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◆冷戦FAQ
<戦史FAQ目次

目次
【質問】 冷戦とは,今までの歴史上になかったような形の緊張状態であったのか?
【質問】 フランクリン・ルーズベルトが第二次世界大戦後に目指していたものとは何か?
【質問】 冷戦におけるアメリカ・ソ連の目標とは具体的に何なのか?
【質問】 アメリカの対ソ連政策と目標はどのようなものだったのか?
【質問】 第2次大戦後,どうして資本主義陣営は一致団結できたのか?
【質問】 第二次世界大戦終結直後のスターリンは,どのような構想を持っていたのか?
【質問】 そもそもWW2が起こらなければ,ソ連は勢力を拡張できたでしょうか?
【質問】 ソ連側から見て,戦後の推移はどのようなものだったのか?
【質問】 ソ連時代,バルト三国や中央アジア諸国などにも,抵抗組織は存在したのでしょうか?
【質問】 キューバ危機(1962年10月に発覚)が世界に与えた意味とは?
【質問】 キューバ危機において,何故ソ連海軍は米海軍に対抗できなかったのか?
【質問】 キューバ危機の後の米ソは,全面核戦争を避けるためにどのような政策を取ったのか?
【質問】 なぜデタント(緊張緩和)政策は継続しなかったのか?
【質問】 冷戦期,なぜ「集団安全保障」は機能しなかったのか?
“Communist Bloc Expansion in the Early Cold War: Challenging Realism, Refuting Revisionism”〔PDFファイル〕
「アフター・ヴィクトリー」(G・ジョン・アイケンベリー著)
「国際紛争」(ジョゼフ・S・ナイ著,有斐閣,2005.4)
「ソフトパワー」(ジョゼフ・S・ナイ著,日経新聞社,2004.9)
「帝国の興亡」(ドミニク・リーベン著)
「無形化世界の力学と戦略」(長沼慎一郎著,通商産業研究社,1997.2)
「冷戦史」(松岡完/広瀬佳一/竹中佳彦編著,同文舘出版,2003.6)
「冷戦とは何だったのか」(ヴォイチェフ・マストニー著,柏書房,2000.3)
「ロング・ピース」(ジョン・L・ギャディス著,芦書房,2002.11)
「アメリカSF映画の系譜」(長谷川功一著,リム出版新社,2005.6)
【質問】
「マーシャル・プラン」って何?
【回答】
(・ω・)<「マーシャル・プラン」って何? ブルース・ウィルスの出た映画?
(ーー)<いえ,WW2後で荒廃したヨーロッパに対する経済援助です.
その目的は,ヨーロッパ諸国を自陣営にとりこみ,共産主義の拡散を防ぐことでした.
詳細はウィキペディアをどうぞ.
(・ω・)<どれぐらいの援助だったの?
(ーー)<米国のGDPの6%ですから,膨大ですね.
その後,1949年トルーマン大統領(1945〜1953,右写真)によって発表されたPoint
IVプログラムにおいて,ベトナム,韓国,インド,パキスタン等,ヨーロッパ以外の国に対する援助が開始されました.
(・ω・)<Point IVプログラムってなに?
(ーー)<トルーマン大統領が対共産主義に考えた,4つの対外方針です.
1.国連の強化
2.欧州復興支援の継続
3.NATOの設立
4.低所得国に対する技術支援の供与
(・ω・)<ヨーロッパ以外の国にも?
(ーー)<アジアには中国という共産主義国があったので,それでインド・インドネシア・パキスタンにも中国への牽制で援助しています.
また西アジアでも,ソ連への牽制でトルコにも援助しました.
(ーー)<またキューバのような低所得な国で共産主義が広まっていたことから,ケネディは低所得の国に対して援助を戦略的に使うことを提唱し,対外援助法(Foreign
Assistance Act:FAA)が成立しました.
【質問】
冷戦の原因を作ったのは米ソどちらなのか?
【回答】
見方が幾つかあり,現段階ではどちらとも断定できないという.
以下引用.
冷戦の説明の仕方として,基本的に四つか五つの見方があることをここで紹介しておきます.
●traditionalism---ずばり,ソ連の拡大主義が冷戦の元になったとする立場.「ソ連悪玉論」もちろんアメリカ政府はこの立場.
●revisionism---アメリカこそが冷戦を作ったとする「アメリカ悪玉論」.基本的にマルクス主義や左翼の立場.最近ではこの見方が復活しつつあります.
●post-revisionism---アメリカ・ソ連ともに両方とも悪いとする,「米ソ悪玉論」.上の二つの見方の折衷的な見方.
●realism---国際政治の力学が冷戦を形作ったとする「米ソ権力闘争論」
●“internalist"---アメリカの政治における特殊性に原因をもとめる「アメリカの性質論」,スターリンをヒトラーに見立てたり,アメリカの文化がソ連と相容れなかったために冷戦が起こったという立場.
最後の立場はちょっと特殊ですが,とりあえずその上の四つの立場は学界ではけっこう市民権を得ているそうです.
例えば,traditionalismな見方としては以下のようなものがある.
この論文は
“Communist Bloc Expansion in the Early Cold War: Challenging Realism, Refuting Revisionism”〔PDFファイル〕
という題名で,著者はDouglas J. Macdonaldという人です.
どういう内容かというと,冷戦の原因は本当のところどうなのよ?ということです.
彼はこの論文で
「伝統主義的な見方(ソ連の拡大主義)がやはり正しいのだ!
共産主義のイデオロギーは,冷戦の形成に大きな役割を果たしたんだ!」
ということを主張したいわけです.
〔略〕
「新しい歴史的証拠が出てきてわかったのは,やっぱり冷戦初期にはソ連の拡大主義傾向があって,これが伝統的な見方が正しいことを確認した」
ということです.
余談だが,こういう長文の英語論文を読むときの攻略方法.
ある先生に面白いことを聞きました.文献を読む際にどうしても時間がない場合は,結論の部分だけ読め,ということです.
〔略〕
ところがこの論文はとにかく異常に長い.全部で36ページあります.
で,これを攻略するにはどうしたよいかというと,いきなりConclusionと書いてある,いわゆる「結論」の部分だけ一番先に読むのです.
このPDFファイルだと35ページ目,そして論文にあるページでは185ページにいきなり飛べばよいわけです.
すると,Conclusion というすぐ下の一段落の合計六行分に,この論文で主張したいことがすべて簡単に書かれていることがわかります.
もちろんすべての論文が,この論文のように結論のすぐ下に内容の要約がある,とは限りませんが・・・・.
また,ジョゼフ・S・ナイ教授は,
「冷戦を引き起こしたのは誰で,原因は何なのか?」
について,三つの主張を紹介している.
以下,彼の見方にしたがって
1.伝統主義者,
2.修正主義者,
3.ポスト修正主義者
のそれぞれの主張を上げてみると
1.伝統主義者
冷戦を起こしたのはソ連とスターリンである.
アメリカの外交が防衛的なのに対して,ソ連の外交は攻撃的であって,アメリカは徐々にソ連の脅威の本質に気づいた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
伝統主義者は何を論拠とするのか?
戦争終結直後に,アメリカは国際連合の下での,普遍的な世界秩序と安全保障を提案していた.
ソ連は国連を真剣には受け止めなかった.というのも,東ヨーロッパで勢力圏を拡張し支配することを望んでいたからである.
戦後アメリカは動員解除に踏み切ったが,ソ連は巨大な軍隊を東ヨーロッパに残した.
アメリカはソ連の利害を理解しており,たとえば,1945年にローズヴェルトとチャーチル,スターリンがヤルタで会談した際,アメリカはソ連の利害と協調しようと譲歩した,
しかし,スターリンはヤルタ協定を守らず,特にポーランドでの自由選挙を認めなかった.
また,イラン北部から撤退しなかったこと(圧力を受けて最終的には撤退したが),1948年にチェコスロバキア政府を簒奪したことで,1950年には,北朝鮮軍が韓国の国境を越えて侵攻したことで,ソ連の拡張主義は明らかになった.
2.修正主義者
冷戦はソ連よりも,むしろアメリカが始めた,
彼らの論拠は,第二次大戦集結時,世界はまだ二極化構造ではなく,ソ連はアメリカよりも遥かに弱体であったことにある.
アメリカが戦争中に国力を増強し,核兵器保有までしていたのに対し,ソ連は最大で3000万人もの人命を失い,工業生産は,1939年の半分でしかなかった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
1945年10月に,スターリンはアメリカの駐ソ大使アヴェレル・ハリマン(Averell Harriman)に対して,ソ連は国内の被害を修復するために内向きになるであろう,と語っていた.
修正主義者に言わせれば,さらに戦後すぐのスターリンの対外的行動は,極めて控えめであった.
中国では,スターリンは毛沢東率いる共産党が権力を把握しないように牽制した.
ギリシャの内戦でも,彼はギリシャ共産党を牽制した.
それに彼はハンガリーやチェコスロヴァキア,フィンランドでも非共産主義政権の存在を許したのである.
また,修正主義者の主張は,二つの主張があり,どちらかを重視する傾向にある.
・第一レベルは1945年4月のルーズヴェルトの死,また,それに伴う,ハリー・トルーマンの大統領就任.
以下,ナイ教授の文章を引用.
1945年5月に,アメリカは武器貸与法による戦時援助をあまりにもにわかに中止したため,ソ連の港に向かった船舶は養生で引き返さなければならなくなったほどである.
1945年7月にベルリン近郊で開かれたポツダム会談では,トルーマンは原子爆弾[の開発]に言及して,スターリンを威嚇しようとした.
また,政府内を中道左派から右派に作り変えていった.
ソ連との関係改善を主張していたヘンリー・ウォーレス農務長官を解任し,強硬な反共主義者であるジェームズ・フォレスタルを登用するなど,政府を反共主義へ作り変えていった.
・第二レベルは,そもそもアメリカ資本主義に問題があったというもの.
以下,ナイ教授の文章を引用.
たとえば,ガブリエル・コルコ(Gabriel Kolko)とジョイス・コルコ(Joyce Kolko)夫妻やウィリアム・A・ウィリアムズ(Willam A Williams)らは,アメリカ経済が拡張主義を求めたのであり,アメリカは民主主義ではなく,資本主義にとって,世界を安全なものにしようと企てたのだ,と論じる.
アメリカの経済的覇権は,自立的な経済圏を構築するかもしれないいかなる国も許容できなかった.
対外貿易なしには再び世界大恐慌が発生するかもしれないので,アメリカの指導者たちは1930年代の繰り返しを恐れた.
ヨーロッパ援助のためのマーシャル・プランは,単なるアメリカ経済の拡張の手段に過ぎなかった.
東欧での勢力圏に対する脅威とみなして,ソ連がこれを拒否するのは正しかった.
アメリカが門戸解放をいつでも謳うのは,自らがそこに入り込もうとする手段とする主張.
3.ポスト修正主義者
ルイス・キャディスなどによると,戦後のバランス・オブ・パワーでの二極化構造のために,冷戦は不可避・もしくはほとんど不可避であり,誰かに責めを帰するのは間違っているという主張.
第二次世界大戦前には,7つの大国による多極化構造があったが,第二次世界大戦の結果,米ソという2つの超大国しか残らなかったという二極化構造に加え,ヨーロッパ諸国は弱体化しており,米ソにとっての真空地帯が生まれた.
両者は対立する運命にあり,非難すべき対象を見出すのは無益だという考え方.
以下,ナイ教授の文章を引用.
戦争終結に際して,米ソは異なった目標を抱いていた.
ソ連は目に見える所有,つまり領土を求めてた.
アメリカは目に見えない環境的な目標を持っていた.アメリカは世界政治の全体的な文脈に興味を抱いていたのである.
アメリカがグローバルな国連システムを推進したのに対して,ソ連が東欧での勢力圏の強化を求めた結時,[前者の]環境的目標と[後者の]所有的目標は衝突した.
だが,こうしたスタイルの相違から,アメリカが聖人ぶっていると感じる必要はない,とポスト修正主義者は指摘する.というのも,アメリカは国際連合から利益を得ながら,同盟国の多数の支持を期待できることから,国連に強く拘束されることはなかったからである.
ソ連は東ヨーロッパに勢力圏を持っていたかもしれないが,アメリカもまた西半球と西ヨーロッパに勢力圏を持っていた.
修正主義者の説くような経済的決定論ではなく,無政府状態のシステムで国家が陥る伝統的な安全保障のディレンマのゆえに,米ソが拡張に向かうのは必然であった.
(中略)
1945年にスターリンがユーゴスラヴィアの指導者ミロバン・デュラス(Milovan Djilas)に語った言葉を引用する
『この戦争は過去になかったものだ.ある土地を占領したら,占領側は必ず自分の社会体制を押し付けるのだ』 換言すれば,イデオロギー的に二極化した世界では,国家は安全を確保するために,自国と同様の社会体制を軍事力で強要するのである.
ただ,ポスト修正主義者のルイス・キャディスは,冷戦の終結に伴ってソ連の公文書資料の公開に伴い,ソ連に超大国間対立の原因が大きいという見方にかわっており,この論争はまだまだ続きそうではある.
何を信頼するかは,各人にゆだねられているということを,ナイ教授は言いたいのかもしれない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
冷戦とは,今までの歴史上になかったような形の緊張状態であったのか?
【回答】
「お互いの確実な破滅」という要素を除けば,今までの歴史上のバランス・オブ・パワー(均衡勢力)型の形態の一つ.
ただ,アメリカがソ連にとった対抗政策は「抑止」と「封じ込め」の二つに大別され,それもまた,歴史上にはよくあったこと.
1.抑止
抑止は,自らの力の示威によって,相手に攻撃を思いとどまらせること.
要は,軍備を整えたり,同盟を組んだり,威嚇したりして敵の攻撃を事前に思いとどまらせる政策.
ただ,「核兵器」という要素が,「威嚇」の意味合いを非常に重たいものにした.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「核兵器の出現にともない,超大国は攻撃を受けたあとに防衛によって敵を拒絶するよりも,威嚇によって敵を事前に思いとどまらせることに,ますます依存していった.
冷戦期の抑止は核抑止という究極の問題に結びついていたが,やはりバランス・オブ・パワー[均衡勢力]の論理の延長線上にあった.
核の脅威による抑止は,相手が利益を得て,バランス・オブ・パワーを乱すのを阻止するために超大国が試みた一手段でえあった.
後に見るように,抑止はしばしば米ソ間の緊張を高め,抑止が機能したと証明するのは容易ではない.
見せ掛けの因果関係に騙される危険は常にある.
もし,ある教授が授業中に象が現れないようにしていると言えば,本当に象が現れない限り,それを反証することは困難である.
こうした主張には反実仮想を用いることが出来る.象が教室に現れる可能性がどれほどあるのか?」
核による戦争抑止が「本当に戦争を防いできたのか?」という命題は,一見簡単に証明できそうだが,本気で証明しようとおもったら,かなり深い考察が必要かもしれない.
2.封じ込め
これは,自らの体制(冷戦の西側で言えば,自由経済体制・自由貿易体制)を促進するために,相手の政策を「封じ込める」という考え,ソ連共産党を封じ込めるという,アメリカ特定の政策であり,方法として,プロバガンダ戦や,経済的なブロック化により,相手の経済発展を止めようとするやり方もある.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「名前は別にしても,抑止と同時に冷戦に端を発するわけではない.
何世紀にも渡って,封じ込めは外交政策の主要な道具であった.
18世紀には,ヨーロッパの保守的な君主国はフランス革命のもたらした自由と平等というイデオロギーを封じ込めようとした.
それ以前にも,反宗教改革でカトリック教会は 宗教改革とマルチン・ルター(Martin Luther)の思想の伝播を封じ込めようとした.
封じ込めの形態はさまざまである.攻撃的なものもあれば防衛的なものもある.
戦争や同盟の形を借りた軍事力の場合もあれば,通商ブロックや制裁と言った経済力の場合もある.
そして,理念や価値を促進する形でソフト・パワーを用いることも出来る.
冷戦期を通じてアメリカは,共産主義封じ込めという壮大な政策と,ソ連封じ込めという限定的な政策の間を揺れ動いたのである」
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
お気に入りの本で冷戦について書いているので引用.
(・ω・)< なんで冷戦でソ連は勝てなかったのですか?
(−−)< 理由は2つ.
1.経済において資本主義陣営の方が優れいていた
2.資本主義国が共産主義者の予想に反して団結した
以下引用
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西側が冷戦で敗北する可能性はおそらく三つあった.第一に,社会主義の支持者が信じていたよういに,富の蓄積と分配で社会主義のほうが資本主義よりも優れていることが分かった場合である.
(略)
たとえば,もしグローバルな資本主義経済が一九三〇年代のような破局に再び直面でもすれば,たとえ社会主義がまだ成功への道半ばといったところでも将来有望に見えただろう.
しかし,一九四五年以降の数十年間に,ソ連のライバルである資本主義大国の富が未曾有の規模で増加したのだった.
ソ連の敵国における富と相対的な団結が,冷戦でソ連が勝利しえた第二の可能性をくじいてしまった.
レーニンの帝国主義理論は,国際関係の本質に迫るソ連の理論の源泉であった.
それは,主な資本主義国は市場や労働力,さらには資本の投下先にふさわしい領土をめぐって戦争を避けられない,と見なしている.
(略)
一九三〇年代には,事態はレーニンの予言通りになるかにみえた.
「持たざる」資本主義国(ドイツ,イタリア,日本)は,いち早く広大な領土を手中に収めていたライバル(イギリス,フランス,オランダ,アメリカ)に取って代わろうと企てていた.
続いて起きた戦争によって,グローバルな資本主義体制は著しく弱まり,ソ連の相対的な地位や国際的な立場も一九四一年から四五年にかけて劇的に高まった.
おまけに東ヨーロッパと中国も社会主義陣営に加わった.
次なる課題は,資本主義国が新たな内戦を再開するのを座して待つことであった.
ところが一九四五年以降,そのようなことは起こらず,イギリスからアメリカへのグローバルなリーダーシップの移行が平和的に,しかも歴史的基準に照らせば,驚くべき親善関係のなかで行われた.
ソ連という共通の脅威の存在が,このようなプロセスを実現したのである.
一九一四年以前や一九三〇年代の世界と比べて,資本主義諸国はアメリカのリーダーシップの下で大きな連帯と協力を示した.
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(−−)<また実際に戦争による衝突にならず,ソ連に冷徹な外交のできる指導者が現れなかったことも原因です.
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冷戦でソ連が勝利する,おそらくもうひとつの可能性があった.
あるロシア人将校は,一九三〇年代と四〇年代の出来事を振り返り,次のように述べた.
「第三帝国のナチスのイデオロギー,専制的な独裁体制は,西側のブルジョワ民主主義よりも優れていた.
しかし,東方でナチスの体制は同じような,おそらくより組織された〔ソビエト〕体制に直面したため,ファシズムは銃火をもってしても,その試練に耐えられなかった.
……民主主義的な権力の制度は,多くの人民にとっていくら魅力的に写ろうと,公然たる武力紛争で専制的な独裁体制と対峙する試練に耐えられないのである.」
しかし,民主主義の本当の試練はおそらく,実際の戦争というはっきりした状況ではなく,微妙で水面下で行われることもあったソ連と西側の長期にわたる地政学的,イデオロギー的競争として始まったのであり,それは戦後数十年間も続いた.
(略)
アメリカは孤立主義を求める気分が強く,倫理的,政治的に当然と見なしてきた国内の前提を外部世界に当てはめようとした.
したがって,たとえばヒトラーやスターリン,あるいはパーマストンやビスマルクといったヨーロッパの伝統的政治家が行ったような,冷静な地政学的アプローチや戦術の変更などは明らかにできなかった.
しかし,一九五三年以降のソ連指導部はついに,ヒトラー,スターリンのどちらの後継国でもないことを示した.
ソ連指導部による対外政策の運営はマキャベリ的であったが,成功したとはいえず,かたやアメリカの政策運営も,民主主義の面で数十年にわたる冷戦期に西側の悲観的なタカ派が考えていたほどナイーブでもなかった.
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ドミニク・リーベン「帝国の興亡(上)」p155より
手元に本はありませんが,G・ジョン・アイケンベリー教授も「自由貿易体制」をつくりあげたことと,NATOや日米同盟などの,一元的な安全保障体制にアメリカを引き入れたことが,大きな対ソ連の武器になったといっています.
これは日記でも書きましたが,元々,アメリカの覇権を求めたのはアメリカ自身ではなく,ヨーロッパや日本だったんですよね.
その,「欧州がアメリカの覇権を求めた」についてのソース,および,アメリカは欧州から手を引きたがっていたというソースを・・.
英国当局者が憂慮していたのは,米国が欧州に圧倒的な派遣プレゼンスを構えることではなかった.
彼らは「米国が孤立主義の立場に戻ることをどうすれば防ぐことができるか?」に意を用いていたのだ.
ガディスは次のように述べている.
「英国の懸念の対象は,米国の拡張主義ではなく,米国の孤立主義だった.
英国は『どうすればそうした拡張主義的傾向を強化できるだろうか?』の検討に多くの時間を割いたのだ」
英国やその他の欧州各国は,第一次世界大戦の時にそうであったように,戦後安全保障の協力と平和維持についての米国構想に前向きの反応を示した.
二人の歴史家が述べている通り,
「戦間期には米国は世界情勢に関与することを怠った.そのときのことを反省し,今回は,米国構想によって米国が世界情勢に関与するよう拘束される理由がありさえすれば」
というのが条件になっていた.
G・ジョン・アイケンベリー教授「アフター・ヴィクトリー」208−209ページより引用
次にアメリカでつが・・・「マンドクセから,復興はさせるけど,その後はおまいらが働いてねー」というスタンスでした.
第二次世界大戦直後に米国が行った対欧州支援の狙いの一つは,米国が欧州から手を引くことができるよう,欧州がその環境を整えるのを手伝うことだった.
この構想は,ジョージ・ケナンのような当局者の考えの中にはっきり現れていた.
同時に,この構想は,欧州を「第三の勢力」に育てること,欧州統合を米国が支援することとも繋がっていた.
マーシャル・プランは当初,四年間だけ実施することになっていた.
その後は,欧州諸国が自らの手で復興を行うと予定されていた.
マーシャル計画の初代実施責任者だったポール・ホフマンは
「我々の構想は,欧州を自立させ,我々は欧州から身を引くことだった」
と語っている.
NATO条約が調印された1949年,米当局者の多くは,この条約を「移行的な条約」とみなした.彼らは,この9条約が欧州諸国にとっての励ましや支援となり,その結果,欧州が,経済,政治,安全保障の各分野でそれまで以上に統一された諸制度を確立するように期待したのだ.
「アフター・ヴィクトリー」,217ページより引用
双方の狙いは「相手の制度内への固定化」であり,枠組み作りです.
双方の思惑は違えど,目的は合致していたわけですね.
NATO軍

(うそ)
【質問】
冷戦は不可避だったのか?
【回答】
冷戦自体は不可避であっただろうが,深刻化することは避けられた可能性は大いにある.
第二次世界大戦による,ヨーロッパの衰弱によって,力の真空地帯が生まれたことから,力の二極化現象は避けられないだろうが,一番の問題は,双方がイデオロギー的な対立を煽ったことだろう.
スターリンは,共産主義を喧伝し,ナショナリズムに訴え,国内を統制する手段として,資本主義を非難したが,アメリカも,トルーマンが共産主義の脅威を過大に誇張した.
これは,お互いの陣営の結束を固める上で有用であったが,同時に,対立の深刻化を招いた.
しかし,この戦略が別の時期に行われていたら,対立は深化しなかったであろうと,ナイ教授は指摘する.
以下,ナイ教授の文章を引用.
皮肉にも,ある時期の戦略が別の時期に用いられていれば,対立の深度は緩和されたかもしれない.
たとえば,もしアメリカがケナンの助言に従って,1945−1947年により確固たる反応を示していれば,また,1947年―1950年により実際的な交渉と意思疎通を図っていれば,冷戦は1950年代初頭のような深みには至らなかったかもしれないのである.
ドイツに対する宥和と協調と同じく,実際に取られた正確は逆だったが.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
米ソの相違点は具体的にどのようなものか?
【回答】
これに関しては,構成主義(コンストラクティズム)の視点から見るとわかりやすい.
・ソ連
そもそも,ソ連の前進たるロシアの時代から「絶対主義」という強権政治を重視する政治体制である.
以下,ナイ教授の文章を引用.
ロシアの政治文化は,民主主義よりも絶対主義を重視した.
強い指導者願望や無政府状態への教授(ロシアは巨大で扱いにくい大陸国家であって,無政府状態と国内の反対が帝国を解体しかねないという恐怖が深刻であった),侵略の恐怖(何世紀にもわたって,ロシアは近隣諸国を侵略し,また侵略されてきた,地理的に脆弱な大陸国家であった,
後発性についての不安と恥じらい(ピョートル大帝 〈Peter the Great〉以来,ロシアは国際競争に活力を持っていることを証明しようとし続けてきた),そして秘密性(ロシア人の生活の貧しい部分を隠蔽しようとする願い)などによるものである.
さらに,共産主義体制は個人の権利ではなく階級を,公正の基盤に据えた.
個人や社会の適切な役割は,支配に向かうプロレタリアートまたは労働階級に導かれるべきものであった.というのも,それが歴史の流れとみなされたからである.
こういう伝統的なロシアの性質が,対外的な拡張主義を生み,秘密主義で硬直的な外交政策を取らせることになったのは興味深い.
ソ連の強みとはこの「強権」であり,その成果は,1939年にヒトラーと秘密条約を結んだことなどに現れている.
スターリンは官僚や世論に気を使う必要がなかった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
英仏がスターリンと交渉すべきか否かでまだ混乱しているうちに,彼にはヒトラーとの条約に飛びつくだけの自由裁量があった.
しかし,これと表裏をなすのも明らかで,1941年にヒトラーがソ連を攻撃した時,スターリンはヒトラーがそのようなことをするとは信じられず,1週間にわたって深い鬱状態に陥ってしまった.
その結果,戦争の初期状態で,ソ連の防衛体制は壊滅的な打撃を受けたのである.
・アメリカ
ソ連とは対照的で「自由主義・多元主義・権力の分立を重視し,技術力と経済力で拡張を行った,侵略の恐怖によらず,その大半の歴史において,弱小の近隣国家を侵略しながら,自らは,大西洋・太平洋,さらにイギリスの海軍に守られながら,孤立を保つことができた.
秘密主義とも基本的には無縁で,極めて開放的だった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
政府文書は,しばしば数日または数週間のうちに報道された.
公正に関する階級的偏向とは無縁に,個人の公正がすこぶる重視された.
こうした政治文化からその外交政策は道義主義かつ開放的で,内向と外向の間を振幅しがちであった.
そのため,アメリカの外交政策のプロセスはしばしば無定見で,一見して一貫性に欠けた.
だが,やはり表裏をなすものがあった.
開放性と多元主義という強みが,しばしばアメリカをより深刻な誤りから救ってきたのである.
そういうわけで,米ソがお互いを誤解したのは,不思議でもなんでもない.
1940年代にルーズベルトとトルーマンがスターリンと対応した対比において,それは現れている.
冷戦期において,お互いがお互いを理解するのは,こういう側面から見ても非常に困難であった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
冷戦期にアメリカ人がソ連を理解するのは困難であった.というのも,ソ連はブラックボックスのようだったからである.アメリカの指導者たちは,ブラックボックスの出入力は理解できても,内部で何が起こっているのかはわからなかった.
アメリカ人もまた,ソ連を混乱させた.
アメリカは規則性のない騒音を奏でる機械のようなものであり,あまりにもうるさい雑音を奏でるので,真意を明確に聞き取ることが困難であった.
あまりにも多くの人々があまりにも多くのことを語ったのである.
そのため,ソ連はしばしば,アメリカが真に望んでいるのかを誤解したのである.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
冷戦におけるアメリカ・ソ連の目標とは具体的に何なのか?
【回答】
アメリカが「枠組み」などに見られる「システム構築」を目指したのに対して,ソ連は直接的な「領土拡張」を目指した.
ヤルタ会談に見られるように,ソ連はドイツ・ポーランドという領土拡張という,具体的な目標を持つ傾向にあった.
これに対してアメリカは,ルーズベルトが目指したように「国際連合」と「自由貿易体制」という「体制の構築」を目指した.
余談だが,チャーチルは,アメリカがヨーロッパから撤退することを考えて,フランスを復興させ,対ソ連に対するバランス・オブ・パワーの維持に利用することを望んだ.
スターリンの目標は,伝統的な帝国主義的なものであり,ヒトラーとの密約で得た利益を維持することを考えていた.
スターリンは,ピョートル大帝的なものを望んだのかもしれない.
これに対するアメリカの見方として,ナイ教授は以下のように述べている.
ソ連は,ヒトラーと同様に世界支配を望む拡張主義者だ,と考えたアメリカ人もあった.
他方,ソ連は基本的に安全保障を重視しているのであり,その拡張主義は防御的なものだ,と論じる向きもあった.
2つの点で,ソ連の拡張主義はヒトラーと異なっていた,
第一に,ソ連は好戦主義的ではなかった,ソ連は戦争を望んでいなかったのである.
ヒトラーはポーランドに侵攻した際,彼がファシズムの栄光のために望んだ戦争の代わりに,第二のミュンヘン会談[戦争回避のための英仏による妥協]が提案されるのではないかと恐れた.
第二の相違は,ソ連は注意深い機会主義者であって,無謀に冒険主義的ではなかった点である.
冒険主義は共産主義に対する罪とみなされていた.というのも,それは歴史の軌道を逸脱させてしまうかもしれないからである.
冷戦期を通じて,ソ連は決してヒトラーのように好戦的でも無謀でもなかった
しかしながら,完全に防御的とも言えない.
「防御的な拡張主義」を説明する例として,19世紀のイギリスの例をナイ教授は挙げている.
以下,ナイ教授の文章を引用.
19世紀にイギリスは,本来はインドへの海洋路を防衛する目的でエジプトに侵攻した.
エジプトを獲得すると,イギリスはエジプトを防衛するために,スーダンを獲得しなければならないと考え,次いでスーダンを防衛するためにウガンダを領有すべきだと考えた.
そしてウガンダを獲得した後にイギリスは,ウガンダ防衛のために鉄道を建設すべく,ケニアを領有したのである.
安全保障のディレンマは拡張に次ぐ拡張を正当化しがちであり,食べ続けるうちに食欲は増進するのである.
また,ソ連はこれに加え「労働者の解放」というイデオロギー上の動機があり,これがさらに拡張を正当化することになった.
ソ連は拡張主義だったが,慎重で機会主義者でもあった.
これは私見だが,イギリスの例を見ても,植民地体制は,やはり「維持コスト」が膨大になりすぎると思うな.
「自由貿易体制」に移行したのは,歴史の必然かもしれない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
短すぎてさしたる参考にもなりませんが,同様の記述は他の本でもありますね.
ロシアには国境の防衛線となる天然の要害も,凍結することのない海岸線も存在しない.そこで,イワン4世を初めとする皇帝たちはもちろん,帝政崩壊後の共産党までもが,安全と交易路を求めて領土拡張政策を推し進めていくことになる.
デビット・ウォーンズ著「ロシア皇帝歴代誌」p41
【質問】
フランクリン・ルーズベルトが第二次世界大戦後に目指していたものとは何か?
【回答】
第一次世界大戦の過ちを避けようとしたことがまず根底にあり,経済のブロック化による保護貿易ではなく,自由貿易体制を望んだ.
それには,孤立主義の傾向を避けねばならず,実行力をもった安全保障理事会をもった国際連合という構想で,国際連盟よりも強力な国際機関を設立しようとした.
ハルノートのコーデル・ハルは,ウィルソンの集団安全保障の熱心な主義者であり,アメリカの世論も国際連合を強く支持した.
この一大構想を実現するために,ルーズベルトは超党派の支持を維持する必要があり,また,対外的にソ連が必要であった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「対外的には,彼はスターリンに対して,ソ連の安全保障上の必要が国連加盟と合致することを再保障しなければならなかった.
ローズヴェルトは戦後構想でナイーブな態度をとったと非難されてきた.
戦術レベルでは一部そうであったにしろ,彼の構想はナイーブではなかった.
彼は国連に信を置きすぎたし,アメリカの孤立主義再来の可能性を過大視した.
また,最も重要なことに,彼はスターリンを過小評価していた.
彼はアメリカの同僚政治家を御してきたように,手に肩を回して政治家同士の連帯を訴えれば,スターリンをいなせると思っていたのである」
実際にはスターリンは何百万人という人間を殺害してきた全体主義者であり,ヒトラーと手を結んで,彼と戦利品を分かち合い,ヒトラーと同様に,近隣の諸国家・諸民族を駆逐・撲滅し,隷属化させた人物だった.
また,彼はドイツが西進するように民主主義国家から身を遠ざけ,ヒトラーが東進すると,充分な援助がないとして,民主主義国家を非難した人物でもあった.
ルーズベルトはこういう事実に対して,無知であったか,充分な認識がなかったかのどちらか,あるいは両方であろう.
ただ,ヤルタ会談では,アメリカの利権を売り渡したわけではない.
以下ナイ教授の文章を引用.
「ローズヴェルトはスターリンを誤解していたが,後に一部の人々が主張したように,1945年のヤルタ会談でアメリカの利益を売り渡したわけではなかった.
ローズヴェルトは政策の全ての点でナイーブであったのではない.
彼は経済的援助をソ連の政治的妥協と結び付けようとしたし,原爆の秘密をソ連と共有することも拒否した.
戦争終結時に誰が東ヨーロッパに軍隊を展開しているのか,そして,誰が影響力を持っているかについて,彼は単に現実的だったのである.
ローズヴェルトの過ちは,スターリンが彼と同じように世界を認識し,アメリカの国内政治を理解していると考えたことであり,指導者が対立点を乗り越えて友情に訴えるというアメリカの政治手法が,スターリンに対しても有効だと信じたことにあった」
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
第二次世界大戦終結直後のスターリンは,どのような構想を持っていたのか?
【回答】
国内的には,まず統制の強化で,外交に関しては,東ヨーロッパでの利益維持.
まず国内政策だが,ソ連は,人的にも,工業生産的にも,さらには,共産主義のイデオロギーそのものにも大きな被害を受けていた.
共産主義の過酷な支配から,ソ連ではドイツに多くの人間が協力した.
ドイツの侵略で,スターリンの支配は大きく弱体化していた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
実際,力を失った共産主義イデオロギーだけでは国民を動員するには不十分であったので,スターリンは戦争中にロシアのナショナリズムに訴えかけなくてはならなかった.
終戦時のスターリンの孤立主義的な政策は,ヨーロッパやアメリカなど外部の影響力を遮断するためのものであった.
ソ連国民に結束して外部に騙されないよう呼びかけるために,スターリンはアメリカを実在する敵として利用したのである.
しかし,だからといって,スターリンが実際に展開したような冷戦を望んでいたわけではない.
スターリンは,アメリカからの経済援助を望んでいた.
資本主義システムは,国内需要の不足から資本を輸出するから,アメリカはソ連に経済援助せざるを得ないだろうと思っていた.
また,10年ー15年のうちに,資本主義には新たな危機が生じ,そのときまでに力を回復させ,資本主義との闘争で利益を上げる用意を整得られると信じていた.
次に外交政策だが,まず,1939年のヒトラーとの間で結んだ条約により得た東ヨーロッパでの利益を維持しつつ,国内での自分の立場を維持したいと思っていた.
また,弱いところに探りを入れようとしていたようだ.
以下,ナイ教授の文章を引用.
スターリンはまた,危機のない時に通例上手くいくことだが,脆弱な地帯に探りを入れようとした.
1941年に,スターリンはイギリスの外相アンソニー・イーデン(Anthoniy Eden)に対して,自分は代数よりも算術を好む,と語っている.
つまり,彼は理論的アプローチよりも実際的なアプローチを好んだのである.
ウィンストン・チャーチルが,ある国はイギリスの勢力圏,別の国はソ連の勢力圏,また別のところでは五分五分と,バルカンでの戦後の分割を提案した時,スターリンはこの考えを進んで受け入れた.
スターリンが当初,中国やチェコスロヴァキア,ハンガリーで共産主義政権を支持することに慎重だったことも,自己の目標を達成するために代数的アプローチではなく算術的アプローチをこのんだ事実と,上手く合致している.
スターリンは強い信条を持った共産主義者であり,世界を共産主義の枠組みで認識してはいたが,しばしば実際的な戦術を用いたのである.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
そもそもWW2が起こらなければ,ソ連は勢力を拡張できたでしょうか?
【回答】
私の苦手な「IF」の話になりますが…
それは疑問ですね(−−
一方,「帝国の興亡」ではp152に「早くも一九三〇年代末の時点で,イギリスがインドを今後も引き続き掌握できるかどうかは疑わしかった.」とあります.
もしWW2が起こらなかったら…つまりイギリスはチェンバレンのような宥和政策を取らず,アメリカもベルサイユ体制の維持に協力していた場合,どーなってたでしょうね(−−
植民地の解放は,遅れるには遅れますが,結局のところ成されていたと思います.
ナショナリズムの高まりは歴史の流れですので.
ソ連は…WW2がない結果,勢力の大幅な拡張は無いでしょうが,マルクス・レーニンおじ様の予言が外れる以上は,やはり時期は違っても同じ道を歩んだのではないかと思います.
ソ連の勢力拡張は多分,無理でしょう.
ドイツが暴れまわって引っ掻き回してくれたおかげで,東欧を勢力圏にできたという見方が正しいかと.
>イギリスはチェンバレンのような宥和政策を取らず,
>アメリカもベルサイユ体制の維持に協力していた場合,どーなってたでしょうね(−−
その前に,ヴェルサイユ条約自体がもっと融和的であったなら.
また,フランスが空気読まずにルール占領などしなければ・・・.
というのもありますね.
アメリカの場合,国内問題(ウィルソンとロッジ,集団安全保障体制と孤立主義の対立)が,外交問題を中途半端なものにしてしまったということでしょう.
別項でも述べましたが,宥和すべきときに抑制し,抑制すべきときに宥和してしまったのが原因かと.
>植民地の解放
ナショナリズムの高まりもそうですが,まず
「植民地を保護するためのコスト」
に耐えられなくなるというのが最大の理由ではないかと.
植民地を維持するためには,その国の安全保障まで面倒を見なきゃならんということですから.
おそらくイギリスも安全保障のジレンマによる,植民地維持コストに耐えられないでしょう.
ただし,あの戦争が「植民地体制の崩壊をかなり早めた」
というのは一面の事実であろうかと思います.
「第2次大戦は,勢力拡大のためにソ連がしかけた陰謀なんだよ!!!!!!!!」(ニセMMR)
【質問】
アメリカの対ソ連政策と目標はどのようなものだったのか?
【回答】
アメリカの対ソ連政策は,基本的に「封じ込め」政策(自由貿易体制秩序の維持と促進のため,ソ連の共産主義を封じ込めようというもの)だった.
ただ,この封じ込めは,いくかの曖昧さを持っている.
1.「ソ連」という国家を封じ込めるのか「共産主義」というイデオロギーを封じ込めるのか?
2.ソ連の拡張政策全てに対抗するのか,バランス・オブ・パワーに則って,重要と思われる主要地域のみに「封じ込め」を行うのか?
これは,朝鮮戦争前には大いに議論された.
以下,ナイ教授の文章を引用.
ジョージ・ケナンは,トルーマンが提唱した封じ込めの拡大版には,異議を唱えた.
封じ込めについてのケナンの考えは古典外交に近いもので,軍事的手段はあまり用いずに,選択肢を増やそうとするものである.
[こうした対立の]好例はユーゴスラヴィアである.
ユーゴスラヴィアは,ヨシフ・チトー@josef Tito)の共産党による全体主義支配の下にあった.
1948年に,ギリシャ共産党支持の問題を含めて,ユーゴスラヴィアの外交政策を統制しようとするスターリンと,チトーは袂を分った.
封じ込めのイデオロギー的視点に立てば,アメリカはユーゴスラヴィアを援助すべきではなかった.なぜなら,ユーゴスラヴィアもまた共産主義だからである.
封じ込めについてのバランス・オブ・パワーの視点に立てば,ソ連の力を弱体化させる手段として,アメリカはユーゴスラヴィアを支援すべきであった.実際,アメリカは後者を選んだ.
トルーマン・ドクトリンでは,世界各地で自由な諸国民を守ることが目的だと主張しながら,アメリカは共産主義下の全体主義体制に軍事援助を与えたのである.
アメリカはバランス・オブ・パワーの理由でそうしたのであり,ヨーロッパでのソ連支配力に一矢を報いたのである.
しかしながら,朝鮮戦争で,ソ連の拡張主義が(アメリカから見て)正当化されたように見えると,ジョージ・ケナンの「封じ込め」のアプローチは根拠がなくなってしまった.
朝鮮戦争以来,共産主義はアメリカには一枚岩に映り,これにより「ソ連の封じ込め」から「共産主義全体への封じ込め」というイデオロギー的な目標を持った.
その結果が,ベトナム戦争の介入という泥沼の戦争に現れることとなってしまった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
アメリカがヴェトナム戦争に介入するという手痛い過ちを犯したのは,この文脈であった.ほぼ20年間に渡って,アメリカはヴェトナムでの共産主義支配を阻止しようとして,5万8千人のアメリカ人の命と100万人以上のヴェトナム人の命,そして6000億ドルの戦費を失った上,封じ込め政策そのものへの支持を揺るがす国内的混乱を生み出した.
南ヴェトナムで共産主義を封じ込めることに加えて,アメリカは[ヴェトナムでの]敗北がコミットメントの信憑性を失い,世界のほかの地域での封じ込めの弱体化につながることを恐れた.
皮肉にも,1975年のアメリカの敗北と撤退の後に,アジアの共産主義国家間でのナショナリズムの競合が,この地域でのバランス・オブ・パワーを維持するのに効果的であると,明らかになったのである.
これを見てもナイ教授が指摘する「ヴェトナムにおける問題は,ドミノではなくチェスであった」という主張は,まことに的を射ていると思う.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
チェスでは取った駒を自陣営に加える事はできないので,
「ドミノではなく将棋であった」
としておきたいところ.
【質問】
ソ連側から見て,戦後の推移はどのようなものだったのですか?
【回答】
簡単にいうと「そんなバナナ」「もうダメぽ」
なぜかプロレタリアートの多い国では共産革命が起こらない.
共産圏の国家はまるで資本主義の国が対立する(という予想)かのようにちぐはぐ.
こうしたマルクス・レーニンの大ハズレが,ソ連の崩壊へと進んでいきます.
――以下引用
一九四八年以降,西側諸国における共産主義運動が沈静化するにつれて,ロシア人側から見れば,期待と現実との基本的不一致はますます大きくなっていった.
実際に革命的マルキシズムが力をにぎったのは,マルクスやレーニンが期待したような産業プロレタリアートがいる国家ではなく,国民の圧倒的多数が農民で,近代産業がようやく発展の緒につきはじめた国ばかりであったからである.
もうひとつ厄介だったのは,革命が勝利をおさめたあとも,マルクスが予言したような,国際的同胞関係が出現しそうにない,ということだった.
新しい共産政権は,ロシア人と協力することに,あまり熱意を示さなかった.中国ではそれがとくに著しかった.
共産主義陣営内の分裂が最初に表面化したのは,一九四八年に,スターリンがユーゴスラヴィアを支配下におこうとして,逆にユーゴスラヴィアが公然と反旗をひるがえす結果になったときであった.
こうした傾向の背後にあったのは,共産主義革命も地域のナショナリズムと人種的・文化的プライドを払拭できなかった,という事実だった.
それどころか,アジアやアフリカの共産主義運動は,共産主義的であると同時にナショナリズム運動でもあった.
白人支配の帝国主義への攻撃は,直接に人種感情に訴えかけ,反仏あるいは反英ばかりか反ロシアでもあったのである.
――ウィリアム・H・マクニール「世界史」p600より
また多少の抵抗・戦争はあっても,植民地が驚くほどアッサリと解放され,旧宗主国であるヨーロッパが,植民地からの搾取を止めたはずなのに変わらず発展していることも,ソ連にとっては誤算でした.
――同著p604より引用
植民地帝国が崩壊しても,ヨーロッパ工業諸国では,社会革命が促進されることはなかった.かっての植民地列強は,植民地を失ったのちも繁栄しつづけたのである.
これは,なぜ西欧におこるべきはずの革命がおきないのか,についてのレーニンの説明をくつがえした(レーニンは,ヨーロッパで革命意識の成長が阻まれている原因として,西側プロレタリアートが帝国主義の分け前にあずかって,植民地の人々から搾取しているからだ,と非難していたのである).
【質問】
戦後のアメリカは植民地主義に反対し,英や仏に対してはスエズ動乱で対立すらしています.
なのにどうして,資本主義陣営は一致団結できたのですか?
やはりソ連という共通の敵がいたからですか?
【回答】
そもそも経済が発展した結果,植民地にこだわる必要も無くなっていましたから…
以下引用.
帝国が経済的な意味を持つのは,常に保護貿易や閉鎖的な貿易ブロックの時代においてである.
ヨーロッパ以外の商品,市場,労働力へのアクセスが可能な自由貿易の時代には,帝国にはあまり価値がない.
アメリカの支配する世界貿易が一九四五年以降,自由貿易を現実のものとしたことで,帝国は無用の長物となってしまったのだ.
さらに重要なのは,一九五〇年代から六〇年代に,北米と並んで西ヨーロッパと日本が世界で経済的に最もダイナミックな地域になった事実である.
一九五〇年代末までには,政治的な費用対効果はもちろん,純粋に経済的な観点に立っても,イギリスは海外の帝国を維持しつづけ,その商品を直接支配するために戦うよりも,ヨーロッパ経済共同体(EEC)に加盟するほうが,はるかに理にかなっていた.
実際,たとえ帝国を維持するのに成功したとしても,本国の国民にとっては,それに失敗していた場合よりもっと問題を孕んでいただろう.
(※ここでいう「帝国」とは,大英帝国といった,植民地をかかえ複数の他民族を統治する国のことです)
――「帝国の興亡」上巻p153
また欧米の方も,アメリカがリーダーシップを取ってソ連と対抗することを希望していました.
以下,同著p154より引用.
アメリカの資源はソ連を圧倒していた.とりわけ,その経済力はアメリカの大きな強みで,同盟国を得たり,従属国を口説き落としたり,「良い生活」の展望を示したりすることで,国内外の大衆にアピールした.
北米を除けば,伝統的,潜在的に世界で最も裕福な地域は西ヨーロッパと日本であり,ともに戦後のアメリカの勢力圏内にあった.
両地域のエリートはアメリカかソ連のどちらかを選べといわれれば,必ず前者を選んだであろう.
もっとも,戦時中の荒廃を引きずった戦後の混乱のなかで,一般有権者の立場がはっきりしない国も一部あった.
しかしアメリカには,そうした地域での急速な経済復興を助勢するための資源も意思も知恵もあったから,その先は,地域住民の持つ自然なダイナミズム,教育,技能に任せればよかった.
いったん経済が復興したあとは,西ヨーロッパや日本の有権者はソ連型モデルを選択しそうになかった.
北米,西ヨーロッパ,日本の資源を合わせれば莫大だった.その資源のおかげでアメリカは議論の余地なく,無条件に「西側」同盟の盟主となれた.
一方,ほかの同盟国もアメリカとの同盟関係から利益を得て,アメリカの政策に対して何がしかの発言力を持つことが出来ると信じていた.
北大西洋条約機構(NATO)とアメリカがヨーロッパの安全保障に関与したそもそもの出発点も,アメリカが帝国的な役割を担おうとしたしたのと同じくらい,ヨーロッパがそれを望んだことにある.
対照的にソ連は,経済面で提供できるものははるかに少なく,逆に力で押さえつけようとする本能だけは――間違いなくその必要性もあったが――強く持っていた.
また,ソ連の主要な同盟国である中国には,中期的に見て,ソ連と同じくらい強大になる潜在能力はあったが,ロシアに対して積年の恨みも持ち合わせていた.
アメリカは帝国のように言われますが,台頭を望んだのは日本やヨーロッパ自身でもあったことは,面白い記述だと思います.
・経済の発展によって『旧ヨーロッパ帝国』が終わり,アメリカと対立する点が消えた
・ソ連の台頭により一致団結する必要もあった
・そしてアメリカには,ソ連と違い他国を繋ぎとめるだけの経済力とイデオロギーがあった
こういった要素が重なり,資本主義陣営の結束につながったようです.
アイケンベリー教授もほぼ同様の見解を示していますね.
ドミニク・リーベンも基本はリベラルなのかな?
もう一つ背景を挙げるのなら,ヨーロッパの弱体化があると思います.
二つの大戦で,もはや自国での安全保障が無理な状態になった西側欧州各国は,アメリカに安全保障体制を求め,それによって,アメリカを拘束しようとしてたんですよね.
日本も同様.
まぁ,日本の場合は「軍備に金かけないで,経済にのみ集中する」という政策を取ったわけですけど.
そう考えると,吉田茂はまことに慧眼だったといえるでしょう.
少なくとも,50年先までは見越せていたのだから.
それこそがNATOであり,日米同盟であったと.
【質問】
冷戦初期はどのように推移していったのか?
【回答】
1945-1947のゆるやかな開始時.
1947-1949の冷戦公然化.
そして,1959-1962の本格的な冷戦開始に分けられる.
当然といえば,当然の話かもしれないが,トルーマンもスターリンも冷戦は望んでいなかった.
長くなるので,第一段階から説明
●第一段階
トルーマンは,ルーズベルトの側近であったハリー・ホプキンズをモスクワに送って,調停の道を探ったほどである.
ヤルタ会談の後も,トルーマンはスターリンに対して「穏健な人物」との評価をしていた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
彼はスターリンを,カンサス・シティーでの昔の友人にしてボスであったペンダーガスト(Pendergast)にたとえていた.
1946年にジョージ・ケナンは駐ソ大使として,モスクワから電文を送って,政府に,スターリンの危険性と真の意図について警告し,ウィンストン・チャーチルも,有名な「鉄のカーテン」演説を行ったし,トルーマンの側近,クラーク・クリフォードに,スターリンの意図と計画についての報告を行わせ,ケナンの主張(ソ連の拡張主義)が正しいとの結論を得た.
しかし,クリフォードの報告書を受け取っても(1946年12月),この報告書が広く知られるのを避けた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
しかし,1942年12月にトルーマンがこの報告書を受け取った時,自分は依然としてローズヴェルトの偉大な構想に従おうとしており,新たな戦略を編み出してはいないので,この報告書の内容が広く知られるのを避けたい,とクリフォードに伝えたのである.
以下の6つの事柄で,アメリカの戦略をすこしずつ変化させていった.
1.ソ連が,ポーランドでの自由選挙を行わなかったこと.
アメリカは,ヤルタ会談において,ポーランドで自由選挙を行うとスターリンと約束したと思っていたが,スターリンがこれに同意していたのかが不明.
テヘランでスターリンと会談したとき,たしかにポーランド問題を持ち出したが,そもそもヤルタ会談の内容は曖昧で,ソ連がポーランドのドイツ軍を駆逐したあと,ワルシャワに傀儡政権を立てたが,これは会談内容を最大限拡大解釈すれば,それは正統であるとソ連は思った,
アメリカは騙されたと思ったが,ポーランドを解放したのはソ連だという事実による,アメリカの合意が得られるとスターリンは思っていた.
2.武器貸与計画突然の中止と,1946年2月にアメリカがソ連の貸付要請を拒否したこと.
1945年5月のレンドリース中止により,米ソ間の経済関係は緊張し,1946年2月の貸付要請拒否により,ソ連は,これがアメリカによる経済的な圧力だと感じた.
3.ドイツにおける問題
ヤルタ会談で,ドイツに対して200億ドルの賠償金を要求し,ソ連がその半分を手にすることで米ソは合意していたが,支払い時期・方法については未定で,戦争後に交渉することになっていた.
ソ連は100億ドルを要求し,それを,米・英・仏が占領している西側から取り立てることを求めた,
トルーマンはドイツの再興に考慮し,もし西側から100億ドルを取り立てるなら,ソ連が占領する東側からも取り立てるべきだという主張を行った.
これにより,米ソ間に亀裂が生じ始めた.
4.東アジア(というか日本)の問題
ソ連は,終戦の1週間前に,日本に宣戦布告し,満州・日本の北方領土を占領し,ポツダム宣言において,ソ連が日本の一部を占領することを求めた,
トルーマンは,ソ連の参戦が遅かったことを理由に,占領に反対した.
この一件も,ソ連が拡張主義的であると,アメリカに思わせる要因となった.
5.核兵器について
ルーズベルトは,既に,核兵器をソ連と共有しないことを決めていた.
ほとんどの歴史家は,一部の修正主義者が主張するように,アメリカは対ソ連に対する威嚇として,原子爆弾を使ったのではなく,あくまで日本との戦争を早期に終結させるためではなかったと主張するが,トルーマンは,原子爆弾にある種の政治的な効果があると期待していた.
ポツダム会談で,トルーマンが原子爆弾の開発成功について言及したとき,スターリンは平静を装った,
スターリンはスパイから情報を得ていた.
スターリンの平静はアメリカにとっては少し驚きであったようだ.
1946年にアメリカが国連による核兵器管理を求める「バルーク案」を提出するが,ソ連は核兵器の開発を行うためにこれを拒否した.
以下,ナイ教授の文章を引用.
国際管理下での核兵器は,アメリカしか製造方法を知らないが故に,依然としてアメリカの核兵器に過ぎなかった.
自分自身の核兵器を開発した方が,ソ連の安全保障にとってははるかに有益であった(ソ連は最終的に1946年に核実験に成功する)
6.地中海南部と中東における問題
1946年3月にソ連はイラン北部からの撤兵を拒否した.
アメリカは国連でイランを支持し,圧力によってソ連はイランから撤退したが,事態を巡って苦渋を味わった.
次に,トルコに対して圧力を掛け,ギリシャでは共産党が内戦で勝利を収めようとしていた,
これにより,西側は,ソ連が再び拡張を始め要としているとみなした.
この6つについて,いくつかの誤解があったにせよ,それぞれが深刻な影響を与えた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
これらの問題は交渉や宥和によって解決可能であったろうか? 宥和は機能したであろうか?
おそらく,そうはいかなかったであろう.
スターリンは脆弱な地域で攻勢に出ようとしている,とケナンは論じた.
宥和は弱みとみなされ,更なる攻勢を招いたであろう,
1946年6月に,ソ連の前外務大臣マキシム・リトビノフ(Maxim Litvinov)はアメリカの交渉相手に大して,如何なる妥協にも応じない姿勢を示した.というのも,対立の根底にあるのは『共産主義陣営と資本主義陣営の対立は不可避という,いまや支配的なイデオロギー概念』であったからである.
(中略)
宥和は恐らく機能しなかったであろう.
だが,より強硬な交渉姿勢で臨めば,冷戦の開始に繋がった事件のいくつかを緩和できたかもしらない.
アメリカがより確固たる立場からスターリンの実利主義に戦術的に働きかけ,更に交渉の意欲を示せば,1945-1947年の[冷戦]初期段階では,よりうまく機能したかもしれないのである.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
●冷戦の第二段階
冷戦の第二段階は,冷戦が顕在化し始めた時期で,ギリシャ・トルコから深刻化しだした.(1947-1949年)
イギリスが第二次世界大戦で完全に弱体化していたので,地中海での安全保障は不可能であり,アメリカとしては,これを放置するか,ギリシャ・トルコへの援助を行い,イギリスの代わりの役割を果たすすかを決断しなければならない立場にあった.
もし,アメリカがトルコ・ギリシャを支援するのなら,それは,孤立主義(モンロー政策)からの決別であり,トルーマンは,世論がこれを支持するのか確信がもてなかった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
孤立主義が戦後アメリカの外交政策の主流であろうという危惧が,依然としてあったのである.
トルーマンは,ミシガン選出の共和党の有力者アーサー・ヴァンデンバーグ(Arthur Vandenberg)上院議員に,上院はギリシャ,トルコへの援助を支持するか否かを問うた.
ヴァンデンバーグの答えは,伝統的なアメリカの外交政策からのこうした決別に議会の支持を得るには,トルーマンが『彼らを心底怯えさせ』なければならない,というものだった.
そこでトルーマンは,この政策変更を説明するに際して,ギリシャ,トルコへの援助を提供することで地中海東部でのバランス・オブ・パワーを維持する必要性については語らなかった.
その代わりに,彼は世界中のいたるところで,自由を謳歌する人々を守る必要性について語ったのである.
アメリカの[ギリシャ,トルコへの]援助についての,この道義的・イデオロギー的説明は,トルーマン・ドクトリンとして知られる.
アメリカの外交官,ジョージ・ケナンは,当時国務省にいたが「これでは,アメリカがあまりも困難に巻き込まれてしまう」として,トルーマンのイデオロギー的な外交政策には反対していた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
実際,トルーマン・ドクトリンから導き出された封じ込め政策は,極めて曖昧なものであった.
アメリカはソ連のパワー[力]を封じ込めることに関心があるのか,それとも共産主義イデオロギーを封じ込めようとしているのか?
当初,両者は同じに見えたが,冷戦が発展し共産主義運動に亀裂が入ると,この曖昧さは深刻なものとなった.
トルーマンの政策が誤りであったかどうかはともかく,これにより,冷戦の本質は少なくない影響を受けた.
次に,有名なヨーロッパ復興計画「マーシャル・プラン」だが,当初の計画では,もし望むのであれば,ソ連と東ヨーロッパもこの計画の範囲に入れるよう,呼びかけていた.
だが,スターリンは,マーシャル・プランを,アメリカの寛大さではなく,東ヨーロッパでの安全保障に対する挑戦であると受け止め,東ヨーロッパ諸国に参加しないよう,圧力を掛けた.
チェコスロバキアがマーシャル・プランへの参加を示唆すると,東ヨーロッパでの統制を強め,1948年には,チェコスロバキアの全権を掌握した.
このチェコへの動きにより,トルーマンは,スターリンが第二のヒトラーになることを危惧し,西ドイツでの通貨改革の計画を推し進めた,
スターリンはこれに対し,ベルリン封鎖でこれに応え,さらにアメリカはこれに空輸で対抗し,NATO(北大西洋条約機構)の構想を計画しだした.
このようにして,敵意がお互いの行為をエスカレートさせていったのである.
1949年には,ソ連が核兵器の開発に成功し,さらに中国共産党が,台湾以外で中国での全権を掌握するに至った.
以下,ナイ教授の文章を引用.
ワシントンでの警戒感は国家安全保障会議文書(NSC-68)という政府の秘密文書に示されている.
この文書は,ソ連が4-5年のうちに世界支配計画の一環として攻勢に出ると予測して,アメリカの軍事支出の大幅な増大を求めていた.
しかし,1950年6月に北朝鮮が韓国に侵攻するまで,財政上の理由から,トルーマンはNSC-68の勧告受け入れに躊躇していた.
しかし,朝鮮戦争の開始により,トルーマンは,この勧告を受け入れることになる,
それは冷戦の本格化(第三段階)の始まりを意味することになる.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
●第三段階
冷戦の第三段階は,朝鮮戦争に始まる.
朝鮮戦争は,まさに「火に油を注ぐ]と言った行為で,これにより,トルーマンが躊躇していた,軍事費の急増を招いた.
北朝鮮の韓国侵攻に対して,トルーマンは,ヒトラーのラインラント進駐に思い至り,侵略を阻止すべしという立場をとった.
アメリカは,国連安保理を召集し(ソ連はボイコット),朝鮮半島を分断する38度線まで共産主義を追い戻すべく,韓国へ出兵した.
開戦当初は,北朝鮮が韓国を圧倒し,朝鮮半島のほとんどを席巻したが,9月には,半島の中心部である仁川にアメリカ軍が強襲上陸して,北朝鮮を敗走させた.
ここでアメリカがこれ以上の行動にでなければ,勝利を手中にしていたであろうが(侵略前の現状を復帰できたため),トルーマンは世論に負けて,38度線を越えて北進を行った.
中国の国境近くの鴨緑江まで侵攻したところで,中国解放軍がこれに介入し,国連軍を半島半ばまで押し戻した.
1953年に休戦協定が結ばれるまで,双方手詰まりの状態で,3年間泥沼の戦いが続いた.
これにより,アメリカは中国とも敵対することになった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
アメリカは中国と対立し,共産主義は一枚岩に映った.
国内では,戦争の不満が国論を分裂させ,マッカーシズムの台頭(ウィスコンシン選出のジョゼフ・マッカーシー(Joseph McCarthy)上院議員が,国内での[共産主義者による]転覆活動を手厳しく,しかし,根拠薄弱なま非難したことから,こう呼ばれる)を招いた.
冷戦の各陣営は引き締められ,陣営間のコミュニケーションはほぼ途絶したのである.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.



【質問】
ソ連の一地域だった時代のバルト三国や中央アジア諸国などにも,抵抗組織は存在したのでしょうか?
【回答】
第二次大戦後の一時期,バルト三国,特にEstoniaでは,ドイツ軍が遺棄した兵器を隠匿し,ドイツ軍から戦術を教育されたゲリラ部隊が,ソ連軍相手に活動していました.
Estoniaに於ける抵抗は,1950年代まで続きます.
(ちなみに,Ukraineでもこの傾向は同じ)
その後,これらの独立運動は徹底的に弾圧されており,テロという手段での独立を目指した組織というのは存在していません.
Lithuaniaの再独立の際も,ソ連がその独立を阻止しようとした時に過激な手段は取らず,欧州の仲介で独立に漕ぎ着けています.
中央アジアの場合は別で,元々が部族社会であり,国境外にも親戚がいます.
また,一つの国に複数の民族が居ると言うのも珍しくありません.
ソ連がAfghanistanに侵攻していた時期には,その鋭鋒を鈍らせるべく,CIA,Pakistan,Iran,中国などの各国がその反政府組織を育成しています.
従って,中央アジアの場合,可成りの武装勢力が存在していました.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
なんで共産主義陣営の中で色々とモメだしたの?
【回答】
(・ω・)<なんで共産主義の中で色々とモメだしたの?
(ーー)<前にも書きましたが,もともと共産主義というイデオロギーは,そこの住民のナショナリズムや文化・人種・国家のイデオロギーを消し去ることはできませんでしたので…
そして「直近で米ソの全面戦争は無さそうだ」…となると,そーいったものが噴出したんだそうです.
(・ω・)<単純な「自由主義VSアカ」じゃないんですね?
(ーー)<そう思い込んだ人は,後で地獄を見ることになります.
以下,「世界史」ウィリアム・H・マクニール著 p607より.
もうひとつ,軍拡競争が生み出した予期せざる副産物は,アメリカとソ連の全面戦争がもたらすはずの人類滅亡の予想が,人々の心によびおこした底知れぬ恐怖である.
しかし,ふたつの超大国がたがいに最終的な対立をあえて避ける姿勢を示してからは,両陣営の同盟諸国は,自国にも核兵器が使われないだろうという結論をひきだした.
こうして一九六六年,フランスは,アメリカの率いるNATO(北大西洋条約機構,一九四九年設立)から脱退した.
中国もまた,ソ連に対して,真の革命的マルクス主義を裏切ったと非難した.
これに対してソ連は,一九六一年,中国国内で新しい工場建設を援助していたソ連の技術者たちを引き揚げた.
まもなく中ソの対立は,共産主義社会全体に波及した.ヨーロッパの共産主義政権のうちのいくつかは,ソ連の支配から逃れるための手段として,中国に傾斜した.
なかには,西側自由主義に関心を示す国々もあった.
ソ連が,他の共産主義政権を統御できないでいることが,これで明らかになった.
おもてむきは,「真の」マルクス・レーニン路線をめぐってのイデオロギーの対立,ということになっていたが,その裏では,長年にわたる国家的,文化的,人種的反感が,共産主義世界内部でおびただしく噴出していたのである.
アフリカとアジア,そして中東では,アメリカ合衆国とソ連の競合は,資本主義対共産主義,自由主義対マルクス主義,といった単純な図式では割り切れない,べつの根強い対立とぶつかりあっていた.
第二次大戦以後,一連の昔ながらの文化の多様性が,ナショナリズム的かつ革命的(しばしばマルクス主義的)な新しい表現で飾られ,たいていの場合人種的,宗教的感情あるいはその両方が加わってさらに激しさを増しながら,これらの地域の政治に,独特でしばしば激越な色調を与えていた.
ソ連は,一九六一年以降,中国との対立においてこの現実にぶつかった.
アメリカ合衆国は,一九六四―一九七九年にヴェトナムにおいて,それよりはるかに苦しい現実と対決した.
(ーー)<アメリカは当初,ヴェトナムを朝鮮戦争の再現であると考えました.
でも朝鮮のナショナリズムはロシアの傀儡の北朝鮮を否定したのに対し,ヴェトナムのナショナリズムは南ヴェトナムを,長年の宿敵である白人の傀儡と見なしたのです.
【質問】
冷戦期,ソ連の経済はなぜ停滞したのか?
【回答】
「計画経済」自体が,技術革新や金融制度の変化についていけなかったため.
スターリンは,重工業中心の集権的な経済制度を作っていたんだけど,これは完全にトップダウン式のものなので,柔軟性が全くなかった.
だから,先進諸国の産業が重工業からサービスに移行したとき,ソ連はそれについていけなくなったんだね.
正確には,労働力なんかのリソースをそっちにつぎ込めなかった.
以下ナイ教授の文章を引用.
経済学者のジョゼフ・シュンペーター(Joseph Schumpeter)が指摘するように,資本主義は大きな技術革新に柔軟に対応しながら,創造的な破壊を繰り返すものである.
20世紀の終りに第三の産業革命というべき技術革新が起こり,経済の最も貴重な資源として情報の果たす役割が増大した.
ソ連の体制は,情報の取り扱いに特に問題があった.
政治制度における根深い秘密主義が,情報の流れを妨げたのである.
ソ連の製品とサービスは,世界水準に追いつくことができなかった.
20世紀の終りに世界経済の大混乱があったが,西側の市場敬愛では労働をサービスに切り替え,重工業を再構成し,コンピュータ中心に切り替えることが出来た.
ソ連は,これらの変化に追いつくことができなかったのである.
(中略)
1985年にゴルバチョフが権力の座に就いた時,アメリカには3000万台のパーソナルコンピューターがあったが,ソ連には5万台しかなかった.
4年後,アメリカでは4000万台あったのに対し,ソ連は40万台であった.
市場経済と民主主義のほうが,1930年代の重工業時代にスターリンによって確立された集権的なソ連の制度よりも,変化に柔軟に対応できることが証明されたのである.
なお,1980年代後半の時点で,ソ連の産業は,わずか8%しか,世界規模での競争に耐えられなかった.
こんなんで「超大国」は流石にムリポだろう.
まぁ,これも1980年代における,経済交流・貿易拡大という「封じ込め」政策の成果とは言えるかもしれない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
その後の冷戦の推移は?
【回答】
外交の硬直化による緊張と,その反動でデタント(緊張緩和)が交互に繰り返されたようだ.
1952年,ドワイト・アイゼンハワーは,朝鮮戦争の終結・共産主義勢力への巻き返しを公約として大統領に当選した,
その当時の共和党の主張について,ナイ教授は次のように述べている.
封じ込めは共産主義に臆病にも協調している,と共和党は論じた.
共産主義に巻き返しを図ることこそ,正しいアプローチであった.
ただ,核兵器という要素が,それを激変させたようだ.
以下,ナイ教授の文章を引用.
共産主義への巻き返しは,核戦争を引き起こす可能性があって,あまりにも危険であることが,明らかになった.
ソ連では,スターリンが1953年に死去し,米ソの緊張は徐々に氷解しつつあった,1955年でのジュネーブ会議で首脳会談を行い,中立国としてオーストリアの独立合意がなされた.
1956年の第20回共産党大会でフルシチョフがスターリンについての弾劾を行い,東欧では混乱が起こり,ハンガリーがソ連への反抗を試みたが,ソ連はこれに軍事介入し,強制的に共産主義陣営に繋ぎとめる,といった事も行われた.
また,フルシチョフは
「アメリカをベルリンから追い出し,第二次世界大戦の最終決着をつける」
ことによって,東欧でのソ連の支配を強化し(ハンガリーの件が響いたのかもしれない),第三世界での「脱植民地化」において優位に立とうとしていた.
ただ,彼の取った政策は,まるでドイツのヴィルヘルム二世のようであり,逆にアメリカを緊張させる結果を招いたようだ.
ナイ教授は以下のように評している.
フルシチョフの対米交渉スタイルと努力は,1914年以前にイギリスに交渉を強いようとしたカイザーのスタイルと似ており,空威張りと欺瞞に満ちていた.
アメリカに同意させようとする努力は裏目に出た.
フルシチョフは1958-1961のベルリン危機でもキューバ・ミサイル危機でも失敗した.
キューバ危機の恐怖から,1968年-1978年には,ゆるやかにデタント(緊張緩和)が生じ,PPBT(部分的核実験禁止条約)や,NPT(核不拡散条約)が結ばれることになった.
貿易額は徐々に上昇し,デタントは拡大しているように見えていた,
ベトナム戦争で,アメリカの関心を中国の共産主義の脅威から目をそらせる効果もあった.
事実,1969-1974年において,ニクソンは「デタント」を封じ込め政策の目標追求の手段として用いていた.
ただ,その後,ソ連は大規模な軍拡に走り,核兵器戦力によって,アメリカと対等の地位を手に入れることに成功した.
これに対して,アメリカの世論がベトナム戦争によって,冷戦型の介入に幻滅していたので,ニクソンは以下の戦略を取った.
1.核兵器に上限を持たせるべく,戦略的軍事管理条約の推進.
2.中国との外交関係樹立によって,中ソの団結を阻害
3.ソ連との貿易拡大により「アメと鞭」の力を手にすること.
4.色々な政策を連携させて行う[リンケージ]を用いること.
これら4つは「デタント」政策であったが,中東戦争・アフリカの反西洋運動でソ連が行った支援政策などによって,アメリカの反発を招き,終息することになった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
ソ連でのユダヤ人の処遇と言った人権問題を,対ソ貿易にリンクさせようとしたように,アメリカの内政がデタントの衰退を加速化させた.
1975年にポルトガルが植民地であったアンゴラとモザンビークを放棄すると,ソ連はキューバ兵を送り込んで,共産主義志向の政権の維持を援助した.
1976年の大統領選挙までに,フォード(Gerald Ford)大統領はデタントという言葉を決して使わなくなった.
彼の後任者ジミー・カーター(Jimmy Carter)は政権の最初の二年間はソ連とのデタントを継続しようと努めた.
しかし,ソ連(とキューバ)がエチオピアの内戦に介入し,ソ連が軍拡を続け,そして1979年12月にソ連がアフガニスタンに侵攻したことで,デタントは死を迎えた.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
キューバ危機の後の米ソは,全面核戦争を避けるためにどのような政策を取ったのか?
【回答】
相互にコミュニケーションをとったり,核実験を制限する条約を結ぶなど,お互いに歩み寄り,ある程度の緊張緩和を作り出した.
コミュニケーション手段として,ワシントンとモスクワの直通電話を可能にする「ホットライン」が出来たし,大気圏での核実験を制限する条約が結ばれた.
また,ケネディはソ連との貿易を拡大する用意があることをソ連に伝え,それによってデタントが進んだと言える.
ただ,1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると,核戦争の恐怖が再び高まった
ナイ教授曰く,
1980年から1985年の「小さな冷戦」の間に,戦略兵器制限に関する対話が滞り,レトリックが激しくなり,軍事予算と核兵器の数が増大した.レーガン大統領は核戦争に言及し,平和団体は核兵器の凍結と最終的な廃棄を訴えた.
この不安が高まる中で,一つの疑問が出たきた
「核抑止は道義的なのか?」
という問題である.
戦争の正当性を満たすには,特定の条件を満たさなければならない,自衛行為は正当だとみなされるが,その手段と結果も重要な要因である.
手段については,戦闘員と非戦闘員の区別が必要だし,結果についても,目的と手段の釣り合いがある程度取れていなければならない.
核戦争は,果たして「戦争の正当性」を主張できるのか?
それについて,ナイ教授は以下のように述べている.
核戦争は正戦論のモデルに適うのであろうか?
技術面では適う可能性がある.砲弾や爆雷のような低エネルギーの核兵器は,レーダー・システムや潜水艦,海上の艦船,あるいは地中深くの掩蔽壕に対して使用できるかもしれない.
この場合,戦闘員と非戦闘員の区別が可能で,影響は比較的限定されるからである.
そこで戦闘が止むなら,正戦論を核戦争に適用することができるであろう.
しかし,戦闘はそこで止むであろうか? あるいは拡大するであろうか?
拡大は最も深刻な危険を伴う.というのも,何億もの生命や地球の運命と引き換えにできるものなど存在しないからである.
冷戦期には,「死よりも赤[共産主義]のほうがましだ」と応えるものがいた.
しかし,これでは問題の設定に難点がある.そこで大災害につながるような小さな冒険を冒すことは正当化できるのか,という問題を考えてみよう.
キューバ・ミサイル危機では,ケネディ大統領は通常戦力による戦争の可能性を3割程度に見積もっていた,と考えられている.
核戦争に拡大する可能性もわずかながらあった.
彼がこのような危険を冒すことは正当化できたであろうか反実仮想にうよる推察をしてみよう.
もしケネディがキューバで核戦争の危険を冒そうとしていなければ,フルシチョフはより危険なことをしようとしたであろうか?
ソ連の成功がその後の核危機につながったり,ベルリンやパナマ運河などを巡って大規模な戦争につながったりしていたらどうなったであろうか?
おそらく,核兵器は冷戦が熱戦へと変わるのを防ぐ上で重要な役割を果たした.
今回をまとめると
1. 米ソともに,核戦争を避けるべく方策を練り,お互いに条約を結ぶことで緊張緩和したり,逆に軍事侵攻が元で,再び緊張状態になったりした.
2. 核兵器は「特定の戦場」で使用するのであれば,まだ正当性は主張できる可能性はあるものの,その後に全面的な核戦争を生み出す可能性があるので,道義的な意味でも,能力的な意味でも「使えない兵器」である.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
キューバ危機(1962年10月に発覚)が世界に与えた意味とは?
【回答】
「核兵器の意味」が決定付けられた.
「核兵器」の重要性は,その「保有数」ではなく「保有すること」にあることが,最も認識されたと言ってもいい.
事実,当時,アメリカは,ソ連よりも核兵器数では大幅に上回っていた.
それは,ソ連がアメリカを狙えるICBMが当時20発しかなかったということを,ケネディが知らなかったのもあるが,それでは,比較的脆弱であったソ連のミサイル基地を先制攻撃しなかったか?,という理由の説明にはならない.
決定的な理由は,もし一発でもミサイルが生き残れば,アメリカの都市へ攻撃されるかもしれないと言う恐怖であり,それがアメリカに先制攻撃を思いとどまらせたのである.
ケネディ・フルシチョフともに,自らの合理的な(と信じた)戦略と計算が,自らの手を離れるのを懸念した.
フルシチョフは,後にケネディに宛てた書簡でこう述べている.
「われわれは,戦争と言う結び目のあるロープの両側を引く時には注意しなければならない.」
ナイ教授は,これから25年後にフロリダで開かれた会議で,ケネディ大統領の国家安全保障会議・執行委員との会談した.
以下,ナイ教授の証言.
当事者の間で,最も目を引く相違は,各自が危険を冒す用意の違いであった.
これはつまり,各自が核戦争の可能性をどのようにとらえていたかにかかわっている.
ケネディ政権の国防長官だったロバート・マクナマラ(Robert McNamara)は,危機が展開するにつれて用心深くなっていた.
彼は,キューバ・ミサイル危機での核戦争の確率は2%だと考えていた.
財務長官だったダグラス・ディロン(Douglas Delillon)は,核戦争の危険性はほぼないと考えていた.
彼は状況が核戦争に拡大するとは考えていなかったため,マクナマラよりも強硬に当たり,危険を冒す用意があった.
統合参謀本部議長のマックスウェル・テイラー(Maxwell Taylor)将軍もまた,核戦争の危険は低いと考えており,アメリカがキューバ・ミサイル危機でソ連をあまりにも簡単に放免したことを嘆いた.
彼はアメリカはもっと強硬に対応すべきであり,キューバのフィデル・カストロ議長(Fidel Castro)議長の追放を求めるべきだと考えていた.
テイラー将軍は,『私は彼らを窮地に陥れることが出来ると確信しており,最終結果について憂慮したことはなかった』と語った.
しかし,不測の事態という可能性がケネディ大統領にのしかかり,彼は非常に慎重な立場を取った.
実際,彼は側近の一部が望んだよりも慎重であった.
この逸話の教訓は,わずかな核抑止でも十分だということである.
キューバ・ミサイル危機で核抑止が重要であったのは明らかである.
だが,全てを「核抑止」で片付けるには,曖昧さが残る.
一般的には,アメリカがキューバ危機で勝利したと言うコンセンサス(合意)があったことが挙げられるが,「どの程度」「なぜ」勝利したのかについては,説明が必要だろう.
これは,以下の三つにまとめられる.
1. アメリカが核保有数で優勢だったこと.
これによって,ソ連が降参したという見方.
2. 米ソの相対的な利害関係がマッチしたこと.
アメリカにとって,キューバは,言わば裏庭のようなものだが,ソ連にとってははるか離れた場所での賭け事だった.
ゆえに,アメリカにとってキューバはソ連にとってのキューバよりもより大きな利害関係があった.
それが次の第三の要素の実行に踏み切らせた.
3.通常戦力の投入
アメリカはキューバへの海上封鎖を行ったし,通常戦力による侵攻の可能性も示唆した.
アメリカにとって,キューバは重要な場所であるがゆえに,通常戦力を投入する余地が大きく,心理的な重圧をソ連に掛けることができた.
また,最終的には,アメリカが妥協したことも大きかった.
アメリカはキューバ危機に際して
1.空爆
2.締め出し(ミサイルを撤去するために,海上封鎖を行う)
3.取引(トルコよりミサイルを撤去する)
の3つの選択肢があったが,アメリカは3.を選択した.
これについて,ナイ教授は次のような見解を示している.
トルコから老朽化したミサイルを撤去するというアメリカの暗黙の約束が,当時考えられていたよりも恐らく重要であった.
キューバ危機において核抑止が重要であり,核と言う要因がケネディの思考には明らかに影響していた.と結論付けることができる,
他方,核兵器の保有数は,わずか数発の核兵器でも大惨事を招くと言う恐怖心ほど重要ではなかったのである.
今回のまとめとしては
1.核兵器の持つ意味が決定付けられた.
2.トルコのミサイル撤去の例に見られるとおり,宥和政策は政策の一つであり,害悪ではない.
また,2.は,ソフトパワーの活用法の一つと言えるかも知れない.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
キューバ危機において,何故ソ連海軍は米海軍に対抗できなかったのか?
【回答】
原潜は故障続きで間に合わず,在来型潜水艦は騒音が大きくてSOSUSシステムに捕捉されてしまったため.
以下引用.
1962年のキューバ危機では,ソ連のSSNは故障続きで間に合わなかった.
そこで,在来型のフォックストロット Foxtrot 型潜水艦4隻に核魚雷を搭載して,キューバに向かうミサイル搬送船の護衛をさせたのである.
当時フルシチョフは,弾道ミサイル・中距離爆撃機・機甲歩兵師団を秘密裏にキューバに配置するという大胆な作戦を開始していた.
その一環としてソ連海軍は,通常動力の弾道ミサイル潜水艦ゴルフ Golf 型7隻をハバナ西にあるマリエル港に配備し,恒久作戦基地にする事を企図した.
フルシチョフはまた,従来の巡洋艦を破棄してミサイル原子力潜水艦部隊へと転換するよう,新しく就任した海軍総司令官ゴルシコフに強く求めていた.
しかし,いざキューバ危機になってみると,キューバに向かう船団を護衛しうる足の長い護衛艦がいなかったのである.
当時のソ連海軍はいまだ沿岸海軍の域を出ていないことが分かる.
さらに米海軍は,SOSUSシステム(広域海底固定音響探知システム)は端緒についたばかりであったが,有名なGIUKギャップ(スコットランド,アイスランド,グリーンランドの間の狭隘水域)を通過する,騒音が大きいフォックストロット型の行動を捕捉することができた.
その情報によって対潜哨戒機P2Vが追跡を始め,ソ連潜水艦がキューバから500浬の封鎖線に入る前にASWハンター・グループのS2F対潜機に捕捉され,対潜駆逐艦の連続捕捉を受けてやむなく浮上し,追い返される羽目になった.
この経緯はピーター・ハクソーゼンの「対潜海域」(原書房)に詳しい.
「キューバ危機」の研究で有名なG.アリソンの「決定の本質」には,米政府内の官僚政治モデルの意思決定を構築しているが,ソ連崩壊に伴う新しい資料によって,シー・パワーの格差という「決定の本質」があった事を示している.
キューバ危機の結末は,海軍力の優れたほうが外交に勝つという,昔からの教訓を示したものだった.
フルシチョフは米ソの海軍力の差をまざまざと見せつけられ,明かな敗北を取るか,撤退と外交上の失敗をとるかの選択を迫られ,結局,キューバ危機のミサイル基地撤去に同意せざるをえなくなった.
この後,ソ連海軍は休息に,原潜を中心とする海軍力を増強していく.
1967年には涙滴型SSNのヴィクター VictorT型,射程1,600浬のSS-N-6ミサイルを搭載するSSBNヤンキー Yankee 型などを登場させた.
これらSSBNの出現は,米海軍のASWに深刻な影響をもたらし,戦時にはソ連潜水艦基地を直接核攻撃するしかないと考えられていた.
(橋本金平〔元一等海佐〕 from 「世界の艦船」2004年10月号,p.70-71)

【質問】
なぜデタント(緊張緩和)政策は継続しなかったのか?
【回答】
デタントの効果が過剰に吹聴されたことと,ソ連の軍拡,ソ連の第三世界への介入などが原因.
以下,ナイ教授の文章を引用.
1970年代の3つの潮流がデタントを蝕んだ.
1つはソ連の軍拡である.ソ連が毎年4%国防予算を増額し,とりわけ,投射量の大きい新型ミサイルを追加配備したことが,アメリカの軍当局者を脅かした.
第二は,アンゴラ,エチオピア,アフガニスタンへのソ連の介入である.
ソ連は自身が歴史における「力の相関関係」の変化と呼ぶものによって,これが正当化されると考えた.
歴史はマルクス=レーニン主義が予見した方向に動いているというわけである.
第三はアメリカの国内政治の変化であり,民主党支持勢力を引き裂く右傾化である.
ソ連の行動とアメリカの政治潮流の相互作用の結果,冷戦は続いており,デタントは持続しないという見方が固まった.
ただ,1980年代における,対立再燃では,1950代とは,少し様子が違ったようだ.
ナイ教授は以下のようにその違いを述べる.
ロナルド・レーガン大統領はソ連を「悪の帝国」と呼んだが,彼ですら軍備管理を追及した.
貿易,特に穀物貿易の増大があり,米ソ間では恒常的な接触がはかられていた.
2つの超大国は,相手に対する行動で,ある種の慎重なルールさえ発展させていたのである.
直接戦争を避け,核兵器の使用を避け,軍備と核兵器管理の議論を積み重ねるというものである.
1980年代の冷戦は,1950年代のそれとは異なっていたのである.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
補足だけど,このあたりの経緯は,同教授の「ソフトパワー」(日経新聞社,2004.9)にも詳しい記述があります.
「国際紛争」は難解な部類な本だと思うけど,「ソフトパワー」の方はスラスラ読めるので,かなりお奨めです.
【質問】
「封じ込め」って何?
【回答】
(・ω・)<「1.ジョージ・ケナンの「封じ込め」が成功した.」とありますが,「封じ込め」とは?
(ーー)<「封じ込め」っていうのは,方法がいくつかあるんでつが,要は,相手を「特定の場所とか物に縛り付ける」ということでつ.
(・ω・)<特定の場所,とはこの場合何を指すのですか?
(ーー)<「特定のもの」…イデオロギーとか思想.
「場所」…直接的に領地.
(ーー)<「これ以上,こっからでてくんな!」「こっからは俺様のもんだ!」ってことっす.
(・ω・)<要するに「アカどもは自分の領域で大人しくしとけ」
「言いたいことがあるならココ(資本主義陣営のテリトリー)じゃなく,自分の日記帳にでも書いとけ,な?」
って事ですか?
(ーー)<でつね.
【質問】
冷戦期,なぜ「集団安全保障」は機能しなかったのか?
【回答】
冷戦におけるイデオロギーの対立が,多国間同士のコンセンサスを阻害し,「侵略」の定義についての合意ができなかったという理由が大きい.
「侵略」と一言にいっても,「秘密の浸透工作」と「実際に軍隊を動かして国境を侵犯する」の対比をどう均衡させるべきか?
これについて,ナイ教授は,1956年のエジプトへのイスラエル侵攻を上げている.
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1956年にイスラエルはエジプトの非公然のゲリラ攻撃に悩まされていた.
しかし,国境を越えたのはイスラエル軍であった.
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また,冷戦期には「侵略」の定義については,東西いずれの陣営側から見るかで「侵略」の定義が異なるため,ほとんど合意がなされることはなかった.
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冷戦のどちら側につくかで,誰が最初の侵略者であるかについて,異なる見方が取られた.
冷戦時代,20年にわたって国連の委員長は侵略の定義を試みてきた.
しかし,ここで生み出された規則はあまり役に立つものではなかった.侵略行為が列挙された跡に,安保理が侵略にあたるその他の行為を決定できるという但書がついていたからである.
さらに,実際に武力が行使されても,安保理には侵略があったという宣言をしないという選択も残されていた.
国連に関して言えば,安保理が認定したときのみに侵略が行われたということになったのである.
すべては安保理のコンセンサス[合意]にかかっていた.
しかし,冷戦中にはコンセンサスがほとんどなかったのである.
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こうして,集団安全保障が行き詰ったために生まれた考えが,国連安保理による「予防外交」と「平和維持」という概念だった.
「侵略」行為を認定し,懲罰するのが,集団安全保障の基本的な考えだが,その代わり,国連が独自部隊を召集し,交戦国の間に割って入ろうという考えだ.
1956年のスエズ危機に際して,ダグ・ハマーショルドと,レスター・ビアソンが行った提案がモデルとなり,その後,何度も行われた.
冷戦により,集団安全保障のドクトリン(WW1の国際連盟の経験で修正されたもの)が実行不可能になったが,国際的部隊の投入で,交戦当事国同士を引き離そうとする試みが行われるようになったのである.
集団安全保障は,ある国が一線を越えた行為をすれば,他のすべての国が団結して,この行為を抑止することになっている.
これに対して,「予防外交」と「平和維持」は,ある国が一線を越えたら,国連が介入し,どちらが正しく,どちらが間違っているかを決めずに,当事者をとりあえず引き離そうと言うのである.
冷戦の最中には,国連維持活動の基本原則として,小国の軍隊をこれに当てて,米ソの軍隊は,原則として当てないこという形が定着した.
大国同士を直接的に紛争に関与させないためだ.
「予防外交」と「平和維持」は重要な革新であり,現在も意義深い役割を担っている.
だが,これは「集団安全保障」とは違う.
あくまで「平和を維持するため」の活動であり,「戦争を予防するための外交」である.
以上を纏めると,
・冷戦期には,集団安全保障はほとんど機能しなかった.
・冷戦期は,東西の対立から「侵略」の定義についても,決定的なコンセンサスを得られなかった.
・「平和維持活動」と「予防外交」という国連の活動概念が生まれたが,これは「集団安全保障」とは異なる.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授『国際紛争』(有斐閣,2005.4),第6章を参照されたし.
【質問】
冷戦期における,核兵器の意味は?
【回答】
いくつかの要素がある上,時代とともに変化しているので,纏めるのはかなり煩雑だが,以下に説明.
1.米ソの膠着状態を生み出す原因
イデオロギー的な米ソの対立が,核兵器による「お互いの脅迫」によって,膠着状態を生み出した.
以下,ナイ教授の文章を引用.
ソ連は,国連がアメリカに依存しすぎているとして信頼していなかった.
アメリカはヨーロッパを人質に取られていると思っていたので,ソ連は協力を強制することができなかった.
アメリカが核攻撃の脅しを掛けても,ソ連は通常戦力でヨーロッパに侵攻することができたのである.
その結果,膠着状態に陥った.核兵器の革命的な物理的破壊力も,当初は無政府状態での国家の行動様式を変化させるには十分ではなかった.
2.水爆の登場と,運搬プラットフォームの進化(ICBMの登場)によるMAD(相互破壊確証)の確立.
1952年に水素爆弾が誕生すると,単一の爆弾が持つ威力が飛躍的に向上し,その破壊力は飛躍的に向上した.
ソ連が1961年に爆発させた60メガトンの水爆は,WW2で使用された全火薬量の20倍もあり,単一の兵器が圧倒的な破壊力を持ちうることを証明した.
また,水爆の開発により,核兵器の小型化が可能になり,運搬する手段を飛躍的に進化させた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
初期の原爆を搭載するためのシステムは,爆弾が巨大化し,より多くのスペースが必要になるのに合わせて巨大化していた.
B-36爆撃機はエンジンを8発搭載した大型航空機で,巨大な格納庫に爆弾を一つ搭載できた.
そのような破壊力が弾道ミサイルの弾頭に搭載されるようになると,B-36であれば8時間かかるところを,わずか30分で大陸間核戦争が勃発することになった.
また,これにより「戦争の意味」を劇的に変化させた.
三たび,ナイ教授の文章を引用したい.
戦争はもはや,単に他の手段による政治の延長ではなくなった.
19世紀の戦争哲学者,カール・フォン・クラウゼヴィッツ(Karl Von Clausewits)は,戦争は政治的行動であり,全面戦争は不合理であると述べた,
核兵器の持つ巨大な破壊力は,軍事的な手段と国家が追求する事実上全ての政治的目的の間に不均衡をもたらした.
この目的と手段の乖離は,ほとんどの状況で究極の兵器の使用に麻痺状態を生み出した.
1945年以来,核兵器は使用されていないため,核兵器が役に立つとみなす考えには限界がある.
それはあまりにも強力で,あまりにも採算が取れないからである.
まとめとしては
1.核兵器によって,米ソの睨み合いが生まれた.
2.水爆の登場と,それを運ぶ手段が飛躍的に進化し,核戦争勃発のハードルが下がったため,逆にお互いの破滅の恐れから「核戦争は採算がとれない」という考えが確立した.
というところかな?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
核が作り出した「恐怖の均衡」の効果とは?
【回答】
軽率な軍事行動が取れなくなったことにより,核保有国同士での直接的な衝突がなくなった.(ただし,地域紛争・代理戦争は増えたが)
米ソは,イデオロギーの違いがあったにもかかわらず,その行動は慎重であり,これは19世紀型のバランス・オブ・パワーを想起させる.
両国は,核戦争を避けるために,コミュニケーションを取りあった.
しかし,それと同時に,かつて欧州が歩兵や大砲の数を競っていたように,米ソ両国も,核開発・保有数増加によって,相手より優位に立とうともしていた.
この核による「恐怖の均衡」は,2極構造であるという特徴をもつ.
ネオリアリストのケネス・ウォルツは,二極構造はコミュニケーションと推測が容易であり,特に安定していると述べたが,これは,その欠点を見逃している.
ナイ教授は以下のように指摘する.
二極構造は柔軟さを欠き,ヴェトナム戦争のような周辺戦争の重要性を高める.
これまで,一般的には2極構造は侵食されるか暴発するかのどちらかであると考えられてきた.ならば,なぜ第二次世界大戦後に二極構造は暴発しなかったのであろうか? 恐らく核兵器の生み出した慎重さが原因であり,ウォルツが完全な二極体制に見出した安定性は,字際は核兵器が生み出したのであろう.
まさにこの核の恐怖が未来を映し出す「水晶玉効果」となって,安定を生み出す一因になったのかもしれない,
1914年8月に,ドイツ,オーストリア=ハンガリーの皇帝たちが水晶玉を通して1918年を見ていたならば,彼らは自らが帝位を追われ,帝国が解体され,何百万人もの臣民が殺害される後継を目のあたりにしたことだろう.それでも彼らは1914年に戦争したであろうか? 恐らくしなかったであろう.
核兵器の物理的な影響に関する知識は,1945年以後の政治家に水晶玉を与える効果をもたらしたのであろう.
核兵器の生み出す破壊力を正当化するほどの政治的な理由はほとんどないため,彼らは大きな危険を冒そうとはしなかったのであろう.
もちろん,水晶玉は偶然や誤算によって砕けてしまうこともあるが,このような類推によって,二極構造と核兵器の組み合わせが近代国家制度の成立以来,最長の大国間の平和を生み出した原因を知ることができる.
(これまでの最長記録は,1871年から,1914年の間であった)
「冷戦」は二極化構造だからではなく,核兵器の存在による「恐怖の均衡」がその平和に(かりそめだとしても)大きく貢献したと言うところかな?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
冷戦期における核抑止の問題点は?
【回答】
核兵器の「何」が決定的な抑止力となったか説明が困難であること.
もちろん「利害計算」という合理的な説明は出来るが,それは従来のバランス・オブ・パワーの発展に過ぎない.
しかし,あえて以下にまとめてみる.
まず,核抑止の具体的な説明について,ナイ教授は以下の様に述べている.
核抑止は,「もし君が攻撃するなら,私はその攻撃を防ぐことが出来ないかもしれないが,君が先に攻撃を仕掛けようと思わないくらいに強力に報復することができる」という論理である.
このように核兵器は古い概念に新たな性格を付け加えたのである.
ただ,政治学者ジョン・ミューラーは,核兵器は重要ではなく,冷戦が直接的な戦争を防いだのではないと主張する.
彼によると,ヨーロッパがWW1の惨禍から,政策手段としての戦争を避けようとしていて,平和の原因は少なくとも先進国の間では,戦争の脅威認識が深まったためで,ヒトラーはWW1の教訓を学ばない人格異常者だと主張した.
たしかに,WW2後も,こうした「厭戦気分」が蔓延したのは事実だ.
だた,大部分の識者は,WW3の回避に核兵器が大きく貢献したと考えている.
核の持つ「破壊力」という名前の水晶玉を通して,核兵器のもたらすものを見たことによって,米ソともに慎重となり,ベルリン・キューバ・ヴェトナム・朝鮮・中東で,危機が制御不可能のレベルまでに到達することはなかったと考えることができる.
このように思考していくと,いくつかの疑問が生まれる.
一体,核兵器の「何」が抑止として働いたのだろうか?
軍事力による抑止力には,相手に損害を与える「能力」と「使用される」という「確実性」が必要となる.
核兵器の持つ「能力」は万人が認めるところだが,確実性はケースバイケース,つまり利害次第と言える.
以下,ナイ教授の文章を引用.
例えば,核兵器への報復としてアメリカがモスクワを爆撃すると威嚇した場合,確実性は恐らく高い.
しかし,ソ連がアフガニスタンから撤退しないからと言って,1980年にアメリカがモスクワを爆撃すると威嚇したとすればどうであろうか.
アメリカは明らかにその能力を持っていたが,利害関係が少なく,ソ連もただちにワシントンに報復できたので,核攻撃の確実性はない.つまり,抑止は能力だけではなく確実性にも関係があるのである.
この「確実性」という問題は「自国を守る場合」と「同盟国を守る場合の核の傘」とで区別をつける必要がある.
この「区別」について,ナイ教授は以下のように主張している.
たとえば,アメリカは核抑止によって,ソ連のアフガニスタン侵攻を阻止できなかったが,アメリカは冷戦が続いた40年の間,ソ連が西欧のNATO加盟国を侵攻すれば核兵器を使うと威嚇していた.
したがって,核の傘と戦争回避を巡る核兵器の影響を考えるためには,状況が深刻な重大な危機に目を向けなければならない.
歴史を調べれば,核兵器に関する抑止について,有益な思考を進めることも可能だ.(理由を説明するのには不完全ではあるが)
たとえば,1945-1949年の間は,アメリカが核兵器を独占していたが,使用することはなかった.
相互確証破壊が成立する以前でも,何らかの自制が働いていたのである.
その理由としては
1.核兵器の保有数が少なかった
2.核兵器に関する知識が少なかったこと
3.ソ連がヨーロッパに大規模侵攻するかもしれないと恐れていた
等が挙げられる.
つまり「相互抑止」が成り立っていない場合でも,核を使用しない可能性はある.
1950年には米ソともに核を保有するに至り,朝鮮戦争という危機によって,核の使用を考える事態が起こった.
しかしながら,核兵器は,朝鮮戦争の時にも,1954年・1958年に中国が台湾に軍事侵攻を行った時も使用されなかった.
朝鮮戦争の場合,核兵器の使用によって,中国を食い止めることができるか不鮮明で,ソ連がどういう反応を示すのかも読めなかった.
もしかしたら,核兵器の使用がお互いをエスカレートさせて,ソ連が同盟国である中国を助けるために,核兵器を使用するかもしれないと考えた.
(この二国の仲ってのは,決して良くない・・・つーより,宿敵だと思うが,アメリカは当時,共産主義はまとまっていると思っていた.)
だから,アメリカは核保有数では優位に立っていたものの,朝鮮・中国以外を巻き込んだ大規模な戦争に発展する危険性を考慮し,核兵器の使用を控えた.
もう一つ挙げると,「倫理観」と「世論」というファクターがある.
ナイ教授は,次のようにこのファクターを説明する.
1950年代には,アメリカ政府による核兵器使用に伴う犠牲者の推定数が膨大であったため,核兵器の使用という考えは隅に追いやられていた.
核兵器の使用という問いに対し,アイゼンハワー大統領は
「われわれは10年の内に二度も,このような恐ろしい兵器をアジアの人々に対して使うことは出来ない,神にかけて!」
と答えた.
1950年代にアメリカはソ連よりも多くの核兵器を保有していたが,さまざまな要素が重なって,アメリカ人にその使用を思いとどまらせたのである.
「核抑止」とは,一見単純にみえて,色々なアクターが絡むので,単にその「破壊力」にのみ注目するのは,賢明とは言えない・・・というのが,今回のまとめかな?
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
なぜ「冷戦」は「熱戦」に発展しなかったのか?
【回答】
「採算が取れない」という損益収支論が最も合理的な説明だろうが,それにも複雑なそれぞれの背景があり,単純化するのは危険だと思う.
以下に5つの理由をあげてみると.
1.核兵器自体の技術発展とMAD(相互破壊確証)の成立.
水爆の開発は,核弾頭の小型化を可能にし,ICBM(大陸間弾道弾)を出現させ,ボタン一つで「世界文明の破滅」を可能にした.
さらに,これを「お互い」がもつことにより,互いの完全なる破滅という,今までにない状態を作り出した.
「お互いの破滅」を避けるため,核兵器を使用しなかった.
2.戦争のあり方の変化
核兵器時代には,戦争という行為は,あまりにも破滅的すぎ,今までのように「全面戦争」に訴えることは,非常にリスクが高い行為であった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
冷戦期に,ベルリン危機,キューバ・ミサイル危機,そして1970年代初めの中東危機は,戦争と同様の機能を果たし,軍事力における真の力の相関関係を示す機会となった.
要は,この危機で核兵器が使用されなかったことで,核兵器の使用ハードルが非常に高いことが分ったってことかな?
3.核による「恐怖による阻止」という戦略が非常に大きな鍵を握るようになったこと.
相手の攻撃を阻止するために,あらかじめ軍事力を整備し,相手へ「大きな脅威」を与えることが,死活的な重要問題となった,
つまり「戦争が始まってから戦力を整備する」という戦略が不可能となってしまった,
これは,明らかにWW2までとは異なる.
ナイ教授,曰く,
「第二次世界大戦では,アメリカは開戦後の動員と漸進的に戦争体制を整備する能力に依存していたが,この動員と言う手段は,数時間で終了する核戦争ではもはや機能しなくなった」
4.米ソの間に,核戦争を避けるための,事実上の連携ができたこと.
米ソという超大国間には,イデオロギーの相違という大きな壁があったが,共通する重要な案件について,利害が一致した.
「核戦争の回避」である.
冷戦期に,色々な代理戦争や,周辺諸国の対立があったものの,決して直接的に双方が対峙することはなかった.
そして,双方が「勢力圏」を設定することによっても直接的な対峙を避けた.
以下,ナイ教授の文章を引用.
双方は勢力圏を設定した.
1950年代にアメリカは東欧の共産主義に対する巻き返しを唱えていたが,実際は,1956年にハンガリーがソ連の支配に反乱したときも,アメリカは核戦争の恐れがあるため介入しなかった.
同様に,キューバを除き,ソ連も西半球への介入には比較的慎重であった.
両国は,核兵器不使用と言う規範の確率に固執したのである,
両超大国はコミュニケーションをとるようになった.
キューバ危機の後,ワシントンとモスクワは,米ソの指導者が即座に連絡を取れるようにホットラインが設置された.
技術の発展が,2極構造での指導者間のコミュニケーションをより柔軟かつ個人的にし,危機における協力をより容易にしたのである.
両国は1963年の部分的核実験禁止条約を皮切りに,多数の軍備管理条約に調印した.
軍事管理交渉は,核に関する制度の安定を協議する場となった.
5.当局者が道義的な意味からも,その破壊力からも「核兵器は使用不能」と判断したこと.
以下,ナイ教授の文章を引用.
実際,1960年代の後半には,技術者や科学者は,水爆がもたらす正当化不能の結果を生むこと無しに,アメリカがヴェトナムや湾岸戦争で,あるいはソ連がアフタにスタンで使用できたであろう核弾頭の小型化に苦心するようになっていた.
しかし,米ソ両国は小型の核弾頭の使用を差し控え,代わりにナパーム弾や焼夷弾などの多種多様な通常兵器を選んだ.
その理由の一つは,たとえどれだけ通常兵器に類似していようと,いかなんる核兵器の使用も全面核戦争への扉を開くと考えられ,そのような危険は受け入れられないものであったからである.
しかし,もう一つ別の理由がある.
アメリカが広島に初めて原爆を投下して以来,核兵器は非道義的で,戦争で許容される範囲を超えているという感覚が染み付いていた.
このような規範的な抑制は測りがたいものであるが,明らかに核兵器をめぐる議論に欠かせないものであり,国家が核兵器の使用をためらう理由の一つであった.
つまり技術的・道義的・政治的ないずれの理由からも「核兵器」は使用できない兵器となったということ.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
【質問】
冷戦はいつ,そして,なぜ終結したのか?
【回答】
1989年11月,ソ連が東ドイツを支援せず,民衆による歓喜に満ちたベルリンの壁が破壊された時,冷戦が終結したといえる.
冷戦が終結した原因はいくつかあり,それが絡み合った結果と言える.
1.ジョージ・ケナンの「封じ込め」が成功した.
これについて,ナイ教授は次のように説明する.
第二次世界大戦後の直後にジョージ・ケナンは,アメリカがソ連の拡張を阻止できれば,そのイデオロギーの影響力が強まる見込みはなく,ソ連の共産主義は次第に限界を迎えるであろう,と主張した.
新たな思想が生まれ,人々は共産主義が将来の趨勢ではなく,歴史にも見放されたものであると理解するのであろう,というのである.
大局的にみればケナンは正しかった.アメリカの軍事力がソ連の拡大を抑止する一方で,アメリカの文化や価値,理念がソ連のイデオロギーを融解させたのである.
しかし,これでは「冷戦の終結時期」を説明できないし,なぜあれだけ長く続いたのか,また,デタントと緊張緩和が繰り返されたのかを説明できない.
そこで,もう一つの要因として指摘されるのが,
2.ソ連の過剰拡張
例えば歴史家のポール・ケネディは,あまりにも拡張しすぎて,内部から弱体化したと主張している.
それによれば,ソ連は経済力の1/4以上を外交・防衛につぎ込んでいて,あまりにも膨張しすぎていたという.
ただ,ソ連は大国間戦争で敗北したわけでも弱体化したわけでもない.
そこで出てくるのが,第三の見方
3.1980年代のアメリカの軍拡がソ連を屈服させた
ただ,ロナルド・レーガンの政策は,ソ連に過剰拡張を取らせたのは事実だが,根本的な問題の回答にはならない.
なぜなら,それまでのアメリカの軍備増強ではそうならなかったからである.
そこで,出てくるのが「人間」の要素である.
この「人間」とは,ミハイル・ゴルバチョフである.
ゴルバチョフはそもそも,共産主義の「改革」を目指したのであって「崩壊」を目指したわけではなかった.
だが,ゴルバチョフの「改革」とは,ボトムアップ式の改革だった.
ゴルバチョフは,当時の進行していた不況を克服するため,国民を統制しようと試みた.
しかし,統制では,問題解決にならなかったため「ペレストロイカ」(改革)という構想を持ち出したが,これは官僚の抵抗があり,トップダウン式の改革を行うことができなかった.
そこで,官僚に圧力を加えるため「グラスノチ」(公開)という民主化政策を行った.
国家の現状に対して,国民の不満を公にすることにより,官僚に圧力を加えて,ペレストロイカを実行しようとしたのである.
だがこれは,意図しない結果をもたらしたようだ.
以下,ナイ教授の文章を引用.
グラスノチと民主化によって,国民が自らの考えを主張し,それを投票で決するようになると,多くの国民は次のように主張した.
『われわれは脱出したい.
ソ連の国民に将来はない.
この国は帝国主義国家であり,この帝国はわれわれのいるべき場所ではない.』
と.ゴルバチョフがソ連解体の歯止めを外し,1991年8月の保守派のクーデタが失敗した後は,この方向性は一層明らかになった.
1991年12月には,ソ連は崩壊していた.
詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第5章を参照されたし.
4 名前: 自営業 投稿日: 2000/07/30(日) 05:07
私は冷戦の復活を望んでいます.
10年前,社会主義国がどんどん崩壊したとき,マジに佐藤君とソビエト大使館に行って
「根性なし! 大悪魔は何処に行った!」
とデモしようかと語り合いました.
本当に困ってます.
でも,ロシアはすでに侵攻してます.
私は見たのです.
ロシアン・パブにルーマニアンと共に侵略してました.
私は今後も内偵を続ける誓いを立てました.