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戦史FAQ(1895〜1912年)
<戦史FAQ目次

◆1895-1910年
【質問】
ガダルカナル島での,オーストリア海軍と原住民との衝突について教えてください.
【回答】
1895年にオーストリア海軍の砲艦「アルバトロス(Albatros)」が地質学者のHeinrich
Foullon von Norbeeckらを乗せて太平洋のソロモン諸島へ向かいました.
しかし1896年5月,Foullonは同諸島のガダルカナル島で原住民の待ち伏せ・襲撃にあって死亡.
その後,アルバトロスから派遣されたオーストリア軍は原住民との小競り合いを展開し,オーストリア側は兵学校の士官候補生1人と水兵2人が殺され,数名が傷を追ったようです.
その後オーストリア砲艦は,オーストラリアのシドニーを訪問して数ヶ月滞在した後,シンガポールとインド洋経由で帰国の途につきました.
これは,当時のオーストリア産業界と海軍が南太平洋諸島に関心を抱き,調査隊が派遣された折に起きた出来事でした.
【質問】
「世界で一番短い戦争」がギネスに載っているそうですが,その詳細を教えてください.
【回答】
英国の軍艦が1896年8月27日の9時にザンジバル島を砲撃して,9時45分にザンジバルが降伏したのが,歴史上最短の戦争です.
ドイツと英国は数年間東アフリカの海岸の小さな島ザンジバルに関する領土紛争で争っていました.
1880年代後半から1890年代の初頭にかけて,島は英国の管理下に徐々に置かれました.
この間ザンジバルのスルタン(イスラム圏の君主)は従順に英国の命令に従いました.
しかしながら,スルタンが1896年に死んだ時,彼の次男は王位を簒奪しました.そしてドイツの支援で,彼は新しいスルタンである事を宣言しました.
英国はザンジバルがドイツの支配下におかれることを懸念し,新しいスルタンに退位を迫りました.
しかしスルタンは退位を拒否し,2,500人の兵士を集め,旧式の青銅製カノン砲(1658年以来発射されていなかった!)を再配備しました.
これに対抗して英国は,沖に停泊した一群の軍艦から島を砲撃し始めました.
スルタンは報復の有効な手段を持っておらず,45分後に降伏しました.http://www.guinnessworldrecords.com/
【質問】
アントニオ・コンセリェイロとは?
【回答】
ブラジルの宗教指導者(1828-97).
1896-97年,アンティクリストと断定して新しい共和政府の政策に反対し,バイーア州カヌードスにおける農民反乱の先頭に立ったが,失敗して壮絶な死を遂げた.
(J. L. ボルヘス Borges 「伝奇集」,岩波文庫,1993/11/16, p.260訳注)
【質問】
米西戦争の際,米艦が奥艦を誤射する寸前まで行ったそうだけど,詳細を教えてください.
【回答】
米西戦争が勃発したちょうど1ヵ月後の1898年5月,当時オーストリア海軍長官&艦隊総司令官を務めていたヘルマン・フォン・スパウン提督は,装甲巡洋艦「カイゼリン
ウント ケイニギン・マリア テレジア」(艦長ジュリウス・フォン・リッパー)をカリブ海の西インド諸島に派遣しました.
その目的は,同地にあった自国の権益の保護で,また,必要に応じ,この地域(米西戦争の戦域)より自国の領事やその他の国民を非難させるという使命も持っていました.
ところで不運にもこのオーストリア艦は,当時同諸島のキューバに派遣されていたスペイン海軍の装甲巡洋艦「インファンタ・マリア
テレサ」と外観がそっくりで,掲げている国旗も類似,おまけに一時スペイン艦隊と行動を共にしていたらしいのです.
そこで悲劇が起こりかけました.
7月3日の早朝,オーストリア海軍の装甲巡洋艦「マリア
テレジア」はキューバのサンチャゴ港を出港しましたが,当時港内にはスペイン艦隊が存在し,アメリカ艦隊はその封鎖活動をしている最中でした.
この少し後スペイン艦隊も出港してアメリカ艦隊と交戦(実際には一方的に追跡された)しましたが,アメリカ側はまだ同海域にあったオーストリア巡洋艦「マリア
テレジア」をスペイン艦と思い込み,その後数時間に渡りひそかに追跡し,アメリカ側の10300トン級戦艦「インディアナ」はまさに発砲寸前の状態でした.
その直前にインディアナの艦長が間違いに気付いたようですが.
この難を何とか切り抜けたリッパーの「マリア
テレジア」は,多数のヨーロッパ人やラテンアメリカ人が避難している同諸島のジャマイカに向かい,8月の停戦・戦争終了ののち帰途に着いたとの事です.
その後この艦艇は1900年の義和団事件の時には中国海域にも派遣され,同地で軽巡洋艦「ツェンタ」などと合流していますが,この時期同軍艦を指揮していたのがアントン・ハウスでした.
【質問】
ドイツがアフリカで行った絶滅政策とは?
【回答】
約100年前にドイツは南西アフリカで,植民地軍がヘレロ(ホッテントット)族・
ナマ族を虐殺,特に前者に対しては意図的に絶滅政策を実行しています.
なお,この問題について,ドイツ政府は昨年「道徳的謝罪」と開発援助の約束で「解決」しています.
【質問】
旧陸軍の八甲田山雪中行軍について質問です.
陸軍は寒さや氷雪に対する研究の一環として雪中行軍を実施したのですか?
【回答】
正確には
「冬季に海岸線を使わずに,日本海側と太平洋側との間を軍隊が移動できるか?」
を調査・検証する目的で行われました.
初期の日本軍の対露戦略は「本土防衛」を目的にした専守防衛だったのです.
(後に大陸に出兵する戦略に変更される)
専守防衛の場合,敵が何処に上陸するかは不明なので,防衛側は数カ所の海岸線を防備し,敵の上陸地点を特定してから,増援を送り込む必要があります.
この時,露海軍によって津軽海峡が制圧され,艦砲射撃によって海岸線の道路・鉄道が通行不能となる事態が想定されていました.
そんな訳で,冬季に八甲田山を越えて軍隊が移動できるか?を実験する為に雪中行軍が行われたのです.

【質問】
八甲田山遭難事件の後,山口少佐は本当に自殺したのか?
【回答】
山口少佐の拳銃自殺説は,当初はほとんどなかった.
青森衛戍病院が陸軍軍医学会雑誌に発表した「明治三十五年凍傷患者治療景況」によると,心臓麻痺で死亡したと記述されている.
ところが,山口少佐の実兄である成沢中佐が,家人に
「弟は自殺したが,世間に言ってはならない」
と口止めしていたとの証言がある.
これを成沢中佐の娘から聞き出したのが,「吹雪の惨劇」の著者である小笠原孤酒で,新田次郎にも伝えられ,「八甲田山死の彷徨」に生かされたらしい(児島襄も自殺説を取っている).
また陸上自衛隊青森駐屯地にある「防衛館」には,自決に使われた拳銃が残されている.
一方,松木明知(「明治三十五年凍傷患者治療景況」を発掘した人)によると,山口少佐は凍傷が酷く,とても引き金を引ける状態ではなかったとしている.
さらに「明治三十五年凍傷患者治療報告」と「歩兵第五連隊雪中遭難ニ関スル衛生調査報告」を発掘,「上下肢甚シク凍傷シ指趾蒼白硬固手足強ク膨張シ」とあるのを示し,持論を補強した.
高木勉も心臓麻痺説を取っている.
諸説合わせるに,陸軍が
「本来は自決ではないのを自決とし,遺族にもそう伝えた.しかし公表すると他の生存者が後追いするかもしれないので,秘するよう言い含めた」
とのややこしい手法を取ったらしい(松木はここから軍による謀殺説を発展させているが).
なお,青森衛戍病院にあったはずのカルテは,何故か紛失しているそうだ.
【質問】
H Speed Sightとは?
【回答】
施条砲出現で砲弾の軌跡が安定したことにより,正確な照準器が求められた結果,19世紀末に一般的に使用されるようになった照準器.
以下引用.
これは砲身前方(耳軸環または砲口環)に固定するフロント・サイト(照星)と,砲尾環に取りつける,高さ調節可能なリア・サイト(照門)から構成されており,形状がHという形に似ているリア・サイトからフロント・サイトを通して見ることにより,照準線が設定された.
この機種では,自艦の速力や風の方向,砲弾初速度の変化などの影響も,ある程度考慮できるようになっており,船体が動揺していて目標が照準器の視野内へ入ってきたときに射撃の瞬間を判断した.
(多田智彦;防衛技術研究家 from 「世界の艦船」,
海人社,2003/10,p.79,抜粋要約)
【質問】
方位盤 Director はどのようにして誕生したか?
【回答】
19世紀後半,砲身に取りつける照準器の改良によって正確な射撃ができるようになり,射距離も延伸してきたが,複数門搭載されている各砲の照準・発射は全く独立であり,艦としての統一性はなかった.
また,船体の比較的低い位置に設置されていた砲から目標を照準するのは,荒天時の波飛沫や砲煙に妨げられる場合は困難だった.
そこで砲の照準器とは別途に,専用の旋回俯仰架台に取りつけられた望遠鏡式照準器,すなわち方位盤で目標を照準し,得られた旋回角・仰俯角を砲の慣性に使用する,というアイディアから,英海軍で誕生.
方位盤は,戦艦の司令塔やマストの高所などに設置されたことがあったが,機器の信頼性や信号伝送の問題などで評判は芳しくなく,射撃指揮装置の構成品としての地位を確立するのは,諸問題が解決される20世紀に入ってからだった.
詳しくは, 「世界の艦船」(海人社,2003/10),p.79(防衛技術研究家,多田智彦著述)を参照されたし.
【質問】
Range Clock とは?
【回答】
1900年代初めにヴィッカーズ社で開発された連続距離計算機.
測距儀が開発されると,主力艦の艦橋や司令塔など,見晴らしの良い場所に設置され,射撃に必要な目標距離の測定に活用された.
測定された距離は,伝声管や電気的な距離通報器を通じ,砲側に伝送されることになった.
しかし,固定目標の場合は問題ないが,移動目標では測定時点と射撃時点との時間差が問題となる.
19世紀末から20世紀初頭にかけて軍艦の最大速力が増大し,15ノットを越えて20ノット近い艦も現れた.
もし,自艦と目標艦とがそれぞれ約20ノット(約10ヤード/秒)で接近するとすれば,お互いの距離は1秒間に約20ヤード近づくことになる.
上記の時間差が例えば5秒の場合,射撃距離は100ヤードもずれることになる.
この問題を解決するために開発されたのが
Range Clock である.
この機械装置は,距離目盛を刻んだダイアルを指示する指示針を駆動する時計のような機構で構成されていた.指示針がスタートの距離値に設定され,時計機構が距離変化の割合(距離変化率)に対応する速度で動くように調定された後,クロックはスタートから刻々変化する距離を指示するので,この値を読み取るのである.
ダイアルで最初に設定する距離指示針の値(スタートの距離値)は,測距儀による距離測定で求められた.
また,調定する距離変化率の値は,簡便法では単に測距儀で計測した,異なる2点の距離の差を,ストップ・ウォッチで計測した時間によって紙上で割り算して求めた.
しかしこの方法は,自艦と目標艦とがほぼ同一直線上を移動している場合にしか適用できなかったので,一般的にはドゥマリック
Dumaresq と称する計算尺を使用して求めた.
詳しくは, 「世界の艦船」(海人社),2003/10号,p.80(防衛技術研究家,多田智彦著述)を参照されたし.
【質問】
ドゥマリック Dumaresq とは?
【回答】
英海軍のドゥマリック大尉が考案した計算尺で,自艦(射撃艦)で基地の値である自艦進路および自艦速力,さらに推定値である目標進路および目標速力を調定すると,距離変化率を目盛尺上で読み取ることができた.
この方法では,ドゥマリックに調定する目標艦の速力や進路を推定しなければならず,その結果を利用してレンジ・クロック(連続距離計算機)から得られる刻々の距離値は,必ずしも正確とは言えなかったが,連続的な距離が得られるようになったということは,大きな進歩であったと言える.
詳しくは, 「世界の艦船」(海人社),2003/10号,p.80(防衛技術研究家,多田智彦著述)を参照されたし.
【質問】
伊土(イタリア・トルコ)戦争において,両国海軍の間にどんな戦闘が起こったか?
【回答】
これについては,「世界の艦船第262集 イタリア海軍のあゆみ(1978/12)」の中で記載がありました.
戦争は1911年9月29日〜12年10月15日まで続きましたが,トルコ海軍は海防戦艦1隻,水雷艇3隻,砲艦8隻,その他武装ヨット1隻を失ったようです.
この内,海防艦アヴニ・イラー(Avni Illah)と水雷艇アンゴラ(Angora)はベイルート港に停泊中の1912年2月,イタリア艦隊の装甲巡洋艦ジュゼッペ・ガリバルディ&フランチェスコ・フェルッキオの攻撃により沈められました.
ちなみに,オーストリア海軍は伊土戦争とは直接関わりがありませんが,この戦争が行なわれている間装甲巡洋艦マリア・テレジアをギリシャ領のサロニカに派遣(同地の利権確保&自国民の保護が目的)し,また準ド級戦艦エルツヘルツォ−ク・フランツ・フェルディナント,ラデツキー,ズリーニ,軽巡洋艦アドミラル・スパウン,駆逐艦2隻を東地中海のエーゲ海域に派遣して数ヶ月そこに留まらせていたようです.
◆日露戦争
「戦略・日露戦争」(島貫重節著,原書房,1980.11)
「ツシマ」(ノビコフ・プリボイ著,原書房,2004.8)
「日露戦争」(学研,1994)
「日露戦争」(児島襄著,文芸春秋,1990.7)
「日露戦争(戦史クラシックス)」(近現代史編纂会編,新人物往来社,2003.6)
「日露戦争 写真集」(国書刊行会,1979)
「日露戦争の兵器」(佐山二郎著,光人社文庫,2005.4)
「米国特派員が撮った日露戦争」(コリアーズ編,草思社,2005.5)
【質問】
日露戦争におけるロシア側の勝利条件は何だったのでしょうか?
【回答】
ロシアとしては,時代によって異なるのですが,戦争前の段階では,日本は朝鮮半島を,ロシアは満州地域を,それぞれ互いに権益や経済特権を認めると言うものでした.
朝鮮半島全体の領有については,ロシアは費用対効果の面から無意味と思っていたようです.
但し開戦直前の状況では,更に進んで,満州地域全体の領有を目的とし,その地域の安全を得るために,朝鮮半島の一部を勢力圏に納める,あるいは,最低限,朝鮮半島を中立化すると言うものでした.
(眠い人◆gQikaJHtf2)
【珍説】
日本は,アフガンでロシアと敵対していたイギリスと,利害の一致から日英同盟を結び,ロシアに牽制をしようとしましたが,最後にモノを言うのは言葉ではなく力です.
イギリスと同盟を組んだくらいでロシアがビビってくれるなら,誰も苦労もしません.事実,ロシアの足は全く止まりませんでした.
【回答】
1.連合艦隊の主力艦の殆どは,どこが作り,売ってくれたのか?
2.ロシアが対日戦用に購入しようとした「建て売り」の装甲巡洋艦や軽戦艦を,日本に代わって購入してくれたのはどこの国か?
3.欧州から回航される連合艦隊主力艦を,どこの海軍が護衛していたのか?
4.連合艦隊主力艦は,どこの石炭で動いていたのか?
5.ロンドンでの戦時債権販売に,誰が協力してくれたのか?
6.「ドッガーバンクの夜戦」で難癖付けて,バルチック艦隊を足止めしてくれたのはどこの国か?
7.フランスに圧力かけて,バルチック艦隊の仏植民地への直接寄港や泊地での給炭作業を妨害しまくったのはどこの国か?
英国の有形無形の妨害が無けりゃ,貧弱な日本軍は露帝軍の全力とブチ当り,史実より悲惨な戦いになってただろうよ.
ベトナム戦争だって,中ソの有形無形の妨害があってアメリカも戦略目標を達成できず,南ベトナム共和国を救えなかった.
戦争において存在感の有る同盟国ほど有りがたいものはないぞ.
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【質問】
ニコライ2世は,大津事件で重傷を負ったせいか,日露戦争後までも日本人を「マカーカ(ニホンザル)」と軽蔑的に呼んでいた(さとう好明著『ロシアのジョーク集』(東洋書店,2007/7/25),p.37)というのは本当か?
【回答】
それは,司馬遼太郎の「坂の上の雲」で広まった俗説でしょ.
http://www.ne.jp/asahi/pooh/melody/bekkan/essay/tzar.html
http://www.eonet.ne.jp/~ttab/Etc.html
より,大津事件後のニコライ語録
「日本のものはすべて,4月29日(ロシア暦で事件の日)以前と同じように私の気に入っており,日本人の1人である狂信者が嫌な事件を起こしたからといって,善良な日本人に対して少しも腹を立てていない.
かつてと同じように日本人のあらゆるすばらしい品物,清潔好き,秩序正しさは私の気に入っている.」
「日本国民が誠意をもって温かく迎え入れてくれたことには,心から感謝している」
「暴漢に襲われはしたが,それで日本人の好意を忘れたわけではない.
幸いにも私の傷は浅いので,一日も早く全快し,東京に赴きたい.
大聖堂(ニコライ堂)も落成したと聞いているので,参拝するのを楽しみにしている」
本当に日本人を「マカーカ」と軽蔑していたんなら,こんな発言は出ないでしょーが.
▲
【珍説】
日露戦争で米国が仲介に入ったのは白人勢力を守る為の陰謀である.
日本の連戦連勝でロシアは壊滅状態だったのだから,米国が余計なことをしなければ,シベリアの半分とかいった莫大な戦利品を得られたはず.(高山正之「変見自在」,週刊新潮
Sep. '03)
【事実】
米国の陰謀どころか,ルーズベルトが仲介しなければ,講和自体がままならなかったと言えるだろう.
日露講和交渉を見れば,日本側が何より恐れていたのは戦争の継続だったことくらい,一瞬で分かる.
例えば,日本側と講和が成立したときの露代表ウィッテ外相の台詞.
「やった,日本は全て譲歩した!」
ロシア側は国内情勢の不穏化(その一部は日本が煽ったものだった)があったが,軍自体の動員戦力にはまだまだまだまだ余裕があった.
日本側が当初構想していた勝利の筋書きは,陸軍の決戦により敵極東の主力を殲滅させた後,シベリア鉄道の要所を押さえて粘り勝ちを狙う,だったのだが,その前提条件すら実現させられなかったのが,事実.
日本勝利ということになっている奉天会戦だって,ロシア極東陸上戦力の捕捉撃滅という,日本側が考えていた勝利条件は満たせなかった.
日露戦争は,それほど景気の良い戦いではなかったのだ.
だからこそ,泥沼状態の「ロシア側からの」打開策であった海上輸送遮断戦略が,日本海海戦の敗北で不成立に終わったときに,「これ以上陸戦だらだらやるより講和しようじゃないか」というルーズベルトの提案が通ったわけで.
日本側はすでに継戦能力は絶望的に枯渇していたし,殆ど実りのない交渉になるとは分かっていても,ルーズベルトの提案に乗るしかなかった.
当時「ロシアととにかく講和してくれ」というのは軍部の統一見解で,日本が自力でロシアを講和のテーブルにつかせる方法は全て不成立に終わった以上,仕方ない.(軍事板)
また,日本側の手の内は,ロシア側に読まれていたという.日本外務省の暗号は,ロシアに解読されていたというのである.
「かの諜報戦のヒーロー・明石元二郎にしてからが,ロンドンのホテルに滞在中,自分の所在は英国駐在武官しか知らないはずなのに,ロシアの女スパイからホテルに手紙が届き,パリで会ってみると,
『日本の外交暗号はロシアに解読されているわよ』
と警告されている.明石はこれを駐フランス公使・本野一郎と参謀本部に伝えた.
また,オランダの日本公使館に就職したロシアの女スパイが,三橋信方公使の机中の暗号書を写真撮影したものを,ロシアの別のスパイが日露戦争開戦後に本野一郎に売りに来たとの事実もあった.
これら暗号被解読の事実は,本野公使は本国外務省に報告.
だが外務省は対策をとらず,それまでと同じ暗号書方式の換字暗号を使い続けた(暗号書は定期的に変えたが).
そのため,ポーツマス講和会議では,ロシアに手の内を読まれた日本側は,交渉に苦心し,米ルーズベルト大統領の仲介でやっと講和に漕ぎ着けた」(松尾博志「日本の政府と軍部の情報軽視の『奇妙な伝統』」
from 「別冊歴史読本 太平洋戦争情報戦」 May
18, '98)
1次資料が明かにされていないので,この「女スパイ」の話は割り引いて聞く必要があるが.手の内が読まれてしまっていては,駆け引きにも何にもならず,有利な条件を引き出せるはずもない.「シベリアの半分とかいった莫大な戦利品」なんて,夢のまた夢.
【質問】
ポーツマス講和条約が締結されなかった場合,日露両軍はどんな作戦を取るつもりだったんでしょうか?
【回答】
ロシアについては,長春,哈爾浜方向に日本軍を誘導し,補給線を切断,更に,補給が途絶えたところで一気に攻勢を掛け,日本軍を追い落とすと言う,朝鮮戦争の状況を考えていたみたいです.
日本については,満州方面では持久戦を何とか行い,優勢な海軍力を利用して,樺太を占領後,浦塩を占領すべく,兵力を動かすと言う感じだったか,と.
どちらにしても,これ以上の攻勢は掛けられませんでしたが.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
1905年11月の第2次日韓協約は,日本が銃剣の圧力により強制したものだったか?
【回答】
最近,そうだとする文書が見つかったという.
以下引用.
保護領化,銃剣で強制=ロシアで新資料−1905年の日韓協約
【モスクワ16日時事】日露戦争後,日本が韓国の外交権を奪い,朝鮮半島併合につながった1905年11月の第2次日韓協約は,日本が銃剣の圧力により強制したもので,韓国外相のなつ印を日本側が代行したとするロシア情報機関の機密公電がモスクワの帝国外交資料館で見つかった.
過去の日韓論争では,韓国側が日韓協約は非合法で無効と主張,日本側は当時の国際法では合法的で有効だとして対立したが,第三国による観察は論争に一石を投じる可能性がある.
この公電はロシアの歴史学者,ドミトリー・パブロフ無線・電子工科大教授の調査で発見された.
ソウルからの情報を基に,上海の情報拠点からロシア外務省に送られた公電(05年11月24日付)は,11月17日の協約締結の状況について
「14日から日本軍の多くの歩兵部隊,騎兵隊,砲兵隊が邦人保護を口実に昼夜ソウルの路上にあふれ,宮殿を包囲した」
「伊藤博文特使は将軍や部隊を引き連れて宮殿に乗り込んだ」
と伝えた.
17日の締結に関しては
「韓国閣僚が署名に抵抗したため,日本側は強権を発動.朴斉純外相の自宅に憲兵隊を送り,用意した条約文に署名を強要したが,外相が拒むので,日本側が自らなつ印した.伊藤特使は『これで保護領協定が締結されたと見なす』と宣言した」
「高宗皇帝は『条約を認めるなら,死んだ方がましだ』として拒んだが,日本の憲兵隊は宮殿内にもあふれ,抵抗できない状況に追い込まれた」
としている.
まあ,当時の国際状況を考えると,どの道,韓国に選択の余地などないわけだが.
【質問】
「帝国国防方針」「帝国軍用兵綱領」の問題点とは?
【回答】
軍事戦略が国家戦略に優先するような策定システムだった事だという.
以下,抜粋要約.
「帝国国防方針」とは,日本の軍事戦略の基本プランと軍事力建設の目標を定めたもので,軍首脳が取り纏めた案を,政府が「最高国策」として認めた.
天皇と軍部首脳以外では,内閣総理大臣のみに閲覧が許される最高機密と定められていた.
「帝国軍用兵綱領」は作戦計画大綱であり,政府が国家戦略を明示した上で,軍部がそれを実現するための軍事戦略・兵力量を決めるということではなく,軍部がまず仮想敵国と軍事戦略を決め,必要とする兵力量を定めた上で,政府にその承認を要求するというやり方をとった.
これは,日露戦争勝利に伴う軍部の地位向上,発言力の強まりを反映したものであり,以後,軍事戦略が国家戦略を引きずる端緒となった.
共に1907年4月4日,明治天皇により裁可.
以後,世界情勢の変化に対応して3回に渡って改訂され,軍部にとって軍備拡張・予算獲得のための最も強力な武器となった.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.)
【質問】
日韓併合のとき,李氏朝鮮軍はどうなったのですか? 日本軍に編入されたのですか? それとも解散ですか?
【回答】
1910年の韓国併合後,韓国軍の一部が日本陸軍に編入された.
「朝鮮軍人二関スル件」により,朝鮮軍人は日本陸軍武官の階級に相当し,現職にある者は朝鮮駐さつ軍司令部付,朝鮮駐さつ憲兵隊司令部付,朝鮮歩兵隊騎兵隊付とした.
これらは昭和6年に廃止され,退職させられた.
なお,朝鮮軍人の階級は副将,参将などの韓国軍時代の名称が使用された.
ちなみに朝鮮軍人の俸給は日本陸軍武官の6割程度であり,同階級の日本陸軍武官の次席とされた.
【質問】
日本併合前の朝鮮に海軍は存在したのでしょうか?
あったとしたら,どの程度の戦力を保有していて,併合後どうなったのでしょうか?
【回答】
海軍と言う組織そのものがありません.
海上防衛に関しては,元々清に委託していましたから.
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
おともらいごっことは?
【回答】
田河水泡によれば,日露戦争後に子供たちの間で流行った,戦死者の葬列を真似するという遊び.
[quote]
深川・仲町の通りを戦死者の葬列が行く.
白布で包んだ遺骨の箱を小型の砲車に乗せて,二人の兵隊が曳いて行く.
数人の会葬者がそれに続くが,その先頭にクラリネットを持った人がいて,葬送行進曲を吹奏して行く.
名誉の戦死を遂げた遺骨が凱旋して来たのだから,道端の人は葬列に向かって手を合わせて冥福を祈る.
それが毎日続くから子供たちは覚えちまって,おともらいごっこを始めた.
赤ん坊の眠っている乳母車を静かに曳いて,2,3人が先頭に立ってタンタカタタ,タカタンタアと聞き覚えた葬送行進曲を口ずさみながら行くと,道端にいた女の子たちは,赤ん坊に向かって手を合わせる.
死んだもんにされた赤ん坊はいい迷惑だろうが,本人は眠っているから悶着は起こらない.
[/quote]
―――『のらくろ一代記 田河水泡自叙伝』(田河水泡/高見澤潤子著,講談社,1991/12/11),p.27
同書によれば他に,日本海海戦の落書きを壁に描くことも流行した(p.30)という.
もっとも,田河の町内限定の流行である可能性もあるので,その点は留意されたし.
どこの地域かを問わず,いかにも子供がやりそうなことではあるが.
【質問】
「乃木大将の畑」とは?
【回答】
乃木希典と言う人は,根っからの農本主義者だったそうで,退役後は那須の原野に分け入り,木を伐採し,根を起こし,鋤を振って畑や田んぼを開墾していました.
後に学習院の院長として東京で生活することになりますが,それでも自邸の一角に野菜畑を拵え,学院から帰ってきたら肥やしを運び,種を蒔くと言った生活をしていたそうです.
現在でも,乃木坂の塀一つ隔てた場所に残っています.
眠い人 ◆gQikaJHtf2 in mixi,2008/05/13 23:13
◆◆陸戦関連
【質問】
日露戦争当時,日本に「捕虜になることは恥だ」という意識はあったのか?
【回答】
賛否両論あるが,「恥だった」と見るほうが理に叶っているだろう.
まず否定論.
火野葦平によれば,むしろ逆に「名譽ある捕虜」扱いだったという.
日露戰史をひもといてみても,そのころの新聞には,ロシヤ軍の捕虜となつた日本兵の記事が,麗々しく,部隊をはじめ,氏名官等級まで明瞭にして記載されてゐる.
しかも,それは侮蔑的にではなく,同情の筆をもつて書かれ,
「不幸にして捕はれの身となつた某,某,某等の兵士諸君は,モスクワに送られて,そこで大いに勉強し,ロシア人間で賞讚の的となつてゐる」といふやうな新聞記事さへある.
日本でも,「名譽ある捕虜」であつたのである.
(「バタアン死の行進」,小説朝日社,1952/10/5,P.23-24)
次に肯定的な見方.
最近(2005/9)刊行された吹浦正著「捕虜たちの日露戦争」(NHKブックス)によると,日本人が捕虜を恥辱と考える様になった淵源は,平家物語とか源平盛衰記に求められるとしています.
とは言え,明治になってからは国際人道法的な考えが徐々に軍首脳に根付き,西南戦争にて官軍司令官谷干城少将が「恣に降虜を殺戮する勿れ」という告諭を発し,次いでこれに基づく「官軍に降るものは殺さず」という張り紙による告示が為されています.
これを受けて,薩軍首脳である西郷隆盛は,
「官軍と雖も薩軍の傷病者に危害を加えることは,万国公法にも諌めているから,安心して此の地に留まり,官軍に降るよう伝えよ」
と,病院係員の山口盛高に伝言しています.
しかし,士族の軍隊から国民皆兵に至る過程において,その士気を高め規律を維持する上で,次第に捕虜感が強化され,「捕虜は恥辱」という意識が現れてきます.
例えば,1895年に書かれた泉鏡花の短編「海城発電」では,「百人長」海野が,捕らわれた赤十字の職員神崎に対して,以下の様に問うています.
「敵のために虜にされると謂ふがあるか.抵抗してかなはなかつたら,何故切腹しなかった.苟も神州男児だ.腸を掴み出して敵のしやツ面へたゝきつけて遣るべき處だ.…一旦恥辱を蒙って,吾々同胞の面汚しをして居ながら…」
(赤十字の救護員は捕虜ではないのですが…)
また,1894年,山県有朋が平壌で将校に武人としてのあり方を話した「申告」では….
「万一如何なる非常の難戦に係はるも,決して敵の生擒する可からず.寧ろ潔く一死を遂げ,以て日本男児の気象を示し,日本男児の名誉を全うすべし」
と,お偉方が捕虜を否定していますな.
さて,本題.
先ほどの話を踏まえて,1904年に学会での論争がありました.
1904年9月18日,尾崎行雄率いる東京市教育会第一回演説会で,早稲田大學教授浮田和民――「人は善良な人物になる義務はあるが,偉大な人物になる義務はない」という名言を吐いた人で,早稲田系論客の中心人物.また1919年に起きた森戸辰男東大助教授の舌禍事件では片山哲,星島二郎と共に彼の弁護に奔走する.1909〜17年まで雑誌「太陽」の主幹――が,「捕虜不可避論」を展開します.
これに対し,陸軍少将佐藤正――日清戦争中,第三師団歩兵十八聯隊の「鬼大佐」で平壌攻略戦中に左足切断の重傷を負う.後,広島市長を経て宮中顧問官――が,
「学者の邪説を破す」
として,その糾弾を行い,論争に発展したのです.
佐藤は,浮田が,
「日本人が討死を以て名誉と信じ,捕虜と為るを以て絶大の恥辱と為し斯る場合には,自殺によって其の誉れを全うせんとすることを期すると言う理想を抱けることを非難」
したと決めつけ,浮田の論旨を,
1.義務のために死ぬのは良いが,名誉のために死ぬのは不可である.
2.戦場で自殺するものの多くは名誉のために死を望むのであるから,これは野蛮であり,勇気に乏しいことを自白するものだ.
3.軍人と雖も生還を期して戦い,捕虜となったからとて恥と思うな.
4.敵国に遊学に行ったつもりでおれ.
と聞いた(伝聞ね)として,此の説は軍人の士気を軽視し,人員,材料,学術の三条件で戦勝か否かが決まる安易な考えだとしました.
ちなみに,この尻馬に乗る形で,東京帝国大學教授井上哲次郎(ドイツ観念論哲学の紹介者で哲学者,また,天皇制国家主義を主張)も同様な批判を行っています.
で,井上教授の反論に対し,浮田教授はこれに回答を行い,
1.捕虜になったからとか,なりそうだからと言う場合に,自分は戦場に於いて自殺若しくは割腹する必要があるか疑わしい.
2.金州丸,常陸丸,佐渡丸等に於ける軍人の最後に向かって同情と畏敬とを表する.
3.井上は,浮田が日本の軍隊が敵に降参して捕虜となることを主張したかの様に非難したが,「自殺割腹の必要無しという前提と,敵に降参せよと捕虜となるも不可なしと云ふ結論との間には,頗る懸隔あるとを知らざるべからず.
4.敵弾に当たったり,海中に投げ出されて死ぬのも名誉であるが,「万死に一生を得て帰還し,更に再度の遠征に赴きたる者も同様名誉ある将校兵士たることを失わざるや」である.
5.「留学したる積り」云々については,捕虜となることを奨励したものでは勿論なく,「任務の為め若しくは交渉の為敵軍に赴いて捕虜と成りたる人々」が,「一部の議論に制せられ帰国するの面目なしとて或いは自殺割腹することもやあらんかと思ひ,斯くの如き狭隘なる了見には及ばぬものなり」と応じ,戦争は又あるかも知れないが,その際の「奏功を期し,今回は内情視察の為,其の国へ留学したる積もりにて忍耐せよ」という意味の発言である
としています.
これに噛み付いたのが佐藤少将で,
「浮田氏の弁論に就て」
と題し,浮田は捕虜を奨励していないが,ロシアで勉強してこいと言うのだから,いかにも捕虜となることを恥ずかしいと思うのは馬鹿馬鹿しいことであり,
「自殺を遂ぐるよりは寧ろ,露西亜に留学する積で,得意に捕虜となるのが宜しと言ふ口気は,分明に見えて居る」
「其結果は自然,捕虜となることを奨励して臆病武者を製造するの傾きあることは,疑を容るるの余地はない」
と反駁.
更にこれに加わる形で,初代東京帝国大学総長の加藤弘之が,両論の是非を論じるとして,議論が一層の展開を見せることになっていました.
1905年にこれらの議論は,「現代大家−武士道論叢」として出版もされています.
民間レベルでは,特に,上層階級,中産階級の人々は,彼ら日本人捕虜に同情し,激励の手紙,慰問袋,募金,書籍や雑誌などが引きも切らず送られてきたそうです.
その寄付金は2,636万5,860円,慰問袋は17,962個に上りました.
また,日本政府は当時,捕虜将兵,軍属の氏名を,逐次官報に公表し,新聞紙面に出たり,市町村を通じて家族に知らしたりしていました.
さて,日露戦争が終了して暫くして,日本軍の捕虜が欧州,シンガポール経由で還送されてきます.
彼らは,ある者は奉天出張中に日露戦が勃発して捕縛されたり,ある者は船に乗組んでいてロシア海軍の通商破壊で捕虜となったり,また,ある者は奉天会戦で師団毎降伏したりするなど,様々な理由で捕虜となりました.
確かに「名誉ある捕虜」という扱いをされた方もいましたが,日露戦争中でも,学者間の論争(捕虜は恥か否か)があったりして,「名誉ある捕虜」という考えで一致していた訳でなく,寧ろ,「捕虜は恥」という考えの方が世論的には勝っていたようです.
このことは捕虜にも聞こえてきていたみたいで,日露戦後,還送の際に南仏やインド,シンガポールと言った寄港地で下船し,そのまま日本に帰らなかった兵士が少なからずいたそうです.
で,帰国した捕虜についてですが,立場によって苦労したりそうではなかったりと言う二つの面がありました.
篤農家とか富農で捕虜になった人の場合は,
「良く帰ってきなさった」
「苦労したなぁ」
という形で,「捕虜の家」と言う言葉が用いられていましたが,貧農で捕虜になった人の場合は,同じ「捕虜の家」という言葉で呼ばれても,それは,蔑称として投げつけられたとも言います.
帰国捕虜については,立場もあるのかも知れませんが,郷里の民衆が一番冷たかったと言われます.
即ち,日露戦争で戦死した兵士,軍属の家族,親戚から見ると,何でうちの奴が死んで,あいつが生き残っておめおめと帰ってきたのか,と言う考えが出てくる訳で.
中には苦労した後,村長になった方もいましたが,その人でさえ,
「捕虜扱いには苦労させられたし,人生の相当部分に影響があった」
と後に語っている訳で,「名誉ある捕虜」とは言えないでしょう.
しかも,下士官以下はまだそれくらい(と言っては語弊がありますが)で済みましたが,士官になると,明確な罪には問われませんが,例えば,軍隊輸送船に乗り組んでいた士官の場合,その船が拿捕,その後部下の抵抗で結果的に撃沈された後に,捕虜となったのですが,彼らは,「職務怠慢」の罪で軍法会議に掛けられていますし,村上にあった歩兵聯隊の聯隊長となった士官の場合,聯隊長なのに,部下があからさまに蔑み,元々体調を悪くしていたその士官は,ほどなく退役に追い込まれています.
これを後押ししたのは,戦勝気分もさることながら,水野廣徳の「此一戦」が民論に与えた影響が強いとしています.
この中の「死栄生辱」という一章の中で,
「死の栄あって生の辱なしとは,古来我が邦武士の信条にして,大和魂も,武士道も其の淵源する所は,一に此の精神に外ならぬのである」
と総括し,
敵に屈するは罪である,
捕虜は恥である,
捕虜になってはいけない,
万一捕虜になったら耐えろ,
敵の捕虜は無闇に優遇するな,
と説き,更に,「名誉の降伏」,「名誉の俘虜」なる文字を見て「異様の感がした」と述べ,
「為すべきを為し尽くしたる後,やむを得ずして敵に捕らわるるは,是れ決して犯罪には有らざるも,未だ之を以て名誉とすることは出来ない.
唯其の勇敢なる行為顕著なる勲功が,偶々以て俘虜となりたるの恥辱を償ふに足るだけである」
と述べています.
また,1905年5月10日の寺内正毅陸相のロシア人捕虜に対する扱いについての訓示では,以下の様に述べられています.
「(前略)捕虜の言語動作に徴するに,彼等は祖国の為忠義に励み,既に軍人としての本分を尽くしたることを自信するが如し.
而して邦人は,彼等の捕虜となれるを以て恥辱とし,彼等を軽侮するの観あり.これ国の東西による風習の同じからざるにより敢て怪しむに足らずと雖も,之が為彼等に悪感情を抱かしむることなき様留意すること肝要なり」
図らずも,日本人の「捕虜は恥辱」感を陸相自ら認めたことではないか,と思いますね.
ただ,山県有朋の「申告」にしろ,寺内正毅の「訓示」にしろ,前者は下士卒への影響は少なかったみたいですし,後者は客観的な観測であり,明確に捕虜に対する忌避感というのは軍上層部では表向き見られません.

【質問】
森鴎外と脚気・・・って,いったい戦争に何の関係があるんですか?
【回答】
第二軍軍医部長(のち,1907年10月に陸軍軍医総監)だった鴎外が脚気病原菌説に拘泥し,兵に白米を食わせつづけたため,脚気を蔓延させたという一種の薬害事件
in 日露戦争
日露戦争中,兵士の脚気が深刻な問題となった.
原因は主食が白米で,ビタミンB1が不足していたからだ.
その事態に,軍は古くからの経験則より玄米食を制式採用しようとした.
しかし,ドイツ医学を学び,脚気細菌原因説をとなえる森鴎外はその案に猛反対.
結果日本軍は露西亜でいらぬ犠牲を増やすことになったとさ.
「日露戦争中,森鴎外はどんなロシアの将軍よりたくさんの日本兵を殺している」
という話すらある.
もっとも,脚気は鴎外だけに罪があるわけではなく,白米を基本的糧食とすることを望んだ兵隊にも,多少の責任があると思う.
確か,江戸時代の一人扶持を精米したものが,陸軍の一日の支給量と一致していたと思う.
白米が腹いっぱい食えることが軍のウリの一つだったしな.
もちろん鴎外が,脚気の話のみで評価してしまうには惜しい人物であることに変わりはない.
軍事板
上記の経緯について,宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.88-89では,以下のように説明されている.
明治から大正にかけて,脚気は死亡原因の上位を常に占めており,年間2万人以上の犠牲者を出していた.
政府にとりわけ頭を抱えさせたのは,兵士の罹病だった.
特に軍艦乗組員に多発し,酷いときには長期航海中,半数が倒れて操艦不能になるときもあった.
死亡者もそうとうに多かった.
帝国海軍の発祥の頃,なぜ日本の軍艦からばかり脚気患者が続発するのだろうかと疑ったのは,海軍軍医総監高木兼寛である.
イギリス水兵は脚気になどかからないのである.
彼は,これは兵食に何か欠陥があるのではないかと考え,実験的に一部軍艦にパンと肉食を与えてみたら,患者が激減するのを見た.
しかし,パンは農村出身の水兵が食習慣から嫌がるので,彼は小麦のパンが有効なら大麦でも良いのではないかと考え,麦飯を試してみた.
脚気患者を海軍からほぼ一掃することに成功したこの人体実験は,むろんビタミンなどというものを予想して行ったのではないが,その鮮やかさによって,国際的にも今なお食料史上の人物として,高木の名が記録されている.
ところが,これに反して陸軍は麦飯を採用しなかったのである.
陸,海軍の維持の張り合いというのはこの時代からあったらしいが,その理由は,一説に洋行帰りの森林太郎(鴎外)一等陸軍軍医の反対による,とされている.
森はベルリンでカロリー学説を学んできていて,米のカロリーのほうが麦より高いと主張したというのである.
おかげで日露戦争中,最後の奉天大会戦で気がついて麦飯に転換するまで,戦病者のうち半数という脚気患者を出してしまい,これは森の黒星という事になるかもしれない.
しかし,もしそうであるなら,この対立は両者の背景を探ってみると,興味が深い.
木がイギリスで医学を学んで経験主義を身につけて帰り,実行に移したのに対し,森が「脚気の原因の究明が先決」という,ドイツ的な本質主義を体していたという事になるだろう.
消印所沢
ついでに言うと,森鴎外は細菌説の主張を押し通すため,当時の医学界における人脈をフル動員して,高木兼寛軍医の意見を受け入れさせないように学界などで猛烈な反対論陣を張っています.
その運動は,オリザニン発見後まで続いたほどです..
人によっては,高木兼寛軍医を日本最初のリアル日本医学会の犠牲者とも言うほどです.
海軍での採用も,明治天皇の助力がなければ,どうなっていたことやら・・・.
ただ,森鴎外の主張もわからなくもないです.当時の栄養素はたんぱく質と炭水化物,脂質,のバランスだけに集約され,1910年に鈴木梅太郎がオリザニンを発見するまで,それ以外の栄養価は存在しないと思われていた時代ですので.高木軍医の根拠であった体のバランスを重視する漢方医学は,独逸医学にどっぷり染まった森鴎外には受け入れられなかったんでしょうねぇ.
まぁそれでも,日露戦争前の1897年にオランダのエイクマンが脚気を予防する未知の物質の存在を証明していたのですから,日露戦争まで脚気細菌起源説にこだわった森鴎外は老害といっても差し支えないでしょうね.
ただ,高木兼寛軍医は,後にその功績で森鴎外がなれなかった華族に任命されましたので,最後は報われたかもしれません.
ちなみにトリビアになりますが,麦飯やパンでほぼ発生が亡くなっていた脚気ではありますが,麦飯は消化吸収がとても悪く,一度発症したら直りにくい状況には変わらず患者は常に一定数いました.
オリザニン抽出物も値段が高く,吸収しにくい弱点もあり,効果はあったものの根絶にはいたりませんでした.
結局,脚気対策は玄米食ではなく,白米に押し麦を混ぜることで解決したそうです.
玄米だと戦陣食として吸収が悪く,緊急時には白米だけにできる麦のほうが都合が良かったようです.
この辺の詳細は,吉村昭『白い航跡』上・下(講談社文庫,1994年)が安くて詳しいかと.
日本で脚気が完全に根絶されたのは,なんと昭和29年です.
戦前からビタミンB1の量産研究を続けていた武田薬品が,ビタミンB1を弱った胃腸でも吸収できる誘導体の形で,低価格で量産する技術を確立させたことを受けてアリナミンを販売,初めて脚気は根絶されました.
ということは,警察予備隊が海洋船舶を持っていたら脚気の悪夢再びだった可能性も多少残っていたのかも.
もっとも,ビタミン問題は日本軍を不利にばかりしたわけではない.
こんなエピソードが残っているという.
ビタミンCの発見の後,鈴木〔梅太郎〕は言ったという.
「日露戦争で旅順が陥落したのは,ロシア軍は壊血病に悩まされたためで,もしビタミンCのことが分かっていたら,大豆はたくさんあるはずだから,それでもやしを作ればいいわけだ.
そうなったら,世界の情勢は変わっていた」
――――――――宮田親平著『科学者たちの自由な楽園』(文藝春秋,1983/7/15),p.95
消印所沢
森鴎外

【質問】
ウード・ポルマー&ズザンネ・ヴァルムート著『健康と食べ物あっと驚く常識のウソ』,(草思社,2004.1),P242-245によれば,脚気の原因はビタミンB1欠乏ではなく,米に付着した黴の生成毒だそうですが,この説についてはどうでしょうか?
【回答】
とりあえず結論から.
日本医学界において現時点では異端説です.
んで,細かい説明.
まず「健康と食べ物あっと驚く常識のウソ」はドイツにおいてベストセラーになり日本語訳も発売されました.
筆者のUdo Pollmerはドイツの栄養学者.Susanne Warmuthは生物学者.両方とも医学界の人間ではありません.
(問題の論述を二人の筆者のうちどちらが書かれたのか判断出来なかったので,二人とも名前を上げさせて頂きました)
今までに「科学的」に
「脚気(という病名がつく症状)はビタミンB1の欠乏による」
というデータは出ています.
人工的にビタミンB1を不足させたらどうなるか,脚気症状が出ている患者にビタミンB1を投与したらどうなったか,そういうデータの積み重ねです.
なので,現時点において「脚気はビタミンB1欠乏による」ということが「日本国内の医学的常識」となっています.
ただし,マイコトキシン中毒による衝心性脚気(急性脚気)というものも,ビタミンB1欠乏による脚気とは別に存在します.
これは,麻痺を起こして三日くらいの苦悶のうちに死んでしまう急性の脚気です.
そして,お米に発生するカビ「ペニシリウム・シトレオビライデ」の毒性は,東京大学医学部の浦口健二教授によって科学的に立証されています.
Wikipedia〜黄変米
(Wikipediaの参考文献は下記の出典本と同じです.)
また,『カビがつくる毒 日本人をマイコトキシンの害から守った人々』(辰野高司著,東京化学同人出版,1988.9)によれば
『この研究は戦後に純粋な化合物・シトレオビリジンによって追研され,メタノール・エキスで行われた結果と完全に一致したことで,その毒性が確認された.
この追及の結果は浦口に徳川末期から明治にかけて日本で猖獗をきわめた『衝心性脚気』が,なぜ明治末期から大正の初めにかけての年代に無くってしまったのかのかが彼には疑問であった.
カビ毒で見いだした中毒症状は,その時代に発見されたビタミンBでは軽快しなかったからである.
そこで彼の「米とカビ」,「カビ米と脚気」についての気の長い「脚気病因論的研究」,「疫学的研究」へと発展した.
そして,東京大学病院での「脚気による死亡例の解析」と「米の国家管理」との関係の追及へと彼を向かわせた.
米の国家管理が全国の30%に達した時期から衝心性脚気の発生が減少し,ほぼ全国で米の管理が行き届いた1911年には,ほとんど衝心性脚気で死亡する患者が認められなくなったことが突き止められた.
「米とカビ」,「カビと毒性」の関係が疫学的にも解明された.』(P39〜)
『第二の栄養不足説の立場をとって研究したのが,エイクマン,ホプキンス,鈴木だったわけです.
彼らの成功によって脚気の非常に大きな部分を占める多発性神経炎の問題が解決しましたが,そのために日本の脚気がすべて無くなったとはどうしても考えられないのです.
確かに大正の初めのころには,脚気で死亡する人はほとんどいなくなってしまったのです.
しかし,鈴木がオリザニンを発見し,三共製薬がオリザニン製剤をつくるようになったのですが,実際にオリザニン(ビタミンB1)が医療の場で使われるようになったのは,東京大学の島園医学部教授が脚気治療のばで使って効果が確かであると発表された1929年以降であり,それまではほとんど医療の場で使われることがなかったといわれています.
医師の間では,医学者ではなく農芸化学者である鈴木の発見したオリザニンに対して,「百姓が作った薬」として蔑視する傾向があったと聞いています.
1929年はエイクマンたちがノーベル賞を受賞した年であることを考えると,その辺の事情が見えてくる気がします.』(P53〜)
ちなみに著者は,薬学博士で専門は有機化合科学および中毒学です.
さらに,黄変米(カビたお米の事)の毒性については,終戦後輸入された外米でも発見され,国会で問題にされています.
衆議院会議録情報 第019回国会 厚生委員会 第58号
および
衆議院会議録情報 第019回国会 決算委員会 第40号
を参照してください.
上述項目中の
「ちなみにトリビアになりますが,麦飯やパンでほぼ発生が亡くなっていた脚気ではありますが,麦飯は消化吸収がとても悪く,一度発症したら直りにくい状況には変わらず患者は常に一定数いました」
の部分も,カビ米が原因の衝心性脚気の事を考えると理解しやすいかと.
【質問】
マイコトキシン中毒も原因なら,脚気による死亡者への責任は,森鴎外を含む全ての医学者の責任であって,森鴎外のみの責任には出来ないのでは?
【回答】
これに関しては反論させていただきたく思います.
その理由は,結論から言えば「森鴎外は陸軍が苦労して根絶した脚気をわざわざ日露戦争時に復活させた張本人」であるためです.
脚気主犯:日本医学界の状況説に関してですが,
「日清・日露戦争と脚気」内田正夫所員/総合文化研究所助手
和光大学総合文化研究所年報『東西南北』2007
http://www.wako.ac.jp/souken/touzai07/tz0716.pdf(PDFファイル)
に脚気に関する四方山話が記載されているので,脚気に関する森鴎外列伝を引用してみたいと思います.
1.実は陸軍も日清戦争と日露戦争の間の軍医長官が柔軟で,
「理由は分からないが,効果があるなら良いだろう」
と麦混入白米を導入して脚気をほぼ根絶していたんですね.
上記論文の引用をすれば,
----------------------------------
1898年に石黒が退役し,小池正直が医務局長に就任すると,彼は麦飯の実績を認め,
「脚気と混食とは原因的関係あるものと認定す」
と公文書に記し,各師団軍医部長に実施方法について諮問した(1899年)
----------------------------------
ところが,
「理論的裏づけがない」
とわざわざ麦を米に混ぜる禁止通達を出させたのが,次の軍医総監として赴任した森鴎外.
しかも,違反者は厳しく取り締まる始末.
2.森鴎外は脚気を細菌起源説にすることに相当気合が入っていたようで,上記のように麦飯を配給していた状況に対して,わざわざ「麦は脚気治療には効果があるのか?」と麦飯を否定する論文を7本も学会誌に投稿しています.(^^;;
----------------------------------
そして,このような同輩の揺れに対し,森は牽制をかける.
彼は「脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎」という論説を,衛生に関係する7つの雑誌に掲載したのである(21).
----------------------------------
3.日清戦争後,衛生新書という国内初の衛生学の大辞典を刊行.・・・にもかかわらず当時脚気細菌起源説を主張していたのに,当時非常に需要の多かった脚気の記述はゼロ.
4.最終的に森鴎外を無視して頭越しに麦混合白米採用を提唱した寺内正毅元帥は,実は日清戦争当時,野戦通信長官として具申した脚気対策に麦送れと言う要望を森鴎外に握り潰されております.
(しかも森鴎外はわざわざ上司に反論してまで,この申し立てを却下するように主張)
そのせいか,元帥が麦飯を推奨した時は,日露戦争後なのにわざわざ日清戦争の体験談を口にして念を押す始末で,まさに因果応報.(この下りは,「白い航海」参照)
5.当時の学説では異端派とする意見ですが,赤痢菌発見者でもある当時の日本で最も実績のある細菌の研究者である志賀潔は1910年に転向して栄養欠乏症説を支持しています.
上記論文より引用すると,
----------------------------------
細菌学者の志賀潔は1905年ドイツ留学から帰国し,はじめは細菌説と中毒説から脚気の原因を研究していたが,成果はなかった.
そこで,エイクマンの追試に方針を切り替え,1910年栄養欠乏説支持を表明した(4月第1報,翌年11月第2報).
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日露戦争後でさえ,日本国内の細菌学の最大権威が細菌説を否定して栄養説を提唱しているのに,これすらも検討した形跡がないってのは・・・.
東大医学部出身者としては,慶応大の医学部教授の主張だから無視とかそんな理由でしょうけど.1926年までこだわっていたのは東大医学部の主流派だけかも.
6.臨時脚気病調査会委員であった都築甚之助が脚気の治療薬を製作したら,彼は臨時脚気病調査会委員を理由不明で免職となる始末.
(彼は,免職後に起業して,その治療薬を一般販売して大儲けしたオチがつく.)
7.一応,森鴎外御本人も脚気が(ビタミンを考慮しない)栄養素によるものという自覚はあったらしく,日露戦争中は副食として
「(肉類25〜40匁,野菜40匁,漬物類15匁)」
を定める通達を出しています.
しかし,補給を軽視する日本軍では(以下略
・・・そりゃ,主食さえ補給されていれば患者が出ない海軍式の方が効果的だわな.
とまぁ,医学会の責任にするには,あまりにも森鴎外(と師匠の石黒)御本人の麦飯排除という現場への干渉が大きすぎて,さすがにそれは無理じゃないかと思う次第です.
現場の判断で脚気を根絶しかけたのを,わざわざ日露戦争中に復活させたわけですし.
【質問】
正露丸は日露戦争が起源って本当?
【回答】
大幸製薬の公式ホームページによれば,1902年に中島佐一が「忠勇征露丸」の「売薬特許の証」を大阪府から取得したのが起源とされている.
露西亜を征伐することと,将兵の士気高揚の意味を合わせて命名されたという.
臥薪嘗胆の時代だったから,ウケたかもね.
そして1904年,日本軍で「征露丸」として製造し,陸海軍将兵に配布された.
このときは瓶入りではなく,丸缶入りだった.瓶だと割れたりするからね.
ちなみに最近ではまた,プラ・ケース入りの携帯用「正露丸」が発売されていたりする.ちょっとした先祖返り?
改名されたのは,なんと第2次大戦後になってから.
1949年,ソ連との国際関係に配慮して,忠勇征露丸を中島正露丸と改名.
さらに1954年に「中島」がとれて,現在の名前「正露丸」になった.
さらに現代では,「買ってはいけない」などと名指しされたり,登録商標権を巡って裁判ざたになったりしているが,それはまた,別のお話.
そんなわけで,薬の名前一つにも,その時々の世相が反映されているという好例でした.

【質問】
以前なにかの本に,旅順要塞で使用した28cm榴弾砲の不発弾をロシア側が回収して撃ち帰してきた話の説明に,ロシアの砲はライフリングが逆に彫ってあったから可能であったとありました.
なせ,ライフリングの向きが同じだったら打ち返すことができなかったのでしょうか?
【回答】
使用済みで線条痕のある砲弾を同方向の線条の砲で撃つと,
・弾-砲身に隙間ができて発射薬の爆圧が逃げる(ちゃんと飛ばない)
・既にある線条痕が崩れて弾がスタック(発射不能or砲身破裂)
などの影響が出る.
線条が逆だと,|////|なところに|XXXX|な線条痕が刻まれるので,
・弾-砲身が密着できる
・旧線条痕は崩れない
但し,一旦砲身を通っているので,より細い砲身で打ち出す必要がある

【質問】
日露戦争の旅順要塞戦で,日本軍の野砲は効果があったんでしょうか?
効果があったのは重砲のような気がするんですが.
【回答】
殆ど効果はありませんでした.
この原因として挙げられるのが,砲弾です.
日露戦争では榴弾1発につき,榴散弾6発の割合で補給されました.
現場では,「榴弾寄越せ,ヽ(*`Д´)ノゴルァ(意訳)」だったのですが,陸軍中央では,その実態を把握せず,平坦地であろうが要塞であろうが,榴散弾偏重で,生産が行われていました.
榴散弾は時限信管で,前方に中の子弾を飛散させるもので,榴弾が着発または時限信管で弾体そのものを破裂させて,その破片による殺傷効果を全周に渡って及ぼすのに比べ,調定に失敗すると子弾の飛散範囲が小さくなったり,威力が落ちたりします.
また,地上に落ちて起爆すると,前方にしか子弾が飛ばないので,意味がありません.
こうしたことから,野砲の砲撃は,余りにも効果がありませんでした.
しかも,1904年5月の南山の戦闘で消費した砲弾は2日で3万発.
これは,開戦前に見積もった数値の半年分,砲弾生産量の3ヶ月分で,9月には備蓄砲弾が底を突いていますから,砲撃もおいそれと行われなかったので….
(小銃弾の補給も追いつかず,石つぶてを投げたと言う話もあったりします)
眠い人 ◆gQikaJHtf2
【質問】
歴史漫画の203高地の場面で鉄条網を突破しようとしたら,鉄条網に電流が流れて感電死する場面があったのですが,これは本当なのでしょうか?
【回答】
流せないこと無いんだけど,鉄条網じゃすんげえ効率悪いのよ.
碍子で絶縁したところで,長距離を人が死ぬだけの電流流すと,焼き切れると思われ.
普通の状態だと,三相交流の200vとかでも死なないのは体験済み(笑).
このときは,電線を握った指が開かなくなりました.
(配線中,アホが元源入れて,感電したワダシを見て,近くにいた奴が電源切った)
逆に3000vとかの高電圧の場合は痛いですが,電流が低くなってるので普通の人は死にません.
どんな発電機使うか知らんけど,広範囲に鉄条網引くとして,触ったぐらいで気絶するだけの電力も,アノ場で発電できないと思いますな.
(セイラ・マス・大山)
203高地

【質問】
欧米列強陸軍が日露戦争の陸戦から得た教訓は?
【回答】
(1) 重機関銃こそ陣地防禦の要.
(2) 敵陣突破の決め手は榴弾砲集中使用.特に重砲が有効.
(3) 有刺鉄条網の防御効果は絶大.
だという.
以下,抜粋要約.
欧米の各国陸軍は日露戦争後,競って重機関銃と重砲の開発・大量配備に全力を傾注,後に第1次大戦での桁外れの大量殺戮を引き起こすことになる.
陸戦での兵員消耗率(召集総数に占める死傷・捕虜の割合)は,日露戦争では
日本軍 17%,
ロシア軍18%
だったが,第1次大戦では各国平均で52%にまで上昇.
これは明らかに,機関銃や重砲の野戦への大量投入による殺傷力強化によって引き起こされたものだった.
日露戦争全期間19ヶ月を通じ,日本軍は約105万発の砲弾を使用したが,第1次大戦では,1〜2週間の1会戦で,一方が100万発を超える砲弾を使用することも珍しくなくなった.
日露戦争では,奉天会戦でも日本軍の野砲1門が1日に射撃する砲弾数は平均30発程度だったが,第1次大戦ではソンムやヴェルダンの攻防戦では1日1000発を超えることもあった.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,p.25-27)
◆◆海戦関連
【質問】
東郷提督が連合艦隊長官に推挙された時に「東郷は運がいいから」,と言われたそうですが,そんなに運が良かったんですか?
【回答】
東郷提督の強運を示す例として黄海海戦の時を挙げるが
・ウラジオに逃げようとする旅順艦隊の戦艦レトウィザンが浸水,艦隊の速度が低下し,連合艦隊が砲戦を仕掛ける時間が増えた.
・海戦で乗艦の三笠は被弾20発以上の損傷を受けるが,露天艦橋にいた提督はかすり傷一つ無し.(周囲は怪我人続出)
・三笠から放たれた砲弾が敵旗艦ツェザレウィッチの艦橋に二発も命中.
これにより旅順艦隊の首脳陣が全滅し,その混乱で艦隊は大打撃を受けた.
と言った例がある.
まあ,「運」だけが推挙理由ではないようだが.
【質問】
日露戦争くらいの年代で,蒸気機関もしくはレシプロ機関で駆動する艦搭載型速射砲を開発する事はできるでしょうか?
できるとすれば,砲口径はどのくらいのものまでが,また発射速度はどのくらいのレベルまで可能でしょうか?
【回答】
電動式のガトリングガンなら,すでに19世紀末には実用化されていますが…….
まあ,その時期だと電動より蒸気機関やレシプロの方が信頼性ありそうだし,蒸気なら艦内に配管で引くという手もあるかもしれません.
蒸気機関車あたりがひとつの基準になると思います.
ごく単純に考えたら,蒸気機関車のピストンのサイクルと力を,そのまま外部動力自動砲に持っていくと考えればいいので,馬力として100馬力程度は無理なく得られそうです.
抗堪性と配管の面倒さを考えると,砲塔に個別の蒸気機関を持ち,機関手,石炭放り込む担当など,機関車的な配置をとると面白かろうと.
砲塔の煙突から黒煙もうもうと吐きながら砲撃ってのも絵になりますなあ.
であれば,たいていの口径の砲弾は(周囲のメカニズムまで含めて)数秒で動かせる力はあるでしょう.
むしろ問題なのはメカニズムの方で,当時の工作精度では,大きな動力をかけて高速で動きあう歯車を製作し,組み込むことに限界があったでしょう.
また,動揺する艦内で砲弾を砲身の軸に位置合わせする困難さという当時の問題は,機械装弾でも同様だと思います.
発射時の砲の後退,複座には口径に応じた時間が当然かかります.
ここから先は思い切り見当の話になってしまいますが,12インチ砲弾でも速射砲とすることは可能.
この場合,複座時間とともに発射の反動による精度低下などが問題となるので,せいぜい1分に1〜2発.
6インチ砲弾であれば数発〜10発程度?なら
「いくらなんでも無理だろう」
と言われずにすみそうな気がします.
当時のアームストロング社製6インチ速射砲の公称スペックでは「毎分8発」となっていますが,日本人の体力だと5〜6発まで落ちます.そのために14サンチ砲(毎分10発)が開発されるんですけど.
5インチでも一門毎分15発までは行きますから,2門分の重量で毎分40発(Mk42)が実現して初めて自動化の意味が出てきたって事です.コレがWW2直後辺りの話でして.
職場に来たので資料を見てみましたが,現在ポピュラーなオット・メララの5インチコンパクト・ガンで毎分40発.
もちろんこれは洗練された現代のメカニズムデザイン,精度で可能になってるわけですが.
砲塔の動力は200馬力相当.6インチ砲弾は5インチよりかなり重く,でかいので,技術差を考えて
1/10程度の発射速度は妥当では.
もちろん砲塔は蒸気機関の内蔵,石炭庫,水タンクの収容,砲塔下弾薬庫からの給弾装置,あるいは即応砲弾の収容から始まって巨大なものとなり,旋回速度は遅く,おそらく仰角調整も遅いものになるでしょう.
この手の周辺機器は共有できるから,連装とするのが妥当かな.
それでも一艦にひとつしか設置できない,とかいう制限付き(これがまたいいわけだが)かな.
ただ,日露戦争当時の12インチ主砲とかは,2分に1発程度でも連射すると砲身の過熱,これによる砲弾信管の暴発が問題になったようです.
こうなると砲身の水冷ジャケットによる冷却,バースト射撃でその後しばらく冷却待ちで砲撃中止,といったことに.
で結局,巨大な自動砲塔作って1分1〜2発とかのバーストかけても,動揺とずれによる精度低下がでるばかりで
,こいつは本気で実効なさそうです.
なお,日露戦争当時の大口径砲は旋回俯仰装置と装填機が水圧で揚弾薬機が電動でした.
それで全自動にしなかった理由? 出来なかったからです.
【質問】
なぜバルチック艦隊は日露戦争のとき,わざわざ南回りで日本を目指したんですか?
距離的に考えて,北回りのほうがはるかに早く着くと思いますが・・・
【回答】
北回りって・・・ 北極航路?
今でも大変なのに,無理を言わないでください・・・
バルチック艦隊の出港時期と規模となぜ派遣されたかを考えてみなよ.
バルチック艦隊は太平洋艦隊の補強のため派遣されたが,派遣時には黄海海戦や蔚山海戦などで太平洋艦隊の戦力は減少している.
バルチック艦隊の内第二太平洋艦隊は第一陣が10月15日,第二陣は11月16日に出港,その後,旅順戦で第一太平洋艦隊が壊滅してしまったので第三太平洋艦隊が2月16日に出港している.
つまり北周り航路を取ると真冬の時期に北極海を通過することとなる.
しかし上記理由により,出港を遅らせることは出来ない.
流氷中の航海は,砕氷船のような特殊な船体・設備を備えなければ困難であり,通常の艦体では流氷中に閉じ込められる危険性や,艦体が氷によって破壊される危険が大きい.
砕氷船によって航路を開削して航行する方法もあるが,数十隻に及ぶ大艦隊ではそれも不可能.
ちなみに,日本海海戦当時,北極航路はまだ誰も通過に成功していません.
979 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 06:29:54 ID:???
お前は海で八甲田山の拡大再生産を望むのか,と.
982 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 07:51:51 ID:???
>お前は海で八甲田山の拡大再生産を望むのか,と.
あ なんか萌えるぞ そのシチュエーション
983 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 08:45:21 ID:???
アイスバーグに激突して沈む戦艦.
艦長の悲劇.
叫ぶ副長!
なに,その「タイタニック」.
985 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 09:03:54 ID:???
悲惨であってこそのロシア海軍なり
戦艦ポチョムキンやK19のように
986 :名無し三等兵 :2005/06/12(日) 09:04:26 ID:???
アイスバーグに激突どころか,氷に囲まれて動けなくなり,次第に押し潰されていくかと・・・
【質問】
日露戦争時のロシア戦艦の甲板には,「酒専用注入口」があったと聞いたが,本当か?
【回答】
本当.
例えばノヴィコフ・プリボイ著「ツシマ」には,以下のような描写がある.
著者,ノヴィコフ・プリボイはバルチック艦隊の旗艦,戦艦「オリョール」に乗艦していたが,甲板から艦底のラム酒庫まで,甲板にある漏斗からラム酒を流し込み,溜めておけるよう,銅製の導管がついていた.
当時のロシア海軍では,士官・兵を問わず,夕食時には一人あたり一杯だけ,ラム酒を支給していたからだが,複雑に入り組んだ艦内の配管のなかで,どれがラム酒の導管か,機関科の兵だけが知っていた.
そのため,導管にこっそり穴を開け,普段はふさいでおいて,補給の折だけその穴から「ギンバエ」をするのが機関科の役得.
機関のボイラーで「焼き物」なら思いのままにできることもあり,これも「ギンバエ」してきた豚肉を焼いてラム酒を添え,ノヴィコフ・プリボイも呼ばれて,深夜の宴会を催すシーンがある.
なお,現代のロシア海軍では,艦内での飲酒は一応ご法度らしいが,日本を親善訪問したある艦の乗員が,ホストシップとなった海上自衛隊のある護衛艦でのパーティに招待され,護衛艦側が気を利かせてウォッカを用意したところ,タダ酒をいいことに飲むこと飲むこと.たちどころに,山ほど用意したはずのウォッカがなくなったとか.
【質問】
日露戦争で日本海軍の主力艦に搭載されていたバー&ストラウド測距儀とは?
【回答】
遠距離射撃で目標距離設定が重要である事を認識した英海軍が,19世紀末に距離測定装置を民間企業に依頼.
提案された4種類の器材による競争試験の結果,選定されたのが,バー&ストラウド
Barr and Stroud 社の,基線長4.5フィート測距儀である.
遠距離射撃では砲弾は高角度で落下するが,目標は水平な甲板であり,命中界は当時の戦艦の上甲板幅を考慮しても,30ヤードより大きくなることはなかった.
近距離射撃では砲弾の軌跡はほぼ水平であり,目標艦の喫水線以上の部分は,比較的大きな垂直目標として見られるため,命中界は大きく,喫水線を照準した砲は,例え目標距離が100ヤード狂ってかなり大きめの仰角を取っても,舷側や上部構造物に命中することが可能だった.
したがって近距離目標射撃では,距離推定に誤差があっても命中界が長い(広い)ため,十分な命中弾を得ることが可能だったが,遠距離目標射撃では命中界が短い(狭い)ため,命中弾を得るには十分な精度で砲仰角を設定する必要があり,そのための距離測定は極めて重要だった.
バー&ストラウド測距儀は,左右に4.5フィート(1.37m)離れた対物線を通して目標を照準し,その2本の照準線と基線とによって構成される三角形から目標距離を求めるのである.
左右の対物鏡を通して得られる目標映像(分像)が右目接眼部視野内で合致するよう光学系を手動操作し,左目接眼部視野内の目盛から距離を読み取った.
距離目盛が250ヤードから20,000ヤードまで刻まれていたが,測距の保証は4,000ヤードまでで,英海軍の精度要求は3,000ヤードで3%だった.
なお,当時の世界最新鋭艦でも,方位盤はまだ搭載されていなかった.
詳しくは多田智彦(防衛技術研究家)の筆による,「世界の艦船」(海人社),2003/10号,p.79-80を参照されたし.
【質問】
日本海海戦の時,東郷元帥が持っていた双眼鏡は私物だったって言うのを聞いたのですが,本当なのですか?
なんと言うのか,当時は,レーダーとかはない時代ですから,そういう物は官給品で賄(まかな)っていたものとばかり思っていたものですから・・・
何か事情があったのでしょうか?
後,官給品(というのか,備品として)の双眼鏡はなかったのでしょうか?
【回答】
私物でした.
ドイツ製,カール・ツァイスの8倍・10倍切り替えのもので,現在も横須賀の記念艦「三笠」の所蔵品となり,大切に保存されております.
小西本店(現在のコニカミノルタ)が日本総代理店となって販売しており,相当に高価なものではありましたが,当時の国産品はおろか,諸外国製品と比べてもすこぶる高性能であったため,高級軍人向けに爆発的に売れた中の1台でした.
双眼鏡が官給品として広く行き渡るのは,官民の努力により,ローコストで高性能なものを大量生産に成功する,昭和初期から後のことです.
【質問】
トウ発事故が日本海軍で頻発してたって本当?
【回答】
日露戦争当時,トウ発事故は日本海軍では大問題になっていました.
列記すると,
旅順砲撃中の戦艦八島,
黄海海戦での戦艦三笠,
日本海海戦に至っては戦艦三笠・敷島・朝日,装甲巡洋艦日進で相次いでトウ発が起こっています.
ことに山本五十六が乗り組んでいた日進では,4門の8インチ砲のうち実に3門がトウ発で砲身を切断されてしまいました.
トウ発事故が多発した原因は,
・下瀬火薬が不安定だったこと,
・伊集院信管が構造的欠陥を抱えていたために発射直後に安全装置が解除されてしまうこと,
・砲身の加熱により装填された砲弾の底部にひびが入ってしまい,ここから高圧ガスが侵入して炸薬が爆発する
などです.
(名無し軍曹◆Sgt/Z4fqbE)
【質問】
日露戦争最初の戦闘では,どちらの側が最初に発砲したのか?
【回答】
日本海軍水雷艇からの魚雷発射が先である模様.
以下引用.
ロシア海軍と日本海軍との最初の戦闘は,1904年2月8日午後に,旅順への帰投を命じられて仁川港を出向した砲艦コレーツと,京城に派遣される陸軍先遣部隊(輸送船3隻)を護衛していた瓜生外吉少将指揮の第2艦隊(装甲巡洋艦浅間と第4戦隊の巡洋艦4隻,水雷艇4隻)との間に生起した.
海軍軍令部編纂の「明治三七八年海戦史」には,コレーツを発見した護衛部隊は,輸送船とコレーツの間に入り,水雷艇がコレーツに近付くと発砲し,
「時正ニ午後4時40分ニシテ,之ヲ明治三七八年戦役開戦ノ第一砲火トナス」
と,ロシア側が最初に水雷艇に発砲したと書かれている.
しかし,ロシア海軍軍令部編纂の「1904年,5年露日海戦史」は,それ以前に水雷艇が3発の魚雷を発射したとしている.
現場指揮官からは発射の事実は報告されたが,海戦の正当性を世界に示したかったのであろうか,魚雷が命中しなかったことから,日本側はこの事実を隠蔽してしまった.
なお,この襲撃運動中に水雷艇「燕」が座礁している.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.92-93)
◆◆◆仁川沖海戦
【質問】
仁川沖海戦は何故生起したのか?
【回答】
日本海軍が外交ルートを通じ,露巡洋艦「ワリヤーグ」に対し,9日正午までに出向するよう通知したため.
以下引用.
日本海軍は輸送船を〔仁川〕港内に入れ,9日の朝までに陸軍部隊の上陸が終わるとの報告を受けると,瓜生司令官は参謀の谷口尚真大尉(のちの大将・軍令部長)を日本領事館に派遣し,ロシア領事を通じ,ワリヤーグ艦長に9日正午までに仁川を出港すること,出港しない場合には港内でも攻撃する旨を通知した.
また,このことを当時港内に在泊していたイギリス,フランス,イタリア,アメリカ,韓国の軍艦にも通知した.
この通知を受けると,ワリヤーグ艦長ルードネフ大佐は,優勢な日本艦隊に囲まれながら,出撃を前に
「我々は優勢な日本艦隊と戦闘を試みる覚悟で出港し,本艦も我らの一身も決して敵に委せず,最後の血の一滴まで戦おうではないか.
諸子はこの意を体し神明を信仰し,皇帝と祖国のために戦場に行こう」
と訓示した.
そして,軍楽隊に国歌を奏させて抜錨し,砲艦コレーツを従えて仁川港をあとにした.
在泊のイタリア巡洋艦エルバ Elba や英巡洋艦タルボット Talbot は,ワリヤーグとコレーツが出撃時に総員が甲板に整列して見送り,音楽隊はロシア国歌を演奏した.
タルボットの艦長は
「694人のロシア将兵が,殆ど確実とも言うべき死出の出撃を行っている.
彼らの全員はともかく大部分が,極めて優勢な敵と戦って生きて帰ってこれると考えている者は一人もいないのだ.
それなのに彼らは軍楽隊を演奏させ,我々に万歳をしてくれている.
彼らの万歳に我が400人の将兵は,心からお返しの万歳を送ってやった.英将兵達は彼らを非常に気の毒に思ったが,戦いを挑むその負けじ魂を尊敬した」
と書いている.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.93)
【質問】
仁川沖海戦の戦闘状況は?
【回答】
ワリヤーグは戦闘で舵を破損して港内に逃れ,そこで自沈.
日本側には損害はなかった,という.
以下引用.
ワリヤーグと瓜生艦隊との戦闘は,水道が狭く,浅瀬が多いため,先頭に位置していた巡洋艦浅間とワリヤーグ,巡洋艦千代田とコレーツとの間で行われ,その後に浪速と新高の巡洋艦2隻が加わったが,戦闘は主として浅間とワリヤーグの砲撃戦となった.
浅間は距離7,000mに近付いた12時20分に射撃を開始し,たちまち艦橋,砲座,機械室,舵取機室などに命中弾を与えた.
このためワリヤーグは火焔に包まれ,舵を破壊されて運動の自由を失うと港内に逃れ,戦闘は55分で終わった.
この戦闘におけるワリヤーグの戦死者33名(うち士官1名),負傷者は艦長,副長を含めて重傷85名,軽傷100名であった.
このため艦長は戦闘を断念し,艦底弁を開いて自沈した.
日本側の損害は軍令部編纂の「明治三十七八年海戦史」には,
「此ノ一戦敵弾ノ命中スルモナク我ハ寸害ヲモ被ラス」
と書かれており,日本側には一発の命中弾もなかった.
しかしロシア軍令部作成の「露日海戦史」は,水雷艇1隻を撃沈し,浅間の後部で大爆発がああり,浅間と千代田は直後に修理のために入渠し,負傷者の数は不明確であるが30名が戦死したと英仏伊3国の将校は言っていると書かれている.
〔略〕
ロシアの史書には現在でも,「巡洋艦ワリヤーグの英雄的功績」として,
「ワリヤーグの砲術長は的確な一斉射撃で,的旗艦のマストを撃ち砕き,ブリッジを破壊し,艦尾の砲塔を破壊した.
巡洋艦千代田に大破損を生じさせ,水雷艇1隻を撃沈した.
1時間に渡る戦闘で,ワリヤーグは1105発を撃ち尽した」
と虚偽の戦果を讃えている.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.93-94)
【質問】
巡洋艦ワリヤーグは自沈後どうなったのか?
【回答】
浮揚・修理後,日本海軍に編入されたが,第1次大戦の際にロシアに渡った.
しかし英国で修理の際にロシア革命が起こり,代金未払いによって英海軍が接収.
最後は座礁して解体された.
以下引用.
日本海軍は海戦2ヵ月後からワリヤーグの引き揚げを開始し,1年半後の1905年8月に浮揚させ,修理して宗谷と命名した.
しかし第1次大戦では,ロシアも連合国として日本と共にドイツと戦っており,山形有朋,井上馨などが,戦争後に「黄人に対する白人連合の気勢を未然に予防する策」として日露同盟を主張し,陸軍は
小銃97万丁
小銃弾2億8000万発
火砲832門
などを,海軍も呉海軍工廠などで野砲や砲弾などを製造し,供給していた.
そしてロシア海軍から
「海軍兵力上ノ補充非常ナル窮状ニ陥リ」,「苦哀ヲ訴ヘ切ニ帝国軍艦ノ譲渡ヲ希望」
されると,1916年に戦利艦の宗谷,相模(旧ロシア戦艦ペレスウェート Peresviet),丹後(同ポルタワ Poltava)の3隻を,修理費を含め,1550万円で売却し,返還した.
なお,宗谷は400万円であった.
売却が決まると,船体や機関を整備し,射撃装置や魚雷発射管,通信機などを換装,山中柴吉少将を司令官に,巡洋戦艦伊吹,巡洋艦須磨が護衛してウラジオストクに回航し,ロシア海軍に引き渡した.
ロシア海軍も回航部隊を「熱誠極マル歓喜ヲ以テ」迎えた.
しかしロシア革命が起こり,日露協商の夢も,日本から武器を買うために5次に渡って発行された,ロシアの大蔵省公債2億2000万円や短期軍事公債3億784万円(第1次大戦に要した総海軍予算と商船の武装費とほぼ同額)も回収不能になってしまった.
その後,ワリヤーグはバルト海の警備作戦に従事していたが,1917年にボイラー修理のため,リバプールの造船所に回航された.
しかし修理中に革命が起こり,修理代金が未払いとなったため,英海軍が接収の上,補給船としてしまった.
そして1918年2月にはアイリッシュ・コースト沖で座礁し,1921年にはドイツの解体業者に売却され,波乱に富んだ一生を終えた.
ロシアの史書は,本艦はイギリスに奪われたと書いているが,その売却代金が革命のため,日本政府に支払われていないから,奪われたのは日本海軍だったとも言えよう.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.93-94)
【質問】
ワリヤーグやコレーツの乗員は,その後どうなったか?
【回答】
政治的目的から歓待され,現在でも讃美されたりされなかったりする,という.
ワリヤーグとコレーツの乗員が帰国すると,ニコライ皇帝はワリヤーグには侍従武官の称号を許し,全士官にゲオリギイ4等勲章を与え,全乗員を冬宮に招き昼食を供し,
「アンドレーエフスキー軍艦旗ノ名誉ト神聖ナル大露国ノ威信ヲ保持シタルヲ感謝ス」
と述べた.
ニコライ皇帝がワリヤーグ乗員をこれほど歓待したのは,民衆の戦争への協力を得,また,革命的風潮を沈静化するために,勇敢な兵士の「美談」を必要としたからであった.
また,連戦連敗が続く国民も,武勇伝や美談を欲していた.
このため,親露的だったドイツの詩人ルドルフ・グラインツが,ワリヤーグを称える詩を発表すると,直ちに翻訳・作曲されており,この軍歌は今でもカラオケで愛唱されているという.
また,ロシアの史書には現在でも,「巡洋艦ワリヤーグの英雄的功績」として,
「ワリヤーグの砲術長は的確な一斉射撃で,的旗艦のマストを撃ち砕き,ブリッジを破壊し,艦尾の砲塔を破壊した.
巡洋艦千代田に大破損を生じさせ,水雷艇1隻を撃沈した.
1時間に渡る戦闘で,ワリヤーグは1105発を撃ち尽した」
と虚偽の戦果を讃えている.
〔略〕
ロシアの歴史評価は,その時々の政権の都合に左右されて二転三転するのが常であるが,清水威久氏の「ソ連と日露戦争」によると,1951年までソ連の教科書や百科事典にはワリヤーグの項目はなかった.
しかし1951年版にはワリヤーグが,53年版にはコレーツ,55年にはルードネフ艦長の項目が加わった.
しかし51年版は仁川沖の戦闘で抜群の働きをした「世界最優秀の巡洋艦」と述べ,その後に日本海軍が引き揚げ,宗谷と命名したこと,1916年に日本から買い戻してイギリスに修理を依頼したが,革命が起こり,イギリスに奪われたという程度の記述であったという.
しかし1954年になると,「ワリヤーグの英雄たち」という本が出版されるなど,東西冷戦の激化,ソ連の対日姿勢の変化を受け,ワリヤーグの評価は大きく変わった.
1954年2月9日の「ブラウダ」紙〔原文ママ〕には,連邦最高会議幹部会が,生存中のワリヤーグ乗組員の15名に「勇敢記章」を授与することを決定した旨が報じられた.
〔略〕
翌1955年の百科事典には,ルードネフ艦長の項が大きく取り上げられた.
要約すれば,1901年に大佐に昇任,翌年ワリヤーグの艦長を拝命,仁川沖の海戦では戦闘を前に,部下に決死の奮戦を呼びかける訓示をし(その一部を掲載),最後の一弾まで撃ち尽したが,艦の損傷が甚だしいのを見て自沈を決意し,部下達が中立国の艦艇に乗り移った後,最後に艦を去った.
英雄的武勲によって聖ゲオルギイ勲章4等を授与され,侍従武官に加えられ,その後に戦艦アンドレイ・ペルウォスワニ Andrei Pervozvanny 艦長,第14海兵団長に任命された.
しかし第1革命の際に,反乱水兵の弾圧を拒否したため,病気を理由に退役させられ,1913年に死去した,というものである.
〔略〕
また,映画「巡洋艦ワリヤーグ」も製作された.
(平間洋一〔元防衛大学校教授〕 from 「世界の艦船」2004年12月号,p.93-94)
◆◆◆日本海海戦
【質問】
日本海海戦がワンサイド・ゲームになったのは何故か?
【回答】
基幹兵力・巨砲数以外の全ての面で,日本艦隊が優勢だったから.
ロシア艦隊は,海戦の主役である基幹兵力・巨砲数においてやや優勢だったが,艦隊内に新旧雑多な艦艇を含んでおり,中口径砲数と発射間隔時間などを総合した,艦隊の全体的な砲戦力においては日本艦隊に劣っていた.
日本艦隊は,大砲発射速度で優勢だっただけでなく,各艦毎に艦橋からの砲術長の指示・命令で一斉射撃を行ったのに対し,ロシア艦隊は各艦の各砲がそれぞれに射撃したため,弾着確認・射撃のデータ修正という面で格差を生じ,結果として命中率に大きな開きが出た.
また,防御力を,双方の新鋭戦艦の舷側装甲厚に関して比較すると,
| 装甲152mm以上の部分, | 装甲152mm未満の部分 | 無装甲部分 | |
| ロシア戦艦ボロディノ (1904年8月完成) |
17% | 31% | 52% |
| 日本戦艦三笠 (1902年3月完成) |
29% | 40% | 31% |
| (I. I. ロストーノフ編「ソ連から見た日露戦争」,p.344) | |||
と,明らかに日本側が重装甲で,防御力において優れていた.
速力についても,日本艦隊の戦艦・装甲巡洋艦の平均速力は19ノットだったが,旧式艦を含むロシア艦隊は16.6ノット(同
p.340).
艦隊全体でも,平均速力は日本側18ノット,ロシア側16ノット(外山三郎「日清・日露・大東亜海戦史」
p.265)で,これも日本側優勢.
さらに日本側は,統一のとれた艦隊運動という戦術面でもロシア艦隊を圧倒.
以上の理由により,ロシア艦隊は一昼夜にして壊滅したのだった.
詳しくは『軍備拡張の近代史』(山田朗著,吉川弘文館,1997/6/1),p.35-36を参照されたし.
まあ,日本側も戦艦の何隻かは喪失するだろうと覚悟していたらしいが.
それにしても,もし戦艦「初瀬」と「八島」が健在だったら,どれだけ差が開いていたことだろうか.
【関連動画】
「ワレYouTube発見セリ」:Russo-Japanese War,
russian fleet
戦艦「三笠」


+
【質問】
「日本海海戦は,丁字戦法で勝利したのではない」
って言われたんですけど,本当ですか?
【回答】
厳密に言えば,理論どおりの綺麗なT字戦法で戦ったわけじゃない.途中で敵が進路を変えたから,応じてIJNも戦法を変えた.
丁字戦法をとった場合,艦隊の末尾方向に進路を取られると,
頭を押さえられなくて逃げられるということが黄海海戦で何度かあった.
当時の日本艦隊は,バルチック艦隊がウラジオストックに逃げこむことを一番おそれていたし,バルチック艦隊もそれを目指していた.
だから,綺麗な丁字型を描かず,艦隊の末尾方向に逃げられないような進路をまずとってからターンをした.
その動きを丁字戦法と解釈するか,それとも絶対にウラジオ方面に逃げられないように敵艦隊の頭を押さえる動きと解釈するかは,解釈する人次第.
こんな動き.
だいたいの戦闘は同航戦なのは確か.
http://www.z-flag.jp/suigun/naval/tsushima_war.html
実はT字戦法でなかった,とするのは,以下の本に依る.
戸高 (中略)東郷ターンを丁字戦法への出発点とするのが長い間定説と成ってきたのですけれども,やはり間違いですね.
東郷ターンの直前は両艦隊はほとんど向かい合うような格好で近づきつつあった.そ
んな時,片っ方がUターンしたら,片っ方が平気な訳が無いんでね(笑).
その後の連合艦隊の戦法は,誰が見たってバルチック艦隊に併航しています.
半藤 (中略)どの航跡図を見ても丁字に成った物は無い.
(中略)
戸高 日本海海戦を丁字戦法の勝利と最初にきちんと書いたのは小笠原(長生)なんですよ.海軍を辞める時に中将をもらった海軍将校だけど,美文調の文章がめっぽう上手かった.
それで東郷長官の私的秘書を長くやって,東郷の伝記を書いた人ですね.東郷の人となりや日本海海戦の知識は,大多数はたいてい小笠原の著書に頼ってきましたね.
小笠原は戦闘詳報をもとにして,仕事として日本海海戦史をつくりますから,自分では真相が判っている人です.
でたらめに日本海海戦が丁字戦法だったと書いた訳では無い.
例えば公刊戦史を見ると,黄海海戦は丁字戦法で戦ったとちゃんと書いてある.
半藤 書いてある,書いてある.
戸高 ところが,日本海海戦の方には丁字戦法で戦ったなんて一言も書いていないんです.
公刊戦史だから書いていないんだろうと思うかも知れないが,「極秘戦史」にも当然,丁字戦法でやったとは書いてありません.
戦闘詳報と言うのは海戦直後に書かれる訳ですが,どこにも丁字戦法でやったとは報告されていない.
報告もされていないのに,小笠原は日本海海戦は丁字戦法だったと書いたのですね.なぜなら,幻に終わったとはいえ,軍機兵器だった連繋機雷の作戦を隠す為だったのです.
あれを隠す為には,丁字戦法で話をつないでいかないと,ウソが見破られてしまうのですね.
これは必ずしも小笠原の独創では無いかも知れないんですね.
だって,日本海海戦の直後から「連合艦隊参謀談」なんていう形式で,丁字戦法で勝ちましたなどと公表されています.まだ日露戦争は終わっていないんですよ,その時は.
だから丁字戦法では無かったと断言出来るんですよ.
考えるまでもなく,戦争の真っ只中に自分の艦隊の本当の作戦を公表する海軍が有ると思うのがおかしいんで(笑),そんなの常識ですよ,戦争の.
戸高一成,半藤一利「日本海海戦かく勝てり」(PHP研究所,2004/4/5),
P.113-116,抜粋要約
新所沢の三等兵 ◆Uk in mixi支隊

【質問】
日本海海戦の戦訓は?
【回答】
1万tを越す鋼鉄製の主力艦と言えども,砲戦によって撃沈できることを初めて証明,列強海軍内に燻っていた「砲撃か,衝撃か」の論争に完全決着をつけた.
日露戦争までは,列強海軍の中では,衝撃(軍艦の艦首喫水線下の衝角による体当たり)が有効か,大砲による砲撃が有効か,あるいは,強力な防御力を誇る戦艦を,砲撃だけで沈めることは可能か否かで論争があり,例えば日本海軍の「三笠」などの戦艦にも,体当たり用の衝角が装備されていた.
日露戦争当時の海戦の主役である戦艦は,排水量1万2000〜1万5000t,口径12インチ(30cm)の主砲を4門(艦の前部と後部の砲塔に2門ずつ),6インチ(15cm)前後の副砲を舷側に多数装備しているのが標準型だった.
多数の15cm砲の存在は,敵艦を沈めるよりも,乗員の殺傷を狙うものだったと言える.
このタイプの戦艦は,本来は多数の砲弾を敵艦艇に浴びせてその戦闘能力を奪い,可能ならば撃沈すること,場合によっては衝角を使って決着をつけることを意図して建造されたものだった.
しかし日本海海戦では,ロシア艦隊の,1901年以降に完成した新型戦艦5隻の内,4隻が日本艦隊の砲撃だけで沈没したのである.
日露戦争によって,艦艇の大型化・重装甲化・巨砲搭載こそが海戦勝利の決め手であるとの教訓が引き出された.
この教訓を逸早く生かし,以後の帝国主義列強の建艦競争をリードしたのがイギリスだった.
イギリスは,副砲を廃止し,12インチ砲10門を搭載したドレッドノート型戦艦(いわゆる弩級戦艦)を早くも1905年10月に起工した.
日露戦争は,ワシントン会議まで続く世界的な大建艦競争時代を切り開いたのである.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,p.27-28,抜粋要約)

【質問】
日本海海戦が日本海軍にもたらした負の遺産とは?
【回答】
日露戦争後になって,
「逸(いつ)を以て労を待つ」(用意周到な精鋭部隊によって,疲労した敵を迎え撃つ)
という日本海海戦式の戦略・戦術が絶対化されたため,日本海軍の部内に,以前にも増して戦術至上主義の軍事思想を強めたことである.
海軍にとって戦争とは,1回の艦隊決戦に勝利することであり,艦隊決戦での勝利とは,戦術と砲戦力の優越ということだった.
これは,戦術的勝利を,軍事戦略や国家戦略に優先させるという,全てを戦術の次元から,艦隊決戦のシナリオから思考していく習慣を海軍軍人に植え付けていくことになった.
〔略〕
日本海軍は〔日露戦争後〕,アメリカ海軍を仮想敵とし,戦術至上主義=艦隊決戦主義という基本的な考え方によって世界的な軍拡・軍縮に対応していく.
全ての艦隊・艦艇は,1回の艦隊決戦に勝利するために,すなわち主力艦(新鋭戦艦)の主砲戦を勝利に導くために役割分担された.
後に発達した潜水艦や1万t級巡洋艦,航空機も基本的には,戦艦による艦隊決戦を支援するという発想で開発され,訓練されていった.
(山田朗「軍備拡張の近代史」,吉川弘文館,1997/6/1,p.38 & 40)
【質問】
戦艦「三笠」はド級戦艦とはどう違うのですか?
【回答】
・弩級(ドレッドノート級)艦は単一口径の主砲をできるだけ多数搭載(だいたい8門以上)するのが基本コンセプトだが,三笠の主砲は4門のみ
・弩級艦の主機関はタービンだが,三笠はレシプロ(ドイツの初期の弩級艦はレシプロ機関だけどね)
・そもそも大きさが一回り小さい
弩級艦の名の元になったイギリス戦艦,HMSドレッドノートは主砲を全て同口径同砲身長の統一された砲で揃え,艦橋上の射撃指揮装置によって全ての砲を一元的にコントロールしている.
それまでの戦艦は,「主砲」と言っても砲塔によって砲身長がバラバラだったり,各種雑多な口径の砲をバラバラに積んで,各砲が勝手に照準をつけて撃っていた.
ところが,日本海海戦で「集中制御による主砲の斉射」の有効性が確認されたため,最初からそれを計算に入れ,全ての主砲の口径を統一したのがドレッドノート.
主砲を同規格にして一元的に照準,発砲できるようにしたため,命中精度と投射火力(一度にどれだけの弾を相手にぶち込めるか)が飛躍的に向上した.
また,蒸気タービン機関を全面的に採用して,高出力で高速,機関速力の増減を容易に行えるようにもした.
それまでは戦艦の機関はレシプロピストン機関が主流.
速度が遅く,出力をちょっと上げるだけでも操作が大変で,実際に出力が上がるまでえらく時間が掛かった.
この二つの条件を満たして,更に砲がドレッドノートよりも大きいものを「超ド級戦艦」と呼ぶ.
(だから,大きさとか武装とかがドレッドノートに匹敵するだけじゃ弩級艦とは言わない)
三笠はどちらの条件も満たしてないので,「弩級艦」には分類されない.
ドレッドノートと比べると一世代前の戦艦.
「基準戦艦」とも言われる.
その頃の戦艦はどれも30cm砲を連装した砲塔を前後に1基ずつ持ち,多数の副砲を舷側などに配置しているデザインが使われていた.
軍事板
青文字:補修部分
【質問】
横須賀に記念艦として保存されている戦艦「三笠」は,今でも航行できるのか?
【回答】
できない.
「三笠」の船体は関東大震災で被害を受けて座礁したまま,海水を汲み出されながら曳航され,今の位置に沈座されている.
現在では,周囲を埋め立てられて船体下部にコンクリートと土砂を詰め込まれたの,でもう「船」ではない.
第2次大戦直後,米軍のためのダンス・ホールにされていた三笠

【質問】
東郷平八郎の子孫が海上自衛隊にいる,というのは本当か?
【回答】
本当.
日露戦争100周年記念イベントでは,バルチック艦隊のロジェストベンスキー司令長官の子孫と会見することになった.
以下引用.
日露のひ孫同士が対面へ 日本海海戦から100年
日露戦争の勝敗を決めた日本海海戦から100年を記念し当時,敵味方に分かれて戦いを指揮した双方の艦隊司令長官のひ孫が来月5日,長崎県佐世保市で対面,平和と友好を願う講演をする.
対面を計画しているのは同市の防衛関係者らでつくる「日ロ海戦を偲(しの)ぶ友好親善の集い実行委員会」.
ロシア・バルチック艦隊のロジェストベンスキー司令長官のひ孫で,サンクトペテルブルク市在住のジノビー・スペチンスキー氏が来日.日本側の東郷平八郎・連合艦隊司令長官から4代目で海上自衛隊勤務の東郷宏重・三佐と5日に2人で記念植樹した後,講演で平和の尊さを呼び掛ける.
1905年5月,対馬沖の日本海海戦で負傷,捕虜となったロジェストベンスキー長官を東郷長官が入院先の旧海軍病院に見舞ったことに倣い,佐世保市に残る同病院跡の建物で会う.