c

AA

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ戻る

◆◆◆◆第2次チェチェン紛争以降
<◆◆◆チェチェンFAQ
<◆◆地域/組織別
<◆イスラーム過激原理主義
テロリズムFAQ目次

チェチェンにおける国内軍の検問所(?)とその中身



 【link】

「Wikipedia」:Battle of Hill 776
 第二次チェチェン紛争での高地776をめぐるロシア空挺軍とゲリラとの戦い
―――CRS@ぼでぃーあーまー in mixi,2008年03月02日21:47


 【質問】
 第2次チェチェン紛争はなぜ起こったか?

 【回答】
 主にロシアの弾圧によって急速に広まったイスラム過激原理主義者を中心とするチェチェン=ゲリラがテロ活動を開始したため,1999年にロシアは再び大規模な軍事行動に出,今日に至る.

 詳細は,
辻雅之「チェチェン紛争基礎知識」その2
を参照されたし.

 マスハドフ大統領と武装勢力の対立も,その要因となったという.
 以下引用.

 あまり公には伝えられていなかったが,チェチェン共和国内ではかなり以前から当時の大統領アスラン・マスハドフと武装勢力の対立が深刻化していた.
 1999年3月には隣国イングーシ共和国ウラジカフカスで,道路に強力な爆弾を仕掛けたマスハドフ暗殺未遂事件が起きた.
 それまでいずれも失敗に終わったものの,何度もマスハドフに対し爆弾による暗殺が試みられていた.
 反マスハドフの武装勢力の仕業だと見られた.
 共和国独立を目指していたマスハドフだが,自分への相次ぐテロに耐えかね,ロシアへの融和姿勢さえ見せはじめていた.
 ロシアでは武装勢力とマスハドフ側との内戦勃発を予測する向きも少なくなかった.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.61-62

 何考えてんだか>武装勢力

▼ 第二次チェチェン紛争開始前のチェチェン情勢について書かれた論文を見つけたのですが・・・

ユーラシア研究所『ユーラシア研究』No.39(東洋書店)2008年11月
富樫耕介氏 「第二次チェチェン戦争の経緯と現在の課題」

 チェチェンが「破綻(失敗)国家」になってしまったのが実に残念極まりないですね.
 元々経済的には弱小国で,さらにバサエフらを中心とするイスラム過激派勢力の増大が,マスハドフ率いる穏健派の足枷になってしまいました.
(まぁバサエフなどのイスラム過激派連中にしてみれば,
「チェチェンを中心にしてイスラム革命を!」
という意気込みだし,話し合う余地などなかったかもしれんが)

 マスハドフもなんとか,チェチェンの経済を立て直すべく努力はしていたのですが,これも反対派派連中の妨害にあって,ものの見事に失敗.

 とは言え一歩間違えれば,チェチェン人同士の悲惨な内戦が激化した可能性も否定できないわけで,とても苦しい国家運営を迫られるのは間違いないというか・・・・

 結果的にバサエフがダゲスタンに攻め込んだお陰で,ロシア側の怒りを買ってしまい,巻き添えくらって逃亡するハメになり,そして殺害される運命になってしまいました.

CRS@空挺軍 in mixi,2009年02月21日21:31

 【関連動画】
Chechen invasion of Dagestan
 第二次チェチェン紛争の火種となったチェチェン過激派によるダスケン侵攻を特集した映像.
 しかし兵士の装備が古いなぁ・・・・

CRS@空挺軍 in mixi, 2007年11月02日17:48

ドラグノフ@チェチェン紛争



 【質問】
 第2次チェチェン紛争は,就任したばかりのプーチン首相の人気を高めるために仕組まれたものでは?

 【回答】
 その可能性は低い.
 なぜなら,
「プーチンが首相就任に一致するかのように紛争が起こった」
のではなく,
「紛争が起こったことが首相交代の引き金になった」
からだ.
 以下引用.

 1999年8月3日,ダゲスタン共和国当局が
「イスラム過激派が共和国内ツマディンスキー地区の4つの村においてイスラム自治区を設立した」
と発表した.
 この頃イスラム過激派と言えば,それはダゲスタンと隣り合うチェチェン共和国の武装勢力を意味していた.
 武装勢力と民警との衝突で計11人の死者が出たことが伝えられた.

 そして8日には〔プーチンの前の〕首相のステパーシンがダゲスタン入りし,武装勢力に対しロシア連邦軍が初めて攻撃を加えたことが報道された.
 翌9日には武装勢力が10日にも独立国家を宣言する予定だと報じられ,ステパーシンは閣僚に対し,
「ロシアはダゲスタンを失うことになるかもしれない」
と弱気の言葉を口にした.
 この直後,ステパーシンの首相解任が発表され,首相代行となったプーチンに作戦遂行の実質的な指揮権が委ねられた.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.60-61

 別項で述べられているように,ステパーシン更迭は決してこの紛争が原因というわけではないが,ステパーシン更迭の理由を探していたエリツィンにとっては,ステパーシンの弱気ぶりはその格好の口実となっただろうことは,比較的確率の高い推測だろう.

 また,ロイ・メドヴェージェフは,チェチェンでの武力行使それ自体が,プーチンの支持率を押し上げたのではない旨を述べ,次のようにプーチンを弁護している.

----------------
問題は戦争それ自体にあるのではない.
 なぜなら戦争は様々なシナリオで起こり得るし,新首相の運命にとっても,ロシアの運命にとっても,様々な結果を持ち得るからである.
 全ての問題は,単なる力の行使ではなく力の効果的な行使にあり,プーチンは力の行使に対しては直接,主たる責任を負い,1994年から1996年にボリス・エリツィンもヴィクトル・チェルノムイルジンもそれをやらなかった,ということにもあった.
 当時,軍・警察関係の大臣たちさえまるで互いに孤立しているかのように行動していた.
 プーチンを支持した人々にとっては,チェチェンは,その助けを借りて国家とプーチンがロシア全体の方向を変え始めることもできる梃子なのであった.※34
※34 『セヴォードニャ』1999/11/13
――『プーチンの謎』(ロイ・メドヴェージェフ著,現代思潮新社,2000/8/30),p.44

 要するに,既存の政治に飽き飽きしていた人々が,チェチェン問題を通じて,プーチンによる変化を期待したということだろうか.
 「変化」,これ重要.

プーチン近影



 【質問】
 なぜ蜂起の場所が,ロシア軍の介入を招き易い隣国のダゲスタンだったのか?

 【回答】
 ベレゾフスキーが大統領選でエリツィン側を有利にするために暗躍したとする説があるが,その動機付けは憶測に過ぎず,真相は不明.
 ただしベレゾフスキーからバサエフへ資金提供が行われた可能性は高いと愚考する.

 以下引用.

 これについてロシアのメディアは,ボリス・ベレゾフスキーの暗躍説を伝えた.
 「モスコフスキー・コムソモーレッツ」紙は9月,ベレゾフスキーと武装勢力側の元チェチェン外相マブラジ・ウドゥゴフとの電話会談の盗聴記録を掲載し,武装勢力の蜂起にベレゾフスキーが何らかの形で関わっていた可能性を示唆した.
 これに対しベレゾフスキーは,盗聴内容が過去の幾つかのテープから合成された偽物と主張した.
 しかしダゲスタンでの蜂起前に,バサエフはチェチェンのテレビで,ベレゾフスキーから300万ドルを受け取ったと告白していた.

 ベレゾフスキーは第2次エリツィン政権で一時期,安全保障会議副書記を務めていた.
 チェチェン対策が主要任務で,チェチェンのマスハドフ政府や武装勢力とも,交渉を通じて独自の緊密な関係を築き上げていた.
 マスコミには1999年末の下院選,2000年の大統領選を控え,ベレゾフスキーがチェチェン武装勢力を焚きつけて国内に不安定な状況を作り出し,エリツィン政権側の有利に結び付けようとしているのではないかとの憶測まであった.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.62

 ロシア・メディアは,政治の派閥と結びついて政敵を追い落とす役割を担っている事例が,多数あるため,この憶測も話半分以下に聞くしかない.


 【質問】
 何故ロシア軍は作戦をダゲスタンだけに限定せず,チェチェンにも侵攻したのか?

 【回答】
 相次ぐテロにプーチンらがキレたため.
 以下引用.

 ロシア軍によるダゲスタンでのチェチェン武装勢力掃討作戦は続けられた.
 武装蜂起後1ヵ月の時点では,後のチェチェンへの軍事行動はまだ予定されていなかった.
 9月4日,ダゲスタンのブイナクスクで軍人住宅が爆破され,64人の死者を出す事件が起きた.
 これに対しプーチンは翌5日テレビで
「チェチェン共和国に対し,何らかの行動を起こす可能清は検討すらしていない」
と述べていた.
 〔略〕

 9月9日,モスクワ市内グリヤノバ通りの9階建てアパートが爆破され,92人が死亡した.
 次いで13日,カシールスキー通りの8階建てのアパートも爆破され,瓦礫の下から121人の死体が発見された.
 〔略〕
 エリツィンは2回目のアパート爆破事件直後の9月13日,
「ロシア国民に対しテロリズムは戦争を宣言した」
とテレビで言明した.
 〔略〕
 ロストフ州ヴォルゴドンスクでも同16日にアパートが爆破された.
 ロシア空軍がチェチェン領内の武装集団基地を空爆したのが翌17日だった.
 これによりロシアはチェチェンへの直接攻撃作戦に踏み込んだ.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.63-66

 首相のプーチンは,新たなチェチェン進攻の理由をこう語っていた.
「(94年から96年までの)前回のチェチェン作戦の後,様々な方面からチェチェンをそっとしておくべきだとの助言を受けた.
 ロシアは実際そう振る舞ったのだが,結果としてチェチェンには何ら主権共和国らしい国家は出現せず,ただ盗賊の巣窟ができただけだった.
 そして黒海からカスピ海に至るカフカスの領土を,ロシアから切り取り,そこに独立国家を創出する幻想が生まれた」

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.66

 正論,ではある.

ロシア海軍歩兵@チェチェン紛争



 【質問】
 モスクワのアパート連続爆破事件は,ロシア政府による自作自演だという説があるが?

 【回答】
 この事件に関してはそういった説の他,アル・カーイダ関与説,そしてもちろんチェチェン武装勢力説などがある.
 以下引用.

 その13日夜,民営の独立テレビNTVはチェチェン野戦司令官の一人,ハタブとのインタビューを放映した.
 ハタブは
「可能な限りあらゆる場所で住宅,アパートを爆破するよう呼びかけを行った」
ことを明らかにした.
 ロシア国内では一挙にチェチェン武装勢力のテロへの恐怖が高まった.

 捜査結果によると,爆発物として使われたのは「ヘクソゲン」と呼ばれる白く光沢のある粒子状の爆薬で,爆発物であることを隠すため,本物の砂糖が混入してあったといわれた.
 大きな建物を倒壊させるほどの大量の「ヘクソゲン」が「チェルケス」砂糖工場の袋に詰められ,北カフカスからトレーラーでモスクワに搬入された.

 犯人たちは仮名を名乗り,家主には数ヶ月分家賃を前払いして,砂糖を他の商品と交換するため一時的に置いておくと説明したという.
 犯行後,この家主の供述からすぐモンタージュが作られ,犯人の一人はウズベキスタンのカルシュ市出身のジェニス・サイタコフという人物と特定された.

 サイタコフ特定はタタールスタン共和国の治安当局の協力によるものだった.
 99年7月,バサエフとハタブは記者会見で,ロシアから送り込まれた38人のスパイを拘束していると発表した.
 この証拠として彼らはビデオを見せたのだが,その中でロシアのスパイになりすまして映っていた一人がサイタコフだとされた.

 治安当局は,犯人たちがメドレセと呼ばれるイスラム教中等学校の出身者だったことを突き止めたと発表した.
 発表によると,彼らはイスラム原理主義「ワッハビズム」に傾倒し,ハタブのゲリラ訓練施設に送られていた.
 サイタコフはその中の一人で,ビデオでバサエフが見せた仲間たちの顔もまた,モンタージュの爆破犯人たちと一致したというのが当局の主張だった.

 しかしモスクワでは,当局の発表とは別に,この爆破がチェチェン武装勢力ではなく,むしろ政府側によって仕掛けられたのではないかとの噂も現れた.
 この爆破事件を政権側の仕業と大胆に言い切ったのが,クラスノヤルスク地方知事のアレクサンドル・レーベジだった.
 9月下旬,レーベジは訪問先のパリで「フィガロ」紙と会見し,
「大統領とセミヤー勢力は現在完全に孤立している.
 彼らには選挙で勝つ力はなく,この状況打開の唯一の道を選んだ.
 つまり,なんらの選挙も行えなくなるほど状況を不安定化させることだ.
 こうしたとき爆破事件が起きた」
と語った.
 彼の考えでは,爆破事件の犯人はチェチェン人などではなく,当局の依頼によって実行した無国籍の傭兵や盗賊たちだったとした.

 さらに2000年の年が明けてからは,英「インデペンデント」紙が
「武装勢力に捕らわれたロシアの将官が,爆破事件が当局の仕業だったと告白した」
と伝えた.
 これはもちろんロシア側にも広く伝わったが,強制されて喋らされた可能性も否定できないとしてロシア側は無視した形になった.
 レーベジの発言も「インデペンデント」の報道もロシア国民には受け入れられにくい状況が生まれていた.
 このような謀略など信じたくないとの心理が働いていた.

 1999年11月末の米週刊誌「タイム」は米露の情報当局者が,この爆破事件に間接的にウサマ・ビンラディンが関与している証拠を洗い出しているとの情報を伝えた.
 米国が「国際テロリストの指導者」と名指しするこのサウジアラビア人に関しては,ロシアでもチェチェン武装勢力との関係が注目されていた.
 同誌は爆発物がビンラディンの配下によってアフガニスタンの根拠地で調合されたものに合致したことをロシア連邦保安局が突き止め,米当局者もこれを確認したと伝えた.
 それまで米国は,チェチェン武装勢力へのビンラディンの関与については証拠がないとしていた.
 同誌の報道通りなら米国はその見方を変えた可能性があった.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.63-65

 私見では,ロシア政府自作自演説は根拠薄弱と愚考する.

 (1) チェチェンへの戦闘拡大のためだったと仮定しても,わざわざ自作自演をする必要がない.
 ブイナクスク爆破事件をもって侵攻の口実にすればよいだけの話.
 仮にロシア国民の恐怖心をさらにあおることが必要なのだったとしても,それなら最初の2件の爆破事件で十分なはずであり,ヴォルゴドンスク爆破事件などまったく不必要.

 (2) ハッターブが自分からテレビで喋っている.
 もし仮にこれがモスクワの自作自演なら,ハッターブはそれを非難していたはずである.

 (3) レベージの主張は何ら根拠がない憶測に過ぎない.
 エリツィンの政敵だったレベージが,そのくらいの誹謗中傷をするのは,むしろ当り前の話.

 (4) 捕虜のロシア軍将校の「証言」は,上述内にもあるように強要されてのものである可能性が高い.
 テロ組織にジュネーブ協定遵守は期待できない.

 以上の理由により,少なくとも自作自演説は可能性が低い.

チェチェン紛争で撃破されたBMP-3



 【質問】
 第2次チェチェン紛争における,ロシア軍の作戦計画は?

 【回答】
 ライフラインを停止して武装勢力を疲弊させた後,春を待って殲滅する計画だったという.
 以下引用.

 ロシア国防省の計画では,冬季のチェチェン封鎖作戦は電気やガスの供給を止め,武装勢力を疲弊させる砲兵隊と空軍の担当になるはずだった.
 春を迎えてからチェチェン中心部に攻め入り,武装勢力を殲滅する筋書きだった.

 これはどこから見ても合理的な作戦だった.
 まず秋から冬にかけてのチェチェンは,霧と雪で軍事作戦には向いていない.
 特に作戦の重要部分を占める空からの攻撃は,大きな制約を受ける.
 第2にロシア各地から掻き集められたロシア側兵力は当面,人口の集積した大都市および山岳地での本格的な戦いの備えはなく,多大の犠牲者を出す可能性がある.
 若い兵士たちの訓練も十分ではなく,一時停戦状態の中で新たな訓練を行う必要があった.

 また,一時停戦はプーチンにとっても政治的に重要な意義を持つと見られていた.
 チェチェン作戦継続中,プーチンの政治家としての支持率はめざましい勢いで上昇し続けていた.
 2000年6月に予定されていた大統領選までチェチェン作戦を引っ張るとしたら,この段階で一時作戦休止したほうが得策との見方があった.
 チェチェンの首都グロズヌイ制圧といった「決定的勝利」は,年末や年初というより大統領選の直前が最も望ましかった.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.66-67


 【質問】
 第2次チェチェン紛争における,実際のロシア軍の作戦展開は?

 【回答】
 1999.10.16,ロシア軍はテレク川北側を制圧した後,5ヵ月の停止の代わりに5日間休止しただけで進撃を再開.
 10/21,ロシア軍はテレク川を渡河してチェチェン中心部へ向け進攻.
 11/12,チェチェン第2の都市グデルメスを「無血」制圧.
 12/25からグロズヌイ制圧作戦を開始したが,強硬制圧作戦のためにロシア軍の損害急増.
 2000/1/9,武装勢力が各要衝で一斉反撃.
 1/17,ロシア軍,総攻撃再開.
 1/18,連邦軍北部方面軍副司令官マロフェエフが狙撃されて戦死.
 2/1,武装勢力はグロズヌイからの撤退を発表.
 2/6 ロシア軍,グロズヌイ制圧.
 以後,攻防は南部山岳地帯で続いたが,初期目標を達成したロシア軍は,一部撤退.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.66-75を参照されたし.

チェチェン紛争時の空挺軍
腕章から所属は第106親衛空挺師団だとわかる
 面白いことにSPLAV社のアサルトベストを着用している
 ということは第二次チェチェン紛争の頃の画像か?

 第106親衛空挺師団はかのアレクサンドル・レベジが師団長を務めていた事で有名
 1988〜1991年まで彼は師団長でした


CRS@空挺軍 in mixi,2008年02月10日17:05


 【質問】
 第2次チェチェン紛争におけるロシア軍の戦術は?

 【回答】
 「ノン・コンタクト」作戦と呼ばれるもので,武装勢力との直接衝突を最小限に抑え,遠距離攻撃を多用する戦術.
 以下引用.

 ロシア軍には前回のチェチェン紛争の経験を生かせる強みがあった.
 新たなチェチェン作戦に携わっていたのは,前回と同じ将軍たちだった.
 参謀総長のアナトーリー・クワシニンは1995年から96年にかけ北カフカス軍管区の司令官だった.
 新たな作戦に当たってクワシニンは,前回の作戦に参加した部下たちを呼び集めた.
 モスクワの安全保障会議でチェチェン問題を担当した書記ウラジーミル・ポターポフは前回,クワシニンの副官だった.
 参謀次長のワシーリー・マニロフは前回,安保会議の副書記としてチェチェン進攻作戦の策定者だった.

 彼らは前回の失敗を踏まえて,特に作戦の前段階ではまったく前作戦と異なる戦略をとった.
 ソ連スタイルの戦車と歩兵の前進主体の作戦より,ミサイルや爆撃機による空からの攻撃に重点を置いた.
 99年前半,北大西洋条約機構(NATO)がユーゴスラビアを空爆したのに似た作戦だったが,大きな違いは陸上進攻を伴っていることだった.
 また,前回のチェチェン作戦投入3万人に比べ,投入兵力は10万人と3倍以上の規模になっていた.

 ロシア軍の作戦は軍内部で「ノン・コンタクト(非接触)」作戦と呼ばれた.
 武装勢力とロシア軍兵力の直接衝突を最小限に抑えるのがその基本で,例えば敵と遭遇するなら兵力は後方に退き,「スカッド」や「トーチカ」といった短距離ミサイルや航空機で遠くから叩くといった戦法だった.
 また,前線には経験豊富な兵員と投入して犠牲者を少なくした結果,12月初めまでのロシア軍戦死者は464人と比較的少なかった.
 軍の死者数が急増するのは,グロズヌイへの強引な進攻を決める12月下旬以降である.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.67-68

 この「ノン・コンタクト(非接触)」作戦は,後のターリバーン戦争で米軍が用いた戦術にも似ているように愚考する.
 ただし米軍の場合は,地上展開すら主に現地の北部同盟軍にやらせていたが.

チェチェン紛争



 【質問】
 なぜグデルメスをロシア軍は無血制圧できたのか?

 【回答】
 無血と言ってもロシア軍に犠牲がなかった,というだけの話.
 ロシア軍は反ワッハーブ派と通じ,彼らを使って武装勢力をあらかじめ追い出していたに過ぎない.

 以下引用.

 チェチェン作戦の第2段階で最も大きな「戦果」は,11月12日のチェチェン第2の都市グデルメスの制圧だった.
 プーチンはこれをチェチェン作戦の大きな転換点と呼んだ.
 一発の銃の応酬もない静かな,まさに無血の制圧だったからである.
 この翌日プーチンは軍部代表者と会談後,自分の大統領出馬を確認した.
 それ以前には首相解任説も流れていたが,このグデルメス制圧を受け,エリツィンもプーチンが大統領後継候補であることを認め,解任説を打ち消した.

 グデルメス無血制圧にイスラム教徒内部の対立をうまく活用したところに,ロシアの戦略の新しさがあった.
 ロシアがグデルメスで利用したのはチェチェンのイスラム指導者アフマド・カディロフだった.
 この人物は,チェチェン武装勢力が教義としていたイスラム原理主義「ワッハビズム」を快く思っていなかった.
 そこでロシア側は彼と通じ,また現地の反武装勢力代表との合意で,武装勢力をまず彼らの手で追い出させた後にグデルメスに乗りこんだというのが無血制圧の真相だった.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.69

 なるべく現地の武装勢力を活用し,自軍の損害を減らそうとするこの手法は,のちに米軍も踏襲しており,イスラエル=ヒズボラ紛争も,イランによるその手法(ヒズボラという現地武装勢力の活用)踏襲と言えるかもしれない.
 これは今後,軍のトレンドとなるかもしれない.

6b5ボディアーマーを着けたロシア海軍歩兵@チェチェン紛争


 【質問】
 なぜグロズヌイ制圧に強攻作戦で臨んだのか?

 【回答】
 純軍事的には誤った作戦だが,プーチンを大統領選で有利にするため,あえて強攻で臨んだという.
 以下引用.

 ロシア軍は1999年12月25日にチェチェンの首都グロズヌイの制圧作戦を開始した.
 それまでロシア側には,軍が持久作戦をとるとの見方が強かった.
 極度に軍の犠牲者を出すのを恐れてきたロシア軍の戦術を見れば,3000人から5000人の義勇兵を含めた武装勢力が死守するグロズヌイを冬場に攻め落とすのは,相当な犠牲を覚悟しなければならない.
 しかし連邦軍は,この見方に逆らうように,あえて強引な制圧作戦に踏み切った.

 12月31日,エリツィンは突然辞任を発表した.
 任期を半年残した繰り上げ退陣は,異様な印象を内外に与えた.
 ロシア国内では明らかに,プーチンの大統領当選を確実にするための決定と見られた.
 大統領の辞任により,3ヵ月以内に大統領選を実施しなければならない.
 プーチンにとってはチェチェン作戦が勝利を確実にした時点で大統領選に臨む必要があった.
 陣営にはチェチェン進攻を決定したときから,チェチェン作戦と大統領選を連関させた予定表ができていた.
 グロズヌイ攻撃もエリツィンの退陣も,すべてその予定表に沿っていた.

 〔略〕

 一時,武装勢力の反撃の前に攻撃を中断したロシア軍は,1月17日から再び総攻撃に転じた.
 2週間の攻防の後,2月1日,武装勢力はグロズヌイから撤退を発表した.
 バサエフやハタブなど野戦司令官もグロズヌイを脱出したが,この際バサエフは地雷を踏んで片足を失った.

 大統領代行のプーチンは2月6日,テレビでグロズヌイ制圧作戦完了を誇らしげに発表した.
 〔略〕
 2月上旬のグロズヌイ陥落は,3月26日に設定された大統領選を控えてプーチンにとっては絶好のタイミングとなった.
 プーチンはこの勝利を得るために,あえて多大な犠牲を出したグロズヌイ攻略の強引な作戦を選んだ.

 プーチンは国民的英雄となった.
 ロシアは前回の紛争のチェチェンとの和平合意で,チェチェンの独立を実質的に認めていた.
 そのチェチェンをプーチンはロシアに取り戻した.
 チェチェンの武装勢力を追討して行く中で,チェチェン国民が民主的に選出した大統領のマスハドフさえも,武装勢力と同類視して追放してしまった.
 プーチンはチェチェン作戦によって大統領当選を確実にした.

 前年8月,首相に就任したときの世論調査のプーチン支持率は,わずか2%に過ぎなかった.
 9月の時点でも,世論調査による大統領候補としての支持率は,前首相のプリマコフが1位,モスクワ市長のルシコフ,共産党委員長のジュガノフが続き,プーチンはまだその後塵を拝していた.
 チェチェンは無名の政治家に,わずか半年で大統領の座を与える魔術を働かせた.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.73-75

 これについては上述の中にもあるように,ほぼ疑いの余地はないように愚考する.
 「万骨枯れて一将成る」のは,現代でも同じらしい.

俺の「プーチン」フォルダが火を吹くぜ



 【質問】
 第2次チェチェン紛争では後半,何故ロシア軍の損害が増えたのか?

 【回答】
・グロズヌイを強襲したこと.
・戦闘経験のない部隊を前線に投入したこと
が理由であるとされる.

 以下引用.

 グロズヌイ攻撃はチェチェン進攻の中で最も困難な作戦となった.
 武装勢力は道路やビルに爆弾をしかけるなど,市中心部を要塞化していたため,攻略が進めば進むほど連邦軍の犠牲者は増えていった.
 2000年1月9日には武装勢力が各要衝で一斉反撃し,18日には連邦軍北部方面軍のマロフェエフ副司令官が戦死するという象徴的な出来事があった.
 同副司令官は首都北西部で内務省部隊を指揮していて,前進を命じたが,部隊がついてこなかったため狙撃された.

 この時期になると,連邦軍は当初のような洗練された戦法をとることも出来なくなっていた.
 前回紛争と同じような戦闘経験のない徴集兵主体の歩兵部隊を前線に投入する愚を犯し,高度の訓練を積んだ武装勢力の標的になるに任せた.
 たちまちロシア軍の死者の数は増え,1月25日には進攻以来の軍の死者の数が1100人以上に達した.

江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.74

 なぜ戦闘未経験部隊を前線投入することになったのかは,情報不足につき本サイトでは不明.

ロシア内務省軍



 【質問】
 エヴゲーニー・カプースチンとは?

 【回答】
 第2次チェチェン紛争の際,車体番号153のT-72戦車で照準手を務めていた.
 ダゲスタン及びチェチェンにおける戦闘で,初弾から武装勢力の防御施設やスナイパー,ロケットランチャー兵の陣地を潰していった.
 グローズヌイ攻略戦の最中にカプースチンは重傷を負った.
 彼は一度ならずロシア連邦英雄の候補者として推挙されたが,授与されなかった.
 しかし,駐チェチェン統合連邦軍第一副司令官のゲンナジー・トロシェフ将軍の働きかけによって,ようやくエヴゲーニー・カプースチンにロシア連邦英雄の称号が与えられることになった.

 【参考文献】
『東部戦線の独ソ戦車戦エース1941―1945年』(マクシム・コロミーエツ著,大日本絵画,2009.4)

エヴゲーニー・カプースチンとプーチン前大統領
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vladimir_Putin_20_September_2000-1.jpg

CRS@空挺軍 in mixi,2009年03月10日23:35


 【質問】
 ブダーノフ事件とは?

 【回答】
 ロシア軍大佐ユーリー・ブダーノフが,第2次チェチェン紛争中の2000/3/26,チェチェン人女性エリザ・クンガーエヴァを誘拐,拷問し殺害した事件.強姦の可能性もある.
 アンナ・ポリトコフスカヤを信頼するならば,ブダーノフは第1次チェチェン紛争の際に戦争神経症にかかったが,適切な治療を受けていなかった.
 裁判では,ブダーノフの精神鑑定に際して,ソ連時代にKGBに積極協力したことで悪名高いタマーラ・ペチェルニコヴァが登場するなど,ブダーノフに極めて有利な形で進んでいたが,ドイツ連邦議会からプーチン大統領に対し,本件で圧力がかかったことから,形勢逆転.
 2003/7/25,ブダーノフに対し強制労働収容所10年の刑が宣告された.

 詳しくは,アンナ・ポリトコフスカヤ著『プーチニズム』(日本放送出版協会,2005/6/25),p.223-294を参照されたし.

 戦地におけるストレスによる異常殺人という点で,ヴェトナム戦争中,ソンミの虐殺を起こした米軍将校の例と類似しているように愚考する.


 【質問】
 2001/11/18,モスクワ郊外,シェレメチェヴォ第2空港内の中立ゾーンで行われた,プーチン政権とマスハドフ側との和平交渉は,なぜ決裂したのか?

 【回答】
 江頭寛によれば,マスハドフ側が要求していた前提条件なしの和平交渉開始を,ロシア側は拒み,和平交渉開始の前提として武器引渡し,抵抗停止を譲らなかったためだという.

 この交渉について詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.241-242を参照されたし.



 【質問】
 シェレメチェヴォ会談はロシアにとって成功だったか?失敗だったか?

 【回答】
 江頭寛によれば,大きな外交的失敗だったという.

 「テロリストとは交渉しない」と約束していたプーチンが,マスハドフ派と交渉を行ったことは,ロシアがマスハドフ派をテロリストとみなしていない証拠ととられ,その2ヶ月後の2002/1/23,マスハドフ派の「外相」,イリヤス・アフマドフが,米国務省当局者と会見したという.

 逆にマスハドフ派にとっては,これまで合法的な交渉相手とすることさえ拒否しつづけてきたロシア側の態度を,変えさせたというだけで十分なプラスだったという.
 交渉に第三国の政治家(トルコの実業家で,同国の自由民主党党首ベシム・チブク)が保証人として付き添ったことも,国際的な認知と見ることもできた,と江頭は述べている.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.241-243を参照されたし.

さらにプーチン・フォルダ開放中



 【質問】
 ダイ村事件とは?

 【回答】
 2002/1/12,GRU特殊作戦部隊がハッタープ逮捕任務中,チェチェン山岳地帯のダイ村でバスを襲撃.
 ハッタープの居場所を吐かせるため,乗員乗客6人全員を拷問,殺害した事件.
 アンナ・ポリトコフスカヤを信頼するならば,実行犯はエドゥアルト・ウリマン大尉を除き,裁判手続き状の不備などによって放免されたという.

 詳しくは,アンナ・ポリトコフスカヤ著『プーチニズム』(日本放送出版協会,2005/6/25),p.294-297を参照されたし.


 【質問】
 2002年6月になって,バサエフがマスハドフに忠誠を表明し,チェチェン武装勢力が結束したのは何故か?

 【回答】
 ロシア側報道によれば,シャミル・バサエフらの強硬派は,それまでアル・カーイダと連携していたが,アル・カーイダがアフ【ガ】ーニスタンから追われ,また,バサエフと・アル・カーイダとのつなぎ役だったハッターブが死亡したことにより,バサエフは組織維持のため,かつて対立していたマスハドフと手を組んだのだという.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.246を参照されたし.

画像は第1次チェチェン紛争



 【質問】
 グロズヌイ・ヘリ墜落事件とは?

 【回答】
 2002年8月中旬,グロズヌイ近郊で起きた兵員輸送用大型ヘリが墜落,120人以上が死亡した事件.
 江頭寛によれば,ロシアは当初,チェチェン武装勢力による撃墜とはなかなか認めたがらず,30日になって,捜査に当たった最高検察庁が正式に「撃墜によるもの」と発表したという.
 そして8/23にはロシア軍機が,チェチェン武装勢力にとっての安全地帯となっていたグルジア・パンキシ渓谷のいくつかの村落を爆撃したという.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.243-245を参照されたし.

第1次チェチェン紛争



 【質問】
 リヒテンシュタイン会合とは?

 【回答】
 2002年8月に開かれた,チェチェン和平の方策を話し合うための会合.
 出席者は,
・マスハドフ派のアフメド・ザカエフ(シェレメチェヴォ会談のときの同派側特使)
・元ロシア安全保障会議書記イワン・ルィプキン(ボリス・ベレゾフスキイの代理人)
・元ロシア最高会議議長でチェチェン人のルスラン・ハスブラトフ
・元アメリカ大統領補佐官で国際政治学者のズビグニュー・ブレジンスキー
・元アメリカ国務長官アレクサンダー・ヘイグ
・元アメリカ外交官マクス・カンペルマン

 江頭寛によれば,米国側が独自にチェチェン和平を模索している動きの一つであるという.
 そしてこのグループは,ノルド・オスト事件の後でザカエフがデンマークで拘束されたとき,その解放を求めて一斉に行動したという.
 例えばベレゾフスキイは,女優ヴァネッサ・レッドグレーブなどの人権活動家を誘って救出に動いたという.

 2003年11月,ザカエフは解放された.

 詳しくは,江頭寛著『プーチンの帝国』(草思社,2004.6.22),p.247-248を参照されたし.

画像は第1次チェチェン紛争



 【質問】
 チェチェン武装勢力の変質について教えてください.

 【回答】
 かつてチェチェンの分離・独立運動は,強硬一辺倒のロシアに対し,人道上の懸念を表明していた欧米の支持を取り付ける思惑もあり,国際世論に一定の配慮をしていた.
 ところが,2009年4月に対テロ作戦の終結が宣言されて以降,共和国当局の融和政策に呼応し,穏健派が次々に帰順.
 逆に残存勢力は過激化したという.

 【参考ページ】
読売新聞 ,2011年1月26日(水)10時23分(モスクワ=貞広貴志)


 【質問】
 チェチェンにおける,2010年8月のテロリスト掃討作戦について教えてください.

 【回答】
 チェチェンにおける特殊部隊によるテロリスト掃討作戦の動画.
 グロテスクな表現が含まれておりますので,閲覧注意!!
Chechnya. The operation to destroy terrorists.

 立て篭もっていたテロリストに対し,火力を集中投入.
 沈黙したので,部隊を確認のため進入させたが,一部残存していたため,作戦を変更し,ロケットランチャー3発による制圧射撃を行った.
 テロリストは全員射殺された模様.

CRS@空挺軍 in mixi,2010年08月16日18:32

Трое спецназовцев внутренних войск МВД России стали Героями Российской Федерации
 2010年8月4日に発行された大統領令で,内務省系特殊部隊に在籍していた3名の兵士に対し,ロシア連邦英雄の称号を授与することが決まりました.
 3名の内,2人は殉職しております.
 いずれも北コーカサス地域における,テロリスト掃討作戦の勲功を評価したものです.

Nikolai Zlobin中尉
Paul Petrachkovu 少尉(死後受章)
Alexander Puzinovskomu下級軍曹(死後受章)
майору Николаю Злобину
лейтенанту Павлу Петрачкову (посмертно)
младшему сержанту Александру Пузиновскому (посмертно).

CRS@空挺軍 in mixi,2010年08月18日01:44


 【質問】
 チェチェンおよびダゲスタンにおける,2010.8.29の交戦について教えられたし.

 【回答】
 早朝,イスラーム過激派とみられる武装勢力が村の住宅を襲撃し,駆けつけた治安部隊との間で銃撃戦となった事案.
 地元行政府によれば,この銃撃戦で武装勢力のメンバー12人と治安部隊の5人が死亡したほか,住民も巻き込まれ,負傷した.

 また,チェチェンの隣のダゲスタン共和国でも同日日未明,車で移動中の武装勢力と治安部隊の間で銃撃戦となり,武装勢力メンバー4人が死亡した.

 【参考ページ】
NHKニュース,2010/08/30[06:35:22]


目次へ戻る

「軍事板常見問題&良レス回収機構」准トップ・ページへ戻る

軍事板FAQ
軍事FAQ
軍板FAQ
軍事まとめ