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◆◆歴史
<◆チベットFAQ
<中央アジア&コーカサスFAQ目次
Alan Dawa Dolma 1987年7月25日生まれ 歌手
(こちらより引用)
「神保町系オタオタ日記」■(2006-08-01)[図書館]
岩波書店『「帝国」日本の学知』シリーズ(その1)
>一九〇〇年,義和団事件がおこり,翌年,北京が日本軍をふくむ八ヵ国連合軍により占領されると,南条文雄は東本願寺慰問使として北京へ赴くが,南条の要請と,チベット仏教の研究と仏典収集のため,チベットをめざしていた寺本婉雅の奔走で,黄寺にあったチベット語大蔵経カンギュル,「総計八類,百五十一部,三百五十冊」が,北京駐屯師団より宮内省へ献呈され,田中光顕宮内大臣の尽力により,すぐさま東大で保管されることとなる.
【質問】
考古学としてのチベット史って聞かないな.
農耕・牧畜の伝播や金属器の使用開始はいつごろだったんだろう?
地図上の距離だけ見ればインダス文明にも近くはあるものの・・・
【回答】
チベットでの先史遺跡の発掘って,東チベットのカロ遺跡(チャムド近郊)くらいしかないね.
約5000年前の遺跡.
他にもたくさんあっておかしくないが,調査されていないだけだと思う.
カロ遺跡からは粟などの穀物も発見されており,東チベットでは5000年前にすでに原始的な農業が始まっていたようだ.
他にもアムド東部で4〜5000年前の農業の痕跡が発見されているらしい.
農業が当時,中央チベットまで広がっていたかどうかはわからないが,あってもおかしくない(調査待ち).
また,チャンタン高原では地上に石器がばらまかれてるのが多数発見されている.
このあたりは河川が少ないので,埋没せずそのまま地上に残っている.
この辺の人々は今も昔も遊牧生活を送っているので,遺跡らしいものはほとんど何も残さない.
せいぜい年代不詳(紀元前〜現代まで可能性がある)のドルメンがある程度.
青銅器・鉄器は,数は少ないながら紀元前とみられる墓地跡からいくつか見つかっている.
青銅鏡などもある.
これらはおそらく外来品.
吐蕃時代になると墳墓から副葬品として青銅器・鉄器がどっと出てくる.
金属器を自給できるようになったのはたぶん吐蕃時代からだろう.
吐蕃時代の金属器については
高橋明子「吐蕃王家と金属器生産の関係」
(横浜市立大学)国際文化研究紀要 7号 2001-11
という論文がある.
蔵語文献もきちんと当たってるし,切り口がなかなか面白い.
吐蕃時代の墳墓は,チョンギェの吐蕃王墓は発掘されていないが,他の諸侯のものはあちこちでずいぶん発掘されている.
碑文・銘文がほとんどないので,由来がわからないものばかりだけど.
他にも,中共時代になってからバカスカ破壊された寺院跡(何万もある)の発掘も,中国では「考古学」の対象.
報告書でも,廃墟となった経緯については絶対触れてはいけないことになっている(笑)
アムド(青海省)では,殷周時代まで逆上る遺跡・遺物がたくさん発見されているけど,これはもうチベット史の範囲をこえている.
吐谷渾の遺跡がもう少し明らかになると面白いんだけど(有名な都蘭の墳墓は,吐蕃時代に吐蕃王家に臣属した吐谷渾貴族の墳墓らしい).
インダス文明とチベットが直接結びつく要素は今のところないけれど,おもしろいのがズィ(中国語では天珠)関連の話題.
ズィというのは,紡錘形に整形したメノウに薬品を塗って高熱・高圧で焼きを入れ,脱色・着色して模様をつけたもの.
これがインダス文明の遺跡から発掘されている,
紅玉にエッチングして模様をつけたビーズとよく似ていて,両者の技術は関連があるという説もある.
しかし両者をつなぐミッシング・リンクが発見されていないので,軽率に結びつけるのはためらわれる.
そもそもズィの由来自体謎(チベットで作られたものではないらしく,一説ではペルシア起源)だし,その製法も十分には解明されていない.
インダス文明の遺跡で見付かる紅玉などの宝石には,バダフシャンなどアフガン〜パミール方面産が多く見られるそうなので,もしかしたら東方であるチベット高原へも交易を通じて宝石および加工技術が流通していたのかも,と妄想してみる.
でもねえ,あの特異なエッチング技法を残す宝石が,途中の地域,途中の時代にないんだよねえ.
最近は台湾あたりで新造ズィが作られているけど,エッチング・焼き付けに必要な高圧をかけると大半が割れてしまうらしい.
それほどの,現代でもかなり高度な技術らしい.
だから謎.
【珍説】
【チベット】新石器時代からチベット文明は中華文明の構成部分だったことが判明
2008/4/23,中国国際放送局
中国チベット学研究センターのゲレグ研究員はこのほど,記者のインタビューに答えた際,
「全体から見れば,チベット族の古代文化は疑いなく,中華民族の古代文明の不可欠の構成部分である.
新石器時代のチベット族の原始文化から,チベット文化は中華民族の古代文化と変わり,融合し,分割できない血縁関係のようになった」
と述べました.
ゲレグ研究員はそして,
「このことが,国内外の敵対勢力がチベットを中華民族の大家族から分裂させようとしても,その結果は失敗に終わり,チベットが中国の分割できない部分という歴史的地位を依然として変えられない原因でもある」
と述べました.
【事実】
中国がファビョり過ぎてギャグを発信し始めました.
新石器時代に国の概念があったのかよww
大体,中共そのものは60年程度しか歴史はないだろww
【質問】
羌族ってやっぱりチベット系の民族なの?
『遊牧民から見た世界史』(杉山正明著,日本経済新聞社,2003.1)という本には,始皇帝を生み出した秦族がその一派であったとあるんだが.
【回答】
羌語とチベット語は,共にチベット・ビルマ系言語.
チベット語の下に羌語があるわけじゃなくて,並列関係.
「チベット・ビルマ系」の「ビルマ」を省略しちゃう人(もちろん素人さん)が多くて,誤解されることが多い.
その本で秦についてどう書いてあるかというと
>「おそらくは戎?の範疇でくくられる集団の出であった」
>「せいぜい「西戎」の変種ぐらいにしか見なされていなかった」
はっきり「秦は羌族」と主張してるわけじゃないね.
杉山先生も史記秦本紀の内容を知らないはずないし,かといってきちんと検証していくのも面倒くさいから,こういう書き方になっただけで.秦の出自自体にあまり興味はなさそう.
秦の王族は,贏姓部族.原郷は陜西ではないから祖先は羌ではない.
むしろ東夷の一派が流れ流れて陜西にたどり着いたのが秦族,とみた方がいい(諸説あるが).
陜西にたどり着く前には山西にいて,そこで秦族から趙族が別れた.
そのころに北狄(匈奴と関係ある)と深く結びついたから,羌よりも狄と関係が深い.
秦と羌はむしろ敵対関係にあり,西戎(羌)を陜西から甘粛・青海に追い出したのが秦.
陝西すら漢族固有の領土ではなかったということだ.
それどころか商代には,陜西よりもっと東,現・河南省西部が羌族の居住地だった.
商が東から西へと徐々に羌の領域を侵食していった.
商で盛んだった山岳信仰はもともと,羌が持っていた信仰と言われている.
当時の山岳信仰最大の聖地・嵩山も,羌から奪ったものらしい.
「岳」の甲骨文字は「羊」の下に「山」が描かれている.
チベットでgnyan(野生羊)が岳神(あるいはその使い)とされている,
そのまま.
【質問】
秦族はもともと非漢族の遊牧民である西戒の一派の出身では?
【回答】
秦族は?姓.?姓諸族の主力は?子国(山東省)とか徐国(安徽省)などみな支那中〜東部にあって,秦族や趙族(秦族の分家,山西省)が支那西部にいるのは例外的.
あと秦族の始祖説話「母親が燕の卵を飲んで生んだ男児が始祖となった」というのは,東方出身とされる商族の始祖神話と全く同じ.
系譜でも?姓部族と商族は同源となる場合もある(諸説入り乱れていて一概には言えないが).
秦の上代神話や?姓諸族の分布を調べると,東方から西へ移動していった経緯が窺える.
秦族=西戎・説は,これら秦族の神話や?姓を
「もともと持っていたものではなく,箔をつけるために後で借用した」
と全否定(仮定)した上での話.
その可能性も考えられるが,どこまでが(借用)神話でどっからを史実とするかの境界が恣意的で,証明までは至っていない.
それは「東方出身説」も実は同じ.
支那上古史は未解明の問題だらけ.
余談だが,始皇帝は呂不韋(羌族の末裔である姜姓呂氏の一員?)の実子と噂されているから,
「始皇帝は羌族の皇帝だ.おお,羌族は偉大なり」
と強弁する人もいる(今の羌族出身の人が書いた文章にある)が,ここまで来ると身内贔屓が凄すぎて笑っちゃう.
【質問】
シャンシュン王国って?
【回答】
シャンシュン王国(紀元前〜643年)は,西チベットのカイラス山一帯に存在しました.
その首都はキュンルン・ンゥルカル(ガルーダ谷の銀城)といい,その廃墟は今でも残っています.
シャンシュン王国の最後の国王リミギャは,チベットの王ソンツェンガンポにより暗殺され,シャンシュンはチベットに併合されました.
ボン教の経典は元々シャンシュン語で書かれていました.
ボン教のマントラはシャンシュン語で出来ているため,現在ではその意味を知るのはとても難しいのです.
またボン教徒は,トンミ・サンボータがチベット文字を作る前から,チベットにはシャンシュン文字があったと主張しています.
【質問】
シャンシュン文字は発見されているの?
【回答】
正確には「シャンシュン文字」は発見されているけれど,どうみてもチベット文字を変形させたもので,チベット文字より先に存在したとはとても思えない.
現在発見されているシャンシュン語文献のほとんど全部は,チベット文字で書かれている.
【質問】
シャンシュン語は何語に近い言語だったのですか?
カシミール語? ネワール語?
【回答】
カシミール語は印欧語族で全然違う.
ネワール語の方が近い.
それよりもキナウル語が一番近いと言われている.
キナウル語はチベット語とそれほど遠いわけではなく,
http://www.ethnologue.com/show_family.asp?subid=90300
シャンシュン語もそのグループの中に入る.
かといって「シャンシュン語やキナウル語はチベット語の一方言」みたいな扱いじゃない.
【質問】
吐蕃王国は強かったの?
【回答】
それなりに.
唐に対しては軍事的優位に立ってシルクロードの大部分を支配した頃もあったが,それは安史の乱(756〜763年)で唐が衰退したことも大きい.
ただ,タングート族の西夏も宋から歳幣巻き上げてたし,近世のモンゴルや清との関係を見ても,なかなかのやり手だ.
世界史板
青文字:加筆部分
【質問】
ボン教って何?
【回答】
吐蕃時代のボン教については,史料が少なくてなかなか実態がつかめないが,祖霊信仰,アニミズム(山川の神などを祠る),悪魔祓いあたりを中心とした宗教で,当時すでにある程度体系化は進んでいたと思われる.
日本の神道(国家神道以前のもの)とも似た形態.
敦煌文献にもすでにシェンラブ・ミウォが現れているが,ボン教開祖としてではなく,シェン(司祭)の大物の一人として出てくる.
実在の人物であった可能性は高い.
この人物がボン教開祖に祭り上げられるのは,11世紀以降.
【珍説】
イスラム圏→ヨーロッパがチベットに関心持つことなど19世紀までなかった.
【事実】
8世紀に西トルキスタンで,イスラム軍と吐蕃軍が共同作戦をとって唐と一戦交えたりしてるんだが.
さらにイスラム軍(チベット名タジク)がチベット本土に使者を送ったりもしている.
関心を持ってないわけないでしょ.
だから当時のイスラム文献にTubbet/Tibbatという名がすでに出てくる.
イスラム圏ではアッバース朝頃の武具のリストで「チベットの皮鎧」が良質なものの中に挙げられてるらしい.
吐蕃がブイブイいわせてた時代.
ヨーロッパ人がチベットに関心を持ったのは,それより遅れて13〜14世紀のモンゴル帝国時代.
プラノ・カルピニ,ルブルク,オドリコなどの修道士のモンゴル・中国旅行記にチベットの話が出てくる(誤報だらけだが).
その後,「チベットにはキリスト教徒が住んでいる」という噂が広まり,そのキリスト教徒を探しに,あるいは布教にと,17世紀以降宣教師がチベットに続々と入り始める.
グゲ王国に教会を開いたアンドラーデとか,ヨーロッパ人として初めてラサに入ったデシデリなんかが有名.
19世紀までチベットはイスラム圏/ヨーロッパから関心を持たれなかった,なんていう馬鹿な話は,物を知らずに当てずっぽう言ってるだけだよ.
【珍説】
天山シルクロード(現ウイグル自治区)の領土を喪失すると,世界貿易から排除され,チベットが引きこもり国家になった.
【事実】
チベットが興味あるのは仏教の故郷インドだけと言っていいから,インドとはもの凄く密接に交流してたじゃんか.
「世界貿易から排除」なんて偏見・無知もいいとこだよ.
昔からチベットにとっては中国よりインドの方が大事だったのよ.
だからチベット難民も苦しい生活ではあるけれど,仏教信仰が保障されていて,なおかつ釈尊・仏教誕生の地インドで暮らすことには,かなりの満足感がある.
【質問】
宋〜明の時代のチベットは誰が支配していたの?
【回答】
9世紀に吐蕃帝国が崩壊してからは,旧吐蕃領を統一する政権はなく,吐蕃王家の末裔,各地方の豪族,氏族教団(特定の宗派と豪族が結びついた宗教・政治集団)などが各地に独立した状態.
これが宋代の状況.
その諸氏族教団の中から,サキャ派+クン氏がモンゴル帝国と結びついて,13〜14世紀にチベット全域に覇をふるった.
モンゴル+サキャ派が衰えると,パクモドゥ・カギュ派+ラン氏がウー・ツァンに覇をふるった(14〜15世紀).
その後,ウー・ツァンを支配したのは
リンプン氏(パクモドゥ派の代官だった,15〜16世紀),
シンシャク氏(ツァンパ,シガツェの領主,16〜17世紀).
その間カム・アムド・西チベットには独立した政権がたくさんあった.
これが明代の状況.
【質問】
13世紀のチベット佛教はカギュ派とかサキャ派とかゲルク派など様々な分派がありますが,それぞれ統治するために軍事組織などは持っていたのでしょうか?
【回答】
僧院そのものが軍事組織を持っているわけじゃなくて(僧兵みたいなのもいるけどたいしたことない),その大施主(地方豪族)がめいめい軍隊を持っていた.
サキャ派やディグン派なんかは特定の氏族が占有していたから,宗派と豪族の軍隊はほぼ一体化してるようなもんだけど.
宗派と世俗権力が一体化した氏族教団は,
サキャ派=クン氏
パクモドゥ・カギュ派=ラン氏
ディグン・カギュ派=キュラ氏
ドゥク・カギュ派=ギャ氏
ツェル・カギュ派=ガル氏
ヤムサン・カギュ派=ラ氏
タクルン・カギュ派=ラガシャ氏
ってとこ.
そういう基盤を持たないゲルク派は,初期には軍事的に非力で苦労してたから,他宗派があまり接触していなかったモンゴル諸侯に,軍事的支援を期待して接近していった.
【質問】
チベットは千年以上前から中国の領土なのでは?
元王朝(1271-1368)
明王朝(1368-1644)
清王朝(1644-1911)
【回答】
唐・宋・元・明・清・・・・これらのいわゆる「中国統一国家」を見ても,漢族の国は宋と明だけで,実際に漢族が大陸で「いわゆる中華民族」の上にたったのは1/4くらいなんですよね.
つまり各王朝は同民族の政権交代ではないんですよね.
中国という名前自体が20世紀に作られたもので,中華民国も今の中国大陸を全て治めたわけではないし,中華人民共和国も,1949年にできたばかりの時は,雲南省・四川省・甘粛省・青海省・東北三省は中華人民共和国ではありませんでしたしね.
西康省・熱河省・寧夏省などの地区分けを経て,段階的に既成事実にしていったわけです.
唐・宋・元・明・清・・・・考察很大的此等「中華五大統一国家」,漢族的国只有宋,明.漢族於大陸実際奪取「中華民族的威権」的時間是中華文明的1/4.考察此真実,各王朝不是同民族的政権之交代.「中国」之呼称自体是於20世紀作成的.中華民国亦不統治現在的全中国大陸.中華人民共和国亦同様.1949年建国当時,雲南省,四川省,甘粛省,青海省,東三省不是中華人民共和国.整理各省而成立西康省,熱河省,寧夏省等地区,踏各段階而成立「中国人民共和国統治全中国大陸」的事実.然此「事実」不是「真実」.
【珍説】
故宮の文化財,漢族とチベット族の共同発展の歴史を証明
(中国情報局 2008/04/09(水) 16:26:37更新)
中国故宮博物院のチベット文物専門家の王家鵬氏は7日,
「故宮に保存されているチベット文化財は,チベットと歴代の中央王朝の緊密な関係を直接反映すると共に,チベットが中国から切り離すことが出来ない一部分だということを証明している」
と述べた.
王家鵬氏は
「故宮には大量のチベット族の芸術品が保存されている.
その中には1万件以上のチベット各時代の金や銅の仏像があるが,それらの仏像のほとんどはとても良い状態であり,その由来や収蔵された時期などの記録もある.
また,数千枚のチベット独特の布に描かれた宗教画「タンカ」があるが,その内容は漢族とチベット族間の長い交流の歴史を記録している」
と語った.
さらに王家鵬氏は
「チベットは13世紀半ばには,正式に中国の元王朝の領土に入った」
と述べている.
(写真)北京市の故宮博物院
ttp://news.searchina.ne.jp/2008/0409/national_0409_018_small.jpg
【事実】
>中国の元王朝の領土に入った
(゚Д゚)ハァ?
モンゴル帝国のことじゃん.
なにサラッと捏造してやがる.
まず元朝は,モンゴル帝国(あるいはモンゴル共同体?)の宗主国的立場にあり,あくまで中国を財政基盤としたモンゴル人の王朝なんだが.
だいたい,チベットが中国に基盤を持つ王朝の支配下に入ったのは,清朝だし.
しかもあくまで間接支配,自治も認めてる.
それに清朝は,現在の中国東北部の狩猟・農耕民族である満州族が中心となって成立した王朝だし.
まぁ清朝は純粋な満州族の王朝ではなく,モンゴル族や漢族も含んだ多民族国家ではあったが.
征服王朝であっても最後は「中華」化していって中原に同化してしまう傾向があるが,清朝は,満洲の部分を残そうと躍起になっていた.
まぁ,西欧の衝撃で,そこらへんがどんどん変質していくけど.
それに清朝と今の中国の版図は,l幾つか除いて同じだけど支配の仕方がぜんぜん違うし.
ちなみにモンゴル帝国になぜチベット仏教関連のものが多数流入していたかについては,上述項目参照.
「支配の産物」なんかではないのでは念のため.
プロパガンダをするなとは言わん.
チベット側だって多少はやっていることだ.
だが,やるなら巧くやれ.
幼稚園レベルの「ウソ」と変わらんプロパガンダなら,やらないほうがマシ.
【質問】
ダライ・ラマ6世はダライ・ラマらしくなかったというのは本当か?
【回答】
本当らしい.
『チベット マンダラの国』(松本栄一写真,奥山直司文,小学館,1996.6)では,6世について以下のように述べられている.
――――――
【ダライ・ラマ6世】(1683〜1706)
ダライ・ラマ6世ツァンヤン・ギャンツォはモンユルに生まれた.
大摂政サンギェ・ギャンツォによって見出さた6世は,先代とは似ても似つかぬ「問題児」であった.
政治には関心が薄く,酒色に溺れ,詩作に熱中し,ついには戒をも返上してしまう.
だが,彼の作った詩は今もチベットの民衆に愛好されている.
そこにあふれる甘美な優しさと悲しさが,不似合いな地位に縛りつけられた彼の悲劇の生涯とあいまって人を魅力するのだ.
6世は大摂政を殺害したホシュート部によって北京に護送される途中,青海で死んだ.
――――――
英語版のWikipediaを眺めてみました.
確かに"ダライ・ラマのあるべき姿"ではなかったのかもしれません.
僧としてではなく,一般人のような暮らしを好んだようです.
酒にも女にも手をつけたし,ポタラの外にテントを張って生活したとあります.
しかし,民衆には敬われていたようです.
清朝と結んだグーシ・ハーン王朝が,ダライ・ラマ6世のこのような行動を口実に,彼を廃して新たなダライ・ラマを立てようとしました.
それに対して,チベットの民衆は大いに抵抗した,とあります.
むろんそれは,外圧への抵抗だったのかもしれません.
外の人間に最高指導者を擁立されるのは,嫌でしょうから.
今も昔も.
in mixi
(退会により投稿者不明)
ダライ・ラマ6世
(画像掲示板より引用)
【質問】
ジュンガルのガルダンはダライラマに唆かされて,トルコ・ムスリムを仏教に強制改宗させたの?
【回答】
強制改宗は聞いたことがないが,ウズベキスタン方面のムスリムを強制移住させて,農奴として使役していた.
また銃兵や砲兵として従軍させてもいた.
ジューンガル部については『最後の遊牧帝国』(宮脇淳子著,講談社新書,1995.2)という本が詳しいです.
【質問】
1720年,なぜ清朝はチベットに派兵したのか?
【回答】
このチベット派兵は「侵攻」というよりも,青海ホショト軍とのダライラマ7世決定についての内紛の鎮圧といった意味合いが強い.
以後のトラブルを避けるため,清朝はラサに一人の大臣を常駐させてチベットでおきる出来事を報告させた.
これが駐蔵大臣のおこりである.
祭政一致のチベットでは,政治のトップはすなわち仏教の「転輪聖王」である.
仏教世界から委託されて政治を任せられているのが現清朝の皇帝たちであるから,それに従うのは仏教徒としては当然であり,チベットやモンゴル人は清朝に従順であった.
岡崎溪子 in ≪ WEB 熱線 第998号 ≫2008/03/26_Wed
【質問】
清朝の皇帝の肖像画見てると,巨大な数珠を首から下げてるけど,あれがチベット仏教の関係者だという印?
【回答】
女真族は清朝以前の昔からチベット仏教信徒.
清朝皇帝は,
満州人たちの部族長会議の議長と,
モンゴル人たちのハーンと,
漢人たちの皇帝と,
チベット仏教の最高施主と,
東トルキスタンのイスラム教徒たちの保護者
という五つの役割を一人で兼ねた,同君連合の統治者.
清朝の歴代皇帝はチベット仏教を熱心に信仰し,北京の紫禁城の奥には擁和宮にチベット寺が建てられていたりと,皇族たちの信仰は深い.
つまり,清朝の皇帝はチベット仏教のパトロン&最大の檀家.
皇帝のあの巨大な数珠は,チベット仏教徒だから身に着けていると思われ.
【質問】
チベットと清朝との関係は?
【回答】
メール・マガジン≪ WEB 熱線 第1021号 ≫2008/05/19_Monに転載された,「せいろん談話室」,2008/05/19付によれば,チベットは,清朝の属国の属国のようなものだったという.
以下引用.
――――――
1750年に清朝の乾隆帝が,チベットを完全保護国化するが,このチベットのダライラマ支配体制は,1842年にモンゴルの首長グシリの支援のもと,ダライラマ5世が当時内乱中であったチベットを統一,聖俗両界の最高権力者となり,一種の神権国家を樹立するが,そのモンゴルは,7年前の1635年には後金=後の清朝)に併合されており,チベットはいわば,清の孫分に当たる.
清朝の1644年〜1750年を通して,チベットと中国の関係はチュ・ユン=ラマ宗門と清王室壇家(?)の関係であり,18世紀中から20世紀までは,チベットが中国隷属下と見るのが正しいであろう.
――――――
一方,
http://www.nytimes.com/2008/04/13/opinion/13sperling.html?ref=opinion&<BR>pagewanted=print
にて,米インディアナ大学のチベット学教授のスパーリング(Elliot
Sperling)が述べているところによれば,チベットは元と清にこそ隷属してはいたが,漢人地域と並列の地域だったという.
また,元と清の間の明(1368〜1644年)の時代には,その行政文書や公定史書から,チベットが独立していたことは明らかだという.
そもそも20世紀初頭まで,漢人の文人達は,チベットが清の皇帝の封建的支配下にある(feudal
dependencyである)とし,漢人地域とは区別されていることを認めていたという.
【質問】
チベットは中国の冊封体制に組み込まれていたのではなかったのか?
【回答】
チベットは中国の冊封体制に組み込まれていた,と言われる時,そこで前提とされるのは「冊封体制のみが東アジアの秩序を形成してきた」という歴史認識であろう.
だがそれは本当にそうなのか?
東アジアには冊封体制と比較しうるような国際体制はなかったのか?
次の本は,その問いに「あった」という答えを出している.
『チベット仏教世界の歴史的研究』
作者: 石濱裕美子
出版社/メーカー: 東方書店
発売日: 2001/03
メディア: 単行本
チベット,モンゴル,満洲の各民族はチベット仏教の熱心な信奉者であり,彼らの間で交渉がなされる時,その交渉の基盤にはチベット仏教世界という共通の「場」があった,と著者は主張する.
その論を支えるのは,満洲語,モンゴル語,チベット語の膨大な史料の分析である.
従来の東洋史は主に漢文史料で語られていた為,彼らの共通の世界観に対しては言及がなされてこなかった.
冊封体制の観点に立てば,チベットは中国の属国であった.
しかし,例えばパンチェン・ラマ3世が北京を訪れた時,時の乾隆帝は彼と同じ高さの席に座り,破格の厚遇をした.
その様は,儒教的世界観の体現者であった朝鮮使節や地方の知識人が眉を顰める程のものだった.
この待遇は,決して中華思想のみで説明できるものではない.
その背景には,チベット仏教によって成り立つひとつの場――著者の提唱する「チベット仏教世界」が存在していたのである.
中華世界が一人の皇帝を頂点に戴く階層的な世界観を作り上げるのとは対照的に,このような菩薩王が君臨するチベット,モンゴル,満洲の世界観は,複数の菩薩がそれぞれの国で仏教と有情の利益のために働く複眼的な世界観を結ぶ.
一見して求心力に欠けるように見えるが,同じ価値観を共有した王侯が同じコードを用いて交流するため,それは全体として見ると一つの「場」を構成するのである.(p.364)
冊封体制論は,中国が周辺諸国をどのように把握していたか,という疑問に対するすぐれた解答である.
しかしわれわれが忘れてはならないのは,冊封体制は確かに東アジアに大きな影響を与えたが※1,いっぽうで,それはあくまでも中国側からの視点であり,また,儀礼的な朝貢のみで現実の従属/独立関係は推し量れない,という事だ.
清朝は複数の世界観を内在した王朝であった.
その領域においては皇帝はいくつもの「顔」を使い分けた※2.これは複数の文明圏を包摂した「帝国」の統治のタイプとして考えてみた時,非常に興味深い.
清朝において皇帝は唯一の権威ではなく,片方では,ダライ・ラマを頂点とする世界観が皇帝を頂点に置く世界観と併存していたのだった.
この視点は,今日のチベット問題を考える上で重要であろう.
中国は,チベットは冊封体制に組み入れられていたがゆえに,中国の固有の領土であると主張する.
しかしそれは儒教的世界観においてであって,チベットにはまた別の認識があったのである※3.
この事が忘れられてはならない.
上記の世界観の存在を,膨大な史料に基づいて実証した本書は,それゆえに,象牙の塔のみならず広く一般に向けて大きな貢献をなしたといえよう.
※1:例えば,日本はアイヌや琉球に対して中華として振る舞っていた.
※2:詳細は,著者の書評も参照.
URL:http://tibet.que.ne.jp/okamenomori/qing.html
※3:ぼくはチベットの完全独立は難しいと思っているが.
「ストパン」,2008/11/04
青文字:加筆改修部分
【質問】
麗江の支配者として君臨していた豪族「木氏」は,最後はどうなったの?
【回答】
麗江の領主は,チベットの史書には「ジャン王」として登場.
最盛期にはチベットの東南部(カム地方の南部)まで掌握したが,17世紀半ば,広大な属領をグシ・ハン王朝に没収され,さらに自分自身もグシハン王朝に隷属.
雍正年間(18世紀)に,清朝がグシ・ハン一族のチベット諸侯への支配権を召し上げたとき,麗江の領主はカム地方南部への支配権を主張したが,取り合ってもらえず,麗江だけの小領主のまま清に服属した.
【質問】
ラダックはイスラームに侵略されたの?
【回答】
何度も何度も撃退したり占領されたりの繰り返し.
イスラム(カシミールのザイン・ウル・アビディンとかカシュガルのミルザ・ハイダルとか)に占領されても,短期間で終わってる.
1680年頃ガンデン・ツェワンに攻められて耐えれなくなって,ムガルのカシミール総督に助けを求めて,ムガルの属国に.
1750年頃ムガルがへたっちゃったら,また仏教国としてチベットと仲良しに.
でも宗教的には西からジワジワとイスラム・シーア派が侵食して来て,西半分(もとはラダックじゃないけど)はイスラム圏内になった.
【質問】
1908年の清のチベット侵攻は何のためか?
【回答】
メール・マガジン≪ WEB 熱線 第1021号 ≫2008/05/19_Monに転載された,「せいろん談話室」,2008/05/19付によれば,チベットに清朝主権を確立し,英国勢力を駆逐するためだったという.
侵攻に対する抵抗運動が,ラサ周辺で起こり,また,1910年,清朝によるダライラマ廃位計画を知ったダライラマは,チュ・ユン関係の終結を宣言したという.
詳しくは同ブログを参照されたし.
【質問】
イギリスや中国が攻めてきたときのチベットの軍隊ってどんな装備だったんだろう?
ラメラー甲冑に刀に槍,弓矢みたいな感じか?
【回答】
当時のチベット兵だそうです.
http://www.geocities.jp/gogotibet/ripin/manga1/hedin44.jpg
20世紀頭のチベット軍備については,
『西藏 英帝国の侵略過程』(ヤングハズバンド著,小島書店,1943)
を見るといい.
ただし,これは著書の前半のみの翻訳だから,後半にもっと詳しい記述があるのかもしらん.
原典を当たってくれ.
イギリスに負けて,「チベットも軍隊を整備せねばいかん」てんで,矢島保治郎や英仏の力を借りて,近代軍制・外国の装備を導入し始めた頃(1910年代)については,
『世界無銭旅行者 矢島保治郎』(浅田晃彦著,筑摩書店,1986)
『西藏漂白』下(江本嘉伸著,山と溪谷社 1994)
『秘密国チベット』(青木文教著,芙蓉書房出版,1995.12)
あたりに出てる.
軍隊の写真もあった.
中共の侵略期(1950年代)については,
『四つの河 六つの山脈』(ゴンポ・タシ著,山手書房新社 1993.3)
『中国とたたかったチベット人』(ジャムヤン・ノルブ編著,日中出版,1987.1)
あたりを見よ.
【質問】
清朝崩壊後,チベットは1951年まで独立国家だったと言えるの?
【回答】
微妙.
たしかに1912年にチベットは独立を宣言したが,国際承認は得られていない.
また,農奴制の項目で説明されているように,近代国家建設の努力はほとんどなされなかった模様.
しかし一方,
http://www.nytimes.com/2008/04/13/opinion/13sperling.html?ref=opinion&<BR>pagewanted=print
にて,米インディアナ大学のチベット学教授のスパーリング(Elliot
Sperling)が述べているところによれば,1912年から中共が成立した1949年まで,支那の政権はチベットに支配権を行使したことはなく,ダライ・ラマ政権がチベットを統治する状態が,1951年まで続いたという.
▼ 19世紀以降チベットは永世中立国だったので,チベットは隣国と交流は殆んどありません.
しかし,第二次大戦中にはイギリスが援蒋ルートをチベット経由で開く計画を持ち,政府と協議しています.
重慶国民党も,延安共産党も,使節を送っています.
19世紀以后西藏王国是「永世中立国」故,西藏不交過隣国.
不過,於抗日戦争中,英国,美国,中華民国有了「開設経西藏的援蒋之路」的計画.各国們開催了關其計画的協議.
在重慶的国民党政府,在延安的共産党人民政府……中華各各民族的団體派遣了向西藏的使節.
西藏有了一个独立政府,西藏有了如独立王国.現在亦同様.
▲
【質問】
ちょっと確認.
>チベットを自治区に編入したのが1951年
↑
この時点では主権は喪失していなかったということでしょうか?
【回答】
1951年の時点ではダライ・ラマ十四世はそのまま存続させておいて,チベット自体を自治区として編入
(この時点では間接的支配かと)
その後,中国政府の苛烈な政策に反発,チベット動乱で,ダライ・ラマ十四世がインドに亡命し,それに伴い主権が喪失した
チベットを中国政府が
「それじゃあ,俺が直接統治するわ」
って感じかと.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
チベット独立宣言後,それを国際承認させるような動きはあったのか?
【回答】
無かったようだ.
≪ WEB 熱線 第1033号 ≫2008/06/16付に転載された「せいろん談話室」によれば,独立宣言自体,清軍を中国本土へ撤退させ,中国のクビキから脱したと国民に示すための宣言のようなもので,ダライ・ラマ13世は世界各国と外交関係を結ぶこともなく,鎖国に近い状態だったという.
国交らしきものがあったのは,隣接する英国(インド)・ネパール・ブータン・ビルマ・カシミール・パンジャムら,少数だったという.
詳しくは同ブログを参照されたし.
【質問】
タクタ・リンポチエとは?
【回答】
ダライ・ラマ14世の幼少時の第2個人教授.
第1(上級)個人教授レティン・リンポチエの独裁が,僧院・貴族らから猛批判されて引退した際,執政権を譲られる.
しかし,その政治・外交は失政の連続であり,外交的失敗から中国国民党にも侵略されかけ,また,この事態に復権を狙うレティン・リンポチエとの間に,内部権力抗争を起こしたという.
詳しくは「せいろん談話室」を参照されたし.
【質問】
中国のチベット侵攻時,チベット側が使用していた兵器は,どこの国のものだったんでしょうか?
あと,『セブン・イヤーズ・イン・チベット』で,チベット軍の最大の火器が大砲数門だったといっていたのは,本当なんでしょうか?
【回答】
本当です.
チベット自体は中国で半独立国,しかも中立を標榜しているとは言え,英国の影響下にありました.
ダライ・ラマ13世は英国に技術援助,軍事援助を仰ぎ,1920年代初頭には英国が第一次大戦で余剰となった武器を売りつけ,英国の武器体系を持つ近代的な軍を編成します.
しかし,新軍隊の維持費として僧院に課税される事となり,また,僧院の私兵である戦士僧侶の存在が,新軍隊によって脅かされる事になりました.
このため僧院側が改革に反対し,1924年,軍の近代化を断念してしまいました.
また,ダライ・ラマ13世死後,摂政となったレティン・リンポチェは,軍事費を切り詰め,私腹を肥やしていきました.
これにより,国軍の存在は霞んでいきました.
何しろ,無線機は全国に20台程度しかなかったですし.
後は軍より,主に僧院や大領主の私兵であり,彼らは第二次大戦の頃は,ビルマ,ラオス,インドなどを通じて米国,英国,ソ連製の銃を手に入れています.
中共のチベット侵攻後,抵抗していたのは彼らの方です.
▼ 1940年代のチベット軍の写真です.
元諜報員@FreeTibet in mixi,2008年04月15日 20:51
▲
【質問】
マンネルハイム将軍がダライ・ラマ13世と会見したことがあるそうだが?
【回答】
マンネルハイム将軍は,有名なフィンランドの独立活動家,大統領で,軍人ですが,ロシア帝国軍時代にダライ・ラマ13世と会見しています.
「wikipedia」:カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
>その後,密命を帯びて中央ユーラシアを横断しつつ探検.
要は諜報活動を行っていたのです.
マンネルハイムは探検中(1906〜1908年),ラサ入りを欲しましたが,イギリス人により占領されていたためこれは断念.
その後,ダライ・ラマ13世がラサではなく,ウライシャン山地の聖地にいることを知り,そこに向かいました.
以下,マンネルハイムの言葉:
----------------------------------------
「・・・私の低いお辞儀に対して,ダライ・ラマは会釈で答えた.
彼は,私がどの国から来たのか,何歳なのか,どの道を通ったのかと尋ねた.
通訳は,前日に訪ねた最古参のラマだった.
彼は,自分の主人に身をかがめ,私の話をひそひそ声で訳したため,これに対する見解は分からなかった.
小休憩後,ダライ・ラマは合図を出し,チベット文字が書かれた白い美しい絹布が部屋に持ち込まれた.
彼は,皇帝にこの贈り物を渡すように頼んだ・・・
ダライ・ラマは,ウタエはいいところだが,心はチベットにあると語った.
寺院を訪問した多くのチベット住民は,彼のラサ帰還を要請しており,恐らく,これは行われるだろう.
私は,陛下が祖国を離れる必要があると考えた時,ロシア民族の共感は彼の側にあり,過去数年間に渡って減らなかったと指摘した.
ダライ・ラマは,私の約束を大いに喜んで聞いた.
接見の終わりに,贈り物としてダライ・ラマに手渡そうと思っていたブローニングを取り出す許可を請うた.
拳銃には7発装填できることを示した時,ダライ・ラマは嬉しそうに笑った.
『この贈り物は,非常に簡単なことです』
と,私は語り,長い旅で武器の外に何も残らなかったため,他にいいものを捧げられないと愚痴った.
一方で,聖人といえども,しばしば,祈りより拳銃が必要とされる時代なのだ.
ダライ・ラマは,闊達,賢明で,精神的にも身体的にも強い人間に映った.
出迎え時,中国関係のため,彼が非常に冷淡だったのは明らかに見て取れた・・・.
彼は,自分の愛する祖国の一部を中国に引き渡したがる人物を全く気にも留めていなかった.
翌日,ダライ・ラマは,12mの薄い赤・茶色のチベット製ラシャと,12本の香木を私に送った.
もう一度中央アジアを旅することがあれば,必ずラサに受け入れることを約束して.」
----------------------------------------
マンネルハイムは帰国後,ロシア皇帝に謁見し,この顛末を報告しています.
元諜報員@FreeTibet in mixi,2008年03月30日19:06
【質問】
第二次大戦時のチベット対外関係の事実は?
イラン,アフガンにはドイツが使節出していたが英国の圧力で追放されたんじゃ?
チベットは英国人数人しか居なかったのでは?
【回答】
第二次世界大戦中,ドイツ使節がどこ通ってチベット行くんだよ.
北はロシア,南・西はイギリスが押さえてて,ドイツがちょっかい出せるルートはないよ.
ドイツがチベットに調査隊を出したのは1938年一回だけ.
それも自然科学の調査.
オカルト本によく出てる「毎年調査隊を派遣していた」なんてのは嘘八百.ソースが示されたことはない.
▼ 当時の外交政策は,基本的には中立.
在ラサ英領事館があったから,どちらかといえば連合軍サイドになる.
当時の日本も,チベットを親英地方とみなしていたようだ.
http://www.geocities.jp/keropero2000/china/china01.html
米軍輸送機がチベットに不時着したときに救助して,感謝されたという話もある.
アメリカの援蒋ルート調査隊も受け入れてるが,援蒋ルートになるとかはなかった.
イギリスの保護を得られないまま,どんな外交を展開すればいいかも分からなかったというのが本当の所だろう.
ガンデンポタンの外交能力の欠如に対する反省が,穏健といわれる今のダライラマ14世の立ち回りのしたたかさに繋がっているのだろう.
とはいえ,戦争前には真宗大谷派から留学僧が派遣されていたし,日本人が仏教徒というのは有名だった.
だから同じ仏教徒というシンパシーはあった.
チベット国旗を作ったのも,大谷派からチベットに派遣されていた青木文教だと言われている.▲
戦後しっかり独立できるよう,その時ちゃんと外交活動やってれば,2008年現在こんなことにならなかったのに・・・.
▼ なお中国当局は,「ダライ・ラマは親ナチ」とする事実無根のプロパガンダ工作を行っているようなので,注意を要する.
以下引用.
――――――
「ダライ・ラマは親ナチ」 中国大使館員が米議会工作
【ワシントン2日共同】ワシントンの中国大使館で議会対策を担当する書記官が米議会スタッフに対し,チベット仏教の最高指導者ダライ・ラマ14世がナチスと深いかかわりを持ち,ヒトラーの友人と親交があったという情報を添付した電子メールを送っていたことが2日,分かった.
下院外交委員会の共和党スタッフ,デニス・ハルピン氏がワシントン市内の討論会で明らかにした.
〔略〕
同氏とは別の議会スタッフに送信され,共同通信が入手した電子メールには,「ヒトラーとダライ・ラマ」と題された論評が添付されている.
論評は中国国外のメディアの情報として
「ダライ・ラマは(ユダヤ人を)大量虐殺したナチス(の元関係者)と親密な関係にある」
と指摘.
――――――
▲
【質問】
〔ナチスの〕ハーケンクロイツはチベットの卍から取ったんじゃないの?
南極とチベットと富士山は地球のチャクラだよ.
【回答】
「チベットの卍」っていうけどさあ,その「卍」はインド起源だし,卍自体は世界中にある(ネイティヴ・アメリカンにもある).
で,ナチスのハーケンクロイツは北欧起源だよ.チベットは関係ない.
もともと北欧の雷神のシンボルで,ルーン文字にもある.
北欧各地の貴族の紋章にもなっていたし,第一次世界大戦後にはラトヴィアやフィンランドの空軍がシンボルにしていた.
で,19世紀末〜20世紀はじめにヨーロッパではやっていた「ゲルマン民族北欧起源論」というオカルト人種論と,
「スワスティカはセム民族文化にだけ存在しない」という噂(実際は嘘で,メソポタミアの遺物とかたくさんある)の影響で,ゲルマン優越主義・反ユダヤ主義団体が紋章に使った.
イェルク・ランツが1907年に結成した新聖堂騎士団で,紋章に採用されたのが一番早いケースだろう.
同じ頃,グィド・リストが『ルーン文字の秘密』(1908)で,スワスティカをゲルマン民族のシンボルと論じている.
ランツもリストもインドやチベットとは全然関係がない.
こいつらが1912年にゲルマン騎士団を結成し,さらにゼボッテンドルフが加わって1918年トゥーレ協会ができる.
当然その紋章はスワスティカだった.
そのトゥーレ協会の会員の中に,ナチ党の前身であるドイツ労働者党を結成したアントン・ドレクスラーがいた.
ルドルフ・ヘス,アルフレート・ローゼンベルク,ディートリヒ・エッカート,ハンス・フランクなどの,後のナチ党の主要人物たちも,その会員だった.
そのため,1920年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)ができると,フリードリヒ・クローンの発案でスワスティカが正式に党の紋章になったのだ.
オカルト本によくあるナチスとチベットを結びつける話は,大半が根拠がない(ソースがいっさい明示されていない).
ハウスホッファーはチベットになど行ったことはない(遺族が否定している).
彼が入会したという日本のチベット密教団体「緑龍会」なんてものは存在しない.
ハウスホッファーがチベットでグルジェフに会ったなんてことも当然ない.
グルジェフがチベットへ行ったりドルジエフに化けたり,なんてのもホラ話.
実際グルジェフの思想にチベットの影響なんか全然ない.
戦時中のベルリンにチベット人などいないし(当時のベルリン市外国人登録簿から明らか),そのリーダーだったという緑色手袋のラマなんてのも嘘.
第一,チベット仏教で緑色手袋が何か意味を持つなんて聞いたことない.
ベルリン陥落時のチベット人兵士の死体なんて,ポーウェルとベルジエの『魔術師の朝』(1960)にはじめて出てくる話で,こいつらがどこから拾ってきた話かいまだにわからない(間違いなく作り話).
だいたい,『魔術師の朝』の長い序文で,著者自身が
「この本では,伝説(噂),事実,憶測,実際の見聞をないまぜにしている」
と書いてるんだから,その内容を鵜呑みにするなんて馬鹿げてる.
ところが日本版『神秘学大全』は,この序文をばっさりカット(笑).
だからまんまと騙された読者が多かった.
▼ チベット人SSは電波だが,日本人で河口慧海よりも前にチベット入りしてて,13世の信任を得て近衛兵の訓練を任せられていた矢嶋はマジ.
▲
▼【珍説】【質問】
以下の話は本当?▲
・太平洋戦争開戦前
チベット
「日本が経済封鎖されて可哀想.羊毛送るよ.
気にすんな.同じ仏教国じゃないか.見過ごせないよ」
・戦時中
アメリカ
「おい,中国が日本ブッ叩くための補給路確保に,お前らも協力しろ.」
チベット
「日本とも国交のある我々は,最後まで中立を貫く.協力はしない.」
・戦後
チベット→日本と国交があった為「敗戦国扱い」→中国のチベット介入→今に至る
▼【事実】【回答】
嘘ですが何か.
羊毛を送ったってのは半分本当.
あとは嘘.
羊毛の話だが,チベットという国家としてはやってない.
羊毛ネタのもとネタは,木村肥佐生の『チベット潜行十年』(中公文庫)でしょう.
木村氏はすでになくなられましたが,第二次世界大戦中〜後,日本政府の特務としてモンゴルからチベットに潜行されていた方です.
戦後にもチベット難民のためにいろいろ尽くされました.
以下引用.
――――――
日本に帰国後,多田等観先生から伺った話によれば,多田先生がツァロン大公宛の手紙の中に,
「支那事変が始まって以来,日本に羊毛の輸入が途絶えて困っている」
と書き送ったところ,カルカッタからアメリカ向けに輸出していたチベット羊毛を,彼は解約して無償で横浜に積みおろさせたため,汽船一杯の羊毛の引取り手を探して大変な思いをした,とのことであった.(文庫版p223)
――――――
チベットから羊毛が送られてきたのは事実ですが,ツァロンというチベットの大富豪(セブン・イヤーズ・イン・チベットにも出てくる)が,多田等観というチベット学者とのつきあいのなかで,義侠心にかられて個人的にやってくれたことです(汽船一杯分ね).
そのあとのくだりだが▲,中立・鎖国が国是だっただけだし,敗戦国扱いになぞなってない.
というか,日本と国交があっただけで敗戦国扱いって理屈が正しいとするなら,スウェーデンやスイスも敗戦国になってしまうんだが?
ついでに言うと,ラサとかにはイギリス軍の通信施設が存在した.
(空路による援蒋ルート維持のサポート)
なので厳密に中立かというと怪しい.
前から思ってたんだが,どうやってチベットから日本に羊毛を運んだんだろう?
インド・ビルマからは無理だし,雲南・四川方面も無理でしょ.
残るはソ連ルートかモンゴル・ルートしかないけど,通してもらえるものなのかな?
【質問】
汪兆銘政権はチベットの領有権を主張していたのかね?
【回答】
当然です.
汪兆銘は蒋介石と中華民国の正統を争っていたのですから.
中華民国は清朝の版図を継承していて,本土の省と東三省に加え,藩部と呼ばれた蒙古・新疆・チベットの領有も主張していました.
蒙古には現在のモンゴル国も含まれます.
孫文の三民主義に含まれるは民族主義は漢民族国家の樹立ではなく,清朝の版図に於いて漢民族を中心に各民族が平等に連携するもので,
チベット族も中華民国の一員ということになります.
そもそも清朝の領土をそのまま継承するのは国父孫文の意志.
毛沢東は外蒙の独立を認めた時点でやや後退している.
清朝の領土とは本土の18省+満州(東3省)+藩部で,藩部には蒙古・新疆・青海・西蔵があった.
藩部は土民の長による旧慣支配を認めていた.
【質問】
西川一三(にしかわ・かずみ)とは?
【回答】
太平洋戦争時の特務調査工作員.
山口県出身.
1943年,特務調査工作員としてラマ僧の姿で,チベットやネパールなどに8年間潜入した.
著書に「秘境西域八年の潜行」がある.
2008/2/7,午後4時58分,肺炎のため盛岡市の病院で死去,89歳.
【質問】
西川一三の「秘境西域八年の潜行」を,面白そうだなと調べてみたら二巻組やら三巻組やら文庫版やら色々あるのね……
上下二冊ってのを買えばいいのかな?
【回答】
芙蓉版は最初,上下で出て,漏れたエピソードを別巻に入れた.
それを時系列順に組み直したのが中公文庫版(3冊).これが完全版だが,今は電子版でしか読めない.
あまりにも量が多すぎるので抜粋した1冊ものが中公文庫biblio版.
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