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収容所内の捕虜の様子

(画像掲示板より引用)


 【link】

D.B.E. 三二型」(2011/05/27)◆シベリアで捕虜になった日本兵を描いた漫画

「VOR」◆(2012/05/12)ナホトカ 第二次世界大戦時の日本人捕虜のメモリアル建立

「VOR」◆(2012/07/26)ナホトカ 旧日本軍人追悼記念碑が完成

「VOR」◆(2012/08/27)ロシア ソ連時代の日本兵士捕虜に関する新資料を日本に引渡し

「VOR」◆(2012/09/14)沿バイカルの日本兵抑留者に親族が参拝

朝目新聞」●旧ソ連抑留画集  (by ザイーガ)

「いてつくブログ」◆(2012/12/07)【社会】旧ソビエト“日本人保護せず”外交文書

「山猫文庫」◆ノモンハン捕虜の運命(序+本編9回)

「『シベリア抑留』の起源」(横手慎二 in 『法学研究(慶大)』 83:12,2010年)<「M_A_Suslov@Twitter」(2011/04/10)
http://twitter.com/#!/M_A_Suslov/status/56890860402524160
http://twitter.com/#!/M_A_Suslov/status/56894523263025152
http://twitter.com/#!/M_A_Suslov/status/56895295056904192
http://twitter.com/#!/M_A_Suslov/status/56895935803961344
http://twitter.com/#!/M_A_Suslov/status/56897501931900928

『戦陣訓の呪縛 捕虜たちの太平洋戦争』(ウルリック・ストラウス著,中央公論新社,2005.11)

 外国人作者だけど,資料にしてるのは日本語文献と日本人からの聞き取り.
 海外向けに書かれた本の邦訳逆輸入版なんで,連合国側の捕虜取り扱い状況の記録なんかを期待すると,ちょっとがっかり.
 でも,日本の先行研究がまとまった概説書として読む分にはありかと思った.

――――――軍事板

『転進 瀬島龍三の「遺言」』(新井喜美夫著,講談社,2008.8)

『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』(中田整一著,講談社,2010.4)

『南方からの帰還 日本軍兵士の抑留と復員』(増田弘著,慶應義塾大学出版会,2019)

 著者は大学の教授ですが,新宿にある平和祈念展示資料館名誉館長を務められている方です.

 太平洋戦争に敗れた日本へは,各地の戦場から様々な方法で引揚が行われていました.
 ただ,その全容は余り解明されておらず,海外からどの様にして何人が引揚げたのかと言う研究が手付かずの侭だったりします.
 一番研究が進んでいるのが,実はシベリア抑留だというのは皮肉な話です.

 一番対象者が多かった中国戦線は,戦犯とシベリアに抑留された関東軍兵士達を除けば,国共内戦中にも関わらず比較的穏便にかつ素早く引揚が行われた方です.

 しかし,他の連合国,米国,英国,オランダ,豪州(ニュージーランド含む)軍管轄下においては,色々と事情があり,引揚げの期間や形態は様々でした.

 これらのうち,豪州管轄のニューギニア島では飢餓や病気などの蔓延から,人道的な視点によりかなり早くに引揚が行われ,その余波で自活できていたラバウルなどを中心とする太平洋の島々からの引揚げも比較的スムースに行われました.

 米国管轄のフィリピンでは,マッカーサーのお膝元と言う事もあり,戦犯を除けば比較的早くに引揚を行う予定でしたが,日本軍の指揮命令系統がほぼボロボロだった為に,戦後も何ヶ月かに亘って投降の呼びかけが行われたり,場合によってはそれを敵の謀略と見做した現地指揮官によって,戦闘が繰り広げられ,無駄な命が失われたりしています.
 また,この地域は戦前や戦中に渡航した民間人も多く,軍人と一体化してしまった彼等の投降と引揚げも結構大変だったようです.
 それにも増して,フィリピンでは現地の占領行政が酷かったので,民衆の憎悪は大きく,移動すると投石が起きるような状態であり,米軍の庇護が無いと,引揚げもかなり危険だったとか.

 シンガポールやビルマを中心とした英国植民地やタイ,それにオランダ軍の戦力が整わなかった蘭印では,英国軍やインド軍を中心とした英連邦軍が進駐して植民地行政を再開させます.
 英国は行政を再開するに当たり,日本軍の叛乱を恐れました.
 実際,日本軍は連合国が予想していた以上に兵力が多かった訳で,それを抑留すると監視のための軍が必要となり,白人の兵士が少なかった英軍ではインド軍を主体にするほか無かった訳です.

 一方で英国軍は,植民地インフラ復旧の労働力として現地人を動かす必要に迫られます.
 しかし,疲弊した現地人ではインフラ復旧の労働力たり得なかったりしたため,膨大な日本軍兵力を利用する事にしました.

 米国はこうした使役をしても,国際法上のPOWとして扱った為,賃金もほぼ適切に支払われています(しかしながら,米軍でも現地ではマッカーサーの命令にも関わらず,現地労働力として報復的に使役する動きも無かった訳ではありません).
 しかし,英国はそんなことはお構いなく,日本降伏者として扱い捕虜とは認めませんでした.
 この為,労働力として使役しても,給餌は最低で,しかも賃金を支払うのも渋ると言う状態.
 また,彼等の引揚げも相当渋り,1947年12月まで引き延ばそう,更にそれ以降まで使役しようとすらしていました.
 そう言う意味では,英国も厳寒の状態がないだけで,ソ連と大して変わりありません.

 オランダも蘭印において英国と同調しています.
 その上,蘭印は独立紛争も抱えていたので,日本軍をインドネシア軍と戦わせようとすらしています.

 東南アジアからの引揚については,マッカーサーと英国軍側との間で激論が交わされ,マッカーサーがこれではソ連に強く出られないとして,国務省を通じて英国政府側に抗議して決裂寸前まで行った事が有りました.
 これはマッカーサーに吉田茂が泣き付いた結果でもあります.

 戦後,各地からの引揚げについてはシベリア抑留だけがクローズアップされ,他の国々からの引揚は比較的スムースに行われたと思われがちですが,敗戦とはこう言うものだとは言え,完全に国際法を蔑ろにした行為が英国やオランダにはあった訳です.
 もっとも,これには向こうにも言い分があって,日本軍はジュネーブ条約に加入していないから,この扱いをしても構わないと言う理由付けがあったからですが.

 因みに,こうした地域から引揚げた人達には,労働の対価として日本政府から(英国やオランダではない,両国政府は将兵に対する支払を拒んだ)200円が支給されたそうです.
 戦時中しか知らない将兵達は,かなりの大金を貰ったと喜んだのですが,1947年当時,日本はインフレが進んでいて,200円なんてあっと言う間に消えるお金だと知って,落胆した人も少なからずいたとか.

 この本では,主に英国からの軍人引揚げについての事情を中心に書いています.
 一番資料が多かったのが英国だった為ですが,オランダや豪州,米国については表層的な動きしか書いていません.
 オランダ関係の研究者が少ないのも一因でしょうし,米国についてはある程度の忖度が働いているのかも知れない.
 これに,中国やフランス関係の引揚があれば更に完璧に近付くのでしょうが,それは叶わぬ夢でしょうか.

------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2,2021-02-25

『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』(嶌信彦著,角川書店,2015)

 その昔(と言うか今もあるのかも知れませんが,最近日曜夕方は起きている事が少ないので),TBS系列で「報道特集」という番組がありました.
 その中で,この建物を取り上げていたのが印象に残っていて,ついつい買ってしまったのがこの本です.

 満洲にいた兵士達は,一部の目ざとい将校を除き,8月9日に侵攻してきたソ連軍に蹴散らされ,武装解除されてしまいます.
 そして,ソ連は彼等を国土復興のための労働力として,各地に送り込み,かなり長い間彼の地で働かせました.
 シベリアの凍土地域に送り込まれた兵士達は劣悪な労働環境と食事,病気の蔓延などで多くの死者を出します.
 しかし,手に職のある兵士は,遠くの地に送り込まれたものの,ある程度人間並みの扱いを受けることが出来ています.

 UzbekistanのTashkentに送り込まれたのも,陸軍航空隊の航空機整備を任務としていた技術者集団でした.
 彼等は,鉄道や森林伐採の代わりに,故郷から遠く離れた中央アジアのこの場所で,ソ連に4箇所しか存在しないボリショイ劇場を建設する為に呼ばれたものです.

 彼等は,ドイツやイタリアなどの捕虜と共に作業に当たりますが,日本側の捕虜収容所の指揮官が出来た人でした.
 彼は如何にこの逆境下で兵士達を統率し,全員を無事に返すかと言う事に腐心しています.
 例えば,食事の割当について,ノルマが未達の者は食事が減らされましたが,それぞれの仕事の状況でノルマが達成出来ないこともあります.
 普通なら,これで組織が崩壊してもおかしくありません.
 そこを彼は,ノルマを達成して多く食事が与えられた兵士が,「一度与えられた食事を,自発的に」食事が減らされた兵士に与えると言う方法を編み出します.

 当然,ソ連側から掣肘を食らいそうになりますが,ソ連のやり方を観察して,ちゃんとした理論武装をしての対応をしたのです.
 幸い,ソ連側の担当者にも恵まれて,理解を得ることが出来,以後,組織が崩壊すること無く,最盛期500名近くいた日本人捕虜を統率することになります.

 勿論,出る杭は打たれるの例え通り,周辺収容所で民主運動が盛んになった時,余りにこうした運動が低調だったことから,ソ連の政治将校から目を付けられて,所長自ら技術者では無く秘密諜報員ではないかと言う疑いを掛けられたこともあります.
 此の時も,紙と鉛筆を借りて一式戦闘機の脚構造と油圧構造図なんかを書いて難を逃れたそうです.

 劇場の建設は,元々彼等が技術者集団であったことから順調に進んでいきます.
 他の枢軸国の捕虜は,余りこうした旧敵国の建設作業は熱心に行いませんでしたが,日本の兵士達は後世にも残る建造物を建設するのだから,手抜きをするのは日本人としての矜恃に関わる,として,建設段階はもとより,仕上げも完璧に行い,ソ連側の将校達からも一目置かれる集団になっていました.

 日本側の捕虜収容所の指揮官となった人はアイデアマンで,将校はもとより,一般の兵士達,更にはソ連の将校や兵士,一緒に働いたウズベキスタン人からも慕われました.
 御陰で,他の収容所よりも士気は高く,先に書いた様に民主化運動と言う名のオルグも低調でした.

 こうして2年ほどの労働で地図に残る仕事,ナボイ劇場は完成しました.
 正式な完成披露には招待されませんでしたが,その落成披露にはこの収容所,そして,その後別の収容所に散っていった仲間,ソ連側の担当者,ウズベキスタンの技術者達を一堂に会しての式典が開催されています.

 それから暫くして,彼等の大多数はダモイとなり,舞鶴に向います.
 この指揮官は日本に戻ってからも,みんながいずれ集まって久闊を叙する事が出来る様に,一所懸命,彼等の氏名,住所を暗記しました.
 紙に書いているとスパイと間違われてダモイが取消される可能性があったからです.
 こうして,舞鶴に着くと彼は旅館に閉じ籠もって,暗記した収容者たちの情報を紙に起こしたと言います.

 因みにこの指揮官の下で仕事をした兵士達は全員が無事帰れたかと言えば,残念ながら抑留中に鉄道事故と転落事故で2名の兵士が斃れています.

 それから時が経てTashkentの建物が8割以上破壊された1966年の直下型地震の時です.
 ウズベキスタン人やロシア人と共にこの建物を作っていた日本兵達は,親しくなるにつれて色々と彼等と言葉を交わす様になり,日本は地震国であると言うこと,しかし,この建物はしっかり作ったので少々の地震が起きても崩壊しない自信があると云っていたそうです.
 そして,1966年4月に起きたマグニチュード5.2の地震(これでも当時は世界最大クラスの地震だった)で殆どの建物が壊れた中,人々は誰からとも無く「ナボイ劇場の公園に逃げろ」と言い合って,中心部の公園に向います.
 そこで彼等が見たのは,大地震にも拘わらず地震前と同じ場所に変わらずすっくと立っているナボイ劇場の姿でした.

 ソ連の体制下にも関わらず,この逸話は何時しか中央アジアの人々に伝播していき,親日感情を醸成する切っ掛けになったと言います.

 この建物の建築の歴史を紐解き,それが日本人によって建設された事実が報道特集で放映された時,偶々,そのオリジナルを見ていました.
 その番組は大反響を呼びましたが,諸事情により再放送が為されませんでした.
 この本を読んだ時,何処かで聞いた話だなぁと思ったのですが,よく考えるとこの放送が切っ掛けで書籍化が進んだのだなぁ,と.

 そして,第2次世界大戦後の大混乱の最中,こんな(と言ったら語弊があるかもですが)僻地で,丁寧な仕事をして後世に建造物を残した兵士達の物語は,正に小説より奇なり珍なり摩訶不思議なりと言ったら言い過ぎでしょうか.

 何となく,あと数年くらいしたらドラマ化されそうですけどね.

------------眠い人 Álmos ember ◆gQikaJHtf2 : 2019/04/10 23:51

『捕虜 捕らえられた日本兵たちのその後』(大谷敬二郎著,光人社NF文庫,2009.4)


 【質問】
 「NHKアーカイブス」見て思った質問.
 日本軍では「生きて虜囚の汚辱を受けるべからす」と指導されてきたが,実際にはそういう状況で自決した奴は余りいないって聞いたけど,それ本当?

 【回答】
 戦陣訓は存在として知ってはいても,読んだことがないっていう軍人もいた.
 昇進試験にでるのは軍人勅諭であり戦陣訓なんて『幹部候補生検定問題』くらいにしか出ないし.

 とある戦車兵は,
「一大臣ごときが道徳を制定するなど,神にでもなったつもりか」
と,この戦陣訓を批判している.

軍事板

 また,火野葦平にも,それを裏付けるような記述がある.

 私たちが兵隊になつて,戰場に送り出されたときには,
「どんなことがあつても捕虜になるな.捕虜になるくらゐなら,舌噛み切つて死ね」
と訓誡された.
 そして,戰爭中,敗戰によつて眞相が暴露されるまで,日本兵には一人も捕虜がゐない,といふことがまことしやかに宣傳されたのである.

 しかし,兵隊として各地を轉戰した私は,多くの戰友が捕虜となつて敵軍中にゐることを知つて居り,戰場では捕虜たるべき状態は不可抗力であることも知つてゐた.

(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5,P.24)

 特攻生き残りのつまり海軍航空兵だったおじいさん(エンジントラブルで着水⇒漁師に助けられる⇒終戦)に聞いたら,曰く,当時は読んだことはなかったが,それでみな死んでいったわけではない.
 戦陣訓によらず,国や家族を護るためならば死を厭わないというのは普通の考えであったし,それが侍だと思っていた,ということでした.

tarako in mixi支隊

 もっとも,「戦陣訓」が全く影響を与えなかったというわけではなく,例えば1空事件のような悲劇も起きている.


 【質問】
 捕虜になることは恥ずべきことという風潮,捕虜になった者の家族が社会的制裁を受けるという状況は,戦陣訓に関係なくあったんじゃなかったっけ?

 【回答】
 別項目にもあるように,日露戦争の頃には既に「捕虜になるのは恥」という概念自体は日本に存在した模様.

 でなければ,アッツ,ニューギニア,南洋島嶼や硫黄島,沖縄で,あれほど死者は出ませんよ…….

 戦争末期,歩けない負傷者の処分が行われたこと.
 島嶼防衛戦の最後に,自殺的攻撃が行われる場合が多いこと.
 捕虜の多くが,日本軍の組織的戦闘が終わった後か,人事不省の際に捕虜になったこと.
 日本軍が集団で投降した事例が極めて少ないこと.
 (赤十字の調査によると)日本軍の捕虜の数は,オーストラリアの半分以下,ハンガリーよりも少ないこと.

極東の名無し三等兵 in mixi支隊

 一方,召集兵なんかにはそういう「捕虜は恥」意識は希薄だった,という話を,うちの死んだジジイ(乙幹で終戦時准尉)に聞いたことがある.
 ソースが貧弱ですまんけど.


 【質問】
 日本軍で,連合国側の捕虜になった最高階級の人は,誰なんでしょうか?

 【回答】
 山田乙三陸軍大将は終戦で停戦時の捕虜ですね.
 はっきり戦時中だと,福留繁海軍中将が海軍乙事件で捕虜になってるのが最高かと.
 もっとも,公式にはゲリラに捕まっただけなので「捕虜ではない」,ことになってます.

 それ以外では,グアム島の地上部隊にいた山賀守治海軍大佐,中国戦線で敵地に不時着した沖野亦男海軍大佐が最高階級だと思われます.
 それ以下では海軍中佐で「朝雲」艦長,「飛龍」機関長なんかがいます.

 陸軍では,東部ニューギニアで歩兵第239連隊第2大隊(残存42名)を率いて集団投降した,竹永正治中佐が最高階級ではないかと思います.
 いわゆる竹永事件.

 このほか例えば橘丸事件(病院船で部隊輸送やってばれた)で少佐2名が捕虜になってます.

 なお太平洋戦争以外では,日露戦争のときに村上正路陸軍大佐が奉天会戦で捕虜になってます.
 ノモンハン事件では,原田文雄陸軍少佐が撃墜されて捕虜になってるのが最高のようです.

◆yoOjLET6cE in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 沖縄戦で戦訓伝達のため脱出を図り,捕らえられた陸軍高級参謀の八原博通大佐も,含めていいかと.

名無し軍曹 ◆Sgt/Z4fqbE in 軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 満州事変で捕虜になった人達は停戦後に帰還できたようですが,支那事変の初年に捕虜になった人は,終戦までおよそ8年間,捕虜収容所に居たのですか?

 【回答】
 日支事変(日中戦争)における両軍捕虜の処遇は非常に複雑でしてなかなか簡単にはまとめられません.
 ですが開戦の年・1937年に限って言えば比較的状況はシンプルであります

●捕虜になった中国軍(国民党軍・八路軍)兵
 日本陸軍は日支事変を戦争とは見なしておらず,従って捕虜の処遇については
「(捕らえられた)支那軍人は法律上これを俘虜と解していない」
との見解を,海軍に対して回答しています(1937年8月5日陸軍省法務局).
 このためかどうか解りかねる部分もあるのですが,陸軍に捕虜となった中国兵は,
「その場で武装解除・解放」
「銃剣・軍刀などの試し切りで殺された」
「荷物運搬等の使役」
などなど,処遇一つ取ってもまちまちでした.
 ただし海軍は事変勃発時に,戦時国際法に乗っ取った捕虜処遇を行うとした「第三艦隊俘虜取扱規程」を制定し,46名と少数ながら捕虜の管理も行っています.
 彼等がどのような処遇を受けたかはぼくの手持ちの資料では追跡できませんでした.
 陸軍捕虜からは汪政権軍への編入も募られていたようですので,一部は汪政権軍へ参加した可能性もありますが,おそらくは終戦時まで解放されなかったのではないでしょうか?

●捕虜になった日本兵
 当時の国民党軍は敵軍への投降を禁じており,督戦隊も投入されていました.
 そのこともあって,戦争初期に捕虜になった日本兵は,大多数が殺害されています.
 1937年の段階では,海軍航空兵を中心とした数十名程度しか捕虜を獲得できなかったことからも,捕らえられた日本兵の殺害は裏付けられています.
 なお,国民党軍は一応「俘虜処理規則」において,捕らえた日本兵は
「我国軍民と同等に看待し且つ其人格名誉を尊重すべし」
「俘虜に対し陵虐,恐嚇,詐欺手段を持って所属国の各項軍情の報告を誘迫するを得ず」
と定めています(37年10月15日).
 一方,八路軍は「三大規律」「八項注意」というスローガンを持って組織を維持していましたが,うち八項注意には捕虜虐待を禁ずる一項がありまして,事変初期から捕虜獲得に積極的だったようです(主にプロパガンダ目的だったと思われます).
 が,1937年に置いては,獲得した捕虜の数はけっして多くはありませんでした.

 さて,1937年に捕虜となった日本兵の数は,国民党軍約20から50人.八路軍は不明ですが1938年5月の時点で124人ですから,これよりは当然少なくなるでしょう.
 国民党軍が捕虜にした20~50名は,西安の捕虜収容所へ収容され,1940年,宝鶏の収容所へ移送,そこで終戦を迎えています.
 良く解らないのは八路軍に捕虜になった人たちです.
 八路軍は
「捕虜が希望するなら原隊への復帰を認める」
との政策をとっていまして,実際に日本軍へ捕虜を送り返しています.
 日本側がこれを確認したのは1939年後半で,初期に捕虜になった人たちの中にも,こうして送還された人たちが少なからずいたものと思われます.

軍事板,2005/02/23
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 これ本当ですか?

------------
 昭和14年『ノモンハン事件』の空中戦で被弾し,敵地に不時着した原田文雄少佐,伊藤曹長の二人はソ連軍の捕虜となった.
 伊藤曹長はそれまで敵機25機を撃墜し,『ホルンバイルの華』とまでうたわれた逸材であったが,捕虜送還で帰ってきた彼らを待ちうけていた運命は非情なものであった.
 原田少佐は『自決』を強要され,伊藤曹長は軍法会議で『有罪』となり,ともに人生から消え去ったという.
 ノモンハンの捕虜で,帰国後の運命を恐れて,ソ連の地に残留を望んだ将兵は1千名を超えていたといわれている.
 祖国の栄光のために戦いながら,祖国からの報復を恐れて帰国を断念し,ソ連に永住したのである.

http://members.at.infoseek.co.jp/koidetyu/siberia3.htm
------------

 【回答】
 本当です.

 皇軍は自称「無敵」なので,負けたことになれば,誰か上層部が詰め腹を切らされます.
 従って,負けた事実を隠蔽するため,こういった不利な状況を知っている人々を徹底的に死に追いやりました.

 他にも,前線部隊の将校なんかも自決を強要させられています.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/04/10(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 日本海軍の最初の捕虜は酒巻少尉でしたが,陸軍最初の捕虜は誰なんですか?

 【回答】
 極めて難しい質問です.

 1941年12月の時点で,華中では日本兵捕虜を獲得する事を目的とした遊撃戦を,八路軍が展開しておりまして,同時多発的に拉致された兵士が多数いました(広い戦線を小部隊編成で守備していたためか,たとえば歩哨時などに拉致される兵士が後を絶ちませんでした).
 八路軍を「1941年12月の日本側宣戦布告」とともに連合軍下に入ったと見なすならば,彼等拉致された兵士の中に「太平洋戦争時の陸軍捕虜第1号」がいた事になりますが,ご質問はこういった捕虜の事を問うたものではないと考えます.

 さて,かれら支那戦線での捕虜を別とすると,いわゆる太平洋戦争の緒戦において発生した陸軍捕虜は,日本軍が進撃を続けていた事もあって,さほど多くありません.
 開戦直後シンガポールに赴任・6週間後インドへ脱出した英軍の情報将校リチャード・ストーリー大尉の手記によると,(ストーリー大尉が脱出する以前に)英軍が確保した日本兵捕虜は,マレーで12人・ビルマで6人でした.

 ビルマで捕虜になった6人は,ラングーンに潜入していた陸軍情報少尉や,航空偵察時に撃墜された陸軍航空兵などでしたが,彼等が捕虜になった日時を確認できる資料は見つかりませんでした.

 一方,マレーで捕虜になった12人は,その後スマトラへ移送され,侵攻してきた日本軍に救出されていますが,うち詳細がはっきりしているのは,42年1月19日南マレー・バッパハト上空の空戦で撃墜され捕虜になった長尾中尉(飛行第59戦隊),41年12月23日百式司偵に搭乗していて故障のためカハンに不時着し捕らえられた児山中尉と桑田中尉(飛行第81戦隊)の三名です.

 彼等三人の捕虜になった状況を考えると,陸軍捕虜第1号はマレーでの空戦で捕虜になった陸軍搭乗員か,ビルマやシンガポールに潜入していて開戦直後捕らえられた情報将校かのどちらかにいるものと思われますが, 個人名を特定するまでは資料を絞り込めませんでした.

 より詳しい資料をお持ちの方の回答をお待ちください.

軍事板,2005/02/26
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次大戦時に,中国側の捕虜になった日本兵の扱いはどの様な物だったんでしょうか?
 小林よしのりの戦争論には恐ろしい絵が載っていたのですが・・・.
 国民党軍と共産軍とで,捕虜に対する扱いの違いはあったんでしょうか?

 【回答】
 捕まった場合,虫の居所が悪い指揮官に当たれば,命はありません.

 ただ,国民党,共産党共に,技術者,医者と言った専門家は,結構厚遇されています.
 徴兵された一般人の場合も大体同様(但し,待遇は専門家よりは落ちるので,自活の為に苦力的な仕事に就かねばならない場合もある).

 一番悲惨を極めたのは,士官以上の職業軍人でしょうか.
 彼等の場合は,民衆の憤懣が集中する場合もあり,中には命を落とすこともありました.

 特に共産党軍の捕虜の場合は,定期的な教育,啓蒙活動が繰り広げられ,延安にいた野坂参三が校長を勤めた「労農学校」に送り込まれて思想改造を受け,後に反戦同盟延安支部を結成,
 これは更に,日本人民解放連盟に発展し,彼等は,在華日本軍兵士に対する宣撫活動を行うことになります.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2006/04/20(木)
álmos ember :"2 csatornás" katonai BBS, 2006/04/20(csütörtök)

青文字:加筆改修部分
Kék karaktert: retusált vagy átalakított rész

 あまり,戦史には書かれてないのですが,中国戦線で共産党に降伏した日本兵が,強要されて八路軍の兵士となるケースもあったようです.
 その場合は,八路軍が日本軍を攻める尖兵として使用されたみたいです.

onom in mixi支隊


 【質問】
 第二次世界大戦で日本軍が集団投降した戦いってあったんですか?

 【回答】
 表だって公表されているものとしては東部ニューギニア.

 有名なものとしては,昭和20年5月3日に第41師団歩兵第239聯隊第2大隊(大隊長中佐以下将校4名,下士官兵37名)がアポレンガ付近で豪州軍に投降.
 なお,この大隊長は元山砲兵第41聯隊の大隊長.砲兵聯隊は火砲を全部失ったため,昭和19年9月に解体され,人員は各歩兵聯隊に編入されていた.

 そのほか,豪陸軍公刊戦史によれば,昭和20年8月10日に大尉以下12名が,同11日に大尉以下16名が投降したとの記録がある.


 【質問】
 『戦争体験の真実』(滝口岩夫著・第三書館)という本に,著者が戦後ラバウルの捕虜収容所にいたときに,『ライフ』と記憶する写真雑誌で,ガダルカナルで捕虜になって鎖につながれた大勢の日本兵を,米軍戦車がひき殺している写真を見たとの話があるのですが,この話は本当でしょうか?

 【回答】
 旧軍内では米軍の残虐性を強調するエピソードとして,似たような話が広く流布されていたらしい.
 それは「捕虜になって鎖につながれた大勢の日本兵を地ならし用ローラーでひき殺した」という内容だ.

 ただ,日本兵捕虜を尋問したオーティス・ケーリが事実誤認だとして反論している.
 要約すると
「そのような事実は絶対にないと断言できる.
 推測するに,米軍は衛生観念が高いため,死体処理部隊がブルドーザーで大きな穴を掘り,遺棄された日本兵の遺体をひとまとめにして投げ入れ,一挙に埋葬した可能性はある.
 それを飛行機からか,遠巻きに見ていた敗残兵が見間違えたのではないか」
(「日本兵捕虜は何をしゃべったか」山本武利著,文春新書85ページ)

 ライフの写真というのは,例の頭蓋骨の話と混同したのではないかと思われるが.

軍事板,2006/01/22(日)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 戦後,日本兵捕虜に対する連合軍の扱い方が酷いところもあったそうだが?

 【回答】
 ソ連に抑留された日本兵に対する処遇は結構有名ですが,英国も結構嫌らしく,南方で抑留された日本兵は,「捕虜」ではなく,「降伏軍人」という扱いになっています.
 「捕虜」とするとジュネーブ捕虜条約の規定に従わなければなりません.
 また,自軍による監視など経済的負担も可成りのものになります.

 このため,東南アジア連合軍(SEAC)のScott参謀長は,彼らをP.O.W.ではなく,降伏日本軍人(Japanese Surrendered Personal(JSP))と規定し,国際法で定める捕虜待遇から外します.
 また,45年12月31日には「日本軍人は極限まで使役すべし」という命令が出されます.

 これにより,ポツダム宣言第九条(捕虜の武装解除後の即時帰還)を無視し,彼らのうち10万人を「作業隊」として,1日12時間労働,素手による地面掘削,休憩・飲料水接種・用便の不許可,談話・喫煙の厳禁,作業現場までの片道15kmの往復駆け足,広場での長時間正座,駆け足移動に遅れれば殴打,疲労で倒れると強制的に立たされ,それでも倒れると放置されるなど,凡そ捕虜条約の規定では厳禁となっているものを全て無視することが出来た訳です.
 また,作業中,休業中の暴行も茶飯事で,言葉が通じないとてまごついていると,命令不服従として,炎天下に広場を1時間走らせたり,食事の量を減らすなどの罰則がありました.

 作業内容は,無意味なモノのほかに,汚水処理場,糞尿処理場での糞尿処理,ゴミ集荷,炭塵の立ちこめる船倉内での石炭積載作業,100kg入り米袋,岩塩袋の運搬などがあり,休日は1946年10月までは1日も与えられていません.
 また,明らかに国際法に違反する作業,軍港においてのインドネシア軍との戦闘用に用いる弾薬の積み卸し作業,Guerrilla鎮圧も行なわれています.

 ついでに,「捕虜」であれば,使役中の労賃は払われますが,「降伏軍人」では支払わなくても良いと.
 民間人が使役した場合も,日本側には支払わず,英軍側に支払う形が取られました.
 労賃は,1947年5月まで支払われず,それも現地支給ではなく,6月以降の賃金を日本政府が支払うと言う形になりました.
 その労賃たるや,残業,手当は一切無し,熟練職が1時間1.5ペンス,非熟練職が0.75ペンスで,これは英本国の賃金水準の僅か32分の1に過ぎません.
 給養についても同等.
 SEACの支給は1600~1700calの支給で,特に認めた場合は50%増しでしたが,Kレーションは3300calなので,英軍の半分の食料.
 例えば,マラヤでは46年に米が一日分茶碗2杯強,昼食はビスケット6枚と小判型の魚の缶詰を5人で1缶.これはインド兵の64%の量でしか有りません.
 衣服,寝具,日用品の支給は皆無,住居も掘立小屋.

 当然,伝染病が蔓延しますが,英軍は毎日の作業隊内の患者最高率を提示し,それ以上は認めませんでした.最高率は各地区で異なりますが,1~3%程度.
 こうして,1947年10月10日までに,全体で8,971名が死亡,負傷者は延べ20,084名に上りました.

 あ,片手落ちにならない為に補足しておきますと,日本軍上層部も「捕虜」の扱いではなく,相当の名誉と待遇を要求していた点もあり,「捕虜」に課せられる強制労働を嫌って,「降伏軍人」という扱いに同意した,と言うお馬鹿で脳天気な点も見逃せませんがね.

(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

 なお,「日本軍も不名誉な作業を断固拒否すれば通った可能性がある」という見方もある.
 以下引用.

 英軍は,日本降伏軍人に対してだけでなく,降伏インド国民軍軍人に対しても,復讐のため,糞尿くみとりのような不名誉な作業を科そうとしたが,この種作業をインド国民軍は拒否し通したのに対し,日本軍はしぶしぶながら受け入れて実施した.
 インド国民軍の作業拒否が通ってしまったことからすれば,日本軍も断固拒否すれば通った可能性がある(事実関係は,36~37,141頁による.)
 ちなみに,日本の士官はすべての作業が免除されていた(208頁)が,英軍は,インド国民軍の士官には作業を科そうとした(141頁).
(日本軍と違ってインド国民軍は英軍捕虜「虐待」を行ったわけではないが,英帝国に対する反逆罪を犯したことになる.英軍から見れば,どっちもどっちだ.)

太田述正コラム #1041 ( 2006.1.11 )


 【質問】
 「アーロン収容所」における,英国人が日本人等のアジア人を「家畜」視しているという会田の主張は正しいのか?

 【回答】
 太田述正によれば,根拠に乏しいという.
 以下引用.

 英国人が,日本人等のアジア人を「家畜」視しているという会田の主張は,俗耳に入りやすけれど,会田自身の論理に照らしても,極めて説得力に乏しいと言わざるをえません.
 会田は,
「ビルマの農業は日本とちがって有畜農業である.牛,水牛,豚,山羊などの飼育数は相当なものである.牛や水牛なども耕作に利用するだけではない.交通運搬にも食用にもつかわれる.だからかれらは家畜の屠殺に馴れているといえよう」(183頁)
と指摘し,ビルマ人の(日本人から見た)残虐性(180~181頁)を説明しようとしています.

 そして同様の論理で,会田は,(英国を含むところの)西欧において有畜農業度が高いこと・・すなわち,
「日本人は一般に家畜の屠殺ということに無経験な珍らしい民族なのである.
 同じアジア人でも,中国人やビルマ人は屠殺に馴れている.それ以上にヨーロッパ人は馴れている」(58頁)
ことを,西欧人のアジア人の家畜視とその「家畜」的扱いの巧みさ,及び(日本人から見た)西欧人の残虐さの根拠にしようとしています.

 しかし会田は,支那やビルマの有畜度を具体的に示していないので,一体有畜度において,支那やビルマが日本等とともに,アジアとして一括りにできるのか,それとも日本(だけ?)を蚊帳の外にして,西欧とアジアを一括りにできるのか,定かではありません.
 仮に後者が正しいとすると,会田の論理は成り立たないことになります.
 それに,有畜度から言ったら,モンゴル等の遊牧民は100%近い有畜度のはずですが,そうである以上,遊牧民こそ,他の民族を家畜視する最たる者であり,かつ他の民族の「家畜」的扱いに最も巧みであり,その上,(日本人から見て)モンゴル人は最も残虐な人々,ということになるはずであるところ,モンゴル帝国/元朝による積極的な他民族の登用ぶりを見るにつけ,モンゴル人が自分達以外の民族を家畜視していた(いる)とは到底思えません.
 会田の主張の説得力の乏しさをお感じになりませんか.

(3)各論1:排泄・性羞恥心の希薄さ

 もう少し具体的に見ていきましょう.
 英軍の女兵の日本兵を人とも思わぬような態度や,英軍の男兵の日本兵を前にした公然セックスの場面は,一般の日本人読者にとってはショッキングでしょうし,欧米滞在経験がなかった当時の会田はさぞかしショックを受けたことであろうと同情を禁じ得ません.

 しかし,会田の受け止め方は誤解に基づく間違いです.

 私が1974年に米スタンフォード大学に留学した際,最初の夏は寮生活をしたのですが,その折,カルチャーショックを受けたことが三つありました.

 一つは,大学の近くの映画館でハードコアのポルノ映画を見たことですが,当時の日本でも,「観客参加」型のストリップがあったこと等に照らし,これはそれほど大きな「ショック」ではありませんでした.
 強烈なショックを受けたのは,次の二点です.
 第一に,トイレが男女別々にはなっていたけれど,大便器の置いてある「個室」に間仕切りはあっても,ドアがついていなかったことです.
 ですから,他の学生から自分がいきんでいる姿が性器も含めて丸見えで,最初のうちは生きた心地がしませんでした.
 もちろんトイレ掃除の人にも丸見えです.トイレ掃除をやっていた人が男性だったか女性だったかまではしかと覚えていませんが,女性だったような気がします.

 第二に,二人部屋の寮の個室の壁がうすく深夜になると決まって隣室から,大音声のよがり声が聞こえてきたことです.
 しかも,その声は長時間にわたって延々と続くのです.
 何という羞恥心のなさ,何というタフさか,と閉口しつつ,私は目が冴えて眠れなくなってしまうのだけれど,同室の米国人の学生はいつも平気で高いびきをかいていました.
 このようなことは,単なる生活習慣の違いであって,他人を家畜視しているとかしていないといったことと何の関係もないことは申し上げるまでもありません.
 「アーロン収容所」に出てくる似たようなくだりについても同じことがいえます.
 私自身,しばらくすると,トイレに入って腰掛けて,たとえ掃除の人が入ってこようと平常心を保てるようになりましたし,寮の個室で,いつも熟睡できるようになったものです.

太田述正コラム #1037 ( 2006.1.9 )

 (注13)英軍の女兵士は,自分が全裸でいる部屋に日本兵が入っても気にしなかったが,「入って来たのがもし白人だったら,女たちはかなきり声をあげた大変な騒ぎになったことと思われる」(39頁)というくだりは,会田の勝手な思いこみに過ぎない.
 私は,入ってきたのが降伏ドイツ兵であっても,彼女たちは気にしなかったと確信しているし,仮に入ってきたのが英軍兵士であったとしても気にしなかった可能性があるとさえ思うのだが,そんなことは,会田が帰国後,文献等にあたれば,分かったはずだ.
 「と思われる」としたまま,「アーロン収容所」を上梓した会田は社会科学者として怠慢である,と改めて言わせていただこう.

太田述正コラム #1041 ( 2006.1.11 )

 ただし,太田による批判には,論理展開が強引と思われる部分も少なくない.
 本サイトでは,彼の批判論の内,論拠がある部分のみを拾い上げてある.


 【質問】
 アメリカ軍の捕虜になった日本軍人は,食事は何を与えられていたんですか?
 また,食事の量や質に関する評判はどのようなものでしたか?

 【回答】
 戦域によっても異なるだろうけど,補給さえしっかりしていれば,普通に米兵と同じ物を食べさせた.
 具体的に言えば,捕まった当初はKレーションが支給されて,後方に送られて捕虜収容所などの設備に入れば,ギャリソンレーション(基地食)がでる.

 捕獲した携行食糧を
「アメ公はええもん喰っとるのう」
とか言ってたレベルの食糧事情なんで,SPAM缶とかでも大喜び.
 捕虜になった場合の対応を教育されていなかった上,飢餓に苦しんでいたところに十分に食事を与えられたのと,虐待されるものだとばかり思ってた反動で,積極的に米軍に協力する日本人捕虜が続出したほど.

 また例えば終戦直後に武装解除され,引き揚げ船を待つ間のフィリピン駐在の日本軍人は,肉や野菜の脂っこい洋風雑炊を支給されたという.
 フィリピンで戦中に米軍の捕虜になった日本軍人,みなでっぷりと肥えており,十分な食糧が支給されていたことを示している

 ただ,最初はKレーションのコンビーフやチーズを涙を流すほどありがたがるんだが,やがて収容所の生活に慣れてくると,結構脂っこくて食べにくくなるらしい.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 「ホンチョー」とは?

 【回答】
海外でも通じることにびっくりしてしまう日本語ランキング
 このランキングには入っていませんが,アメリカで通じる日本語の一つに,
「Honcho」(班長)
があります.
 何でも太平洋戦争中に捕虜になった日本兵が,捕虜の中でグループを作ったときに,その中でリーダーになった人物が必ず「班長」と呼ばれていたのを面白がった米兵の間から広まったとかで,日本語の意味と同じくリーダーとかボスの意味で使われるそうです.

 先日読んだ『不屈の鉄十字エース 撃墜王エーリッヒ・ハルトマンの半生』(R.F.トリヴァー他著,学研,2008.1)という文庫本で,この”ホンチョー”という言葉が登場して一瞬唖然としたことがあります.
 部下のパイロットたちを引き連れて飛ぶ編隊長,という意味合いで使われた言葉でしたが,まさかこんなところで 日本語が語源になった単語に出くわすとは思いませんでしたよ.

 「ツナミ」や「モッタイナイ」のような,最近広まった日本語もありますが,わりと昔から使われた日本語語源の単語があるということは,ちょっと覚えておいてもいいかなと.

ナオ in mixi,2008年06月04日13:44


 【質問】
 戦後の東南アジア,中国からの軍人の引き上げは,何年ぐらいまで行っていたのでしょうか?

 【回答】
 東南アジアでは1947年10月頃,中国は1952年頃まで行っています.

 前者は,捕虜ではなく,「降伏軍人」という扱いの下,Geneva条約の保護下に置かれず,
 現地ゲリラとの戦闘から弾薬輸送に至る国際法違反の仕事に従事した他,英本国の32分の1の賃金(これも1947年6月から僅かの期間というひどさ)で,各種労働を行わせています.
 しかも,米一人1日茶碗2杯強,ビスケット6枚,魚の缶詰5人に1缶で,インド兵の64%のカロリーしか補充されませんでした.

 後者も同様に戦闘任務に就いたケースもありますし,満州の陸軍兵士の様に,新生中国の空軍要員養成を行ったケースもあります.
 大抵はすぐに帰れましたが,中には朝鮮戦争に義勇軍の一員として参加した人も居ます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/12/09(金)
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 第二次世界大戦終了後~復員までの経過についてですが,戦争が終わって戦地で終戦をむかえた日本軍兵士は,日本に帰国するのに何年かかったのでしょうか?
 敵地で終えるわけだから酷い目にあったと思うのですが,すんなり帰れたのでしょうか?

 【回答】
 日本海軍で使用可能な艦艇は132隻,18万トン.
 残存民間船の内,復員輸送に振り向ける事が出来たのが55隻.
 1945年末にリバティ型輸送船100隻,LST85隻,LST改造病院船6隻の貸与がGHQから行われました.
 このうち,海軍艦艇は武装解除に人員輸送用の居住区新設,便所の新設を行い,貸与船は当初こそ米国軍人が運航していましたが,貸与品なので日本海員が募集されており,彼等の訓練が必要でした.

 9月28日,陸軍は小樽,浦賀,新潟,清水,敦賀,広島に上陸地支局を開設し,10月1日,海軍は横須賀,呉,佐世保,舞鶴,大阪,大湊に海軍収容部を開設します.
 10月15日には地方引揚援護局が設置され,軍人軍属・一般邦人の受け入れは全部援護局に統合され,GHQは厚生省を引揚げに関する中央責任官庁に指定します.
 11月末で陸軍省,海軍省は消滅し,第一復員省,第二復員省となって,これに所属している兵員は,海軍の場合は,予備役から即日充員召集を受け,12月1日からは第二復員官となりました.

 先ず,初期の復員は食糧自給が困難で餓死寸前の南方離島(メレヨン島,南鳥島,ミレ島)から開始,9月末に復員第一船高砂丸がメレヨン島から別府に帰還し,10月8日,氷川丸がミレ島から浦賀へ.
 10月16日,ウェーキ島から引揚げた将兵は,米兵捕虜刺殺事件解明の為,18日になってやっと上陸を許されます.
 12月から本格的な復員輸送が海軍艦艇によって開始され,翌年1月頃から貸与艦艇での輸送が開始されます.
 空母葛城の場合,南大東島,ブーゲンビル(トロキナ・ラバウル)島2往復,北ボルネオと仏印,比島(サンジャック),シンガポールとバンコク,シンガポール,スマトラ島(メダン)タイ(ゴーシチャン)と言った具合で計8回,雑木林の駆逐艦欅の場合,マニラ3往復,高雄,基隆4往復,上海3往復,汕頭,葫蘆島2往復,グアム島,LSTの場合は,上海,釜山,比島(サマール島)などなど.

 1945年末までに,朝鮮33万人,華北1万,比島1万,南洋諸島1,200名,樺太,千島などからの脱出組3~4万.
 1946年6月までに627,702名で,ソ連領内を除けば,中国,比島,仏印,タイ,ビルマ,ジャワ,ボルネオ,ニューギニアを始め,全員が引揚げを完了しています.
 6月末で満州175万人,樺太32万人,朝鮮15万人,タイ・ビルマ11万人などとなっています.

 このうち,最後のは英国と現地軍本部が約定して,「戦時捕虜」としない扱いで使役された人々で,ソ連の手にあった軍人はソ連に抑留され,働かされていました.

 また,共産党の勢力下にあった軍人の中には,共産党の応援に(自発的に)駆り出された人もいましたし,
 インドネシア,仏印などで現地人部隊と共に戦いに参加した人もいます.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 in 軍事板
青文字:加筆改修部分

 中国山西省日本軍残留問題のように,上層部の密約や現地軍に強制されて戦地に残らざるを得なかった人々もいます.
 彼らはシベリアほどではないにせよ,4~7年ほどの長い期間,帰国出来ませんでした.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 太平洋戦争後,外地の兵が復員してくるのに2,3年掛かってていたようですが,なぜ,そんなに時間が掛かったのでしょうか?輸送船がなかったからとか?
 また,復員待ちの人たちは,外地でどんな境遇にいたのでしょうか? 捕虜(難民)収容所行き?

 【回答】
 2,3年どころか,シベリア抑留の人々は10年帰って来れませんでした.

 日本以外の外地には多数の人々が残されていました.
 それに対し,日本の大型船舶は悉く,撃沈,損傷の憂き目に遭っているので,引き揚げるための足がありませんでした.
 もう一つ,日本の敗戦と共に,中国,インドネシアを始めとして各地で内戦が勃発し,その戦乱の為に帰ってくることが出来ませんでした.

 でもって,ソ連の場合は,捕虜条約を批准していないので,強制労働に従事させられました.
 一方,英国植民地で抑留された場合は,彼らは,「戦時捕虜」ではなく,「降伏軍人」であって,その扱いは捕虜条約の対象外となり,英軍側は彼らに対する使役を自由に出来ました.

 その他の地域でも,捕虜収容所に収容されましたが,その場所も病気が蔓延する地域に作られたので,今まで島嶼で元気に暮らしていた兵士も,多数死亡しています.
 これは,オーストラリア軍に捕虜になった人々の話.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/08/27(土)
青文字:加筆改修部分


 【小林主体思想】(別名:マルチ・スタンダード)

 1943年の米軍の調査では,米兵の半数が日本民族を根絶すべきと考えていた.
 その狂気はそのまま戦場に持ち込まれた.
 従軍記者エドガー・L・ジョーンズは次のように書いた.

 我々は捕虜を容赦なく撃ち殺し,病院を破壊し,救命ボートを機銃掃射し,傷ついた敵兵を殺し,まだ息のある者を他の死体と共に穴に投げ入れ,死体を煮て頭蓋骨を取り分け,それで置き物を作るとか,または他の骨でペーパー・ナイフを作るとかしてきた.

(小林よしのり「戦争論3」,p.238)

 【ツッコミ】
 その「1943年の米軍調査」データの出典は何なんですかね?
 小林の他の事例から観て,歪曲引用していることも多いので,ぜひとも出典を明らかにして疑念を晴らして欲しいものですな.

 また,捕虜に対する残虐行為ですが,そんなもの米軍に限ったわけではなく,各国軍に普通に発生しうる戦場の狂気の例でしかありません.
 小林は,この記述を,「アメリカは日本人を人間扱いしていない」の一例としたいようですが,見当外れですね.

 逆に,日本兵捕虜が寛大な扱いを受けた例も数々あります.

 沖縄戦の日本兵捕虜の手記(なんと阪神の松木選手だ)では食い物たっぷりくれるし,シャワーやらトイレやらの設備もちゃんとしてるし,退屈で暇をもあましてるようだと用具や景品を支給して野球大会やなんかのレクリエーションもしてくれるし,労働力として使役する時はちゃんと代価を払ってくれるし,脱走を試みて捕まっても殴ったり蹴ったりされるわけじゃなし.
 みんな暇をもてあまして支給された煙草(収容所内ではこれが通貨代わり)を賭け,カブや麻雀したり.

 印象に残ってるのが,彼が使役された時にアメリカ将校から直接言われた言葉で,
「自分はドイツ兵捕虜の収容所にも勤務した経験があるが,ドイツ兵は文句ばかり言ってちっとも働かないのには閉口した.
 日本兵は文句も言わずによく働いてくれるが,コソ泥を働くのには困ったものだ」
 なにせ日本軍では,他の自軍部隊から盗んで
「員数を合わせる(装備の定数を確保すること.足りていないと班長にブン殴られる)」
ことには慣れてるし,コソ泥やっても米軍は追求甘いから滅多に捕まらないし,捕まっても大して厳しい処分されるわけじゃなし.
 ことに,釈放されて日本へ帰国する日が近づくと土産品調達のため,泥棒は一層盛大になったそうで.
 米兵の腕時計なんかは格好の標的で,それをチェックを潜り抜けて持ち出す手口なんかも紹介されています.

 逆に日本が優勢だった頃の米兵捕虜の扱いも,小林が引用している例に負けず劣らずです,
 いわゆる「バタアン死の行進」では,移送中の捕虜が些細なことで監視の日本兵に斬られたり,殺害されたりしており,倒れた重病の兵はそのまま路傍に放置されています.

 また,日本本土では,捕虜収容所へと移送されている米兵捕虜を見た一人の婦人が
「おかわいそうに」
と言ったのを,運悪く憲兵に聞きつけられて,拷問こそされなかったものの,婦人はこっぴどく怒られた上に,翌日の大新聞には
「鬼畜米兵におかわいさうにとは何事か!」
「大和撫子の風上にも置けぬ」
等などの大袈裟な見出しが踊り,婦人の家族は街にもいづらくなって引越ししたとかしなかったとか・・・・・
 ちなみに,その婦人をそこまで追い詰めた大新聞とやらは某朝日.
 ソースは,当時新兵として徴兵されて内地にいたお人の手記です.(著者はのちに台湾に派兵されている.思想的にはノンポリ)

(エセ保守監視小屋),加筆

 物事の一面だけを書き立て,都合の悪い部分は無視するというのは,中共なんかがよく行うプロパガンダ手法ですな.


◆◆◆◆◆シベリア抑留


 【質問】
 ▼元巨人軍の水原は三波春夫は▲シベリア抑留時代はアクチブで,そのおかげで人より早く帰国できた,と聞いたが?

 【回答】
 ▼三波春夫もな.
 本当.
 収容所内で共産主義を称える歌を歌を作ってた.
 ▼以下引用.

――――――

 三波が大衆性を獲得したのは,シベリアのラーゲリーにおいてでしょう.
 そこで彼は<分かりやすい歌>に目覚めたようです.
 戦争に行ったときは浪曲師だった(たぶん普通の).
 引き上げ後,赤い浪曲師として大衆性を追求し,広沢虎造に叱られたりもするけど,捕虜収容所の日常体験が三波の原点です.

――――――http://plaza.harmonix.ne.jp/~fumi-t/kia_kia.htm#12

 ※戦前の著名な浪曲師.

 一方,猪野健治は,三波が大衆性を獲得したのは,シベリア洗脳が抜けた後のことだったとしている.

――――――
 三波春夫は中学1年のとき,父の経営する商売が行き詰まり,新潟から上京して米屋の店員,製麺工場,魚河岸の問屋と転々としながら,16歳で浪曲界に入った苦労人である.

 戦後の4年間はソ連に抑留され,昭和24年9月に帰国,しばらく郷里で自己流にアレンジした〝社会主義浪曲〟をうなっていた.
 しかし<眠れる農民よ,新しい時代に目覚めよ>といった生硬な,左翼臭ただよう浪曲が受けるはずがない.
 三波はほどなくシベリア洗脳症候群から立ち直って,民謡調歌謡曲という新しい分野を作り出す.
 永田(貞雄)と拘留するようになるのは,32年春,テイチクから出した「チャンチキおけさ」「船方さん」が大ヒットしてからである.

――――――『興行界の顔役』(猪野健治著,ちくま文庫,2004.9.10),p.483-484

 こちらは三波に直接取材しており,比較で言うなら,信頼性は後者のほうが高いと愚考する.

 まあ,▼いずれにせよ,▲生き残るためにはしょうがない.

▼ ちなみに元巨人軍の水原も,シベリア抑留時代はアクチブで,そのおかげで他の抑留者より早く帰国できたそうだ.

軍事板
青文字:加筆改修部分


 【質問】
 帝国ホテルの料理長として有名だった村上さんが日本兵としてシベリアに抑留されていた時,瀕死の同僚に
「最後に何を食べたいか?」
と聞くと,
「パイナップルを食べたい」
と答えたが,シベリアにそんなものはない.
 それでも,ありあわせの材料で偽パイナップルを作って食べさせた,という話を聞きました.
 これは実話ですか? 実話だとすれば,何をどう調理して偽パイナップルを作ったのでしょうか?

 【回答】
 事実です.
 作り方としては,まずリンゴの芯を抜いたものを輪切りにし,それに爪楊枝で筋を付けたものを甘く煮て作りました.

 ちなみに,瀕死だったこの方はその後快復し,無事帰国されたそうです.

丼炒飯 ◆HY/YgdSbHM :軍事板,2005/09/15(木)
青文字:加筆改修部分

▼ 村上シェフの『帝国ホテル厨房物語』もお勧めです(といっても,眠い人氏のことだから,もう既読でしょうが)
 帝国ホテルの掲示板を厨房が荒らしまわるという波乱万丈の…(違

消印所沢,2008/09/09 22:45

 そう,夜な夜な鍋を舐めて,「味が解ら~ん」と言うと,包丁で相手を滅多刺しにすると言うやつでつね.
 で,初めてドミグラスソースを舐めて,やっと地縛霊が出なくなったとか言う(マテ

眠い人,2008/09/09 23:18


 【質問】
 シベリアに抑留された日本兵って,具体的にどういう事業に投入されたのですか?

 【回答】
・石炭・石油・非鉄金属の採掘,
・木材伐採,
・兵舎・工場の建設,
・河川・港湾の整備,
・シベリア鉄道本線・支線の建設や補修,
・機関車や貨車の修理,
・石油精製工場や重機械工場での操業,
・農場での労働
など多岐にわたっています.
 例えば,バム鉄道の建設なんかもそうですね.

 また,南方に於ける英国軍抑留者の処遇も似たようなものでした.

 他にモンゴル抑留ってのもあって,体験者の胡桃沢耕史氏の黒パン俘虜記によると,都市建設のためのレンガ切り出しなどとなってますな.

眠い人 ◆gQikaJHtf2 :軍事板,2005/02/03
青文字:加筆改修部分

▼114 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/26(日) 22:51:00 ID:HWpLVb1A0

 そういや,子供の頃通ってた道場の先生が,シベリア抑留組だったな.
「1日の食事は,コッペパン1個と具のないスープ1杯と砂糖がスプーン1さじだったんじゃ」

 ・・・あんな寒いところでカロリー採らずに,よく生きてたよなぁ.


115 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/26(日) 23:17:51 ID:YqB2Bk0S0

 実家の近所の寺のじーちゃんが,捕虜でロシアいって,林業系の労働させられたっつってたな.
 ろくに食えないし,寒さでバンバン仲間死んでくのに,じーちゃんはピンピン.
 なんでかっつーと,
「しばらくやってりゃ何すればいいか大体わかるから,指揮やってた.」
 結局ここよ,っつって頭指差しながら,92歳で焼肉食いまくってた,すげーパワフルな人だったなぁ.
 一昨年,あっさり逝ってしまわれたが.


116 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/26(日) 23:19:07 ID:XU1TW52V0

 そういや,小学校の校長がシベリア抑留組だったなぁ.
 冗談抜きで小便が凍るらしい.
 昔話語りが達者で,人気者だったよ.


118 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/26(日) 23:42:42 ID:NLZ77n+40

 うちのじいちゃんもシベリア抑留組だよ.
 元気なうちに話聞いてみたいけど,普段そういう話しないから聞きづらいし,親類からそういう話聞くのは,ちょっと生々しすぎて怖い…


119 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/26(日) 23:46:53 ID:BCJ4BxDgO

 やっぱシベリア帰りって,結構いるんだな.
 多分,うちの爺さんと一緒にソ連軍進攻に駆り出されたんだろうけど,爺さんは双眼鏡で露助の戦車見た瞬間,「負ける」と確信して単独で落ち延びて復員した.
 途中,戦車に追い回されたり,八路軍に捕まったりしたらしい.

 幼稚園児に,砲弾直撃食らった死体がどうなるか詳しく語って,5歳児に,どう頑張っても死ぬときは死ぬという悟りを開かせたり, [中略]クソ爺だけど,まだまだ元気でいてね.


121 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/26(日) 23:52:11 ID:Jh113j/G0

 抑留組多いなぁー.
 職場に満州帰り(当時子供)のリルじゃなくて上司いたわー.
 なかなか聞けないし,話すほうも気分が向かないと話しづらいよな.
 10年ちょっと前,父が心臓で入院したとき,同室で治療がうまくいって,機嫌がいい人が話してくれたのが,○山三十人殺しの村の当事者(当時子供)の話で,びっくりした.


125 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/27(月) 00:09:23 ID:v36ysW+X0

 そのおじんさんの隣家のおねいさんが, 頭に懐中電灯付けた人に狙われて,「助けてください」ってお家に来たので, そのおじさんのお父さんがそのおねいさんや奥さんや子供たち(おじさん)を床下に隠して,畳の上にどっかと座り,守ったってお話だったよ.
 頭に懐中電灯付けた人は,えらい頭のいい人だったそうだよ.
 ちなみにO県立図書館では,その事件の本は貸出中が多いよ.
 近くの図書館から取り寄せ(相互貸借)をどうぞ.

 ……って,いきなりここの板に来た人,ぜってー,ヒラコーの板って絶対思わない.


134 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/27(月) 00:39:57 ID:qeklwH6M0

 うちの工場で働いてた爺さんは,
「俺ァ三八撃つのが上手くてよう,線路の上歩いてくる2人の賊を,他のヤツラが当てれねえ距離から,パパっと倒しちまったこともあってよゥ」
「狙いつけてドンッって撃つと,パタッって倒れンだよ,人形みたいにサ」
「ソビエトに抑留されてたころは,そりゃもう,食いモンの取りあいだったよ.
 元気な奴はたくさん食えるし,体弱い奴は自然と食う量減って,帰れねえわな・・・」
と,のたまう豪気な人間だったわ.
 考えてみれば何人も殺して,同僚の飯奪って帰ってきた人が,身近にいたとか胸熱.


161 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/27(月) 07:03:59 ID:17019MKXO

 老人介護施設だと,そういう話割りと聞ける.
 シベリア抑留され,死体を何百と埋めた話.
 台湾やらトラック島,ビルマの南方組,国内待機組,旦那が近衛兵の婆さんとかいて,中々カオスだ.
 近衛兵ってのは,家柄が良く外見も良い(つまり男前)でなきゃなれないエリート.
 いまだに「私の旦那はね~」と自慢されるよ.


162 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/27(月) 07:35:18 ID:pUQEnGvXP

 歳とっても自慢されるなんて,男冥利につきるな.


163 :名無しんぼ@お腹いっぱい:2010/12/27(月) 07:36:31 ID:HO7nyrTA0

 うちの死んだじっさまは,中国,朝鮮,台湾と,3回も招集されたんだと.
 3回目の招集は,自動車用エンジンを積んだボート(船用エンジンがもう無かった)の両船腹に,爆雷を括り付けて米艦船に体当たり,という陸軍海上特別攻撃隊員として.
 でも,米軍が台湾じゃなく沖縄に上陸したために出番無し.
 終戦後に蒋介石の捕虜になったが,ちゃんと食料は与えられ,解放時には砂糖を土産にもらったそうな.

漫画板,2010/12/25(土)


 【質問】
 ソ連軍に抑留された日本兵捕虜が作った建物が,今も残っているそうだが?

 【回答】
 林茂雄によれば,いくつかが現存しているという.以下,引用.

 例えば,カザフスタンの首都アルマアタの国家警察本部の建物がそう.この建物は,ソ連時代にはKGBカザフ本部だった.

 また,ウズベキスタンの首都タシケントの中心にあるナボイ・オペラ劇場も,日本兵の手によって1947年に完成した.
 しかし旧ソ連時代には,タシケントを代表するこの劇場を,日本兵が作ったという事実は公表されていなかった.事情を知るものも口を噤んだ.
 このため,ソ連時代に発行された旅行案内には,この事情が説明されていない.

 1966年,タシケントは直下型大地震に見舞われた.震源地は街の地下100km.最初の揺れで,建築物の9割が崩壊した.
 その惨状の中,ナボイ劇場だけは無傷で残った.日本兵捕虜の中に優れた建築技師がいたらしい.タシケントには地震が起こることを知り,十分な耐震構造を彼は建物に採用したのだった.

(林茂雄「イスラムのシルクロード」,芙蓉書房出版,1997/1/25, P.49 & 62-63,抜粋要約)


 【質問】
 シベリアから朝鮮半島北部へ移送された捕虜は,どんな人達だったか?

 【回答】
 詳細は不明だが,強制労働に絶えられなくなった病弱者だったと見られる.
 以下,ソース.

 先月〔2005/3〕,移送者約2万7000人の名簿がロシア国立軍事古文書館から日本政府に提供されたが, これまで詳しい消息はほとんど判明していなかった.
〔略〕
 厚生労働省などによると,北朝鮮への移送は強制労働に耐えられなくなった病弱者らを対象に46年ごろに行われたとみられる.当時の朝鮮半島北部は北朝鮮建国前で,旧ソ連軍が支配していた.
〔略〕
 外務省によると,国交のない北朝鮮での墓参や調査はこれまで行われことがない.

 厚労省社会・援護局業務課は
「北朝鮮移送者に死者が出た公式記録はない.今回の名簿を分析し,他の資料に照合したい」
と話す.

(青島顕 from 毎日新聞,2005/4/22)

 ◇半世紀が過ぎ氏名判別難航
 朝鮮半島北部に移送された旧ソ連・シベリア抑留者は,強制労働に耐えられなくなった傷病者とみられているが,半世紀過ぎた今も謎に包まれている.

 シベリア抑留者延べ326人の証言を集めた「捕虜体験記」(全8巻)を編集した東京都府中市の江口十四一(としかず)さん(80)は
「帰還しなかった人がどれだけいるのかも分かっていない.
 民間人も被害者になった無法な拉致であるのに,いまだに目的もよく解明されていない.
 日本政府やマスコミはロシア側に対して,調査や責任追及を徹底して求めるべきだ」
と訴える.

 しかし,抑留者自身も平均で80代に達し,関係者は次々に亡くなり,証言も得にくい状態だ.
 厚生労働省に今月中旬に届いた名簿のコピーは929ページ.氏名と生年,階級が記されているが,旧ソ連側の聞き取りで作られたとみられ,キリル文字で書かれた氏名の判別作業は難航し,
「他の資料と照合して,分析を進めたい」(厚労省)
という.

(青島顕 from 毎日新聞,2005/4/22)


 【質問】
 朝鮮半島北部に移送された日本人捕虜は,どんな待遇だったか?

 【回答】
 環境劣悪で,移送直後から数千人規模の病死者が出ていたという.
 以下は,毎日新聞に載った,関係者の証言である.

 東京都杉並区の中川清さん(78)は46年6月ごろ,ナホトカから船で朝鮮半島に移送された.
 現在の北朝鮮を半年間,転々と移動させられた後,47年1月に帰国した.
 46年7~8月ごろ滞在した半島東北部の古茂山(コムサン)では,医薬品がほとんどなく,伝染病のジフテリアで死者が続出した.
 同年8~10月ごろ滞在した平壌(ピョンヤン)郊外の三合里(サムハプニ)ではコレラが発生.
「一度に300人近くが死亡し,収容所から山中の墓地に遺体を運ぶため数百メートルの行列ができた.
 約6000人いた収容者のうち1000人以上は死んだはずだ.悲しむ気力もなかった」
と語る.

 46年6月ごろ,朝鮮半島北部に船で移送された世田谷区の橋爪正雄さん(80)は清津(チョンジン)郊外の小学校に収容された.小さな校庭に約1000人が詰め込まれた.
「病弱な人が地べたに寝かされ,毎日10人以上が死んだ.3カ月で全滅すると思った」
と話した.
 校庭で約2週間過ごした.屋内に移ってからは死者は減ったという.

 板橋区の野口富久三(ふくぞう)さん(80)は,古茂山に滞在した46年夏ごろについて
「薬がなかった.亡くなった人が出て,山の斜面に運んで埋めた」
と言う.

(青島顕 from 毎日新聞,2005/4/22)

 46年夏,現在の北朝鮮東北部・古茂山(コムサン)の収容所.ジフテリアが衰弱した人々を襲った.
 赤レンガの長屋のような収容所の医務室は,患者が廊下まであふれた.
 東京都杉並区の中川清さん(78)は当時19歳.船で知り合った同年配の男性を,横たわる人々の中に見つけた.目じりからウジが出入りした.見かねて小枝で取り除いた.
 「しっかりしろ」と手を握ると,かすかに握り返してくれた気がした.
 わきで衛生兵がつぶやいた.
「だめだよ.時間の問題だ」
 男性は翌日冷たくなった.
 名前は分からない.シベリア各地から病弱者が集められ,知らない人ばかりだった.
 平壌郊外の三合里(サムハプニ)では,栄養が不足しカエルやヘビを捕まえて食べた.
 夜になると,目が見えなくなる人々が続出した.
 仲間の肩につかまって,闇夜の中をトイレに向かう人もいた.

 薬もほとんどなかった.板橋区の野口富久三さん(80)は古茂山の収容所で,下痢をした人たちに衛生兵が炭をつぶして飲ませるのを見た.
「どれほど効果があったか」

 ロシア兵から「ダモイ・トーキョー(東京の家へ)」と言われ,シベリア鉄道と船で送られた先が朝鮮半島北部…….絶望のまま半年を過ごした.
「松が見えたぞ」
 46年7月ごろ.中川さんが乗った船の日本人たちは甲板に上がった.だが,様子がおかしい.
 誰かが「朝鮮だ」とつぶやいた.清津(チョンジン)港だった.力が抜けるのを感じた.

 野口さんは「2度捨てられた」と表情を変えて言う.1度はシベリアに送られた時.日本軍上層部も承知していたはずだと思っている.2度目は北朝鮮に送られた時.働けなくなった自分たちをソ連も相手にしなくなったにちがいない…….
 手元には,ソ連崩壊後の93年にロシア政府から受け取った「労働証明書」がある.労働期間はナホトカ港を出た46年7月25日で終わっている.

 シベリア抑留の体験記は数多く残っているが,2万7000人が移送されたはずの北朝鮮での抑留体験は,ごくわずかしかない.
「楽しいことならともかく,あんなことは」
 野口さんは朝鮮半島のことを妻にもほとんど語ったことがない.
 中川さんも「名誉なことではないし,気が重く,進んで話す気になれなかった」と言う.
 昨年,大病を機に,孫に残そうと手記を書き始めた.
「シベリアより近い北朝鮮なら,いつか遺族の方が墓地に探しにいけるのでは」
と2万7000人の名簿の公表に期待する.

(青島顕 from 毎日新聞,2005/4/22)


 【質問】
 МТС(エム・ティ・エス)とは?

 【回答】
 自動車・農耕機械センターという意味で,大型トラックや大型コンバインなどが,数十台常駐,播種,収穫等の季節になると,各地の農園からの要請に応じて運転者付きで派遣,収穫,集積,納入などが終われば帰って来て,冬期間に整備などに従事するもの.
 農繁期は若い男女はほとんど各農場に出向き,留守宅は大抵老人と子供ばかりになるため,自家労働力の不足を補うべく,シベリア抑留日本兵が収容所から派遣されたという.
 大工,左官,その他なんらかの特技を持った者が選ばれたらしく,5人一グループ.
 起居を共にした警備兵が,毎日の作業の受領,割り当て,記録,報告まで一切行い,4ヶ月間同じ釜の飯を食ったせいもあろうが.実に日本人には好意的で,優しく,余程の規則破りでもしない限り叱るというようなことはなかったという.

 詳しくは≪ WEB 熱線 第1066号 ≫2008/09/01_Mon,「異聞シベリア抑留記」を参照されたし.


 【質問】
 「暁に祈る」事件とは?

 【回答】
 昭和24年3月15日,朝日新聞が社会面トップで報じたもので,記事の内容は,
「シベリア抑留捕虜の中に,モンゴルのウランバートルに収容されている,『吉村』と名乗る隊長が率いた部隊があり,そこではノルマを達成できない隊員に対して残虐なリンチを加え,多くの日本人をしに至らしめた」
というもの.
 「暁に祈る」の意味は,
「ノルマの果たせなかった者は,裸にされて一晩中,木に括り付けられる.
 その者は明け方には凍死し,力尽きたときに細い最後の悲鳴を上げる.
 それが,田中絹代主演映画『暁に祈る』という映画の主題歌――流行して軍歌にも取り入れられていた――になぞらえて,そう名付けられた」
という.

 しかし実際には,吉村隊長が,モンゴル側の指示を超えて過酷な処罰をしたことは少なからずあったものの,そのような死刑で隊員を死なせたことはなかったという.

 吉村隊長は元隊員から刑事告発されたが,遺棄致死・逮捕監禁のみ認定され,残虐なリンチがあったとは認定されなかった.

 一方,誤報のほうは長い間訂正されず,他の雑誌・単行本にも載って広まった.
 朝日新聞が検証記事を掲載し,リンチがなかったとしたのが1991年.
 しかも,誤報が朝日新聞発だったことにもあまり触れられていなかった.

 詳しくは『文藝春秋』2005年11月号を参照されたし.

2011.5.26

▼ こちらのサイトでは,
「朝日が昇るころになると祈りを捧げているような格好で前かがみになって死んでいたという」
のが由来で,
「※尚,“暁に祈る”と“熱砂の誓い”というタイトルの曲がありますが,同じ名前なだけで,この事件との接点はありません.」
とあります.
 こういうのも,誤報による産物なんでしょうか?

通りすがり in FAQ BBS,2011/5/26(木) 5:50
青文字:加筆改修部分

 池田(吉村)氏は証人喚問では,
「朝日が昇るころになると祈りを捧げているような格好で前かがみになって」
云々と答えているようですね.
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/005/1196/main.html

 するとこの部分は,文春の記事のほうの誤認かもしれません.

消印所沢 in FAQ BBS,2011/5/29(日) 1:44
青文字:加筆改修部分


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