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【質問】
私掠船とは?
【回答】
国家の承認を得て,通商破壊活動(ぶっちゃけ海賊行為)に従事した武装商船.
以下ソース.
海商路はおおむね決っているとはいえ,やはり広大な海のなかで帆船でもって争っているわけであるから,大海戦だけで決着はつかない.敵国船に対する息の長い戦争とならざるをえないが,だからといって多数の軍艦を常時かつ広域に配置できるものでもない.
そこで,商船がまずもって自衛するにしても,それで事足りるわけではないので,軍艦の役目を引き受けてくれる商船がいれば,それにこしたことはない.
それが私掠船である.
私掠船は,特にいまだ十分な海軍力を持つにいたっていない後進海商国が,先進海商国の海商路に食入って,自らのそれを開こうとする場合,また海軍力が弱化した国が従来の海商路を維持しようとする場合に決定的な役割をはたした.
前者の例が16,7世紀におけるオランダやイギリス私掠船の,スペインやポルトガルに対する活躍,また18世紀におけるアメリカ私掠船のイギリスに対する活躍であり,後者の例が18世紀におけるフランス私掠船のイギリスに対する活躍である.
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」
海軍の最終目的は海上覇権の獲得による自国領土の防衛と自国海運の保護に有ります.
海運にかかわる海軍の任務はシーレーン(海商路)の維持・確保であり,敵国船を撃破,拿捕,制圧して,自国船舶を守ることです.
ところが広い海の上では多数の軍艦を常時かつ広範囲に配置できるものではなかったのです.
そこで,商船が軍艦の役目を引き受けてくれることにこしたことはありません.商船が自衛のために大砲などで武装したり,兵隊を乗せたりしました.
それらの船で先発海運国に対して海賊を仕掛けました.
それらは掠奪商品・拿捕船を母国へ持ち帰りましたので,「私掠船」と呼ばれて,本当の海賊とは区別されました.
「イギリス人の海外進出とイギリス海軍」 from 「スタンプ・メイツ」
【質問】
私掠船は海賊と同じものなのか?
【回答】
塚越暢徳「伊万里焼から見た日本海賊と英吉利海賊―文明の海洋史観から見る中世・近世のアウトロー―」
によれば,両者は区別されるもの,ないし区別されようとしているものだという.
以下引用.
いかなる国の許可も得ず,海上で武装侵略を企てるフォルバンは海上の強盗に他ならない.
いかなる国の国旗も掲げる権利がなく,万人の糾弾を受けるに値する.
これをコルセール(corsaire私掠船)と混同してはならない.
私掠船は海上の戦争が起こったとき,交戦国の一方の免状を得て,敵国の商船を拿捕するものである.(ラルース事典)
注意したいのが,私掠船と海賊とを区別している(もしくは,しようとしている)点.各国国家元首から免状の交付と言う形を経て,戦時請負人として敵対国に対し,"海賊行為"を行う.
求められるのは,相手の死と物品の掠奪.それが,私掠船の役割.
上記のように,欧州において海賊は水上で物取りをする一団,それとも一攫千金を夢見て彷徨する野蛮人としか見ていない.
日本のような,あらゆる要素をない交ぜにした海賊観は持ち合わせていない.
日本において海賊は,法律的観念の視点からは語られない.
専ら名や地方領主と言った支配階級の命令によって動くか,それとも各集団ごと自由に行動する.
その点は,歴史上の資料からも伺い知ることができる.
以下の表現のように多様.
①被害者ないしは第三者が,加害者について言う「海賊」
②権力者が,自分に従わないものについていう「海賊」
③海賊が,自身を誇大に表現するために使う「海賊」
④公的に存在を認められた存在としての「海賊」
また,この「海賊」自身が実態を持っているかどうかも問題.海辺に住む人と「海賊」はどこが違い,どこに「海賊」との境界線を引くか.
極端を言えば,海辺に住んでいる住民は海賊.それは,海上の武力は同時に海上での交易力を有し,海上交易引いては一般商売力を有しているからである.
【質問】
これって本当ですか?
このような植民地支配による分捕り品を,さらに白人同士がぶん盗り合っていた.
16世紀末にスペイン艦隊を破ったイギリスは,「私掠船」の暗躍で,スペインから莫大な富を奪った.
これは王室などの後ろ盾で敵国の船を攻撃・掠奪する,いわば「公認の海賊」だった.
(小林よしのり「戦争論」3,2003/7, p.170)
【回答】
よりしんの表現を直すなら,
「16世紀末にスペイン艦隊を破ったイギリスは,スペイン船への略奪を許可する「私掠船」の許可を出して通商破壊と富の強奪を狙った.
しかし,現場では,これは王室などの後ろ盾で敵国の船を攻撃・掠奪する,いわば「公認の海賊」許可とみなしていた人も多かった.」
ってのが正しいのではないでしょうか.
まぁ,理念を達成するための制度が別目的で運用されているってのは,よくある話です.(日本の「NE○○」とかな.)
よしりんが述べている16世紀後半は,本来の私掠船制度が通商破壊へと転用していく時代です.
,劣勢打破のための通商破壊のために結成されるのが,私掠船の近世における目的ですが,それを現場レベルでも認識して運用していたのは,海賊が下火になり,英で「捕獲法」が制定された18世紀以降の話でしょう.
私はむしろ,16世紀末から17世紀初頭にかけては「海上戦闘=略奪」であり,「私掠船」が軍艦と異なり,投資事業として運営されていたがゆえに,「通商破壊」という認識が当時の現場の人間にはまず存在し得なかったと判断しています.
通商破壊と海賊の実際の行動の違いは,当時はほとんど存在していません.
双方ともに,船を襲い,それを出資者と乗組員の間で分配するという行動様式はまったく一緒です.
また,捕獲法が18世紀にできて私掠の方法が制度化されたのは,私掠船の成績が悪くなって通商破壊では投資の回収がもはやできなくなったが故です.
ここから,初めて通商破壊そのもので船員の給料の回収が可能になります.逆に言えば,そこまでは通商破壊=投資の回収であり,その活動方針は海賊以外の何物でもないと考えられます.
時代ははるか下りますが,キャプテン・キッドは私掠船として通商破壊を行っていながら,財宝を獲得できないが故に手当たり次第に襲うようになったのですから.
ちなみに,軍艦も敵国艦を襲うことはできたのですが,私掠船と異なり,ボーナスはほとんどありません.
このように,軍艦と私掠船を明確に分けている点が報酬であることも,現場においては海賊行動とみなしていた状況証拠になると思います.
以下,証拠の一例.
軍艦においても,敵国船を発見し,それを拿捕すれば捕獲賞金がえられた.
しかし,国王,士官そして一般の乗組員のあいだにおける配分は,いつも不公平であった.
すでにみたディアス号が1592年に拿捕された時,エリザベス1世は,賞金の配分として水夫には1ポンドしか支給しようとしなかった(以下略)
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/hansen/page007.html
そもそも私掠船って,本来は「公認の海賊」制度であって
「他国の船によって被害を受けた船は,その国の船から強奪することで,その被害を補償する特別の許可を与える」
というもの.なので,裁判所に認められた金額以上は略奪できない(苦笑).
そのため,16世紀末に,イギリスの裁判所がいやがらせ目的によってスペイン相手に乱発行するまでは,そう簡単には許可されなかった代物ではあります.
(http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/hansen/page007.htmlを参照)
じゃあ,当時はどうだったかというと,実際の現場における運用においては,始めっから強奪目的で私掠船を結成しているケースが多々あります.
私掠船はある種の投資事業として,王族や貴族,大商人から投資としてお金を集め,その金で船を購入して私掠船となったケースがとても多いんですね.
この場合は,投資の回収が目的の第一義であるため,強奪による収益自体が目的化しているケースが多々見られます.
あとは,貿易不調時の保険代わり.この場合は,「公認の海賊」という方が正確な表現だと思います.
王族の資産=国家資産の時代でもありますし.(特に,17世紀中ごろまでは私掠船の収益の2割は国王に献上する決まりになっていたので,余計に略奪を奨励.)
まぁ,王室の後ろ盾というよりは,「最大出資者である王族の投資回収圧力」がかかっていたというのが本音でしょうな.(^^;;
実際,以下のようなせりふもあります.
ロイド氏は
「エリザベス朝は私掠の黄金時代であった.それは大規模な営利活動になっていた.海上で幸運をつかめるという見通しは,あらゆる階級の男たちの血をさわがせた.・・・(以下略)」
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/hansen/page007.html
投資回収目的で私掠船を結成したケースではフランシス・ドレイクやキャプテン・キッドなどが有名ですね.
キャプテン・キッドがそもそも海賊になった理由は私掠船としての成績が悪かったため,だんだんと手当たり次第に襲うようになった事が大きいわけで.
(あと,時代が悪かった.投資回収成績が右肩下がりで落ち込んでいたこともあり私掠船制度をなくそうとしていた時代に行おうとするから・・・.)
当時のイギリスは財政が苦しくて自前の船を持ったり船員の給料を支払うのにすら苦労していたってのに,通商破壊を目的として活動を行う余裕なんてありません.
まず,財産を奪えて活動資金が手当てでき,ついでに通商破壊も出来てラッキーってのが本音でしょう.
なので,建前と上層部では「通商破壊」という認識はあったでしょうが,現場レベルでは「儲かる強奪を合法的に行う免罪符」というのが正確なところでしょう.
特に17世紀中ごろ以降は植民地提督が私掠船免状を出していたわけで.これなんかは始めっから強奪が目的です.
しかし,投資回収目的で軍艦に出資する・・・.すごい時代ですわ.
ただ,別項において述べたように,英国の私掠船は愛国心の発露でした.
それが戦闘,略奪,探検であろうと,それが航海,貿易であろうと,スペインを打倒しようとする行為であるかぎり,それらは区別されることなく,愛国的で名誉ある行為とみなされ,それに従事した人びとは賞讃され,栄光をつかんだのである.
彼らは海賊とは呼ばれず,エリザベス朝の冒険者あるいは冒険商人と呼ばれた.
小林は,同じ本の,沖縄戦に触れたページにおいて,沖縄の民間人の戦闘行為を,
「国際法違反だが,愛国心の発露であるので許容できる」
という旨を述べています.
にも関わらず,同じ愛国心の発露である私掠船については,なぜか否定的なようです.
それが単なる無知のためなのか,それとも,「英米を貶めるためなら何でもアリ」ということなのか,当方は知るすべを持ちません.
【質問】
独立戦争中,米私掠船は英国にどれだけの損害を与えたのか?
【回答】
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」によれば,甚大な被害をもたらしたようである.
アメリカは独立戦争中(1775-83年)私掠船を繰り出してイギリス船に襲いかかり,それを大きく後退させた.
「1775年11月,アメリカ貿易に従事していたイギリス船600隻が,ロンドン河に係船を余儀なくされ,1776年2月の1週間にロンドン税関庁に出帆を届けた船はたった7隻であった.
1775年秋になると,アメリカの私掠船はフィラデルフィアの他,北アメリカの東海岸で艤装を終り,1776年1月ごろから北大西洋の各地点で活動し始めた」(コース93ページ).
また,「アメリカとの2回目の戦争中の1812年10月から1814年までに,800-1000隻のイギリス商船がアメリカの軍艦や私掠船に拿捕されたと記録されている.
その一方で,同数のアメリカ船がイギリス船に捕まったともされている」(同96ページ).
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このような軍艦とそれを補完する私掠船の拿捕活動は,普通,海商破壊戦(commerce
raiding)と呼ばれ,19世紀末までの海上における主要な戦闘であったのである.
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」
『旅行の歴史』(1577年)の著者リチヤード・ウィルスは,
「スペイン人が,コロンブスの第1回航海以来,西インド諸島から持ち帰った果物,薬品,真珠,宝石,幾百万の金銀を憶え!」(フェィル118ページ)
といっているように,スペインの富はヨーロッパ人にとって垂涎<すいぜん>の的であった.
その独占に,腕をこまねいているわけがなかった.
イギリス,フランス,オランダなど宗教革命を行ったプロテスタント国は,カトリックの教皇境界線など無視して,スペインに対して激しい経済的,政治的,宗教的な敵意をもやし,その打倒を目指した.
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」
余談だが,アレグザンダー・ケント(Alexander
Kent,ダグラス・リーマン Douglas Reemanの別ペンネーム)著「海の勇士ボライソー」シリーズにも,フランス私掠船が登場する(「革命の海
In Gallant Company」).
英国海軍海尉ボライソーの乗る戦列艦「トロイヤン」が,ニューヨークに来着する輸送船団を,武器弾薬の強奪を図る革命軍や,彼らを陰で支援するフランスの私掠船の群から護るというものである.
【質問】
英国の私掠船の始まりは?
【回答】
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」から纏めると,以下のようになる.
イギリスの私掠船は,1243年,ヘンリー3世が許可したハイパー船長のリー・ハイト号に始まるとされる.
イギリスは,ヘンリー8世の治世に,海軍本部(Admiralty)と艦船局(Navy board)が設置され,海事国として格好がようやくついてきた.
当時の軍艦の戦闘行為は略奪行為そのものであったし,戦争の規模が大きくなれば,いつも武装している商船を徴用するとともに,私掠船(privateer)として活躍させた.
英国国王は,私掠特許状(Letters of Marque)を下付して,戦時には敵国の船舶を拿捕する権限,平時にはいままでの損害を償うため外国商船に報復する権限をあたえた.
【質問】
英国の,私掠船に関する制度は?
【回答】
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」によれば以下の通り.
英国国王は,私掠特許状(Letters of Marque)を下付して,戦時には敵国の船舶を拿捕する権限,平時にはいままでの損害を償うため外国商船に報復する権限をあたえた.
13世紀から16世紀までは,船主や商人は敵国船の略奪にあったといっても,その損害を裁判所で証明しないかぎり,報復またはあだ討ちの私掠許可状は与えられなかった(コース83ページ).
私掠は,エリザベス1世(在位1558-1603年)時代の1580,90年代大いに奨励され,スペインと戦争している間は,私掠あるいは報復の許可状を受けるのに,蒙った損害を厳しく証明させられることはなかった.
また,損害額以上のものを回収した現場が見つからないかぎり,許可状の返却を求められることはなかった.
航海期間6か月ごとに13シリング4ペンスの手数料を,裁判所に支払うことになっていた.
その間,少なくとも235隻のイギリス船が私掠航海に乗り出しており,ポルトガルやスペインの海岸だけでなく,南はヴェルデ岬諸島,西は西インド諸島やアメリカの海岸まで出掛けていた.
長距離の航海に出る場合は,3,4隻が船団を組むのが普通であった.当時のパーク型帆船は50-100トンにすぎなかった.235隻のほとんどがロンドンの船であった(コース84ページ).
〔略〕
私掠は国家の政策となっており,その度ごとに共同持株会社 (joint stock company)が作られた.その出資者のほとんどが,国王,貴族,役人,商人など,その時代の有力者であった.
17世紀になると,私掠船は国家に担保を差し出させるというやり方で,統制されることになった.
1674年には,乗組員150人以下の船は1500ポンド,それ以上の船は3000ポンド前納することになった.
船主は担保ばかりでなく,捕獲物の一部を政府に差し出す義務があった.18世紀になると,そのやり方は変化し,私掠報復許可状(Letters of Marque Reprisals)という形式で,商船と同様に武装し,多数の戦闘要員を乗せた
私有軍艦として知られる船にも発給されるようになった.それらには商船船員が乗組んでおり,海賊船ばかりでなくあらゆる敵国船を攻撃する権限が与えられるようになった(コース83-4ページ).
イギリスが,諸外国との抗争を繰り広げ,海上覇権を次第に握って行くにつれて,私掠船活動は報復やあだ討ちではなく,一定の軍事戦略として確立されて行った.
私掠を奨励するための捕獲法がスペイン継承戦争中の1708年と,オーストリア継承戦争中の1740年に出されている.
それは,船員の配乗,船内装備,使用する旗,中立船の取扱い,捕獲物の分配,捕虜の身代金や処分について,政府が定めるとしていた.私掠許可状は,海軍高等裁判所(the High Court of Admiralty)が船主の申し立てを受けて交付し,私掠船の船長が所持することになっていた.
船長が私掠船の指揮をやめた時,それを返納しなければならなかった.
船主や船長は私掠に最善を尽くすという証文を入れさせられた.
特に,船長は海上での記録や日誌をつけ,海軍卿にその写を提出することになっていた(コース84ページ).
〔略〕
また,ロイド氏は
「エリザベス朝は私掠の黄金時代であった.
それは大規模な営利活動になっていた.海上で幸運をつかめるという見通しは,あらゆる階級の男たちの血をさわがせた.
その偉業のほどは,われわれの国民叙事詩であるハクルートの『主要な航海』(正確には,『イングランド国民の主要な航海,貿易,発見記』,引用者注)に記録されている.略奪,貿易,愛国心そして名誉は融合しあい,恐ろしいはどの攻撃精神をわき立たせた.
廷臣や商人たちは,信頼のおける船長が乗っている船を探そうと,競馬のある日は右往左往していた.
私掠船の乗出し費用を準備するため,シンジケートが作られたが,その長には女王をはじめ,その財宝係や秘書がなった」(同35ページ)とのべている.
それが戦闘,略奪,探検であろうと,それが航海,貿易であろうと,スペインを打倒しようとする行為であるかぎり,それらは区別されることなく,愛国的で名誉ある行為とみなされ,それに従事した人びとは賞讃され,栄光をつかんだのである.※
彼らは海賊とは呼ばれず,エリザベス朝の冒険者あるいは冒険商人と呼ばれた.
※私掠船船長を記念する銘版もあるという.
以下引用.
ブリストル,クイーン・スクエア33-35番
キャプテン・ウッヅ・ロジャーズCaptain Woodes Rogers(1679-1732年)を記念する銘版がある。それによると、彼はこの広場の初期の居住者である。彼は最も有名な私掠船船長で、1708年から1711年にかけて世界を航海したと賞賛されている。ウッヅ・ロジャーズは多くの投資をしており、その中には奴隷船ウエットストーン・ギャリーWhetstone Gallyも含まれるが、同船は1708年に270名のアフリカ人をジャマイカに運んだ。彼の私掠行為がスペインを抑えてカリビアンの安全を確保した。1717年に、彼の示唆により、彼はバハマの統治権を手にいれ、そこで生涯を終えた。
http://www11.ocn.ne.jp/~toku/research.htm
【質問】
スペインとの戦闘や私掠でどれはどの利益が上がったのか?
【回答】
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」によれば,しばしば10万ポンド以上になったという.
以下引用.
ドレイクの1577-80年の世界周航(マゼランから約50年後で,2番目)は,一面ではスペインに対する戦闘行為であるとともに他面では私掠行為であって,5隻のうち2隻を失ったにかかわらず,ひじょうに利益の上がった航海であった.
彼の遠征にかけた出資者(女王はレバント特許会社への出資金の利益をかけていた)は,出資金1ポンドに対して47ポンドの配当があたえられた.
女王は,彼のゴールデン・ハインド号に訪船し,彼をナイトに叙したのである.
さらに,ドレイクは1587年にサン・フェリップ号を拿捕し,10万ポンドの貨物と3万ポンドの金銀,宝石を略奪している.
それ以外の著名な例としては1592年拿捕されたマドレ・デ・ディアス号に14万ポンドにも及ぶコショウ,チョウジ,ニッケ(肉桂),宝石が積まれていた.
旧英領カリブの年表等を見ると,私掠船が荒らし回っていた様子が良く分かるだろう.
【質問】
もし私掠船の戦利品がなかったら,英国はその後三等国のままですか?
あと,そんなに儲かるなら,なぜ他の国はやらなかったの?
【回答】
君が知らないだけ.
他国もやっていた.最初に襲いだしたのはフランス.
どれぐらい儲けがあったか?,どの国がやっていたか?は,こちらを参照.
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/hansen/page007.html
【質問】
米艦の初代「エンタープライズ」は私掠船だった,というのは本当か?
【回答】
本当.独立戦争や英米戦争に私掠船として参加したスクーナーが初代.ニックネームは"little
Lucky Lady".
ちなみにCV-6 "Big-E"は7代目,現在のCVN-65が8代目.
詳しくは,CVN-65「エンタープライズ」の公式サイトを参照されたし.
【質問】
なぜハイチ周辺海域で私掠船の活動が活発だったのか?
【回答】
ハイチの島々に放浪者や逃亡者が住み着くようになり,次第に海賊の聖域と化したため.
時系列的に見ると,以下のようになる.
1600 St. Christopher ,St. Kitts, Nevis, Barbados, Antigua, Montserratなどの島を根城に放浪者・逃亡者などが住みつくようになる.
05 エスパニョーラ島西部のスペイン人,フランスやオランダととの密交易を活発化.サントドミンゴ総督はこれらの島民に島の東部に移住するよう強制.結果的に西部は無人の野となり,海賊たちの聖域と化す.
25年頃 イギリス人,フランス人の逃亡者がトルトゥ-ガ島に住みつく.ときに徒党を組んでスペイン戦を攻撃するなど海賊行為を働くようになる.他にオランダ人はモル・サンニコラス,フランスはゴナイーヴ,イギリスは東部のサマナを根城としていた.
28.9 ピート・ハイン提督のひきいる31隻のオランダ艦隊,キューバのマタンサス沖合いでスペイン船団を襲撃.30隻まるごと拿捕する.1500万グルデンを獲得.この後,十年間に800隻・67千人が私掠船となってカリブ海を荒らしまわる.
29 トルテュー島の南岸に,ハンターと海賊の交易場所が形成される.英・仏・蘭が国籍の関係なく利用.
29 海賊の一部が,密林で牛やイノシシ(野生化した豚)を捕獲し燻製にして,近くを通過する船団に売って生計を立てるようになる.現地語で燻製をブーカネと読んだことから,彼らはブカネア(仏語でブカニエboucanier,英語でバッカニアbuccaneer)と呼ばれるようになる.
一説には,食人種カリブ族には人肉を干し肉にして食べる習慣があり,カリブ族が干し人肉をブカンと呼んだことから,スペイン人が彼らをこう称するようになったという.
また一説には,燻製を作るための焼き網のこととも言う.
これらの野生動物は本来自生していたのではなく,スペイン人入植者が遺棄したもの.
一説によれば,野生の牛を捕らえるハンターだけがブカネアと呼ばれ,もっぱらイノシシを追うハンターと区別されたという.
彼ら自身はブカネアと呼ばれるのを好まず,冒険者を意味するオランダ語源のフィリバスターと称していた.フィリバスター(filibuster)は海賊の乗る快速艇(英語でfly-boats)に由来する.
29 スペイン軍,ネーヴィス島の英植民地を破壊.アンソニー・ヒルトンら農民兼海賊は,新たな植民地を求めてカリブ海を放浪.
31初め サントドミンゴのスペイン軍,トルトゥーガ島に住むバッカニアを掃討.25人の兵士を常駐させ海賊の帰還を阻止.
31 アンソニー・ヒルトンら,プロビデンス会社を結成しTortugaに植民.アソシエーション島と名づける.ヒルトンは初代知事に任命される.トルテュー島は英仏の私掠船基地として発展.セント・クリストフ島・セント・キッツ島・バルバドス島などでの厳しい労働から逃れた多くの年期奉公人(indentured servants)が流入する.
31 セント・クリストフ島から逃れたフランス人年期奉公人,トルトゥーガ島の対岸ポール・ド・ペ(Port de Paix)近くのエスパニョーラ本島に植民.
1633 フランス人,ふたたびトルトゥーガに植民.島の北側は岩だらけの不毛の地.南側はCayona港を中心とする低地地区,タバコを栽培する中部農場地区,西部のRingot地区,山岳地区の四つに分けられた.
33 トルテュー島を根城にするフランス人海賊ロジョノワ(L'Ollonois),ピナル・デル・リオ(キューバ西部の州)のデ・ロス・カヨスを襲撃.支援のためハバナから来たフリゲート船を掠奪し,乗員をみな殺しにする.最後はニカラグアで原住民に捕らえられ,生きながら八つ裂きにされる.
33 サントドミンゴのアウディエンシア,トルテュー島の海賊一掃を決議.決議は諸般の事情から実行されず.トルテュー島での主導権をめぐり英仏無法者が紛争を繰り返す.
34 イスパニョーラ島西部にフランス植民地.Compagnie des Isles d'Ameriqueと名づけられる.フランス人海賊の一部が,セントキッツ島から移る.
【質問】
ラガー(lugger)とは?
【回答】
小型帆船の一種で,これを私掠船としたフランス船は,英国の東インド会社船を執拗に狙ったという.
以下引用.
2,3本のマストを持つ小型帆船.
本来は2本マストとされたが,多くは船尾間際にジガー・マスト風にもう1本を備えている.
排水量は40~140トンで,類似のものに英仏海峡で活躍したシャッセマリーがある.
英国では商船や漁船として用い,フランスでは軍艦としても用いた.特にフランス海軍のラガーは英国海軍や英国の税関カッターなどと死闘を演じ,私掠船は英国の東インド会社船を執拗に狙った.
【質問】
私掠船船員の戦闘配置は?
【回答】
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」によれば,以下のようになっていたという.
1777年のハッチンソン船長の『船員実務指針』によれば,艦長はクオータデッキで指揮を取り,士官候補生か徒弟に命令を伝達させていた.操舵手の1人が舵を握り,他の1人は大砲を操作し,海兵隊長は24人のマスケット銃兵を預っていた.
メンデッキでは,主席尉宮が船首側の,次席尉官が船尾側の大砲10門をそれぞれ指揮していた.
掌砲兵は大砲の世話役であった.
帆走長付の主席士官はブレース(転桁索)の係で,掌帆長の助手や船員を使ってヤードやセールを引かせ,また必要あるなしにかかわらず主な索具を修理させていた.
大工とその部下はポンプ類を担当するほか,砲弾で開いた穴を塞ぐことになっていた.
10門の大砲ごとに,船員6人と弾運びの少年1人が配置されていた.
掌帆長は,船首楼の長として船員2人を部下として,ヘッドセールの操作や索具の修理を担当していた.
3ポンド砲2門に,船員3人と弾運び1人が配置されていた.次席士官は船首で9人,三席士官ははしけやブーム(下桁)に配置された8人のマスケット銃兵を預っていた.
メントップには,船員5人と士官候補生が小銃を持って登り,敵船の状態や動静を監視して
いた.
フォアトップには船員が5人,ミズントップには船員が3人武装した上で,いつでも索具を修理できる身構えで配置されていた.
砲長助手と手伝いは少年に弾薬を手渡し,船医とその助手はコックピットで負傷者を治療することになっていた(コース90-1ページ).
これに対し,貨物船も自衛の武装を搭載している.
例えば,マルセイユで1750年に建造された貨物船「ミスティック
Misticque」は,私掠船から身を守るため18門のキャノン砲を装備したという.
データは「世界の帆船」より.
以下余談.
2003年制作の米映画「マスター・アンド・コマンダー
Master and Commander」は,南太平洋の英捕鯨船の鯨油略奪――その価値は今の原油に匹敵する――を狙うフランス私掠船「アケロン」を,ラッセル・クロウ扮するジャック・オーブリー艦長指揮のHMS「サプライズ」が阻止しようとするものだが,本作品には,
・艦内時間を表す鐘の音
・測深シーンの台詞の「バイ・ザ・マーク,ナイン!」という掛け声
・測鉛台で水深を計る姿
など.当時の帆船乗員に関する細かい描写が見られる(MagiBlog)という.
【質問】
私掠船船員の待遇は?
【回答】
人口過密で,壊血病が戦死よりも多い有り様だった.
以下引用.
また砲術の改良により,片舷一斉射撃が可能となっていました.砲列甲板が2層3層になる船もあり,そのため船内は人口過密となり乗組員は砲列甲板にごろ寝の状況でした.
しかも火災予防のため,「わらのマット」も禁止されていました.カリブ海方面で使用されていたハンモックは,ずっと時代が下ってから船内に取り入れられ,軍艦では16世紀末頃から使用され始め,17世紀中頃になると広範囲に普及してゆきました.商船ではもっと遅れました.
〔略〕
帆船時代の大部分は戦死は僅かで,病死(壊血病)がほとんど,一航海で半数以上の船員が死んだと伝えられています.
アルマダ海戦ではスペイン128隻に対しイギリス197隻だったと伝えられています.
ネルソン提督は出帆前に大量のオレンジジュースを積み込んで病気に備え,よく乗組員を把握していましたので,人望も厚かったのです.
キャップ・テンクックは大量の塩漬けキャベツを積み込んでいました.
「イギリス人の海外進出とイギリス海軍」 from 「スタンプ・メイツ」
【質問】
私掠でえた捕獲賞金(prize money)の配分は?
【回答】
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」によれば,出資者,船長,乗組員とに,各時代の取り決めに応じて配分されたが,その取り決めは陸の者に有利だった,という.
以下引用.
15,6世紀頃は通常,まず国王が5分の1,海軍卿が10分の1を控除し,その残りを3等分して船長(通常,船主),出資者,乗組員が分け合っていた.
これは,私掠船の黄金時代のことであって,その後,私掠の成果が少なくなったためか,国王や海軍卿の取り分はなくなる.
ドレイクから約100年後のキッドの例では,まず乗組員に4分の1が分配され, その残りを船舶の購入費を含む出資額に応じて,出資者に5分の4,キッドとその協力者に5分の1を分配する.
しかし,獲物がなかった場合,キッドらは出資者が支払った5分の4の経費を返却することになっていた.
いずれにしても,船長(船主)と乗組員との契約は,獲物なければ報酬なし(no purchase no pay)であったが,船長は少なくとも若干の前渡金をはじめ,食料を支給せざるをえなかった.
「政府にしてみれば,民間の船長に特許状を下付するだけで,それ以外の負担もなく,かれらの力を国家の目的に利用するばかりでなく,この戦利品ないし獲物の一部を収めることもできる好味のあるものであった.
また,出資者(ときには国王も参加する場合もあった)は艦船その他を準備さえすれば,船長以下の給与を支払う必要もなく,それは将来獲得すべき戦利品または獲得物の中から配当すれば済むのである
……こういう仕組みは,明らかに政府や投資家など陸にあるものに有利で,船長以下乗組員にとっていちじるしく不都合であった」(別枝達夫著『キャプテン・キッド』中公新書64-5ページ,1975).
さらに,具体的にみてみると,リバプールの私掠船エンタプライズ号の船価2250ポンドは16分割され,10人の船主が共有しあっていた.フランスやスペインに対する私掠許可状を受けるのに71ポンド7シリング4ペンスかかった.
船長はジェームズ・ハスラムで,乗組員は105人であった.
その構成は別表の通りである.
エンタプライズ号は1779年9月に出帆したが,その前に乗組員に別表のような賃金が2か月分前渡しされていた.その賃金総額は645ポンドであった.
その私掠航海の捕獲物や積荷は競売に掛けられ,売上純益の4分の3が船主に,4分の1が船長,士官,その他乗組員に支払われることになっていた.
乗組員への配分は乗組員契約にしたがって行われた(コース89ページ).捕獲賞金の乗組員それぞれの持ち分は別表のようになっているが,どれだけの成果を上げたかは紹介されていない.
なお,先のウォカー船長が,1746年4隻の私掠軍艦4隻970人を8か月指揮した時の捕獲物は22万ポンドであり,乗組員への配分はその50%,ただし賃金はなしであったとされているので,乗組員1人平均約113ポンド(1か月14ポンド)となる(同89ページ).
別表 私椋船エンタプライズ号乗組員の職種別員数
1か月賃金(ポンド-シリング)・捕獲賞金の持ち分
(1779)
出所:コース,89-90ページ.
職種 員数 賃金 持分 職種 員数 賃金 持分 船長 captain 110-10 16同上助手 his mate 3尉官 lieutenant 3 4-10料理人 cook 1帆走長 sailing master 1 4-10銅工 cooper 1 3主席士官 chief mate 1 4-10 8同上助手 his mate 1次席士官 2nd mate 1 4- 6操舵手 quarter master 4三席士官 3rd mate 4火器係 armourer 1捕獲班長 prize master 2 4-10書記 captain clerk 1船医 surgeon 1 5-5 6司厨長 chief steward 1海兵隊長 captain of marines 1 5-5/2司厨 cabin steward 2同上助手 his mate 1縫帆手 sail maker 1大工 carpenter 1 5- 5有能船員 able seaman 20 1同上助手 his mate 1一般船員 seaman 28 3/4掌帆長 boatswain 1 3新米船員 landsman 18 1/2同上助手 his mate 2徒弟 apprentice 3掌砲長 gunner 1 4-5 3(少年) (3)
拿捕の機会やその賞金総額が次第に減少し始め,また軍艦の乗組員の士気を高揚するため,1708年捕獲法によって国王は賞金を取ることを放棄し,それにたずさわった艦長に8分の3,尉官下士官および文官に各8分の1,そして残る8分の2を乗組員に配分されることになった.
それによって乗組員は少しは手厚くもてなされたが,1762年のハバナ遠征では提督や司令官は12万2697ポンドを受取ったが,船員は3ポンドであったし,また同年の旅客船拿捕では艦長6万5000ポンド,船員は485ポンドであった.
海賊船について,マホスキー氏は
「海賊たちの利益は,彼らの遂行する任務に応じて,厳密に格差がつけられていた.例えば,船長は400ペソとすると,副船長は200ペソ,船大工は175ペソ,水夫は100ペソ,見習水夫は50ペソというふうになっていた.武器,食糧,船の索具などは,共通の資金によって買い求められた.この海賊団体(後でのべる海岸の兄弟のこと,引用者注)には,戦闘で負傷した者に対する補償金を支払う……制度が設けられていた……
乗組員はすべて見習船員から船長まで同一の食事をした……
重要な問題,例えば遠征目標,航路などの決定にあたっては,船長は全乗組員によって構成された会議に自分の提案をかけて,承認を得なければならなかった」(同,木村武雄訳『海賊の歴史』130-1ページ,河出書房新社,1975)
とのべている.
【質問】
英国は私掠船に痛い目に遭わされたことはないのか?
【回答】
ある.
アン王女戦争(1702-1713)ではフランス側の私掠船に,英国商船が千隻以上拿捕されている.
もっとも,これは正規の海軍が再建できなかったための苦肉の策であり,そのためにフランスは制海権を得られず,植民地を多く失うことにもなるのだが……
以下ソース.
ファルツ継承戦争で打撃を被ったフランス海軍は,膨大な経費を注ぎ込んで本格的な艦隊を維持するよりも,個人や会社の所有する武装船に免許を与えて通商破壊に従事させる(私掠船戦術)という方針に切り替えていた.
これは確かに効率はよいのだが,海外植民地に援軍や物資を大量に輸送するのは無理であり,しかも予算が減ったせいで,イギリスとくらべて弱体化する正規の海軍は,母港を敵艦隊に封鎖されれば,文字どおり手も足も出なくなる.
おかげで,フランスの植民地は戦争の最中にもロクな援助が受けられず,そのまま窒息していくのである.
〔略〕
……という訳で,フランス軍は防御にまわって戦争は次第に膠着状態に陥っていったのだが,そうすると今度は対仏連合軍の方が疲れてきた.
フランス側の私掠船が世界の海で暴れまわり,1703~8年にかけてイギリス商船をなんと1100隻も拿捕した.
さらに,フランス陸軍は平時から40万もの総兵力を揃えていて,ちょっとやそっとの損害ではびくともしなかったが,1709年の「マルプラケの戦い」では勝利したマールボロ軍の方が大損害を出して,本国をげんなりさせた.
戦時課税にあえぐイギリスは和平交渉を開始した.
サン・マロは16世紀には,王からその身分を認められたコルセールと呼ばれる私掠船が活躍し,敵国の船から荷を略奪しては富を得,17世紀末にはフランスきっての港として繁栄した.
【質問】
なぜ私掠船は廃れていったのか?
【回答】
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」によれば,次第に海運貿易の秩序が築かれていったためだとされる.
以下引用.
イギリスは,16世紀中頃,絶対主義を確立し,経済発展の道を整えていたが,それはすぐれてブルジョアに富を急速に蓄積させ,その地位を高めさせた.1642年の清教徒革命,1688年の名誉革命を経て,イギリスの商工業は大いに発展した.
他方,オランダもそれにおとらず成長し,ヨーロッパにおける金融,貿易,海運の中心となった.イギリスは,1651年航海条例を発布し,オランダに打撃をあたえ,さらに翌年からの3次にわたるイギリス・オランタ戦争に打ち勝った.
このようにして,イギリスは海事国として,スペイン,オランダ,フランスと相並ぶ勢力になるとともに,植民地貿易の排他的な支配が確保されていった.
1671年にはスペインとマドリッド条約,1696年にはフランスとライスワイリ条約を結んだ.
海上覇権や植民地貿易における縄張りが一時的にも確定され,次第に海運貿易の秩序が築かれていくこととなった.
そのなかで,冒険・略奪・私掠はその役割を終えることになった〔略〕
【質問】
南北戦争にも私掠船が登場したというのは本当か?
【回答】
本当.
背に腹は変えられない,ということで登場したが,戦争初期に殆ど駆逐されてしまったという(そりゃ当り前だろ……).
以下引用.
政府により敵国艦船を襲撃する権利を認められた民有武装船で,国籍を問わず襲う海賊船ではない.
16~18世紀には自軍の艦船不足を補う目的で多用された制度であるが,この頃には明らかに時代遅れの制度であった.
それでも背に腹は替えられない南軍は1861年4月17日大統領令により私掠免状の交付が宣言,
これにより多数の船舶が北部から見れば「海賊行為」に従事したが,初期の段階でその殆どが駆逐されてしまった.
http://www.civil-war.nu/civilwar/dictionary.html
【質問】
歴史的役割を終えた私掠船は,その後どうなったのか?
【回答】
篠原陽一(船舶史家)「海上覇権の争奪」によれば,海賊に転職したという.
以下引用.
17世紀中頃より,大西洋から追い立てを食った私掠船は西インドやカリブ海に集まり,バカニーア(baccaneer)と呼ばれる海賊となって行った.彼らは,「海岸の兄弟」(Brethren of the Coast)という反スペインの海賊連合まで結成し,17世紀後半にはバカニーアの黄金時代を築いた.
各国の植民地総督は,彼らを陰に陽に庇護し,戦争が始まると私掠許可状をあたえた.
バカニーアのなかで,もっとも有名なのはヘンリー・モーガン(1635-1688)で,「カリブ海王者」と呼ばれ,イギリスがジャマイカを手に入れるのに協力し,ナイトに叙せられ,その副総督にもなった.
しかし,すでに見たように,海上の平和が求められるにつれ,バカニーアたちの利用価値は低下していかざるをえなかった.
イギリスはモーガンなど私掠船船長を使って,バカニーア狩りをはじめた.
そのため,彼らはいままでの栄光ある地位を失い,「全人類共同の敵」に転落させられていった.西インドやカリブ海から追い払われたバカニーアたちは北アメリカ,アフリカ西岸,航海,インド洋に散会した.文字通り純粋な海賊パイレーツ(pirate)が,もっともも活躍したのは17世紀末から18世紀の30年代までであった.
このパイレーツも,それ以前の私掠時代にくらべれば,まことにささやかなものであった.
なお,こうしたバカニーアからパイレーツへの転換期に,先にのべたキッドは国王から海賊鎖圧の委任状と,海軍卿から私掠許可状を受けて,インド洋に乗り出して行ったのである.
ところが,本来の獲物がかからなかった.そこで,キッドは海陸で手当たり次第略奪し始め,また政変のあおりを受けて,海賊として宣告され,死刑になった.
このキッドの航海と死刑は,投機として私掠を企画したり,また私人に海賊鎮圧を委任するやり方が,有効でなくなりつつあることを示した.
18世紀に入っても,私掠はけっしてなくならなかったが,イギリスが19世紀前半に産業革命を経過して,資本主義を確立し,世界を制覇するなかで,それを必要としなくなり,航海の安全こそ守るべき原則となったのである.19世紀に入って,各国は海上における掠奪行為を重罪とする法律を制定し始めた.そして,1856年のパリ条約は私掠を禁止しあうことにし,多くの国ぐにがそれにならった.
そうしたことで,私掠は先進国においては消滅して行った.それとともに先進国人の海賊も追い込められて行った.
【質問】
「ロビンソン・クルーソー」のモデルは,私掠船の乗組員だったというのは本当か?
【回答】
本当.イギリスの私掠船「シンク・ポーツ」の水先人だったアレクサンダー・セルカークがモデルだという.
以下引用.
イギリスの作家デフォーの小説「ロビンソン・クルーソーの生涯と冒険」(1719)は,航海の途中で遭難し,絶海の孤島で27年余りの年月を過ごした主人公の冒険物語だが,この小説には,実在のモデルがいたといわれる.
その人物はイギリスの私掠船「シンク・ポーツ」の水先人だったアレクサンダー・セルカーク.私掠船とは,国王の特許状を得てスペイン船を襲い掠奪を行った一種の海賊船で,彼は船内での権力抗争に巻き込まれ,1703年9月に南太平洋のファン・フェルナンデス島という無人島に置き去りにされてしまう.
彼に残されたのは,わずかな私物と銃と少量の弾薬のみ.
しかし,島には海亀やエビや,以前この島に住んでいたスペイン人が残した山羊がおり,彼らが植えた蕪も群生していた.
セルカークはこれらを食料にし,ヤギの皮をなめして衣服にし,木を摩擦して火をおこす方法を考案するなどして5年間生き延びる.
そして1709年1月,偶然立ち寄った英国の私掠船の乗組員に発見され,救出されたのだった.
当時,セルカークのように,ある種の刑罰として孤島に置き去りにされた船乗りのことを「マルーン」と呼んだ.
その多くは餓死したり原住民に殺されたりしたが,孤独と苦難に耐え,強靭な意志によって生還したセルカークの冒険譚は,本国の英国でも話題になったのだろう.
そこに,作家の想像力がさらに豊かな肉付けを与えて誕生したのが,勇気と忍耐と信仰心に溢れるヒーロー「ロビンソン・クルーソー」だった.
海賊船の乗組員だったセルカークが,クルーソーのような高潔な人物だったとは考えにくいが,デフォーが創り出した魅力的なキャラクターは,多くの人の感動を呼び,作品は今も児童文学の古典として世界中で読み継がれている.
セルカークの漂流から300年.冒険家・高橋大輔氏が,ロビンソン・クルーソー島の森の奥で石済みの住居跡を発見し,ナショナル・ジオグラフィック・ソサエティの支援を受けて発掘調査を行った.
2005年1月に始まった調査で「AS」とイニシャルが刻まれた石が発見されるなど,きわめて重大な出土があったようだ.
成果は今秋にも「ナショナル・ジオグラフィック」で正式発表されるという.
高橋氏は10年以上前から何度も島に渡り,セルカークの足跡を追い続けてきた.
その「体当たり的追跡」の全記録は同氏の著書「ロビンソン・クルーソーを探して」(新潮文庫,2002/7)に描かれており,ぜひ一読をお奨めしたい.
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