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◆開戦原因
<WW1 FAQ 目次
(画像掲示板より引用)
【質問】
第一次世界大戦の原因は,
●世界を動かしていた植民地帝国イギリスに対し,新しく力を持ってきたドイツが資源と植民地を求めて戦いを挑んだ
↑色々調べた結果,こんな感じで合ってるのかなと思ってるんですが,他に何かあったら是非教えてください.
【回答】
第一次大戦の原因は植民地や資源や経済じゃないぞ.
そもそもドイツは英国が中立化することを期待していたし,英国議会もドイツがベルギーの中立を侵すまでは,戦争に消極的だった.
大戦に至る原因は大小様々にあるが,大きいのはドイツ統一後のナショナリズムがもたらした他国との不和と,当時のヨーロッパのパワーバランスそのもの.
ドイツ・・・仏露2つの隣国を同時に敵にしたら勝てないと思い込んだ
フランス・・ドイツより人口が少ないので単独で戦争になったら負ける
ロシア・・・ドイツ・オーストリアより工業力が劣っており単独では(ry
英国・・・・ドイツかフランスがこれ以上強大化したら本国の安全保障が脅かされる
この構図が何十年も続いており,様々な外交が展開され,植民地より本土が大事ということで,英仏が数百年の対立に終止符を打ち,ナショナリズムが原因でドイツは英仏露を次第に敵に回し,そして最後に”運悪く”破綻した.
ロシアはブラフのつもりで総動員を始め,それが引き金でドイツは自国を守るためフランスに先制攻撃をかけ,イギリスはベルギーを渡さないために参戦し,最初の原因だったはずのオーストリアは,何が起こってるのか分からないまま流されていく.
ロシアは,対墺動員だけなら恐らく戦争はなかったが,それではドイツに対し無防備になる.
ドイツはシュリーフェン・プランの都合上,ロシアが対独動員を始めたら自動的にフランスに宣戦するしかなかった.
ニコライ2世とヴィルヘルム2世の往復電報には,戦争をする気も無いのに,互いの事情がよく分からず,戦争に向かっていく悲哀がよく表れている.
【質問】
第1次大戦は,軍拡競争の果てに,それが原因で戦争になった例だと言えるのでは?
第一次世界大戦前のイギリスとドイツの建艦競争が,イギリスのドイツに対する猜疑心を高め,容易に発火しやすい状況を作り出したのでは?
【回答】
第一次大戦の開戦原因に英独関係はごく小さい関係しかないでしょう.
英国がどっちに付こうが,仏露に攻め入ることはドイツの既定路線でしたから.
少なくとも,シュリーフェン計画の内容を見る限りではそうです.
ゆきかぜまる & JSF(青文字部分) in
mixi
黄文字:補修部分
【質問】
1914年にサラエボで,オーストリア皇太子がセルビア人テロリストに暗殺されなければ,第一次世界大戦は起きなかったのか?
【回答】
「第一次世界大戦」はともかく,オーストリアとセルビアの戦争はほぼ不可避だったのではないだろうか.
オーストリア皇太子・フランツ・フェルナンド大公の暗殺は,口実であり,本質的な理由は,バルカン半島における,ナショナリズムの台頭・高揚であった.
以下,ナイ教授の文章を引用.
「最終的にオーストリアはセルビアに対して開戦するが,セルビア人テロリストによるフランツ・フェルディナンド大公の暗殺が,その理由だったのではなく,セルビアを弱体化させ,バルカンのスラヴ民族のナショナリズムの磁力の中心にさせまいとしたことが理由だったのである.」
「オーストリアの参謀総長,コンラート将軍派,明確にその意図開陳している『暗殺への復讐ではなく,まさにこの理由で,オーストリアはセルビアに対し剣を抜かざるを得なかった(中略)我が帝国は,首筋をつかまれていた.絞殺されるのを許すか,最後の力を振り絞って滅亡を阻止するかの選択に迫られていたのだ』ナショナリズムによる帝国崩壊(の懸念)が,戦争の親の直接原因であった」
また,これが世界大戦に発展したのは,ドイツの「シュリーフェンプラン」が,鉄道の発達により,破綻するという,ヴィルヘルム二世の恐怖が(自業自得ではあるのだが),オーストリアへの全面支援の表明を呼び,これが世界大戦への発展へのきっかけともなった.
詳しくはジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.
補足.
そもそも,シュリーフェンプランは破綻してると思うんだが・・・シュリーフェンは「軍事」に限定して,作戦を考える人だからなぁ.
「いずれにせよ彼は自らの職務にさえ忠実でありさえすれば,なすべき義務は果たしたと考える軍事技術者,テクノクラートであった.
このことは,二つの問題点を引き起こした.第一は政治に対する無関心であった.参謀総長はカイゼルの筆頭軍事顧問である.だが,総長たるシュリーフェンは,カイゼルの冒険的な世界政策がもたらす軍事的な危機について,警告することもしなかったし,ベルギーの中立を侵犯することが世界世論において,どのような批判をドイツが被るのかについて,顧慮することもなかった」
「戦略思想家事典」(芙蓉書房出版,2003.10),204ページより引用.
ますたーあじあ in mixi
ナイ教授以外の資料で同様の記述を見つけましたので,補足として紹介させて頂きます.
簡単に言うと…
墺「セルビア人が,汎スラブ主義の旗印となって反抗しないかな…」
墺「でもセルビアは友好国だし大丈夫だろ,たぶん」
1903年,親墺だったセルビアの国王が暗殺され,反墺な人が国王になり,セルビアは親仏・親露に走り出す.
墺「…(・・;)」
1906年,墺はセルビアからの豚の輸入をストップ.(←豚戦争)
しかし効果は無く,セルビアは墺から離反…
墺「……(〜〜;)」
1908年,墺はボスニア・ヘルツェゴビナを併合.スラブ系から反発を買う.
墺の軍部「スラヴうぜー! セルビアうぜー!(`Д´メ)」
という経緯があった.
以下引用.
しかし皇帝は不安をぬぐえなかった.彼ら(セルビア人)が不満をつのらせ,そのうち汎スラヴ主義をかかげるようになるのではないか,とおそれたのである.
この恐れは,ボスニア・ヘルツェゴビナを占領・併合した後は,当然大きくなった.
とはいえ帝国がセルビア人を支配している間は,すべてうまくいくように思えた.カールノーキーは1881年にこう述べている.
「いかなる手段をとるにせよ,もしセルビアがわが国の勢力下にあるならば,あるいはもっと望ましくは,もしセルビアをわれわれが支配しているならば,ボスニアと住民をわが国が所有することについても,下ドナウとルーマニアにおけるわが国の立場についても,心配は無用となる.
その場合にはじめて,わが国がバルカン諸国におよぼす権力基盤が固められ,重要な利害が一致するだろう」
しかし1903年,ベオグラードでオブレノヴィッチ王朝が倒され,1906年に豚戦争が勃発し,1908年ボスニア・ヘルツェゴヴィナが併合され,セルビアとロシアがその後屈服すると,帝国がこうした立場からすべり落ちたのはあきらかだった.
こうなると,軍部,とくにコンラートは予防戦争を迫った.
「図説ハプスブルク帝国衰亡史―千年王国の光と影」(アラン・スケッド著,原書房,1996.5),p295
後は長くなるので省略しますが,この本によると,それでもまだコンラートのようなセルビア先制攻撃論を抑えることができており,それが皇太子暗殺によって皇帝も吹っ切れたようです.
またこの本では,帝国のこういったスラブへの恐れを痛烈に皮肉ってます.
同書p291より引用――
しかし最後の最後まで,皇帝軍は戦い抜いた.
11月3日と4日に,皇帝軍のうち35万人から40万人がイタリア軍に降伏したが,ドイツ系オーストリア人はわずか3分の1にすぎない.
残りはチェコ人とスロヴァキア人が83000人,南スラヴ人が61000人,ポーランド人が40000人,ルテニア人が32000人,ルーマニア人が25000人,イタリア人が7000人だった.
イシュトヴァーン・デアークによれば,
「これが最後の皮肉だった.つまり,ハプスブルグ帝国のために戦った最後の軍隊は,スラヴ人とルーマニア人とイタリア人がほとんどだった.理屈のうえでは,これらの人たちは連合国側に立っていたはずなのだ」
(略)
最後まで戦っていた兵士の大半は,南スラヴ人だった.
使徒むーちゃ in mixi
▼ 国際紛争第7版の仮想現実を元に論を組み立てると,大体以下のとおりになる.
(尚,第5版から大きな変化はないと思う)
まず,これを語るには,口実である「フランツ・フェルディナンドの暗殺」というファクターから,逆算する必要がある.
もちろん,フェルディナンド暗殺は単なる口実であり,WW1の大きな要因とは言えない.
ただ,口実がなく,そのまま2年間過ぎていたら,ドイツの「シュリーフェンプラン(改版)」は確実に破綻する.
(最初から破綻しているという突っ込みはナシで)
理由:「ニ正面作戦」自体が鉄道の発達により,全く成り立たなくなるから.
こうなると,ドイツも
ニ正面を相手取って戦う=いきなりの戦線拡大
の可能性が相当減少するのではないだろうか?
といいつつ,第二帝国参謀本部の連中が,それを指をくわえてみているかは微妙.
何かしら口実を見つけて,開戦に踏み切らざるを得ないようにするかも知れず.
次にイギリス.
「当時,イギリスはアイルランドに大きな問題を抱えており,もう2年あれば,イギリスは国内問題で,仏露と協調を取れなくなったのではないか?」
という可能性.
ただし,イギリスはヨーロッパに覇権国家を作らないっていうのがドクトリンだから,ドイツを放置するとは考えにくい.
(当時のアイルランド問題について詳細を知らないので,どれくらい深刻なのかがわからないです)
ここまでが「戦争」自体が起こらない可能性.
正直,これは可能性が低いと思う.
(ただ「確率が高い」=「確実ではない」ということをナイは言いたかったのだと思う.
結局は,他の選択肢を放棄したということを強調しているように思える)
次に,「戦争」が世界大戦に発展しない可能性だが,これは確率がそれなりに高いと思われる.
(これも「2年間開戦が遅れていたら」という,仮定の元で話す)
この戦争の直接的原因は,オーストリアの対セルビア予防戦争なんだけど(だから,ロシアが動員を始めたわけで)ドイツがオーストリアに全面支援を表明しなかったら,単なる「オーストリアvsセルビア」の局地限定戦争で済んだのではないだろうか?
この時点で,ドイツは2正面作戦を放棄せざるをえず,2極化していた同盟にも,何かしらの変化が起きた・・・
すくなくとも,両方を同時に相手取って戦うという可能性は,相当低くなっているはず.
予想として,オーストリアvsセルビアの限定戦争で,ロシアとドイツが口を出してきて適当なところで手打ち,というのが精精じゃーなかろうか?
そもそも,ヴィル閣下は戦争に耐えられるほど神経太くないし.
第3に,「単一方面戦争」の可能性.
ドイツはシュリーフェンプランに固執したが,これは小モルトケとか軍部の意向が相当に強いと思う.
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ロシアが軍隊に動員をかけると,ドイツも動員した.
カイザーはフォン・モルトケ将軍に,東側正面だけに戦争準備をとどめることはできるかどうかを尋ねた.
フォン・モルトケは,部隊および補給品の集合の計画に変更を加える事は兵站に対する悪夢であるとして,それは不可能と答えた.
(略)
しかしながら,戦後になってドイツ陸軍の鉄道部門を担当していたフォン・シュターブ(Von staab)将軍が認めたところによれば,動員のスケジュールを滞りなく変更する事は,実は可能だったかもしれないのである.
カイザーがこれを知って主張し続ければ,1正面だけの戦争に終わったかもしれない.
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※ これに関しては,正直疑問がある.
カイザーの力だけで,参謀本部が動かせたとは考えにくい.
ドイツの皇帝は,ロシアのツァーほどの権限は持っていないし,ボンボンのヒステリー皇帝の言う事を参謀本部の連中が聞き入れたかどうかは・・・.
第4の可能性として,イギリスが参戦しない状態でのニ正面作戦.
・・・まぁ,しかしこれはベルギーを通り道に使った時点でないな.
うん,色々書いているけど,ナイ教授の書き方自体も消極的だし,俺もこれはなかろうと思う.
最後に,これはいいまとめだと思うので,引用する.
第五版よりも洗練されている感じ.
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第一次世界大戦は,既に多くの神話ができあがっている,
例えば,第一次世界大戦は偶発的な戦争だったという人がいる.
しかし,第一次世界大戦は純粋に偶発的だったわけではない.
オーストリアは意図的に開戦した.
それに,どうせ戦争をするのであれば,ドイツは後でするより1914年にしてしまおうと考えていた.
戦争の期間がどれくらいになるとか,どの程度深刻なものとなるのかについて計算違いがあったことは確かであるが,それと偶発的戦争とうことは違うのである.
また,この戦争がヨーロッパの軍拡競争の結果とて起こったという見方もある.
しかし1912年までに軍拡競争は終わっており,イギリスが勝っていたのである.
ヨーロッパで軍隊の強大化についての懸念があったことは確かだが,この戦争が軍拡競争から直接に引き起こされたという見解は,あまりにも単純である.
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問題は,硬直化した同盟がどう変化するか?ということになりそう.
ドイツがもし,シュリーフェンプランを放棄するとしたら,世界はどうなっていたのか大変興味がある.
仏・露によって閉塞状況に陥ったとしても,経済では大成長していたドイツが,それによって膨張が止まるのか?
仏と英の植民地問題はどうなるのか?
ロシアの国内状況は?
これらのファクターを考える必要はある.
ただ,ヨーロッパの全土が戦火に巻き込まれ,数千万人が(スペイン風邪の影響が大きいとは言え)犠牲になるような戦争は避けられたのではないか.
そして,そうなるとWW2自体も,あのような形では起きなかったのでは?
仮想現実は,危険ではあるが,蓋然性から組み立てると,それなりに合理性があると思う.
ますたーあじあ in mixi,2009年07月27日22:04
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【質問】
皇太子の暗殺は「口実」だったんですか?
【回答】
少なくとも暗殺事件以降,オーストリアは最初からセルビアに戦争をしかけることを前提に最後通牒をしていますね…
以下,「図説ハプスブルク帝国衰亡史―千年王国の光と影」(アラン・スケッド著,原書房,1996.5),p287より引用――
あるハンガリー歴史学者によれば,ティサはセルビアの反応が交渉で解決できると思っていた,という.表向き,ベルヒトールトの言葉からはそうとしか思えなかったのだ.
しかしベルヒトールトは,この最後通牒がかならず拒否されるよう細心の注意を払っていた.かならず戦争に突入させるため,彼はベオグラード駐在大使に「単純明快な」受諾を要求させた.
同じく,p276より引用――
後にベルヒトールト夫人はこう語った.
「かわいそうにレオポルトは,セルビアに最後通牒を送った日には眠れませんでした.セルビアが最後通牒を受け入れるかもしれない,と気をもんでいたのです.夜中に何度も起きあがって,絶対受け入れられないように言葉を変えたり,つけくわえたりしてました」
使徒むーちゃ in mixi
【質問】
「オーストリアとセルビア」の戦争が,第一次世界大戦に発展しない可能性はあったのか?
【回答】
十二分にあったと言える,原因の多くは,皇帝ヴィルヘルムに帰せられるだろう.
1890年代には,ロシアが全ての軍隊をドイツ国境に輸送するには,少なくとも2,3ヶ月はかかった,
この時点では,シュリーフェンプランはそれなりに妥当性があったと言える.
しかし,1910年には,この時間は18日にまで短縮された.
1916年になれば,もはや二正面作戦の時間そのものが消滅し,ドイツは,二正面作戦を放棄せざるを得なかっただろう.
逆の見方をすれば,1914年に暗殺が起きず,1916年まで戦争が起きなければ,ドイツは二正面作戦を放棄せざるを得なかったはずである(それ以降にオーストリアとセルビアは戦争になった可能性は高いが).
イギリスの歴史家A.J.P・テイラーに至っては,戦争さえなければ,ドイツはヨーロッパの覇権さえ握っていたかもしれないと主張している.
ドイツは圧倒的な力を持って,フランス・イギリスはそれに対抗できなくなっていたという理論だ.
余談ではあるが,ヴィルヘルムの問題行動をもう一つ上げておこう.
以下,ナイ教授の文章を引用
「初期にカイザーは,1908年-1909年のボスニア危機の再演を考えていた.
この危機の時には,ドイツがオーストリアを支援し,その結果,オーストリアはバルカンからロシアに手を引かせることに成功した.
1914年にカイザーはオーストリアに全面支援を約束し,これですんだとして彼は休暇をとって出掛けた.
かれが船旅(クルーズ)から帰ってみると,オーストリアは何と彼の残していった白紙小切手にセルビアへの最後通牒を書き込んでいたのである.
これに気が付いたカイザーは,八方手を尽くして戦争が拡大しないようにした.
(省略)
もし彼の工作が成功していれば,この戦争のことを第一次世界大戦という名で記憶するのではなく,1914年8月のオーストリア=セルビア戦争と言う小戦争として記憶することになったであろう」
・・・伍長閣下もそうだが,ドイツ人って・・・.
まぁ,他に要因もあるけど,やっぱりヴィルヘルムに要因の大部分があるとしか思えない.
詳しくは 詳しくは,ジョゼフ・S・ナイ教授「国際紛争」(有斐閣,2005.4)第3章を参照されたし.
ますたーあじあ in mixi
おそらく皇太子の暗殺だけなら,セルビアに適当に粘着して終わったでしょう.戦争しようにも金がありませんので(笑).
最終的に開戦の決断をさせたのは,やはりドイツの支持が取り付けられたからのようです.
ドイツが「ロシアの膨張を食い止めるには今だ」と思ったのと同様,オーストリアも「バルカン問題でドイツの助力を得るのは今しかない,今を逃さず敵(セルビア)を排除すべし」と思い込みましたので…
以下,アラン・スケッド著「ハプスブルグ帝国衰亡史」(原書房,1996.5),p284より.
一九一四年にルーマニアとロシアが和解したことは大きな脅威だが,最も気になるのはドイツの態度で,一九〇九年以来変化したのはまぎれもなかった.
いまではドイツは独墺二国同盟のことなど忘れたようで,トルコとバルカン諸国において,経済面で帝国とはりあっていた.
また戦争の際も援護せずじまいで,援護する代わりに,軍事介入をすべきでないと言ってきた.
オーストリアが介入したので,第一次バルカン戦争後,ドイツはブルガリアに対する支援を拒否した.また領土にかかわる講和条約を実行する責任も引き受けようとしなかった.
そこで一九一四年七月,オーストリアの外務局はドイツへの苦情を書き並べ,もしドイツがやり方をあらためないなら二国同盟は更新しない,と暗に脅しをかけてベルリンに送りつけようとした.
しかしこの覚え書を送る前に,新たな危機が発生した.ボスニアの首都サライェヴォで,皇太子フランツ・フェルディナント皇太子夫妻が暗殺されたのである.
(中略)
開戦擁護の根拠は何か? まず第一に,暗殺事件によってオーストリアは道義的に有利な立場に立ったということがある.
けれども犯人の証拠が不十分である上に,宣戦布告までに一カ月がたってしまっては,有利とはいえない.
戦争は拡大しないだろうという希望もあった.しかしこれも一カ月遅れたためにあやしくなった.
開戦を決定した本当の理由は,ドイツが支持を申し出たことである.
バルカン諸国にかんするかぎり,こんなことは二度とあるまいと思われた.
実際,奇妙にもたがいに状況は似ていた.ドイツも孤立をおそれていたのだ.
もしこのチャンスに乗じて敵をつぶしておかなければ,ロシアが一九一七年に再軍備を最大にすると,ドイツ軍はヨーロッパで自由に動けなくなるだろう,というおそれもあった.
したがって,バルカン諸国におけるオーストリアと,全ヨーロッパにおけるドイツは,ある意味で同じ立場にあると思われた.
こうして,戦力を強めつつある敵国を前に,両大国はできるうちに戦争に突入する決定を下した.これだけではない.
両国が戦争に出ざるをえなかったのは,外交政策がつたないことも大きな理由だった.
【質問】
コンラート将軍の様な勢力と,そうでない勢力が均衡状態だったのですから,「あの時点で」テロが起きなくても,結局のところ,何らかのテロがあり,それに対する紛争がおきた可能性はかなり低いのでしょうか?
【回答】
とても微妙なラインのため,「こうなっていただろう」という予測は,どうとでも言えるので否定も肯定もできません.
ただ…コンラートの対セルビア予防戦争論は,皇太子暗殺が起こるまでは却下されており,防ごうという意図があれば防げたレベルであると思います.
たしかにセルビアは,オーストリア帝国のボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に反発して軍の総動員までしていますし,それはコンラートの「セルビアはもう武力で分からせるしかない!」という強硬論の原因ともなっています.
しかしセルビアはロシアの助力が得られないと分かると,結局はオーストリア帝国に屈服しています.
「セルビア,必死だな(失笑)」
という態度で臨むのがベターだったのでは.
(それ以前にボスニアを併合する必要性があったかどうかも怪しいですが.ロシアの援助がないとセルビアのボスニア併合はどのみち不可能ですので.)
セルビアにしたところで,軍部は大セルビア主義に汚染されていましたが,政府は必ずしもそうではなく,少なくとも穏健派との協調を目指せば脅威を減らせれる可能性はあったと思います.
外交でロシアとの修復不可能な不仲(とオーストリアは思った)に頭を抱えているところに皇太子暗殺がおきて,
「セルビアに対して道義的に優位に立てる」
「ドイツの援助も得られる」
「前から何かと生意気なセルビアを,徹底的にボコるチャンスがきた」
という誘惑に負けたのだろう,と思います.
しかも,ロシアの参戦で世界大戦になる可能性についてはある程度理解しておきながら,
「相手(ロシア)が世界大戦を避けようとして譲歩してくれるだろう」
という無責任さでした…
注)
・ゼルビアはボスニア・ヘルツェゴヴィナを自国の領土と主張しており,オーストリアの併合(当時すでにオーストリアの行政管理下にあり,名を実にあわせただけとも言える)に対して激しく反発した
※オーストリア帝国史に詳しい方,違っていたらツッコミよろしくです
【質問】
第一次世界大戦の頃の各国の戦争計画が硬直していた理由に,鉄道のダイヤが挙げられていましたが,総動員と鉄道のダイヤにはどんな関係があるのでしょうか?
【回答】
ダイヤを単に時刻表と勘違いしてない?
ダイヤ(ダイヤグラム)ってのは鉄道の運行計画を図示したもの.
この場合は単に運行計画のことを指している.
総動員計画のある国なら,平時のダイヤが総動員を考慮したものになっている.
鉄道ってのは路線の接続や相互乗り入れがあったりして,運行計画を立てるのは結構手間.
ましてや総動員のための運行計画なんて一度立ててしまうと,細かい変更は不可能なわけ.
当時は鉄道の運行は蒸気機関車で,石炭の手配も大変だったからね.
機会があるなら,日本の鉄道路線のダイヤグラムを見てみな.
こいつに兵員や兵器,物資の輸送を割り込ませるんだから,綿密な計画がないと大混乱に陥る.
JRでも青函トンネルと瀬戸大橋線開通以降で全国規模の大幅大や改定がないって事を考慮すれば,ダイヤの変更が難しいものと分かるはずだ.
そしてWW1のヨーロッパだと,兵隊の移動から補給まで鉄道に依存してる関係上,駅が補給拠点になって,そこから,物資を持ってける範囲でしか戦ってなかったんだよ.
だから,総動員しても鉄道ダイヤが乱れてると,前線に兵力を持っていけないんだよ.
ただ,計画そのものに間違いが無いかと考慮する必要性はある.
例えば第一次大戦時のオーストリアの動員計画は,兵員輸送の際に安全性を考慮して運行速度を落としていたとか,主要幹線鉄道をラッシュ時の混雑を避けてあまり利用しなかったとか,不備な点が幾つかあったりする.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
第一次世界大戦においてドイツやフランスは,シュリーフェンプランやプラン17のように,かなりトンデモな戦争計画を持っていましたが,他の国はどうだったのでしょうか?
【回答】
差はあれど,第一次世界大戦に参加した国々は似たような戦争計画を持っていた.
共通していたのは皆,総動員の計画が第一であった点.
シュリーフェンプランやプラン17が他国と比較して特異なのは,動員後,積極的に軍を敵国に進軍させている点.
他の国は動員後は国境線に配備させる程度だった.
ただし,イギリスは明確な戦争計画や動員の計画は持っていなかった.
強いて言うならフィッシャー提督のバルト海作戦が戦争計画のひとつと言えるかも.
個人の提案と言うか妄想に過ぎないが.トンデモ具合は前述のものを超越している.
google検索してみれば,その詳細は分かる.
オーストリアとか,ロシアも開戦後どうするかという計画はあったものの,基本的に「鉄道を用いた動員計画」が全てだったと言われております.
どうやら普仏戦争で,ドイツが鉄道を利用して動員しフランスに勝ったのがよっぽど印象に強かったのか,とにかく動員さえ敵国より早く終われれば戦争に勝てると思っていた模様.
まあ,4年間も塹壕戦,総力戦が続くとは誰も想像せず,ナポレオン時代みたいに大平原に大軍が終結して,一〜二回会戦をやれば勝敗がつくと思っていたので仕方ないですが.
とりあえず一番有名(であろう)参考文献:
バーバラ・タックマン「八月の砲声」
ヨーロッパ各国が大した見識もなしに大戦になだれ込む様子がよく分かります..
【質問】
第一次大戦は,列強の植民地の奪い合いで起きた抗争じゃないのですか?
【回答】
植民地を含めた勢力圏のせめぎあいが背景にあったことは確かだが,別に植民地の奪い合いを直接原因として勃発したわけじゃない.
どの国も積極的に戦争を拡大しようとしたわけではなく――積極的に戦争を回避しようと努力した国もないが――,短期戦を想定していたのに,大戦になってしまったという意味で,「何が原因で起きたのか分からない」という評価になる.
大戦に至った経緯が,動員合戦から始まって,戦時計画に基づいてまるで自動的に戦争に突入してしまったような感覚で,各国の当事者の思惑を超えてしまったのだから.
直接の原因はオーストリア皇太子がセルビア人に暗殺されたのが発端だが,オーストリア皇帝が珍しくブチギレしてドイツを道連れに宣戦布告して,意固地になって戦い続けて,そうこうするうちに「敵の敵」やら「味方の敵」やら,いろんな国がわらわらと参加してなしくずしに「世界大戦」化していったから,どうしてそうなったのか当事者にもわからないという結果に.
最初は単なる局地戦で短期決戦で終わるつもりだったのに.
だから,よく言われるのは,
「軍事同盟が複雑に絡み合っていて,一国が戦争を始めるとその同盟国が自動的に参戦することの連鎖反応で,ヨーロッパ全体が戦争になってしまった」
という説明.
もともと,各国の政治家にとっては,その複雑な軍事同盟は戦争をするためというより,できるだけ戦争を回避し,もし戦争が始まったら孤立せず自国に有利に展開させるための同盟のはずだった.
実際に条約や密約に基づいて動員令や戦争準備を始めても,開戦するかどうかは,最後までコントロール可能と考え,また戦争が始まっても都合で停戦は可能と考えていたのに,一旦はじまると各国の軍はそれぞれの仮想的の開戦準備状況に対応して相互にエスカレートしていき,政治家から見ると追い込まれるような形で開戦せざるを得なくなり,あとは収拾がつかなくなったというのが実態.
簡単に言えば,
「敵の敵だから援軍を送ります」
「敵の敵の敵の領地がガラ空き,獲得のチャンス!」
「なにやらわからない連中が来た,攻撃」
「味方だと思っていたのに攻めてきた,全滅させたれ!」
「であの国を滅ぼした暁には分割しましょう」
「貴国は来週から敵国となります,おたっしゃで」
「反乱が起きました,革命です」
「敵の敵の敵に向かって突撃!!」
【質問】
WW1は,いわゆる「帝国主義の戦争」なんでしょうか?(’’*
少なくともおっぱじめたオーストリアには,セルビアを併合する気なんか無く,ただただ脅威を潰したかっただけだし.
動員かけたロシアだって嫌々だし.
ドイツだって頭にあるのは「とにかく勝つには即効で動員」だし.
フランスは受けて立っただけだし,英は独が巨大化してほしくなかったからだし.
ただ途中から参戦してきた連中は,領土拡大のチャンスと燃えていたし,二枚舌もあったけど.
少なくとも列強の間には,最初から列強同士の戦争を望んでいた国なんか皆無だと思う.
【回答】
「戦争を望んだ」かどうかはともかくとして,3B政策やら,モロッコでの領土問題を見ていると,ドイツに関しては,少なくともそう思われてもしょうがないんじゃないかと.
我らがヴィルたんは,そうする事でイギリスへのバランス・オブ・パワーを取ろうとしたんだけど,それがお互いの敵視を深める結果になった・・・と.
オーストリアにしても,自らの「帝国」を維持せんがために「戦争」を仕掛けようとしたのでは?
領土拡張はともかくとして.
【質問】
第一次世界大戦は,連合国側が「デモクラシー対オートクラシー」と意義付けていた,という記述を参考書か何かで読んだのですが,これは「デモクラシー」が連合国で,「オートクラシー」が同盟国ということでしょうか?
【回答】
それで正しいです.
第一次大戦は,なぜ発生したのかいまだに議論があるほど,「誰も望んでいなかった戦争」なのです.
しかもヨーロッパ諸国,とりわけ英仏にとっては,第二次大戦と比べて比較にならない大量の戦死者を出した悲惨な戦争でした.
このため,何のための戦争なのかを国民に説明する必要があり,たまたま同盟国側の政治体制がドイツ,オーストリア・ハンガリー,トルコとも,帝政であることを取り上げて,民主主義と専制軍国主義との戦いと位置付けた,ということです.
もともと,政治体制の違いで対立していたわけではないですし,戦前は協商国側にもロシア帝国が存在していたわけで,後から言い訳として持ち出した論理にすぎません.
世界史板
青文字:加筆改修部分
【質問】
フィッシャー論争って何ですか?
【回答】
1960年前後,ハンブルク大学のフリッツ・フィッシャーによる第1次大戦期ドイツの戦争目的政策に関する研究に端を発する論争のこと.
それまでの伝統史学が
「バルカン半島の局地紛争が,サラエボ事件を契機に世界戦争へと発展し,ヨーロッパ列強はそれらに引きずり込まれたのであって,特定の国家に勃発の責任を帰することは出来ない」
としていたのに対し,フィッシャーは
「ドイツは第1次大戦の勃発に明白な責任あり」
とのテーゼを立て,宰相ベートマン=ホルベーグの戦争目的政策からルーデンドルフの併合政策,第2次大戦期の侵略政策にいたるまでのドイツの積極的な紛争への関与を提唱.
このドイツ第二帝制から第三帝国までの連続性を認めるフィッシャー論は,ヒトラーと第三帝国は否定するが,ビスマルクと第二帝制を擁護するドイツ伝統史学の潮流とは対立する思想であり,保守派の歴史家からリベラル派まで広く批判を受けることになった.
西ドイツでは連邦議会や政治家までもが論争に介入し,戦後(冷戦時代)ドイツにおける世代間のナショナリズムの変化と伝統史学に対する史料批判,新たな社会史の構築の必要性を象徴する事件となった.
詳しくは『歴史学事典6』pp.540-541を参照されたし.
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