戦史FAQ(1911年〜)

◆1911〜1975年
【質問】
なぜ上原勇作陸軍相は第2次西園寺公望(さいおんじ・きんもち)内閣を倒すことができたのか?
【回答】
軍部の特権を利用したため.
当時,西園寺内閣は,陸軍の2個師団増設要求を,財政難を理由に拒否した.
そこで1912年12月,上原陸相は帷幄(いあく)上奏をして単独辞職.
陸相や参謀総長などは,軍事問題に関し,総理大臣の承認を得なくても天皇に上奏できる帷幄上奏権を有していたが,上原はその特権を利用して上奏(辞表提出)を行ったのである.
これによって内閣は総辞職.
結果,ここに軍部が大臣辞職によって内閣を倒すという先例を作ってしまったのである.
詳しくは,山田朗著「軍備拡張の近代史」(吉川弘文館,1997/6/1),p.50-51を参照されたし.
【質問】
キジルペニン合意とは?
【回答】
1918/3/25に,ブハラ側とソヴィエト・トルキスタンの間で調印された合意.
ロシア人兵士とブハラ人の間で衝突が起き,3月には大きな衝突事件が起きたため,それを受けてのもの.
この合意により,アミールの権力は弱体化した.
以下引用.
1917年10月の革命と激動の時期には,状況は一層悪化し,流刑者を含む「ロシア人住民」の状況も悪化,権力は「過激派」あるいは「脱階級分子」の手に移った.
ロシア居留民守備隊の兵士は略奪を行い,住民から食糧,馬草をカネを支払わずに奪った.
ロシア兵とブハラ人の間で衝突が起き,ブハラ人の間で損害が拡大したが,緊張状態は1918年春まで続いた.
状況の緊迫化の中で,1918年3月に両者の間の大きな衝突事件が起きた.
それを受けて3月25日に,ブハラ側とソヴィエト・トルキスタンの間でキジルペニン合意が調印された.
アミールの権力基盤は弱体化したが,1万2000人の軍を保持することは認められた.
柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.112-113
【質問】
フィトラトとは?
【回答】
1886年生まれ.
アフ【ガ】ーニスタンと連携し,ブハラ王国の宮廷クーデターを画策する.
1918年のコレソフ蜂起に失敗.
1919年に共産党入党.
1938年,粛清により死去.
現在のウズベキスタンでは彼は高く評価されて入るという.
以下引用.
1917年2月のロシア革命によるツァー体制打倒は,トルキスタンおよびブハラ・ヒヴァ両国に大きな衝撃を与えた.
ロシア臨時革命政府は合意文書によってブハラの独立を認めた.
ブハラ政府もアフガニスタンなどと連携を深め,ロシアの次の動きに備えた.
〔略〕
当時のブハラ国内の政治勢力としては,改革を指向するジャディーディストと民主派のブロックが片方にあり,もう一方のブロックである保守派がそれに対抗していた.
アミールは保守派に与して現体制を維持しようとしたため,改革派は次第に後退を余儀なくされた.
改革派の青年ブハラ党は,新ブハラ(カザン),チャルジュイ,ケルキ,テルメズに活動の拠点を移して抵抗していた.
代表的ジャディーディストの一人であるフィトラト(1886-1938年)のグループは,アフガニスタンの有力者であるグラーブ・ナビーハーンと連携をとり,宮廷クーデターによってアミールを廃する計画を持っていた.計画が成功した暁には,ブハラはアフガニスタンの保護下に入ることも想定されていた(小松 1996: 114)※.
中央アジアの改革がアフガニスタンと一体になって考えられていたことは,コーカンド,ブハラ,ヒヴァとアフガニスタンが多面的に接触していたことによく示されている.
1918年のコレソフ蜂起に失敗したフィトラトは一時期,タシュケントのアフガニスタン領事館で働いていたこともある.
フィトラトは1919年にブハラ共産党に入党している.「ブハラの宮廷にはソヴィエト・ロシアへの接近を支持する有力な一派が形成され,ルーブル相場も著しく高まっていた」のである.
なお,フィトラトは現在のウズベキスタンでは高く評価されている.
ウズベキスタンの歴史教科書第10巻の表紙には,フィトラトの言葉として,
「歴史,それは過去の民族の高揚から崩壊までを学ぶことである」が掲載されている(Alinova).
〔略〕
なお,フィトラトなどジャディーディストや民族主義者はその後,1938年の粛正で殆ど処刑されるという悲劇を迎えることになる.
柴田和重 from 「ハンドブック現代アフガニスタン」(明石書店,2005.6.25),p.111-113
【質問】
第一次大戦後の戦間期の頃、ドイツと国民党の間には武器の販売、ライセンス生産、軍事顧問団の派遣etc…
と非常に深い繋がりがありますが、これはどういった経緯で出来上がったのでしょうか?
【回答】
第一次世界大戦前から清国とドイツ帝国との関係は非常に良好でした。
海軍の鎮遠とか…。
陸軍も精鋭軍の装備にはドイツの装備を導入していました(モーゼル小銃なんかもライセンス生産してたり)。
英国、フランス、ロシア、日本は領土的野心を剥き出しにしたのに対して、ドイツは比較的そう言った点ではマシでしたし、ドイツは清国と同じく皇帝を頭に戴く帝政でしたので、関係をすんなり築きやすかったところもありました。
清帝国が倒れてからは、中華民国となった訳ですが、その軍は従来の軍閥を吸収した格好になっていましたので、ドイツとの繋がりが切れた訳ではありません。
また、第一次大戦後のドイツは市場を欲していました。
オスマントルコが倒れた後、一番市場的に進出しやすいのは中国ですし、Versailles体制の監視の目も届きにくいことから、中国との関係が強化されていった訳です。
【参考サイト】
ドイツの対支政策と日独関係
ハプロ条約
眠い人 ◆gQikaJHtf2他 in 軍事板
鎮遠

【質問】
大正期日本の反軍思想は,どれほどのものだったか?
【回答】
編集責任・山崎正男,協力・偕行社で昭和44年に発行された「陸軍士官学校」の中に,大正期について,
「陸軍中央幼年学校本科以来,連続,遊泳演習に行っていた鎌倉の宿舎が断ってきて,やむを得ず館山へ変更したり(第36期生のとき),電車の中で鶏の蹴爪(拍車のこと)が邪魔になると言われたのも,この時代の反軍思想の現われであった」
と記されている.
【質問】
関東大震災の際,軍が朝鮮人虐殺に加わったというのは,それなりの根拠があるのでしょうか?
【回答】
軍が朝鮮人を組織的に殺害していたという事実は,無いようです.
むしろ震災から数日経過した後には,朝鮮人を演習場へかくまうなど,保護にあたっています.
しかし,間接的な責任ならば,あったといわざるを得ません.
朝鮮人殺害を行ったのは,各地の「自警団」ですが,震災直後の社会不安の中で,治安維持のため,軍は自警団に武器を貸し与えています.
この武器が結果的に朝鮮人殺害に使われたことは,事実です.
また,軍が一旦は保護した朝鮮人を,自警団に引き渡したという例もいくつかあったようです.
自警団のメンバーには,多数の在郷軍人が含まれていたのも事実です.
甘粕事件や亀戸事件のように,軍による社会主義者・無政府主義者の殺害があったこともまた事実です.
なお,殺害6000人というのは,当時の「プロ市民」の調査によるもので,政府の正式発表は死者233人です.
2つの数字のどちらがより真実に近いのかは,私には判りません.
◇ ◇ ◇
この件の,一次資料としては,3つ.
まずは「現代史資料6 『関東大震災と朝鮮人』」,次に警視庁編『大正大震火災誌』,そして東京市発行『東京震災録』.
後は聞き書きとして,1943年に編纂された,吉河光貞検事の『関東大震災の治安回顧』があり,関東大震災五十周年朝鮮人犠牲者・追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』がある.
これらを元に,関東大震災六十周年朝鮮人犠牲者・追悼事業実行委員会編『かくされていた歴史−関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件(増補版)』が編まれている.
さて,殺害された人の数であるが,内務省警保局のまとめでは,
朝鮮人:231名 中国人: 3名 日本人:59名
であるが,これは実数ではなく,刑事訴追を前提にした人数である.
内,裁判で認定された殺害人数は,以下の通り.
東京地裁管轄:39名,横浜地裁管轄:2名,千葉地裁管轄:74名,
前橋地裁管轄:18名,宇都宮地裁管轄:6名,浦和地裁管轄:94名.
計,233名.
しかしながら,実数としては以下の2つの調査結果の数字が挙げられている.
大正期の学者である吉野作造の調査,金承学が中心となった,独立新聞の調査.
前者,吉野作造調査(「遺稿・朝鮮人虐殺事件」)では,合計2,711名.
内訳は,東京:724名,神奈川:1,327名,埼玉:551名,千葉:141名,栃木:4名,茨城:44名,群馬:18名,長野:2名.
後者,独立新聞調査では,合計6,415名.
内訳は,東京:1,347名,神奈川:4,106名,埼玉:588名,千葉:324名,栃木:8名,茨城:5名,群馬:37名.
なお,中国人に対しては,後に日本政府が中国大使館に対して正式に遺憾の意を表明し,20万円の賠償金を支払っているので,「虐殺が無かった」と言う根拠は崩壊している.
ちなみに,埼玉県熊谷市での虐殺に関しては,
東京日日新聞1923年10月21日付報道で43名,大阪毎日同年10月20日
付号外で42名
東京朝日新聞同年10月17日付報道で58名
となっており,吉野作造調査の61名と大体一致するが,死体を焼却した火葬雇いが,記者に対しで48名の焼却を行った旨証言している.
このほか,土葬した者が20〜30名となっており,総数は80名近くに上る.
熊谷以北では,
神保原で42名,
本庄で100名以上(警察署内で85名が殺害),寄居で1名(飴売り),
児玉で1名(警察が後に墓を建立),
深谷で1名(轢死したことになっている)
と言う数字があり,埼玉だけでその総数を超える.
つまり,233名というのは一種のフェイクに過ぎないと言える.
最後に,対外的には日本政府は,1923年9月3日に次のように声明していることを指摘しておく.(日本政府震災朝鮮人関係文書より)
"Those found guilty will be strictly
punished.
Information Bureau Foreign Office Sep.3rd.1923"
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
余談ながら,2005年7月には次のような資料が発見されている.
以下引用.
関東大震災後:警察署長の朝鮮人保護を記した回顧録発見
関東大震災(1923年9月1日)の直後,デマをきっかけに各地で多数の在日朝鮮人が虐殺される中,横浜市鶴見区の鶴見署に300人の朝鮮人を保護した大川常吉署長(当時46歳)と,神奈川県外への放逐を迫る町議員団との,緊迫したやり取りを詳細に記した回顧録が見つかった.
同署長が朝鮮人を保護した逸話は地元では知られているが,当事者の記録が明らかになるのは初めてという.専門家も「歴史的に貴重な資料」と評価している.
回顧録は,鶴見町(当時)の町議で医師だった渡辺歌郎氏(当時55歳)が第2次世界大戦前に書いた「感要漫録」全6巻.
やりとりは,うち1冊に16ページにわたって登場する.
渡辺氏の孫(74)が,横浜市の自宅を整理中に発見した.
「朝鮮人団が略奪を繰り返し,少しでも抵抗すれば虐殺される」との話が飛び交う様子や,右の下腿(かたい)を骨折した朝鮮人に,大勢の若者が暴行を加える現場の目撃談などを記した上で,渡辺氏ら町議団と大川署長の交渉が始まる.
「率先して朝鮮人を取り締まり,不安を一掃すべき警察が,300人以上を保護するのは,爆弾を懐に入れるようなものだ.朝鮮人が決起したら30人の署員で鎮圧できるのか」
などと詰め寄る議員団.
大川署長は
「その話は根も葉もないデマ」と断言.「保護した朝鮮人の所持品検査をしたが,小刀一つなかった.収容後も従順で,握り飯に感謝し涙を流している.
一度警察の手を離れたら,たちまち全部虐殺されてしまう.収容人員が増えても方針は変わらない」
と譲らなかった.
さらに「百聞は一見にしかず」と来署,確認を勧めた.これに応じた渡辺氏はデマと確信した.
「誰が発したか分からない流言が,何の関係もない朝鮮人の命を危険に追い込み,こちらも一時的に恐怖に陥ったことは,実におろかだと恥じるべきだ」
と結んでいる.
大川署長の死後の53年,在日朝鮮人の団体が,鶴見区内にある署長の墓のそばに顕彰碑を建て,感謝した.
震災当時の朝鮮人虐殺に詳しい横浜市立大の今井清一名誉教授(近代政治史)は
「身体検査の様子や議員との交渉過程が,非常に具体的で信ぴょう性がある」
と評価している.
▼ まあ,以下の記述を見るに,当時の被災者にとっては相当な衝撃だったようだから,流言蜚語が飛び交うこと自体は無理からぬことだろうが.
[quote]
いゃァ,〔関東大震災の〕凄えの凄くねえのって,こないだの戦争の,あの空襲のときと,ドッコイドッコイてえとこでしょう.
空襲に丁と張る人がありゃァ,あたしゃァね,震災のほうに半と張りますよ.
あたしは,家にいて,あの地震にぶつかった.
[/quote]
---------『びんぼう自慢』(古今亭志ん生著/小島貞二編,立風書房,1981/2/10),p.107
▲
【質問】
なんで日英同盟って廃れたんですか?
般教の韓国人講師がニクソンショックやベトナム撤退を例にしながら、
「アメリカは過去,重要な政策変更について、日本に相談すらせずに勝手に決めた。
現在は良好な関係だが,いつ切られるか分からない。かつての日英同盟のように・・」
と繰り返し述べます。
ちなみこの講師、毒電波ってほどではないんですが、自主国防@ウリ党マンセーの人です。まぁ、善人には違いないんですが・・・・
検索したところでは,ワシントン会議でアメリカが,日英両国の海軍力を合わせればアメリカを大きく凌駕するのを恐れ、日英関係に楔を打ち込むために四カ国条約を提起した……ってまでは分かりましたが、なぜ英がそれを飲んだか分かりません。
イギリスは日英同盟を結んだのは、極東政策における必要性があったからでしょ?
【回答】
・もともと対露のための同盟だったこともあり、日露戦争後は重要性が低下
・WW1以後のアジア地域における日本の勢力拡大に対するイギリスの警戒
・WW1でヨーロッパへの支援戦力派遣を当初日本が渋ったこと等による心証悪化
・四カ国同盟へ発展的解消
などなど。理由はひとつではない。
WW1でイギリスは日本に欧州への戦力派遣を要請したが、当初は日本陸海軍とも理由をつけて断った。
たしかに最後には結局水雷戦隊を派遣したわけだし、日英同盟は極東が対象の条約であったから,義務付けられた出撃というわけでもなかった。
また、当時の日本軍の実力や規模の面から見ても,欧州への大軍派遣は難しかったというのもある。
だが、その間にも日本は極東における自国権益の拡大を着々と続けていたため、結果的に当時のイギリス世論が日本に対する不信や不満を抱いたのは当然のこと。
一方で、当時は英国とは同盟関係になかったアメリカが、陸軍200万を欧州に派遣している。
で、後の東アジアにおける日米対立に関し、イギリスがどういう態度を取ったかは承知の通り。
結局、英国としては対日関係と対米関係をはかりにかけ、米国との関係を重視した,と言える.
もちろん、そればかりが理由というわけではないけれど。時流が変われば利益相手も変わるしね。
http://www.bk.dfma.or.jp/~senshi/00-05.htm
参照.
【質問】
1932年に起こった第1次上海事変における美談,「爆弾三勇士」の話は幻だった,というのは本当ですか?
【回答】
実は,単なる事故死だったようです.
http://www51.tok2.com/home/okigunnji/hirayan/12.htm
【質問】
ボリビア対パラグアイのチャコ戦争について教えてください.
【回答】
当初は両軍とも5,000名ずつの兵力で,動員によって拡大しました.
パラグアイは,ボリビアの侵攻により,一旦3,000名まで兵力を減らされますが,国民皆兵として,根こそぎ動員を掛け,60,000名に増員します.
勿論,ろくな訓練もしていない兵士が大半だったのですが.
しかし本土防衛戦なので,地の利はパラグアイ側にありました.
分水嶺となったのは,1933年7月のアヤラ村の攻防で,ボリビアは左右両翼を,歩兵3個大隊(兵力450名,機関銃20丁)に加え,騎兵1個連隊が火炎放射器と山砲2門を持って支援,更に英国製戦車3両と機関銃搭載車2両を支援に加え,突破しようとした訳です.
加えて,予備兵力は歩兵3個連隊が右翼,1個連隊が中央,2個連隊が左翼に配置され,砲兵が15分に渡って,加濃砲25門,榴弾砲12門による準備砲撃が行われました.
しかしながら,パラグアイの機銃座を攻撃するのに,徹甲弾を用いたため,殆ど被害無く,砲兵も撃ち返さなかったので,暴露することが無かった.
でもって,パラグアイは根こそぎ動員の兵力を左翼に集中させ,ボリビアの戦車1両は,直撃弾で破壊され,豆戦車は行動不能となり,残りは壕に落ちて転覆.
右翼の戦車も故障を起こし,もう一両も小破して修理になり,更に乗員が負傷したので戦闘に参加できなくなった.
で,戦車の支援を得られなくなったボリビアに対し,パラグアイは機関銃座から存分に機関銃を発射して,ボリビア軍の足を止め,大兵力で反撃して,元の場所に押し返した.
戦車は数があったのに,兵力は逐次投入となり,機動力の発揮できない場所に投入したこと,準備砲撃が不十分だったことに加え,敵を甘く見過ぎていたことが敗因となりました.
なお,パラグアイはボリビアの司令部を占領したりして,結局,勝利しています.
ちなみに,この戦争でのボリビアの戦死は25,000名,負傷50,000名.
一方のパラグアイは,12,000名戦死,26,000名負傷となっています.
◆ハンガリー動乱
【質問】
ハンガリー動乱って何?
【回答】
1956年10月23日,ハンガリー国民の政府に対する蜂起から始まった,一連の政治的および武力的衝突.
いったんは,大衆に人気のあるナジ・イムレがハンガリー勤労者党によって首相に任命され,ソ連支配から脱したように見えたが,ソ連軍の武力介入であぼーん.
【質問】
ハンガリー動乱が起きた原因は?
【回答】
・経済の崩壊
・農民に打撃を与えた土地政策.
・大学の狭き門ぶりと学ぶ環境に対する学生の不満
・改革派とスターリン主義者との内部抗争による,ハンガリー勤労者党の指導力低下
が原因.
蜂起した人々の要求は
・土地を所有して耕す権利
・工場の自主管理と自由に労働組合を結成できる権利
・言論の自由
・ソ連軍撤退
・反民族主義政策緩和
・民主議会
・カトリック教会の自由
といったものだった.
……あれ? 共産党って「労働者のための党」のはずだよな?w
【質問】
ハンガリー動乱での,市民とソ連軍との戦闘はなぜ起こったの?
【回答】
10月23日当初からブダペシュトではソ連軍との戦闘があったが,しばしば停戦し,結局は戦闘を停止した.
まあ,よほどの狂信的共産主義者じゃない限り,丸腰に近い市民を撃てはしないわな.
10月25日の戦闘は,誰が最初に発砲したのか分かってないが,秘密警察のしわざじゃないかとも言われてる.
確かに動機の点では彼らが一番疑わしい.
ソ連軍と市民との間では話し合いが行われ,説得に応じてハンガリー人を戦車に載せ,国会前広場へと移動した戦車兵もいたくらいだったのだから.
のちのルーマニア革命でも一番抵抗したのは秘密警察(セクリタテ)だったしね.
この戦闘では死者約100人,負傷約300人.
けれど10月27日夜には,ミコヤン・ナジ会談の結果,ソビエト軍は撤退する(10/30〜).
11月4日のソ連軍再侵攻は,10月30日に秘密警察や共産党(勤労者党)書記らが民衆によって虐殺されてから.
この報告を聞いてミコヤンは考えを変えた.これは反ソビエト活動だと.
ナジは中立を宣言したが,国連や西側諸国からの具体的支援は無し.
かくしてソ連軍は再び国境を越える.
今度は説得されたりしないよう,部隊は中央アジアから連れてこられた.
「彼らはベルリンにナチスの反乱を壊滅しに来たのだと信じていた.
またある者は1956年のスエズ戦争のエジプトでイギリスやフランスと戦っていると信じていた」(ウィキペディア)とか.……天安門事件の鎮圧でも,中国が似たようなことやってたなあ.
10月29日に結成されたばかりの,ハンガリー警察,軍隊,市民から成る国民防衛隊との間で戦闘勃発.
11月4日.ソ連軍,戦車2500両,15万人がブダペストに侵入し,国会を占拠.
ナジはユーゴスラビア大使館に逃げ込んだが,逮捕される.
11月10日に労働者評議会が休戦を呼びかけるまで,戦闘は続いた.
ハンガリー側の死者,1万7千人.ソビエト側,1900人.
他にナジはじめ1200人が処刑.難民は20万人に達した.
【質問】
ハンガリー動乱は
「生活苦を訴える労働者のデモが暴動化し,ついにはソ連軍が介入した事件」(林信吾著『反戦軍事学』(朝日新聞社,2006/12/30),p.146)
だったというのは本当ですか?
【回答】
まあ,民衆による秘密警察・共産党員虐殺をどう表現するかの問題でしょうが,「暴動化」というのは,ちとニュアンス的に変ですね.
それに,林の表現ではまるで,ソ連軍侵攻はハンガリーの治安回復のための正当な行動だったかのようにしか読めませんし.
少なくとも,ハンガリー人の前ではそんな表現をしないほうが身のためでしょうな.
◆1957年〜
【質問】
アルジェリアで,'50年代になって初めて独立戦争が始まったのは,なぜですか?
【回答】
実際には1830年のフランス占領以来,ベルベル人による抵抗は収まっていなかったのですが,組織的な戦闘行動は19世紀末で一旦収束します.
それが変わったのは1940年のフランス崩壊が引き金になっており,ヴィシー政権から自由フランス軍が他の委任統治領を自陣営に引き込む際に,独立を餌にしたのがきっかけです.
しかし,自治を求めた1945年5月のプティット・カビリアでの暴動は弾圧されています.
もともと,アルジェリアにはアルジェリア法規に従った議会制自治が存在しており,此処に原住民も加わっていました.
1946年,各国の植民地独立の動きに呼応して,自由民主勝利運動(MTLD/メッサリ・ハジ指導)と,アルジェリア人宣言民主同盟(UDMA/フェルハト・アッバス指導)が完全なる原住民による自治を要求します.
ところが,フランス人入植者(コロン)はそういった自治が発展して独立し,自分たちの土地や資産を没収されることを恐れ,1947年に不正選挙によって,そのアルジェリア法規を骨抜きにしてしまいます.
つまり,イスラム系と欧州系は6:1の人口比なのに,議員の半数は欧州系で占められていました.
しかも,1948年の選挙では,選挙権を行使したのは少数のイスラム系住民で,その議席数は僅かなものでした.
これに伴い,原住民側は態度を硬化させ,ベン・ベラ,クリム・ベルカセム,ベン・キデルなどによる民族解放戦線(FLN)を組織し,各種の抵抗運動を行ないますが,これらは悉くフランス駐留軍の妨害に遭い,しかも,第四共和制政府は当初,仏領インドシナと並んで,この土地の死守を考えていたため,彼らコロンの動きを消極的に支持しました.
1954年,アルジェリアの原住民内部の暗闘の結果,武装闘争派が多数を占めるようになり,各種ゲリラ作戦を展開,こと此処にいたって,消極的支持だった総督府の姿勢は積極的介入に転換され,泥沼の戦いが始まった訳です.
【質問】
インドシナ戦争とベトナム戦争の違いを教えて。
▼
【回答】
簡単に言えば、インドシナ戦争はフランスとの戦い、ヴェトナム戦争はアメリカとの戦い。
インドシナ戦争は、別名をフランス・インドシナ戦争と言い、四回に渡って行なわれています。
最初が1858-63年で、ナポレオンIII世がインドシナへのシャムの進出を牽制し、かつ、フランス人宣教師がヴェトナム人によって迫害されるのを止めさせようとしたもので、1858年の晩夏にフランス、スペインの連合軍が、ダナンを占領したのが最初。
しかし、熱帯病と食糧不足に悩まされ、首都フエへの進撃をせず、代わりにサイゴンを占領。
ところが、ダナンでは新たにこれらが発生した上、フランスは第二次アヘン戦争にも関わっていたので、和平を模索したが、翼帝嗣徳※1が拒否。
サイゴンでは、ヴェトナムの包囲軍に対し、良く持ち堪え、1861年に援軍によって解放された。
また、第二次アヘン戦争で中国からフランス軍部隊は解放され、その兵力を以て東コーチシナに進軍、また翼帝側もトンキンで叛乱が起きた為、和平を受諾。
フランスは、サイゴン、ミト、ビエンホアの東コーチシナ三省とコンソン諸島を割譲され、フランス貿易のために三つの港を開港、信仰の自由の確認と多額の賠償金を得る。
第二次は1873〜74年、フランソワ・ガルニエが当時まだ開かれていなかったハノイに派遣され、フランス人密輸業者の釈放を強要。
ハノイ当局がその指示に従わなかった為、彼が連れていた軍隊はハノイ要塞を占領し、紅河デルタ地帯の要塞軍を占拠、北部の主要都市の大半を掌握。
しかし、黒旗海賊と言われるヴェトナムと清の連合軍※2が決起、1873年末にガルニエを捕らえて殺し、フランス船は拿捕、トンキン地方のフランス寄りの街は襲撃を受けたため、一旦フランス軍は北部から撤退。
但し、翼帝に対して、フランスのコーチシナ支配を認めさせ、キリスト教徒の迫害を認めさせないとした上、紅河の交易路の使用を認めさせる。
第三次は1882〜83年。
清がヴェトナムに対する主権を宣言し、軍を派遣の上、トンキンを占領。
フランスは未だにキリスト教徒迫害が続くのに憤慨し、植民地拡張政策を実施して清と対立。
リヴィエール大尉を中心とした軍をハノイに派遣して、清軍と黒旗海賊の掃討を実施。
彼はハノイ要塞、ナムディン沿岸、ホンゲイ炭坑を占領したが、大尉は反撃を受けて戦死。
フランスは増援部隊を送り、トンキンをヴェトナムから割譲させる協定を翼帝から取り付ける。
清がその協定に反対すると、フランス軍はハイフォン、ハノイを攻め落とし、フエを砲撃。
最終的に、トンキン、アンナンはフランスの保護領トンキンは保護領,アンナンは保護国※3になった。
第四次は最終戦争みたいなもので、1946〜54年。
1945年の日本軍撤退後、ホーおじさんのヴェト・ミンが独立国家「ヴェトナム民主共和国」の独立を宣言したが、フランスは自治国家としての独立を主張.
これに反発したヴェトミン軍が、46年12月、フランスの守備隊を攻撃し、各地でゲリラ戦を展開。
ホーおじさんは当初は交渉路線で,しかも自治国家もやむを得ずとしたのに,再進駐してきたフランス軍がこれを認めず,攻撃してきたので戦争になった.※4
1949年には廃帝バオ・ダイをフランスは担ぎ出し、彼の下にフランスの傀儡政権、「ヴェトナム臨時政府」を樹立させ、支配の正当性を主張。
しかし、徐々にヴェトミン軍は浸透し、54年3月13日から5月7日にかけてのディエンビエンフーの戦いでフランス軍が降伏、その間に交渉が進められ、フランスは北緯17度線まで撤退。
その間の交渉により,ジュネーブ会議でアメリカとの対立を回避したかったロシア・中国からの「説得」によって,ベトミン側はやむなく17度線まで後退.※5
ヴェトナム戦争はその後、1956年から75年にかけて行なわれたもので、ホーおじさん率いる、ヴェトナム民主共和国を後ろ盾とするヴェトナム独立同盟会南部解放民族戦線ことベトコン(アメリカ・南ベトナム側からの蔑称)※6と、ヴェトナム共和国との間での内戦が勃発。
その内戦に介入したのがアメリカ軍で、彼等はまずヴェトナム共和国軍に軍事顧問団を派遣。
1961年からはその軍事顧問団に戦闘権限を与え、64年8月2日、トンキン湾にいた米海軍駆逐艦を攻撃したと言うニュースにより、ジョンソン大統領が介入を決断し、議会から武装攻撃撃退の権限を与えられ、北爆とヴェトナム共和国での戦闘の為に米軍部隊が派遣される。
一方、ヴェトナム民主共和国側も直接戦闘に関与し、南に侵攻を開始。
68年1月末のテト攻勢、69年7月には陸上部隊のヴェトナム化による米軍部隊撤退。
72年、ヴェトナム民主共和国軍は南部ヴェトナムの北側を占領し、米軍は報復としてハイフォン港を機雷で封鎖し、12月には徹底的な都市爆撃を行なった。
73年1月27日に停戦の合意が成ったが、戦闘は散発的に続き、74年にヴェトナム共和国軍部隊は遠隔地の前哨部隊を撤退、大都市部に軍隊を集中したが、75年にヴェトナム民主共和国軍の攻勢を支えきれず、ヴェトミンは中央高地を支配し、共和国軍はクァンチ、フエを放棄、残存米軍も撤退を開始。
4月30日、ヴェトナム共和国は無条件降伏し、民主共和国軍とヴェトミン軍解放戦線軍※6はサイゴンを占領。
長く続いた戦いは終りを告げる。
※1
正しくは翼宗嗣徳帝です.翼宗が廟号.嗣徳は年号.
阮朝は一世一元なので通称嗣徳帝.
「翼帝」という表記は熟していません.
翼宗という呼び方も通常は使いません.
※2
劉永福率いる黒旗軍は太平天国の残党(他にも数種類いた)で,山岳部(現在の行政区画で言うと西北山地地方)を拠点としていました.
水賊はそれ以前からトンキン各地で跳梁跋扈していたが,基本的に黒旗軍とは別系統.
フランスはそう見なしていたのかもしれませんが,「黒旗海賊」という呼称は不適当かと.
また,黒旗軍は清朝から見れば反乱軍の残党なので,ベトナム・清連合が結成されるのは多少遅れます
(清朝側が使えるものは何でも使おうと言うことで,黒旗軍にお墨付きを与えたはず).
日本語で詳しい書籍は
山本達郎(編)『ベトナム中国関係史』(山川出版社),
坪井善明『近代ヴェトナム政治社会史 ――阮朝嗣徳帝統治下のヴェトナム』(東大出版会).
※3
トンキンは保護領で,アンナンは保護国です.
フランス語での区別はちょっと今出てきません.ごめんなさい.
※4
このように記憶してます.
最初の一手はフランス側だったのでは?
東南アジア史に関する概説書は概ねそのように記述しているはずです.
※5
これは視点の置き方ですが,ベトミン側の支配地域はもっと広かったけど,ジュネーブ会議でアメリカとの対立を回避したかったロシア・中国からの「説得」によって,やむなく17度線まで後退したというのが通説だと思います.
※6
「ヴェトナム独立同盟会」はベトミンのことです.
ここで当てはまるのは「南部解放民族戦線」ことベトコン(アメリカ・南ベトナム側からの蔑称)でしょう.
最後の文の「民主共和国軍とヴェトミン軍」も,「民主共和国軍と解放戦線軍」となるはず.
▲
【質問】
フランス軍は,ヴェトミンのゲリラ戦にどう対処したか?
【回答】
柘植久慶「麻薬戦争地図」(銀河出版,'93)によれば,以下のように説明されている.
フランス軍は46年末,ヴェトミンのハイフォン蜂起を完全に叩き潰す.
しかしこれにより,ヴェトミンが戦術を180度転換,農村部を中心とするゲリラ戦に転じ,なかなか正規軍の作戦行動では捕捉できなくなる.
そこで特殊作戦の必要性が痛感され,山岳部族の組織化が考えられた.潜入してくるゲリラの侵入路を,山を熟知した山岳民族の部隊で攻撃せんとする計画だ.偵察行動にしても山岳民族には卓越したものがある.音一つ立てずに山岳地帯を移動し,敵を発見すれば,弓矢で音もなく倒した.
その組織化の中心となったのが,フランス軍落下傘部隊のトランキエ少佐だった.彼は通称「レッド・ベレー」の優秀な指揮官として知られ,陸軍士官学校を卒業しているが,実に柔軟な発想の持ち主であり,現地人傭兵の組織化を実行に移した.
彼は大佐としてアルジェリアの反ド=ゴール叛乱に参加.後,コンゴにおいてカタンガ共和国傭兵隊を組織化し,その地の共産化防止に尽力した.近代フランスの伝説的軍人の一人で,フランス人は「タンキエ」に近い発音で彼を呼ぶ.
インドシナにおける少佐の活動は,中部高原からトンキン地方にかけ,山岳部族の集落ごとに接触することから始まった.気長に交渉しては説得し,味方につけるという,本格的な宣撫工作を徹底した.
トランキエ少佐の考えは,軍首脳部から拒絶反応を食った.そうなると軍資金が問題となる.そこで活路を阿片に求めた.山岳民族に芥子を栽培させ,収穫した阿片を安定した価格で買い上げ,彼らに収入の道を与える.それを阿片専売公社に売却し,収益を得た上で軍資金とする.
これを少佐が麻薬取引に関係したと直接,結びつける訳にはいかない.なぜなら,阿片を10倍精製するとモルヒネができるが,それは鎮痛剤として合法的な物であると同時に,重要な軍需物資として欠かせない物でもあるからだ.モルヒネこそ軍隊が戦闘する際の基本的な薬品と言える.
豊富な軍資金を得た少佐は,それを元手に山岳部族の若者達を徴募した.彼らはヴェトナムへ連れていかれ,サイゴン近郊のヴンタウ訓練キャンプで教育された.〔略〕
余談だが,後のラオス政府軍第2軍団を率いたヴァン・パオ将軍は,こうして徴募されたメオ族兵士の一人である.彼は軍曹としてフランス軍に在隊し,その後に才覚を発揮して,瞬く間に昇進を遂げた.
彼はメオ族軍人で最も成功を収めた人物として知られた.1932年生まれで,その人生は戦いで終始した.54年にゲリラ戦の経験を買われ,陸軍少佐としてラオス陸軍に奉職.内戦下ではプーミ・ノサヴァン将軍を支持,第2軍司令官に任命された.
こうして編成された山岳部族の反共ゲリラ部隊は,インドシナの山地を縦横に活躍していく.彼らはインドシナ3国の他の民族より勇敢で,敵に積極的に立ち向かった.
戦果は上がったものの,軍首脳部は以前としてトランキエ少佐に100%の支持を与えようとはしなかった.
〔略〕
トランキエ少佐は大佐に昇進,インドシナにおけるレッド・ベレーの司令官となる.
しかし,この地での彼の活躍は,54年で終わりを告げた.フランスの敗北が決定的となり,ジュネーヴ協定が締結されたからである.
(P.17-20)
【質問】
アルジェリア戦争では,どんな航空機が投入されたのか?
【回答】
『ベトナム人民軍隊』と言う本が届きました.
Vietnam軍の中の人にもしっかり話を聞いたり,国防省内部の記録を調べたりした中々面白そうな本です.
そのVietnamと再三戦ったのがFrance軍です.
彼の国は,植民地の独立については徹頭徹尾弾圧で臨み,Algeriaでも同じように植民地戦争を戦いました.
しかし,Algeriaの戦場は広く,かと言って大量の軍隊を投入することは出来ない.と言う事で,反政府軍が持っていない航空戦力を駆使して,空から攻撃を仕掛けました.
携帯SAMの無い時分のお話です.
最初に投入されたのは,第二次大戦中のドイツ空軍練習機,Ar396から発展したSIPA
S.12/111練習機に爆弾や7.5mm機関銃を取り付けたものでした.
ところが,これを武装するとエンジン出力が足りず,しかも,砂漠地帯なので出力も出ない,出力が出ないので搭載量に制限がある,なので,効果的な攻撃が出来ない…とまぁ,悪循環.
こうして,France空軍では反政府勢力を攻撃する為に適当な機体がないか,と色々な試行錯誤を行います.
この様な機体は,未だ何処の国も開発していなかった為です.
そして,Franceの航空業界にとって,これはBusiness
Chanceになったのですが,彼らの頭は未だに第二次大戦前の「土民軍」相手の機体しか想定していませんでした.
実際には,彼らの相手は近代兵器で武装した連中だったのですが….
1953年に出現したのが,Potez75.
低翼単葉双尾翼の優雅な機体で,戦前から連綿と続くPotez8D.32発動機を後部に配し,推進式にプロペラを回す.
機首に20mm機関砲1門と7.5mm機関銃2丁を装備し,翼下にAS.11/12を搭載出来るものですが,試作機は開放式操縦席,しかもスパッツ付固定脚の代物で,幾度か改造されましたが,結局採用されませんでした.
固定脚,開放式操縦席と言った「土民軍」相手の性能の植民地用軍用機では,近代的な装備を持つ反政府勢力に太刀打ち出来ないことを,Vietnamで思い知らされたFrance空軍は,仕様を見直します.
そして,1958年に相次いで登場したのが,生存性を考慮して,ピストン発動機双発としたSUD-Est
S.E.116 Voltiguerと,SIPA 1100,そして,炎上し難いターボプロップ単発のMorane-Sornier
M.S.1500 Epervierの三機種です.
このうち,S.E.116は,試作段階ではピストン発動機を搭載していましたが,量産時はターボプロップに換装される予定でした.
ターボプロップ装備型は,同じエンジンを装備しているので,その昔,フォークランド紛争でバタバタ落とされたI.A.58に非常にシルエットが似ています.
前二者は,双発にして生存性を高め,20mm機関砲2門の重武装,更に反政府勢力を見つける為の視界を考慮して,先頭に,第二次大戦時代の爆撃機の様な照準窓を設けたり,操縦席の足元を透明風防にしたりしています.
こうして上空から発見した敵を急襲出来る様,,急降下性能も良くするべきとして,機体構造は頑丈に,S.E.116では大きなエアブレーキを胴体側面に設けています.
また,引込式になりますが,主脚は頑丈に造られ,不整地飛行場でも運用できるようになっていました.
但し,両者とも尾輪式だったりしますが….
これらのうち,SIPA 1100については10機の前量産型発注を受けますが,結局量産されずに終わりました.
一方のS.E.116もターボプロップ装備のS.E.116が1機と前量産型S.E.117が1機造られて,試作止まりになりました.
植民地戦争による国内混乱と不景気による業界再編の影響で,S.E.117は,Flamant輸送機の後継機を開発しようとしていたDassaultに開発メンバー共々移され,発展途上国向け多用途機M.D.410
Spiraleとして開発が継続されます.
また,Sudが計画していたS.E.117の主要componentを用いたS.E.118
Diplomateも,Dassaultが計画を継続して,M.D.415
Communauteとして1959年から3年間試験や開発が続けられました.
1962年,その集大成として,軍用機として開発されていたM.D.410を大改造して,M.D.415と同型に改造します.
これは,主尾翼を同じにして,配置は中翼から低翼にするという徹底改造で,軍用型の胴体は機首も含めSmartに整形されました.
このM.D.415,民間登録記号F-WJDNは,試作機として種々のテストに用いられました.
此処で得られたデータを元に,満を持して登場させたのが,今でもDassaultの屋台骨を担っている,FalconシリーズのBusiness
Jetだったりします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月28日21:49
1954年,FranceがVietnamから叩出された時,France空軍は,「Algeriaで使用する陸軍支援用の単発軽攻撃機」の仕様を各社に提示します.
双発攻撃機(因みにこれについては,主にA-26が使用されていました)については先日も触れましたが,単発機としては,1958年にMorane-Saulnier
M.S.1500 Epelvierが試作されました.
前に試作されたPotez75に比べ,機体は大変洗練され,ターボプロップを装備(試作1号機はTurbomeca
Marcadauを,量産型は同じくTurbomeca Bastanを)して,全体的に小型化され,機動性は大きく向上しました.
陸軍支援用途なので,部隊を識別,発見する必要性から,視界を大きく広げる為,バブル型の大きなキャノピーを付け,脚は不整地着陸用に尾輪式かつ固定脚で,主脚にはリンク式の緩衝装置を付けていました.
更に,翼前縁にスラットを付けて低空性能を向上させています.
また,夜間攻撃に対応出来る様,翼端に小型のサーチライトを取り付けています.
この機体は,植民地に於ける対ゲリラ攻撃用として想定されていましたが,生産費を更に下げる為,海軍でも軽空母用の対潜哨戒機として,Br.1050を補完するものとしての採用検討が進んでいました.
ところが,原型機はMarcadauを採用したのですが,これは360shpと明らかに出力不足で,BastanIが完成すると原型機はこれに換装します.
このエンジンは650shpと元の倍近い出力が出るのですが,完成度が低く,直ぐに700shpのBastanIIに換装され,改良型のBastanIIBが750shpを出すと,これまた直ぐに換装され,と言った事を繰り返し,中々苦労しています.
2号機はBastanIIB装備で翌年に完成し,種々の試験が行われますが,搭載量不足は否めず,性能的にも不足して,France空軍は遂に国産機の装備を諦め,米軍余剰T-28の大改造案が採用されることになりました.
試作機のみで終わったM.S.1500ですが,その後,Turbomecaのエンジンテストベッドとして,BastanIIIA,IV,AstazouXIV,XVI,XVIIIなどを試験し,余生を送っています.
さて,結局,Algeria用の軽攻撃機として採用されることになったのが,Sud
Fennecです.
この機体の基になったのが,米空軍が全ジェットの練習機体系となって余剰となっていたT-28Aです.
元々は高等練習機にも使える機体として開発され,海軍向けのT-28Bでは,800馬力のエンジンを1400馬力のエンジンに換装しており,機体には何ら改修が行わなくてもそれが出来る事,元々武装が可能で,照準器もF-86と同型のものが装備されていることなどが決め手になりました.
France向けの最初の機体は,1959年にNorthAmericanで改造されますが,エンジンは海軍機と同じく,1425馬力のR-1820-9に換装して馬力を強化し,主翼下面に爆弾架を4カ所設け,操縦席に装甲板を張り巡らせて,対空砲火対策を施しました.
Fennecは,1960年からSudでの改造が始まり,146機のT-28Aが改造されて,Algeriaに送られ,EALAの3/04,3/05,3/09,3/10で,T-6Gの後継機として配備され,過酷な戦線に投入されていきます.
North Americanはこの時のKnow-howを基にT-28Dを開発し,これまた余剰の米軍機を改造して,Vietnamなどに輸出しますが,1962年のAlgeria独立後に本国に引揚げられたFennecは,25機がMorocco空軍に,他に主力艦載攻撃機としてArgentine海軍に,Cambodia王国空軍,Haiti空軍に合計63機が引き渡され,残りは再び米国に返却されて,再び発展途上国に引き渡されて,再度のご奉公を努めたりしています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年07月29日22:18
Potez75


撃墜されたSIPA S.111A@Algeria戦線

MD.415
MS1500

T-28D Fenec@Algeria戦線

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 「軍事板常見問題 mixi支隊」
◆キューバ革命
【質問】
キューバ革命について分かりやすく教えて下さい.お願いいたします.
【回答】
1953年7月26日,Fulgencio Batistay Zaldvarを打倒するために,Cuba国民の意識を煽ろうと,Fidel
Castroが,
200名の若者と共に,サンチャゴのモンカダ兵営を襲撃しました.
これは武器の入手などの問題によって失敗に終わり,Fidel
Castroたちは逃げ延びますが,数ヶ月の潜伏の後,自首し,裁判の結果,15年の禁固刑を喰らいます.
この時にFidel Castroが行った自己弁護の抗弁がCuba国民の心を打ち,彼は若者の間で英雄となりました.
それから11ヶ月後の1955年5月,政治犯を対象とする一般大赦で,Fidel
Castroは監獄から解放されます.
彼等は直ちにMexicoに向い,そこでFulgencio
Batistay Zaldvarの打倒計画を練ります.
今回は武器をきちんと調達し,1956年,81名の軍勢を率いたFidel
Castroは,武器弾薬を積んだヨットでCubaに帰還.
彼等は,多くが捕縛されたり殺害されたりしますが,残党はオリエンテ州のシエラ・マエストロ山脈に逃れ,その山岳地帯から,2年の間,ゲリラ戦を展開します.
勢力はいや増し,軍や警察も手出しできず,Fidel
Castroの部隊は数百人の勢力に膨れあがりました.
1958年秋,彼はFulgencio Batistay Zaldvarへの全面戦争を宣言し,山岳から降りて,先ず,ラスビリャス州の州都サンタクララを12月31日に制圧,Fulgencio
Batistay Zaldvarは,政府が一切自分を支援しなくなったことに気づき,1959年1月1日に政府を3人の軍事評議会に委任し,不正利得を携えてDominicaに家族と共に亡命.1月3日,Fidel
Castroは自分の配下の混成部隊を率いて,ハバナに入城し,臨時政府を樹立しました.
【質問】
キューバ革命のことについて調べてるんですが,あれはプロレタリア革命なんでしょうか? それとも,民族に主観をおいた民族革命なんでしょうか?
いくつか本をあさってみたんですが,
片や「はじめから社会主義を目指してたわけじゃない.それどころか反共」という趣旨のことが載ってたり,
片や「最初から労働者階級のための革命だったんだ」ということが載ってたり.
それに,カストロ自身の発言も二転三転しててよく分からんのです・・・・
【回答】
基本は,アメリカの支配下にあったキューバのバチスタ政権を倒して,真の民族自決(キューバは当時,米国の属国状態)を目指そうとしていました.
で,政権打倒が成功したら,親米路線になろうとしたりするのですが,米国の方から共産主義者認定をされてしまって経済封鎖を掛けたので,仕方なしに,敵の敵は味方という格言通り,ソ連に擦寄らざるを得ないわけで….
ここらへん,ヴェトナムとか,エジプトなんかも同じような歩みをしています.
眠い人◆gQikaJHtf2
個人的には共産革命というよりは「合衆国の南アメリカコントロールへの対抗」に近いとは思っていますが.どちらかというと民族主義的革命に近いと思いますが,汎南アメリカ思想的なものも見えるので,微妙なところですね.
【質問】
エルネスト・ゲバラは何をした人なんですか?
【回答】
ゲバラ【Ernesto Che Guevara Lynch】(Cheチェは愛称) 中南米の革命家.(1928〜1967)
Argentinaのロサリオ市に生れ,1947年にブエノスアイレス医科大学に入学.在学中(1951〜52)Chile,Peru,Ecuadorなど南米大陸をバイクで旅行.1953年医学博士となる.
当時,Argentinaを支配していた,Juan Domingo
Pernの独裁を逃れて南米を渡り歩き,Guatemala革命の失敗を目の当たりに見る.
1954年,Mexicoに渡り,1955年にFidel Castroと出会い,翌年Grandma号でCubaに赴き革命に参加.
第二部隊の指揮官として,ゲリラ戦を指導し,革命成就に大きな影響を与えた.
1959年,革命政権の下で国立銀行総裁.
1961年,工業相に就任.
1962年,Cuba統一革命組織幹部会メンバーを歴任し,外交活動でも活躍.
1965年,Cubaを去り,各地のゲリラ勢力を支援.
1967年,Boliviaでゲリラの指揮中,政府軍に暗殺される.
著書に,ゲリラ戦,革命戦争の旅,ゲバラ日記.
◆1959年〜
【質問】
キューバ危機(1962/10/16〜10/28)当時,JFKが麻薬漬けだったというのは本当か?
【回答】
大統領選挙のTV討論で,視聴者に対立候補であったニクソンより若く健康的な印象を与え,大統領となったケネディですが,実は…… というのが,Discovery Channelの番組『病んでいた政治家たち ケネディのアジソン病』です.
ケネディは子供の頃,弟から
「兄の血を吸うと蚊も死ぬよ」
と云われるぐらい病弱で,副腎の働きが衰えて,ストレスに対する抗力が弱まり,病状が悪化すると死ぬ可能性があるアジソン病を患っていました.
大統領選の補選で,対立候補にこのことを暴露されますが,口八丁で危機を乗り切ります.
ケネディの持病であるアジソン病には,色素沈着を起こさせるそうで……
ニクソンとのTV討論のとき,ケネディの髪が黒々として,肌も日焼けして健康的で若さに溢れ,エネルギッシュに見えたのは,実はアジソン病による色素沈着の影響だったそうな……
何がどう影響するか分かったもんじゃないですな (w`;
また,アジソン病を抑える薬の副作用で性衝動が高まってしまい,かなり奔放な性生活を送っており,10代で性病の治療を受け,遊説中,若い女優と7分でことを済ませたり,東ドイツの女性(駐在武官の妻)と関係をもって,安全保障問題に発展しかけたこともあったそうです……
また,足の長さが違い,生涯背痛に苦しんで,大統領になってからは,バスタブやトイレから指示をだしていたそうです.
その痛みを和らげるために呼ばれた医師が,やたらめったらアンフェタミン(麻薬)を患者に(黙って)与える医師で,ケネディはいつの間にか麻薬漬けにされ,フルチショフとの会談前にもアンフェタミンを摂取し,キューバ危機の時にもアンフェタミンを打っていたそうな……
(で,この医師,ジェイコブソンは 『快楽を与える医者』 と呼ばれ,晩年はウランを隠し持っていて 『これが活力を与えてくれるんだ』 とのたまっていたそうな…… DQN医師だよなぁ……)
最後,ケネディは暗殺されるワケなのですが,SPが警護することに疑問を持つぐらい『危機を回避する意志』 が欠けていて,ああいう最後を迎えたのは自明の理だったかもしれませんね.
(射殺された日 ケネディは背中にだけ装具をつけていて,一発目が咽を撃ち抜いても体が倒れず,直立不動の姿勢になり,二発目で頭を撃ち抜かれたそうな)
でもまぁ,射殺されてなければ,もっと他の形で人々に記憶されていたかも…… (w`;

ベタ藤原 in mixi,2006年03月22日
子供にも分かるディスカバリー(笑
http://www.kiseiza.net/jfk/jfk.htm
寄星蟲 in mixi支隊
【質問】
なんで1968年のプラハの動乱は「プラハの春」って呼ばれてるのでしょうか? プラハ動乱やプラハ事件じゃ駄目なんでしょうか?
【回答】
「チェコスロバキア動乱」と呼ぶ人もいるし「プラハの春事件」と呼ぶ人もいる。
単に「プラハの春」というのは、本来は介入事件以前の改革のこと。
言っちゃなんだが、ハンガリー動乱の死者数千、亡命者二十数万に比べると、動乱と呼べるようなもんじゃなかった。
あっさり鎮圧されて、市民の抵抗と言えば投石したり、戦車の砲口に花束を差したりといった程度のもんだった。死者も偶発的な数人程度だったと思ったな。
へタレというのか、平和的というのか、圧殺された革命とは言っても他の東欧の動乱とは一味違っていたから「プラハの春」だけで、潰された改革を意味しているってことだろうね。
そういえば、東欧改革のときもビロード革命とか言って、殆ど死者は出なかったように思うから、国民性もあるんだろうな。
【質問】
サッカーの試合が原因で戦争したバカな国はどことどこですか?
【回答】
ホンジュラスとエルサルバドル.1969年の話.
ただし,ホンジュラス国内へのエルサルバドル系住民の不法大量流入,ホンジュラス政府による彼らの追放が武力衝突の直接の原因だったりするので,「サッカーが原因」というのは一面的な見方ではないかと思う.
軍事板
ワールドカップ・メキシコ大会予選の結果は,あくまでも両国対立の触媒でしょう.
エルサルバドル,ホンジュラス間は不法移民問題のほかに国境問題も抱えていたりしています.
また,ホンジュラス政府が制定した「農地改革法」によってエルサルバドル不法移民の開拓した土地を没収し,生粋のホンジュラス人に与えるという政策(しかも,収穫期になって立ち退きを命じることがしばしば起こった)を,強制送還された移民から伝えられて,エルサルバドルの対ホンジュラス感情悪化,という経緯もあって,当時の両国の国民感情は最悪だったのです.
確かに,試合の結果が引き金になってホンジュラスでの反エルサルバドル移民暴動,それらを背景とした移民強制送還というのが起こりましたが,それらはあくまでも「最後の一押し」であり,それまでに対立する土壌は既に整っていたのです.
ちなみに,この戦争はレシプロ戦闘機同士の空中戦(両軍のF4U戦闘機同士が交戦した事もある),撃墜が起こった最後の戦争だったりします.
【質問】
中越紛争を起こしたのは何故か?
【回答】
橋田信介の言葉を信じるならば,「ヴェトナムへの懲罰」の衣を纏った,ケ小平と軍との政治闘争の場外乱闘.
以下,引用.
[quote]
1979年1月,訪米したケ小平は,ヴェトナムを「懲罰する」と発言した.近代以前の,この懲罰という言語を批判した〔日本の〕新聞はどこもなかった.
中国はカンボジアのポル・ポトを支援していた.
そのカンボジアにヴェトナムが侵攻した.
ヴェトナムとカンボジアは,その前年辺りから国境で小競り合いを続けていた.
〔ケ小平の言葉は,〕とにかくヴェトナムが,自分の子分であるカンボジアに手を出したから,親分である中国がヴェトナムに懲罰を加えるという意味である.
中国は元元ヴェトナムを子分であると考えていたから,よけいに腹が立つのだろう.
懲罰という言葉に,近代以前の中国の素顔が見える.
〔略〕
戦争は冷静な政治的計算で行われる.
ヴェトナムに侵攻した中国もそうだった.
ケ小平は既に共産党内部での実権を握っていた.
しかし,軍部には毛沢東思想を掲げる反ケ小平グループがいた.彼らはケ小平の軍近代化路線に反対し,武器(唯武器論)よりも精神(唯心論)を掲げていた.
中越戦争でヴェトナム側の捕虜になった中国の将校は,記者会見でこう演説した.
「我々,中国人民解放軍は毛沢東思想に基づいて,これからも唯心論を高く掲げて永遠に戦い続ける」
中国からヴェトナムに侵攻してきた中国軍は,主に西南方面軍の軍隊だった.
この軍区の軍隊は,毛沢東思想に染まっていた.13師団,約13万人がドラや太鼓やチャルメラの音と共に,怒涛のようにヴェトナムに侵攻してきた.
ヴェトナムの軍隊は,ソ連によってそれなりの近代的兵器を持っていた.
中国の兵器は,殆どが前近代的なものだった.そういう兵士が,文字通り雲霞の如く押し寄せたのである.
ソ連製の高射砲〔原文ママ〕や迫撃砲は,小銃だけの中国兵を容赦なく粉砕した.
それでも中国兵は,ラッパを片手に次から次へと進軍してきた.
この戦争による中国軍の死傷者は,正式には発表されていない.だが,数万人の兵士が亡くなったのは間違いない.
一方,ケ小平にとって,軍隊がやられればやられるほど都合がよかった.毛沢東思想にかぶれ,自分に敵対する軍隊など必要なかったからである.
中越戦争は1ヵ月で終了した.スケジュール通りの戦争だった.
戦争が終わってケ小平は,いかに精神が高くても装備が古くては戦闘には勝てないと主張し,狙い通り全軍の権力を握る.
それによって彼は,文字通りナンバー1となる.
そして,次に軍の近代化路線を発動する.
ケ小平の政治目的は達成されたというわけである.
[/quote]
―――橋田信介著「戦場特派員」,実業之日本社,2001/12/20, P.37-43)
ただし,橋田の政治分析は,ときに陰謀論的なものが混じる4流レベルなので,鵜呑みは避けられたし.
取材のほうは一流なんだが…….
「軍との闘争」との言葉こそ出ていないものの,中越戦争が中国国内の政争に起因することは,以下にも述べられている.
[quote]
2005年春の反日デモを扇動する文章で有名になった中国空軍の論客,劉亜洲(りゅうあしゅう)中将〔略〕は,02年に軍内で講演(ネットに流出),訪米と中越戦争でケ氏が米国と連合した結果,米国から経済,技術,軍事などの支援を勝ち取ったと指摘し,それなしには「改革・開放は不可能だった」と述べている.
劉氏は,ケ氏が戦争を発動した動機について「絶対的権威確立のためだった」としている.
「当時,ケ氏は復活して日が浅く,党内で権力を握る極左派は,ケ氏とその改革路線に反対していた.改革をやるには権威が必要だった.その最速の方法は戦争だ」
当時,胡耀邦(こようほう)中央宣伝部長のブレーンで,中央党学校政策研究室主任だった阮銘(げんめい)氏も,その点ではほぼ同じ見方をしている(「ケ小平帝国」台湾・時報文化出版).
「ケ小平は,毛沢東が1960年代に中印国境での自衛反撃戦(中印戦争)を指揮,破竹の勝利を収めたのにならい,全国人民の支持を獲得しようとした」
[/quote]
―――伊藤正(産経新聞中国総局長) in 産経ニュース,2007.11.24.03:03
これらから考えて,政争の結果起きたのが中越戦争であることは,高い確率で間違いないと思われる.
【質問】
中越紛争時の人海戦術は,具体的にはどんなことをしたの?
【回答】
中共軍が地雷を処理する際,兵を一列にならべ長い棒を持たせて地面をたたかせた.
突撃のときは,太鼓のリズムに乗って只ひたすら前へ.
それで,ベトナムの機銃射手はビビッテ後退.
人海戦術万歳.
そして,軍の近代化を真剣に考えた..
某国立大学ベトナム語学科の教授の話.
中越紛争における人海戦術


【質問】
1976年にミグ25で函館空港に強行着陸、アメリカに亡命したユーリー・ベレンコ中尉は、酒が亡命理由と聞いたが,本当ですか?
【回答】
航空機用アルコール※だけはたんまり横流しできたため、あまりにアル中の多かったチュグエフカ空軍基地の有様を,彼は嘆き、
「せめてアルコール度数が低く、アル中になりにくいビールを支給するべきだ」
と上官に上申した.
が、ソ連軍の兵士処遇に物申す反ソ分子としてこっぴどく叱責された。
このときの不満が、亡命のひとつのきっかけになっている。
※ソ連/ロシア軍機には電子機器などの冷却用に、アルコールが使われているようです。
以前、航空雑誌に載っていた写真によると、Su-27の前脚収容部にはアルコールのボトルが取り付けられているとのこと。

(引用元:画像掲示板,原出典不明)
◆カンボジア大虐殺
【質問】
カンボジアのロン・ノル政権前後の流れが複雑でよくつかめないんだけど,
1970年にロン・ノルがクーデターで政権建てた後,1975年プノンペン陥落でロン・ノル政権崩壊.
翌年1976年にできた「民主カンプチア」の代表はキュー・サムファン.
すぐに左右勢力対立でキュー・サムファンが辞任して,クメール・ルージュ(赤色ルージュ)のポル・ポトの政権誕生,大量虐殺.
1978年にヴェトナムのカンボジア侵攻開始・・・・
現代東南アジア史の細かい年表が無いから色々合わせて見ながらまとめたんだけど,流れあってる?
特に「民主カンプチア」を建てたのは解放勢力(クメールルージュ)って書いてあるのに,wikiだと初代大統領はキュー・サムファンらしいから,
解放勢力の中心はポル・ポトなのに,最初からポル・ポトにしないのか,と思って混乱してるんだけど,この辺詳しい人教えてください(´⌒`;)
あと,ポル・ポト政権誕生時の,左右勢力って何vs何?親中国派と親米派?
【回答】
1970.3.18
Sihanouk国家元首が外遊中に,Lon Nol首相兼国防相が右派勢力を結集してクーデターを決行.
首相並びに三軍司令官兼参謀長として全権掌握.
この時,国家元首には,前政権で農相だったChen
Hengが就任.
Sihanoukは中国の勧めで他の解放勢力と組んで王国民族連合政府を北京に樹立.
Sihanoukは戦線議長兼国家元首,王族のPenn
Nouthが首相(Sihanoukの右腕),Khieu Samphanが副首相兼国防相に就任.
1970.10
Lon Nolは共和国を宣言し,Chen Hengに代わり,大統領に就任.
しかし,対外的に米国の支援でようよう息をついている状態.
1971.2
Lon Nol,脳卒中で倒れ,右下半身が不自由になる.
以後,Lon Nol政権内部での権力闘争は苛烈に,ベトナム社会主義共和国の攻撃と解放勢力の攻撃で,政権そのものが弱体化していく.
1971.6
Khieu Samphan最高司令官にも就任.
1973.
Khieu Samphan首相代理に任命.
1975.4.17
Lon Nol政権崩壊.国内組では表向き,Khieu
Samphanが最高位にあるが,連合政府の国家元首はSihanouk.
王国民族連合政府が統治したが,基本的には共産党統治.
1976.1.5
民主Cambodia発足.
国家元首はSihanouk.
1976.4.上旬
Sihanoukは国家元首を辞任.後任の国家元首は,Khieu
Samphan国家幹部会議長.
1976.4.14
Pol Pot首相に就任.(但し,9.27に一旦首相辞任)
1977.
Pol Potによって共産党の存在が明らかに.
以後の権力は彼にゆだねられるが,Khieu Samphanは崩壊まで国家幹部会議長の職に止まる.
……つう流れ.
Khieu Samphanが表に出てたのは,Phnom Penhの知識人たちに人気のある,左翼知識人たちで,Khieu
Samphan自体は,共産党の中の序列では,中央委員にしか過ぎない.
また,当時,共産党は秘密の存在であり,Sihanoukを立てないと,各国の支援(特に武器)を得ることが出来なかったし,既存勢力(特に仏教寺院)の力も得る必要があったので,出来るだけKhieu
Samphanなり,Sihanoukを立てた.
Pol Potは変名でSaloth Sarと言う名前で活動していた.
表に出たのは,1971.9.末に発表された,「解放区の知識人の声明」の知識人91名中にやっと出てきたに過ぎない.
政治家としては,1976.4.14に民主カンボジア政府閣僚の首相就任で表舞台に出たが,3.20.に実施された人民代表議会選挙で選出された250名の中で,ゴム園労働者代表として選出された中に名前がある.
共産党の内部対立については,まず,米国との和平協定の絡みでベトナム共産党と対立し,各解放勢力同士の戦闘や,反ベトナム(元々,カンボジア人には反ベトナム感情が強い)デモなどが発生し,ハノイから派遣されてきた古参幹部の粛清が行われた.
次いで,米軍の爆撃により,穏健派幹部が粛清され,急進派幹部が勢力を増し始めた.
これは,爆撃で身内を失った人民が解放軍に加わったこと,その爆撃に対する警戒心や怒りを梃子にすれば
,比較的容易に急進的政策が出来たことが挙げられる.
そして,1976年に毛沢東が死去し,四人組追放が行われたことで,四人組派(Pol
Potはどちらかというとこちらの傾向が強い)とそれ以外の一派の争いが起きる.
Pol Potは,その殆どを親ベトナム派,親ソ連派(ソ連はベトナムを支援している),CIAの手先として粛清した.
パイリン監獄

プレィソー監獄

【質問】
ポルポト派は最終的に,幹部500人を残してカンボジアの全国民を抹殺しようと計画していたそうですが,なぜですか?
【回答】
北朝鮮の革命理論の如く,以前から解放勢力地域にいた農民を「基幹住民」とし,そのうち,身内に新人民や処刑された者がおらず,普通に働いている者を,「完全な人民」と言います.
都市住民や農民以外の者は新住民と呼ばれ,新人民と基幹住民の中でも経歴の良くない者が,「預けられた住民」と言われ,これが最下層になり,中間に,「準完全人民(あるいは完全人民候補)」がいました.
中間層には,幹部によって「完全な人民」から降格,あるいは「預けられた人民」から昇格した者もいました.
こういった,預けられた住民,特に新人民に対しは,「お前たちは生かしておいても何の得にもならない.お前たちが死んでも何の損にもならない」という考えが,幹部の中にありました.
つまり,「敵達は要らない」という訳です.
特に,Pol Potは夜郎自大な考えの持ち主で,
「Cambodiaを解放したのは俺たちだ.しかも,あの米帝を「独力」で追放した.
だから,他に怖いものなどありはせぬ.
さぁ,Vietnamでも中国でも掛かってきなさい」
という妄想に加え,
「反革命の黴菌に汚染された者は,あくまで廃棄,根絶しなければならない」
と言う,「黴菌論」が自分の頭の中に合わさっていますから,
虐殺に拍車が掛かり,それを修正する術を持ち合わせていなかったのが,悲劇に繋がりました.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板

【質問】
なぜカンボジア大虐殺は初期の段階で騒がれなかったの?
【回答】
ポルポトがやったことは,その情報自体は近隣国にそういう話があると広く伝わっていたんだけど,あまりに突飛過ぎた話だったために,信じられなかったんだよ.
ポルポトの立場を危うくするような思想の持ち主が現れ無いように,教養のある人間は全員処刑され,念を入れて,外国へ移住していたインテリ達が国外で反ポルポト活動を行わないうちに,国作りへの協力を求める形で,国へ呼び寄せて処刑し,教育を廃止し,宗教を廃止し,貨幣を廃止した.
そして,人々が連帯しないよう,家族という社会の最小単位を破壊する為に,自由恋愛を禁止され,国家によって知らないもの同士で結婚させられ,子供が生まれたら親の元から引き離されて,ポルポトを崇拝するように洗脳教育を施され,将来のポルポト軍兵士として子供達は育てられた.
密告を推奨され,隣人同士や,親兄弟の間でさえ信頼する事ができず,疑心暗鬼となり密告しあう社会…….
そんなことが実際に行われている国があると言われても,なかなか信じられないよね.
ちなみに,ポルポトがそういう妄想を抱いたのは,パリ留学中にフランスの毛沢東主義と称する過激派左翼に吹き込まれたのが元.
サルトルとかああいうフランスのインテリ連中にも責任があるな.
そういや当時,ベ平連なんていう糞組織がでかいツラしてたが…
【参考画像】
「虐殺などない」と伝える当時の新聞
【珍説】
本多勝一はクメール・ルージュの大虐殺をスクープしたためにバッシングを受けた.
本多勝一著「カンボジア大虐殺」朝日文庫
【事実】
ホンカツはクメール・ルージュを擁護し,
大虐殺を事実無根とし, 或いは「綺麗な殺戮」とし,
ピュリッツァー賞を受賞したシドニー・シャンバーグ記者の大虐殺ルポは「白人記者のアジア人への蔑視」としたため
バッシングを受けた.
そのためホンカツは,クメール・ルージュが崩壊して大虐殺の証拠が続々と出てきた時に立つ瀬が無くなったが,当時彼は朝日新聞を代表する大看板.
自分で出している全集からクメール・ルージュを擁護する記述を削除し,大虐殺をいち早くスクープしたかのような記述を付け加え,すっかり被害者ヅラを決め込んでいる.
これはクメール・ルージュに関することのみならず,自身の主張が誤りであったことが証明された時にホンカツが常用する手口である.
詳しくは「本多勝一研究会」でgoogle検索して見られたし.
大学時代はホンカツに半ば洗脳されていたネオ筑摩屋松坊堂 in mixi支隊
◆フォークランド紛争
【質問】
フォークランド紛争(1982年)はなぜ起こったんですか?
アルゼンチンも,イギリスの領土内に軍隊入れれば、戦争になる事ぐらいなぜ分からなかったのだろうと,不思議に思います。
イギリスと争ってまで,なぜフォークランドが欲しかったのですか?
【回答】
当時のイギリス経済が不振だったこと、海軍が削減されて士気も低下しているように見えたこと、等。
そのとき南半球では晩秋という季節だったから、冬まで持ちこたえれば南極圏近くへの遠征は困難になるし、シーハリアーだけの空母戦力がそんなに威力があるとも思えなかった。
【参考サイト】
http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/dic/data/falklandwar.html
【質問】
フォークランド紛争の戦費負担は,イギリスにとって重くはなかったのですか?
【回答】
フォークランド戦争の費用は16億ポンドといわれています(現レートなら3000億円ですか)が,戦後英国はむしろ経済的に好調になりました.
戦争そのものが経済を左右したとは思えませんが,英国病からの脱出期であったことに加えて,英国民に「活を入れる」効果があったのかも知れません.
ご存じの通り,打たれると強くなる,戦争になると燃える国民性ですから.
◆◆海軍関連
【質問】
フォークランド紛争の時,結局,空母機動部隊同士の海戦が起こらなかったのは,巡洋艦の損失にびびったアルゼンチンが空母を温存したかったからですよね?
最初はアルゼンチンも,空母同士の戦闘はやる気マンマンだったんですか?
【回答】
そんなことはありません.
アルゼンチン側は,英海軍は既に大洋を越えて艦隊を展開させる能力を喪失している,と考えていました.英艦隊が大西洋を越えて空母を派遣して来るとは思って居なかったのです.
更に,アルゼンチン側は空母を洋上打撃力として使用するノウハウもなく,そもそも平時から
「5月25日」の活動は低調なのもでした.
積極的に空母戦を行なう意図があったとは思われません.
英軍の艦隊派遣自体がアルゼンチン側の誤算だったのです.
(軍事板)
そもそも,アルゼンチン海軍唯一の空母「ヴェインテシンコ・デ・マヨ」は,とてもじゃないが「空母同士の戦闘」を行える状態では無かったと思われ.
このフネは,元々はブリテンの軽空母コロッサス級「ヴェネラブル」をネーデルラントが購入して「カレル・ドールマン」と命名,20年間に渡り同国海軍の主力として使われたが,機関の火災事故を起こして除籍され,アルゼンチンに売却された.
その後,修理して「ヴェインテシンコ・デ・マヨ」と命名され,アルゼンチン海軍の中核を担うが,前述の火災事故の「後遺症」のため,カタログ上では最大速力24ノットのはずが,「頑張っても」18ノットまでしか出せなくなっていた.
同艦に蒸気カタパルトは装備されていたが,このような状態では,艦載機A-4スカイホークの運用すら制限される有様だった.
フランスから購入したかの有名なシュペル・エタンダールも,本艦の艦載機として運用する予定だったが,A-4すらマトモに運用できない状態では,シュペル・エタンダール(エグゾセASM搭載)を運用できるはずも無かった.
このような有様では,英空母機動部隊を攻撃するコトなど無理.
せいぜいが,スカイホークにサイドワインダーAAMを付けて「艦隊直衛」を行うくらいが関の山だったようだね.
【質問】
第二次大戦からすでに航空機が戦艦を凌駕していたわけですが、フォークランド紛争で航空機が駆逐艦を大破した事件って,何がそんなにインパクトあったんですか?
【回答】
ちゃんと対空装備を持った艦隊に対する対艦ミサイルによる攻撃が有効であり、一発の命中で無力化することができると証明した点。
および,このような攻撃から艦隊を守るためには早期警戒機(あるいはヘリ)が必要であると
考えられるようになった点。
対艦ミサイルという足の長い、探知しにくい武器に対しては、個艦防御ではなく、連携した艦隊防御が必要ということが、アルゼンチン側の限られた条件内での攻撃にもかかわらず、大きな犠牲が生じたことに
よって証明された。
ちなみに,シェフィールドの場合は,当たった対艦ミサイルが不発だったのにもかかわらず,厨房のフライ油に引火して大火災を発生したあげく爆沈したんだよなぁ……
ダメコンは大事と言うことで.
【珍説】
フォークランド紛争での駆逐艦シェフィールド撃沈は,上部構造物を構成していたアルミ合金が熱に弱いのが致命的だった。
海自でもその戦訓を取り入れ,「はつゆき」級の途中から上部構造物の構成材をアルミから鉄鋼に変えている。
【事実】
「シェフィールドの上部構造物がアルミ合金製だった」
というのは、割とあちこちに広まってるデマです。
正確には、21型フリゲートの一部で上構物にアルミ合金製の部分があった、というだけで英国海軍自体でも上構物全体をアルミ合金で組んだ船はありませんです。
なお,
「アルミ合金製の上構物が燃え落ちた」
という、これと同じくらい有名なデマもありますが,これは空母と衝突炎上した米国海軍のベルナップ(だったと思う、たしか)が,マストなどがアルミ合金製で,火災によって綺麗さっぱり破壊されてしまったことから出たものだと思われます。
海自がアルミ合金製の構造物を止めたのは、火災云々というよりも、アルミ合金製の構造物は塗装に非常に手間がかかり,乗員整備が殆ど不可能であることと、予想外に腐食が激しいため、頻繁な整備が必要でランニング・コストが高い、という点にあります。
【質問】
フォークランド紛争において,なぜ英艦隊はレーダー・ピケット艦を配置しなければならなかったのか?
【回答】
英空母が早期警戒機を持たなかったためだという.
以下引用.
シー・キングにはAEW.2/2Aという早期警戒型があるが,これはフォークランド紛争中に急造された機体で,原型機2機がNAS849〔第849海軍飛行隊〕に配備され,インヴィンシブル級の2番艦イラストリアス Illustrious に搭載されて初航海を行ったのは82年8月のこと.
つまり,英空母には早期警戒機が搭載されていなかったわけで,空軍の空中早期警戒機,シャクルトンAEW.2はアセンション島に展開していない.
シャクルトンは第2次大戦中のランカスター爆撃機をベースにした旧式機で退役目前.後継のセントリーAEW.1(ボーイングE-3D)が配備されるまで,イギリスの空中早期警戒能力は手薄な状況だった.
ヨーロッパで活動する分には,NATOや米軍の早期警戒網が張り巡らされており,最小限の能力で済んだ.
しかしフォークランド紛争のように,イギリス単独で行う地域紛争では,この欠点が露呈してしまう.
空中早期警戒能力を持たない英空母は,空母戦闘群の手前にレーダー・ピケット艦を配置して,シー・ハリアーでCAPを行うしか方法はなかった.
ピケット艦を使うとは第2次大戦レベルだが,実際TEZ〔絶対排除地域〕内における英軍の防空システムは,ドイツによる航空攻撃「バトル・オブ・ブリテン」当時よりお粗末なものだった.
その結果として,5月4日には42型ミサイル駆逐艦シェフィールド Sheffield が,アルゼンチン海軍のシュペル・エタンダール戦闘攻撃機から発射されたAM39エグゾセ空対艦ミサイルによって撃沈された.
ピケット艦の損害はこれだけに留まらず,撃沈にはいたらなくても損傷を受ける艦は多々あった.
例えば5月12日,シェフィールドの姉妹艦グラスゴー Glasgow が,スタンレー沖でA-4Bスカイホーク攻撃機から投下された爆弾の直撃を受けた.爆弾は幸いにして不発だったが,艦首部を貫通したため応急修理の後,イギリスに戻されている.
石川潤一 from 「世界の艦船」2005年4月号,p.104
【質問】
フォークランド紛争の戦訓として,「インビンシブル級+ハリアーでは艦隊防空には不十分」というのがあり,それが海自がイージスを導入する要因の一つになったと聞きました.
では,本家イギリスではイージス艦のような防空艦を導入する計画はなかったのでしょうか?
【回答】
42型駆逐艦はフォークランド紛争当時最新の防空駆逐艦なんですよ.
英海軍としてはリアンダー級フリゲイトの代替のほうが急務で,そのため22・23型フリゲイトが建造されています.
んで,42型が退役を迎えるようになったので,現在45型ミサイル駆逐艦の建造が進められています.
また,フォークランドにおける空母絡みの戦訓で一番問題視されたのは,英空母にAEW機の運用能力がなかった事.
この為に接近する攻撃機や対艦ミサイルへの対処が遅れ,結果的に空母機による有効な防空戦を行なう事ができなかった.
それと並行して,対艦ミサイル戦の戦訓として,対艦ミサイルの探知困難,ミサイルの高速からくる対応時間の短さ,ミサイル被弾時の損害の態様,などがありました.
要するに,
軽空母が防空戦で思った様な活躍ができなかった
↓
フォークランドの戦訓から海自はイージスの導入を決定した
↓
従って,軽空母よりイージス艦のほうが有用
というのなら,ちょっと短絡的過ぎです.
そもそも当時も現在も,基本的に海自は味方のエアカバーの外での作戦行動は考慮してませんので.
◆◆航空関連
【質問】
フォークランド紛争開戦時のアルゼンチン空軍の戦力(保有機体の数)はどの程度だったのでしょか?
【回答】
光人車NF文庫 ジェット空中戦 だと130機(回転翼含まず
空軍
ダガー(イスラエル製のミラージュV)34機
ミラージュV(他に部品で4機分)11機
A4スカイホーク40機
海軍
シュペール・エタンダール4機
A4スカイホーク11機
フォークランド島守備隊
プカラ58双発攻撃機(国産プロペラ)25機
アエルマッキーMB練習攻撃機(イタリア)5機
ただ,この間みたNHKの新しいフォークランド紛争のドキュメントだと,機体名が所々違ったので,あってるかどうかは解らん.
別の資料では以下の通り.
数から言うとまず空母があったんで海軍航空隊があるのにご注意くだされ.
海軍航空隊
シュペールエタンダール 4機(エグゾセを搭載できる機体)
スカイホークA-4Q 8機
アエロマッキ MB.339 10機
T-34C メンター 15機
空軍
スカイホーク A-4B,C 45機
ダガー 37機
ミラージュ 17機
キャンベラ軽爆 10機
プカラ直協機 35機以上
C-130ハーキュリーズ 9機
リアジェット
ボーイング707
C-130やボーイング707などは敵艦隊の捜索に投入された.
C-130は確か,爆弾を積んでイギリスの独航船を攻撃したりしてます.
後に,撃墜されたのが出てから辞めた.
【質問】
エズゾセ・ミサイルを無力化するため,サッチャーがミッテランを脅迫した,というのは本当か?
【回答】
少なくともミッテランは,そう回顧録に記しているという.
以下引用.
今月末に上梓されるミッテラン(François Mitterrand.1916〜96年)仏元大統領に関する本の中で,ミッテランがサッチャーの思い出を語る場面が出てきます.
ミッテランは,かねがねサッチャーについて,
「カリグラ(Caligula.ローマの暴虐な皇帝)の眼とマリリン・モンローの口を持っている」
と評していたというのですが,1982年のフォークランド戦争の時のこと,アルゼンチンのシュペルエタンダール(Super-Etendard)戦闘機から発射されたエグゾセ・ミサイルによって英国の巡洋艦シェフィールドが火災を起こし,撃沈されてしまうという事件があった後,サッチャーはミッテランに向かって,
「(ミサイルも戦闘機も)全部フランス製じゃないの」
と大声を上げ,エグゾセを無能力化する秘密コードを渡すように迫ったというのです.
そして,渡さないのなら,南大西洋に派遣済みの4隻の原子力潜水艦からアルゼンチンを核攻撃する,と脅したというのです.
怒り狂って島国的発作を起こしたじゃじゃ馬のイギリス人女め,殆ど羊しか住んでいない寒冷地帯のいくつかの島のために核戦争をやらかすなどとよく言うよ,とは思いつつも,ミッテランは抵抗を諦め,コードを引き渡した,というのです.
ミッテランは,よほどその時のことが悔しかったのか,その代わり,その後サッチャーに,ナポレオン3世以来のフランスの悲願を飲ませた,としばしば胸を張ったといいます.
「どうやってやったかって? サッチャーの小商店主(shopkeeper)的精神をくすぐったのだ.英国政府は一銭も出す必要はないよって言ってね」
と.
(以上,
http://books.guardian.co.uk/news/articles/0,6109,1647764,00.html(11月23日アクセス)
による.)
なぜ,脅迫にもなっていない「脅迫」のためにミッテランが譲歩したのか?という疑問は残るが.
【質問】
フォークランド紛争において,シー・ハリアーはどのように評価されたのか?
【回答】
対地,対空,偵察共に中途半端な性能だったと評されたという.
以下引用.
この機体〔シー・ハリアー〕は旧ソ連の爆撃機や対艦ミサイルを阻止する目的で,対地攻撃専用のハリアーに空対空戦闘用の火器管制レーダーを搭載したもので,STOVL(短距離離陸垂直着陸)能力によって軽空母から運用はできても,対地,対空能力とも中途半端な機体だった.
正式名はシー・ハリアーFRS.1といい,「F=戦闘」「R=偵察」「S=攻撃」と様々な用途に使える万能機を謳っているが,偵察機としてだけ見ると,機種右側に小型の斜め写真カメラを搭載しているだけで,現代の戦争では不可欠なBDA(爆撃損害評価)には不十分な能力だった.
アルゼンチン側は滑走路に土を盛って,爆撃で使用不可能になったように見せかけるなど偽装を行った.
そのような偽装を見抜くのがBDAで,本格的な偵察機を持たない英海軍は,アセンション島から出撃する空軍のヴィクターやニムロッドなどの偵察機から情報を得るしかなかった.
また,英海軍の空母戦闘群はアルゼンチン本土からの対艦攻撃を避けるため,フォークランド諸島の東側100〜150浬付近を遊弋した.
そのため,航続距離の短いシー・ハリアーは,主翼に増槽を搭載しなければならず,1000ポンド級爆弾2発しか搭載できなかった.
英国防省はシー・ハリアーの攻撃力を増強するため,空軍のハリアーGR..3を10機派遣,全機ハーミーズに展開させたが,やはり増槽は不可欠で,対地攻撃能力は充分ではなかった.
ハリアーGR.3と共にシー・ハリアーFRS.1も増派されており,最終的にハーミーズに16機,インヴィンシブルに12機,計28機が派遣されたことになる.
石川潤一 from 「世界の艦船」2005年4月号,p.103-104

【質問】
フォークランド紛争時,ハリアーが偏向推力を使って格闘戦で勝ったという話はガセだったのでしょうか?
VIFFを使わなかったという事が真実であるならば,レーダー管制下,CAP任務についてたハリアーとダガーの状況が分かります.
しかし,上陸後の攻撃に際して低空進入してくるA−4部隊の迎撃に際しては低空まで降りてこなくてはならず,数派に渡るア軍のA−4,ダガーの攻撃隊に対して,どうやって有効な打撃を与えられたのでしょうか?
【回答】
ガセ.
VIFFを実戦で使用していない,との論拠は,ビル・ガンストンの「図解現代の航空戦」より.今は手元に物が無いから詳しくは引用できない.
しかし,逆に「VIFFを使った」という記述を他で見かけたことは無い.湾岸戦争時も同様.
ま,海兵隊の場合は任務の内容が異なるから,一概に同じ見方は出来ないが,SAM回避などで使用する可能性もあっただろうに,積極的に使用した.という記述は見た事が無い.
それに,現代航空戦辞典(だっけ?)の記述によれば,まともな空戦はほんの数回だったという.
最初の空戦では,とんでもない遠距離から勝手にサイドワインダーを撃ったミラージュが,勝手にブレークして逃げるのを,追いついて撃墜したような…
それ以外に,特筆するほどの制空戦闘は無かったような…(うろ覚え失礼).
上陸支援にあたっている艦隊の位置を探知して,低空から接近するスカイホークなどは,それほど有効に迎撃できなかった,とも.
ハリアーのほうがミラージュより亜音速での旋廻率は上なので,旋廻戦になれば有利.
また,亜音速域でのダッシュ力はペガサスエンジンのほうが有利(推力重量比).
よって,高度を十分とっていれば,特別VIFFなんぞを使わんでもアデンの照準に捕らえられる.
アルゼンチン側としては低空で侵攻せざるを得なく,かつアフターバーナ炊く燃料の余裕がないとなると,見つかったら追いつかれないのを期待する以外ないでしょう.ヨーヨー機動というか,(ハリアーの待機高度まで)ズーム上昇かけて格闘戦挑むには燃料が不足では?
ハリアー側は低速ヨーヨー機動というかアンロード・ダイブで追いつきゃいいだけだし.
つーか,速度性能や,加速性能の問題で,ハリアーはミラージュに勝てないっていうんだったら,推力偏向使ったら,速度ガタ落ちでなおさら勝てないって話になる.
「ハリアーは何故勝てたか」はともかく「推力偏向を使わずに・・・」というのは,愚問だな.
「せっかくの運動エネルギーを捨てるようなことはしない」
というのは,インタビューでのハリアー・パイロットの弁.
ダガー迎撃については,以下が双方のクリーンでの性能
シーハリアー 最高速度(低空)1200キロ(最高M1.25)
ダガー 1400キロ( M2.0)
シーハリアー 上昇力 1万5千m/分(推力9.5N)
ダガー 1万4千m/分(推力6.0N)
AAMを装備したら,ダガーはもっと性能が落ちるし,超音速でるまで20秒以上直線で加速しないとアカンのでは・・?
低空から急上昇したら,中高度で3000mは離されるかもしれないわな・・.
FSX(F-2)にCCVを採用する際も,
「ハリアーが実戦では推力偏向を使わなかったのと同じく,実用性は疑問」
という意見があった.
ただしNHK-BSの番組によれば,ハリアーは空戦中,噴射ノズルの向きを変えることで,アルゼンチン空軍のミラージュよりも早く旋回することができ,それを利用して空戦では優位に立ったという.
そのことが,いつしか伝言ゲームで「ハリアーは空戦でVIFFを使った」という話になってしまったのではないか?と愚考される.
【質問】
SAS隊員が、米軍の弾薬庫から「顔パス」でスティンガーSAMを持ち出したって話は本当か?
【回答】
顔パス云々は知らないけど、「SAS戦闘員」(早川書房)の中で、アメリカからスティンガーのレクチャーに来た教官に
「初めて扱う武器だろうが…」
と言われたのに対し,
「フォークランドでとっくに試してみた」
と言い返したとかいうエピソードがあったような気がする.
ブローパイプは「クソだ」とムジャヒディンに言われるくらい使い物にならんかったですからなぁ。余裕でSA-7よりダメ。
SA-7は赤外線目標に対して自分で追尾していくが、ブローパイプは命中するまで、人間がガンスコープの中央に目標を捕らえつづけなければ当たらない。
・・・・・・って、当たらないだろ。
SA-7がフレアで欺瞞される可能性を含めても。