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<兵器FAQ目次
Boeing
ボーイング社公式サイト(英語)
「国際インテリジェンス機密ファイル」◆(2012/11/21)『ロッキード・マーティン,巨大軍需企業の内幕』を読み解く.(ウィリアム・ハートゥング著)
【質問】
軍需の航空宇宙産業メーカー吸収合併の歴史について調べているのですが,大よその流れを教えてください.
【回答】
ヒューズ──┐
ダグラス ────────┐ 1984├マクダネル・ダグラス
──┐
1967├マクダネル・ダグラス
──┘ │
マクダネル────────┘ ..1997│
.│
ボーイング──────────────────────────────┬─┴─ボーイング
.1996│
ノース・アメリカン─ロックウェルインターナショナル(1973)──────────┘
.1967│
ロックウェル──┘
アメリカン・マリエッタ ──┐
1961├─────────マーチン・マリエッタ───┐
マーチン ──┘ .│ │
.1993│ │
コンベア─ジェネラルダイナミクス(1961).────┘ 1994├─ロッキード・マーチン
│
ロッキード────────────────────────────┘
チャンス・ヴォート──┐
..1961├─LTV───────ヴォートエアクラフト(1992)──┐
..LTV ──┘ │
ノースロップ─────────────────────────┐ │
1994├─ノースロップ・グラマン
グラマン ──────────────────────────┘
フェアチャイルド・ヒラー ──┐
..1965├─フェアチャイルドエアロスペース─┐
リパブリック ──┘ 1996├フェアチャイルド・ドルニエ─倒産(2002)
.(独)ドルニエ──┘
(名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
以前YF-23とYF-22にみたいにアメリカはメーカーに開発競争させてましたが,敗れたメーカーも開発費だけはもらえて,勝ったメーカーの技術も提供されたんでしょうか?
もし技術が提供されたとしてもライセンス料は頂きとか?
【回答】
米の場合,まず先端技術は個別機種の開発作業とは別に,研究名目で各企業に発注される.
たとえば今の戦闘機には欠かせないRSSやCCV技術の研究開発は,70年代にマクダネルダグラスに発注され,完成された.
でもこれは国防省予算で得られた成果なので.マクダネルダグラスが独占することはできず,欧州を含む各社に公開された
YF-22やYF-23は,このような先行開発され分配された技術の集積なので,改めて技術を公開するとかはしない.
もちろん各社が自社資金で考案開発した技術には公開義務はない.
どうしても欲しければ金を出して買うことになる(例:チェーンガン)
試作機費の開発費は基本,国防総省が持つが,発注自体が入札制なので予め提示した額しか受け取れない
しかも「勝つ」ためには,その額と同等かそれ以上の自社資金を投入するのが当たり前な世界だ.
軍事板
青文字:加筆改修部分
【質問】
ダグラス社は何故なくなってしまったの?
【回答】
DC-9 - Wikipedia
>抜群の経済性と高信頼性が評価されて商業的には大成功をおさめ,
>度重なる改良によって次第に大型化しながらダグラス時代だけで976機が
>生産されたが,売れすぎて資金,資材不足に陥り(いわゆる黒字倒産),
>マクドネル社と合併してマクドネル・ダグラスとなる原因の一つとなった.
このように,冷戦期にマクドネルとダグラスが合併に至った理由は,軍需とは無関係に,民需の大儲けが原因での黒字倒産という理由によるもの.
>ところが,1991年の湾岸戦争によって一挙に航空不況が訪れると売上が
>激減,MD-11の失敗の上にエアバスの同クラス新型機A320シリーズに
>押されてマクドネル・ダグラスの経営は悪化した.関係の深かった中国と
>韓国が共同開発を予定していた小型旅客機「AE100」への参加交渉が
>泥沼となったために撤退(1995年)し,単独で受注に成功したMD-90シ
>リーズの最終モデルMD-95の開発を決定した.だが,極度の経営悪化
>によって1996年にボーイング社との合併に至った.開発中だったMD-95は
>ボーイングが引き継ぎ,ボーイング717-200として発売された.
そして湾岸戦争が切っ掛けとなった航空不況が原因で,倒産の道を転がって行く事になる.
とどめはMD-11の失敗だった.
そう,戦争は軍需産業であり民需産業でもあったMD社にとって,必要が無いものだった.
マクドネル・ダグラスMD−11
http://www.railstation.net/duke/airline/md11.html
>DC−10の後継機ということで,DC−10を使用している航空会社に
>営業をかけたものの,同じ時期にはワイドボディー機の市場には多く
>の機種が出回るようになっている状態であり,途中で湾岸戦争の勃発
>などのマイナス要因も加わり,思うように受注が伸びなかった.さらに
>完成した機体が当初予定していた性能を発揮できないことが判明した
>ため,キャンセルが相次いだ.結局200機程度の受注・販売をしたと
>ころで,マクドネル・ダグラス社の経営が深刻な状況となり,ボーイン
>グ社に吸収合併されることになった.
マクドネル・ダグラスが潰れた原因は色々有るが,直接の原因は民需の旅客機で大失態をした事,それ以前に湾岸戦争のせいで大きな打撃を受けていた事が挙げられる.
つまりマクドネル・ダグラスにとって,戦争はマイナス要因でしか無かった.
マクドネル・ダグラスは戦争を望んでいなかったと言える.
軍事板
青文字:加筆改修部分
▼ ダグラスはDC-9が大ヒット,受注を大量に抱えたが,折りからのベトナム戦争で,アルミ材を始めとする航空機の原材料が高騰.
当時の慣行で旅客機は固定価格での受注だったので,造れば造るほど赤字になった.
マクダネルは軍需中心で,コストアップ分は簡単に価格に転嫁できたから,業績好調で小が大を呑む合併になったわけさ.
▲
【質問】
ダグラス社の輸送機のうち,
DC-**が民間機で
C-**なら軍用機
という理解で合ってますか?
【回答】
違うな.
DCはダグラス社の社内名.
それを軍が採用すると,軍がCナンバーを付ける.
だからC-54がDC-4(の軍用型)とか,両者は重複している.
蛇足ですが,DCはDouglas Commercialの略,つまり,Douglas社製の民間機っつ〜意味でんな.
輸送機を表す機種記号であるCは,普通にCargoの略です.
Douglas DC-7
(画像掲示板より引用)
【質問】
ボーイング社ではB-29などの軍用機を旅客機に改造したりはしなかったの?
【回答】
やっています.
確か昔,ミュージカルでやってましたっけ.「ボーイング,ボーイング」
パリに住んでいる伊達男が,当時の飛行機の遅さを利用して,フランスとアメリカとドイツの三人のCAと宜しくやっていたところ,突如,彼女たちの会社にジェット旅客機が導入されて,大西洋横断の時間が短くなり,伊達男の家で彼女たちが鉢合わせして大騒動になるというコメディーでした.
ボーイングは,第二次大戦前に爆撃機B-17の主翼と尾翼を利用して成層圏旅客機,ボーイングストラトライナーという機体を飛行させた後,第二次大戦が終わる前には,軍需から民需への転換を見越して,B-29の主翼と尾翼と胴体下部を利用して,ボーイングストラトクルーザーという巨大旅客機を試作します.
量産に入ると,B-29から発達型のB-50の部品を応用した訳ですが,その前に戦後の不況による財政破綻一歩手前に追い込まれ,積極的な営業が出来ませんでした.
偶々,その巨大な搭載量と爆撃機との互換性が空軍の目にとまり,空中給油機としての需要が有ったために完全な破綻は免れました.
その後の旅客機については,当時,英国のコメットという世界初のジェット旅客機が製作されており,当然,ボーイングも次期モデルはジェット旅客機とする予定でした.
その概念モデルは,最初,ストラトクルーザーに単純にジェットエンジンを取り付けた機体から始まり,途中で空軍向けのB-47,B-52爆撃機の理論や概念を流用しながらも,今度はこれを旅客機に改造することなく,後退翼のジェット機を開発します.
これが,前述の「ボーイング・ボーイング」に出て来る707型機の原型,367-80になります.
ちなみに,367型は同社のストラトクルーザーの番号で,その存在を隠蔽しますが,この開発費用としては1945年から52年までの同社の純利益累計の3分の2に当たる,1,600万ドルという巨費が費やされました.
この機体は全米の注視を集めますが,実際にはデモに使われたに過ぎず,この機体から発展して空中給油機としたのがKC-135として米空軍に採用されました.
空中給油機としては大分少なくなりましたが,この機体は,北朝鮮のミサイル発射や核実験の際,沖縄などに改造型がやって来ています.
この胴体を大型化したのが,本命の民間旅客機型,707型になります.
この機体は,当時,大西洋の女王として君臨していた,クイーンメリー号の年間乗客数と同じ数の旅客を,その建造費3,000万ドルの6分の1の500万ドルの投資と10分の1の燃料費で運ぶことになり,航空機時代の本格的な幕開けを宣言した機体です.
で,この話を何で思い出したかというと,これの日本映画版みたいなのが何か有った気がして,その伊達男が植木等だったような気がして,前々から気になって,色々検索しているんですが,どうにも引っかからないんですね.
まぁ,数多作られた1960年代の邦画ですから思い出せなくても別に良いと言えば良いのですけど.
植木等と言えば,何故か一番印象に残っているのが,20年くらい前の火曜サスペンスです.
確か,公募脚本だったかのドラマで,年に一回,今年退職する人の中から抽選で一人が,一日だけオーナー社長の代りになる,というもの.
その抽選で選ばれたのが,工場の警備員をしている植木等で,替った直後にホンモノの社長が入院,跡目を狙う反社長派の陰謀と対決したり,沈滞気味にある社内を改革し,最後に,役員会で反社長派のクーデターを潰して,病院から帰ってきた社長と交代,何事もなかったかのように家に帰って,ビール片手に女房と世間話をして終わり….
こんな筋立てだったか,と記憶しているんですが,警備員の時の気楽な部分と,社長として,クライマックス,緊張して役員会の部屋に入る時の鬼気迫る表情,そして,最後に家でくつろぐ時の表情,何故か強烈に印象に残っています.
そういう意味では,凄く存在感のある役者さんでした.
晩年,衛星だかハイビジョンだかで,『スーダラ伝説』だったかな,そんなタイトルの番組がありましたが,年を取った植木等は,何かホンモノの植木等ではなく,抜け殻の様に思えてしまいました.
本人もこんな番組で取上げられたくはなかったんじゃないかなと思ってみたり.
役者にしても潮時というのはあるんでしょうか.
そういう意味では,味のある役者だったかなと思う反面,ずっとクレイジーキャッツのボーカルとしての印象が付きまとって,本人も残念だったんじゃないかな,と思います.
多分,本人は凄く木訥な人柄で,虚像であるクレージーの植木等を冷めた目で見ていたのかも知れません.
谷啓さんなんかは,そうした割り切りというか,切り替えが上手いんでしょうね.
兎に角,今更ながらご冥福をお祈りします.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2007年04月03日
【関連動画】
B367-80のバレルロール飛行
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20070109_boeing_roll/
http://www.youtube.com/watch?v=w051kpDCelc
Bernoulli in 「軍事板常見問題 mixi別館」,2010年11月13日 07:53
【質問】
Lockheedの歴史について教えて下さい(田中角栄)
【回答】
The Lockheed Aircraft Co.は,1932年に設立された企業ですが,その前史があります.
1904年,Allen Lougheadと言う青年が,San
Joseに居ました.
彼は,同年に操縦を学び,暫く操縦士として活動した後,1913年にModel
Gと言う三座水上機を製作,Christoffersonに,Alco
Hydro-Aeroplane Co.を設立して,営業活動を続け,1915年には,この機を用いてパナマ・太平洋博覧会で乗客輸送(遊覧飛行)を行い,600名を乗せて4,000ドルを稼ぎました.
この資金を基に,Allenと,彼の兄弟のMalcomが1916年3月,Santa
Barbaraに於いてLoughead Aircraft Manufacturing
Co. を設立し,John K. Northropを主任技師として,大型の飛行艇F-1を開発します.
1918年,F-1は初飛行に成功しますが,第一次大戦が終了した為,海軍の採用は見送られ,暫くは忍従を強いられます.
この間,1920年にはOaklandに工場を持つ,Christofferson
Aviation Co.と合併しています.
1926年,Santa Barbaraを引き払い,Burbankの小さな工場に移ります.
また,この年,Lougheadでは発音がわかりにくいと,社名をLockheedに変え,Lockheed
Aircraft Co.となります.
此処でVegaを開発し,それが久々の同社のヒット製品となり,以後単発小型流線型旅客機を次々に開発します.
しかし,開発費を得る為,1929年7月,Lockheedは投資家組織が設立したDetroit
Aircraftの傘下になります.
ところが,この会社は投資回収を先行させ,各社が行う新規投資,製品研究を禁じ,為に各社は大きな損害を被ることになりました.
1932年4月,投資家の逃避と1929年の大恐慌の波に洗われたDetroit
Aircraftは没落しますが,その前に,Loughead達は,トンネル会社としてVega
Airplaneを子会社化し,各種研究,投資を行って,1932年6月21日,改めて,Stearmanを援助したRobert
E. Grossによって,Lockheed Corp.として再出発し,最初は全金属製Orionの開発を提案しますが,却下され,改めて双発旅客機Model10
Electraの開発を行い,1934年に初飛行に成功し,これは,Executiveの移動用などに大いに重宝されました.
これの開発とその成功で,Model12 Electra,14
Super Electra,18 Load Sterと言った各種の高速旅客機を開発します.
特に,Model 14は各国に輸出され,英国ではMunich会談に向かうChamberlainの乗機と成った他,日本では陸軍と大日本航空が導入を決定し,立川飛行機では製造権購入と技術提携を行い,1939年から本格生産を開始しました.
立川製はエンジンがハ26に換装されたほか,客席を再設計していました.
1940年以降は川崎航空機でも生産を開始,川崎では14の欠点だった低速時の安定性不良改善や,搭載量の増加のため,胴体をストレッチした一式貨物輸送機を製作しています.
ちなみに,奇しくもLockheed 18の改善点も全く同じだったりします.
また,軍用機メーカーとしては,英国が発注したModel14改造のHudson哨戒爆撃機を手始めに,18改造のVentura哨戒爆撃機が製造され,これらは,米陸軍でA-28/29,A-34,AT-18としても用いられ,米海軍ではPBO-1,PV-1,PV-2として生産されました.
なお,これらの軍用機Versionについては,1938年に傘下に置いたVega
Airplane Co.を1941年に完全子会社化し,1943年に吸収してVega
Divisionで製造されています.
更に,Model22と言う双発の重戦闘機が開発され,これはP-38として採用されました.
これ以降の機体は,K.K.Johnsonによって行われ,彼はその後,P-80,F-90,F-104などの戦闘機開発の他,Skunk
Worksを率いて,U-2,YF-12,SR-71,F-117の原型機などの開発に携わることになります.
また,民間機として,Model 14のOwnerだったHowerd
Hughesの依頼を受けて,彼の息の掛かったTWA向けに高速旅客機Model
49 Constellationを製作し,これは発展を重ねてL-749,L-1049,L-1649と進化していきます.
同時に海空軍向けに,C-69,C-121,EC-121(WV)も製造していました.
ちなみに,C-69の爆撃機型としてB-30と言うのも提案したりしています.
1950年代の民間機のジェット時代に対応する為,Lockheedはターボプロップを選択し,L-188
Electraを製作しますが,最初のCL-303案はAmerican航空の要求に適合せず,CL-310案が採用されました.
ところが,新規就航の直ぐ後に2件の重大事故を起こし,その対応に追われている間にB.727などの新型機が就航し,多大な損失を被りました.
対潜哨戒機としては,PV-2がトラブル続きで,新たに専用機として,P2Vが製作され,これは米海軍の主力対潜機に採用されました.
その後継として,L-188を基にしたP3Vが製造され,これは今日に至っています.
一方で,戦術軍用輸送機として,西側代表的な機体となったL-100,軍用名C-130が製作され,これも長らく主力生産機種となっています.
Lockheedはラムジェットについて幾つかの実験機を開発していますが,宇宙開発,ミサイル開発への進出は遅れ,地上発射は抑えられていたので,人工衛星,SLBMの開発を始めました.
海軍と共同でSLBMを開発,これをPolarisと名付け,社内組織にMissile
System Div.を設け,その生産に入る頃になる1961年6月より,Lockheed
Missiles and Space Co.に社名を変更しています.
その後,C-141,C-5などの輸送機開発などを経て,1977年に再度社名を変更し,Lockheed
Corp.とし,社内組織を,Vegaから発展し,新工場を建設したMariettaを拠点として輸送機開発・製造部門となったLockheed-Georgiaと,従来からのLockheedの拠点であるCalifornia各地で,戦闘機などの小型機開発,研究部門となっていた,Lockheed-Californiaに分けました.
民間機部門では,久々に開発したAirbusであるL-1011
Tristerが大転けに転け,会社経営を危うくしますが,丁度,軍需関係の受注で一息つき,1987年には完全分社化を企図した,Lockheed
Aeronautical Systems Group(LASG)に社名を変更しました.
この時,旧Skunk Worksも独立し,Lockheed
Advanced Development Co.(LADC)となっています.
1993年3月1日,A-12計画とATF採用で敗れ,苦境に立ったGeneral
Dynamicsを買収して,Fort Worth部門が新たに誕生し,1995年3月15日には,Lockheed
Corp. & Martin Mariettaとなりました.
この会社の航空機開発・生産部門はLockheed
Martin Aeronautical Sectorで,これは,Mariettaに本拠を置き,旧Lockheed社製航空機製造を主な事業とする,Lockheed
Martin Aeronautical Systemsと,Palmdealに本拠を置き,先端技術開発を行う,Lockheed
Martin Skunk Works,Fort Worthに本拠を置き,旧GD社製航空機製造や軍用機開発を主とする,Lockheed
Martin Tactical Aircraft Systems,更に物流を担当する,Lockheed
Martin Logistics Managementと,ミサイル,ロケット,人工衛星などを開発する,Lockheed
Martin Aero & Naval Systemsに分かれています.
この会社は更に,1997年7月,B-2以外製造する機体が無くなったNorthlop
Grummanとの間で買収合意に至っていますが,米国政府によってその買収は拒否され(イカロス出版旅客機年鑑),買収は白紙撤回されました.
(眠い人 ◆gQikaJHtf2)
【質問】
P.Z.L.が戦後に開発した主な航空機について教えてください.
【回答】
戦前のP.Z.L.と戦後のP.Z.L.は途中で断絶しています.
と言うか,一応,P.Z.L.の名前を冠してますが,一種のブランド名という感じです.
Iskraは,WarsawのOKL(ポーランド語でOsrodek
Konstrukcji Lotniczych(航空機製造センター))が開発したポーランド最初の国産ジェット機です.
元々が,レシプロのTS-8練習機の後継中間練習機として,ダデウシ・ソルチクという人の設計で1956年から設計したものですが,国産ジェットエンジンが中々完成せず,機体の完成は1960年になりました.
一応,1964年には,C-1-d級のFAI公認国際速度記録を樹立したこともあります.
で,1962年,ワルシャワ条約機構の標準練習機コンペがあって,ソ連のYakovrev
Yak-30とチェコスロヴァキアのAero L-29の競作となりました.
いずれも性能が優秀だったのですが,確かスピンに入りやすいのが原因で,選から漏れてしまいました.
しかし,ポーランドは断固としてL-29の採用を拒否し,自国用に1963年3月から生産を始め,500機以上が引き渡されました.
更に,第二次ワルシャワ条約機構標準練習機コンペ第二弾に,I-22
Irydaと言う機体を開発しますが,対するチェコスロヴァキアのAeroは,L-39を開発.
原設計1950年代のターボジェットエンジンの鈍重な双発機と,1970年代のターボファンエンジンの軽快な単発機では,勝敗は自ずと明らか.
こちらも負けて,試作のみに終わりました.
ちなみに,このOKLは後に,WSK-MIELECと言う組織に変更されており,現在は,PZL-MIELEC部門になっています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
ポーランド以外に,東欧圏でジェット機を自製した国はあるのでしょうか?
【回答】
マジャールは残念ながら,飛行機生産は叶わなかった(その代わり,バスやトラック,鉄道車輌生産に特化した訳ですが)ですし,ブルガリアは基本的に農業国ですから,戦後は重工業より軽工業にシフトしてますね.
東ドイツでは,Junkersの工場がEisenachにありました.
工場自体はソ連軍に一切合切接収されてしまいましたが,技術者もそれなりにおり,旧Junkersのブルーム・バーデという技師は,独立後復活したDresden航空研究所の指導者となり,国産ジェット機と国産ジェットエンジンを開発しています.
この機体は,Dresdenの第2航空機工場(第1がMiG-15を生産し,第2はIl-14などのソ連製輸送機を生産していました)で1957年に開発された57人乗りのBB-152輸送機で,152と言うのはJu-52にあやかったものだそうです.
ジェットエンジンは,Ju-287に使う予定だったものの発展型だったとか.
東ドイツのLufthansaで中距離路線に使う予定で,90人乗りの発達型BB-153も開発されていました.
しかし,ソ連の方針(Tuporev使えボケ!)で潰えました.
ユーゴスラヴィアは,意外に米国などの技術を吸収して,初期にジェット機を試作し,英国からジェットエンジンを購入して練習機,Soko
G-2 Galebを1961年に完成させ,1968年にそれを単座化してJ-1
Jastrebを作りました.
でもって,ソ連寄りから徐々にシフトしていったルーマニアと組んで,日本のF-1/T-2とほぼ同等機で,ぎりぎり超音速攻撃機兼高等練習機のJ-22
Orao(ルーマニアではCNIARの担当で,IAR-93)を1977年頃から作ったりしています.
これも,流石にエンジンは無理で,G-2と同じ練習機用エンジン2基で無理矢理超音速なんですが….
ルーマニアはこの経験を生かして,1985年にIAR-99
Soimを作ってます.
こちらは,英国のHawkと同等の練習機で,米国海空軍にも売り込まれたり.
チャウシェスク時代の1979年には,英国からLicenseと設備を購入して,1960年代製の英国旅客機BAC-1-11を製作していますが,今のところ余り売れなくて年産1機という状況です.
蛇足ながら,ポーランドのPZL-MIELECでは,ソ連製An-2農業機の後継として,Antonovと共同で,農業機を開発してたのですが,開発されたM-15と言う機体は,時代錯誤なジェット複葉機だったりします(当然試作のみ).
農業機の分野では,冷戦時代に,米国のRockwell(スペースシャトルやB-1の開発元)が,パテントを有していた農業機の技術を導入し,パワープラントと脚をソ連のAntonov
An-2のものに変えた米ソ折衷の農業機を生産したりしています.
あ,Lufthansaも東西分裂してありましたので念のため.
BB-152を採用しようとしたのは,あくまでも東ドイツ(後のインターフルク)の方でやんすから.
そう言えば,インターフルクも倒産しましたねぇ.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi
【質問】
ルーマニアの航空機メーカー,I.A.R.について教えてください.
【回答】
Romaniaという国は,世界最初のジェットエンジンによる予期せぬ飛行をした,アンリ・コアンダに見られるように,それなりの水準を誇っていました.
しかし,それはあくまでも個人レベルのこと.
第一次大戦では,国土が戦場になったために,それ以上発展しませんでした.
トリアノン条約の結果,新たにRomania領土になったAradの地に,旧マジャール王国のMAVAG鉄道車輌工場がありました.
1923年,この会社はRomaniaに接収され,Astra-Aradと言う会社組織に変更されます.
Aradの地には,マジャール王国にBenz航空機エンジンを供給していたMagyar
Automobil Restzbenytarsasag(M.A.R.)の工場もあった為,航空機製作に移行していきます.
そして,Polandの航空機技師,Stanislav Sasefskiを主任技師に招き,1923年,初めての航空機,250馬力のBenzエンジンを搭載した,ASTRA-Sasefski複座複葉機を製作します.
この機体は非常な成功を収め,Arad-Bucharest間の民間航空航路を開拓するのに使用されました.
これで自信を深めた会社は,1924年,会社は,Fabrica
de vagoane ASTRA din Aradと名称を変更します.
次いで,自国の航空工学を修めた教授を主任技師に,空軍向け偵察機を製作しますが,これは失敗します.
偵察機なのに,安定性が悪かった様ですが,それでも国産機なので,練習機として25機,採用されました.
しかし,根本的な梃子入れを図った政府は,この会社とは別に,航空機を製造する公営企業を資金200,000Leiで立ち上げます.
この会社,Industria Aeronautica Romana,
Societate Anonimaの設立は,1925年8月6日で,FranceはPotezの資本が多く入っていました.
まず,この会社が手を付けたのが,当時,資本提携関係にあった,Potez社の最新鋭多用途軍用機,Potez25の生産です.
この間,製作工場の建設費を惜しみ,11月1日には,前述のASTRAを傘下に組み入れ,1927年には吸収しています.
ちなみに,Industria Aeronautica Romana,
Societate Anonimaとは別に数社が航空機製作を行なっていましたが,これらは,独立していますが,ブランドとしては,一時期を除き,I.A.R.で統一されています.
今回は,Industria Aeronautica Romana, Societate
Anonimaの方だけを取り上げることにします.
Industria Aeronautica Romana, Societate
Anonima(略称I.A.R.)は,機体開発部門,エンジン開発部をBrasovに,また分工場をAradに持っていました.
また,Brasovでは飛行場も経営していました.
この体制で,最初は先述のように,1927年から33年にかけて,Potez25を250機生産し,次いで,Morane-Saulnier35練習機を1927年に30機,米国製Fleet
10G練習機,更には,P.Z.L.P.11cの生産と言う感じで,外国製機の生産を行なって技術を蓄積していく傍ら,Potez25をパラソル単葉化したPotez25Mと言う機体を試作しています.
また,エンジンは,Gnome-RhoneK-7/K-9/K-14,De
Havilland Gipsy-Majorを中心に,第二次大戦前までに1,100基のエンジンを生産していました.
国産機としては,1930年から戦闘機の開発を始めますが,いずれも習作に終わって,本格的な戦闘機は,I.A.R.80まで待たなければなりませんでした.
その代わり,練習機,多用途機として,I.A.R.22/23/24を,複葉偵察爆撃機として,I.A.R.37を,複葉偵察機としてI.A.R.38を,それぞれ試作,生産し,国産機の開発能力もそれなりに付いてきました.
また,ItalyのNardi練習機なども国産化しています.
このほか,車輌,工作機械,建築資材なども製造していました.
戦時中はドイツ製の機体の修理,製造を行ない,1940年にRegia
Autonoma Industria Aeronautica Romana に改組されました.
戦後,ソ連に工場を接収され,Sovromtractorとなり,トラクター製作を主な事業にします.
1949年から航空機製作を再開しますが,1951年にURMV-3となり,1960年には脱Stalin化で,I.I.L.と名前が変更されます.
この間,小型軽飛行機を中心に試作製造を行ないます.
1968年,今度は,ICA-Brasovとなり,Romaniaの独自路線で,Helicopterの生産を主に行なうようになります.
また,脱ソ連化の一環で,AerospatialeのSA316B
Alouette IIIを生産し,次いで,SA330L Pumaの生産を行なっています.
1991年,独裁体制が崩壊した後は,社名を再びIAR
SAに戻して,Kamovと提携して,Ka-126を生産しています.
と言う訳で,I.A.R.80が出て来ないのは,これが,本体の製品ではなく,傍系のS.E.T.が製作したものだからで,他に,最近のI.A.R.ブランドで製造している,ICARなんてのもあって,何が何やら….
【質問】
ルーマニアには,I.A.R.以外にメーカーはないのですか?
【回答】
I.A.R.とは別に第二次大戦前に存在した航空機メーカーとしては,他に2社がありました.
今日はその中の一社を取り上げてみませう.
さて,航空省の管轄下に民間機製造を専らとする会社,Intreprinderea
Pentru Constructii Aeronautice Romane(略称:ICAR)があります.
1932年にFleet社の軽飛行機を製造する会社として設立され,1936年に多座民間機であるICAR-1と複座複葉練習機を製造していました.
第二次大戦中は,Fieseler Fi 156 Storchを製造しています.
その後,この会社は政治体制に翻弄されます.
まず,戦後はソ連の接収を受け,共産化によって,1951年にAteliere
de Reparat Material Volant 2(ARMV-2)に改組されます.
ここでは主にソ連製航空機や自国開発機の改造,修理を行っており,戦後,空軍で用いられていたI.A.R.80の複座改造型なども手がけていました.
しかし,非スターリン化に伴い,1957年にCentrul
Tehnic Industrial Aeronautic(CTIA)に改組され,この間,Yak-11の国産化,Yak-23の複座化改造などを行っています.
その後,1959年にIntreprinderea de Constructii
si Reparatii Material Aeronautic(ICRMA)となり,IAR-811/813などの軽飛行機を開発しています.
また,この組織はURMV-3の傘下に入り,68年にIntreprinderea
de Reparatii Material Aeronauticとなります.
以後,Romaniaが独自路線を取るにつれて,1978年からはIAv
Bucurestiとなっています.
製作する機体は,西欧の機体となり,英国のBAC-111旅客機,BN-2アイランダー軽飛行機であり,この国産化は現在でも行われています.
Romaniaの政権崩壊後は,1990年11月20日にRomaero
SAと改組され,主にBAC-111を年産1機で製造しています.
もう1社はS.E.T.です.
Fabrica de Avioane Societatea pentru Exploatari
Tehnice(通称,S.E.T.)は,1923年に設立されました.
この会社は主にRomania空軍の軍用機を中心に製作しています.
最初の4年は技術研究とか空軍装備機の研究に費やし,1927年にProt-I,Prot-IIと言う試作機を製作します.これは2機しか作られず.
次いで,1929年にS.E.T.3複葉機を作りますが,これは政府に採用されないと言う余りぱっとしない状況でしたが,それでも,12機が生産されました.
次いで10機生産のS.E.T.4を作りますが,これは欠陥品ですぐ退役.
やっと,1930年製作した複葉複座中等練習機のS.E.T.7が,軍の採用するところとなり,主力練習機として50機が生産されました.
このS.E.T.7は成功作と言って良く,これを基に,更に発展型としたS.E.T.7Hを1936年に8機,同じく,観測機に改造したS.E.T.7Kシリーズが60機も生産されています.
また,これを単座化し,戦闘練習機とした,S.E.T.Xが試作されましたが,それは売れず,試作に終わりました.
このため,S.E.T.では,本物の戦闘機を試作して,それとセットで売り出すことを考え,1934年に本格的な複葉戦闘機,S.E.T.XVを開発します.
この機体の性能は良く,外見もNACAカウリングを採用したスマートなモノでしたが,これもRomania空軍でP.11を既に採用していると言う理由で,採用を見送り,結果的に試作のみに終わっています.
以後は,S.E.T.10練習機,S.E.T.31初等練習機を開発しますが,S.E.T.31が10機,空軍に売れただけで,結果的に新規開発は以後行なわず,下請けになっていきます.
1936年から,米国のFleet社の練習機,Fleet10Gのlicense生産の割当分80機で糊口をしのぎ,
1939年から,I.A.R.の完全下請けとなり,I.A.R.27観測機,I.A.R.39急降下爆撃機の製造を行ない,イタリア製Nardi
F.N.305練習機の国産化を担当してこれを124機生産し,並行してI.A.R.80の開発・生産を行いつつ,He-111H-3のLicense生産を準備したところで,敗戦に至っています.
戦後は下請工場という地位に落ちていたこともあり,余り顧みられず,他の会社が曲がりなりにも生き残ったのに比べ,1947年に解散に追い込まれてしまいました.
SET主宰(左端)
(画像掲示板より引用)
▼ 【質問】
退役した航空機は,どのような最期を迎えるのでしょうか?
空軍では務めを終え,退役した機体の多くはその後どうなるのでしょうか?
道路に放置されてる写真をよく見ますが,鉄クズにして廃棄,ということはしないのでしょうか?
かつて名機と称された機体であれば,博物館に置かれたり,練習機に転用されることもありますか?
【回答】
「道路に放置」というのは,ひょっとしてアメが砂漠に飛行機を置いてあるアレ?
あれは放置してあるのではなく,取り敢えず稼動させとく必要のない機体を,言わばフレームやモノコックだけの状態にして「保管」してあるだけ.
必要に応じて再整備して就役させられる.
別に捨ててる訳じゃありません.
アメリカみたいな,保存に適した広くて乾いた土地が有り余ってる国では,そのようにモスボールしたりする.
が,そのほとんどはただ,朽ち果てるのを待つ運命であり,これも実際は破棄したようなもの.
で,「保管」されない殆どの機体は,エンジンや電子部品などを抜き取ってスクラップ.
中には中古品として他国へ売却,提供され再就役したり,標的として後輩の役にたつものもある.
歴史的・技術的に有意義な機体は博物館に収蔵されたり,好事家に買い取られたりもする.
しかし,ごく少数.
それも,引き合いがあればの話.
もう飛べない,動かない機には,予算も引き取り手もない場合がほとんど.
また,一般的な機体でも,基地の展示機やゲートガードとして余生を送る場合もある.
よほどしょぼい空軍でもなければ,数十機〜数百機が旧式化していくわけだから,何機か転用したところで焼け石に水.
スクラップにするのが一番安上がりになる.▲
軍事板
&軍事板(黄文字部分)
青文字:加筆改修部分
航空機の墓場画像
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(引用元:http://www.mediabum.com/html/Airplane-Graveyards.html)
【質問】
「航空情報」誌の2007年5月号の読者投稿写真ニュースのページに,
「ハンターアビエーション・インターナショナル社のハンターF.58は,嘉手納基地をベースにミッションを実施後,フィリピン,グアムに展開し
(中略)
約2ヶ月後の2ヶ月後の2月12日から約2週間,米海軍との共同訓練を開始した」
といういう記事が掲載されていたのですが,このハンターアビエーションインターナショナル社は一体何をしている会社なんですか?
民間会社が軍用機で軍隊の訓練に参加しているというのは,非常に珍しいと思うので気になります.
そして,何故今更のハンターなのでしょうか?
【回答】
米,英,スイス,スウェーデンには,軍が放出した軍用機を使って,標的曳航や訓練でのチャフ散布なんかを引き受けてる民間会社がある
ま,「民間会社が軍用機で軍隊の訓練に…」ってのは珍しくも何ともないのよ.
10年分ぐらいの航空雑誌を古本屋で探してみれば,わりと頻繁に同じような話が掲載されてるのが確認できると思うぞ.
【質問】
国内,海外を問わず旧軍機の復元に関する記事や書籍を読んでいると,
「スピナーの形状が違う」
「カウリングの形状が違う」
「塗装が違う」
と散々ダメ出し喰らってるのを見つけるのですが,これって記事や本を書いた人が異常に神経質なのか,それとも復元担当がいいかげんなのかどちらなんでしょうか?
確か三菱重工が直々に復元(新製?)した名古屋の零戦も,その筋の識者だかマニアあたりにこき下ろされてたのを見たのですが,やっぱりあれもなんというか「妥協」の産物だったりするのですか?
【回答】
*復元した時には発見されてなかった資料が後から見つかった
*予算の都合
*復元作業の責任者が資料を信用しなかった
その他色々.
結局のところ
「どれだけ金と時間が掛かってもいいので完璧に復元したい」
ってのは無理なので,何処かで妥協が生じる.
なまじ開発製作元が復元を手掛けたりすると,どんなに全体として見ればよくできてても,細部のちょっとした違いを鬼の首を取ったように指摘される.
「とりあえず緑色に塗って日の丸描いときゃゼロ戦に見えるだろ」的適当復元の方が,
”まぁ詳しくない人間がやっつけでやったのはこんなもんだよな・・・”
で流されたりする不条理が.
軍事板
青文字:加筆改修部分
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