主体である.当事者の記憶
違い
や,前記愛宕山の戦いのような,後世人の作為的思い入れがあったりする.一方
,『復
古記』や『各藩記』のような西軍方の記録は,だいたいは当時の日誌や自藩兵の
行動記
録等を,ただ時系列的に並べたものである.そのような作為や錯誤が,より少な
いと
考えられるからである.

■最強的部隊

 二本松城を中心として東方の守備陣が先に破られた.その方面から西軍の小浜
支隊が
城下に殺到してきた.ここで二本松戦争においてもう一つの主役であり,ほとん
ど独力
で二本松軍を壊滅させた薩摩藩の軍制についてふれておこう.

 当時の西軍の攻撃計画を表す軍配図には,各藩の軍勢はすべて略号で記されて
いる.
長(長州),土(土佐),彦(彦根),黒(黒羽),垣(大垣),備(備前),
忍(お
し藩,埼玉県),館(館林)などである.それ以外にもいくつか略号がある.そ
れぞれ
次のような意味である.

 (1) 佐・・・薩摩藩支藩の佐土原隊
 (2) 2・・・薩摩藩の2番銃隊
 (3) 2砲・・薩摩藩の2番砲隊
 (4) 番・・・薩摩藩のある地域の隊
 (5) 兵・・・薩摩藩の兵具隊
 (6) 私・・・薩摩藩の1万石以上の大身者の私的部隊

 ようするにすべて薩摩藩隊である.これら諸隊が一隊だけでも他藩の一藩兵全
体に
匹敵するほどの働きをした,ということである.各隊が互いに強烈な対抗意識を
持ち,
競うようにして戦っていたためでもあった.それが薩摩軍の特色の一つであり,
強さの
源泉でもあった.

 たとえば佐土原藩(宮崎県佐土原市)二万七千石である.当時の藩主が島津忠
寛で
あったことでもわかるように,佐土原は薩摩藩の支藩であった.それだけにふだ
んは
(2)〜(6)の親藩部隊からは差別的視線を浴びていた.それをはね返そうと
戦いに
なれば親藩部隊以上に勇戦した.その結果,佐土原藩は戊辰において全出兵数四
五八名
中,四十八名の死者を出した.それは死亡率としては西軍方二百余藩中最高であ
った
(本稿でこれまでもたびたびふれているように,戊辰東北戦争において西軍方で
最前線
で主として戦ったのは薩長土だけである.それ以外の多くの藩は兵備が旧式だっ
たこと
もあり,最前線にはほとんど出されず,したがって人的損害もあまり発生しない
もの
だった.たとえば,後方支援的業務に終始した忍藩などは,全出兵数一千二百余
名に
対し,死はわずか二名しか出ていない).

 (2)〜(6)の兵種間でも対抗意識があった.鳥羽伏見戦でこんなことがあ
った.
ある砲隊が弾を撃ち尽くした.そこで銃に持ち替え,最前線にまで出た.それを
見て
銃隊の司令が「砲隊に先に出られたら銃隊の名折れ」と,自隊に突撃命令を発し
てしゃ
にむに前進し,それもあってその戦線で勝利をおさめられた.砲隊とは通常,後
方に
いて撃つ.そのため,他隊からは「楽をしている」というような視線で見られて
いる.
それをはね返そうと銃を手にして前線にまで出た.銃隊は砲隊にそんなことをさ
れては
名誉にもかかわると,それよりさららに前に出たのである.

 (5)の兵具隊だってそうである.兵器・什器・糧食等の修理や補給をつかさ
どる隊
である.身分的には足軽・仲間など最下級的武士,いわゆる卒族が主体である.
他藩で
は輜重隊や小荷駄隊などと呼ばれ,最前線にはまず出ない.だが,薩摩藩では違
った.
通常はそのような後方支援的な役割を勤めるが,戦闘になると他の兵種と同様,
銃を
とって戦う.たんに戦うだけでなく,それら士族階級者の蔑視的視線に反発して
,彼ら
以上に勇戦したりする.二本松戦争では実際そうであった.小浜支隊における薩
摩藩の
死者の二名はいずれも兵具方である.二本松城に一番乗りを果たし,城門を真っ
先に
突破したのも,兵具方小頭(小隊長)萩原十吾であった.

 加えて薩摩軍は銃砲など兵器も優秀であった.銃はもちろん最新式のスナイド
ル・ス
ペンサーを主武器とし,特に砲隊は当時おそらくはわが国では最強力的戦力を有
してい
た.その薩摩藩砲力の基盤をなした一人の人物の名をあげておこう.大山弥助(
巌)で
ある.

 大山がなにものであるかは,本誌の読者には特に説明する必要はあるまい.後
の日露
戦争における満洲派遣軍最高司令官,日本砲兵の父といわれた.従来の砲の砲身
を長く
してより飛距離を伸ばし,命中率も高めた弥助砲の発明者としても知られる.砲
に関し
てはプロ中のプロである.今でいえば,最先端的科学技術者のようなものであっ
た.
早くから江戸の江川砲兵塾に留学し,免許皆伝を受けている.免許と皆伝は今日
では
四文字一緒くたにして扱われているが,もともとは別のものだった.免許とはた
んにそ
れを扱うことができる,操作できる,ていどのことで,皆伝はそれより進んで,
そのこ
とに関してすべてを知悉している,したがってそれを他者に教示しうる域にまで
達して
いる,ことを意味する.

 実際,大山はその皆伝的能力を生かし,五月一日の白河戦では薩摩藩だけでな
く,
大垣・黒羽の砲隊も指導してあれほどの大勝に至らしめた.さらにいわき戦争で
も,わ
ざわざ白河から砲隊の指導に行っている.二本松戦争においても小浜支隊に属し
,薩摩
藩2番砲隊隊長として,砲戦を指揮している.何度もいうように当時の砲は扱い
が難し
く,それのプロがいるといないとでは,戦力的に大違いであった.戊辰東北戦争
におい
て西軍方大勝利に最も貢献した人物を三人あげるとすれば,大山はその中には確
実に
入るものと思われる.もちろん,二本松戦争が終了してからも会津攻めにも参加
すると
いったふうに,八面六臂の大活躍をしている(本稿はその大山に関する伝記『元
帥公爵
大山巌』とそれの付図を随分と参考にしている.また,同様に参考にさせてもら
ってい
る『戊辰役戦史』の著者大山柏は巌の長男である).

 ついでにいうと,二本松少年隊の隊長木村銃太郎も江川塾の卒業生であるが,
もしか
すると二人に面識ていどのことはあったのかもしれない.年齢は大山が六歳上で
ある
が,木村が在籍していた当時,大山は塾頭的立場でいたらしいから.

 ともかく,二本松戦争において二本松兵の主たる相手をつとめた薩摩藩兵は強
かっ
た.戊辰時,おそらくわが国では最強的軍団であったろう.二本松側にすれば,
相手が
悪すぎたのである.

■必死隊

 ただし,その最強的軍団に対し,二本松兵もよく戦った.接近戦によってであ
る.
砲力・銃力とも圧倒的大差がある.遠距離・中距離での銃砲の撃ち合いでは,ま
ともな
戦いにならない.残るは接近しての白兵戦しかない.『薩摩軍出軍戦状』はその
ことを
「伏居候賊」と伝えている.

 まず小浜支隊が,続いて本宮本隊が二本松の第一線第二線守備陣地を簡単に突
破し,
第三線守備陣といえる城下に至った.それら部隊に対し,城下の家々や辻などに
潜んで
いた二本松兵が,突如として現れて白兵戦を挑んだのである.

 それはある意味では決死隊よりまだ危険な〈必死隊〉のようなものであった.
西軍兵
は城下に充満していた.それらに対し,ごく少人数で,ときには少年隊士たちの
よう
に,一人でも突進していった.生還の望みは一〇〇パーセントなかった.それら
必死隊
員のうち,名が伝わっている者もいる.そのいくつかをあげておこう.一つは当
時,
薩摩軍の六番銃隊隊長であった野津七次(後の陸軍大将)が語ったものである.

 「(野津隊が本宮から二本松城下に進出したとき),ある茶店の陰に隠れてい
た二人
の壮士が斬り込んできた.矢庭に九人ばかり斬り倒された.その壮烈な太刀風に
圧倒さ
れ,一時は全隊退却したほどであった.二勇士は最後は壮烈な斬り死にを遂げた
もので
あるが,少しも逆上した様子はなく,切っ先も正確であった.よほどの練達者で
あった
ものと思われる」(『二本松藩史』).

 その二勇士とは青山助之丞・山岡栄治という小野派一刀流の遣い手であった.
ただし,以上は戊辰の三十数年後の回想であるから,そのすべてが事実ではたぶ
んな
い.本宮から進撃してきた薩摩軍の死者は五名しかなく,そのうちの二,三名は
すでに
城下に至る前に戦死していたのであるから.青山・山岡の死を決しての奮戦ぶり
がよほ
ど強烈な印象となって残っていた,ということだろう.がともかく,彼ら二勇士
は息の
ある限り剣を奮って闘い抜き,何人かを死傷させたことは確かであったろう.

 なお,そのように敵軍の将兵から賞賛を受けることを,昔は逆感状(反感状と
もい
う)と言い,武人として最高の名誉とされていたものである.通常の感状なら自
軍の指
揮官から与えられるものである.それは身びいきなどもあって,真にそれに値す
る行為
だったのかわからなかったりする.その点,相手側からのそれはかけ値なしの,
真正的
勇者であったことは間違いないのであるから.

さらに『備前藩記』が伝えるものである.それによると三浦・日野と名乗ったそ
の二
勇士は,刀ではなく槍を構え,やはり二人だけで備前兵の大群の中に突入を果た
したも
のらしい.侵寇的軍勢に城下をむざむざと素通りさせては武門の恥,敵わぬまで
も一太
刀なりと,の心意気ではなかったのか.

 以上のような必死隊的行為は四勇士だけではなかった.少年隊も含め「伏居候
賊」
全員であった.それらが決して少ない数でなかったことは,「突然現れて奮戦し
,相続
いて死する者甚だ多し」と,『土佐藩記』も伝えている.そのように必死隊的白
兵戦を
挑んで散っていった二本松兵士全員が,逆感状に値するといってよい.

■焼尽

 小浜支隊の城下突入は午前九時ころのことだったといわれている.二手に分か
れ,
一手は当時の奥州街道,今の二本松本町あたりに,もう一手は亀谷町から右に曲
がって
竹田町・三森町を制圧し,そのまま竹田門を突破して郭内に入り,真っしぐらに
箕輪門
に向ったものらしい.西軍方の,特に薩摩兵は戦争慣れしていた.蛤御門・鳥羽
伏見・
彰義隊,さらに白河と戦いの場数を踏んでいた.戦いとは敵の重心的部分を攻略
するこ
とが最も効果的かつ効率的であることを,良く知っていた.二本松におけるその
重心的
部分とはもちろん〈城〉である.

 竹田門から城門(箕輪門)までは一キロ足らずの距離である.西軍先頭集団の
何人か
はスペンサーを持っていた.後方からの銃砲の援護射撃のもとに,自らもあたり
を掃射
しながら,その間をほとんど駆け抜けるように突き進んだものと思われる.箕輪
門は
角度的に砲では撃てない.兵具方の小隊長萩原十吾が門のくぐり戸を破って城内
に入
り,中から閂を外して開けた.その間,箕輪門を警備していた二本松側の一小隊
はなに
をしていたのかと思われるかもしれないが,ミニエー銃は瞬間的には撃てない.
弾を
こめるのにまず時間がかかり,一弾発射して後,次弾を撃つまでのあいだ,少な
くとも
二十秒はかかった.萩原とともに何人かの兵具隊員が続いたものと思われる.彼
らに
門前で今日の自動小銃にも相当する七連発のスペンサーを構えられたらなにもで
きな
い.とにかく武器の格差はどうにもならない.

 なお,長州側の記録によれば,城内から火の手が上がったのは午前十時ころだ
ったら
しい.城というよりは木と紙でできている一般住宅のようなものであるから,い
ったん
燃え出すと火の回りは早い.ほどなく,城全隊が燃え上がったものと思われる.
すなわ
ち,二本松藩の“重心”が失われたのである.それで二本松側の戦意も鈍ってき
たらし
い.そのあたりの事情を,薩摩藩兵具方の記録はこう伝えている.「城に火の手
が上
がったので,市内の持ち場で柵を設けたりして抵抗する二本松兵も散っていった

(『土持左平太の手記』).

 それとほぼ同じころ,二本松藩最高首脳部三名の自刃があった.家老丹羽一学
・側用
人丹羽新十郎・小城代服部久左衛門である.場所は城より高度差にして五十メー
トルば
かり上がった武器倉に隣接した役宅においてであった.一学・新十郎は奥羽越同
盟の軍
事局に,正使・副使として早くから出仕していた.藩論を抗戦に導いた主導者で
あっ
た.その責任をとったものだろう.服部は城代という立場上,城と運命をともに
したも
のと思われる.最後の地として武器倉を選んだのは,我と我が身とともにその武
器をも
焼尽させることによって,敵軍の戦力をいささかでも増強させまいとする,戦国
時代以
来の敗者側のある種の作法であった.介錯人は大島成渡であった.死に臨んで,
三人と
も「容色は常と変わらず」であったと,大島は伝えている.

 そのほどなく,武器倉のすぐ近く,戦国の昔二本松城が畠山氏の山城であった
時代に
天守閣であったあたりでも,二人の老臣のやはり自刃があった.丹羽和左衛門(
六十六
歳)と,安部井又之丞(六十五歳)である.和左衛門は新十郎の養父であり,小
城代で
もあった.年齢と職責からして二本松戦争時,二本松藩の実質的最高的地位者で
はなか
ったかと思われる.和平論者でもあった.が,最高的地位者としてその和平を果
たせ
ず,藩を壊滅に至らしめた責任をとったものと思われる.なお,和左衛門の自死
につい
ては,それを物陰から見ていたある下僕の目撃談が伝わっている.それによると
,まず
足裏を十字に切り,さらに割腹して内臓を軍扇につかみ出して果てたものらしい
.足の
裏に切り目を入れるのはどのような意味があるのか,筆者にはわからない.内臓
をつか
み出すのは,それによって〈死〉をより確実にするための,武士社会において古
い時代
から伝わるある種の作法であった.腹を切っただけでは人はなかなか死なない.
出血多
量により一時的に気を失うだけで,後になって蘇生したりする.内臓まで大きく
損壊さ
せると,そのような生き恥をさらすことなく確実に死を果たせるのである.丹羽
一学・
丹羽新十郎・服部久左衛門が介錯人をつけたのも,同じ理由による.

 安部井も勘定奉行という,藩では要職の一人であった.ただ,その死は藩の財
政面の
責任者としてより,もっと別の意味があったものと思われる.安部井は藩内外に
きこえ
た国学者でもあった.本居宣長の『古事記伝』全四十四巻を筆写したことでも知
られ
る.今でいえば,二本松藩のオピニオンリーダーの一人でもあった.国学者であ
るか
ら,もちろん勤皇論者であった.藩のオピニオンリーダーとして藩論をその方向
に導け
ず,結果として王師に抵抗したことの罪を,全藩士に代わって詫びる,というふ
うな
意味あいもあっての自刃ではなかったかと,私は考えている.

 二本松藩におけるもう一人の城代(大城代)の内藤四郎兵衛も,すでにそれ以
前に,
城門あたりで自殺的戦死を遂げていた.箕輪門前に仁王立ちになって指揮をとり
,身に
数弾を受けるやただちにその場で割腹したものらしい.やはり内臓を自らつかみ
出して
果てたと伝えられる.

 重臣・老臣たちの死が終わり,二本松城のあらかたが灰燼に帰したのは午前十
一時こ
ろのことだったといわれている.

■武士道の精髄

 本稿を書きながら,私はある奇妙な感情にとらわれている.この日死傷を被っ
た二本
松側兵士たちには申し訳ないが,なにかしら〈爽快な〉感じを払拭できないでい
る.
戦いは悲惨なものだったろう.この一日だけで二本松藩兵の死は二〇八名であっ
た.
戦闘的行為においては通常,死の三倍ていどは傷が発生するものである.事実,
西軍方
は死十二に対し,傷はちょうどその三倍の三十五であった.とすれば,二本松兵
の傷は
六〇〇あまりになる(二本松藩では特に藩士的立場にある者は,負傷などは死で
ないこ
とを恥じてあまり申し出ないものだった).二本松兵のほとんどは死傷していた
ものと
思われる.一方,西軍方の損害はごく軽微でしかなかった.一方的敗戦である.
記録的
惨敗である.

 が,なにかしら後味はそんなに悪いものではない.会津戦と違って陰湿な印象
はあま
り受けない.会津は辛すぎる.陰惨すぎる.女・子どもなど非戦闘員の死が付随
してい
たためかもしれない.二本松ではそれはなかった.すべて戦闘員だけが力の限り
戦っ
た.そこには政治的思惑も経済的・領土的野心もなかった.ただ〈戦う〉それだ
けしか
なかった.ただ〈力比べ〉のようなものだった.

 その力において圧倒的な差があった.だが,双方とも存分に戦った.勝者は手
加減な
どせず,敗者もまた力の限り戦った.老人も少年も男子たるものみな武器をとっ
て戦い
抜いた.当時の表現によれば「闔国の兵勢を尽くして(全藩をあげて)」戦い,
そして
力及ばずして散っていった.ただし,それはすべて納得ずくの行為であった.

 責任者も潔かった.敗戦が必至とみるや城を焼き,自らもその城とともに焼尽
して
果てた.

 武士道とは本来,そのような側面も有するものではなかったのか.相手がいか
なる
大敵であろうと,戦うべきときは死力を尽くして戦う.刀折れ矢尽きるまで奮戦
する.
武士とは元来,そのような存在ではなかったのか.その意味で二本松戦争におけ
る西軍
方の最高司令官であり,したがって現地において二本松兵士たちの戦いぶりを最
も良く
眼にしていた板垣退助の次の言を,もう一度かみしめてみたい.

 『一藩こぞって身命を擲ち,斃れてのち已むまで戦い抜き,武士道の精髄を尽
くした
 のは二本松をもって最上とする』


(以下次号)


(渡部由輝)


■著者へのお便りはこちらからどうぞ.⇒     
 http://okigunnji.com/s/watanabeyoshiki/


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● 二本松あれこれ (渡部由輝)
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■二本松藩の藩風(4)

●京都警衛

 ともかく二本松藩では,藩主も藩士も要領が悪いといおうか,融通がきかない

いおうか,そんな藩風であり気風であった.それを象徴するような事例をもう一
つあげ
ておこう.〈京都警衛〉に関するものである.

 幕末時,京都は騒擾的状態にあった.過激派浪士が暗躍し,それに便乗して草
賊や
不逞分子の類も横行していた.すぐ近くの大阪湾にまで夷人船が出没していた.
警察力
(京都所司代)だけでは対処しきれないと,その上に軍事力を有する守護職とい
う組織
がおかれ,会津藩主松平容保が文久二年(一八六二)からその任にあたった.そ
れでも
まだ不安というわけで,翌三年からは十万石以上の藩が三藩ずつ三か月交代で各
一千名
の兵を出し,京都御所とその近辺の警衛にあたることになった.夷人を病的なほ

毛嫌いした孝明天皇の意も汲んでのことといわれる.二本松藩十万七百石もその
有資格
者であるから,文久三年の十月から十二月までまずその役目を果たしている.御
所の
東方の入り口である建春門と,その郊外の鞍馬口・鴨川口あたりの警備にあたっ
たらし
い.

 京都警衛の制度は慶応三年の暮れまで四年半にわたって行なわれた.年間十二
藩であ
るから,のべにして五十余藩がその任についている.当時,十万石以上の藩は全
国で
五十四あったから,一藩が一度もつとめればすむ,はずである.ところが二本松
藩だけ
はその文久三年の他に,慶応元年(一八六五),慶応三年と,一年おきに三度も
つとめ
させられている.

 二本松藩の当主丹羽家はもともと朝廷と京都人に信用があった.藩祖長秀は信
長が
京都に進出したさい,同地の内政・治安対策等の担当者であった.それに多大の
功が
あったらしい.当時の正親町天皇から良峯という姓を賜っている.平安遷都の大
業を
果たした英帝桓武天皇につながる由緒ある姓である.丹羽家は形式的には朝臣の
列に
連なっているのである.朝廷,あるいは京都人にしてみれば,わけのわからない
田舎
武士など呼び寄せたら,木曽義仲の二の舞にもなりかねない.長秀の後裔ならそ
の点,
安心ということかもしれないが,それにしても二本松から京都まで一千の兵を率
いて
上洛することが,どれだけの金銭的負担を要することか.それが原因で,せっか
く好転
しつつあった二本松藩の財政も,再び破綻的状態に陥ったといわれている.


(以下次号)
おきらく軍事研究会)
☆ メルマガ紹介(まぐまぐ):< http://www.mag2.com/m/0000049253.html
平成22年(2010年)12月10日(金)


* 【追記】

小林吉弥『高橋是清と田中角栄』注目すべきポイント


・高橋是清は,6歳になると漢学塾で学び,家でも四書(『大学』『中庸』『論
語』『孟子』)を復習した.
成人になって,夜,酒を飲みながら,毎晩3時間ぐらい勉強した.
頼山陽の『日本外史』を3カ月かけ,全22巻を読破した.


・是清は,銀市場,米市場の相場師として大失敗し,経済を猛勉強した.
相場師としての実学から得た金銭感覚が,是清を後年の大財政家たらしめる第一
歩となった.
やがて,日銀総裁,大蔵大臣,財政・経済の裏の裏を知り,適切な舵取りに徹す
ることができたのも,このことによる.


・是清の財政・経済知識,語学力は正規の学問によるものでない.
欧米の文献,新聞,雑誌から得たものが多かった.
晩年は『ロンドンタイムズ』をはじめ,数種の欧米の新聞を取り寄せて実に丹念
に読んだ.
重要な記事は,大学ノートに書き写すこともあった.



・田中角栄は高等小学校卒業後,土木会社で働いたが,中学の講義録を勉強して
いた.
漢詩を読み,書道としてその漢詩を書き写していた.


・角栄は,後年こう言っている.
「頂点を目指すには,まず大将の懐に入ることだ.
大将は権力そのもので,あらゆる第一級の情報が入る.
第一級情報を分析すれば,おのずと自分のやるべき方向性がわかる.
また,敵をできるだけ減らし,自分に好意を持ってくれる広大な中間地帯を作る
ことが必要だ.
白や黒でないグレーゾーンがいちばん広い.それが社会だ.
だから,人の悪口は絶対ダメだ.」



・後藤田正晴氏は,田中角栄を振り返り,こう言っている.
「田中さんは当時,自民党内で序列はまだ低かったが,先輩の政治家や官僚には
気に入られていた.
気さく,明るい,飲み込みが早い.
一を言えば,十を飲み込んだ.
陳情でも,よしわかった,と言う.
他の代議士も同じことを言うが,田中さんが違うのは,100パーセント実行し
てくれたということだ.」



・角栄は,民自党の一年生議員のとき党総務となり,選挙部長のポストももらっ
ていた.
このポストで角栄は,吉田茂・民自党総裁に目をつけられることになる.
角栄は,民自党議員のそれはもとより,他党議員の生年月日,学歴,家族構成,
政官財の人脈,資金力のほか,
それぞれの選挙区の人口動態,有権者数,支持率,産業構造など10数項目にわ
たる選挙事情が一目でわかる「議員マル秘リスト」を作成,万事に大まかで鳴る
吉田茂を大いにうならせた.



※分析メモ

大財政家として高橋是清は,最近注目されている.
60代後半になっても,国家の大仕事をしていることは,若手である我々にとっ
て大いに見習うべき点がある.
今後,高橋是清の仕事ぶりなどについても,調査分析したい.
◎国際インテリジェンス機密ファイル
のバックナンバー・配信停止はこちら
⇒ http://archive.mag2.com/0000258752/index.html
Fri, 3 Dec 2010 10:55:10 +0900 (JST)


* 【追記】

第125話 特別編《気まぐれ心旅》63
「海軍エリート部隊と禅僧修業─最新ハイテク防衛兵器(6)」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



 総理大臣は自衛隊の最高司令官です.
 有事となれば自衛官に「命を捨てよ.敵兵を殺傷せよ」との命令を下す者とし

,自衛隊とは以心伝心の関係でなければなりません.

 北朝鮮が韓国を砲撃したとき,菅首相は「外交ルートから一報があり,テレビ

つけたらニュースでやっていた」と述べています.統合幕僚長 (Joint Chief of
Staff) との連絡については一言もありませんでした.
 国防を一身に担う最高司令官が軍事のプロである制服組トップをないがしろに

るとはどういう了見なのでしょう.

 野党の間は政治ごっこでも実害はありませんが,国家の存亡を任された政党が

人集団では情けないことです.

 自衛隊を「若葉マーク」呼ばわりした岡田幹事長にせよ,「暴力装置」と蔑ん

仙谷官房長官にせよ,民主党の面々には国家意識が希薄なうえ,現代の防人たち

対する尊敬と感謝の念が欠けているようです.
 国あっての政党.こんな常識が分からない菅政権は「若葉マーク」どころか「

免許運転」でしょう.

 今日の苦境を打開するためには,日米同盟を深化させることが責務だと思いま
す.
 今後10年の対中政策を考えるなら,ロシアとの関係を修復し,インドとの関

強化も必要になってきます.読者はどう考えますか?

 では本題です.今回は,「未来兵器」シリーズのホストである Richard Mack

焦点を当てます.
 彼は米海軍特殊戦部隊(NAVY SEAL)出身で,武器の取り扱い (weapon handling)
,隠密作戦 (covert operation),そして護身術 (self defense)のエキスパート
です.

 意外ですが,マックは東洋的な精神修養 (Oriental spiritual training) にも

じており,5年間禅僧修業をしたと言います.海軍エリート部隊で鍛えた攻撃性
を,
座禅 (sitting meditation) を組んでより柔和な人格を培うことでバランスを取
った
のでしょう.

 有無を言わせぬ実力と和を重んじる心.平和を望むなら,この絶妙な組み合わ
せが
人にも国にも必要です.


基本語彙(カタカナ表示は大雑把なものです)

handle (ハンドル)対処する うまくやる

focus(フォーカス)集中する

confront (コンフロント)対決する 直面する

baggage (バゲージ)荷物 精神的負担 悩み



シナリオ (カウンターを00:17に合わせてください)

I trained for five years to be a Zen priest.
(禅僧になるため,5年間修行しました)

SEALs team taught me that I can handle things pretty much in the outside
physical world pretty well.
(海軍特殊戦部隊のチームは,物質的世界のことはだいたい何でも対処できると
教えてくれました)

I knew how to focus, have discipline, I can get things done.
(集中の仕方も知っていましたし,自制心もあり,何でも成し遂げることができ
ました)

But I found there was something inside that I just needed to confront.
(それでも,内面に直視しなければならない何かがあることを知ったのです)

There were lot of things I haven't looked at. Baggage I have been
carrying.
(まだ見つめたことのない多くのことがありました.ずっと引きずってきた心の

みでした)

Zen training allowed me really do all the hard work I was doing out there.
Now I basically turn it on inside started working on inside of me.
(禅修業が,実世界の困難な仕事の遂行を可能にしてくれたのです.これを今,
内面に向け,自分の内世界の修行を始めたのです)

英語一言アドバイス:handle は日本語にもなっているハンドルです.動詞として
使うと
「扱う」「操作する」「対処する」のような意味になります.次の慣用表現を覚
えてお
くと便利です.

I can handle it (私がやります)
Let me handle it (任せてください)


動画サイト:http://dsc.discovery.com/videos/future-weapons-zen-buddhism.html

参考サイト:リチャード・マック「未来兵器」シリーズのホスト
http://en.wikipedia.org/wiki/Richard_Machowicz


加藤喬
◎もしも,の英会話入門[軍隊式英会話術]
のバックナンバー・配信停止はこちら
⇒ http://archive.mag2.com/0000229939/index.html
Fri, 3 Dec 2010 09:11:35 +0900 (JST)


* 【追記】

こんにちは.渡部です.

Kさまという読者の方から,次のような趣旨のお問い合わせが寄せられました.
「筆者は,幕末時の一両が現在のどれくらいの金額にあたるのかに関し,日銀の
ホーム
ページにある大工の手間賃等を基準にしての三〇数万円とされておりますが,そ
れは
高すぎるのではないでしょうか.同じホームページには米価を基準にすると四万
円てい
どとされておりますが,いかがでしょう」

幕末時の一両が現在はどのくらいの金額に相当するのかは,本誌全体の論調にも
関わる
きわめて重要なモンダイと思われますので,今回はそれにお答えいたします.

Kさまはそのお便りの前書きとして,「どの史書にもそれはまず書いてなく,不
満だっ
た」と記されておりますが,実をいうと,わたしも全く同じようなことを考えて
おりま
した.
幕末時の史書類には,第二次征長にさいし,長州藩が坂本竜馬のあっせんにより

薩摩藩を仲介して外国から買ったミニエー銃一挺の値段が十五両ていどであった
とは,
たいてい書いておりますが,その十五両が現在はどのていどの価格になるのかは
,まず
書いておりません.

歴史家や作家ならそれでかまわないのかもしれませんが,わたしは数学者です.
〈数〉
を基準として物事を考えたがる習性の持ち主ということです.その〈数〉につい
て,
つまりミニエー銃やスナイドル銃などの値段が,現在の価格にしてどのていどに
なるの
かのあるていどのセンがつかめない限り,イメージが浮かばず,筆が進みません


そこで自分なりにそのセンをつかもうとしました.そのさい,まず〈米価〉は考
慮の
対象から外しました.米価は江戸時代全般を通じ,二倍ていどにしか上がってお
りませ
ん.二五〇年間で二倍とは,いくらなんでも異常です.それは米価は幕府の統制
価格
で,経済の実勢を反映した値段ではなかったからです.

その実勢をあるていど反映したものとして〈旅籠賃〉を基準にとりました.それ
は一泊
二食つきでだいたい一五〇文ていどでした.六〇〇〇文で一両ですから,一両の
四〇分
の一ということになります.つまり現在の一泊二食つきの宿泊代(ただし団体料
金で
す.当時は個室などまずなく,見ず知らずの間柄でも相部屋でした)の四〇倍て
いど
が,当時の一両の現在的金額ということになります.
現在のその宿泊代はだいたい八,九千円ていどではないでしょうか.それを四〇
倍して
三〇〜四〇万円としたものです.日銀のそのホームページにも,大工の手間賃を
基準に
するとそのていどになるとされておりましたので.

Kさま,きわめて意味深いお問い合わせ,有難うございました.
今回からはいよいよ,二本松戦争のクライマックス,落城篇です.今後ともよろ
しく
お願いいたします.


(渡部由輝)

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● 第六章・落城(1)
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二本松少年隊による戦いは三十分ほどでけりがつき,少年隊側は完全に制圧され
た.
そのとき少年隊は,会津へ行って再起を図ろうとする「会津組」と「二本松城に
戻って
最後の抵抗を試みようとする「城組」の二手に分かれた.
今に伝わる絶望的抵抗の逸話の多くは「城組」のものであった.



■二本松対決

 二本松という地名は全国各地にあるらしい.東京の千代田区にもあるし名古屋
市にも
ある.松はわが国では最もポピュラーな樹木の一つで,東北から九州まで広く自
生して
いる.その中で特に枝ぶりが良いのが二本生えているような場所は,だいたい二
本松と
呼ばれていたものらしい.二本松藩の名称の由来も,奥州街道沿いのそのあたり

鶴松・亀松という二本の松の巨木があったためといわれている.

 京都にも,同様な理由かはわからないが,二本松と呼ばれている地域があった
.京都
御所のすぐ北方,相国寺のあたりである.そこに薩摩藩の京都屋敷がおかれてい
た.
薩摩藩には他に伏見にも屋敷があったことから,それと区別する意味で藩士たち
は二本
松藩邸,略して“そうしょう”などと呼んでいた.

 幕末時,〈にほんまつ〉とは薩摩人にとって,とりわけ愛着のある名称であっ
た.
彼らは薩摩から上洛したらまず,二本松藩邸に入り,そこで羽を休め,英気を養
っての
ち,動乱のちまたへ戦場へと散っていった.蛤御門の戦いのときも鳥羽伏見戦で
も,
二本松藩邸から出兵している.

 そのような因縁もおそらくは相当ていど関係していたものと思われる.二本松
戦争に
おいては,西軍方では薩摩藩が最も多くの兵力を供出している.ほとんど一手で
戦って
いる,といってよい.当時の西軍方の作戦計画を表した図(軍配図といった)が
残って
いるが,それによると,最前線部隊は砲隊も含めて十五隊が示されている.その
うち
薩摩隊が十三隊もある.ともかく「二本松だけは自分たち薩摩人にまかせてくれ
」,と
いったふうなところが見受けられる.

 それは二本松戦争における西軍方の死者数からもいえることである.西軍の死
者は
薩摩七,長州一,備前二,大垣一,黒羽一の,合計十二名であった.長州の一名
とは,
前章であげた少年兵成田才次郎に油断していて不覚をとった白井小四郎である.
備前藩
は前線には出ず,後陣をただ行軍していたようなものであるから,死者の二名と
は流れ
弾なんかに当たったのかもしれない.土佐藩に至っては四〇〇名近く出兵してい
たの
に,死はゼロである.実際の戦いの多くは薩摩兵にまかせ,その側でただ見てい
たよう
なものだったのではないか.彦根藩などは,二本松城下に入ったときは戦いはあ
らかた
決着がついており,「戦いは須臾(しゅゆ)にして終わった」(『彦根藩記』)
など
と,のんきなことを書いている.ともかく二本松戦争とは,奥羽の二本松藩と京
都の
二本松藩邸から出兵してきた薩摩兵との,〈二本松対決〉のようなものだった.

 なお,二本松戦争における西軍の兵力は,小浜支隊では薩摩四〇〇,長州三〇
〇,
備前三〇〇の合わせて一〇〇〇ほど,本宮側からの本隊は薩摩四〇〇,土佐三〇
〇,
彦根,大垣,黒羽,館林,忍ら,他をすべて合わせて一三〇〇の合わせて二〇〇
〇ほ
ど,総計して三〇〇〇ていどであったものと思われる.ただし,『彦根藩記』が
「二本
松は薩,土だけで落城させた」と記しているように,その両藩兵以外はすべて後
方警備
にまわされ,最前線ではほとんど戦っていない.

■二本松藩は三層の守備陣をしいた

 一方,守る側の二本松側の兵力であるが,一般に伝えられているほど少なくは
なかっ
た.その七月二十九日における二本松藩の兵力については,さまざまにいわれて
いる.
たいていは五〇〇ていど,少ないものになると三〇〇などと記している書もある


 それらはおそらく平時兵力(常備兵力ともいった)を念頭においてのものと思
われ
る.二本松藩の平時兵力はだいたい十六小隊であった.一小隊が三十二,三名で
あるか
ら(『二本松藩史』),全部で五〇〇名ほどになる.そのうち,六小隊は須賀川
軍団に
すでに供出しており,二本松戦争当日にはほとんど帰ってこれなかった.他にも
六小隊
ほどを三春・本宮方面に派遣しており,それらは壊滅的損害を出していた.残る
四小隊
と藩の首脳部・老人部隊・少年兵,仙台・会津からの応援兵,さらに緊急に徴募
した兵
やらを合わせて三〇〇~五〇〇という数値にしたものらしい.

 だが,軍隊では平時兵力と戦時兵力では違う.戦争の危険がさし迫った準戦時
体制下
では兵力はまず平時の二倍ていどになり,完全な戦時体制下になると,さらにそ
の二倍
ほどに増強されるのがふつうである(今次大戦時のわが国もそのようなものだっ
た).
ともかく,二本松藩の戦時兵力は平時の四倍ほどの二〇〇〇はあったものと思わ
れる
(『戊辰役戦史』の著者もそのていどと推定している).

 その戦時兵力のうち,当日どのていどが動員されていたのかをもっと詳しく検
証して
みよう.前日の二十八日,二本松藩は主力軍として二十一小隊をまず編成してい
る.
一小隊が正確に三十二,三名であったかはわからないが,それほどの違いはなか
ったも
のと思われる.軍隊における各構成員はそれぞれの役割が定められているので,
一小隊
の人数は定員よりそれほど多くも少なくもならないものであるから.それでだい
たい
七〇〇名前後になる.他に藩の首脳部とその従兵,応援兵の仙台(三小隊一五〇
名ばか
り),会津兵(五小隊二〇〇名ばかり)に,須賀川軍団から緊急に駆けつけてき
た者等
を合わせて,一二〇〇プラスマイナス一〇〇というあたりが,七月二十九日当日
の二本
松藩の全兵力ではなかったかと思われる.

 その一二〇〇名ほどは次のような三層の守備陣をしいた.

 第一線・・・大壇口に三小隊,高田口に二小隊,供中口に二小隊の合わせて七
小隊.
 第二線・・・塩沢口,竜泉寺口,永田口,光覚寺,三森町にそれぞれ一小隊,
両社山
       に二小隊の合わせて七小隊.
 第三線・・・馬場末門,松坂門,久保町門,池の入り門,箕輪門,西口門にそ
れぞれ
       一小隊ずつの,合わせて七小隊.

 城を中心としてその付近の武家屋敷街,二本松人がいうところの郭内における
七つの
門にまず一小隊ずつの七小隊,その外周をなす丘陵部,というよりは山嶽部に同
様に七
小隊,さらにその外周の郭外部に残る七小隊と,正確に三分の一ずつ配置してい
たので
ある.城そのものの守備兵は首脳部の従兵と箕輪門を守る一小隊だけであるから
,少な
すぎるように思われるかもしれないが,さきにのべたように,二本松城は“城”
などと
呼べるような立派なものではない.箕輪門以外は平屋建ての一般住宅のようなも
ので
あるから,そこに籠ったところでたいした抵抗はできない.箕輪門が破られたら
もう
おしまい,というところではなかったのか.

 ただしそのような兵力配備は,『戊辰役戦史』で著者の大山柏が指摘している
よう
に,“素人の作戦”とでもいえるものだった(大山は陸士上がりのプロ軍人).
用兵に
関してプロの作戦とは,(一)〈兵力の重点的配備〉と,(二)〈その弾力的運
用〉に
あるらしい.二本松藩のそうした守備陣形は,まず(一)に合致していない.全
兵力
二十一小隊を,城を中心としてその周辺にただ均等にバラ撒いただけである.本
宮から
の西軍主力部隊が奥州街道を進撃してくるのが明白なのであるから,それに備え
て大壇
口をより強化し,さらにもう一つの部隊が小浜から二本松城の東方,阿武隈渡し
のあた
りに殺到してくることも予想されていたのであるから,その二つの渡し場にもよ
り多く
の兵を配置しておくべきだった,ということらしい.そのような配備にすれば,
第二線,第三線が薄くなるが,それは第一線部隊が西軍の圧力を受けて漸次撤退
し,
第二線,第三線と合同することで補える.すなわち,兵力の弾力的,かつより有
効的活
用になる.

 ともかく二本松藩の守備陣形は,誰が考えたのかははっきりしていないが,プ
ロ軍人
の眼から見れば,あまり感心できるようなものではなかったらしい.徹底抗戦論
を主導
した家老の丹羽一学と,同じく抗戦論者の用人丹羽新十郎,軍事調べ役の浦井瀧
之丞ら
の合議によるものなのかもしれない.なお,仙台・会津からの応援部隊は,特に
定まっ
た部署にはつかず,第三線の郭内部の松坂門から三森町あたりにかけて,遊軍的
に配置
されていた.三森町は奥州街道の福島方面への出口である.危険が迫ってきたら
どうぞ
遠慮なく退避して下さい,ということである.事実,それに二藩兵の多くは,西
軍部隊
が城下に突入してくるや,ほどなく奥州街道を通ったりして,自領に逃げ帰って
いる.
それでも両藩兵合わせて四十名ほどの死を出しているから,応援の義理は果たし
たと
いえる.

■朝霧

 旧暦の七月二十九日は新暦では九月十四日にあたる.日中の残暑はまだ厳しい
が,
朝夕は相当に冷え込む.その寒暖の差のため,晴れた日の朝方は川面には一帯に
霧が
立ち込める.二本松戦争の当日はそのような天候だったらしい.『二本松藩史』
は「こ
の日暁霧四塞水陸を弁ぜず(霧が深くてあたりが見えず水陸の区別がつかない)
」,と
記している.

 その霧の深さがまず西軍に味方した.西軍方の小浜支隊は午前五時に出発した
のであ
るが,その朝霧がまだ晴れやらぬ午前七時ころ,阿武隈川の高田口渡しあたりに
到着し
た.そこには二本松側の高田口守備部隊の一部が監視兵として駐屯していたが,
霧の中
から突如として現れた西軍大部隊のスペンサーでたちまちのうちに駆逐された.
多くは
その場で死傷し,残存兵も川に飛び込んだりして対岸に逃げ去ったと伝えられる


 次の渡河戦では戦況はいくらか膠着した.二本松側の守備兵二小隊六十名ほど
は,
全員がミニエー銃を具装していた.川を隔てての銃撃戦では岸の茂みや河岸段丘
という
遮蔽物があるから,前装銃の欠陥である弾を装填するさいの不自由さもそれほど
表面化
しないからである.双方の距離が近すぎるため,西軍方は優勢な砲力もあまり有
効には
活用できなかった.

 二本松側からの応射の勢いが一向に衰えず,高田口からの強行渡河が困難であ
ること
を見てとって,西軍兵は下流に大きく展開し,もう一つの阿武隈川守備部隊の供
中口隊
と対峙するようなかたちになった.供中口隊も同じく二小隊ほどであったが,そ
のうち
の一小隊は農兵主体でほとんどは旧式のゲベール銃を主武器としていた.ゲベー
ルは
性能等は火縄銃とほぼ同じで(点火装置が火縄銃よりいくらか優れている),有
効射程
距離は一〇〇メートルほどしかなかった.当時,そのあたりの川幅は一〇〇メー
トルは
ゆうに超していたらしい.川岸部も合わせると対峙している両軍の間隔は二〇〇
メート
ルはあったろう.西軍のスナイドル・スペンサーは十分届くのに,ゲベールは届
かな
い.二本松側の農兵部隊はたちまち射すくめられ,逃げ腰になった.それを見て
とって
農兵司令(隊長)の三浦義彰(権太夫)は隊員たちを集め,解散を命じた.無駄
な抵抗
により,藩士でない補助的兵士たちに損害ばかり多くなるのをおもんばかったも
のら
しい.

 そのあとで三浦は自殺的戦死をとげた.三浦は勤皇の士で,戊辰の早くから藩
論を
恭順に導こうと運動していた.が,それを果たせず,直情径行的な性格のためも
あり,
藩当局にうとまれ,当時は入牢していた.徹底抗戦と決まってからは特に許され
て農兵
司令として従軍していたが,主義からして西軍に抗することができず,かといっ
て藩論
に従わないわけにもいかず,その板ばさみになっていた.烏帽子直垂に弓箭とい
うこと
さら目立つ服装をして敵前に屹立して指揮をとり,身に数弾を受けるやただちに
その場
で腹を切って果てたものだったらしい.

 そのさい三浦は,王師に抵抗する意志はないことを示すため,鏑(やじり)の
ない矢
を射たと伝えられる.これは二本松人にとっては有名な話であるが,実をいうと
私はい
ささか荒唐無稽的にすぎるような気がして,本稿ではふれないつもりでいた.だ
が,
西軍方の記録(『防長回天史』)に,確かにそのむね載っているので記すことに
する.
三浦は当時三十二歳,大正八年に特旨をもって正五位を追贈されている.二本松
関係者
で戊辰戦後,新政府側から賞詞を受けたのは三浦ただ一人といわれている.

■三浦義彰(権太夫)の“利敵行為”

 ただし,三浦のそのような戦意なきふるまいは,二本松側からすれば重大な“
利敵的
行為”であった.戦陣において兵とは苦戦・難戦的状態になればなるほど,指揮
官の顔
色をうかがおうとする存在なものである.自らの主体的意志は放棄し,または硬
直的に
なり,指揮官の意のまま行動するままにふるまおうとする.すなわち,指揮官が
勇を奮
って戦おうとすれば,兵もそれにならう.「勇将のもとに弱卒なし」の兵理が生
まれる
ゆえんである.

 逆もまた真なりで,指揮官が弱将であれば,兵もよりいっそう弱兵になる.三
浦の
そのような戦意のなさは,配下の兵たちも敏感に察していた.平安の昔ではある
まい
し,烏帽子直垂に弓箭とは,やる気のなさが見え見えである.おまけに鏑のつい
ていな
い矢ときている.配下の兵たちが西軍が近づくや逃げ腰になり,真面目に応戦し
ようと
しないのも当然といえる.農兵だから(戦意が劣っていて)逃げ腰になったので
はな
い.そもそも当時の農兵など,長州の奇兵隊でもわかるように,ときには武士階
級者
以上に勇戦したものである.彼らの多くは中農・貧農の二,三男クラスであった
.分家
してもらえるほどの土地はなく,生涯を兄(長男)の下男のように使役され,独
身で
過ごさなければならなかったりした.戦争で手柄を立てたら,他家から養子の口
がか
かってきたりして,その境遇から逃れられるというわけで,それら補助的兵士た
ちの戦
意は決して低いものではなかった.事実,その二十九日の二本松戦争だけでも,
農兵が
六十数名戦死している.

 ここで一つ,仮定をしてみよう.三浦がそのように独断で戦線を離脱などせず
,他の
多くの藩士のように,同じく死を果たすなら斃れてのち已むの気概で戦っていた
らどう
なったか,ということである.もちろん,それによって供中口が破られずにすん
でい
た,ことは考えられない.いずれは三浦農兵隊の守備陣は破られ,そのあたりか
ら西軍
が大挙して渡河してきたであろうことは間違いない.ただ,その渡河を一時間,
いや
三〇分ほどは遅らせていただろうことも間違いない.事実,長州側の一兵士とし
てその
渡河作戦に参加していた西島助義(後の陸軍中将,男爵,第二師団長)は,こう
証言し
ている.

 「(敵前渡河を開始したさい)敵は猛烈に応戦してきたが,遠距離からだった
ので味
方に銃弾が届かなかった.若し川岸に接近して防戦したならば,我軍はとても上
陸など
できるものではなかった.(そのうえ,敵は我軍が渡河を開始するやただちに退
却して
くれた).我軍が全滅を免れたのは,敵が退却してくれたからである」

 三浦農兵隊に戦意がなく,ゲベールの弾丸など届かない遠距離からの及び腰の
応戦
で,しかも西軍が渡河にかかるやただちに退却(解散)してくれたため,やすや
すと川
を渡りきれた,ということである.ゲベールでも川岸の茂みや河岸段丘に隠れた
りして
迎撃したならば,渡河作戦を一時間や三〇分は遅滞させることは十分可能だった
のに,
である.二本松側は大河阿武隈という天然の防壁に守られているのであるから.

 その一時間か三〇分の遅滞が大きい.二本松戦争は結果をいえば,時間的には
二時間
ほどで終了し,二本松側は組織的抵抗はほとんどできないまま壊滅された.死は
二本松
側二五十名余に対し,西軍方はわずか十二名にすぎなかった.個人的武闘にたと
えるな
ら,二本松側は剣を合わせるまでもなく一方的に斬りまくられ,相手にかすり傷
を負わ
せただけで一刀のもとに両断された,ようなものである.その原因の最大のもの
は,
供中口があまりにも早く,そして簡単に破られすぎたことにあった.兵とは“勢
い”で
あるとよくいわれる.ある戦線において敵軍を簡単に破った軍は“勢い”がつき
,以後
はそのままの体勢で突っ走り,望外の戦果を上げられたりするようなことである
.供中
口をあっさりと突破した西軍部隊は,まさにそのようなものだった.その勢いで
三浦
農兵隊に隣接していた高田口守備隊に背面から襲いかかり,それもほぼ瞬時的に
け散ら
し,さらに勢いがついて二本松城下に殺到し,第三線の守備部隊も同様に,ごく
短時間
で壊滅させてしまった.そのとき,二本松側の第一線,第二線守備部隊はまだ抗
戦中で
あった.二本松戦争は西軍小浜支隊のその城下突入で,事実上決着がついたとい
って
よい.

 そのように前線部隊がまだ健在なのに,後方部隊の方が相手軍に横合いから突
っ込ま
れたりして先に崩されることを,昔の兵書では「横ヤリ」を入れられるといった
.長州
側の記録はこのときのことを「敵の背に出た」としている.二本松側の第一線,
第二線
守備部隊は前面に西軍の本宮本隊,後背に小浜支隊と,前後から挟撃されるかた
ちに
なった.そのように横ヤリを入れられると,軍隊とはもう持たないものらしい.
二本松
側では最強的部隊であったその二つの守備隊も自壊的に崩壊し,以後は西軍方か
らすれ
ば,残敵掃討戦の段階に至ってしまった.すべては三浦農兵隊が戦意を放棄し,
西軍
小浜支隊を無抵抗的に渡河させて勢いづかせたがためである,といってよい.

 戦争とはこのように,一つの小部隊でも独断で“逃げ”などすると,それが全
軍に
波及したりする.そのため旧軍隊では「最前線において命令なくして退却する者
は敵前
逃亡とみなし,銃殺刑に処す」との,戦陣訓があったものである.もちろん,そ
の農兵
部隊の“逃げ”の全責任は三浦一身にあり,さらに二本松藩のあまりにもあっけ
ない
敗戦の責任の一端もある,といいってよい.

 なお,三浦の辞世は次のようなものであったと伝えられる.

 「明日散るも色は変わらじ山桜」

 桜花はいつ散っても色あせることなく美しい,という意味だろうが,とんでも
ない.
三浦の自己満足的,悪くいえばスタンドプレー的死は,美しくない散り際であっ
た.
散りたいなら散ってよい.重代の藩恩と勤皇の念との板ばさみになり,進退きわ
まって
死を果たしたいなら,それはそれでかまわない.が,せめて自らが戦時配備につ
く前,
藩論が徹底抗戦に決した二十七日の夜にでもするべきであった.その段階での死
だった
ら,二本松側に以上にのべたような損害を与えることもなく,したがって藩全体
として
もっとましな抵抗ができ,本稿で利敵行為などと責められないですんでいたので
あるか
ら.

 その三浦の死に場所の阿武隈川畔に,彼の行為を顕彰するような意味の字句を
記した
石碑が建てられている.いまさらそれを撤去せよとは言わない.だが,二本松人
だけは
三浦権太夫を〈義人〉などと称えてはいけない.

■決死隊

 一方,奥州街道を行く本宮隊の進発は午前六時であった.小浜隊には阿武隈渡
河が
ある.それに一時間はかかるだろうとそれだけ遅らせたのである.

 最初の戦闘は出発して二時間ばかり後,尼子台においてであった.今日の地図
では
正法寺と記しているあたりである.そこは二本松側の最前線的防衛ラインより,
さらに
五百メートルばかり前に出ている.二本松兵がそんな前方にまで進出しているこ
とを,
西軍首脳部はおそらく予想していなかった.そういった見込み違いもあり,その
尼子台
の戦いは西軍方にとっては相当な苦戦になった.もしかすると,二本松戦争全般
を通じ
て最大の難戦だったのかもしれない.それは二本松側一小隊ほどの守備兵たちの
闘志の
ためでもあった.

 尼子台と二本松側第一線防衛ラインの大壇口との間は,中央部に羽石川という
小川が
流れている平地である.今はそのあたりは田園地帯になっているが,当時もその
ような
地形であったものと思われる.つまり,奥州街道を行軍してきた西軍部隊にその
まま
羽石川のあたりまで進出されてしまったら,尼子台の部隊は後方との連絡を絶た
れ,
孤立してしまう.孤立とその結果としての全滅も覚悟の決死隊のようなものであ
ったか
ら戦意は高く,西軍の大部隊といえど,簡単には制圧できなかったのである.

 今は尼子台のあたりは相当に地ならしされているが,当時は奥州街道をすぐ下
に見下
ろすかなり急傾斜の高台であったらしい.近すぎて通常の砲では撃てない.大木
など
遮蔽物に隠れての下方への射撃と,身を隠す事物の少ない街道から上方に向かっ
ての
それでは,西軍方の後装銃の有利さはそれほど発生しない.後方の警備部隊にい
た小臼
砲隊が急遽,呼び寄せられた.臼砲だったら大きな放物線状に撃てるから,高台
の上部
に陣取っている相手の頭上から砲弾を浴びせられる.それによって尼子台隊の相
当数を
まず死傷させ,残存兵は尼子台を見下ろせる正法寺の裏山に狙撃兵を登らせ,遠
距離で
も有効なスナイドルによってようやく制圧できたといわれる.

 その決死隊を指揮していたのは,二本松藩の軍師小川兵助(四十八歳)であっ
た.
小川は軍師という立場上,その望みなき戦いにおいて,全軍にさきがけての死を
果たし
たものと思われる.さらにそのさきがけには,もしかすると息子に対する父親と
しての
“先導”という意味もあったのかもしれない.小川の長男安次郎(十三歳)は木
村少年
隊に属し,父親が決死隊を指揮していたすぐ後ろの大壇口に出陣していたのであ
るから
(安次郎は戦死はしなかったが,相当な重傷を負ったと伝えられる).

 なお,小川を斃した後,薩摩兵はその勇気をたたえ,腹を裂いて胆をとったら
しい.
(『二本松藩史』)はこのように記している.

 「追ってきく,そのさい敵兵小川兵助の死骸を認めて言う.わが兵賊のため大
いに
死傷を得たり.わが輩もまたその勇に慣わんと.忽ち銃剣を抜き,其胆を掘り群
がり
喰うという」

 ただし,以上はすべてが事実ではたぶんない.「追ってきく(伝え聞くところ
による
と)」とか,「という」といった表現でもわかるように,たんなる風聞にすぎな
い部分
もあったと思われる(『二本松藩史』は戊辰の五十年後の編集である).胆をと
った,
のはおそらく事実であったろう.薩摩藩では罪人なんかが処刑された場合,若者
たちが
争って刑場にかけつけ,死体から胆をとったりしていたものらしい.ただ,それ
は喰う
ためではなく,ヒエモン取りといってある種の度胸試しのようなもので中村半次
郎,
後年の桐野利秋などはそれの名手であったらしい.その風習を奥羽でも実行して
みたも
のと思われる.


(以下次号)


(渡部由輝)


■著者へのお便りはこちらからどうぞ.⇒     
 http://okigunnji.com/s/watanabeyoshiki/


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━
● 二本松あれこれ (渡部由輝)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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■二本松藩の藩風(3)

●藩政の行きづまり

 酒と女におぼれて家老に殺された第七代藩主長貴公の行為を弁護するわけでは
ない
が,実際そのころの二本松藩は,さまざまな意味で八方さがりの状態であったら
しい.

 まず,藩政面の改革である.江戸開府以来二百年近く,当時はどの藩でも成立
当初の
統治・運営のシステムのままでは,立ち行かなくなりつつあった.新しい時代に
向けて
の新しい感覚を有する人材の登用が急がれていた.そのような人材は通常,下級
士族か
ら生ずる.上級者はその身分的特権に安住し,改革などあまり考えないからだ.
ところ
が二本松ではその下級者の抜擢が難しかった.家老など藩の首脳部は丹羽家につ
ながる
一門十六家以外からは出ない,というしきたりになっていたからである.藩主と
いえど
そのような旧習を打破するのは容易ではなかった.儒教的修身道徳とは旧習遵守
・現状
肯定という一面も有するからだ.

 さらに財政面の窮乏である.長貴の在世中の三十年間で,大火・風水害など大
きな災
害が五回,冷害による凶作が八回も発生している.特に浅間山大噴火による異常
気象が
原因といわれる天明の大飢饉(一七八六年)は悲惨で,東北全体で数十万人の餓
死者を
出したといわれている.二本松藩でも十万石の石高のうち九万九千石の減収(年
収ほと
んどゼロということ)という,壊滅的被害を受け,餓死者も相当に出している.
借財も
重なり,その利払いにも事欠く有様であった.

 それは当時どの藩でも似たようなもので,薩摩藩では結局,その借金を踏み倒
したの
であるが,二本松のような武士気質にこり固まった生真面目な藩ではそれもでき
ない.
英敏,言いかえると神経が細かい性格であるだけに,今でいえば鬱的状態におち
いり,
酒色にそれをまぎらわしていたのではなかったのか.

 ただし,家老の立場としては,それをいつまでも看過しておくわけにはいかな
い.
修身道徳的態度を是とするということは,その対極にある酒色的淫楽は非である
.朝っ
ぱらから酒を飲み,女とたわむれるなど,戒石銘碑の手前,膏血をふりしぼって
稼いで
くれている領民の手前,いかに主君といえど許すわけにはいかない,ということ
だった
のだろう.


(以下次号)
おきらく軍事研究会)平成22年(2010年)12月3日(金)
☆ メルマガ紹介(まぐまぐ):< http://www.mag2.com/m/0000049253.html


* 【追記】

【日中】 宋 文洲氏・・・中国人と付き合う際,最低限知っておくべき歴史は?[12/27]

留学生として来た日本に25年いて,最近北京に拠点を移しました.日本と中国の間を毎月仕事で往復するので,
日本に来るたびに,週刊誌をまとめて何種類も買うことにしています.

でも,今の日本が抱えている問題は沢山あるのに,尖閣列島での問題が騒がれると,なぜか皆そのことばかりを取り上げる.
どれを読んでも,13億人以上いる中国人がみんな怒っているみたいに書いてありますね.

でも,実態は全然違う.中国で起きた反日運動が,日本のテレビ番組でよく取り上げられていたとき,中国にいる親戚や友人に電話をすると,
「いったい何の話?」みたいな感じ.日本で大騒ぎになっていることさえ知らない.今回も同じで,一部の人が騒ぐのを大袈裟に扱いすぎるんですよ.

だいたい,「国家」としての中国と,個々の「人間」としての中国は関係がないんです.中国人は,“カタマリ”としての中国は意識しません.
世界中にいる華僑と呼ばれる人々だって,別に国の意思で活動しているわけじゃない.多くは国を追われた人たちです.

単一民族国家と多民族国家の違いもある.「在日韓国人・朝鮮人やアイヌ人だっているじゃないか」と反論する人もいるかもしれないけど,
統計的にみれば微々たるもの.日本は単一民族といっていい.でも,中国は正反対.もともと多くの民族がいるし,統計自体もいい加減.
自分で漢民族といっていた人の先祖が,実はモンゴル人や満州人だったりすることはザラです.

いろいろな地方,たとえば河北省と山東省,雲南省と福建省,内モンゴルとチベットは,それぞれよその国の人といえるぐらい違います.
こういう人たちを同じ中国人だからと一括りにするのは,明らかに無理があります.


そんな中国人と付き合うには,まず,あらかじめ細かな取り決めをした契約書を交わして,起こりうる悪い材料はすべて先に相手に言っておく.
これが最初の注意点.日本人は悪い話を嫌がります.背景の似通った日本人どうしなら,アバウトな契約でもトラブルになりにくいけど,
中国人も西洋人もビジネスは背景の違う人どうしで行うのが普通.細かく詰めるのは当然です.

中国人どうしが大声で罵り合うのを見たことがあるかもしれません.でも,すぐケロリと仲良くなるでしょう.
西洋人もそうですが,「ケンカも礼儀のうち」が二番目の注意点.だから,温家宝首相や姜瑜(きょうゆ)報道官の剣幕を怖がる必要はないんです.
上手にケンカができるようになれば,交渉はむしろ佳境に入ったといっていい.逆に遠慮して何も言わないと,押される一方ですよ.

最後に,「同じアジア人」という発想をやめること.「日本人も中国人も漢字を使っている」とか,「顔が似ている」というのは日本人側の思い込み.
相手が「よく思ってくれている」と勘違いする男女関係と同じです(笑).

本来,歴史問題など個人にとってどうでもいい話.議論に熱中しても,互いの立場の違い,得る情報の違いは解消できない.
日本人は戦争が中国で行われたという事実だけは理解すべきだが,罪の意識を持つ必要はありません.

もちろん,肉親を日本軍に殺されたという中国人が,日本に対していい感情を持っていないことはわかりますよ.
でも,そういう人は少数派というのが現実.昔,チンギスハンが中国人を大勢殺したからといって,今モンゴルを嫌っている中国人などいないのと同様,
歴史の問題は時間が解決してくれます.

そもそも日本が嫌いな中国人ならば,一緒にビジネスをしようとも思わないでしょう.
多少揉めることはあっても,妥協点は必ず見つかるはずです.


宋 文洲
ソフトブレーン マネージメント・アドバイザー
1963年,中国・山東省生まれ.北海道大学大学院博士課程修了.92年,ソフトブレーン創業.2006年,同社取締役辞任.

http://president.jp.reuters.com/article/2010/12/25/094717B2-0DA6-11E0-9082-B9E83E99CD51.php


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